日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2022-02-05 23:27:13(土)
「キリストを着る恵み」  2022年2月6日(日)降誕節第7主日説教
礼拝順序:招詞 ローマ5:3~4、頌栄85(2回)、「主の祈り」、交読詩編57,使徒信条,讃美歌21・252、聖書 創世記3:20~24(旧約5ページ)、ガラテヤの信徒への手紙3:21~29(新約346ページ)、祈祷、説教「キリストを着る恵み」、讃美歌21・268、献金、頌栄92、祝祷。 


(創世記3:20~24) アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。

(ガラテヤの信徒への手紙3:21~29) それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。

(説教) 本日は、降誕節第7主日の礼拝です。月一回ほどガラテヤの信徒への手紙を読む礼拝を献げていますが、本日がその日になりました。昨年12月5日(日)以来、2ヶ月ぶりになります。

 この手紙を書いているのは、イエス・キリストの十字架と復活の後にクリスチャンになりイエス様の弟子になった使徒パウロです。パウロがここまで説いて来た重要なことは、私たちが皆、律法を実行することではなく、ただイエス・キリストを救い主と信じる信仰によってのみ、父なる神様の前に義(正しい者)と認められるという真理です。これを教会では「信仰義認」(信仰によってのみ、義と認められる)と呼んでいます。

 神様は、旧約聖書の時代に約束を与えて下さり、神様はその約束を固く守って、救い主イエス・キリストをこの地上に送って下さいました。イエス・キリストは私たちの全部の罪の責任を身代わりに背負って十字架で死なれ、三日目に復活なさいました。このイエス様を自分の救い主と信じ告白する人は皆、全ての罪の赦しと永遠の命を受けるのです。人はこうしてイエス様により真の救いを受けるのですが、それなら旧約聖書はあまり必要ないのではないか、特に旧約聖書で強調されているモーセの十戒をはじめとする律法は、あまり必要ないのではないか、という疑問が出る可能性があります。しかしパウロは明確に「それは違う」と述べています。

 21節「それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。」前の口語訳聖書では「断じてそうではない」です。「決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。」大切なことは「人を生かす」ことです。神様は人を生かしたいと願っておられると思うのです。私たち罪人(つみびと)を救って、何とか生かしたい。これが神様の本心からの願いだと思うのです。しかし律法(その代表はモーセの十戒)は、聖なるもの、良いものですが、律法が人を義とし、人を生かすことはできないのです。22節「しかし、聖書(この場合の聖書は律法の言い換え、つまり律法を指します)はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。」

 律法は、私たち皆に、自分は律法を守り通すことのできない罪人(つみびと)だという事実を気づかせたということです。ローマの信徒への手紙3章20節に、「律法によっては罪の自覚しか生じない」とありますが、同じことです。ただ「律法によっては罪の自覚しか生じない」という言い方は、律法の意義を消極的に見ている感じですが、律法が私たちに罪の自覚を与えることには、とても積極的な意義があります。それは本日のガラテヤ書3章22節の後半にあるように、「神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるため」です。私たちが律法(その代表がモーセの十戒)を学ぶと、自分が律法を完全には守れない罪人(つみびと)であることが明確になる。自力では救いが与えられない(=天国に行けない)と分かる。イエス・キリストを救い主と信じる信仰に生きることで救われると分かり、イエス・キリストを信じるようになってゆく。これが神様が私たちに律法を与えて下さった意図だと分かってくるのです。

 23節「信仰(言い換えるとイエス・キリスト)が現れる前には、私たちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。」イエス・キリストが誕生される前には、神様の民は律法(その代表がモーセの十戒)を与えられ、律法の下で監視され、閉じ込められていた。厳しい言い方です。律法によって罪の自覚を与えられ、このままでは自分たちで自力で律法を完全に守って救われることはできないと自覚する希望なき状態に置かれていた、ということです。そして救い主イエス様が誕生されたことで、自分たちがイエス様を救い主と信じることで、それまでの希望なき状態から解放され、救われたと言っているのです。

 24節「こうして律法は、私たちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。私たちが信仰によって義とされるためです。」そうです、律法には積極的な役割があります。私たちが律法を完璧に守って天国に行くことができない自分に気づかせ、救われるにはイエス様にすがるほかないことに気付かせ、イエス様のもとへ導く養育係の役目を果たすという積極的な意義が、律法にはあるのですね。「私たちが信仰によって義とされるためです。」私たちが、私たちの全部の罪を背負って十字架で死なれ、三日目に復活されたイエス様を救い主と信じる信仰によって、父なる神様に義と認められるためです。

 25節「しかし、信仰(イエス・キリスト)が現れたので、もはや、私たちはこのような養育係の下にはいません。」私たちは、律法の支配から解放されたのです。これは事実です。律法が求めることは、私たちが神様を完全に愛し、隣人をも完全に愛することです。そして私たちが少しでも律法に違反する罪を犯した場合、律法はその罪をきっちり裁くことを要求します。私たちはその律法の下で、自分の有罪を自覚し小さくなっているしかありませんでした。しかしイエス・キリストが十字架で死んで下さいました。私たちが律法に違反した1つ1つの全部の罪の裁きを、イエス様が十字架で受けきって下さいました。律法の要求をイエス様が十字架上で100%満たして下さいました。そのお陰で、律法は私たちを支配していた支配力を失い、私たちは律法の支配から解放されたのです。全ての罪を赦されて、自由な愛に生きる、聖霊に助けられて神様と隣人を喜んで愛して生きようと一歩一歩歩み始める神の子とされたのです。

 26~27節。「あなた方は皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼(バプテスマ)を受けてキリストに結ばれたあなた方は皆、キリストを着ているからです。」私たちは律法(モーセの十戒)を実行することでは救われません。律法を実行する力がないからです。私たちの意志さえも自己中心の罪にまみれているからです。救いの道を、神様が私たちにプレゼントして下さいました。イエス様をベツレヘムの家畜小屋に誕生させて下さったのです。イエス様は、私たちの罪を身代わりに背負って十字架で死なれました。このイエス様の十字架の愛が、決定的に重要です。私たちが立派だから救われるのではない、私たちに何か神様に自慢できる功績があるから救われるのでもありません。ただイエス様が、私たちの身代わりに十字架で死なれた、イエス様の十字架の愛こそ偉大です。私たちにできることは、へりくだり、自分の罪深さに恥じ入り、自分の罪を悔い改めて、イエス様を救い主と信じて、頭(こうべ)を垂れて、受け身に謙虚に身を低くして、洗礼を受けることだけです。それによって律法の支配から解放され、神の子にならせていただけるのです。罪人(つみびと)なのに、神の子にしていただける。大きな恵みです。イエス様のように地上に生まれる前から神の子なのではありません。教会の頭である神の子イエス様の、霊的な妹・弟としての神の子です。これ以上の光栄はありません。私は割とよく、この26、27節を皆様の受洗記念日にお渡しするカードに書きます。受洗記念日にぴったりの御言葉の中の1つです。

 「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなた方は皆、キリストを着ているからです。」洗礼を受けることは、イエス・キリストという衣を着ることなのです。私たちの心の中は、洗礼を受けても完全に清くなるわけではなく、罪を悔い改めていますが、それでも残念ながらまだ罪が残っています。「あなたは依然として罪人(つみびと)ではないか」と言われれば、その通りなのです。でも大丈夫です。洗礼を受けたことは、ここに書いてある通りキリストという衣を着たことなのです。イエス・キリストという衣が私たちの全身を覆っていますから、父なる神様から見ればそこにイエス・キリストの姿が見えます。私たちはこの衣のお陰で、清き神の子と見なしていただけます。ですからとても安心なのです。

