日本キリスト教団 東久留米教会

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2014-01-09 11:48:25(木)
「日本の伝道のために」 2012年6月24日(日)東久留米教会修養会メッセージ(牧師:石田真一郎)
聖書:コリントの信徒への手紙(一)1章18節~31節

1.日本でキリスト信仰があまり広まらないのはなぜか

 これは私の反省ですが、聖書の神様のこと・イエス・キリストのことが大胆に宣べ伝えられていないと思います。多くの日本人はキリスト信仰がどのような信仰か知りません。信じる前に、拒む前に、キリスト信仰の内容を知りません。そこでクリスチャンは、「キリスト信仰はこのようなものだ」と、あらゆる機会をとらえて発信することが必要と思います。反発されることもあると思いますが、まずはキリスト信仰がどのような信仰か多く発信しないと、日本人が信じることも拒むこともできないでしょう。

 私は1966年8月生まれですが、私と同じくらいか若い世代でキリスト信仰への関心が高いとは言えないと感じます。ある男性が、「信仰して何のメリットがあるのですか」と言ったと聞いたことがあります。「メリットがないことはする意味がない」という考え方です。「自分にとってプラスになるなら信仰にも意味があるが、プラスがないなら信仰する意味はない」という考え方です。この考え方の人は多いのではないかと思います。特に競争社会で働いている方に、この考え方は当然になっているように思います。メリット重視の考え方、実利的な考え方です。はっきり言えば自己中心的な考え方です。ですがこの考え方が自己中心的だと思う感覚がない方が多いのが現実ではないかと思います。

 神様を礼拝することは、人間がメリット(ご利益)を求めてすることではありません。神様を自分の主なるお方として讃美し、自分は脇役(奉仕者)になることが礼拝です。もっともキリスト信仰には実は最大のメリットがあります。私どもが罪の赦しと永遠の命をいただくという最大のメリットです。お金が儲かるとか、出世できるという地上的なメリットを得ることが一番大事ではありません。「メリットがあることにのみ価値がある」という考え方自体をひっくり返すことが必要です。キリスト信仰は、自分を中心に生きることではなく、神様を中心に生きることです。この考え方が受け入れにくいことが、キリスト教が日本で広まりにくい最大の原因ではないかと思います。イエス・キリストが十字架にかかるほどに私どもを愛し抜いて下さった。この愛に応えて生きることがキリスト信仰です。私たちは悲しいことに、クリスチャンになっても自己中心をなかなか捨てきれないのです。今の日本では「自分がやりたいことする」ことが以前よりもよしとされています。自己実現を願う人が多いと思います。自分の幸せを第一に考えてしまうのです。しかし神様中心に生きることは、自己実現とは正反対の生き方です。

 キリスト信仰が今の日本で受け入れられにくいもう1つの原因は、私は1995年に発生したオウム真理教の地下鉄サリン事件だと考えています。それまで教会に青年は少なくなかったと思います。けれどもあの事件の頃から、「宗教は危ない、宗教は危険だ。宗教に入ると洗脳される。マインドコントロールされ、人生を狂わされる。宗教には近づかない方が安全だ」という考え方が非常に広がったように感じます。最近半年の間に、オウム真理教の逃走していた容疑者が3名逮捕され、宗教に対する警戒心がまた強まっていると感じます。私が以前教会に誘った友人は、親御さんに「宗教に深入りするな」と言われたと言っていました。最近もいくつかの宗教法人が不祥事を起こして新聞に報道されています。宗教法人という言葉のイメージは一般によくないと思います。宗教法人全体の社会的信用が落ちていると感じます。オウム真理教の事件を考えると、多くの日本人が「宗教は怖い」と感じることも無理はないと思います。確かに宗教には注意すべき点があります。キリスト信仰を含めて宗教は、「信じること」を求めます。オウム真理教では「信じる=盲目的に信じる=思考停止」でした。キリスト信仰は決して思考停止であってはなりません。クリスチャン一人一人が聖書を読み、祈り、礼拝や祈祷会に出席し、学び、何がイエス・キリストに喜ばれる正しいことか自分の頭で考え、正しく信じ、正しく判断し、正しく行動することが大切と思います。そして間違った教えや決定に引きずられないことが大切と思います。私たちの信仰は、決して思考停止であってはなりません。自分の頭で考えること、自分の責任で考えることを怠ることはできません。それがクリスチャンとしての成熟した生き方です。

 「キリスト教(キリスト信仰)は良い宗教だ」と思っていただけるように努力したいと思います。小学生の教科書にマザー・テレサのことが書かれています(ただしキリスト教という言葉が省かれていました)。貧しい方々への無償の奉仕に生きたマザー・テレサは、今の日本で尊敬されています。子どもが読むマザー・テレサの伝記もよく売れているそうです。伝道が進むためには、やはりクリスチャンが尊敬されることが必要だと思います(簡単なことではありませんが)。 信徒や牧師が立派な人格者として尊敬されるようであれば、クリスチャンが増えると思います。

 キリスト信仰が広まりにくいさらにもう1つの理由は、洗礼を受けてクリスチャンになると縛られる(束縛される)、自由がなくなる、窮屈になると思う方が少なくないことと思います。信仰は確かに1つの価値観なので、価値観の強制が嫌がられることは事実です。制約を受ける、縛られることへの拒否感があると思います。今の若い世代は70代・80代の方々に比べると自由に育っていますから、自由を失うことを特に苦痛に感じるようです。洗礼を受けると日曜日に遊びに行ったりするよりも、礼拝に出席することが求められます。考え方、時間の使い方、ライフスタイルまで変更することになるでしょう。それらを人生の途中から変更することは確かにしんどいことです。今は週休二日制がかなり浸透しましたので、日曜日だけが休みだった頃に比べると礼拝に出席しやすくなっていますが、それでも礼拝というと真面目で窮屈に感じてしまうのでしょう。そもそも多くの日本人には、日曜日に教会の礼拝に行くという習慣と発想がありません。この習慣と発想を社会に定着させるためには非常に多くの祈りと努力が必要です。

 そして信じることは心の問題ですから、信仰を勧められることは心の中に侵入されるようで、拒否されてしまうのです。強く押すと人は心を閉じますから、あまり強く押さない程度に聖書の話をすることが必要でしょう。日本人は簡単に心を開かない(心を開くことが苦手な)民族のように思います。特にオウム真理教の事件以来、人々は宗教に警戒心を抱いています。子を大学等に入学させる親が心配することの一つは、子が悪い宗教(カルト宗教)にはまってしまうことです。学校も親も、学生(子)を悪い宗教(カルト宗教)から守ることに力を入れています。それは当然のことです。悪い宗教(カルト宗教)は、人々に自分の頭で物事を考えさせないのです。繰り返しますが、キリスト信仰は決して、自分の頭で物事を考えさせない思考停止になってはなりません。私たちは聖書を読み、祈り、何が正しいことで何が悪いことかを、自分の頭と自分の責任でいつも考えることが大切です。考えや判断を牧師や他の人に丸投げしないようにすることが大切と思います(皆様はもちろんそのようなことはしておられないと思います)。

