日本キリスト教団 東久留米教会

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2021-02-21 2:24:18()
「最初の兄弟カインとアベル」 礼拝説教 2021年2月21日(日)
礼拝順序:招詞 ローマ12:12、頌栄24、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・294、聖書、創世記4:1~16(旧約5ページ)、祈祷、説教「最初の兄弟カインとアベル」、讃美歌21・451、頌栄27、祝祷。
 
(創世記4:1~16) さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。

(説教) 本日は、「初めて聞く方に分かる聖書の話礼拝」にお越し下さり、心より感謝申し上げます。本日与えられた聖書は、旧約聖書の創世記4章、小見出しは「カインとアベル」です。旧約聖書の有名な話の1つです。説教題は、「最初の兄弟カインとアベル」としました。父アダムと母エバは、神様の戒めを破って罪を犯したので、神様によってエデンの園の祝福あふれる状態の場所から追放されました。アダムとは人の名前であると共に、人の意味ももっています。アダムは私たち全て人間の原型と言えます。より詳しく言うと、エバが女性の原型、アダムが男性の原型です。エバという名前は「命」の意味だと3章20節にあります。エバは命を産む、人類最初の母となったのです。最近の重要な課題はジェンダーの課題、LGBTと呼ばれることで、人間全員が単純に女性と男性に分けきれないということがあります。事柄としてはずっと昔からあったでしょうが、少しずつオープンに話されるようになったのは、この十年くらいでしょうか。今日はそこには踏み込みません。

 1節「さて、アダムは妻エバを知った。(夫婦の関係をもった)。彼女は身ごもってカインを産み、『私は主によって男子を得た』と言った。人間が命を造ることはできず、新しい命はただ神様からのみ来るのです。エバにはその信仰があると感じます。彼女はまたその弟アベルを産んだ。カインとアベルは、人類最初の兄弟です。この二人の間で、大きな悲劇が起こってしまいます。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。」アベルという名前は「息、はかない」の意味だそうです。カインの名前の意味は「鍛冶屋」だそうです。この名前のイメージからすると、カインは力強そう、アベルはおとなしい感じを受けます。カインは基本的に農耕で生計を立てながら、鍛冶屋の仕事も少ししたのでしょうか。アベルは牧畜民となりました。父親のアダムが土を耕す者となって以来、人は皆、労働によって生計を立てるようになったのです。その労働に上下はありません。職業に貴賎なしです。農耕も尊い、牧畜も尊い労働です。

 3~5節「時を経て、カインは土の実りを主(神様)のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。」これはカインとアベルの礼拝です。私たちはここを読んで、不可解に思うのではないでしょうか。私は最初、不可解に思いました。神様はなぜ、「アベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」のだろうか。これは差別、不公平ではないか、と思ったのです。人格を見ると、アベルを殺したカインは、やはり暴力的な人だった印象を受けます。カインも罪人(つみびと)、アベルも罪人(つみびと)なのですが、カインの法が粗暴で、人格により問題があったと言えるのではないでしょうか。

 ここで1つポイントと思われるのは、「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」の一文です。「アベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。」神様が献げ物だけを見ておられるのではないようです。「アベルとその献げ物」「カインとその献げ物」とありますから、神様はアベルとカインの生きる姿勢・礼拝の姿勢と、二人の献げ物を見られたと言えます。献げ物だけが問題ではなく、アベルとカインの日ごろの生きる姿勢と礼拝の姿勢、その現れとしての献げ物、神様はその全体に注目されたと思うのです。カインは割に機械的に土の実りを献げ物として、神様の前に持参して礼拝したようです。「アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。」アベルは、複数の羊がいる群れの中から太った、初子(初物)、一番よいものを選んで持って来て、神様に献げたのではないでしょうか。ただ献げればよいという姿勢ではなく、神様に献げるにふさわしい一番よいものを厳選して献げたのではないか。よい献げ物と、その献げる姿勢が神様に喜ばれたのではないか、と思われます。聖書協会共同訳という新しい翻訳では、「アベルもまた、羊の初子、その中でも肥えた羊を持って来た」となっていて、アベルがよいものを選んで献げたと強調しているように読めます。

 人によっては、カインの献げ物とアベルの献げ物に優劣はなかったのだ、とおっしゃいます。二人の献げ物に優劣はないのだが、神様の全く自由な選びによって、神様がアベルとその献げ物に、目を留められのだとおっしゃいます。そういう解釈もあり得るのかもしれませんが、新約聖書のヘブライ人への手紙11章3~4節に、次のように書かれているので、アベルの献げ物の方が優っていたと考えてよいのでじゃないかと思います。「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」こう書いてあることを思うと、アベルの礼拝の姿勢と献げ物がカインの礼拝の姿勢と献げ物より優れていたと考えたくなります。

 私たちの礼拝は、私たちの全ての罪を背負って十字架で死なれ、三日目に復活されたイエス・キリストの愛に、全身で応答する礼拝です。先々週の婦人会で読んだローマの信徒への手紙12章1節が思い出されます。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなた方に勧めます。自分の体(全存在)を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなた方のなすべき礼拝です。」私が教会に行き始めた頃に説教で聞いた話と記憶していますが、かつて日本で苦労しながら生活しておられた在日韓国・朝鮮人のクリスチャンの献金に関するエピソードです。その方々は日本で屑鉄などを集めて売って、苦労して生計を立てておられた。日曜日の礼拝の前の日に、財布からわずかなお札を取り出して「これは神様の分」としてアイロンをかけてしわを伸ばして、翌日の礼拝で献金箱に入れていたと。貧しい生活の中から、そのように神様への献金をとても大切に考えておられた、その姿勢が心に深く残りました。アイロンをかけることをお勧めしているわけではなく、私もそのような姿勢で神様を礼拝し、献金を献げたいなと思ったということです。皆様は既に同じ姿勢で礼拝と献金をなさっていると思いますので、私自身がそのようでありたいと思って、この話を思い出しました。

 ここを読んでもう1つ心に留めるべきことは、神様はいと小さき者や弱き者を、特に愛されることです。今日と同じ創世記には、エサウとヤコブという兄弟が出て来ますが、神様は下の息子のヤコブを愛して、神の民の主流を受け継ぐ者となさいます。世間の常識に反して、上の子を後回しになさる傾向があります。今日の箇所では長男のカインよりも次男のアベルが、神様の愛を受けた感じです。神様は、いと小さき者や弱き者を愛し(アベルの名前の意味は「息、はかない」でした)、強き者に、より厳しいのです。

 神様に献げ物を目に留めていただけなかったカインは、激しく怒って顔を伏せました。私たちは怒ることがあると思いますが、怒る時はよく気をつける必要があります。怒る時は感情に任せて怒ってしまいがちであり、怒る時は、自分が一番正しいと思い込んで怒りやすいと思います。しかし私たち人間は皆、神様から見れば罪人(つみびと)です。私たちの言うこと、行うこと全てに罪が絡みついています。ですから、私たちの言葉、行動、怒りが100%正しいことはないのです。私たちの怒りにも何らかの自己中心の罪がこびりついており、私たちは100%正しく怒ることができません。父なる神様の怒りには、罪が全くないので父なる神様の怒りは100%正しい怒りです。しかし私たちの怒りには、罪が絡みついているので、注意が必要です。自分の怒りが100%正しいと信じ込むのは危険です。自分が神様と同じように正しいということはないと、自分で気づいていることが大切と思います。ですから、新約聖書のヤコブの手紙1章19~20節にこうあります。「私の愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。誰でも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。」神の怒りは完全に正しい怒りなので、神様の正義を実現します。ですが私たちの怒りには、どこか罪が絡みついているので、神の正義を100%実現することができないのです。

 しかしカインは、激しく怒って顔を伏せました。神様が自分の献げ物に目を留めて下さらず、弟アベルの献げ物に目を留められたので、妬みと悔しさでいっぱいになり、激しく怒ったのです。カインは、自分の怒りが正しくないことを悟っていたようです。自分の怒りの原因が妬みという低レベルの感情であることに気づいていたので、恥ずかしくて顔を上げられなかったのです。神様がカインにおっしゃいます。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」この神様の諭しは、もっともです。「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。怒りに任せて行動すれば、暴力的になる可能性があります。カインはそうなってしまいました。怒りに任せて行動すれば、その時はスカッとするでしょうが、ただではすみません。大きな代償を支払うことになります。自分の心が怒りでいっぱいになるとき、難しいけれども、忍耐して、セルフコントロールすることが必要ではないでしょうか。怒りに任せて爆発的な行動をとってしまうと、後悔する結果になります。