 本日の創世記3章には、キリストという衣を暗示するようなことが記されています。最初の人間たちアダムとエバが、神様の指示に背いて罪を犯したのでエデンの園という楽園から追放される場面です。この時から人間は厳しい労働をして生活するようになり、そして自分の罪のゆえに死ななければならない者となりました。しかしこの場面にも、神様の憐れみが記されています。「アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」神様がアダムとエバをエデンの園から追放されたのですが、同時にここに皮の衣を作って着せるという神様の愛、憐れみが書かれています。これは新約聖書の時代になってから洗礼を受ける罪人(つみびと)に与えられるキリストという衣を暗示していると感じます。

 東久留米教会で修養会などで何回もお招きした東京神学大学の近藤勝彦先生は、伝道トラクト(印刷物)「死よりも確かなものはないのか」でこう書いておられます。「洗礼を受けたことは『キリストを着ていること』という素晴らしい事実を噛みしめています。それはキリストの義を身にまとっていることです。もはや裸でなく、神の御前に立つことのできる『死に装束』をまとっています。キリストの義と愛と執り成しと赦し、そしてキリストの力に身を包まれて、神の御前に立つことを赦されています。これもまた、この上なく確かな『死よりも確かなもの』であって、それを私の『晴れ着』として、まら『死に装束』として身にまとっていると思っています。」神の御前に立つとは、死んだ後の「最後の審判」で神の御前に立つことを指します。「最後の審判」と聞くと、少し怖い気もする。でも大丈夫。「最後の審判」の時もキリストという衣、イエス様の義の衣を身にまとって神様の前で「最後の審判」を受けます。神様が見て下さるのは私たちが来ている「キリストの衣」、または「キリストの衣」を着ている私たちですから、無罪の判決を受けることができます。罪を悔い改めて洗礼を受けていれば天国が保証されるので、ある意味安心して死ぬことができます。もちろん死に急ぐ必要は全くありません。それで近藤先生は、洗礼を「死に装束」と言われるのでしょう。安心して死ねる「死に装束」だと。

 イエス様がご自分の十字架の死と復活を通って私たちにもたらして下さった洗礼は、永遠の命を保証し、死の力より強いのです。ですから近藤先生は洗礼は、「この上なく確かな『死よりも確かなもの』」だと教えて下さいます。死の力より洗礼の力のほうが強いのです。洗礼は「晴れ着」でもあるとも言われます。天国を保証する「晴れ着」です。私たちはここで、有名なルカによる福音書15章の「放蕩息子のたとえ」を思い出してよいと思うのです。放蕩息子は私たちです。一旦家を出てぼろぼろになって帰って来た息子は、父親に言います。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」これは悔い改めの言葉ですね。父親は僕たちに意外なことを言います。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」そして祝宴を始めたのです。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ」と言いました。晴れ着ですね。私たちが罪を悔い改めて洗礼を受けるとき、いちばん良い服「キリストという衣」「キリストという晴れ着」を着たことになります。

 聖書によれば、イエス・キリストが花婿で、教会(クリスチャン)はキリストの花嫁です(男性クリスチャンも)。であれば「キリストという衣」「晴れ着」は白くて清らかな花嫁衣装とも言えるのではないでしょうか。聖書の最後の書であるヨハネの黙示録7章には、白い衣を着た大群衆が神様を礼拝して賛美する場面があります。この白い衣が「キリストの義の衣」とも言えると思うのです。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊(イエス様)の血(十字架の血潮)で洗って白くしたのである」と書いてあります。真にイエス様の十字架の贖いの死と復活があるからこそ、私たちは洗礼の恵みをいただくことができます。」衣ということにこだわってみると、旧約聖書のイザヤ書61章にはこんな御言葉があります。神様が神の民イスラエルに、「嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせる」と。洗礼というキリストの義の衣は、暗い心に代えて与えられる賛美の衣、清き喜びの衣だと思うのです。洗礼を受けて、このすばらしきキリストの衣を着る方々が東久留米教会にも全ての教会にも与えられるよう、切に願います。既に洗礼を受けた方は、洗礼のすばらしさに改めて気づき慰めと喜びをかみしめたいですね。

 ガラテヤの信徒への手紙に戻り、27~28節「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなた方は皆。キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人(ユダヤ人以外の異邦人の代表。日本人も異邦人)もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなた方は皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」戦国時代から江戸時代に生きた高山右近という熱心なキリシタン大名がいましたが、彼は自分の領国で貧しい人が亡くなると、自ら棺を担いだそうです。「神の国では領主も農民もない」と信じていたからです。「男も女ない。」性によって差別されず、誰でもイエス様を救い主と信じて洗礼を受け、神の子になれるのです。最近は性のことがよく議論され、色々な悩みがあることが話されるようになっています。心の性と体の性が一致しない等です。昔からあったのでしょうが、表立って話し合われることが少なかったのでしょう。性には、簡単に解決できない難しい点が色々あると思います。しかし、たとえば心の性と体の性が一致しない悩みがあっても、洗礼を受けてクリスチャンになり、神の子になることはできる。キリストを着るに当たって「男も女もない」という御言葉は、そこまでの意味を含むのではないでしょうか。イエス様は、私たち全ての人間の全ての罪を身代わりに背負って、十字架で死んで下さったのです。そしてイエス様の十字架の死と復活のお陰で、私たちが洗礼を受ける道が開かれました。イエス様の十字架の愛に、改めて感謝を献げたいのです。

(祈り)聖名讃美。感染している方全員と重症の方に癒し。感染が拡大している国に助けを。オミクロン株を静めて。世界中が神に立ち帰るように。経済困難の方に助け。入院中の方々に神様の万全の癒し。全ての病と闘う方に癒し。教会学校の子どもたちの信仰。教会の近所で亡くなった方のご家族に神様の慰めを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマー、アフガニスタン、トンガに神様の助けを。アーメン。

2022-01-30 0:05:49()
「わたしは弱いときにこそ強い」 2022年1月30日(日)ミニ礼拝説教 
礼拝順序:招詞 「主の祈り」、聖書 コリントの信徒への手紙(二)12:2~10(新約339ページ)、祈祷、ミニ説教「わたしは弱いときにこそ強い」、祈祷。

(コリントの信徒への手紙(二)12:2~10) 
 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
 
(ミニ説教) 私は先週日曜日に自分で行った検査キットでの検査ではコロナ陰性と出たのですが、発症後短時間だったので体内ウイルスが少なかったため、ちゃんとした検査にならなかったようです。翌月曜日に医療機関で検査を受け、翌日火曜日に陽性の判定が出ました。自宅療養を選びました。ドクターの指示は発症日から丸10間療養することで、2/2(水)から社会復帰してよいと言われました。本日で療養8日目、発熱も収まり、喉の痛みもほとんどありません。皆様のお祈りを、心より感謝申し上げます。役員会が本日の礼拝を休止にして下さいました。ただ、何も全くないのもどうかと思い、本格的な準備はできないので、ミニ礼拝をユーチューブで発信することに致しました。ミニ礼拝です。

 私は最近、いくつかのマイナスと思われる出来事を経験しています。誰でも経験する人生の嵐と言えると思います。忍耐の日々にあって、慰めとなる聖書の箇所の1つが、今日の箇所と思います。昔から割と好きな箇所でもあります。イエス様の使徒パウロが自分の経験を述べています。イエス様のために大いに働いたパウロは、あるすばらしい体験を与えられたようです。最初は自分ではなく他の人の体験のように書いていますが、読み進めてみるとパウロ自身の体験と分かります。最初の2節「私は、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天(一番上の天? 天国でしょう)にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。私はそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表し得ない言葉を耳にしたのです。このような人のことを私は誇りましょう。」これは、天国を見せてもらった驚くべき恵み体験です。

