日本キリスト教団 東久留米教会

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2022-04-03 1:14:58()
説教「沈黙と受難のイエス様」  2022年4月3日(日)礼拝
礼拝順序:招詞 ローマ6:3~4、頌栄29、「主の祈り」,使徒信条、讃美歌21・299、聖書 イザヤ書53:5~7(旧約1149ページ)、マタイによる福音書26:57~68(新約54ページ)、祈祷、説教、讃美歌21・288、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(イザヤ書53:5~7)彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。

(マタイ福音書26:57~68)人々はイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた。さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。」そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。どう思うか。」人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言った。

(説教) 本日は、受難節(レント)第5主日の礼拝です。来週は、イエス様が十字架にかかった受難週で、再来週の日曜日がイースター、イエス様の復活をお祝いする礼拝です。本日のマタイ福音書の小見出しは、「最高法院で裁判を受ける」です。

 ユダの裏切りによって、イエス様が捕らえられました。大祭司、祭司長たちや民の長老たちが遣わした群衆によってです。真夜中のことです。57~59節「人々はイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた。さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。」祭司長たちと最高法院の全員は、イエス様は強く憎んでいたのですね。「死刑にしようとして」とありますから、イエス様を死刑にする目的を掲げて最高法院を招集したと言えます。「結論先にありき」です。本来裁判は、双方の言い分をよく聴き、証拠等を吟味して調べた上で、有罪無罪等の結論に至ると思います。何が真実かを、謙虚に捜し求めるのが裁判の本来の姿と思います。しかしこの裁判では、まず「イエス様を死刑にする」ことが最高法院の人々の心の中で決まっていて、その目的を達成するためには、手段を選ばない裁判のようです。これではまともな裁判とは言えません。

 「全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。」裁判は正しい証言によって成り立ちます。証言の証(あかし)という漢字は分解すると「正しく言う」です。ところが、彼らは「イエスにとって不利な偽証を求めた。」何と偽証、偽りの証言を求めたのです。目を疑いたくなります。モーセの十戒の第九の戒めに、「隣人に関して偽証してはならない」と書かれています。祭司長たちや長老たちはモーセの十戒をよくよく知っているのに、ここで「隣人に関して偽証してはならない」の戒めを正面から破ろうとしています。驚きます。偽証について、旧約聖書のレビ記19章16節に、こう書かれています。「民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。私は主である。」にもかかわらず、祭司長たちや最高法院の人々は、偽証人を求めます。証拠を捏造しても、イエス様を殺したいのです。暗黒裁判です。

 60節「偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。」偽証人が何人も現れたことも驚きです。証拠が得られなかったということは、偽証人同士の証言が一致せず、イエス様を有罪にする根拠を得られなかったということと思います。申命記19章15節には、こう書かれています。「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」イエス様の裁判で、このことがなかなかクリヤーできなかったのです。偽証人同士の証言が、食い違ったのです。しかし最後に二人の者が来て、「この男は『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げました。ここに初めて複数の証言が一致したのです。イエス様は確かに、このような発言をされたようです。ヨハネ福音書2章で「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言っておられます。でもこの場合の神殿は,イエス様の肉体のことです。イエス様の肉体は十字架上で裂かれるが、イエス様は三日目に肉体を含めて復活することの予告を、こう語られたのです。祭司長たち、長老たちや偽証人たちはそれを理解できず、イエス様が「エルサレムの神殿を壊す」と言ったと思ったのです。神殿を壊すとの発言を祭司長たちや長老たちは、神殿への冒瀆を受け止め、神殿を壊すとは許しがたい罪だと怒ったようです。

 ここで初めて二名の証言が一致したので、裁判が進みます。大祭司が立ち上がるのです。そしてイエス様にこう述べます。「何も答えないのか。この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」イエス様は黙り続けておられました。イエス様は確かに、エルサレムに入った直後に、神殿を清められました。神殿が真の礼拝の場になっておらず、商売が行われたりして人間の欲望が幅をきかせる場になっていたからでしょう。商人を追い出しました。祭司長たちは悔い改めればよいのに、悔い改めず、イエス様を激しく憎みました。イエス様への殺意が芽生えたのです。この裁判は、真に政治的です。自分たちの神殿運営体制、権益を守るために、邪魔者のイエス様を排除することが目的なのです。男性ばかり集まってイエス様を抹殺する政治的な裁判を行っています。男性ばかり集まるとこのように政治的になりやすいのです。最高法院には女性は一人もいなかったのかもしれません。女性も多く最高法院にいれば、違う展開になったかもしれません。

 本日の説教題を「沈黙と受難のイエス様」としています。イエス様は反論せず、沈黙しておられます。父なる神様を信頼して、父なる神様に、全てを委ねておられるのです。今日の旧約聖書は、イエス様の十字架の贖いの死を予告しているイザヤ書53章です。その6~7節にこう書かれています。「私たちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私たちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。」沈黙して、黙々と十字架に向かうイエス・キリストを、このイザヤ書53章は示しています。そこに予告された通り、イエス様は反論せず、黙り続けておられます。父なる神様を信頼して、父なる神様に、全てを任せておられるのです。

 大祭司が問います。「生ける神に誓って我々の答えよ。お前は神の子、メシア(救い主)なのか。」イエス様が初めて口を開かれます。「それは、あなたが言ったことです。」これは直訳です。分かりにくい答えです。でもこれを聞いた大祭司が激怒しています。ですから曖昧な答えはなく、明確な意味をもつ答えであるに違いありません。口語訳聖書は「あなたの言う通りである」と訳し、新改訳聖書は「あなたの言う通りです」と訳しています。ここでイエス様は、「私が神の子、私がメシア(救い主)」と宣言したのです。これを聞いて大祭司は、「神への冒瀆だ」と感じ、激しく怒ったのです。しかもイエス様はさらに進んで言われます。

 「しかし、私は言っておく。あなたたちはやがて、人の子(イエス様ご自身)が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」「神の右」とは神に最も近い所でしょう。雲は神様がそこにおられるシンボル。つまりイエス様はここで、ご自分は神に等しい者、神ご自身だと宣言されました。イエス様はここで、旧約聖書のダニエル書7章を用いて語っておられます。そこにはこうあります。「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』(父なる神様)の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。」ここに出て来る「人の子」は、世の終わりに現れる神にも等しい者です。イエス様は「ご自分こそ人の子だ」と宣言されました。私は神、「王の王、主の主」だと宣言されたのです。大祭司と最高法院の人々にとって、これは神への非常な冒瀆に聞こえました。しかし、イエス様は本当に神の子であり、父・子・聖霊なる三位一体の神様ご自身(子なる神)ですので、今の発言は真実であり、神への冒瀆ではありません。ですが大祭司と最高法院の人々にとっては、許しがたい冒瀆に聞こえました。65節「そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。『神を冒瀆した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒瀆の言葉を聞いた。どう思うか。』」彼は今、私たちの目の前で神を冒瀆した。現行犯だ。もはや彼の過去の言葉や行いを述べる証人は必要ない。現行犯で有罪だというのです。「人々は、『死刑にすべきだ』と答えた。そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、『メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ』と言った。」平手で打たれ、殴られ、イエス様の受難が本格的に始まります。

