日本キリスト教団 東久留米教会

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2022-10-08 22:40:14(土)
「ヨハネ、モーセに優るイエス様」 2022年10月9日聖霊降臨節第19主日礼拝
順序:招詞 使徒言行録4:29、頌栄28、「主の祈り」,交読詩編71,使徒信条、讃美歌21・54、聖書 申命記18:15~19(旧約p.309)ヨハネ福音書5:31~47(新約p.173)、祈祷、説教、讃美歌21・512、献金、頌栄27、祝祷。 

(申命記18:15~19)あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。このことはすべて、あなたがホレブで、集会の日に、「二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください」とあなたの神、主に求めたことによっている。主はそのときわたしに言われた。「彼らの言うことはもっともである。 わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追及する。

(ヨハネ福音書5:31~47) 「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。2 わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。 それなのに、あたたちは、命を得るためにわたしの所へ来ようとしない。

 わたしは、人からの誉れは受けない。しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」

(説教) 本日は、聖霊降臨節第19主日です。本日の説教題は「ヨハネ、モーセに優るイエス様」です。新約聖書はヨハネ福音書5章31節~47節です。小見出しは「ヨハネ、モーセに優るイエス様」です。内容は、先週に続くイエス様の説教です。

 最初の31節「もし、私が自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。」「証し」がテーマです。証しは証言です。証という漢字は「正しく言う」と分解できます。証しする、証言するとは、正しいことを語る、真実を語ることです。「身の証しを立てる」という言い方もあります。イエス様は言われます。「もし、」私が自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。」「おや?」と感じます。イエス様が語る証しが真実でないなどということはないと思うからです。これはイエス様の謙遜でしょう。イエス様は、「自分で自分のことを語ると、自分で自分を推薦していると受け取られ、信用されない」と思い、こう言われたのではないでしょうか。

 32節「私について証しをなさる方は別におられる。そして、その方が私についてなさる証しは真実であることを、私は知っている。」この別の方は、父なる神様とも言えますし、聖霊なる神様とも思えます。イエス様が先の37節で「私をお遣わしになった父が、私について証しをして下さる」と言われるので、「別の方」は父なる神様なのでしょう。父なる神様と子なる神イエス・キリストと聖霊なる神様は、その位格(人格)が三つですが、その実体は一人の神、三位一体の神様です。

 イエス様は、このヨハネ福音書で繰り返し、神様を父を呼ばれます。神様を父と呼ばれるということは、イエス様は子、神の子であることを意味します。イエス様は神の子であり、父・子・聖霊なる三位一体の神様の「子なる神」であられます。神の子、子なる神イエス・キリストについては、コロサイの信徒への手紙1章15節に、こう書かれています。「御子は見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に、生まれた方です。」イエス・キリストは父なる神様に造られた方ではなく、父なる神様から生まれた方なのです。世界に存在するのは、世界とその中の全てをお造りになった神様と、神様に造られたものだけです。御子イエス・キリストは、父なる神様に造られたものではなく、父なる神様から生まれた方です。だから神の子です。そして造られたものでないということは、造った側、神なのです。ですからコロサイの信徒への手紙は次に書きます。「王座も主権も、支配も、権威も、万物は御子(イエス・キリスト)において造られたからです」と。つまりイエス・キリストは、造られたものではなく、父なる神様から生まれた神で、天地創造なさった神だと分かります。この神が人間になって下さった方がイエス・キリストです。イエス・キリストは100パーセント神であり、同時に100パーセント人間です。50パーセント神、50パーセント人間ではないのです。100パーセント神であり、同時に100パーセント人間です。

 三位一体の神のことを、少しお話しますと、「父、子、聖霊の三つの位格(キリスト教用語(ラテン語)でペルソナ=位格、人格、神格)を持ち、一つの実体をもつ神」であるということです。父、子、聖霊は区別されますが、三者で一体の「おひとりなる神」を私たちは礼拝しています。敢えていえば、多神教でなく、あくまでも一神教です。父・子・聖霊の三者が聖なる愛の完全な交わりによって、完全に一体であられるからです。
 
 さて、イエス様は、今日の32節で、父なる神様がイエス様について証しして下さると言われます。「その方(父なる神様)が私についてなさる証しは真実であることを、私は知っている。」33節「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しした。」洗礼者ヨハネは、こう述べたのです。「私は水で洗礼(バプテスマ)を授けるが、あなた方の中には、あなた方の知らない方がおられる。その人は私の後から来られる方、私はその履物のひもを解く値打ちもない。」「私は『自分はメシア(救い主)ではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人(これがヨハネ)はそばに立って耳を傾け、花婿(イエス様)の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、私は喜びで満たされている。あの方(イエス様)は栄え、私は衰えねばならない。」

 イエス様は言われます。34節「私は、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。」確かに洗礼者ヨハネも、一定の輝きを放ったのです。ヨハネこそ来るべきメシア(救い主)ではないかと期待した人々もいました。実際多くのイスラエル人が、ヨハネから悔い改めの洗礼を受けたのです。しかし謙遜なヨハネは言いました。「私はメシアではない。私はその方(メシア)の履物のひもを解く値打ちもない者だ。」ある人がたとえて言うには、「イエス・キリストが太陽だ。」その通りです。旧約聖書で大きな働きをした人々、たとえばアブラハム、モーセ、ダビデ、ソロモン、エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエルといった人々は月や星だ。洗礼者ヨハネは新約聖書の人物ですが、イエス様の前の最後の大物ですね。かなり輝きましたが、それでもたとえれば月や星であって、太陽はあくまでもイエス・キリストお一人だ。その通りです。

 ですからイエス様は言われます。36節「私にはヨハネの証しにまさる証しがある。父が私に成し遂げるようにお与えになった業(わざ)、つまり私が行っている業そのものが、父が私をお遣わしになったことを証ししている。」イエス様が行っておられる業とは、たとえばカナの婚礼で水をぶどう酒に変えた愛、サマリアの女性に「私が与える水(聖霊)を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」とおっしゃり、その女性に伝道なさったこと、ベトザタの池の周りいた、38年間病気だった男性を安息日に癒したこと、そして最も重要なことは、私たち全員の罪の責任を全部身代わりに背負って、十字架に架かり、三日目に復活なさった業です。このヨハネ福音書でイエス様は、十字架の上で最後に「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られました。十字架に架かって、世界中の全時代の人々の全部の罪を背負いきる業、その使命が完全に成し遂げられた。神の子イエス様は、その充実感を抱いて息を引き取られ、完全に死なれ、三日目に復活させられました、父なる神様によってです。父なる神様に十字架で完全に従い切られたこの業が、まさに父なる神様がイエス様を地上にお遣わしになったことを証しし、証明しています。 

