日本キリスト教団 東久留米教会

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2013-12-29 0:31:19()
「幼子キリストを拝む」2013年12月22日(日) クリスマス公同礼拝説教
朗読された聖書:ミカ書5章1~5節、マタイによる福音書2章1~12節

「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」(マタイによる福音書2章10節)

 クリスマスおめでとうございます。「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです』」(1~2節)。ヘロデ王は、紀元前37年から紀元前4年までイスラエル・ユダヤを統治した王です。ヘロデ大王とも呼ばれます。ヘロデ王の政権はローマ帝国の支持の下に成り立つ政権でした。その意味ではローマのあやつり人形のような政権でしたが、ユダヤ国内では大きな力を持っていました。ヘロデ王の時代は、恐怖政治と大建造物の建築によって記憶されています。ヘロデ王は猜疑心が非常に強く、自分の地位が乗っ取られることを警戒して妻や息子二人までも殺害しています。粛清です。今の北朝鮮のトップの人に似ていると思うのです。同じ時代のローマ皇帝アウグストゥスは、「ヘロデの息子であるよりは、豚である方がまだ安全だ」と言いました。

 ヘロデ王はいろいろな大きな建造物を作りました。新共同訳聖書の巻末の解説の「神殿」の項を見ると、「紀元前20年ごろ、ヘロデ大王は(エルサレム神殿の)大規模な修理拡張工事を始めた。イエスの時代には、周囲に回廊を巡らした広い境内と、白い大理石の美しい本殿を持つ、立派な建造物であった」と書かれています。この神殿は当時の地中海沿岸世界で有名になり、離散していたユダヤ人や外国人までもこの神殿で礼拝するために、エルサレムを訪れるようになりました。神様を本当に愛して礼拝に来る人もいたでしょうが、単なる物見遊山の人もいたかもしれません。イエス様はヘロデ王の人生の晩年にお生まれになったのですから、紀元前6年頃にお生まれになったことになります。

 解説書によると、「占星術の学者」は、ペルシャのゾロアスター教の祭司ではないかとされ、天文学、占星術、魔術、夢解釈などを行い、人や世の中の運命を伝える人々であったそうです。学者ですから、当時の最高の教育を受けた知識人です。イスラエル人・ユダヤ人ではなく外国人です。彼らは見上げた人々で、外国人であるのにユダヤの真の王を礼拝したい一念で、遠くから巡礼の旅をして来たのです。彼らは観光気分ではなかったので、ヘロデ王が拡張した大神殿には関心を持ちませんでした。この外国人たちがイエス様を礼拝するためにやって来たことは、イエス様が全世界の王であることを意味しています。イエス様は、私たち日本人にとっても真の王なのです。私たちは今、真の王を礼拝するために礼拝堂に集まっています。

 神様が彼らに1つの星を見せて下さいました。彼らにはそれが特別な星であることが分かりました。神様が分からせて下さったのです。このメシア(救い主)誕生の場面に星が出て来ることには意味があります。旧約聖書で、星はメシア・救い主のシンボルです。民数記24章17節でバラムという人が、神様の清い霊に満たされてこう述べています。おそらく紀元前1240年頃のことです。
「わたしには彼(メシア)が見える。/ しかし、今はいない。
 彼を仰いでいる。/ しかし、間近にではない。
 ひとつの星がヤコブから進み出る。」
この星はメシアです。聖書の民イスラエルにとって、星とメシアはストレートにつながっているのです。新約聖書のヨハネの黙示録では、イエス様ご自身が「わたしは~輝く明けの明星である」(22章16節)とおっしゃっています。神様は、星によって学者たちをイスラエルの首都エルサレムまで導いて来られました。

 「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」(3節)。ヘロデ王は、自分の地位が奪われるのではないかと恐れました。不思議なことに、ヘロデ王だけでなくエルサレムの人々も皆、不安を抱きました。長年待ち望んだメシアがとうとう誕生したのですから、感激の涙を流して喜ぶはずです。しかし人々はメシアが生まれるという神様の約束を古ぼけた昔話のように考え、本気で信じなくなっていたのです。今さらメシアに誕生されて、自分たちの考え方やライフスタイルを変更することが嫌だったのです。それは私たちにも分かることです。イエス様を信じて洗礼を受けると、原則として日曜日は礼拝に行く生活になります。自分の生活をこのようなスタイルに変えることに抵抗を感じることはあり得ることです。そこは乗り越えたいことです。もちろん礼拝に出席するからクリスチャンでない家族を放置してよいわけではないので、礼拝出席と家族への責任を果たすことの両立を目指すことになります。皆様はもう既に、十分にこのために工夫と努力をして下さっていることを、私は感謝しています。

 「王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。『ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
「ユダの地、ベツレヘムよ、
 お前はユダの指導者たちの中で/ 決して一番小さいものではない。
 お前から指導者が現れ、
 わたしの民イスラエルの牧者となるからである」』」(4~6節)。

 ユダヤ人の祭司長たちや律法学者たちは、旧約聖書の正確な知識を持っていました。この人たちが引用しているのはミカ書5章です。この人たちの不思議なところは、ユダヤ人の王が誕生したニュースを聞き、その場所を正確に知っていたにもかかわらず、この王を拝むためにベツレヘムに行こうとしないところです。この人たちはユダヤで力を持っていたのでしょう。それを維持したいのです。メシアが誕生されれば、メシアに中心をお譲りしなければなりません。それが嫌だったのではないでしょうか。今さらメシアに誕生されては迷惑なのが本音だったのではないでしょうか。ですからメシア誕生の場所を熟知していながら、ベツレヘムに行こうとしなかったのです。

 私たちはそうならないように気をつけながら、ミカ書5章のメシア預言を味わいましょう。
「エフラタのベツレヘムよ/ お前はユダの氏族の中でいと小さき者(この部分をマタイは、「決していちばん小さい者ではない」と変えています。実際にメシア がベツレヘムで誕生したので変えたのでしょう。私は、いと小さき者をご自分の聖なる目的のために大きく用いて下さる神様の愛情を感じます)。
 お前の中から、わたしのために/ イスラエルを治める者がでる。
 彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」(1節)。

 3節には、メシアが真の羊飼い、私たちの導き手であることが書かれています。
「彼は立って、群れを養う/ 主の力、神である主の御名の威厳をもって。
 彼らは安らかに住まう。/ 今や、彼は大いなる者となり 
 その力が地の果てに及ぶからだ。」

 4節には力強い宣言があります。「彼こそ、まさしく平和である。」イエス・キリストこそ、まさしく平和の方です。私の神学校(牧師を養成する学校)の同級生に、「○○将平」という牧師がおられます。お父様も牧師です。これは私の推測ですが、きっとご両親がこのミカ書5章4節の御言葉からお名前をお付けになったのではないかなと思います。「彼こそ、将(まさ)しく平和である!」 平和のメシアが、ミカ書の預言どおりベツレヘムで誕生されました。神様は約束を100%お守りになる方です。

