日本キリスト教団 東久留米教会

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2022-02-27 1:22:57()
「宇宙と私たちの命を造られた神様を信じて生きよう」2022年2月27日(日) 「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝(第47回)説教 
礼拝順序:招詞 ローマ8:18、頌栄29、「主の祈り」、交読詩編なし,使徒信条,讃美歌21・514、聖書 使徒言行録17:16~34(新約248ページ)、祈祷、説教、讃美歌21・249、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(使徒言行録17:16~34) パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。それで、会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた。また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したが、その中には、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」と言う者もいれば、「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言う者もいた。パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせていたからである。そこで、彼らはパウロをアレオパゴスに連れて行き、こう言った。「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ。」すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである。
 パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。
 実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。皆さんのうちのある詩人たちも、/『我らは神の中に生き、動き、存在する』/『我らもその子孫である』と、/言っているとおりです。わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」
 死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。それで、パウロはその場を立ち去った。しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。

(説教) 本日は、降誕節第10主日、「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝(第47回)の日です。これは救い主イエス・キリストを宣べ伝える伝道者パウロという人が、紀元50年頃にギリシアのアテネで、真の神様と、神の子イエス・キリストを宣べ伝えた場面です。パウロはイスラエル人(ユダヤ人)です。この世界をお造りになり、私たち皆の命を造って下さった真の神様を信じる人です。真の神様はただお一人で、聖書に登場する神様です。この神様が全宇宙と世界の全ての人々の命と、世界の全ての動物、植物の命を造って下さいました。そうなのです。この神様は、世界の中でまずイスラエル人(ユダヤ人)にご自分のことを詳しく教えて下さいました。なぜ世界中の人々に一斉にご自分のことを教えられなかったのか、なぜ最初にイスラエル人だったのか。私たちにその理由ははっきり分かりませんが、神様の深いお考えによってそうなさったと思います。何事を行うにも順序があります。神様も順序立てて、ご自分のことを世界中の人々に知らせようとされました。まずイスラエル人(ユダヤ人)を選んで、ご自分のことを最初にお知らせになったのです。そのことは旧約聖書という本に詳しく書かれています。パウロはイスラエル人なので、その旧約聖書を子どもの頃からよく読んできたのです。そして人間としてはイスラエル人としてベツレヘムという土地に生まれたイエスという方こそ、真の神の子であり、世界の本当の救い主だと知っていました。パウロは真の神様と神の子イエス様を人々に宣べ伝えるために、イスラエルの外のギリシアのアテネまで来たのです。ギリシア神話がありますから、ギリシア人はギリシア人の神々を信じていたでしょう。でもそれは、世界をお造りになった真の神様ではないのです。パウロは、アテネの人々に真の神様と神の子イエス・キリストを信じてもらおうと懸命に努力しているのです。

 最初の18節。「パウロはアテネで二人(パウロの同志)を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。」偶像とは、神々の像です。ギリシア神話の本場ですから、色々な神々の像があったに違いありません。これはイスラエル人(ユダヤ人)にとって受け入れられないことです。聖書では神の像(偶像)を造ることも、偶像を拝む(礼拝する)ことも、明らかな罪として明確に禁止しているからです。旧約聖書の大切なモーセの十戒の第一と第二の戒めに、次のようにあります。「あなたには、私(真の神様)をおいてほかに神があってはならない。」「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。」パウロは、この教えを子どもの頃から忠実に守って生きて来ました。それでアテネの至る所に偶像があるのを見て、憤慨したのです。「何ということだ。真の神様への冒瀆だ。よし、全力で伝道しなければ!」と奮い立ったはずです。17~18節「それで、会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた。また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したが、その中には、『このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか』と言う者もいれば、『彼は外国の神々の宣伝をする者らしい』と言う者もいた。パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせていたからである。」アテネは哲学の町でもあり、哲学者が多くいたのです。「彼(パウロ)は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言う人もいました。アテネの人にはそう見えたのです。

 確かにアテネ人にとって聖書の神様は、イスラエルという外国の神様と思えたでしょうが、この神様はイスラエル人の神様であり、アテネ人の神様であり、遠い東の韓国・北朝鮮の人々の神であり、日本人の神様、地球上の全人類の真の神様です。ある宣教師さんが言っていましたが、「日本で伝道すると、『日本には日本の神様がいるのに、なぜ外国の神様を私たち日本人に宣べ伝えるのか』と言われることがある。でも聖書の神様は、全人類の神様なのですと伝えています」と、その宣教師は言われました。その通りです。日本には「八百万の神々」がいることになっていますが、それは真の神様ではありません。真の神様は、全世界の神様でなければなりません。そうでないと真の神様と言えません。

 19~21節「そこで、彼らはパウロをアレオパゴスに連れて行き、こう言った。『あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ。』すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである。」アテネ人は、日常の家事等は奴隷に任せて、自分たちは哲学論議などを行っていたらしいのです。アレオパゴスとは、「アレスの丘」の意味らしいです。アテネ人は好奇心が強く、新しいことが大好きでした。それでパウロが説く、彼らが聞く初めての神様の話に、大いに興味をそそられたのです。しかし彼らの新しいもの好きは、底が浅かったようです。だいたい、新しいものは最初はフレッシュでも、暫く時がたてばすぐ古くなってしまいます。そしてアテネ人は、飽きてしまったのだと思います。そして次の新しい珍しいものを求める。その繰り返しだけでは、人生は空しくなってしまいます。永遠に価値あるものを求めることが必要です。永遠に価値あるのは、永遠に滅びない神様です。永遠に滅びない神様の御言葉である聖書です。全宇宙をお造りになった真の神様、神の子イエス・キリスト、神の言葉聖書、これらは確かに永遠に新しいのです。