 「しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。仮に私が誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。私のことを見たり、私から話を聞いたりする以上に、私を過大評価する人はいるかもしれないし、また、あの啓示された事があまりにもすばらしいいからです。」この最後の一文が、彼が天国を見たすばらしい体験を述べています。

 「それで、そのために思い上がることのないようにと、私の身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、私を痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせて下さるように、私は三度主に願いました。」パウロの身に、何か不都合なものが与えられのです。パウロは目が悪かったと思える記述がガラテヤの信徒への手紙にありますから、目の病気かもしれません。あるいは何らかの風土病のような病気かもしれません。彼は伝道旅行で多くの苦難を経験しています。このとげも、相当辛い病気かと思われます。イエス様の十字架を少し思わせるようなものです。パウロは、これを取り除いて下さるように、父なる神様に熱心に祈りました。三度祈ったとは、何度も何度も祈ったということだと言われます。

 9節以降「すると主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱いときにこそ強いからです。」これはパウロの空(から)元気ではありません。パウロは、自分を支えているイエス・キリストの復活の力に気づいたのです。イエス様は十字架で無力になって死なれ、三日目に父なる神様の愛の力で復活を与えられました。パウロも何かの病気のために弱くなっています。しかしパウロを支える力がある。それはイエス様を復活させた父なる神様の愛の力です。

 パウロは、伝道を自分の力で遮二無二行うのではないと気づいたのではないでしょうか。伝道はパウロの自我の力で行うのではなく、父なる神様の愛の力、イエス様の愛の霊である聖霊の導きに従って、聖霊の力によって行うと気づいたと思います。そのためにはパウロの肉の力、自我の力が弱められることも必要です。パウロの思いよりも、イエス様のご意志によって伝道が進むことが必要です。パウロの自我は弱められ、パウロの思いが清められ、イエス様の思いと一致して、イエス様の御心が前進することが必要です。伝道に熱心に取り組むことは必要ですが、私たち人間の自我によってではなく、あくまでもイエス様の御心によって進むことが大切ではないでしょうか。

 父なる神様は、パウロに1つのとげを与えられました。パウロにとっては苦しいこと、何とか取り除いてほしい病気と思われます。しかしイエス様も十字架を背負たのです。パウロにもこのとげという(イエス様の十字架よりは小さい)十字架が与えられました。パウロは、このとげという十字架を背負って、イエス様に従うのです。このとげ(苦労を与えるとげ)のお陰で、パウロの自我が一部砕かれ、パウロの思いが清められ、イエス様に似た者にされてゆきます。

 パウロは天国を見るという大きな恵みを与えられたので「そのために思い上がることのないようにと、私の身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、私を痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせて下さるように、私は三度主に願いました。すると主は(イエス様は)、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱いときにこそ強いからです。」味わい深い御言葉です。

 私たちも、物事が思い通りにならない時、このパウロの言葉を思い出したいと思います。行き詰まる時、神様によく祈って、神様の愛の力で進む方向を示され、再び歩み始めたいと願います。パウロはこの手紙の4章8節以下で書いています。「私たちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」それはイエス・キリストが死から復活された愛の力が、私たちにも聖霊として与えられているからです。今コロナのオミクロン株が拡大していますが、神様がこれを早く静めて下さるように、私たちがコロナに負けそうな時も、キリストの復活の力を与えられて立つことができるように、神様の愛の助けを、心を一つにして祈り求めましょう。アーメン。

(祈り)聖名讃美。感染している方全員に、重症の方に癒し。世界で感染が拡大している地域に神様の大いなる助けを。世界中が神に立ち帰るように。経済困難の方に助け。入院中の方々に神様の万全の癒しを。病と闘う方、神様の癒し。教会学校の子どもたちの信仰。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマー、アフガニスタン、トンガに神様の守りを。御名により、アーメン。

2022-01-22 23:01:32(土)
「イエス・キリストは一粒の麦」2022年1月23日(日)「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝(第46回)
礼拝順序:招詞 ローマ5:3~4、頌栄85(2回)、「主の祈り」、交読詩編なし,使徒信条,讃美歌21・278、聖書 ヨハネによる福音書12:20~26(新約192ページ)、祈祷、説教「イエス・キリストは一粒の麦」、讃美歌21・249、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 


(ヨハネによる福音書12:20~26) さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

(説教) 本日は、降誕節第5主日の礼拝、「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」第46回です。新約聖書のヨハネによる福音書12章20節以下から、神様のメッセージを受けたいと思います。

 最初の20節。「さて、祭り(ユダヤ人も大事な祭り過越祭)のとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。」わざわざユダヤ人(イスラエル人)の重要な祭りである過越祭に来るギリシア人は、ユダヤ人とユダヤ教に非常に好意的なギリシア人だったに違いありません。21~22節「彼らはガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、『お願いです。イエスにお目にかかりたいのです』と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。」イエス様はユダヤ人(イスラエル人)です。ですが外国人であるギリシア人になど会わないとはおっしゃらず、広い心でギリシア人たちにも会って、大切なメッセージを語って下さいました。私たち日本人もイエス様から見れば外国人です。ギリシア人に会って下さったイエス様は、もちろん私たち日本人にも会って下さり、大切なことを教えて下さいます。

 23節「イエスはこうお答えになった。『人の子(イエス様ご自身)が栄光を受ける時が来た。』」ユダヤ人は考える栄光は、征服、権力、支配だったそうです。これはユダヤ人だけでなく、どの民族でも同じとも言えます。特に男性が目指す栄光は、征服、権力、支配ではないかと思います。ところがイエス様にとっての栄光は、十字架にかかることです。十字架こそイエス様の王座です。全ての罪人(つみびと)を愛して、その人々の全部の罪の責任を身代わりに背負って十字架に上る。こうして全ての罪人(つみびと)を愛し抜く。これこそイエス様にとっての栄光です。この世の目指す栄光と正反対、奉仕の道こそ真の栄光、さらに十字架にかかることが最高の栄光です。

 イエス様はおっしゃいます。24~25節「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」農業を行う人には、分かりやすい話です。ユダヤ人にもギリシア人にも私たち日本人にもよく分かります。麦(種)を蒔けば、種は土の中で次第に消えます。でも種は芽を出し、葉が出て茎が伸び、花が咲き、遂には多くの実(麦)が実ります。種は蒔かれ、土の中で消えないと実が実りません。このたとえは、直接にはイエス様の生き方を示します。一粒の麦(種)であるイエス様は、私たちの罪を全部背負って十字架にかかり、死なれました。しかし三日目に復活の勝利を与えられます。自分の罪を悔い改めてイエス様を救い主と信じる私たちは、永遠の命を与えられます。昔から合計すると、何億人もの人々がイエス様を救い主と信じて、永遠の命という実りを受けて来たに違いありません。その人数は、これからも増えてゆきます。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」この御言葉はまさに、イエス様の十字架の死と復活によって、数えきれないほどの数の人々が、永遠の命という祝福を受けていることによって、実現しています。父なる神様は、全ての人がイエス様を救い主と信じて、永遠の命の祝福を受けることを望んでおられます。

 イエス様は言われます。25節「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」自己中心的だけに生き続ける人、ひたすらエゴイズムに生きる人は、永遠の命に至ることができない。反対にこの世で自分の命を憎む人、つまり自分の自己中心を憎み、エゴイズムを捨てて、神様と隣人を愛して生きようとする人は、永遠の命に至る」というのです。そして26節「私(イエス様)に仕えようとする者は、私に従え。そうすれば、私のいる所(天国)に、私に仕える者もいることになる。私に仕える者がいれば、父はその人を大切にして下さる。」