 「そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、『行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう』と言って、ベツレヘムで送り出した」(マタイ福音書2章7~8節)。学者たちが東方で見た星は、一時的に姿を消しました。ですから学者たちはすぐにベツレヘムには行きませんでした。星が消えて彼らは困ったでしょう。どこに行けばよいか分からないからです。ユダヤ人の王が生まれるのだから場所は首都エルサレムであろうと見当をつけて、エルサレムに来たものと思われます。しかしエルサレムを歩き回っても、新しい王の誕生をお祝いしている雰囲気は全くありません。そこで新しい王はどこにおられるのか、尋ね回りました。するとヘロデ王に呼び寄せられ、メシアが誕生する地はベツレヘムであると初めて教えられました。星は確かに重要な役を果たしているのですが、もっと大切なのは聖書の御言葉であって、御言葉がいつも私たちに真理を教えて下さるのです。ですから私たちも聖書の御言葉によって生き方を導かれる必要があります。

 「どうして星は学者たちを、直接すぐにベツレヘムに導かなかったのだろうか」という問いに対して、宗教改革者マルティン・ルターが次のように答えています。「それは神さまがわたしたちに、自分自身のあさはかな考えに頼らず、ただみことばに従うべきだということを教えたいと思われたからでした」(マルティン・ルター『クリスマスブック』R.ベイントン編 中村妙子訳、新教出版社、2000年、72ページ)。 星も大切ですが、学者たちをベツレヘムに向かわせたのは、聖書の御言葉(ミカ書5章1節)なのです。御言葉こそ、本当の意味での導きの星なのです。御言葉の大切さを思います。

 「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先だって進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」(9~10節)。御言葉を、子どものように素直に単純に信じてベツレヘムに向かった彼らの信仰を、神様が喜んで下さったのでしょう。再び神様の直接の助けが与えられます。星が再び現れたのです。星を見失って、正直に言って落胆していたであろう彼らは、感激と喜びに満たされました。そしてとうとう幼子のいる家を探し当てることができたのです。それは貧しい住まいだったはずです。「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」(11節)。学者たちの人数は書かれていないので分かりません。贈り物が3種類ですから、3人の可能性が高いとは思います。彼らは世界の真の王に出会う喜びを味わい、宝を献げてイエス様を礼拝しました。イエス様を礼拝することこそ、わたしたち皆にとって、最もふさわしいことです。

 学者たちは、当時の最高の知性の持ち主だったでしょう。ですが人間の知恵も知識も、科学技術の力も、神様の前には取るに足りません。人間の科学がどんなに発達してもゼロから命を作ることはできませんし、原子力発電所を完全に制御することもできないのです。子どものように素直な心で、イエス様を礼拝することが、最も知恵あることなのです。人間の頭脳に頼る限りは、必ずどこかで行き詰まります。行き詰まったときに神様に祈り、イエス様を礼拝する謙遜な生き方に転換したいものです。

 黄金・乳香・没薬は皆、価値の高いもの、貴重品です。彼らはそれらを惜しげもなくイエス様に差し出しました。黄金が価値の高いものであることはすぐ分かります。乳香は、旧約聖書で礼拝で神様に献げる神聖な香(よい香りのするもの)です。ですから神の子イエス様に献げられるにはふさわしいのです。現代でもキリスト教会の一つであるギリシア正教会の礼拝で使用されています。没薬はミルラとも呼ばれ、殺菌作用を持つ鎮静薬、鎮痛薬として使用されました。このように医師が薬用に用いたため、救い主(癒し主)を象徴しているという解釈もあります。没薬は防腐処置のためにも用いられました。

 私たちはこの3つの宝を持っていなくてよいのです。イエス様は十字架にかかって、私たちの全ての罪を身代わりに背負って下さった愛の方です。ご自分の尊い命を私たち罪人(つみびと)のために献げて下さいました。その愛にお応えして、私たちも自分自身をイエス様に献げます。私たちは強制されてではなく、イエス様の十字架の愛に感謝して、自由な決断によって私たちの心・体・時間などを、イエス様のために、そしてイエス様が愛しておられる私たちの隣人のために、お献げします。イエス様の十字架の愛に感謝してです。人と比べる必要はありません。イエス様は、神殿で貧しいやもめが(この世的には)最も価値の少ないレプトン銅貨2枚を献金した時、この人の貧しい生活を知っておられ、「この貧しいやもめは、誰よりもたくさん入れた」と感動されました。私たちも、イエス様をひたむきに愛すれば、イエス様が喜んで下さいます。イエス様お一人に喜んでいただければ十二分です。占星術の学者たちも、あの貧しいやもめもイエス様に等しく喜ばれているのです。

 星に関連して、新約聖書を一箇所引用します。「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい(これは生活の中で時々思い出したい御言葉ですね)。そうすれば、とがめられることのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非の打ちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」(フィリピの信徒への手紙2章14節~16節)。

 私たちは、有能でなく不器用でも、イエス様を愛しイエス様に従うならば、星のように輝いているのです。人の目にそう見えなくとも、イエス様の目には星のように輝いています。あのやもめの生き方も、イエス様の目から見れば星のように輝いていたのです。私ども小さき僕(しもべ)をそのように喜んで下さるイエス様の愛に感謝して、ご一緒にイエス様に従って参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2013-12-18 8:20:07(水)
「神は我々と共におられる」 2013年12月15日(日)待降節(アドヴェント)第3主日公同礼拝 説教 
朗読された聖書:イザヤ書7章10~17節、マタイによる福音書1章1~25節

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(マタイによる福音書1章23節) 

 本日のマタイによる福音書は、小見出しによって2つに分けられます。最初の小見出しは、「イエス・キリストの系図」です。第1節は、新約聖書の最初の御言葉です。「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。」「子」は子孫のことです。この系図で一番ポイントになるのはイエス・キリストを除けば、アブラハムとダビデです。アブラハムは、神の民イスラエルの偉大な先祖です。神様は、創世記12章1節から3節で、アブラハムに言われました。
「あなたは生まれ故郷/ 父の家を離れて/ わたしが示す地に行きなさい。
 わたしはあなたを大いなる国民にし/ あなたを祝福し、あなたの名を高める
 祝福の源となるように。/ あなたを祝福する人をわたしは祝福し
 あなたを呪う者をわたしは呪う。/ 地上の氏族はすべて
 あなたによって祝福に入る。」

 神様のご計画は、アブラハムを選んで祝福し、その子孫イスラエルを神の民として選んで祝福し、そこから神の子イエス・キリストを誕生させることです。イエス様は最も祝福された方です。このイエス様を救い主と信じる人も、真の意味で祝福されます。イエス様を信じる人は、イスラエル人であっても異邦人(外国人)であっても祝福されます。神様はイエス・キリストを通して、世界のすべての人に真の祝福を及ばしたいお考えなのです。アブラハムの子孫からイエス様を誕生させることが、神様の最初からのご計画でした。ですからイエス様の系図の冒頭にアブラハムが登場するのです。

