日本キリスト教団 東久留米教会

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2022-07-24 1:10:02()
「天国の光をもたらすキリスト」2022年7月24日(日)「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第52回)
順序:招詞 コリント(二)1:3~5、頌栄24、「主の祈り」,交読詩編なし,使徒信条、讃美歌21・227、聖書 ヨハネ福音書2:1~12(新約p.165)、祈祷、説教、讃美歌21・431、献金、頌栄27、祝祷。 

(ヨハネ福音書2:1~12) 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。

(説教) 7週間前にペンテコステを献げ、本日は「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第52回)です。本日の説教題は「天国の光をもたらすキリスト」です。本日のヨハネ福音書の個所は、教会では有名な個所です。小見出しは「カナでの婚礼」です。

1~2節「三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。」婚礼は結婚式ですから、一番の祝福の時と言えます。そして聖書では、婚礼・結婚式はしばしば天国・神の国のシンボルです。冒頭の「三日目」という言葉にも、意味があると思います。新約聖書では三日目はイエス・キリストの十字架の死から三日目が、復活の日です。冒頭の三日目という言葉には、復活の喜びが暗示されていると思います。

 3節「ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに『ぶどう酒がなくなりました』と言った。」イエス様の母マリアも、婚礼の裏方で幹事のように働いていたのでしょう。娯楽は少ない時代、婚礼は村を挙げての喜びだったと思います。祝福のぶどう酒を皆で飲む数少ない機会です。それがないとなると、やはり困ってしまいます。困り事をイエス様に率直に申し上げることは、よいこと思います。私たちも、時に困ることがあります。打開すべく努力もしますが、同時にイエス様に率直に困り事を訴え、「助けて下さい」と祈ることは正しいことと信じます。イエス様は、必ず何らかの形で助けて下さいます。イエス様は私たちに「あなたの自己責任だけで、何とかしなさい」とは言われないと思います。困り事打開のために私たちも、一生懸命努力しますが、同時に祈ることで、イエス様(父なる神様)が必ず何らかの形で助けて下さる。私たちはきっと、それを何回も経験してきたと思うのです。マリアさんも、我が子イエス様に助けを求めました。

 しかしイエス様の応答は、一見とても冷淡です。「婦人よ、私とどんなかかわりがあるのです。私の時はまだ来ていません。」実のお母さんに、こんなによそよそしい言い方をしなくてもよいのに、と思ってしまいますね。「私とどんなかかわりがあるのです」とは、ちょっと驚くべき言い方です。「どんなかかわり」も何も、実のお母さんではありませんか。イエス様はここで一旦、母マリアの願いを断っているかのようです。イエス様にしてみれば、理由はあるのですね。「私はお母さんの長男であると同時に、天におられる父なる神様の独り子なのですよ。私は、父なる神様から与えられた使命を果たすことを最優先しなければならないのですよ。お母さんは私が奇跡を起こしてぶどう酒を造り出すことを願っておられるのでしょうが、私の時はまだ来ていません。私が父なる神様の栄光を表す時は、まだ先です。今奇跡を頼まれても困ります。」

 マリアにもそれは伝わったと思います。イエス様が一旦断ったように聞こえた。しかし、そこは実の親子。マリアさんはそれを聞いても、「イエスはあのように言ってはいるけれども、きっと何とかしてくれる」と信頼し、期待していたに違いありません。ある神父は、想像しています。ここには「二人だけに通じる言外のコミュニケーションがあったはずです。その時、イエス様の声の調子は柔らかく、顔は当惑を表しながらも微笑みを含んでおり、また、ひょっとしたら、目にはいたずらっぽさがのぞいていたかもしれません。」イエス様のお気持ちとしては、「本当はまだ神の栄光を現す時は今ではなく、まだ先だけれども、お母さんのたっての願いだからしょうがないか」という気持ちだったのではないでしょうか。私たちが祈るときも、本当に困っているならば、「こんなことは聞いていただけないだろう」と決めつけないで、あえて父なる神様に(あるいはイエス様に)願いを祈ることがよいと思います。神様は冷たい機械ではなく心を持つ方ですから、聞き上げて下さる可能性はあると信じて、祈ることが大切と信じます。

 マリアさんは、イエス様がきっと何とかして下さると信頼して、召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、その通りにして下さい」と言いました。イエス様がきっと彼らに言いつけなさるだろうと信頼していたと感じます。6節「そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。」マリアさんが期待した通りイエス様が、召し使いたちに言いつけます。「水かめに水をいっぱい入れなさい。」召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。一メトレテスは約39ℓですから、二ないし三メトレテスは約80~120ℓですから、各家庭のお風呂くらいの容量でしょうか。その石かめが六つありました。水場まで水を汲みに行き、水を汲んで戻って来てかめに入れる。何回か往復するでしょう。各々のかめを縁までいっぱいにしました。実に忠実な召し使いたちです。言われた通りに行う姿勢がすばらしい。人は時には、100%言われた通りにせず、95%くらいで勝手によしとすることも、ないとは言い切れません。マタイ福音書25章には、主人から「忠実な良い僕だ」と褒められる僕が登場しますが、私たちもイエス様から「忠実な良い僕だ」と呼ばれるように、心がけたいものです。私たちはイエス様に忠実にお仕えし、イエス様がそれを祝福して下さいます。

 イエス様が言われます。8節「さあ、それを汲んで宴会の世話役のところへ持って行きなさい。」石かめを運んだのではないようです。召し使いたちが運んで行く途中で、水はぶどう酒に変わりました。変化しました。イエス様が祝福して下さったからです。9節「世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水を汲んだ召し使いたちは知っていたが」とあります。このぶどう酒はどこから来たのか? 天国から来たのです。イエス・キリストから来たのです。イエス様こそ、神様の清さと愛と祝福の源なのです。

 「このぶどう酒がどこから来たのか、水を汲んだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。『だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いが回った頃に劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれました。』」良いぶどう酒、最高級のぶどう酒、極上のぶどう酒でした。イエス様は、この結婚式を、大いに祝福して下さったのです。マリアさんもほっとし、大変喜んだに違いありません。ぶどう酒がなくなって青くなっていたであろう世話役の顔も立ちました。11節「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」イエス様こそ真の神の子、真の救い主と信じたのです。

 この出来事が教えることは、イエス様の祝福、神様の真の愛がないと、人生が虚しいということではないでしょうか。昔の有名なクリスチャンであったアゥグスティヌスという人が、「人の心は神様に向かって作られているので、真の神様に立ち帰らないと、真の安らぎを得ることができない」という言葉を残しています。「人の心は神様に向かって作られているので、真の神様に立ち帰らないと、真の安らぎを得ることができない。」このヨハネ福音書3章16節に、「神はその独り子(イエス様)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という、神様の愛を強調する教会では有名な御言葉があります。またコリントの信徒への手紙(一)13章には、これも教会では有名な「愛の賛歌」があり、こう書かれています。「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持ていようとも、愛がなければ無に等しい。 それゆえ、信仰と希望と愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」

