日本キリスト教団 東久留米教会

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2018-11-15 0:30:51(木)
「目標をめざして、ひたすら走る」 聖徒の日(召天者記念日)礼拝 説教要旨
聖書:フィリピの信徒への手紙3章12~21節

 本日は、天国に行かれた方々を記念する礼拝です。私たちも、先に天国に行かれた方々の信仰に倣って、天国をめざして信仰の歩みを続けます。人生の最後まで、信仰の歩みを貫きましょう。

 イエス様の弟子(12弟子の一人ではない)・使徒パウロも、救い主イエス・キリストを宣べ伝えながら、天国・永遠の命をめざして歩みました。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」と述べます。そして語ります。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」

 クリスチャンの信仰を「ネコ型」と「サル型」に例えた方がおられます。「ネコ型」は、子ネコが母猫に首をくわえられて完全に母猫にゆだねて信頼しきって移動するように、神様にすべてをゆだねて安心しているクリスチャンです。「サル型」は、子ザルが母ザルに必死にしがみついて移動するように、神様に必死にしがみつくクリスチャンです。でも完全に2つのタイプのクリスチャンに分けることはできず、一人のクリスチャンがときに「ネコ型」、ときに「サル型」になるということだと思います。

 パウロは、「何とかして(天国・永遠の命を)捕らえようと努めているのです(サル型)。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです(ネコ型)」と言います。「ネコ型」を土台として「サル型」の信仰に生きているのです。これが福音信仰だと思うのです。イエス様に支えられて安心した上で、自分の使命を果たすために奮闘するのです。パウロは言います。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神はキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標をめざしてひたすら走ることです。」

 パウロはコリントの信徒への手紙(一)9章24節以下で、似たことを語ります。「競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」

 パウロが殉教して天国に入る少し前に書いた言葉が、テモテへの手紙(二)4章6節以下にあります。「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主(イエス様)が、かの日(神の国が完成する日)にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれでにも授けてくださいます。」

 フィリピの信徒への手紙に戻ります。パウロは述べます。「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。」

 パウロ自身も、かつてはキリストの十字架に敵対して歩んでいました。イエス様を救い主と信じるクリスチャンたちを迫害する先頭に立っていたのです。クリスチャンを迫害することを誇りとし、滅びの道をまっしぐらに突き進んでいました。そんなパウロを復活のイエス様が憐れみ、ストップをかけ、イエス様こそ救い主という真理を悟らせて下さったのです。「腹を神とする」とは、自分の欲望充足ばかりを行って生きることです。

 私は、真珠湾攻撃の現場リーダーを務め、戦後クリスチャンになられた淵田という方を紹介する本を読み、DVDを見ました。真珠湾攻撃は、多くのアメリカ人の命を奪いました。真珠湾攻撃が日本から見て勝利に終わり、その方は帰国後に昭和天皇に謁見して、ねぎらわれたようです。それを最高の誇りと感じました。しかしそれは、「恥ずべきものを誇りとし」たことだと思うのです。かつて日本兵だった別の方の言葉を新聞で読んだことがあります。その方は、「戦争では人殺しが手柄になる。だから戦争を行っていけない」と語っておられました。人殺しが手柄。まさに「恥ずべきものを誇りと」することです。

 では私たちは何を誇りとすべきか。パウロは、ガラテヤの信徒への手紙6章14節で、確信をもって語ります。「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」イエス様の十字架の死は、私たち全人類の全部の罪を身代りに背負って下さった死、私たちの救いのための死です。まさにイエス様の十字架にこそ、父なる神様の愛が結晶しているのです。十字架こそ私たちの真の誇りです。ですから教会は、十字架を高く掲げます。

 パウロはフィリピの信徒への手紙3章21節で述べます。「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」私たちの今の体は病気にもなり、いずれは死ぬ体です。しかしイエス様が、イエス様の復活の体と同じ復活の体を与えて下さいます。私たちにこの希望があります。ハンセン病に苦しまれた玉木愛子さんとおっしゃる方が、次の信仰の俳句を作られました。「毛虫はえり 蝶となる日を 夢見つつ。」

