日本キリスト教団 東久留米教会

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2014-04-15 22:30:53(火)
「御心が行われますように」 2014年4月13日(日) 受難節第6主日礼拝説教
朗読聖書:イザヤ書52章13節~53章12節、マルコによる福音書14章32~42節 
「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
                   (マルコによる福音書14章36節)

 私たちキリスト教会は今、受難節を過ごしています。受難節はイースターの前の、日曜日を除く40日間です。日曜日を除くのは、日曜日は毎週基本的にイエス様の復活を祝う日の意味があるからです。教会の暦に「灰の水曜日」がありますが、毎年この日から受難節に入ります。灰は悔い改めのシンボルです。西洋や南米にはカーニバルという風習があります。日本語で謝肉祭と訳します。この風習はゲルマン民族の風習にさかのぼるという説もるようですが、キリスト教会ともかかわりがあります。受難節はイエス様の十字架を強く心に刻む期間なので、伝統的に肉や卵をあまり食べないなど禁欲と節制が強調される期間です。その前の7日間ほど大いに飲み食いして楽しんでおこうというのがカーニバル・謝肉祭の起源であるそうです。ですから受難節の精神とは反対のこと、人間の欲望を充足させるための世俗的な祭りと言えるでしょう。今週は受難節の最後の一週間、イエス様の十字架を特に強く強く心に刻む受難週です。木曜日と金曜日に受難週祈祷会を行いますので、ぜひご出席下さい。

 マルコによる福音書14章の最初の32節。「一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、『わたしが祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。」ゲツセマネとは「油搾り器」の意味です。イエス様はここで、まさにご自分の心と体を搾るような祈りを献げられたのです。ルカによる福音書には、「汗が血の滴るように地面に落ちた」と書かれています。それほど真剣に、まさしく全身全霊を込めて祈られました。

 (33~34節)「そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。』」ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人は12弟子の代表です。イエス様は非常に重要な場面では、特にこの三人を伴われます。イエス様は、非常な恐れと悲しみに満たされておられました。これまでにはなかったことです。イエス様は十字架が目前に迫っていることを知っておられました。弟子たちはそのことに全く気付いていませんでした。イエス様は十字架刑の恐ろしさをよく知っておられました。しかしイエス様にとっての恐れは、肉体の痛みだけではないのです。
イエス様は、死の本当の恐ろしさを知る唯一の方です。死の本当の恐ろしさとは、父なる神様から切り離されることです。

 創世記にエバとアダムがエデンの園から追放された記事があります。あの話に示されているように私たちは皆、罪人(つみびと)であり、神様から離れています。ですから神様から離れている状態に悪い意味で慣れてしまっており、平気になり鈍くなってしまっている面があります。ですがエバとアダムは、神様のもと(エデンの園)から追放されたとき、本当に「しまった」と思ったでしょうし、非常な苦痛を感じたでしょう。イエス様は神の子であり、一瞬も父なる神様から離れることなく、常に父なる神様と心を一つにして歩んで来られました。死とは、その父なる神様から完全に切り離されることです。肉体の痛みよりも恐ろしいのはこのことです。イエス様にとって死は、私たちにとって死が恐ろしいより、はるかにずっと恐ろしいはずです。「生木を裂くように」父なる神様と一体のつながりが裂かれる恐ろしさと悲しみです。私たちはイエス様ほど父なる神様と一心同体に生きていないので、死の本当の恐ろしさが分からなくなっているのです。

 イエス様のこの恐れは十字架の上でも続きます。それでイエス様は十字架上で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。新約聖書のヘブライ人への手紙5章7節に次の御言葉があり、これはゲツセマネの祈りと十字架上での叫びのことを述べていると思います。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」「聞き入れられた」とは、復活という良き報いを与えられたことでしょう。

 ルカによる福音書に戻りますが、イエス様は34節でペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人に「ここを離れず、目を覚ましていなさい」と言われました。三人の弟子たちに近くで共に祈っていてほしいと願われたのです。目を覚まして祈り続けていないと、悪魔の誘惑に簡単に負けて罪を犯してしまうのです。 (35~36節)「少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。』」 「アッバ」は、イエス様たちが日常的に話しておられたアラム語(ヘブライ語の兄弟言語)で父親に親しく呼びかける言葉だそうですね。「パパ」とほとんど同じです。イエス様と父なる神様の親しさ、近さがよく分かります。私たちもイエス様と同じに「アッバ、父よ」と祈ることが許されています。ローマの信徒への手紙8章15節にこう書かれています。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊(聖霊)を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」真に光栄なことです。

 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」「この杯」は十字架です。イエス様は神の子であると同時に人間です。「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」、「この杯をわたしから取りのけてください」は、人間としてのイエス様の正直な気持ちです。ですがこの直後に決然と「しかし」とおっしゃいます。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られたのです。「わたしの正直な願いはこうですが、しかし最終的にはあなたの御心に従います」とはっきり祈られたのです。見事な言葉です。イエス様の心の中には非常に激しい戦いがありました。厳しい葛藤がありました。しかし、「父なる神様の御心に従う」決意が勝ったのです。イエス様の十字架に向かう覚悟・雄々しい決意が明確になってゆきます。私たちも様々な祈りを祈り、様々な願いを持ちます。ですが最後には「神様、あなたの御心に適うことが行われますように」との祈りで締めくくりたいものです。イエス様の祈りは、私たちの祈りの模範です。

 (37~38節)「それから戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。『シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。』」一時は、約2時間のことだと聞きました。イエス様の一回目の祈りは約2時間だったことになります。イエス様はペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人に「目を覚ましていなさい」と言われたのですが、深夜のことで弟子たちは睡魔に負け、眠りこけていました。ここはイエス様の人生の最大のヤマ場、正念場です。私たちも仕事の正念場では徹夜することもあるでしょう。ですがイエス様の最大の正念場で、弟子たちは目を覚まして祈り続けることができませんでした。神様に従い続けることができなかったのです。これは残念ながら私たちの姿でもあります。

 悪魔が弟子たちを誘惑して、眠りこけるように仕向けたのです。私たちは毎日徹夜することはできませんが、少なくとも信仰の正念場では目を覚まして神様に祈り続けたいものです。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」私たちはいつも神様に従う自覚をもって生きていないと、悪魔の誘惑を誘惑とも気づかずに誘惑に負けてしまいます。神様に従う生き方を貫く強い気持ちを持っていないと、私たちは簡単に安易な道に逸れて、神様に従う道から外れてしまいます。そうならないために毎日聖書を読み、毎日祈り、毎週の礼拝に出席する強い意志を貫くことが必要です。「心は燃えても、肉体は弱い。」残念ながらこれも私たちの現実です。イエス様は弟子たちと私たちの弱さをご存じなのです。「心が燃えていて、肉体も強い」方はイエス様です。

 (39節)「更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。」「この杯をわたしからとりのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」イエス様の十字架に向かう決意が強められてゆきます。(40節)「再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らはイエスにどう言えばよいのか、分からなかった。」弟子たちは「今度こそ眠らないぞ」と決心したはずですが、またも眠ってしまいました。悪魔はイエス様をも眠らせようとしたと思うのです。イエス様が十字架に向かわないように全力で眠りの霊を送って誘惑したと思うのです。イエス様が私たちすべての人間の罪を背負って十字架で死なれると、この世での悪魔の支配が打ち破られてしまうからです。イエス様は悪魔に負けず、十字架へと敢然と進んで行かれました。そのお陰で私たちの罪は赦されたのです。しかし弟子たちは弱く、悪魔の誘惑に負けて眠らされてしまいました。私たちも弱い者ですが、少なくとも信仰の正念場では目を覚まして、イエス様に従い続けたいのです。

 (41~42節)「イエスは三度目に戻って来て言われた。『あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子とは罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。』」 情けないことに弟子たちは三度目も眠りこけてしまったのです。イエス様は悪魔の誘惑に打ち勝たれ、最後まで祈り通されました。そしていよいよ「時が来た」とおっしゃいます。十字架の時です。イエス様は十字架で死なれるために誕生されたのです。イエス様を裏切るイスカリオテのユダと、剣や棒を持った群衆が間もなくやって来ます。イエス様は一切罪を犯していないのに、捕らえられ、裁判をお受けになるのです。

