日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2021-03-14 0:53:36()
「立ち止まり、癒して下さるイエス様」 礼拝説教 2021年3月14日(日)
礼拝順序:招詞 マルコ10:43~45、頌栄85(2回)、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・120、聖書、イザヤ書35:1~10(旧約1116ページ)、マタイ福音書20:29~34(新約39ページ)、祈祷、説教「立ち止まり、癒して下さるイエス様」、讃美歌21・297、頌栄92、祝祷。
 
(イザヤ書35:1~10) 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ/大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ/カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。
 心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。熱した砂地は湖となり/乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは/葦やパピルスの茂るところとなる。そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ/汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ/愚か者がそこに迷い入ることはない。そこに、獅子はおらず/獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて/喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え/嘆きと悲しみは逃げ去る。

(マタイ福音書20:29~34) 一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。

(説教) 今私どもは、イエス・キリストの十字架の愛を特に強く心に刻む受難節(レント)の日々を歩んでいます。今日のマタイ福音書20章の最後の小見出しの個所は、十字架にかかるためにエルサレムに向かうイエス様のお姿を示しています。小見出しには「二人の盲人をいやす」と書かれています。この時代、目の病気が多く、目の見えない人が多くいたそうです。とても辛いことですね。

 29節「一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。」エリコから西へ20キロ弱進むと、イスラエルの首都エルサレムに入ります。エリコはオアシスのある町です。世界で一番標高の低い町と言われ、標高は海抜マイナス258mだそうです。世界で最も古い町とも言われ、今から約1万円前の遺跡があるそうです。イエス様の時代でさえ、人が住み着いてから既に8000年もたっていたのです。30節「そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、『主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんで下さい』と叫んだ。」二人で何とか支え合って暮らしていたのでしょう。この二人は今日の箇所で、イエス様に呼びかける度に必ず「主よ」と呼んでいます。「主よ」と3回書かれていますが、実際にはもっと何回も「主よ」と大声で呼びかけたのだと思います。切実な思いで、本当に助けてもらいたい一心で、「主よ、主よ」と全力で呼びかけたのです。私たちも今、コロナの中にあって「主よ、私たちを憐れんで下さい、主よ、日本と世界を救って下さい」と毎日、父なる神様にに呼びかけて祈っています。神様は、この世界中の祈りに、耳を傾けて下さっているに違いありません。「ダビデの子」とは、ダビデ王の子孫ということで、ダビデ王の子孫からメシア(救い主)が生まれると信じられていたので、イエス様こそメシア(救い主)と信じて、二人はイエス様に「ダビデの子よ」と大声で呼びかけました。確かに、イエス様こそ真の救い主です。

 31節「群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、『主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんで下さい』と叫び続けた。」このチャンスを逃したら、二度とイエス様にお目にかかることはないだろう。そう思って、このチャンスを決して逃さないと心に決めて、二人は声も枯れよとばかりイエス様に助けを求めたのです。周囲の空気を読めば、静かにしなさいという圧力を感じたでしょう。でも二人にとっては空気を読んでいる場合ではありません。この機会を逃せば、一生目が見えないまま終わってしまう。「イエス様、憐れんで助けて下さい」とひたすらへりくだったのです。二人の切実な叫びは、イエス様の魂を打ちました。「憐れんで下さい」は、新約聖書の元の言葉ギリシア語で、「エレエーソン」です。前にもお話しましたが、東久留米教会初代牧師・浅野先生の奥様・浅野眞壽美先生の愛唱讃美歌の1つは、前の讃美歌集の第二編に入っていた「キリエ・エレイソン」(主よ、憐れみたまえ)だったと伺いました。この讃美歌はグレゴリオ聖歌に入っている古い讃美歌と思います。「キリエ」が「主よ」、「エレイソン」が「憐れみたまえ」です。二人の盲人は、「エレエーソン」(憐れんで下さい)と叫んでいます。「憐れんで下さい」と祈るのは、惨めな感じで、自分はいやだなと思う方もあると思います。でもこの二人の盲人に限らず、私たちは皆、神様から見れば罪人(つみびと)であり、ただ神様の憐れみによって生きることを許されている存在です。謙遜にへりくだって「主よ、憐れんで下さい」と祈ることは、私たちにとってふさわしいことだと思うのです。

 17世紀のヨーロッパで大流行し、多くの死者を出して村々を壊滅させた感染症がペスト(黒死病)です。南ドイツのアルプス麓の町オーバーアマガウでも人々が死におびえ、神様に必死に祈りました。「ペストが収まるなら、感謝を込めてイエス様の受難劇を村人総出で、全身全霊で演じると誓います。」誓いの後、村からぺストの死者が出なくなりました。神様が必死の祈りを聴いて、憐れんで下さったのです。生き残った村人たちは翌年(1634年)、俳優も監督も大道具も素人ですが、全身全霊で、イエス様が私たち皆の罪を身代わりに背負って十字架にかかる受難劇を、聖書に忠実に演じました。真心こめた全力の演技に、見る者は皆、涙しました。10年ごとに行い、今日まで続き、世界中から観客が集まります。5月から9月まで野外劇場で100回以上、2000名出演で行われます。ショーではなく、祈りを込めた礼拝です。昨年行われるはずでしたが、コロナで来年に延期になったそうです。

 イエス様は立ち止まって下さいます。ですから今日の説教題を「立ち止まり、癒して下さるイエス様」と致しました。32~34節「イエスは立ち止まり、二人を呼んで、『何をしてほしいのか』と言われた。二人は、『主よ、目を開けていただきたいのです』と言った。イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。」救われた二人は、「ありがとうございます。では、さようなら」ではなく、感謝してイエス様に従う、いわば弟子となったのです。イエス様はエルサレムという目的地を目指して進んでおられましたが、おそらく初めて出会ったこの二人の、魂の底からの願いを感じ取り、歩みを一時中断して立ち止まって、深い関心を寄せて下さいました。私自身の反省として、人様の言葉によく耳を傾けているだろうか、とギクッとしながら思います。昔の方が、人様の言葉によく耳を傾けていたのではないだろうか、と感じるのです。

