日本キリスト教団 東久留米教会

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2022-08-21 0:07:05()
「福音の種を蒔く人、刈り入れる人」 2022年8月21日(日)礼拝説教
順序:招詞 マタイ福音書5:43~44、頌栄85(2回)、「主の祈り」,交読詩編68:1~19,使徒信条、讃美歌21・401、聖書 コヘレトの言葉11:1、6(旧約p.1047)、ヨハネ福音書4:31~42(新約p.170)、祈祷、説教、讃美歌21・386、献金、頌栄92、祝祷。 

(コヘレトの言葉11:1、6) あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。~朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか/それとも両方なのか、分からないのだから。

(ヨハネ福音書4:31~42) その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」

 さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

(説教) 本日は、聖霊降臨節第12主日の礼拝です。本日の説教題は「福音の種を蒔く人、刈り入れる人」です。聖書は、ヨハネによる福音書4章31節より42節です。「イエスとサマリアの女」の小見出しの箇所の後半です。
 
 一人のサマリア人の女性が、イエス・キリストに出会い、真の礼拝に導かれてゆきます。そして神様からの素晴らしいプレゼントである「永遠の命に至る水」、つまり聖霊を受ける方向に導かれています。そして自分が会っているこのイエスという方こそ、イスラエル人もサマリア人も待ち望んでいるメシア(救い主)かもしれないとの思いに至り、喜んで町に出て行き、「さあ、見に来て下さい。私が行ったことを全て言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」と言って回りました。サマリアの人々は素直で、町を出てイエス様のもとへ、やって来たのです。

 31節から。「その間に、弟子たちが『ラビ(先生)、食事をどうぞ』と勧めると、イエスは、『私にはあなた方の知らない食べ物がある』と言われた。弟子たちが、『誰かが食べ物を持って来たのだろうか』と互いに言った。イエスは言われた。『私の食べ物とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。』」イエス様は、ここで深い真理を語られます。「私の食べ物、つまり私の喜びは、ご飯を食べることだけではない。私にとってご飯を食べるよりも嬉しいことは、父なる神様の御心を実行すること、神様に喜ばれることを行うことだ。父なる神様に与えられた使命を行うことが、私の最大の喜びだ」とおっしゃっています。あのサマリアの女性に伝道して、女性がイエス・キリストを救い主と信じて、永遠の命を受けようとしている。こうなっていることが、私の最大の喜びだ」と、おっしゃっています。

 「成し遂げる」の言葉で、このヨハネ福音書のイエス様の十字架の場面を思い出す方もあると思います。ヨハネ福音書19章で、イエス様は十字架の上で、「成し遂げられた」と言って、頭を垂れて息を引き取られました。父なる神様から与えられた使命を成し遂げることができた。全ての人の全ての罪の責任を身代わりに背負って死ぬ使命を果たすことができた。ここには達成感、充実感、喜びさえ感じられます。「これで、私を信じる者が皆、永遠の命を確実に受けることができるようになった。私の十字架の死によって、父なる神様と罪人(つみびと)たちとの間の和解を達成することができた。よかった。本望だ。あとは三日目に私に与えられる復活を待てばよい。」ヨハネ福音書の十字架の場面には、悲壮感があまり感じられないと私は思いますが、いかがでしょうか。「イエスは、自ら十字架を背負い」ゴルゴタへ向かったと書かれています。「自ら十字架を背負った。」いやいやながらではなく、父なる神様と私たちの間の和解を成し遂げるために、ご自分の意志で進んで十字架を背負ったという書き方です。使命を成し遂げるために、積極的に十字架を担うイエス様の姿が、ヨハネ福音書では強調されています。イエス様は、言われます。「私の食べ物(喜び)とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と。

 少し前にお話しした通り、私と妻に洗礼を授けて下さった牧師が、先月7月1日に天に召されたのです。割に大きな教会の牧師を歴任され、約10年前から茨城県守谷市で開拓伝道を開始され、伝道所を開設されました。その新しい教会のためにまだまだ働くおつもりだったと思いますが、約1年前にご病気が発見され、残念ながら1年間のご闘病で天に召されました。私がご闘病を知ったのは、今年の4月頃で、もちろん癒されるように祈り続けました。奥様から私ども夫婦に最近いただいたお手紙では、最後の数か月の闘病はだいぶきつかったようです。お手紙には「それでも、3月6日(日)~4月17日(イースター)は毎週礼拝に参席でき、イースター礼拝において、教会員御夫妻に与えられた男児に、幼児洗礼を授けることが叶い、大きな喜びでした」と書いてあります。妻が先日、奥様にお目にかかって来ましたが、「ご病気の中にあっても、その洗礼式の時は、力強く万全になさった」とのことで、それは大きな恵みだったと思いますし、「私の食べ物(喜び)は、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と言われたイエス様のお気持ちにも通じる、聖霊による喜びに満たされた時だったのではないかと、感じています。

 次に、イエス様の語りは、伝道のことに進みます。35節から38節「あなた方は、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言ってるではないか。私は言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も、刈り入れる人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなた方が自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、私はあなた方を遣わした。他の人々が労苦し、あなた方はその労苦の実りにあずかっている。」

 当時、種蒔きから収穫まで4ヶ月かかるという考えがあったそうです。私たちは言うかもしれません。「伝道の種を蒔いたばかりだ。収穫はまだ先だ。」ところがイエス様は、「目を上げて畑を見るがよい。私たちの身の周り、この世界を、もう一度改めて見てごらん。色づいて刈り入れを待っている。」イエス様から見れば、機は熟している。伝道の畑では、麦が色づいて刈り入れを待っている。現に多くのサマリア人が、この場面でイエス様に会いにやって来て、イエス様を救い主と信じてゆくのです。私たちは、「サマリアではそうだったにしても、今の私たちの周りは違う」と言いたくなるかもしれません。でも「目を上げて」改めて考えてみると、神様の恵みは、与えられているのです。先々週の礼拝には、学校の宿題とはいえ、多くの中高生が出席して、私は驚きました。その日の午後の小学生以下対象の子ども会には。二人と少ないけれども、子どもたちも来ました。今日の午後4時からも、何人来るかは分かりませんが、中高生の会を行います。貴重な伝道の機会であり、イエス様は「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている」と、私たちに発破をかけておられるのではないでしょうか。まずは、今日4時からの中高生の会に、皆様、祝福をお祈りして下さい。「こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。」伝道には、神様の御言葉の種を蒔くことと。刈り入れるという2つの要素がありますね。この2つは区別されると共に、同時進行の面もあります。私たちは種を蒔いていると同時に、洗礼を受ける方があれば刈り取りもすることになります。