 本日の旧約聖書は、イザヤ書52章13節以下です。小見出しは「主の僕の苦難と死」となっています。イエス様の十字架の犠牲の死を予告しています。53章2~4節を読みます。
「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/ この人は主の前に育った。
 見るべき面影はなく/ 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/ 多くの痛みを負い、病を知っている。
 彼はわたしたちに顔を隠し/ わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
 彼が担ったのはわたしたちの病
 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
 わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 
 彼は苦しんでいるのだ、と。」
事実イエス様は、本日のゲツセマネの祈りでも非常に苦しんでおられます。5節。
「彼が刺し貫かれたのは/ わたしたちの背きのためであり
 彼が打ち砕かれたのは/ わたしたちの咎のためであった。
 彼の受けた懲らしめによって/ わたしたちに平和が与えられ
 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」

 イエス様のゲツセマネでの祈り。それは神様に従う、神様に服従する生き方の模範です。神様に従うことこそ最善と信じる生き方の模範です。それは神様に全面的に信頼して委ねる生き方です。創世記に信仰の父と呼ばれるアブラハムが登場致します。アブラハムもイエス様に近い信仰に生きた人です。アブラハムが75才のとき、神様はアブラハムに子孫を与えると約束されます。しかしなかなか子どもが与えられないのです。でも神様は100%約束を守られる方です。アブラハムが100才のときに妻サラ(90才)との間に待望の息子が誕生します。イサクです。ほっとしたアブラハムに、神様が試練を与えられます。神様から来る試練は決して人をいじめるためのものではなく、人の信仰が純粋になるように信仰を鍛えるためにあるのではないかと思います。神様は創世記22章でアブラハムに命じられました。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れてモリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つの登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」耳を疑う命令です。神様はアブラハムが75才のときに、「あなたの子孫にこの土地(イスラエルの地)を与えると約束されました。イサクを焼き尽くす献げ物として献げればイサクは死ぬのですから、神様の約束も果たされないことになってしまうと普通は考えます。実に理解に苦しむ命令なのです。

 ところが驚くべきことに、信仰の父アブラハムは神様を100%信頼して、命令に従順に従うのです。創世記22章のどこを見ても、アブラハムが神様に「なぜですか、私には理解できません」と疑問を述べたことすら一言も書かれていません。信仰の父アブラハムは、「神様のなさることには、絶対に間違いがない」(三浦綾子『旧約聖書入門』光文社、1988年、109ページ)と100%信頼して、神様の命令に黙々と従ったのです。アブラハムの信仰はイエス様の信仰と非常に近いのです。イエス様は祈られました。「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」イエス様は私心を一切捨て切られました。アブラハムも同じです。「神様の御心は絶対に正しい」との信頼によってです。創世記22章9節以下はこう記します。「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。」まさにイサクは、イエス様のように犠牲になりかかるのです。

 このときは神様がアブラハムの信仰をよしとされて、介入されます。アブラハムの信仰が非常に純粋で、神様に絶対の信頼を献げる信仰であることを見て取られ、神様が天使を通してアブラハムにストップをかけられます。天使は言います。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」アブラハムが神様に淡々と服従したのか、あるいは清水の舞台から飛び降りる気持ちで服従したのか、アブラハムの心の内ははっきり書かれていないので分かりません。ここではアブラハムとイサクの二人が神様に服従しています。アブラハムはイサクを屠ろうとすることによって積極的に神様に服従し、イサクは自分を屠ろうとする父アブラハムに抵抗しないことによって受け身的に神様に服従しています。イサクは一種の殉教者になりかかったとも言えます。アブラハムはイサクを殺そうとしたというよりは、神様にお返ししようとしたのだと思います。イサクを神様の御手に委ねた、イサクを神様ご自身の御手に直接渡そうとしたのです。神様から与えられたイサクですから、神様にお返しすることは当たり前と考えたのではないでしょうか。この神様への全面的な信頼・服従を神様は喜ばれました。

 先週も申しましたが、私は4月5日(土)に群馬県みどり市にある星野富弘さんの美術館に行きました。星野さんは器械体操の事故による大怪我のため首より下が動かない方ですが、口に筆をくわえて美しい花などの絵と詩の作品を作ることで、神様の栄光を現しておられます。大怪我なさる前は私が思っていたよりずっと元気いっぱいの若者だったことが分かりました。美術館には怪我をなさる前の星野さんの写真が特別展示されていました。1966年に器械体操(つり輪)をなさっている写真がありました。1964年の東京オリンピックの影響があったかもしれません。ロッククライミングなさっている写真、谷川岳で逆立ちしておられる写真。長野県のスキー場でパトロールのアルバイトをなさり、3ヶ月以上、朝から夕方まで一日中滑っておられたそうです。そういう方が首から下が動かなくなったことは大変な試練です。9年間入院生活を送って退院されたそうです。長い時間をかけて、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」という思いに心が純化されてゆかれたのかなと感じます。怪我したご自分を受け入れることは大変なことだったに違いないのです。28歳で洗礼を受けておられます。

 このような文章を書いておられます。「大怪我をした時、病院のベッドの上で『人生が二度あれば』と思ったことがあった。しかし、今の人生を精一杯生きられないで、どうして二度目の人生を生きられるだろうかと気付いた。どんな生物でも、生まれる時と場所を選ぶことはできない。もし、生まれ変われたとしても、平和な時代とは限らないのだ。~こんな私をじっと見守り助けてくれる人たちがいる。これは素晴らしいことなんだ」(星野富弘『花の詩画集 種蒔きもせず』偕成社、2010年、29ページ)。

 私は次の作品に心打たれます。
「冬があり夏があり 昼と夜があり 
 晴れた日と雨の日があって ひとつの花が咲くように 
 悲しみも苦しみもあって 私が私になってゆく。」
 (星野富弘『いのちより大切なもの』いのちのことば社、2012年、17ページ)

「痛みを感じるのは生きているから 悩みがあるのは生きているから
 傷つくのは生きているから 私は今かなり生きているぞ」
 (同書、20ページ)

 神様が星野富弘さんという一人の方を、神様の尊い作品として作り上げておられるように感じます。神様は星野さんを特に見込まれて、大きめの十字架をお与えになったようです。お一人お一人に異なる形で十字架(試練)があることと存じます。「御心に適うことが行われますように」と祈ることは時に勇気を必要とします。しかし神様は決して無意味な涙を流させない、涙を涙で終わらせることのない方であることを信じ、この神様に信頼して、「御心に適うことが行われますように」と祈って参りたいと思います。イエス様の十字架の後に復活があったことに希望を与えられて、イエス様に従う歩みを致しましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-04-08 3:06:27(火)
「神の右におられるキリスト」 2014年4月6日(日) 受難節第5主日礼拝説教
朗読聖書:詩編110編1~7節、ルカによる福音書20章41~47節

「主は、わたしの主にお告げになった。『わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を /あなたの足台とするときまで』と。」(ルカによる福音書20章11節)

 イエス・キリストは日曜日に、ろばに乗ってエルサレムの都に入られ、月曜日に神殿を激しく清められました。そして火曜日にエルサレムの宗教指導者と論争を重ねられます。本日の「ダビデの子についての問答」も、その火曜日に行われました。イエス様の十字架の死の3日前です。これまでの問答で、イエス様は見事な答えをなさって来ました。聖霊に満たされたイエス様の鮮やかなお答えに、誰も太刀打ちできなかったのです。もはや誰もイエス様にあえて何かを問う人はいなくなったのです。そこでイエス様が本日の問答をお始めになります。