 カインは激しく怒った顔を伏せましたが、そこまでで止まればよかったのです。神様に諭されて「どうして怒るのか。あなたは罪を支配しなさい」と言われて、そこで踏みとどまればよかったのです。しかしカインは、怒りに任せて暴力をふるってしまい、殺人の罪を犯してしまうのです。人類最初の殺人です。8節「カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。妬みが原因と言えます。アダムとエバにとって、大きな悲しみです。わが子がわが子を殺したのですから。

 それでも神様がカインに、声をかけられます。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。私は弟の番人でしょうか。」神様の問いに、正面から応答しません。他人事のように、しらばっくれています。弟アベルを殺した責任をとろうとしません。神様からの問いかけは、神様からの呼びかけでもあります。神様からの問いかけに、正面から応答すると、私たちは自分の立ち位置、自分が今どこにいるかを知ることができます。罪を犯しているならば、罪を悔い改めて、神様の前に立ち帰ればよいと気づくことができます。神様は私たちに正しい気づきを与えるために、呼びかけて下さると思うのです。神様は罪を犯したアダムに「どこにいるのか」と問われ、殺人の大罪を犯したカインに、「お前の弟アベルはどこにいるのか」と問われましたが、それによってアダムとカインに犯した罪を自覚させ、悔い改めに導き、立ち直りに導こうとしておられると思うのです。神様の問いかけに、きちんと応答することで、悔い改めと立ち直りに進むことができると思います。
責任を英語でリスポンスィビリティーと申します。リスポンスする、応答するという意味です。人からの呼びかけ(問いかけ)、神様からの呼びかけ(問いかけ)に、きちんとリスポンスする・応答することが責任ある生き方を生み出します。人からの呼びかけ、神様からの呼びかけにきちんと応答することが、責任ある人格、責任ある生き方を生み出すことを知るのです。

 カインは最初、きちんとリスポンス・応答しません。「知りません。私は弟の番人でしょうか。」無責任な答えです。神様が踏み込んで言われます。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」無実で殺された人の血が、土の中から神様に訴えているのですね。「神様、こんなことがあってよいのでしょうか。無実の血が流された罪を、早く正しく裁いて下さい。」世界の歴史で、どれほど多くの無実の血が流されたかと思うと、今も現に流されていることを思うと、身震いします。神は、最後の審判の時に、全てを正しく裁いて下さいます。そうでないと、無実で殺された人々が浮かばれません。

 ここまで言われてカインも自分の罪を認め、絶望します。「私の罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたが私をこの土地から追放なさり、私が御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、私に出会う者は誰であれ、私を殺すでしょう。」すると神様は意外なことを言われます。「いや、それゆえカインを殺す者は、誰であれ七倍の復讐を受けるであろう。」主はカインに出会う者が誰も彼を撃つことがないように、カインにしるしをつけられました。意外にもカインを保護なさるのです。

 カインは絶望して言います。「私の罪は重すぎて負いきれません。」確かに重すぎます。でもイエス・キリストは、そのような大きな罪の責任をも身代わりに背負って十字架で死なれ、三日目に復活されたのです。新約聖書のローマの信徒への手紙5章16節にこの御言葉があります。「恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されます。」カインにつけられたしるしを思う時、新約聖書のガラテヤの信徒への手紙3章26、27節。書いた人は、パウロという指導的立場のクリスチャンです。「あなた方は皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなた方は皆、キリストを着ているからです。」6章17節にはこうあります。「私はイエスの焼き印を身に受けているのです。」キリスト(という衣)を着ている、イエスの焼き印を身に受けている、の言葉が、私にカインにつけられたしるしと重なって聞こえます。イエス様が、全人類の全ての罪を身代わりに背負って十字架で死なれたので、「重すぎて負いきれない」罪も赦される道が開かれています。全ての皆様がイエス様を救い主と信じ、「重すぎて負いきれない罪」が赦される道が開かれていることを信じ、天国への真の希望をもって生きて下さるように、私は切に願っております。

(祈り)聖名讃美。二度目の緊急事態宣言が出て、延長されています。今、感染している方々全員に、特に重症の方々に神様の癒しを与えて下さい。世界中が、神様に立ち帰るように力強く導いて下さい。私たちの教会に各々の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。教会学校の子どもたちの信仰を、守って下さい。東久留米教会を出発して日本やアメリカでイエス様を宣べ伝える方々とご家族に、神様の愛の守りを注いで下さい。この教会の周りにいつも平和を、近所の方々の心にも聖霊を注いで下さい。イエス様の御名により祈ります。アーメン。

2021-02-14 1:33:35()
「後の者が先に、先の者が後に」 礼拝説教2021年2月14日(日)
礼拝順序:招詞 ローマ12:12、頌栄85(2回)、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・17、聖書 ヨナ書4:9~11(旧約1448ページ)、マタイ福音書20:1~16(新約38ページ)、祈祷、説教「後の者が先に、先の者が後に」、讃美歌21・197,献金、頌栄92、祝祷。
 
(ヨナ書4:9~11) 神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。
それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」

(マタイ福音書20:1~16) 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

(説教) 本日のマタイ福音書は、クリスチャンにとっては割になじみの箇所だと思います。しかしここから改めて、神様の深い思いを感じ取る礼拝でありたいと願います。これはイエス様の、天の国のたとえ話の1つです。1~2節「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人(神様)が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。」夜明けから労働者を雇う熱心な主人です。人々を何とかして天国に導こうとする神様の熱意を、身をもって表すような主人です。一デナリオンは、一日分の賃金ですから、今の日本では5000円前後でしょうか。

 3節「また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。」主人は「ふさわしい賃金を払う」と言い、明確な金額を述べていませんが、この人々にも一日一デナリオンを払うつもりだったはずです。「それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。」もう4回も雇いに行きました。今でも日雇い労働の現場は、このような感じではないでしょうか。雇われる側からすると、仕事をいただけることは、とても嬉しいことです。仕事がないと食べて行けません。失業すると食べてゆけず、生きてゆけません。イエス様の時代も同じです。

 6~7節「五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは『誰も雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。」決して怠けていたのではないでしょう。もしかすると別の場所で雇ってもらおうと自己アピールしたが、誰にも雇ってもらえなかった。そこでここまで流れて来たのかもしれません。「今日も誰にも雇ってもらえなかった」と絶望的で、真っ暗な気持ちだったと思います。「誰も雇ってくれないのです。」実に痛切な言葉です。あぶれてしまった悲しみ、社会から仲間外れ、のけ者にされてしまった悲哀に全身で耐えています。努力したが、今日もだめだった。もう5時です。こんな時刻に雇ってくれる人など、いるはずがありません。ところがこの主人が現れ、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言ってくれました。彼らは耳を疑ったでしょう。あり得ない恵みの言葉です。ある人は言います。「福音とはまさにこれではないか」と。その通りです。彼らは天にも昇る気持ちになったに違いありません。神様は、誰のこととも見捨ててはおられないのです。主人は、できるだけ多くの人を雇って救おうと(何とか一人でも救おうと)、一日5回も広場に行ったのです。夜明けから夕刻まで。実に熱心な主人です。

 さて、一日が終わって、その日の決算の時がやって来ました。これはいわば、最後の審判です。最後の審判は、全く思いもかけない形になります。8節「夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。」不思議な指示です。常識と逆です。ふつうは夜明けに雇われた労働者たちに最初に支払うのが当たり前です。神様の深いお考えは、私たち人間社会の正義や常識と必ずしも一致しないようです。9~10節「そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。」私たちも主人のなさりようを聞いて、やはり驚きます。「それは不公平でしょう」と言いたくなると思うのです。11~12節「それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』」そうか早朝から働いた労働者たちは、猛暑の中を我慢しながら働いたのか、彼らの怒りはもっともだ、と私などは思ってしまいます。

 ところが主人の考えは別なのです。この主人は神様を表すのですから、この主人の考えこそ正しいと、私たちは納得する必要があります。主人は答えます。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは私と一デナリオンの約束をしたではないか。」その通りです。2節に「主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った」と書いてあります。主人は一人一人、全員に一デナリオン支払う約束を守っています。神様は必ず約束を守る方です。

 14~15節「自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしてはいけないか。それとも、私の気前のよさをねたむのか。」「私はあなたを愛しているが、この最後に来た者たちにも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」ここに主人の、神様の愛の深さが現れています。これは驚くべき愛の深さです。神様は誰一人見捨てておられない。世の終わりがなかなかこないでいるのも、そのためです。イエス様以外の人間は皆、父なる神様から見れば罪人(つみびと)ですから、そのままで天国に入ることができません。イエス・キリストを救い主と信じ、自分の罪を悔い改めて洗礼を受けることで、全ての罪の赦しを受け、永遠の命を確実にいただくことができます。神様は、文字通り全ての人が、イエス様を救い主と信じ、罪を悔い改めて永遠の命を受けることを望んでおられます。