 イエス様は39、40節でおっしゃいます。「あなたたちは聖書(旧約聖書)の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。 それなのに、あたたちは、命を得るためにわたしの所へ来ようとしない。」これは「永遠の命を受けるために、迷わずイエス・キリストのもとに来なさい」という招待です。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書は私について証しするものだ。」イエス様を批判したユダヤ人たちは、旧約聖書を熱心に読んでいました。熱心に読んでいたけれども、なぜか神様のお心を分かっていませんでした。不思議なことです。「論語読みの論語知らず」という言葉がありますが、「聖書読みの聖書知らず」になっていました。旧約聖書だけでなく新約聖書をも読んでいる私たちが、そうなる可能性は低いと思いますが、それでも同じ間違いを絶対に犯さないとは言いきれません。「聖書は私(イエス・キリスト)について証しするものだ。」新約聖書はもちろん、旧約聖書も実はイエス・キリストを指し示している。生きておられるイエス・キリストを中心に読まないと、読み方を間違える可能性があるということでしょう。

 少し前にもお話したことがありますが、私は最近、クリスチャンでない女性の文章を読みました。「クリスチャンの友人や、洗礼を受けていないけれど教会に通う友人が多くいます。キリスト教の名前を冠した大学に通い、キリスト教の歴史や聖書についても授業でいくつか履修し、また、ほそぼそと聖書を読む私が、キリスト教(会/世界)の中の男女をどう見ているか、と考えていただければ、幸いです。キリスト教にとって最も大切と言える聖書での女性の描かれ方は、私にとって違和感の連続です。そもそも男性中心に描かれていますし、女性は『弱い者』か『忌み避ける者』のように描かれることが多いように感じます。女性の『不当な』描かれ方の例は枚挙にいとまがありません」とお書きになり、いくつかの例が挙げられます。たとえば、「まず、聖書の中では、神が人(男)を造り、その助け手として、人のあばら骨から女が造られています(創世記2章)。~先に男があり、また、男から女が造られた、というのは、男性優位の象徴のように思えます。」以下、いろいろな例が出されます。多くは旧約聖書です。

 この女性の問いかけは真剣なので、こちらも一生懸命答える必要があると感じます。一見聖書に否定的な方に見えますが、この疑問を乗り越えてクリスチャンになったら、かなりすばらしいクリスチャンになる可能性を秘めておられると感じるのです。この方の疑問に完璧に答えることは簡単でないのですが、1つ申し上げるべき点は、この方は旧約聖書を多く引用して女性差別的とおっしゃるので、旧約聖書だけで聖書は完成しない、新約聖書ができて初めて聖書は完成する。そして旧約聖書も新約聖書も「イエス・キリストを証ししている、イエス・キリストを指し示している」ことをお知らせする必要があると思います。イエス様は女性差別を全くなさらない方だと分かっていただきたいと思います。旧約聖書の創世記で「男から女が造られた」という個所が女性差別という点については、新約聖書のコリントの信徒への手紙(一)11章11節が、1つの答えになると思います。「主(イエス・キリスト)においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように(創世記2章の記述)、男も女から生まれ(男は皆そうです)、また、すべてのものが神から出ているからです。」これでかなり男女平等に近づいたのではないでしょうか。先ほどの女性の疑問がこれで全て解決しないかもしれませんが、あのような真面目に疑問に、一生懸命答えることが、現代の伝道のために避けて通れないと感じます。そしてこの女性にも、「聖書は(旧約聖書も新約聖書も)私(イエス・キリスト)について証しするものだ」、生きておられる神の御言葉・イエス様、その聖なる愛に満ちたその人格に注目して下さいと、お知らせしたいと思います。

 ヨハネ福音書に戻り、41節「私は、人からの誉れは受けない。」人からちやほやされることを求めないということと思います。42節「しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、私は知っている。」これは痛烈な言葉です。このユダヤ人たちは人の何倍も信仰に熱心なのです。ですから誰よりも神様を愛しているはずなのに、いつの間にか、神様への愛から外れてしまっている。そのようなことがあるのですね。私たちも、同じ過ちに絶対に陥らないとは断言できません。私の日々の生き方や日々の小さな決断が、本当に神様に喜ばれるものとなっているかどうか、いつも心を空しくして神様にお祈りし、「神様、これでよいでしょうか?」とお伺いする謙虚さが必要と思わされました。

 43~44節「私は父の名によって来たのに、あなたたちは私を受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れを求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。」これも厳しい言葉です。「唯一の神からの誉れを求めようとしないあなたたち。」 神様に喜ばれる生き方を第一にめざそうしないで、人から褒められることばかり願っているということでしょう。人に褒められることがいつも悪いわけではありませんが、誰に褒められなくても、誰が見ていなくても、神様に喜んでいただける生き方をしたいものです。

 45節以下「私が父にあなたたちを訴えるなどと考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。あなたたちは、モーセを信じたのであれば、私をも信じたはずだ。モーセは、私について書いているからである。しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうして私が語ることを信じることができようか。」ユダヤ人たちはモーセを深く信奉しています。彼らの考えでは、イエス様がモーセに背いていると見えるのですが、それは見方が間違っていて、モーセの信仰の先にイエス様がおられ、モーセとイエス様は同じ線上に立っているのです。「モーセは私(イエス様)について書いている」というのは、今日の旧約聖書である申命記18章と言われます。18章15節「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、私(モーセ)のような預言者を立てられる。」18節「私(神様)は彼らのために、同胞の中からあなた(モーセ)のような預言者を立ててその口に私の言葉(神の言葉)を授ける。彼は私がめいじることをすべて彼らに告げるであろう。」イエス様こそ、モーセのような預言者、いえ、モーセにはるかに優る神の子です。モーセも洗礼者ヨハネも非常に立派な信仰者ですが、イエス様はモーセにも洗礼者ヨハネにもはるかに優る神の子です。
 
 「モーセは私について書いている。」これを申命記18章に限らず、旧約聖書の最初の5冊を指すとも言えます。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の旧約聖書の最初の5冊の書を「モーセ五書」と呼び、ユダヤ人はこれをモーセが書いたと信じていました。そこで「モーセ五書は、イエス・キリストを指し示している、旧約聖書はイエス・キリストを指し示している」の意味にとることもできます。「イエス・キリストを神の子と信じて、自分の罪に気づいて罪を悔い改め、洗礼を受けて、真の救いに入りなさい」という招待のメッセージです。

 今日の箇所には、「証し」という言葉がよく出てきました。聞き慣れない言葉で恐縮ですが、元のギリシア語で「マルトゥリア」です。ここから英語で殉教者を意味する martyr(マーター)という言葉ができした。イエス様を救い主と信じて、迫害に負けないで信仰を貫いて死んだ殉教者は、イエス・キリストを証しして死に、天国に入ったからです。私たちが殉教するかどうかは分かりません。ですが、聖霊なる神様に助けていただき、互いに励まし合って、言葉と行いで、人々にイエス・キリストを証しし、「イエス・キリストにこそ、真の救いがありますよ」と指し示す生涯を送らせていただきたいものです。アーメン(真実に)。


2022-10-01 23:13:19(土)
「死から命へと移る」 2022年10月2日(日)聖霊降臨節第18主日礼拝説教
順序:招詞 使徒言行録4:29、頌栄24、「主の祈り」,交読詩編70,使徒信条、讃美歌21・17、聖書 ダニエル書12:1~3(旧約p.1401)ヨハネ福音書5:19~30(新約p.172)、祈祷、説教、讃美歌21・461、献金、頌栄28、祝祷。 