 (41節)「イエスは彼らに言われた。『どうして人々は、「メシアはダビデの子だ」と言うのか。』」 「メシア」とは救い主、「ダビデの子」は「ダビデの子孫」です。人々はそう言い合っていたのです。なぜなら旧約聖書で確かに予告されていたからです。たとえばサムエル記下7章12節以下で、預言者ナタンがダビデ王自身に告げます。「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」 これはダビデの子ソロモンがダビデの跡を継いで王となることを預言すると同時に、ダビデの子孫から永遠の王・メシアが生まれることを預言する御言葉です。

 そしてクリスマスによく読まれるイザヤ書9章の5節以下も、ダビデの子孫として誕生する一人の男の子こそメシアであると預言しているようです。
「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
 ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
 権威が彼の肩にある。
 その名は、『驚くべき指導者、力ある神/ 永遠の父、平和の君』と唱えられる。
 ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。
 王国は正義と恵みの業によって 
 今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。
 万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」

 このようにメシアは確かにダビデの子孫から出ます。「メシアはダビデの子(子孫)だ」と言う人々の言葉は正しいのです。ですが、メシアはダビデの主、つまりダビデ以上の方でもあるのです。ダビデ自身が旧約聖書の詩編110編で、メシアを「自分の主」と呼んでいるのです。イエス様はこの事実を指摘され、メシア(ご自分)が「ダビデの主」であると宣言なさるのです。

 本日の旧約聖書・詩編110編も重要なメシア預言です。1節に、この詩編の作者がダビデ王自身であることが書かれています。ダビデが聖霊に導かれて作った詩編です。
「わが主(メシア)に賜った主(父なる神様)の御言葉。
『わたしの右の座に就くがよい。
 わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。』 
 主はあなたの力ある杖をシオン(エルサレム)から伸ばされる。
 敵のただ中で支配せよ。
 あなたの民は進んであなたを迎える。
 聖なる方の輝きを帯びてあなたの力が現れ、
 曙の胎から若さの露(神様の恵みのシンボル)があなたに降るとき。 

 主は誓い、思い返されることはない。
『わたしの言葉に従って/ あなたはとこしえの祭司 
 メルキゼデク(わたしの正しい王)。』」 

 祭司は、神様と人の間を執り成す方です。イエス・キリストこそ究極の祭司であ
り、十字架で私たち全員の罪を背負いきり、神様と私たちの間を決定的に執り成して下さいました。メルキゼデクは創世記に登場する祭司ですが、この御言葉はメシアがメルキゼデクと同じような永遠の祭司、いえメルキゼデクをはるかにしのぐ真の祭司であることを主張しています。

 ルカによる福音書に戻り、42~43節。「ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主(父なる神様)は、わたし(ダビデ)の主(メシア)にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。」~』」

 ここでダビデは、「わたしの主」、つまり「わたしより上の方」と呼んでいます。従って、メシアはダビデ以上の存在である。これがイエス様のメッセージです。メシアはダビデよりはるかに上の存在・神の子である。これがメシアの本質なのです。

 ダビデは旧約聖書の重要な登場人物であり、イスラエル史上最も有名な王様です。ダビデの生涯は、基本的には神様に従う生涯でした。しかしダビデの人生には汚点もあります。忠実な部下ヘト人ウリヤの妻バト・シェバとの姦淫・不倫の罪です。ダビデは最も忠実な部下ウリヤを奪い、ウリヤを計画的に戦死に至らしめました。神様は預言者ナタンを送り、ダビデを厳しく叱責させます。ダビデとバト・シェバの間に生まれた男の子は、ダビデの罪を身代わりに背負うかのように、神様に打たれて死にます。ダビデは自分の大きな罪に気づき、心底から悔い改めます。詩編51編は、ダビデの悔い改めの祈りとして非常に有名です。ある教会では毎週の礼拝で詩編51編を唱え、悔い改めの祈りとしていたと聞きます。臨終のときに詩編51編を唱えつつ天に召されていったクリスチャンも多いと聞きます。

 ダビデの真剣な悔い改めは主の御心に適うものでしたが、ダビデの不倫の罪そのものは非常に悪質です。メシアがダビデの子孫から生まれることは事実ですが、ダビデと同等の方では困るのです。メシアは全く罪のない方でなくてはなりません。メシアはダビデよりはるかに優れた方でなければならないのです。そして感謝なことに、メシア・イエス様は罪が全くない清い神の子なのです。

 イスラエルはダビデとその子ソロモンの時代に一番繁栄したと言われます。イスラエルの黄金時代です。イエス様の時代のイスラエルはその反対に、ローマ帝国の支配下にあって税金をとられ、人々は屈辱を味わっていました。「あのダビデ・ソロモンの時代の栄光をもう一度!」と人々は強く願っていました。そして旧約聖書の預言によってメシアを待望していました。ダビデ王は、イスラエルの周囲の敵と戦いました。そこで人々は、自分たちの先頭に立ってローマ軍と勇敢に戦い、イスラエルの独立を勝ち取ってくれる民族の軍事的英雄・ヒーローのメシアを切に待望していました。人々がメシアを「ダビデの子」と呼ぶとき、このような民族の英雄をイメージしていたのです。イエス様が登場して病気の人を癒すなどの愛の奇跡を行われたとき、人々は「この方こそ、待ち望んでいたメシアに違いない」と期待をかけたのです。そのイエス様が首都エルサレムに入られたのです。人々は、「遂にイエス様を先頭に押し立ててローマ帝国と戦う時が来た!」とナショナリズムに燃え、熱狂して迎えたのです。
「ホサナ(万歳)。
 主の名によって来られる方に/ 祝福があるように。
 我らの父ダビデの来るべき国に、/ 祝福があるように。
 いと高きところにホサナ。」(マルコによる福音書11:9~10) 

 ところがイエス様は、人々のその期待に応える気持ちは少しも持っておられません。期待に応えるお気持ちならば、軍隊の指揮官として勇ましく馬に乗って首都エルサレムにお入りになったはずです。ところがイエス様は、あえてその反対に柔和なろばに乗って首都にお入りになったのです。軍事的メシアではなく、平和のメシアであることをお示しになったのです。ダビデの時代には、イスラエルの周囲には多くの敵があり、ダビデは武力で敵と戦わざるを得ませんでした。ダビデはそのような役割を果たさざるを得ない状況に置かれていました。しかし神様は基本的には人と人の殺し合いである戦争を望まない方、平和を愛するであると信じます。

 ダビデは、神様を礼拝する家・神殿を建てることを望みましたが、神様はダビデにそのことをお許しになりませんでした。神様はダビデにこうおっしゃったのです。(歴代誌・上22章8~9節)「あなたは多くの血を流し、大きな戦争を繰り返した。わたしの前で多くの血を大地に流したからには、あなたがわたしの名のために神殿を築くことは許されない。見よ、あなたに子が生まれる。その子は安らぎの人である。わたしは周囲のすべての敵からその子を守って、安らぎを与える。それゆえ、その子の名はソロモンと呼ばれる。わたしは、この子が生きている間、イスラエルに平和と静けさを与える。」 ソロモンという名前は、シャローム(平和)と深くつながるのでしょう。イエス様も、武力で戦うメシアではなく平和のメシアとして来られたのです。

 メシアはダビデ以上の存在であると申しました。それはダビデ以上に強い武力で戦う方という意味ではありません。その反対に、へりくだって私たち罪人の足を洗い、私たちに奉仕して下さり、ついには私たちのために十字架で死んで下さるメシアです。イスラエルの人々にとって全く予想外のメシアなのでした。イエス様はマルコによる福音書10章42節以下でおっしゃいます。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間ではそうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子(イエス様ご自身)は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

 イエス様をこのようなメシアとして信じたイスラエル人もいましたが、英雄メシアを待望し続ける人々もおりました。イエス様の十字架と復活が起こったのは紀元30年頃ですが、その後イスラエルの民はローマに反乱を起こします。これを第一次ユダヤ戦争(紀元66~70年)と呼びます。エルサレムはローマ軍に包囲され破壊され、神殿も炎上し、人々は悲惨な末路をたどりました。それでもイスラエル人は諦めず、バル・コクバという人をリーダーに押し立てて再びローマに対して反乱を起こします。第二次ユダヤ戦争(紀元132~135年)です。ラビ(律法の教師)のアキバという人が、バル・コクバこそメシアであると宣言したそうです。バル・コクバとは「星の子」という意味です。多くのイスラエル人がバル・コクバをメシアと信じて、ついて行ったそうです。この二回目の反乱もイスラエルの敗北に終わってしまいました。