 先週もご紹介したボンヘッファーというドイツの牧師(ヒットラーに抵抗したため39歳で死刑にされた)は、名著『共に生きる生活』の中にこう書いています(森野善右衛門訳、新教出版社、1991年、95~97ページ)。「交わりの中で、ひとりが他の人に対して負っている第一の奉仕は、他の人の言葉に耳を傾けるということである。神への愛は、我々が神の言葉を聞くことから始まるように、兄弟(信仰の兄弟姉妹)への愛の始まりは、我々が兄弟の言葉を聞くことを学ぶことである。神が我々に、ただその御言葉を与えて下さるだけでなく、我々にその耳を貸して下さる(祈りを聴いて下さる)のは、我々に対する神の愛である。キリスト者、特に説教者は、~常に何かを提供しなければならない、それが唯一の奉仕であると考えがちである。彼らは、語ることよりも、聞くことの方が、より大きな奉仕であり得るということを忘れている。~兄弟に聞こうとしない者は、やがてまた神にも聞かなくなり、神のみ前においても、いつもただ語るだけの人になってしまうであろう。ここに霊的生活の死が始まる。~聞くことの浪費には、自分の時間はあまりにも貴重であると考える人は、実際には、神と兄弟のためにではなく、いつもただ自分自身のため、自分の言葉と計画のための時間をしか持たない人であろう。~我々が神の言葉を語ることができるためには、我々は神の耳をもって(兄弟姉妹の言葉を)聞かなければならないのである。」

 イエス様は立ち止まり、二人を呼んで「何をしてほしいのか」と尋ねられました。尋ねなくても分かりきっているとも思いますが、祈る人が、自分が何を祈っているか、何を願っているのか自覚することも大切です。二人は「主よ、目を開けていただきたいのです」とお答えしました。イエス様は二人を深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエス様に従ってゆきました。34節に、イエス様が「深く憐れんだ」とありますが、この「深く憐れんだ」の元の言葉には、「内臓」という言葉が含まれています。イエス様は神の子であると同時に、私たちと同じ肉体を持つ人間ですから、胃、腸、肺、心臓等の内臓をお持ちです。よく申し上げることですが、イエス様が深く憐れまれたということは、イエス様の内臓がよじれるほどに、はらわたがきりきりと痛むほどの深い同情心で一杯になられたということです。沖縄に「ちむぐりさ(肝苦りさ)」という言葉があるそうです。肝が痛い、肝臓が痛いほど相手を気の毒に思う気持ちです。イエス様の深い憐れみは、まさに「ちむぐりさ」です。ここは沖縄語で訳すと、一番ぴったりするのです。

 今日から三日前の3月11日(木)が、あの東日本大震災からちょうど10年の日でした。皆様も当日は各々の場所で、東北の方々に神様の癒しと慰めをお祈りなさったと思います。仙台にある日本キリスト教団東北教区事務所(エマオ)では、被災10年を思う記念礼拝が献げられ、インターネットで配信され、私も視聴しました。仙台市の海岸も地震と大津波に襲われ、特に津波で多くの犠牲者が出ました。もちろん福島も岩手もそうです。その夜、仙台市は停電で、道路の信号機からも光が消え、真っ暗だったそうです。星は見えたようですが、町は真っ暗だったそうです。寒くて真っ暗だと、気持ちが暗くなります。今日の二人の盲人の気持ちに近いかもしれません。ここにいる私たちの多くは、目が見えると思います。私たちは、目が見えない方々の気持ちを、よく分かっていないのだと思います。目が見ない方が、東京の町中を歩くことは危険です。今も線路に転落して亡くなる目の不自由な方がおられます。目が見えないことは、本当に厳しく辛いことだと思います。東日本大震災の当日の夜の仙台は、目の見える方々も、停電で目が見えないに近い状態の厳しく辛い夜を過ごされたと思います。
 
 日本中で多くの方々が、東北支援のために動かれましたが、日本キリスト教団では、新潟教会に多くの物資が集められたそうです。そこで仕分けして、太平洋側は道路に多くのトラブルがあるので、信徒さんや牧師が車を運転して、日本海側の道路を通って、山形側から宮城に入って仙台に支援物資を運んだそうです。その車の中に、目に見えなくてもイエス・キリストが共にいて支えて下さったと、説教者が語っておられました。祈りをもって、イエス様と共に仙台に物資を届ける中で、神様が少しずつ東北の方々の希望を回復して下さったと感じました。震災後しばらくは、余震がある中で停電・断水でとてもきつい日々を送られたのでした。

 本日の旧約聖書は、イザヤ書35章、とてもすばらしい箇所です。神様が、絶望を希望へ転換して下さることを述べる箇所です。神様とその救い主が、苦難を喜びに変えて下さることを述べる箇所です。1節「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。野ばらの花を一面に咲かせよ。」3~4節「弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。』」これは、コロナの苦労の中にある私たちをも、励ましてくれる御言葉です。5~6節は、まさに救い主イエス様が福音書の中で現実に行って下さったことを記しています。「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。」私たちの現実は、よいこともあるけれども、病気や死があり、地震・津波・原発事故、新型コロナウイルス感染症等の苦しみが絶えない現実です。神様が最初に天地創造なさったエデンの園には、祝福しかなかった。しかしその後、最初の人間たちが悪魔の誘惑に負けて、神様の戒めを破り、罪に転落したために、この世界に死と呪いが入りました。私たちは、その現実の中に生きています。