 旧約聖書に「コヘレトの言葉」という書があります。以前は「伝道の書」という題でした。その11章1節に、こうあります。「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見出すだろう。」私が洗礼を受けた日に、洗礼を授けて下さった牧師が、教会から私にプレゼントされた口語訳聖書の表紙の次のページに達筆な文字で書いて下さった御言葉です。口語訳では、「あなたのパンを水の上に投げよ。多くの日の後、あなたはそれを得るからである。」この意味には、いくつかの解釈があるようです。1つの解釈は、「慈善の行い、愛の行いをしなさい。それはすぐに実を結ばないことも多い。しかし多くの日の後、どこかで実を結ぶ」というものです。今日は歌いませんが、前の讃美歌536番の歌詞は、この御言葉をそう解釈した歌詞だそうです。「むくいを望まで(望まないで)人に与えよ。そはかしこき、み旨ならずや。水の上(え)に落ちて、流れし種も、いずこの岸にか、生い立ちものを。」東久留米教会の長年の会員で、今は天国におられる松下静枝さんの愛唱讃美歌でした。松下さんをご存じない方も増えましたね。

 私は洗礼を受けたプレゼントでいただいた聖書になぜこの御言葉を牧師は書いて下さったか、直接尋ねたことはありません。ですがこれは伝道についての御言葉ではないかなと、思って来ました。そのような解釈もあると思います。「イエス・キリストの福音を宣べ伝えなさい。多くの日の後、あなたはそれを得るからである。」「神の御言葉を宣べ伝えることは、水の上にパンを投げるような一見空しく見える営みだが、多くの日の後、実を結んだことをあなたは知るだろう。」伝道を励ます御言葉と解釈されて来たと思います。3年前にコヘレトの言葉の分かり易い解説書を出された東京神学大学の小友聡先生は、その本の中で、「あなたのパンを水の上に投げよ」は、「積極的な行動への勧め」だと書いておられます。であれば、愛の業、そして伝道の業を積極的に進めることへの促しになります。

 コヘレトの言葉11章6節には、こうあります。「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からないのだから。」実に積極的な御言葉で、とことん種を蒔き続けよと言っています。夜も(眠らないで?)種を蒔けは、現実には無理な気がしますが、小友先生はこれについて、「すべてが徒労に終わるかもしれない。もう諦めるしかないという悲観的な結論に至る瀬戸際で、だからこそ最善を尽くし、徹底して生きよと、コヘレトは勧めます。~空しく、先が見えないからこそ、今、最善を尽くす生き方をせよ、とコヘレトは述べています」と書かれ、大変励まされます。小友先生は、マルティン・ルターが言ったとされる「たとえ明日、世の終わりが来ようとも、私は今日、リンゴの木を植える」の言葉につながると言われます。なるほどと思います。「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からないのだから。」テモテへの手紙(二)4章2節に通じると感じます。「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」

 ヨハネ福音書に戻ります。「あなた方が自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、私はあなた方を遣わした。他の人々が労苦し、あなた方はその労苦の実りにあずかっている。」苦労して福音の種を蒔く人がいて、別の人が後に刈り入れる。同じようなことを、イエス様の使徒パウロが、コリントの信徒への手紙(一)3章で述べていますね。「私は植え、アポロ(別のクリスチャン)は水を注いだ。しかし、成長させて下さったのは神です。植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。私たちは神のために力を合わせて働く者であり、あなた方(教会)は神の畑、神の建物なのです。」

 パウロが植えたとは、パウロが種を蒔いたということでしょう。アポロは水を注いだ、つまりケアをしたと言えます。現実の伝道においては、御言葉の種を蒔くだけでなく、相手のための祈りや配慮、ケアが必要になります。相手の性格や考え方も様々なので、相手に合わせた具体的な工夫をする愛の労苦が必要になると思います。イザヤ書28章に「農夫の知恵」という箇所があって、これは実際の農業の際に種の種類によって蒔き方を変える知恵が必要で、神様がその知恵を与えて下さると書かれています。「種を蒔くために、耕す者は一日中耕すだけだろうか。土を起こして、畝を造るだけだろうか。畑の面を平らにしたなら、いのんどとクミンの種は、広く蒔き散らし、小麦は畝に、大麦は印をしたところに、裸麦は畑の端にと、種を蒔くではないか。神はふさわしい仕方を彼に示し、教えられる。」御言葉を宣べ伝える伝道においても、やはり相手に合わせた愛の工夫は必要になるでしょう。

 新約聖書は、御言葉・福音の種を蒔きなさいと進めると共に、愛の種を蒔きなさい、善を行い続けなさいとも、私たちに発破をかけます。ガラテヤの信徒への手紙6章7節以下に、こうあります。「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く(自分勝手な悪を行う)者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く(愛の行いをする)者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」

 愛の種を蒔くにしても、福音・御言葉の種を蒔くにしても、すぐに実を結ぶわけではないので、蒔くことは忍耐強い労苦と思います。詩編126編5~6節は、種蒔きの労苦を語り、そして刈り入れ、収穫の喜びの両方を語ります。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰って来る。」このように最後には、このような喜びが約束されています。

 本日のヨハネ福音書は、サマリアの多くの人々がイエス様を救い主と信じて救われた、永遠の命を受けたと述べているようです。イエス様も父なる神様も、深く喜ばれたに違いありません。私たちは日本中が、世界中が早くこうなることを願っています。イエス様は、ルカ福音書10章で、こう言われます。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい。」「収穫は多い」とおっしゃいます。その御言葉を信じて、私どもは、福音の種蒔きと伝道相手の方のための祈りとケアに、励ませていただきたく思います。アーメン。




2022-08-14 0:43:12()
「永遠の命に至る水」 2022年8月14日(日)礼拝説教
順序:招詞 マタイ福音書5:43~44、頌栄85(2回)、「主の祈り」,交読詩編67,使徒信条、讃美歌21・361、聖書 申命記7:6~8(旧約p.292)、ヨハネ福音書4:1~30(新約p.168)、祈祷、説教、讃美歌21・404、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(申命記7:6~8) あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。

(ヨハネ福音書4:1~30) さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである―― ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった。それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。

(説教) 本日は、聖霊降臨節第11主日の礼拝です。本日の説教題は「永遠の命に至る水」です。聖書は、ヨハネによる福音書4章1節より30節です。小見出しは、「イエスとサマリアの女」です。イエス様が直接、伝道なさっている個所と言えます。1節から「さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼あ(バプテスマ)を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、―洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである―ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった。」巻末の地図6を見ると、イスラエルの中で南がユダヤ、北がガリラヤ、真ん中辺りがサマリアだと分かります。