 本日の箇所でパウロは、「目標を目指して、ひたすら走る」と述べます。私は『炎のランナー』という映画を35年ほど前の高校時代に初めて見、数年前にDVDでもう一度見ました。二人の実在のランナーが主人公のモデルですが、一人は宣教師のエリック・リデルです。彼は神のために走る男です。二人とも1924年のパリオリンピックのイギリス代表に選ばれます。ところがエリックが出る100メートル走の予選が日曜日に行われることが伝えられます。日曜日は、神様を礼拝する聖なる日。エリックは100メートル走を棄権することに決めます。走ればメダルを取る力があるはずです。金メダルを獲得することもできるかもしれません。金メダルと礼拝のどちらが大切か? エリックの答えは決まっています。礼拝の方がはるかに重要です。イギリス選手団の上層部に翻意を求められても彼の信仰は揺らぎません。既に他の競技でメダルを獲得した仲間が、本来自分が出るはずの400メートル走の枠をエリックに譲ると言ってくれ、決着します。エリックは100メートル走を棄権し、その日曜日は教会の礼拝で説教します。その中でイザヤ書40章の終わりの方をも読んでいました。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」

 エリックは数日後の400メートル走に出場します。ライバルのアメリカの選手だと思うのですが、競技前にエリックに紙片を渡します。「神に栄誉を帰する者には、神が誉れを与える」という意味のことが書いてあったように私には見えました。きっと100メートル走を信仰上の理由で棄権した彼への、アメリカのクリスチャン選手からの励ましと思いました。そして400メートル走に出場したエリックは、金メダルの獲得するのです。神様の力が与えられたのでしょう。エリックは宣教師の息子として中国で生まれ、このオリンピック後に中国に戻って伝道したようです。エリックは1945年に中国の山東省で日本が管理する敵国人収容所で天に召されたそうです。熱心に伝道し、イエス様に従った43年の地上の生涯でした。

 エリックもパウロと同じように、「目標を目指してひたすら走り」、天国に入りました。東久留米教会の信仰の先達の方々も私たちより先に天国に入られました。私たちも毎週礼拝し、イエス・キリストを宣べ伝え、地上の責任を果たしながら、ご一緒に天国を目指してひたすら走りましょう。「わたしたちの本国は天にあります。」アーメン(「真実に」)。


2018-11-08 20:12:52(木)
「はいははい、いいえはいいえ」 2018年11月4日(日) 東久留米教会創立57周年記念礼拝 説教要旨
聖書: レビ記19章11~12節、マタイ福音書5章33~37節

 イエス様の山上の説教を読みます。本日のテーマは「誓い」です。誓いは真実である必要がありますから、テーマは「真実」とも言えます。イエス様が言われます。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人(旧約聖書の時代の人)は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。」

 旧約聖書には、神様への誓いを驚くほど忠実に果たした人が登場します。エフタという士師(イスラエルの軍事的リーダー)は、アンモン人がイスラエルに戦争を仕掛けてきたとき、神様に誓いを立てました。神様がもしアンモン人との戦いに勝利させて下されば、「わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします」と誓ったのです。神様はエフタに勝利を与えて下さいました。彼が家に帰ったとき、何と一人娘が、鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来たのです。エフタは自分の衣を引き裂きます。「わたしは主の御前で口を開いてしまった。取り返しがつかない。」父も娘も信仰深い人でした。娘は言います。「父上。あなたは主の御前で口を開かれました。どうか、わたしを、その口でおっしゃったとおりにしてください。」娘が二ヶ月の猶予を願ったのでエフタはそれを許し、エフタは二ヶ月後に、立てた誓いの通りに娘を献げたのです。そこまでして神様への誓いを実行したのです。