 しかし、神様がそんな私たちを憐れんで下さり、イエス・キリストの十字架の犠牲に死によって私たちの全ての罪を赦し、イエス様の三日目の復活によって、死を乗り越えた永遠の命の希望をもたらして下さいました。今は天におられるイエス・キリストは、新約聖書によると必ずもう一度、この世界に来られます。それをイエス・キリストの再臨と呼びます。イエス様の再臨は、必ず起こります。再び来るキリストは、その時、悪魔を滅ぼし、エデンの園と同じ祝福しかない神の国を完成して下さいます。イエス様の再臨と神の国の完成こそ、私たちの究極の希望です。その時、確かに最後の審判もあります。その時、イエス・キリストを救い主と信じる人には、イエス様の十字架のゆえに無罪の判決が下されます。このイエス様の再臨を、使徒信条は、「(イエス様が)かしこ(天国)より来りて(これが再臨)、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」と告白します。これが私どもの信仰です。イエス様の再臨後に完成する神の国は、どんな所か。それはイザヤ書35章の最後にあるように、「喜びと楽しみが彼ら(私たち)を迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る」、神様が私たちの全ての涙を拭い取って下さる所です。そこで私たちは、イエス様の復活の体と同じ復活の体をいただきます。今のこの体は病気になることもあり、死ぬ体です。しかし神様が必ず下さる復活の体は、もはや病気になることも死ぬこともなく、目が見えなくなることも、耳が聞こえなくなることもない完全な体です。復活の体をいただくことで、私たちの救いが完成すると言えます。今日の二人の盲人にとって、目が見えるようになったことは、たとえようもない大きな喜びです。でも、この二人も年月がたち、老いて死んだはずです。私たちも同じ道をたどります。でも神様が、私たちに復活の体を用意しておられる。ここに最終的な希望があります。

 同時に、イエス様が、地上でこの二人を癒して下さったことを思う時に、この社会で人々の癒しのために奉仕する看護師さん、お医者さん、介護職の方々、人々のリハビリのために働く療法士の方々、福祉関係の方々の働きは、神様の愛の癒しの業に奉仕する働きとして非常に大切で、神様の御心に適うものです。宗教改革者カルヴァンの言葉だったと記憶していますが、医者(看護師もでしょう)はクリスチャンでなかったとしても、神様の癒しの業に奉仕している者だと言ったそうです。

 肉眼が開く奇跡は、すばらしい恵みです。私たちの多くは肉眼が見えていると思いますが(年齢と共に見えにくくなりますが)、心の目で本当に大切なものがよく見えているかどうかは、別に問うてみる必要があることだと感じます。何が神様の御心に適うよいことで、何が神様の御心に適わない悪いことか、それがよく見えているかどうか。そして身の周りの人々の気持ちが、見えているかどうか、自分に問うてみる必要があると感じます。何が隣人の喜びであり、何がその人の悲しみであるか、見える人になることが大切と思います。肉眼の視力がよくても、人の気持ちが見えていないと、人として成熟していないことになってしまいます。イエス様には、盲人の辛い気持ちがよく見えていました。肉眼がよくなることもすばらしい恵みですが、人様の心の痛みがよく見えるように、心の目を開いて下さいと、神様にお祈りして参りたいのです。

(祈り)聖名讃美。二度目の緊急事態宣言が出て、再延長されています。今、感染している方々全員に、特に重症の方々に神様の癒しを与えて下さい。世界中が、神様に立ち帰るように力強く導いて下さい。私たちの教会に各々の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。東日本大震災で大きな苦しみを受けた東北の方々に、神様の深い慰めと癒しをお送り下さい。教会学校の子どもたちの信仰を、守って下さい。東久留米教会を出発して日本やアメリカでイエス様を宣べ伝える方々とご家族に、神様の愛の守りを注いで下さい。この教会の周りにいつも平和を、近所の方々の心にも聖霊を注いで下さい。イエス様の御名により祈ります。アーメン。

2021-03-07 2:12:47()
「命を献げるために来たイエス様」 礼拝説教 2021年3月7日(日)
礼拝順序:招詞 マルコ福音書10:43~45、頌栄85(2回)、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・430、聖書、イザヤ書42:1~7(旧約1128ページ)、マタイ福音書20:17~28(新約38ページ)、祈祷、説教「命を献げるために来たイエス様」、讃美歌21・303、頌栄83(2節)、祝祷。
 
(イザヤ書42:1~7) 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ/地とそこに生ずるものを繰り広げ/その上に住む人々に息を与え/そこを歩く者に霊を与えられる。主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために。

(マタイ福音書20:17~28) イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」
そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

(説教) 月に2回ほど、マタイ福音書を読みつつ礼拝を献げています。本日は20章17節からです。イエス様が、ご自分が殺され、三日目に復活することを、このマタイ福音書で三度目に予告される箇所が17~19節です。十字架につけられることを初めて明言されます。今、受難節(レント)の日々を歩む私たちにとって、真にふさわしい箇所です。最初の小見出しは、「イエス、三度死と復活を予告する」です。「イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。『今、私たちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。』」

 イエス様はご自分が「引き渡される」と言われます。受け身形です。誰がイエス様を引き渡すのか。直接的にはイエス様を裏切る弟子のユダが引き渡すのですが、本当にイエス様を引き渡す方は、父なる神様です。イエス様が引き渡されるとき明らかに悪魔の力が働いています。悪魔が神の子イエス・キリストを滅ぼそうしています。しかし、もっと深いところでは、これは父なる神様のご計画です。父なる神様がイエス様に使命を与えられました。十字架にかかって、私たち全ての人間の全ての罪を身代わりに背負って死に、三日目に復活する使命です。イエス様はここから、自分の「ああしたい、こうしたい」という意志によって主体的に行動されません。父なる神様のご意志とご計画に進んで100%従いきり、服従なさるのです。

 次の小見出しは、「ヤコブとヨハネの母の願い」です。「その時、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、『何が望みか』と言われると、彼女は言った。『王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃって下さい。』」このお母さんは、イエス様がもうすぐ首都エルサレムでイスラエルの王に就任すると信じているのです。イエス様が神の子としての愛の奇跡を行い、多くの病人を癒して来られたので、イエス様の評判と期待が高まっていたようです。当時のイスラエルは、ローマ帝国の支配下にありました。人々は、イエス様を王に祭り上げ、イエス様を先頭に押し立ててローマ帝国と戦い、イスラエルの独立を勝ち取ろうと考えました。イエス様をメシア(救い主)と思っていましたが、政治的な救い主、イスラエル民族の英雄と考えて期待していたのです。イエス様の周りにはそのような熱気がありました。この母親もイエス様に期待をかけ、イエス様がエルサレムに王座に就くその日には、「私の二人の息子を特に引き立てて下さい、(日本風に言えば)一人を右大臣、もう一人を左大臣に取り立てて下さり、栄誉を与えて下さい。出世させて下さい」と露骨に、恥ずかし気もなく要求したのです。ここにはイエス様についての、完全な誤解があります。イエス様は確かにメシア(救い主)ですが、地上の王様、権力者になられるおつもりは全くないのです。十字架にかかって私たち全員に仕え、奉仕する王、私たちの底辺で奉仕して下さる王様なのです。