 真に痛ましいことです。多くの人々が平和のメシア・イエス様の御言葉に耳を傾け、武力で立ち上がることをせず、無謀な反乱を思いとどまっていたならば、悲惨な敗北を避けることができたでしょう。イスラエル人が民族主義に燃えて戦争による解決を目指さした結果、悲惨な敗北に終わってしまったのです。今、日本の国も、愛国心を強調し、武器輸出をしない長年の原則を緩める方向に進んでいますが、イエス様のお考えと反対の危険な方向に向かっていると心配です。

 ルカによる福音書に戻ります。もう一度42~43節。「ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。~」と。』」 事実イエス様は十字架で死なれた後、三日目に墓を破って復活されます。そして40日目に天に昇られ、父なる神様の右の座に着かれたと、新約聖書は告げます。日本語には「あなたは私の右腕だ」という言い方があります。復活されたイエス・キリストが、天で父なる神様の右の座に着かれたことは、イエス・キリストが父なる神様の右腕、父なる神様と等しい力を持つ方、神に等しい方であることを意味します。16世紀にスイスで宗教改革を行ったジャン・カルヴァンという人がいます。カルヴァンが書いた『ジュネーブ教会信仰問答』(外山八郎訳、新教出版社刊)には、このことについて次のように書かれています。
問「ここに言われている右と、この座すとは、何を意味しますか。」 
答「それはこの世の君主からとった一つの比喩であって、彼らは自分の代わりに統治させるた   め、副官に任じた人々を、その右に座らせるのであります。」

 イエス・キリストは、父なる神様に代わり、その右腕となってこの世界を治める主であり、王なのです。ですから右とは、最も高い天であり、イエス様がそこにお座りになったことは、イエス様が神に等しい方、教会の主、全宇宙の王であることを意味します。

 「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を あなたの足台とするまで。」 後半は世の終わりに起こる出来事です。世の終わりは、イエス・キリストがもう一度地上においでになり、神の国が完成するときに実現します。その時、イエス様の敵が完全に滅ぼされます。イエス様の敵とは、人間であるよりは悪魔・罪・死です。今の私たちはイエス様に従いながらも、悪魔と罪と死に悩まされています。しかし、神の国が完成するときには、神様に逆らう勢力である悪魔・罪・死が完全に滅ぼされます。それは私たちにとって、悪魔・罪・死から完全に解放される希望のときです。神の国は、完全な愛・清さ・祝福に満ちたすばらしい国です。キリストを信じて亡くなった方は、今確かにそこにおられますし、イエス様がもう一度おいでになるときに神の国が完成されます。これこそ私たちの真の希望です。

 ルカによる福音書をもう少し先まで読みます。(45~46節)「民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。『律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。』」 律法学者は聖書(旧約聖書)を懸命に学んで教えているように見えながら、心の奥は強欲で、神様も隣人も愛していない偽善者だと指摘しておられるのです。私自身も罪人なので、このイエス様の御言葉は自分に言われている御言葉だと思って、よくよく気をつけねばならないと感じます。今私はガウンという長い衣をまとっていますし、会堂で上席(説教壇)に立たせていただいているのですから、自分こそイエス様がおっしゃる律法学者であると深く自覚しなければなりません。

 (47節)「そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」私も先ほど、長い祈りをしたので、それが見せかけの祈りで本心は別にならないように、常に自分を戒めることが必要です。人一倍厳しい裁きを受けるのは、イスラエルの律法学者に限ったことではありません。新約聖書・ヤコブの手紙3章1~2節の御言葉が思い出されます。著者のヤコブはイエス様の肉親の弟ですから、イエス様とよく似たことを言います。 「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師(信仰の教師)になってはいけません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。」 説教で立派なことを多く語っても、その通りに生きていないなら、イエス様にこのように厳しく叱責されます。

 イエス様が引用なさった詩編110編は、使徒言行録2章のペンテコステの場面でも引用されています。聖霊に満たされた使徒ペトロが、熱のこもった説教をする場面です。(32節~)「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、このことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。
「わたしの右の座に着け。
 わたしがあなたの敵を/ あなたの足台とするまで。」』 
 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけ て殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」 

 51日前に十字架刑を受けて死なれ、復活して神の右に上げられたイエス様こそ詩編110編が預言するメシアにほかならない。このイエス様を救い主と信じ、自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストの名によって洗礼を受けなさい。そうすればどんな大きな罪も赦され、神様からのプレゼントとして聖霊を受ける。ペトロがこのように情熱をこめて説教すると、何とその日三千人ほどが仲間に加わりました。三千人ほどが洗礼を受けたと言って間違いないと思います。イエス様は、このペトロの説教を通して今も私たちに、「イエス・キリストをメシアと信じて自分の罪を悔い改め、洗礼を受けるように」と呼びかけておられます。

 復活されたイエス様は、今も父なる神様の右に座しておられます。そこで何をしておられるのかが、ローマの信徒への手紙8章34節に書かれています。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」 キリストは今も生きて働いておられます。洗礼を受けた後も、私たちが心ならずも悪魔の誘惑に負けて日々犯してしまう比較的小さな罪(神様は「小さくない」とおっしゃるかもしれませんので注意が必要です)のために御心を痛めて、私たちのために父なる神様に執り成して下さっているのです。本当に感謝です。私たちはこのイエス様に感謝し、同時に「イエス様が執り成して下さっているからどんどん罪を犯しても大丈夫だ」という間違った考えを拒否します。イエス様の愛にひたすら感謝して、迷うことなくイエス様にひたすら従ってこの受難節、またその後の人生を生きて参りたいのです。イエス様にひたすら従う人生は、たとえこの世で報われなかった場合でも、必ず復活の命にたどり着く希望があります。

 わたしは昨日、群馬県みどり市にある「富弘美術館」(星野富弘さんの作品を展示する美術館)に行って参りました。電車6本とバス1本を乗り継いで行き、片道約5時間ずつかかり、「遠かったなあ」という印象です。もちろん行ってよかったです。最後に乗ったトロッコ列車は渡良瀬川沿いを走り、桜の木などの花が非常にきれいでした。美術館は草木湖という湖のほとりにあります。自然豊かな所です。星野さんは28歳で洗礼を受けられたとのことです。星野さんの姿を映したビデオも上映されていて、その中で星野さんは、大けがをする前は草花を踏みつけて歩いていたが、けがをして草花の絵を描くようになったとき、「これほど美しかったのかと驚いた。私の口では、実際の花の美しさの千分の一も描くことができない」という意味のことをおっしゃっていたと記憶しています。これはそのまま、美しい花を作られた神様への賛美です。最初の頃は、顔を横にする姿勢で花を見つめて、描いておられたようです。花を横から、あるいは下からじっと観察されたのではないかと思います。「下から目線」とでも言いましょうか。星野さんは神様に見込まれた方ではないかと思います。花の絵と詩によって、神様の栄光を現しておられます。

 イエス様は私たちの下に立って仕えて下さる方です。このイエス様のようにへりくだって生きて参りたいのです。私の深い罪を悔い改めつつ…。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-03-25 15:18:05(火)
「命の水を与えて下さる神」 2014年3月23日(日) 受難節第3主日礼拝説教 
朗読聖書:出エジプト記17章1~16節、コリント(一)10章1~14節

「モーセが手を上げて間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。」(出エジプト記17章11節)

