日本キリスト教団 東久留米教会

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2022-05-29 0:35:19()
説教「イエス様の昇天と、祈る教会」 2022年5月29日(日) 復活節第7主日公同礼拝
礼拝順序:招詞 使徒4:29、頌栄24、「主の祈り」,使徒信条、讃美歌21・351、聖書 詩編69:26~27(旧約p.903)、使徒言行録1:6~26(新約p.213)、祈祷、説教、讃美歌21・573、献金、頌栄83(1)、祝祷。 

(詩編69:26~27) 彼らの宿営は荒れ果て/天幕には住む者もなくなりますように。あなたに打たれた人を、彼らはなおも迫害し/あなたに刺し貫かれた人の痛みを話の種にします。

(使徒言行録1:6~26) さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
 使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。詩編にはこう書いてあります。『その住まいは荒れ果てよ、/そこに住む者はいなくなれ。』/また、/『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。

(説教) 本日は復活節第7主日礼拝です。説教題は、「イエス様の昇天と、祈る教会」です。今年のイースター(イエス様の復活日)は4/17(日)でした。使徒言行録1章の本日の直前の3節には、「イエスは苦難(十字架)を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」とあります。そして復活の40日目に、生きて復活の体をもって天に上げられました。天に昇られたのです。これをイエス・キリストの昇天と呼びます。「昇る天」と書きます。今年のイエス様の昇天日は、三日前の5/26(日)でした。クリスチャンがこの世の生を終えた時に「召天した」と言いますが、これは文字が違い「召された天に」と書きます。イエス様の昇天は、亡くなって天に召されたのとは違い、復活して生きた状態で天に昇られたのです。日本語で音が同じ「しょうてん」ですが、意味が違います。同じ天に行くのですから、結果的に似ていますが、地上の人生においては死んで永遠の命で天に行った一般のクリスチャンと、復活して復活の体をもって天に昇られたイエス様の場合とは、やはり区別する必要があります。

 今日の最初の小見出しは、「イエス、天に上げられる」です。6節「さて、使徒たち(弟子たち)は集まって、『主よ、イスラエルのために国を建て直して下さるのは、この時ですか』と尋ねた。」使徒たちはまだ、少し誤解していたのかもしれません。救い主イエス様がなさることは、イスラエルの国をローマ帝国の植民地であることから解放して下さることだと。しかしイエス様がなさることは、旧約聖書以来の神の民イスラエル人と、私たち異邦人(イスラエル人以外の人々)に、地上の国を超えた、真の神の国をもたらすことです。神の国が完成する時は必ず来ますが、それがいつなのか、私たちには明かされていません。7~8節「イエスは言われた。『父(父なる神様)が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなた方の知るところではない。あなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる。』」

 イエス様は「聖霊(神の清き霊)が注がれるのを待ちなさい」と言われます。聖霊が注がれるのはこの10日後です。それを記念するのが次週のペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝です。聖霊は目に見えませんが、確かに存在する神様の人格的な清き霊です。聖霊の清き力を受けて、使徒たちは(私たちも)真の神の子・救い主イエス・キリストを宣べ伝えます。イエス・キリストこそ、真の神の子であると証言する証人になります。証言の証という漢字は「正しく言う」と書きます。証言はイエス・キリストこそ真の神の子・真の救い主であるとの正しいこと(真理)を言う(語る)ことで、それを正しく言う人を証人と呼びます。クリスチャンは皆、イエス・キリストを宣べ伝える証人です。エルサレムから見れば日本はまさしく地の果て、私たちが住む東久留米市や西東京市や新座市も間違いなく地の果てです。私たちは東久留米、西東京、新座でイエス・キリストの証人として生かされています。

 9節「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」雲は聖書では「神様がそこにおられる」シンボルです。天に行かれたとは、宇宙の果てに行かれたということではありません。宇宙は物理的な場所ですが、天は物理的な場所とは次元の異なる場所です。父なる神様が住んでおられる場所です。新約聖書のエフェソの信徒への手紙4章には、イエス様は「もろもろの天よりも更に高く昇られた」とあります。天の中でも最も高い天に昇られたのです。最も高い天におられるということは、イエス・キリストが神に等しい方、神御自身だということです。「王の王、主の主」だということです。

 10~11節「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人(天使)がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなた方から離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなた方が見たのと同じ有様で、またおいでになる。」イエス・キリストは必ずもう一度、この地上に来られます。これを「キリストの再臨」と呼びます。イエス様は再臨され、神の国を完成されます。それを聖書は「新しい天と新しい地」と呼んでいます。「新しい天と新しい地」が完成する時、神様が私たちの目の涙をことごとくぬぐい取って下さいます。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もないのが「新しい天と新しい地」です。それが完成される直前かと思うのですが、悪魔が滅ぼされます。そして全ての人間に「最後の審判」が行われます。その時、イエス様を救い主と信じ告白する人々は皆、無罪の宣告を受けることができます。新約聖書のテサロニケの信徒への手紙(二)2章には「不法の者」のことが書かれています。「不法の者」は、悪魔に操られている人間を指すようです。「その時が来ると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御自分の口から吐く息で殺し、来られるときの御姿の輝かしい光で滅ぼしてしまわれます。」これは再臨のイエス様が、悪魔を滅ぼされることと、ほぼ同じことを語っていると思います。

 こうして、復活されたイエス様は天に昇られました。このイエス・キリストの昇天によって、私たちは3つの恵みを与えられました。毎年確認している通りです。1つめの恵みは、私たちが天とつながったことです。イエス様は「教会の頭(かしら)」であり、教会は「イエス・キリストの体」です。教会は、イエス様の手や足、お腹、背中等と言えます。イエス・キリストの体が教会です。この教会の頭(あたま、かしら)であるイエス様は、今は天におられます。もろもろの天よりも更に高い天におられます。頭と体はもちろんつながっています。ですから「イエス様の体」である教会、その教会の頭(かしら)であるイエス様は、今既に天におられます。私たち一人一人は、キリストの体の中で、手だったり、足だったり、お腹だったりするのですが、頭であるイエス様は既に天におられますから、体の一部である私たち一人一人も明確に天とつながっています。そして地上の人生を終えると天に入れていただくことがはっきりしている。これが第一の恵みです。

 イエス様の昇天の第二の恵みは、イエス様が天で私たちのために父なる神様に執り成しをして下さる恵みです。もちろん最大の執り成しは、イエス様の十字架の死によってなされました。イエス様は、私たち一人一人の罪をことごとく、私たちの身代わりに十字架で背負って下さって死なれ、三日目に復活されました。これが最大の執り成しであることはもちろんです。これに加えて念を押すように、新約聖書のローマの信徒への手紙8章がこう語ります。「だれが私たちを罪に定めることができましょう(だれにもできない)。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのためにとりなして下さるのです。」だからイエス様を信じた私たちは、安心できるのです。さらにヘブライ人への手紙7章25節にこうあります。「この方(イエス様)は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」これはすばらしい御言葉です。「完全に救うことがおできになる。」完全に救って下さるのです。「イエス様は常に生きていて、天で人々のために父なる神様に執り成して下さっているので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになる。」救われるとは、天国に入ることです。

 もちろんイエス様の十字架の死が、既に私たちの罪の責任をことごとく背負った身代わりの死です。私たちがクリスチャンになる前に犯した罪、クリスチャンになった後に心ならずも犯してしまう罪、私たちが生涯で犯す全部の罪の責任を、イエス様は十字架で背負いきって下さいました。それで十分なのですが、不安を覚える私たちのために、念を押すように書いてあるのです。「イエス様は今も天で、私たちが心ならずも犯してしまう罪の執り成しを行っていて下さるよ」と。そして「私たちの救いを日々より確かなものにして下さっているよ」と。「イエス様は常に生きていて、天で人々のために父なる神様に執り成して下さっているので、御自身を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」これがイエス様の昇天の第二の恵み。
 