 22~23節「パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。『アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、「知られざる神に」と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。』」アテネ人は、ある意味、非常に宗教熱心で、様々な神々(真の神でない偶像)を拝んでいました。何と「知られざる神に」と刻まれた祭壇さえありました。実際に発掘された「知られざる神に」の祭壇の写真を見たことがあります。色々な神々を拝むことは、「宗教的に寛容でよいことだ」という考え方もあるでしょう。しかし真の神様がおられるのに、真の神様を差し置いて、他の神でないものを神として拝むことは、真の神様に対して大変失礼なことです。聖書は、真の神様のみを礼拝することを求めています。最近クリスチャンでない方が、「野球の神様に助けてもらった」、「カーリングの神様が助けてくれた」という言い方をよく聞きます。本気で野球の神、カーリングの神がいると信じているわけではないのでしょうが、安易にそのような言い方をしますね。もちろん北京オリンピックでの日本女子カーリングチームの活躍は、嬉しかったです。しかし真の神様以外に、いかなる神様も存在しません。野球の神もいないのです。「助けて下さった」とすれば、きっと真の神様が助けて下さったのです。それを信じて、全ての方に、真の神様、聖書の神様の元に来ていただきたいと、心より祈ります。

 そしてパウロは熱意を込めて、アテネ人に真の神を知らせようと演説します。23節の途中から。「それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。」今日、人はその気になれば、真の神様のことをよく知ることができます。聖書をよく読んで祈ることで、真の神様に出会うことができます。教会の礼拝や諸集会に出席することで、聖書の話を聴き、共に祈ることで、真の神様を深く知ることができます。

 ここでパウロは、実に珍しくギリシア人の詩を引用して、ギリシア人であるアテネの人々を、真の神様へと導こうとします。「実際、神は私たち一人一人から遠く離れてはおられません。皆さんのうちのある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する、我らもその子孫である』と、言っている通りです。」このギリシア人の詩に出て来る神は、おそらくギリシア人の神であって、真の神様ではありません。パウロにしては、珍しく妥協的なことを行っています。パウロにしてみれば、ギリシア人に分かり易く伝道するために、ギリシア人に合わせて、真に神様に導こうとしたのでしょう。しかしこれは結果的に失敗だったとパウロは後で考えたとも言われます。確かにこの方法でパウロがアテネ人に伝道したが、死者の復活(イエス様の復活)を語ると、ある者は嘲笑い、わずかな人数の人々しか、真の神様を信じなかったからです。

 パウロはこの後、コリントという都市に行って伝道しますが。コリントの信徒への手紙(一)2章でこう書いています。「兄弟たち、私もそちら(コリント)に行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、私はあなた方の間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行ったとき、私は衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。」パウロはアテネで、人間の知恵を用いて伝道しようとした、ギリシア人の詩を引用してそれを土台にアテネ人に伝道を試みたが、少なくとも人数的には信じた人は少なく、パウロは失敗と思い、がっかりしてアテネを去り、衰弱して恐れと不安の中でコリントに着いた。そしてアテネでの伝道方法を反省し、コリントでは人間の知恵を用いず、ひたすら十字架につけられたイエス様をストレートに宣べ伝えた、ということだった可能性があります。この通りかどうか不明な部分もありますが、とにかくアテネでのパウロは、珍しく妥協的にギリシア人の詩を引用して(そこに出て来る神はギリシア人の神で、真の神ではないのに)、真の神に導こうとしています。でもこれは一番肝心な点で妥協しており、やはりあまりよい方法でなかったと言えます。伝道で相手を尊重することは大事ですが、相手に合わせ過ぎて真理の面で妥協してもいけないのですね。

 16世紀に日本に来たフランシスコ・ザビエルたちカトリックの宣教師たちも、似た失敗をしています。聖書の神様を日本語の「大日」と訳してみたのです。日本人の心に合わせて伝道しようとしたのですが、これは見事に失敗しました。大日と言うと、日本人はどうしても大日如来を思ってしまい、全く違う聖書の神様に導くことができませんでした。厳密に言うと、神と訳しても、八百万の神々と同じと思われてしまい、神でもよいとは言えないと彼らは考えたようです。そこでカトリックがよく用いるデウスという言葉で、日本人に真の神を宣べ伝える方針に転換しました。日本語に翻訳できないと思い定めたのです。日本の宗教の言葉に無理に訳すと、真の神様がどんな方か、誤解される。日本人が知らなかった宇宙の造り主を「デウス」というラテン語でそのまま教えることにしました。それで日本人キリシタンも、「デウス様、デウス様」と呼びかけ、祈るようになったのです。パウロもアテネで、ギリシア人の神を持ち出して伝道したが、この妥協は成功せず。悔い改めて人間の知恵を用いることをやめ、ただストレートに、私たちの罪のために十字架で死なれ、復活なさった神の子イエス様を宣べ伝える方針に転換したようです。

 パウロは珍しく妥協的なことをしましたが、その後はストレートに伝道しています。29節「私たちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。」その通りです。金銀で造った神の像は無力です。しかし真の神様は、宇宙全体と私たち全員の命、地球の動植物全部を造った力と愛に満ちた方です。30節は大事と思います。「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見て下さいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。」真の神を知らないで偶像を拝む無知な時代を、神様は大目に見て来られた。しかし救い主イエス・キリストが与えられた今は違うと言っています。「今はどこにいる人(どこの国の人)も皆悔い改めるようにと命じておられる。皆が真の神様を信じ、へりくだって真の神様の元に帰って来るように命じておられる」のです。31節「それは、先にお選びになった一人の方(イエス様)によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。」この世界が終わって、最後の審判が行われる日が決められたのです。父なる神様だけが、その日がいつか知っておられます。「神はこの方(イエス様)を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」パウロは、イエス様が十字架の死の三日目に復活した事実を宣べ伝えました。そしてイエス・キリストが、最後の審判の時の裁き主なのです。私たちは罪人(つみびと)ですが、自分の罪を悔い改めて、イエス様を救い主と信じる人は皆、最後の審判で無罪の判決をいただくことができます。パウロは、アテネ人たちにもそうなってほしいと切に願ったのです。私たちも願います。私たちの身近な人々が皆、そして日本と世界の全ての人がイエス・キリストを救い主と信じて真の神様に立ち帰り、永遠の命を受けて下さることを。私たちもパウロのように、全力で伝道したいのです。