(ダニエル書12:1~3)
その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く/国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう/お前の民、あの書に記された人々は。多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。目覚めた人々は大空の光のように輝き/多くの者の救いとなった人々は/とこしえに星と輝く。

(ヨハネ福音書5:19~30) 
 そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」

(説教) 本日は、聖霊降臨節第18主日です。本日の説教題は「死から命へと移る」です。新約聖書は、ヨハネ福音書5章19節~30節です。小見出しは「御子の権威」で、内容はイエス様による説教です。

 この内容が分かるためには、直前から読むことが必要です。イエス様が、エルサレムのユダヤ人たちにおっしゃいました。「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」ユダヤ人たちは、これを聞いて非常に怒りました。イエス様が安息日に働いて病を癒すだけでなく、「神をご自分の父と呼んで、ご自分を神と等しい者とされたからである」と書かれています。確かにイエス様が神様を「私の父」と呼ばれました。神様が父なら、イエス様は神の子ということになります。神の子であるということは、彼らの感覚では、神ときわめて親しい者、神に等しい者、神ご自身ということになります。ユダヤ人にとって神はお一人であって、神に等し神の子という存在は、決して受け入れることができないのです。ユダヤ教の人々にとって、現代でもそれは同じと思います。しかし新約聖書の時代になってはっきりしたことは、聖書の神様(旧約聖書の神様と新約聖書の神様、同じ神様です)は、「父・子・聖霊なる三位一体の神様」だということです。父なる神様、子なる神様(イエス・キリスト、神の子)、聖霊なる神様。聖書の神様は父・子・聖霊なる三位一体の神様です。旧約聖書の神様もそうなのですが、旧約聖書にはそれが明確には書かれていません。それでユダヤ人(イスラエル人)は、子なる神様イエス・キリスト(神の子イエス・キリスト)を受け入れることができませんでした。

 しかし新約聖書は、イエス・キリストは、三位一体の神様の「子なる神様」であり、神の子であることを示しています。先週も引用したヘブライ人への手紙1章3節に、こう書いてある通りです。「御子(イエス・キリスト)は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れで」ある。イエス・キリストは神だと言っています。ヨハネ福音書1章1節にも、こう書かれています。「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」言は、もとの言葉ギリシア語で「ロゴス」です。ここでロゴスは、明らかにイエス・キリストを指します。「言は神であった」つまりイエス・キリストは神だと宣言しています。

 そして19節「そこで、イエスは彼らに言われた。『はっきり言っておく(アーメン<真実に>、アーメン、私はあなた方に言う)。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることは何でも、子もその通りにする。』」イエス様は「子は、つまりご自分は、自分からは何事もできない」、無力だとおっしゃいます。意外とも思えます。「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。」子なる神イエス・キリストは、真に謙遜な方なので、自分勝手な行動をとることはもちろん全くありません。常に父なる神様に従われ、服従されます。ですから父なる神様の御心に従って、十字架に架かって下さいました。十字架こそ無力の象徴です。イエス様は私たちの全部の罪の責任を背負って十字架で死なれました。父なる神様にとことん服従されたのです。「父がなさることは何でも、子もその通りにする。」イエス様は自己主張をなさらず、いつも父なる神様の真似をなさり、父なる神様のご意志に従いきられます。

 20節「父は子を愛して、ご自分のなさることをすべて子に示されるからである。」父なる神様は、子なる神様イエス・キリストを完全な愛で愛しておられます。これは聖なる愛です。イエス・キリストも父なる神様を愛しておられます。それに聖霊なる神様も含め、父なる神様、子なる神イエス・キリスト、聖霊なる神様が互いに愛し合い、完全な愛によって三位一体となっておられます。私たちはこの三位一体の神様を礼拝しております。愛によって一体でお一人である私たちの神様は、ご自身だけで完全に充実しておられます。愛によって一致しておられるので、神様は孤独な神様ではありません。ご自分の内部の聖なる愛し合いの交わりの中に生きておられる神様です。

 「また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も与えたいと思う者に命を与える。」このことの一回目は、このヨハネ福音書11章のラザロの復活ではないでしょうか。病気で亡くなったラザロという男性を深く敬愛していたイエス様は、ラザロのために涙を流され、墓の前で「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれました。すると死んでいたラザロが手と足を布で巻かれ、顔を覆いで包まれたまま出て来たのです。ラザロの復活と呼ばれる劇的な場面です。私たちに希望を与える場面です。聖書が約束する救いは、「霊魂の不滅」ではなく、体を含めた復活です。これは日本人に分かりにくいところです。日本人の多くは何となく「霊魂の不滅」を受け入れているように思います。でも聖書は、「霊魂の不滅」ではなく、「心(霊)と体の復活」を約束します。

 22~23節「また、父は誰をも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。」「裁きは一切子に任せておられる。」最後の審判のことでしょう。クリスチャンは天国に行き、最終的に復活の体をいただきますが、最後の審判はあります。その時の裁き主はイエス・キリストです。新約聖書の使徒言行録10章42節で、イエス様の一番弟子ペトロが言っています。「イエスは、ご自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、私たちにお命じになりました」と。私たちが、先ほどの使徒信条でも、「主は(イエス様は)かしこ(天)より来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」と告白した通りです。「すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。」イエス・キリストは子なる神なのですから、神として敬われることが必要です。「裁きは一切子に任せておられる。」ここに小見出しにある通り「御子(イエス様)の権威」があります。それはあくまでも父なる神様から委ねられた権威です。イエス様は権威を持っておられますが、自分勝手に裁くことをなさいません。イエス様はどこまでも謙遜なのです。最後の30節にある通り、「私は自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。私の裁きは正しい。私は自分の意志ではなく、私をお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」父なる神様の御心に服従して裁かれるのです。父なる神様と、子なる神イエス様の意志は、一体になっています。

 24節は大切です。「はっきり言っておく(アーメン、アーメン、私はあなた方に言う)。私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」説教題はここから取っています。「イエス様を救い主と信じる人は、裁かれることなく(最後の審判で無罪を宣告され)、死から命へと移っている。」これは私たちにとって大きく深い慰めの言葉、安心を与えてくれる御言葉です。イエス・キリストを救い主として信じ、洗礼を受けた時から私たちは永遠の命を受け、神の子とならせていただきました。よく似たことが、エフェソの信徒への手紙2章にも記されています。1節から少し飛ばし飛ばし読みます。「さて、あなた方は、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。~霊(悪霊)に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。私たちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動したいたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。しかし、憐れみ豊かに神は、私たちをこの上なく愛して下さり、その愛によって、罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし―あなた方の救われたのは恵みによるのです―キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせて下さいました。~事実、あなた方は恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためなのです。」神様が、「罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし」て下さったと言っています。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた時、死から命(永遠の命)へと移りました。

 ヨハネ福音書に戻り、25節「はっきり言っておく(アーメン、アーメン、私はあなた方に言う)。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」「今やその時である!」これはヨハネ福音書が強調することです。「今やその時である!」ヨハネ福音書11章を見ると、イエス様が死んだラザロに、「出て来なさい!」と大声で叫ばれました。「その声を聞いた者は生きる!」26節「父は、ご自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにして下さったからである。」イエス様も十字架の後、復活されました。イエス様が死者の復活の第一号です。イエス様はですから、永遠の命、復活の命を持っておられます。

