日本キリスト教団 東久留米教会

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2020-03-28 21:58:29(土)
「ペトロの涙」 2020年3月29日(日) 受難節第5主日礼拝説教 
聖書:詩編51:1~21、ルカ福音書22:54~62
(新約聖書のみ、ここにも掲載します)。
 人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。
              
(説教) 
 イエス・キリストが私たちの全ての罪を背負って十字架で死なれたことを強く思う受難節を過ごしています。本日の箇所は「ペトロの否認」として有名です。

 54~55節「人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。」ペトロは人々の間にまぎれこんだはずでした。しかし、悪魔がペトロの信仰を攻撃します。「するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、『この人も一緒にいました』と言った。しかし、ペトロはそれを打ち消して、『わたしはあの人を知らない』と言った。」

 イエス様はペトロが悪魔に敗れることをご存じでした。ですから少し前にペトロに言われました。「シモン、シモン、サタン(悪魔)はあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ペトロは、イエス様に祈ってもらう必要はないと自信をもっていたようです。「主よ、御一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」でも死の恐怖に襲われた時、イエス様と一緒に死ぬことができなかったのです。イエス様は言われます。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」ペトロは軽く聞き流したでしょう。イエス様の予告の通りになってしまいます。でもイエス様がペトロのためにあらかじめ祈っておられた。その執り成しに支えられて、ペトロはあとで挫折から立ち直ることになります。イエス様は今も、天で私たちのために執り成しの祈りをなさっています。「この方(イエス様)は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」(ヘブライ人への手紙7:25)。感謝です。

 ペトロの挫折の場面に戻ります。二度目、三度目の否認です。「少したってから、ほかの人がペトロを見て、『お前もあの連中の仲間だ』と言うと、ペトロは、『いや、そうではない』と言った。一時間ほどたつと、また別の人が、『確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから』と言い張った。だが、ペトロは、『あなたの言うことは分からない』と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。」このタイミングで鶏が鳴くとは! 神様が鳴かせたのです。ペトロはギクッとしたでしょう。鶏の早朝のコケコッコーの鳴き声は、私たちを目覚めさせます。ペトロの否認以来、鶏は重要なシンボルとなりました。ヨーロッパには、教会堂の外(屋根など?)に鶏のマークがついていることが多いそうです。それは「目を覚ましていなさい。信仰的に目を覚ましていなさい」というメッセージです。東久留米教会の会堂建築の前に、建築委員会で都内のある教会を見学に行きました。その教会の外壁に鶏のマークがついていました。教会に行ってそれを見るたびに、「自分は信仰的に目を覚ましているだろうか?」と自分に問いかけることができます。

 鶏が鳴いて、イエス様が振り向かれます。「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」イエス様は振り向いてペトロを見つめられました。ルカによる福音書は、「振り向く」イエス様の姿を多く伝えます(7章9節、44節、9章55節、10章23節、14章25節、23章28節)。イエス様が振り向くことは大切な動作で、その時、大切なことを語られるのです。そのために振り向くのです。今の場面では口で語られませんが、まなざしでペトロに心を伝えられます。責めるまなざしではないでしょう。悲しみのまなざしだったのではないでしょうか。ペトロの立ち直りを願うまなざしです。ペトロは胸を深く衝かれます。自分がイエス様を裏切る罪を犯したことに気づきます。頭を抱えたでしょう。そして外に出て激しく泣きました。ある人は「男泣きに泣いた」と訳しました。自分の罪を痛切に悲しむ嗚咽と涙です。罪を深く悔い改める涙です。自分の罪をごまかさないことが、ペトロの長所です。

 本日の旧約聖書・詩編51編はダビデ王の悔い改めの詩編として有名です。ダビデは部下の妻と不倫を行い、相手を妊娠させます。そして王の権力を用いて部下を戦死に追いやります。神様が預言者ナタンを送ってダビデを厳しく叱責なさいます。それを聞いて、深く悔い改めた言葉が詩編51編に記されています。「神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。あなた(神様)に背いたことをわたしは知っています。~ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください、わたしが清くなるように。わたしを洗ってください、雪よりも白くなるように。」これはそのままペトロの気持ちに違いありません。ダビデは詩編51編の終わりの方でこう述べます。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」その通りで、神様はペトロの痛切な悔い改めの涙を侮ることなく、憐れんで受け入れて下さったに違いありません。神様は、わたしたちの本心からの悔い改めを喜んで下さる方です。讃美歌21:197番の4節「ああ主のひとみ、まなざしよ、三たびわが主を いなみたる 弱きペトロをかえりみて ゆるすはたれぞ 主ならずや」を思い出します。