 そして若い世代では「活字離れ」「本離れ」があるように思います(ケータイとパソコンを除く)。プロテスタント教会は特に聖書を読むことを重んじますから、
聖書を読んで生き方を考えたり、話し合ったりすることが窮屈に感じられるのではないかと思います。現代はインターネットなどで多くの情報を得て、行動する時代です。ですから聖書をじっくり読んで、真理とは何かを考えたり、人生の目的は何かと考えることが減っている時代と感じます。教会が不真面目な所になるわけにもいきません。そこが若い世代に敬遠されるのでしょう。ですが、できれば若いときに素直に神様を信じ、洗礼を受けることが望ましいのです。大人になると、現実にばかり直面するようになり、現実と取り組むことに精一杯になり、じっくり聖書を読む時間がとりにくくなります。人生の途中でキリスト信仰を受け入れる決心をする方は、しばしば「清水の舞台から飛び降りる」思いで洗礼を受けると言います。

 日本人がキリスト信仰をあまり受け入れない理由には、神様の存在が実感できない、神様を信じる必要性が感じられない(信じなくても困らない)ということもあると思います。現代の日本では、モノも食べ物もあふれており、物質的に満たされています。多くのことが人間の力・特に科学技術の力で解決(改善)されます。そこで神様を信じる必要が感じられないのだと思います。平均寿命がのび、医療も発達し、(問題もあるとはいえ)延命治療も進歩しました。それで「永遠の命」への憧れが薄らいだと言えないでしょうか。また家族や同僚が教会に行かないので、自分も行く理由がないという方も多いと思います。社会全体としてキリストをぜひ信じたいとのムードは稀薄です。神を信じることは弱い人間のすることで、自分は弱い人間ではないので信じないという方もあると思います。そして信じる・信じない以前のこととして、キリスト信仰がどのような信仰なのか、聖書に何か書かれているのか知らない方が多いのです。ですから私たちは、キリスト信仰がどのような信仰か、聖書にどんな御言葉があるか、言葉と行いでいつも伝えて参りたいのです。

2.苦難とキリスト信仰が結びつきやすいのではないか

 お隣の韓国はキリスト信仰が非常に盛んな国ですが、それでも経済発展してからは教会成長が鈍ったと聞いたことがあります。人々がこの世で幸せになると、神様を信じる熱意が薄らぐのです。日本で科学的思考が浸透していることもキリスト信仰を受け入れにくくしています。イエス・キリストが行う奇跡、また復活の記事を読んで、「あり得ない」と感じてしまうのです。そこでイエス・キリストや聖書を、自分に関係ないもの、と思ってしまうのです。そこを乗り越えるには理性では不十分で、やはり聖霊のお働きによって信じることができるようにさせていただくことが必要です。また「イエス・キリスト以外のすべての人が罪人である」という教えが反感を買うこともあると思います。多くの真面目な日本人は、自分は比較的よい人間だと思い、「イエス・キリスト以外のすべての人が罪人である」という教えに反発するのではないかと思います。このようにキリストを信じない理由には事欠かないのですが、それでもあえて決断して信じることが信仰です。

 日本に最初にキリスト信仰をもたらしたのはフランシスコ・ザビエルです。ザビエルは戦国時代の1549年8月15日に、現在の鹿児島市に来着しました。今から460年以上前です。不思議にも戦国の日本でキリスト信仰はあっと言う間に広まりました。形だけのクリスチャン(キリシタン)もいたでしょうが、殉教するほど真剣なキリシタンも少なくなかったのです。戦国時代は庶民にとって希望のない時代だったと思います。畑を作っても戦で荒らされることもあったでしょう。飢饉で飢餓に瀕することもあったでしょう。現世に希望が見出しにくい時代でした。そこで神様、永遠の命に心を向けやすい状態にあったと思うのです。20年くらい前に仙台に行ったとき、市内を流れる広瀬川の河畔にキリシタン殉教の場がありました。「こんな北にまでキリスト信仰が広まっており、殉教者まで出ていたのか」と驚きを覚えました。当時のキリシタンは100万人近くいたとも言われます。今の日本より多いくらいです。当時の人口は今の人口よりかなり少ないのですから、驚くべきことです。豊臣秀吉や徳川家康による迫害があったことも、逆に信仰を燃え上がらせたかもしれません。けれども徳川幕府による徹底的な迫害や鎖国などによって、キリシタンは次第に日本からなくなるように仕向けられました。ですが「隠れキリシタン」によってひそかに明治まで信仰の灯が守り続けられていたのは驚くべき神様の奇跡です(もちろん聖職者も聖書もない中での伝承でしたから、ある程度信仰の変質があったこと否定できないでしょうが)。

 太平洋戦争後にもキリスト教ブームがあったと聞きます。残念ながらブームは一時的だったそうですが、戦後間もなくクリスチャンとなり、伝道者となった方が多くあると聞きます。その方々はそれまで、「天皇のために生き・死ぬことこそ人生の目的」と教えられて来たそうです。ところが敗戦に終わり、自分たちが信じて来た生き方(「天皇陛下のために生きる」)を否定されました。その精神的危機の中で立ち直れなかった方もあるそうですが、ある方々は生き方を探し求める中でキリスト信仰を示され、洗礼を受けてクリスチャンとなり、さらに伝道者となって行かれたのです(その方々が隠退の時期を迎え、今日本の教会は後継者不足に悩まされる時代を迎えています)。

 韓国はキリスト信仰の盛んな国です。熱情的な国民性がキリスト信仰に合っていると感じますが、近代史において苦難が多かったことも現代においてクリスチャンが多いことの1つの理由だと思います。1910年から1945年までは日本の植民地でした。日本は植民地政策で神社参拝を強要しました。純粋なクリスチャンは、「偶像崇拝をすることはできない」と神社参拝を拒否して投獄されました。殉教なさった方々もおられます。これは私たち日本人の罪ですから、心が非常に痛みますし、韓国のクリスチャンの方々に心より謝罪することが大切です。神様が殉教者の血を御心に留めて下さり、朝鮮半島を信仰的に祝福して下さり、多くの人々をクリスチャンとなるように導いて下さったのではないでしょうか。日本による支配が終わると今度は朝鮮戦争(1950年~1953年)により国が南北に分断される悲劇が起こりました。この悲劇の中で人々は懸命に神様に祈ったと思います。その後の韓国では軍事政権が支配し、1980年には多くの市民が犠牲となった光州事件が起こりました。民主化がなされたのは1988年のソウルオリンピックの頃と思います。これらの民衆の苦難の中で、韓国の教会は民衆の味方をしたと聞いています。支配者の側に立たず、貧しい者、苦しむ者の味方に立ったのです。このことによって民衆の信頼を得たと聞きます。このことも韓国で教会が盛んであることの1つの理由と思います。

 軍事政権が支配していた頃、韓国にはガリラヤ教会という教会があったそうです(今もあるかどうか分かりませんが)。この名前にその教会の姿勢が現れていると思います。苦しむ民衆の味方をするという姿勢です。ガリラヤはイエス様が愛され、イエス様が神の国を宣べ伝え、群衆を養い、病人を癒した土地です。イエス様の弟子たちの多くもガリラヤ出身です。ガリラヤには「貧しい民衆・庶民の住む地域」というイメージがあります。教会が身を低くして、ガリラヤで奉仕されたイエス様の姿を模範とすることが、イエス様に喜ばれる道だと思うのです。東久留米教会も今の日本で気持ちの上でそのような教会、「ガリラヤ教会」でありたいと思います(奉仕の姿勢に生きるという意味です)。