 しかしパウロが願ったような成果が出ませんでした。32節「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。」信じない人が多かったのです。「死者が体を含めて復活するなんてあり得ない」と反応する人が多かったのです。これにはギリシア人の考え方が関係していたかもしれません。ギリシア人の考えは、体は滅びるが、霊魂は永遠だというものだったと聞きます。ところが聖書のメッセージは違い、イエス様は十字架の死の三日目に、新しい体に復活されたと語ります。そして私たちも、死にますが、やがて必ず復活の体をいただくと、聖書によって信じています。日本人の考えもギリシア人に似ているかもしれません。日本人の中には漠然と、体は滅びるが霊魂は永遠だと考えている人が多いかもしれません。体の復活という考えはほとんどないと思います。しかし聖書はイエス様が新しい体に復活したと語り、私たちクリスチャンも、イエス様と同じ復活の体をいただくと語っています。私たちも信仰に入る前は、死者が体をもって復活するなど信じられなかったかもしれません。神様の愛の力が働いて、私たちが信じることができるようにして下さいました。本当に感謝です。

 34節「パウロはその場を立ち去った。しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。」あざ笑って立ち去られて、さすがのパウロも少々がっかりしたかもしれません。でも、議員ディオニシオや、ダマリスという婦人など、何人かは信じたのです。神様の恵みです。一回の伝道で、これだけの人々が信じれば、日本では伝道が成功した部類に入ります。私たちもがっかりすることもありますが、しかし私たちにも神の恵みが与えられている。それを信じて、伝道に励みたいのです。アーメン。

(祈り)聖名讃美。感染している方全員と重症の方に癒し。感染が拡大している国に助けを。コロナで亡くなる方が増えています。亡くなる方が出ないようにして下さい。オミクロン株を静めて世界中が神に立ち帰るように。経済困難の方に助けを。全ての病と闘う方に癒し。教会学校の子どもたち。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ウクライナに早く平和がもたらされますように、切に祈ります。ミャンマー、アフガニスタン、トンガに神様の愛と助けを。アーメン。

2022-02-19 23:31:37(土)
「イエス・キリストを愛する私たち」 2022年2月20日(日)降誕節第9主日説教
礼拝順序:招詞 ローマ8:18、頌栄24、「主の祈り」、交読詩編59,使徒信条,讃美歌21・247、聖書 イザヤ書61:1~4(旧約1162ページ)、マタイ福音書26:1~13(新約51ページ)、祈祷、説教「私たちと苦難を共になさるキリスト」、讃美歌21・567、献金、頌栄27、祝祷。 

(イザヤ書61:1~4) 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め、シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。

(マタイ福音書26:1~13) イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。しかし彼らは、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。

 さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

(説教) 本日は、降誕節第9主日の礼拝です。礼拝でマタイによる福音書を順番に読んでいますので、その流れで本日は、マタイ福音書26章1~13節が与えられています。これは受難週の出来事、イエス・キリストが十字架に架かられるわず二日前の水曜日の出来事です。今年のイースター(イエス様の復活日)は4/17(日)ですから、今年の受難週は4/10(日)の週であり、少し先です。

 本日の最初の小見出しは、何と「イエスを殺す計略」です。イエス様は、イスラエル(ユダヤ)の宗教指導者たちにとって都合の悪い存在、邪魔な存在になっていました。何と彼らは計略を用いて、イエス様を殺そうと考えていたのです。彼らの心を悪魔が支配していたとしか思えません。悪魔が、イエス様を殺したいと願っているのです。イエス様は彼らの思いを、全て見抜いておられたのです。1~2節「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。『あなた方も知っている通り、二日後は過越祭である。人の子(イエス様)は、十字架につけられるために引き渡される。』」表面上は悪魔の計画が進んでいるように見えますが、父なる神様は悪魔より上手です。悪魔の動きを逆に用いて、イエス様の十字架の死を、私たち全ての人間の全部の罪を身代わりに背負わせる贖いの死、私たち罪人(つみびと)を罪の支配から救うための救いの死として、お用いになるのです。

 3~5節「そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。しかし彼らは、『民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう』と言っていた。」過越祭はイスラエル人(ユダヤ人)の最も重要な祭りです。旧約聖書の時代に、イスラエルの民がエジプトを脱出したことを記念する、最も重要な祭りです。ほぼ同時代のヨセフスという人の推定によると、過越祭の時、首都エルサレムには約275万人(ほとんどイスラエル人)が集まったそうです。そして約25万6500頭もの羊が屠られて献げられたそうです。驚くべき数です。これだけ多くの人々が集まって民族の熱気が高まるのが過越祭なので、民衆の人気のあるイエス様をこの時に殺せば、民衆が怒って大暴動を起こす事態もあり得ました。そこで指導者たちは、イエス様を殺すのは過越祭の後にしようと最初は話し合っていたのです。しかし実際には、イエス様の弟子ユダの裏切りがあり、過越祭の時にイエス様を殺しました。しかし民衆は指導者たちに上手にコントロールされてしまい、騒動・暴動は起こりませんでした。指導者たちのどす黒い罪を感じます。

 そんな中で、荒れ野の中のオアシスのような、非常に麗しい心洗われる箇所が、次の小見出しの箇所です。小見出しは「ベタニアで香油を注がれる」です。6節「さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき。」地図で見ると、ベタニアはエルサレムの東10キロ以内の場所に見えます。イエス様は、重い皮膚病の人シモンの家におられました。この病気は旧約聖書では「汚れた病気」です。この病気の人は、衣服を裂き髪をほどき口ひげを覆い、「私は汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらなければならず、独りで宿営の外に住まねばならないと、レビ記13章にあります。「重い皮膚病」は、東久留米教会で用いている新共同訳でも最初ははっきり「らい病」と訳されていました。今の日本では「らい病」は差別用語で、今はハンセン氏病と言われます。しかし聖書に出て来る重い皮膚病が、ハンセン氏病と全く同じかどうかは、はっきりしません。ハンセン氏病だけでなくもっと広い範囲の病気を含むのではないかと考えられるようになり、「重い皮膚病」と訳されるようになったようです。東久留米教会所有の聖書は30年くらい前に買ったもので、「らい病」になっていますが、その上に紙が貼ってあり「重い皮膚病」と書かれていると思います。26年ほど前に当時の礼拝部のある教会員ご夫妻を中心に、貼って下さったと聞いています。何十冊かある聖書の、該当箇所全部を張り替えたのは大変な作業です。神様と教会への愛から出たご奉仕と思います。もちろんその方々だけでなく、教会の皆様が祈りと、イエス様と教会への愛から出る1つ1つのご奉仕で教会の働きを支えておられます。そして神様が全てを支えておられます。

