日本キリスト教団 東久留米教会

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2021-01-09 22:15:45(土)
「一人を捜しに行く神」 2021年1月10日(日)礼拝説教 
礼拝順序:招詞 コリント(二)5:17、頌栄85(2回)、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・278、聖書 詩編119:176(旧約968ページ)、マタイ福音書18:1~14(新約104ページ)、:祈祷、説教「一人を捜しに行く神」、讃美歌21・268,献金、頌栄83(2節)、祝祷。
 
(詩編119:176) わたしが小羊のように失われ、迷うとき/どうかあなたの僕を探してください。あなたの戒めをわたしは決して忘れません。

(マタイ福音書18:1~14) そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」
 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。 (†底本に節が欠落 異本訳)人の子は、失われたものを救うために来た。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」


(説教) 礼拝で月に一回か二回、マタイ福音書を読んで参りましたので、(クリスマスの時期を一旦終えて)そこに戻ります。本日の最初の小見出しは、「天の国でいちばん偉い者」です。1~4節「その時、弟子たちがイエスのところに来て、『いったい誰が、天の国で一番偉いのでしょうか』と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国一番偉いのだ。』」 弟子たちの正直な関心が「天の国で一番偉いのは誰か」でした。マルコ福音書には、弟子たちが、自分たちの中で誰が一番偉いかと議論し合っていたとあります。人よりも上に立ちたい。これは主に男性に本能であり、男性に多い罪です。女性にも少しあるかもしれませんが、男性に本能的にある罪です。少し大げさに言うと、権力欲です。

 当時の社会で、子どもはあまり大切な扱いを受けなかったようです。マタイ福音書19章を見ると、人々がイエス様に手を置いて祈っていただくために、子どもたちを連れて来ると、弟子たちがこの人々を叱ったとあります。その時、イエス様は、「子どもたちを来させなさい。私のところに来るのを妨げてはならない。天の国は、このような者のものである。」イエス様は、そうおっしゃって子どもたちに手を置いて、祝福して下さいました。このようにイエス様は、子どもたちを愛しておられます。日本でもキリスト教会は、子どもたちの日曜学校(教会学校)を大切にし、また 教会付属やキリスト教主義の幼稚園や保育園や学校を各地に立てて、子ども伝道に力を入れて来ました。私自身もキリスト教主義の幼稚園、高等学校に通いました。大人になってからでも間に合いますが、子ども時代にイエス様を知っておくと、一生の信仰の土台になります。そしてイエス様は言われます。5節「私の名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、私を受け入れるのである。」子供の中に、イエス様が住んでおられるとも言えます。

 子どもには短所があります。子どもはしばしばわがままです。しかし長所もあります。多くの子どもは素直に神様を信じます。子供は生まれたからの日数が大人よりも短い。子供は、神様によって命を与えられてからの時間が短いので、大人よりも神様に近い存在なのではないでしょうか。イエス様も赤ちゃんとして生まれて下さいました。イエス様は、子どもたちを愛しておられます。子どもを愛する心は、謙虚な心、謙遜な心です。

 イエス様と父なる神様は、子どもを愛するばかりでなく、この世界で力がない者、弱い者、貧しい者、障がいを持つ方を愛して下さいます。このことは、新約聖書のコリントの信徒への手紙(一)1章26節以下に、よく示されています。「兄弟たち(信仰の兄弟たち)、あなた方が召されたとき(神様に呼ばれてクリスチャンになったとき)のことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵ある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなた方はキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」「だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」

 私たちは誰も、父なる神様の前で、神の子イエス様の前で自分を誇ることはできません。私たちは皆、父なる神様の前で、イエス様の前で罪人(つみびと)だからです。私たち人間が自分を誇る誇り、プライドこそ高ぶり・高慢の罪です。高慢の罪があると、「心を入れ替えて子どものようになって天の国に入る」ことができません。信仰の道は、自分の高慢との戦いとも言えます。私たちは自分を誇ることをせず、救い主イエス・キリストを誇ります。それも私たちの罪を全て身代わりに背負って十字架に架かって下さったイエス様を誇るのです。私たちの罪を全て背負って十字架で死に、三日目に復活して今も天で生きておられるイエス様を、誇ります。

 イエス様ご自身、質素で貧しい者として歩まれ、ほとんど財産を持たずに生き、地上の人生の最後には十字架にかかるほどにヘリ下られました。イエス様は、マルコ福音書10章でこう言われます。「あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、全ての人の僕(しもべ)になりなさい。人の子(イエス様)は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」イエス様がこれほど身を低くされたのですから、私たちもイエス様に従って、身を低くしたいものです。

 次の小見出し「罪への誘惑」に進みます。6節「しかし、私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」つまずかせるとは、誘惑して罪を犯させること、そして神様への信仰の道から離れさせることを意味します。「私(イエス様)を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者(誘惑して罪を犯させ、神様への信仰の道から離れさせる原因となる者)は災いだ。その者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方が、ましである。」実に厳しい御言葉です。イエス様を信じる小さな者(子ども、有名でない人)の一人を、誘惑して罪を犯させ、イエス様を信じる信仰の道から離れさせる者は、何と災いなことか、それは何と大きな罪であることか。その者には、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められるよりも、もっと厳しい裁きが待っている、ということでしょう。つまり、イエス様を信じる小さな者の一人を誘惑し、罪を犯させ、イエス様を信じる信仰の道から離れさせることがないように、自分の行いに十二分に気を付けなさい、ということだと思うのです。

 8節「もし片方の手があなたをつまずかせる(罪を犯させる)なら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火(滅び)に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命(永遠の命)にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」手癖が悪いという言葉がありますが、店の商品を万引きするどろぼうする手がある人がいます。それは本当は手の罪というより、それを実行させる悪い心の罪と思います。しかし盗みを実行してしまう手を持っているならば、罪を犯さないために、片方の手を切って捨てよとイエス様は言われます。昔、本当にこの御言葉に従って自分の手を切った有名なクリスチャンがいたと聞きます。実際に切り落とすことはなかなかできませんが、自分に明らかな罪を実行する傾向がるならば、その自分の罪と真剣に本気で戦うことを、イエス様は求められたと思います。一番大切なことは最後に天国に入ることですから、五体満足の体で罪を犯し続けて天国に入れないよりは、五体不十分になっても、誘惑に打ち勝ち、罪をできるだけ犯さないようにして、天国に入る方がよいことになります。
 
 こんな話を読んだことがあります。ある少年がやくざ・暴力団に入ってしまった。良識ある大人が、「君はその団体を抜けないといけない。そうでないと悪に染まって人生がだめになってしまう」と愛を込めて諭し、忠告した。しかしその暴力団を抜けることは簡単に認めてもらえない。指を一本詰めないと抜けることが認められない。ある夜、その少年が忠告してくれた男性の元に来たそうです。見ると手に血が滲んでいる。少年は決心して、指を一本詰めたのです。そして暴力団を抜けて来た。忠告した男性は彼を抱きしめたそうです。「よく決心した。よくそこまでやって暴力団を抜けてきたね。よくやった、君は立派だ。」少年は罪深い世界を抜けるために、指一本の犠牲を払ったのです。真人間になるために、指一本の犠牲を払った。私たちが実際に手や足を切り落とすことはなくても、目を抉り出すことはしなくても、生き方を間違いさせる誘惑と懸命に戦い、自分の罪と真剣に戦うことが大事であることを、イエス様はここで語られたと信じます。

 プロテスタント教会は、信仰義認を強調します。イエス様を自分の救い主と信じる信仰によってのみ、父なる神様の前に罪を赦され、罪はあるが正しい者と認められる。この信仰義認を強調します。もちろん信仰義認は正しいです。しかし信仰義認が正しいから、罪を悔い改めなくてもよいとか、どんどん罪を犯し続けてよいわけではないことは明らかです。私たちは自分の罪をゼロにすることは地上では残念ながらできませんが、それでもどんどん罪を犯して平気の平左ではいけないし、毎日自分の罪を悔い改め、聖霊(神様の清き霊)に助けていただいて自分の明らかな罪と戦うことは大切です。