 28節「驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子(イエス様)の声を聞き、善を行った者は復活して命(永遠の命)を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」これは世の終わり、神の国の完成の時に必ず起こることです。よく似たことが、本日の旧約聖書・ダニエル書12章1節以下に記されています。1節の途中から。「しかし、その時には救われるであろう。お前の民、あの書(命の書)に記された人々は。多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々は、とこしえに星と輝く。」「善を行った者」とはイエス様を信じる人かなと思いますが、「善を行った者は復活して命を受けるために墓から出て来る」、裁きもないように読めます。しかし聖書の他の箇所を参照するとクリスチャンも「最後の審判」がないとは思えないので、私の解釈では「最後の審判」はあるが、イエス様の十字架によって全ての罪を赦されているので、確実に無罪の判決を受けるので、裁きはないのと同じということではないかと思います。

 旧約聖書で復活をはっきり語る箇所は、多くはないと感じます。先ほどのダニエル書12章と、エゼキエル書37章が有名です。旧約1357ページ。小見出しが「枯れた骨の復活」です。ある谷の真ん中が、枯れた骨でいっぱいでした。これは神様に背いたので滅びたイスラエルの民を指します。自分たちの罪のために死んだのです。5節「これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、私はお前たちの中に霊(聖霊でしょうか)を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。私はお前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちは私が主であることを知るようになる。」

 神様が11節以下で言われます。「人の子(エゼキエル)よ、これらはイスラエルの家の全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みは失せ、我々は滅びる』と。それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。私はお前たちの墓を開く。わが民よ、私はお前たちを墓から引き上げ、イスラエル地へ連れて行く。私が墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちは私が主であることを知るようになる。また、私がお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。」旧約聖書の民であるイスラエルの人々も、神様に背いて偶像礼拝等の多くの罪を犯してやめなかったので、神様の裁きを受けて、一旦滅びた、死んだと言えます。しかし恵みの時が来て、神様がイスラエルの民の罪を赦して復活の時を与えて下さいます。体も復活する、甦るのです。ここでは枯れた骨の復活です。父なる神様が私たちに約束しておられる復活は、今と同じ体を与えて下さるのではなく、もはや死なない体、イエス・キリストの復活の体と同じ体、栄光の体を新しく創造して与えて下さいます。もはや病気にもならず、弱くならず、死なない全く新しい体です。楽しみですね。

 最後に、永遠の命と復活の体について改めて考えるために、使徒言行録7章のステファノという人の殉教の場面を見ましょう。新約聖書227ページです。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子(イエス様)が神の右に立っておられるのが見える」と言った。人々はステファノに石を投げつけます。ステファノは「主イエスよ、私の霊をお受け下さい」と言い、ひざまずいて「主よ、この罪を彼らに負わせないで下さい」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた、と書いてあります。ステファノはイエス様がおられる天国に入ったはずです。地上に人にはそれは目で見えず、天国に行かれた方は眠ったように見えます。しかしそれは永眠ではありません。永久に眠るのはないです。永遠の命、復活の体をいただくのですから。

 ステファノも、イエス様を信じて天国に入った他の方々も、その後に復活の体を与えられるのだと思います。コリントの信徒への手紙(一)15章によると、死者の復活には順番があります。「最初にキリスト(が復活された)、次いで、キリストが来られる時に(キリストが再臨する時に)キリストに属している人たち(が復活し)、次いで世の終わりが来ます。~最後の敵として死が滅ぼされます。」(この辺りの御言葉は、先日行われたエリザベス女王の国葬でも朗読されました。あの国葬では随分多くの聖句が朗読され、世界の首脳が参列し、世界中に中継されたので、ある人は『これは一種の世界宣教だ』と感嘆していました。朗読された聖句はエリザベス女王自身が選んだと聞いたことがあります。)悪魔も滅ぼされます。最後の審判はその頃、行われるのでしょう。そして新しい天と新しい地が完成され、神の国が完成します。新約聖書には、永遠の命、復活の体、神の国の完成について、様々な箇所に様々な角度から書かれているので、全部をすっきり理解することは簡単ではありません。しかし自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストを救い主と信じた人が永遠の命を受け、復活の体を受けて完全に救われることは確実ですので、それを心配する必要はありません。本日のイエス・キリストの御言葉を味わって終わります。「私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」アーメン。

2022-09-25 0:58:52()
「安息日に癒すイエス様」 2022年9月25日(日)礼拝説教
順序:招詞 コヘレトの言葉12:1、頌栄85(2回)、「主の祈り」,交読詩編なし,使徒信条、讃美歌21・208、聖書 ヨハネ福音書5:1~18(新約p.171)、祈祷、説教、讃美歌21・401、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(ヨハネ福音書5:1~18) 
 その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。 (†底本に節が欠落 異本訳<5:3b-4>)彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。

(説教) 本日は、「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」(第53回)です。本日の説教題は「安息日に癒すイエス様」です。新約聖書は、ヨハネ福音書5章1節~18節です。小見出しは「ベトザタの池で病人を癒す」です。

 1節から読みます。「その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門のそばに、ヘブライ語で『ベトザタ』と呼ばれる池があり、そこに五つの回廊があった。」エルサレムの都には12の門があり、その1つが「羊の門」、当時、神殿で献げる犠牲の動物の羊等がここから運び込まれたので、この名前がついたそうです。ベトザタと呼ばれる池があり、そこに五つの回廊(廊下)があった。この池の跡は実際に発掘されて見つかっているようです。ベトザタの池、以前用いていた口語訳聖書では、ベテスダでした。どちらにしても、「恵みの家」、「慈しみの家」の意味であるようです。東久留米の近くの大泉学園駅からまっすぐ北に行った先に、キリスト教の施設「ベテスダ奉仕女(ほうしめ)母の家」があります。今日の個所から名前を取っています。この関連のもっと大きな施設が千葉県館山市にある「かにた婦人の村」で、障がいを持つ婦人たちが助け合って生きて来られた所と聞いています。

 3節「この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。」病院のような場所でした。しかしあまり治る見込みのない人もいました。希望を失っている人々も集まっていました。次にある十字架のようなマークは、聖書の、ある写本には、ここに言葉があるというしるしです。新約聖書は約2000年前に書かれた文書の集まりですが、今から約500年前に印刷術が発明されるまでは、聖書はすべて手書きの写本によって次の時代に伝えられました。写本はほとんど一致するのでしょうが、稀に写本同士にに小さな違いがあることもあるようで、ここもそうです。ある写本には、ここに文が入っている、それはこの新約聖書の212ページの下段の最後に書かれています。「彼らは水が動くのを待っていた。それは、主の使い(天使)がときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」これは大きな恵みですが、真っ先に入った人しか癒されませんでした。病気ではあっても、他人との競争に勝てる割に元気な人だけが、この恩恵にあずかったと言えます。競争に勝てない弱っている人にとっては、救いがありませんでした。残念ながら、強い者が勝ち、弱い者は負ける、世間によくある弱肉強食の原理が支配していました。