 イエス様は「重い皮膚病」の人シモンの家におられました。シモンの重い皮膚病は、治りきっていなかったかもしれません。旧約の時代の常識なら、誰もその家に行かないはずです。しかしイエス様は旧約の限界を真の愛によって乗り越えて、シモンの家におられたのです。12人の弟子たちも一緒でした。シモンは嬉しかったに違いありません。東久留米市のお隣の東村山市には、多摩全生園があります。ハンセン氏病の方々の施設です。今は割とオープンですが、ご存じの通り以前は基本的には患者さんは外に出ることができなかったと聞きます。隔離政策ですね。元々感染力の弱い病気で、隔離政策は差別だという考えが常識になり、よい薬ができたこともあり、今は隔離政策はとられていないと思います。隔離されることは、孤独です。イエス様は孤独なシモンの心に癒しと慰めと平和を与えて下さいました。私も1月下旬にコロナを発症し、皆様にご迷惑とご心配をおかけしてしまい、申し訳なく思います。10日間の自宅療養で幸い軽症で、ずっと一人きりだったわけではないのですが、やはり孤独を感じました。10日間でも孤独を感じるのですから、社会から長年隔離されたかもしれないシモンの孤独は、辛かったのではないかと思います。日本のハンセン氏病の方々も、施設の中では一人きりではないとはいえ、故郷に帰って家族に会うことも許されない日々は、孤独でさぞ辛かったと思います。イエス様が「重い皮膚病の人シモンの家におられた」という何気ない描写は、イエス様の愛をしみじみ感じさせる描写です。シモンは孤独を癒され、嬉しかったはずです。

 次です。7節「一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。」とても意味深い行為です。当時のイスラエルでは、食卓前に寝転んだ格好で食事をしたそうです。失礼でもなく、それが習慣だったそうです。この無名の女性が、イエス様の頭に香油(よい香りがする油、現代の高価な香水に似ている?)を注ぎかけたのです。マルコ福音書の同じ箇所を見ると、この香油は300デナリオン以上の価値がありました。1デナリオンは、当時の1日分の賃金です。仮に5000円としても、300デナリオンは150万円になります。1万円と見れば、300万円です。年収に近い額とさえ言えます。それをイエス様の頭に一度に注いだのですから、真に大胆な行為です。マルコ福音書とヨハネ福音書では「ナルドの香油を注いだ」となっています。ヨハネ福音書によると1リトラ(326g)ですから分量は少ないですが、非常な高級品です。ヒマラヤ原産のナルドという植物からとれるそうです。ヨハネ福音書には、ナルドの香油の香りで、イエス様がいた家中がいっぱいになったとあります。愛の香りでいっぱいになったのです。教会は真の愛でいっぱいの所でありたいものです。

 イエス様は救い主です。救い主を旧約聖書のヘブライ語でメシアと言い、新約聖書のギリシア語でキリスト(クリストス、英語でクライスト)と言いますね。メシアもキリストも、「油を注がれた者」の意味だと学びました。油は聖なる香油と思います。旧約聖書では、神様のために奉仕する王、祭司、預言者が油(香油)を注がれて職務に就きました。油(香油)は聖霊のシンボルとも言えます。ダビデは少年時代に預言者サムエルによって油を注がれました。神様がダビデをイスラエルの将来の王として選ばれたのです。実際に王になったのはだいぶ後ですが、ダビデも油を注がれました。父なる神様が私たちに与えて下さる真の救い主(メシア、キリスト)は王、祭司、預言者という神様に仕える三つの重要な職務を、一人で完璧な形で行う方です。その真のメシア(油を注がれた方)がイエス様です。この無名の女性は、それを示す行為を行いました。イエス様に高価な香油を注いだのです。神様が彼女が香油を注ぐように導いたとしか思えません。香油を注ぐことで、イエス様こそ真のメシア(救い主)であることを明らかに示したのです。このような行為を、象徴行為と呼んでいます。

 本日の旧約聖書は、イザヤ書61章1節以下です。ここに出る「私」は、イエス様を指すと見てよいと思います。「主は私に油を注ぎ、主なる神の霊が私を捕らえた。私を遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。(~)
シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。」イエス様は、イスラエルの地でまさにこのような働きをなさいました。

 マタイに戻ります。この無名の女性が行った父なる神様の御心に適う聖なる業の意味を、弟子たちが理解できませんでした。弟子たちは憤慨して、怒って言うのです。この中にはイエス様を裏切るイスカリオテのユダも入っています。「なぜ、こんな無駄使いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」ヨハネ福音書12章では、ユダが「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言っています。男性である12弟子たちの言うことは、ある意味でもっともです。「何という無駄使いをするのだ。もったいないじゃないか」というわけです。理に適っており、合理的です。でももしかすると非常に男性的な発想かもしれないと思いました。300デナリオン(150万~300万円)で売って、貧しい人々に施せば、何百人もの貧しい人々の空腹を救うことができる。今に当てはめれば、「300デナリオンで売って、数百人分のコロナ用ワクチンを買って、数百人にワクチン接種を進めることができるじゃないか」となるかもしれません。間違っているとは言えないでしょう。社会正義の発想、行政的な発想ではあります。「政治は多くの人々への愛だ」と聞いたこともあります。男の弟子たちの発想はそうです。

 でもこの女性の行為は、日常生活とは次元の違う愛なのかもしれないと思いました。愛は、男性よりも女性にとって得意分野なのかもしれないと思いました。違うでしょうか。男女の違いを強調すると、差別と言われるかもしれません。男性の弟子たちは、頭で計算しています。「300デナリオンで売って、貧しい人々に施すことができたのに、何ともったいない無駄遣いをしたのか。」無駄がないように、効率的に合理的に300デナリオンを用いるべきだ。不特定多数の人々を助けることが大事だという発想です。でもあの女性は、目の前におられるイエス様をひたすら愛したのではないでしょうか。人格と人格の交流があります。彼女の心は、イエス様を愛するあまり喜んで、自分の一番大事なものを献げたのであって、それをお金に換算するといくらだという思いはなかったと思います。私も男性なので分かるのですが、男性はつい本能的に計算してしまいます。計画的に、効率的に、合理的にこの300デナリオンを用いるには、どうすればよいか、現実的に計算します。社会生活ではそれが必要です。男性の発想はつい取り引き、ビジネス、ギヴアンドテイク、損しないように、になりやすい。