 第三の恵みは、天から私たちに聖霊を注いで下さる恵みです。これはイエス様の昇天の10日後に実現しました。使徒言行録2章(来週の箇所)にあるように、イエス様は聖霊を、父なる神様から受けて地上の使徒たちに力強く激しく注いで下さいました。聖霊は、クリスチャン一人一人の中に生きて住んでおられます。私たちが心を静めて、心を神様に向けて祈っているとき、私たちは聖霊のささやき、聖霊の促しを聴くと思うのです。それは小さなささやきのことが多いので、私たちが心を静かに敏感にしていないと、聴き逃してしまいます。聖霊が、聖書の言葉によってささやきかけて下さることも多いと思います。聖霊のささやきと促しを敏感に聞き取ることができるように、意識して心構えすることが必要です。こうして聖書の言葉と、聖霊のささやき・促しに従って行く時、私たちはイエス様に従い、父なる神様の御心に適う生き方を行うことができます。そのように自分を訓練する必要があります。そして生きた聖霊に励まされて、イエス・キリストを宣べ伝えます。

 次の小見出しは「マティアの選出」です。12節以下「使徒たちは、『オリーブ畑』と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイアの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」教会は祈る共同体です。「家の上の部屋」は旧約聖書以来、祈りの場所です。天に近いという意味があるでしょう。120名ほどの人々が一つになって祈っていました。何を祈っていたのでしょうか。ある牧師は「悔い改めの祈りをしていたのだろう」と言われました。イエス様が十字架に架かられたとき、ヨハネとマリアと3人の女性だけは十字架の足元にいましたが、ペトロはじめ他の使徒たちは皆、逃げてしまった罪を悔い改める祈りをしていたのだろうというご意見です。その可能性もあります。私はイエス様が約束された聖霊が、早く与えられるように祈っていたのではないかな、と想像致します。そして裏切ったユダに代わる使徒を、神様が選んで与えて下さるようにに、祈っていたと思います。

 ユダに代わる使徒の補充が重要な課題でした。ペトロが立って述べます。「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。」そしてイエス様を裏切ったユダの、悲惨な結果が述べられています。ペトロが言う「この聖書の言葉」は詩編です。20節「詩編にはこう書いてあります。『その住まいは荒れ果てよ。そこに住む者はいなくなれ。』」これは本日の旧約聖書である詩編69編26節です。そこには「彼らの宿営は荒れ果て/天幕には住む者もなくなりますように」という厳しい言葉が記されています。これがユダのことだと言うのです。

 そして使徒の補充です。21節から「そこで、主イエスが私たちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、私たちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中から誰か一人が、私たちに加わって、主(イエス様)の復活の証人になるべきです。」使徒になる人の条件、それはイエス様の地上の伝道生活の約3年間の日々を共に過ごした人でないといけない、とペトロは言っています。この条件を満たす二人が最終候補に残ります。この二人から選んで下さいと、心を一つにして神様に祈ります。私たちが役員を選んだり、牧師を招聘する時は、よくよく祈らなければなりませんね。23節以下「そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストとも言うヨセフと、マティアの二人を立てて、次のように祈った。「全ての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示し下さい。ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」

 彼らはよくよく祈って、くじで決める方法をとっています。「二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。」補充がなされ、伝道体制ができ、後はよく祈って約束の聖霊が降るのを待つばかりとなりました。旧約聖書でも、神様の意志を伺うために、くじが用いられます。おみくじとは違うので、真の神様に(神社の神ではなく、真の神様に)よく祈ってからくじを引くのだと思います。イスラエルの最初の王サウルが選び出された時も、くじが用いられました。サムエル記上10章20節以下です。「サムエルはイスラエルの全部族を呼び寄せた。ベニヤミン族がくじで選び出された。そこでベニヤミン族を氏族ことに呼び寄せた。マトリの氏族がくじで選び出され、次にキシュの息子サウルがくじで選び出された。」こうして神様のご意志が示されました。使徒言行録の場合も同じで、マティアが使徒として神様に選び出されました。そしたやはり教会はいつも祈っていないと、伝道の責任を果たすことができません。

 さて、イエス様は必ず再臨され、「新しい天と新しい地」を実現して下さいます。その時、イエス様によって最後の審判が行われ、イエス様を救い主と信じ告白して、自分の罪を悔い改めた人々には、無罪の宣告が与えられ、救いが確定します。その時、歴史の中で起こったすべての悪が裁かれ、白黒がつけられ、決着をみます。ヨハネの黙示録6章を見ると、イエス様を救い主と信じたために殉教の死を遂げた人々の魂が、こう訴えています。「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」イエス様、悪を正しく裁いて下さいと訴えているのです。するとその一人一人に、白い衣が与えられ、また自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つようにと告げられました。

 先週は、クリスチャン作家の三浦綾子さん原作の映画を見た話をしましたが、数年前に同じ三浦綾子原作の『母』という映画が、この東久留米市の成美会館でも上映され、東久留米教会の皆さんも何名か見に行かれ、私も見ました。主人公は、小林多喜二という共産主義者のお母さんでセキさんという女性です。教育はあまり受けていない方です。三浦さんがなぜクリスチャンでない小林多喜二に関心を持ち、その母を描いた『母』という小説を書いたかと言うと、夫の三浦光世さんの強い依頼があったからだそうです。小林多喜二は、貧しい人々の暮らしがよくなることを願って共産主義的な小説を書いたために、警察につかまり、築地警察署で拷問を受けて死に至りました。貧しい人々の味方をしただけなのに、警察に殺された。完全に不当に殺されました。小林多喜二の姉はクリスチャンだったようで、母親のセキさんも晩年は教会に通ったようです。三浦さんの小説の中でセキさんはこう語ります。「イエス様が『この人たちをおゆるし下さい。この人たちは何をしてるか、わからんのですから』って、十字架の上で言われた言葉が腹にこたえた。わだしだって、多喜二だって、『どうかこの人たちをおゆるし下さい』なんて、とっても言えん。『神さま。白黒つけてくれ』ってばかり思ってた。近藤先生(牧師)は、『神さまは、正しい方だから、この世の最後の審判の時には、白黒つけて下さる。お母さん、安心していいんですよ』って、わだしの手を取ってくれた。そん時わだしは、なんかわからんが、神さまって方が分かったような気がしたの。」

 イエス様は復活して天に昇られ、今も天で生きておられますが、世の終わりにこの地上にもう一度来られて、最後の審判を行われます。悪は悪として裁かれ、罪を悔い改めてイエス様を信じた人たちに、永遠の命、復活の体が与えられます。先ほど私たちが告白した使徒信条で、イエス様が「三日目に死人のうちより甦り、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」と告白した通りです。正しく生きたのに、不当な悪によって殺された人たちも、その時には報われます。この神様を畏れ敬い、イエス様と共に歩む平安な人生へ、ご一緒に進んで参りたいのです。アーメン(真実に)。

(祈り)御名賛美。私たちの教会において、家族伝道が進みますように。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。ウクライナに平和を。フィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマーに愛を。アーメン。


2022-05-21 22:57:41(土)
説教「独り子キリストを与える神の愛」 2022年5月22日(日)「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝(第50回)
礼拝順序:招詞 使徒言行録4:29、頌栄24、「主の祈り」,使徒信条、讃美歌21・16、聖書 ヨハネ福音書3:1~21(新約167ページ)、祈祷、説教、讃美歌21・303、献金、頌栄27、祝祷。 

(ヨハネ福音書3:1~21) さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」

 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

(説教) 本日は復活節第6主日礼拝、そして「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝(第50回)です。説教題は、「独り子キリストを与える神の愛」です。