 イエス様に従ったクリスチャンで、一粒の麦のような生き方をした人は少なくないのです。クリスチャン作家・三浦綾子さんの有名な小説に『塩狩峠』(新潮社文庫)があります。これは実話に基づく小説です。小説のクライマックスで、汽車が北海道の塩狩峠という峠を登ってゆきます。それが故障で急に止まりバックし始める、落ち始めるのです。結納を控えた永野信夫というクリスチャンの鉄道職員が必死にハンドブレーキを回し、一旦速度がゆっくりになります。しかし完全には止まらない。暴走すれば転覆し、多くの死傷者を出す。意を決した永野信夫は線路に飛び降りて、線路の上に身を置きます。「客車は不気味にきしんで、信夫の上に乗り上げ、遂に完全に停止した」(同書329ページ)。信夫の親友であり、信夫の婚約者の兄である吉川というクリスチャン男性が後に現場に行きます。その時吉川さんの心に、聖書の言葉が浮かぶのです。「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん。」永野さんの生き方が、「一粒の麦」の生き方だった。三浦綾子さんのメッセージです。

 次は実在のクリスチャン(カトリック)の女性をご紹介します。井深八重さんという方です(1897~1989年)。八重さんのことは遠藤周作が小説にし、『愛』という映画にもなりました。ソニー創始者の井深氏の親族のようです。台北生まれで、同志社女学校に学び、英語教師として長崎に赴任しますが、暫くして、当時非常な偏見にさらされていたハンセン氏病の診断を受けます。しかしこの診断は八重さんに伏せられたまま、八重さんは富士山に近い御殿場の神山(こうやま)復生病院というハンセン氏病専門のカトリックの病院に入院します。そこで初めて病名を明かされて、八重さんは泣きに泣きます。が、そこで出会ったただ一人の医者レゼー神父(フランス人)が患者さんたちに献身的に尽くしている姿に、尊敬の念を抱きます。

 レゼー神父は、まさにイエス様に似た「良い羊飼い」でした。当時の神山復生病院は極貧状態で看護師がいなかったようで、八重さんが若いので院長の手伝いをしました。しばらくしても八重さんの病状が悪化しないので、東京の病院で再検査を受けると、何と誤診だった(ハンセン氏病でなかった)ことが判明します。喜んで幸山復生病院に戻ると、年上の患者さんたちも「よかったね」と喜んでくれ、退院してよいことになります。しかし八重さんは、「一番若い自分が去ったら、この病院はどうなってしまうのだろう」と考え込んでしまいます。さよならしてもよかったのですが八重さんの気持ちが変わり、自分の意志でこの病院で働きたいと申し出ます。

 まず看護師の資格を取る必要があります。東京の学校で免許を取り、27歳で神山復生病院の看護師として働き始めます。極貧の病院であらゆる仕事がありました。看護はもちろん、掃除、洗濯、食事作り、畑仕事、病院のための募金もしました。太平洋戦争中、戦後の食糧難の困難な時期を乗り切ったそうです。独身で60年以上も働き、患者さんの「母にもまさる母」と慕われたそうです。亡くなる前には「神様の待っておられるよい所へ行きます。喜んで」と語られたそうです。1992年に「知ってるつもり」というテレビ番組で紹介され、大きな反響を呼んだそうです。八重さんのお墓は、生涯を献げ神山復生病院の敷地にあり、直筆で「一粒の麦」と刻まれているそうです。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。」自分のエゴを捨てて、神様と隣人のために献げ尽くした見事な生涯というほかありません。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。私(イエス様)に仕えようとする者は、私に従え。そうすれば、私のいる所(天国)に、私に仕える者もいることになる。私に仕える者がいれば、父はその人を大切にして下さる。」八重さんは、この通りに生きました。今は天国で、イエス様と共にいて、父なる神様に大切にされておられることは間違いありません。

 最初の一粒の麦はイエス・キリストですが、イエス様に押し出されて自分も一粒の麦として生きたクリスチャンたちを紹介しています。少し辛い話で恐縮ですが、イエス・キリストを信じたために迫害を受け、殉教の死を遂げたクリスチャンたちがいます。日本にも韓国にもいます。日本ですとたとえば豊臣秀吉の時代です。それまで特にキリスト教を禁止していなかった豊臣秀吉が、1587年に突然、宣教師追放命令を出します。その後、1596年暮れに京都・大阪で24名のキリスト者が捕らえられ、長崎まで歩かされます、一部は船でしょうが。途中で2名が志願して加わり、26名が翌年1597年2月5日に、長崎の西坂の丘という場所で十字架に架けられて殉教します。私は2回そこに行きました。三木パウロという日本人は、十字架の上から群衆に説教しました。「私が処刑されるただひとつの理由は、私がイエス・キリストの尊い教えを広めたということです。私はキリスト様に従う身ですから、キリスト様にならって私を迫害する人々をゆるします。私は少しもうらみません。神様がすべての人々の上に憐れみを下さいますように。私の流す血が皆様の上に豊かな実りをもたらす恵みの雨となりますように願っています。」「私の流す血が皆様の上に豊かな実りをもたらす恵みの雨となりますように願っています。」三木パウロは、自分の殉教の死もまた一粒の麦として、神様が生かして下さるようにと願ったのだと思います。この祈りは聞かれたようです。豊臣秀吉は、クリスチャン太刀を殺せば、人々が恐れて信仰に入らなくなるように、見せしめで26名を殺させました。ところが逆効果で、信仰を捨てないで勇敢に死んでいく26名を見た人々は感動してしまい、勇気づけられ却ってクリスチャンになる人が増える結果になったようです。26名は日本のカトリック教会の礎となったと言えます。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

 殉教者の血が流れると、次の世代の教会が進展する。これはどうやら真理です。真に残念なことですが、1930年代と思いますが、日本国が朝鮮半島や台湾を植民地にしていて各地に神社を建てて、神社参拝することを強要しました。偶像崇拝を強要したのです。モーセの十戒の第一の戒め「あなたには私をおいて、ほかに神があってはならない」に背くことを強要したのです。朝鮮半島のクリスチャンたちが拒否しました。クリスチャンなら当然のことです。拒否した人々は投獄されました。約50名のクリスチャンたちが神社参拝拒否を貫いて殉教したと聞いています。殉教者の血が流されました。戦後、韓国では伝道がどんどん進みました。問題もありますが、伝道が非常に進んだことは事実と思います。殉教者の血が流されたことが、教会への祝福をもたらしたのはないかと言われます。殉教者の血は、決して無駄にならないのです。一粒の麦となって次の代の教会に大きな祝福をもたらすようです。16世紀末から17世紀初めの日本でもそう、20世紀の朝鮮半島でもそうでした。
 
 一粒の麦で、もうお一人ご紹介しましょう。私は2年ほど前に映画「一粒の麦 荻野吟子の生涯」を見ました。荻野吟子さんは、日本の医師試験合格者で初の女性で、クリスチャンです。埼玉県の三大偉人の一人だそうです。今の熊谷市で1851年に生まれ、17才で結婚しますが、夫に性病を移され離婚。男性医師の治療を受ける苦しみを知り、自分が医者になって同じ苦しみの中の女性たちを救おうと決心、東京女子師範学校(今のお茶の水女子大)を卒業、私立医学校で学びますが、様々な妨害、嫌がらせを受けます。それに耐えて闘って卒業。東京府に医師試験受験の願書を出しますが、女性が受けた前例がないと却下を繰り返されます。その差別を乗り越えて受験にたどり着き、合格。日本初の公認の女性医師となり、1885年に東京の湯島に「産婦人科・荻野医院」を開設、多くの女性が訪れます。