 さて、話を進めて10節です。「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつも私の天の父の御顔を仰いでいるのである。」「小さな者」という言い方は失礼とも言えます。それは子どもだったり、貧しい人、目立たない人の場合もあります。でもその一人をも軽んじないように気をつけなさい、その一人は、神様から見て大切な一人、神様に愛されている貴重な一人だというのです。「彼らの天使たちは、いつも私(イエス様)の天の父なる神様の御顔を仰いでいる。」つまり神様とちゃんとつながっている一人一人だというのです。

 12節以下「あなた方はどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。」もちろん行きます。「はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなた方の天の父の御心ではない。」「迷い出た」とは、「罪を犯して、神に従う道から外れた」ことで、気楽なことではなく、深刻な事態です。山は教会、神様の領域のシンボルです。一旦クリスチャンになって神様の領域に入った人が、迷い出て、神様の領域から出て、悪魔の領域に戻ってしまった。「ある人」はイエス様でもあり、教会の責任者(牧師=羊飼い)とも言えます。心を深く痛めて、一匹を捜しに行きます。このままではその一匹は悪魔の僕になってしまい、天国に入り損ねる恐れがあります。滅びる恐れがあります。神様の愛の元に立ち帰ってもらう必要があります。そこで愛情深いイエス様、羊飼いは一匹を捜しに行きます。むざむざ滅びさせるわけには決していきません。悪魔の誘惑と悪魔の支配から、何としても助け出さねばなりません。神様は、全ての人が悪魔の支配を抜け出て救われ、最後は天国に入ることを、切望しておられるからです。私たちはイエス様から離れることはないと思っていますが、油断し、気づかないで罪を犯し、イエス様から離れることが絶対ないとは断言できません。今日の旧約聖書である詩編119編の一番最後の節の祈りは、そんな私たちにやはり必要な祈りです。「わたしが小羊のように失われ、迷うとき/どうかあなたの僕を探してください。」私たちがもし、迷い出た一匹になる時、捜しに来て下さるイエス様は本当にありがたいのです。

 ヨハネ福音書3章16節が思い出されます。「神は、その独り子(イエス様)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ペトロの手紙(二)3章9節も思い出されます。イエス・キリストは必ず世の終わりにもう一度天から来られて神の国を完成されますが、「いつまでたっても来ないじゃないか」と嘲る人もいる現状に語りかける御言葉です。「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるわけではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなた方のために忍耐しておられるのです。」今の両方の御言葉に、「一人も滅びないで」とありました。百匹もいるのだから、一匹くらい滅びても気にしないイエス様ではありません。目立たない一匹であっても、滅びてはならない。罪を犯している一人でもいるならば、何としても罪の悔い改めに導き、罪を犯すことをやめさせ、悪魔の支配下から、神様の愛の元に連れ帰る必要があります。羊飼いは、一匹をすくうために命の危険を冒し、命を捨てることも厭いません。イエス様はヨハネ福音書10章でおっしゃいます。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは、羊のために命を捨てる。」

 本日の箇所に書かれている状況とは少し違いますが、私は高校1年生の時のことを思い出します。キリスト教と名の付く高校で、私は1年生の時、キリスト教概論の授業を担当する有馬先生という先生の担任のクラスに入りました。そのクラスに入ったのは、後から思えば神様の尊いご配慮だったと深く感謝しています。私は当時、教会には行っていませんでしたし、牧師という人がどのような働きをするかも分かっていませんでした。有馬先生がキリスト概論を教えるだけでなく、牧師であることを知ったのは、ずっと後のことです。高校1年生の時、一人の女子生徒が最初の一日二日学校に来ただけで、全く来なくなりました。私は暫くは気にしていましたが、全然来ないので、そのうち気にしなくなってしまいました。でも後で、有馬先生と数人のクラスメートがその女子生徒の家に訪問に行き、「学校においでよ」と誘ったことを聞きました。担任であればどの先生もなさることだとは思いますが、有馬先生は本当に牧師・羊飼いなのだなと後で思いました。私は行かなかったのに、有馬先生と一緒に訪問に行ったクラスメートがいたことを知り、彼は偉いなと思うと同時に、行かなかった自分の冷たさを恥ずかしく思いました。その女子生徒は、残念ながら確かその後学校に来ることはなかったように思いますが、詳しくは分かりませんが、今は元気にしているように聞き、ほっとしています。
 
 私たちは、人が多くおられると、「一人くらい」と思う恐れがあります。でも神様、イエス様はそうではない。イエス様は迷い出た一匹を捜しに行って下さる。「もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなた方の天の父の御心ではない。」この神様の心を、私たちの心として歩む東久留米教会でありたいものです。

(祈り)主イエス・キリストの父なる神様、聖名を讃美。今、感染している方々全員に、特に重症の方々に、神様の癒しを与えて下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。教会学校の子どもたちの信仰を、守って下さい。東久留米教会を出発して日本やアメリカで主イエス・キリストを宣べ伝える方々とご家族に、神様の愛の守りを注いで下さい。この教会の周りにいつも平和を、近所の方々の心にも聖霊を注いで下さい。日本海側の大雪で苦しむ方々と教会に、神様の助けを。雪の害を少なくして下さい。イエス様の御名により祈ります。アーメン。

2021-01-03 1:33:48()
「十二才のイエス様の信仰」 2021年1月3日(日)礼拝説教 
礼拝順序:招詞 コリント(二)5:17、頌栄85(2回)、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・262、聖書 出エジプト記20:1~17(旧約126ページ)、ルカによる福音書41~52(新約104ページ)、:祈祷、説教「十二才のイエス様の信仰」、讃美歌21・267,「聖餐式」、献金、頌栄83(2節)、祝祷。
 
(出エジプト記20:1~17)神はこのすべての言葉を語って言われた。 「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。あなたは殺してはならない。あなたは姦淫してはならない。あなたは盗んではならない。あなたは隣人について、偽証してはならない。あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。

(ルカによる福音書41~52) さて、イエスの両親は、過越の祭には毎年エルサレムへ上っていた。イエスが十二歳になった時も、慣例に従って祭のために上京した。ところが、祭が終って帰るとき、少年イエスはエルサレムに居残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。そして道連れの中にいることと思いこんで、一日路を行ってしまい、それから、親族や知人の中を捜しはじめたが、見つからないので、捜しまわりながらエルサレムへ引返した。そして三日の後に、イエスが宮の中で教師たちのまん中にすわって、彼らの話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞く人々はみな、イエスの賢さやその答に驚嘆していた。両親はこれを見て驚き、そして母が彼に言った、「どうしてこんな事をしてくれたのです。ごらんなさい、おとう様もわたしも心配して、あなたを捜していたのです」。するとイエスは言われた、「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」。しかし、両親はその語られた言葉を悟ることができなかった。それからイエスは両親と一緒にナザレに下って行き、彼らにお仕えになった。母はこれらの事をみな心に留めていた。イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、そして神と人から愛された。

(説教) 皆様、新年おめでとうございます。本年も、よろしくお願い申し上げます。ルカによる福音書は、イエス様の誕生の場面を書き記し、赤ちゃんイエス様が神殿で父なる神様に献げられる場面を描きました。それから一気に12年飛びます。本日の箇所には「神殿での少年イエス」の小見出しが掲げられています。

 最初の41~42節「さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になった時も、両親は祭りの慣習に従って都に上った。」ご存じのように、過越祭はイスラエルの民の最大の祭りです。その昔、イスラエルの民の先祖がエジプトで奴隷にされて苦しんでいた時、神様がモーセというリーダーをお立てになって、イスラエルの民をエジプトから脱出させて下さった大きな恵みを思い起こして感謝する祭りです。エルサレムの普段の人口は2万人だったそうですが、毎年この過越祭の時期にはイスラエル中から、そして外国からもイスラエル人が帰ってくるので、エルサレムの人口は10倍になったと聞きます。イエス様一家が住んでいたガリラヤのナザレから首都エルサレムまでの距離は約100キロとのことです。歩くと3日ほどかかるようです。イエス様には既に弟や妹が生まれていたでしょうが、弟や妹はまだ小さくてこのエルサレムへの旅には参加していなかったのでしょう。ヨセフとマリアは、エルサレムに向かいながら思い出したのではないでしょうか。12年前に、マリアがお腹にイエス様を宿してエルサレムより先のベツレヘムを目指して旅したことを。「あの時生まれたイエスも12歳になった」と語り合いながら、エルサレムに向かって親類や知人と共に進んだのでしょう。大勢でエルサレムに向けて旅しているのです。そして一家は、エルサレムで過越祭の日々を過ごしたのです。マリアとヨセフにとっては毎年のことでしたが、12歳のイエス様は初参加だったのでしょう。イスラエルでは12歳は、日本でいう元服、成人の仲間入りをする年齢とのことです。

