日本キリスト教団 東久留米教会

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2014-07-21 20:38:49(月)
「主の名をみだりに唱えず 十戒③」 2014年7月20日(日) 聖霊降臨節第7主日礼拝説教
朗読聖書:出エジプト記20章1~21節、フィリピの信徒への手紙2章1~11節。
「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」(出エジプト記20章7節)

 モーセの十戒の第三の戒めを学びます。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」 「名は体を表す」と言います。名前は本質です。「主の名」は、聖なる神様ご自身であり、神様の尊厳そのものです。「みだりに」とは「乱暴に」ということとも言えます。神様の聖なるお名前を乱暴に口にしてはならず、その尊厳を深く思って初めて口にせよということです。あるいは「主の名をみだりに唱えない」とは、「主の名を濫用しない」ということでしょう。人間の世界で王などに対して閣下、陛下と呼ぶことに似ています。王のことを考えなくても、私たちは人さまのお名前に敬意を表します。名刺をいただけば、丁重に扱います。人に対してもそうなのですから、まして聖なる神様に対する時には、神様の御名の尊厳を深く思い、尊敬以上の気持、讃美と礼拝の思いを込めて、聖なる神様のお名前を口にするのです。私どもよりはるかに偉大な方との思いを込めて、初めて神様の聖なるお名前を口にします。

 実際に、神様の聖なるお名前を乱暴に口にして(おそらくは神様の聖なるお名前をののしって)非常に厳しい処罰を受けた男がレビ記24:10~に登場します。「イスラエルの人々の間に、イスラエル人を母とし、エジプト人を父に持つ男がいた。この男が宿営において、一人の生粋のイスラエル人と争った。イスラエル人を母に持つこの男が主の御名を口にして冒瀆した。人々は彼をモーセのところに連行した。~人々は彼を留置して、主御自身の判決が示されるのを待った。主はモーセに仰せになった。冒瀆した男を宿営の外に連れ出し、冒瀆の言葉を聞いた者全員が手を男の頭に置いてから、共同体全体が彼を石で打ち殺す。あなたはイスラエルの人々に告げなさい。神を冒瀆する者はだれでも、その罪を負う。主の御名を呪う者は死刑に処せられる。」その通りに実行されたのです。これは第三の戒めにはっきりと違反した人のケースです。

 聖書の神様のお名前は、ヘブライ語のアルファベットでYHWHです。これを聖四文字と呼びます。読み方はヤハヴェもしくはヤハウェであろうと言われます。旧約聖書を朗読するときに、敬虔なイスラエル人・ユダヤ人は、YHWHのところに来ると、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」の戒めを強く思い、神様のお名前を口にするのはあまりにも畏れ多いと考え、お名前を発音せず、「アドナイ(主人・主の意)」という言葉に読み変えたそうです。その習慣が長く続いたために、YHWHの正確な発音が次第に分からなくなったと言われます。それほど第三の戒めを重んじたのです。YHWHというお名前には意味があるようで、新共同訳聖書巻末の「主」の用語解説を見ると、「空虚な神々とは違って実際に『存在する者』、行動的に人々とともにいて、彼らに援助を与え、『現存する者』という意味が最も重要と思われる」と書かれています。

 実際、出エジプト記3章14節を読むと、神様がモーセにご自分のお名前を明かしておられます。名は体(本質)を表しますから、神様はモーセに御自分の本質を明かして下さったのです。「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「わたしはある」という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。』」 「わたしはある」が神様の本質なのです。

 「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」「みだりに唱える」ことの反対は、讃美と礼拝の気持ちを込めてお名前を唱えること、お名前を呼ぶことです。「みだりに唱える」ことは罪ですが、「主の名を深く畏れ敬いつつ、礼拝の気持ちをもってお呼びする」ことは許されています。そうでないと神様をあがめて祈ることも、礼拝することもできなくなってしまいます。「神様のお名前を呼ぶ」とは、神様を礼拝することです。創世記4章の最後に、最初の人アダムの三人目の息子セトとセトの子エノシュの名前が出ています。そして「主の名を呼び始めたのは、この時代のことである」と書かれています。エノシュの時代から神様のお名前を呼ぶ礼拝が始まったということです。そして創世記12章を見ると、イスラエルの民の先祖アブラム(後のアブラハム)が「主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」と書かれており、アブラムが礼拝をしていることが分かります。

 旧約聖書最後の書・マラキ書を見ると、神様の御名をあがめる礼拝を軽んじる祭司たちがいたことが記されています。神様にお仕えすることはむなしいと言う人々もいました。しかし中には少数かもしれませんが、神様の御名を重んじ、心をこめて礼拝する人々もいたようです。マラキ書3章16~17節にこう書かれています。
「そのとき、主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。
 神の御前には、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が書き記された。
 わたしが備えているその日に/ 彼らはわたしにとって宝となると
 万軍の主は言われる。
 人が自分に仕える子を憐れむように/ わたしは彼を憐れむ。」

 神様を畏れ敬い、御名を重んじる人々が神様に喜ばれているというのです。私たちもこの人々のようでありたいですね。そして3章20節には、神の国の完成の時にはこうなるという、神様の約束が記されています。
「わが名を畏れ敬うあなたたちには
 義の太陽が昇る。/ その翼にはいやす力がある。」
 
 神様の御名を畏れ敬う人々には、よき報いがある。「義の太陽」は、イエス・キリストです。イエス様のいやしと愛が注がれ、永遠の命が与えられます。「旧約の預言者たちは月や星、イエス・キリストは太陽」という意味の文章を読んだことがあります。まさにその通りです。

 さて、「主の名をみだりに唱えない」とは、「主の名を濫用しない」ということだと申しました。レビ記19章12節に次のように書かれています。「わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。」 昔の日本人は「天地神明にかけて真実であることを誓う」という言い方をしました。この神は聖書の神ではありませんが、誓いをする時に、神を引き合いに出して誓ったのです。今の日本人はあまりこのような言い方をしません。ですが教会の信仰生活の中ではしばしば誓いがあります。これは真の神様の前で誓うのです。伝道師・牧師就任式での誓い、洗礼式での誓い、転入会式での誓い、役員・監事任職式での誓い、結婚式での誓い。私たちは神様が見ておられる前で誓います。万一、神様の前で偽り誓うことがあれば、「主の名をみだりに唱える」罪になると思うのです。私たちは、さすがに神様の前で自覚して偽り・嘘の誓いをすることはありません。ですが神様の前で誓ったことを忘れてしまうことはないと言いきれないのではないでしょうか。それも「主の名をみだりに唱える」ことになる恐れがあるのではないでしょうか。私自身、深く悔い改めたいのです。神様の前で誓ったことを、神様はもちろん覚えておられます。私たちが忘れてよいはずはありません。私たちは神様の前で行った誓いをいつも思い出し、忘れないように心がけたいのです。

 祈りについての名著にフォーサイスというイギリス人が書いた『祈りの精神』があります。フォーサイスはよく祈った人です。フォーサイスはこう書いています。「十字架についての洞察力が新たにされると、十字架に臨んでいる神の愛とその厳粛な聖さに宿る深い意味が、とりわけ明らかにされる。そして、神の聖さを鮮やかに知ると、この汚れた唇に神のみ名を口にすることすらできなくなる」(P.T.フォーサイス『祈りの精神』ヨルダン社、1986年、102ページ)。 「神の聖さを鮮やかに知ると、この汚れた唇に神のみ名を口にすることすらできなくなる。」本当にそうなのだと思います。もちろん、だから私たちが祈らない方がよいのではありません。そうではなく、私たちの汚れた唇で、なお祈ることを許して下さる神様の憐れみに感謝することこそ、ふさわしいのです。

 本来は祈ることもはばかられる汚れた唇を持つ私どもが、安心して祈ることができるようにして下さった方は、イエス・キリストです。イエス様は私たちの罪の全てを背負って、十字架で死んで下さいました。イエス様は神の子ですから、「父よ」と親しく神様に祈られました。「父よ」と祈ることができる方は本来、イエス様お一人です。ですがイエス様が十字架で私たちの罪を全て背負いきって下さったので、私たちも罪人(つみびと)であるにもかかわらず、「父よ」と親しく呼びかけて祈ることができるようになったのです。イエス様の十字架の愛のお陰です。イエス様を信じて聖霊を受けた私たちは、神の子たちとなったのです。本来神の子でなかった私たちが、神の子たちとされたのです。すばらしい福音・グッドニュースです。ローマの信徒への手紙8章15~16節にこの恵みが書かれています。

 「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊(聖霊)を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」イエス様と同じように「アッバ、父よ」と神様に呼びかけて祈ることができるのです。「アッバ」は、ほとんど「パパ」であって、子供が父親に親しく呼びかける言葉です。私たちは十戒を学びながら、イエス様のお陰で父なる神様との距離がぐっと近くなったことを喜んでよいのです。1997年に加藤常昭先生という有名な先生をお招きして東久留米教会で伝道集会を行いましたが、その時、加藤先生がおつけになったメッセージの題が「あなたも神の子として生きる」であったことをよく覚えています。