 先週の16章で、神様は荒れ野でイスラエルの民にマナを与えて下さいました。マナは質素な食物ですが、栄養を得るには十分で、神様は以後40年間にわたってマナを与え続けて下さるのです。もう1つ問題がありました。荒れ野では水が非常に乏しいのです。この問題は少し前の15章にも出て来ました。葦の海の奇跡の後、イスラエルの民は荒れ野を3日間進みましたが、水を得なかったのです。暑さの中ですから非常に辛いですね。マラという所でやっと水を見つけたのですが、苦くて飲めない水でした。民は早速モーセに不平を言います。困ったモーセが神様に向かって叫ぶと、神様が一本の木を示され、その木を水に投げ込むと水が甘くなったのです。神様の愛の奇跡です。その後、神様は民をエリムという所に導かれました。そこは12の泉と70本のなつめやしが茂るオアシスでした。神様は私たちにマラ(苦いこと)とエリム(恵み)の両方を与えて下さいます。

 今日の17章では再びマラ(苦いこと)を経験させられます。1節「主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。」水がないと苦痛ですし、生きることができません。この点で日本は恵まれていますし、東久留米教会も恵まれています。すぐ近くを落合川が流れ、南沢湧水があります。湧水より南の高い所に南沢浄水所があり、そこの看板には「大震災に際には、ここで皆さんに水を配ります」と書かれています。非常に心強いですね。その私たちと対象的に、イスラエルの民は飲み水がないという苦難に直面しました。神様がイスラエルの民の信仰を訓練しておられるのです。人間は苦しいとすぐに不平不満に満たされてしまい、神様を信じられなくなり易いのです。民はモーセに文句を言います。(2節)「民がモーセと争い、『我々に飲み水を与えよ』と言うと、モーセは言った。『なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。』」この場合の試すとは、神様が確かに守っていて下さるのに、その事実を疑い、神様を信用しないことです。不信仰の罪です。私たちにも身に覚えがあるのではないでしょうか。苦しいと、本当に神様が共にいて守っていて下さるのか、疑い始めてしまうのです。

 民の文句は、モーセにたしなめられても止まりません。民は殺気立っています。(3節)「しかし、民は喉が渇いてしかたがないので、モーセに向かって不平を述べた。『なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。』」 モーセは身の危険を感じ、主に向かって叫びます。(4節)「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています。」神様の助けが与えられます。(5~6節)「主はモーセに言われた。『イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。』モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。」

 神様は目に見えませんが、確かにホレブ(地名)の岩の上でモーセの前に立たれたのです。モーセはその岩を杖で打ちました。神様の御言葉に忠実に聴き従ったのです。その杖は、モーセが葦の海で高く上げ、手を海に向かって差し伸べて海を二つに分けた、あの杖です。この杖は神様の力のシンボルです。杖そのものに力があるのではなく、モーセが神様の御言葉に忠実に聴き従ったことが大切です。モーセと私たちが神様の御言葉に忠実に聴き従う時、神様が働いて下さり、栄光の御力を見せて下さるのです。モーセがあの杖で岩を打つと、水がほとばしり出たはずです。そして民はたっぷりと水を飲むことができました。ハレルヤです。

 私たちはしばしば現実に負けそうになります。現実は手強いのです。ですが神様に祈って力をいただき、現実がマイナスの状況にあったとしても、打ち勝ってゆきたいのです。(7節)「彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、モーセと争い、主を試したからである。」 神様は奇跡を起こして水を飲ませて下さいましたが、「神様が本当に共におられるのかどうか」と疑ったことは、イスラエルの民の罪です。神様は確かに私たち一人一人と共に歩んでおられます。この神様を信頼することが信仰です。イスラエルの民は試練に遭うと神様を信頼できなくなりました。「奇跡を見ないと信じない」気持ちになってしまったのです。そうではいけないのです。

 イエス様は、イエス様の復活を信じることができなかったトマスという弟子に、ヨハネによる福音書20章29節でで、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」とおっしゃいました。奇跡を見て信じるのなら、簡単なことです。「見ないのに信じる」のが信仰です。神様が目に見えなくても、試練があっても、なお神様が共にいて下さることを信じるのが信仰です。こう聞くと、正直に言って「ちょっと辛いな」と思われるのではないでしょうか。モーセも辛かったと思います。そんなときモーセは、神様に向かって叫びました。そして神様から助けをいただいたのです。私たちも辛いときは、神様に向かって祈りましょう。場合によってはモーセのように助けを求めて叫びましょう。神様が何らかの形で助けを与えて下さいます。たとえば協力者が与えられるなどの形で、神様が助けを与えて下さいます。

 本日の新約聖書は、コリントの信徒への手紙(一)10章1節より14節です。これを書いたのはイエス様の弟子・使徒パウロです。1~4節に、出エジプトしたイスラエルの民のことが書かれています。「兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり(神様が雲の柱、火の柱によって導いて下さったこと)、皆、海を通り抜け(葦の海を歩いて渡ったこと)、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼(バプテスマ)を授けられ、皆、同じ霊的な食物(マナ)を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました(神様が岩から水を出して下さったこと)。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」 「霊的な岩」は、直接には神様ご自身です。

 旧約聖書は、神様をよく力強い岩にたとえます。申命記32章4節で、モーセが言います。「主は岩、その御業は完全で/ その道はことごとく正しい。」 詩編95編1節には、次のようにあります。「主に向かって喜び歌おう。/ 救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。」そうです。神様は頼りになる真の岩なのです。モーセが杖で岩を打つと水がほとばしり出たのですが、打たれた岩が大事なのではありません。「岩を打て」とお命じになった「生ける真の岩」神様が水を与えて下さったのです。この「生ける真の岩」をパウロは「霊的な岩」と書きましたが、それはまずは神様ご自身です。そしてさらにパウロは、「この岩こそキリストだったのです」と驚くべきことを述べます。モーセやイスラエルの民と共に荒れ野を歩んだ神は、実はキリストご自身だったのです。旧約聖書にはキリストは直接登場なさいません。神様が父・子・聖霊なる三位一体の方であることは、新約聖書に至って初めて明らかになります。ですがこの父・子・聖霊なる三位一体の神様が、旧約聖書の神様でもあるのです。キリストは天地創造をなさった神様ご自身であられ、葦の海を分けられたのもキリストだったと言ってもよいのです。今日の出エジプト記17章で、岩から水を出された神様は、三位一体の神であり、ですからキリストでもあるのです。このキリストが天から降られ、ベツレヘムの馬小屋で人間の赤ちゃんとして生まれて下さり、イエスと名付けられたのです。キリストは旧約聖書の中で働いておられるのです。驚くべき真理が開示されたのです。

 (5節)「しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。」イスラエルの民は意気揚々とエジプトを脱出しましたが、その時20歳以上だった者で、40年後に約束の地・カナンの地に入ることができたのは、二人だけだったのです。エフネの子カレブとヌンの子ヨシュアの二人だけです。モーセさえ入ることができませんでした。入ることができたのは出エジプトの時、19歳以下だった人たちとその子孫です。なぜ多くの人々が約束の地に入ることができなかったのか。それは荒れ野の旅の途中で何回も神様を疑い、神様に逆らったからです。それで神様の聖なる怒りに触れ、荒れ野に死に絶えたのです。この事実は私たちに緊張感を与えます。信仰生活は恵みの生活ですが、だれることは問題です。私どもは礼拝を第一にして日々聖書を読んで神様に祈り、できるだけ罪を避け、罪を犯せば悔い改めて、自覚的にイエス・キリストに従って歩むことが必要です。そうでないと神様に向かって多くの不平不満を述べて神様の聖なる怒りに触れて滅びた、イスラエルの多くの人々の二の舞になってしまいます。

 (6~7節)「これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼ら(イスラエルの民)が悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。『民は座って飲み食いし、立って踊り狂った』と書いてあります。」 偶像礼拝をしてはいけないと強調されています。偶像礼拝は、真の神様以外のものを拝むことです。偶像はお金の場合もあり、自分の欲望の場合もあります。イエス・キリストに従うよりも、身勝手な欲望の充足を一番大事にするならば、偶像崇拝になります。(9節)「また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。」パウロはここで、イスラエルの民が「キリストを試み」たと書き、荒れ野で民と共におられた方が確かにキリストであったことを再度教えています。民が「蛇にかまれて滅びた」出来事は民数記21章に出ています。神様に逆らって不平を言った人々への、神様の聖なるお怒りでした。