 43~45節。「祭りの期間が終わって帰路についた時、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。」マリアとヨセフは、イエス様がてっきり大勢の中にいると思い込んでいましたが、捜してみたがいないので、真っ青になったに違いありません。ここのポイントは、両親がイエス様を見失ったということです。それは両親が、イエス様の本質を見失ったことを意味します。「イエスとは何者なのか」、それを見失ったのです。マリアさんは、イエス様を身ごもる前に天使ガブリエルから告げられたことを、もちろん心に留めていたと思います。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座を下さる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」結婚前に妊娠するという奇跡が自分の身に起きたことも、もちろん分かっています。しかしその後の約12~13年が、特に変わったことなく平和に過ぎたとすれば、妊娠・出産前後に起きたこと強烈な印象がやや薄らぎ、「あれは一体何だったのか」という気持ちに少しなっていたかもしれません。

 そこに今回、思いがけないことが起こりました。わが子イエス様がいなくなったのです。真っ青になって捜しながらエルサレムに引き返すと、(46節)「三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問をしたりしておられるのを見つけた。」三日後に発見したという点が大切です。三日という言葉に意味があります。イエス様が十字架で死なれて、三日目に復活されたことを連想するのが正しいです。イエス様が十字架で死なれた後、弟子たちや婦人たちはイエス様の姿を見失いました。自分たちがこれまでイエス様に従って来たことは一体何だったのだろう、意味のないことをしてきたのではないか、と希望と生きがいを見失いました。しかしイエス様が三日目に復活して現れて下さった時に、人々はイエス様の本質を発見したのです。イエス様は、私たち皆の全部の罪を身代わりに背負って、十字架で死んで下さった救い主、そして三日目に死を打ち破って復活され、私たちに死を超えた永遠の命を与えて下さる神の子、真の救い主。マリアとヨセフが、イエス様を三日の後に見つけた、発見したことは、イエス様の十字架の死と三日目の復活を暗示し、イエス様が私たちの罪を背負って十字架で死なれる救い主であることを暗示します。

 47節「聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。」父なる神様の御言葉である聖書(旧約聖書)、律法について、深く理解していることが分かり、大人たちが驚いていました。イエス様は聖霊に満たされて、受け答えしていたのです。48節「両親はイエスを見て驚き、母が言った。『なぜこんなことをしてくれたのです。ご覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです。』」これは人間の親としてまともで常識的なことですが、しかし神の子イエス様の母親としては、見当違いの発言でした。49節「すると、イエスは言われた。『どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。』」こう言われると、私はマリアさんに同情したくなります。子どもがいなくなったら、親が心配して捜すのは当たり前ですから。しかしイエス様から見れば、「どうして私を捜したのですか」と言うことは、自然なはずです。「私が自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」イエス様の父は、父なる神様です。イエス様はこの12歳のとき既に、「私の人間のお父さんはヨセフだが、私の真の父は、父なる神様だ。私は神の子だ。父なる神様の家である神殿こそ、私の本当の家だ」と明確に自覚しておられたのです。「私が父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」「当たり前」は元の言葉で「デイ」という短いが重要な言葉です。これまでにも何回も申し上げて参りました通り、「デイ」は聖書では必然、神の必然を表す言葉です。「私が父の家にいるのは当たり前」、神の子イエス様が父なる神様の神殿におられるのは、きわめて自然なこと、当然のことです。

 50~52節「しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」両親にはすぐには理解できなかったけれども、信仰深い母マリアは、これらのことを全て心に納め、祈りつつ「これは一体どういうことか」と思い巡らしていました。そして妊娠前に天使ガブリエルが告げたこと、同じ神殿に赤ちゃんイエス様を献げに行った時、シメオンという老いた預言者が、「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と言われたことを、改めて思い出したと思うのです。「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」は、マリアの長男イエス様が十字架にかかることを意味しますが、わが子に「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と言われた時にも、マリアの心には少し剣で刺し貫かれる痛みが走ったと思うのです。

 どの親でも、わが子が自立して親離れしてゆく時に、子どもの成長を喜ぶと共に、寂しさと痛みを覚えると思います。イエス様も当時の成人12才になって、親から精神的に自立されたとも言えます。これから母マリア・父ヨセフの家に暮らしながらも、ご自分の本来の使命、父なる神様に従って生きることを優先する決心を次第に明確になさるはずです。マリアとヨセフにとって、イエス様は「わが子であって、わが子でない」のです。しかし、イエス様が父なる神様に本格的に従い始めるのは、まだ15年か18年先です。神様はそれまでマリアに平和な日々を与えて下さったと思います。ヨセフにもそうですが、ヨセフはこの後登場しないので、イエス様が公の活動に入られる前に、地上の人生を終えたのではないかと思われます。神殿で両親に発見されたイエス様は、両親と共にナザレに帰り、両親に仕えて暮らされました。本日の旧約聖書は、出エジプト記20章の「モーセの十戒」ですが、その第五の戒めが「あなたの父母を敬え」です。イエス様はモーセの十戒を十分に守って生活なさったはずですが、「あなたの父母を敬え」の戒めもよく果たされたと分かります。ヨセフからは大工仕事を習い、大工として肉体労働しながら、この後の15~18年間を過ごされたと思うのです。普通であれば、その次は結婚となるのですが、イエス様の場合、そうなりません。イエス様は27才か30才から、父なる神様に従う生き方を本格化されます。普通の人間的な幸せの道ではなく、父なる神様に従いきる歩み、十字架を目指す歩みに進まれます。父母を尊敬しながらも、肉親の情を超えて、父なる神様をもっと愛して、父なる神様が与える使命に忠実に従う生き方です。

 旧約聖書で、このような生き方をした人の一人は、イスラエルの民の先祖アブラハムです。創世記22章を見ると、アブラハムが父親としての肉親の情を超えて、神様に従ったことが書かれています。100歳によってようやく妻サラとの間に生まれた息子イサクを献げるように、神様がアブラハムに求めます。神様がアブラハムの信仰の純粋性を試されたのです。「アブラハムよ、あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。私が命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物として献げなさい。」アブラハムの心の中はどうだったのか? はっきり書かれていませんが、アブラハムは次の朝早く、二人の若者を息子イサクを連れて、神の命じられたモリヤの地に向かいます。そこに着くと、アブラハムは祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せます。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうと(殺そうと)しました。その瞬間、天か主の御使い(天使)が「アブラハム、アブラハム」と呼びかけます。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。」「神を畏れる者」とは「神様を畏れ敬い、神様に従う人」ということで、特に旧約聖書は「神を畏れる者」を高く評価します。有名でも無名でも、富んでいても貧しくても、「神を畏れ敬う者」こそ、神様に喜ばれる人です。アブラハムが「神を畏れる者」であることが、最も大事なイサクを献げたことで証明されたのです。「あなたは、自分の独り子すら、私(神)に献げることを惜しまなかった。」

 アブラハムは辛かったでしょうが、肉親の情を超えて、神様に従う決断をし、愛する息子イサクを献げました。ほとんど屠りかけたところで天使が介入し、イサクを殺さないで済みました。アブラハムは本気でイサクを屠るつもりだったのですから、そこまでで神様が、アブラハムの神に従う信仰を本物と認めて下さいました。アブラハムがイサクを神様に献げたように、マリアもわが子イエス様を、肉親の情を超えて父なる神様に献げることを求められます。マリアはそれを成し遂げました。ですからマリアは、「信仰の母」「信仰者の模範」と言えると思います。