 新約聖書のペトロの手紙(一)2章19節以下を思い出します。新約聖書431ページ上段。迫害等の苦難の中にあるクリスチャンを励ます御言葉です。「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなた方が召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなた方のために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担って下さいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなた方は癒されました。あなた方は羊のようにさまよっていましたが、今は魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」

 マタイ福音書に戻ります。本日は次の小見出しの部分も少し読みました。一番弟子のペトロがイエス様のことを「知らない」という有名な場面です。イエス様の裁判の場面と、ペトロが「知らない」と言う場面は、実はセットになっていると言われます。対照的な場面としてセットになっていると言われます。イエス様は嘘や偽りを言うことができない方、真実な方です。自分がどんなに不当な目に遭いそうになっても、嘘や偽りで切り抜けることを決してなさらない方です。いつも真実しか語られない方です(もちろん弱い立場の人への思いやりは忘れない方です)。ですから、ご自分についても本当のこと、真実のみを語られました。「お前は神の子、メシアなのか」と問われた時に、言葉を濁してはっきり答えなければ、死刑を免れた可能性もゼロではないかもしれません。しかしそれをなさらず、「それは、あなたの言ったことです」と返答されました。やはりこれは「その通りです」の意味だと思います。どんなに不当な目に遭うと分かっていても、真実を語られました。さらに進んで「私は言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」と言われました。全宇宙の主として、世の終わりにもう一度来ると宣言されました。嘘偽りなく本当のこと、真実を語られました。その結果殺されるとしても、真実のみを語り、嘘偽りで切り抜けようとなさらないのです。

 このイエス様の姿勢を、新約聖書のテモテへの手紙(二)2章13節が、こう記します。「私たちが誠実でなくとも、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否む(否定する)ことができないからである。」イエス様は嘘をつくことができません。ご自分がどんなに不利になっても、真実のみを語らます。ご自分が神の子であり、神に等しい者であることを語ると十字架で殺される。それでも偽りを言って苦難を免れることはなさらないのです。真実な方だからです。
 
 しかしペトロには、そこまでできませんでした。69~70節「ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、『あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた』と言った。ペトロは皆の前でそれを打ち消して、『何のことを言っているのか、私には分からない』と言った。」こうしてイエス様を知らないと三度言ってしまい、イエス様を三度裏切ってしまいます。わが身の安全が第一で、イエス様を知らないと言い、裏切ってしまいました。ユダのように積極的に裏切ったのではありませんが、消極的に裏切ってしまいました。ここに罪が全くなく勇気に満ちたイエス様と、罪人(つみびと)であるペトロが対比されています。イエス様はご自分がどんなに不当に不利になることが分かっていても、偽りを言わず、真実を貫かれます。ご自分が神の子、神に等しい者だと本当のことを言えば殺されると分かっていても、本当のことを言われます。「キリストはご自分を否むことができないからである。」しかしペトロはそうなれませんでした。私たちもイエス様とペトロのどちらに近いかと問われれば、イエス様のようでありたいと願いながらも、時々ペトロのようになってしまうこともあるのではないでしょうか。ペトロのよいところは、イエス様の三度知らないと言う罪を犯した後に、「鶏が三度鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう、と言われたイエス様の言葉を思い出し、外に出て激しく泣いたことです。自分の罪に気づいて心の底から自分の罪を悔いる心。これだけだ私たちも失いたくありません。イエス様は、ペトロがご自分のことを知らないと三度も言ってしまう罪もよくご存じで、そのペトロの裏切りの罪の責任をも背負うために、十字架で死んで下さいました。 

 世の中には、様々な多くの苦難があります。イエス様の十字架の受難は、世界の全ての苦難と連帯する受難、いえ、世界の全ての受難を下から支る苦難(受難)fでした。「どんなときでも」というこどもさんびかがあります。メロディーは大人が作ったのですが、歌詞は福島県の教会の教会学校に来ていた高橋順子さんという7才の女の子が、今から半世紀ほど前に作ったと知りました。難病の中で、子どものうちに天国に行った女の子です。「どんなときでも、どんなときでも、苦しみに負けず、くじけてはならない。イエスさまの、イエスさまの、愛をしんじて。」「どんなときでも、どんなときでも、しあわせをのぞみ、くじけてはならない。イエスさまの、イエスさまの、愛があるから。」この歌詞で、自分を励ましていたのでしょう。ある大人の方が、70代になっても、この讃美歌でご自分を励ましたとの証しを、最近読みました。

 世の中に、多くの苦難がありますね。日本では11年前に東日本大震災の大きな苦難が起こりました。今も続いています。コロナによる受難、今のウクライナの受難があります。これらの全ての苦難が、イエス様と無関係ではない。イエス様がこれら全ての受難をも、十字架で背負って下さっている。そう信じます。先々週の礼拝でご紹介したアメリカにいるウクライナ人の牧師のメールメッセージを思います。「今、多くの理不尽な苦難がある。しかし最後に必ず来るのが神の国だ。」そう、イエス様の十字架の受難の三日目には、復活が来ます。現実がいかに暗いとしても、最後に必ず勝利するのは、イエス・キリストの愛です。必ず神の国が完成する。このことを確信して、この受難節の日々を過ごして参りたいのです。アーメン。

(祈り)御名賛美。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。コロナで亡くなる方が減り、コロナで亡くなる方がこれ以上出ないようにして下さい。コロナの新しい株をも静めて世界中が神に立ち帰るように。経済困難の方に助けを。全ての病と闘う方に癒し。教会学校の子どもたち。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。ウクライナに早く平和がもたらされますように、切に祈ります。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマー、アフガニスタン、トンガに神様の愛と助けを。アーメン。

2022-03-26 23:56:57(土)
説教「剣を取る者は皆、剣で滅びる」  2022年3月27日(日)礼拝
礼拝順序:招詞 ローマ5:3~4、頌栄28、「主の祈り」,使徒信条、讃美歌21・297、聖書 マタイによる福音書26:47~56(新約54ページ)、祈祷、説教、讃美歌21・300、献金、頌栄27、祝祷。 

(マタイ福音書26:47~56) イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。

(説教) 本日は、受難節(レント)第4主日の礼拝、そして「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第48回)です。先週の新約聖書の個所は、イエス様の十字架前夜の必死の祈りでした。場所がゲツセマネという所だったので、ゲツセマネの祈りと呼ばれています。その祈りが終わり、イエス様の十字架に向かう決意は、完全に揺るぎないものになりました。イエス様は、弟子たちに言われます。「立て、行こう。見よ、私を裏切る者が来た。」