 ですからイエス様は、お答えになります。「あなた方は、自分が何を願っているか、分かっていない。この私が飲もうとしている杯をのむことができるか。」二人は「できます」と答えました。イエス様がもうすぐ十字架にかかる決意を固めていることを全く分かっていないのです。イエス様がもうすぐイスラエルの王になられ、自分たち兄弟も、イエス様と一緒に権力をつかみ、この世的にいい思いをするのだと、楽観的に考えているのです。この世の野心丸出しです。「この私が飲もうとしている杯を飲むことができるか」の「杯」は十字架を意味します。イエス様は、十字架の前の夜のゲッセマネの祈りで、「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせて下さい。しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに」と祈られ、さらに「父よ、私が飲まない限りこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」と祈られました。この杯には、悪と罪に対する父なる神様の聖なる裁きが注ぎ込まれています。この苦き杯は、イエス様にとってさえ、できれば飲むことを避けたい杯ですが、イエス様は「私が飲まない限りこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」と祈られ、十字架にかかってこの最も苦き杯を飲み干されたのです。

 イエス様の問い、「私と一緒に十字架にかかることができるか」に対して、ヤコブとヨハネは、いとも簡単に「できます」と答えてしまいます。イエス様は、心の中で深いため息をつかれたに違いありません。ヤコブとヨハネの兄弟は、血気盛んな性格だったようです。マルコ福音書3章を見ると、イエス様は彼らに「ボアネルゲス=雷の子ら」という名(あだ名)をつけられたとあるからです。ルカ福音書9章見ると、イエス様がサマリア人の村に入って歓迎されなかった時に、ヤコブとヨハネは腹を立て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言って、イエス様に戒められています。イエス様のためを思ってはいるのですが、カッとしやすく、物事を深く考えない性格だったようです。ですからイエス様が王様になったら、自分たちも高い地位を得たいという野心も持っていたかもしれません。二人はまだ聖霊によって、十分清められていなかったようです。

 実際にはヤコブとヨハネの兄弟は、イエス様が十字架にかかった時、共に十字架にかかることはありませんでした。ヤコブは逃げてしまいました。ですがヨハネはイエス様の十字架の下におり、イエス様と会話しています。ヨハネは、イエス様の母マリアを支えるようにイエス様に頼まれるほどイエス様に信頼され、ヨハネはその頼みを引き受けます。イエス様は十字架の上から母マリアの老後を心配して、マリアに言われます。「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です。」イエス様はヨハネにはこう言われます。「見なさい。あなたの母です。」この時からヨハネはマリアさんを自分の家に引き取ったとありますから、ヨハネはイエス様の下でイスラエルの右大臣か左大臣になりたいと願う野心を持つ面、イエス様に忠実で、責任感が強い面も持っていたと感じます。

 さて「できます」と自信をもって答える二人とその母親に、イエス様が言われます。「確かに、あなた方は私の杯を飲むことになる。しかし、私の右と左に誰が座るかは、私の決めることではない。それは、私の父によって定められた人々に許されるのだ。」イエス様に従った人々は、この世の中で必ずしも目立つ形で報われることがないこともありますが、天の国(神の国)において、イエス様と共に統治する者となると、新約聖書で約束されています。それが父なる神様からの愛の報いで、出世とか権力を獲得する野心の実現とは全く違います。しかしイエス様の一番身近の右と左にどの弟子が座るかは、イエス様でさえ決めることができない、それをお決めになる方は父なる神様お一方だと、イエス様は父なる神様に栄光を帰しておられます(父なる神様の栄光こそ一番大事との信仰を表明しておられます)。

 さて、ほかの十人の弟子たちは、ヤコブとヨハネの抜け駆けを聞いて、腹を立てました。腹を立てたということは、ヤコブとヨハネを内心でうらやましく思った、十人の本心も実はヤコブとヨハネと同じで、イエス様がイスラエルの権力者・王になった暁には、自分たちもそれ相応の立身出世した肩書と権力を手に入れたいと本音では思っていたということです。このような権力欲は、主に男性の心に宿っています。女性にも少しはあるかもしれませんが、女性にはあまりないと思います。男性は、女性よりも政治好きな本能を持っています(例外もあります)。イエス様の教えは、権力者になることを完全に否定し、立身出世やこの世の野心を実現することをよしとしないので、男性には敬遠されやすいと思います。私は、イエス様の教えは男性の本能(原罪!)に反すると感じています。イエス様の教えは、女性の本能にはあまり反しないように思うのですが、いかがでしょうか。それで少なくとも日本では、クリスチャンには男性が少なく、女性が多いのではないかと思うのです。

 イエス様は、この世的な権力への欲望を十分持っている十二名の弟子たちに、進む道は権力を持つことと正反対(最近の日本語では真逆)の道だと教えて下さいます。「あなた方も知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなた方の間では、そうであってはならない。あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子(イエス様ご自身)が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」上昇志向ではなく、その正反対(真逆)に、へり下る道、謙遜に奉仕する道がイエス・キリストの道です。

 ヤコブとヨハネはその後、どうなったでしょうか。イエス様は二人について「確かに、あなた方は私の杯を飲むことになる」と言われました。ヤコブのことは、使徒言行録12章1節に出ています(236ページ)。「そのころ(紀元44年頃)、へロデ王(へロデ・アグリッパ1世=ヘロデ大王の孫)は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した」とあります。ヤコブは殉教の死を遂げたのです。ヨハネについては、新約聖書のヨハネによる福音書とヨハネの手紙(一)(二)(三)を書いたと思われます。ヨハネの死は聖書に出ていませんが伝説では、エフェソに行って100才くらいで自然死したと言われています。殉教したかどうか分からないようです。これも伝説ですが、晩年のヨハネは多くを語らなくなり、ただ一言「神は愛なり」しか言わなくなったと聞いたことがあります。嬉しいことも辛いことも多くあった100年くらいの信仰の人生を振り返って「神は愛なり」が最終的な実感だったらしいのです。