 ペトロが激しく泣いた場面とダビデの悔い改めの詩編を読み、わたしは今月の礼拝の招詞を思います。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(コリントの信徒への手紙(二)7章10節)。ペトロの涙は、神の御心に適った悲しみで、取り消されることのない救い(永遠の命)に通じます。これに対して、イエス様を売る罪を犯したユダは後悔したが、悔い改めをしなかった。ユダの悲しみは「世の悲しみ」で、救いに至る悲しみではないと言わざるを得ません。イエス様は、「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」(マタイ福音書5章4節)と言われますが、ペトロのように「自分の罪を深く悲しむ人々は幸い」、と言っておられると思うのです。

 ペトロは約30年後、同じ失敗を犯しそうになりながらも踏みとどまって、失敗を繰り返さなかったと言われます。聖書に書かれていませんが、伝説を小説化し映画化した『クォ・ヴァディス(主よ、いずこに行かれるのですか)』に、次の話があります。ペトロはローマにおり、ローマではクリスチャンたちが迫害されていました。ペトロはローマを脱出します。アッピア街道を進んで行くと、向こうから来る方がおられる。見ると何とイエス様です。ペトロは問います。「主よ、いずこに行かれるのですか。」「わたしの羊たち(クリスチャンたち)がローマで苦しんでいるので、わたしはもう一度十字架に架かるためにローマに行く。」ペトロははっとします。自分はもう一度イエス様を裏切ろうとしている。これではいけない。ペトロは向きを変え、ローマに戻ります。そしてクリスチャンたちを励まし、支えます。そして捕らえられ、「イエス様と同じ十字架ではイエス様に申し訳ないので、逆さ十字架にしてほしい」と申し出て、逆さ十字架で殉教したと伝えられています。ペトロは三度イエス様を裏切った罪を悔い改め、立ち直り、最後はイエス様に似た「良い羊飼い」の責任と使命を果たして、天国に行ったのです。イエス様は言われました。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは、羊のために命を捨てる。」ペトロはイエス様の祈りに支えられて、立ち直ることができました。「シモン、シモン、サタン(悪魔)はあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」その通り、信仰の兄弟たちを力づける「良い羊飼い」になったのです。

 「良い羊飼い」と言えば、今の新型コロナウイルス問題で、特にイタリアで多くの死者が出ています。感染して重症化し臨終を迎える人々を、神父方が見舞い、お祈りなさるのです。カトリックには「終油の秘跡」という祈りがあるのですね。聖書の根拠はヤコブの手紙5章14節でしょう。「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。」「終油の秘跡」の目的もあってだと思うのですが、コロナウイルスで重症の方を見舞い、感染して亡くなる神父が多く出ているとのことです。一種の殉教と思います。今の時の「良い羊飼い」の方々です。わたしは尊敬します。わたしも「良い羊飼い」になりたいと、切に願います。

 イエス様が十字架に架けられた時、悪魔が力を振るっており(もちろん神様は悪魔より強いので、悪魔は神が許可する範囲でしか暴れることができません)、ペトロは悪魔によって激しくふるいにかけられ、揺さぶられました。コロナウイルスが悪魔から来るものかはっきり分かりませんが、わたしたちは現にコロナウイルスによって激しく命を揺さぶられ、信仰生活も揺さぶられています。礼拝のために礼拝堂に集まることができないという異常事態となっています。イエス様は私たちのためにも今、「あなたがたの信仰が無くならないように祈った」と言って下さると信じます。イエス様の十字架と復活から約40年後、エルサレムはローマ軍に攻撃されて破壊され、ユダヤ人が信仰生活の中心としていた神殿も焼かれて崩壊しました。ユダヤ人の信仰の大きな危機でした。この危機を乗り切るためにユダヤ人は、聖書(クリスチャンから見た旧約聖書)に入れる文書の範囲を決め、『聖なる書』(神の言葉)として確定させたそうです。それまでは聖書の範囲にあいまいな部分もあったのでしょう。神殿という中心を失ったので、聖書を確定し、共に聖書を一生懸命読んで祈って結束する信仰の形を明確化したそうです。それによってユダヤ教が滅びないで生き残ったと聞きます。ピンチをチャンスに変えたとも言えます。