 その絶望感を味わっている一人の男がいました。5章の本来の171ページに戻り、5、6節「さて、そこに38年も病気で苦しんでいる人がいた。」何の病気か分かりませんが、立てないようです。仮に10才で病気になったとすれば48才。人生50年の時代かもしれないので、「もう自分の人生はほぼ終わった」と無気力になり、今更治ろうとも思わなくなっていたのではないかと思います。6節「イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた。」病気の人に「良くなりたいか」の問いは残酷にも聞こえます。ふつうは「良くなりたい」に決まっているからです。しかしイエス様は、この男性がもはや、「良くなりたい」という願いさえ失って無気力になっているのを見て、発破をかけられたのではないでしょうか。「しっかりしなさい。あなたにはまだ使命がある。私が癒すから、もう一度立ち上がりなさい」と励まされたのだと思います。

 この病人は、確かにやる気を失っています。「主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいないのです。私が行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」彼は人のせいにしています。でも、病気でいつも池に降りる競争に負けてしまうのは事実でした。8節「イエスは言われた。『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。』すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出した。」イエス様の御言葉は力強いですね。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」彼が言われた通りにしてみたら、何と歩けたのですね。38年ぶりかもしれません。父なる神様が「光あれ」と一言命じられると光ができた、あの創世記1章に似ています。神の子イエス様が愛によって、彼の病気を治し、彼の両足を強くして下さったので、彼は床を担いで歩くことができました。「神様、感謝します。ハレルヤ」と彼は叫んだに違いありません。信仰生活は互いに助け合う生活ですが、しかし時には、神様に助けられて、一人でやり遂げることが必要なことがあるに違いありません。

 話は安息日論争に続いてゆきます。「その日は安息日であった。」安息日、旧約聖書のモーセの十戒という神様の教えにある日で、旧約聖書の信仰に生きるユダヤ人・イスラエル人にとって、真の神様を礼拝することに専念する日でした。毎週土曜日が安息日でした。キリスト教会は、神様を礼拝する日を日曜日に移動しました。イエス様の十字架の死から復活された日曜日こそ、真の神様を礼拝する日にふさわしいと信じたからです。ユダヤ人・イスラエル人にとって安息日は、神様を礼拝する日であり、他の仕事は一切行ってはならない日でした。そこでユダヤ人・イスラエル人は、病気を癒していただいた人に言いました。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法(その代表が十戒)で許されていない。」床を担ぐことも仕事だ。だから床を担ぐことは、安息日の決まりに反することになる、これがユダヤ人の考えでした。
 
 しかし癒された男は言います。11節以下「その人は、「私を癒して下さった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです(だから安息日であっても、床を担いで歩くことは、よいことだと思います、と言いたいのでしょう)。」(なお、ここではユダヤ人・イスラエル人が悪者のように出て来ますが、イエス様の時代に、イエス様を対立したユダヤ人のことが批判的に描かれているのであって、決して全てのユダヤ人やイスラエル人が今も悪人だと言っているわけではないので、誤解のないようにしたいと思います。)12節「彼らは、『お前に「床を担いで歩きなさい」と言ったのは誰だ』と尋ねた。しかし、病気を癒していただいた人は、それが誰であるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。」この後、男性はイエス様に会います。少し飛ばして15節以下。「この人は立ち去って、自分を癒したのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスはお答えになった。『私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。』」確かに、イエス様の父なる神様は、今も人間や動物の新しい命を産み出すなど、大いに働いておられます。

 安息日を守ることは、モーセの十戒の第四の戒めに記されています。モーセの十戒は旧約聖書の出エジプト記20章と申命記5章に記されています。出エジプト記20章8節以下にはこうあります。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」神様が第七の日に天地創造の業を完成されて、休まれました。そこで人間たちも仕事をストップして休み、神様を礼拝する聖なる日にしなさいという指示です。確かに安息日には、いかなる仕事もしてはならない、と明記されています。旧約聖書の時代は、この通りにする必要がありました。

 ですが旧約聖書だけで聖書は完成しません。イエス・キリストが誕生され、十字架に架かって死なれ、三日目に復活して天に昇られた。これによって旧約聖書は完成に至ります。イエス様が来られ、新約聖書も書かれて、聖書が完成します。イエス・キリストが来られたことによって、安息日もまた完成に導かれたと思うのです。
確かに安息日の規定には、「いかなる仕事もしてはならない」と書いてあります。それでイエス様が安息日に癒しをなさった(仕事をした)ことに怒ったユダヤ人が出たのです。でも「仕事をするな」とは、本当はどのような意味なのでしょうか。「仕事をしない」を言い換えると、「人間の業(人間のなすこと)をやめる」となると思います。「人間の業」はつきつめると、「神様が喜ばないこと=罪」に行き着くと思います。安息日に「仕事をしない」「人間の業をやめる」、つまり「罪をやめる」に行き着くでしょう。

 安息日に大事なことは、罪を犯さないようにすること。罪の反対は愛ですから、イエス様から見れば、安息日に大事なことは、父なる神様を愛して礼拝し、隣人を愛することです。愛すれば、当然罪の行いをやめる結果になります。イエス様は、安息日を父なる神様を愛して礼拝し、隣人を愛する日として確立して下さったと思うのです。イエス様が安息日を「仕事をしない消極的な日」から、喜んで父なる神様を愛して礼拝し、隣人をも敵をも喜んで愛する積極的な日に完成して下さいました。ですからイエス様は、安息日にあの男性を癒したのです。きっと安息日の礼拝が終わってから、ベトザタの池に行って男性を癒されたのでしょうね。私たちにとっても同じです。私たちの礼拝の日は旧約聖書の時代の土曜日でなく日曜日(イエス様が復活された喜びの日)に変わりましたが、それは父なる神様を喜んで愛して礼拝し、隣人を自分のように愛する嬉しい日なのです。

 モーセの十戒は、申命記5章にも記されています。安息日については第四の戒めにこう書かれています。「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。(ここまではほぼ同じ。)そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」ここに神様の愛と思いやりが記されています。主人が安息日も働いていたら、奴隷や雇われた人たちも働かなければならなくなる。主人が休んで礼拝すれば、奴隷や雇われた人たちも安心して休むことができ、安息することができる。申命記5章の安息日の規定では、弱い立場の人たちへの、神様の愛をいたわりが記されていて、安息日に病人を癒されたイエス様の心と一致するものを感じます。イエス様が安息日に病人を癒されたことに腹を立てる人々には、この申命記5章を見せれば、彼らも納得したかもしれませんね。「神様は安息日には、弱い立場の人々に安息を与えることをよしとしておられる。だから安息日に病人を癒して安息を与えることは、安息日の趣旨に一致しますよ」と示すことができます。