 (10~11節)「彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。」イエス・キリストは世界の全ての人々の救い主として誕生され、私たち全員の罪を背負って十字架で死なれ、三日目に復活なさいました。イエス様が誕生なさったことによって、世界は終わりに時代に入っています。時のあるうちに、全ての人がイエス様を救い主と信じ告白し、洗礼を受けることが神様の願いです。そしてイスラエルの民の荒れ野での罪が旧約聖書に書かれている目的は、私たちがこの民のように偶像礼拝などの罪を犯して、救いの道から脱落することのないためです。ですからパウロは12節で私たちにこう述べます。「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」 「自分の信仰は大丈夫だ」と気が緩んで偶像崇拝の罪などを犯して堕落することがないように、というのです。私たちは罪を避けて生活するために、もう一度モーセの十戒をよく学び、何が神様の御心に適う正しいことで、何が神様の御心に逆らうこと・罪であるか、よく学ぶことが必要です。

 13節は、多くの方が知る御言葉です。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます。」 辛いときも偽物の神々・偶像に頼ることをしてはいけない。あくまでも真の神様のみに祈り続けるように。なぜなら偽物の神々・偶像の正体は悪霊だからです。悪霊を拝み、悪霊について行けば、行き着く先は滅びです。ですからパウロは14節でこう断言します。「わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。」荒れ野でのイスラエルの民は、今日の出エジプト記17章で、神様を信頼せず、神様に文句を言う罪を犯しました。民数記では偶像崇拝という大きな罪をも犯してしまうのです。残念ながら、彼らは今日の出エジプト記17章前半では、私たちの反面教師なのです。

 出エジプト記17章に戻ります。後半の小見出しは「アマレクとの戦い」です。
次の試練がイスラエルの民を襲います。異民族の襲撃です。最後の15節に、「彼ら(アマレク)は主の御座に背いて手を上げた」と書かれていますから、アマレクは神様に逆らう人々、獰猛な人々でした。私たちの真の敵は人間ではなく悪魔ですから、ここでのアマレクは悪魔のシンボルだと思うのです。信仰生活は、私たちを誘惑して罪を犯させようとする悪魔との戦いでもあります。

 (8~9節)「アマレクがレフィディムに来てイスラエルと戦ったとき、モーセはヨシュアに言った。『男子を選び出し、アマレクとの戦いに出陣させるがよい。明日、わたしは神の杖を手に持って、丘の頂に立つ。』」後にモーセの後継者となるヨシュアは、モーセの命令に従います。戦いには神様の力と助けが必要でした。ヨシュアは若者を率いて戦いに出ました。しかし若いとは言っても人間の力だけで悪魔には勝てないのです。背後の祈りの応援がどうしても必要です。モーセと兄アロン、そしてフルという人が丘の頂に登ります。フルはモーセの姉ミリアムの夫という伝承があるそうですが、確認はできません。モーセもアロンはも元気だったでしょうが、80歳を超えています。体を張っての戦いは若者に任せ、モーセは祈りに専念します。アロンとフルがそれを支えます。

 (11節)「モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。」 詩編63編5節に次のように書かれています。「命のある限り、あなたをたたえ/ 手を高く上げ、御名によって祈ります。」「手」は両手です。両手を高く上げて、主なる神様のお名前によって祈るのです。モーセも両手を上げてイスラエルのために全力で祈っていたのです。これは霊的な戦い、悪魔との戦いなのです。祈って神様の助けをいただくことが何としても必要です。私たちも祈ることが必要です。自分のため、家族のため、教会のため、教会の伝道のため、日本のため、多くのことのために祈ることが必要です。神様の御心に適う祈りを一生懸命祈るなら、神様は必ず聞き届けて下さいます。モーセは必死に祈りました。ですからだんだん疲れてきます。モーセの祈りが弱くなるとイスラエルは劣勢になり、アマレクが優勢になります。勝敗は祈りの継続にかかっているのです。

 私たちの祈りの責任も重いのです。モーセの祈りが弱まることは、イスラエルの敗北に直結します。そこでアロンとフルが全力で支えます。(12節)「モーセの手が重くなったので、アロンとフルは石を持って来てモーセの下に置いた。モーセはその上に座り、アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。その手は、日の沈むまで、しっかりと上げられていた。」ヨシュアたちも懸命に戦いましたが、モーセの必死の執り成しの祈り、モーセを支えたアロンとフルの奉仕によって神様の力が注がれ、イスラエルはアマレクを打ち破ることができました。祈りの勝利、神様の勝利です。この勝利を記念して、モーセは礼拝のための祭壇を築き、それを「主はわが旗」と名付けました。自分の力で勝ったのではない、神様の力によって悪魔に勝たせていただいた。その信仰が表明されています。私たちも祈りによって、神様に助けていただいて、伝道を進めたいのです。

 主イエス様のために働く人には、神様の助けが与えられます。私は先々週、日本キリスト教団が主催した東日本大震災国際会議に参加させていただき、いろいろな方のお話を伺いましたが、一番印象に残ったのは若松栄町教会員・会津放射能情報センター代表・片岡輝美さんの報告でした。かなりインパクトのある話でした。福島第一原発事故による放射能被害についてこう語られました。

 「原発事故直後からテレビでは『直ちに健康に影響はない』と繰り返し、安心安全キャンペーンを張った日本政府は、私たち国民に真実を知らせることはありません。なんとかして原発事故を過小評価しようとしています。本来は日本政府や福島県は原発事故を起こした責任として、全ての食品や空間・土壌・海洋の線量を公表しなくてはならない。その数値を見て、私たちは『子どもに食べさせる・食べさせない、ここで遊ばせる・遊ばせない、ここに住む・住まない』と判断する。安全かどうかを決める権利は、当然、私たちにあるはずなのです。しかし、3年経った今でも、それは実現されていません。
 2011年11月、私たちは~スウェーデン・ガンマデータ社の食品放射能測定器GDM15を日本で最初に購入しました。(会津放射能情報)センターを始めた頃の私たちには全く資金がありませんでした。それなのに少しでも早く食の安全を確認するために、測定器を購入したい。しかし、資金をどのように作ればよいのかと検討し、食品測定器を購入するかしないかの決断をする前の夜、私は一通のメールを受け取りました。7月に私たちを訪れたドイツ~EMS(連帯福音宣教会)からでした。メールには「私たちから献金を送ります。働きのために使ってください」と書いてありました。献金額を見て、私は非常に驚きました。丁度、私たちが食品測定器購入に必要としていた金額250万円だったのです。主の大きな計らいに心から感謝しました」(『日本基督教団 東日本大震災国際会議 原子力安全神話に抗して―フクシマからの問いかけ―』2014年、68ページ)。 神様の助けだと強く思い、感銘を受けました。

 神様の御心に適うことのためならば、神様が祈りに応えて助けて下さる。私どももこの神様に信頼し、できるだけ罪を避け、神様の御心に適うことのために共に祈りを献げ、働いて参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。  

2014-03-19 21:18:27(水)
「一粒の麦・井深八重さん」 3月の聖書メッセージ 石田真一郎
 東久留米教会の会堂は、2011年に建て替えた新しい建物です。阪神淡路大震災クラスの地震でも倒壊しないように建ててあります。万一の大地震の際には、近隣の皆様に一時避難所として使っていただこうと考えております。ぜひ一度お入り下さい。
                      ☆
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」
(イエス・キリスト。新約聖書・ヨハネによる福音書12章24節)。

 今回は、井深八重さん(1897~1989)というクリスチャンをご紹介致します。八重さんのことは、遠藤周作氏が小説にし、『愛』という映画にもなり、17年ほど前に私も見ました。八重さんは同志社女学校で学び、英語教師として長崎に赴任しますが、当時非常な偏見にさらされていたハンセン氏病との診断を受けます。このことは八重さんに伏せられたまま、八重さんは富士山に近い御殿場の神山(こうやま)復生病院(ハンセン氏病専門のカトリックの病院)に入院します。