 今日の説教題は「命を献げるために来たイエス様」です。イエス様は、私たちの全ての罪を身代わりに背負って十字架で死ぬために、神様の僕として生ききるためにベツレヘムの馬小屋で生まれて下さいました。僕(しもべ)としてとことんへりくだって生きる。十字架の前に、十二人の弟子たちの汚い両足を洗うことで、その生き方を具体的に見せて下さいました。そのイエス様の生き方を、フィリピの信徒への手紙2章6節以下が、こう記します。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」

 イエス様ご自身も言われます。たとえばヨハネ福音書10章です。「私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」またヨハネ福音書15章。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」

 本日の旧約聖書は、イザヤ書42章1節以下です。小見出しは「主の僕の召命」、「召命」とは神様に呼び出されて使命を与えられることです。ここで言われる「主の僕」(神の僕)はイエス様を指すと言えます。「見よ、私の僕、私が支える者を。私が選び、喜び迎える者を。彼の上に私の霊(神の清き霊、聖霊)は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。」大声を上げて自分を宣伝しない方だと言うのです。3節が印象的だと思います。「(彼は)傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁き(神の正義)を導き出して、確かなものとする。」救い主イエス様は、「傷ついた葦(弱っている人)を折ることなく、暗くなってゆく灯心(弱っている命)を消すことなく、逆にこれを慰め、励まし、支えて守る」ということと思います。そのように私たちのために愛によって奉仕して下さる神の僕(しもべ)がイエス様だと、語られています。

 イエス様にとっても十字架は非常に辛いことでした。ですがイエス様は、決して強制されてでなく、いやいやながらでなく、私たちへの愛のゆえに自由意志で進んで十字架に向かわれた面が確かにあるのです。イエス様は喜んで僕として奉仕なさる神の子です。そして私たちは、ただイエス様の身代わりの十字架の愛のお陰で、全ての罪を赦されたのです。イエス様の十字架の愛に応えて、私どももまた、イエス様の僕として、自分にできる形でイエス様にお仕えする生き方を選びます。私どもの先輩のクリスチャンや牧師の方々は、ご自分がイエス様の僕(しもべ)だという意識を強くもっておられたと感じます。それを受け継いで、私・私どももイエス様の僕との意識をよく持ちたいと願います。

 私どもは先輩クリスチャンの信仰の姿勢を見つめて学ぶものだと思います。私に洗礼を授けて下さった牧師は、祈祷会の祈りでしばしばご自分のことを「この僕」と呼んで祈っておられたことを思い出します。東久留米教会初代牧師の浅野悦昭先生は、礼拝堂の祈祷会で祈る時、ベンチの上に正座して祈られました。私が伝道師でまだ洗礼式や聖餐式を執行できないときに何回も東久留米教会にご奉仕に来て下さった尾崎風伍先生は、祈りでしばしばご自分のことを「このふつつかな僕」と呼んで祈っておられました。ある大きな教会の月報の名称が「しもべ」だと聞いたことがあります。「皆でイエス様の僕として生きよう」という思いを込めているのでしょう。ドイツでヒットラーに抵抗して死刑になったボンヘッファーという牧師は「教会は他者のために生きるとき、初めて教会である」と言いました。だいぶ前にある牧師が書いた文章に、「牧師の師」の文字は「教師の師」の文字だが、自分はこれを「奉仕の仕」として「牧仕」とする方がよいと思う、と書いておられました。全くその通りと思います。そう思いながらも、イエス様のよき僕になりきれていない自分であることを恥じるほかはありません。実際に週報などで牧師という文字の書き方を奉仕の仕に変えないとしても、気持ちはそうでありたい。私はイエス様と隣人にお仕えする僕、その意識をもっと強めて参りたいと願うのです。

(祈り)聖名讃美。二度目の緊急事態宣言の二週間の再延長が決定。今、感染している方全員に、特に重症の方に神様の癒しを与えて下さい。世界中が、神様に立ち帰るように力強く導いて下さい。東久留米教会に各々の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りを。教会学校の子どもたちの信仰を、守って下さい。当教会を出発して日本やアメリカでイエス様を宣べ伝える方々とご家族に、神様の愛の守りを。近所の方々の心にも聖霊を。あと4日で東日本大震災から10年。東北に神様の慰めを。東京神学大学と諸神学校に受験志願者が多く与えられますように。イエス様の御名により、アーメン。

2021-03-04 18:38:30(木)
2月の伝道メッセージ(遅れて掲載) 石田真一郎
「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(イエス・キリスト。新約聖書・マタイによる福音書5章9節)。

 コロナに苦しむ日本と世界の全ての方に、神様の愛と癒しを、心より祈ります。新約聖書の次の言葉から励ましを受けたいと思います。「神は真実な方です。あなた方を耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます」(コリントの信徒への手紙(一)10章13節)。コロナ禍の中で、世界中で争いをやめ、互いに助け合う世界を築きたいと願います。

 日本は76年前の敗戦によって平和の尊さを学び、二度と戦争をしないと決心した国です。戦争で日本が加害者になった面と、被害者になった面があります。私たちは加害者にも被害者にもならないようにしたいのです。

 私は子どもの頃、広島県育ちの母から空襲の体験をよく聞きました。夜に空襲警報が鳴り響き、電気を消して家族で防空壕に逃げ込む話です。1945年3月10日未明には、爆撃機B29の東京大空襲があり、約10万人亡くなりました。今の江東区、墨田区が焼け野原、台東区、新宿区、中央区、港区にも大火災が発生。私がいる東久留米教会にも、その炎の中を逃げた方がいます。学校の校舎に逃げ込んだが「ここは危ない」と思い出たところ、後でその校舎はやられていたらしいです。今、教会の近所に住む方は、その炎を見ながら北海道に疎開したと言い、世田谷や中野から火災を目撃した知人もいます。教会のある婦人は敗戦後、神奈川から「よく見ておきなさい」と父親に連れられて墨田川辺りを歩き、焼け野原を目に焼き付けました。この記憶が語られるうちは、日本が戦争を始めることはありません。忘れると戦争の恐ろしさが分からなくなり、戦争を起こしやすくなります。それを避けるため、私はしおんの礼拝で平和の大切さを語り続けます。