 誰もが神様の愛、神の子イエス・キリストの真の愛を必要としています。これがないと、人生が虚しく感じられるのではないでしょうか。旧約聖書に「コヘレトの言葉」という書があります。以前は「伝道の書」と呼びました。その1章にこうあります。「何という空しさ。何という空しさ、全ては空しい。太陽の下、人は労苦するが、全ての労苦も何になろう。」これが人生の全てとは思いませんが、そのような面もあります。心が満たされないと、人によっては麻薬、覚醒剤、不倫、犯罪に走ることもあります。神様の真の愛で心が満たされていれば、そのようなことに走る必要もなくなります。東久留米教会で今から25年ほども前に、加藤常昭先生という有名な牧師をお招きして、伝道集会を行ったことがあります。その頃、神戸で、14歳の男子中学生が小学生二人を殺害する衝撃的な事件がありました。加藤先生は伝道集会で、その事件のことに触れられました。その加害者の少年が、心に深い深い闇、自分でコントロールできない攻撃性にもし悩んでいたなら、周りにそれに気づいたクリスチャンはいなかったのだろうか。神戸には教会はたくさんあるのだから、彼が事件を起こす前に、彼に寄り添うクリスチャンや牧師がいれば、違う結果になったのではないか。おおよそそのようなお話でした。彼に、神の愛を知らせる人がいれば、違う結果もあり得たのではないか、と。

 私がそれを思い出したのは、今回の安倍元首相の銃撃事件の犯人のことを思ったからです。悪い宗教によって家庭を破壊されて恨みをもつようになり、殺人事件を起こした。神様の愛、イエス・キリストの愛に触れる経験が、全くなかったのではないかと思います。彼の犯罪を正当化することは不可能ですが、家庭を破壊されて恨みを持つようになった彼に、真の愛を伝える人、イエス・キリストの真に愛を言葉や行いによって知らせる人が身近にいれば、わざわざ銃を造って人を殺すまでに至らなかった可能性もあるのではないか。愛が欠けていることが、暴力、攻撃、犯罪につながってしまう。もしかすると私たちの身の周りにも、その手前のような人がいないとは言えません。クリスチャンの役割は大きいと思います。世の中で辛いことが多いとしても、イエス・キリストはあなたを愛している。あなたの身代わりに十字架で死んで下さるほどに、あなたを愛している。この事実を伝えて、心のケアを行うことができます。

 このような心のケアを教会で「牧会」と呼びます。牧会はもちろん牧師の務めですが、役員さんをはじめ、クリスチャンならどなたでも行うことができます。教会学校の先生であれば、教会学校の生徒のために祈りながら牧会を行います。牧会は、羊飼いが羊たちのためにケアすることですね。大いなる羊飼いイエス様がまず、小さき羊である私たち一人一人に愛を注ぎ、よき牧会を行って下さいました。私たちはそれに支えられて、他の方に牧会をさせていただきます。教会の務めは伝道、礼拝、そして牧会と言うことができます。このような牧会があれば、加害行動に走りそうな人の心を落ち着かせて、恨みや怒りを乗り越えて、何とか平和に過ごせるように導くこともあり得ると思います。このようなケアは、精神科医や一般のカウンセラーでもできる部分がありますが、でもイエス・キリストが私たちを十字架の愛で愛しておられることを知リスチャンにこそ、大いにできることと思います。

 三浦綾子さんというクリスチャンの作家がおられました。この方の作品を読んでクリスチャンになった方は、相当多いと思います。この方は太平洋戦争中は、小学校(国民学校)の熱心な教師、軍国教師だったそうです。ところが敗戦によって、これまで教えて来た教科書を墨で塗りつぶすことになり(これまで正しいと信じて教えて来たことが否定された)、どのように生きてよいか分からなくなり、生きる目的を見失い、虚無に陥り、病気になってしまいます。聖書に出会っても、すぐに信じることはできませんでした。命を絶とうとさえしますが、助けられます。色々なよき出会いが与えられ、長い時間を経て、洗礼に導かれます。病床洗礼です。三浦綾子さんの『道ありき』(新潮文庫)という自伝によると、「その時まで、私の気持ちは極めて冷静であった。洗礼を受けるというのに、これほど何の感動も感激もなくてよいものかと不安になるほど、平静であった。ところが(いよいよ洗礼の瞬間になって)、私は思わず泣いてしまった。それは自分自身にも思いがけないことであった。だが、涙が心の奥深い所からほとばしり出てくるのだ。私のような不誠実な者が、私のように罪深い者が、キリスト者となることができるのかと思うと、どうにも泣けてしかたがなかった。」

 洗礼式が終わって、小野村林蔵牧師が、静かに言われました。「必ず治ります。いましばらくの試練ですからね。」「必ず治ります」の確信に満ちた静かな言葉が「その後の長い病床生活の中で、いく度も私を慰め励ました」と三浦さんが書いています。この小野村牧師は、まさによき羊飼い、よき牧会者です。真の光はイエス様ですが、そのイエス様の聖霊に満たされて、小野村牧師もまた小さなキリストとして、三浦さんを慰め励ます光の言葉をプレゼントしたのです。私たちもイエス様に愛されて聖霊を注がれているので、一人一人が小さなキリストとなって、隣人にささやかでも光をもたらす使命を与えられています。三浦さんは、さらに書きます。「ふしぎなことが起こった。洗礼を受けたその日から、私はうれしくてうれしくてならなくなった。心の中に灯がともったのだ。その灯が私を揺り動かすのだ。『神様、〇さんと、〇さんと、〇さんを、どうかクリスチャンにさせて下さい。この三人がクリスチャンになりましたら、私はいつ天に召されてもよろしいです。』そして私は、この三人に葉書を書いた。私がこんなに喜んでいる喜びを、分けたくて仕方がなかった。それは、おいしい物を食べた時、人にも食べてもらいたいあの気持ちに似ていた。西村先生(先輩クリスチャン)の日常を見ていると、キリスト者とは伝道するものであると思わずにはいられなかった。」

 三浦さんの心にキリストの愛と聖霊が注がれたのです。キリストの愛と聖霊が、空しさ、虚無を乗り越える力となりました。今日のヨハネ福音書で、イエス様が水から造り出して下さったぶどう酒は、イエス様の愛のシンボルです。私も今から34年前に、教会の礼拝で洗礼を受けた日、一人暮らしのアパートに帰ってもやや興奮していて、ついつい部屋の中で讃美歌を歌い続けておりました。やはり嬉しかったのでしょうね。聖霊が注がれたのかなと思います。大きな声で歌っていたつもりはないのですが、暫くして上の部屋の人が「ドンドン」と彼の床(私の天井)を叩いて、「うるさい」と怒っていたようです。それで歌うのをやめた記憶があります。

 虚無や恨みを乗り越えさせる力は、イエス様の十字架の愛です。私たち罪人(つみびと)の全ての罪を身代わりに背負って死に、三日目に復活されたイエス様の十字架の愛です。私が洗礼を受けた教会に、統一協会の信仰をやめてクリスチャンになった方がおられたと先週申しましたが、その方もすぐにクリスチャンにはなれなかったそうです。それまで文鮮明が救い主と信じていたのに、嘘だと分かった。イエス様が救い主だと言われても、また嘘だったらまた騙される。それで簡単には信じられなかったのですが、「でもイエス様は私の身代わりに死んで下さった。そのような方なら、信じても裏切られることはない」と思って、洗礼に至ることができたそうです。このイエス様の十字架の愛を信じて、全ての人にクリスチャンになっていただき、神の子になっていただき、真の平安に入っていただきたいと切に祈ります。

(祈り)御名讃美。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。コロナが早く収まりに転じますように。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。ウクライナに平和、フィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマーに愛を。アーメン。