 その頃、プロテスタントの弓町本郷教会の海老名弾正という有名な牧師の説教を聴き、「神様から見れば、男も女も平等である」と知らされます。強く心を打たれ、海老名牧師から洗礼を受け、クリスチャンになります。キリスト教の婦人矯風会の働きに参加し、当時の日本社会の大きな悪・遊郭に反対します。遊郭で働かされ、性病に苦しむ女性たちの治療に心を砕きます。荻野吟子さんが生涯愛した聖書の言葉が、ヨハネによる福音書15章13節「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」でした。これはイエス・キリストの生き方です。私たち全員の罪と過ちの責任を身代わりに背負って十字架で死なれ、三日目に復活され、今も天で生きておられます。そして聖霊として、今も私たちと共におられます。

 1891年に濃尾地震という大地震があり、多くの孤児が発生しました。荻野吟子さんは親を失った女の子たちを荻野医院に受け入れます。そうでないとその子たちは遊郭に売られるところでした。同志社大学を卒業した牧師と再婚して、寒い北海道の瀬棚という所に開拓伝道に赴きますが、自然環境が厳しく、あまりうまくいかず、東京に戻って来たようです。牧師の夫は割に早く天に召され、吟子さんは62才で天に召されたようです。女性差別と闘い、神様と隣人を愛して、一粒の麦の一人となった生涯です。映画を見て初めて知ることが多かったです。私は歴史好きなので、荻野吟子さんのお墓が雑司ヶ谷霊園(池袋の少し先)にあると知って、昨年見学して来ました。すぐ見つかりました。「なるほど、本当におられた方なんだな」ということを実感しました。

 今日ご紹介した方々は、辛いことも多い人生だったに違いありません。旧約聖書の詩編126編には、こうあります。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰って来る。」辛い労働や涙の日もあった。しかし神様が最後に愛と祝福で報いて下さる。特に天国では必ず祝福が待っています。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば大きな実を結ぶ」と通じる御言葉と思います。私たちは歴史に名を残すことはないかもしれません。でも毎日地道にイエス様に従いたいと思います。父なる神様はすべて見ていて下さり、天国では必ず報いて下さいます。イエス様に喜んでいただける一粒の麦の一人となることができるように祈りつつ、日々ご一緒にイエス様に従いましょう。

(祈り)聖名讃美。感染している方全員と重症の方に癒し。感染が拡大している日本と世界に助けを。オミクロン株を静めて。世界中が神に立ち帰るように。経済困難の方に助け。入院中の方々に神様の万全の癒し。様々な病と闘う方に癒し。教会学校の子どもたちの信仰。教会の近所で亡くなった方のご家族に神様の慰めを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマー、アフガニスタン、トンガに神様の助けを。アーメン。

2022-01-16 0:46:43()
「洗礼を受けられたイエス様」 2022年1月16日(日)降誕節第4主日説教
礼拝順序:招詞 ローマ5:3~4、頌栄29、「主の祈り」、交読詩編56,使徒信条,讃美歌21・267、聖書 イザヤ書42:1~4(旧約1128ページ)、マタイによる福音書3:13~17(新約4ページ)、祈祷、説教「洗礼を受けられたイエス様」、讃美歌21・67、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(イザヤ書42:1~4) 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。
彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。

(マタイによる福音書3:13~17) そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

(説教) 本日は、降誕節第4主日の礼拝です。クリスマスの前の礼拝からマタイ福音書1章から読み始めましたが、この流れは本日までと致します。本日はマタイ福音書3章の後半です。イエス様が洗礼をお受けになる場面です。

 13~14節「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼(バプテスマ)を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『私こそ、あなたから洗礼(バプテスマ)を受けるべきなのに、あなたが、私のところへ来られたのですか。』」洗礼者ヨハネはイエス様を見て、驚きました。「イエス様が来られた! この方は神の子ではないか。最も尊い方だ。」ヨハネはすぐ前の11節でイエス様のことを語ったのです。「私の後から来る方は、私よりも優れておられる。私は、その方の履物をお脱がせする値打ちもない。」これはヨハネの本心です。ヨハネが謙遜のふりをしてこう言ったのではなく、正真正銘の本心でした。ヨハネは自分も罪人(つみびと)の一人であり、イエス様は全く罪のない完全に清い神の子であることを知っていました。彼はヨハネ福音書3章では、「あの方(イエス様)は栄え、私は衰えねばならない」と国学しています。

 ヨハネはイスラエルのファリサイ派やサドカイ派の人々に向かって、火のように厳しいことを言いました。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」これだけ厳しいメッセージを語りましたが、ヨハネは傲慢な人ではありません。ヨハネは聖霊に満たされていて、清く正しく生きるように心がけていましたが、それでも自分も罪人(つみびと)の一人であることを知っていたと思います。それで自分にはイエス様の「履物をお脱がせする値打ちもない」ことをよく知っていました。それでイエス様が洗礼を受けるためにヨハネの前に来られた時、ヨハネは驚いて「私こそ、あなたから洗礼(バプテスマ)を受けるべきなのに、あなたが、私のところへ来られたのですか」と言いました。「イエス様、これではあべこべです」と言いたかったのです。確かにあべこべです。

 ですがイエス様はお答えになります。15節「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふわさしいことです。」「行う」と訳されたギリシア語原文のは「満たす」の意味の言葉です。神の御心・ご意志を満たすということですね。口語訳聖書では、「すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」となっています。イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられることは、父なる神様の御心の成就、父なる神様が喜ばれることだと分かります。

 そこでヨハネは、イエス様の言われる通りにし、イエス様に洗礼をお授けしました。二人で父なる神様の御心に従ったのです。16節「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき(原文は「見よ」)、天がイエスに向かって開いた(マルコ福音書では「天が裂けた」)」。イエスは、神の霊(聖霊)が、鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。」鳩は聖霊のシンボルです(平和のシンボルである時もあります)。聖霊のシンボルは鳩だけでなく、火や水が聖霊のシンボルであることもあります。17節「その時(原文「見よ」)、『これは私(父なる神様)の愛する子、私の心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」父なる神様の声です。イエス様を「私の愛する子」と呼ばれました。イエス様が、父なる神様に深く愛されている子、神の子であることがここで明らかにされました。そしてイエス・キリストは、神様(神の子)があえて人間になって下さった方です。イエス・キリストは神の子であり、同時に私たちと同じ肉体をもつ人間です。人間マリアさんから生まれたからそう言えます。この16、17節の短い2節に、神の子イエス・キリスト、神の清き霊である聖霊、そして(声のみですが)父なる神様が登場しています。まさに父・子・聖霊なる三位一体の神様が登場しておられます。その意味でも重要な箇所です。
 
 父なる神様の声は、「これは私の愛する子、私の心に適う者」ですが、後半の「私の心に適う者」を直訳すると「私はこれを喜ぶ」になります。「私はこれを(イエスを)喜ぶ」とおっしゃっています。父なる神様は、イエス様の存在を喜んでおられ、イエス様がヨハネから洗礼を受けられたことをも、喜んでおられます。父なる神様は、本日の旧約聖書であるイザヤ書42章1節を踏まえて、こうおっしゃったと言われます。42章1節の2行目にこうあります。「私が選び、喜び迎える者を。」このイザヤ書42章1節以下の小見出しは、「主の僕の召命」です。「主の僕」がイエス様を指していることは、明らかでしょう。「見よ、私(父なる神様)の僕、私が支える者を。私が選び、喜び迎える者を。彼の上に私の霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない、この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。」「彼は国々の裁きを導き出す。」裁きは正義と言えます。主の僕イエス様は、国々を正義によって治めるということと思います。イエス様は、深い思いやりのある方です。「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。」彼は選挙カーのように叫び、呼ばわって、自分を宣伝することをしません。「傷ついた葦(傷ついた人)を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく」とは、」弱い者を暴力で倒すことなく、いじめたりせず、いたわって寄り添い、慰め励まして下さることと思います。ありがたい救い主の姿です。