 そこで初めて病名を明かされ、泣きに泣きます。が、そこで出会った病院長でただ一人の医者・レゼー神父(フランス人)が患者さんたちに献身的に尽くしている姿に尊敬の念を抱きます。当時のこの病院は極貧状態で看護師はいなかったので、八重さんは院長の手伝いをしました。八重さんの病状が悪化しないので、東京の病院で再検査を受けると、何と誤診だったと判明します。神山復生病院を退院してよいのですが、八重さんの気持ちは変わり、自分の意志で「ここで働きたい」と申し出ます。東京の学校で看護師の免許を取り、27才で神山復生病院の看護師として働き始めます。看護、掃除、洗濯、食事作り、畑仕事、募金などあらゆる仕事を引き受け、戦中・戦後の病院の困難な時期を乗り切りました。独身で60年以上働き、「母にもまさる母」と慕われたそうです。亡くなる前には「神様の待っておられるよいところへ行きます。喜んで」と語られたそうです。1992年に『知ってるつもり』というテレビ番組で紹介され、大きな反響を呼んだそうです。
           
 神山復生病院の敷地内の八重さんのお墓には直筆で「一粒の麦」と刻まれているそうです。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネによる福音書12章24節)。エゴに死んで、神様と隣人のために献げ尽くした見事な生涯と感服するほかありません。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-03-18 2:05:18(火)
「マナ 神様の恵み」 2014年3月16日(日) 受難節第2主日礼拝説教  
朗読聖書:出エジプト記16章1~36節、ヨハネによる福音書6章53~59節

「主はモーセに言われた。『見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。~ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている。』」(出エジプト記16章4~5節)

 イスラエルの民は、意気揚々とエジプトから脱出したのです。しかし早速、試練に直面します。荒れ野には水や食物が乏しいのです。彼らはぶつぶつ不平を言います。私たちにも身に覚えのあることです。(2~3節)「荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。イスラエルの人々は彼らに言った。『我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。』」 しばらく前に葦の海での劇的な奇跡を体験したばかりです。感激は簡単に冷めてしまい、もう神様を信頼できなくなってしまったのです。神様に失礼な情けない姿です。せっかくエジプトから脱出できたのに、「エジプトで死んだほうがましだった」などと言うのです。もしエジプトでの奴隷生活に戻ったなら、「エジプトを脱出したときは本当によかった」と不平を言うでしょう。

 神様は忍耐強い方です。怒りもせずにおっしゃいます。(4~5節)「主はモーセに言われた。『見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている。』」 エジプトに引き返すのではなく、神様を信頼して進めということです。神様は、毎日必要な分だけパンを与えると約束して下さいます。だから毎日必要な分だけ集めなさいとおっしゃいます。欲を出して次の日の分まで集めてはいけないのです。次の日の分は神様がちゃんと次の日に与えて下さいます。そのことに信頼しなさいというのです。但し、六日目は別です。六日目は金曜日、その次の土曜日は安息日です。安息日は神様への礼拝に集中する日、いかなる労働もしてはならない日です。食物を集めることもしてはならないのです。礼拝に全身全霊を集中するのです。では安息日は食事なしなのでしょうか。そうではありません。神様はちゃんと六日目の金曜日に二日分のパンを与えて下さるのです。ですから安息日にパンを探しに行かなくても大丈夫ですし、行ってはならないのです。神様が事前に配慮して下さいます。

 イスラエルの民も私たちも不平不満を言うのが得意です。私たちは「自分が言う不平は正当だ」と考えてしまうのです。本当に正当かどうかは神様が判断して下さいます。モーセとアロンは人々の不平に閉口して、言います。(6~8節)「モーセとアロンはすべてのイスラエルの人々に向かって言った。『夕暮れに、あなたたちは、主があなたたちをエジプトの国から導き出されたことを知り、朝に、主の栄光を見る。あなたたちが主に向かって不平を述べるのを主が聞かれたからだ。我々が何者なので、我々に向かって不平を述べるのか。』モーセは更に言った。『主は夕暮れに、あなたたちに肉を与えて食べさせ、朝にパンを与えて満腹にさせられる。主は、あなたたちが主に向かって述べた不平を、聞かれたからだ。一体、我々は何者なのか。あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ。』」

 神様は忍耐強い方で、不平を聞いてもすぐにはお怒りになりません。神様は、夕暮れには肉を与え、朝にはパンを与えて満腹にすると約束されます。そして12節で、「あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる」とおっしゃいます。神様が直接食べさせて下さいます。この恵みの事実によってイスラエルの民は、この神様こそ真の神様であり、自分たちの命を造り、食べ物を与えて下さる方であることを知り、この方のみを礼拝するように導かれるのです。私たちも同じです。あちらに誘惑され、こちらに惑わされるのではなく、この唯一の神様を礼拝することに集中します。

 神様は約束を果たされます。(13~15節)「夕方になると、うずら飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。『これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。』」 「これは一体何だろう」は原語で、「マーン・フー」です。直訳すると「何だ、これは」です。私たちがマナと呼ぶ食べ物の原語はマーンです。「マーン」が「何」、「フー」が「これ」です。「何」という意味の「マーン」がそのまま食物の名前になったのですね。「何だ、これは?」と人々が不思議に思いながらマナを拾い上げている情景が目に浮かびます。因みに「マーン」は新約聖書(ギリシア語で書かれている)では「マンナ」です。それはそれまで人々が見たことがなかった、薄くて壊れやすいもの、霜のようなものでした。これが神様からの恵みの食物です。

 神様はモーセを通して仰せになります。(16節)「『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり1オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。』」1オメルは約2.3リットルです。一人一日1オメルで十分なのです。ところが多く集める者も出るのです。あさましい姿ですが、これが欲望多き私たちの現実の姿かもしれないのです。ですが神様が公平になるように正されます。(17~18節)「イスラエルの人々はそのとおりにした。ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。しかし、オメル升で量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた。」現実の世の中には、持てる者と持てない者がいます。神様は、このような貧富の差がなくなって、世界中の皆で持てるものを分け合うことをお望みに違いないのです。経済的に富んでいる国と国民が飢えている地域がありますが、世界の食物を本当に公平に分配すれば足りると聞いたことがあります。今の貧富の差が大きくある世界の状態は非常に罪深いですね。神様が悲しんでおられることでしょう。クリスチャンではないようですが、相田みつをという方に、「奪い合えば足らぬ 分け合えば余る」という言葉があります。これは確かに1つの真理です。「奪い合えば足らぬ 分け合えば余る。」

 モーセは神様のご意志に従って人々に、その日に必要な分のみ集めよと言い、それを翌朝まで残しておいてはならないとも言いました。ですが何人かはそれに聴き従わず、一部を翌朝まで残しておきました。虫がついて臭くなったので、露見してしまいます。モーセが正義の怒りを表したので、人々はモーセに従い、朝ごとに必要な分だけを集めるようになります。神様は永遠に生きておられるので、明日も必ず養って下さる。この神様に信頼しなさいとうことです。しかし六日目になると、人々は二倍の量、一人当たり2オメルのパン(マナ)を集めたのです。代表者たちがこのことをモーセに報告すると、モーセは言います。(23節)「これは主が仰せられたことである。明日は休息の日、主の聖なる安息日である。焼くものは焼き、煮るものは煮て、余った分は明日の朝まで蓄えておきなさい。」

 安息日は礼拝に集中する日です。労働は禁止されており、マナを探しに行くことも許されていません。そこで神様は、前の日の金曜日に二日分のマナを与えて下さったのです。神様を信頼してよいのです。ところが神様を信頼できず、何人かが安息日にマナを集めに行ったのです。しかし何もありませんでした。神様はモーセを通してイスラエルの民をお叱りになります。(20節)「主はモーセに言われた。『あなたたちはいつまでわたしの戒めと教えを拒み続けて、守らないのか。よくわきまえなさい。主があなたたちに安息日を与えたことを。そのために、六日目には、主はあなたたちに二日分のパンを与えている。七日目にはそれぞれ自分の所にとどまり、その場所から出てはならない。』」七日目は礼拝の日です。民はそのことをわきまえるようになり、七日目にマナを探す人もいなくなったようです。