 次に登場するのがダビデです。ダビデは、アブラハムの子孫であり、イスラエルの歴史で一番有名な王です。神様は、ダビデ王の子孫からイスラエルにメシア・救い主を送ると約束しておられました。旧約聖書のサムエル記(下)7章12節から14節に、こう記されています。「あなた(ダビデ)が生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたし(神様)の名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」ダビデの身から出る子孫とは直接には、ダビデの子ソロモン王です。しかしもっと深い意味においては世界の真の王イエス様です。神様は、ダビデ王の子孫からイエス様を誕生させることを計画しておられました。ですからイエス様の系図には、ダビデ王が登場しなければならないのです。イエス様の系図は、アブラハムから始まり、ダビデを経由してイエス様に至る系図になるのです。神様がそのように計画され、途中で人間の様々な罪が発生したにもかかわらず、強い意志をもって歴史をそのように導かれたのです。

 実際、この系図を見ると、人間の驚くべき罪が入り込んでいます。週刊誌顔負け、「事実は小説よりも奇なり」ともいうべき強烈な罪の現実があります。そのうち2つを取り上げますが、こんなにおぞましいことがあっては、神様がこの系図の人々を滅ぼしてしまわれても不思議ではないと思えます。しかし神様は忍耐され滅ぼすことをせず、罪に汚れた人間たちを罪から救うために、この系図の最後の方として救い主イエス様を誕生させて下さったのです。

 「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを」(2~3節)。アブラハムの曾孫ユダにとって、タマルは長男の妻です。ユダの長男は主の意に反したので死にました。その後タマルは、当時の習慣に従ってユダの次男の妻となりますが、次男も主の意に反したので死にます。タマルは自分の父の家に帰りますが、身なりを変え娼婦に変装し、あろうことか舅ユダと関係を持つのです。どう考えても、聖書が「モーセの十戒」で固く禁じている姦淫の罪です。その結果生まれたのがペレツとゼラの双子です(もちろんペレツとゼラにこの罪の責任はありません)。姦通の罪を犯したユダとタマルはイエス様の先祖になるのです。もちろんイエス様は、処女マリアからお生まれになったので、マリアの夫ヨセフと血はつながっていません。ですから正確にはユダとタマルはヨセフの先祖であり、イエス様とは血がつながっていません。それでもこの系図はイエス様の系図ですから、少なくとも形の上ではユダとタマルはイエス様の先祖としてこの系図に登場するのです。このように、この系図には驚くべき罪が含まれています。神様はこのような罪を御覧になりながらも、忍耐しておられます。

 もう一つはダビデの罪です。これは有名です。6節の後半に「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とありますが、ダビデは罪深い仕方でウリヤの妻と結婚しました(サムエル記下11章)。姦淫・姦通・不倫です。ダビデは王となっていたある日、王宮の屋上を散歩していたときに、屋上から一人の女性が水を浴びているのを目に留めます。それはダビデの忠実な部下ヘト人ウリヤの妻バト・シェバでした。ダビデは心を引かれてしまい、使いを送って彼女を召し入れ、関係を持ちます。そして彼女は妊娠します。慌てたダビデは、事を隠そうとウリヤを戦場から呼び戻し、ウリヤに戦況を尋ね、労をねぎらうふりをして「家に帰って足を洗うがよい」と言います。ところがウリヤは非常に見上げた人で、家に帰らないのです。ダビデは「遠征から帰って来たのではないか。なぜ家に帰らないのか」と問います。ウリヤは、「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか。あなたは確かに生きておられます。わたしにはそのようなことはできません」(11節)。ダビデはウリヤを酔わせて家に帰るように仕向けますが、ウリヤは帰宅しないのです。

 ダビデは次の方法、はるかに悪質な方法をとります。戦場の指揮官ヨアブに手紙を書きウリヤに託します。戦慄すべき内容の手紙です。「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ。」ヨアブはこの通りに実行し、何も知らないウリヤは戦死するのです。若い頃のダビデは純真だったのですが、権力を握ると、すべてが思い通りになるので慢心し、善悪の感覚が完全に麻痺してしまったのです。ダビデは悪いことをしたと全然思っていませんでした。ダビデは悪魔に従っており、しかも気づかないのです。周囲にダビデを諌める部下もいませんでした。部下は皆イエスマンだったのです。恐るべきことです。しかし、神様が黙っておられませんでした。神様は預言者ナタンを送り、ダビデを厳しく叱責させます。「なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ」(サムエル記下12章9~10節)。

 ダビデは目が覚めました。ダビデには純真な心も残っていました。ダビデは罪を自覚し、悔い改めます。神様はダビデを赦されますが、ダビデとバト・シェバの間に生まれた男の子を、ダビデの身代わりのようにお撃ちになり、男の子は七日目に死にます。その次に生まれたのがソロモンです。神様はソロモンを愛されました。このソロモンによって、イエス様の系図は続きます。マタイ福音書1章6節後半の「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」の文言を読むたびに、私たちはダビデの姦淫の罪を思い出すのです。それほど強烈な罪です。このような罪の現実を知ると私たちは驚き、人間の罪がこれほど汚ないのであれば、神様が人間たちを滅ぼされても仕方がないと思うのではないでしょうか。しかし神様はそうなさらないで忍耐されます。このような人間たちを憐れみ、その全ての罪を十字架の上で背負わせるために、救い主イエス様を送って下さったのです。

 第二の小見出し「イエス・キリストの誕生」に進みます。「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(18節)。当時の婚約者同士は、法的に夫婦と同等と見なされたそうですが、ヨセフとマリアはまだ別々に暮らしていました。従って妊娠するはずがありません。それが妊娠したということは、常識的にはヨセフ以外の男性と関係をもったとしか考えられないことになります。しかしもちろんそうではないのです。ヨセフとマリアは(厳密に言えば罪人ですが)、神様を愛し、神様の十戒・律法を守って、清く正しくしかも愛に生きる人たちです。ユダやダビデの驚くべき罪を思い出した後に、このように清く正しく、しかも愛に生きる若いカップルが登場することは、私たちにとって救いです。