 今日の最初の47節「イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。」イエス様と弟子たちが激しく抵抗するだろうと予想して、大勢が剣や棒を持って武装して、イエス様を捕らえに来たのだと思います。「十二人の一人であるユダ。」この言い方は、ユダが十二弟子の一人であることを強調しています。
しかし、まさに十二弟子の一人であるそのユダが、イエス様を裏切ったのです。48節「イエスを裏切ろうとしていたユダは、『私が接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ』と、前もって合図を決めていた。」辺りは真っ暗だったと思います。写真zzzもない時代ですから、祭司長や長老たちもイエス様の顔立ちをはっきり知らなかたかもしれません。イエス様の身近にいたユダが、イエス様のお顔を一番よく知っていて、間違いなくイエス様を指し示すことができます。ここでユダは、積極的に計画的に裏切りを実行しています。「『私が接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ』と、前もって合図を決めていた」とあるので、計画的です。

 普通、接吻は愛情のしるしです。それがここでは裏切りに利用・悪用されています。このことは人間の罪深さを表しているように見えます。旧約聖書では、接吻が相手を油断させるために用いられた場面があります。サムエル記下20章です。ダビデ王が部下のヨアブに、反逆者シェバを追跡させたとき、ヨアブはシェバの家来アマサに出会います。ヨアブはアマサに、「兄弟、無事か」と声をかけ、口づけしようと右手でアマサのひげをつかみ、ヨアブは剣でアマサの下腹を突き刺しました。こうしてアマサは死にました。ヨアブは、接吻の素振りを見せることでアマサを一瞬油断させ、即座にアマサの下腹を突き刺し殺しました。接吻の悪用とも言えます。

 49節「ユダはすぐにイエスに近寄り、『先生、こんばんは』と言って接吻した。50節「イエスは、『友よ、しようとしていることをするがよい』と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。」イエス様はここから受難に入って行かれたと言えます。イエス様はユダに「友よ」と言われました。「友よ。」イエス様の方からは、この期に及んでもなお、友情を抱いていると表明されたのかもしれません。51節「そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。」ルカによる福音書では、イエス様が「やめなさい。もうそれでよい」と言われ、その耳に触れて癒されたと書いてあります。ヨハネ福音書では、大祭司の手下の耳を切り落としたのは、弟子のペトロだったと書かれています。

 そしてマタイの52節。「そこで、イエスは言われた。『剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。』」「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」この後半の御言葉を、本日の説教題に致しました。「を取る者は皆、剣で滅びる。」これは今、プーチンの前で大きな声でいってあげたい御言葉です。そして私たちも、決して忘れてはいけない御言葉と信じます。イエス様は、武器を持って戦われません。イエス様は愛の祈りと聖書の言葉で戦われます。イエス様は、物理的な武力で戦われません。イエス様は素手です。イエス様が戦う真の敵は、人間ではなく悪魔です。私たちクリスチャンの敵も、究極的には人間ではなく、悪魔です。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」似た言葉は、創世記9章6節にもあります。神様が、ノアと彼の息子たちに言われます。「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。」「剣を取って剣で人の血を流す者は、剣によって自分の血が流される結果になる」のです。

 イエス様は言われます。53~54節「私が父(父なる神様)にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団の天使を今すぐ送って下さるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」イエス様は、決して孤独ではないのです。目に見えなくても、十二軍団以上の天使たちに守られているに違いありません。イエス様が、父なる神様に祈れば、父なる神様が十二軍団の天使の大軍を送って助けることが、簡単に可能です。しかしそれでは、イエス様が十字架にかかって私たち皆の罪を背負うという、最も重要な使命を果たすことができなくなってしまいます。「必ずこうなると書かれいる聖書の言葉」の「必ず」と訳された言葉は「デイ」というギリシア語です。しばしば申し上げますように、この「デイ」は必然、神様の必然を表します。「神様の必然」それは、イエス・キリストが私たちの全部の罪の責任を身代わりに背負って、十字架にかかって死なれることに、ほかなりません。イエス様は、十字架の道を避けることはなさらないのです。十字架に進むためにも、あえて十二軍団以上の天使の助けを封印し、お受けにならないのです。

 55~56節「またそのとき、群衆に言われた。『まるで強盗に向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。私は毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちは私を捕らえなかった。このすべてのことが起こったは、預言者たちの書いたことが実現するためである。』このとき、弟子たち皆、イエスを見捨てて逃げてまった。」それはたとえば、先週の礼拝でも読んだイザヤ書53章(イエス様の十字架の死を予告した御言葉)が実現(成就)するためです。まるで大暴れする悪人を捕らえる大捕り物が起こるかのように予想して、群衆は剣や棒で武装して、イエス様を捕らえに来ました。しかしイエス様は暴れず、手向かいせず落ち着いて、堂々と捕らえられます。一見悪魔の横暴が支配しているように見えて、実は父なる神様のご計画が着々と進んでいます。イエス様が十字架の受難に至り、さらに三日目の復活が起こることこそが、父なる神様のご意志です。

 「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」私がこの御言葉から思い出すのは、旧約聖書サムエル記・上の少年ダビデと巨人ゴリアテの対決の場面です。少年ダビデは巨人ゴリアテに言います。「お前は剣や槍や投げ槍で私に向かって来るが、私はお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。~全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことえを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」ダビデは小石を石投げ紐を使って飛ばし、ゴリアテの額を撃ち、石が額に食い込みます。小石1つと石投げ紐で巨人ゴリアテを倒したのです。剣も槍も使っていません。ダビデは日ごろから羊飼いとして羊たちを獅子や熊から守って来たので、ダビデはこの対決に勝ったと言えますが、これは神様の戦いでした。ゴリアテは神様に背く者だったので、神様がダビデに勝利を与えて下さいました。ダビデが神様に従い、ゴリアテが神に背く者だったので、神様がダビデに力を与えて下さり、ダビデが勝利しました。

 旧約聖書を読むと、時に戦争が出てきます。これは私にとって、大いなるつまずきでした。なぜ旧約聖書に、時に戦争が出て来るのか。非常に抵抗を感じ、疑問を覚えました。たとえばヨシュア記6章に、エジプトを脱出したイスラエルの民が、約40年後に約束の地・カナンの地に入り、エリコという町を占領する場面があります。エリコの町の城壁を崩すのですが、よく読むと城壁を武器で破壊していないようです。神様がイスラエルの民にこうおっしゃっています。「見よ、私はエリコとその王と勇士たちをあなた(ヨシュアというイスラエルのリーダー)に渡す。あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。七日目には、町を七週し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい。彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、鬨の声をあげなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民はそれぞれ、その場所から突入しなさい。」武器で攻撃して、城壁を崩していません。ただ神様の指示に従い、町の周りを行進し、最後に鬨の声を上げただけなのです。神様の力によって。城壁を崩したのです。その後、民が町に突入して、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものをことごとく剣にかけて滅ぼし尽くしたと書いてあり、驚きます。ですがこの町の住民が、様々な罪を犯していたので、聖なる神様に裁かれたと受け止めて、何とか納得することができました。