 (30~31節)「民はこうして、七日目に休んだ。イスラエルの家では、それをマナと名付けた。それは、コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした。」コエンドロという植物は、「セリ科で30~40センチの一年生草木」(木幡藤子・山我哲雄訳『出エジプト記 レビ記』岩波書店、2000年、76ページ)で、「実は甘く、菓子に入れる」(同)そうです。カトリック教会が聖餐式に用いるパンをホスチアと呼ぶそうです。ホスチアはやや煎餅のようでパリっとしているそうです。ホスチアは聖餐式用に作られ、もちろん第一にイエス・キリストの御体です。ホスチアは、酵母(イースト菌)を入れないで作るそうで、イスラエルの民が出エジプトした少し後に焼いた「酵母を入れないパン菓子」、「種入れぬパン」の意味をも持たせているそうです。自分たちもイスラエルの民の荒れ野での苦難を忘れないためでしょう。ホスチアは口に入れると割に早く溶けるらしいです。それはマナでもあると最近聞きました。マナは「薄くて壊れやすいもの」と書かれていますから、ホスチアはそれに似て早く溶けるのでしょう。ホスチアは、第一にイエス・キリストの御体であり、同時に出エジプト記の「酵母を入れないパン」の面とマナの面をも持っていることになります。信仰的に深い中身を持っています。

 神様は、マナをイスラエルの民に40年間も与え続けて下さいました。イスラエルの民が約束の地・カナンの地に入る直前まで与え続けて下さったのです。神様は私たちにも、日々の食物を与え、必要を豊かに満たして下さっています。本当に感謝です。マナはぜいたくな食物ではなく、質素な食物です。私たちの罪は、時として神様が与えて下さるマナだけで満足できなくなることです。私たちは貪欲になることがあるのです。

 先週の火曜日から木曜日まで、私は日本基督教団が主催した東日本大震災国際会議に参加させていただきました。多くの話を聴き、全てを消化することはできておらず、もう一度資料を読み返してみる必要があります。会議の内容は後で本になって出版される予定と聞きました。会議のテーマは「原子力安全神話に抗して―フクシマからの問いかけ」です。クリスチャンの間でも原発への意見は様々あるでしょうが、この会議はテーマから分かるように原発に批判的な内容に終始しました。二日目の朝の小礼拝の時間を韓国の女性が司会しました。創世記3章の「蛇の誘惑」の箇所を朗読されました。(6節)「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」なぜこの箇所を読まれたのかなと思いましたが、やはり原子力を利用することが、神様にたった1つ禁じられた木から実を取って食べたエバとアダムの姿と重なるからでしょう。エバが、蛇に象徴される悪魔の誘惑に負け、神様にたった1つ禁じられていた木から実を取って食べて欲望を満たしたことが、原発に依存する快適な生き方を選び取った私たちと同じだと思われたからでしょう。

 神様は気前の良い方で、創世記2章16節でアダムにこう言われたのです。「園(エデンの園)のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」エデンの園に木が何本あったか分かりませんが、仮に30本あったとすれば、神様は29本からは食べてよいとおっしゃったのです。ただし善悪の知識の木からだけは、「決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と、はっきり言われました。食べてよい木がたくさんあるのに、それで満足できないところに私たち人間の罪があります。マナさえあれば十分生きて行くことができるのに、「マナばかりで何もない」とぶつぶつ不平を言ってしまうところに、私どもの罪があります。蛇は創世記3章5節でエバを誘惑して言います。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」この一言にエバは負けます。ここに「善悪を知るものとなる」とありますが、ある解釈によると「善」と「悪」の対象的な言葉2つを並べることで「全て」の意味となるそうです。すなわち「神のように善悪を知るものとなる」とは、「神のように全部を知るものとなる」、「神のように全知」さらには全能になる。エバとアダムはこの欲望を満たそうとして傲慢になり、神様の禁を犯し、エデンの園から追放されたのです。

 原発にも似た面が大いにあると言わざるを得ません。原子力は巨大なパワーですから、これを自由自在にコントロールできれば、人間は神に近い力を手に入れることになります。それは傲慢ですから、神様がお認めになるはずがありません。原子力を人間の都合のよいようにコントロールしようとする人間の試みは、神様からご覧になれば傲慢ですから、最後には必ず挫折すると思います。エデンの園から追放されたエバとアダムの過ちを繰り返し、愚かさを繰り返すことになります。今のうちに方向転換することが賢明です。罪を悔い改めるということは、生き方を方向転換すること、神様に従う生き方に方向転換することであると、聖書を読む私どもは知らされています。素直に方向転換することがベストです。

 イスラエルの民は、厳しい荒れ野を旅しています。そこで神様に多くの不平を言う罪を犯しています。今、キリスト教会はイエス様の十字架を強く思う受難節を過ごしています。受難節は日曜日を除く40日間です。日曜日はイエス様の復活を喜
ぶ日なので、受難節の40日間から除かれています(それでも、受難節第○主日という言い方をしますが)。なぜ受難節が40日間かと言うと、イエス様が40日間に渡って悪魔から誘惑を受けられた「荒れ野の誘惑」に合わせてあるからです。イエス様は40日間、夜も昼も断食なさいました。イエス様の立派なことは、その間一言も不平を言わなかったことです。それどころかイエス様は、お生まれになってから十字架の上で死なれるまで、どんなに辛いときも、一生にただの一度もぶつぶつ不平を言われなかったのです。イスラエルの民や私どもと対照的です。十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれましたが、それは問いかけであって不平ではありません。

 今日の出エジプト記は、神様が恵みのパン・マナを与えて下さった事実を述べています。パンは非常に大切です。そのことを十分ご存じの上で、イエス様は「荒れ野の誘惑」のときに悪魔に向かって明確に言われます。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイによる福音書4章4節)。パンは大事ですが、食べるだけでよいなら動物と変わりません。お腹いっぱいになることよりもっと大切なことがある。それは神様の御言葉を学び、神様の御言葉に従うことです。パンもお金も大事、経済は大事。でももっと大事なものがあります。聖書に書かれた神様の尊い御言葉を学び、神様に従うことです。経済最優先は、イエス様の御心ではありません。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」神様の御言葉こそ、私たちの生き方を正しく導く心のパンです。ですから私は敢えて申し上げます。「人はパンだけで生きるものではない。神様の御言葉が語られる礼拝によって生きる」と。イスラエルの民も、安息日は礼拝最優先で、マナを探すことも許されませんでした。でも神様は、ちゃんと前の日に二日分のマナを与えて下さったのです。

 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる。」この御言葉を言い換えると、イエス様がマタイによる福音書6章33節以下でおっしゃった次の御言葉になります。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(パンや必要なもの)はみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」 すばらしい御言葉です。私たちの迷いを追い払ってくれます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」 何よりもまず神様に従いなさい。何よりもまずイエス様に従いなさい。そうすれば後は神様が支えて下さる。

 最後に、ヨハネによる福音書6章53節以下を見ます。イエス様の驚くべき御言葉です。イエス様ご自身が命のパンなのです。イエス様ご自身が、イスラエルの民に与えられたマナ以上の、真のマナなのです。聖餐式のときにぜひ思い出したい御言葉です。「イエスは言われた。『はっきり言っておく。人の子(イエス様)の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなもの(マナ)とは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。』」

 聖餐式でイエス様の御体であるパンと、イエス様の御血潮であるぶどう汁をいただく人は、真のマナ・命のパンを食べているのであり、永遠の命を受けているのです。大きな感謝です。ぜひ全ての方が洗礼をお受けになり、ご一緒にあのパンをにお食べになることを切に祈ります。アーメン(「真実に、確かに」)。