 今日のヨハネ福音書3章は、教会では有名な箇所です。3章16節が、非常に有名な御言葉です(教会では、聖書の言葉を御言葉と言います。神様の言葉、とても大切な言葉だからです)。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ある人はこれを「福音の中の福音」と呼びます。福音とは「よい知らせ」「グッドニュース」です。神様からのプレゼントとしてのよい知らせが福音です。3章16節は「福音の中の福音」と呼ばれます。「神は、その独り子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」独り子とは一人息子と言えます。父なる神様が最も愛してやまない方、それが独り子イエス・キリストです。人間的なたとえを用いれば、「目の中に入れても痛くないかわいい息子」、それが独り子です。「神は、その独り子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。」「世」とは、私たちが住むこの世界であり、この世界に住む人間たちです。「世」は、神様に従順に従う「世」ではないのです。逆に、宇宙全体と自分たちの命を造って下さった神様を無視し、神様に背き、神様に逆らう「世」なのです。神様に敵対する「世」を、神様が愛し、「世」の罪への神様の正しい裁きをことごとく身代わりに背負わせるために、神様は最も愛する独り子イエス・キリストを、「世」に送って下さったのです。神様は、神様に背いて敵対していた私たちを愛して、そうして下さったのです。私たちが神様に敵対していたとは言い過ぎに聞こえるかもしれませんが、神様を無視し、神様に従っていなかったのであれば、敵対していたと言われても仕方ないのではないでしょうか。

 1節から見ます。「さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。『ラビ(先生)、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです。』」議員ですから、社会的地位のある男性です。社会的に成功した人生を歩んだとも言えます。多分50才台くらいでしょう。人生50~60年の時代です。この人が立派なのは、人生がまだ分かったと思えない自分をごまかさない点ではないかと思います。自分より20年かそれ以上若いイエス様に教えを乞いに来たのです。夜来たということは、人目を避けて来たことと受けとめられています。議員という立派な地位をもつ男性が、青年とも言えるイエス様に教えを乞いに行くことは、恥ずかしいことだったでしょう。夜という言葉はまた、ニコデモが、神様が与えて下さる永遠の命という最も大切な光について、全く分かっていなかった無知の暗闇を暗示するとも言えます。ニコデモはイエス様のことを「神のもとから来られた教師」と言いました。これは不十分な認識です。イエス様は神の子、父なる神様の独り子でいらっしゃいます。そして同時に人間でもあります。さらには父・子・聖霊なる三位一体の神様、その中の「子なる神様」でいらっしゃいます。

 ニコデモがイエス様に何を教えてほしいと願って来たか。それは、どうすれば神の国に入ることができるか、どうすれば天国に入ることができるか、どうすれば永遠の命を受けることができるかでしょう。50年以上生きて来て、人生経験、社会経験はそれなりに増え、ユダヤ教という宗教をもよく学んで来たが、正直に言ってこの問いへの納得できる答えがまだ分からない。この最も重要な問いへの答えを、このイエスという青年がよく分かっているように見える。それで真に謙遜にもイエス様に教えを乞いに来たのです。

 イエス様は、ずばり答えて下さいます。3節「はっきり言っておく(直訳では、『アーメン、アーメン(真に、真に)、私はあなたに言う』)。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモはこれを、文字通りに受け取って言います。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」もちろん誰にもそんなことはできません。イエス様がおっしゃったのは、そのような意味ではないのです。5節「イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。誰でも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。』」霊とは聖霊です。神様の清き霊が聖霊です。誰でも聖霊によって新しく生まれなければ、神の国に入ることができない、永遠の命を受けることができないと言われたのです。神の清き霊である聖霊は、目に見えませんが確かに存在しています。「誰でも水と霊によって新しく生まれなければ、神の国に入ることはできない。」ここでの水は聖霊のシンボルと思います。「水と霊によって新しく生まれる。」はっきり言えば、それは洗礼を指すと言えます。洗礼式においては、受ける方の頭に少量の水をかけます。その水は聖霊のシンボルです。イエス・キリストを自分の救い主と信じ、自分の罪を悔い改めて(神様に謝って)洗礼を受ける時、人は神様の前に新しく生まれ、神の国に入ることが可能になる、永遠の命を受けるのです。これは人間の力ではできません。神様の清き霊である聖霊がその人を新しく造り替え、神の国と永遠の命をプレゼントして下さいます。

 6節もイエス様の言葉です。「肉から生まれた者は肉である。霊から生まれた者は霊である。」聖書によれば、神様は人間を神様に似た者、よき者にお造りになりました。そのよき人間がしかし、悪魔の誘惑に負けて神様の言いつけに背き、罪に転落したのです。神に背いたアダムとエバを、神様は楽園(エデンの園)から追放されました。このように人間は神様に罪を犯し、神様から離れ、その結果死ぬ者となったというのが聖書の教える真実です。人間は造り主である神様から離れ、失われた者となっています。この状態を「肉」と呼びます。肉=罪とも言えます。「肉から生まれた者は肉である。」それは「神から離れた者は、神から離れた者である」ということです。「神から離れてしまった罪」をキリスト教の用語で「原罪」と呼びます。私たちは残念ながら、生まれた時から罪の中にいるのです。生まれた時から現在の中にいるのです。そこから自分の努力で抜け出すことができません。「肉から生まれた者は肉である」とは、そういうことです。「罪の中に生まれた者は、あくまでも罪の中に生まれた者です」ということです。辛いことですね。

 それに対して「霊から生まれた者は霊である。」この霊は、何か気持ち悪い霊ではなく、清らかな聖霊です。「聖霊から生まれたものは聖霊に属する(神様に、イエス・キリストに属する)」ということです。聖霊から生まれた者には罪が全くないのです。」肉は罪に満ちており、霊(聖霊)にはその反対に罪が全くないのです。肉(罪)の中にある私たちが霊(聖霊)に属する者になるためには、自力では無理で、全く新しく生まれる必要があります。神様がそれを可能にして下さったのです。私たちが新しく生まれることができるために、救い主イエス・キリストを私たちの住む世界に送って下さったのです。イエス様こそ、霊から生まれた方、聖霊に満たされた100%清い神の子でいらっしゃいます。イエス様は、父なる神様をひたすら愛し、隣人を(敵さえも)ひたすら愛する、完璧な愛の方です。人が新しくなるとは、それまでの自己中心の罪の生き方から聖霊によって変えられて、少しずつでも神様と隣人を愛する生き方に転換してゆくことです。

 7~8節「『あなた方は新たに生まれなければならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
風と霊は、実はもとの言葉のギリシア語では、同じ言葉、プニュウマという言葉です。ですから「霊は思いのままに吹く」と訳すこともできます。「聖霊は思いのままに吹く。」聖霊が気まぐれだということではなく、人間が聖霊をコントロールすることはできないということと思います。聖霊は自由に吹いて、伝道を始めとする神様の業を進めて行かれます。その聖霊の自由な働きを、誰も妨げることはできないということと思います。

 9節「するとニコデモは、『どうして、そんなことがあり得ましょうか』と言った。」
イエス様が話される真理の御言葉が、ニコデモには理解できませんでした。」するとイエス様が少しニコデモを、たしなめ、お叱りになります。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。」少し先に進んで14~15節「そそして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子(イエス様ご自身)も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子(イエス様)によって永遠の命を得るためである。」ここに旧約聖書の出来事が書いてあります。神様の恵みによってエジプトでの奴隷生活から脱出したイスラエルの民は、荒れ野で不満を述べました。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」すると神様が聖なる怒りを発揮され、神様が炎の蛇を送られ、蛇がイスラエルの民をかみ、多くの死者が出ました。指導者モーセが民のために祈ると、神様がモーセに言われました。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」モーセが青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げました。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得たのです。それと同じように、私ども罪人(つみびと)が、十字架に上げられたイエス様を仰ぐならば、私たちが永遠の命を受けると、イエス様は言われるのです。