 旧約聖書のイスラエルの民が戦争に勝つとき、それは武力の強大さによって勝つのではなく、神様の力によって勝っています。神様に背いているときは、神様が味方して下さらないので、イスラエルの民は負けるのです。ということが分かりました。詩編33編16節以下には、こうあります。「王の勝利は兵の数によらず、勇士を救うのも力の強さではない。馬は勝利をもたらすものとならず、兵の数によって救われるのでもない。見よ、主は御目を注がれる。主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。彼らの魂を死から救い、飢えから救い、命を得させて下さる。」武力を少し持っていたとしても、武力で勝つのではなく、あくまでも神様の力によって勝つのです。神様への祈りによって勝つとも言えます。神様に背いている時には、負けるのです。ゼカリヤ書4章6節には、次の御言葉があります。「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。」武力、暴力、権力ではなく、神様の聖霊によって、神の言葉によって物事が進む必要があります。

 この旧約聖書の流れの中で、イエス様の生き方もあると見てよいのではないでしょうか。イエス様は、言われます。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」そして何も武器を持たず、丸越で捕らえられ、受難をひたすら忍耐し、ほとんど裸に近い形で十字架につけれるのです。イエス様の生き方は、ほぼ無抵抗で、敵を愛する生き方です。しかし決して悪に負けることはしません。悪に一切負けず、善をもって悪に勝つ生き方、愛によって悪に打ち勝つ生き方です。イエス様は、心が(魂が)非常に強いので、この生き方がおできになります。私たちも、聖霊によって心(魂)を強めていただき、少しずつでもこの生き方ができるとよいですね。それは、祈りによって現実の困難を1つ1つ乗り越えてゆく生き方になります。

 少し前に、ドイツ人のクリスチャンに会いました。私は33年前(1989年)のベルリンの壁崩壊のことを思い出し「あの時は奇跡のように感じた」と言いましたら、「多くの祈りがあったから」との答えが返って来ました。私はドイツに行ったことがありませんが、ベルリンの壁は私が生まれる前からあり、それを越えようとした多くの人々が射殺されたと聞いています。あの壁がなくなるなんて、あり得ないと感じていました。でも崩れた。あの時、教会も動いていたと聞きます。でもあの課がなくなるように、長年多くの人々が祈っていたことは間違いないと思います。それが遂に聞かれる時が来て、ベルリンの壁が崩れました。祈りの力だと信じます。祈りの力は、武力より強いのです。あのベルリンの壁を、崩壊させたのですから。
 
 黒人への人種差別に抗議したマルティン・ルーサー・キング牧師も、暴力に対して非暴力で抵抗しましたね。悪には負けない。しかし暴力によってではなく、非暴力によって言論とデモで抗議する。それはイエス様に従う道でした。但し、命がけの勇気と覚悟が必要です。相手は暴力で来るのですから。イエス様が十字架につけられたように、キング牧師も暗殺されました。それでも愛と善によって、悪に打ち勝つ生き方を目指したいのです。私たちはイエス様の弟子ですから。

 エフェソの信徒への手紙6章10節以下を読むのがよいと思います。小見出しは「悪と戦え」です。私たちの真の敵は、人間ではなく悪魔です。悪魔と戦うのですが、暴力で戦えとは言っていません。「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身につけなさい。私たちの戦いは、血肉(人間)を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかり立つことができるように、神の武具を身につけなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なお、その上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、霊(聖霊)に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」真理、正義、平和の福音、信仰、救い、神の言葉、祈りによって悪と戦えと言っています。暴力によってではなく。

 マザー・テレサが紛争地に行くことになったとき、周りの人々が心配して、武器を持って行く方がよいと言ったとき、マザー・テレサは断って、「私の武器は祈りです」と言ったそうですね。真に不思議なことに、マザー・テレサが行くと、一時戦闘が止まったとも聞きました。マザー・テレサは特別かもしれませんが、イエス様は確かにおっしゃいました。「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」私はプーチン氏は、このまま武力で押し通すならば、滅びると思っています。私どもは、暴力ではなく、あくまでも神の言葉と愛と正義と祈りによって、進んで参りたいのです。アーメン。

(祈り)御名賛美。
コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。コロナで亡くなる方が減り、コロナで亡くなる方がこれ以上出ないようにして下さい。コロナの新しい株をも静めて世界中が神に立ち帰るように。経済困難の方に助けを。全ての病と闘う方に癒し。教会学校の子どもたち。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。ウクライナに早く平和がもたらされますように、切に祈ります。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマー、アフガニスタン、トンガに神様の愛と助けを。アーメン。

2022-03-19 23:48:37(土)
「イエス様の十字架前夜の祈り」 2022年3月20日(日)礼拝説教
礼拝順序:招詞 ローマ5:3~4、頌栄24、「主の祈り」、交読詩編なし,使徒信条、讃美歌21・482、聖書 ゼカリヤ書13:7~9(旧約1493ページ),マタイによる福音書26:31~46(新約53ページ)、祈祷、説教、讃美歌21・303、献金、頌栄27、祝祷。 

(ゼカリヤ書13:7~9) 剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ/わたしの同僚であった男に立ち向かえと/万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。わたしは、また手を返して小さいものを撃つ。この地のどこでもこうなる、と主は言われる。三分の二は死に絶え、三分の一が残る。この三分の一をわたしは火に入れ/銀を精錬するように精錬し/金を試すように試す。彼がわが名を呼べば、わたしは彼に答え/「彼こそわたしの民」と言い/彼は、「主こそわたしの神」と答えるであろう。

(マタイ福音書26:31~46) そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。
 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

(説教) 本日は、受難節(レント)第3主日の礼拝です。弟子たちはまだ、イエス様がまもなく十字架につけられることに気づいていません。イエス様だけがそれを知っておられます。イエス様は、数時間後に起こることを予告されます。31節「そのとき、イエスは弟子たちに言われた。『今夜、あなた方は皆私につまずく。「私は羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう」と書いてあるからだ。』」これは本日の旧約聖書であるゼカリヤ書13章7節の引用です。そこにはこう書いてあり、こう預言されています。「羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。」羊飼いはもちろんイエス様を指します。羊の群れは弟子たちです。弟子のヨハネだけは、十字架の時、イエス様の足元にいましたが、ユダは自害したし、ペトロとあと9人の弟子たちは、イエス様の十字架の足元まで到底着いてゆくことができませんでした。イエス様はそうなることを見通しておられます。「しかし、私は復活した後、あなた方より先にガリラヤへ行く。」イエス様は十字架の苦難の後に、復活が与えられることも、見通しておられました。