 イスラエル国は元々一つでしたが、紀元前922年(イエス様の時代より約900年も前)に、南ユダ王国と北イスラエル王国に分裂します。南ユダ王国の首都がエルサレム、北イスラエル王国の首都がサマリアです。最も古くは、この頃からエルサレムとサマリアの対立が始まりました。その後、紀元前722年に北イスラエル王国がアッシリア帝国に攻撃されて滅びます。サマリアにアッシリア人が入って来て、イスラエル人と結婚することもあったでしょう。サマリア人は、純粋なユダヤ人ではなくなったと言えます。それでも真の神様を礼拝していたようですが、サマリア人の聖書は、モーセ五書と呼ばれる旧約聖書の最初の五冊だけだったそうです。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記です。彼らはゲリジム山という山で、礼拝しました。こうして南ユダ王国のエルサレムの人々とは、少々違う信仰の形式になったようです。アッシリアの宗教も入り込んだ可能性があります。ユダヤ人から見れば、サマリア人は純粋なユダヤ人ではない(半分異邦人、外国人)、礼拝の仕方も独特。「サマリア人は由緒正しい、正統的なユダヤ教徒ではない」と低く見られ、差別されるようになりました。民族差別、それは今も世界中あちこちにあります。日本にもあるでしょう。アイヌや沖縄の方々m挑戦半島の方々を低く見た歴史があることを、なかったことにはできないでしょう。しかしイエス様は、ユダヤ人でありながらサマリア人を差別なさらなかったのです。当時、女性も低く見られていました。しかしイエス様はもちろん、女性を差別することも決してなさいません。多くのユダヤ人なら避けるサマリアを、イエス様は避けないで通られます。決して、いやいや通られたのではないと思います。
 
 5~6節「それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエス様は旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。」この井戸が伝道の舞台になります。イエス様は旅に疲れて井戸のそばに座っておられました。イエス様は神の子ですが、私たちと同じ肉体を持つ人間です。ですから疲れることもあります。十字架の上でも、本当に痛みに耐えて下さいました。神の子だから痛くなかったということは全くないのです。

 7~9節「サマリアの女が水を汲みに来た。イエスは、『水を飲ませてください』と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、『ユダヤ人のあなたがサマリアの女である私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか』と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。」イエス様は、本当はご自分が最も大切な「永遠の命に至る水」をこの女性に与えようとしておられるのですが、対話のきっかけを作るために、ご自分からサマリアの女性に声をかけられました。イエス様はプライドから自由な方です。私はユダヤ人だからサマリア人に声をかけたりしないとか、私は偉いのだから、相手からまず自分に声をかけるべきだ、などとはおっしゃいません。イエス様は「水を飲ませて下さい」とへりくだる自由をお持ちです。

 イエス様は、すぐ主題に入られます。10節「イエスは答えて言われた。『もしあなたが、神の賜物を知っており、また、「水を飲ませて下さい」と言ったのが誰であるか(救い主キリストである)を知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。』」「生きた水」が最も大切なテーマであることが分かります。女性は戸惑っています。11~12節「女は言った。『主よ、あなたは汲むものをお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか(無理でしょう、と言いたげ)。あなたは、私たちの父(先祖)ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸を私たちに与え、彼自身も、その子どもや家畜も、この井戸から水を飲んだのです。』もちろん喉の渇きを癒し、生きていくために水は不可欠、特に猛暑の8月は水分補給が不可欠です。でもイエス様が与えようとしている最も重要な水は、井戸から汲む水、あるいはペットボトルで飲む水ではないのですね。

 イエス様は、一番大切なことを言われます。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女性は言います。主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水を下さい。」女性はまだよく分かっていません。水汲み労働をしないで済むなら、嬉しい。その水を下さいと言います。結論を言えば、私は「永遠の命に至る水」は聖霊(神様の清き霊)だと思っています。聖霊をいただくには、「下さい」と言うだけでは、無理です。

 この暑い地方で、水汲み労働は早朝や夕方の仕事だと聞きます。暑い正午に水を汲みに来る人はいない。あえて人の来ない正午に水を汲みに来たこの女性には、理由があったと言われます。18節でイエス様が見抜かれます。「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。」この名前の分からない女性は、五回結婚しました。今は結婚していない男性と共に暮らしています。これでは評判はよくないでしょう。人目を避けて、暑い正午に水を汲みに来たと考えられています。

 五回結婚するほど、愛情に飢えていたのかもしれません。それでも心の中が本当には満たされなかったようです。六人目と同棲しています。五回結婚して別れたこともよいとは言えませんし、六人目とは結婚もしないで共に暮らしているのですから、これは明らかに罪です。この罪を隠したまま、神様の清き霊である聖霊を受けることはできません。罪と認め、罪と告白して、悔い改めることが必要です。

 女性は「私には夫はいません」と言っただけなのに、「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」と、言わなかったことまで見抜かれた女性は、驚いて言います。19節「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」この男性は只者ではない。神様に遣わされた人、預言者に違いない。いえ、実際には預言者以上の方、神の子にしてメシア(救い主)なのです。「この方が預言者なら、神様をよく礼拝する方だろう」と思ったのでしょう、女性は礼拝のことを語り出します。「私ども(サマリア人)の先祖はこの山(ゲリジム山)で礼拝しましたが、あなた方(ユダヤ人)は、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」どちらが正しいのでしょうか、と問いたいのではないでしょうか。

 イエス様は、「婦人よ、私を信じなさい」と踏み込みます。イエス・キリストを救い主と信じることが、一番大切なことです。「私を信じて、罪の赦しを受けなさい。そして真の礼拝を献げる喜びに入りなさい」という招きだと思うのです。「あなた方が、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。私(イエス・キリスト)を信じる者は、どこにいても真の礼拝を献げることができるのだ」という招きです。エルサレムとか、ゲリジム山とか、もはや場所が問題ではない。

 22節「あなた方は知らないものを礼拝しているが、私たちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。」あなた方サマリア人は、真の神様をよく知らないで礼拝しているが、私たちユダヤ人は真の神様を知って礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。」確かに、神様はまずユダヤ人(イスラエルの民)を神の民として選ばれました。それは間違いありません。ユダヤ人から初めて、世界の諸民族(異邦人)をも救いに導くことが、神様のご計画の順序です。イスラエルが強く多かったから選ばれたのではなく、その逆で、貧弱な民だったから選ばれたのです。神様は傲慢を嫌われるのです。

 本日の旧約聖書・申命記7章6節以下にそれが書かれています。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたたちを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」このイスラエルの民、ユダヤ人から救いが始まり、異邦人、全世界に進みます。

 23、24節でイエス様は、礼拝について非常に重要なことを述べられます。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊(聖霊)と真理をもって父を礼拝する時がくる。今がその時である。」そうです、今がまさにその時です。「なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」私は説教前の祈りでよく「この礼拝が神様に受け入れていただき、喜んでいただける霊と真理の礼拝になりますように、上から導いて下さい」と祈りますが、それはイエス様のこの御言葉に基づいています。霊は、神の清き霊である聖霊でしょう。真理ですが、聖書の言う真理は、理屈であるよりも聖書の御言葉(たとえばモーセの十戒)であり、イエス・キリストご自身です。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」聖霊に導かれ、イエス・キリストを通して父なる神様に近づく礼拝でなければならない、ということではないでしょうか。