 でも少なくとも、この女性は違います。彼女は目の前にいるイエス様に、愛を献げました。不特定多数の人々を救うよりも、目の前におられるイエス様をひたむきに愛しました。これが福音信仰の真髄ではないかと思います。イエス・キリストへの純粋でひたむきな愛! そこには計算も打算もありません。そもそもイエス様の愛には、計算も打算もありません。私たちの信仰は、イエス様の十字架の愛に応答する信仰です。イエス様は、私たち罪人(つみびと)の全部の罪を身代わりに背負って十字架で死んで下さいました。イエス・キリストの十字架の犠牲の愛! この愛のすばらしさに驚き、打たれて、私たちはイエス様を救い主と信じ、クリスチャンになります。「こんな愛があるのか。」イエス様が衝突した律法学者・ファリサイ派のいわゆる律法主義は、「思い切って相手に与える愛」がない取引、自分が損しないように計算しながら生きる宗教生活だったのではないかと思いました。何よりも律法学者たちは、イエス様を愛していなかったと思います。イエス様をひたむきに愛することが、私たちにとって重要なことです。その上で、隣人愛にも進みますが、イエス様の十字架の愛にお応えして、イエス様を愛することが福音信仰と信じます。教会の本質はイエス・キリストの花嫁です。イエス様が花婿、教会(クリスチャン)がイエス様の花嫁。男性クリスチャンでも、イエス様の花嫁です。両者は、清い純粋の愛によって愛し合っているのです。カトリック教会の修道女は、キリストの花嫁として生涯を献げているので、普通の結婚をしないのですね。

 男性はつい計算すると申しましたが、男性クリスチャンもこの愛に生きることができます。赤ちゃんイエス様に黄金・乳香・没薬を献げた占星術の学者たち。あの占星術の学者たちも、イエス様を愛して黄金・乳香・没薬を献げたに違いありません。彼らは、本日の極めて高価な香油を注いだ女性と同じに、ひたむきに精一杯の愛で、イエス様にやはり高価な黄金・乳香・没薬を献げました。お金にすればいくらだ、無駄遣いだ、もったいないという発想はしなかったに違いありません。

 イエス様は憤る弟子たちをたしなめて言われます。「なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない。この人は私の体に香油を注いで、私を葬る準備をしてくれた(当時のイスラエルでは、亡くなった方の遺体を香油等で清めてから墓に葬る習慣でした)。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」「彼女が香油を注いでくれたことは、私の葬りの準備の意味でもある」とイエス様は言われました。この女性がわずか二日後にイエス様が十字架で死なれることに気づいていたかは分かりません。でも二日後に十字架にかかることを知っておられる、その苦悩の中におられるイエス様にとって、この女性が香油を注いでくれた愛は、深い慰めだったと思います。イエス様は嬉しかったのです。イエス様は、最高に光栄な言葉を女性に贈られました。「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」彼女のひたむきな愛の行いは、世界中の教会で語り伝えられる。この出来事は新約聖書に書き記され、彼女のイエス様への献身の愛の行いは、キリストの花嫁の模範として、この世界が続く限り語り伝えられます。

 私はヘブライ人への手紙6章10節を思い出します。「神は不義な方ではないので、あなた方の働きや、あなた方が聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになることはありません。」イエス様と父なる神様は、あの女性の香油を注いだ愛をお忘れになることはなく、私ども一人一人がイエス様とその教会のために、心を込めてお仕えした一つ一つの小さな愛をも、決してお忘れになることはなく、御心に留めて下さっているに違いありません。

 私は改めて、有名なコリントの信徒への手紙(一)13章の御言葉を思います。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、私に何の益もない。」

 今日の女性の愛を思う時、コリントの信徒への手紙(二)11章のパウロの言葉がぴったり来ると思いました。「私(パウロ)はあなた方(コリント教会のクリスチャンたち)を純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなた方の思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。」「キリストに対する真心と純潔!」、すばらしい言葉ですね。あの女性はまさに、「イエス様への真心と純潔」に生きました。私たちもそうでありたいのです。こんなことを聞いたことがあります。私たちがイエス様に祈っていないと、イエス様はこうおっしゃる。「あなたがいないので、私は寂しい。あなたが祈らないので、私は寂しい。」これは本当だと思います。イエス様、そして父なる神様は、私たちの祈りを待っていて下さるし、私たちの祈りを喜んで下さるのです。

 この女性は、私たちにクリスチャンの生き方を教えてくれます。イエス様の十字架の愛に深く感謝して、ひたむきに応答し、精一杯イエス様を愛して生きる。献金においてもその姿勢になる。パウロは「喜んで与える人を神は愛して下さる」(コリント(二)9章7節)と書いています。礼拝での献金にとどまらず、自分の全人生を、イエス様の十字架の愛への感謝の応答として、喜んで精一杯イエス様に献げてゆく。これがクリスチャンの生き方になります。喜んでするので、律法主義を超えるのです。「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」この女性のように、私たちも生かされたいのです。アーメン。

(祈り)聖名讃美。感染している方全員と重症の方に癒し。感染が拡大している国に助けを。コロナで亡くなる方が増えています。亡くなる方が出ないようにして下さい。オミクロン株を静めて世界中が神に立ち帰るように。経済困難の方に助けを。全ての病と闘う方に癒し。教会学校の子どもたち。天に召された荒井さんのご家族に神様の慰めを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ウクライナ、ミャンマー、アフガニスタン、トンガに神様の愛と助けを。アーメン。

2022-02-18 20:32:56(金)
2月伝道メッセージ 石田真一郎(市内の保育園の「おたより」2月号に掲載した文章)
「砂漠は喜びて花咲き、サフランのように、さかんに花咲き、かつ喜び楽しみ、かつ歌う」(旧約聖書(口語訳)・イザヤ書35章1~2節)。