 このように歴史を見ると、「苦難とキリスト信仰」が結び付きやすいと感じます。神様が、この世の中で報われず苦難の中にある方々を特に顧みて下さるということがありますし、この世の中で希望を見出しにくい方々が、真の神様に救いを求めることも多くあると思うからです(例外もありますが)。明治維新のとき、東北で戊辰戦争がありました。最も悲惨な運命をたどったと思われるのが会津藩です。薩摩・長州に憎まれて、鶴ヶ城を攻められ、多くの死者を出し敗北しました。生き残った人々は下北半島の斗南(となみ)に送られました。やせた土地で飢餓と戦いながら人々は懸命に生きたそうです。不思議なことに、その会津から明治のキリスト教会を担う人々が出ました。明治学院の責任者になった井深梶之助、同志社の創立に協力した山本覚馬(その妹・八重<2013年のNHK大河ドラマ『八重の桜』の主人公>が同志社の創立者・新島襄の妻)、津田英学塾を援助した山川捨松(女性)、フェリス女学校の若松賎子(『小公子』の訳者。「賎」は「主のはしため」の意味)です。(戊辰戦争より後に生まれた医学者・野口英世も、会津近辺の猪苗代生まれのクリスチャンです。多少人格に問題もあったようですが。)このように負けた側、明治時代の日の当たらない道を生きた会津から、明治のキリスト教会を担う人々が出たことは、神様の導きと思います。

 神様はやはり力ある者ではなく、弱い立場にある人々の味方なのです。次の聖句の通りと思います。「兄弟たち、あなた方が召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選らばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです」(コリントの信徒への手紙(一)1章26節~29節)。

 苦難とキリスト信仰が結び付きやすいのは事実と思います(例外もありますが)。戦国時代の日本、お隣の韓国、明治の会津、皆そうです。敗戦直後の日本もそうでしょう。戦争に敗れ、それまでの天皇中心の価値観も崩壊し、真の救いと価値観を求めてクリスチャンになる方が多く出たのです。しかし戦後の日本では経済復興と共にキリスト教ブームは去りました。このことは、私たちが物質的に豊かであり、お金も十分ある時、神様をあまり真剣に求めないことを意味しています。イエス様が、「あなた方は、神と富とに仕えることはできない」(マタイ福音書6章24節)とおっしゃったことと符合します。私たち人間は、満たされているとき、神様をあまり真剣に求めない傾向があります。満たされているときは、真の神様への飢え渇きがないのです。リッチな社会では、真の信仰は低調になりがちです。「貧しい人々は、幸い」(ルカ福音書6章20節)なのです。東久留米教会初代牧師・浅野悦昭先生の奥様・浅野眞壽美先生がおっしゃったというお言葉が思い出されます。「人は順調なときは、あまり教会に来ない。」これは決して皮肉ではなく、長年教会にお住まいでいらした浅野眞壽美先生の実感だったと思います。伝道が進むために必要な条件があるとすれば、その1つは、人々の魂が真の救い、真の神様の愛を求めて飢え渇くことではないかと思います。そしてクリスチャンも、真の神様への飢え渇きを覚えていないと、あまり熱心に祈らなくなる弱さをもっているのではないでしょうか。神様を愛し、聖書を愛して、一生懸命祈るものでありたいと思います。

3.どうすれば日本人への伝道を進めることができるか

 今の日本では、真面目で固い教会には、あまり若い世代が集まらないと感じます。サービスのよい(親切な)教会に人が集まりやすいのかと感じます(毎週昼食が出るなど。この実行はなかなか大変です)。コンサート、バザー、ゴスペルなど楽しめるイベントが多く、楽しい交わりがある教会に人が集まっているように感じます。「それが今の時代に合う伝道なのか。本当にそれだけでよいのか」と考え込んでしまいます。現代は、真面目が敬遠される時代かもしれません。私たちもコンサートを行いますが、コンサートに来て下さる方が、礼拝に定着し、求道し、洗礼を受け、教会員として歩むようになられることを切に祈ります。日本伝道の長期戦略を語るならば、教会付属保育園・幼稚園の働きは非常に重要と思います。そこでは聖書の話が自由にできますし、保護者も教会につながりやすくなるからです。

 日本の宗教は、何をどう信じているのかあいまいであることが特徴です。もちろん僧侶や神主の方々は仏教や神道の教えの内容をよくご存じと思いますが、一般の日本人は仏教や神道の教えの内容をよく知りませんし、学びたいとも願う人は少ないと思います。あいまいであることが歓迎されています。日本人は理屈っぽい信仰が好きでないように思います。その日本に私たちは明確な信仰告白をもつキリスト信仰を持ち込もうとしています。ですから反発を受けることもありました。「イエス・キリストは私たちの罪を身代わりに背負って十字架で死なれ、三日目に復活された。このイエス・キリストを自分の救い主と信じ、告白する人には永遠の命が与えられる。」これは真理ですが、多くの日本人にとっては聞いたことがないこと、信じてよいかどうか分かりにくいことです。これが真理であることを、私たちが言葉と行いをもって伝えたいと思います。

 理想を言えば、私たちがクリスチャンとして自覚をもって生き、「地の塩、世の光」(マタイ福音書5章13~14節)として、イエス・キリストの真似をしてひたむきに生きることが、身近な人々を感化し、伝道になるのではないかと思います。教会では大人も子どもも、礼拝や祈祷会と共に、聖書を学ぶことが大切であり、聖句暗唱にも積極的に取り組むとよいと思います。最近、渡辺和子シスターの『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎刊)という本が東久留米市の書店でも非常によく売れているようです。この方は尊敬されています。このような本が売れているのですから、聖書のメッセージが日本に浸透することは十分あり得ることです。一生懸命伝道に励みたいものです。私たち一人一人がクリスチャンとして、自覚を強くもって、しっかりと生きることが伝道になるはずと信じています。

2014-01-08 23:50:33(水)
「あなたがたは神の子」 2014年1月5日(日) 降誕節第2主日礼拝説教
朗読された聖書:申命記5章1~22節、ガラテヤの信徒への手紙3章21~4章7節

「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」(ガラテヤの信徒への手紙3章26節)

 このガラテヤの信徒への手紙を書いたのは、イエス様の弟子・使徒パウロです。小見出しには「奴隷ではなく、神の子である」と書かれています。イエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受けた人は神の子とされているということです。私たちはイエス・キリストの十字架の犠牲の死と復活のお陰で、神の子とされているのです。その前に長い旧約聖書の時代がありました。神様がイスラエルの民に律法(神様の戒め)をお与えになりました。律法の代表がモーセの十戒です。律法・モーセの十戒には積極的な役割があります。神様の民がそれを守って、神様の御心に適うよい社会を作る役割です。但し、私たちは皆、罪人なので律法を完全に守ることができません。私たちは律法を読むごとに、自分が律法を守りきることができないことをはっきりと知るのです。自分が罪人であるとの自覚が生じるのです。私たちが自力で天国に入ろうとするならば、律法を100%守る必要があります。99%でもだめです。それがおできになるのはイエス様だけです。私たちは罪人で、律法を100%守ることができないので、自力では天国に入ることができないのです。