 「霊と真理をもって礼拝しなければならない。」神の真理に背くことが罪ですから、真理をもって礼拝するためには、罪を悔い改める必要があります。この女性の場合、少なくとも今、結婚していない男性と同棲していることは罪ですから、その罪を悔い改める必要があります。自分の罪を心から悔い改め、イエス様を救い主を信じ告白する人には、聖霊が豊かに注がれます。女性は、イエス様の御言葉を少しずつ理解し始めています。それで言います。「私は、キリストと呼ばれるメシア(救い主)が来られることを知っています。その方が来られるとき、私たちに一切のことを知らせて下さいます。」イエス様が言われます。「それは、あなたと話をしているこの私である。」イエス様こそ、この女性の罪をも全て背負って、身代わりに十字架で死んで下さり、三日目に復活なさるメシア(救い主)です。

 彼女は心を動かされ、水かめをそこに置いたまま町に行き、人々に言います。「さあ、見に来て下さい。私が行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエス様に会いにやって来たのです。彼女は、少しずつ悔い改め始めている、イエス様を信じ始めている、聖霊を受け始めているのだと感じます。「私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」私の知り合いの牧師が、数年前にこの教会のすぐ近くの南沢湧水に水を汲みに来たそうです。そこの湧水の水を持って帰って、花小金井教会の礼拝で洗礼式を行ったそうです。私は湧水の水を用いて洗礼式を行ったことがないのですが。湧水、湧き水。「永遠の命に至る水」を連想させますね。長崎に活水女子大学というプロテスタントの学校があるそうです。活水は、活きた水と書きます。ヨハネ福音書4章10節から名前をつけたそうです。「その人(イエス様)はあなたに生きた水を与えたことであろう。」

 プロテスタントの一派にメソジスト教会があります。メソジスト教会を始めたのはジョン・ウェスレー(1703年~1791年)というイギリスの牧師です。既に牧師として働いていましたが、アメリカに行って失敗したり、行き詰まっていたようです。1738年にロンドンのアルダーズゲートという場所で行われた集会に参加した時に、第二の回心というべき体験をします。ローマの信徒への手紙についてマルティン・ルターが書いた解説が朗読されているのと聞きながら、不思議と心が暖かくなる、燃える体験だったようです。改めて聖霊を注がれた時だったのだと思います。それからメソジスト運動と呼ばれる働きが始まり、メソジスト教会が形造られてゆきました。私は1999年に一度だけイギリスに行った時に、ロンドンのウェスレーチャペルという礼拝堂、ウェスレーが説教した礼拝堂に行きました。ウェスレーが住んでいた牧師館も保存されていて、入って来ました。歴史に名を残す有名なウェスレーも行き詰まって悩み、そこで神様から新しく聖霊を注がれて、もう一度立ち上がった事実に、私たちも勇気づけられます。彼もイエス様からそれを飲むと、もはや決して渇かない永遠の命に至る水を受けたのです。私たちも日々よく祈り、聖書を読み、聖霊を注いでいただいた聖なる喜びと慰めに満ちた信仰生活、礼拝生活を重ねて参りたいものです。アーメン。

2022-08-07 0:34:54()
「独り子イエス様を贈る神の愛」 2022年8月7日(日)礼拝説教
順序:招詞 マタイ福音書5:43~44、頌栄29、「主の祈り」,交読詩編66,使徒信条、讃美歌21・492、聖書 創世記22:9~18(旧約p.31)、ヨハネ福音書3:16~30(新約p.167)、祈祷、説教、讃美歌21・288、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(創世記22:9~18) アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」

 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

(ヨハネ福音書3:16~30) 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

 その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」

(説教) 9週間前にペンテコステを献げ、平和聖日公同礼拝です。本日の説教題は「独り子イエス様を贈る神の愛」です。聖書は、ヨハネによる福音書3章16節より30節です。先週は2章の最後まででしたので、本日は3章1~15節を飛ばした形になりました。3章1節以下は、今年5/22(日)の礼拝でじっくり読みましたので、2ヶ月半しかたっていないので、本日は割愛致しました。

 3章16節は、福音の中の福音と呼ばれ、「一番好きな聖書の言葉」に挙げる方も多い御言葉です。「神は、その独り子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」世とは、中立的な世ではなく、神様(父なる神様)に逆らい、神様に背く世です。神様からご覧になれば敵ですね。父なる神様は、ご自分に逆らい敵対する世(つまり私たち)を愛して(敵を愛して)、独り子イエス・キリストをこの地上に送って下さり、この方に私たちの全部の罪の責任を身代わりに背負わせて、十字架にお架けになったのです。そしてイエス様は三日目に体をもって復活され、その40日目に天に昇られ、今は天で生きておられ、天から私たちに聖霊を送って下さいます。

 このイエス・キリストの誕生と十字架の死と復活こそ、世界史上最も重要な出来事と言えます。色々な重要な出来事が多くあったにしても、このイエス様の誕生と十字架の犠牲・贖いの死(私たち全ての人間の全ての罪の責任を身代わりに背負った)と復活こそ、世界の歴史で、一番重要な出来事言えます。父なる神様がたった一度、私たちの世界に決定的に介入なさった出来事だからです。世界史ではイエス様が誕生なさった年を紀元1年としました。但し、正確に計算し直してみると、イエス様の誕生は紀元前5年前後だったらしいと今は訂正されています。でも紀元1年を約5年、古い時に引き戻すことはしませんでした。そうすると歴史の年号を全部書き換えることになるので、現実的に無理だったからでしょう。しかしイエス・キリストの誕生の年をもって歴史を決定的に区切ったということは、イエス様の誕生(そして約30年後の十字架の死と復活)こそ、世界史を区切る最も重要な出来事だと確信されたからです。紀元前を英語でBCと言いますね。ご存じの通りBCは Before Christ、「キリストの前」の意味です。イエス様の誕生で世界史を区切っています。紀元後はADで、これはラテン語だそうで Anno Domini(主の年に)の意味だそうです。「主の年に」ですから「イエス様の年」の意味でしょう。イエス様の誕生を起点として「何年」という数え方です。キリスト教が嫌いな国は西暦を用いでしょうが、いわゆる西暦はイエス様の誕生年を起点としており、イエス様の誕生とその生涯、十字架と復活が、父なる神様が世界史に決定的に介入なさった最も重要な出来事と見なしていることが分かります。神の愛による介入です。