 クリスマス会で、今回もページェント(キリスト聖誕劇)が行われました。親御さんにとって、わが子が一生懸命せりふを語り、讃美歌を歌う姿がとても嬉しかったと思います。ご自分の子ども時代に下里しおん保育園のページェントで演じ、お子さんも最近演じた方もおられるようですね。

 東京の杉並区に以前、サフランホームという施設がありました。視覚障がいを持つ若い女性たちの住み込みのマッサージ訓練施設です。名称は、上記の聖書の言葉からとられたのでしょう。ある程度上手になると、このホームでマッサージを施術できるのでした。私の実家に近いので、私の母もよくマッサージを受けに行っていました。

 秋になると、近くの教会の音楽に秀でた牧師が来て、ページェントの練習が始まります。懸命にせりふを覚え、讃美歌を歌う練習をするのは、しおんの子どもたちと同じです。そこに来るまではキリスト教と縁がなかった女性が多かったでしょうから、讃美歌を覚えて歌うのも一苦労だったでしょう。私も30年近く前に一度だけサフランホームのクリスマス会に出席し、ページェントを見ました。ホームと関わるいくつかの教会の牧師たちも出席します。「自分は牧師なので、12月には色々なクリスマス会に出るが、サフランホームのクリスマス会が一番感動する」とおっしゃる方もおられました。目が不自由で、苦労の多い人生を歩んでおられる女性方が、懸命にマリアを演じ、ヨセフや博士たちや羊飼いたちを演じる姿は、確かに胸を打つものがあります。

 ホームでは、キリスト教の伝道も行われていました。牧師を養成する学校を卒業した女性牧師の赴任地の1つになっていました。舎監として女性方のお世話をしながら、希望者と「聖書を読む会」を行うのです。私の母がマッサージを受けに行くと、施術してくれた女性が「不思議にも、神様を信じることができてしまったのよね」と話してくれたそうです。日曜日には、希望者はそれぞれが選んだ近隣教会の礼拝に出席していました。

 サフランホームは、使命を終えて閉じられました。医学の進歩で視覚障がいの女性が減ったためです。残念でした。しかし子どもたちや、障がいを持って苦労しておられる方々を特に愛して下さるイエス様は、サフランホームに深い愛情を注いで下さっていました。そこを巣立ったお一人お一人に、イエス様の慈愛が注がれるように、心より祈ります。アーメン(真実に)。

2022-02-13 20:15:04()
伝道メッセージ 1月分 石田真一郎(下里しおん保育園の「おたより」に掲載した文章)
「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主(しゅ。神様)がその人を起き上がらせてくださいます」(新約聖書・ヤコブの手紙5章15節)。

 2000年8月に下里しおん保育園の0歳児だった息子も連れて、妻と三人でフランスのルルドとテゼに行きました。私はプロテスタントですが、ピレネー山脈のふもとのルルドはカトリックの聖地です。神様の特別の恵みで病が癒される所として有名です。

 キリスト教は病気治しだけを目的とするご利益宗教ではありません。ですが、神様が病気を癒すことはあります。19世紀後半から、多くのカトリック信者がルルドに巡礼しました。神様の癒しを信じない医学博士アレクシー・カレルがいました。1912年にノーベル賞(医学・生理学賞)を受けた科学者です。彼が血管縫合技術を確立し、臓器移植が可能になりました。

 カレルは1902年5月に巡礼団に付き添ってルルドに行きました(以下、カレル著『ルルドへの旅 祈り』春秋社より)。結核性腹膜炎で重態のマリー・フェランという若い女性がいました。ルルド行きをあまりに執拗に頼んだので列車で連れて来られました。洞窟の中の泉までもたないかもしれない瀕死の状態です。洞窟で神父と群衆が熱心に祈っていました。「神様、我らの病人を癒したまえ!」「イエス様、私たちはあなたを愛します!」冷静な観察者カレルは驚きに打たれます。マリーの全身にあり得ない「明白で迅速な回復」を認めたからです。本人も言いました。「私は完全に治りました。」他の医師も深く感動して「呼吸は全く正常ですし、起きられます。」

 カレルは後に書いています。「祈りは時として、爆発的ともいえる効果をもたらす。」「信仰者でない人もルルドでは治っている。傍らに誰かが祈っていたのである。他人のためにする祈りは、自分に対する祈りよりも実りが多い。祈りの効果は、集中度と質にかかっている。」「ルルドでの奇跡は、以前よりずっと少なくなっている。かつてあった深い祈りの空気が存在しないから。巡礼は旅行(観光)になってしまい、祈りの効力は失われた。」

 このままではいけません。聖書の神様への深くて熱心な祈りのある所で、愛と平和と正義の神の国が前進します。私も祈っていますが、まだ足りない。かつてのルルドの濃厚な祈りの雰囲気を日本で東京で、東久留米で回復する必要があります。この新年、皆様にイエス・キリストの愛と恵みが注がれ、世界がコロナから救われ、皆でイエス様を信じ従ってゆけるように、切に祈ります。アーメン(真実に)。

2022-02-12 23:25:45(土)
「私たちと苦難を共になさるキリスト」  2022年2月13日(日)降誕節第8主日説教
礼拝順序:招詞 ローマ8:18、頌栄28、「主の祈り」、交読詩編58,使徒信条,讃美歌21・278、聖書 出エジプト記12:40~42(旧約113ページ)、マタイ福音書25:31~46(新約50ページ)、祈祷、説教「私たちと苦難を共になさるキリスト」、讃美歌21・510、献金、頌栄27、祝祷。 

(出エジプト記12:40~42) イスラエルの人々が、エジプトに住んでいた期間は四百三十年であった。四百三十年を経たちょうどその日に、主の部隊は全軍、エジプトの国を出発した。その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた。それゆえ、イスラエルの人々は代々にわたって、この夜、主のために寝ずの番をするのである。

(マタイ福音書25:31~46) 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

(説教) 本日は、降誕節第8主日の礼拝です。以前から礼拝でマタイ福音書を続けて読んでいましたので、本日はそこに戻ります。本日はマタイ福音書25章31節以下が与えられています。24章と25章は世の終わり、神の国の完成、最後の審判がテーマとなっています。