 信仰には、「神様を第一とする」厳しさがあります。イエス様ご自身が、マタイ福音書10章でおっしゃっています。「私より父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、私のために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」『ちいろば』(小さいろば)という本を書いた榎本保郎牧師という方がおられました。交流のあったクリスチャン作家・三浦綾子さんが榎本先生のご生涯を描いた『ちいろば先生物語』に、榎本先生が奥様に出したプロポーズの手紙が紹介されていました。「愛する者(男子)が十字架に登ろうとする時、女子は愛する者を十字架の上に押し上げる。決して引き下ろしてはなりません。和子さん、あなたの信仰ならそれができると思います。」何と信仰深いプロポーズの言葉かと思います。同じように、マリアさんも、イエス様が十字架に向かうことを止めてはならないのです。

 12世紀から13世紀にかけて生きたイタリア人クリスチャンにアッシジのフランチェスコがいます。彼についてのエピソードが知られています。フランチェスコの父親は裕福な商人でした。父親は、息子のフランチェスコをも商人にしたかったようです。ある時フランチェスコは宣言します。「今からは、肉親の父ベルナルドではなく、天の父が私の本当の父だ。私は天の父に従って行く。」そう言って、父親ベルナルドからもらった高価な服を脱ぎ捨てて、素っ裸になって出て行ったと。すべてを捨てて父なる神様に、そしてイエス・キリストに従った代表のような信仰者としてフランチェスコは今も、慕われています。

 イエス様も、肉親の情を超えて父なる神様に従う道を最優先されました。しかしイエス様は、肉親の母マリアをただ捨てたのではありません。イエス様が十字架に架かった時、足元にマリアと弟子のヨハネがいました。イエス様は十字架の上からマリアさんに言われました。「婦人よ、御覧なさい、あなたの子(ヨハネ)です。」そしてヨハネに言われました。「見なさい。あなたの母です。」その時から、弟子のヨハネはマリアを自分の家に引き取った、と書かれています。イエス様はマリアの行く末を心配し、弟子ヨハネにマリアの世話を頼みました。ヨセフはきっと、マリアが地上の人生を終えるまで責任を持ったに違いありません。イエス様は、父なる神様に従うことを最優先すると同時に、マリアのことも心にかけました。ここに私どもの生き方があると思わせられます。父なる神様に、イエス様に従うことを最優先しながら、できるだけ家族にも責任をもつ。復活のイエス様に守られて、このような生き方をさせていただきたいと存じます。

(祈り)聖名を讃美致します。東京と日本全体で新型コロナウイルスの感染者がまだ減りません。神様が私たちを憐れんで、ウイルスを無力化し感染拡大をストップさせて下さい。世界が助け合って、このピンチを乗り越えることができますように。有効なワクチン、治療薬を早く与えて下さい。今、感染している方々全員に、特に重症の方々に、神様の癒しを与えて下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。教会学校の子どもたちの信仰を、守って下さい。東久留米教会を出発して日本やアメリカで主イエス・キリストを宣べ伝える方々とご家族に、神様の愛の守りを注いで下さい。東久留米教会が神様を礼拝し、イエス様を伝える歩みを世の終わりまで継続できますように。イエス様の御名により祈ります。アーメン。

2021-01-01 1:29:08(金)
「神を愛し、隣人を愛する生き方」 元日礼拝説教 2021年1月1日(金) 
礼拝順序:招詞 ヨハネ福音書3:16、頌栄24、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・248、聖書 イザヤ書58:6~14(旧約1157ページ)、祈祷、説教「神を愛し、隣人を愛する生き方」、讃美歌21・256,献金、頌栄27、祝祷。
 
(イザヤ書58:6~14) わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。あなたが呼べば主は答えあなたが叫べば/「わたしはここにいる」と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと/呪いの言葉をはくことを/あなたの中から取り去るなら/飢えている人に心を配り/苦しめられている人の願いを満たすなら/あなたの光は、闇の中に輝き出であなたを包む闇は、真昼のようになる。

 主は常にあなたを導き/焼けつく地であなたの渇きをいやし/骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。人々はあなたの古い廃虚を築き直し/あなたは代々の礎を据え直す。人はあなたを「城壁の破れを直す者」と呼び/「道を直して、人を再び住まわせる者」と呼ぶ。安息日に歩き回ることをやめ/わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ/安息日を喜びの日と呼び/主の聖日を尊ぶべき日と呼び/これを尊び、旅をするのをやめ/したいことをし続けず、取り引きを慎むなら/そのとき、あなたは主を喜びとする。わたしはあなたに地の聖なる高台を支配させ/父祖ヤコブの嗣業を享受させる。主の口がこう宣言される。

(説教) 皆様、新年おめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。私たちの世界は依然としてコロナ禍の中にありますが、神様が私たちと世界を憐れんで下さり、世界中で助けってコロナ禍を一歩一歩乗り越えてゆくことができるように、心よりお祈り致します。

 元日にあたり、本日は旧約聖書のイザヤ書58章6~14節を与えられています。これは大変すばらしい箇所だと私は思います。私は最近、ある方(東久留米教会の方ではない)がこの6~12節をそらで朗読されたのを見て、大変驚きました。この個所を暗唱聖句にしている方がおられるのです。そのような人に初めて出会いました。でもこの個所は、確かに暗唱するにふさわしいすばらしい御言葉です。旧約聖書ではありますが、イエス様の心が見事に表現されている箇所だと思うのです。

 それは説教題に示しましたように「神を愛し、隣人を愛する生き方」またそのような心です。イエス様は、マタイによる福音書22章でこう言われます。有名な御言葉です。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい。律法全体と預言者(つまり旧約聖書)は、この二つの掟に基づいている。」本日のイザヤ書58章は、順番で言うとまず隣人を愛する生き方を述べ、次に神様を愛する生き方を述べており、いわば逆になっています。逆になっていることに特に意味があるわけではないと思います。

 最初の6節「私(神様)の選ぶ断食とはこれではないか。」神様がまず断食について語られます。イエス様の時代のイスラエル人(ユダヤ人)の信仰(ユダヤ教)では、「祈り、断食、施し」が重要とされていました。しかしイエス様は、マタイ福音書6章で、断食について、偽善的な断食もあると注意を促しておられます。「断食するときには、あなた方は偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。」それは、自己満足的な断食です。それではいけない。断食には、よい目的があるはずです。それは自分の欲望を抑え、よく祈って聖霊に満たされて清められ、神様によりよく従う者になるというよい目的です。そのような断食なら、神様に喜ばれます。

 よい断食は、ただ食を断つだけでなく、自分勝手の罪を断ち、神様と隣人によりよく奉仕する生き方になるという実を結ぶはずです。6節「私(神様)の選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛(くびき)の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。」軛は、二頭の牛などの背中と背中をつなぐ木製の道具のようで、これによって二頭の牛などを並ばせて鋤などを引かせて畑を耕させるために使います。人間にとっては、二頭の牛を並んで働かせるので畑を耕す大きな力をもたらす便利な道具ですが、牛にとっては自由を奪われる束縛でしょう。軛は束縛の象徴ですね。神様が喜ばれる断食は、隣人が奴隷にように虐げられ、酷使されている場合、その人を解放し助けることだというのです。7節「更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞(同胞の日本人に限らず、外国人をも)に助けを惜しまないこと。」私たちには大きなことはできませんが、地震や津波や台風の被害を受けた地域にある程度のお金をお送りすることはさせていただいて参りました。

 イエス様は、マタイ福音書25章でおっしゃっていますね。「お前たちは、私が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからだ。」「私たちが、いつそのように致しましたか?」といぶかる人々に、イエス様は言われました。「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。」このようなことを日々積み重ねる生き方は、よいですね。

 8節「そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷はすみやかに癒される。あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る。」9節の前半「あなたが呼べば主は答え、あなたが叫べば『私はここにいる』と(神様が)答える。」神様といつも共に歩む人生になる。あなたが神様に祈ると、神様の答えがすぐに来る。神様といつもツーカーになる。逆に私たちが明らかな罪と悪を犯し続けているなら、このようにならない。次の59章の頭に、その場合のことが記されています。「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」でもあなたが、隣人に助けを惜しまない生き方をしているなら、「あなたが呼べば主は答え、あなたが叫べば『私はここにいる』と(神様が)言われる。」