 そのイエス様は私たちに、「主の祈り」を教えて下さいました。まだ洗礼を受けておられない方も「主の祈り」を祈ります。ですが、イエス様を救い主と告白して洗礼を受け、神の子とされた人が祈るとき、神様の恵みをさらに深く味わわせていただける祈りが「主の祈り」です。私たちは最初にこう祈ります。「天にまします我らの父よ、御名をあがめさせたまえ。」私たちは、「主の名をみだりに唱えない」ように注意しますが、同時に「父よ」と親しく呼びかけ、「御名があがめられますように」と積極的にほめたたえることができる新約聖書の時代に生きているのです。本当に感謝です。私たちの名があがめられることが大事なのではなく、神様の御名があがめられることが大事です。「御名があがめられますように」とは、「神様の偉大さが讃美され、神様の御心が成りますように。私たちが神様の御心に喜んで従うことができますように」ということです。

 10年以上前のことですが、ある神学校の著名な先生が天に召されました。後でその先生の葬儀の礼拝で読まれた聖書がヨブ記だったと聞きました。大きな試練を受けたヨブが語ります。
「わたしは裸で母の胎を出た。/ 裸でそこに帰ろう。
 主は与え、主は奪う。/ 主の御名はほめたたえられよ」(1章21節)。
ヨブは大きな試練を受けたとき、このように主の御名をあがめたのです。驚くべき深い信仰です。その先生は、教会や神学校のために多く働かれ、実績を残されました。それだけに葬儀の礼拝でご自分の名がたたえられることを警戒されたのではないかと、私は受けとめました。それでは、神に栄光をお返しすることにならない。礼拝にならない。そうならないように祈られたのではないかと思うのです。それでヨブ記をお選びになったのではないかと私は拝察致します。
「わたしは裸で母の胎を出た。/ 裸でそこに帰ろう。
 主は与え、主は奪う。/ 主の御名はほめたたえられよ。」
ご自分の名がほめたたえられる葬儀ではなく、父なる神様のお名前・イエス様のお名前のみが讃えられる葬儀になることを祈り願われたと思うのです。

 もう1つ似たエピソードを述べれば、宗教改革者にジャン・カルヴァンという人がいます。カルヴァンはスイスのジュネーブの宗教改革に非常な実績を残し、カルヴァンの著作は今も日本でも読まれて、信仰の感化を与え続けています。彼は自分が死ぬとき、自分の名があがめられることを警戒しました。自分の遺体は共同場地に埋葬し、墓石を据えるなと固く言い残したそうです。カルヴァンの願いは、自分が忘れられて、ただ神様のお名前のみが皆に尊ばれ、ほめたたえられることでした。ですからカルヴァンの墓がどこにあるか、分からないそうです。ジャン・カルヴァンの頭文字はJ.C.です。これは神様のご計画と思います。イエス・キリストはいわゆる姓名ではありませんが、強いてイエス・キリスト(英語ではジーザズ・クライスト)の頭文字は何かというと、同じJ.C.です。カルヴァンにとって自分の名前は忘れられた方がよいので、同じJ.C.でもイエス・キリストのお名前のみがあがめられ、永遠にたたえられることが切なる願いだったのです。

 「すべて神の栄光のために!」 これがカルヴァンの願いです。私たちにとっても同じです。「自分の人生は、すべて神の栄光のためにささげる!」 これがクリスチャンの生き方です。バッハという有名な音楽家がおりましたが、バッハもいつも言っていたそうです。「音楽の目的は第一に神に栄光を帰し、そして、隣人に喜びを与えることだ」と。父なる神様のお名前のみがほめたたえられ、イエス・キリストのお名前のみがほめたたえられる! 礼拝はそのような場であり、それこそがクリスチャンの唯一の願いです。

 本日の新約聖書は、フィリピの信徒への手紙2章1節~です。フィリピの教会に多少の混乱があったようで、この手紙を書いたパウロはクリスチャンの生き方について教え諭しています。私も心して耳を傾けたいと思います。
(1~5節)「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、『霊』(聖霊)による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」

 世の終わりには必ずこのようになります。「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」 そのとき、主の名がみだりに唱えられることはもはやありません。父なる神様の御名も、尊い神の子イエス・キリストの御名も高らかにほめたたえられます。今の礼拝が既にそのような場です。礼拝は天国の先取りだからです。

 イエス様の御名に触れている新約聖書を2ヶ所開きます。
マタイによる福音書18章20節。「二人または三人がわたし(イエス様)の名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」二人または三人がイエス様の御名によって集まり、イエス様の御名をあがめるとき、そこにイエス様は共におられるのです。場所は礼拝堂でも、家庭でも、迫害を受けて牢にいるときの牢でも構いません。

 使徒言行録4章11~12節。ペトロの説教です。
「この方(イエス様)こそ、
 『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、
  隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても救いは得られません。わたしたちが
  救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」 
十字架で死んで復活されたイエス様こそ唯一の救い主であり、私たちはこのイエス様の聖なる御名を、限りなくほめたたえるのです。 

 十戒の「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」は、「主の祈り」の「願わくは、御名をあがめさせたまえ」につながっています。信仰に生きる私たちは、「私たちの名ではなく、父なる神様・主イエス様の聖なるお名前が永遠にほめたたえられますように」と賛美・礼拝しつつ歩むのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-07-15 1:36:31(火)
「新しい契約の食事」 2014年7月13日(日) 聖霊降臨節第6主日礼拝説教
朗読聖書:エレミヤ書31章31~34節、ルカ福音書22章1~23節
「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」(ルカ福音書22章15節) 

 本日の場面では、イエス様を亡き者にする陰謀が巡らされています。(1~2節)「さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。」 過越祭はイスラエルの民の出エジプトを記念する、ユダヤ人にとって最も重要な祭りです。モーセに率いられたイスラエルの民の出エジプトは、ある年表では紀元前1280年頃になっています。イエス様の十字架は紀元30年頃ですから、出エジプトは今日の場面の約1300年前です。それほど前の神の恵みをも忘れないで、イスラエルの民は感謝の過越祭を行っていたのです。今も行っているのでしょう。出エジプト記12章には、過越祭の由来となった神様の指示が記されています。

 「今月(ユダヤ暦アビブ<ニサン>の月、太陽暦の3~4月)の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。~その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。~それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦い菜を添えて食べる。~これが主の過越である。その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。」神様はこの通りに実行されました。エジプト人の全ての家で初子が神様に撃たれて死にましたが、神様の指示を守ったイスラエル人の家を、神様の裁きは通り過ぎて行きました。民はその真夜中、エジプト脱出を開始したのです。

 この劇的な救いを記念する祭りが過越祭です。過越祭とセットの祭りに除酵祭がありました。神様の先ほどの指示の中に「酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる」とありました。民はエジプトを脱出するとき、ぐずぐずしている暇がなかったので、酵母を入れないパンを焼きました。これが除酵祭の由来ですね。酵母を入れないパンはおしくないでしょう。除酵祭で酵母を入れないパンを食べることで、出エジプトの時の苦難、質素な生活を忘れないようにと心がけたのではないでしょうか。新会堂を建てるかどうか、この教会の中で話し合っていた時に、今は天国に行かれたFさんが、「ドラム缶風呂でよしとした精神を忘れてはなりません」とアンケートにお書きになったことを思い出します。東久留米教会初代牧師の浅野先生はこの場所で開拓伝道された約50年前、ドラム缶風呂で汗を流しておられたようです。Fさんは後で転入会された方ですが、この教会の貧しい時代の苦労を忘れてはならないと戒めて下さったのだと受け留めました。除酵祭にも同じような意味があったのではないでしょうか。

 ルカによる福音書に戻りますが、その過越祭・除酵祭が近づいていました。これは偶然ではなく、神様のご計画です。イエス様は過越祭の時に十字架におかかりになる必要がありました。イエス様こそ、真の過越の小羊だからです。屠られた小羊の血を取って、二本の柱と鴨居に塗った家の上を神様の裁きが通り過ぎて行ったように、イエス様が自分のために十字架で尊い血を流して下さったと信じる人については、神様の裁きがその人の上を通り過ぎ、その人は永遠の命を受けるからです。ヨハネ福音書19:31によると、イエス様の十字架の死は、過越祭(安息日)の前日の金曜日でした。父なる神様がそう計画なさったのです。過越祭は3~4月ですので、今でもキリスト教会はこの時期にイエス様の十字架の死の金曜日と復活の日曜日(イースター)を設定しています。イスラエルの過越祭とイエス様の十字架・復活にはつながりがあります。そしてイエス様は、本日の箇所で旧約聖書の過越祭を乗り越える新しい契約の食事・聖餐を制定なさるのです。

 目に見えない悪魔が人々を唆して、人々がイエス様を殺すようにと働きかけています。この悪魔の動きに対してはっきり目を覚まして、悪魔の動きを見抜いていたのはイエス様と父なる神様だけです。弟子たちでさえ、悪魔の働きを見抜くことができないでいました。私たちも知らず知らずのうちに、悪魔の唆しに乗ってしまうことがあるかもしれないので、よく注意したいと思います。悪魔に負けないために、よく聖書を読み、目を覚ましてよく祈って聖霊に助けていただくことが必要です。(3節)「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中にサタンが入った。」悪魔はユダを強力に唆し、ユダは唆しに乗ってしまったのです。ユダは悪魔の唆しを拒否することもできたのです。しかし拒否せず、受け入れてしまったのです。ですから裏切りはユダの責任です。(4~6節)「ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」マタイによる福音書によると、ユダは銀貨30枚でイエス様を売ったのです。