 イエス様は「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」と言われます。「ねばならない」は新約聖書の原語のギリシア語で「デイ」という小さな言葉です。何回か申しました通り、「デイ」は「かならずこうなる」「必然」を意味します。神様の必然を意味します。イエス様が十字架に架けられることは、神様の必然です。父なる神様の明確なご意志です。イエス様は、十字架に架かるために誕生されました。私たち罪人(つみびと)の、全部の罪の責任を身代わりに背負って十字架にかかる目的で、イエス様は地上に誕生されたのです。イエス様は十字架の死の三日目に、死から復活され(肉体をもって復活され)、その四十日目に天に上げられ、今もそこで生きておられます。この十字架に上げられたイエス様を見あげて、自分の罪を悔い改めてイエス様を救い主と信じる人は、皆永遠の命を受けるのです。イエス様は「誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われましたから、イエス様を信じた人が洗礼を受けることが大切になります。私は1988年10月23日(日)に、当時通っていた茨城県の教会で洗礼を受けました。22才でしたが、早いものでそれから33年以上がたちました。もちろんもっと長い信仰の先輩の方々が本日の礼拝の中に何人もおられます。

 私は数か月前に、「我弱ければ 矢嶋楫子伝』という映画を見ました。山田火砂子監督という90才の映画監督(日本の女性監督の最高齢)の作品です。クリスチャン作家・三浦綾子さんが書かれた伝記小説が原作です。矢嶋楫子さんという方は、東京にあるキリスト教主義学校である女子学院の初代院長とのことで、婦人矯風会という婦人のキリスト教団体を設立された方だそうです。波乱に満ちた人生です。生まれはまだ江戸時代の1833年、熊本です。男尊女卑の強い土地でした。女性と男性の洗濯物は別々に干すというのは、有名な話です。最初に結婚した男性との間に三人の子を産みますが、夫は酒乱で、10年間忍耐した末に夫の刀で怪我をさせられ、遂に家を出て、夫に離縁状を渡しました。女性から三下り半を突き付けるのは初めてだったと言われます。お兄さんが東京に行き、そこで病気になったので、その看病のために楫子さんも東京に出ます。 小学校の先生になる勉強をして、その資格を取り、先生になります。まだクリスチャンでなかったためもあり、罪を犯してしまいます。兄の書生の妻子ある男性と深い中になり、女の子を産みます。このように問題もある人だったのですが、ミセス・ツルーという女性宣教師が、女子学院の前身の新栄女学校の校長にクリスチャンでない楫子さん招くのです。楫子さんによい資質があると見抜いたのです。

 クリスチャンスクールの校長となった楫子さんですが、校長室でタバコを吸い、人に注意されてもやめません。ところが彼女のタバコが原因で学校にボヤが起こります。そこで初めて彼女は悔い改めをしたようです。ボヤで済んだけれども、一つ間違えば自分のタバコで火事になり生徒が死んだかもしれないと悟ったのです。映画に出て来ないのですが、三浦綾子さんの原作では楫子さんが教会の礼拝に行って、牧師の説教を聴く場面があります。聖書はヨハネ福音書8章の「姦通の女」の場面です。姦通(妻のいる男性と性関係を結ぶ)の罪を犯した女性が石打ちの死刑になりそうな場面で、イエス・キリストが彼女を告発する人々に「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」とおっしゃる場面です。誰も彼女に石を投げることができなくなり、人々が立ち去った後にイエス様は、「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」とおっしゃる場面です。楫子さんはこれを、神様から自分へのメッセージと受け止め、罪を悔い改めて洗礼を受けるのです。

 楫子さんに洗礼を授けたタムソン宣教師がこう述べたと、三浦綾子さんの原作に書かれています。すばらしい言葉です。「キリストは、あなたの罪をことごとくその背に負って十字架につかれたのです。よろしいですか、あなたの罪をことごとくです。今までの罪は、針でついたほども、あなたにはなくなったのです。あなたはただそのことを心から感謝し、己が救い主はイエスであると心から信ずれば救われるのです。救われるためには、いささかの行為(よい行い)も必要としません。あなたは救い主がどなたであるかを(イエス様である)告白するだけでよいのです。決して人間は、自分自身の行為によって嘉みせられた信徒となるのではありません。むろん信じた者が、救われた喜びのゆえに、病める人を見舞ったりすることは自由ですが。」「これが福音だ」とタムソン宣教師が述べています。その通りです。この後、矢嶋楫子さんは感謝して、イエス様に一途に従う人生へ進んで行かれます。当時の日本の大きな悪は、遊郭(公娼制度)の存在です。楫子さんが設立したキリスト教婦人矯風会は、遊郭を無くすためにも戦い、やくざに脅されても戦いました。見上げたものだと思います。

 今日のヨハネ福音書に出て来る「永遠の命」とは何でしょうか。「永遠の命」は何億年もこの地上で生きる命ではなく、私たちの罪ある命と質の異なる命、罪が全くない愛そのものの命です。「永遠の命」は神様を愛し、神様に造られた自分を正しく愛し(決してエゴイズムでなく)、隣人を(敵をさえ)愛する命です。神様に造られた本来の命です。確かに時間を超越した命です。イエス様と同じ愛の命です。

 ヨハネの手紙(一)4章9節以下にこうあります。「神は、独り子(イエス様)を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に示されました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです。」父なる神様は、最も愛する独り子イエス様をこの世に送って十字架につけ、私たちの全部の罪を背負わせなさいました。この愛に応えるには、イエス様を自分の救い主と心で信じ、口で告白することです。できるだけ洗礼を受けることがよいです。「イエス・キリストを救い主と信じ告白して、永遠の命を受けなさい」と招いて下さる神の招きに応答して、私たちは全力でイエス様を愛して参りましょう。アーメン。

(祈り)御名賛美。私たちの教会において、家族伝道が進みますように。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。ウクライナに平和を。フィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマーに愛を。アーメン。

2022-05-18 18:39:10(水)
5月の伝道メッセージ  石田真一郎(市内の下里しおん保育園の「おたより」に掲載) 
「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは、神の子と呼ばれる」(イエス・キリスト。新約聖書・マタイによる福音書5章9節)。

 2月24日にロシア軍がウクライナに侵攻して以来、私たちはこの出来事を深く悲しんでいます。すぐにロシア軍が全面撤退するように切に祈ります。これはロシアの指導者の罪であり、ロシア国民の罪ではないので、日本に住むロシア人が嫌がらせを受けることが決してあってはなりません。イエス様は、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言われました(マタイ福音書26章52節)ので、プーチン政権は滅びると思います。ロシアの国営放送の放映中に「戦争反対」のプラカードを掲げた女性は立派です。「ペンは剣よりも強し」です。あの女性が迫害を受けないように、心より祈ります。

 プーチン大統領が行っていることを見ると、かつて日本軍が行ったこととそっくりで赤面します。プーチン氏はウクライナに自分の思い通りの政権を建てたいのでしょうが、日本軍もかつて中国に侵攻し、満州国という傀儡(あやつり人形)国家を建てました。しかし国際連盟が承認しなかったので、国際連盟から脱退して孤立の道を歩み、世界を相手に戦争し敗れました。そして軍国主義を深く反省して、平和国家に立ち直ったのです。

 私は妻と1997年夏に数日間シンガポールに行きました。博物館で、太平洋戦争の初期に、日本軍が、当時シンガポールを植民地にしていたイギリス軍を降伏させた場面が、ろう人形で再現されていました。その3年半後、逆に日本軍が降伏した場面もありました。現地の友人に「あなたたち日本人には言いにくいけれど、これが本当にあったことです」と言われました。私は日本軍がシンガポールに犯した罪を謝りました。アジアの国々に行くと、日本軍の加害の事実に直面します。日本人として平和憲法を守り、平和国家として歩む決意を新たにさせられます。東條英機元首相ら日本のかつてのA級戦犯を収容したスガモプリズンの跡地に、池袋のサンシャインビルが建っています。隣りに池袋中央公園があり、「永久平和を願って」と刻まれた石碑があります。私も以前、そこに立って世界平和を祈りました。