 本日の旧約聖書は、申命記5章1節から22節です。モーセの十戒は旧約聖書の出エジプト記20章と申命記5章に記されています。ほとんど同じですが、少し違う部分もあります。本日はその違いを特に取り上げるつもりはありません。ある人は、十戒の一つ一つの戒めを唱えるごとに、「主よ、憐れみたまえ」と祈るそうです。十戒の一つ一つを唱えるごとに、自分がその一つ一つを100%実行できていない事実を自覚するからです。「主よ、憐れみたまえ」とは、「主よ、この戒めを守れない私の罪をお赦し下さい」ということです。悔い改めの祈りに近いでしょう。

 十戒の第一の戒めは、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」ですが、これを唱えると、私たちは自分がこの戒めを守りきれていないことに気づきます。そこで「主よ、憐れみたまえ」と祈るのです。あるいは第八の戒め「盗んではならない」と唱えるごとに、私たちは自分がこの戒めを守りきれていないことに気づいて、「主よ、憐れみたまえ」と祈るのです。私たちが泥棒することはありませんが、私たちは経済的に豊かな国に住んでおり、お金の力で世界のほかの地域の資源を必要以上に買い占めて、それで豊かな生活をしているかもしれないのです。神様はそれを盗みと見ておられるかもしれないのです。東久留米教会初代牧師・浅野先生の奥様・浅野眞壽美先生の愛唱讃美歌の1つが「キリエ エレイソン(主よ、憐れみたまえ)」だったと伺った記憶があります。12世紀のグレゴリオ聖歌ですね。「神よ、罪人のわたしを憐れんでください」との徴税人の祈りを思い出します(ルカによる福音書18章13節)。

 今年は2014年で、3年後の2017年はマルティン・ルターの宗教改革開始からちょうど500年になります。ルターがドイツのヴィッテンべルク城の教会の門扉に「95ヶ条の提題」を貼り出して、当時のカトリックのあり方に疑問を呈したのが宗教改革の始まりと言われます。その第一条は大切です。「私たちの主であり、師であるイエス・キリストが『悔い改めよ』と言われたとき、それは私たちの全生涯が日々悔い改めであることを求められたのである。」当時のカトリック教会が真実な悔い改めを忘れていたのではないでしょうか。しかしそれは他人事ではなく、今の教会も悔い改めを忘れてはいけないのです。残念ながら私たちは、聖なる神様からご覧になると毎日罪を犯していますから、毎日自分の罪を悔い改めることが必要です。「主の祈り」でも、「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」と祈っている通りです。私たちは、悔い改めの前提となる罪をどのようにして知ることができるのでしょうか。それはモーセの十戒をはじめとする神様の律法を学ぶことによってです。律法を学ぶことによって私たちは、自分が律法を守りきっていないことを悟り、自分が罪人であることを悟るのです。

 ガラテヤの信徒への手紙3章21節の後半にこう書かかれています。「万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。」律法は聖なる善いものですが、私たちが律法を実行することで「神様の前に義とされる」、「神様の前に正しいとされる」ことはないのです。私たちが罪人であるからです。「しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです」(22節)。この「聖書」は旧約聖書、そして律法を指します。「律法はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。」律法が、私たちに自分が罪人であることの自覚を与えるということです。自分が罪人であって、このままでは救われない、天国への道が開かれないと知ると私たちは、「それでは自分が救われるにはどうすればよいのか」と考えます。「自分を救って下さる救い主はいないか」と、探し求めます。もし答えがなければ、本当につらいですね。ですが感謝なことに神様は、この真剣な問いへの答えを用意しておられたのです。今やどなたがその救い主なのか、明らかにされました。イエス・キリストです。

 「聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした」(22節)。「神の約束」とは、神様がイスラエルの先祖アブラハムに与えられた祝福を、世界の全ての民族に及ぼす約束です。神様は創世記でこのことを約束されました。イエス・キリストを救い主と信じるすべての人々に、この祝福が与えられるのです。「信仰が現れる前には(『イエス・キリストが現れる前には』と言い換えてもよいと思います)、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで(『イエス・キリストが啓示されるようになるまで』)、閉じ込められていました」(23節)。つまり、イエス・キリストが現れるまで、私たち人間は律法の下で、罪の自覚は生まれるが、救いの道が示されない状態で閉じ込められていた、ということです。

 「こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです」(24節)。ここに律法の大切な役割が明らかにされました。律法は、わたしたちを救い主イエス・キリストのもとへ導く養育係なのです。律法は、私たちに罪の自覚を与え、そして救い主キリストへ導く養育係なのです。私たちがイエス・キリストを信じて、すべての罪の赦しを受け、永遠の命を受けるためです。「しかし、信仰が現れた(救い主イエス・キリストが現れた)ので、わたしたちはこのような養育係の下にはいません」(25節)。私たちは律法の下から、愛の救い主イエス・キリストの下に移ったのです。 

 そして26節です。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼(バプテスマ)を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」これは恵み深い御言葉です。イエス・キリストを救い主と信じて洗礼(バプテスマ)を受けた人は皆、神の子とされているのです。モーセの十戒を守ることができない私たちですが、ただイエス・キリストを信ずる信仰によって、「神様の前に義とされる」、「神様の前に正しい者とに認められる」、「救われる」、「天国を約束される」のです。私たちが聖餐式の時に唱える日本基督教団信仰告白で次のように告白している通りです。「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたもう。」

 私たちはイエス・キリストを信じても、自分の罪がなくなるわけではありません。
残念ですが依然として罪人です。しかし父なる神様は、イエス・キリストという衣を着ている者として、私たちを見ていて下さいます。父なる神様は、救い主イエス・キリストを通して私たちを見て下さいます。ですから、父なる神様の目にはイエス・キリストに包まれた私たちが見えているのです。イエス様は神の子ですから、父なる神様は私たちをも神の子と見なして下さっているのです。今既に、です。もちろんイエス様と私たちは、共に神の子であると言っても、違いもあります。イエス様は最初から神の子ですが、私たちはイエス様の十字架の犠牲の愛のお陰で、後から神の子にならせていただいたのです。天の父がお父様でイエス様が長子、私たちはイエス様の弟妹です。こうして私たちは「神様の家族」です。

 先日12月21日(土)にこの会堂で行ったクリスマスチェロコンサートで、チェロを演奏された井上とも子先生がなさったお話を思い起こします。井上先生は、津波の大きな被害を受けた石巻市にある教会で複数回コンサートをなさいましたが、コンサートの際に、あの津波でご主人を失い、その後別の家族をも亡くされた女性に出会われたそうです。その女性は当然、深い悲しみの中におられました。その後、その方が教会で洗礼をお受けになったということでした。神様の子となられ、教会という神様の家族の一員となられた。そのようなお話でした。神様がその女性に、上よりの慰めをさらに豊かにお送り下さるように、心よりお祈り致します。