 (7節)「過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。」木曜日です。イエス様は次の日に十字架につけられます。イエス様は、過越祭の食事の準備をするようにペトロとヨハネに指示をなさいます。二人はイエス様の指示に従って、ある家の二階に過越の食事の準備をします。そして夕刻、過越の食事の時が来ます。弟子たちはきっと、いつもの年の過越の食事と同じような気持ちでこの時を迎えたのではないでしょうか。しかしイエス様にとっては重大な決意をもって迎えた過越の食事です。これまでとは違うのです。この食事がいわゆる最後の晩餐になりました。(15~16節)「イエスは言われた。『苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。』」 「わたしは、復活後も神の国が完成するまで、決して過越の食事をとることはない、苦しむ者と共に生きる、質素に生きる」とイエス様はおっしゃったのではないでしょうか。そして杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから、「言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」と、似たことを言われました。目に見えなくとも、イエス・キリストを宣べ伝える弟子たちと共にいて、苦難を共にするとおっしゃったのでしょう。

 ここからがイエス様による聖餐制定の御言葉です。(19節)「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』」イエス様はパンを裂くことで、間もなくご自分の体が十字架の上で釘によって裂かれ、槍によって裂かれることを示されたのです。聖餐の式文を連想します。「これは、あなたがたのために裂かれた主イエス・キリストの体です。あなたのために主が命を捨てられたことを覚え、感謝をもってこれを受け、心のうちにキリストを味わうべきであります。」

 私が神学生だった1995年頃、私が通っていた東京神学大学のお隣りの日本ルーテル神学大学(現・ルーテル学院大学)との一致礼拝に出席したことがあります。その時、ルター派の聖餐式を体験することができました。白い服を着た牧師が、一人一人の目の前でパンを裂いて、「これは、あなたがたのために裂かれた主イエス・キリストの体です」と言って裂いたパンを渡して下さるのです。目の前でパンを裂いて下さるのが印象的でした。この方式ですと、まさにイエス様が十字架で、ご自分の体を裂いて下さった事実を強く意識することができます。そして牧師が、弟子たちの目の前でパンを裂かれたイエス様の動作を、再現しているとも言えます。聖餐式にしても洗礼式にしても、真の執行者はイエス・キリストです。人間の牧師はイエス様の代理人に過ぎません。

 イエス様が私たち一人一人のために、十字架で肉を裂いて下さった事実を思うことは、信仰にとって大切です。ヒットラーへの抵抗を呼びかけたスイスの神学者(牧師)にカール・バルトがいます。バルトは多くの信仰書を書きましたが、書斎にグリューネヴァルトという画家が描いたイエス・キリストの十字架の絵(十字架の死の悲惨さをごまかさない凄惨な絵)を掲げ、それを見ながら執筆したそうです。イエス様の十字架の犠牲の愛をいつも心に刻もうとしたのでしょう。受難節に釘を首から下げて生活した日本人の牧師もおられたそうです。ドイツのオーバーアマガウという村では、1630年代にペストが流行し、多くの方が死んだそうです。しかし村を挙げて神様に助けを祈り求めたところ、神様が祈りを聴いて下さり、ペストは次第におさまったそうです。村ではそれ以来、神様への感謝のしるしとして、10年ごとに村を挙げて「イエス・キリストの受難劇」を上演するようになり今日に至っています。東久留米教会が所属する西東京教区でも、7~8年前に全体研修会で牧師・伝道師たちを中心に受難劇を行いました。このような形で多くのクリスチャンたちが、イエス様の十字架の愛を一生懸命に心に刻もうと努力して来たのです。私たちもイエス様の十字架の愛をいつも魂に刻印したいのです。もちろんそのために聖餐が備えられています。

 (20節)「食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。』」 新しい契約の前にあるのが古い契約です。神様はイスラエルの民をエジプトから脱出させる大きな愛を実行され、イスラエルの民に十戒を与え、十戒を守って生きることで神様への愛を示すように求められました。これが古い契約です。神様とイスラエルの民の間で古い契約が結ばれる場面は、出エジプト記24章に出ています。(5~8節)「彼(モーセ)はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、『わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります』と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。『見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。』」 モーセは「契約の血である」とはっきり言いました。モーセは、いけにえの動物の血を祭壇とイスラエルの民に振りかけて、祭壇と民を清めたのです。

 血を振りかけて清めることは、私たち日本人から見ると異様です。ですが血は命そのものです。人が犯した罪は、本当はその人が血を流すことによって償うことが必要です。私たちは小さな罪を毎日犯しています。その罪のためにも血を流して償うことが必要ですが、それでは人が死ぬことになります。そこで旧約聖書では、人の身代わりに動物を殺してその血をもって罪の償いとしたのです。ですから旧約時代の神殿では、毎日動物を殺して血を流し、いけにえを神様に献げていたそうです。これは野蛮ということではなく、人の罪が赦されるには、どうしても身代わりに動物の血を流す必要があったのです。ヘブライ人への手紙9章22節には、「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」と明確に書かれています。

 人間の原罪(罪)について、マルティン・ルターはこう語ったそうです。「人間の口髭のようなものだ。口の周囲に一本の髭も残らないほどにきれいに剃られても、次の朝再びはえる。~しかし人間はこの原罪に抵抗しなければならぬ。かくのごとき髭を絶えず切り去らなければならない」(ルターの『卓上語録』を辻宣道著『教会生活の四季』日本キリスト教団出版局、1991年、47ページより孫引き)。

 この人間の罪を償うためには、実は動物の血では不十分です。本当に人間の罪が赦されるためには、人間の血が流される必要があります。世界中の全ての時代の全て人間の罪を身代わりに背負って、血を流して死ぬ人が必要です。その方は全く罪がない方でなければなりません。父なる神様は、その方をこの世界に送って下さいました。もちろんそれがイエス・キリストです。イエス様はまさに十字架で死ぬために誕生して下さいました。モーセは動物の血を祭壇とイスラエルの民に振りかけて「これは~契約の血である」と宣言しましたが、イエス様は十字架を目の前にして「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」と宣言されたのです。過渡的な古い契約の時代が終わり、父なる神様と私たちの間に新しい契約が結ばれる決定的な時が来たのです。これが私たちの救いのための、神様の最後の切り札です。イエス様を救い主と信じ告白して、この新しい契約の入るように、神様が全ての人を招いておられます。喜んでその招きに応えたいのです。

 本日の旧約聖書はエレミヤ書31章31節以下です。古い契約に代わる新しい契約が結ばれる時が来るという預言です。旧約の中の新約と呼ばれる箇所です。イエス様の十字架の死と復活による新しい契約を予告する御言葉です。(31~32節)「見よ、わたし(神様)がイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。」イスラエルの民が古い契約を何度も破ったのです。

 そこで神様は新しい契約を結ぶことを決断されます。古い契約では契約を破った人間のために動物が血を流しました。新しい契約では、神様ご自身が人の罪の責任を背負うことを決意されます。神様の最愛の独り子イエス・キリストが、赤の他人とも言える私たち罪のために、十字架で血を流して死ぬ。神様の独り子と神様ご自身が、人の罪の責任を自ら背負って痛みを引き受ける。独り子イエス様が最大の痛みを引き受け、父なる神様は独り子の受難を天で忍耐なさる。私たちのために、神様ご自身が大きな痛みを引き受ける新しい契約を結ぶことを決断されたのです。そして私たち人間を罪から救おうとお考えになったのです。 

 (33~34節)「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家(そして世界中のイエス様を信じる人)と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す(神様の戒めを石の板にではなく、わたしたちの心に直接書きつける)。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる(これは神と人との間に契約を締結することを意味する)。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」この約束を実現するために父なる神様はイエス様を地上に送られ、イエス様は十字架の苦難を味わわれ三日目に復活されたのです。神様は約束を100%必ず守る方です。

 ルカによる福音書に戻ります。(21~22節)「『しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子(イエス様ご自身)は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。』」イスカリオテのユダのために嘆いて言われたのです。十字架の死はイエス様がこの世に誕生される前から決まっていたことです。それはユダの裏切りが大きなきっかけになって実現してゆきます。ユダは、神の子を売り渡すという非常に大きな罪を犯してしまいます。それはユダにとって大きな不幸です。「その者は不幸だ」の不幸という言葉は、もとの言葉で「ウーアイ」です。これはイエス様の呻き声です。「ああ!」と訳すこともできます。「ああ、ユダよ、何という大きな罪をあなたは犯してしまうのか。あなたは非常に不幸だ。」イエス様の深い嘆きなのです。