 このことについて、ヨハネの手紙(一)4章9節に、こう記されています。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に示されました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子(イエス様)をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです。」このように父なる神様が、独り子イエス様を地上に送って下さったことが、私たちの愛に先立つ神の愛にほかならないと述べています。独り子は、一人息子ですから、最もかわいい息子ですね。「かけがえがない」息子です。もちろん子供が複数いても、一人一人皆かわいいに違いないのですが、独り子と言う場合には、そのかわいさ、大切さが増幅されます。その最も大切な独り子を、父なる神様は私たちの罪を背負わせるいけにえとして、私たちに贈って下さいました。私たちにプレゼントして下さいました。「ここに愛がある」とヨハネの手紙(一)は述べます。

 ヨハネ福音書に戻り、3章17~18節「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」独り子イエス様は、父なる神様がこの世界を罪と死から救うために送られた、「最後の切り札」です。「次の奥の手」「次の切り札」はもうありません。独り子イエス様を救い主として地上に送ることによって、父なる神様は私たちに手の内を明らかにして、手の内を全て見せて下さったのです。父なる神様が、それだけの決心をして送って下さった「最後の切り札」がイエス様です。神様がそこまでして手の内をさらけ出して下さっているのですから、神様に造られた私たち人間、私たち罪人(つみびと)には、それに応える責任があります。神様の愛の切り札イエス様の前に、素直に頭を垂れて、イエス様を救い主と素直に信じて告白しようではありませんか。それが、神様に喜んでいただける道なのです。私たちがイエス様を救い主と信じれば、父なる神様も「独り子を十字架にかけるほどの犠牲を払った甲斐があった」と喜んで下さるのです。私たちがイエス様を信じないで、父なる神様を悲しませることがあってはいけません。

 19節「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」「光が世に来た。」光はイエス・キリストです。クリスチャン作家の三浦綾子さんの夫は三浦光世さんです、数年前に天に召されましたが、光世さんのお名前は、「光が世に来た」から取られていたはずと思います。イエス様はヨハネ福音書8章12節で、「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と宣言されました。20~21節は、「暗闇の方に行かないで、真の世の光であるイエス・キリストの元に来なさい」という招きが趣旨だと思います。「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」私たちも、光であるイエス・キリストの方にいつも歩いて行きましょう。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」「独り子」という言葉でどうしても思い出されるのは、創世記22章です。信仰の父アブラハムが、神様の命令により独り子イサクを、神様に献げる半歩手前まで行った出来事です。神様がアブラハムを試しておっしゃいます。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。私が命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」アブラハムは次の朝早く起きて、従うのです。アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、独り子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を持っていて、二人が一緒に歩きます。イサクが尋ねます。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えます。「私の子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えて下さる。」

 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、私に献げることを惜しまなかった。」
アブラハムが目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角を取られていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えて下さる)と名付けた。そこで、人々は今日でも、「主の山に備えあり」(イエラエ)と言っている。

 以上は、旧約聖書の有名な箇所です。神様に従ったアブラハムの信仰がすばらしいです。同時に、この箇所は独り子イエス様の十字架の身代わりの死を、暗示する箇所であることが大切と思います。アブラハムはイサクに言いました。「私の子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えて下さる。」その通りになり、神様が木の茂みに一匹の雄羊を備えておられ、アブラハムはイサクを殺さずに済み、その雄羊を神様に献げたのでした。それでアブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えて下さる)と名付け、人々は「主の山に備えあり」(イエラエ)と言うようになったと記されています。神が備えて下さった雄羊は、独り子イエス様を暗に指し示します。「主の山に備えあり。」独り子イエス・キリストこそ、父なる神様が私たち皆の罪の赦しと永遠の命のために、私たちが生まれる前から用意しておられた、究極の備えです。「主の山に備えあり。」独り子イエス様が、私たちの全部の罪を身代わりに背負う小羊として、用意されていました。私たちは、自分の罪を悔い改めて、
このイエス様を救い主と信じる信仰によってのみ救われ、永遠の命をいただきます。

 天使がアブラハムに言いましたね。「あなたが神を畏れる者であることが今、分かったからだ。」「あの人は神を畏れる人(畏れ敬う人)だ」という言い方は、旧約聖書では最高の褒め言葉の一つと言えます。「あなたは、自分の独り子である息子すら、私に献げることを惜しまなかった。」ローマの信徒への手紙8章32節に、こうあります。「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのもの(永遠の命、天国)を私たちに賜らないはずがありましょうか。」今日の創世記では、神様がアブラハムの信仰が、真の信仰かどうか、試されました。アブラハムはこのテストに合格しました。神様はアブラハムの信仰を試して、ご自分はのほほんとされる方ではないのです。アブラハムは独り子イサクを献げることを、すんでのところでしないで済みました。しかし父なる神様は、本当に最も愛してやまない独り子イエス様を、十字架におかけになったのです。これは父なる神様にとっても、非常に辛く痛く、悲しいことでした。父なる神様は、その強い心の痛みに耐えて、最も愛する独り子イエス様を、十字架に追いやりました。

 三日目に復活が起こると分かっていても、神様にとっても独り子を失うことは想像を絶する苦難です。旧約聖書のアモス書8章9、10節にこんな御言葉があります。「その日が来ると、と主なる神は言われる。私は真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする(このことは、イエス様の十字架の死の時に起こりました)。私はお前たちの祭りを悲しみに、喜びの歌をことごとく嘆きに歌に変え、どの腰にも粗布をまとわせ(深い悲しみのしるし)、どの頭の毛もそり落とさせ、独り子を亡くしたような悲しみを与え、その最期を苦悩に満ちた日とする。」これは世の終わりの日を予告する御言葉ですが、ここに記されている裁きを神様はイエス様に集中的に注がれました。「独り子を亡くしたような悲しみを与え。」本来は、神様に背くイスラエルの民にこの悲しみを与えるはずでしたが、父なる神様ご自身が独り子イエス様を十字架の上で死なせる悲痛を耐え忍ぶ道を選ばれたのです。私たちの罪を赦すためです。

 私たちは間もなく、イエス様の十字架の死と復活を心と体に刻む聖餐式を行います。私たちのために裂かれたイエス様の体であるパンと、私たちのために流されたイエス様の血潮であるぶどう液を食べ飲むとき、父なる神様がどんなお気持ちで独り子イエス様を十字架におかけになったのかを思いながら受けたいと思います。父なる神様が、独り子を失う心の痛みに耐えて、独り子を十字架におかけになった悲痛な思いを、少しでも心に刻みつつ、パンとぶどう液を受けたいものです。