 すると一番弟子のペトロは、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」ペトロは本気でそう言ったと思います。私は命をかけてイエス様に従う覚悟をしていると。気負っている感じもあります。しかし人間の頑張りと気負いだけでは、イエス様の十字架まで付き従うことはできなかったとも言えます。イエス様は、燃えて気負い立っているペトロを見て、彼のこの純粋な情熱的な気性を愛され、少し微笑を浮かべられたのではないかと思います。イエス様はペトロの情熱的な気性を愛されると同時に、ペトロがまだ気づいていないペトロの限界をも、ペトロより先に知っておられました。それで言われます。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が泣く前に、三度私のことを知らないと言うだろう。」そう言われてペトロは驚いたに違いありません。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言い張りました。これもこのときの本心でした。他の弟子たちも皆、同じように言い募りました。ユダは既に、そっと去っていたのではないかと思います。

 次の小見出しは、「ゲツセマネで祈る」です。36節「それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、『私が向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。」ゲツセマネとは、「油搾り」の意味だと聞いています。このゲツセマネで、イエス様はまさにご自分を搾り切るような祈りをなさいました。このゲツセマネという場所に、イエス様と弟子たちとはしばしば集まっていた場所ではないかと言われます。「私が向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい。」8人の弟子たちはそこに座って残り、ペトロとヤコブとヨハネの三人を伴って進まれました。

 37節「ペトロおよびゼベダイの子二人(ヤコブとヨハネ)を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。」イエス様が悲しみもだえることは、やはり普通ではありません。ペトロとヤコブとヨハネの三人は、特に大切な時に、イエス様に同行を許される三人の弟子です。38節「私は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい。」イエス様が死ぬばかりに悲しいと、イエス様はこの三人いは特に心を許して、本心を隠さずに述べておられます。「ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい。」これからイエス様がもう少し先に進んで祈るので、「ペトロとヤコブとヨハネの三人にも目を覚まして援護の祈りをしてほしい、私と共に目を覚まして祈ってほしい」と言われました。イエス様は神の子であると同時に、人間です。人間でもあるイエス様は、悲しみ苦しみを覚え、愛する弟子たちに一緒に祈っていてほしかったのです。

 「私は死ぬばかりに悲しい。」原文を丁寧に見ると、「魂、心」という言葉があります。「私の魂は(心は)死ぬほど悲しい。」ルカによる福音書のこの場面を見ると、イエス様が切に祈って、汗が血の滴るように地面に落ちたと書かれていますね。神の子イエス様の必死の祈り、人生の正念場の祈り、一世一代の祈りです。十字架に進む直前の祈りです。ここを読むと、新約聖書のヘブライ人への手紙5章7節を思い出します。「キリストは、肉において(私たちと同じ肉体をもつ人間として)生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方(父なる神様)に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子(神の子)であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」「キリストは肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」ゲツセマネで祈ったイエス様は、三人の弟子たちにもそこまで見えませんでしたが、涙を流して、激しい叫び声をあげて祈られたのだと思います。御自分を死から救ってほしいと祈られたのです。

 イエス様は死を恐れられました。死の本当の恐ろしさを知っておられたからです。死の本当の恐ろしさ、それは命を造って下さる神様から完全に切り離されることです。人がなぜ死ぬかというと、その本当の理由を教えてくれるのは聖書だけです。私たち人間が、命を造られた神様に背き、神様に従わず、神様に罪を犯して結果、神様から離されて死ぬことになったのです。これが死の本当の意味です。現象としては病気や老衰で死にますが、それは本質ではありません。神様に背く罪を犯した結果、神様から離れてしまい、死ぬことになったのです。人間が罪を犯した結果死ぬことになり、自然界も狂い、動植物も死ぬことになりました。人間の責任です。ローマの信徒への手紙6章23節には「罪の支払う報酬は死である」という有名な言葉があります。イエス様は神の子ですから、父なる神様と完全に一体です。一度も罪を犯さないので、父なる神様と完全に一体の方、死と全く縁もゆかりもない方です。それだけに父なる神様から完全に切り離される死の本当の恐ろしさを、イエス様が一番よくお分かりになると言えます。私たちは罪人(つみびと)であり、自分の罪を完全には憎んでおらず、人間は死ぬものとややあきらめている面もあるのではないでしょうか。死を嫌っていても、死の真の恐ろしさを分かっていないので、イエス様ほどに死を恐れることができない鈍感な面もあるのではないでしょうか。自分の死は、自分の罪の結果なのだと突き詰めて考えず、自分をごまかしている面もあるのではないかと、私は自分を振り返って思います。しかしイエス様は違います。罪が全くない方、従って死ぬ理由が全然ない方なので、イエス様にとって死は完全に異質であり、あり得ないことです。しかし私たちの罪の責任を身代わりに背負て、十字架の上で死ぬことになっている。私たち罪人(つみびと)と違い、死ぬ理由の全くない方が、死なねばならない。イエス様こそ、死の真の恐ろしさ、父なる神様と完全に切り離される、生木が裂かれる苦痛を、誰よりも感じる方です。それで、十字架の死を前に深く悲しみ、深く恐れおののいておられます。

 「死ぬばかりに悲しい」とのイエス様のお言葉を聞くと、私たちを罪と死から救うイエス様の十字架の死を予告した旧約聖書のイザヤ書53章を思います。2~3節にこうあります。「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私たちに顔を隠し、私たちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。」私たちが用いているこの新共同訳聖書に「痛み」と訳された言葉を、前の口語訳では「悲しみ」と訳しているのが印象的です。「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。~まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみを担った。」「傷ついた癒し人(びと)」という言葉がありますが、自分が病気をしたり、傷ついた経験のある人でないと、他人を癒すことができないということだと思います。イエス様こそ、まさに「傷ついた癒しびと」です。十字架に架けられ、身と心に多くの深い傷を負われたので、私たちを慰め、真の癒しを与えることがおできになります。ヘブライ人への手紙2章18節にも、「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」と書かれています。

 さて、イエス様の祈りです。39節「少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯(十字架という苦き杯)を私から過ぎ去らせて下さい。しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに。』」イエス様は、できることなら十字架を避けたいのです。イエス様は神の子で、父・子・聖霊なる三位一体の神様の「子なる神」ですが、私たちと同じ肉体をもつ人間でもあります。十字架が嬉しくないのは当たり前です。この苦難をできることなら避けたいのです。「この杯を私から過ぎ去らせて下さい」の祈りも、全身全霊で祈られたと思います。と同時に後半の祈りも全身全霊で祈られました。「しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに。」真に迫力のある祈りの場面です。

 この祈りの前半は、人間としてのイエス様の正直な願い、「父よ、できることなら、この杯(十字架)を私から過ぎ去らせて下さい。」後半もイエス様の本心・本音ですが、よりレベルの高い祈りと言えるでしょうか。「しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに。」どちらの祈りの比重が高いのでしょうか。最終的には後半の祈りの方が比重が高いのは確かです。しかし前半の祈りも決して身勝手な祈りではないと思います。私たちも正直な祈りをすることがダメとされてはいません。もちろんあまりにも自分勝手な願いは祈りにならないでしょうが、辛いことを助けてほしいと祈る正直な祈りがダメとされてはいません。