2022-07-20 17:44:29(水)
7月の伝道メッセージ  石田真一郎(保育園の「おたより」7月号 原稿)
「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない」(旧約聖書・出エジプト記22章20節)。

 アメリカ合衆国でまだ完全になくならないのが、人種差別です。数年前も、アフリカ系男性が警官に体を押さえつけられ、落命する事件があり、BLM(Black Lives Matter! 黒人の命は大切だ!)の運動が起こりました。19世紀の南北戦争で北部が勝ち、奴隷制度は廃止されましたが、人種差別は今も完全に消えていません。

 ハリエット・タブマン(1820頃~1913)という奴隷だった女性が、300名もの奴隷を自由の地に導いた驚くべき事実があります(小学生以上向けの絵本『ハリエットの道』日本キリスト教団出版局)。ハリエットは若い時に主人に重りをぶつけられ、後遺症の頭痛や失語の発作に一生苦しみました。1849年の夏の夜、南部のメリーランド州の主人の家から逃げます。移動は夜、神様に祈りながら。星で位置を知る方法、天気を予想する方法、植物から薬を作る方法を習った知識を総動員。見つかりかける危険の度に、神様がそよ風等によって語り、守って下さいます。神様がいつも共におられます。彼女は深く強い信仰と勇気の持ち主。逃亡奴隷をかくまい逃がす「自由への地下鉄道」(奴隷制に反対の人の家や教会)がありました。145km歩き、ついに奴隷制のないフィラデルフィア(「兄弟愛」の意)に着きます。
 
 愛する家族や友が奴隷で苦しんでいるので、まだ喜べません。彼女はお金をため、「自由への地下鉄道」の秘密の駅(協力者の家や教会)の場所を覚え、神様に祈りつつ南部に19回も戻り、命の危険を冒し、何百キロも歩き、兄弟・両親・仲間の奴隷たちを北へ逃がす先頭に立ちます。別のルートを使い、変装し、何と300人の奴隷をカナダ等の自由の地に導きました。白人の奴隷主に憎まれ、多額の懸賞金を懸けられますが、捕まりません。旧約聖書で、エジプトでの奴隷状態に苦しむイスラエルの多くの民を、神様の助けを得てエジプトから脱出させ、イスラエルの地に導いたモーセになぞらえ、ハリエットは「女モーセ」、「黒人モーセ」と呼ばれます。彼女を支えたのは、神様への祈りと黒人霊歌(讃美歌)です。アメリカの20ドル札の新しい顔になる予定と聞きます。アメリカで2020年に『ハリエット』という映画が公開され、DVDもあります。

 聖書に、「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない」とあります。国内の外国人を大切にしなさいということです。日本は在日韓国・朝鮮の方や外国籍の方に優しい社会でしょうか。ぜひそのような日本にしましょう。在日韓国・朝鮮の方の指紋押捺は1993年に廃止され、よかったです。アーメン(真実に)。 

2022-07-17 0:07:51()
「キリストが形づくられるまで」 2022年7月17日(日) 聖霊降臨節第7主日礼拝 
順序:招詞 コリント(二)1:3~5、頌栄85(2回)、「主の祈り」,交読詩編64,使徒信条、讃美歌21・205、聖書 出エジプト記20:1~3(旧約p.126),ガラテヤの信徒への手紙4:8~20(新約p.347)、祈祷、説教、讃美歌21・459、献金、頌栄92、祝祷。 

(出エジプト記20:1~3) 神はこれらすべての言葉を告げられた。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

(ガラテヤの信徒への手紙4:8~20) ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします。あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。

 すると、わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心に慕われるのは、よいことです。わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。

(説教) 6週間前にペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝を献げ、本日は聖霊降臨節第7主日の礼拝です。できるだけ、月一回ガラテヤの信徒への手紙を読みたいと思っています。前回ガラテヤの信徒への手紙を読んだのは5/8(日)です。本日の説教題は「キリストが形づくられるまで」と致しました。この手紙を書いたパウロの願いは、ガラテヤの教会がイエス・キリストの福音に根差した共同体になってほしいということです。新約聖書によると、教会はイエス・キリストの体です。いつの時代のどの地域の教会も、イエス・キリストの福音に根差した共同体である必要があります。それはどのような共同体なのか。私たちも本日のガラテヤの信徒への手紙を読んで、祈り考えてゆく必要があります。この課題との取り組みは、イエス様がもう一度地上に来られる再臨の時まで続くでしょう。宗教改革者のマルティン・ルターも、ガラテヤの信徒への手紙を非常に重要と見ていたようです。

 本日は、4章の8節から20節までです。小見出しは、「キリストがあなた方の内に形づくられるまで」です。パウロがガラテヤの教会の人々に、イエス・キリストの福音に根差した生き方をするようにと、教え諭しています。人々がイエス様の福音に根差した生き方から、逸れていたからです。イエス様の福音とは、イエス様の十字架の犠牲の死のお陰で私たちに与えられたすべての罪の赦しと、イエス様の復活のお陰で私たちに与えられた永遠の命です。私たちは、これらを土台に生きます。

 パウロは8節で書きます。「ところで、あなた方はかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。」ガラテヤという土地は、今の小アジア、トルコの辺りです。そこに住む人々は、真の神様を知らずに生きていたでしょう。旧約聖書と新約聖書に登場する真の神様を知らずに、その地域の「神々と言われるもの」を礼拝していたでしょう。それは私たち日本人も同じです。1549年に初めてキリスト教が伝わるまでは、日本人も真の神様を知りませんでした。天照大神や八百万の神々、戦いの神とされる八幡台菩薩等に祈りを献げながら生きていたはずです。これらは今でも礼拝されています。しかしもちろん、真の神様ではありません。聖書に登場する神様だけが、全宇宙と全ての生き物をお造りになった真の神様であられ、その方がイエス・キリストの父なる神様でいらっしゃいます。旧約聖書においてイスラエルの民が奴隷状態になっていたエジプトの国では、太陽が神として礼拝され、犬も神として礼拝されていたようです。イスラエルの民の出エジプトは、偽りの神々からの解放でもありました。

 本日の旧約聖書は、出エジプト記20章1~3節です。「モーセの十戒」の前文と十戒の第一の戒めです。「神はこれらすべての言葉を告げられた。『私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。』」これは旧約聖書と新約聖書を貫く最も大切な教えとも言えます。この十戒の第一の戒めは、(最新の訳)聖書協会共同訳で、「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない」と、神が複数形になっているのを発見しました。当時も今も、いろいろな神々が礼拝されています。しかし私たちは、聖書の神様のみ、イエス・キリストの父なる神様のみを礼拝します。八百万の神々を礼拝しないので、私は初詣でに行ったことはありません。「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。」私たちは、十戒の第一のこの戒めを、これからも守り通してゆきます。第一の戒めを文語訳聖書で読むと、こうです。「汝、わが面の前に我のほか何物をも神とすべからず。」「わが面」とは「わが顔」のこと、神様の御顔のことです。ヘブライ語の旧約聖書を確認すると、確かに「面前」「顔」という言葉があります。それを明確に出して訳している日本語聖書は、私の持っている限りでは文語訳だけです。聖書協会共同訳も「面前」「顔」の言葉を出していません。それには何か理由があるのでしょうが、「面前」「顔」という言葉には、なかなかインパクトがあるので、訳に入れるとよいなと思います。そこで十戒の第一の戒めは、ぜひ文語訳で暗記するととてもよいと思うのです。「汝、わが面の前に我のほか何物をも神とすべからず。」