 マリアの妊娠を知って、若く真面目なヨセフは困惑します。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(19節)。旧約聖書の申命記22章23節に、神様の定め・当時の社会の定めがこう書かれています。「ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さねばならない。」マリアが姦淫したのであれば、マリアも相手の男も、石打ちによる死刑になる運命です。ヨセフは神様の定めをよく知っていましたから、このままいくとマリアが石打ちになることを知っていました。しかしヨセフは愛の人でもあったので、婚約者マリアが死刑になることを思うと、胸が張り裂けそうでした。ヨセフは一人で悩み、一人で一生懸命考えました。姦淫の罪を犯したと思われるマリアともはや結婚することはできない。しかし離縁を公にすれば、マリアの罪が皆に知られ、マリアは死ぬ。それを避けるために、ひそかに、目立たないように離縁しよう。お腹が大きくなるマリアがその後どこでどうして生きて行けばよいのかという疑問も湧きますが、そこまではヨセフが責任を負うことは無理でした。ヨセフは精一杯悩んで、以上の結論を出しました。孤独な決断です。

 幸いなことに、神様がヨセフと共におられたのです。先週、18世紀のイギリスの伝道者ジョン・ウェスレーの臨終の言葉が、「あらゆることの中で一番すばらしいことは、神様が私たちと共におられることだ」だったとお話しましたが、幸いなことに、神様がヨセフと共にいて下さったのです! ヨセフは行き詰まり、苦悩していました。私たちも行き詰まることはあります。そこに神様が恵みをもって介入して下さいました。天使を送って下さったのです。聖書の中で天使は、重要な場面に登場して、神様のメッセージを告げ、神様のご意志を実行する存在です。神様はヨセフの苦悩をよく知っておられるのです。

 私たちが困っているときに、神様が人を送って助けて下さることはあります。その時、神様がその人を天使のような存在として用いて下さっているのです。多くの場合、小さな助け、ちょっとした励ましです。でもそれは神様からの助けです。それに気づきたいものです。私たちが小さな愛を行うとき、私たちは神様の愛を運ぶ天使として用いられています。私が東久留米教会に赴任してまだ5年もたたない頃、あることで困っていました。そのことを何もご存じなかったある教会員の方(今は天国におられます)が、長年のお友達のベテランクリスチャン(他教会員)の家(埼玉県)に私を案内して下さったことがあります。その日は、その方のお友達のベテランクリスチャンの方の家で、信仰の交流を致しました。それによって困ったことが解決したわけではありません。しかし神様の恵みをいただいた一日で、心が励まされました。その方は何も知らないで、神様の天使としての役を果たして下さったのです。そのお陰で私は、困ったことがありながらも、なお神様の守りの御手の中にあることを感じました。困ったことも少しずつ解決してゆきました。その後、教会の皆様に、色々な形で助けていただいていることを感謝しています。

 悩んだ末、結論に達したヨセフの夢に、天使が現れました。「『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである』」(20~21節)。イエスという名の意味は「主は救い」です。神様がおつけになった名、救い主にふさわしい名です。名は体を表すのです。そしてマタイは書きます。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」

 この預言は、イザヤ書7章に記されています。紀元前738年頃の預言です。当時のイスラエルは南北の王国に分裂しており、複雑な国際情勢の中にありました。最大の脅威はアッシリア帝国でした。北イスラエル王国とアラム国は、アッシリアに対抗するため、反アッシリア同盟を結びました。この両国が南ユダ王国の首都エルサレムに攻め上り、王であるアハズ(彼の名はイエス様の系図・マタイ福音書1章9節に登場)の首をすげ変える計画を立てたのです。しかし神様は明言されます。「それは実現せず、成就しない」(7節)、「信じなければ、あなたがたは確かにされない」(9節)。神様は、このことを証明する「しるし」を求めなさいとアハズに言われます。しかしアハズ求めないと返答します。これは神様の御心に適わないことでした。そこで神様が自ら、このことを証明する「しるし」を与えると断言されます。それがインマヌエルという名の男の子の誕生なのです。 「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/ その子をインマヌエルと呼ぶ」(14節)。 神様がこうおっしゃったのですから、インマヌエルという名の男の子が誕生したはずです。神様は約束されます。インマヌエルが災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に(インマヌエルが物心つく前に)、二人の王(北イスラエルの王とアラムの王)の領土は必ず捨てられ、彼らの計画は頓挫すると(16節)。イザヤ書7章14節のインマヌエル預言はこのような意味です。

 預言は、神様の意志を表すメッセージです。この預言はさらに生き続け、究極的にはイエス・キリストの誕生によって成就したのです。ですからマタイが感動をもって、「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」と書いたのです。 神様は、人間イエス様となって地上に生まれて下さいました。そして私たちの罪をすべて背負って十字架で死んでさえ下さいました。神様はイエス様として、今も私たちと共におられ、苦楽を共にしていて下さるのです。次の御言葉が思い出されます。「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」(フィリピの信徒への手紙2章6~9節)。クリスマスこそ、インマヌエル(神、我らと共にいます)が、神が赤ちゃんになることによって現実化した恵みの時です。ただ感謝です。

 私の実家に、こんな言葉の壁かけがあります。
 「信仰のある所 そこには愛がある
  愛のある所  そこには平和がある
  平和のある所 そこには神がおられる
  神様がいて下されば、何もいらない」

 「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた」(24~25節)。眠りから「覚めた」とは、信仰に「目覚めた」ことかもしれません。ヨセフは神様の御言葉・メッセージを受け入れ、神様に従う決断をしました。私たちも、神様の御言葉を心から受け入れ、イエス様を心から受け入れ、神様に従う決断をしましょう。イエス様と心を一つにし、イエス様が喜んで下さる小さな愛と正義の奉仕を日々行い、生きて行きましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。
 

2013-12-10 0:53:38(火)
「良い僕(しもべ)だ、よくやった」 2013年12月8日(日)待降節(アドヴェント)第2主日公同礼拝 説教 
朗読された聖書:マラキ書3章19~20節、ルカによる福音書19章11~27節

「そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。」(ルカによる福音書19章13節)

 イエス様が、エルサレムにかなり近づいて来られました。イエス様はもうすぐ十字架におかかりになります。私たち皆の罪をすべて背負うためです。そのイエス様が1つのたとえを語られます。「人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである」(11節)。人々は、イエス様こそイスラエルのメシア・救い主と信じ、熱狂的にイエス様に従っていました。人々は、イエス様を王様とする栄光のイスラエル王国を打ち立てようとしていました。イスラエルを支配していたローマ帝国を、イエス様と共に打ち倒し、民族の独立を果たしたいと燃えていました。「とうとうその時がやって来た!」 

 しかしイエス様は群衆の熱気にお乗りになりません。却って人々をいさめるようにたとえを話されます。「イエスは言われた。『ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで彼は10人の僕(しもべ)を呼んで10ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、「我々はこの人を王にいただきたくない」と言わせた』」(12~14節)。 「ある立派な家柄の人」はイエス様です。イエス様はもうすぐ十字架で死なれます。そして三日目に復活され、それから40日目に天に昇られます。そして将来必ず世界の真の王として地上においでになり、神の国を完成されます。このことを「キリストの再臨」と呼びます。因みにイエス様が約2000年前に地上においでになったことを「キリストの初臨」と呼ぶことがあります。 