 この最後の晩餐は、教会の聖餐式につながっています。私たちはイエス様を救い主と信じ告白して洗礼を受けることで、神様との新しい契約に入れられます。この新しい契約に入れられた者が、イエス・キリストの尊い御体と御血潮を受ける聖餐に与ります。聖餐式は新しい契約の食事です。ですから本日の説教題を「新しい契約の食事」と致しました。聖餐式と深くかかわる御言葉で、わたしがいつも驚きをもって読むのはヨハネによる福音書6章53~58節です。最後のそこを共に読み、聖餐がどのように大きな驚くべき恵みの食事であるかを味わいましょう。

 「イエスは言われた。『はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命(永遠の命)はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これ(イエス様)は天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなもの(マナ)とは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。』」

 イスラエルの民は神様からマナを受けましたが、わたしたちはマナよりはるかに大きな恵み・聖なる神の子の御体なるパンと御血潮であるぶどう汁をいただいています。イスラエルの民より大きな恵みを受けているのです。それだけ神様からの期待を受けており、責任も大きいことを自覚したいのです。神様の御言葉を宣べ伝える使命に一層励んで参りましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-07-14 12:58:37(月)
「目を覚まして祈りなさい」 2014年7月6日(日) 聖霊降臨節第5主日礼拝説教
朗読聖書:アモス書8章9~14節、ルカ福音書21章29~38節
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(ルカ福音書21章33節)

 イエス・キリストが世の終わり・神の国の完成の時のことを語っておられます。
イエス様は、今日の箇所の直前でこう言われました。「人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子(イエス様)が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」戦争、地震、飢饉、疫病、自然災害などが、まず起こることは決まっている。それは神の国の完成までに起こる「産みの苦しみ」ではないかと思われます。これらは確かに神の国の完成の前触れですが、これらのことが全て発生したのちに、時が満ちてはじめて神の国が完成します。その時、イエス・キリストがもう一度地上においでになります。それはキリストに従う人にとって待ち望んだ最終的な解放の時、救いの時、希望の時です。

 「あなたがたの解放の時が近い」と書いてあります。時が近いだけではありません。イエス様は今、私たちのすぐ近くにおられます。聖霊としてこの場におられ、クリスチャン一人一人の中に住んでおられます。ですから私たちは、主イエス・キリストをすぐに呼び求めることができます。フィリピの信徒への手紙4章5節以下に、次のように書かれています。「主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ感謝を込めて祈りと願いとをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」今もすぐ近くにおられるイエス様に支えられて、私どもは信仰生活を続けています。

 29~33節でイエス様はおっしゃいます。「それからイエスはたとえを話された。いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」 5月の下旬ごろは、あじさいはたくさんの小さなつぼみの集合体でした。私はそれを見て、もうすぐあじさいの季節だなと感じました。6月になるとあじさいがあちこちで満開になりました。このようにして私たちは、「空や地の模様を見分ける」(ルカによる福音書12:56)のです。イエス様はルカによる福音書12:56で私たちに「今の時を見分ける」ことを求めておられます。「時のしるしを見分ける」ことを求めておられるのです。

 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」この世界はいつか滅びます。ですがイエス様の御言葉は永遠に滅びません。聖書の御言葉も永遠に滅びません。聖書の御言葉は、永遠に生きる神様の御言葉だからです。イエス・キリストを救い主と信じ、神様の御言葉に従って生きる時、私たちも永遠の命に至ります。神様の御言葉は、私たちの宝です。

 本日の旧約聖書はアモス書8章9~14節です。11~12節に注目します。
「見よ、その日(神様の審判の日)が来ればと/ 主なる神は言われる。
 わたしは大地に飢えを送る。/ それはパンに飢えることでもなく
 水に渇くことでもなく/ 主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。
 人々は海から海へと巡り/ 北から東へとよろめき歩いて  
 主の言葉を探し求めるが/ 見いだすことはできない。」
 
 パンと水がなくなることはもちろん大変です。しかし人間にとってそれと同じに、いえそれ以上に死に滅びにつながることは神様の御言葉がなくなることです。神様の最も厳しい裁きは、この世から神様の御言葉を取り上げることです。聖書を取り上げることです。この世から聖書がなくなることはぞっとする恐ろしいことです。私たちは神様の言葉を聞くことができなくなります。唯一の救い主イエス・キリストを知ることもできなくなります。どうすれば永遠の命を受けることができるかという一番重要なことが分からなくなります。私たちが手元に聖書を置いて自由に読むことができることは大変な幸福です。聖書がなくなれば、私たちの魂は飢えて死にます。永遠の命に至る道が不明になるからです。詩編119編105節の御言葉を思い出します。
「あなた(神様)の御言葉は、わたしの道の光/ 
 わたしの歩みを照らす灯。」 この灯がなくなれば、私たちの希望は失われます。

 神様が私たちから神の言葉・聖書をお取り上げになるとすれば、それは最大の裁きです。わたしたちは「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:3)ことを知っています。パンも水も大切ですが、神様の御言葉は私たちに、神様の御心に適う生き方を教えて下さる「命の言葉」です。
「人々は海から海へと巡り/ 北から東へとよろめき歩いて
 主の言葉を探し求めるが/ 見いだすことはできない。」
私たちが神様の御言葉を軽んじ、それが続けば、神様がこのような厳しい裁きをお下しになるかもしれないのです。そうならないために、私たちは神様の御言葉・聖書をどこまでも尊重し、御言葉に聴き従う者でありたいのです。

 ルカによる福音書に戻ります。イエス様は言われます。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」万一、神様が人間から神様の御言葉・イエス様の御言葉をお取り上げになるとしても、イエス様の御言葉そのものは決して滅びません。

 私は一昨年、三重県の教会の井ノ川牧師の説教を伺う機会がありました(第38回日本基督教団総会 第三日の朝の礼拝。以下、同総会議事録47~48ページより)。井ノ川先生は、アメリカのカンバーランド長老教会の女性宣教師ジェシー・ライカー先生のことから話し始められました。1913年に33才で伊勢神宮のある町に来られ、幼稚園を創立し、幼稚園・教会一筋で奉仕されたそうです。しかし太平洋戦争勃発と同時に、敵国人ということでアメリカに強制送還されました。敗戦後にライカー宣教師から幼稚園と教会に一通の手紙が届きました。そこには、「戦争をくぐり抜けて伊勢神宮の前にある教会と幼稚園が生き残ったと聞いてとても驚いています。」 そこにペトロの手紙(一)1:24~25の御言葉が書かれていたそうです。
「人は皆、草のようで、/ その華やかさはすべて草の花のようだ。
 草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」

 このライカー宣教師の志を受け継いだ婦人がおられたそうです。この婦人は太平洋戦争中に洗礼を受けられ、戦争中キリスト者としてキリスト教の幼稚園を続け、日曜日に教会で礼拝を守り続けられたそうです。井ノ川先生は説教でこう言われます。「これはまさに厳しい戦いではなかったでしょうか。男性や壮年たちは戦地に駆り出されて行く。残ったのは年老いた者と女性たちのわずかの一握りの群れです。町の人々の眼光が鋭く注がれている。礼拝の中では密かに特高警察が監視をしている。しかしそのような小さな群れを支え続けたのも、この御言葉でありました。『しかし主の御言葉はとこしえに立つ。』」イエス・キリストへの信仰が周りで嫌われる時代の中にあっても、日曜日の礼拝でイエス様を、真の神様を讃美し続ける。イエス・キリストにひたすら従い続ける。そのようにイエス様に忠実な人々がいらして、今の教会もあります。次の世代に信仰を受け渡すことが私どもの使命です。そのためにも時がよくても悪くても、礼拝を第一とする後姿を、見せてゆきたいのです。

 ルカによる福音書に戻り、進みます。(34~36節)「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日(世の終わり・神の国の完成の日)が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子(イエス様)の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」

 放縦は乱れた生活です。深酒ももちろんよくありません。深酒すると頭がぼんやりして、正しい判断ができなくなります。神様に従う精神が狂ってしまいます。イエス様がいつ来られてもよいように、いつも準備していることが必要です。いつも油断しないでイエス様に従い、意識して神様に祈りたいのです。

 先ほどイエス様が、「今の時を見分ける」ことを求めておられると申し上げました。今の時がどんな時なのか、目を覚ましている必要があります。真の神様を礼拝する自由が損なわれる時代がもう来ないように、目を覚まして祈り続ける必要があります。日本国憲法を変えてゆけば、そうなってしまう恐れはあります。今は保証されている信教の自由が、今後も守られるかどうか心配です。自民党が2012年4月27日に発表した「憲法改正草案」の前文を読んでみました。最初にこうあります。「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。」「国民主権」は明記されていますが、天皇を地位をもっと高くしようとしている印象を受けます。まさか以前のように天皇を神にすることはないと思いますが、心配になります。今の天皇ご夫妻はよい方たちですが、政治家が天皇制を利用しようとしているのではないかと心配です。私たちが愛する日本が、イエス様が願われる方向と違う方向に行かないように、いつも目を覚まして祈り続ける必要があります。