 イエス様は「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは、神の子と呼ばれる」と言われます。私は、しおんの子どもたちに、どの国の人とも仲良くし、平和を実現する人になってほしいと願って、礼拝のお話をしています。アーメン(真実に)。

2022-05-15 0:07:14()
説教「思い切って大胆に神の言葉を語る」2022年5月15日(日)復活節第5主日礼拝
礼拝順序:招詞 使徒言行録4:29、頌栄85(2回)、「主の祈り」,使徒信条、讃美歌21・17、聖書 詩編2:1~9(旧約835ページ)、使徒言行録4:23~37(新約220ページ)、祈祷、説教、讃美歌21・401、献金、頌栄92、祝祷。 

(詩編2:1~9) なにゆえ、国々は騒ぎ立ち/人々はむなしく声をあげるのか。なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して/主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか。「我らは、枷をはずし/縄を切って投げ捨てよう」と。天を王座とする方は笑い/主は彼らを嘲り憤って、恐怖に落とし/怒って、彼らに宣言される。「聖なる山シオンで/わたしは自ら、王を即位させた。」主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし/地の果てまで、お前の領土とする。お前は鉄の杖で彼らを打ち/陶工が器を砕くように砕く。」

(使徒言行録4:23~37) さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、/諸国の民はむなしいことを企てるのか。地上の王たちはこぞって立ち上がり、/指導者たちは団結して、/主とそのメシアに逆らう。』事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。 そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。   信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。
(説教) 本日は復活節第4主日の礼拝です。説教題は、「思い切って大胆に神の言葉を語る」です。4月24日(日)に行われた教会総会で選ばれた今年度の東久留米教会の標語聖句、使徒言行録4章29節から取っています。先ほど朗読していただいた本日の新約聖書の箇所に含まれています。

 4章の最初から読んでみると、イエス・キリストの弟子ペトロとヨハネが、イエス様に起こった死者の中からの復活をエルサレムで宣べ伝えていたので、エルサレムの祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々(ユダヤ教のサドカイ派で、復活があることを否定する人々)がいら立ち、ペトロとヨハネを捕らえて翌日まで牢に入れたと、書かれています。にもかかわらずペトロとヨハネは次の日、議員、長老、律法学者たち、大祭司一族といういわゆる偉い人たちの前で、大胆に勇敢に語りました。「ほかの誰によっても、救いは得られません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名(イエス・キリスト)のほか、人間には与えられていないのです。」偉い人たちは、「このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によって誰にも話すなと脅しておこう」と言い、決してイエスの名によって話したり、脅したりしないようにと命令し、さらに脅してから二人を釈放しました。しかし
ペトロとヨハネはその後も伝道をやめず、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と勇敢に語っています。

 そして本日の最初の23節から見ます。小見出しは「信者たちの祈り」です。「さて、二人は釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った(声を上げて祈りました)。『主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。』」全くその通りです。旧約聖書の創世記1章にあるように、神様が「光あれ」と力強く語られ、すると光ができました。その後も神様は語り続けられました。「水の中に大空あれ。水と水と分けよ。」さらに「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生させよ。」神様が命じられるその通りのことが実現し、こうして神様が天地万物(宇宙のすべてのもの)をお造りになりました。

 クリスチャンになったばかりの人々は、さらに詩編2編(本日の旧約聖書)を引用して、祈りの声を上げます。「あなたの僕であり、また、私たちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。」詩編2編の冒頭には「ダビデの作」とは書いてありませんが、イスラエル人にとってこれがダビデの作品であることは常識だったでしょう。「なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、異国の民はむなしいことを企てるのか。地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシアに逆らう。」「主とそのメシアに逆らう」は、イスラエルの指導者たちが父なる神様に逆らって、メシア(救い主)イエス様を十字架に架けたことを語っています。つまり詩編2編も、イエス様の時代のずっと前に、イエス様の十字架の死を預言していたことが分かります。聖書の預言は、「言葉を預かる」と書きます。将来のことを勝手に述べるのではなく、本当の神様の100%信頼できる言葉を、神様から預かって忠実に語ること、それが聖書での預言です。詩編2編は、まさに神様の言葉を忠実に預かって、信仰深い人が(おそらくダビデが)語った預言で、イエス様の十字架の死を預言しています。

 ここで旧約聖書の詩編2編を改めて見ましょう。「なにゆえ、国々(真の神を知らぬ国々)は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるのか。なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して主に逆らい、主の油注がれた方(原語のヘブライ語でメシア)に逆らうのか。『我らは、枷をはずし、縄を切って投げ捨てよう』と。」「油を注がれた方」の油は聖霊と言えます。聖霊は、神様の清らかな霊です。「油を注がれた方」はヘブライ語(旧約聖書のほとんどがヘブライ語)でメシア、新約聖書で用いられているギリシア語でクリストスです。クリストスが日本語でキリストになりました。キリストとは「油を注がれた方」、つまり聖霊を注がれた方であり、救い主を意味するようになりました。

 しかし、神様に逆らって勝てるはずがありません。神様に逆らうことはむなしいことです。4節以下に、こうあります。「天を王座とする方(神様)は笑い、主は彼らを嘲り、憤って、恐怖に落とし、怒って彼らに宣言される。『聖なる山シオン(エルサレム)で、私は自ら、王を即位させた。』」この王は、イエス・キリストのことではないかと思います。イエス様はイスラエル人の真の王、日本人の真の王、世界の全ての人の真の王です。7節「主の定められたところに従って私は述べよう。主は私に告げられた。『お前は私の子、今日、私はお前を産んだ。』」「お前は私の子」は、イエス様が神の子だという宣言です。イエス様の洗礼の場面で引用されています。イエス様の洗礼の場面で、父なる神様が「これは私の愛する子」とおっしゃっっている御言葉がそれに当たります。そこでは「愛する子」になっていますが、それでもやはり詩編2編7節前半の引用と受け止められています。8節「求めよ。私は国々をお前の嗣業(相続地)とし、地の果てまで、お前の領土とする。」これもイエス様が、全世界の真の王であることを述べています。但しイエス様は、政治的な王、軍事的な支配者でなく、愛と正義と平和で治める王でいらっしゃいます。

 使徒言行録に戻り、27節「事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人(イスラエル人以外の人)やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。」ヘロデやピラトは、神様が送られたメシア(救い主)イエス様に逆らい、イエス様を十字架につけて殺したのですが、それは驚くべきことに、父なる神様があらかじめ決めておかれたことだったと言っています。だからと言って悪魔に従った彼らの罪が罪でなくなるわけではありません。そうではなくて、父なる神様の方が悪魔よりも上手だということです。悪魔は全力で働いて、ヘロデやピラトを従わせて神の子イエス様を十字架の死に追いやり、一見悪魔が勝利したように見えました。ところが父なる神様は、イエス様の十字架の死を、私たち全ての人間の全ての罪を背負わせ、私たち罪人(つみびと)の罪を赦して救うために、イエス様の十字架の死をお用いになったのです。
悪魔の必死の悪の働きを、父なる神様はご自分が罪人(つみびと)たちを救うよきご計画のために逆にお用いになったのです。父なる神様は、悪魔よりはるかに上手の方なのです。初代のクリスチャンたちは、この父なる神様の偉大さをほめたたえていると感じます。

 そして標語聖句の29節「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにして下さい。」迫害や脅しに負けないで御言葉を、伝道できるようにして下さい」ということです。30~31節。「どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。」神様の愛力によって場所が揺れ動いた、少し地震が起こったと言えます。そして皆、神の清き霊である聖霊に満たされて、大胆に、勇敢に、神の言葉を語り出したのです。

 迫害に負けずに、勇敢に大胆に神様の御言葉を語る。イエス様も弟子たちに、迫害の中でも勇敢に神様に従うように勧めておられますね。マタイ福音書10章でこう語られます。「あなた方は、地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、私のために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなた方ではなく、あなた方の中で語って下さる、父の霊である。~最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」「人々を恐れてはならない。~体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方(神様)を恐れなさい。」