 イエス様は言われます。17節「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」確かに父なる神様は、今も働いておられます。人間や動物の新しい命を安息日にも誕生させ、米や麦を成長させ、雨を降らせ、地球を自転させ、太陽の周りを回らせるなど、神様は今日も、安息日も働いておられます。神様の天地創造の働きは六日間で終わりましたが、今も私たちの命を維持し、動物たちに食べ物を与え、地球環境と宇宙を維持する愛の働きを行っておられます。だからイエス様も愛の働きをなさいます。私たちもイエス様に倣い、日曜日には神様を愛して礼拝し、隣人を愛する生き方を心がけます。日曜だけでなくどの日も、神様を愛して神様に祈り、自分を正しく愛し、隣人を愛し、敵まで愛そうと愛し始めます。全て、神様の清き霊である聖霊に助けられてです。

 18節「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自分を神と等しい者とされたからである。」確かにイエス様は神様のことを「私の父」と呼ばれました。この発言が、ユダヤ人たちの怒りを買いました。神が父だということは、イエス様がご自分を「神の子だ」と宣言したことになります。旧約聖書を重視するユダヤ人から見れば、大変な思い上がり発言、神への冒涜に聞こえます。だから怒ったのです。旧約聖書には「神の子、神に等しい方」はまず出て来ないからです。それで彼らはイエス様を受け入れることができず、イエス様につまづきました。ですがイエス様は本当に神の子であり、父なる神様に等しい方、神であり人である方なので、イエス様が神を父と呼ぶことは、全く正しいのです。これは旧約聖書には書いてなくて、新約聖書で初めて明かされることです。旧約聖書も大切ですが、聖書は旧約聖書だけでは完成されず、イエス様が生まれ、イエス様が十字架で死なれ、三日目に復活され、天に昇られることによって初めて完成されます。イエス・キリストの本質は、新約聖書のヘブライ人への手紙1章2~3節に記されています。
 
 「神は、この御子(イエス・キリスト)を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました(イエス様がこの宇宙の創造に参与された)。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられます」とあります。御子イエス・キリストは、「神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れだ」と。「神の本質の完全な現れ」とは、イエス様が神に等しい方、神様ご自身であることを意味します。このイエス様を含め、私たちは「父・子(イエス様)・聖霊なる三位一体の神様」を今、礼拝しています。

 最後に、少し戻って、イエス様が癒された男性に「あなたは良くなったのだ。もう罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」と言われたことに触れます。この御言葉は分かり易くないと思いますが、(詳しいことには踏み込みませんが)、私はこの男性の病が癒された時に、イエス様が彼の罪をも赦して下さったと思っています。誤解を招かないために申しますが、だからと言って、今ご病気の方々が、ご自分の罪のゆえにご病気になられたと短絡的なことを言うつもりはありません。ですがこの男性は、病が癒された時に、イエス様が彼の罪をも赦して下さったと思います。だからイエス様は彼に「もう罪を犯してはいけない」と言われたのでしょう。クリスチャン一人一人も、ただイエス様の身代わりの十字架の死の恵みのお陰で、恵みによってのみ、全ての罪を赦され、神の前に正しい者と認められ、永遠の命を受けました。イエス様を救い主と信じる信仰によってのみ、永遠の命を受けました。先週の礼拝で強調した信仰義認です。

 恵みによってのみ救われた後の、生き方が大事です。恵みによってのみ救われた私たちの生き方は、恵みに感謝して応答する生き方になります。できるだけ罪を犯さないように意識する生き方です。だからイエス様も癒された男性に、「あなたは良くなったのだ。もう罪を犯してはいけない」と言われました。罪を全然犯さない生活は無理と思います。ですが聖霊に助けられて、少しずつでも罪を避ける生き方に進みたい。目指すところは、聖霊に助けられて、神様を愛し、自分を正しく愛し(但し自分勝手にならないようにしながら)、隣人を愛する生き方です。失敗することもあるでしょう。その度に悔い改めて、祈って神様に助けていただいて、この方向で共に生きて参りたいのです。アーメン(真実に)。

(祈り)主イエス・キリストの父なる神様、御名を讃美致します。イエス様の十字架と復活の大きな恵みによって、私たちを真の意味で自由な者として下さり、感謝申し上げます。この自由を自分勝手に用いるのではなく、神様と隣人に喜んでお仕えする方向で用いることができますように、私どもをお導き下さい。コロナ、コロナ以外の病の中にある私たち皆を、あなたが完全に癒して下さい。ウクライナが早く平和になりますように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

2022-09-18 1:24:49()
「隣人を自分のように愛しなさい」    2022年9月18日(日)礼拝説教
順序:招詞 コヘレトの言葉12:1、頌栄85(2回)、「主の祈り」,交読詩編69:17~37,使徒信条、讃美歌21・515、聖書 レビ記19:17~18(旧約p.192)、ガラテヤの信徒への手紙5:2~15(新約p.349)、祈祷、説教、讃美歌21・505、献金、頌栄92、祝祷。 

(レビ記19:17~18) 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

(ガラテヤの信徒への手紙5:2~15) ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。

(説教) 本日は、聖霊降臨節第16主日の礼拝です。本日の説教題は「隣人を自分のように愛しなさい」です。新約聖書は、ガラテヤの信徒への手紙5章2節~15節です。小見出しは「キリスト者の自由」です。月一回ほど礼拝でガラテヤの信徒への手紙を読みたいと願いつつ、なかなかできなかったのですが、今回は前回から2週間で、ガラテヤの信徒への手紙を読むことができました。

 直前の1節で、著者のパウロは、こう述べます。「この自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にして下さったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」私たちがこれまでに犯した罪、私たちが今後の人生で心ならずも犯してしまう罪。イエス・キリストが私たちの全部の罪の責任を身代わりに背負って十字架で完全に死なれ、三日目に復活されました。このお陰で、私たちの本当に全部の罪が赦されたのです。その完全な赦しを受けるためには、私たちが自分を低くして罪を悔い改め、イエス様こそ救い主と信じて告白するだけでよいのです。何か立派な行いをする必要はありません。日本キリスト教団信仰告白でも、「神は恵みをもて、我らを選び、ただキリストを信じる信仰により、我らの罪を赦して、義としたもう」と告白している通りです。ただ、信じたしるしとして洗礼を受けることが推奨されます。

 すべての罪を赦されたということは、罪の支配から解放され、自由にされ、神の子されたことです。聖書によれば、私たちが罪を犯した結果が私たちの死なのですから、罪の支配から解放されたことは、死の恐怖から解放された、死から解放されたことです。イエス様が死から復活して、復活の体をもって天で生きておられるように、私たちも将来必ず復活の体をもって天で永遠に生き、永遠に父なる神様を讃美することになります。死から解放されたことを、新約聖書のヘブライ人への手紙2章は、こう書きます。イエス様が「死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」二週間前の礼拝でも申し上げましたが、私たちはイエス様の十字架と復活の恵みのお陰で、次の5つから解放され、完全に自由な者とされたと。「律法、罪、死、悪魔、神の怒り」から完全に解放され、自由な者とされ神の子にされたと。これぞ、神の恵みによって与えられた「キリスト者の自由」です。パウロは私たちに語ります。「だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」と。
 
