日本キリスト教団 東久留米教会

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2020-12-20 1:19:45()
「馬小屋に生まれたイエス様」 クリスマス礼拝 2020年12月20日(日)
礼拝順序: 招詞 ヨハネ福音書3:16、頌栄85(2回)、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・259、聖書 イザヤ書9:5~6(旧約1074ページ)、ルカ福音書2:1~21(新約102ページ)、祈祷、説教「馬小屋に生まれたイエス様」、祈祷、讃美歌21・261、献金、頌栄83(2節)、祝祷。
 
(イザヤ書9:5~6) ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。

(ルカ福音書2:1~21) そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天 使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

(説教) 皆様、クリスマスおめでとうございます。クリスマスは、「神様が人となった」奇跡、最大の奇跡が現実となった日です。天地万物をお造りになった神様ご自身が、私たちと同じ肉体を持つ人間となられた、しかも最も弱い赤ん坊になられた。それが私たちの主イエス・キリストです。そして神様が私たち人間と共に歩むことを決意された。その恵みの日がクリスマスです。イエス・キリストの誕生は、西暦・紀元前7~4年頃と言われます。

 1~3節「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に登録をせよとの勅令が出た。これはキリ二ウスが(ローマ帝国)シリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。」ローマ皇帝の権力は本当に強力です。命令を出せば、ローマ帝国の恐らくは何万もの住民が、一斉に移動するのです。4~5節「(イエス様の父となる)ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。」この時代より約1000年前のイスラエルの偉大な王ダビデの名が出てきますが、ダビデの名は重要です。神様はイスラエルの真の救い主(世界の真の救い主)はダビデ王の子孫から生まれると約束しておられたのです。まさにダビデの子孫ヨセフが、救い主イエス様の父として、マリアと共にイエス様を育てることになります。6~7節「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」
 
 本日の説教題を「馬小屋に生まれたイエス様」としましたが、実際には馬小屋というよりも洞窟のような場所ではなかったかと言われます。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった。」ヨセフとマリアは貧しい夫婦でしたが、生まれたイエス様を含め、彼らには居場所がなかったのです。イエス様は後に、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子(イエス様ご自身)には枕する所もない」とおっしゃいました。そして地上の歩みの最後には十字架につけられました。もちろん三日目に復活されますが、言ってみれば十字架によって、人々にこの世から追い払われました。ですからイエス様は、居場所のない人の気持ちがよくお分かりになります。イエス様は、自分には居場所がないと感じている全ての人の友になって下さいます。

 進んで8~9節です。「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」羊飼いの仕事は、きつそうです。夜通し羊の群れの番をする。迷子の羊が出ないように、羊が野獣に襲われないように守らなければなりません。神様は、社会の底辺で暮らし、きつい肉体労働をしていて社会的な力もない、おそらくは軽んじられていた羊飼いたちを愛しておられ、その羊飼いたちを敢えて選んで、この世界で最も喜ばしいメッセージを真っ先に知らせて下さいました。神様はいと小さく弱く貧しい者を深く心にかけ、愛して下さいます。世間では強く有名で、強く大きなものが幅を利かせますが、神様はその反対で、むしろ無名の労働者を愛して大切にして下さる方と信じます。敢えて言えば、神様はローマ皇帝アウグストゥスよりも、この無名の羊飼いたちを愛して下さったと思うのです。

 羊飼いたちは、24時間羊を守る必要があったので、ユダヤ社会で大事にされた安息日の礼拝にも、あまり出席できなかったようです。だから私たちも出席しなくてよいとは言えませんが、羊飼いの実情はそうだったらしい。ですから信仰熱心ないわゆるファリサイ派からは、非常に軽蔑されていたでしょう。当時の文章に「羊飼いは、裁判で完全に有効な証人と認めることができない」と書かれているそうです。信用されていなかった。でも大半の羊飼いは、羊を守る仕事を一生懸命行っていたと思うのです。神様もそこを見ていて下さったので、地道に汗水流して働いている羊飼いたちを愛し、あえて彼らを選んで、救い主イエス様誕生の最も喜ばしいニュースを、真っ先に知らせて下さったと思うのです。マタイ福音書20章でイエス様が、「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」とおっしゃっていますが、羊飼いたちこそ、「後にいる者が先になった」よい例です。

 10~12節「天使は言った。『恐れるな。私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシア(キリスト)である。あなた方は、布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなた方へのしるしである。』」メシアもキリストも同じ意味で、「油を注がれた者」の意味です。この場合の油は、聖なる特別な油で、旧約聖書ではこれを神様にお仕えする人に注いで、その人を清めるのです。(キリスト教会ではこのようなことはしません。)この聖なる油は、聖霊(神様の清き霊)のシンボルです。メシア・キリストはその聖霊に完璧に満たされた救い主、神の子です。イエス様こそ、その方です。「神様が下って来て人として誕生された」、それがイエス様です。神様は本来この宇宙をお造りになった力強い方です。でも神様は力強い姿では来られませんでした。反対に最も弱く、最も無防備なかわいい男の赤ちゃんとして来られたのです。これは神様が赤ちゃんの味方、子どもの味方、小さく弱く貧しい者の味方ということです。