 殉教する人は、神様の特別の恵みを受けているのかもしれません。迫害に負けずに勇敢に信仰を守った人々は各時代の各国におられると思いますが、私は豊臣秀吉の迫害で殉教した長崎のいわゆる26聖人を連想します。当時の日本のクリスチャンは皆、カトリックですね。西坂の丘という殉教の丘に高校の修学旅行で行き、3年ほど前にもう一度行きました。1596年の暮れに、京都や大阪でクリスチャン24名が捕らえられ、長崎まで歩かされました。12才から70才近い人まで、日本人、スペイン人、ポルトガル人、メキシコ人、中国人が入っていました。その後、旅の終わりの方で2名加わりました。殉教は2月5日ですから、非常に寒かったと思います。パウロ三木という33歳の日本人修道士は、十字架の上から人々に説教しました。「人間の救いのために、キリシタンの道以外に他はないと断言する。キリシタンの教えが敵及び自分に害を加えた人々をゆるすように教えているので、私は国王(秀吉)と私の死刑にかかわったすべての人々をゆるす。王に対して憎しみはなく、むしろ彼とすべての日本人がキリスト信者になることを切望します。」トマス小崎という16才の少年は、伊勢にいた母親に、信仰を励ます手紙を書きました。母親は既にクリスチャンだったようですから家族伝道(東久留米教会の今年度の目標は家族伝道)とは言えないかもしれませんが、困難な中にあって母親の信仰を励ます手紙を書きました。残念ながら母親の元に届かなかったのですが、母親の信仰を励ます少年の深い信仰を感じることができます。

 「神様のお助けによってこの手紙を書きます。神父様と私たち24人は、長崎で処刑されるということです。私と父上(24人の中にいる)のことはご安心下さい。天国で近いうちにお会いできると思います。神父様方がいなくても、死ぬ前におかした罪を心から詫びればゆるされます。主イエス・キリスト様からいただいた恵みに感謝すれば、救われます。この世ははかないものです。パライソ(天国)の永遠の幸せを失わないように、お励み下さい。人々からどんなことを言われても忍耐し、大きな愛をもつようにして下さい。弟たちマンショとフェリペ(共に洗礼名)を信仰をもたない人の手に渡さないようにして下さい。私は主に、母上たちのことを祈っています。罪を犯したら、深い悔い改めを持つようにして下さい。これだけが大切なことです。」

 母親への深い配慮を感じさせるよき手紙です。プロテスタントの言葉を使えば、とても牧会的な手紙です(信仰の羊飼いとして、羊の心に深く配慮した手紙)。東久留米教会の今年度の目標は「家族伝道」ですが、家族が信仰に入るように祈り励まし、時に悔い改めを求める等、信仰上の配慮をすることが大切と思わされます。

 さて、使徒言行録に戻ります。今日の箇所は、一番最初の教会の姿を描きます。クリスチャンになったばかりの人々は、聖霊に満たされていました。聖霊は、イエス様の愛の霊でもありますから、人々はイエス様の愛に満たされてもいました。自己中心の罪を乗り越え、神様への愛と隣人への愛で満たされていました。そこで真に麗しいことが行われていました。二つ目の小見出しにあるように「持ち物を共有する」ことが実行されたのです。32節以下「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。」私たちもなかなかここまではできないと感じます。「土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足元に置いた。」使徒たちを深く信頼し、使徒たちに預けて、「皆のために使って下さい」と言ったのですね。「その金は必要に応じて、おのおのに分配された」のです「人々は心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。」これを原始共産制と呼ぶこともあります。しかしルールや法律や制度でこうなったのではなく、一人一人が聖霊に満たされて、お互いへの愛に満ちあふれた結果、これが自発的に行われたことがすばらしいですね。

 イエス様はマタイ福音書7章で、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい」という有名な言葉を語られました。黄金律と呼ばれますね。黄金の律法、ゴールデン・ルール。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい。」改めて肝に銘ずべき御言葉ですね。イエス様はルカ福音書6章で、「あなた方は敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方(神様)の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい。」「与えなさい。そうすれば、あなた方にも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなた方は自分の量る秤で量り返されるからである。」使徒パウロは、コリントの信徒への手紙(二)9章で書いています。「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛して下さるからです。

 本日の33節には、「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた」とあります。使徒たちはイエス様の十字架はもちろんですが、十字架と共に復活を証しし、宣べ伝えていました。イエス・キリスト復活については、それが確かな事実であることがコリントの信徒への手紙(二)15章17節に、協調されています。「キリストが復活しなかったのなら、あなた方の信仰はむなしく、あなた方は今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた(亡くなった)人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、私たちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たち(亡くなった方々)の初穂(復活第一号)となられました。」

 「キリストが復活しなかったのなら、あなた方の信仰はむなしく、あなた方は今もなお罪の中にあることになります」とあります。しかしキリストが復活したのだから、イエス・キリストを信じるあなた方はもはや罪の中にはいない、ということです。厳密に言うと、イエス様を信じた今も私たちの中には罪があるのですが、イエス様が復活したために、私たちの罪はずべて完全に赦されて、私たちはもはや罪の支配下から脱出している、そして罪の結果である死の支配下からも脱出している。罪と死の支配から解放されて、神の子とされ、永遠の命・復活の命を保証されている、ということです。これは確かなこと。イエス様の十字架の死と復活が、間違いない事実だから、そう確信してよいのです。

 東久留米教会の今年度の目標は、家族伝道です。このために一番大切なことは、やはり祈りです。家族の一人一人のためによく祈って、一人一人がイエス・キリストを救い主と信じる信仰を受け入れることができますようにと、祈り続けるほかありません。イエス様を救い主と信じて、自分の罪を悔い改めれば、全ての罪の赦しと、人間の最大の悩みの種である死を乗り越える永遠の命・復活の命が確実に与えられることを分かってもらうことが必要です。そのために愛に裏打ちされた工夫は必要と思います。ただし、この方法を使えば必ずうまくいくというマニュアルはないと思います。愛とあきらめない祈りが一番大事と思います。今日から改めて、家族伝道のために祈り始めましょう。アーメン。

(祈り)御名賛美。私たちの教会において、家族伝道が進みますように。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。ウクライナに平和を。フィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマーに愛を。アーメン。

2022-05-07 23:30:54(土)
説教「『アッバ、父よ』と祈るイエス様の心」 2022年5月8日(日)復活節第4主日礼拝
礼拝順序:招詞 使徒言行録4:29、頌栄85(2回)、「主の祈り」,使徒信条、讃美歌21・514、聖書 レビ記16:11~16(旧約187ページ)、ガラテヤの信徒への手紙4:1~7(新約347ページ)、祈祷、説教、讃美歌21・321、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(レビ記16:11~16) アロンは自分の贖罪の献げ物のための雄牛を引いて来て、自分と一族のために贖いの儀式を行うため、自分の贖罪の献げ物の雄牛を屠る。次に、主の御前にある祭壇から炭火を取って香炉に満たし、細かい香草の香を両手にいっぱい携えて垂れ幕の奥に入り、主の御前で香を火にくべ、香の煙を雲のごとく漂わせ、掟の箱の上の贖いの座を覆わせる。死を招かぬためである。次いで、雄牛の血を取って、指で贖いの座の東の面に振りまき、更に血の一部を指で、贖いの座の前方に七度振りまく。次に、民の贖罪の献げ物のための雄山羊を屠り、その血を垂れ幕の奥に携え、さきの雄牛の血の場合と同じように、贖いの座の上と、前方に振りまく。こうして彼は、イスラエルの人々のすべての罪による汚れと背きのゆえに、至聖所のために贖いの儀式を行う。彼は、人々のただ中にとどまり、さまざまの汚れにさらされている臨在の幕屋のためにも同じようにする。