 この世界が終わって、神の国が完成する時は、いずれ必ず来ます。もっと早く来る可能性もあったのに、まだその時が来ていない理由が、新約聖書のペトロの手紙(二)3章9節に書かれています。「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなた方のために忍耐しておられるのです。」神様の願いは、ただの一人も滅びないで、皆が悔い改めることだと、よく分かるのです。

 神様のこの深い愛を、私たちの常識的な正義でなかなか理解できないのです。ルカによる福音書15章に、イエス様が語られた「見失った羊のたとえ」があります。「あなた方の中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで(見つけ出すまで!)捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んで下さい」と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人(つみびと)については、悔い改める必要のない九十九匹の正しい人についてよりも、大きな喜びが天にある。」これもかなり驚くべき御言葉と思います。私たちは下手をすると、「九十九匹いるから、一匹くらい見つからなくても仕方ない」と思って、捜すのをあきらめる可能性もあるのではないでしょうか。ところが神様はそうではありません。しかもその一匹は、相当悪いことをした者かもしれないのです。でも神様は、その一人が救われないことを望まれない。神様は悪人が滅びることを喜ばれない。反対にその一人が罪を悔い改めて、生きることを喜ばれるのです。

 本日の旧約聖書は、ヨナ書4章の最後の部分(9~11節)です。ヨナ書は、ちょっとユーモラスな書物ですが、神様の深い愛・深い憐れみをよく教えてくれる短い書物です。神様が邪悪な町・アッシリアの首都二ネベに預言者ヨナを遣わして、「あと40日すれば、二ネベの都は滅びる」と説教させたところ、真に意外なことに、非常に悪くて悔い改めなどするとは到底思えなかった二ネベの人々が、王様と身分の高い人も低い人も、真の神様の前にへりくだり、罪をとことん悔い改めたのです。それを御覧になった神様は、二ネベを滅ぼすおつもりだった方針を転換され、宣告した災いを下すことをやめられたのです。二ネベなど滅びればよいと思っていた単純なヨナにとって、これは大いに不満でした。ヨナは4章2節で、神様の重要な本質を述べています。「あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いを下そうとしても思い直される方です。」これが聖書の神様、私たちの神様です。
実に忍耐深く、当然滅びるべき悪人であっても、何とか悔い改めに導いて救いたいと願っておられる神なのです。神様は聖なる方でもあるので、私たち人間の罪と悪を憎んでおられます。ですが同時に、悪人であっても滅びることを喜ばず、悪人は悔い改めて生きることを喜ばれます。そのような神様ですから、神の国からあぶれる人が一人も出ないことを切に願い、一日に何度も労働者を雇いに出かけて行き、何とかして、一人でも多くの人を雇って「この最後に来た者たちにも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」とおっしゃる神なのです。
 
 二ネベを滅ぼさなかった神様に不満を抱いて怒るヨナの心は、最後に来た者たちにも一デナリオンずつを支払った主人(神様)に不平を抱く労働者の心に、そっくりです。神様がヨナに、ご自分の気持ちを教えて下さいます。ヨナはこの時、神様が二ネベを赦されたことを怒ると同時に、太陽の暑い日射しから自分を守ってくれたとうごまの木が枯れたことでも怒っていました。神が言われます。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」ヨナが答えます。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」すると神様が、ご自分の本心を語って下さいます。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうして私が、この大いなる都二ネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」神は、悪の都二ネベをさえ愛し、その罪と悪を憎みながらも、二ネベの人々が悔い改めて生きることをお望みだったのです。これが神様の本心、深い憐れみです。神様は私たちが住む東久留米市や西東京市も同じように愛しておられます。西東京市や東久留米市は、二ネベのような悪の町ではありませんが、神様は西東京市は東久留米市の全員が、こぞって神様に立ち帰る日を待ち望んでおられるに違いありません。

 この神様の深い憐れみの心は、今日のマタイ福音書の主人の心と、全く同じです。「最後に来て一時間しか働かなかったこの連中と、まる一日、暑い中を辛抱して働いた私たちを、同じ扱いにするとは!」とヨナのように怒る労働者たちに、主人(神様)はおっしゃるのです。「私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしてはいけないか。それとも、私の気前のよさをねたむのか。」これは、ルカによる福音書15章の有名な「放蕩息子のたとえ」の父親の思いと、よく似ていることにも気づきます。勝手に家を出て行き、世間でひどい目にあって、自分の愚かさを悔い改めて家に帰って来た弟息子を受け入れた父親に、長男が怒りをぶつけると、父親は言ったのです。「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」このように聖書は様々な箇所で、神様の憐れみ深い本心を、私たちに伝えてやまないのですね。

 私たちはプロテスタントですが、カトリックには「天国どろぼう」というちょっとユーモラスな言葉があるそうです。「天国どろぼう。」この世の中で、神様を無視して好き勝手に生きて来て、きっとそれなりに周囲にも迷惑をかけて生きて来て、人生の最後の最後に悔い改めて洗礼を受け、天国に入ってしまう。若い時に洗礼を受け、毎週の礼拝を欠かさず、クリスチャンとしてひたすら真面目に生きて来た人が、今のような人を指して「天国どろぼう」と呼ぶようです。「ずるい!」と思うのでしょうね。好き勝手に生きて来て、最後になって「やはり天国にも入れてほしい」と思って、悔い改めて洗礼を受け天国に入れていただく。そのような人をユーモア込めて、「天国どろぼう」と呼ぶようです。でも「天国どろぼう」のことを怒るクリスチャンがもしおられたら、神様はやはりこうおっしゃってなだめて下さるでしょう。「私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。~私の気前のよさをねたむのか。」「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部私のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」

 今日のマタイ福音書のイエス様の締めの言葉「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」謎めいた言葉です。これは、父なる神様の前に、あるいは神の子イエス様の前にへりくだる者が先になる、ということではないでしょうか。旧約聖書では、まずイスラエル人(ユダヤ人)が神の民として選ばれました。それはイスラエルが、どの民よりも小さく貧弱だったからです。ここに既に逆転が起こっています。人間の常識ではエジプトのような巨大帝国が先を走っているのに、神様はあえて、弱く小さな民イスラエルを神の民として選んで、栄誉を与えられました。ところがそのイスラエルが鼻高々になって思い上がると、神様は今度はイスラエルでない外国、二ネベのように罪を悔い改めてへり下る民に、罪の赦しの恵みをプレゼントされました。イスラエルから見て後の者だったはずの二ネベが、先になってとも言えます。先を進んでいた者が思い上がると、神様は別のへりくだる者を先にして、思い上がった者を後になさるのです。神は、人間の思い上がりを嫌われます。私たち人間は、誰一人、神の前で誇らないことが大切と信じます。「誇る者は主を誇れ」と聖書にあります。それも十字架に付けられて復活されたイエス様を、私たちは救い主として崇め、誇ります。

 「この最後の者にも、同じように支払ってやりたい」と主人は言います。私は、イエス様こそ最後の者になって下さった方だと信じます。全人類の身代わりに十字架で父なる神様の裁きを受けたイエス様は、最悪中の最悪の死と呪いと滅びを十字架で受けたのです。イエス様ほど無惨な経験をした者はいないのです。人類の一番最後の最後の者、(よくない言葉ですが)ビリの中のビリになって下さいました。十字架の上で、天国から一番遠い者になられました。ほかの人が一番最後の者にならないために、イエス様が一番最後の者になられました。イエス様は、最後に近い者たちの友となられたのです。これが全員を救いたくてたまらない神様の深い憐れみです。イエス様を救い主と信じて悔い改めれば、大きな罪を犯した人生でも、やり直すことができます。私たちは、全員でイエス様を救い主と信じましょう。人生の終わりの段階まで待つ必要はないのです。今日からイエス様を信じて、共に天国を目指して歩み始めましょう。

(祈り)聖名讃美。二度目の緊急事態宣言が出て、それが延長されています。今、感染している方々全員に、特に重症の方々に、神様の癒しを与えて下さい。世界中が、神様に立ち帰るように力強く導いて下さい。私たちの教会に各々の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。教会学校の子どもたちの信仰を、守って下さい。東久留米教会を出発して日本やアメリカでイエス様を宣べ伝える方々とご家族に、神様の愛の守りを注いで下さい。この教会の周りにいつも平和を、近所の方々の心にも聖霊を注いで下さい。イエス様の御名により祈ります。アーメン。