 私たちの礼拝、日々の生活は、いつも神様の視線を意識しながらの生活になるのですね。それはいつもイエス様が共にいて、私たちの全生活を慈愛の目で、時に厳しい目で、見て下さっていることを意識する生活であることを、胸に刻みたいのです。キリスト者の生き方は、この最も強い(全宇宙を創造した偉大な神)を畏れ敬うことで、他の支配者から自由になり、解放される生き方です。真の神、そして神の子イエス・キリストに従うことによって、他の支配者から解放される生き方です。

 ところがパウロが心配していることは、ガラテヤ教会の人々が逆戻りしていることです。8節以下「ところで、あなた方はかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている。いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。あなた方は、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。あなた方のために苦労したのは、無駄になったのではないかと、あなた方のことが心配です。」

 ガラテヤ教会には、ユダヤ教に近い考えの人々が入って来て、割礼を受けなければ天国に入れないと、間違った教えを説いたようです。これに対してパウロは、割礼は旧約聖書の時代な大事だったが、今は必要ないものになった。私たちに救いをもたらすのはイエス様の十字架と復活だけであると確信をもって説いています。その通りです。割礼に私たちを救う力はありません。イエス様の十字架の身代わりの死と復活だけが、私たちに天国と永遠の命を保証します。割礼のことはこれで片付きましたが、ガラテヤ教会の人々の問題は、「いろいろな日、月、時節、年」などを後生大事に守り始めたことです。それを守らないと天国に行けないとさえ、考えたのかもしれません。しかしそれは迷信であり、迷信に惑わされ、迷信に支配されてはいけないのです。現代にも、迷信があります。イエス様を信じる私たちは、それらをはっきり偶像崇拝として拒否する必要があります。雑誌等に星占いや占いが載っています。聖書では占いは罪として禁じられています。占いを捨てて、真の神様にのみ信頼して、祈ることが大切です。人間の心は弱く、占いの言葉に励まされたり、占いの言葉で落ち込んだりします。自動車の運転席などにお守りを下げている人も多いです。でもそれで事故を防ぐことはできません。占いにも、何の根拠もありません。それどころか、占いの霊で私たちを虜(奴隷)にしようとしているのは悪魔です。悪魔の手に乗ってはならず、クリスチャンは占いを意識的に拒否する必要があります。

 パウロが言う「無力で頼りにならない支配する諸霊」は、今の日本では、星占い等占いのほかにも、おみくじ、風水(方向にこだわって運気アップ?)等があると思います。大安、仏滅というものもあります。名前の漢字の画数などで運命が決まると思う人もいます。それらには何の力も根拠もありません。迷信です。それらに心が支配されないように、はっきり関わりを拒否して(「サタンよ、退け」)、真の神様にのみ祈り、真の神の御言葉である聖書を読むことが必要です。私どもの息子が生まれた時に、暫くして保育園を探そうとしたとき、近くに家庭保育所というのがあって、見学に行きました。責任者の女性の人柄もよかったので、そこに預けようとかと思いかかった時に、その責任者の女性が、子どもたちのために「手かざしの祈り」をすると言われました。これはキリスト教でない日本の宗教だと思いました。その方は善意でそれを行い、人柄はよいので、「近くて便利だしここに預けようか」と少し思ったのですが、やはり「手かざしの祈り」は困ると思い、やめました。最終的には、下里しおん保育園というキリスト教の保育園に入園できたので、近くて便利とは言え、「手かざし」にしなくてよかったということがありました。「手かざし」を熱心に行っている方は善意とは言え、悪の諸霊の奴隷になっているのです。

 パウロは、せっかく真の神様のみに従って真の自由を得たガラテヤ教会の人々が、無意味で有害な諸霊の支配に逆戻りすることを、何としても食い止める決意で、この手紙を書いています。パウロは訴えます。12節以下「私もあなた方のようになったのですから、あなた方も私のようになって下さい。」「パウロがガラテヤ教会の人々のようになった」とは、具体的にどのようなことか分かりませんが、罪でないことについてはパウロも彼らに自分を合わせたということでしょう。そしてパウロは「あなた方も私のようになって下さい」と訴えます。「支配する諸霊に逆戻りするな。イエス・キリストに従っている私を見なさい。そして私と同じに、イエス・キリストにひたすら従いなさい」と訴えます。私たちも、パウロと同じようにイエス様に従う者になりましょう。

 パウロは少し前まで、ガラテヤの教会の人々が、イエス様に喜んで従っていた理想的なときのことを思い出させようとします。「兄弟たち、お願いします。あなた方は、私に何一つ不当な仕打ちをしませんでした。知ってのとおり、この前私は、体が弱くなったことがきっかけで、あなた方に福音を告げ知らせました。そして、私の身には、あなた方にとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、私を神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。あなた方が味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなた方のために証言しますが、あなた方は、できることなら、自分の目をえぐり出しても私に与えようとしたのです。」

 パウロが何か病気になって弱くなったことがきっかけで、パウロはガラテヤの人たちにイエス様を宣べ伝えたのでした。私たちにマイナスに見えることでも、神様は伝道のためにプラスに用いて下さることもあるのですね。パウロは眼の病気になったのではないかと言われます。眼が見苦しい状態になったのでしょう。普通なら忌み嫌われても仕方がないほど、見苦しかったのでしょう。ところがガラテヤの教会の人々が聖霊に満たされていて、イエス様の愛にあふれていたので、彼らはパウロをまるでイエス様であるかのように受け入れ、自分たちの目をえぐり出しても、パウロさんに与えたいとさえ、本気で言ったのです。「目」が複数なので、複数の人々が「パウロに自分の目を与えたい」と本気で言ったのでしょう。それほど彼らがパウロを、イエス様の愛で愛してくれました。

 ところがそこへ、ユダヤ教に近い考えを持つ人々、イエス様を救い主と信じるだけでは足りず、割礼を受けなければ天国に入ることはできないなどと説く人々が入り込み、ガラテヤの教会の人々を間違った方向に導いたのでした。パウロは逆戻りしてはいけないと訴えます。イエス・キリストにひたすら立ち帰るように訴えます。16節から。「すると、私は真理(イエス・キリスト)を語ったために、あなた方の敵となったのですか。あの者たちがあなた方に対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなた方を引き離したいのです。私があなた方のもとにいる場合だけに限らず、いつでも善意から熱心に慕われれるのは、よいことです。」

 パウロにとってガラテヤの教会の人々は、自分の信仰上の子どもたち、霊的な子どもたちです。それでこう語りかけます。19~20節「私の子どもたち、キリストがあなた方の内に形づくられるまで、私は、もう一度あなた方を産もうと苦しんでいます。できることなら、私は今あなた方のもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなた方のことで途方に暮れているからです。」二度と諸霊の奴隷になってはいけない、イエス様に喜んで従うことで、他の偽の神々の支配から解放されたのでだから、その自由を守りなさいと訴えています。

 私たちを奴隷にしようとする諸霊(悪の諸霊)は、本当に存在します。最近の報道でよく出て来るのは統一協会です。今は名前が変わったようですが、文鮮明という人(故人)を教祖とする団体で、日本にも以前は多くの信者がいました。壺を高額で買わせる霊感商法で社会問題になりました。統一協会に入ったことで、青春や人生を台無しにされた人が少なくないようです。私が洗礼を受けた教会にも当時、統一協会を抜けてクリスチャンになった方がおられました。文鮮明をメシア(救い主)と信じ、一時、統一協会という悪霊の虜にされていたと言わざるを得ないと思います。そこから解放されてクリスチャンになったのですから、よかったのです。オウム真理教という悪霊・悪魔もいました。その宗教に入ってしまった人々はサリン事件で多くの人を傷つけ、幹部は死刑という形で代償を支払いました。悪の諸霊が働いていますから、私たちがそれを断固退ける必要があります。