 「いつも目を覚まして祈りなさい。」イエス様がこう語られたのは火曜日と思われます。その二日後の木曜日の夜中、イエス様はオリーブ山で激しい祈りをなさいます。マタイとマルコによる福音書では、場所はゲツセマネと書かれています。この祈りの直後に、ユダの裏切りが実行され、イエス様は捕らえられるのです。イエス様はオリーブ山で弟子たちに言われます。「誘惑に陥らないように祈りなさい。」祈ることは、神様を意識することです。私たちは意識して祈ることを心掛けないと、心が知らず知らずのうちに神様から離れる恐れがあります。すると悪魔の誘惑に引きずられてしまい、「はっ」と気付いたときには誘惑に負けて罪を犯していることになりかねません。悪魔の誘惑に打ち勝つために、意識して祈ることが必要です。イエス様は、真夜中に目を覚まして一生懸命に祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」しかし弟子たちは、悲しみの果てに眠り込んでしまいました。

 この祈りの前にイエス様は、「主よ、ご一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言うペトロに言われたのです。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」ペトロがパニック状態になって自分を見失い、自己愛の本能のままにふるまってしまうことを知っておられたのです。イエス様はペトロ以上にペトロの深い部分を見抜いておられました。そのことを知った上でペトロを愛しておられました。ペトロがその大失敗の後に立ち直ることように祈っておられました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」このイエス様の祈りに支えられてペトロは立ち直りましたし、私たちの信仰もイエス様の祈りと教会の兄弟姉妹の祈りに支えられていると思うのです。祈りの大切さを思います。全然祈らないと、私たちの信仰は消えていく恐れがあります。ある人は「祈らないことは罪である」とさえおっしゃいました。確かにそうなのだと思います。

 ペトロは、一度大きくつまづきました。イエス様を三度裏切ってしまうのです。三度目の裏切りの言葉を言い終わらないうちに、突然、鶏が鳴きます。イエス様が振り向いてペトロを見つめられます。それは責める眼差しではなく、ペトロを慈しむ眼差しだったのではないでしょうか。ペトロははっとして、イエス様の言葉を思い出します。「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう。」そして自分の情けなさに耐えられず、外に出て激しく泣いたのです。自分の罪を知り、心の底から悔い改める涙です。胸を打つ場面です。「自分もイエス様を知らないと言わなかったか、そのような態度をとってことがないか」と、悔い改めを迫られる場面です。

 この新会堂を建築する前に、建築委員会でいくつかの教会を見学致しました。目白町教会を見学したとき、会堂の外に十字架と共に鶏(シンボル)が掲げられていました。そこの牧師の方の強い意向で、そうなさったと聞きました。ヨーロッパの教会にはよく塔に鶏がつけられているそうです。鶏は朝だれよりも早く目を覚まし、その鳴く声で人は眠りから目覚めます。教会の鶏は私たちにメッセージを語ります。「いつも目を覚まして祈りなさい。」教会に来るたびに鶏を見て、「いつも目を覚まして祈りなさい」というイエス様の御言葉を思い出すのです。東久留米教会の新会堂に鶏をつけませんでしたが、私たちは「いつも目を覚まして祈りなさい」というイエス様の御言葉を心に刻んでいたいのです。

 イエス様を三度裏切り、良心の痛みに耐えかねて激しく泣いたペトロは、晩年、迫害の中にあるクリスチャンたちを励ます手紙を書きました。それがペトロの手紙(一)と(二)ですが、(一)の5章8節以下をご覧下さい。
「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。」

 ペトロはかつて悪魔に負けました。その失敗を踏まえて、迫害に負けないで信仰に生きるようクリスチャンたちを励ましています。立ち直ったペトロ自身は、イエス様に従う信仰を貫いてローマで殉教しました。わたしたちもイエス様に従ってゆくのです。アーメン(「真実に、確かに」。

2014-06-30 13:15:00(月)
「いかなる像も造ってはならない 十戒②」 2014年6月29日(日) 聖霊降臨節第4主日礼拝説教  
朗読聖書:出エジプト記20章1~17節、コリント(一)10章14~22節
「あなたはいかなる像も造ってはならない。」(出エジプト記20章4節)

 本日はモーセの十戒の第二の戒めを学びます。出エジプト記20章に十戒が記されていますが、この文章をどのように10に分けるのかについて、プロテスタント教会の中でも2つの考えがあるそうです。プロテスタント教会にもいろいろありますが、本日は大きく2つに分けてみます。宗教改革の最初に登場したルター派と、少し遅れて登場した改革派(カルヴァン派)の2つです。東久留米教会は、広い意味での改革派だと思いますので、今回の十戒の学びでは改革派の分け方で話を進めます。

 ルター派と改革派で違うのは、十戒の文章のどこまでを第一の戒めとし、どこからどこまでを第二の戒めと見るかという点です。ルター派では、出エジプト記20章3節から6節までを第一の戒めとするそうです。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」が第一の戒めです。これに対して改革派では、3節の「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」が第一の戒めです。そして4~6節「あなたはいかなる像も造ってはならない。(以下略)」を第二の戒めとします。

 それではルター派では十戒にならないで九戒になってしまうのかと言うとそうではありません。改革派が第十の戒めと考える17節を二つに分けます。改革派では、「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」を第十の戒めと考えますが、ルター派では前半の「隣人の家を欲してはならない」を第九の戒めとし、後半の、「隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」を第十の戒めとします。

 今回の学びでは改革派の分け方を採用致します。ですから第二の戒めは、「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」 この地上・空(天)・海の中のものは全て神様に造られたもの・被造物です。お造りになった神様と造られたものは、全く異なる存在です。被造物は神ではありません。栄光に満ちた神様を、被造物の形・像に造って、これを神として拝んではならないのです。それは栄光の神様を被造物のレベルに引き落とす罪深いこと、神様の至高の尊厳を冒涜することです。

 人間は、見えるものがあると安心します。そこで神様をも目に見える像に刻みたくなるのです。ですがそれは、神様を自分に都合のよい存在にすることではないでしょうか。神様を、人間の都合通りに動いてくれる人形にしてしまうことではないでしょうか。人間が主人となり、神様を僕にしてしまうことです。それでは本末転倒です。神様が主であって、私たち人間は神様に従順に従う存在です。父なる神様は霊であって、体を持っておられません。目に見えない方です。目に見えない方を見える像に刻むことはそもそも不可能で、見えない方のままとして礼拝することが必要です。では神様は、どのようにしてご自分を私たちに現して下さるのでしょうか。それは聖書の御言葉によってです。神様は聖書の御言葉によって、ご自分がどのような方であるか、ご自分がどのような意志を持っておられるかを私たちに示して下さいます。ですから聖書をよく読むことが大切になります。

 宗教改革が行われた16世紀、当時のカトリック教会の礼拝堂にはいろいろな像があったのかもしれません。いろいろな聖人の像があって、もしかすると神様のほうが目立たなくなっていたかもしれませんね。宗教改革者は聖書の御言葉の重要さを強調し、自分たちの礼拝堂から像を取り除いたのだと思います。宗教改革第一世代のルターは、それでもカトリック的なものを少し残したとも言われます。ルター派の礼拝堂には装飾的な要素が残っていたと聞いた記憶があります。

 宗教改革をさらに徹底して進めたのは、少し遅れて登場したカルヴァンです。カルヴァン系の教会を改革派と呼びます。改革派の教会は、礼拝堂から装飾を除き、聖書のみを強調する簡素な(悪く言えば殺風景な)礼拝堂を実現したそうです。ひたすら聖書を説く説教を重視しました。聖書一本で勝負する教会を作ったのです。改革派という名は、「聖書の御言葉によって絶えず改革される教会」という意味です。プロテスタント教会だから絶対正しいとは言えません。プロテスタント教会の信徒や牧師も間違いを犯すことはあります。そこでいつも聖書を読み、聖書によって誤りを正し、神様に喜ばれる教会を作ろうと心掛けたのです。

 私たちは、見える像を刻まなくても、頭の中で「神様は、このような方ではないかな」と自分の考えで神様を造ることがあります。それを完全にやめることはできませんが、しかし場合によっては自分勝手な神様のイメージを造り上げることがあり得ます。ですからやはり聖書を読んで、神様がどのような方か、聖書から学ぶことが必要です。申命記4章15節にこんな御言葉があります。モーセがイスラエルの民に語る御言葉です。「主がホレブ(シナイ山)で火の中から語られた日、あなたたちは何の形も見なかった。」神様がシナイ山で十戒の言葉を語られた日、民は神様の何の形も見なかったのです。神様には形がなく、ただ神様の御言葉だけが語られました。神様に形はないのですから、像に刻むことは不可能です。神様は今の時代、聖書の御言葉によって私たちに語りかけて下さいます。神様の御心を尋ね求めて、祈りながら聖書を読むことはよいことです。私たちは聖書を通して、あるいは聖書に基づく説教を通して、目に見えない神様の御言葉を聞き続けてゆくのです。

 イスラエルの民の栄誉は、神様によってエジプトから救い出され、聖なる十戒をいただいたことです。ところがイスラエルの民は、すぐに大きな罪を犯してしまうのです。民はモーセがシナイ山に登って神様から尊い十戒をいただいている時に、神様とモーセを信頼せず、金の子牛の像を造ってしまうのです。早速第二の戒めを破ってしまったのです。その場面は出エジプト記32章に出ています。有名な堕落の場面です。