 本日の箇所の小見出しは「すべての民族を裁く」です。最後の審判の場面です。最初の31節「人の子(イエス様)は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」イエス様が最後の審判を行われるのですね。羊を右に置く。右側が天国ということになります。「羊を右に。」この通りのお名前を拝見したことがあります。「〇〇羊右さん」というお名前です。「〇〇ようすけ」さんとお読みするのではないかと思います。本日のマタイ福音書25章33節から取られたお名前に、間違いないと思います。

 34節「そこで、王(イエス様)は右側にいる人たちに言う。『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。』」一番新しい訳である聖書協会共同訳では、「お前たち」ではなく「あなた方」になっています。確かに「お前たち」はやや乱暴な言葉です。イエス様は「お前たち」という呼びかけはなさらないのではないかと考えたのでしょう。「お前たち」ではなく「あなた方」になっています。35節「お前たち(あなた方)は、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」

 私たちは、イエス様が目の前に明らかにおられて飢えておられたり、喉が渇いておられたり、病気で苦しんでおられれば、すぐに手をお貸しするに違いありません。誰か有名人が目の前にいて、飢えていたり病気だったりすれば、同じようにすぐ手をお貸しするに違いありません。しかしそれが全く知らない人だったり、汚い格好をしていたり、ホームレスの人のように見えれば、通り過ぎてしまうこともないとは言えません。明らかにイエス様だったらすぐヘルプするけれども、イエス様を全く連想させない相手ならば、気にせず通り過ぎてしまうかもしれませんね。でも通り過ぎない方がよいようです。全くイエス様と見えない目の前の方の中に、イエス様が聖霊として住んでおられる可能性があります。

 最後の審判の場で「あなた方は、私にこのようにしてくれた」と言われた人々(正しい人々と書かれていますは、戸惑い、こう返答します。「主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、喉が渇いておられるのを見て、飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられるのを見て、お訪ねしたでしょうか。」記憶にないというのです。そこで王(イエス様)がお答えになります、40節「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。」イエス様は、この福音書の10章42節でもよく似たことをおっしゃっています。「私の弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」よい報いを受けるのですね。10章ではイエス様の弟子に少しでも親切にした人は、神様からよい報いを受けるとあり、今日の25章では「イエス様の兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、イエス様にしたのと同じであり、父なる神様から永遠の命、神の国という祝福を受ける」と書かれています。

 「イエス様の兄弟であるこの最も小さい者の一人」とは、クリスチャンであって世の中で一番目立たない人を指すとも言えます。「イエス様の兄弟」をクリスチャンと受け止めることはもちろん可能です。しかしイエス様は、もう少し広い意味でおっしゃっていると理解してもよいのではないでしょうか。厳密に言えばクリスチャンだけがイエス様の兄弟姉妹です。しかしそうとだけ解釈すると、今日の御言葉を狭く解釈しすぎる恐れもあると思います。現実の教会の2000年の歴史は、クリスチャンでなくても社会の中の貧しい方、障がいをお持ちの方、病気の方、いわゆる底辺を生きる方を、イエス様の兄弟姉妹と見なしてヘルプさせていただこう、共に生きて行こう、との信仰と愛に生きてきたと思います。イエス様の今日の御言葉を、いつも念頭に置いて信仰と愛に生きようとしてきたと思うのです。

 数か月前に新聞で読みましたが、豊臣秀吉の時代か江戸時代に入ったばかりの頃か、日本のキリシタンからローマのバチカンにいるローマ教皇に宛てて手紙が送られ、それが今も保存されているそうです。それによると当時の日本のキリシタン(教会)は迫害を受けていたのですが、ローマ教皇から手紙を受け取って、大変励まされたと。そして迫害の苦しみの中にあっても、教会は貧しい方や病気の方をヘルプする愛の業に励んでいるという内容の手紙が日本の教会からローマ教皇宛てに送られて、今も保管されているというのです。迫害の苦難に耐えながら、信仰に基づく愛の業を行っていたと知り、よきキリシタンたちが懸命に信仰によって生きていたのだと知り、私は感銘を受けました。彼らはイエス様の言葉「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」を、実行するように心がけていたと思うのです。

 セヴンスデイ・アドヴェンティストというキリスト教団があり、東久留米市内のシャローム東久留米の運営母体でもあり、荻窪に東京衛生病院という病院を持っています。聞くところによると、東京衛生病院では「患者さんは皆イエス様だ」との考えに基づいて、お祈りしてから手術等を行って下さるそうです。「患者さんは皆イエス様」と考えて診療して下さるのですから、患者にとってはありがたいですね。

 私は最近毎年、清瀬市の複十字病院で健康診断を受けます。複十字病院はキリスト教の病院ではありません。一昨年だったか、複十字病院で健康診断を受けていると、見知らぬ女性が他の方とおしゃべりしているのが聞こえました。色々なご病気を乗り越えて来られた方のようでした。クリスチャンではないようでした。「いよいよ健康が悪くなったら、救世軍の病院に入れてもらおうと思っているの。」救世軍清瀬病院でしょうね。「あそこはミッションだからいいよ」とその方は語っておられました。ミッションとは使命の意味ですが、ミッションスクールという言い方もあるように、ミッションはキリスト教を指すと言えます。「あそこ(救世軍の病員)はミッションだからいいよ」とは「あそこはキリスト教だからいいよ」との意味ですね。クリスチャンでないと思われる方からも、そのような信頼を得ていることは、すばらしいなと思いました。きっとその病院でも、「患者さんはイエス様だ」の信仰によって、治療と看護を行って下さっているのだと思います。「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」のイエス様の御言葉を実行しようと心がけておられるのでしょう。