 さてイエス様は、「一切誓いを立ててはならない」と言われます。これは一体どうのようなことなのでしょうか。イエス様の時代のイスラエルでは、言い逃れの誓いが横行していたようです。旧約聖書(レビ記19章12節)に、「わたし(神様)の名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない」と書いてあるので、神様の名を出した誓いは果たさねばならないが、神様の名前を出さない誓いは果たさなくてよいという悪しき詭弁が横行していたようです。人々は神様の名を出さずに、天にかけて誓ったり、エルサレムにかけて誓ったり、自分の頭にかけて誓ったりしたようです。逃げ道を用意したのです。人間とはずるいものです。しかし神様の前でそのような言い逃れは一切通用しません。ある人は、「誓いとは、自分の言葉が真実であることを保証するために、神様を公然と証人に立てること」と定義しました。ですから、たとえ神様のお名前を出さずに、神様以外のものにかけて誓っても、やはりそれは神の前で誓ったことになります。言い逃れは通用しません。誓うならば、神様の前に責任が生じるのです。

 人間社会になぜ誓いがあるのでしょうか。それは私たち一人一人の中にも社会にも、嘘や偽りがあるからだと、ある本にありました。私はそれを読んで愕然としました。私たちの心と社会に嘘や偽りが全くないならば、誓いは必要ありません。私たちの発する言葉が常に100%真実であれば、誓いは全く必要ないのです。わざわざ誓いをするということは、私たちのふだんの言葉に嘘や偽り、不真実が含まれている証拠です。私たちが誓う必要がないほどに、発する言葉をいつも100%真実な言葉とし、言行を100%一致させることが理想です。残念ながら理想通りになっていない自分の罪を嘆きます。そして聖霊に助けていただいて、真実な自分になれるように祈り心がけようと願うのです。

 イエス様は言われます。「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者(悪魔)から出るのである。」よいことには常によいと言い、悪いことには常に悪いと言うことが必要です。そこで本日の題を「はいははい、いいえはいいえ」としました。私たちは一言の「はい」と一言の「いいえ」に命をかける覚悟が必要です。

 イエス様の、ほぼ同時代人であるヨセフスという男性が書いた『ユダヤ戦記』という貴重な記録があります。当時のユダヤ教にはファリサイ派、サドカイ派、エッセネ派の3つの派がありましたが、ヨセフスはエッセネ派についてこう記録しています。彼らは「平和の仕え人である。その発する言葉はどれも誓いよりも強力である。彼らは誓いをすることを避け、それを偽証よりも悪いものだと見なしている。彼らによれば、神を引き合いに出さねば信じてもらえぬ者はすでに滅びに定められている」(ヨセフス著<秦剛平訳>『ユダヤ戦記 Ⅰ』ちくま学芸文庫、2002年、279ページ)。

 「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。」「はい」と「いいえ」を真実に言えば十分で、本来それ以上の誓いは必要ないのです。イエス様はいつも、「はい」と言うべきときに「はい」と言われ、「いいえ」と言うべきときに「いいえ」と言われたに違いありません。

 私たちの現実生活には誓約があります。私は東久留米教会の牧師に就任した時に、式の中で誓約を行ったのです。東久留米教会のために奉仕する誓約を致しました。他の教会の牧師の就任式に出席すると、その牧師の方が誓約をなさる場面に立ち会います。そこで私も自分が就任式で行った誓約を思い出し、誓いを守る思いを新たに致します。

 私たち日本キリスト教団の教会メンバーは、洗礼を受けたときに、3つの誓約をしました。
問「あなた(がた)は聖書に基づき、日本キリスト教団信仰告白に言いあらわされた信仰を告白しますか。」
答「告白します。」
問「あなた(がた)は主イエス・キリストの救いのしるしであるバプテスマを受けることを心から願いますか。」
答「願います。」
問「あなた(がた)は今後、主の聖餐を重んじて誠実にこれにあずかり、日本キリスト教団の教憲・教規(約束ごと)に従い、この教会の会員としてふさわしい生活をし、また教会の定めに従って忠実にその責務を果たすことを志しますか。」
答「志します。」
3つの答えは「はい」であると言えます。