 「モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロン(モーセの兄)のもとに集まって来て、『さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか、分からないからです』と言うと、アロンは彼らに言った。『あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。』民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を作った。すると彼らは、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ』と言った。アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、『明日、主の祭りを行う』と宣言した。彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。」

 モーセの兄アロンが、人々の金の耳輪によって若い雄牛の鋳像を作ったのです。雄牛は繁殖力のシンボルです。人々は、偶像・偽物の神・繁栄の神を作って礼拝したのです。真の神様の真の祝福よりも、露骨に繁栄と欲望の充足を求めたのです。そして性的にも堕落しました。あさましい姿です。人間は一つ間違えるとこのように堕落してしまうので、私どもも心したいと思います。この場面で悪魔は表面に登場しませんが、悪魔が働いています。悪魔が民とアロンを誘惑し、民もアロンも誘惑に負けてしまったのです。民がアロンに、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください」と要求したときに、アロンは「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と神様はおっしゃる」と言うべきでした。イエス様が荒れ野で悪魔から誘惑をお受けになったときに、そうおっしゃって悪魔を撃退されたようにです。しかしアロンは真の神様の戒めに従わず、イスラエルの民の不当な要求に負けてしまったのです。

 「あなたはいかなる像も造ってはならない。」私たちは礼拝堂に刻んだ像を置いて、それを礼拝することはないでしょう。しかし偶像とは何でしょうか。それは私たちが本音の部分で一番頼りにしているものです。私たちが本音の部分で一番頼りにしているものは、もしかするとお金かもしれないのです。その場合は、お金を偶像として崇めていることになります。生活にある程度のお金は必要ですが、お金を神様としないように注意する必要があります。ルターは言ったそうです。「今あなたが、あなたの心をつなぎ、信頼を寄せているもの、それが本当のあなたの神なのである」(近藤勝彦『十戒、その今日的意味を学ぶ』日本伝道出版株式会社、1997年、29ページ)。

 私たちはいつも偶像崇拝の誘惑にさらされていますから、自分の信仰が弱まったと感じたなら、神様に意識的に祈ることが大切だと思うのです。そして「私に必要なものはすべて真の神様からのみ来る」と真の神様に100%信頼し、意識的に真の信仰に立ち帰ることが必要です。私たちは、自分を真の神様から引き離そうとする悪魔と戦い、誘惑に負けそうになる自分と戦います。聖霊の助けを祈り求めることが不可欠です。真の神様への信仰がふらついたとき、聖書を読み、神様に助けを祈り求めたいのです。特別に休む理由がないのに「礼拝に休もうか」、と心が弱くなることもあります。そのような時こそ、意を決して礼拝に出席したいものです。真の神様を思い祈っていないと、私たちの信仰は薄まり、弱まってしまいます。

 神様は5節で、「わたしは熱情の神である」と宣言されます。口語訳聖書では、「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神である」と訳されています。「ねたむ神」が直訳なのでしょう。普通、「ねたみ」、「嫉妬」は悪いことと考えます。ですから神様が「わたしは、ねたむ神である」と宣言なさると私たちは戸惑い、驚きます。この神様の愛がおとなしい愛ではなく、非常に熱情的で激しい愛であることを「ねたむ」という言葉で表現したのです。聖書はしばしば、神様を花婿(夫)にたとえ、神の民を花嫁(妻)にたとえます。イスラエルの民もキリスト教会(私たち)も神様の花嫁であり、神様に非常に深く激しく愛されているのです。その花嫁である私たちが偶像・ほかの神々(偽物の神々)を礼拝すれば、それは霊的な姦淫・不倫の罪になります。私たちが万一偶像礼拝をするならば、神様の熱情的な愛を裏切ることになり、神様は深く傷つかれ悲しまれ、聖なるお怒りに満たされます。神様は、私たちが花嫁の愛で神様を熱心に愛することを求めておられるのです。

 旧約のイスラエルの民は、十戒を受けるか受けないかの段階で、早くも金の子牛の像を造り、神様を裏切りました。約40年後に約束の地・カナンに入りますが、そこでも真の神様を礼拝することを忘れ、豊かな農業収穫を約束するバアルという偶像・偽物の神を拝みます。経済という偶像、自分の欲望を満たしてくれる偶像を拝んだのです。偶像の正体は悪魔です。エレミヤ書2章2節に、神様の悲しみと嘆きの言葉が記されています。
「わたしはあなた(イスラエルの民)の若いときの真心/ 花嫁のときの愛/ 
種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす。」

 イスラエルの民が荒れ野でいつも従順だったわけではないのですが、エジプトから解放されて神様に感謝し、神様が語られたことをすべて行うと約束したイスラエルの民の、「最初の純粋な新妻としての愛を思い起こす」と、神様が嘆いておられるのです。胸打たれる言葉です。

 ヨハネの黙示録2章3~4節にも似た御言葉があります。復活されたイエス様が、小アジア(今のトルコ)のエフェソという都市にあるキリスト教会に対して、こうお語りになります。
「あなたはよく忍耐して、わたし(イエス様)の名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」

 エフェソ教会の人々と私たちを愛して、十字架で死んで下さったイエス様への初めの愛から、エフェソ教会の人々が離れてしまった。これは花婿イエス様が、花嫁である教会をもう一度招く言葉です。「初めのころの花嫁の愛に立ち帰ってほしい」と。私たちが礼拝に出席するのは、愛して下さるイエス様と父なる神様への愛を表すことなのです。イエス様と父なる神様は、私たちの礼拝出席を非常に喜んで下さいます(もちろん、やむを得えない事情で礼拝に出席できない方々がおられることを、私どもは了解しています)。 私たちが信仰告白をし洗礼を受けたとき、イエス様と父なる神様は深く喜んで下さいました。私たち自身も洗礼を受けたとき、非常に感激しました。ですが残念ながら、私たちは少しずつイエス様から離れてしまうことがあります。その時には、洗礼を受けた初心に立ち帰ることが必要ではないでしょうか。初心に立ち帰ることを、イエス様も父なる神様も深く喜んで下さいます。

 私たちが大きくイエス様から離れていない場合でも、神様は東久留米教会において毎年15回も聖餐の時を用意して下さり、私たちがイエス様の十字架の愛に感謝して「初めの愛」、初心に帰るチャンスを備えていて下さいます。聖餐式に出ることができない場合でも、私たちは祈るたび、礼拝に出席するたびに、イエス様への最初の愛に立ち帰るのです。

 本日の新約聖書は、コリントの信徒への手紙(一)10章14~22節です。使徒パウロが、ギリシアの都市コリントの教会に出した手紙です。コリントの中央にギリシア神話の男神アポロの神殿、南の山にギリシア神話の女神アフロディーテの神殿がありました。共に偶像の宮です。アフロディーテは生殖・豊穣の女神だそうです。清い女神でないのです。コリントには神殿娼婦が千人もいたそうで、風紀が非常に乱れていました。コリント教会のクリスチャンまでもが、道徳的に乱れていた可能性がある偶像の神殿の宗教儀式に参加していたようです。そのようなコリント教会の人々にパウロは悲しみを込めて警告しています。14節「わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。」

 神殿娼婦が千人もいるというコリントの神殿は性的に乱れており、悪魔・悪霊の巣窟です。悪魔・悪霊がそこを支配しているのは明白です。そこの儀式に参加すれば間違いなく悪魔・悪霊の悪影響を受けます。清い真の神様の救いに与り、清い真の神様を礼拝するクリスチャンが、汚れた悪霊に満ちた儀式(礼拝)に参加することは避けなければなりません。パウロはこのようにコリント教会の未熟なクリスチャンたちを警告しています。

 16節「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。」これは聖餐のことです。コリント教会のクリスチャンたちも私たちも、聖なる礼拝の場でイエス・キリストの聖なる血潮を飲み、イエス・キリストの聖なる体をいただきます。聖餐は聖なる食事、聖なる礼拝の頂点とも言えます。イエス様の私たちへの愛の結晶である聖なるぶどう汁と聖なるパンをいただく私たちが、アポロやアフロディーテという道徳的に乱れた偶像の神殿の汚れた儀式(礼拝)に参加することは、悪霊の仲間になること、花婿イエス様を裏切ること、霊的な姦淫・不倫だとパウロは警告するのです。

 
 17節「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」教会はイエス・キリストの体です。そして一人一人がイエス様の花嫁です。そしてパウロは18節でこう述べます。「肉によるイスラエルの人々(旧約のイスラエルの民)のことを考えてみなさい。供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか。」やや分かりにくいのですが、要するにコリント教会のクリスチャンに、偶像の神殿の汚れた祭壇(偶像礼拝の中心部分)での汚れた礼拝行為にかかわるなということです。

 19節「わたしは何を言おうとしているのでしょうか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか。」偶像そのものは木か石かで造った物体でしかないとも言えます。偶像は人を救う力を持っていません。しかし偶像が礼拝される場には、悪魔の影響力が存在するとパウロは警告します。それが20節です。「いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げているという点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません。」 21節「主の杯(イエス様の聖餐の杯)と悪霊の杯(偶像礼拝での宗教的飲食)の両方を飲むことはできないし、主の食卓(聖餐)と悪霊の食卓(偶像礼拝での宗教的食事)の両方に着くことはできません。」それは花婿イエス様を深く傷つける霊的な不倫なのです。