 日本のキリスト教会の1つの考えとして、「未来」という言葉と、「将来」という言葉を比べるときに(両者は似た意味の言葉ですが)、「将来」の方が信仰的だ、ということを読んだことがあります。「未来」は「いまだ来たらず」の意味で語感が消極的ですが、「将来」は「まさに来たるべし」の意味で、積極的かつ確信に満ちた響きがあるからです。ですから「イエス様は未来に必ずおいでになる」と言うよりも、「イエス様は将来必ずおいでになる」と言う方が確信に満ちていて信仰的です。

 初代教会の人々は、イエス様の再臨はすぐにでも起こると信じていました。使徒パウロも、新約聖書のコリントの信徒への手紙(一)7章26節で、「今危機が迫っている状態にある」と書いています。これは「イエス様が再臨されて神の国が完成され、最後の審判が行われる、その危機が間近に迫っている」という意味です。しかしパウロも晩年になると、イエス様の再臨は自分が地上で生きている間には起こらないと考えるようになりました。そして今に至るまで、再臨はまだ実現していません。それがなぜかという問いに対する答えは、ペトロの手紙(二)3章8節~9節に明確に記されています。「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めようにと、あなた方のために忍耐しておられるのです。」神様は、何とかして世界の全員に救われてほしいと願われ、人類一人一人全員が自分の罪を悔い改めてイエス・キリストを救い主と信じ、全員が天国に入ることを願われて、再臨のときを延期しておられます。しかし永久に延期されるのではなく、父なる神様がお定めになった時に、イエス様は必ず再臨されるのです。本日のたとえの中の、「家柄の立派な人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった」という御言葉は、イエス様が再臨されるまでに、かなりの時間がかかることを暗示しています。その間に、私たちクリスチャンが何をすべきか、それが今日のルカによる福音書が私たちに問いかけることです。

 「そこで彼は、10人の僕(しもべ)を呼んで10ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい」と言った』」(13節)。イエス様は、僕たちに宿題を与えたのです。僕たちは、私たちです。一人に1ムナずつ渡したのです。1ムナは100デナリオン。1デナリオンは一日分の給料ですから、一日の給料を仮に5000円とすると、1ムナは100日分の給料で50万円です。一人一人に50万円の元手が渡されたのです。

 これと似た話がマタイによる福音書25章に出ています。それは「タラントンのたとえ」と呼ばれます。そこでは、ある人(イエス様)が旅行に出かけるとき、三人の僕たちを呼んで、それぞれの力に応じて、一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントンと、三人に異なる額を預けたと書かれています。1タラントンは6000日分の給料ですから、5タラントンは3万日分の給料で1億5000万円です。2タラントンは6000万円、1タラントンは3000万円です。今日のルカによる福音書では、僕は10人登場し、皆に同じ額1ムナが渡されています。1ムナは50万円と考えられますから、マタイによる福音書25章に比べると金額がだいぶ小さいですね。この2つのたとえ話は似ていますが、このような違いがあります。

 マタイに出て来るタラントンという言葉は、英語のタレント(才能)という言葉の語源ですから、マタイのたとえのメッセージは、「神様が与えて下さった才能を、神様のためにお献げして、神様のために惜しみなく精一杯用いなさい」ということです。ルカに出て来るムナという言葉は、単純に通貨の単位であって、それ以上に深い意味はないようです。イエス様は、10人の僕にそれぞれ1ムナ(50万円)を渡して、商売をするように指示されます。主人(イエス様)は僕一人一人を深く信頼して1ムナずつ(それは主人にとって大切な1ムナ)を預けて下さったのです。主人は旅立ちますが、僕以外の国民は彼を憎んでおり、彼が王になることを拒否していました。このことはイエス様が(悪いことを1つもしていないのに)十字架で殺されることと重なります。そして時がたちます。

 「さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの1ムナで10ムナもうけました』と言った」(15~16節)。非常に努力したのでしょう。大きな成果です。「主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、10の町の支配権を授けよう』」(17節)。 「二番目の者が来て、『御主人様、あなたの1ムナで5ムナ稼ぎました』と言った。主人は、『お前は5つの町を治めよ』と言った」(18~19節)。この人もだいぶ成果をあげました。そして三人目です。「また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの1ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです』」(20~21節)。

 この僕は、主人に不信の念を抱いていました。主人が愛と信頼をもって大切な1ムナを預けてくれたことを信じていませんでした。そしてせっかくの主人の信頼と期待を裏切ってしまったのです。この僕は、1ムナを布に包んでしまい込んでしまいました。活用すべき宝を少しも生かさず、死蔵してしまったのです。神様は、私たちに様々な賜物を与えて下さっています。ある程度の健康、才能、時間、お金などです。それらを(自分のためにだけでなく)神様と隣人への愛のために精一杯用いることを、神様は望んでおられます。私たちが怠惰になることなく、与えられた(否、預けられた)賜物を、神様と隣人のために喜んで用いて奉仕することを、神様は望んでおられます。

 神様から預けられた尊い賜物を全然生かさず、死蔵してしまった僕に対するイエス様のお言葉は厳しいものでした。「主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに』」(22~23節)。当時既に銀行があったというのは興味深いですね。「せめて銀行に預けておけば、最低限利息はついたのに」というのです。つまり神様の御用のために最低限のことさえしなかった怠慢が責められています。私たちも伝道のために怠惰であってはならないことを示されます。自分にできる仕方でよいので精一杯、イエス・キリストを日々宣べ伝えているかどうかが、問われています。私たちは当面はクリスマスコンサートのために御一緒に力を注いでゆきたいのです。

 資本主義を発達させたのはプロテスタントのクリスチャンたちだという説があります。マックス・ヴェーバー(1864年~1920年。ドイツの社会学者・経済学者)の説です。ヴェーバーの書いた本『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に詳しく書かれているそうです。プロテスタント教会は16世紀の宗教改革によって成立しました。プロテスタントの人々は、自分の職業は神様から与えられた職業だと考えます。ですからプロテスタントの人々は、神様にお仕えする気持ちで、非常に良心的且つ勤勉に自分の職業の道で働きました。そのため、結果として思いがけずお金・富がたまってしまった。その富が、資本主義が発達するきっかけになったというのです。興味深い説であり、ある程度当たっているのでしょう。ただその後の資本主義は信仰によらず、世俗的な考えによって進められています。それはともかく、苦難に負けず、勤勉に一生懸命働くのがプロテスタントの人々の生き方でした。今日のルカによる福音書の御言葉も、プロテスタントの人々の勤勉な生き方に大いに感化を与えたのではないかと思えます。私たちもその伝統を受け継ぎ、怠惰になることなく信仰の道を宣べ伝え、日々、神様に勤勉にお仕えしたいのです。イエス様に「怠慢な、悪い僕だ」とは言われたくありません。もちろん一人一人の健康状態や生活状況は異なるので、自分にできる仕方で神様にお仕えすればよいでしょう。