 さて、今日のヨハネ福音書の次の小見出しの部分にも、少し触れます。小見出しは、「イエスと洗礼者ヨハネ」です。イエス様の方に次第に人が集まるようになったので、ヨハネの弟子たちが嫉妬して、やや悔しそうに、「みんながあの人(イエス様)の方へ行っています」と言います。ヨハネは落ち着いて、「それでよい」という意味の答えをします。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」ヨハネには、ヨハネに与えられた神の道があり、ヨハネはそのように生きれば十分です。28節以下「私は『自分はメシア(救い主)ではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなた方自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、私は喜びで満たされている。」花婿、主役はイエス様であり、私ヨハネは花婿の介添え人に過ぎない。私が介添え人に徹することが、神様の御心だ。私は介添え人であることを非常に光栄に思い、深く深く喜んでいる。「あの方(イエス様)は栄え、私は衰えねばならない。」これは本当にヨハネの謙遜な、すばらしい言葉です。ヨハネには、もっと上に立ちたい野心はないのです。ヨハネは本当に清い人です。ヨハネは前にもこう言いました。「私はその(イエス様の)履物のひもを解く資格もない。」私たちはつい「その方の履物のひもを解くくらいの価値はある」と自己主張したくなるのではないでしょうか。ヨハネはそれをしません。

 この姿勢は、使徒パウロにも通じます。パウロは、フィリピの信徒への手紙1章で言います。「生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。」パウロが生きる目的は、パウロの身によってイエス・キリストの御名が、公然とあがめられること。パウロが死ぬ目的も、イエス様の御名が公然とあがめられること。同じ手紙でパウロが、最も信頼する若き伝道者テモテのことを褒めて、「私と同じ思いを抱いている」と言い、「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています」と、私たちにも、少しグサッと来るかもしれない言葉を述べます。他の人々は、自己実現を求めている。今を生きる人々は、自己実現を人生の目的としていることもあると思います。聖書が言う罪とは何か? それは「自己追求」です。自分のことばかり求める。自己中心と言っても同じです。「都民ファースト」「アメリカファースト」。この数年の政治家の言葉です。聖書に照らすと、明らかに罪です。自己追求の罪は、残念ながら私の中にもあります。でも聖霊によって清められ、聖餐式のパンとぶどう液によって清められ、私たちは洗礼者ヨハネのように、パウロのようになりたいのです。「全て、イエス・キリストの栄光のために!」私たちのために十字架で死なれた独り子イエス様の愛に感謝の応答をして、そのように生きたいのです。アーメン。

2022-08-05 17:42:37(金)
8月の伝道メッセージ 石田真一郎(市内の保育園の「おたより」に掲載した原稿)
「主(神様)は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました」(新約聖書・コリントの信徒への手紙(二)12章9節)。

 水野源三さん(1937~1984)というクリスチャンがおられました。「瞬(まばた)きの詩人」と呼ばれます。長野県坂城町(軽井沢より西)の方で、そこは千曲川が流れ、夏の緑が美しい所です。9才の時に赤痢で脳性麻痺になり、立って歩くことも話すこともできなくなり、見ると聞くが残りました。幸い、仲のよい家族でした。宗教を嫌いました。おはらいやまじないを勧められたからです。体の不自由な宮尾牧師が訪問し、聖書を渡し、源三さんが少しずつ聖書を読み始めます。イエス様が、源三さんを含む全ての人の、全部の罪と過ちの責任を身代わりに背負って十字架で死なれた深い愛を知り、感動します。13才で洗礼を受け、明るくなります。

 25才のとき、詩作を始めます。五十音表を使い、「もり」なら、母や義理の妹がア段を一つずつ指し、源三さんが「ま」で目をつぶります。次にマ行を下に行き、「も」で目をつぶります。こうして共同で詩、短歌、俳句を作ります。勉強もし、作品が時々、キリスト教雑誌に掲載されます。
☆「キリストの み愛に触れたその時に/ キリストの み愛に触れたその時に/ 私の心は変わりました。/ 喜びと希望の/ 朝の光がさして来ました」(『こんな美しい朝に』いのちのことば社、1990年)。
☆「新聞のにおいに朝を感じ/ 冷たい水のうまさに夏を感じ/ 風鈴の音の涼しさに夕ぐれを感じ/ かえるの声はっきりして夜を感じ/ 今日も一日終わりぬ/ 一つ一つのことに/ 神様の恵みと愛を感じて」 
☆「物が言えない私は/ ありがとうのかわりにほほえむ/ 朝から何回もほほえむ/ 苦しいときも 悲しいときも/ 心から ほほえむ」

 姪がある時、源三さんに、「病気をしたことをどう思っているの?」と尋ねるとすぐに、「感謝してる。キリストを信じることができたから」と答えました。誰が訪問しても、六畳の部屋で、にこにこ迎えるので、訪問した人も嬉しくなり、励ましに来たつもりが、自分が励まされたそうです。過ちを犯した人を、源三さんが叱ることもありました。家族は「源三は、うちの宝」、町の人も「源三さんは町の宝」と言いました。詩集も出ています。

 イエス様の時代、障がいは本人か両親の罪の結果と考えられていました。しかしイエス様は、それを否定します。本人や両親の罪の結果でなく、「神のわざがこの人に現れるためである」(ヨハネ福音書9章3節)。源三さんは、このイエス様の御言葉にも励まされたのでしょう。アーメン(真実に)。 


2022-07-30 23:43:33(土)
説教「神殿から商人を追い払うキリスト」 2022年7月31日(日)
順序:招詞 コリント(二)1:3~5、頌栄28、「主の祈り」,交読詩編65,使徒信条、讃美歌21・351、聖書 詩編69:8~13(旧約p.902)、ヨハネ福音書2:13~25(新約p.166)、祈祷、説教、讃美歌21・476、献金、頌栄27、祝祷。 

(詩編69:8~13)
 わたしはあなたゆえに嘲られ/顔は屈辱に覆われています。兄弟はわたしを失われた者とし/同じ母の子らはわたしを異邦人とします。あなたの神殿に対する熱情が/わたしを食い尽くしているので/あなたを嘲る者の嘲りが/わたしの上にふりかかっています。わたしが断食して泣けば/そうするからといって嘲られ粗布を衣とすれば/それもわたしへの嘲りの歌になります。町の門に座る人々はわたしを非難し/強い酒に酔う者らはわたしのことを歌います。

(ヨハネ福音書2:13~25) 
 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。

(説教) 8週間前にペンテコステを献げ、聖霊降臨節第9主日公同礼拝です。本日の説教題は「神殿から商人を追い払うキリスト」です。先週のヨハネ福音書は、この直前でした。ガリラヤのカナという所で、婚礼があった。皆でお祝いに飲むぶどう酒がなくなった。イエス・キリストが愛の奇跡を起こして、とてもおいしいぶどう酒を、水から作り出して下さり、人々はそれを飲んで、恵まれた婚礼の時を過ごした、という話でした。イエス様はこの奇跡(ヨハネ福音書では「しるし」という)により、ご自分が神の子であることを明らかにして下さったのです。愛に満ちたイエス様の姿が、示されていました。