 罪深い行い、悪の行いをやめ、隣人に愛を注ぐなら、あなたに神の祝福が与えらえられるとイザヤ書は説きます。9節の後半から。「軛を負わすこと、指をさすこと、呪いの言葉を吐くことを、あなたの中から取り去るなら、飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる。主は常にあなたを導き、焼けつく地であなたの渇きをいやし、骨に力を与えて下さる。あなたは潤された園、水の枯れない泉となる。」神に従うあなたは、エデンの園のような祝福を受ける。

 12節「人々はあなたの古い廃墟を築き直し、あなたは代々の礎を据え直す。人はあなたを『城壁の破れを直す者』と呼び、『道を直して、人を再び住まわせる者』と呼ぶ。」イスラエルの民は、神様に背き続けたために、起源前6世紀の前半に、バビロン捕囚という厳しい神様のお叱りを受けました。多くの人々がバビロンに連行され、イスラエルに戻ることを許されたのは約半世紀後でした。人々がこれまでの罪を悔い改めて、神様を愛し、隣人を愛する生き方を行うなら、イスラエルの国は復興し、再建されます。廃墟となった町は築き直されます。町を守る城壁の破壊された部分も修復されます。荒れ放題の道もきれいに整備し直されます。イスラエルの国は再建されます。しかしその工事より大切なのは、神様に従う信仰と生き方です。神様を愛し、神様を礼拝し、神様に従い、隣人を愛する信仰と生き方が、国の再建の土台です。この中身がないと、建物などは立派に建っても本当の土台がなく、いずれまた滅びてしまいます。

 私たち日本人も、聖書の神様という真の土台の上に、教会を建て上げ、日本国を建て上げることが必要です。そうだと思うのです。明治になった頃、伊藤博文たちがヨーロッパの国造りを学びに行きました。ヨーロッパの底にある精神はキリスト教だと見抜きました。(但し、ヨーロッパの国々が本当にイエス様に従っていたとは言えません。イギリスなども、中国にアヘン戦争を仕掛けて中国をひどい目に遭わせる罪深いことをしています。)伊藤博文たちは考えました。日本はキリスト教を土台にするわけにはいかない。(本当はそうすればよかったのですが。)キリスト教に代わる日本の土台は何か。それは天皇だと彼らは考えました。天皇を中心にする日本にする必要があると彼らは考えました。それで大日本国憲法を作り、「天皇は神聖にして侵すべからず」と規定したのです。天皇を神とする教育を行い、天皇を神とする、はっきり言えば偶像崇拝の国を造りました。そして戦争を重ねて行き、1945年の敗戦に至りました。その後の日本は、天皇主権をやめ、国民主権、民主主義の国として立ち直りました。でもまだ十分ではないのではないでしょうか。皆でイエス・キリストを愛し、イエス・キリストに従う国になってゆくことがぜひ必要です。

 本日のイザヤ書58章は、初めに隣人を愛する生き方を語り、そのあとで神様を愛する生き方と語ると申しましたが、13~14節が神様を愛する生き方を説いています。「安息日に歩き回ることをやめ、私の聖なる日(神の聖なる安息日)を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日と呼び、これを尊び、旅をするのをやめ、したいことをし続けず、取り引き(ビジネス)を慎むなら、その時、あなたは主を喜びとする。私はあなたに地の聖なる高台を支配させ、父祖ヤコブの嗣業(神から与えられた土地、祝福)を享受させる。主の口がこう宣言される。」
 
 これは、安息日の礼拝を守りなさいということです。大切なモーセの十戒の第四の戒めです。この大前提となるのが十戒の第一の戒めです。「あなたには、私を置いてほかに神があってはならない。」「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。」これは文語訳聖書では「汝、わが顔の前に、我のほか何者をも神とすべからず。」聖書の神様だけが、全宇宙をお造りになった真の神様です。この真の神様を礼拝する大切な日が安息日です。安息日は旧約聖書では土曜日、新約聖書ではイエス様が十字架の死から復活なさった日曜日を(安息日とは呼びませんが)主の日、礼拝の日と決めています。十戒の第四の戒めには、こう書かれています。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」この安息日礼拝が、イスラエルにおいてさえ、次第に守る人が減っていたのかもしれません。モーセの十戒全体が、神様を愛し隣人を愛する生き方を教えていますが、人々がだんだんこれらを守らなくなり、罪を犯すようになり、悔い改めないようになり、それで遂にバビロン捕囚という審判が、神様から与えられたのではないかと思います。

 安息日を守らない人も出て来たようです。イスラエルの(旧約聖書の)安息日は、金曜日の夕方に始まって、土曜日の夕方に終わります。この24時間がイスラエルの安息日と聞いています。神様への礼拝・祈りに専念する日です。ところが取引したくなる誘惑に負ける人が出たようです。ビジネスしたくなる誘惑に負ける人が出たようです。安息日に神様を一生懸命礼拝すれば、必要なものは神様が備えて下さると信じられず、取り引き、ビジネス、お金儲けを行う人が出たようです。それでは神様を愛しているとは言えません。安息日に歩き回ることをやめ、この聖なる日にしたいことをするのをやめ、礼拝しないで旅することをやめ、ビジネスを慎むなら、神様の祝福を受けると書かれています。

 クリスチャンの礼拝の日は日曜日ですが、ヨーロッパの信仰深い地域では、日曜日はお店が閉まっているのが普通だったと聞きます。割と最近になってから、礼拝が終わった午後にお店を開けるところが出て来たという話も聞いたことがあります。韓国では、日曜日に礼拝に行く人が非常に多いので(今はコロナで違うかもしれませんが)、日曜日にはそれに合わせてバスの予定も変わると聞いたことがあります。礼拝中心に生きる人々はおられるのです。それに比べると日本の東京は、日曜に店が開いているのは当たり前ですから、本当はそれではいけないのだと思います。日曜日には、心をこめて神様を礼拝することで、私たちの命を造って下さった神様を愛するのです。

 今年の私どもは、ある意味シンプルに「神様を愛し、隣人を愛する」生き方を積み重ねたいと思います。イエス様は「隣人を自分のように愛しなさい」と言われますので、自分をも愛してよいのです(自分を過度に愛して自己中心にならない限り)。自分を正しく愛して、隣人をも愛するのです。気の合わない人にも親切にするのです。コロナが早く収まりに転じるように祈りますが、収まったあと、ただ前の生活に戻るだけではよくないと思います。これを機会に、自分の始まって多くの日本人が、世界の人々が真の神様に立ち帰る、神様を礼拝し、神様を愛して、神様に喜んで従うようになる。そのような今後の世界になるように、祈って参りましょう。

(祈り)聖名を讃美致します。東京と日本全体で新型コロナウイルスの感染者がまだ減りません。神様が私たちを憐れんで、ウイルスを無力化し感染拡大をストップさせて下さい。世界が助け合って、このピンチを乗り越えることができますように。
有効なワクチン、治療薬を早く与えて下さい。今、感染している方々全員に、神様の癒しを与えて下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。教会学校の子どもたちの信仰を、守って下さい。東久留米教会がこれからも主イエス・キリストを宣べ伝え、神様を礼拝し、イエス様に従う歩みを世の終わりまで継続することができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2020-12-27 2:48:38()
「この目で神様の救いを見た」 2020年12月27日(日)礼拝説教
礼拝順序: 招詞 ヨハネ福音書3:16、頌栄85(2回)、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・258、聖書 イザヤ書40:1~5(旧約1123ページ)、ルカ福音書2:22~40(新約103ページ)、祈祷、説教「この目で神様の救いを見た」、献金、頌栄92、祝祷。
 
(イザヤ書40:1~5) 慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。

(ルカ福音書2:22~40) さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」
父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。

(説教) 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
 一昨日12月25日(金)が今年のクリスマスでした。今日はその直後の日曜日、教会暦では、降誕節第1主日の礼拝です。イエス様の誕生から暫く後の出来事です。22節「さて、モーセの律法に定められた彼ら(主にマリア?)の清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。これは旧約聖書の出エジプト記13章2節の神様の御言葉です。「すべての初子を聖別して私に献げよ。イスラエルの人々の間で初めに胎を開くものはすべて、人であれ家畜であれ、私のものである。」マリアとヨセフの夫婦は、旧約聖書に記された神様の掟に、忠実に従う信仰深い夫婦でした。