 フォーサイスというイギリスの牧師が書いた『祈りの精神』という祈りについての名著があります(斎藤剛毅訳、ヨルダン社、1986年)が、フォーサイスは「神様と格闘するような祈りこそ、聖書を支配する理想ではないか」と書いています。「神様と格闘するような祈りがなくなり、祈りが単なる神様との散歩になってしまうならば、最後には真実の祈りを失う。」「神に祈りの格闘を挑んで、神の御手に身を投げかけるべきである。神はこの聖き戦いを愛したもう。」「『御心が成りますように』は、単なる諦めの言葉ではない。」「キリストは、自分の死に抵抗し、最後の時が来るまでしばしば死を免れておられる。最後の時にも、キリストは避けられないと思われる死に対して全力を傾けて抵抗し、祈りを献げておられる。『御心ならば苦き杯を取り去りたまえ。』キリストは死の覚悟ができておられた。しかし、死は最後の場合であり、あらゆる手段がとられて、もはや死以外に道がない時に、死を甘受されたのであった。キリストは最後まで他の方策がありはしないかという希望を捨てられなかった。そしてついに自由意志に基づいて自発的に死んでゆかれたのである。」死に抵抗しつつも、もしそれが明確な神の意志ならば、喜んで服従する覚悟はもとよりあったのである。フォーサイスが言わんとすることは、この辛い現実から助けてほしいと現実と戦ったり、全力で祈らないで、簡単に「御心が成りますように」と祈ると、安易な祈りになってしまうということだと思います。神に服従することは諦めではない。「祈りは、魂の聖なる労働である。」「安易な福音は、キリスト教を衰亡させるものである」とフォーサイスは書きます。本当にその通りと、大いに励まされ、襟を正されます。

 40節「それから、弟子たちの所へ戻ってご覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。『あなた方はこのように、わずか一時も私と共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。』」一時とは約2時間だと聞いたことがあります。この世のイエス様の一回目の祈りは約2時間だったことになります。イエス様は徹夜で祈られました。私たちはなかなか徹夜の祈りはできないのではないでしょうか。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」しかし24時間眠らないで祈り続けることは難しい。でもいつも神様に従おう、悪魔に従わないようにしようと意識することは、かなりできるのではないでしょうか。

 42節「更に、二度目に向こうへ行って祈られた。『父よ、私が飲まない限りこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。』」一度目の祈りに比べて、イエス様の十字架に進む決心が強められたと感じます。43節「再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。44節「そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。三度目も「父よ、私が飲まない限りこの杯が去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」と祈られたことになります。十字架に進む決意がいよいよ揺るぎないものになっています。イエス様もこのように三段階踏んで十字架に向かう決意を揺るぎないものにしておられるのを見ると、励まされますね。私たちも、いきなり大きな決心はなかなかできない。でも一歩ずつ一歩ずつ登れば、高い山も登りきることができます。

 45~46節のイエス様は、十字架に向かう勇気に満ちておられます。「それから弟子たちの所に戻って来て言われた。『あなた方はまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた(遂に十字架にかかる最も大切な時が来た)。人の子(ご自分)は罪人(つみびと)の手に引き渡される。立て、行こう。見よ、私を裏切る者が来た。』」弟子たちに「あなた方はまだ眠っている」と言われますが、弟子たちの肉体の弱さをよくご存じなので、弟子たちを責めておられるのではないと思います。ヘブライ人への手紙4章15節には、「この大祭司(イエス様)は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われたのです」と書かれています。

 私たちは「主の祈り」で、「御心の天に成る如く、地にもなさせたまえ」といつも祈ります。「父なる神様、あなたの御心が成りますように」と祈っています。父なる神様の一番の御心は、イエス・キリストが十字架にかかることだったと信じます。イエス様が私たち皆の全部の罪を背負って十字架で死なれたことで、最も重要な御心が成し遂げられたのです。私たちの罪が完全に赦される道が開かれました。今や、自分の罪を悔い改めて、イエス様を自分の救い主と信じ告白する人は、人生で心ならずも犯す全部の罪を赦されて、永遠の命を受けます。本当に感謝です。私たちは、この安心の土台に立って「主の祈り」を祈ります。「御心の天に成る如く、地にもなさせたまえ」と祈るのです。最も重要な御心は、イエス様が十字架で死なれることによって既に成し遂げられました。今、父なる神様の御心は、戦争がなくなること、様々な社会正義と愛が行われることと共に、イエス・キリストを救い主と信じる人が一人また一人と増えることだと信じます。せっかくイエス様がゲツセマネで、血を吐くような祈りをなさって十字架について下さったのですから、それを無駄にしてはいけないことはもちろんです。血を吐くような思いで祈り、十字架にかかって下さったイエス様を救い主と信じる方々が一人また一人与えられるように、私どもは救い主イエス様を宣べ伝えて参りましょう。

(祈り)御名賛美。 コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。コロナで亡くなる方が減り、コロナで亡くなる方がこれ以上出ないようにして下さい。コロナの新しい株をも静めて世界中が神に立ち帰るように。経済困難の方に助けを。全ての病と闘う方に癒し。教会学校の子どもたち。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ウクライナに早く平和がもたらされますように、切に祈ります。ミャンマー、アフガニスタン、トンガに神様の愛と助けを。アーメン。

2022-03-16 0:29:35(水)
3月 伝道メッセージ 石田真一郎(市内の保育園の「おたより」に掲載した文章)
 「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(イエス・キリストが語った黄金律=ゴールデンルール。新約聖書・マタイ福音書7章12節)。

 昔イスラエルの都エルサレムを治めていたソロモン王が、語ったとされる物語です(聖書には出ていません。出典:クリス・スミス『ひとつのみやこ ふたりのきょうだい』日本キリスト教団出版局、2010年)。ソロモン王のもとに、土地の相続で争う二人の兄弟が助言を求めて来ました。ソロモン王はエルサレムが都になる前の物語を聞かせました。

 畑を挟んで2つの村があり、兄と家族はこちら側、独り身の弟は向こう側の村に暮らしていました。その間には丘をこえてゆく真ん中の道と、畑の横を通る平らな道がありました。兄弟は、昼は畑で共に働き、ある秋に小麦が40袋も獲れました。兄弟は20袋ずつ分けました。

 兄は家で夜考えました。「僕には妻も子どもたちもいて、老後も心配ない。でも弟は独り身だ。老後のために蓄えがいる。そうだ、こうしよう!」丘の上の道を通り、こっそり弟の家の納屋に入り、袋を3つ置きました。弟の喜ぶ顔が浮かびます。兄は家に戻り、翌朝自分の納屋に行くと、何と小麦が20袋あるではありませんか!「え? なぜ? よし、今夜こそ。」畑の横の道を通り、弟に内緒で納屋に入り3袋置きます。帰宅し、翌朝納屋に入ってびっくり。やはり20袋あるのです。「なぜ? 今夜こそ必ず!」