 その直後の本日の個所は、ヨハネ福音書2章13節以下です。ここでのイエス様は、鞭を振るっています。イエス様が、聖なる怒りを発揮しておられます。一見、まるで先週のイエス様とは、完全に正反対のイエス様のようで、戸惑う方もあるのではないかと思います。最初の13節「ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。」過越祭は、ユダヤ人の最大の祭りで、首都エルサレムは熱気にあふれたと言います。エルサレムは首都ですが、イエス様にとっては安心な場所ではありません。イエス様に敵対するファリサイ派の人々の根拠地がエルサレムです。イエス様にとっての平安の地は、お育ちになったガリラヤです。そのガリラヤのカナから、ヨルダン川の向こう側ベタニアを通り、イエス様はご自分に敵対する人々の多い、イエス様にとって危険なエルサレムにやって来られたのです。

 14節「そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。」イエス様はエルサレムに入ると、神殿に直行なさいました。当時のエルサレム神殿は、ヘロデ大王という建築が大好きな王様が一生懸命拡張した、非常に壮麗で美しい建物だったそうです。しかし大事なのはもちろん、中身です。神殿は礼拝する場所で、礼拝では牛や羊や鳩を、神様に献げる必要がありました。しかし遠くから礼拝に来る人が、いけにえの動物を連れて来ることは、物理的に困難です。そこで神殿でいけにえの動物を買って、献げてよい決まりになっていたそうです。ですから合法であった、ルール通りでありました。ですが、イエス様からご覧になると、問題があったのだと思います。15~16節「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。私の父の家を商売の家としてはならない。』」

 これを素直に読むと、「この神殿は、私の父なる神様の聖なる家、祈りの家、礼拝の家である。それを商売の家としてはならない。」この聖なる家を「商売の家、売り買いの家、ビジネスの家にしてはならない」とおっしゃっていることになります。私たちには、いけにえの動物が、どれくらいの値段で売り買いされていたのか、分かりません。売る側の利益が少しであれば、問題なかったのかもしれません。しかし買う側からすれば、どうしても買わなければならないとすれば、買う側の立場は弱くなり、売る側の立場が強くなり、次第に売る側が高く売るようになったかもしれません。そうなると売る側が強欲の罪に陥った可能性はあります。両替商は、両替するだけなら、1銭の利益も得ないので問題ないと思いますが、現実には高い手数料を取って儲けていたと書く解説書もあります。そうだったのかもしれません。そうなると一日の終わりに「今日の儲けは、これくらいだった」ということが商売する人々の関心の中心になり、いつの間にか、神様よりもお金に関心が集中するようになったのではないでしょうか。それはいけない。礼拝の場の中心は、どこまでも神様でなければならない。そうでないと神様への礼拝にならない。この時、イエス様の姿勢に妥協は全くありません。純粋な神礼拝を回復する必要がある。そのためにイエス様は、激しい聖なる怒りをもって鞭を振るい、牛や羊を追い出し、両替人の金をまき散らし、鳩を売る者たちに「このような物(鳩、お金)はここから運び出せ。私の父の家(父を礼拝する神殿)を商売の家とすることを決して許さない」と事実上、宣言されました。真の礼拝を確立する必要があるということです。父なる神様に喜ばれる霊と真理の礼拝、嘘偽りのない、真心から神様の前で、自分の罪を悔い改める礼拝。真の礼拝の確立が必要なのだと思います。

 マタイによる福音書のよく似た場面を読むと、イエス様は、こうおっしゃっています。「こう書いてある(旧約聖書に)。『私の家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」 「神様の聖なる神殿は、祈りの家、礼拝の家でなければいけない。ところがイスラエルの指導者たちが、強盗の巣にしている。」強盗の巣とは強烈な表現です。強盗は、泥棒よりも強烈な表現ですね。強盗は強欲です。礼拝と強欲は矛盾します。両立しません。イエス様がマタイ福音書6章24節で「あなた方は、神と富とに仕えることはできない」と言われた御言葉を、肝に銘じる必要があります。それにしても、イスラエルの信仰の指導者たちが、本当のそんなに強欲で堕落していたのでしょうか。信じ難い気もしますが、ルカ福音書16章14節に「金に執着するファリサイ派の人々が(~)イエスをあざ笑った」とありますので、金に執着するファリサイ派(イスラエルの民の信仰のリーダー)の人々が、本当にいたのでしょう。そのような人々が神殿で権力をもち、神殿ビジネスをリードして、利益を得ていた可能性がありますね。私が思うに、この神殿に関わる人々の多くは男性で、政治と権力とお金が重視されたいたの現実ではないかと思います。まさにこの世の生々しい現実です。ところがそこにイエス様が来られます。イエス様は聖なる神の子で、政治にも権力にもかかわりなく、全く強欲ではありません。イエス様は、父なる神様を愛し、その神殿を愛しているので、神殿を全力で清められます。人々は、貪欲の罪に陥っていた可能性があります。コロサイの信徒への手紙3章に「貪欲は偶像礼拝にほかならない」との御言葉があります。神殿の人々は、貪欲の罪を悔い改める必要がありました。

 17節「弟子たちは、『あなたの家を思う熱意が私を食い尽くす』と書いてあるのを思い出した。」これは、本日の旧約聖書・詩編69編10節です。弟子たちは、この詩編の御言葉が、まさにイエス様にこそ当てはまると実感したから、思い出したのです。聖霊なる神様が思い出させたと言えます。「あなたの神殿に対する熱情が、私を食い尽くしているので、あなたを嘲る者の嘲りが、私の上にふりかかっています。」これはこのヨハネ福音書の文脈では、「父なる神様の神殿に対する熱い愛で、私(イエス様)が満ち満ちているので、神を愛さない者の嘲りが、私(イエス様)の上にふりかかっています」の意味です。イエス様が、神様の神殿を純粋に愛するあまりこのような激しい行動をとったので、人々からの反感がイエス様に降りかかるということです。ヨハネ福音書ではこの場面が2章、つまりヨハネ福音書の最初の方に記されていますが、他の3つの福音書では、イエス様の十字架の死の少し前の出来事として書かれており(時間の順序を正確に追うなら)それが正しいのでしょう)、イエス様が神殿をこのように激烈に清めたことがエルサレムの指導者たちの憎しみを買い、イエス様の十字架の死の原因になったと読める展開になっています。ヨハネ福音書においても、イエス様のこの激烈な行動が、エルサレムの指導者たちの怒りを買ったことは同じです。

 18節「ユダヤ人たちはイエスに、『あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せるつもりか。』」するとイエス様が、深い真理を語られます。この語りは、他の3つの福音書に記されていません。19、20節「イエスは答えて言われた。『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。』それでユダヤ人たちは、『この神殿は建てるのに46年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか』と言った。」そんなことは物理的に不可能です。しかしイエス様がおっしゃることは、もっと深い次元のことでした。21~22節「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」