 誓い・約束を守ることがテーマになっている小説として、太宰治の『走れメロス』はすばらしい作品だと、私は感じます。私たちがイエス様に助けられて、自分の言葉の1つ1つに責任をもち、少しでも真実な生き方をすることができるように、祈り合い励まし合って進みたいのです。アーメン(「真実に」)。

2018-10-31 20:15:03(水)
「まず仲直りし、和解しなさい」 2018年9月30日(日) 聖霊降臨節第20主日 礼拝説教 要旨
聖書: 出エジプト記20章1~21節、マタイ福音書5章21~26節

 イエス様は、言われます。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。」これはモーセの十戒の第六の戒め「殺してはならない」(出エジプト記20章13節)等のことです。「しかし、わたし(イエス様)は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」兄弟は信仰の兄弟姉妹に始まり、全ての人を指すと思うのです。

 神様の怒りは聖なる怒り、完全に正しい怒りです。しかし私たちは罪人(つみびと)ですから、私たちの怒りには、自己中心の罪が含まれており、私たちの怒りは聖なる怒りでなく、完全に正しい怒りではないのです。ヤコブの手紙にこうあります。「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです」(1章19~20節)。ヨハネの手紙(一)には、次のようにあります。「兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」(3章15~18節)。人を憎むことが、殺人の第一歩です。人を憎むとき、「殺してはならない」の戒めを破ったことになります。私たちは残念なことに、「殺してはならない」の戒めをさえ、完璧には守ることができない罪人(つみびと)です。その私たちの全ての罪を背負って十字架で死なれたイエス・キリストに、ただ感謝を献げます。

 イエス様は、さらに言われます。「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。」互いに怒り合って、憎み合った状態で神様を礼拝しても、真の礼拝にならない、神様が喜ぶ礼拝にならないのです。まず仲直りし、それから神様を礼拝するのです。東久留米教会では以前、礼拝前に少人数のグループに分かれて祈祷会を行っていました。だいぶ前のことですが、ある日曜日の午後に行われた話し合いで、私はある方と意見が合わず、気まずい思いで別れたことがあります。次の日曜日の礼拝前に、その方が、私より年上なのにご自分から私の前に来て下さり、ご一緒にお祈りすることができました。その方は「まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」のイエス様の御言葉を実行して下さったのです。本当に感謝です。この御言葉を読むと、この経験を思い出すのです。

 私の手元に阿佐ヶ谷教会の牧師であられた大村勇先生が、1965年10月3日の世界聖餐日礼拝でなさった説教「まず行って兄弟と和解せよ」のCDがあります(日本キリスト教団阿佐ヶ谷教会発行)。聖書箇所はマタイ福音書5章23~24節です。大村勇先生は日本キリスト教団の議長として韓国基督長老教会の総会への訪問から戻られた直後に、この説教をなさいました。朝鮮半島は1910年から1945年まで日本の植民地でした。日本が朝鮮半島に神社を建て、人々に神社参拝を求めました。これはモーセの十戒の第一の戒め「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」を破る罪、偶像崇拝の罪です。朝鮮半島の多くのクリスチャンが参拝を拒否し、捕らえられ殉教の死を遂げました。それに対して日本の教会から正式な謝罪がなされていなかったようです。