 マタイ福音書に戻りますと、昔から多くの人々が疑問に感じたのは、罪が全くないイエス様は、罪の赦しの洗礼を受ける必要が全くないのに、なぜヨハネから洗礼をお受けになったのか、と言う点です。クリスチャン作家の三浦綾子さんも、このことについて文章を書いておられますが、私など恥ずかしながら、それを読むまでその疑問を思いつきませんでした。確かに言われてみれば、私たち罪人(つみびと)と違って、全く罪のないイエス様が洗礼を受ける必要は全然ありません。それなのになぜ、あえて言えばイエス様の履物をお脱がせする値打ちもない罪人(つみびと)ヨハネから、洗礼をお受けになったのでしょうか。

 これは確かにイエス様のへりくだりです。イエス様は上昇志向の方ではなく、その逆の生き方をなさいます。進んで下へ下へと向かい、奉仕の道、仕える道、僕(しもべ)へとへりくだる生き方の象徴の一つが、ヨハネから洗礼を受けられたことと言えます。イエス様は洗礼を受けることで、私たち罪人(つみびと)の友となって下さいました。私たち罪人(つみびと)と同じ立場に身を置いて下さったのです。罪人(つみびと)の友になって下さいました。イエス様のへりくだりの第一歩は、クリスマスの出来事です。イエス様は天におられ、しかし天におられるままでは私たち罪人(つみびと)を助けることができません。そこで天での栄光を捨てて、罪と死と悪魔の支配するこの世界に無力な赤ちゃんとして生まれて下さいました。私たちと同じ、切れば赤い血が出て痛みを感じる肉体を持つ人間として生まれて下さいました。それも貧しいヨセフとマリアの長男として貧しい馬小屋(家畜小屋)に生まれて下さいました。ただひたすら私たち罪人(つみびと)への愛のゆえです。

 その次に、ご自分は洗礼を必要としないのに、洗礼を必要とする私たち罪人(つみびと)同じ立場に立って友となるために、罪人(つみびと)の一人ヨハネの前に、おそらく頭を垂れて洗礼をお受けになりました。この生き方は更に進み、ヨハネ福音書13章では、イエス様が弟子たちの前にもしかするとひざまずいて、弟子たちの汚れた足を洗って下さいました。弟子たちへの愛のゆえの謙遜の行為です。そして私たち罪人(つみびと)の全ての罪の責任を身代わりに背負って、十字架にかかって下さいました。究極のへりくだりです。イエス様のこの生き方を、新約聖書のフィリピの信徒への手紙2章6節は、こう表現していますね。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」 

 僕(しもべ)という言葉が出て来ましたが、イエス様ご自身もマルコ福音書10章43~45節でこう語っておられます。「あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子(イエス様)は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」イエス様は、父なる神様のご意志に従って、服従してこの生き方をなさいました。ここで大切なのは、イエス様が父なる神様への愛と私たちへの愛のゆえに、このへりくだりと奉仕の生き方をなさったということです。イエス様は決していやいやながら、無理やりがまんして貧しい馬小屋(家畜小屋)に生まれ、いやなのを我慢して洗礼を受け、弟子たちの足を洗い、いやいやながら十字架に架かられたのでありません。確かに私たちと同じ肉体をもつイエス様にとって、十字架は肉体的にも精神的にも想像を超えた苦しみだったことは間違いありません。でもイエス様は、父なる神様への愛のゆえに、私たち罪人(つみびと)への愛のゆえに、父なる神様のご意志に従い服従して、決断して十字架に進まれました。私たちへの愛のゆえに自発的に十字架に向かわれたとさえ言えます。

 そのイエス様に、父なる神様は三日目の復活という大きな報いを与えられました。イエス様の十字架の愛によって罪の赦しと永遠の命の恵みを受けた私たちもまた、聖霊に助けられて、進んでイエス様に従う生き方へと押し出されます。イエス様に従って、父なる神様と隣人を愛して生きよう。無理やり強制されてではなく、イエス様の十字架の愛に感謝するがゆえに自発的に、自分から進んで、少しずつであったとしても、父なる神様とイエス様と隣人を愛して生きるように励まされます。自発的に。これがキリスト者の自由であり、キリスト者の愛です。父なる神様を愛する生き方は、父なる神様を礼拝する生き方になります。

 さて、イエス様と違い私たちは罪人(つみびと)であり、罪の赦しを受ける必要があるので洗礼を受けます。洗礼にどんな意義があるか、ローマの信徒への手紙6章4節以下で確認したいと思います。新約281ページ上。「私たちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。もし、私たちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」洗礼には本当に水に入る方式もあり、東久留米教会で行うように水を頭に垂らす方式もあります。どちらでも有効です。イエス様はヨルダン川に入られたでしょう。私たち罪人(つみびと)が水に入ることは、そこで私たち罪人(つみびと)の罪が死ぬことを意味します。罪深い古い自分が死んで滅びる。そのためには洗礼を受ける時に(前に)自分の罪を悔い改める必要があります。罪を悔い改めて罪に死ぬことが大切です。水から上がる時には、イエス様と同じ復活の命、永遠の命、愛の命を新しく受けて、新しい命に立ち上がるのです。これはすばらしいことです。

 しかもその時に、神様の清き霊、イエス様の愛の霊である聖霊を受けます。洗礼を受ける時、私たちの罪ある古い自分がイエス様と共に十字架につけられて死に、イエス様の復活の命と同じ復活の命に復活して立ち上がるのです。その後の生きる方向はイエス様と同じ方向を目指し、父なる神様を愛し、自分を正しく愛し(エゴイズムとは別)、隣人を愛する方向に生き始めます。さらにイエス様と同じに敵をさえ愛する方向に進み始めます。確かに自力ではこれは難しい。でも私たちには聖霊が注がれていますから、生ける真の神の霊である聖霊が助けて下さいます。敵をさえ少しずつでも愛そうとする時に、私たちに真の自由が与えられます。生まれつきの私たちは、好き嫌いの感情に負けやすいのです。好きな人には親切に、嫌いな人には親切にできない。これは不自由です。神様は私たちに真の自由を与えて下さいます。自分の好き嫌いの感情に負けないで、誰をも愛する自由です。この自由に生きることができるようになることは奇跡です。聖霊なる神様が私たちもその奇跡を
与えて下さるのですね。

 私たちは洗礼を受け、聖霊の愛を注がれ少しずつ清められても、この地上にいる時は私たちにはまだ自己中心の罪が残っています。日毎に悔い改めることで罪が死んでも、地上ではまだ罪が残っています。私たちが地上の人生を受けて死ぬ時、私たちの罪も完全に死にます。もちろん地上で長生きしてよいのですが、私たちが死ぬ時には、私たち罪が完全に死に絶えます。そして罪が全然ない完全い清い状態になって天国に誕生します。私たちは罪を悔い改めて洗礼を受けた時に自分の罪に死に始め、地上の人生が終わった時に罪が完全に死に絶えます。クリスチャンにとって地上の死は、洗礼の完成ですね。私が洗礼を受けたのは1988年10月23日。あの時洗礼の意味を学んで受けましたが、全て分かっていたのでもありません。その後の信仰生活で少しずつ分からせていただいたのです。洗礼を受けた時、こんな文章を書いています。「子どもの頃、時々カトリックの日曜学校に通っていた。プロテスタントの高校に入り、新約聖書が配布され、初めて聖書に目を通した。高校卒業後に高校時代のクリスチャンの友人と交流する中で、榎本保郎さんという牧師がご自分の半生をふりかえった『ちいろば』という本で、エルサレムに入城されるイエス様をお乗せした小さい「ろばの子」のように、ご自分もイエス様をお乗せして、その指示通りに進んで行かんとする榎本牧師の姿が描かれていました。これを読んでキリスト教の『すごさ』を思い知らされ、遂に捕らえられてしまいました。聖書には『あなたが私(イエス様)を選んだのではない。私があなたを選んだ』と書いてあります。『人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである』とも書いてあります。長い間、心に信じてはきたものの、口で告白(信仰告白)することは避けてきました。しかし今、口で告白して救われたいと思います。」洗礼の恵みへと全ての方が入って下さり、既に洗礼を受けた方々も、洗礼の深い恵みをさらに深く味わいながら、共にイエス様に従って参りたいのです。アーメン。