 パウロは言います。「私の子供たち、キリストがあなた方の内に形づくられるまで、私は、もう一度あなた方を産もうと苦しんでいます。」キリストの教会が、キリストの教会になるためにパウロは懸命に祈り、産みの苦しみをしています。「キリストがあなた方の内に形づくられるために。」キリストが主役なのです。キリストが主人公、キリストが中心です。東久留米教会の中心も、人間ではなくイエス・キリストです。「イエス様なら、どうなさるか。」役員会でも、教会総会でも、各部会や教会学校の話し合いでも、「イエス様なら、どうお考えになり、イエス様ならどう決めて行動なさるか」を中心にするのが教会ですね。私たち一人一人が聖書を読み、祈り、礼拝して聖霊を注がれて、イエス・キリストに似た一人一人に造り替えられることが大切と思います。イエス様が星占いやお守りに頼るなど考えられませんから、私たちもそれらに頼ることはしません。パウロはこの手紙で言います。2章19~20節「私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。」3章26~27節「あなた方は皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなた方は皆、キリストを着ているからです。」私たちの古い自分はイエス様と共に十字架につけられて死にました。私たち一人一人の主役は、イエス・キリストです。

 本日の9節に「支配する諸霊」とあります。それは各国のその時代の空気であることもよくあります。その時代を覆う精神、空気は、私たちを飲み込もうとします。その精神・空気の中にいると、それが当たり前になってしまい、その問題に気づきにくくなります。気づいても、その時代を支配する空気に反対することは難しい。戦争中の日本で、戦争に反対することは難しかったでしょう。反対すれば非国民と言われ、クリスチャンも戦争に反対しにくかったと聞きます。もっと前の日露戦争(1904~1905年)の時、日本で初めて良心的兵役拒否を行った矢部喜好という青会津若松出身の青年クリスチャンがいました。セブンスデイアドヴェンティストという教会に属していました。今、東久留米市でホーム・シャローム東久留米を運営している教団です。彼は、戦争は神様の意志に反するので、自分は国に命令されても兵士にならないと主張しました。彼が引用した聖書は、①出エジプト記20章13節「殺してはならない」(モーセの十戒の第六の戒め)。②マタイ福音書5章9節のイエス様の御言葉「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは、神の子と呼ばれる」。③同じくマタイ福音書5章44節のイエス様の御言葉「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。④やはりマタイ福音書26章52節のイエス様の御言葉「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」。矢部さんはしばらく牢獄に入ります。その後、説得され、衛生兵として従軍しました。妥協にも見えますが、若者が一人で聖書に基づき、政府を恐れず、戦争に反対した信仰は勇敢です。ロシアとの戦争に向かう時代の精神、時代の空気、ムードに流されなかったのです。

 日露戦争後にアメリカに10年近く留学した矢部さんは、帰国後は牧師として、琵琶湖畔を自転車で走り回って伝道に励みました。ガリラヤ湖畔で伝道されたイエス様を思いながら、琵琶湖畔でイエス様を宣べ伝え、膳所教会、大津教会で奉仕したようです。当時低く見られていた女性や子どもたちをよく教会に招きました。琵琶湖畔は、戦国時代に戦争だらけだった地域ですから、そこでイエス様の平和の福音を宣べ伝えることは、大いに意義があったと思います。矢部牧師は51才で病院で亡くなる直前に目を開き、「見える見える、天国が」「イエス様が見える」と言い、「ばんざーい」と叫んで息を引き取ったそうです。使徒言行録で殉教したステファノのように、本当に天国とイエス様が見えたのでしょう。「時代を支配する諸霊」を見抜き、それに流されず、諸霊に従うことを拒否し、イエス様に従う真の自由に生きた方です。私たちも、イエス様を愛しイエス様に従う、真に自由に生かされた参りたいのです。アーメン。
 
(祈り)御名讃美。東久留米教会が、「キリストの体」にますますなってゆくことができますように、力強く導いて下さい。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。コロナが早く収まるように世界と日本をお助け下さい。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。ウクライナに平和、フィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマーに愛を。アーメン。

2022-07-10 1:12:04()
「イエス様の弟子になろう!」 2022年7月10日(日) 聖霊降臨節第6主日礼拝
順序:招詞 コリント(二)1:3~5、頌栄85(2回)、「主の祈り」,交読詩編63,使徒信条、讃美歌21・208、聖書 イザヤ書35:3~10(旧約p.1116),ヨハネ福音書1:35~51(新約p.164)、祈祷、説教、讃美歌21・458、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(イザヤ書35:3~10) 弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。熱した砂地は湖となり/乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは/葦やパピルスの茂るところとなる。そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ/汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ/愚か者がそこに迷い入ることはない。そこに、獅子はおらず/獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて/喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え/嘆きと悲しみは逃げ去る。

(ヨハネ福音書1:35~51) その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。
 その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

(説教) 5週間前にペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝を献げ、本日は聖霊降臨節第6主日の礼拝です。3週間前より、月2回くらいの予定でヨハネによる福音書を最初から読み始めています。本日は1章の35~51節です。

 「その翌日、また、ヨハネ(洗礼者ヨハネ)は二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った。」前の日に「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言ったこととほぼ同じです。「世の罪を取り除く神の小羊」と聞いて、先週の礼拝ではイザヤ書53章を読みましたが、旧約聖書の出エジプト記12章を思い出すこともよいと思います。神様がイスラエルの民におっしゃいました。「家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。~それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血をとって、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。~その夜、私はエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。私は主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、私はあなたたちを過ぎ越す。」小羊の血が塗られたイスラエルの民の家の上を、神様の裁きが通り過ぎます。この小羊の血は、イエス・キリストの十字架の血潮を予告しています。イエス・キリストが十字架の上で、私たちの全部の罪の責任を背負いきって死んで下さったので、小羊イエス様が流して下さった清らかな血のお陰で、私たちの上を父なる神様の裁きが通り過ぎて行きます。イエス様が「神の小羊だ」と呼ばれているとき、私たちは出エジプト記の際の、この出来事を思い出すことがふさわしいです。

 ヨハネは「神の小羊だ」と言いましたが、これは「イエス様こそ、真の救い主だ」と言ったに等しいです。37節「イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、『何を求めているのか』と言われた。」イエス様は、従って来るヨハネの二人の弟子たちに対して「あなたたちは、私に何を求めているのか」と質問なさったのだと思います。ヨハネの弟子たちが、「ラビ(先生という意味)、どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエス様は「来なさい。そうすれば分かる」と言われました。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエス様ももとに泊まりました。この会話は午後四時ごろの夕方に行われたと書かれています。ヨハネの言葉を聞いて、イエス様に従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレでした。