 韓国基督長老教会の総会は、大村先生の挨拶を受けるかどうかで紛糾したそうです。激論の末に投票により、1票差で挨拶を受けることが決まったそうです。通訳された李仁夏(イ・インハ)牧師のご著書『歴史の狭間を生きる』(日本キリスト教団出版局、2006年、161~164ページ)にも、この時の出来事が記録されています。以下、引用させていただきます。「大村牧師の口を突いて出た言葉が、ハングルの丁寧な問安の挨拶であることは、会衆が予想もしないことだったようだ。特訓のおかげで、それがすらすらと出てきてから、日本語によるおわびの言葉に移った。(~)何人かの顔に驚きと、ほおがかすかに緩む笑みが読み取れた。大村牧師は誠実な人柄で、いつも非常に謙遜な人であった。そういう人格から自然と出てくる『日本の植民地支配が、皆様にいかに大きな困難を強いてきたか』という短い言葉とともに、大村牧師は低く頭を下げて謝罪した。その結びの言葉が終わるや、私の通訳が終わらないうちに拍手が鳴り始め、満堂を揺るがす拍手に変わり、そして一人立ち、二人立ち、やがて全参加者が立ち上がった。(~)これはキリストの約束した聖霊の現存の証しであり、私は現場でそれを目撃できたことを幸いに思った。」貴重な記録です。悔い改めと謝罪、赦し、和解。天でも大きな喜びがあったでしょう。

 「まず行って兄弟を仲直りをし」、「途中で早く和解しなさい。」和解こそ、イエス・キリストの願いです。イエス様は父なる神様と私たち罪人(つみびと)、そして私たちと隣人との和解のために、さらに私たちと敵との和解のために十字架で死なれ、三日目に甦られたのですから。アーメン(「真実に」)。

2018-10-17 20:39:14(水)
「真の神様を知ってください」 2018年10月14日(日) 聖霊降臨節第22主日(神学校日)礼拝説教 要旨
聖書: 列王記・上18章15~24節、使徒言行録17章16~34節

 東久留米教会では2週間後に修養会を行います。講師の先生は午後に「信仰によって異郷に生きる」と題して講演を行って下さいます。本日の礼拝は、修養会の準備の礼拝です。

 私たちは、真の神様を信じる人口が国民の1%を切る国で信仰生活を送っています。このような状況にあるので、日曜礼拝に出席することそのものが非常に重要な信仰告白の行為になります。本日の使徒言行録17章16節以下は、イエス・キリストの弟子・使徒パウロのアテネ伝道を記します。16節「パウロはアテネで二人(シラスとテモテ)を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。」パウロはもちろんモーセの十戒の第一の戒めと第二の戒めを非常に重要に思っていました。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」「あなたはいかなる像も造ってはならない。~あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えてはならない。」偶像礼拝(偶像崇拝)の禁止です。アテネには、ギリシア神話の神々の像があふれていたのでしょう。パウロは、真の神様を伝える思いに燃えたのです。

 私は先日、大分県の教会の牧師の方にお目にかかりました。その地域には宇佐神宮があり、その方によるとその地域は昔、神仏習合が始まった所なのだそうです。偶像だらけの町とおっしゃいました。日本にも世界にも、そのような町は多くあります。アテネはまた、ソクラテスたちが活動した哲学の町でもありました。「エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したが、その中には、『このおしゃべりは、何を言いたのだろうか』と言う者もいれば、『彼は外国の神々の宣伝をする者らしい』と言う者もいた」とあります。

 アテネの人々は好奇心に満ちていて、新しいことが大好きでした。市民たちは家事や労働を奴隷に任せ、広場で政治を論じるなどしていたのかもしれません。暇だったようです。彼らはパウロに尋ねます。「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。」彼らは「何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていた」のです。パスカルという人が、「気晴らしは罪深い」という意味のことを言ったと読んだことがあります。私なりに解釈すると、「人生に気晴らしをする暇があるほど長くない。真の神様を知る、真の救い主イエス・キリストを信じるという最も大切なことを行わないと、人生はすぐ終わってしまう」ということと思います。

 アテネの人たちは新しい情報を知ることが大好きでした。もしかすると私たちもそうかもしれません。インターネットやスマホ(私も使いますが)で新しい情報を得て興奮し、しばらくして飽きると、また次の刺激的な情報を探す。でも最も重要なことは、真の神様を知ることです。真の神様を知るためには、ぜひ聖書を読むことが必要です。あるいは教会に来て聖書の話を聴いていただくことが必要です。聖書は真の神様の御言葉です。聖書は古くて、同時いつも新しい言葉です。私たちは、永遠に新しい聖書を毎日読むことで、心と生き方を養うのです。