 しばらく前の礼拝で、イギリスの伝道者ジョン・ウェスレー(1703年~1791年)の、お金についての教えをお話したことがあります。ウェスレーの時代のイギリスでは、産業革命が起こり、そのために社会が急激に変化し、人々の心や倫理が混乱していました。そのような中で馬に乗ってイギリス中を説教して回り、人々にキリストの道を語り、イギリスを精神的に救った伝道者と評されています。ウェスレーは、プロテスタント教会の一派であるメソジスト教会を作った人です(本当にお作りになったのは神様ですが)。当時のイギリスでは金銭倫理も混乱していたでしょう。そんな中でウェスレーは『金銭の用い方』という説教の中で次のように語ったそうです(その時代の実際的な指針であり、私たち一人一人にどのように当てはめることができるかは、一人一人が考える必要があります)。「あなたにできるだけ稼ぎなさい。できるだけ貯蓄・節約しなさい。できるだけ与えなさい」(Gain all you can, save all you can, and give all you can!)。実は私は、最初の「できるだけ稼ぎなさい」に抵抗を感じて来ました。クリスチャンの理想は清貧ではないかという思いがあるからです(実際に私が十分に清貧に生きている自信はないのですが)。ですが私は今回、ウェスレーがもしかすると、本日のルカによる福音書19章16節の「良い僕」の言葉(「御主人様、あなたの1ムナで10ムナをもうけました」)を念頭に置いてこのように述べたのではないかと想像したのです。 ウェスレー自身は質素な生活をし、年齢が上がって収入が増えてからも若い頃と同じ生活費で生活し、多くを貧しい人々に献げたそうです。ウェスレーは多くの説教をしましたが、彼の臨終の言葉は次の言葉だったそうです。「あらゆることの中で一番すばらしいことは、神様が私たちと共におられることだ」(Best of all, God is with us.)。

 ルカによる福音書に戻ります。主人が言います。「なぜ、せめてわたしの金を銀行に預けなかったのか。」これを聞くと私たちは、「自分にできることはわずかだ。自分も神様に叱られるのではないか」と心配になるかもしれません。しかし私たちは自分にできることを精一杯すればよいのです。コリントの信徒への手紙(二)8章12節にこのように書かれています。「進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。」神様は私たちに、無理難題を押し付ける方ではありません。人と比べる必要はないのです。「進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。」 あの僕は、現に持っているもの(預けられていた賜物)さえ、神様のために全然用いなかったので、怠慢だと厳しく叱られたのです。

 主人はそばに立っていた人々に言います。「その1ムナをこの男から取り上げて、10ムナ持っている者に与えよ」(24節)。「僕たちが、『御主人様、あの人は既に10ムナ持っています』と言うと、主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる』」(25~26節)。不公平に思えるかもしれませんが、これも一つの真理です。一つの責任を果たすと、次の責任が与えられます。反対に責任を果たさないと信用が失われ、次の仕事が来ない恐れがあります。社会でもそうですし、神様と私たちの間でもそうであるということです。

 この僕は、失敗を恐れすぎました。確かに挑戦・チャレンジには失敗の危険があります。挑戦・チャレンジは自分にとって経験がないこと、未知の領域に踏み出すことですから失敗の危険があります。世の中では失敗が許されないことが多いのも事実です。特に他人の運命を狂わせる大失敗は避けなければなりません。新しいことをスタートするときは、よく計画を練る必要があることは確かです。しかし伝道のために全然挑戦しないことも、神様の御心に反します。東久留米教会にとって新会堂建築は、思い切った決断でした。何度も何度も話し合い、祈りました。神様がここまで守り導いて下さいました。多くの方々の祈りと支援をいただきました。ただ感謝です。このようなすばらしい会堂を与えられたのですから、私たちはこの悪い僕になってはならず、一歩踏み出してイエス・キリストを宣べ伝える者でありたいのです。

 20世紀の著名な神学者にパウル・ティリッヒ(1886年~1965年)というドイツ人がいます。この人が次のように語ったそうです。「危険を冒して失敗する人は赦され得る。少しも危険を冒さず、少しも失敗しない人は、彼の全存在において失敗している。」まさにあの叱られた僕に当てはまる警句です。ある人はこの言葉について「小さなことでもいいので、チャレンジし続けることが大切ということ」と述べています。私たちも神様の御言葉を宣べ伝えるために、小さな仕方(手紙に聖書の御言葉を書く、クリスマス礼拝へのお誘いのはがきを出すなど)でよいので、日々チャレンジし続けたいものです。

 最後に、本日の旧約聖書マラキ書3章を見ます。小見出しの「主の日」は、神様が悪を滅ぼされる日です。イエス様が再臨されて、神の国を完成される日です。
「しかし、わが名(神様の御名)を畏れ敬うあなたたちには/ 義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある」(20節)。 キリスト教会は、「義の太陽」こそ、再臨のイエス様と信じて来ました。私たちもそう信じます。「義の太陽」、「希望の太陽」イエス様が来られる日まで、時がよくても悪くても、救い主イエス・キリストを宣べ伝えて参りましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。

2013-12-07 20:55:57(土)
「神様は愛です」 12月(クリスマス)の聖書メッセージ
「神は愛です」(新約聖書・ヨハネの手紙(一)4章16節)

 もうすぐクリスマスです。このシーズンに読みたい本に『靴屋のマルチン』があります。子ども向けに親しみやすくして出版されているので、ファミリーでお読み下さい。原作の題は『愛のあるところに神あり』(トルストイ民話集『人はなんで生きるか』岩波文庫所収)で、心温まるストーリーです。

 試練の多い人生の中で、聖書を読んで心の平安を得たマルチンは、神の子イエス様の声を聴きます。「明日、通りを見ていなさい。わたしが行くから。」翌日、マルチンは朝からイエス様をお待ちしますが、なかなかおいでになりません。仕事をしつつ外を見ると、お年寄りが雪かきをして疲れています。マルチンはこの人を家に招き温かいお茶を出します。その人はとても喜びます。

 その人が出ると、貧しい女の人が赤ちゃんを抱いていますが、赤ちゃんを包むものがないのが見えます。マルチンは、この親子を家に入れてシチューとパンを出し、古い冬着を贈ります。女の人は感激します。しばらくすると、りんご売りのおばあさんと、おばあさんからりんごを1個奪おうとした男の子がいて、おばあさんが男の子を警察に突き出そうとして二人が争っています。マルチンは飛び出して、おばあさんには「放してやりなさい」と言い、男の子には「謝りなさい」と言い、男の子が謝ります。二人は和解し、おばあさんが重い袋を担ごうとすると、男の子が「僕が持つよ」と言い、二人は並んで歩いて行きます。