 そこでパウロは22節で強く述べます。「それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか。わたしたちは、主より強い者でしょうか。」 第二の戒めにおいて、神様の「熱情、ねたみ」のことが言われていました。「あなたはいかなる像も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。」コリント教会の人々が霊的な不倫である偶像礼拝を行っていれば、それは花婿イエス様と父なる神様と聖霊を深く傷つけ、第二の戒めを破る罪となり、真の神様の深い悲しみと聖なる怒りを招く、だから偶像礼拝をしてはならないとパウロが強く訴えるのです。私たちもこのパウロの真実の訴えを十分に心に刻んで、三位一体の神様のみを礼拝する純粋な信仰の歩みを続け、全うしたいのです。

 私が今年の3月に出席した日本基督教団主催の東日本大震災国際会議(仙台市・東北学院大学にて)の会議後に発表された宣言文では、福島の原発事故を「七つの罪」の結果であると告白しています。「傲慢、貪欲、偶像崇拝、隠ぺい、怠惰、無責任、責任転嫁」の「七つの罪」です。第三に偶像崇拝が挙げられていますが、この点について、次のように詳しく述べられています。「貪欲に陥ったわたしたちは、生ける真の神に依り頼むのでなく、経済的利益や富を至上の価値としてあがめ、それに仕える『偶像崇拝』の罪に陥りました。『貪欲は偶像礼拝にほかならない』(コロサイの信徒への手紙3章5節)のです。原子力発電所や核燃料サイクル基地は、まさにこの偶像崇拝の神殿というべきものであり、これらの施設は科学技術への、根拠のない安易な信頼という非科学的思考に基づく『安全神話』によって維持されてきました。」

 私たちは貪欲という偶像礼拝に陥りやすいのです。「あなたはいかなる像も造ってはならない。」真の神様は目に見えませんが、確かに生きて働いておられます。真の神様に祈ることと聖書を読むこと、そして礼拝を重んじて、偶像礼拝の誘惑に打ち勝つ歩みを続け、全うさせていただきたいのです。アーメン(「真実に、確かに」。

2014-06-22 18:09:41()
「ほかに神があってはならない 十戒①」 2014年6月22日(日) 聖霊降臨節第3主日礼拝説教
朗読聖書:出エジプト記20章1~17節、マタイによる福音書4章1~11節
「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」(出エジプト記20章3節)

 出エジプト記20章には、モーセの十戒が記されています。これから出エジプト記を読む礼拝で、十戒を1つ1つとりあげて学ぶ予定です。1~2節に十戒の前文とも呼ぶべき文がございます。「神はこれらすべての言葉を告げられた。『わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。』」まずここに神様の大きな愛が語られています。神様はイスラエルの民を愛し選び、エジプトでの奴隷生活から救い出して下さいました。これは何と言っても、イスラエル民族の原点です。イスラエルの民はいつもこの原点に立ち帰り、神様の偉大な愛に感謝することが必要なのです。この愛に応えるためにどのように生きることがよいのか? それを神様が教えて下さったのがモーセの十戒です。前半の4つの戒めは、この神様を愛する生き方を教えます。そして後半の6つの戒めは、隣人を愛する生き方を教えています。新約聖書の中でイエス・キリストは、「神様を愛し、隣人を愛する」ことが最も重要だとお教えになりました。この十戒を守って生きることは、イエス様の教えを実行することになります。

 3節に「第一の戒め」が書かれています。本日はここに集中します。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」 この神様が天地創造をなさった真の神様です。この神様がイエス・キリストの父なる神様です。ほかに神様はおられません。世の中にいろいろな宗教があり、「神」と呼ばれるものが多くありますが、聖書の神様が真の神様です。ほかに神はないのです。この点は、ユダヤ教徒にとってもクリスチャンにとっても同じです。違うのはユダヤ教徒は、イエス・キリストを救い主と信ぜず、神とも信じないけれども、私たちクリスチャンはイエス・キリストを救い主と信じ、イエス・キリストを人の子であると同時に神の子であり、父・子・聖霊なる三位一体の神であると信じる点です。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」私たちが日曜日ごとに礼拝を献げるのは、この唯一の神様への愛を表明するためです。

 この第一の戒めを読むとき、私が思い出すのは申命記6章4~5節です。イスラエルの民が非常に大切にして来た御言葉です。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」これこそ、第一の戒めを見事に言い換えた御言葉です。
 
 第一の戒めを文語訳聖書で読むと、こうなっています。もとの言葉・ヘブライ語に非常に忠実な訳です。「汝、わが顔の前に、我のほか何物をも神とすべからず。」神様は単に「わたし」とは言われず、「わたしの顔の前で」とおっしゃっているのです。信仰生活、十戒を守る生活は、いつも生ける「神様の御顔の前で」生きる生活です。私たちの生活のすべてを見ておられ、私たちの心の中をもすべて見抜いておられる、生きておられる神様の御顔・視線を常に意識する生活です。宗教改革者ジャン・カルヴァンが「神の前で」生きる信仰を愛し強調したそうです。カルヴァンは「神の前で」をラテン語で語ることを好んだそうです。「コーラム・デオ」という言葉です。「コーラム」が「前で」、「デオ」が「神」です。「コーラム・デオ」がカルヴァンの口癖だったそうです。生きている神様の目の前で私たちは生きている。このことを常に自覚し、他人にもそれを求めたのです。真の神様をひたすら畏れ敬って生きるのです。「汝、わが顔の前に、我のほか何物をも神とすべからず。」この第一の戒めをいつも意識して生きるのです。

 なぜかと言うと、この神様が全世界を創造され、私たち一人一人に命を与えられたからです。私たちに必要なものは全部この神様から来ます。収穫感謝日によく歌う讃美歌21・386番の歌詞に、「良いものみな 神から来る。その深い愛をほめたたえよう」とあります。この神様からのみ、すべての恵みが来るのです。私たちは間違えてはならないのです。ほかの「神々」と呼ばれるものから恵みがくることはないのです。この神様にのみ祈るのです。ほかの「神々」と呼ばれるものが祈りに応えることはないのです(と言うと、他宗教の方からお叱りを受けるでしょうが、しかし確かにそうなのです)。

 プロテスタント教会で愛用されている『ハイデルベルク信仰問答』という信仰問答があります。1563年に出版されています。その「問94」は次の問です。

「第一戒で、主は何を求めておられますか」(吉田隆訳『ハイデルベルク信仰問答』新教出版社、2002年、90ページ)。この問いへの答えは次の通りです。
「わたしが自分の魂の救いと祝福とを失わないために、あらゆる偶像崇拝、魔術、迷信的な教え、諸聖人(カトリックへの対抗)や他の被造物(太陽、月、星など)への呼びかけ(祈り・礼拝)を避けて逃れるべきこと。唯一のまことの神を正しく知り、この方にのみ信頼し、謙遜と忍耐の限りを尽くして、この方にのみすべてのよきものを期待し、真心からこの方を愛し、畏れ敬うことです」(同書、90ページ)。

 よい言葉です。「この方にのみ信頼し、謙遜と忍耐の限りを尽くして、この方にのみすべてのよきものを期待し、真心からこの方を愛し、畏れ敬うことです。」すべての恵みは、この神様からのみ来ることを強く信頼するのです。

 「この方だけを礼拝する」と言うと、堅苦しい窮屈な世界に閉じ込められるという思いを持つことがあると思うのです。ですが、この神様が世界を創造され、今もこの世界を支えておられ、やがてこの神様の国が完成するのですから、この神様に喜んでいただけるように生きることが最も意味があり、価値あることです。世の中にいろいろな楽しみがあり、それはサッカーやディズ二ーランドであったりして、確かに一時的に楽しみを与えてくれますが、残念ながらそれらは永遠の命・永遠の喜びを与えてはくれません。いつかは消え去ってしまうものです。真の神様は、私たちに真の愛と平安と永遠の命を与えて下さいます。ですから私どもは、この神様を礼拝することを真の喜びとし、第一の戒めを守ることを喜びとするのです。古代教会の信仰の指導者となったアウグスティヌスも神様に向かって告白しています。「あなたは、わたしたちをあなたに向けて造られ、わたしたちの心は、あなたのうちに安らうまでは安んじない」(アウグスティヌス著・服部英次郎訳『告白・上』岩波書店、2012年、5ページ)。情欲、名誉欲などこの世の欲望を必死に追いかけて来た彼でしたが、真の平安が真の神のもとにしかないことを発見したのです。

 本日の新約聖書は、マタイによる福音書4章1節以下です。イエス様の「荒れ野の誘惑」の場面です。悪魔が神の子イエス様を、父なる神様から引き離そうと誘惑します。その3つ目の誘惑を見ましょう。(8~11節)「更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたし拝むなら、これをみんな与えよう』と言った。するとイエスは言われた。『退け、サタン。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある。』そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。」悪魔はイエス様を強力に誘惑しました。「わたしを拝むなら、世のすべての繁栄する国々を与えよう。権力を与えよう。権力者になれ」と。しかしイエス様ははっきり「退け、サタン」と命じられ、悪魔を撃退されました。権力者になるのではなく、真の神様だけを拝み、真の神様だけに地道に奉仕する道こそ、真の祝福の道だと知っておられるのです。イエス様は、マタイによる福音書6章24節では、こう言っておられます。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽ろんずるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