 パウロは、アレオパゴス(「軍神アーレスの丘」)の真ん中に立って伝道します。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれた祭壇さえ見つけたからです。」今のところ考古学者は、アテネではその祭壇を発見していないようですが、別の場所では発見されているようです。パウロはアテネの人々に真の神を伝えようとします。「それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。」そしてパウロは、意外にもギリシア詩人の詩を引用して、そこから人々を真の神に導こうとします。「我らは神の中に生き、動き、存在する。我らもその子孫である」(ギリシアの詩)。これは大胆です。聖書の神とギリシアの神が完全に別の神、いえギリシアの神は偶像ですから。パウロが妥協し過ぎたように見えます。

 パウロはもしかすると、自身がコリントの信徒への手紙(一)9章19節で述べているように、「アテネ人(ギリシア人)に対しては、一旦アテネ人(ギリシア人)のように」なる姿勢をとったのかもしれません。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。~弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」

 アテネでパウロは、ギリシア人の詩を引用して、そこからアテネ人を真の神に導こうとしました。戦国時代の日本に来たカトリックの宣教師たちが、神をどのように訳すかを考えて、「大日」と訳したそうです。もちろんこれは失敗でした。聖書の神と大日は全く違います。日本人に信頼してもらうために日本人にある程度合わせる必要がありますが、聖書の真理を曲げてはならないのです。当時のカトリックの宣教師たちは、結局、聖書の神を表す適切な日本語はないと考え、彼らが用いたいたラテン語のデウスを日本人に教えたようです。20世紀の日本に来たあるプロテスタントの宣教師は、日本人と親しくなるために神輿を担いだそうです。神輿は偶像ですからやり過ぎのようにも感じますが、そのようにして日本人と仲良くなって、そこから神輿ではない真の神を伝えようとしたのです。真の神を伝えるために、聖書の真理を曲げないように気をつけつつ、どこまで相手に合わせるか、宣教師の苦心するところです。

 パウロももちろん、ギリシア神話の神々を卒業して、真の神に立ち帰るように強く勧めます。「神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。さて、神はこのような無知な時代(真の神を信じない時代)を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるように(真の神を礼拝するように)と、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方(イエス・キリスト)によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」人間の歴史は永遠に続くのではありません。イエス・キリストが必ずもう一度おいでになり、神の国が完成します。イエス・キリストによって最後の審判が行われ、白は白、黒は黒として正しく決着します。その日が必ず来るのですから、世界のすべての人が真の神様とその神の子イエス・キリストを信じて、礼拝することが最も大切です。

 何年か前に、副総理だったカトリック信者の方が伊勢神宮を参拝しました。さすがにカトリックの新聞が苦言を載せたようです。「信者なのに(政治家としての立場があるとは言え)なぜ伊勢神宮を参拝するのですか」と。朝鮮半島では、日本の植民地時代に各地に神社が建てられました。多くのクリスチャンが神社参拝(偶像崇拝)を拒否して殉教したのです。私が台湾に初めて行った1993年に、東の花蓮の辺りだったと記憶するのですが、現地の牧師が、「ここは以前、日本の神社が建てられていた所です。今は偶像の宮(神社)に代わって真の神の宮(キリスト教会)が建っています」と嬉しそうに語られました。