 私たちも早く礼拝堂での礼拝を再開したいと願いますが、本日と次週は各々の自宅で礼拝を守ります。そこで信仰を眠らせるのではなく、このような信仰の危機だからこそ、逆に一生懸命聖書を読み、神様に祈り、私たちが神の民、イエス・キリストの民に属していることを逆に強く心に刻みましょう。神様が人類を憐れんで、新型コロナウイルスによる危機の時を縮めて下さるように、祈りましょう(イエス様は言われます。「神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう」マタイ福音書24章22節)。そしてペトロと同じ真摯な気持ちで自分の罪を悔い改め、私たちを愛して下さるイエス様に感謝する日々を、重ねて参りたいのです。

(祈り) 主イエス・キリストの父なる神様、聖名を讃美致します。本日は、極めて残念なことに礼拝堂であなたを礼拝することができません。一人一人に聖霊を力強く注いで、一人一人の信仰を強め、各々の自宅での礼拝を豊かに祝福して下さい。神様、私たちもペトロのように今、自分の罪を悔い改めます。私たちの罪をお赦し下さい。神様、私たち人類を憐れんで、コロナウイルスによる危機が世界中で早く峠を越えて収まってゆくように、力強く助け導いて下さい。心身の病の中にある方々を、神様が愛をもって速やかに全快させて下さい。早く礼拝堂での礼拝を再開できますように、力強く導いて下さい。主イエス・キリストのお名前によって、お祈り致します。アーメン(「真実に」)。

2020-03-03 17:04:34(火)
伝道メッセージ 3月 石田真一郎
「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(新約聖書・ヤコブの手紙2章17節。)
 
 コロナウイルス問題が早く終息するように、切に祈ります。

 アルベルト・シュヴァイツァー(1875~1965)というクリスチャンがいました。アフリカでの医療伝道で有名です。昔は、「シュヴァイツァーのようになりたい」と憧れた人が多かったそうです。彼は21才のペンテコステ(聖霊=神様の清らかな霊=が降ったことを記念するキリスト教会の祝日)に決心しました。「30才までは、学問と音楽に生きよう。その後は、神と人に直接奉仕する道に進もう。」彼は勉学に打ち込み、立派なオルガ二ストと牧師になります。29才の時、次のパンフレットを読みます。「アフリカの人々が熱帯病で苦しんでいる。医師の資格を持つ宣教師が必要だ。神様に従う人をパリ宣教師協会は待つ。」これに応える決意をします。

 新約聖書に、「金持ちと貧しい人ラザロ」の話があります。金持ちは、貧しいラザロを全く助けませんでした。シュヴァイツァーは、自分たちヨーロッパ人がこの金持ち、アフリカの人々はラザロだと思ったのです。このままではいけない。30才で医学部に入り、36才で医師国家試験に合格。結婚し、1913年にアフリカの赤道付近のガボンのランバレに行きます。命に危険のある暑さです。最初はにわとり小屋を診療所にしました。朝から多くの患者が集まります。マラリア、ハンセン病、熱帯性赤痢、疥癬、心臓病と、あらゆる病気を一人で治療します。ほとんど無料です。看護師の妻ヘレーネが共に働きます。かつて白人は、黒人を奴隷として売り買いしました。彼は白人の罪の償いのつもりで働きました。

 彼はアフリカで「生命への畏敬」という言葉を思いつきました。神が造られた全ての命を大切にすることです。彼は全ての生き物を愛し、戦争に強く反対しました。アフリカとヨーロッパを行き来するうちに、病院は困難を乗り越えて大きくなりました。彼は、広島と長崎への原爆投下に強く憤りました。「平和か核戦争か」の講演で、各国に核実験の停止と核兵器の放棄を強く求めました。90才で天国に行きました。欠点もあったようですが、その生き方は今も輝いています。「シュヴァイツァーのように生きたい」と願う子どもたちや若者が、今後も日本から続々と出るとよいですね。アーメン(「真実に」)。

2020-02-19 23:05:39(水)
「洗礼者ヨハネより偉大なイエス様」 2020年2月2日(日)礼拝説教 要旨
聖書:イザヤ書35:1~10、マタイ福音書11:2~19