 私は3年ほど前、江東区にある民間の「東京大空襲・戦災資料センター」を見学しました(江東区北砂1-5-4。電話03-5857-5631。東京メトロ半蔵門線「住吉駅B1出口」徒歩18分。ホームページもよい)。一番被害を受けた地で、スカイツリーがよく見えます。館長は早乙女勝元さんで、東京大空襲を伝えることをライフワークとしておられます。入口近くに「戦火の下で」という母子像の彫刻があり、若い母親が幼子を抱きしめて炎から守っています。こんな母親や父親が多くいたでしょう。墨田区生まれの王貞治さんが、スカイツリーに人々を案内した際、「ここは焼け野原になった所です」と言われたそうです。どこの国にも焼け野原が生まれないよう、平和な世界を作るため皆で草の根から努力致しましょう。アーメン(真実に)。

2021-03-04 18:36:27(木)
1月の伝道メッセージ(遅れて掲載) 石田真一郎
「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(イエス・キリスト。新約聖書・マタイによる福音書5章9節)。

 新年おめでとうございます。今は世界が争いと差別をやめ、共にコロナ禍を乗り越えるように、平和的に助け合う時です。私は母親が広島県育ち、父親が長崎市生まれなので、子ども頃から原爆や平和について聞かされました。私の人生のテーマは、イエス・キリストと平和と思っています。

 私は小学生の時、ロスアンゼルス近郊で生活したことがあります。多くの白人の子どもたちの中で、とても少数の黒人、日本人、中国人、韓国人、北朝鮮人、マレーシア人の子どもが仲良く学校生活をしました。特にアジア人同士は、肌と髪の色が同じなので自然と親しみが湧き、仲良くなるのです。あれが平和だと今思います。小6の時、私が一番仲良くした子は、ロバートという中国人でした。子どもに政治は関係ないのが良い点です。アジアに住むと、かえってアジア人同士が仲良くできません。これではいけません。しおんにはアジアや色々な国の方が来て下さり、すばらしい恵みです。しおんからアジアの平和、世界の平和を実践してゆきましょう!

 アメリカで特に差別を受けませんでしたが、一度だけ小6の時、白人の友達に旧日本軍が1941年12月8日に行った真珠湾攻撃を批判されました。私は1996年に新婚旅行でハワイに行き、真珠湾にも行きました。空も海も青くて、ここで戦争があったとは思えないほど全く平和で、「よくこんな遠くまで日本海軍が気づかれずに攻撃に来たものだ」と驚きました。そこで日本とアメリカと世界の平和を祈り、旧日本軍が真珠湾攻撃を行ったことは間違いだったと思いました。その攻撃で、多くのアメリカ人が亡くなりました。攻撃せず、辛くても忍耐する方がよかったと思います。結果論ですが、忍耐すれば、その後の広島と長崎への原爆投下はなく、私の祖父の兄が広島の原爆で亡くなることもなく、東京大空襲により、一夜で10万人亡くなることもなかったと思いました。問題を戦争と暴力で解決することは安易です。多くの犠牲者を出します。忍耐強い話し合いこそ必要です。

 戦後、日本は平和憲法により再出発しました。平和憲法は、神様からのプレゼントだと私は信じます。私がチャプレンとして奉仕させていただいている保育園には、色々な国の方が来て下さいます。大いに歓迎し、子どもたちが世界の全ての国の人を愛する人になるように、祈ってゆきます。平和の種を蒔きましょう。アーメン(真実に)。
2021-02-27 23:42:50(土)
「私たちを恵みへ招く神」 礼拝説教 2021年2月28日(日)
礼拝順序:招詞 ローマ12:12、頌栄29、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・482、聖書、詩編14:1~3(旧約844ページ)、ガラテヤの信徒への手紙1:1~10(新約342ページ)、祈祷、説教「私たちを恵みへ招く神」、讃美歌21・300、頌栄83(1節)、祝祷。
 
(詩編14:1~3) 神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。主は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。

(ガラテヤ1:1~10)人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。
 キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。
 こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。

(説教) 毎月1回ほど、礼拝でローマの信徒への手紙を読んで来ましたが、暫く前に終了しました。そこで、以前にも行ったことがありますが、同じパウロ(イエス様の復活後に弟子となった男性)が書いたガラテヤの信徒への手紙を、本日より月1回の目標で読んで参りたく思います。ガラテヤの信徒への手紙のテーマは、「イエス・キリストの福音」と言ってもよいと思います。宗教改革を行ったマルティン・ルターも、この手紙を非常に重視したと聞いています。

 パウロは、イエス・キリストの福音をはっきりさせるために、非常な熱意をもってこの手紙を書いています。というより、キリストの福音がないがしろにされる危険を感じ取って、キリストの福音がないがしろにされることに反対して、ほとんど戦いの口調、怒りの口調でこの手紙を書いているようです。ガラテヤとは一つの町の名前ではなく、小アジア(今のトルコ国)にガラテヤ地方と呼ばれる広めの地域があったようです。パウロは、そのガラテヤ地方の教会宛てに、その地域に住むクリスチャンたちに宛てて、この手紙を書いたのです。1~3節は挨拶と言えます。「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、ならびに、私と一緒にいる兄弟(クリスチャン)一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。私たちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなた方にあるように。」

 そして4節「キリストは、私たちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世から私たちを救い出そうとして、御自身を私たちの罪のために献げて下さったのです。」「この悪の世」とありますから、パウロは(聖書は)この世界が、悪魔に支配された悪の世界だと、今は悪の時代だと言っています。もちろん究極的には、今のこの世界を神様が支配しておられます。ですが最初の人類エバとアダムが悪魔の誘惑に負け、悪魔の言葉に従って以来、人間は悪魔の支配下に落ちてしまったのです。これがパウロの時代も、今も現実です。しかしもちろん神様は悪魔よりも強いので、悪魔は神が許可する範囲でしか悪を行うことができません。因みに今私たちを苦しめている新型コロナウイルスが、悪魔から来ているかどうかは分かりませんが、この強くて困るウイルスも神の支配下にあり、神が許可する範囲でしか暴れることができません。
 