 ルカに戻り、24節にはこうあります。「また主の律法に言われている通りに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。」これは旧約聖書のレビ記12章に書かれていることです。「妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている。」これは旧約聖書の時代のことであって、新約聖書の時代に生きる私たちにおいては、出産や月経が汚れということはありません。「八日目にはその子の包皮に割礼を施す。産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所(神殿)にもうでたりしてはならない。」「清めの期間が完了したならば、産婦は一歳の雄羊一匹を焼き尽くす献げ物として、家鳩または山鳩一羽を贖罪の献げ物として臨在の幕屋の入り口に携えて行き、祭司に渡す。祭司がそれを主の御前に献げて、産婦のために贖いの儀式を行うと、彼女は出血の汚れから清められる。」これは産婦のための清めの儀式ですね。「なお産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、一羽を焼き尽くす献げ物とし、もう一羽を贖罪の献げ物とする。」マリアとヨセフは貧しかったあので、山鳩一つがい(二羽)か家鳩の雛二羽をいけにえとして献げに神殿に来ました。同時にイエス様の贖いのための献げ物でもあったようです。初めての子であるイエス様を、父なる神様の律法に従って父なる神様に献げるのですが、いけにえは屠って(殺して)献げるのですが、人間を殺すわけにはいかないので、代わりに羊(貧しい場合は山鳩か家鳩二羽を献げるということのようです。

 一家は行った先のエルサレム神殿で、シメオンという老人に出会います。シメオンが老人とはどこにもはっきり書かれていませんが、「安らかに去らせて下さる」と書かれていますから、シメオンは老人でしょう。何歳かは書いてないので、分かりません。人生50年時代ですから、60才くらいかもしれないし、80才以上かもしれません。シメオンの人生は、真の救い主に会うことをひたすら待ち望む人生でした。60年も80年も待ち続けたのです。忍耐強い人生です。忍耐は無駄に終わりません。25~27節「その時、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンという名前は「聞き入れられた」の意味だそうです。はっきり書いてありませんが、シメオンは預言者です。神様のメッセージを忠実に語る預言者です。今日の後半に出て来る女預言者アンナと並んで、シメオンは男預言者です。シメオンが霊(聖霊)に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のための律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。」神殿は大勢の人でごった返していたでしょう。ある人は、当時のエルサレムの人口は2万人だと言います。神殿にも大勢の人が来ていた。ですがマリア・ヨセフ・イエス様の三人家族は特に目立たず、この小さく平凡に見える家族に目を留める人はほとんどいなかったでしょう。ただ一人シメオンだけが気づいたのです。聖霊が気づかせて下さったのです。シメオンは赤ちゃんイエス様を一目見て、ピンと来たのです。

 シメオンが幼子を抱き上げます。彼は聖霊に満たされ、感激して神様をたたえます。「主よ、今こそあなたは、お言葉通り、この僕(しもべ)を安らかに去らせて下さいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。」シメオンは、赤ちゃんイエス様を見ただけですが、救い主イエス様の生涯全体を見通したに違いありません。イスラエル人全員、そしてイスラエル人以外の全員の罪を全て身代わりに背負って、十字架で死に、三日目に復活する救い主であると見通したに違いありません。旧約聖書でのイスラエルのリーダー・モーセに少し似ています。モーセは、エジプトを脱出したイスラエルの民を40年間苦労して率いましたが、彼自身は約束の地カナン(イスラエル)に入ることができませんでした。彼はネボ山という山に登り、ピスガという山頂に登り、そこから約束の地全体を見渡すことを許されました。神は言われました。「これがあなたの子孫に与えると私がアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。私はあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。」渡るのはモーセの後継者ヨシュアたちです。

 シメオンは神を賛美し、この一家を祝福し、マリアにメッセージを語ります。ここまでがシメオンの使命です。シメオンは使命を果たした安心感に満たされて退場します。聖なる喜びに満たされて地上の人生を終え、天に召されたはずです。このような人生の終え方は、理想的と感じます。神様から与えられた自分の使命を果たし切って、次の世代を祝福して、思い残すことなく天国に帰る。シメオンがここまでどんな人生を歩んだか、全く分かりません。でもこのような終わり方ができたらベストではないかと思いました。

 シメオンは神を賛美して言います。「これ(この救い、イエス・キリスト)は異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」イエス・キリストは、異邦人(イスラエル人でない人々、日本人も異邦人)への祝福、そして旧約聖書以来の神の民イスラエルへの祝福だと述べています。その通りです。イエス・キリストこそ全人類の希望であり、イエス・キリストだけが全人類の唯一の真の希望にほかなりません。従って全ての人が、イエス・キリストを救い主と信じることが必要です。使徒言行録4章12節のペトロ(イエス様の一番弟子)の説教を思い起こす必要があります。「ほかの誰によっても、救いは得られません。私たちが救われるべき名は、天下のこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

 さてマリアとヨセフは、シメオンが幼子についてこのように語ったことに驚いていました。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言います。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」祝福の中にも、この幼子の人生が容易なものではないことが示されます。「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。」イエス様を歓迎しない人、イエス様に反対する人も出て来る。イエス様に反対することは神様に逆らうことですから、イエス様が働くことによって神様に逆らう人間の罪もあぶり出されて表面化する。自分の罪を悔い改めて永遠の命へと立ち上がる人と、イエス様を拒否して一旦倒れる人に分かれることが起こる。試金石という言葉がありますが、本物と偽物を見分ける石のことと思います。イエス様こそ試金石である。イエス様という試金石に対してどのような態度を取るかによって、その人の本質が明らかにされてしまう。もちろん父なる神様の切なる願いは、全てのイスラエル人と全ての異邦人が、イエス・キリストを自分の救い主と信じ、自分の罪を悔い改めて、永遠の命を受けることです。シメオンはマリアに言います。「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。」これはわが子イエス様が十字架に架かることを予告しています。マリアはこの試練を受ける。でもイエス・キリストが十字架で私たち全ての人間の全ての罪を身代わりに背負って死ぬことで、全ての人が永遠の命に入る道が開かれ、真の祝福がもたらされるのです。

 進みます。36節「また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、84歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼に神に仕えていたが、その時、近づいてきて神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」女預言者アンナは、高齢の女性の模範のような人です。神への祈り、礼拝に明け暮れる毎日を送っていました。とても貧しい生活だったと思われます。新約聖書のテモテへの手紙(一)5章に次の御言葉がありますが、まさにアンナのことを述べるかのようです。「身寄りがなく独り暮らしのやもめは、神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続ける。」アンナも聖霊に満たされていたでしょう。アンナも人々に幼子イエス様のことを話したのです。
シメオンとアンナは高齢で、旧約聖書を時代を代表します。イエス様、マリア、ヨセフの若い一家は、新約聖書の新しい時代のシンボルです。旧約から新約へ、神様の計画が進みます。

 シメオンに話を戻すと、前の方の25節には、「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み」と書いてあります。「イスラエルの慰められる」とは「イスラエルの救い」と言っても同じでしょう。「イスラエルの慰め、救い」は以前には、エジプトでの奴隷状態からの解放や、旧約の時代の後期のバビロン捕囚からの解放を指し、イエス様の時代であればイスラエルはローマ帝国に支配されていたので、ローマ帝国からの解放を待ち望むイスラエル人が多かったのです。ところがイエス様はそのような救いをもたらす救い主ではないのです。シメオンやアンナには分かっていたと思います。

 本日の旧約聖書は、イザヤ書40章1節以下のすばらしい御言葉です。1節は、クリスマスの時期によく演奏されるヘンデル作曲「メサイア(救い主)」の歌詞にもなっています。メサイアは、メシア(救い主)で、もちろんイエス・キリストを指します。メサイアの中のハレルヤコーラスで、イエス様こそ「王の王、主の主」と歌い上げています。そのメサイアの歌詞に採用されているのが、イザヤ書40章1節です。「慰めよ、私の民(神の民イスラエル)を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ、苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを、主の御手から受けた、と。」神の慰めが語られます。イスラエルが神様に長年背いたので、バビロン捕囚という厳しいお叱りが与えられた。イスラエルの民は、約半世紀をバビロンに捕らわれて過ごします。その厳しい忍耐の時期が終わり、今や神の愛と優しい慰めがイスラエルに注がれる時となった。「罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた」とは、罪に倍する厳しい裁きを神から受けた、の意味です。しかしその長い忍耐の時が終わり、神の愛の慰めを受け、イスラエルに帰ることが許された。