 私たちが神の子とされていることに関して、ヨハネの手紙(一)3章1節以下に、次の恵みの御言葉が書かれています。「御父がどれほど私たちを愛してくださるか、考えなさい。それは、私たちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。~愛する者たち、わたしたちは今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子(イエス様)が現れるとき(もう一度おいでになる再臨のとき)、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。」 イエス様がもう一度おいでになるとき、私たちはイエス様のご人格に似た一人一人になるのです。だからと言って、一人一人の個性がなくなるのではないでしょう。それぞれの個性を持ちながら、同時にイエス様のご人格に似た一人一人に作り変えられるのです。そしてイエス様に直(じか)にお目にかかるのです。私たちにはこのような光栄が約束されています。感謝です。

 前の会堂のときは、礼拝前に小グループに分かれて祈祷会を行っていました。ある日、今は天国におられるKさん(男性)とお祈り致しました。Kさんは祈りの中で。「あなた(イエス様・父なる神様)に直(じか)にお目にかかるときまで」と言われました。私は「Kさんは、天国でイエス様に直(じか)にお目にかかると信じる信仰に生きておられるのだな」と心に残りました。コリントの信徒への手紙(一)13章13節にも次のように記されています。「そのとき(神の国の完成のとき)には、顔と顔を合わせて見ることになる」と。私たちがイエス様と直(じか)にお会いするのです。
 
 ガラテヤの信徒への手紙に戻ります。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人(異邦人・外国人の代表)もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(28節)。ユダヤ人は確かに神の民です。しかし今や、ユダヤ人でない人々・異邦人(外国人)も、イエス様を救い主と信じるならば神の民になれるのです。私たち日本人はユダヤ人から見れば異邦人ですが、イエス様を信じることで神の民になることができるのです。もはやユダヤ人と異邦人の別はないのです。

 戦国時代の代表的なキリシタン大名に高山右近がいます。高山右近は自分の領内で誰かが亡くなると、それが農民であっても、領主自らその棺を担いだといいます。「神の国では、領主も領民もない。皆平等だ」と信じ、そのように実行したそうです。現代では当たり前の考えですが、戦国時代ではこのような大名はほとんどいなかったでしょう。高山右近は、豊臣秀吉に信仰を捨てるように求められても信仰を捨てず、大名の地位を捨てました。最後まで信仰を捨てず、晩年に徳川家康によってフィリピンのマニラに追放されました。「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」という御言葉から、今の高山右近のエピソードを思い出しました。

 私たちが神の子とされていることを感謝し、イエス様を救い主と信じて神の子とされる方々が、さらに起こされるように祈って参りましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-01-02 3:03:36(木)
「キリストの愛」 2014年1月1日(水) 新年礼拝説教
朗読された聖書:コリントの信徒への手紙(二)5章11~21節

「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。」(コリントの信徒への手紙(二)5章14節)

 新年おめでとうございます。敬愛する皆様と、この2014年を神様への礼拝をもってスタートできます幸いを、心より感謝申し上げます。

 招詞でお読みしたコロサイの信徒への手紙3章12~14節は、すばらしい御言葉です。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」これはイエス様の弟子・使徒パウロが書いた手紙です。私たちは神様に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのです。

 「愛は、すべてを完成させるきずなです。」あと約2ヶ月で東日本大震災から丸3年になります。あの大震災の前、「無縁社会」という言葉がよく使われました。理由の1つは、お一人で亡くなる方がしばしばおられたからです。そして大震災が起き、地震と津波と原発事故によって、主に東北の方々と自然が大きな被害を受けました。今も続いています。震災後、「絆」が強調されるようになりました。家族の絆、地域の絆です。「無縁社会」という言葉はあまり使われなくなりました。しかしお一人で亡くなる方は今もおられます。大震災から次第に日がたっても、絆の大切さを風化させてはならないのです。

 大震災の約1年後、私たちが属する日本キリスト教団西東京教区の全体研修会が阿佐ヶ谷教会で開催され、奥田知志(ともし)牧師のお話を伺いました。奥田先生は、日本バプテスト連盟東八幡キリスト教会(北九州市)牧師、そしてNPO法人北九州ホームレス支援機構理事長でいらっしゃいます。奥田先生は、「長年支援の現場で確認し続けたことは、絆には『傷』が含まれているという事実だ」(奥田知志『もう、ひとりにさせない』いのちのことば社、2011年、209ページ)とおっしゃいます。実に印象的な言葉です。「絆には『傷』が含まれている。」奥田先生は若い頃、ホームレスの方にお弁当を渡したところ、目の前でひっくり返して捨てられたことがあるそうです。ホームレスの方にも、簡単に人の(若者の)世話になりたくないという誇りがあるのですね。奥田先生もその時は心が傷ついたでしょう。

 「私自身、正直に言うと、だれかと出会うことが怖い。なぜなら、出会うと必ず傷つくからだ。~傷つくことなしにだれかと出会い、絆を結ぶことはできない。~だれかが自分のために傷ついてくれる時、私たちは自分は生きていてよいのだと確認する。同様に、自分が傷つくことによってだれかがいやされるなら、自分が生きる意味を見いだせる」(同書、210~211ページ)。「私たちも二十二年間の路上の支援で、ずいぶん傷ついた。でも、『傷ついてもいいのだ』と言いながら歩んできた。~しんどいが豊かな日々だった。絆とは傷つくという恵みである」(同書、211ページ)。奥田先生は路上生活者の支援をなさりながら、善意が報われるとは限らず、裏切られるなどして傷つくことが多かったのでしょう。「絆には『傷』が含まれている。」確かに1つの真理です。

 そして私たちは、主イエス・キリストを思います。イエス様の十字架を予告した旧約聖書のイザヤ書53章(5節)に「傷」という言葉が出てきます。
「彼が刺し貫かれたのは/ わたしたちの背きのためであり
 彼が打ち砕かれたのは/ わたしたちの咎のためであった。
 彼の受けた懲らしめによって/ わたしたちに平和が与えられ
 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
実に痛ましいことですが、イエス・キリストは、私たちのすべての罪を背負って、十字架で両手両足に釘を打たれ、腹を槍で刺され、深い傷を負われました。そのお陰で私たちの全部の罪が赦されたのです。そのお陰で、(それまでは切れていた)父なる神様と私たちの絆が回復されたのです。イエス様は、私たちのために誰よりも深く傷ついて下さったお方です。

 そして、新約聖書のコリントの信徒への手紙(二)5章を見ます。「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです」(14節)。イエス・キリストの十字架の犠牲の愛が、これを書いたパウロの心を打ち、パウロを伝道へ駆り立てます。そして私たちを伝道へ駆り立てるのです。「わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方(イエス・キリスト)がすべての方のために死んで下さった以上、すべての人も死んだことになります」(14節)。イエス・キリストは、私のために、皆さんのために十字架で死んで下さいました。この事実を今、新しい気持ちで、心より信じましょう。皆様全員が、イエス・キリストをご自分の救い主と信じ、告白して下さることを、心よりお祈り致します。イエス・キリストを救い主と信じ、告白する人には永遠の命が与えられるのです。それは死を超えた永遠の希望、確かな希望です。

 「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方(イエス様)のために生きることなのです」(15節)。イエス様の十字架の傷によって救われた私たちは、もはや自分の欲望実現のために生きることはできません。イエス様に感謝して、イエス様への奉仕に生きるのです。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(17節)。「新しく創造された者」、「新しいものが生じた」と書かれているので、この御言葉をこの新年礼拝のために選んだ面はあります。私たちは、できるだけ洗礼を受ける方がよいのです。洗礼を受けるとき、私たちはイエス様と共に十字架で死に、イエス様と共に復活します。古い自分に死に、罪を赦された新しい自分に復活するのです。 