 イエス様は、エルサレムの地上の神殿は、もうすぐ不要になるとおっしゃっています。動物のいけにえを献げて神様に人間の罪を赦していただく礼拝は、いらなくなる。神の子イエス・キリストが、完全ないけにえとなって十字架で、ご自分を献げて下さるからです。そして三日目に復活して、死を乗り越えた永遠の命の希望をもたらして下さる。事実、この時から約40年後に、エルサレムの神殿はローマ軍の攻撃によって破壊され、その後再建されることはありませんでした。それは神様の御心でした。イエス様の十字架の死と復活の後は、キリスト教会が礼拝共同体になりました。建物のことではありません。イエス様を救い主と信じて、父なる神様を礼拝する群れのことです。このキリストの教会という共同体が、真の神殿です。聖書によれば、教会という神殿はキリストの体です。イエス様が頭、Aさんは手、Bさんは足、Cさんはお腹、Dさんは背中という具合です。誰に対しても「あなたは要らない」ということのない共同体がキリストの体である新しい神殿です。そこにイエス様の清き霊である聖霊が生きて存在し、働いておられるのです。この共同体は、聖餐式において、パン(イエス様の御体)とぶどう液(イエス様の血潮)を皆で食べ飲みする共同体です。イエス様の御体を皆で食べるのですから、確かにこの共同体はキリストの体です。そして聖霊が宿って下さる神殿です。神殿とはまさ聖霊が住んで下さる場です。

 そしてイエス様の使徒パウロは、コリントの信徒への手紙(一)6章15節で、私たちキリストを信じる者一人一人の自覚を促すために、こう書きます。コリントはギリシアの都市です。「あなた方は、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。」私たちの体は、自分勝手にしてよいものではなく、イエス・キリストの聖なる体の一部、神殿の一部となっている。だから自分の体で、たとえば配偶者以外と体の交わりを持つような罪を犯してはいけない。「キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。」「知らないのですか。あなた方の体は、神からいただいた聖霊が宿って下さる神殿であり、あなた方はもはや自分自身のものではないのです。あなた方は代価を払って買い取られたのです(イエス様の十字架の尊い犠牲によって神の子とされた)。だから、自分の体で神の栄光を(神の聖なること、神のすばらしさ)を現しなさい。」自分の体を罪深いことのために用いず、神様が喜ぶことに用いなさい。あなた方一人一人が、聖霊のが住んで下さる神殿なのだから、と教えてくれます。

 パウロが、なぜこんなことを書くかというと、コリントの教会に実際にこのような問題が起きていたからです。コリントの教会は、パウロが一生懸命伝道してできた教会、礼拝共同体です。しかしクリスチャンになったばかりの人々の多くが未熟で、色々なトラブルが起きていました。驚くような不道徳な行いをする教会員もいました。パウロはコリント教会を熱烈に愛しているので人々を戒め、悔い改めに導き、正しい方向に導くためにコリントの信徒への手紙(一)と(二)を書きました。パウロはコリントの信徒への手紙(一)4章21節で述べます。「あなた方が望むのはどちらですか。私があなた方の所へ鞭を持って行くことですか、それとも、愛と柔和な心で行くことですか。」パウロもまた、愛してやまないコリント教会を罪から清めるためならば、鞭を振るう決心があったのだと思います。
 
 東久留米教会では今、木曜日の聖書の学び・祈祷会で、エゼキエル書を読み進めています。神様が忠実な預言者エゼキエルを通して、イスラエルや他の諸国に、彼らの罪に対して厳しい裁きの言葉を語り続けておられます。恵みの御言葉もありますが、裁きの言葉の方がかなり多い印象です。しかしだからと言って、旧約聖書の神と新約聖書の神は、別の神ではなく、全く同じ神様です。神の子イエス様も、同じ厳しさを発揮されることがあります。それが本日の「神殿から商人を追い払う」個所だと思います。私たちは本日鞭を振るって神殿を清めるイエス様のお姿を思いながら、エゼキエル書などに出て来る裁きの言葉は、イエス様の清めの鞭と同じだと感じるのです。私たちの神様、そして神の子イエス様は、愛の方であると同時に清い聖なる方であることを、改めて心に刻みたいのです。これから歌う讃美歌21・476番の1節の歌詞に「聖なる愛よ」とありますが、まさに私たちの神様の愛、イエス様の愛は「聖なる愛」です。キリスト教の幼稚園等に時々「聖愛幼稚園」という名称があります。キリスト教主義の学校の名前であることもあります。「〇〇聖愛高校」という名も聞いた記憶があります。ローマの信徒への手紙11章22節に「神の慈しみと厳しさを考えなさい」と書かれています。口語訳聖書では「神の慈愛を峻厳を見よ」で、私にはこれが印象深いのです。「神の慈愛と峻厳を見よ。」それでも、神様が私たちを厳しく清めて下さるのは、私たちを愛しておられ、私たちが天国に入りやすくするために、私たちを時々打って清めて下さると思うのです。

 ペトロの手紙(一)4章17節に、こうあります。「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。私たちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるのだろうか。」神の裁きは神の家から、つまり教会から始まるというのです。私たち教会に集う者は聖書を読んでおり、神様の祝福を受けており、神様がどんな方かもよく知っているので、それだけに神様の期待も大きく、神の恵みを受けている分、責任も大きいからです。それでも神様がまず教会を裁いて下さるのは、神様が私たちを悔い改めに導き、清めに導き、天国に入り易くして下さる愛の目的から出ていると信じます。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         
 私たちは今日の御言葉を読んで、イエス様の峻厳を知ります。同時に思います。鞭を振るって神殿を清めたイエス様自身が、十字架にかかる前にひどい鞭打ちをお受けになったことを。あの鞭打ちも十字架刑の一部と見れば、イエス様が私たちの全部の罪を身代わりに背負って、あの厳しい鞭打ちも受けて下さいました。イエス様が受けた鞭も、もしかすると本来は私たちが受けるべき裁きの鞭打ちだったのではないでしょうか。イエス様が、人間たちの全部の罪を鞭打つなら、神殿での鞭打ちだけでは全く足りないでしょう。それ以外に人間の全部の罪を裁くために必要な鞭打ちは、イエス様はご自分が引き受けられたと言えるのではないでしょうか。イエス様は神殿で鞭を振るって商人たちを追い払いましたが、もっと多くの鞭打ちをご自分が引き受けて下さったと思うのです。神殿清めの場面を読むときも、イエス様の十字架の身代わりの死の愛を、深く思いつつ読むことがふさわしい。そう思います。アーメン。

(祈り)御名讃美。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。コロナ第七波が早く収まりに転じますように。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。ウクライナに平和、フィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマーに愛を。アーメン。