 私は以前、伊勢神宮の近くの教会の牧師だった方の説教を伺ったことがあります。太平洋戦争中、礼拝に出席する人は非常に少なくなったそうです。クリスチャンは敵の宗教を信じる者、非国民と見られたのです(当時日本と同盟していたドイツにもクリスチャンは多いのですから、敵の宗教とは言えないのですが)。当時、日本の教会には政府から圧力がかかり、日曜礼拝前に皇居に拝礼し、それから礼拝を行うようにと求められました。それに従ってしまった教会が少なくないと聞きます。その厳しい時代を生きていない私に批判する資格はありません。でも私たちが同じ失敗=罪を犯さない強い意志を持つことは、ぜひ必要です。それは偶像崇拝の罪ですから。ヒトラーと闘って死刑になったドイツの牧師ボンへッファーが、日本のこの情報をキャッチして、こう書いたそうです。「日本の教会は最近、偶像崇拝を始めた。」天皇を神とする時代はおそらくもう来ないとは思いますし、決して来させてはなりません。天皇は神ではありません。これからも天皇を礼拝してはいけないのです。

 本日の旧約聖書は、列王記上18章です。真の神の預言者エリヤが、バアル(偶像、偽物の神、はっきり言えば悪魔)450人とたった一人で対決した有名な場面です。イスラエルの民はモーセの十戒を知っていたのに、偶像崇拝の誘惑に負けていました。偶像の方が魅力的に見えたのです。エリヤがイスラエルの民に鋭く問います。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」民は一言も答えなかったのですが、真の神の大いなる力が示されると、民はひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と信仰の告白に導かれたのです。

 私たちは日曜日ごとに礼拝堂に集まって真の神様を礼拝します。礼拝に出席することは非常に重要な信仰告白の行為です。礼拝に体をもって出席することで、私たちの信仰を内外に公に表明することが、真の神を信じる方の少ない日本において、クリスチャンの重要な使命と信じます。アーメン(「真実に」)。

2018-10-08 21:37:12(月)
「心の中を見られる神様」 2018年10月7日(日) 世界聖餐日・世界宣教の日公同礼拝 説教要旨
聖書:ヨブ記31章1~12節、マタイ福音書5章27~32節

 先週に続き、イエス・キリストの山上の説教を読みます。先週の箇所でイエス様は、モーセの十戒の第6の戒め「殺してはならない」をお取り上げになり、心の中で人を憎むことが殺人の第一歩の罪であることを教えて下さいました。相手を一生懸命に愛したとき、初めて「殺してはならない」を真に実行することになるのです。

 イエス様は本日の箇所で、モーセの十戒の第7の戒め「姦淫してはならない」をお取り上げになります。姦淫、姦通は、結婚している夫婦以外の性関係です。性関係は、結婚している夫婦の間でのみ許されます。それ以外の性関係は明らかな罪です。日本語では姦淫、姦通は死語になりつつあります。姦淫、姦通が罪だという意識まで薄れているのではないでしょうか。これは大きな問題です。今の日本語で姦淫、姦通に最も近い言葉は不倫でしょう。当然ながら不倫を行ってはいけません。不倫は神聖な結婚を破壊する罪です。新約聖書のヘブライ人への手紙13章4節に、「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです」とあります。

 イエス様は言われます。姦淫の罪は、心の中から既に始まっていると。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」これは有名な言葉です。20年~30年前の日本の教会では、青年会などでこの御言葉を巡って話し合うなどのことがあったのではないでしょうか。以前は、クリスチャンでなくてもこの言葉を知っている人が多かったように思います。最近は知る人が減っているように感じます。多くの人々にぜひ知ってほしい御言葉です。

 この御言葉は、口語訳では「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」です。文語訳では「すべて色情を懐きて女を見るものは、既に心のうち姦淫したるなり」です。私たちが今、用いている新共同訳で「他人の妻」となっている部分が、口語訳・文語訳では「女」と訳されています。原語は、どちらにも訳せる言葉とのことです。どの訳も正しいのですが、私の感想では、「他人の妻」と訳すと「他人の妻でなければよい」と解釈される恐れがあり、イエス様の真意を薄めることにならないかと懸念します(但し、新共同訳があえて「他人の妻」と訳したことには、他者の結婚を破壊する姦淫の罪深さを強調する意図があるのではないかとは思います)。本日の説教題を、「心の中を見られる神様」としました。私たちは他人の行動を見て他人を評価するでしょうが、神様は私たちの心の中の全てをご存じです。私たちは他人をある程度ごまかすことができるかもしれませんが、神様をごまかすことは全く不可能です。