 二日前の弟の家です。「お兄さんは家族がいるから、僕より多く小麦がいる。そうだ、こうしよう!」畑の横の道を通り、内緒で兄の納屋に入り、小麦3袋置きます。「お兄さん喜ぶぞ。」翌朝自分の納屋に入ってびっくり。20袋あるのです。実に不思議です。「今夜こそ」と、丘の上の道を通り、兄の家の納屋へ。3袋置いて「今度こそ成功。」翌朝自分の納屋に行くと、何と20袋あるのです。「こんなことって、あるかな? 今晩こそ必ず!」
丘の道を進みます。向こうから誰か来ます。お兄さんです! 二人とも3袋持っているではありませんか。兄弟にはすぐ分かりました。お互いの優しい心が嬉しくて、笑顔でいっぱいになりました。

 ソロモン王にこの物語を聞いて、争っていた兄弟は、「二人で分け合おうね」と語り合って抱き合い、家族も含めて幸せに暮らしたということです。卒園する子どもさんたち一人一人が、こんな思いやりを持つ人になってくれるように、心よりお祈りしています。アーメン(真実に)。

2022-03-06 1:01:04()
説教「イエス・キリストの晩餐」 受難節(レント)第1主日礼拝 2022年3月6日(日) 
礼拝順序:招詞 ローマ5:3~4、頌栄85(2回)、「主の祈り」、交読詩編なし,日本基督教団信仰告白,讃美歌21・205、聖書 詩編41:10(旧約875ページ),マタイによる福音書26:14~30(新約52ページ)、祈祷、説教、讃美歌21・294、献金、頌栄92、祝祷。 

(詩編41:10) わたしの信頼していた仲間/わたしのパンを食べる者が/威張ってわたしを足げにします。

(マタイ福音書26:14~30) そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。

 除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。 夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」

 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

(説教) 先週3/2(水)が「灰の水曜日」(灰は悔い改めを表す)で、その日から受難節(レント)に入りました。受難節(レント)は、イエス・キリストが私たちの全ての罪を背負って十字架で苦難を味わい死んで下さったことを、心に深く留める大切な時です。日曜日を含めないで40日間です。日曜日はイエス様の復活日なので、40日から外しているようです。なぜ40日間かと言うと、イエス様が公の出伝道に人生に入られる直前に、40日間に渡って悪魔の誘惑を受けられ、40日40夜断食なさったことを大切に受け留めて、私たちキリスト教会は40日間の受難節(レント)を守って来ました。イースター(イエス・キリストの復活日)を意義深く迎えるためです。本日は、受難節(レント)第1主日です。

 最初の小見出しは、「ユダ、裏切りを企てる」です。この直前は、ベタニアという所の家で、一人の女性がイエス様の頭に、非常に高価な香油を注ぎかけて、イエス様への深い愛を表明する真に麗しい場面でした。到底お金に換算などできない、神の子イエス様の無限の尊さが示されたとも言えます。ユダが行ったことは、それと完全に対照的です。最近の言葉を使えば、真逆です。「そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、『あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか』と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」銀貨三十枚は、当時の奴隷一人分の金額だそうです。奴隷がいることはもちろん言語道断ですが、イエス様という神の子を銀貨三十枚で売ることも、完全に言語道断です。ユダの心が悪魔によってコントロールされています。

 ですが、父なる神様がもっと上から全てを導き、リードしておられます。ユダは「引き渡せば」と言いました。「引き渡す」は原語のギリシア語で(聞き慣れない言葉で恐縮ですが)「パラディドーミ」という言葉です。重要な言葉と思います。使徒パウロが書いたローマの信徒への手紙8章32節にもこの言葉が使われています。「私たちすべてのために、その御子(イエス様)をさえ惜しまず死に渡された方は」とあります。この「死に渡された(お渡しになった)」の「渡された(渡した)」が同じ「パラディドーミ」です。一面では確かにユダが積極的に行動して、イエス様を銀貨三十枚で裏切り、イエス様を祭司長たちに「引き渡す」そして十字架の死に追いやり、悪魔が勝利しているように見えます。ですがもっと上から見ると、父なる神様が最愛の独り子イエス様を十字架の死へと引き渡される。独り子イエス様を惜しまず十字架の死に引き渡すことで、イエス様に私たちの全部の罪の責任を背負わせなさり、私たちの罪が完全に赦される道を開いて下さったのです。ユダと悪魔がイエス様の行く末を完璧に支配しているように見えて、実はそうではなく、父なる神様が私たちを罪と死と悪魔から救い出す、真に高度な計画が進んでいるのです。

 このことにもう少し触れるならば、21節でイエス様が「はっきり言っておくが、あなた方のうちの一人が私を裏切ろうとしている」とおっしゃり、24節でイエス様が「人の子(イエス様ご自身)は、聖書(旧約聖書)に書いてある通りに去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」と言われ、続く25節では「イエスを裏切ろうとしていたユダが」とあります。ここに4回出て来る「裏切る」という言葉も「パラディドーミ」、つまり「引き渡す」の意味です。ですからこう訳すこともできます。「はっきり言っておくが、あなた方のうちの一人が私を引き渡そうとしている」、「人の子を引き渡すその者は不幸だ。」「イエスを引き渡そうとしていたユダが。」この「引き渡す」という言葉は重要ですね。繰り返しになりますが、悪魔に唆されたユダがイエス様を死に追いやっている面を見ると、悪魔とユダが全てを支配しているように見えます。しかし父なる神様がもっと高い目的で全てを支配しておられ、悪魔とユダの罪深い勝手な行動をさえ用いて、イエス様が私たちの全部の罪の責任を身代わりに背負って、私たちを罪と死と悪魔の支配から解き放つ救いのご計画を力強く進めておられるのです。イエス様は全てを分かった上で、十字架に向かって勇気をもって進まれます。

 少し戻って、2つ目の小見出しの所です。2つ目の小見出しは、「過越の食事をする」です。「過越の食事」は、イスラエルの民にとって民族としての最も重要な食事です。もちろん昔、イスラエルの民がエジプトで奴隷のように厳しい労働を強制させられていたとき、神様が強い御手を動かして、イスラエルの民をエジプトからだ脱出させて下さったことを記念する食事です。17節に除酵祭とあるのは、事実上,過越祭と同じ祭りを指すようです。出エジプト記12章で、神様がイスラエルの民にこう命じておられます。「今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。~その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。~それは、子の月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入口の二本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。」神様がその夜、エジプトの国を巡って、人であれ家畜であれ、エジプトの国の全ての初子を撃って裁きを行われます。その時、小羊の血が塗られた家(イスラエルの民の家)は、神様の裁きが過ぎ越して行きました。小羊がイスラエルの民の罪を身代わりに背負って死んだことになるのでしょう。小羊の血が柱と鴨居に塗られた家は、神様の裁きを免れるのです。この救いの出来事が過越祭の原点です。