 それにしても今日の箇所を読んで思うことは、イエス様が私たち皆の苦難を共に背負って下さる方だということです。イエス様は私たちの全部の罪の責任という最大の重荷を、私たちの身代わりに背負いきって十字架で死んで下さいました。そしてイエス様は、私たちの様々な病気、重荷、苦しみを共に背負って下さる方だと思うのです。今はコロナに苦しむ私たちと、イエス様はコロナの苦難を共にし、コロナという十字架を共に背負っていて下さると、私は信じます。インドで働いた有名なマザー・テレサは、若い時に列車の中で神様の声を聴いたといいます。「最も貧しい人々のために仕えなさい。」「最も貧しい人々のために仕えなさい。」それで若かったマザー・テレサはスラムで奉仕を始めたと聞いています。マザー・テレサと仲間の方々が買った家、貧しい人々、死を待つ人々が入っている家は「ニルマル・ヒルダイ(心の清い人の家)」と呼ばれているそうですね。私が映像で見た「ニルマル・ヒルダイ」の庭に十字架に架けられたイエス様の像が立っていて横に「私は渇く」と書かれていたと記憶しています。ヨハネ福音書19章によると、イエス様は十字架上で「渇く」と言われたのです。これは詩編22編16節の御言葉も成就(実現)とされます。「口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。」確かにイエス様は十字架の上で、喉の激しい渇きの苦しみを経験されました。「ニルマル・ヒルダイ」の庭にイエス様の十字架像が立っていて「私は渇く」と書かれている。それはイエス様が、世界中の渇きに苦しみ人々と共に渇きの苦しみを味わっておられる。渇きに限らず、世界中の人々の様々な苦しみを共に苦しんでいて下さるというメッセージだと信じます。その庭の十字架のイエス様を身ながら、「ニルマル・ヒルダイ」のボランティアの方々は、貧しい方々のための奉仕に励んで下さいます。目の前の貧しい方々や瀕死の方々の中に、イエス様が住んでおられると信じてです。
私たちは、イエス様にお仕えするために、インドに行く必要はありません。世界中どこにいても、東京にいても、私たちの隣りにいる方の中にイエス様が住んでおられるからです。

 イエス様は、私たちと苦難を共にして下さる。旧約聖書の時代から、父なる神様は神の民イスラエルと苦難を共にして歩んで下さいました。本日の旧約聖書は、出エジプト記12章40節以下です。エジプトで虐待されたイスラエルの民が、エジプトを脱出する恵みの時が来ました。42節に「その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた」とあります。神様がぐっすり眠り込んで何も気づかないことは実際にはないと思うので、これは神様を擬人化した表現ではないかと思いますが、ここで聖書が言わんとすることは、神様が神の民イスラエルと苦難を共にして下さったということではないでしょうか。寝ずの番、徹夜は体にとってきついことですから、神様がイスラエルの民と苦難を共に経験して下さったというのが聖書のメッセージと思います。

 今日の説教題は「私たちと苦難を共になさるキリスト」です。イエス様は、私たちが飢えているとき、喉がからからに渇いて苦しんでいるとき、旅をしているとき(昔の旅は危険が多かった)、裸で凍えているとき、病気に苦しんでいるとき、牢にいて苦しんでいるとき(冤罪の場合もある)、私たちと一緒に苦しんでいて下さいます。ですからそのような方々をヘルプさせていただくことがあれば、それはその相手をヘルプすると共に、相手の中におられるイエス様をヘルプさせていただいたことになります。新約聖書のヘブライ人への手紙13章1節以下には、今日の箇所とよく似たことが書かれています。「(信仰の)兄弟としていつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。」「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。」イエス様も「旅をしていたときに宿を貸し」と言われました。旅人をもてなすと、実はそれはイエス様かもしれないし、天使かもしれないのです。創世記18章では、アブラハムがもてなした三人のうち二人は実は天使で、一人は何と真の神様ご自身だったのです。私たちも実は日々、いろんな方に出会う中で、実はイエス様に出会っているに違いないのです。「この方もイエス様」「この方もイエス様」と思っていないと、気づかずにイエス様に大きな無礼を働いている恐れがあります。イエス様は、最も小さい人、最も目立たない人の姿で来られると思うのです。

 イエス様は41節以下で、警告のメッセージも語られます。それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」今日の箇所の強調点は、私は前半にあると思います。イエス様を救い主と信じる信仰によって永遠の命の祝福を受け、イエス様の十字架の愛に感謝して喜んで応答して、心の中に住んで下さる聖霊に導かれて、喜んで隣人を愛する生き方をしてほしい。これがイエス様のメッセージと思います。いわゆる愛の行いは、自己主張としてではなく、当たり前のことをしたに過ぎないと考え、右の手が行ったことを左の手に知らせない(マタイ6:3)ようにできれば、最高です。

 高田三郎というクリスチャン音楽家が、本日の箇所から「小さな人々」という歌を作られました。「小さな人々の一人一人を見守ろう、一人一人の中にキリストはいる。貧しい人が飢えている、貧しい人が渇いている、国を出た人に家がなく寒い冬には着物がない。小さな人々の一人一人を見守ろう、一人一人の中にキリストはいる。病気の人が苦しみ、牢獄の人はさげすまれ、みなしごたちは寂しく捨てられた人に友がない。小さな人々の一人一人を見守ろう、一人一人の中にキリストはいる。」

 西東京教区の原町田教会の宮島牧師という方が、東京の入国管理局に、よくない環境で収容されている外国人の方々に面会して保証人になったり、という寄り添い活動をなさっているそうです。収容中に亡くなったスリランカの女性がおられましたね。日本は難民申請をほとんど認めない、その意味で今でも鎖国中と言われているそうです。祖国が戦乱で帰りたくなくても、強制送還。その方々の中にイエス様がおられるかもしれません。何とかできないかと感じます。アフリカから日本に来て、経堂緑岡教会の当時の松本牧師が奔走して、難民申請を受け入れられたアルセンヌさんという男性を、東久留米教会にお招きしてお話を伺ったことがありました。15年ほど前でしょうか。私たちの身の周りの知人、知らない方、その方々の中にイエス様がおられる。そのことに気づきながら、寄り添わせていただく生き方を
したいものです。

(祈り)聖名讃美。感染している方全員と重症の方に癒し。感染が拡大している国に助けを。オミクロン株を静めて。世界中が神に立ち帰るように。経済困難の方に助け。入院中の方々に神様の万全の癒し。全ての病と闘う方に癒し。教会学校の子どもたちの信仰。天に召された荒井ちゑさんのご家族に神様の慰めを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ウクライナ、ミャンマー、アフガニスタン、トンガに神様の愛と助けを。アーメン。