 新しい年を迎えることができたことは、確かによいことです。しかし残念ながらこの新しさも、3ヶ月、4ヶ月とたつうちに次第に古くなります。本当の新しさは、神様が私たちの心を造り直して下さることによってのみ実現します。神様が私たちの自己中心的な心を、イエス様の心に似た心、父なる神様と隣人を喜んで愛する心に造り直して下さることによってのみ、真の新しさがもたらされます。

 「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」(18~19節)。
父なる神様は、イエス・キリストを救い主と信じた人については、もはや罪の責任をお問いにならないのです。その人のすべての罪を完全に赦して下さったのです。実に恵い深い御言葉です。「この和解の恵みの福音を宣べ伝えなさい。」これがキリスト教会に与えられた使命です。「ですから、神が私たちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」(20節)。私たちはキリストの使者なのです。神様によってこの礼拝の場から派遣され、キリストの使者としてそれぞれの家庭、職場、地域へ赴くのです。キリストの和解の福音を、言葉と行いでお知らせするために赴くのです。コリントの信徒への手紙(二)5章11節以下のテーマは和解です。
 
 和解という言葉で連想するのは、南アフリカ共和国の大統領を務められたネルソン・マンデラ氏です。残念ながらマンデラ氏は先月、95歳で天に召されました。マンデラ氏は、プロテスタントのメソジスト教会で洗礼を受けておられるそうです。マンデラ氏は和解の人です。マンデラ氏は、南アフリカの悪名高きアパルトヘイト(人種隔離政策)を廃止するために人生を献げた方です。アパルトヘイトに反対する活動を行ったために1962年、44歳のときに逮捕され、1964年に国家反逆罪で終身刑となり、ロベン島に収監されます。そして計27年間も獄中生活を送られました。その間、重労働をなさったそうです。同時に勉強もなさったようで、1990年2月に71歳で釈放されたときには、大統領になる準備ができていたそうです。

 1994年に南アフリカ共和国史上初の全ての人種が参加しての選挙で、初の黒人大統領に選ばれました。ついにアパルトヘイトは廃止されました。マンデラ氏は1993年に、前任の大統領デクラーク氏と共にノーベル平和賞を受賞しておられます。大統領就任演説で「人種が融和する虹の国をつくろう」と国民に語りかけたそうです。虹は七色だそうですから、全ての人種や色々な個性を持つ人々が和解して、共に生きる国をつくろうと呼びかけたのでしょう。すばらしいメッセージです。白人による黒人支配は4世紀にも及んだそうです。その相手の白人を恨まず憎まず、赦し愛して、一緒に国をつくろうと呼びかけたのです。まさにイエス様の御言葉「敵を愛しなさい」を実践なさった方だと尊敬します。現代にあってイエス様に近い心で生きられた希有な方ではないでしょうか。 

 27年間もの獄中生活にどうして耐えることができたか。マンデラ氏は3つの理由を挙げておられると読んだことがあります。1つ目は、アパルトヘイトをなくすという強い目的意識を持っていたこと。2つ目は、支えてくれる人たちがいたこと。3つ目は、神様への信仰を持っていたこと。マンデラ氏も若いころは白人への憎しみを抱いておられたかもしれませんが、神様がマンデラ氏の心を、新しくつくり直して、イエス様の心に似た心を与えて下さったのだと思います。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」の御言葉が、マンデラ氏に見事に当てはまると思うのです。
 
 聖書で虹は、ノアの洪水の後に登場します。神様が言われます。「わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない」(旧約聖書・創世記9章14~15節)。虹は神様の愛のシンボルです。さらに私は、マンデラ氏が「虹の国をつくろう」と言われたことで虹が、肌の色が違う人々・色々な個性を持つ人々が調和して生きることのシンボル、個性の違う人々が互いに愛し合うシンボルでもあることに気づかされました。虹は、イエス様の十字架の愛のシンボルとも言えるのです。神様と人の和解のシンボル、人と人の和解のシンボルです。虹を見るたびに、このことを思い出したいのです。

 どうか神様が、私たちのエゴイズムに汚れた心を新しく作り直し、イエス様の心に似た心、和解の心、虹の心に変えて下さいますように祈ります。アーメン(「真実に、確かに」)。

2013-12-31 0:02:29(火)
「神様の保護」 2013年12月29日(日) 降誕節第1主日公同礼拝説教
朗読された聖書:ホセア書11章1~4節、マタイによる福音書2章13~23節

「それは、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」(マタイによる福音書2章15節)

 幼子イエス様を礼拝した占星術の学者たちは、ヘロデ王のもとに戻らず、別の道を通って自分たちの国・東方に帰って行きました。ユダヤ人の王が誕生したと知らされたヘロデ王は、自分の地位が脅かされると考え、誕生した王を亡き者にしようと決意しています。生まれたばかりのイエス様は、早くも命を狙われているのです。ヘロデ王は悪魔の化身のような男です。父なる神様は、天使を送ってイエス様一家に危機を知らせて下さいます。「占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。『起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている』」(13節)。

 ここで目立つのは、イエス様の父ヨセフの従順さです。ヨセフはマリアの夫、イエス様の保護者としての責任を全力で果たすのです。「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」(14~15節)。 この預言者は、旧約聖書に登場するホセアです。預言者ホセアは、預言者イザヤと同時代人であり、紀元前8世紀のイスラエルで神様に奉仕しました。

「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。
 エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」(ホセア書11章1節)。
これはもちろん出エジプトの出来事です。神様は、エジプトで虐げられていたイスラエルの民を愛しておられました。そしてイスラエルの民をエジプトから脱出させて下さったのです。しかし2節以下には神様の嘆きが記されています。イスラエルの民が、エジプトから救い出して下さった真の神様から離れ、偶像(偽物の神、その正体は悪魔)に心を惹かれ、偶像礼拝を行うようになってしまったからです。

 「わたしが彼らを呼び出したのに/ 彼らはわたしから去って行き 
  バアル(偶像)に犠牲をささげ/ 偶像に香をたいた。
  エフライム(イスラエル)の腕を支えて/ 歩くことを教えたのは、わたしだ。
  しかし、わたしが彼らをいやしたことを/ 彼らは知らなかった。
  わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き
  彼らの顎から軛を取り去り/ 身をかがめて食べさせた」(2~4節)。

 神様が、荒れ野を旅するイスラエルの民を、愛情をこめて守り導かれ、日々身をかがめてマナという食物で養って下さったのです。それなのに、イスラエルの民がご自分を離れて、偶像を愛するようになってしまったことを、神様が悲しんでおられます。イスラエルの民は、このような罪を犯してしまいました。