(ガラテヤの信徒への手紙4:1~7) つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。

(説教) 3週間前にイースター礼拝を礼拝を献げ、本日は復活節第4主日の礼拝です。できれば月に一回ほど、ガラテヤの信徒への手紙を読む礼拝を献げたいと思っていますが、今日は2月6日(日)以来約3ヶ月ぶりになります。この手紙を書いたのは、イエス・キリストの十字架の死と復活後に弟子(使徒)となったパウロです。少しおさらいしますと、パウロはすぐ前の3章26節で、こう書きます。「あなた方は皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなた方は皆、キリストを着ているからです。」イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることは、イエス・キリストを着ることだと教えられます。私どもの中身は、残念ながら依然として罪人(つみびと)であるけれども、イエス・キリストという衣を着るので、父なる神様の目には、私どもが全く罪なき神の子と映る。従って、最後の審判の時、私たちは必ず無罪を宣告されます。そしてそのような私たちが、今やイエス・キリストに属する者たちであり、信仰の父アブラハムの真の子孫であり、神様がアブラハムとその子孫に約束された祝福(天国という真の祝福)の相続人であると、私たちキリスト者に与えられた恵みを語ります。

 そして4章の1節。「つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕(しもべ、原語は奴隷の意味)と何ら変わることなく、父親が定めた期日までは後見人や管理人の管理人の監督の下にいます。」旧約聖書以来の神の民であるイスラエル人たち(パウロたちイスラエル人、ユダヤ人)も、旧約聖書の時代にまだいわば未成年の状態だった。2節「同様に私たちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。」しかもそれに気づいていませんでした。パウロについて言えば、パウロは律法主義者だったのです。自分の頑張りと努力でモーセの十戒を初めとする神様の律法を守り、自力で天国に入ることができる最高に立派な人間だと、自信満々でした。プライド、誇り、自負で心の中が満ちていました。プライド、誇り、自負には高慢という罪がこびりついています。パウロは高慢という罪に支配されていたのです。悪魔(悪霊)がパウロを、高慢の罪の虜にしていた、高慢の罪の奴隷にしていたのです。パウロはそれに気づいていませんでした。パウロはきっとイエス様を知って初めて、自分が高慢の罪の奴隷になっていた、悪魔(悪霊)の奴隷になっていたことに気づいたのだと思います。

 4~5節「しかし、時が満ちると、神は、その御子(イエス様)を女(マリアさん)から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、私たちを神の子となさるためでした。」これはクリスマスの出来事です。「時が満ちると、父なる神様はこうなさった」とあります。マルコ福音書1章15節を見ると、イエス様がガリラヤで次のように語って、福音伝道を開始されました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」その約30年前、やはり神の時が満ちて、父なる神様は、真の神の子イエス様を、この地上のイスラエルの国のベツレヘムに誕生させて下さいました。イエス様はマリアさんの息子ですから、神の子でありながら、私たちと同じ肉体を持つ人間でもあります。人間、それもイスラエル人としてお生まれになりました。イスラエル人として生まれたということは、モーセの十戒をはじめとする律法の支配下にある者としてお生まれになったということです。

 イエス様は、真の意味で律法を完璧に守って生きられました。律法をまとめると、父なる神様を愛し、隣人を自分のように愛する生き方をするということです。イエス様は100%そう生きられました。安息日には必ず父なる神様を礼拝し、病気の人々を癒して生きられました。イエス様の生き方のクライマックスは十字架です。私たち全ての人間の罪(モーセの十戒を、律法を完全に守ることができない罪)に対する父なる神様の正しい審判を、身代わりに全部引き受ける十字架の死が、イエス様の生き方のクライマックス、愛の生き方のクライマックスです。もちろん三日目の復活もクライマックスです。

 イエス様が私たち人間の罪を贖う(身代わりに背負う)ためには、イエス様は私たちと同じ人間でなければなりませんでした。イエス様が、律法の制約下にある人間として生まれて下さったことには、目的があり、「律法の支配下にある者(私たち)を贖い出して、私たちを神の子となさるためでした。」「贖い」は、聖書独特の言葉と言ってもよいと思います。新共同訳聖書の巻末の用語解説を見ると、「旧約聖書の中で神が特に『贖い主』(イザヤ書41:14)と呼ばれているのは、イスラエルの民を奴隷状態から解放する神の働きを述べたものである。新約では、キリストの死によって、人間の罪が赦され、神との正しい関係に入ることを指す」と書いてあります。「贖い」は罪の赦し、罪からの解放、救いですね。神との正しい関係に入ると聞くと難しく感じますが、今読んでいる5節にある通り、「神の子とされる」「神の子になる」ということです。

 生まれつきの私たちは原罪を持ち、神から離れており、神の子ではありませんでした。神様の正しい掟であるモーセの十戒や律法を、完璧に実行する力をもっていませんでした。モーセの十戒を実行することは大事ですが、私たちには罪があるので、モーセの十戒を純粋に完璧に行うことができません。十戒を行っているようでも、いつも私たちにエゴ、自己中心の罪がこびりついているので、完璧な実行ができないのです。十戒、律法は聖なるもの、よいものです。しかし私たち罪人(つみびと)に、それを実行する力がないために、私たちは十戒や律法を読むと、気分が重くなると思うのです。律法を実行できないので、神様に裁かれると感じるからです。これを「律法の呪い」と呼ぶことがもできます。しかしこのガラテヤの信徒への手紙の(少し前の)3章13節は、こう言います。「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出して下さいました。『木(十字架)にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。」

 この場合「呪い」とは神の正しい裁きです。本来、聖なる十戒・律法を守ることができない私たちが神の裁き・呪いを受けるのが当然です。ところがその裁きと呪いの全部を、イエス・キリストが十字架で引き受けて下さったのです。ここに聖なる交換(取り換え)が起こりました。驚くべき恵みの交換(取り換え)です。私たちが受けるべき呪いの全部をイエス様が代わりに引き受けて下さり、常に100%父なる神様に従って来られたイエス様が当然受けるべき祝福を、私たち罪人(つみびと)が代わりに全部いただくという交換です。全くあり得ないほどに大きな恵みです。イギリスの作家の作品でしたか、『王子と乞食』という物語があると思います。乞食は、今では差別言葉ですので、申し訳ございません。私はちゃんと読んでいないのですが、確か、「王子が乞食になり、乞食が王子になるという交換を行う」話だと思います。まさにそれと似たことが私たちの身に起こりました。イエス様が呪いの十字架にかかって、私たちが受けるはずの厳しい裁きと呪いの全部を引き受けて死なれ、私たち罪人(つみびと)がイエス様が受けるはずの100%の祝福を代わりにいただく。聖なる交換、驚くべき恵みの交換です。自分の罪を悔い改めて、イエス様を救い主と信じ告白する人は皆、この恵みの交換によって大きな祝福、永遠の命・復活の命という祝福を受けることができます。驚くべき恵みです。この恵みによって、私たち罪人(つみびと)が神の子とされたのです。

 6節「あなた方が子であることは、神が『アッバ、父よ』と叫ぶ御子(イエス・キリスト)の霊(聖霊)を、私たちの心に送って下さった事実から分かります。」イエス・キリストを救い主と信じ告白した人には、聖霊(生きておられる神様の清き霊、イエス様の霊)が住んでおられます。聖霊が私たちの内に住んでおられるなら、私たちは間違いなく神の子であり、神に属する者であり、天国に入ることを約束された者です。この聖霊に導かれ、聖霊に促されて私たちは「父なる神様」と呼びかけて祈っています。「天にまします我らの父よ」と祈っています。私たちの知り合いのクリスチャンにいつも「アッバ、父よ」と呼びかけて祈り始める男性がおられます。「なるほど、よい祈りの呼びかけだ」と感じています。いつも「アッバ、父よ」と祈り始められるのです。