 弟子たちはイエス様の元に泊まりました。ここに「泊まる」という言葉が三回出て来ますが、これはヨハネ福音書の重要なキーワードの一つです。元の言葉であるギリシア語で「メノー」という言葉で、「留まる」と訳すことができます。イエス様の元に留まる、イエス様につながることが最も大切だというメッセージが込められています。この「メノー」「留まる」という言葉は、ヨハネ福音書15章にも繰り返し出て来ます。「イエス様がまことのぶどうの木」だと述べられる、教会学校でもよく用いられる御言葉です。「私(イエス様)につながっていなさい。私もあなた方につながっている。」この「つながる」が元のギリシア語で「メノー」で、「留まる」の意味です。「私(イエス様)にとどまっていなさい。私もあなた方に留まっている」ということです。「ぶどうの枝が、木につながって(留まって)いなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなた方も、私につながって(留まって)いなければ、実を結ぶことができない。私はぶどうの木、あなた方はその枝である。人が私につながって(留まって)おり、私もその人につながって(留まって)いれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなた方は何もできないからである。」このように、ヨハネ福音書の私たちへのメッセージは、「イエス・キリストに留まりなさい。イエス様につながり続けなさい。そうすればイエス様の愛によって私たちは実を結ぶことができる。神様と隣人を愛するという実を結ぶことができる」です。

 ヨハネの二人の弟子たちがイエス様の元に泊まったということは、イエス様につながった、イエス様に留まったということです。イエス様とじっくり語り合い、イエス様の人格に触れて、イエス様をある程度深く知ることができました。だからシモン・ペトロの兄弟アンデレは、自分の兄弟シモンに会って、「私たちはメシアー『油を注がれた者』という意味―に出会った」と自信をもって言うことができたのです。イエス様こそ、イスラエルの民が待ち望んでいるメシア(油を注がれた者、救い主)と告げることができたのです。旧約聖書の時代、神様にお仕えする三つの重要な職務は、祭司・王様・預言者でした。彼らは祭司・王様・預言者に就任するに当たり、聖なる油を注がれて聖別されました。聖別とはキリスト教会の用語で、「聖なるものとして、選び分ける」ことを意味します。私たちは日曜日を、聖なる神様を礼拝する日として聖別して、神様にお献げしています。献金のお金を、神様に献げるお金としてあらかじめ用意して、選び分けて献金します。神様のものとして献げることは聖別することで、私たちの信仰にとって極めて重要なことと信じます。

 イエス・キリストは、祭司・王様・預言者の3つの職務をお一方で完全に行う「油を注がれた者」メシアなのです。本当の聖なる油は聖霊です。イエス様は聖霊に完璧に満たされた愛の方です。ヘブライ人への手紙1章9節に、「あなたの神は、喜びの油(聖霊)を、あなたの仲間に注ぐよりも多く、あなたに注いだ」と書いてあることと一致します。

 イエス様こそ真のメシアと確信したアンデレは、自分の兄弟シモンを、イエス様の所に連れて行きました。イエス様に何としても会わせたかったのです。イエス様はシモンを見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ(岩という意味)と呼ぶことにする」と言われました。ケファはヘブライ語かアラム語でしょう。イエス様や弟子たちが日常的に使っていた言葉です。ケファをギリシア語にするとペトロになります。ケファもペトロも、「岩」の意味です。ケファはあだ名ですが、あだ名でも名前をつけることには意味があります。プロテスタントではあまり行いませんが、カトリックでは洗礼を受ける時に、洗礼名をつけます。たとえばヨセフ、マリア、フランシスコなどという洗礼名をつけます。たいてい昔の立派なクリスチャンの名前をつけるようです。その名前の昔の立派なクリスチャンにあやかる信仰に生きなさい、という意図があるでしょう。

 しかしペトロもすぐに岩のような力強いクリスチャンになることはできませんでした。イエス様は先の先まで見通しておられたと思います。シモン・ペトロが挫折を乗り越えて、教会の力強いリーダーになることを。そしてイエス様は、もちろんご自分が祈りによってペトロを支えていくことを決心しておられます。私たちは知っています。イエス様が十字架にかかる直前に、ペトロがイエス様を知らないと三度言ってしまうことを。ペトロは、涙を流してその罪を悔い改めます。復活されたイエス様は、ペトロのこの罪を赦して下さり、再びイエス様の弟子・使徒として立てて下さいます。「私の羊を飼いなさい」と。そして確かにペトロは、使徒言行録では弟子として力強い働きをしています。但しガラテヤの信徒への手紙を読むと、使徒パウロに叱られる失敗もしたようです。それでも最後は、迫害のローマでクリスチャンたちの世話をしながら、逆さ十字架に架かって殉教したと言われます。挫折を乗り越え、教会の本当の岩になりました。

 私たちも、信者であるにとどまらず、イエス様の弟子であることを心に留めたいと思います。使徒言行録では、しばしばクリスチャンのことを弟子と呼んでいます。私たちは、イエス様の足跡に続いて歩む弟子です。今日は歌いませんが、讃美歌21の289番の3節の歌詞に「み足のあとを、我はたどらん」とあります。私たちは皆、イエス様の御足のあとに続いて歩む、イエス様の弟子です。ペトロのように挫折することもありますが、イエス様の祈りに支えられ、悔い改めて立ち直り、改めて従ってゆきます。(Hさんの証し。)

 
 次の小見出しは、「フィリポとナタナエル、弟子となる」です。アンデレと名前が書かれていない一人、そしてシモンに次いでフィリポとナタナエルが、イエス様の弟子になります。弟子が五人になります。43節「その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、『私に従いなさい』と言われた。」フィリポはイエス様と深い出会いを経験したに違いありません。そしてフィリポは、イエス様に従、弟子になったのです。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身でした。フィリポは、ナタナエルという友人(?)に出会って告げます。興奮気味に言ったかもしれません。「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」

 モーセが記した律法、そして預言者たちの書、これで旧約聖書の大半をカバーします。フィリポはナタナエルに、「私は聖書で予告されているメシア(救い主)に出会った。」旧約聖書には、色々な箇所にメシア(救い主)のことが暗示されています。たとえば本日のイザヤ書35章もその1つです。本日は5節以下を朗読しましたが、1~2節には神様がもたらす祝福が描かれています。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ、大いに喜んで声をあげよ。」5節には、神様の恵みの業が記されています。これは福音書の中で、イエス様がなさったことです。イエス様こそメシア(救い主)なのです。「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」

 ナタナエルは、すぐには信じません。「そのイエスという方はナザレの人だって? ナザレから何か良いものが出るだろうか。」イエス様は生まれはベツレヘムですが、育ちはガリラヤのナザレです。ナザレの地名は、旧約聖書には一回も出て来ません。差別的な言い方で恐縮ですが、ナザレはほとんど取るに足りない町と見られていたのでしょう。「メシアが出るなら首都エルサレムか、有名な町のはずでしょう。」これがナタナエルの思いです。私たちもつい、同じように思うのではないでしょうか。大きくて有名なことがよいことだと。しかし洗礼者ヨハネは、マタイ福音書3章でこう述べます。「神はこんな石からでも、アブラハムの子たち(神の民)を造り出すことがおできになる。」神様は、人間が顧みない、いと小さき者、弱い者を大切に愛して、深い信仰を与えて下さるのです。

 コリントの信徒への手紙(一)1章26節以下が、思い出されます。「兄弟たち、あなた方が召された(クリスチャンになった)ときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下されている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」