 しかし神様のもっと深い本当の慰めは、イエス様の十字架と死によって与えられる全ての罪の赦しと永遠の命なのです。それを知っているからヘンデルは、イエス様こそ世界の王の王、主の主と歌い上げる「メサイア」、イエス様が主人公である「メサイア」にイザヤ書40章1節の「慰めよ、私の民を慰めよと、あなたたちの神は言われる」の御言葉を採用したのです。バビロン捕囚からの解放もすばらしい慰めは、イエス様の十字架の身代わりの死と復活によって与えられ罪の赦しと天国だと、ヘンデルは言いたいのです。

 3節に「呼びかける声がある」とありますが、新約聖書はこの声は、イエス様の直前に働いた洗礼者ヨハネの声だと語っています。「呼びかける声がある。主のために、荒れ地に道を備え、私たちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。」こうして神の登場の準備がなされる。そして5節「主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る。」肉なる者とは、人間たちです。あのシメオンは、「私はこの目であなたの救いを見た」と述べました。「主の栄光に満ちた救い主イエス様の誕生を、シメオンたちが共に見た」、そして大いなる慰めを受けたのが、今日のルカによる福音書です。

 信仰の学びに大変有益な『ハイデルベルク信仰問答』という小さめの本があります。この信仰問答の第一の問いと答えが有名です。そのテーマは「慰め」です。「問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」 「答 私が私自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、私の真実な救い主イエス・キリストのものであることです。イエス様は御自分の尊い血をもって私のすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力から私を解放して下さいました。」 「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」「私が私自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、私の真実な救い主イエス・キリストのものであることです。」これがイエス様を救い主と信じた私たちの現実です。イエス様を信じる前は、悪魔の誘惑に負けて罪を犯し続けるもの、つまり悪魔のものだった。しかしイエス様の十字架と復活のお陰で、悪魔に属する者からイエス・キリストに属する者に変えられた。今や私は、まだ罪が残っているけれども、赦されてイエス様に属する者になっている。生きている今も、死んだ後もそうだ。それが私のただ一つの真の慰め、ただ一つの真の希望だ。

 シメオンもアンナも、この真の慰め主、私たちに真の希望をもたらす救い主・赤ちゃんイエス様を見て、深い慰めに満たされました。私たちもこのイエス様に天国で直にお目にかかることは確かですから、それまでの日々、地上での伝道の責任、それ以外の責任を、祈りつつしっかり果たして、生きて参りたいのです。アーメン。

(祈り)聖名を讃美致します。東京と日本全体で新型コロナウイルスの感染者がまだ減りません。神様が私たちを憐れんで、ウイルスを無力化し感染拡大をストップさせて下さい。世界が助け合って、このピンチを乗り越えることができますように。有効なワクチン、治療薬を早く与えて下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。東久留米教会を出発して、日本やアメリカで主イエス・キリストを宣べ伝える方々とご家族に、豊かな祝福を注いで下さい。教会学校の子どもたちの信仰を、神様ぜひ守っていて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2020-12-20 1:19:45()
「馬小屋に生まれたイエス様」 クリスマス礼拝 2020年12月20日(日)
礼拝順序: 招詞 ヨハネ福音書3:16、頌栄85(2回)、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・259、聖書 イザヤ書9:5~6(旧約1074ページ)、ルカ福音書2:1~21(新約102ページ)、祈祷、説教「馬小屋に生まれたイエス様」、祈祷、讃美歌21・261、献金、頌栄83(2節)、祝祷。
 
(イザヤ書9:5~6) ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。

(ルカ福音書2:1~21) そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天 使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

(説教) 皆様、クリスマスおめでとうございます。クリスマスは、「神様が人となった」奇跡、最大の奇跡が現実となった日です。天地万物をお造りになった神様ご自身が、私たちと同じ肉体を持つ人間となられた、しかも最も弱い赤ん坊になられた。それが私たちの主イエス・キリストです。そして神様が私たち人間と共に歩むことを決意された。その恵みの日がクリスマスです。イエス・キリストの誕生は、西暦・紀元前7~4年頃と言われます。

 1~3節「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に登録をせよとの勅令が出た。これはキリ二ウスが(ローマ帝国)シリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。」ローマ皇帝の権力は本当に強力です。命令を出せば、ローマ帝国の恐らくは何万もの住民が、一斉に移動するのです。4~5節「(イエス様の父となる)ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。」この時代より約1000年前のイスラエルの偉大な王ダビデの名が出てきますが、ダビデの名は重要です。神様はイスラエルの真の救い主(世界の真の救い主)はダビデ王の子孫から生まれると約束しておられたのです。まさにダビデの子孫ヨセフが、救い主イエス様の父として、マリアと共にイエス様を育てることになります。6~7節「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」
 
 本日の説教題を「馬小屋に生まれたイエス様」としましたが、実際には馬小屋というよりも洞窟のような場所ではなかったかと言われます。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった。」ヨセフとマリアは貧しい夫婦でしたが、生まれたイエス様を含め、彼らには居場所がなかったのです。イエス様は後に、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子(イエス様ご自身)には枕する所もない」とおっしゃいました。そして地上の歩みの最後には十字架につけられました。もちろん三日目に復活されますが、言ってみれば十字架によって、人々にこの世から追い払われました。ですからイエス様は、居場所のない人の気持ちがよくお分かりになります。イエス様は、自分には居場所がないと感じている全ての人の友になって下さいます。

 進んで8~9節です。「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」羊飼いの仕事は、きつそうです。夜通し羊の群れの番をする。迷子の羊が出ないように、羊が野獣に襲われないように守らなければなりません。神様は、社会の底辺で暮らし、きつい肉体労働をしていて社会的な力もない、おそらくは軽んじられていた羊飼いたちを愛しておられ、その羊飼いたちを敢えて選んで、この世界で最も喜ばしいメッセージを真っ先に知らせて下さいました。神様はいと小さく弱く貧しい者を深く心にかけ、愛して下さいます。世間では強く有名で、強く大きなものが幅を利かせますが、神様はその反対で、むしろ無名の労働者を愛して大切にして下さる方と信じます。敢えて言えば、神様はローマ皇帝アウグストゥスよりも、この無名の羊飼いたちを愛して下さったと思うのです。

 羊飼いたちは、24時間羊を守る必要があったので、ユダヤ社会で大事にされた安息日の礼拝にも、あまり出席できなかったようです。だから私たちも出席しなくてよいとは言えませんが、羊飼いの実情はそうだったらしい。ですから信仰熱心ないわゆるファリサイ派からは、非常に軽蔑されていたでしょう。当時の文章に「羊飼いは、裁判で完全に有効な証人と認めることができない」と書かれているそうです。信用されていなかった。でも大半の羊飼いは、羊を守る仕事を一生懸命行っていたと思うのです。神様もそこを見ていて下さったので、地道に汗水流して働いている羊飼いたちを愛し、あえて彼らを選んで、救い主イエス様誕生の最も喜ばしいニュースを、真っ先に知らせて下さったと思うのです。マタイ福音書20章でイエス様が、「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」とおっしゃっていますが、羊飼いたちこそ、「後にいる者が先になった」よい例です。

 10~12節「天使は言った。『恐れるな。私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシア(キリスト)である。あなた方は、布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなた方へのしるしである。』」メシアもキリストも同じ意味で、「油を注がれた者」の意味です。この場合の油は、聖なる特別な油で、旧約聖書ではこれを神様にお仕えする人に注いで、その人を清めるのです。(キリスト教会ではこのようなことはしません。)この聖なる油は、聖霊(神様の清き霊)のシンボルです。メシア・キリストはその聖霊に完璧に満たされた救い主、神の子です。イエス様こそ、その方です。「神様が下って来て人として誕生された」、それがイエス様です。神様は本来この宇宙をお造りになった力強い方です。でも神様は力強い姿では来られませんでした。反対に最も弱く、最も無防備なかわいい男の赤ちゃんとして来られたのです。これは神様が赤ちゃんの味方、子どもの味方、小さく弱く貧しい者の味方ということです。