(祈り)聖名讃美。感染している方全員と重症の方に癒し。感染が拡大している国に助けを。オミクロン株を静めて。世界中が神に立ち帰るように。経済困難の方に助け。入院中の方々に神様の万全の癒し。病と闘う方に癒し。教会学校の子どもたちの信仰。教会の近所で亡くなった方のご家族に神様の慰めを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマー、アフガニスタンに平和。

2022-01-02 0:00:36()
「神様に従う方向転換」 2022年1月2日(日)降誕節第2主日礼拝説教 
礼拝順序:招詞 ローマ5:3~4、頌栄28、「主の祈り」、交読詩編54,日本基督教団信仰告白,讃美歌21・248、聖書 イザヤ書40:1~5(旧約1123ページ)、マタイによる福音書3:1~12(新約3ページ)、祈祷、説教「神様に従う方向転換」、讃美歌21・262、聖餐式、献金、頌栄24、祝祷。 

(イザヤ書40:1~5) 慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。

(マタイによる福音書3:1~12) そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

(説教) 皆様、新年おめでとうございます。本年もご一緒に神様への礼拝を献げ続けて参りたいと思います。教会の暦(カレンダー)では、本日は降誕節第2主日の礼拝です。本日与えられているマタイ福音書3章は、先週の箇所の続きです。赤ちゃんイエス様がへロデ王に命を狙われたので、ヨセフはイエス様の母マリアを連れて、エジプトに避難しました。へロデの死後、イスラエルに戻り、北のガリラヤ地方のナザレという町に住んだのです。

 月日が一気に約30年進み、今日の箇所の場所は紀元30年か少し前のイスラエルです。1節「その頃、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。」救い主イエス・キリストの公の働きが始まる前に、洗礼者ヨハネがイスラエルの民に神様からのメッセージを宣べ伝えます。洗礼者ヨハネはこうして、イスラエルの人々の心を耕して、救い主イエス様が働きやすいように道備えをしています。ヨハネは荒れ野に住んでいました。荒れ野は、基本的には岩しかないような場所と思います。命が、緑があまりない場所と思います。生存するに厳しい環境です。洗礼者ヨハネは、あえてそこで非常に質素な暮らしていました。イエス様が荒れ野で悪魔の誘惑をお受けになったことからも分かるように、荒れ野は悪魔が跋扈する場所でもあります。しかし洗礼者ヨハネは、その荒れ野で、ひたすら真の神様の御声に耳を澄ませて、真の神様の御言葉を聴くことに専心全霊を傾注して、祈り深い日々を重ねていました。

 そして伝道の第一声を発しました。「悔い改めよ、天の国は近づいた。」「悔い改める」は、元のギリシア語で「メタノイア」という言葉です。メタノイアは、方向点検するの意味だと聞いています。それも180度の方向転換です。本日の説教題を「神様に従う方向転換」と致しました。聖書で言う罪とは、色々な悪い行いでもありますが、より根本的には「的外れ」を意味すると聞いています。私たちが、神様という的に向かってまっすぐに生きてゆけばよいのですが、そうしないで神様という的に向かわないで、それぞれが勝手な方向に進む生き方をすることが的外れ、つまり罪です。その的外れの生き方から180度方向転換して、神様に従う方向に向かって生き始めることこそ、「悔い改め」に他なりません。ヨハネは人々に向かって叫びます。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」天の国は天国、言い換えれば神の国、神の愛の正義のご支配です。
 
 さて3節。「これは預言者イザヤによってこう言われている人である。『荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」』」洗礼者ヨハネの出現は、旧約聖書の偉大な預言者の一人イザヤによって予告されていたのですね。次の4節。「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。」荒れ野の聖者・洗礼者ヨハネ! 実に質素ないでたちと生活です。いなごは旧約聖書レビ記11章で、食べてよいとされています。ヨハネは旧約聖書の掟に従う生き方をしていたのです。私はいなごを食べたことがありませんが、いなごは日本人も食べて来ました。そこでヨハネに親近感を抱く方もおられるのではないでしょうか。このヨハネのいでたちは、旧約聖書に登場する預言者エリヤのいでたちと同じです。旧約聖書の列王記下1章8節で、預言者エリヤに出会った人々がエリヤの姿について、「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました」と言っています。預言者エリヤと洗礼者ヨハネは別の人間ですが、でもヨハネにはエリヤの霊が宿っていたのです。旧約聖書最後の書であるマラキ書3章23節に、こうあります。「見よ、私は大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」世の終わりの日、神の国の完成の日の前に、神様が預言者エリヤをイスラエルの地に遣わすという約束です。この約束に従って生まれたのが洗礼者ヨハネです。エリヤとヨハネは別の人間ではありますが、エリヤの霊がヨハネに宿っていました。

 洗礼者ヨハネが「悔い改めよ、天の国は近づいた」と宣べ伝え続けると、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」これほど多くの人々がヨハネの元に来て罪を告白し、ヨハネから洗礼を受ける出来事が起こったことは、驚くべきことです。人間の力ではく、聖霊の力、神様の力が働いたに違いありません。真心から自分の罪を告白することは、神様に喜ばれることです。旧約聖書の箴言28章13節に、こう書かれています。「罪を隠している者は栄えない。告白して罪を捨てる者は憐れみを受ける。」「罪を隠している者は栄えない。告白して罪を捨てる者は憐れみを受ける。」

 罪の告白と悔い改めについて、私が印象深く思い出すのは、ドストエフスキーというロシアの作家が書いた『罪と罰』という長い長い小説の最後の方の場面です。人を殺してずっと隠していた主人公ラスコーリニコフは、無学で貧しい娘ソーニャには打ち明けます。「これから僕はどうしたらいいんだ!」そしてソーニャに言われるのです。「どうすればいいって? お立ちなさい。今すぐ外へ行って、十字路に立ち、ひざまずいて、あなたがけがした大地に接吻しなさい。それから世界中の人々に対して、四方に向かってお辞儀して、大声で『私が殺しました』と言うのです。そしたら神様がまたあなたに命を授けて下さるでしょう。行きますか? 行きますか?」暫く後に彼はそれを実行して捕まるのですが、これは絵に描いたような劇的な罪の告白と悔い改めの場面と思います。「ひざまずいて、あなたがけがした大地に接吻しなさい。それから世界中の人々に対して、四方に向かってお辞儀して、大声で『私が殺しました』と言うのです。そしたら神様がまたあなたに命を授けて下さるでしょう。これを実行したのです。」