 洗礼者ヨハネは牢の中でキリストのなさったことを聞き、弟子たちを送って尋ねさせます。「来るべき方(メシア、救い主)はあなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」洗礼者ヨハネともあろう偉大な人が、今さらこんなことを聞くのは不思議です。彼は既にイエス様に出会い、洗礼をさえ授けたのです。その時ヨハネはこう言って洗礼を授けることを遠慮しようとしました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」ですがイエス様が、是非にと言われたのでヨハネはイエス様に洗礼をお授けしました。その前にヨハネはメシアについてこう予告しました。「(その方は)手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ところが、イエス様がそのようにしておられないので、「来るべき方はあなたでしょうか」と尋ねさせたのではないでしょうか。

 イエス様は丁寧に答えられます。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまづかない人は幸いである。」これはメシアの到来の希望を語るイザヤ書35章に書いてあることです。まず4節に「敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる」とあります。洗礼者ヨハネが待望していたのはこのように悪を裁く救い主です。神様は最後の審判の時に悪を完全に裁かれます。5・6節で、神の救いの働きが語られます。これこそイエス様がなさったことです。「そのとき、見えない人の目が開き、聞えない人の耳が開く。そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。」

 私は昨日、妻と、12月にアフガニスタンで銃撃されて殺害された中村哲医師を「しのぶ会」(練馬文化センター)に行きました。人が多くて、入れませんでした。2階でインターネット中継で小ホールの会の様子を見ました。中村さんは多くの人と共に働いてアフガニスタンの1万6000haの荒れ地に、農業用水を引きこむことで農地・緑地に変えました。中村さんはバプテスト教会のクリスチャンです。まさに「荒れ野に川が湧きいで」です。

 イエス様は、ヨハネを最大限に高く評価されます。「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。」「しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」これは十字架による罪の赦しの力の偉大さを指すと思います。「洗礼者ヨハネの時から今に至るまで、天の国は激しく攻められており、激しく攻める者がこれを奪い取っている。」分かりにくい言葉です。イエス様の次の御言葉と関連づけて理解するとよいと思います。「徴税人や娼婦たちのほうが、あなたがた(祭司長たちやイスラエルの長老たち)より先に神の国に入る。なぜなら、ヨハネが来て、義の道を示したのに、あなたがたは彼を信じず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ」(マタイ福音書21:31~32)。徴税人や娼婦は、自分たちはとても罪深いので、とても天国に入ることはできないと絶望していた。しかし、「悔い改めよ、天の国は近づいた」というヨハネの説教を聴いて、罪を本当に悔い改めれば自分たちでも天国に入れていただけると知り、ヨハネのもとに殺到して自分の罪を告白し罪を悔い改めて洗礼を受けた、ということだと思うのです。

 旧約聖書最後の書・マラキ書のほとんど最後に、「大いなる恐るべき主の日が来る前に、私(神)は預言者エリヤをあなたがたに遣わす」とあります。洗礼者ヨハネこそ、その再来のエリヤです。しかしイスラエルの指導者の多くが神様が送って下さった洗礼者ヨハネとイエス様を受け入れなかったのです。イエス様が悲しみを込めて言われます。「今の時代は何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者たちに呼びかけ、こう言っている子どもたちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、悲しんでくれなかった。』ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、食べたり飲んだりすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人(つみびと)の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きが証明する。」イエス様が大酒飲みのはずはないので、これは明らかに不当な非難中傷です。私たちは、神様の前にへりくだって、洗礼者ヨハネとイエス様を、心より感謝して受け入れる者でありたいのです。アーメン(「真実に」)。

2020-02-06 21:50:13(木)
「荒れ地を農地に 中村哲医師の働き」 伝道メッセージ 石田真一郎
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(イエス・キリスト。新約聖書・ヨハネによる福音書15章13節。)
 
 アフガニスタンで、医療や、砂漠を農地に変える働きをなさった中村哲医師が、昨年12月4日に銃撃されて亡くなりました。共に活動していたアフガンの5名の方々も殺害され、悲しい限りです。中村さんはクリスチャンで、「自分はキリスト教を知らなかったら、この活動をしていない」と語り、「私は、『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない』(イエス・キリストの言葉)と教わった」と講演で述べられたそうです。