 日本基督教団が毎月発行している「こころの友」という4面カラー刷りの伝道パンフレットがあり、東久留米教会でも購読して教会員の皆様から身の周りのクリスチャンでない方々に伝道のために渡して読んでいただいております。その点字版があります(東久留米教会ではとっていません)。全国の目の不自由な教会員の方々に読んでいただいています。今購読者が100名弱いらっしゃいます。これは小さいけれども貴重な働きだと思っています。毎月「こころの友」を点字に訳す仕事を請け負っている方々がおられます。もちろんある程度のお金を日本基督教団がお渡ししているのですが、それでもこれは地道で尊い愛の奉仕だと感じます。先週、この働きの大切な部分を担っておられる方とお話する機会があり、非常にそう思いました。10数年前に天に召されましたが、この教会にも内藤のぶ子さんという視覚障害の方がおられました。内藤さんも点字「こころの友」を購読しておられました。神様は目の不自由な内藤さんを愛され、内藤さんにイエス様を信じる信仰を与えて下さいました。東久留米教会で以前「たりほ」という月報を発行していましたが、この近くに住む聖公会のクリスチャンの女性が、内藤さんのために「たりほ」を毎回点訳して下さっていました。私は、本当に地道で尊い隣人愛の業と感じていました。内藤さんは視覚障害の試練を背負っておられましたが、神様に愛され、「たりほ」を点字に訳す友も与えられ、困難な中にも神様に守られたご生涯だったと感じます。

 さて、天使が言います。「これがあなた方へのしるしである。」聖書でしるしとは、しばしば神様が奇跡を行う偉大な力・パワーです。しかしここでは「救い主が赤ちゃんとして来た」姿が、しるしだと言うのです。このイエス様は、十字架にかかります。キリスト教会は、大抵どこでも十字架を高く掲げています。十字架こそが、父なる神様が私たちに与えて下さった最も偉大なしるしです。十字架は、敵を倒す偉大な力ではなく、十字架は偉大な「ゆるしの力」です。イエス様が十字架にかかられたのは、私たち全ての人間の全ての罪を身代わりに背負って十字架で死なれたのです。神の子イエス様が十字架で死なれることによって、私たち全人類が、最初の人間以来犯して来た全部の罪と、私たち全人類が、これから人類の歴史が終わる時までに犯す全部の罪が赦されたのです。赦すことは、忍耐の力を非常に必要とします。イエス様の十字架は、父なる神様が私たち全ての人間の全ての罪を、非常な忍耐力をもって忍耐され、ゆるされたことを示します。

 13~14節「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。』」天の大軍は、天使の大群でしょうか。天使たちが神様を賛美して歌ったのです。これは天の礼拝と言えます。私たちが普段、直接見ることのできない天国が一瞬、開いて垣間見えたのです。貴重な瞬間です。このような天国の礼拝の場面は、旧約聖書のイザヤ書6章にもあります。セラフィムという天使のような存在が、真の神様を賛美します。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主、主の栄光は地をすべて覆う。」天国が一瞬開いた時に発せられた天使のメッセージを、羊飼いたちはしっかり聴きました。「救い主キリストが、ダビデの町(つまりベツレヘム)にお生まれになったのだ。さあ、ベツレヘムに行ってその出来事をこの目で見ようではないか。」

 彼らは数キロ走ったのでしょうか。「急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景(平和に満ちた光景)を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。」これが最初のクリスマスイヴから翌朝クリスマスにかけての出来事です。羊飼いたちは、救い主イエス様を自分の目で見たのです。

 この羊飼いたちの幸せは、後にイエス様がルカによる福音書10章21節以下で語られた御言葉によって分かります。イエス様は聖霊によって喜びにあふれて言われたのです。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」そしてイエス様は弟子たちだけに言われたのです。「あなた方の見ているもの(イエス様)を見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者たちや王たちは、あなた方が見ているもの(イエス様)を見たかったが、見ることができず、あなた方が聞いているもの(イエス様の声や言葉)を聞きたかったが、聞けなかったのである。」羊飼いたちは、赤ちゃんイエス様を現に見たので、旧約聖書の有名な王たちや、神様のメッセージを忠実に語った偉大な預言者たち(イザヤ、エレミヤたち)よりも幸せな、大きな光栄を与えられたのです。私たちも、このイエス様に聖書を通して、祈りによって出会っていますから、羊飼いたちと同じように幸せなのです。

 赤ちゃんイエス様は、マリアに抱かれてすやすやと眠り、元気な産声も上げたに違いありません。クリスマスは、神様が人間の赤ちゃんになって下って来られた奇跡です。これ以上の奇跡はないとさえ言えます。神様は、どんな小さな人をも見捨てておられないことが明らかにされました。神様が肉体をもつ人間になられたことは、全能の神様が、肉体の制約下に降りて来て下さったということです。私たち人間は、いろいろな制約の下に置かれています。義務や責任を下に置かれ、肉体があるのでお腹がすいたり、暑さや寒さに苦しんだり、病気や疲れやケガで動けなくなることもあるのです。老化現象もあります。何よりも死という大きな制約下にあります。神様は、自ら進んで人間となり、このような制約の下に入られたのです。私たち人間と同じ立場に立ち友になり、私たちに仕えて下さるためです。そして遂には肉体をもって十字架にかかり、私たち皆の罪の責任を身代わりに背負うためです。

 赤ちゃんイエス様は、平安に眠っておられる。何の恐れも思い煩いもなく、父なる神様を信頼しきっているお姿です。もちろん赤ちゃんは皆そうです。何の恐れも思い煩いもなく、笑ったり泣いたりしています。赤ちゃんイエス様もそうです。神様を信頼して自分を委ねるとはこういうことだと、赤ちゃんイエス様の姿が教えてくれます。この信頼しきった姿のイエス様こそ、私たちに神様への信頼を教えて下さる先生の姿です。神様が支えて下さると信頼して、思い煩わない生き方について、イエス様は、マタイ福音書6章で次のように教えられました。「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草(花)でさえ、神はこのように装って下さる。まして、あなた方にはなおさらのことではないか。信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それは皆、異邦人(真の神を知らない人)が切に求めているものだ。あなた方の天の父は、これらのものがあなた方に必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

 イエス様の人生に何の試練もないのではありません。30数年後に十字架という試練が確実に来るのです。でもイエス様は将来のことをすべて父なる神様にゆだね切って、明日のことは思い煩わないで、平安に信頼しきって眠っておられる。ある人はこの赤ちゃんイエス様のお姿を「美しきキリスト」と言いました。私たちは赤ちゃんではないので、このようにはなれないという方もあるでしょう。しかし、「明日のことは父なる神様に信頼してすべて委ね、よく祈って今日一日の責任を一生懸命果たす。」ここに思い煩わない平安な生き方があるのではないでしょうか。「思い煩いは何もかもお任せしなさい。神が、あなた方のことを心にかけていて下さるからです」(ペトロの手紙(一)5章7節)という御言葉もあります。今、私たちはコロナ禍の中にあり、先がよく見えません。だからこそ、今日一日に集中して、今日一日の責任を全力で果たし、明日のことは思い煩わないで、神様の守りがあると信頼して、神様にお任せする。コロナ禍の中にあるからこそ、この生き方に徹して歩みたいのです。イエス様と共に。アーメン。

(祈り)聖名を讃美致します。東京と日本全体で新型コロナウイルスの感染者がまだ減りません。神様が私たちを憐れんで、ウイルスを無力化し感染拡大をストップさせて下さい。世界が助け合って、このピンチを乗り越えることができますように。有効なワクチン、治療薬を早く与えて下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。教会学校の子どもたちの信仰を、神様ぜひ守っていて下さい。新潟の大雪で苦しんでいる方々をお守り下さい。東久留米教会を出発して、日本やアメリカで主イエス・キリストを宣べ伝える方々とご家族に、神様の豊かな恵みがありますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。