 「アッバ」は、イエス様が日常的に使っておられたアラム語だと聞きます。「アッバ」は「パパ」のような非常に親しい呼びかけだと聞いています。「アッバ、父よ。」まずイエス様が、こう呼びかけて祈られました。十字架前夜のゲツセマネの祈りにおいてです。その前にもイエス様は、いつも「アッバ、父よ」と親しく呼びかけて、父なる神様に祈られたと思うのです。「アッバ、父よ」と祈るイエス様の心は、父なる神様をとても親しく、近しく感じる心、父なる神様を無条件に信頼している心だと思うのです。マルコ福音書にゲツセマネでのイエス様の祈りが、こう書かれています。「アッバ、父よ。あなたは何でもおできになります。この杯を私から取り除けて下さい。しかし、私が願うことではなく。御心に適うことが行われますように。」このイエス様の霊である聖霊が私たちクリスチャンにも注がれているので、私たちも「アッバ、父よ」と祈ります。ローマの信徒への手紙8章15節には、このように書かれています。「あなた方は、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊(悪霊)ではなく、神の子とする霊(聖霊)を受けたのです。この霊によって私たちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそ、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒になって証しして下さいます。」

 生まれつきの神の子は、イエス様ただお一人です。私たちは生まれつき神の子ではなく、むしろ罪の奴隷、罪の子でした。それをもっとはっきり言うと悪魔の子だったということになります。悪魔の子だったとは言い過ぎではないかと言われそうですが、罪の奴隷だったということは罪の子、悪魔の子だったことになります。しかしイエス様が十字架の上で、私たちの全部の罪を担いきって下さったお陰で、全部の罪を赦していただき、イエス様の霊である聖霊を注がれ、イエス様と共に「アッバ、父よ」と祈る神の子になることを許されたのです。「アッバ、父よ」と祈ることができることが、深い恵みです。

 7節「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。」イエス様を救い主と信じ告白し、洗礼を受けた人は皆、もはや罪の奴隷ではなく、悪魔の奴隷ではなく、神の子です。イエス様に似た者です。復活して天におられるイエス様と共に天国、永遠の命の受け継ぐ相続人とされています。大きな恵みです。イエス様の十字架の贖いの死のお陰です。東久留米教会で約25年前に、加藤常昭先生という高名な牧師をお招きして伝道集会を行いましたが、その時に加藤先生がおつけになった説教題が「あなたも神の子として生きる」でした。よい題ですね。「あなたも神の子として生きることができますよ」という福音(よいニュース)をクリスチャンでない方々にお伝えしたのです。

 本日の旧約聖書は、レビ記16章です。ここを読むと、聖書で「贖い」「罪の贖い」がどんなに重視されているかが分かります。ここに旧約聖書の時代のイスラエルの民の「贖罪日」に行われた贖いの内容が記されています。一年に一回の「贖罪日」にモーセの兄・大祭司アロンが神殿の至聖所(最も聖なる空間)に入ります。聖なる衣服を着て肌を隠し、聖なる神様に撃たれて死なないように自分を守っています。アロンはまず自分と一族のために贖いの式を行い、次にイスラエルの民のために贖いを式を行います。自分と一族の罪のために雄牛を屠り(殺し)、イスラエルの民のために雄山羊を屠り(殺し)ます。これらのいけには、血を流します。気持ち悪く感じますが、聖書では血は命そのものです。聖書には「血を流すことなしには、罪の赦しはあり得ない」という厳粛な言葉があります。アロンと一族の罪の赦し、イスラエルの民の罪の赦しのために、雄牛と雄山羊が、どうしても死ぬ必要がありました。これが旧約聖書の時代の「贖罪日」に行われた贖いです。

 「アロンは自分の贖罪の献げ物のための雄牛を引いて来て、自分と一族のために贖いの儀式を行うため、自分の贖罪の献げ物の雄牛を屠る。次に、主の御前にある祭壇から炭火を取って香炉に満たし、細かい香草の香を両手にいっぱい携えて垂れ幕の奥に入り、主の御前で香を火にくべ、香の煙を雲のごとく漂わせ、掟の箱の上の贖いの座を覆わせる。死を招かぬためである。次いで、雄牛の血を取って、指で贖いの座の東の面に振りまき、更に血の一部を指で、贖いの座の前方に七度振りまく。次に、民の贖罪の献げ物のための雄山羊を屠り、その血を垂れ幕の奥に携え、さきの雄牛の血の場合と同じように、贖いの座の上と、前方に振りまく。こうして彼は、イスラエルの人々のすべての罪による汚れと背きのゆえに、至聖所のために贖いの儀式を行う。」しかし人間の罪を本当に完全に贖うには、動物を屠って動物の血を流すのでは不十分で、人間でなければなりません。それも全く罪のない方でなければ、真の贖いになりません。そこで時が満ちて、神の子で人間であるイエス様が十字架で尊い血を流して死なれ、真の贖罪の献げ物となって下さいました。私たちはそのお陰で、全部の罪を赦され神の子とされ、永遠の命の約束を受けています。

 本日のガラテヤの信徒への手紙4章3節を、改めて読むと、こう書いてあります。「私たちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。」世を支配する諸霊は、悪霊です。私たちはイエス様の十字架と復活によって、これらの悪霊に勝利しています。悪霊は最後に必ず全滅しますが、しかし今はあがいて働いており、できれば人を誘惑して破滅に落とし込もうと働いています。もちろんイエス様の方が強いのです。でも残念ながら悪の諸霊は今も働いていますから、私たちはそれを見抜いて、それに抵抗する必要があります。戦争中の日本では、軍国主義という悪霊が人々を支配していました。オウム真理教という悪霊も、かなりの悪を行いました。国が無限に経済成長を続けなければいけないという考えも、悪霊ではないでしょうか。野心という悪霊もあります。今、多くの国がウクライナを支援しており、それはよいのですが、問題もあるようです。ウクライナに武器を供与するので、兵器産業が活気づいていると聞きます。兵器産業にとってはロシアとウクライナの戦いが長期化する方が武器を売ることができてありがたいというのです。武器を売って儲けるとは、とんでもない罪、死の商人です。武器を売って儲けなさいと誘惑する悪霊が働いています。

 それにしてもプーチンとロシア正教が結託しているようです。日本の正教会は、ロシアの正教会に書簡を送り、ロシアとウクライナの和解のために尽力してほしいと訴えています。権力と宗教が結びつくと、よい結果を生まないようです。権力に奉仕する御用宗教・御用教会になってしまい、堕落します。キリスト教会も歴史の中でそのような過ちを犯して来たのは事実と思います。日本基督教団もいばることができません。太平洋戦争中は戦争に反対せず、協力してしまいました。悪の諸霊に従ってしまったのです。ようやく1967年になって、戦争に協力した罪を悔い改める声明を総会議長名で出しています(以下抜粋)。

 「世の光、地の塩である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。まさに国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対して正しい判断をなすべきでありました。しかるに私どもは、教団の名においてあの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを、内外に向かって声明いたしました。まことに私どもの祖国が罪を犯したとき、私どもの教会もまたその罪に陥りました。私どもは『見張り』の使命をないがしろにいたしました。心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを願うとともに、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞に心からのゆるしを請う次第であります。」

 残念ながらキリスト教会も時に過ちを犯し、悪の諸霊に従ってしまうことがあります。私どもが悪の諸霊に従わないように、よく目を覚まして注意している必要があります。教会とクリスチャンが誘惑に負ければ、悪魔が大喜びします。今はロシア正教が悪魔の誘惑に負けて、権力者にすり寄っています。

 私たちは、どうすれば悪霊から自由になるのでしょうか。聖書を読み、祈ることです。聖書を読む時に、聖書を曲げて自分に都合の良い解釈をしないことです。イエス様に従って生きることです。イエス様に従って、悪しき欲望を捨てて、神様を隣人を愛して、清く質素に生きることが必要と信じます。私たちが、聖霊に導かれて、イエス様のように悪魔の誘惑を撃退しながら生きることができるように、祈って生きて参りましょう。アーメン。

(祈り)御名賛美。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。ウクライナに平和を。フィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマーに愛を。アーメン。