2021-02-06 23:10:41(土)
「天に富を積み、イエス様に従う」 礼拝説教 2021年2月7日(日)
礼拝順序:招詞 ローマ12:12、頌栄85、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・11、聖書 ヨブ記42:12~17(旧約833ページ)、マタイ福音書19:13~30(新約37ページ)、祈祷、説教「天に富を積み、イエス様に従う」、讃美歌21・512,献金、頌栄83(2節)、祝祷。
 
(ヨブ記42:12~17)主はその後のヨブを以前にも増して祝福された。ヨブは、羊一万四千匹、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。彼はまた七人の息子と三人の娘をもうけ、長女をエミマ、次女をケツィア、三女をケレン・プクと名付けた。ヨブの娘たちのように美しい娘は国中どこにもいなかった。彼女らもその兄弟と共に父の財産の分け前を受けた。ヨブはその後百四十年生き、子、孫、四代の先まで見ることができた。ヨブは長寿を保ち、老いて死んだ。

(マタイ福音書19:13~30) そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。  さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

(説教) 今日のマタイ福音書の最初の小見出しは、「子供を祝福する」です。「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。『子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。』そして、子供たちに手を置いて(祝福の行為)から、そこを立ち去られた。」当時子どもは、軽く見られていました。ところがイエス様はいと小さきもの愛し、子どもたちの上に手を置いて祝福されたのです。マルコ福音書10章では、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われました。子どもには、わがまま勝手という欠点もあります。でも、実に素直に神様を信じます。子どもは、神様から命をいただいてからの時間が大人より短いので、それだけ神様に近い存在と言えるのではないでしょうか。大人は未熟ではいけないので、成塾していることが必要ですが、同時に子供の素直さを学ぶ必要はあると思います。

 次の小見出しは、「金持ちの青年」です。「さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。『先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。』」テーマは「永遠の命」です。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」ある意味で真面目な人です。今の日本で、このような質問をする人は、ほとんどいないように思います。今の日本人の多くは、人生は基本的にはこの地上の人生がすべてで、死後のことは死んでみなければ分からない、でもそんなことを考えてみても分からないので、今を充実させて生きて、それができるだけ長く続くように願う、それしかない、と考えているように思います。それから見れば、この青年は真面目とも言えますが、でもよく読んでみると、自分は何も失わないで、天国(永遠の命)に入りたいと虫のよいことを考えていると言えます。

 イエス様は言われます。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」「善い方はおひとりである」とは父なる神様を指して言われたのです。イエス様ご自身も、その父なる神の子で「善い方」に違いありません。それなのにあえて「善い方はおひとり、父なる神様おひとりだ」と言われたのは、イエス様が自発的な自由な愛で、父なる神様を賛美し、父なる神様に従う思いで、そう言われたと受け止めます。そしてイエス様は本題に入り、「もし命(永遠の命)を得たいのなら、掟を守りなさい」と言われます。青年がさらに「どの掟ですか」と尋ねたので、イエス様は、モーセの十戒の第五から第九の戒めを述べられましたが、これは隣人を愛するために、具体的に行うべき事柄です。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え。」そしてだめ押しのように、「また、隣人を自分のように愛しなさい」と言われました。

 すると青年は言うのです。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」青年は、なかなか自信たっぷりですね。「そういうことはみな守ってきました。」モーセの十戒は子供の頃から教えられて、皆守って来ました。確かにそのように日々心がけて来たのでしょう。立派と言えますが、「そういうことはみな守って来ました」と言い切るのは、よく考えれば簡単ではないはずです。1つ1つの戒めを消極的に守るだけならある程度できるでしょうが、積極的に行うことは簡単ではありません。「隣人を自分のように愛する」ことも、とことん行うことは簡単ではありません。彼は若くてそこが見えていないのかもしれません。「まだ何か欠けているでしょうか」と聞かれてイエス様は、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、私に従いなさい。」これがイエス様の招きのメッセージです。この世の色々な執着から解放されて、イエス様に従うようにとの招きです。

 これを聞いて、私たちもたじろぐと思います。これを100%実行することは、極めて難しい、と正直思います。でもイエス様がこうおっしゃっていますから、私たちは100%は無理でも、10%でも20%でも40%でもこの方向を目指して、自分のことだけを考えるのではなく、天に富を積んでイエス様に従って行きたいという気持ちは持っていると思います。父なる神様に完全に従われたイエス様、父なる神様を愛し、隣人を愛し、敵を愛して十字架でご自分を献げきられたイエス様という生きたお手本を見ているのですから、イエス様ほどにはできなくても、天に富を積んで、10%でも30%でも50%でもイエス様に従いたいという気持ちは、私たちは持っていると信じます。

 しかし残念ながらこの青年には、その気持ちがなかったようです。22節「青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」彼は若いのに、金持ちでした。それは神様が彼に預けられたお金です。自分のためにも多少は使うけれども、神様と隣人のために用いるように、神様が彼に預けたお金です。お金だけでなく、私たちの命、ある程度の健康、ある程度の時間、それは私たちに与えられた恵みですが、元々はすべて神様のもの。ですから神様に喜ばれるように用いてこそ、意義ある用い方をしたことになります。この青年は、そう思えませんでした。彼は財産が惜しくて、全部売り払って貧しい人々に施し、天に富を積む生き方をすることができませんでした。一部でも神様と隣人のために献げることもできなかったのかもしれません。そして悲しみながら立ち去ったのです。イエス様は、このマタイ福音書6章24節で「あなた方は、神と富とに仕えることはできない」という印象深い言葉を語られましたが、この青年は、神様よりもお金の方が大切だったのです。彼は悲しみながら立ち去りましたが、この悲しみは浅い悲しみです。イエス様に従えない自分の罪を深く悔いている悲しみなら、神様の御心に適った悲しみですが、彼はただ「お金を神様と隣人のために用いるなんていやだ。私はお金を愛しているので、お金を貧しい人々に施すなんて、そんな悲しいことはできません。イエス様、そんな厳しいことを言うあなたには、とてもついて行けません」と思い、自己愛を捨てられなかっただけです。深い悲しみではありません。そしてイエス様よりも、たくさんの財産を愛して、イエス様の元から去りました。但し、申し上げておきたいのは、日々の生活費が厳しい方にとってはお金は、生きるために大切です。今、コロナのために倒産する会社も少なくありません。本当に困っている方々には、必要なお金が届くように私たちは祈り、必要なら献金し、このピンチにあって具体的に助け合う社会を作るように、努力する必要があると信じます。

 23~25節「イエスは弟子たちに言われた。『はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、『それでは、誰が救われるのだろうか』と言った。」弟子たちが驚いたのには、理由があります。彼らは旧約聖書に親しんでいたと思われますが、旧約聖書ではお金・財産は神様の祝福です。アブラハムは財産を豊かに神様から与えられていましたし、ダビデ王も若い頃は貧しかったでしょうが、王になって栄光と富に恵まれました。本日の旧約聖書はヨブ記の最後の部分です。ここでも同じです。12節以下にこうあります。「主(神様)はその後のヨブを以前にも増して祝福された。ヨブは、羊一万四千匹、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。彼はまた七人の息子と三人の娘をもうけ、長女をエミマ、次女をケツィア、三女をケレン・プクと名付けた。ヨブの娘たちのように美しい娘は国中どこにもいなかった。彼女らもその兄弟と共に父の財産の分け前を受けた。ヨブはその後百四十年生き、子、孫、四代の先まで見ることができた。ヨブは長寿を保ち、老いて死んだ。」

 ここには旧約聖書の価値観が出ています。神様の祝福は財産、長生き、多くの子供や孫に恵まれることという形をとります。しかし新約聖書になると、やや違ってくるように思います。イエス様を見るとよく分かります。イエス様は神の子ですから、最も祝福された方です。イエス様の一行には会計係がいましたが、イエス様たちはお金をわずかしか持っておられなかったと思います。イエス様は独身ですから、子どもも孫もいませんでした。ヨブのように100年以上生きることもなく、33才くらいで十字架につけられました。でもイエス様こそ、最も父なる神様に愛され祝福されている神の子です。私たちは生きていくために、ある程度のお金や物質的な恵みが必要ですが、神様からの最大の祝福は、私たちがイエス様を神の子と信じることでいただく永遠の命ですし、神の尊い霊である聖霊を注がれることも実に大きな祝福です。アブラハム、ダビデ、ヨブのような財産がなくても、多くの子供や孫がいなくても、あまり長生きでなかったとしても、クリスチャンは神の子とされるという最大の祝福を受けている、天国という最高の祝福を約束されているのです。