 「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」それでは性欲そのものが罪なのでしょうか。そうではないはずです。もし性欲が全くなくなれば、結婚する人も減り、子孫がぐんと減ってしまうのではないでしょうか。しかしある線を超えると性欲は罪なると思います。食欲についても同じです。食欲は生きるために必要です。しかしある線を超えると、食欲も罪になると思います。昔からキリスト教会は7つの大罪(あるいは8つの大罪)ということを教えたそうです。7つの大罪は、「暴食(大食い)、色欲(肉欲)、強欲、憤怒、怠惰、傲慢、嫉妬」とのことです。

 「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」私たちは目から多くの情報を得ますが、目から誘惑に満ちた刺激をも受けるのです。新約聖書のヨハネの手紙(一)2章16節に、「すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父(神様)から出ないで、世(罪深い世)から出るからです。」私たちは目から誘惑が入っても、早めに誘惑を絶てばよいのです。それができないと罪に落ち込む恐れがあります。目から刺激を受けて、大きな罪を犯したのがダビデ王です。「ある日の夕暮れに、ダビデは午睡から起きて、王宮の屋上を散歩していた。彼は屋上から、一人の女が水を浴びているのを目に留めた。女は大層美しかった。~それはエリアムの娘バト・シェバで、ヘト人ウリヤの妻だということであった。ダビデは使いの者をやって彼女を召し入れ、彼女が彼のもとに来ると、床を共にした。」ダビデは姦淫の罪を犯しました。そして彼女の夫ウリヤを、戦場で死に追いやる殺人の罪の責任者にもなったのです。神様が預言者ナタンを送ってダビデを厳しく叱責されます。ダビデは罪を悔い改めますが、大きな代償を払う結果にもなりました。ダビデがバト・シェバに目を留めたときに、早く目を離して誘惑を断ち切ればよかったのです。

 創世記39章に、イスラエル人の先祖ヤコブの息子の一人ヨセフが登場します。彼は、故郷を離れて一人エジプトに連れて来られる苦難を味わいました。「ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた。これらのことの後で、主人の妻はヨセフに目を注ぎながら言った。『わたしの床に入りなさい。』」ヨセフは、「わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう」と言って、はっきり拒否したのです。これが正しい態度です。

 本日の旧約聖書は、ヨブ記31章1~12節です。ここを読むと、ヨブという人は本当に清く正しく、神様に従って生きた人だと分かります。イエス様よりかなり前の時代の人ですから、イエス様の山上の説教を聞いていないのに、山上の説教に従うような生き方をしたと感じます。「わたしは自分の目と契約を結んでいるのに、どうしておとめに目を注いだりしようか。」「わたしの歩みが道を外れ、目の向くままに心が動いたことは、決してない。」「わたしが隣人の妻に心奪われたり、門で待ち伏せたりしたことは、決してない。」ヨブは非常に清く立派ですが、完全に清くはなく、罪が少しはありました。私たちはヨブ以上に清く正しく愛に満ちて生き、生涯にただの一度も罪を犯さなかった方を知っています。もちろんイエス・キリストです。

 私たちは、残念ながら山上の説教を100%実行して生きることができません。精一杯努力しても完全に実行することができません。しかし絶望する必要はありません。希望があります。山上の説教を完全には実行できない私たちの全ての罪を、イエス様が身代りに背負って、十字架で父なる神様の裁きを受けて下さいました。そして三日目に復活されました。私たちがイエス様を自分の救い主と信じて受け入れ、自分の罪を悔い改めるならば、私たちは、父なる神様の前にすべての罪を赦され、永遠の命を受け、神の子の一人とされるのです。これを読んで下さるあなた様も、ぜひイエス・キリストをご自分の救い主と信じ、罪を悔い改めて永遠の命にお入り下さい。神様がそれを切に願っておられます! アーメン(「真実に」)。