 このように神様の方が、悪魔よりもコロナよりも強く、悪魔もコロナもいずれ必ず滅びるのですが、しかし現状では、私たちは毎日少しずつ悪魔の誘惑に負けて、少しずつかもしれませんが罪を犯しつづけています。イエス・キリストを救い主と信じ、自分の罪を悔い改めて洗礼を受ければ、悪魔の支配から解放されて、神様の愛の支配下に移されますが、そうなっていない人々は、今も悪魔の支配下にあるのが現実です。その意味でパウロが4節で書くように、今の世も残念ながら「悪の世」と呼ばざるを得ないのが現実です。しかし、この「悪の世」の現実を打ち破って、全ての人々を、父なる神様の愛と恵みの支配下に招き入れるために、イエス様がこの地上に誕生されたのです。本日の説教題は「私たちを恵みへ招く神」です。

 「キリストは、私たちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世から私たちを救い出そうとして、御自身を私たちの罪のために献げて下さったのです。」イエス様が、私たち悪と罪の支配から解き放つために、ご自身を私たちの罪のために献げて十字架で死んで下さった、イエス様の十字架の愛がはっきり語られています。神様からご覧になれば、私たちには残念ながら罪があります。私たちが罪人(つみびと)であることを、たとえば本日の旧約聖書である詩編14編は、次のように語ります。「人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。(~)だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」「善を行う者はいない。ひとりもいない」とは、実に痛烈な言葉です。その私たちの罪が完全に赦されるためには、全く罪のない神の子イエス様が、身代わりに十字架で死なれる以外に道がないのです。そしてイエス様は、本当にご自分の命を献げて、十字架にかかって下さいました。さらに三日目に復活して、私たちが永遠の命を受ける道を切り開いて下さったのです。この生き方のことを、イエス様ご自身もマルコ福音書10章43~45節で、こう語っておられます。「あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、全ての人の僕になりなさい。人の子(イエス様ご自身)は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たである。」

 5節で挨拶が終わり、6節から本題に入ります。小見出しもやや刺激的です。「ほかの福音はない」です。「イエス様の十字架と復活以外に福音はない」ということです。それを否定する教えが登場したので、パウロは「世界広しと言えども、イエス様の十字架と復活以外の福音はない」と明言しているのです。新約聖書の使徒言行録4章12節の御言葉を借りれば、「ほかの誰によっても、救いは得られません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名(イエス・キリストの名)のほか、人間には与えられていないのです」というペトロ(イエス様の一番弟子)の言葉と、よく一致すると思うのです。

 6~7節「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなた方がこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、私はあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなた方を惑わし、キリストの福音を覆そうとしているのに過ぎないのです。」ガラテヤの教会のクリスチャンの多くは、ユダヤ人でない人々(ユダヤ人から見ての異邦人)だったと思われます。ユダヤ人クリスチャンも少しはいたかもしれません。異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンが、共に救い主イエス様を信じて、聖霊を注がれて、共に平和に礼拝と信仰の生活を送っていたと思われます。

 このガラテヤの信徒への手紙の後の方を読むと分かりますが、そこにユダヤ教の傾向の強い人々が、おそらくイスラエルから来たようです。そしてもっとユダヤ人の習慣を取り入れなければあなた方は救われない、天国に入れない等のことを言ったようです。たとえば異邦人クリスチャンも割礼を受けなければ、救われない等と説いたようです。旧約聖書の時代は、割礼は神様と神様の民との間の契約のしるしとして非常に重要でした。しかし新約聖書の時代に入ると、割礼ではなく洗礼が、神様と神様の民との間の契約のしるしです。ですからクリスチャンが割礼を受ける必要はありません。ユダヤ教の傾向の強い人々が、ガラテヤの教会にやって来て、割礼等のユダヤ教的な考えを取り入れるように、説いたようです。その中には、いわゆるファリサイ派的な教えも入っていたようです。イエス様とも衝突したファリサイ派の教えです。それは、モーセの十戒をはじめとする旧約聖書の多くの掟や、そこから考え出されたユダヤ教の多くの律法を、全力で実行することで救われる、天国に入ることができるという教えです。つまり自力で懸命に努力することで清く正しい人になり、天国に入るという教えです。

 ある意味で立派な教えなのですが、このファリサイ主義・律法主義の問題点は、自力で頑張ればモーセの十戒も、全ての律法も実行できると思い過ぎるようになり、自信過剰になり、自分に罪があることが見えなくなることです。モーセの十戒は、神様が私たちに与えて下さったよき戒めですが、その1つ「殺してはならない」だけを取ってみても、私たちはこれを完璧に実行できていないはずです。確かに殺人を犯したことはない。でも人を憎んだことはあるのではないか。心の中で憎んだだけでも「殺してはならない」への違反になる。モーセの十戒を守ることは大事なのですが、これをとことん行おうとすればするほど、この1つすら完璧には行えない自分の罪に気づくようになります。そこに気づかないのがファリサイ派で、自分は完璧に正しいと思い込む自己義認の罪を犯していたのです。自分が完璧に正しいと思い込む罪を、自己義認の罪と言います。プライドの罪とも言えます。これこそ新約聖書が(イエス様が)教える、私たち人間の罪の本質と思います。自己義認の罪。
 
 何を隠そう、このガラテヤの信徒への手紙を書くパウロ自身が、イエス様に出会う前なファリサイ派の先頭を切って、自信満々にまっしぐらに突き進んでいた人です。ガラテヤの教会に来て、割礼を受けなさい等と言うユダヤ人を見て、パウロは昔の自分を見る気持ちがしたのではないでしょうか。今のパウロは、昔の自分の間違いがよく分かっています。ですからガラテヤの教会で彼らの教えを受け入れることを明確に拒否しました。天国に入るために割礼を受ける必要はないのです。妥協して割礼を受けてはならない。それはキリストの福音に反する教えと、パウロは非常に断固として拒否しています。8~9節「しかし、たとえ私たち自身であれ、天使であれ、私たちがあなた方に告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。私たちが前にも言っておいたように、今また、私は繰り返して言います。あなた方が受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。」