 神の祝福は何かについて、旧約聖書と新約聖書ではこのような違いがあると言えると思います。旧約聖書では財産・富は神様の祝福でしたが、イエス様はルカによる福音書6章20節で、「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなた方のものである」と宣言されました。旧約聖書に馴染んでいた弟子たちは、「金持ちが天の国に入るのは難しい、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とのイエス様の言葉に非常に驚きました。財産は神様の祝福と思っていたからです。

 弟子たちはびっくりして言いました。「それでは、だれが救われるのだろうか。」
これでは誰も天国に入れないではないか。持ち物を全部売り、貧しい人々に施して自分の持ち金をゼロにし、こうして天国に富を積んでイエス様に従う。これは無理ではないか。私たちもこれを完全に実行することは無理だと思うのではないでしょうか。イエス様は弟子たちをじっと見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる。」私たちには罪もあり、執着心もあるので、誰も自力で天国に入ることができるほど完全な人は、イエス様以外一人もいない。自分の罪を認めて、子どものように素直に神様の前にへりくだる人が、神様の憐れみによって天国に入れていただく、これしか道はないということでしょう。

 私たちは祈りながら、完全にはできなくても、できる範囲で持てるものを貧しい人・困っている方に送り、天に富を積んでイエス様に従おうと志していると思うのです。キリスト教の2000年の歴史を見ると、これを100%近く実行しようとした人もいたのです。「砂漠の聖人、砂漠の師父」と呼ばれたエジプトのアントニオス(251年~356年)がその一人です。砂漠(荒れ野)は何もない所です。祈りに徹するに最適です。モーセは砂漠に近いシナイ山で神様から十戒を刻んだ二枚の板を受けました。イエス様も砂漠(荒れ野)で40日40夜断食して祈られました。アントニオスは、今日のイエス様の招きの御言葉に深い感銘を受けました。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、私に従いなさい。」彼は自分の財産を売って、貧しい人々に与え、砂漠で先輩の信仰の指導者の指導を受け、徳の高さで知られるようになりました。彼は規律正しい生活をしており、彼を慕う人々が出て来ました。彼らは清貧と祈りに生きる信仰の共同体を作りました。このような共同体が、だんだん発達して修道院になっていったらしいのです。

 信仰者にとっても、お金とのつき合い方は難しいです。18世紀のイギリスで、プロテスタントの一派であるメソジスト教会を建てた(真に建てた方はイエス様)ジョン・ウェスレーという牧師は、年齢が上がると収入が増えましたが、若い頃と同じ生活費で質素に生活したそうです。そして「できるだけ稼ぎなさい。できるだけ貯蓄しなさい。できるだけ与えない」と人々にアドヴァイスしました。持ち物を売り払いなさいと言われた今日のイエス様の言葉と少し違いますが、このウェスレーの言葉と生き方も、私どもクリスチャンの経済生活のよき参考になります。

 さて、一番弟子のペトロがイエス様に言います。「この通り、私たちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、私たちは何をいただけるのでしょうか。」イエス様は苦笑されたのではないでしょうか。本当はイエス様に従うこと自体が清い喜びのはずなのに、ペトロが見返りを期待しているからです。イエス様はちゃんと答えて下さいました。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子(イエス様)が栄光の座に座るとき、あなた方も、私に従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。私(イエス様)の名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」イエス様に従って殉教者になった方々もおられます。イエス様に従って、この世では損したり、報われなかった方々も大いに違いありません。でも父なる神様が、そのお一人お一人をお忘れになることはありません。たとえ世間が忘れたとしても、その方々のお名前は天国の名簿にはっきりと書き込まれていて、消えません。その方々は天国で、神様のおほめに与かるのです。イエス様に従うとは、そのような生き方をすることです。地上で精一杯、神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛する生き方です。地上での報いはないこともあります。でも天国で、イエス様のおほめにあずかることは確実です。そこに私ども信仰に生きる者の、真の喜びがあります。「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」信仰の深さで、後から信仰者になった人に抜かれることもあるのですね。ですから思い上がることはできません。

 私たちは、イエス様に従ったら生活が成り立たないのではないかと、心配になるかもしれません。でもそれは大丈夫です。生きておられる神様が支えて下さいます。イエス様はマタイ福音書6章で、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と約束しておられます。父なる神様、神の子イエス様は必ず約束を守られます。この約束に信頼して、イエス様に従って参りましょう。アーメン。

(祈り)神様、聖名を讃美。二度目の緊急事態宣言が出おり、延長も決まりました。今、感染している方々全員に、特に重症の方々に、神様の癒しを与えて下さい。そして世界中が、神様に立ち帰るように力強く導いて下さい。私たちの教会にそれぞの病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。教会学校の子どもたちの信仰を、守って下さい。東久留米教会を出発して日本やアメリカで主イエス・キリストを宣べ伝える方々とご家族に、神様の愛の守りを注いで下さい。この教会の周りにいつも平和を、近所の方々の心にも聖霊を注いで。イエス様の御名により祈ります。アーメン。

2021-01-31 0:12:55()
「結婚の教え」 礼拝説教 2021年1月31日(日)
礼拝順序:招詞 ローマ12:12、頌栄29、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・260、聖書 創世記2:18~25(旧約3ページ)、マタイ福音書19:1~12(新約36ページ)、祈祷、説教「結婚の教え」、讃美歌21・510,献金、頌栄83(1節)、祝祷。 
 
(創世記3:1~24) 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。

(マタイ福音書19:1~12) イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。大勢の群衆が従った。イエスはそこで人々の病気をいやされた。ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」


(説教) 礼拝で毎月数回、マタイ福音書を読んでいますが、今日の直前の箇所「仲間を赦さない家来のたとえ」を飛ばした形になりました。これは少し前の「初めて聞く人に分かる聖書の話」礼拝でそこを読んだからです。本日の箇所は19章1~12節、小見出しは「離縁について教える」で、結婚についてのイエス様の教えということもできます。1、2節は導入です。「イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。大勢の群衆が従った。イエスはそこで人々の病気をいやされた。」

 3節「ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、『何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか』と言った。」新約聖書では多くの場合、イエス様とファリサイ派は意見が合いません。私たちはもちろん、神の子であるイエス様のお考えに従うことがベストと知っています。ここに登場するファリサイ派の本音は、自分たち男性の都合に従って女性を離縁したいという本音です。ファリサイ派は信仰深いように見えて、実は自己中心的で、聖書を読む時も謙遜に神様の御言葉に従おうとするよりは、自分に都合よく聖書を解釈しているようです。彼らはイエス様を試そうとして、イエス様に悪意を抱いて、質問しています。「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか。」何か理由を探して、屁理屈を使って男性が妻を離縁する権利を確保して正当化したいのが本音です。当時のユダヤ社会は、非常に男性中心だったようです。それが残念な現実でした。男性の身勝手を正当化したいのが今日出てくるファリサイ派の男性の本音です。

 この問いに対してイエス様は、父なる神様が世界を造られた原点、エデンの園という原点でのことを取り上げて語られます。4~6節「イエスはお答えになった。『あなたたちは読んだことがないのか(原点はこうだ)。創造主は初めから人を男と女にお造りになった。』そして、こうも言われた。『それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。』」これは今日の旧約聖書である創世記1章に書かれていることで、よく知られています。
 
 そこで改めて創世記を読んでみると、まず結婚の場面より前の人間が作られた場面です。1章26~27節。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地の這うものすべてを支配させよう。』神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」女性も男性も、神様に似せて創造されました。ですから当然ながら女性も男性にも、神様に似せて造られた尊厳があります。ここに男性と女性の原点があります。ここを指してイエス様は、「創造主は初めから人を男と女にお造りになった」と言われました。これは神様が性を造られたことを意味します。神様が性を造られたことには、重要な意図があすはずです。男性という性、女性という性、性は神様が造られた、人間存在の根底に深く関わる、極めて重要なことだと分かります。そして28節は述べます。「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ。地に満ちて地を従わせよ。』」これは明らかに、男女が結婚して、子どもを産み育て、地上に人間が増え広がることを神様が祝福しておられることを述べています。
 