 私たちが感じることは、私たちの国においてこの信仰を貫くことは簡単でない場合があることです。日本のキリスト教会の歴史で有名な出来事の1つは、内村鑑三先生の不敬事件です。1891年(明治24年)1月9日、第一高等中学校の新年の授業開始にあたり「教育勅語奉読式」が行われました。嘱託教員であった内村先生は、教育勅語の前に三番目に出て、千人以上の教員と生徒の前で奉拝することになりました。31歳の内村先生は謹厳に教育勅語の前に出ましたが、「信仰に基づく良心が彼を内側から束縛し、ためらいながら、瞬間的に決断して~礼拝的低頭をせず、チョット頭をさげたのである。~ためらいながら、礼拝を拒否して、チョット頭を下げたのである」(小沢三郎『内村鑑三不敬事件』。富岡幸一郎『内村鑑三』五月書房、2001年、39ページより孫引き)。ささいな出来事とも言えますが、深く頭を下げなかったことへの非難が学校内の教員や生徒から起こり、マスコミに取り上げられ全国に広まったそうです。内村先生は最初の妻と離婚して再婚した後でしたが、内村先生この出来事で強い批判を受けて肺炎になり、結婚したばかりの妻は、内村先生の看病と事件の心労で病気になり、4月に亡くなります。ご存じの通り、その2年前に発布された大日本帝国憲法では、第3条で「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と規定しています。どう考えても第一の戒め「あなたにはわたしをおいてほかに神があってはならない」と矛盾します。ですから明治・大正、そして昭和20年の敗戦までのクリスチャンは非常に苦労されたと思います。

 そして太平洋戦争の頃の朝鮮半島の教会を苦しめたのが神社参拝問題です。日本政府は「神社は宗教ではない」とでまかせを言って日本や韓国のクリスチャンに神社参拝を求めました。残念ながら日本の教会の指導者が朝鮮に行って「神社は宗教ではない」と言って参拝するように説得したそうです。その時、朱基徹(チュ・キチョル)牧師という方がはっきり反対して「神社参拝は、モーセの十戒の第一の戒めに反する」と語りました。「基徹」というお名前は「キリストに徹する」という漢字です。そのような状況で、神社参拝をしたクリスチャンも出ましたが、偶像崇拝であることを悟り神社参拝を拒否して殉教するクリスチャンも出ました。朱基徹牧師も殉教なさったのです。

 朱牧師は獄に入れられますが、7ヶ月ぶりに釈放されて、1939年2月に教会の日曜礼拝で「私の五つの祈り」という説教をなさいました(以下、朱光朝著・野寺恵美訳『岐路に立って 父・朱基徹が残したもの』いのちのことば社、2012年、127~137ページより)。純粋な信仰に圧倒される、ものすごい祈りです。

 第一の祈りは「死の力に勝たせてください」です。「主を捨ててたとえ百年、千年生きたとしても、その人生に何の意味があるでしょうか。この命を惜しんで主を辱めるようなことがありませんように。この身が粉々になろうとも、主の戒めを守ることができますように。~わが愛する教会のみなさん、キリスト者は生きてもキリスト者らしく生き、死んでもキリスト者らしく死なねばなりません。~私は私の主以外の神々の前にひざまずいて生きることはできません。汚れて生きるより、むしろ死んでまた死んで主に対して貞節を守ろうと思います。」神社参拝はできないということです。

 第二の祈りは、「長い苦しみに打ち勝たせてください」です。「愛する教会の皆さん。『今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます』(ローマ八・一八)。今受ける苦しみは長くとも七十年ですが、将来受ける栄光は、千年、一万年、永遠なのです。」

 第三の祈りは、「年老いた母と妻子と教会の兄弟姉妹を主にお委ねします」です。「人は、自分の身に受ける苦しみは耐えることができますが、親や妻子を思うと鉄のような心も変わってしまう場合が多々あります。~人間の複雑に絡み合っている情の糸よ、私を縛りつけるな。~親や妻子をイエスより愛する者は、イエスにふさわしい者ではありません。」

 第四の祈りは、「義のために生き、義のために死なせてください」です。「キリストの花嫁は、他の神々に貞節を与えることができません。私は若い時からイエスにあって育ち、イエスに献身すると何十回、何百回と誓いました。」

 第五の祈りは、「私の魂を主の御手にお委ねします」です。「主、イエスよ。わが魂を主にお委ねします。十字架を握って倒れるとき、わが魂をお受けください。獄中でも、死刑場でも、わが命が切れるとき、わが魂をお受けください。」朱牧師はその後、捕らえられ、あくまでも神社参拝を拒んで第一の戒めを守り抜き48歳で獄中で亡くなります。ひどい拷問の末に亡くなったのですから殺されたのと同じです。

 第一の戒めを完全に守ることは簡単ではありません。私たちは十戒の一つの戒めさえ、完全に守ることができない罪人です。宗教改革者カルヴァンは、礼拝のはじめの方で十戒を唱えることを求めたそうです。そして一つの戒めを唱えるごとに、皆で「キリエ・エレイソン」とギリシア語で歌うことを求めたそうです。「キリエ・エレイソン」は、「主よ、憐れみたまえ」という意味です。一つの戒めを唱えるごとに、その一つをさえ完全に守ることができない自分の罪を自覚します。ですからどうしても「キリエ・エレイソン」、「主よ、憐れみたまえ」という祈りに導かれるのです。十戒を100%守って生きられた方は、ただイエス様お一人です。イエス様は、十戒を守ろうと必死に努力しても、完全に守ることができない私どもの全ての十戒(律法)違反の罪の責任を背負い、十字架で死んで下さいました。そして復活されました。イエス様を救い主と信じる人は、十戒を守れなくとも、すべての罪の赦しと永遠の命をいただくことができます。

 ちなみに、律法(その代表が十戒)には3つの役割があることを、宗教改革以来、プロテスタント教会は信じて来ました。これを「律法の三用法(役割)」と呼びます。

 第一は「市民的用法(役割)」です。これは、私たちが十戒を行うことによって、社会で善と正義と愛が行われ、秩序が保たれ、社会が清く保たれるということです。実際、私たちを含め世界中の人が十戒を実行すれば、犯罪も戦争もない、非常によい社会になります。 第二は、「教育的用法(役割)」です。これは先ほど述べたことと同じで、一つ一つの戒めをよく学ぶことで自分がそれを一つも守りきれていないことを自覚し、私たちが罪人(つみびと)であるとの自覚を与え、自分の努力では救われないことを悟らせ、真の救い主イエス・キリストを求めるように導くことです。 第三は、「倫理的用法(役割)」です。これはイエス・キリストを救い主と信じて、すべての罪の赦しと永遠の命を受けた人が、聖霊に助けられて十戒を守ってイエス様に従い、愛の業に励み、清い生活をすることです。このようにプロテスタント教会では、律法(十戒)にこのような3つの役割があると信じて来たのです。

 私が神学生であった1993年3月に、学校のアジア伝道論という授業の一環で、10名ほどで約10日間、台湾の教会や神学校(計約30)を訪問したことがあります。花蓮という場所だったと記憶しているのですが、教会の牧師の方が、「この場所には太平洋戦争の頃、日本の神社が建っていました。今は神社はなく、キリスト教会が建っています。偶像の宮だった所が、真の神様の宮になりました」と嬉しそうに語られました。
 
 最後に、列王記下5章を見ます。アラム人ナアマンは、真の神様によって重い皮膚病を癒される奇跡を体験しました。そこで「僕(しもべ)は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません」と決心します。真の神様だけを礼拝すると言ったのです。ですがナアマンには立場上、そのようにできない場合があるのでした。そこで苦しかったでしょうが、預言者エリシャにこう述べます。「わたしの主君がリモン(偶像)の神殿に行ってひれ伏すとき、わたしは介添えをさせられます。そのとき、わたしもリモンの神殿でひれ伏さねばなりません。わたしがリモンの神殿でひれ伏すとき、主がその事についてこの僕を赦してくださいますように。」エリシャは「安心して行きなさい」と言います。

 もちろん偶像崇拝は罪ですし、第一の戒めを守ることは信仰の基本中の基本です。ですが、日本のクリスチャンも心ならずもナアマンに似た立場に置かれることがあります。唯一の神様への信仰を強く心に持ちながら、心ならずもナアマンのように行動せざるを得ない場合があるでしょう。聖書にこのエピソードが記されているのは、神様の憐れみと感じます。ですが、このエピソードをいつも言い訳に用いて、自分の信仰をなくすことも避けるべきです。私どもの信仰はあくまでも「汝、わが顔の前に、我のほか何物をも神とすべからず」という第一の戒めを守る信仰です。どうか神様が、私たちが生涯この信仰を貫くことができるように、助けて下さいますように。アーメン(「真実に、確かに」)。