 イエス様こそメシアだとなかなか納得しないナタナエルに、フィリポは「来て、見なさい」と促します。直に会えば、分かるからです。イエス様は、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と言われました。これは最高の褒め言葉です。「まことの」イスラエル人、嘘偽りのない人だ。私たちも、イエス様にこう言われたいものです。イエス様はナタナエルの全てを初めから見抜いておられます。ナタナエルが驚いて「どうして私を知っておられるのですか」と問うと、イエス様は、「私は、あなたがフィリポに話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われました。当時、イスラエルの熱心な人々は、いちじくの木の下で、律法(神様の教え)を学んだそうです。ナタナエルはとりわけ熱心に、神様の教え(律法)を学んでいたに違いありません。イエス様は、ナタナエルに会う前からそれをよくよく知っておられました。神の子だからです。それでナタナエルも脱帽し、イエス様こそイスラエルの民が待ち望むメシア(救い主)と心から信じました。「ラビ(先生)、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」権力を行使する王ではありません。全ての人に仕えて下さる王です。イスラエルの真の王、日本の真の王、世界の真の王、私たち皆のために十字架にかかって下さる王です。

 イエス様が言われます。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子(イエス様)の上に昇り降りするのを、あなた方は見ることになる。」これを聞くと私たちは、創世記28章のヤコブが見た天と地を結ぶ階段の夢を連想します。天使たちがそれを上ったり下ったりしていました。そこは天の門でした。イエス様は、ご自分こそ「真の天の門」と言われたのではないかと思います。イエス様を救い主と信じ告白する者は、イエス様という門を通って天国に入ることができます。

 今日登場する、イエス様の最初の五人の弟子たちは、イエス様との深い出会い、深い人格的な交わりを体験し、「この方に従えば、間違いはない」と深く信頼して、イエス様に従う弟子となりました。私たちも、各々の家庭、職場、地域においてイエス様の弟子となって、イエス様に従って参りましょう。アーメン。

(祈り)御名讃美。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。参議院選挙を導いて下さい。ウクライナに平和、フィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマーに愛を。アーメン。

2022-07-02 23:42:37(土)
「世の罪を取り除く神の小羊」 2022年7月3日(日)聖霊降臨節第5主日礼拝 説教 
順序:招詞 コリント(二)1:3~5、頌栄29、「主の祈り」,交読詩編62,日本基督教団信仰告白、讃美歌21・358、聖書 イザヤ書53:5~10(旧約p.1149),ヨハネ福音書1:19~34(新約p.163)、祈祷、説教、讃美歌21・78、献金、頌栄83(1節)、祝祷。 

(イザヤ書53:5~10) 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。

 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。

(ヨハネ福音書1:19~34) さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

(説教) 4週間前にペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝を献げ、本日は聖霊降臨節第5主日の礼拝です。先々週より、月2回くらいの予定でヨハネによる福音書を最初から読み始めています。先々週の第1回は、ヨハネ福音書の冒頭の有名な個所でした。そこでは、イエス・キリストの本質が語られていました。「初めに言(イエス・キリスト)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」「言は肉(肉体)となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた。」洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)が現れて、イエス様について、こう述べました。「『私の後から来られる方(イエス様)は、私より優れている。私よりも先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことである。」人間としての誕生の順番は、ヨハネが先に生まれて、その後イエス様が誕生されたのです。しかしヨハネは、イエス様の方が先におられたと言っています。それはイエス様が、神の子、そして父・子・聖霊なる三位一体の神様(子なる神)で、天地創造の前から生きておられたと言っているのです。

 さて、今日の最初の小見出しは、「洗礼者ヨハネの証し」です。洗礼者ヨハネが、自分がどんな存在かを述べています。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たち(祭司予備軍)をヨハネのもとへ遣わして、「あなたはどなたですか」と質問させたからです。ヨハネが多くの人々に洗礼を授ける等の立派な働きをしていたので、もしするとヨハネこそ、神様が送って下さったメシア(救い主)ではないかと思ったからでしょう。しかしヨハネは率直に「私はメシア(救い主)ではない」と告白しました。人々がまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは「違う」と答えます。エリヤとは、旧約聖書の偉大な預言者で、神様がイスラエルにもう一度エリヤを遣わすと、旧約聖書の最後の書であるマラキ書で約束しておられます。ヨハネが「違う」と答えたのは、私にとっては意外で、他の福音書では洗礼者ヨハネこそ再来のエリヤだと書いてあるので不思議ですが、ここではヨハネ福音書の記述に従います。人々がさらにヨハネに、「あなたはあの預言者なのですか」と尋ねると、ヨハネは「そうではない」と否定します。「あの預言者」とは、旧約聖書の申命記で、リーダー・モーセが「あなたの神、主はあなたの中から、私(モーセ)のような預言者を立てられる」と言っている「モーセのような預言者」を指します。それは実はイエス・キリストです。イエス様は預言者ではなく、預言者以上の方、神の子ですが、「モーセのような預言者が立てられる」という神様の約束は、イエス様の誕生によって実現されたと、キリスト教会は信じています。ヨハネがその預言者ではないので、ヨハネは「自分はそれではない」と否定します。そこで人々は、改めて問います。「それではいったい、誰なのです。私たちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは、自分を何だと言うのですか。」

 ヨハネは、旧約聖書の預言者イザヤの言葉(イザヤ書40章)を用いて、答えます。「私は荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」洗礼者ヨハネは、謙虚です。「私は声に過ぎない。『主(神様)の道をまっすぐにせよ』と人々に悔い改めを求める一個の声に過ぎない。私は偉大な人物ではない」と言ったのです。人々はさらに問います。「ヨハネさん。あなたはメシア(救い主)でも、再来のエリヤでも、またモーセのようなあの預言者でもないのに、なぜ洗礼を授けるという大胆な行動をしているのですか。」ヨハネは答えます。実に謙虚な答えです。「私は水で洗礼を授けるが、あなた方の中には、あなた方の知らない方がおられる(イエス様です)。その人は私の後から来られる方で、私はその履物のひもを解く資格もない。」洗礼者ヨハネは清く正しく生き、真の神様のために大いに奉仕し、真の神様に従って殉教の死を遂げた立派な人ですが、少しも偉ぶることなく、「私はイエス様の履物尾ひもを解く資格もない者だ」と告白しました。これは彼の本心と思います。ヨハネは、本当にへりくだった謙遜な人物でした。

 このやり取りは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアで行われました。ヨハネは知っていました。自分が授ける水の洗礼は、悔い改めの洗礼であって、まだ不完全な洗礼だ。しかし真の神の子イエス様がもたらして下さる洗礼は、聖霊による洗礼であって、イエス様がもたらして下さる洗礼こそ、完全な洗礼だと、知っていました。「私は罪人(つみびと)の一人だが、イエス様は全く罪のない清らかな神の子であられる。私はイエス様の前には、無価値な者に過ぎない。」ヨハネは、この福音書の3章30節では、「あの方(イエス様)は栄え、私は衰えねばならない」と言っています。これも実に謙虚な言葉です。「あの方(イエス様)は栄え、私は衰えねばならない。」なかなか言えない言葉です。この言葉も、ヨハネの本心に違いありません。

 私はイスラエルに行ったことはありませんが、ヨハネが人々やイエス様に洗礼を授けていたヨルダン川は、写真を見るとそれほど巨大な川幅ではありません。きっと季節によっても水量は変化するでしょう。ですが写真を見る限りでは、東久留米教会のすぐ近くの南沢湧水や落合川に似ていなくもない感じを受けました。日本とイスラエルは風土が違い、ヨルダン川の周囲は砂漠の部分もあるし、緑もあります。ヨハネはこんな感じの所で洗礼を授けたのかなと想像しながら、南沢湧水や落合川の周りを歩いてみるのも楽しいと思います。