 そして、1章18節にはこうあり、結婚について語られます。「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』」主なる神は、野のあらゆる獣・鳥を土で形づくって人の所に持って来たが、人は自分に合う助ける者を見つけることができませんでした。神はそこで、人を深い眠りに落とされ、彼のあばら骨の一部を抜き取り、その後を肉でふさがれ、そのあばら骨で女を作り上げられました。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は喜びの声を上げます。「ついに、これこそ私の骨の骨、私の肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」これが聖書の語る結婚の原点、最初の男女の結婚です。当然一夫一婦です。男のあばら骨から女が造られたことを見ると、男が優位のように見えますが、しかしその男も最初の男以降は、どの男性も母親(女)から生まれます。その意味では、男が優位というわけではなく、女と男が互いの特性を持ちながら助け合うのが結婚生活と言えるでしょう。結婚においてだけでなく、教会でも社会でも、男と女が神に与えられた各々の長所や特性を生かしつつ、よきパートナー同士として助け合って生きることこそ、神様が人間を女と男に創造された意図だと思うのです。

 結婚の場合は、「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」「父母を離れて」つまり親離れですね。そして二人は身も心も一体となる。ここまでが旧約聖書・創世記の御言葉で、イエス様がそれに加えて力強く宣言されます。「だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」二人を出会いは、実に不思議なことです。別々の場所で生まれ育った男女が、出会い結婚の決断にまで導かれたのは、不思議としか言いようがありません。神への信仰がない世界では「生まれた時から、赤い糸で結ばれていた」運命だったと説明することがあります。そこに人間の思いを超えた何かの力が働いていると感じるからでしょう。クリスチャンであれば、それは運命ではなく、人格を持って生きておられる神様が導いて下さり、出会わせて下さったという信仰に立ちます。イエス様は宣言されます。「神が結び合わせて下さったものを、人は離してはならない。」日本キリスト教団の結婚式の式文を見ると、司式の牧師が「今より後、この二人が夫婦であることを宣言する。神が結び合わせて下さったものを、人は離してはならない」と述べることになっています。私も、これまで何回かさせていただいた結婚式の司式の際に、このように宣言致しました。イエス様が「神が結び合わせて下さったものを、人は離してはならない」と述べておられるのですから、原則的には離婚はあり得ないことになります。この原則をできる限り重視した上で、しかし現実には、やむを得ず離婚に至るケースはあることも事実です。家庭内暴力が収まらない場合等がこれに当たるのではないでしょうか。

 今日登場するファリサイ派の男性は、そのように深刻でやむを得ない場合のことを考えているのではなく、彼が何か理由をつけて、自分勝手に妻を離縁することを律法を利用して正当化したいと思っているだけです。律法という言葉には広い意味での律法と、狭い意味での律法がありますが、彼が言う律法はおそらく、ユダヤ人が「律法の書」と呼んで大切にしていた旧約聖書の最初の5冊の書物(モーセ五書、モーセが書いたと考えられている)を指すでしょう。それは創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の5冊です。イエス様が彼の考えを否定された(「神が結び合わせて下さったものを、人は離してはならない」と言われた)ので、彼は律法(申命記24章1節)を持ち出して、イエス様に食ってかかります。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」確かに申命記24章1節以下には、「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見出し、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」と書いてあります。ファリサイ派の男は、「こう書いてあるから私の主張は正しい」と言いたいのです。するとイエス様は、もっと深いことを言われました。「あなたたち(男性?)の心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚(夫か妻に不貞があった場合等でしょう)でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通(不倫とほぼ同じ)の罪を犯すことになる。」こう言って彼の主張を退けられました。

 申命記24章1節に、夫が妻を離縁する権利を持つとも受け取れる御言葉が書いてあるのは、イスラエルの民が頑固なので言わば「しぶしぶ書かれている」のであて、あくまでも本来の原則は、エデンの園の完全な祝福状態で神が言われた御言にある。「人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」これが本来の大原則だが、その後人間が罪に落ち、人間たちが自分勝手なので、申命記24章1節には、言わばしぶしぶあのように書かれている、とイエス様が教えて下さいます。私はこれを読んで、ある意味「なるほど」と思います。旧約聖書に出て来る男たちは、一夫一婦制を守っていないことがあります。アブラハムには側女がいたし、ヤコブには二人の妻と二人の側女がいます。ダビデ王にも同時に何人も妻がいます。「なんだ、これは!」とびっくりします。エデンの園での一夫一婦が守られていません。人間たちが神様に背いて罪人(つみびと)に転落し、エデンの園から追放された後、神の民イスラエルにおいてさえ、一夫一婦制が守り切られない罪がある。旧約聖書だけで、聖書は完結しない。救い主イエス・キリストが生まれて、新約聖書もできる。イエス様が私たちを神の国に導いて下さる、そのプロセスで、私たちは原点である一夫一婦制へ導かれ、さらにエデンの園のような神の国に導かれてゆくのです。

 ファリサイ派だけでなく、イエス様の12名の弟子たちも、相当当時の男性中心の考え、自己中心の考えに満たされていました。10節「弟子たちは、『夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです。』」妻を自由に離縁できるようでありたい。弟子たちまでもファリサイ派と同じように頑固なのです。申命記を学ぶことも必要ですが、創世記も律法(モーセ五書)ですから、一番最初の理想状態エデンの園の様子を、大切な原点として、弟子たちも学び直す必要があるのです。ここまでで一区切りです。

 進みます。イエス様は結婚が非常に重要なことであることを踏まえた上で、さらに次のように言われます。11~12節「誰もがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。」現実には次のような人々もおられる、というのです。「結婚できないように生まれついた者。」体の病気か心の病気で、現実の結婚生活ができない方でしょう。障がいかもしれません。辛い現実です。「人から結婚できないようにされた者もいる。」古代社会にいた宦官という存在のことです。去勢されていました。これは男性に対する人権侵害と思います。そして「天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」神様のために全時間を献げて奉仕するために、あえて独身の道を選ぶ人もいる。24時間神様のために働きたいから、あえて結婚しない生き方です。一般のクリスチャンでそういう方々もおられます。プロテスタントの牧師や宣教師は結婚することが許されていますが、カトリックの修道女(シスター)や神父(司祭)は独身です。おそらくイエス様が独身だったので、それに従っているのでしょう。

 洗礼者ヨハネも独身でした。パウロも独身だった可能性が高いと言えます。パウロは結婚していたのでないかと推測する人もいますが、新約聖書を読む限り、パウロが結婚していた痕跡は感じられません。でもイエス様の一番弟子ペトロが結婚していたことは、新約聖書の記述から明らかです。修道女は、実は精神的にイエス・キリストと結婚しているのだと聞いたことがあります。イエス・キリストを愛し、イエス様の精神的な花嫁として献身、全身全霊・全生活を献げているのです。夫や妻を先に天に送られた方々も、似ているのではないでしょうか。持てる時間と力を、イエス様のために注ぐ生き方があります。修道院に入らないけれども、神様が与えて下さっている場所で、祈りに専念、礼拝と可能な奉仕に専念なさる道があるのではないかと、私は生意気にも考えます。

 神父やシスターが独身で神に仕える場合も、結婚に重要な意義があることを認めた上で、とことん神様を愛するためにあえて独身で生きるのだと思います。結婚には深い信仰的な意義があります。エフェソの信徒への手紙5章21節以下に書かれています。新約聖書358ページ上段最後から。小見出し「妻と夫」。「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体(教会)の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗い(洗礼でしょう)によって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。私たちはキリストの体の一部なのです。」

 聖書では、教会はキリストの体です。そして父なる神様とイエス・キリストが花婿、神の民イスラエルと教会は花嫁です。私たち人間の結婚関係、夫と妻の愛し合う関係は、キリストと教会の愛し合う関係を目に見える形で体現する深い霊的な意味をもっている、というのです。どの夫婦もそうでしょうが、信者同士の夫婦の場合は特にそうだというのです。夫と妻のひたむきに愛し合う関係は、キリストと教会がひたむきに清い愛で愛し合う関係を具体的に体現している、というのです。最も深い愛で結ばれていることが、両者がよく似ている点です。31~32節「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。私はキリストと教会について述べているのです。」

 神秘は、元の言葉ギリシア語でミュステ―リオン(英語のミステリーの語源)で、他の日本語訳聖書で「奥義」と訳されています。このミュステ―リオンは、ローマの信徒への手紙11章25節では、「秘められた計画」と訳されています。神様の非常に深いお考え・計画があるというのです。私はこの神秘という言葉を読んで、カトリック教会が結婚(信者同士の結婚)を「7つの秘跡」に入れる理由が分かったように思いました。「秘跡(神秘の秘、奇跡の跡)」は、プロテスタントでいう聖礼典です。プロテスタントでは宗教改革によって聖礼典は洗礼と聖餐式の2つだけです。2つの聖礼典は神様の聖なる深い神秘的とも言うべき恵みです。カトリックではそれが7つもある、洗礼と聖餐式と、結婚も入っています(あと4つある)。私はプロテスタントなので聖礼典は2つでよいと思いますが、カトリックが結婚を聖礼典(秘跡)に入れたのは、ここに「人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。この神秘は偉大です。私はキリストと教会について述べているのです」とあるからでしょう。このように結婚は、神の前に、非常に深い意義をもちます。

 但し、聖書によると結婚はこの地上のことで、天国には結婚はありません。天国では私たちキリストを信じる者は、女性も男性も、私たちのために十字架で死なれ復活された花婿イエス・キリストの花嫁となるのです。全ての涙をぬぐわれ、イエス様と父なる神様を賛美する深い聖なる喜びに皆、満たされるのです。ハレルヤ!