 そして一日が暮れました。果たしてイエス様は来られなかったのか…。 マルチンはその夜、聖書を読みます。イエス様のみ言葉が胸に沁みわたり、マルチンの心は喜びでいっぱいになります。「お前たちは、わたし(イエス様)が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた(…)。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(新約聖書・マタイによる福音書25章35~40節)。私たちも、神様を愛し、隣人愛を行うクリスマスにしたいですね。アーメン(「真実に、確かに」の意)。

2013-12-04 1:33:02(水)
「失われたものを救うため」 2013年12月1日(日)待降節(アドヴェント)第1主日公同礼拝 説教
朗読された聖書:エゼキエル書34章1~16節、ルカによる福音書19章1~10節

「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(ルカによる福音書19章8節)

 イエス様は、私たちの罪を背負って十字架にお架かりになるために、エルサレムに向かっておられます。この19章の後半で、エルサレムにお入りになります。「イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった」(1~2節)。イエス様はエリコの町に入られました。エリコは世界で最も古い町と言われ、紀元前8000年頃にはもう集落ができていました。エリコの位置は死海の北西およそ15キロ、エルサレムの北東およそ24キロの地点です。エリコはヨルダンの谷にあり、標高が地中海面下250メートル(海抜マイナス250メートル)で、世界で最も標高が低い町だそうです。エルサレムに向かう入口の位置にあります。エリコは美しいオアシスの町です。旧約聖書の申命記34章3節では「なつめやし(棕櫚)の茂る町」と紹介されています。なつめやしの大きな森があるとても肥沃な土地でした。ローマ人はこのなつめやしを世界に送り出していたそうです。売っていたのでしょう。このためエリコは活気があって経済的に豊かな町、重要な町、そしてローマ人にとって多くの税金を取ることのできる町になっていたそうです。この時代、ローマ帝国がイスラエルを支配していました。

 ザアカイという徴税人(税金の取り立てを職業とする男)が登場します。ザアカイという名前は「正しい人」という意味です。ですがこの人は名前の通りに生きてはいませんでした。ある本によるとローマ帝国がイスラエルの人々から税金を徴収するようになったのは紀元6年からです。税金は非常に重かったそうです。税金には直接税と間接税があり、直接税はローマ人が生産物の20~25%を直接徴収しました。間接税は橋や川の渡し場、町の入口などでローマ人の監督の下で、ローマ人に雇われたユダヤの徴税人が取り立てました。徴税人はユダヤ人であり、支配者ローマの権威を笠に着て税金を過酷に取り立てました。しかも不正に高額な税金を取り立て、自分たちの私腹を肥やしていたので、仲間のユダヤ人から非常に嫌われ、憎まれていました。ザアカイはその徴税人の頭(いわば罪人の頭)であり恐らく強欲で、金持ちでした。どのようにして金持ちになったのか。仲間のユダヤ人から税金を不当に高額に取り立てることによってです。仲間から見れば支配者ローマ人の手先、許せない売国奴・裏切り者です。徴税人がこのように憎まれていたのは、自業自得であったのです。悪徳業者、犯罪者だったと言ってもよいのです。私たちも当時のユダヤ人であったら、徴税人を憎んだでしょうし、それが当たり前だと思ったでしょう。神様に裁かれても仕方がないのが徴税人だったのです。

 ところがこの悪徳徴税人ザアカイとイエス様の出会いが起こるのです。ザアカイは態度の上では強がっていたでしょうが、心の奥底では孤独を覚えていたでしょう。このままでは自分は天国には行けないし、永遠の滅びに落ち込む。そういう恐れを抱いていたでしょう。でも普段はその気持ちを決して人には見せなかったでしょう。そのザアカイがなぜかイエス様に引きつけられました。自分を救ってくれるとまでは期待していなかったでしょうが、ザアカイは好奇心旺盛な男で、今評判のイエスという男をぜひこの目で見てみたいと思いました。そして早速行動します。「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである」(3~4節)。 このときザアカイが登ったとされるいちじく桑の木が今もあるそうですが、まさにその木に登ったのかどうかは分からないでしょう。ですがいちじく桑の木は、イスラエルの南部に多く立っており、写真で見ると幹がかなり太いですね。枝分かれしていますが、枝もとても太くてがっしりしています。ですから人が登りやすく、腰掛けるスペースもかなりある印象です。このような木にザアカイが登ったということは、合理的です。ザアカイは背が低かったのですが、すばしこい人で、たちまちいちじく桑の木に登ったことでしょう。ザアカイは、イエス様から見えない安全圏に身を置いて、上からイエス様を観察するつもりでした。

 ところがイエス様は何もかもお見通しです。木の上にザアカイが来ていることを知っておられました。心の一番深いところで救いを求めている孤独な魂の持ち主が来ていることに気づいておられました。そして声をおかけになります。「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい』」(5節)。イエス様が下に立っておられることが象徴的です。下に立つということを英語にすると「アンダー」に「スタンドする」です。アンダースタンド。理解するという意味ですね。イエス様はザアカイの心の一番深い部分を理解しておられました。孤独な人生から抜け出して救われたい願いが痛いほど伝わっていました。イエス様は、私たち一人一人の深い理解者です。アッシジのフランチェスコの有名な祈り「平和を求める祈り」に次のような祈りがあります。「理解されるよりも理解する者にならせて下さい」という祈りです。イエス様はまさにそのように生きられました。「平和を求める祈り」全体を読んでみます。これはまさにイエス・キリストの心・生き方と一致する祈りです。

「主よ、わたしを平和の器とならせてください。
憎しみのあるところに愛を、争いがあるところに赦しを、
分裂があるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、
誤りがあるところに真理を、絶望があるところに希望を、
闇あるところに光を、悲しみあるところに喜びを。 
主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
理解されるよりも理解する者に、愛されるよりも愛する者に。 
それは、私たちが、自ら与えることによって受け、赦すことによって赦され、
自分のからだをささげて死ぬことによって、
とこしえの命を得ることができるからです。」 

この祈りのように、イエス様はザアカイに愛の言葉をかけて下さいました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」

 ザアカイには友がいませんでした。家に友人が来ることもなかったでしょう。お金だけが友だったのです。『クリスマスキャロル』という物語に出て来る強欲のスクルージのようです。ですがイエス様はザアカイの友となって下さいました。私たちはザアカイの友になることができるでしょうか。犯罪者を愛することができるかどうか。なかなか難しいかもしれませんね。現実には愛しても裏切られることがあります。イエス様はそれでも愛されました。私たちの愛もイエス様に似た愛なのか、いつも問われます。幸い、ザアカイには素直なところがありました。良い意味で単純で愛すべきところありました。それが救いです。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」まさにサプライズです。ザアカイは驚き、耳を疑ったでしょう。「まさか。あり得ない。有名なイエス様が今日、わが家に着て下さるなんて…。」ザアカイは耳を疑いながらも急いで降りて来て、喜んで興奮してイエス様を家に迎えました。