 初めは1984年にアフガンのペシャワールでハンセン病の治療に当たられました。しかし2000年にアフガンが大干ばつに見舞われ、400万人が飢餓状態になった時、飲料水を確保するため「井戸を掘る」活動を始めます。2001年にアメリカ同時多発テロが起こり、関与したアルカイダが潜むアフガンへの空爆をアメリカが行い、国土がますます荒れ果てました。中村医師は井戸で足りず、2003年に用水路作りを始めました。「緑の大地」計画です。初めは難航しましたが、1万6500haの砂漠を農地に回復させたのです。2005年の砂漠の写真と、10年後の同じ場所の写真(多くの木々が青々と茂っている!)を見ると感動します。旧約聖書のすばらしい言葉の実現を見る思いです。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。野ばらの花を一面に咲かせよ。/荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。熱した砂地は湖となり、乾いた地は水の湧くところとなる」(イザヤ書35章1節、6~7節)。

 2008年には、共に活動した伊藤和也さんが31歳で殺害される事件がありました。中村さんは葬儀の弔辞で、こう述べました。「平和とは戦争以上の力です。戦争以上の忍耐と努力が要ります。昨今世界を覆う暴力主義、和也君を倒した暴力主義こそが私たちの敵です。その敵は、私たちの心の中に潜んでいます。今必要なのは憎しみの共有ではありません。憤りと悲しみを、友好と平和への意志に変え、今後も力を尽くすことを誓い、天にある和也君が安らかであることを祈ります。」私はこれを読み、戦争は最も安易な解決策(解決にならない)、地道に平和を築く方がずっと忍耐を要する尊い生き方と、感銘を受けました。中村医師は、「進歩という言葉に惑わされるな、自然に対して謙虚であれ、誠実さが何より大切」と語ったそうです。中村さんのような生き方をしたいですね。アーメン(「真実に」)。

2020-01-23 14:22:42(木)
「すべての命を守るため―フランシスコ教皇の来日」 伝道メッセージ 石田真一郎
「イエスは町や村を残らず回って会堂で教え、神の国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」(新約聖書・マタイ福音書9章35節)。 

 最近の良いことの1つは、ローマ教皇フランシスコの来日です。私はカトリックでなくプロテスタントですが、教皇38年ぶりの来日を喜びます。今回日本カトリック教会が掲げたテーマは「すべての命を守るため」です。

 フランシスコさんは原爆の被爆地・長崎の爆心地公園での平和メッセージで、はっきり核兵器廃絶を語ってくれたので、とても感謝です。「今の世界では、何百万人という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられています。しかし、武器の製造に財が費やされ、武器はいっそう破壊的になっています。これらは神に歯向かうテロです。核兵器のない世界が可能で、必要との確信をもって、政治家の方々にお願いします。核兵器は国の安全保障への脅威から私たちを守らない、そう心に刻んで下さい。」

 同じく原爆の被爆地である広島では、こう語りました。「ここで大勢の人が、その夢と希望が一瞬の閃光と炎によって跡形もなく消され、影と沈黙だけが残りました。その淵から、亡き人々のすさまじい叫び声が、今なお聞こえます。戦争のために核を使用することは、犯罪です。核兵器の保有自体が倫理に反します。武器を持ったまま、愛することはできません。核戦争の脅威による威嚇をちらつかせながら、どうして平和を提案できるでしょうか。」アメリカの核の傘の下にある日本にも厳しい指摘です。

 11月25日(月)には、東京ドームでの5万人ミサで説教しました(私も出席)。82才のフランシスコさんが登場すると、場内は日本中やアジアなどの信者さんの喜びの大歓声に包まれ、彼が笑顔で赤ちゃんを抱きあげて祝福のキスをするたびに、歓声が上がるスターぶりです。修道女さんたちもカメラを手に喜色満面です。よきメッセージをされました。「日本は経済が発展した社会ですが、青年たちと出会い社会的に孤立している人も少なくないと知りました。イエス様は、重い皮膚病の人、体の不自由な人を抱きしめました。すべての命を一層、守りましょう。」日本の教会には、競争社会で傷つき、孤独になっている人々を受け入れる野戦病院になるように語られ、私も教会の牧師として魂に刻みました。教皇来日は、神様から日本への、早めのすばらしいクリスマスプレゼントです。アーメン(「真実に」)。