(祈り)神様、聖名を讃美。二度目の緊急事態宣言が出ています。今、感染している方々全員に、特に重症の方々に、神様の癒しを与えて下さい。そして世界中が、神様に立ち帰るように力強く導いて下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。教会学校の子どもたちの信仰を、守って下さい。東久留米教会を出発して日本やアメリカで主イエス・キリストを宣べ伝える方々とご家族に、神様の愛の守りを注いで下さい。この教会の周りにいつも平和を、近所の方々の心にも聖霊を注いで。イエス様の御名により祈ります。アーメン。

2021-01-24 2:12:12()
「私たちはどこにいるのか」 礼拝説教 2021年1月24日(日)
礼拝順序:招詞 コリント(二)5:17、頌栄24、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・252、聖書 創世記3:1~24(旧約3ページ)、祈祷、説教「私たちはどこにいるのか」、讃美歌21・249,献金、頌栄27、祝祷。
 
(創世記3:1~24) 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。

 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」

 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムときらめく剣の炎を置かれた。

(説教) 今年初めての「はじめて聞く人にわかる聖書の話」礼拝です。通算第36回です。今日の聖書は、有名な箇所です。神様に最初に造られた人間アダムと、二番目に造られた人間エバが神様に背いて罪に落ち、エデンの園から追放された場面です。多くの画家がこの場面を描いています。これを単なる神話と見るべきではありません。この場面は、私たち人間のありのままの姿を示しています。そして神様の重要なメッセージが記されています。

 神様がお造りになった最初の世界・エデンの園は、完全な祝福に満ち溢れていました。園の中央には、命の木と善悪の知識の木が生えていました。神様はアダムにおっしゃいました。「園の全ての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」神様は気前がよくて、園にあるたくさんの木のほとんど全ての木の実を、取って食べてよいと言われました。例外は一本だけ、善悪の知識の木だけです。これを食べると必ず死ぬと、神様は言われます。それ以外の全ての木から取って食べてよいのです。神様はケチではなく、気前がよく愛に満ちておられます。この後、神様はアダムのあばら骨からエバを創造し、二人は人類最初の夫婦となります。(「善悪の知識の木」が出て来ますが、ここで言う善悪は、普通の意味・道徳上の善悪ではなく、善悪という正反対の言葉を並べることで全部や全てを意味するのではないかと言われます。)

 そこに蛇が出て来ます。この蛇は悪魔のシンボルと言えます。1節「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった」とあります。蛇は神様が造られた生き物の一つです。蛇は不気味な姿をしているけれども、動物園などにいる蛇そのものが悪魔ではなく、蛇は生き物の一つです。悪魔が蛇に入りこんでエバを誘惑したのではないでしょうか。神様がお造りになったエデンの園という完全な祝福の世界になぜ悪魔が存在するのか。これは謎です。謎だけれども、この世界に確かに悪魔が存在して私たちを誘惑して罪を犯させようと働いていることは、経験上確かです。残念ながら悪魔は確かに存在して暗躍しており、悪魔の誘惑・唆しに負けた人間によって、様々な罪や悪が行われてしまっている現実があります。

 「最も賢いのは蛇であった。」悪賢い、狡猾なのです。蛇はまずエバを攻撃して言います。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」蛇は、最初から神様の御言葉を曲げています。神様は、「園の全ての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と言われたのです。蛇はわざと神様の言葉をあいまいにしています。エバは蛇を無視すればよいのに、答えてしまいます。エバは神様の言葉を直接聞いたのではなくアダムを通して聞いたはずです。アダムも神様の言葉をいい加減に聞いて、曲げた解釈をエバに伝えたのかもしれません。エバは神様の言葉を不正確に語ります。蛇のペースに乗せられ、蛇の術中にはまってしまいます。エバにもアダムにも、神様に忠実に従うという決心がなく、ふらふらしているからです。エバは言います。「私たちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」神様は「善悪の知識の木の実を食べると、必ず死ぬ」とおっしゃったのに、エバはあいまいに「死んではいけないから」と言っています。エバがふらふらしているのを蛇は見抜き、自身たっぷりに嘘を言います。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」誘惑した蛇が悪いのは確かですが、エバが、自分の考えと意思をしっかり持っていれば、誘惑を退けることができたのです。イエス様が「サタン(悪魔)よ、退け」と断固言って悪魔を撃退なさったようにエバも「サタンよ、退け」と命じればよかったのですが、しなかったために悪魔に敗北しました。「神のように善悪を知る者となる」、神のようにすべてを知る者となる。そうなりたい、神のようになりたいという魅惑に満ちた誘惑にエバもアダムも負けたと思います。

 アダムも同じです。6節「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」アダムは手もなく、エバの誘いに乗ってしまいました。アダムは神様の言葉を直接聞いていたのです。「食べると必ず死んでしまう」と聞いたのです。ですからアダムは、「エバ、君は食べてはならなかった。僕は食べない」と言えばよいのに、一緒にふらふらと食べてしまいました。神様の言葉を忘れていたからです。忘れることが罪の場合もあります。アダムは、神様の御言葉を軽く考え、しっかり記憶しようと心がけなかったのではないでしょうか。私たちも、神様の御言葉を聞くだけでなく、聖書を繰り返し読み朗読して、記憶に刻みつけるように心がけることが大切だと思うのです。

 7節「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」それまでは自分たちが裸であることが分からなかったのでしょう。ここで示されていることは、神様に背く罪を犯してから恥ずかしいという感覚が生じたということだと思うのです。これは「罪と恥」が結びついていることを示すと思うのです。しばしば「西洋文化は罪を強調するが、日本文化は恥を強調する」と言うことがあります。罪と恥は似ているが違う、違うが似ている面もある、と思います。聖書の今日の箇所に両方出てくると言えます。人間が神様に対して罪を犯した結果、人間同士の間に恥の感覚が生まれた。やはり罪と恥にはつながりがあると言えます。人間が神様に対して罪を犯した結果、人間同士の間に恥の感覚が発生したのです。人間同士で自分を隠し合い、神様から隠れるようになったのです。それまでは神様から隠れることなどなかったのに、です。

 8節「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか』(今日の説教題はここを元に、「私たちはどこにいるのか」とした)。彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。私は裸ですから。」神様は、全てを見抜かれます。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」アダムは答えた。「あなたが私と共にいるようにして下さった女が、木から取って与えたので、食べました。」人間の罪深さがまともに出ていて、私たちは赤面します。アダムは「神様、私はあなたの戒めに背きました。神様、本当に申し訳ありません」と潔く謝ればよいのに、言い訳ばかり述べて謝りません。

 ある人は「アダムとエバが、潔く本心から誤れば、神様は赦して下さったのではないか」と書いていますが、二人とも責任転嫁に終始し、全く謝ろうとしないのです。「神様、あなたが私と共にいるようにして下さった女が与えたので、食べました。」エバのせいだ、エバを私の傍に置いて下さった神様、あなたのせいです、と言っているに等しい。エバが悪く、神様が悪いと言っているに等しい。自分の責任を認めません。自己正当化して、言い訳ばかりする。これは私たち人間の正直な姿と言えます。しばしば私の姿であり、不祥事を起こして釈明する政治家や企業の上の人々の姿と同じです。このアダムとエバは、私たち罪ある人間たちの原型です。エバも自分の責任を認めず、謝りません。神様がエバに言われます。「何ということをしたのか。」「蛇がだましたので、食べてしまいました。」蛇のせいだ、蛇が悪いと言っています。もちろん蛇が一番悪い。でも拒否できたのに、蛇に引きずられて神様に背いた自分の罪を認める必要があります。それをしませんでした。こうして、人間を造られた神様と、神様に造られた人間たちとの信頼関係が、人間の背きの罪によって破壊されたことをこの創世記3章は語っています。アダムとエバは、私たち全ての人間の先祖であり、原型です。私たち皆がアダムに似た者、エバに似た者です。