 このことは周りで見ていた人々にとっても、全く意外な成り行きでした。私たちがその場にいたとしても、驚くに違いありません。「イエス様は、もっと立派な人の家にお泊まりになるはずではないか」と。「これを見た人たちは皆つぶやいた。『あの人は罪深い男のところに行って宿をとった』(7節)。」私は、このつぶやいた人たちの気持ちが分かる気がします。同じルカによる福音書の5章でイエス様は既に、徴税人レビに声をかけて招かれました。「私に従いなさい。」レビはイエス様を家に招いて盛大な祝宴を催しました。するとユダヤのファリサイ派の人々や律法学者たちがつぶやいてイエス様の弟子たちに、「なぜ、あなたたちは徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と言いました。イエス様が鮮やかに答えられます。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」イエス様は、ザアカイの、自分勝手に生きる罪を癒す魂の医者として、ザアカイに接して下さったのです。

 イエス様はザアカイの家だけの客なのでしょうか。違います。イエス様は、私たち一人一人の家の客人として来て下さっています。あるクリスチャンの家の壁に木彫りが掲げられているのを見たことがあります。同じ木彫りをご覧になった方があるでしょう。このような文が彫られています。

「キリストはわが家の主、食卓の見えざる賓客、あらゆる会話の沈黙せる傾聴者。」
あるクリスチャンの家では、食卓にイエス様の場所を用意すると聞いたことがあります。食事までは置かないのかもしれませんが、「ここはイエス様の場所」という場所を作るのです。まさにイエス様を毎日お客様としてお迎えする信仰の表れです。ザアカイは、喜んでイエス様を家に迎えました。私たちも、イエス様が家族の一員として家におられる気持ちで生活したいものです。

 ザアカイは立ち上がってイエス様を迎えます。「~ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰かから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します』」(8節)。聖書では姿勢が意味を持つと聞いたことがあります。ザアカイが立ち上がったということは、ザアカイがイエス様をお迎えするために敬意を表したと同時に、それまで罪深い生き方を決然と捨てて、立ち上がった。自分のこれまでの罪をはっきり悔い改めて立ち上がった、これまでの古い自分・罪深い生き方をきっぱり捨てて、新しい生き方へと立ち上がったということです。ザアカイはここで形の上で洗礼を受けてはいませんが、洗礼を受けたことと同じことが起こっているのです。ザアカイは、まさに罪人の頭である自分の家に泊まりに来て下さるイエス様の予想外の愛に感激し、それまでの頑固で強欲な、エゴイズムに満ちた生き方を捨てる気持ちになったのです。北風と太陽という話がありますが、イエス様は冷たい北風ではなく、まさに暖かい太陽です。イエス様の太陽のような暖かい愛に心を動かされ、ザアカイは悔い改める決心をしました。放蕩息子ザアカイは悔い改めて、イエス様と隣人を愛する人に生まれ変わったのです。天で大きな喜びがあったに違いありません。

 「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。」財産の半分です! 不正な手段によって得たお金ですから、世の中に返すのは当たり前なのですが、それにしても思い切った生き方の変更です。私たちにはザアカイほどお金がありませんが、この姿勢は見習いたいと思わされます。先ほどのフランチェスコの祈りに、
「わたしたちが、自ら与えることによって受け、赦すことによって赦され、自分のからだをささげて死ぬことによって、とこしえの命を得ることができるからです」とありますが、この心がザアカイに宿り始めたのです。ルカによる福音書は、お金持ちに厳しい福音書です。前の18章でイエス様は、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とおっしゃりました。ザアカイが神の国に入るのは、らくだが針の穴を通るより難しいこと、不可能なことであったのです。ザアカイは天国から一番遠い人だったのです。しかしイエス様は、ザアカイも悔い改めて天国に入ってほしいと願っておられるのです。

 マタイによる福音書18章14節でイエス様はこう言われます。「これらの小さな者(ザアカイのことでもあります)が一人でも滅びることは、あなた方の天の父の御心ではない。」イエス様は、ルカによる福音書15章で有名な「見失った羊のたとえ」をお語りになりました。「あなた方の中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹(ザアカイでもあります)を見失ったとすれば、99匹を野原に残しておいて、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか(当然、捜し回ります)。そして見つけたら、喜んでその羊(ザアカイ、そして私たち)を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人(ザアカイ)については、悔い改める必要のない(本当はそのような人はいません)99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」ザアカイが悔い改めたことで、イエス様は大きな喜びに満たされたのです。ザアカイは、惜しみなく与える愛に生きる人に変えられました。

「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」償いについて、出エジプト記21章37節に次のような規定があります。「人が牛あるいは羊を盗んで、これを屠るか、売るかしたならば、牛一頭の代償として牛五頭、羊一匹の代償として羊四匹で償わねばならない。」ザアカイは、自分がこれまで盗みの罪を犯して来たと自覚したのです。そこで出エジプト記の規定にできるだけ従って返そうとしたのです。ザアカイは本気で悔い改め、彼の生き方が180度変わりました。イエス様は深く喜んで言われます。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子(イエス様ご自身)は、失われた者を捜して救うために来たのである」(9~10節)。 アブラハムは、神の民イスラエルの偉大な先祖、神様に選ばれた先祖です。ザアカイもその血を引いているのです。ですが罪を犯し続けているので、このまま自動的に天国に行くことはできません。神の民に形の上では属しているのに、罪を犯し続けて救いから最も遠く離れてしまったザアカイ。神様はザアカイに滅びてほしくないのです。何とかして罪を悔い改めて救われて欲しい。その神様の願いがかなって、ザアカイが罪をはっきり悔い改めたのです。イエス様と父なる神様の喜びは深く大きいのです。神様の次の御言葉を思い出さずにはおれません。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」(エゼキエル書33章11節)。

 本日の旧約聖書は、エゼキエル書34章1節より16節です。小見出しが「イスラエルの牧者」です。牧者は羊飼いです。ここではイスラエルの指導者を指します。神様が、悪い指導者たちを厳しく告発しておられます。「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群を養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、超えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを探し求めず、かえって力づくで、苛酷に群れを支配した」(2節の途中から4節)。

 これに対して、神様ご自身がよき羊飼いとなって民を救うと宣言されます。「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。~わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養れる。わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。わたしは失われたものを尋ね求め、追 われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」(11節の途中から16節)。この神様が、最も良い羊飼いイエス様を、私たちの世に送って下さったのです。

 最後に新約聖書のテモテへの手紙(一)6章17節~19節を読みます。これはザアカイに向けられた御言葉、そして私たちにも向けられている御言葉と言えます。
「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えてくださる神に望みを置くように。善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。」アーメン(「真実に、確かに」)。