 マタイはホセア書を引用して、「『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」と書きます。イエス様もイスラエル人の一人、イエス様こそ真のイスラエル人です。イエス様はヨセフとマリアに守られてエジプトに避難し、その後エジプトを出てイスラエルに戻られます。いわば第二の出エジプトです。イエス様は全く罪がなく、全く罪を犯さない唯一の人(そして神の子)ですから、第二の出エジプトをなさっても、旧約時代のイスラエルの民と違って、父なる神様に逆らう罪を一度も犯されることなく、父なる神様に100%従順に従い通されます。父なる神様のご意志に100%一致する生き方を、生涯貫かれるのです。イエス様は、旧約のイスラエルの民の失敗を繰り返すことなく、反対にその失敗を取り戻すように、父なる神様の御心に100%適う生き方を貫かれるのです。

 そして見方を変えれば、イエス様はエジプトという外国に、難民として逃げる経験をなさったのです。ホームレスなられました。ですからイエス様は難民・ホームレスの方々の味方ではないかと思うのです。今の日本には原発事故のために故郷を追われた方々が多くおられます。イエス様はその方々の気持ちをよく分かって下さるに違いありません。

 「さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」(16節)。 
ヘロデはヒットラーのような残酷な男です。恐るべき虐殺をさせました。悪魔がヘロデを通して猛威をふるっているのです。ヒットラーに抵抗して死刑になったドイツの牧師ボンヘッファーは、このとき犠牲になった子どもたちを「幼児殉教者」と呼んでいるそうです。悪魔によって一方的に犠牲にさせられた子どもたちです。この子の親たちの嘆きは想像することさえできません。ベツレヘムと周辺は悲嘆と涙と絶望の地になってしまったのです。このような虐殺はその後の歴史でも起こっています。ヒットラーに率いられたナチスは600万人のユダヤ人をガス室などで殺害したと言われます。恐るべき数です。ボンヘッファー自身もナチスによって死刑にされました。日本人も、関東大震災のときに朝鮮の方々を虐殺したと聞いています。私たち最近の日本人がそれを忘れてかけているのではないかと感じ、心配になります。私たち日本人が犯した罪を忘れることは、罪の上塗りであり罪悪です。この罪を決して忘れないで語り伝え、悔い改めてゆく必要があります。

 悪の暴虐の犠牲とされた人々は、どうなるのでしょうか。この問いへの1つの答えとなる御言葉があるとすれば、ヨハネの黙示録6章9節以下ではないかと思います。「小羊(イエス・キリスト)が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちがたてた証のために殺された人々(殉教者)の魂を、わたし(著者ヨハネ)は祭壇の下に見た。彼らは大声でこう叫んだ。『真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。』すると、その一人一人に、白い衣が与えられ、また、自分たちと同じようにされようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく清かに待つようにと告げられた。」神様は、殉教なさった方々の叫びをしっかりと受けとめておられます。神様が悪を必ず裁くので、そのときまで待つようにとおっしゃるのです。

 悪魔は確かに猛威をふるいますが、神様が許可なさる範囲でしか、暴れることができません。悪魔の化身のようなヘロデ王もヒットラーにも、人である以上死があります。ですから多くの悪を行っても、永遠に生きておられる神様に打ち勝つことは決してできません。最後の最後の最後には、必ず神様の愛と正義が勝利し、殉教者も報われるのです。イエス様は、マタイによる福音書10章28節で次のようにおっしゃって、私たちを励まされます。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」悪魔や権力者は私たちの体を殺すことができますが、イエス様が私たちに与えて下さる永遠の命を奪うことは、決してできないのです。

 しかし一時的とは言え、悪魔が激しく暴れています。ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子が皆殺しにされるという悲劇が起こったのです。
「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
『ラマで声が聞こえた。/ 激しく嘆き悲しむ声だ。
 ラケルは子供たちのことで泣き、/ 慰めてもらおうともしない、
 子供たちがもういないから』」(マタイ福音書2章17~18節)。

 ラケルは、イスラエルの先祖の一人ヤコブの妻です。創世記によると、ラケルはべテルからベツレヘムに向かう道の傍らに葬られ、そこに葬りの碑が建てられました。預言者エレミヤが活動したのは、ラケルよりずっと後の時代、紀元前6世紀です。その頃、ラケルはイスラエル民族全体の偉大な母と見られていたのでしょう。エレミヤの時代にイスラエルの民は、国の滅亡という非常に辛い経験をします。人々はバビロンに捕囚として連れ去られます。日本にも敗戦体験があります。17節と18節に引用されているエレミヤ書の御言葉は本来、次の意味でしょう。 
「ラマに葬られたイスラエルの母ラケルが、草葉の陰で激しく嘆き悲しんでいる。愛する子孫たちがバビロン帝国に殺され、国が破滅したからだ。」 そのときと同じ大きな悲しみが、ベツレヘムに満ちてしまったのです。ベツレヘムだけでなく、私たちの住む世界には悲しみが満ちています。最近では日本の東北地方や伊豆大島、フィリピンを大きな苦難(災害)が襲いました。イエス様は泣く方と共に泣いて下さる方であり、私たちもそうでありたいのです。イエス様は、十字架にかかる非常な苦難を体験された方であり、父なる神様は、愛する独り子を十字架に架ける苦痛に耐えて下さいました。

 悪魔は神の子イエス様を殺そうと、ヘロデを通して激しく攻撃してきました。同じことがヨハネの黙示録12章4節以下に、別の表現で書かれています。
「竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。そして、竜は子(イエス様)を産もうとしている女(マリア、そして救い主を生む神の民)の前に立ちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた」(4節)。 竜は悪魔であり、悪魔の化身ヘロデとも言えます。 「女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた」(5節)。これは、イエス様が十字架の死と復活の後に天に、昇られたことを指すようです。「女は荒れ野に逃げ込んだ。そこには、この女が1260日の間養われるように、神の用意された場所があった」(6節)。神の民が悪魔に迫害され、苦しめられるのですが、神様が保護して下さるのです。迫害もあるが、神様の保護もある。だから迫害に負けないで信仰を守り通すようにと、神様が私たちを励ましておられます。

 さしものヘロデも、寿命が尽きるときが来ました。「ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。『起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に生きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった』」(マタイ福音書2章19~20節)。 悪魔は最後の最後に必ず滅びます。ヘロデもヒットラーも滅んだのです。「しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた」(21~22節前半)。どうすればよいのか、ヨセフは祈ったと思うのです。行き詰まりを打開して下さるのは神様です。「ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引き込もり、ナザレという町に行って住んだ。『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが、実現するためであった」(22節後半~23節)。

 「彼はナザレの人と呼ばれる」という、そのものずばりの御言葉は旧約聖書にありません。それで困るのですが、候補の御言葉は2つあります。1つはイザヤ書11章1節です。メシアの誕生を予告する御言葉です。
「エッサイ(ダビデ王の父)の株からひとつの芽が萌えいで 
 その根からひとつの若枝(メシア)が育ち」 とあります。
この「若枝」が、もとの言葉ヘブライ語で「ネーツェール」です。マタイ福音書2章23節の「ナザレの人」は、(新約聖書が記されている)ギリシア語では「ナゾーライオス」で、「若枝」のヘブライ語「ネーツェール」と音が似ているというのです。やや苦しい感じもしますが、ヘブライ語は母音より子音が大切なので、子音だけ比べれば割に似ています。これはメシア預言ですから、マタイがこの御言葉を絶えず念頭に置いていたとしても、不思議はありません。