 しかしエバと著しく違った女性がいます。それはイエス様の母マリアです。もちろんマリアは悪魔に誘惑されてはいません。マリアの前に現れたのは悪魔の反対に近い、天使です。天使はマリアに告げました。「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座を下さる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは最初はためらいましたが、意を決して言います。「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」神様のご意志に従いますと宣言したと言えます。マリアの夫なるヨセフも、聖霊によって身ごもったマリアを妻として迎え入れる困難な決断をし、神様に従いました。この二組の夫婦は、真に対照的です。エバとアダムは揃って神様に背き、マリアとヨセフは揃って神様に従いました。マリアとヨセフにも罪はあるのですから、エバとアダムの罪・失敗をマリアとヨセフが完全に償ったとは言えませんが、それでもマリアとヨセフは、エバとアダムの正反対の生き方をして、神様に背くのではなく神様に従う生き方へと、私たちを引っ張ってくれていると思うのです。そのマリアから100%父なる神様に従いきる神の子イエス様が生まれ、ヨセフがイエス様を育てる父親として神様に選ばれたことは、真にふさわしいことだったと、強く感じます。

 さて、神様は14節で蛇(悪魔)に「お前は呪われるものとなった」と厳しい断罪の言葉を語り、更に言われます。15節「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」この御言葉は、原福音と呼ばれることがあります。「蛇の子孫(悪魔)」とエバの子孫(イエス・キリストを意味する)の闘い、闘争です。イエス様がこの地上に誕生されたのは、悪魔と闘って悪魔を滅ぼし、悪魔に支配され(同時に罪と死に支配されている)私たち人間を悪魔の支配下から救い出すためです。「彼(イエス・キリスト)はお前(悪魔)の頭を砕き、お前(悪魔)は彼(キリスト)のかかとを砕く」は、キリストが悪魔を決定的に倒すが、キリストも悪魔からそれなりにダメージを受けることを指します。これはイエス様の十字架を暗示します。罪を全然犯さない神の子イエス様の存在は、悪魔にとって非常な脅威で邪魔な存在なので、悪魔はイエス様を滅ぼそうと全力を挙げます。イエス様を全力で誘惑し、イエス様に罪を犯させ、悪魔に敗北させて自分の支配下に置こうとする。でもイエス様は全ての誘惑を退けます。悪魔はイエス様を十字架という極限の苦難に追い込む。それでもイエス様はただの一度も罪を犯さない、ただの一度もぶつぶつ不平不満を漏らすことさえしない。死に至るまで一度も悪魔に負けない。それによって悪魔は、イエス様に決定的に、完璧に敗北します。エバを誘惑して罪を犯させて以来、ずっと確保していた人類全体への支配権を失ったのです。

 イエス様は十字架の苦難を耐え抜くことで、悪魔に完全に勝利しました。イエス様は死なれましたが、父なる神様がイエス様を三日目に復活ささせられます。新しい体を持つ者として復活させられました。イエス様は死に勝利され、今は天の父なる神様のもと(それを天国と呼ぶ)に、新しい体をもって生きておられます。このイエス様を信じ、イエス様につながることによって、私たち死すべき人間も、全ての罪の赦しを受け、イエス様と同じ命、死を乗り越えた復活の命、永遠の命を受けることができます。ですからぜひこのイエス様を、ご自分の救い主と信じ受け入れて、「あなたも永遠の命を得て下さい」というのが、今神様から皆様に贈られている招きのメッセージなのです。戦国時代の武士は、敵と接近戦で戦う時、「自分の肉を相手に斬らせて、自分は相手の骨を断ち斬る」覚悟で戦ったそうです。「自分の肉を相手に斬らせて、自分は相手の骨を断ち斬る。」イエス様も同じ覚悟で悪魔と闘われたと思うのです。ご自分が十字架にかかるというきついダメージに耐えて、悪魔をもっと決定的に完全に滅ぼす。それが15節で示されています。「彼(イエス・キリスト)はお前(悪魔)の頭を砕き、お前(悪魔)は彼(キリスト)のかかとを砕く。」

 イエス様の勝利は、今日の箇所からはだいぶ後のことです。エバとアダムは神様に背いた結果、厳しい結果を身に受けます。17節で神様がアダムに言われます。「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して土は茨とあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に。」人間の罪のゆえに、祝福に満ちていた自然界にも呪いが入ったのです。食べ物を得ようと労働する人間に、自然界から妨害も入る。茨、雑草等だと思います。自然界は、食うか食われるかの弱肉強食の世界になってしまいました。もしかするとその呪いの1つとして様々な病気、新型コロナウイルスもあるのではないかと考えさせられます。神様は言われます。「塵にすぎないお前は、塵に帰る。」こうして人間は神様に背いた結果、死ぬ者となったのです。これが死の真相です。人が死ぬのは、命を与えて下さった神様に背いて罪を犯したからです。罪の結果が死です。

 死ぬべきものになったアダムとエバに、神様は手当てもして下さいます。21節「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」同時に厳しい処置をなさいます。「人は我々(神と天使?)の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に自分がそこから取られた土を耕させることにされた。」アダムとエバは祝福ばかりだったエデンの園から追放されました。神様に罪を犯したからです。ここから私たちの世界に死と苦しみが入って来たと思います。私たちを罪と死から救い出して下さる方はイエス様です。説教題は「私たちはどこにいるのか」です。私たちは罪を犯してエデンの園から追放されました。罪と死と苦労の中にいます。しかしイエス様が共におられます。イエス様と共に歩むことで真の慰めと平安を受け、イエス様と共に天国・神の国を目指して進んでいます。私たちはそのような中にいます。

 週報に書きましたが、先週水曜日に私はSさんのご葬儀に参列致しました。39年前まで東久留米教会で礼拝生活をなさった婦人です。葬儀では詩編23編が読まれました。「主は羊飼い、私には乏しいことがない。」手が器用で手芸の賜物等豊かな賜物を神様から与えられておられました。でも失う経験も少なくないご生涯であられたと。神戸のお生まれですが、14才の1945年5月に横浜大空襲で家が焼け落ちる経験をされました。1948年に神戸で洗礼を受け、同じ教会の青年の方と結婚、お嬢さんを出産され、夫の転勤で東京に移り1971~1982年に東久留米教会で信仰生活をなさいました。その後リウマチを患われ、好きな手仕事ができにくくなられました。それまでできていたことが、できなくなる失う体験です。「神様、リウマチも神様が造られたのだから、治すこともおできになるでしょう。それなのになぜ治して下さらないのですか」と神様を脅迫するような祈りをなさったと。でもそのような祈りをすることも許されています。しかし「礼拝はできる限り休みたくない」という姿勢を保ち続けたと。この1年間くらいは老人ホームに入られ、ご自身がコロナではありませんが、教会の礼拝には行けなかったと思います。1995年の阪神淡路大震災の時、ご自分は東京におられて被災されませんでしたが、愛する母教会が全壊したとのことです。これも失う体験です。にもかかわらず、葬儀では詩編23編を読むように牧師に依頼してあったそうです。「主は羊飼い、私には乏しいことがない。」葬儀では、東久留米教会で用いていない讃美歌集の「のぞみも消えゆくまでに」という讃美歌も歌われました。「世の嵐に悩む時、数えてみよ 主の恵み」「数えよ、主の恵み」「一つずつ数えてみよ 主のめぐみ」。賜物も多かったが、失うことも少なくなかった。そこでしかし、神様の恵み1つ1つ数えて歩まれたのだと思います。

 新約聖書のコリントの信徒への手紙(一)10章には「神は真実な方です。あなた方を耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます」とあります。「私たちはどこにいるのか。」罪のゆえにエデンの園から追放され、死と苦労の中にあるがイエス様に出会い、イエス様の十字架によって罪赦され、イエス様と共に天国に向かって進んでいる。そのような中にいます。全ての方がイエス様を信じて、この歩みに入って下さるよう、神様が今も全ての皆さんを招いておられます。

(祈り)神様、聖名を讃美。二度目の緊急事態宣言が出ています。今、感染している方々全員に、特に重症の方々に、神様の癒しを与えて下さい。そして世界中が、神様に立ち帰るように力強く導いて下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。教会学校の子どもたちの信仰を、守って下さい。東久留米教会を出発して日本やアメリカで主イエス・キリストを宣べ伝える方々とご家族に、神様の愛の守りを注いで下さい。この教会の周りにいつも平和を、近所の方々の心にも聖霊を注いで。Sさんのご家族に神様の深い御慰めを注いで下さい。イエス様の御名により祈ります。アーメン。