 次の小見出しは、「神の小羊」です。29~31節「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。「私の後から一人の人が来られる。その方は私にまさる。私よりも先におられたからである」と私が言ったのは、この方のことである。私はこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、私は水で洗礼(バプテスマ)を授けに来た。」

 ヨハネ福音書の特徴の1つは、イエス・キリストの本質をずばり言い当てる言葉が多いことです。イエス様ご自身がおっしゃいます。「私が命のパンである。」「私は世の光である。」「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは、羊のために命を捨てる。」「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。」「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」これらの御言葉は皆、イエス様の本質をずばり言い当てています。洗礼者ヨハネも、今日の個所でイエス様の本質を、見事に言い当てています。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と。イエス様は、まさにその通りの方です。

 これを読むと、本日の旧約聖書であるイザヤ書53章を連想せずにはおれません。イザヤ書53章は、イエス様の十字架の贖いの死(私たちのための身代わりの死)を予告する、非常に重要な個所です。もう一度じっくり読みます。「彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちは癒された。私たちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私たちの罪をすべて、主は彼(イエス様)に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。私の民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。」これが小羊の姿、世の罪を取り除く神の小羊です。

 この小羊の姿は、旧新約聖書の最後の書であるヨハネの黙示録の5章にも出て来ます。「私(著者ヨハネ、洗礼者ヨハネとは別人)はまた、玉座と四つの生き物の間、長老たちの間に、屠られた小羊が立っているのを見た。」救い主イエス・キリストです。「屠られた」とは、十字架にかかって屠られ殺されたことです。「立った」ことは、イエス様が復活なさったことを指しているかもしれません。

 ヨハネ福音書に戻ります。洗礼者ヨハネの証しが続きます。32節「私は『霊』(聖霊)が鳩のように降って、この方の上にとどまるのを見た。」それはヨハネがイエス様に洗礼を授けた時のことに違いありません。33節以下「私はこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼(バプテスマ)を授けるために私をお遣わしになった方(父なる神様)が、『霊(聖霊)が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授ける人である』と私に言われた。私はそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」その通り、イエス・キリストこそ真の神の子、私たちのたった一人の真の救い主です。人間の真の救いは、真の神様の前にすべての罪を赦されること、そして死を乗り越えた永遠の命を受けることです。その真の救いをもたらして下さった方がイエス・キリストです。イエス様が私たち皆の罪を全て身代わりに背負って十字架で死なれた。それがなければ、私たちが罪の赦しと永遠の命を受けることはなかったのです。ヨハネは命を懸けて保証して言います。「この方こそ神の子であると証ししたのである」と。このヨハネが命がけで保証するメッセージを受け入れ、全ての方に救い主イエス様を信じていただいて、全ての罪の赦しと永遠の命を受けていただきたいのです。

 ここでイエス様は、「聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授ける人」だと言われています。ヨハネの洗礼よりも優れている完全な洗礼です。私たちが受けた洗礼が、イエス様が授けて下さった洗礼です。洗礼式で水を注いだのは人間の牧師だったでしょうが、牧師は代理人で、本当は目に見えなくてもイエス様が洗礼を授けて下さったのです。それは父・子・聖霊なる三位一体の神様のお名前による洗礼でした。この洗礼が、どんなに大きな恵みか、ローマの信徒への手紙5章16節と読むと分かります。「裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが(旧約聖書の律法の場合はのこと)、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。」イエス様の十字架による罪の赦しという恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される。ヨハネによる洗礼にはそこまでの恵みはない。しかしイエス様が聖霊によって授ける洗礼の効力は、「いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される」洗礼です。ひとえにイエス様が、十字架にかかって私たちの全部の罪への裁きを完璧に受けきって下さったからです。

 15~16世紀に生きたグリューネヴァルトというドイツ人画家が描いた十字架上のイエス様の、かなりリアルな真に痛々しい絵があります。この画家の最高傑作だそうです。現物は見たことがありませんが、かなり大きいそうです。写真で時々見ます。イエス様は茨の冠をかぶり、体には鞭打ちの傷が多くあり、死斑が出ているように思えます。左下には、悲しみにくれる母マリア、マリアを支える十二弟子の一人ヨハネ、マグダラのマリアが描かれています。右側には、洗礼者ヨハネが描かれていて、イエス様を指さしています。「あの方は栄え、私は衰えねばならない」とのヨハネの言葉が記されています。洗礼者ヨハネの足の近くに子羊(小羊)が描かれています。イエス様を指さしている洗礼者ヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言おうとしているのかなと、感じます。この絵は元々、フランスの修道院付属の施療院に掲げられていて、そこにはペストなどの患者が治療を受けていたそうです。その人々が、この絵を見上げていたらしいのです。ペストは黒死病と呼ばれ、今のコロナ以上に、ずっと多くの人々の命を奪った病気(疫病)として知られます。この施療院で治療を受けて癒された人も、そうでなかった人々もいたでしょう。死斑が浮かぶように見えるイエス様の遺体を、グリューネヴァルトという画家は、ペスト(黒死病)の遺体のように描いたのかもしれません。

 この絵を見上げて人々は、「イエス様も、私たちと同じような、否、私たち以上の肉体の苦しみを苦しまれた。そして私たちの罪を本当に全部背負いきって十字架で死なれた。だから、イエス様を救い主と信じる私たちの全部の罪が赦され、死の力が私たちに最終的に勝利することはない。復活されたイエス様につながっている私たちには、永遠の命が確実に与えられているのだ」との確信を新たにし、もしぺストが治らなくても、真の慰めを与えられたに違いありません。新約聖書のヘブライ人への手紙2章14、15節の御言葉を思い出してよいでしょう。「(イエス様は)死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさ」ったとの御言葉です。

 私がこの説教を準備した一昨日の晩に、私と妻に洗礼を授けて下さった若月健悟先生という牧師の方が、ご病気で天に召されたとの知らせが届きました。半年ほど前から闘病しておられると聞いており、私も癒しのために毎日お祈りしていました。しかし一昨日に天に召されてゆかれました。私と妻が洗礼を受けたのは1989年の別の日曜日の礼拝においてでしたが、その時のことを昨日のように思い出します。あの時、洗礼を受けていなければ、私どもが今東久留米教会に居させていただいていることもなかっただろうと思います。以前お世話になった牧師の方々が、一人また一人と天国に帰ってゆかれます。ということは、地上に残された者たちの伝道のための責任が一層重くなったわけで、ますます伝道のために祈り、励まなけれなならないとの思いが強くなります。洗礼者ヨハネは、全身全霊でイエス・キリストを指し示し、命がけで「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と宣べ伝えました。彼の生涯は、このことだけのために用いられました。私どももヨハネに励まされ、「イエス・キリストこそ、十字架にかかって世の罪を取り除いた神の小羊、復活して永遠の命の希望をもたらした神の子」であることを全身全霊で、言葉と行いで指し示す生涯を送りましょう。アーメン。 

(祈り)御名賛美。私たちの教会において家族伝道が進みますように。コロナに苦しむ全ての方々に癒しを。当教会を出発して日本や米国で伝道する方々と家族に愛を。参議院選挙を導いて下さい。ウクライナに平和、フィリピンの少年少女、にじのいえ信愛荘、ミャンマーに愛を。アーメン。