 マタイは士師記13章5節のことを述べているのではないか、という説もあります。これは(外敵ペリシテ人からの)イスラエルの解放者サムソンを、母親がみごもった時に、天使が母親に語った御言葉です。「あなたは身ごもって男の子を産む。その子は胎内にいるときからナジル人(びと)として神にささげられているので、その子の頭にかみそりを当ててはならない。彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう。」 この「ナジル人(びと)」という言葉は確かに、「ナザレの人」と似ています。ナジル人は、一定の期間、神様に自分を献げて聖なる生き方をしている人です。イエス様は全人生を神様に献げられた聖なる方ですから、究極のナジル人です。

 本日のマタイによる福音書で、マタイは三度も「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」などと書きます。イエス様こそ真のイスラエル人、究極の神の民です。父なる神様に100%従いきるお方です。その意味でイエス様は、旧約聖書の偉大な預言者たちが待ち望んだ方です。この方が、私たちのすべての罪を背負って十字架で死んで復活され、今も生きて働いておられます。この方を礼拝し、この方の弟子となってお従いして参りましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。

2013-12-30 2:17:20(月)
「真の喜び」 2013年12月24日(火) クリスマスイヴ礼拝説教
朗読された聖書:イザヤ書9章1節~6節、ルカによる福音書1章47節~55節、2章8節~20節

「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全員に与えられる大きな喜びを告げる。
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。』」(ルカによる福音書2章10~11節)

 クリスマスおめでとうございます。
 ルカによる福音書のクリスマスの場面に登場するのは、この世の力を持たない人々です。まずマリアがそうです。神様はガリラヤの(おそらく)14才くらいの少女マリアを、主イエス・キリストの母としてお選びになりました。これは神様の自由な選びによることです。マリアには最初戸惑いがありましたが、神様を信頼して自分の身を委ねることを決断しました。そして聖霊に満たされ、聖なる喜びに満たされて神様を賛美しました。この時マリアと共にいたのは、だいぶ年上の親類エリサベト、そしてエリサベトのお腹にいる胎児の洗礼者ヨハネ、マリアのお腹にいる小さなイエス様だけです。神様は、人知れず祈るいと小さき私たち一人一人の祈りに、喜んで耳を傾けて下さいます。

 そして羊飼いたちです。羊飼いは貧しかったでしょう。彼らの仕事はきつい肉体労働です。彼らは野宿をしながら、夜も眠らないで大切な羊の群れの番をしていたのです。現代でも夜勤のある仕事をする方々がおられます。夜中に道路工事をして下さっている方々もおられます。神様はその方々のご苦労をよくご存じであり、そのお一人お一人を愛しておられます。神様は、イスラエルの首都エルサレムにいる大祭司や、出世している人々に救い主誕生の知らせを真っ先に知らせることもできたのです。ですが神様はあえて、きつい労働をしているが誰からも褒められない、無名の羊飼いたちを選んで、救い主誕生の真の喜びをお告げになったのです。神様は有名でない小さき一人一人の味方なのです。

 「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」(9節)。天使には聖なる雰囲気、威厳があります。ですから羊飼いたちは恐れたのです。「天使は言った。『恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町(ベツレヘム)で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシア(救い主)である。あなたがたは布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである』」(10~12節)。ベツレヘムとは、「パンの家」の意味です。パンを作る小麦がとれたのでしょう。

 天使は「大きな喜び」と言いました。それは「真の喜び」です。私たちの喜びとは何でしょうか。世の中にも様々な喜びがあります。しかし「真の喜び」でないものもあります。単なる自分勝手な欲望の充足を真の喜びと勘違いすることもあります。真の喜びは、救い主イエス・キリストが私たちといつも共にいて下さることです。聖書は「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」と述べています(ヘブライ人への手紙13章8節)。これは死を超えて永遠に続く喜びであり、いつまでも変わらない真の慰めです。18世紀のイギリスの伝道者ジョン・ウェスレーの臨終の言葉は、「あらゆることの中で一番すばらしいことは、神様が私たちと共におられることだ」だったそうです。これは私たちの信仰でもあります。イエス様は、小さき私たちと共に生きるために貧しい馬小屋で誕生され、私たちのすべての罪を背負って十字架にかかるために生きてゆかれます。

 「瞬きの詩人」と言われた水野源三さんを思います。水野源三さんは、1946年8月に長野県埴科郡坂城町に発生した集団赤痢のため、9才で「見る」、「聴く」以外の機能を失われました。実に辛いことです。宗教は嫌いでしたが、ある牧師の訪問によりイエス・キリストの福音を受け入れます。そして明るくなったそうです。五十音図を持つお母様に、瞬きで合図を送る忍耐強い方法で詩作なさるようになります。心を洗われる詩を作られました。

「キリストのみ愛に触れたその時に
 キリストのみ愛に触れたその時に
 私の心は変わりました。
 憎しみも恨みも
 霧のように消えさりました。

 キリストのみ愛に触れたその時に
 キリストのみ愛に触れたその時に
 私の心は変わりました。
 悲しみも不安も
 雲のように消えさりました。

 キリストのみ愛に触れたその時に
 キリストのみ愛に触れたその時に
 私の心は変わりました。
 喜びと希望の
 朝の光がさして来ました。」(『瞬きの詩人 水野源三の世界 こんな美しい朝に』いのちのことば社、1990年、10~11ページ)
  
 ある人がその町で源三さんの家の場所を尋ねたところ、町の人が、「源三さんはこの町の宝です」と答えたと聞いたことがあります。イエス様は、源三さんと共に歩んで下さいました。

 天使から救い主誕生のニュースを聞いた羊飼いたちは、ベツレヘムへ急ぎます。そしてマリアとヨセフ、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てました。マリアとヨセフは羊飼いたちの突然の訪問に驚いたでしょう。「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」マリアが祈ったということでしょう。私たちも神様へのご奉仕と思っていろいろ活動しますが、同時に祈り続けることを忘れないようにしたいと思います。

 ここに登場するのは、小さき人々ばかりです。神様は小さき人をあえて選んで信仰を与えて下さる方です。私たちも小さき者なので、神様が選んで信仰を与えて下さいました。この深い光栄を感謝します。私がルカによる福音書のクリスマスの場面と深く一致すると思うのは、次の御言葉です。
「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵のある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選らばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」(コリントの信徒への手紙(一)1章26~29節)。神様は小さき者の味方です。

 テノール歌手・新垣勉さんの次のメッセージに学ばされました。生後間もなく失明された方です。「今の時代は、効率ばかり優先されますが、人生には時には遠回りが必要です。~憎しみでは何も変わらないし、何も生まれないことに気付きました。~人生はやり直しがきくのです。一生という長い区切りでものを見てください。ゆっくりとした歩みの中から、今まで見落としてきたものに気づくこともあるでしょう。そして、人との出会いを大切にしてほしいと思います。人は出会いによって成長し、愛が育まれるのです。相手を変えようと思わず、まずは自分自身が優しい心で人と接してください。~あなたを必要としている人が必ずいます。他人と比較するのではなく、自分の持っている良さにしっかりと磨きをかけてください。」とてもよいメッセージです。私もこのような気持ちで丁寧に生きてゆきたいと思いました。

 小さき者を愛して下さる神様に感謝して、イエス様のご誕生をお祝い致しましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。