 そして今日の2節に入ります。「ここで、私パウロはあなた方に断言します。もし割礼を受けるなら、あなた方にとってキリストは何の役にも立たない方になります。」パウロが心配しているのは、ガラテヤ教会の人々が、奴隷の軛(支配、束縛)の下に逆戻りしかかっていることです。ガラテヤ教会に、非常にユダヤ主義的な人々が入り込んで来て、誤った教えを説いたのです。イエス様の十字架と復活の恵みの福音を信じる(信仰義認)だけでは足りない、と。実際は信仰義認だけで完全に足ります。しかしユダヤ主義者たちは、「旧約聖書で大事にされている割礼をも受けなければならない。割礼も受けないと、あなた方ガラテヤ教会の人々は救われない、天国に入ることができない」と。これは間違いです。しかしこれを聞いたガラテヤ教会の人々に動揺が走りました。「罪を悔い改めてイエス様を救い主と信じる信仰だけでは、天国に入ることができない。割礼も受けようかな」と思い始めたのです。しかし天国に入るために、割礼は全く必要ないのです。イエス様の犠牲の十字架が、私たちを救う完全な力、効力を持っているのです。十字架だけで完全、十字架だけで十二分であり、他の追加は、ほんの少しも必要ないのです。何か割礼等の追加が必要なら、イエス様の十字架は救いのための完全な力ではないことになります。しかし全くそんなことはありません。イエス様の十字架が、私たち全ての人間の全ての罪を100%完全に贖いきった、償いきったのです。パウロも私たちも、ここは決して譲れない点です。

 3節「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。」自分が救われるため(天国に入るため)割礼をも受ける人は、「イエス様の十字架に頼るだけでは足りない。律法を実行する自力にも頼る必要がある」と言うに等しい。そういう人は、十字架の恵みを放棄することになる。十字架の恵みを放棄するなら、律法(その代表は十戒)を実行することで自力で天国に入ろうとすることになる。律法主義への逆戻りです。その場合、律法を100%守らないと天国に入れません。99点でも天国に入れません。4節「律法によって義とされようとするなら、あなた方は誰であろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。」「いただいた恵みも失う」は厳しい言葉で驚きますが、「イエス様の十字架にのみしっかり結びついて、決して離れるな」ということと信じます。

 5節「私たちは、義とされた者の希望が実現することを、霊(聖霊)により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。」これは「信仰によってのみ義とされた者」(私たちは皆そうです)の希望(神の国が完成すること、信仰者たちが復活の体を与えられること)が実現することを待ち望んでいる、ということと思います。6節「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」クリスチャンにとって割礼は、あってもなくても意味のないものです。パウロがここで割礼を受けるなというのは、割礼がほんの少しでも救いの根拠となるという考えを、完全に否定する必要があるからです。大切なのは、イエス様の十字架の贖いの死だけ、が私たちに完全な救いを与えると信じる信仰のみです。あくまで信仰が第一で、信仰の結果として愛の実践が生まれます。イエス様を救い主と信じると聖霊を受けるので、私たちの罪に汚れた自力によってではなく、あくまでも聖霊の助けによって、愛の行いという実を結ばせていただきます。

 パウロは、あくまでも「信仰によってのみ義と認められる」、「信仰義認」が神様から与えられた巨大な恵みなのだと強調しています。あくまでも信仰義認に踏みとどまりなさいと訴えています。7節~10節「あなた方は、よく走っていました(信仰義認に徹していた)。それなのに、いったい誰が邪魔をして真理(信仰義認)に従わないようにさせたのですか。このような誘いは、あなた方を召し出しておられる方(神様)からのものではありません。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるものです。あなた方が決して別な考え(律法の実行によって義とされる)を持つことはないと、私は主をよりどころとして、あなた方を信頼しています。あなた方を惑わす者は、誰であろうと、裁きを受けます。」こう書いてパウロは、ガラテヤの教会の人々にも私たちにも、信仰義認の真理から迷い出ないように、「イエス様の十字架の贖いの死の恵みによってのみ私たちが、神の前に義と認められる」真理に踏みとどまるように、全身全霊で訴えるのです。私たちは、このパウロの訴えに聴き従います。

 11節「兄弟たち、この私が、今なお割礼を宣べ伝えているとすれば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまづきもなくなっていたことでしょう。」割礼を宣べ伝えていれば、パウロはユダヤ主義者から大歓迎されたでしょう。しかしパウロは、十字架につけられたイエス・キリストだけを宣べ伝えました。十字架は、ユダヤ人にとって「神の呪い」を意味しました。旧約聖書の申命記21章に、「木にかけられた死体は、神に呪われたもの」と書かれています。ユダヤ人・イスラエル人は、この「木」を十字架のことと理解したのでしょう。ユダヤ人は「十字架に架けられた死体は、神に呪われたもの」、従って十字架に架けられたナザレのイエスは、神に呪われた者だ、と信じていたはずです。パウロは「十字架のつまづき」と言います。「つまづき」は新約聖書の元の言葉ギリシア語で「スカンダロン」です。スカンダロンは、英語のスキャンダルの語源です。スキャンダルはご存じの通り、不祥事、とても恥ずかしい悪事、非常に強い抵抗感を与える事件等を指します。ユダヤ人、ユダヤ主義者にとって、十字架は「非常に強い抵抗感を覚えるもの」、「激しい嫌悪感を覚えるもの」でした。その十字架に架けられたイエス様こそ救い主と宣べ伝えてやまないパウロは、ユダヤ人から見れば正気を失った者に見えたでしょう。それでユダヤ人はパウロを迫害したのです。

 しかし真理を悟ったパウロは動じません。十字架は呪いではない。私の身代わりに十字架で死んで下さったイエス・キリスト! 十字架はイエス様の絶大な愛のシンボルなのです。誇り高いユダヤ人やユダヤ主義者に、それが分からないのです。大事なことは、誇り・プライドを捨ててへりくだることです。ユダヤ人とユダヤ主義者は誇り・プライドで心と頭がいっぱいになっていて、自分が救いを必要とする罪人(つみびと)であることが分からなくなっています。この誇り・プライドを捨ててへりくだれば、イエス様が私たちの全部の罪を身代わりに背負って、とことんへりくだって十字架に死んで下さった恵みが分かるようになります。私たちが救われて天国に入れていただくために必要なことは、誇り・プライドを捨ててへりくだり、十字架で死なれ三日目に復活なさったイエス様こそ、私の救い主と信じて告白することです。パウロは言います。「あなた方をかき乱す者たち(ユダヤ主義者)
は、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。」それほど割礼が好きなら、思い切って去勢してしまいなさい。激しい言葉ですが、割礼が救いのために全く役に立たないこと、宇宙広しと言えども、イエス様の十字架の愛のみが、私たちに全部の罪の赦しと永遠の命を与える恵みの力を持っていると、パウロは真理を語るのです。