 この出来事を記念する過ぎ越しの食事は、旧約聖書の民の食事と言えます。イエス様と十二人の弟子たちも、まずはこの旧約のイスラエルの民の伝統の過ぎ越しの食事を食されるのです。十字架の死の前夜、木曜日の出来事です。19~20節「弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。」有名な「最後の晩餐」の場面です。イエス様が重大なことを語られます。「はっきり言っておくが、あなた方の内の一人が私を裏切ろうと(引き渡そうと)している。」弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさか私のことでは」と代わる代わる言い始めた。ここでは皆、自信がないのですね、動揺しています。今日の場面の後でペトロが、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と主張しますが、今日の箇所では皆、イエス様を裏切らない自信がないのです。

 イエス様は言われます。「私と一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、私を裏切る。人の子は、聖書に書いてある通りに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」イエス様と一緒に手で鉢に食べ物を浸した者と言われたのですから、ユダがそうしていれば皆に分かるはずですが、角度等の関係で、よく見えなかったのかもしれません。」「私と一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、私を裏切る。」これは本日の旧約聖書・詩編41編10節と同じことを言っていると思います。「わたしの信頼していた仲間/わたしのパンを食べる者が/威張ってわたしを足げにします」 「不幸だ」と訳された言葉は、元の言葉で「ウーアイ」です。「ウーアイ」は、まさに「ウー」「アー」という呻きであって、イエス様の最も深い嘆きの言葉、悲しみの呻きと思います。ユダが口を鋏み「先生、まさか私のことでは」と言うと、イエス様は「それはあなたの言ったことだ」と言われます。分かりにくい言葉ですが、「あなたは自分で分かっているだろう」の意味ではないかと思われます。イエス様はユダの心を見抜いておられます。

 次の小見出しは「主の晩餐」です。過ぎ越しの伝統の食事が進み、ここでイエス様が新しい展開を行われます。26節「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」これが聖餐式の原型であることは間違いありません。本日はコロナのために、聖餐式そのものを行うことができず(飲食に危険を感じる方もおられるので)、聖餐式の式文の朗読にとどめますが、十二人の弟子たちはイエス様がリードなさる史上第一回目の聖餐にあずかったと言えます。私たちが教会で執り行う聖餐式は、人間の牧師が司式をさせていただきますが、牧師は代理人であって、見えない真の司式者はイエス・キリストです。洗礼式も、真の司式者はイエス様ご自身です。

 「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて。」直訳すると「イエスはパンを取り、祝福した」となります。パンを裂いて弟子たちに渡しました。「裂く」行為が大事ですね。イエス様の御体が十字架上で本当に裂かれたことを示す、大事な行為です。私が神学生だった時、私が通った東京神学大学と、お隣りの日本ルーテル神学大学(当時の名称)で合同礼拝(一致礼拝)がありました。ある時、お隣が会場でルター派の教会の礼拝と聖餐式を経験しました。聖餐式の時、ルーテル教会の牧師が司式され、一人一人の目の前でパンを裂いて渡して下さいました。「これはあなたのために裂かれたキリストの体です。」私たちの聖餐式では、パンは予め切ってあり、裂いてあります。それが間違いではないと思います。でも目の前で一人一人にパンを裂いて渡されると、イエス様が私たちの罪を背負って十字架で肉体を裂かれて下さったことを意識します。「裂く」行為が重要だと感じました。

 「また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」一つの杯から全員飲んだのですね。この形の聖餐式を体験したこともあります。今はコロナですから、できないでしょう。「これは罪(複数形)が赦されるように、多くの人のために流される私の血、契約の血である。」新しい契約の血です。過越しの食事は古い契約の食事、旧約の食事、イエス様の晩餐は新しい契約の食事です。聖餐式は、新しい契約(新約)の聖なる食事です。古い契約は、神様がイスラエルの民を苦しめるエジプトの罪を裁き、イスラエルの民をエジプトから脱出させて十戒を与えて下さる。イスラエルの民は神様の恵みに感謝して、十戒を守って生きる。そのような契約が古い契約、旧約です。古い契約の食事が過越しの食事で、出エジプトの時、屠られた小羊の血を塗ったイスラエルの家は、神の裁きが通り過ぎて救われました。しかしイスラエルの民が、十戒を守って生きず、十戒を破るようになり、古い契約は十分に機能しません。人間が罪深くて十戒を守りきれないからです。

 そこで神様が、新しい契約を与えて下さいました。預言者エレミヤが、預言していますね。開きませんが、エレミヤ書31章31節以下です。「見よ、私(神様)がイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。~私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、私の律法を彼らの胸に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。~私は彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」新しい契約は、罪の赦しを与える契約だというのです。出エジプトの前には小羊が屠られ、その血がイスラエルの民に救いをもたらしました。新しい契約では、神の子イエス様が十字架で清い血を流され、その尊い犠牲によって私ども罪人(つみびと)の罪が許されるのです。血は命です。イエス様は十字架で血を流し、御自分の命を私どもにプレゼントして下さいました。このような救いの道は、日本人には理解しにくいと思います。しかし新約聖書のヘブライ人への手紙9章には「血を流すことなしには罪の赦しはあり得ない」という厳粛な真実が記されています。その新しい契約を、イエス・キリストが実現して下さいました。イエス様が私たちの全部の罪を背負って十字架で死なれ、三日目に復活なさることで実現した契約です。イエス様を救い主と信じる洗礼を受けることで、この契約に入るというのがキリスト教会の理解です。

 聖餐について、コリントの信徒への手紙(一)10章にも書かれています。「偶像礼拝を避けなさい。~私たちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。」「キリストの血にあずかる」を直訳すると、「キリストの血と交わる」です。聖餐のぶどう液を飲むことは、イエス様の清い血潮に直に触れ、これと直に交流することだと。「キリストの体にあずかる」も直訳では、「キリストの体と交わる」です。聖餐のパンを食べることは、普通のパンを食べることと違って、イエス様の聖なる体に直に触れ、直に交流することなのです。聖なるものと交流すること。普通のパンとふつうのぶどう酒を食べ飲みするのと違います。ですから、神様を正しく畏れて、罪を悔い改める気持ちをもっていただくことが必要です。同時に聖餐は、イエス様の清い愛を食べて飲む、清い祝福の時でもあります。聖なる両面があります。

 イエス様は、「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」イエス様は半日後に十字架につけられて、一旦死なれます。しかし「わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日」が必ず来ることを確信しておられました。天国の祝宴を味わう時が必ず来る。信仰とは、まさに希望、神の国が来る希望です。この希望が確かであることを、私どもは聖書の約束と聖餐式によって確認し、励ましを受けながら生きて参ります。

(祈り)御名賛美。
コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。コロナで亡くなる方が増えています。亡くなる方が出ないようにして下さい。オミクロン株を静めて世界中が神に立ち帰るように。経済困難の方に助けを。全ての病と闘う方に癒し。教会学校の子どもたち。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。チャイルドファンドを通し応援しているフィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ウクライナに早く平和がもたらされますように、切に祈ります。ミャンマー、アフガニスタン、トンガに神様の愛と助けを。アーメン。