 ヨハネは、罪を告白して洗礼を受けた人々の中でも、ファリサイ派やサドカイ派の人々に、火のような厳しいメッセージを語ります。ファリサイ派、サドカイ派はユダヤ教の中のグループと言えますが、ファリサイ派の問題点は思い上がって傲慢なこと、サドカイ派の問題点は世俗的なことではないかと思います。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。」彼らの悔い改めが、まだまだ表面的と感じたのかもしれません。「実を結ぶ」とは、神様を愛し、隣人を愛する生き方をするようになることです。これは私たちの頑張りでは十分にできません。私たちは生まれつき自己中心の罪にまみれているからです。私たちが実を結ぶには、神様の生きておられる霊である聖霊の助けが必要です。よく神様にお祈りして、私たちに聖霊を注いでいただくことが必要です。聖霊を注いでいただくと、私たちの自己中心の心が時間をかけて清められ、少しずつ神様を知り、隣人を愛する実を結ぶ生き方に、次第に進ませていただくことができると信じます。ガラテヤの信徒への手紙5章22節に「霊(聖霊)の結ぶ実」とは何かが書かれています。「霊(聖霊)の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」これはまさにイエス・キリストの人格そのものです。実を結ぶとは、ほんの少しずつでもイエス様に似た人となることです。もちろん姿形ではなく、人格と生き方のことです。

 9節「『我々の父(先祖)はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」ファリサイ派・サドカイ派の誇りは、自分たちが神の民イスラエルの偉大な先祖アブラハムの血を引いていること、アブラハムの子孫だということでした。それで鼻高々だったと思います。しかしイエス様は、あなた方が信仰の人アブラハムの子孫だからと言って、自動的に天国に入れるわけではない。そんな安易なものではなく、一人一人の神様に従う信仰が大切だとおっしゃったのだと思います。「神はこんな小さな石ころからでも、アブラハムの子たち(真の信仰者)を造り出すことがおできになる。」父なる神様に不可能なことは一つもない。一見神の国から最も遠く離れているように見える異邦人(外国人)や、イスラエルで嫌われている徴税人(税金集めの人)をさえ、神様は祝福して真の信仰者に造りかえることができる。イスラエル人だから自動的に天国に入れると考えて、うかうかして油断していたら失敗するよ、とおっしゃったのです。

 旧約聖書のダニエル書4章14節に、こんな御言葉があります。「人間の王国を支配するのは、いと高き神であり、この神は御旨のままにそれを誰にでも与え、また、最も卑しい人をその上に立てることもできる。」「最も卑しい人を立てて、王様にすることも神にはできる。」神様は、最も信仰の道から遠そうに見える人を造りかえて、最もすばらしい信仰者にすることもできる。信仰の父アブラハムの子孫だから自分も自動的に天国に入ることができると安易な気持ちで、高を括っていては、失敗するよ、と洗礼者ヨハネはファリサイ派やサドカイ派に忠告したのです。このメッセージを聞いて、私どももまた思い上がらないで、誠実にイエス様に従う生き方を忘れてはいけないと、気を引き締めるのです。

 10節「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」まさに火のように厳しいヨハネのメッセージです。ヨハネは新約聖書の登場人物ではありますが、旧約聖書の時代の最後の預言者と言ってもよいと思います。預言者は、神様の真実の御言葉を預かって語る「神の人」です。11節「私は悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼(バプテスマ)を授けているが、私の後から来る方は、私よりも優れておられる。私はその方の履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなた方に洗礼をお授けになる。」悔い改め。それは神様に従う方向に向き直る方向転換ですが、16世紀の宗教改革者マルティン・ルターは、有名な言葉を書きましたね。「イエス・キリストが(今日の御言葉で悔い改めを求めているのは洗礼者ヨハネですが)私たちに悔い改めなさいと言われた時、それは私たちの全生涯が悔い改めであることを求められたのである」と。私たちは自分の罪を知り、本当は私たちが自分の全ての罪の裁きを受けて十字架に架からねばならないのに、イエス・キリストが私たち罪人(つみびと)を愛して、身代わりに十字架に架かって下さったことを知り、自分の罪を悔い改めて洗礼を受けます。すると全ての罪の赦しを受け、神の子とされ永遠の命を受けます。

 しかし私たちにはまだ罪が残っており、毎日少しずつ罪を犯してしまいます。その罪の悔い改めは必要です。もちろん洗礼は非常に重要ですが、洗礼を受けたらその後は悔い改めは全く必要ないわけではありません。地上では私たちが神の子になっていても、まだ完全に清くなっておらず罪が残っているので、毎日悔い改めが必要です。それを忘れると、堕落する恐れがあります。それでルターは、「イエス様が私たちにお求めになったことは、私たちの全生涯が悔い改めであることだ」と大事なことを、宗教改革のスタートに時に書いて貼り出して、教えて下さいました。当時の教会が悔い改めを忘れていたのだと思います。私たちは、日々悔い改めることによって、自分を改革し、祈って聖霊を毎日注がれることで、日々新しくされ、次第にイエス・キリストに人格と生き方が似るようにしていただけます。

 ヨハネは告白します。「私の後から来る方は、私よりも優れておられる。私はその方の履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」その方は、もちろんイエス・キリストです。イエス様は全く罪がない清い神の子であり、父・子・聖霊なる三位一体の神様です。洗礼者ヨハネもかなり清い人ですが、イエス様と比べれば罪があるはずです。そこで「私はその方の履物をお脱がせする値打ちもない」と告白しました。彼の本心です。無理に謙遜のふりをしているのではありません。心からそう思っています。洗礼者ヨハネは、ヨハネ福音書3章では「あの方(イエス様)は栄え、私は衰えねばならない」と言っています。ヨハネは、イエス様がヨハネの罪も含め、私ども全員の全部の罪の責任を身代わりに背負って、十字架で死んで下さいます。イエス様を憎む人々の罪をも背負って十字架で身代わりに死なれます。そうしてイエス様は、本当に敵を愛したのです。イエス様が敵をさえ愛されることを知っているヨハネは、自分はそこまでできないと思ったのではないでしょうか。それで「私の後から来る方は、私よりも優れておられる。私はその履物をお脱がせする値打ちもない」と告白したと思います。

 12節。その方は「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」イエス様がそうなさるとヨハネは考えました。確かに、世の終わりには全ての罪が焼き尽くされるでしょう。そうなのですが、救い主イエス様はまず、ご自分が私たちの身代わりに十字架で裁き尽くされて下さる方です。他人の罪を裁くより先に、ご自分が十字架で私どもの罪を全て身代わりに背負って、裁き尽くされて下さる方です。

 ヨハネが授ける洗礼と、教会がイエス様の十字架と復活の出来事を経て授ける洗礼(父・子・聖霊なる三位一体の神様のお名前による洗礼)は違うことも確認したいと思います。ヨハネが授ける洗礼はまだ不完全で、永遠の命を完全には保障する洗礼ではないと思います。しかし教会が授ける洗礼は、感謝なことにイエス様の十字架による全ての罪の赦しと復活による永遠の命を土台としているので、もっと優れた洗礼です。永遠の命を保障する洗礼です。私はよく引用するのですが、ローマの信徒への手紙5章16節を御覧下さい。新約280ページ上、終わりから2行目。「裁きの場合(旧約聖書の場合、洗礼者ヨハネの場合)は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵み(イエス様の十字架と復活の恵み)が働く時には、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。」私どもは洗礼者ヨハネの時代の先の時代、イエス・キリストの十字架と復活による福音が与えられた時代に生かされています。全ての人が罪を悔い改めて方向転換し、イエス・キリストを救い主と信じ、できれば洗礼を受けて神様の子となるように、心より祈ります。この後、聖餐を受け、神様の子どもとされている恵みを、感謝して味わいたいのです。アーメン。

(祈り)聖名讃美。感染している方全員と重症の方に癒し。感染が拡大している国に助けを。オミクロン株を静めて。世界中が神に立ち帰るように。経済困難の方に助け。入院中の方々に神様の万全の癒し。病と闘う方に癒し。教会学校の子どもたちの信仰。教会の近所で亡くなった方のご家族に神様の慰めを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマー、アフガニスタンに平和。