 パウロは、復活のイエス様に教えられて悟ったのだと思います。イエス様こそ、旧約聖書の律法を完成なさった方だと。イエス様は30年間ほどの地上の人生の間、モーセの十戒を完璧に実行されました。そして父なる神様を完全に愛し、隣人を完全に愛し、敵をさえ愛して地上の人生を生ききられました。さらに十字架にかかって、私たちモーセの十戒を完全に守れない者たちの十戒違反の全ての罪を身代わりに背負って、父なる神様からの正しい裁きを全て引き受けて下さいました。最初の人間たちの罪に始まり、今後生まれる全ての人間の全ての罪を、イエス様は十字架で受けきられました。私たち皆に代わって、モーセの十戒を完璧に生ききられたのです。従って、私たちが罪を赦され、天国に入れていただくために必要なことは、このイエス様にただつながることだけです。もう少し具体的に言うと、自分の罪を悔い改めて、イエス様を救い主と信じる洗礼を受けることです。洗礼を受けると、イエス様という衣を着ることになります。衣の中の私たちにはまだ罪がありますが、イエス様という衣を着ているので、父なる神様はその衣を見て下さり、罪はまだ残っているのに罪なきイエス様と同じ神の子と見なしていただけるのです。これこそ新約聖書の福音・よき知らせ・グッドニュースにほかなりません。

 割礼などよりも、決定的に重要なのは、イエス様の十字架の死です。イエス様が十字架で私たち皆が、生涯で犯す全部の罪を身代わりに背負って死なれたのです。イエス様の十字架こそ、私たちが永遠の命を受けるための唯一の希望、最も確かな希望なのです。内村鑑三という有名なクリスチャンがいましたが、内村鑑三はキリスト教を「十字架教」と呼んだそうです。イエス様の十字架が、私たちの全部の罪を赦すためだったからです。キリスト教は、確かに十字架教です(もちろんイエス様の十字架の死の三日目の復活も非常に重要ですが)。ですから教会は世界中で、十字架をシンボルとしています。私たちは自分を誇らないで、十字架にかかって下さったイエス様を誇りとしています。

 何回もお話したことですが、私に洗礼を授けて下さった牧師に洗礼を授けられた牧師は、この受難節(レント)の時期、首から釘をぶら下げて生活しておられたそうです。首に十字架の飾りをつけている人は多いですが、首から釘を下げている人は、私は見たことがありません。その釘を見て、イエス様がご自分の罪のために十字架で死なれたその愛を深く心に刻むために、その牧師は受難節に首から釘を下げて祈りつつ暮らし、伝道したのでしょう。私が卒業した神学校では今年、入学試験の受験志望者が少なく危機感を募らせており、今年の秋に修養会の講師として来て下さる予定の小泉先生からも「祈って下さい」と依頼されたので、私はお祈りしているのですが、その神学校の建物は学校としては小さな建物ですが、上から見ると十字架の形になっています。イエス様の十字架と復活による福音を宣べ伝える伝道者を養成するという使命感を、建物を十字架の形にすることでも示しているのです。
ヨーロッパの修道院にも、上から見ると十字架の形のものがあるそうです。このようにキリスト教の本質は、確かに「十字架教」と呼ぶことができます。イエス様の十字架にこそ、私たち全ての人間を救う神の愛が集約されているからです。

 パウロはもともと、最も熱心なファリサイ主義者・律法主義者でした。イエス様の十字架にすがるクリスチャンたちを憎んで、クリスチャンを全力で迫害していました。ところが迫害に向かう途中、復活のイエス様が彼に現れて語りました。「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか。私はあなたが迫害しているイエスである。」サウル(その後のパウロ)は、初めて自分に自己義認の大きな罪があることを悟り、イエス様が自分のためにも十字架で死なれたことを知り、悔い改めて洗礼を受けました。割礼よりも何よりも、イエス様の十字架ほど大事なものは何もないと深く悟り、全ての人に十字架と復活のイエス様を宣べ伝える人生に入ったのです。

 ガラテヤでもその伝道を行い、クリスチャンたちが誕生しました。そこに昔の自分のような、自力で律法を完璧に行うことによって天国に入れると主張し、割礼も受けなければ救われないと主張するファリサイ主義者が入って来て、クリスチャンたちを混乱させました。そこでガラテヤ教会を正常な信仰に戻すために、別の場所でこの手紙を書いて送ったのです。「キリストの恵み(十字架の恵み)へ招いて下さった方(神)から、あなた方がこんなにも早く離れて、ほかの福音(十字架以外の間違った信仰)に乗り換えようとしていることに、私はあきれ果てています。」目を覚まして、イエス様の十字架の愛を最も大切にして、イエス様の十字架の愛にすがる信仰に、必ず立ち帰るようにと説いているのです。今はまさに受難節(レント)、イエス様の十字架の愛を特に強く思う季節です。私たちもイエス様の十字架の愛にますます深く立ち帰り、ますます深く帰依する信仰に生き、地上に生きる限りイエス様の十字架に感謝し、これを宣べ伝える日々を生ききりたいものです。

(祈り)聖名讃美。二度目の緊急事態宣言が出て、延長されています。今、感染している方々全員に、特に重症の方々に神様の癒しを与えて下さい。世界中が、神様に立ち帰るように力強く導いて下さい。私たちの教会に各々の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。教会学校の子どもたちの信仰を、守って下さい。東久留米教会を出発して日本やアメリカでイエス様を宣べ伝える方々とご家族に、神様の愛の守りを注いで下さい。この教会の周りにいつも平和を、近所の方々の心にも聖霊を注いで下さい。足利市の山火事を早く鎮火させて下さい。東京神学大学に受験志願者が多く与えられますように切に祈ります。イエス様の御名により祈ります。アーメン。