 13節「兄弟たち、あなた方は、自由を得させるために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」私たちはイエス様の十字架の身代わりの死によって、罪の奴隷だった状態から解放され、自由の身になりました。このことを絶えず意識し、繰り返しここに立ち帰ることが必要です。そして、この自由の用い方が大切です。この自由を、自己中心的に用いるのではなく、神様と隣人を喜んで愛して、神の栄光(すばらしさ)を現わす方向で用いなさい、とパウロは説きます。聖霊に助けられて、そう生き始めます。ここに「キリスト者の自由」が語られていますが、私たちはもう一度、宗教改革者マルティン・ルターが書いた比較的短い本『キリスト者の自由』の冒頭の2つの言葉を確認しておきましょう。先々週の礼拝でお話したばかりですが、何回でも読んで、自分のもの、自分の信仰にしたいものです。

「キリスト者は、全ての者の上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。」自由で解放されているのです。そして「キリスト者は、すべてのものに奉仕する僕(しもべ)であって、何人にも従属する。」前半と逆のことを言っているようですが、理屈では矛盾するこの2つが、一体になっているのがキリスト者・クリスチャンです。全てのものから解放されているゆえに、今度は喜んで進んで、自由意志によって自発的にすべての方にお仕えするのがキリスト者だと言っています。イエス様に目を注ぐと、よく分かります。イエス様こそ、完全に自由な方です。天国で全てのものの上におられる王なのに、私たち罪人(つみびと)を愛するあまり、あえて進んでこの危険な地上に降って来られ、病気に苦しむ人々の病を癒し、弟子たちの汚い足を洗い、遂には私たちの汚い罪を全部身代わりに背負って十字架の死、どん底のどん底の死を遂げられました。このことが父なる神様によしとされ、イエス様は三日目に復活を与えられ、今も天で生きておられます。本当の自由が分からく成る時、私たちはイエス様の生き方を見れば、真に自由な生き方を見ることができます。

 14、15節「律法全体(旧約聖書全体)は、『隣人の自分のように愛しなさい』(本日の旧約聖書・レビ記19章18節)という一句によって全うされます。だが、互いにかみ合い、共食いしているなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。」イエス様と同じように、「隣人を自分のように愛しなさい。」これも自力では無理なので、聖霊の力を受けて行い始めるのです。信仰によってのみ、神の前に義と認められる信仰義認は、変わりません。信仰によって義と認められた結果、愛という実りが生まれてきます。信仰が先にあり、神の恵みが先にあります。この順序は大切です。

 本日は、信仰義認の大切さを再確認致しました。「信仰によってのみ」義とされる。それはイエス様の十字架の恵みによってのみ義とされる。人間の善い行いによって義とされるのではないということです。善い行い、愛の行いは信仰の結果、生まれて来ます。私たちの救いは全く自力によらず、100%神の恵みのみによります。「信仰のみ」「恵みのみ」が、特にプロテスタントの合い言葉です(カトリックもそうであるはずです)。ガラテヤの信徒への手紙にはっきり書いてあるのですから。

 先週の第二礼拝で少しお話しましたが、私は今から8日前の9月10日(土)に、高校時代の友人(クリスチャンで22才で召天)のお墓(八王子)に行きました。毎年友人3~4名が集まります。今年は、高校1年生の時の担任の先生(牧師)も来て下さり、墓前でメッセージを語って下さいました。聖書を数か所引用されました。ローマの信徒への手紙3章23節「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」エフェソの信徒への手紙2章8、9節「事実、あなた方は、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためなのです。」「恵み」「恵みのみ」「信仰のみ」によって彼も、他のクリスチャンも救われている。それを間違えてはいけない、というメッセージでした。彼の名前が「恵(めぐむ)君」なのです。彼の名前が「恵(めぐむ)」だということに、神様の深いお考え、彼への深いご配慮があったのかと、改めてその名前の意味を深く考えさせられました。彼が生まれる前から、神の恵みが注がれていたのではないか。悩みの多い彼の22年間の地上の人生だったけれど、神の恵みによってのみ、信仰によってのみ、彼は救われていたのだ。神の恵みによってのみ、彼は天国に入った。名前の通りに。私たちにとっても実は同じです。ただ神の恵みによってのみ、今私たちはここにいます。「恵みによってのみ」「信仰のよってのみ」救われています。イエス様の十字架の恵みの深さを、もっと実感しながら生きて参りたいのです。

(祈り)主イエス・キリストの父なる神様、御名を讃美。イエス様の十字架と復活の大きな恵みによって、私たちを真の意味で自由な者として下さり、感謝致します。この自由を、神様と隣人に喜んでお仕えする方向で用いることができますように。コロナ、コロナ以外の病の中にある皆を、あなたが完全に癒して下さい。ウクライナが早く平和になりますように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

2022-09-14 21:28:47(水)
伝道メッセージ(9月分) 石田真一郎(市内の保育園の『おたより』に掲載)
「わたし(イエス・キリスト)はあなた方を友と呼ぶ」(新約聖書・ヨハネによる福音書15章15節)。

 レーナ・マリアさんというスウェーデン人の歌手をご存じですか? 「愛のゴスペルシンガー」と呼ばれます。1968年生まれで、両腕欠損、左足が右足の半分の長さで誕生されました。原因不明です。でもクリスチャンの両親がいろいろチャレンジさせてくれ、明るく育ち、1988年のソウル・パラリンピック(水泳)に出場します。「私はハンディキャップに対して腹立たしく感じたり、悩んだことはありません。神様は、きっと何か特別な計画があって、私をこのように造られたのだと思います」(レーナ・マリア・ヨハンソン『マイライフ』いのちのことば社、1993年、39ページ)。障がいある方への福祉に熱心なスウェーデンに生まれたことも、神の恵みです。

 1991年にストックホルム音大を卒業し、テレビ朝日「ニュースステーション」で彼女の生活や讃美歌を歌う姿が放映され、「徹子の部屋」にも出演し、大きな反響を呼びました。翌年、東京の三鷹や大阪など10か所でコンサートを行い、明るい笑顔と澄んだ歌声に、超満員の聴衆は魅了されました。私も1995年頃、結婚前の妻と神宮でのコンサートに行きました。

 彼女が歌う讃美歌で、私が好きなのは「一羽の雀」(新聖歌285番)です。
「① 心くじけて 思い悩み/などて寂しく 空を仰ぐ/主イエスこそ、わがまことの友 (折り返し)一羽の雀に 目を注ぎたもう/主は我さえも 支えたもうなり/声高らかに われは歌わん/一羽の雀さえ 主は守りたもう ②心静めて 御声聞けば/恐れは去りて 委(ゆだ)ぬるを得ん/ただ知らまほし 行く手の道(折り返し)。」You Tubeでお聴き下さい。

 この歌の土台は、イエス様の言葉です。「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽(200円ほどか)さえ、神がお忘れになることはない。それどころか、あなた方の髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなた方は、たくさんの雀よりもはるかにまさっている(ルカによる福音書12章6~7節)」。神様は、最も小さい者を特に愛して恵みを注ぎ、東久留米と日本と世界の子どもたち一人一人を愛して下さいます。

 レーナさんは書きます。「私の讃美を通して、聴いて下さる方々に、私と共にいる神様(イエス様)をはっきり伝え、歌う目的と使命を完全に果たせるようになりたいものです。」その後、人生の様々な苦労を経験されたようです。ご苦労を経て、ますます深みを増した歌声になられたに違いありません。アーメン(真実に)。