 日本基督教団が毎月発行している「こころの友」という4面カラー刷りの伝道パンフレットがあり、東久留米教会でも購読して教会員の皆様から身の周りのクリスチャンでない方々に伝道のために渡して読んでいただいております。その点字版があります(東久留米教会ではとっていません)。全国の目の不自由な教会員の方々に読んでいただいています。今購読者が100名弱いらっしゃいます。これは小さいけれども貴重な働きだと思っています。毎月「こころの友」を点字に訳す仕事を請け負っている方々がおられます。もちろんある程度のお金を日本基督教団がお渡ししているのですが、それでもこれは地道で尊い愛の奉仕だと感じます。先週、この働きの大切な部分を担っておられる方とお話する機会があり、非常にそう思いました。10数年前に天に召されましたが、この教会にも内藤のぶ子さんという視覚障害の方がおられました。内藤さんも点字「こころの友」を購読しておられました。神様は目の不自由な内藤さんを愛され、内藤さんにイエス様を信じる信仰を与えて下さいました。東久留米教会で以前「たりほ」という月報を発行していましたが、この近くに住む聖公会のクリスチャンの女性が、内藤さんのために「たりほ」を毎回点訳して下さっていました。私は、本当に地道で尊い隣人愛の業と感じていました。内藤さんは視覚障害の試練を背負っておられましたが、神様に愛され、「たりほ」を点字に訳す友も与えられ、困難な中にも神様に守られたご生涯だったと感じます。

 さて、天使が言います。「これがあなた方へのしるしである。」聖書でしるしとは、しばしば神様が奇跡を行う偉大な力・パワーです。しかしここでは「救い主が赤ちゃんとして来た」姿が、しるしだと言うのです。このイエス様は、十字架にかかります。キリスト教会は、大抵どこでも十字架を高く掲げています。十字架こそが、父なる神様が私たちに与えて下さった最も偉大なしるしです。十字架は、敵を倒す偉大な力ではなく、十字架は偉大な「ゆるしの力」です。イエス様が十字架にかかられたのは、私たち全ての人間の全ての罪を身代わりに背負って十字架で死なれたのです。神の子イエス様が十字架で死なれることによって、私たち全人類が、最初の人間以来犯して来た全部の罪と、私たち全人類が、これから人類の歴史が終わる時までに犯す全部の罪が赦されたのです。赦すことは、忍耐の力を非常に必要とします。イエス様の十字架は、父なる神様が私たち全ての人間の全ての罪を、非常な忍耐力をもって忍耐され、ゆるされたことを示します。

 13~14節「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。』」天の大軍は、天使の大群でしょうか。天使たちが神様を賛美して歌ったのです。これは天の礼拝と言えます。私たちが普段、直接見ることのできない天国が一瞬、開いて垣間見えたのです。貴重な瞬間です。このような天国の礼拝の場面は、旧約聖書のイザヤ書6章にもあります。セラフィムという天使のような存在が、真の神様を賛美します。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主、主の栄光は地をすべて覆う。」天国が一瞬開いた時に発せられた天使のメッセージを、羊飼いたちはしっかり聴きました。「救い主キリストが、ダビデの町(つまりベツレヘム)にお生まれになったのだ。さあ、ベツレヘムに行ってその出来事をこの目で見ようではないか。」

 彼らは数キロ走ったのでしょうか。「急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景(平和に満ちた光景)を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。」これが最初のクリスマスイヴから翌朝クリスマスにかけての出来事です。羊飼いたちは、救い主イエス様を自分の目で見たのです。

 この羊飼いたちの幸せは、後にイエス様がルカによる福音書10章21節以下で語られた御言葉によって分かります。イエス様は聖霊によって喜びにあふれて言われたのです。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」そしてイエス様は弟子たちだけに言われたのです。「あなた方の見ているもの(イエス様)を見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者たちや王たちは、あなた方が見ているもの(イエス様)を見たかったが、見ることができず、あなた方が聞いているもの(イエス様の声や言葉)を聞きたかったが、聞けなかったのである。」羊飼いたちは、赤ちゃんイエス様を現に見たので、旧約聖書の有名な王たちや、神様のメッセージを忠実に語った偉大な預言者たち(イザヤ、エレミヤたち)よりも幸せな、大きな光栄を与えられたのです。私たちも、このイエス様に聖書を通して、祈りによって出会っていますから、羊飼いたちと同じように幸せなのです。

 赤ちゃんイエス様は、マリアに抱かれてすやすやと眠り、元気な産声も上げたに違いありません。クリスマスは、神様が人間の赤ちゃんになって下って来られた奇跡です。これ以上の奇跡はないとさえ言えます。神様は、どんな小さな人をも見捨てておられないことが明らかにされました。神様が肉体をもつ人間になられたことは、全能の神様が、肉体の制約下に降りて来て下さったということです。私たち人間は、いろいろな制約の下に置かれています。義務や責任を下に置かれ、肉体があるのでお腹がすいたり、暑さや寒さに苦しんだり、病気や疲れやケガで動けなくなることもあるのです。老化現象もあります。何よりも死という大きな制約下にあります。神様は、自ら進んで人間となり、このような制約の下に入られたのです。私たち人間と同じ立場に立ち友になり、私たちに仕えて下さるためです。そして遂には肉体をもって十字架にかかり、私たち皆の罪の責任を身代わりに背負うためです。

 赤ちゃんイエス様は、平安に眠っておられる。何の恐れも思い煩いもなく、父なる神様を信頼しきっているお姿です。もちろん赤ちゃんは皆そうです。何の恐れも思い煩いもなく、笑ったり泣いたりしています。赤ちゃんイエス様もそうです。神様を信頼して自分を委ねるとはこういうことだと、赤ちゃんイエス様の姿が教えてくれます。この信頼しきった姿のイエス様こそ、私たちに神様への信頼を教えて下さる先生の姿です。神様が支えて下さると信頼して、思い煩わない生き方について、イエス様は、マタイ福音書6章で次のように教えられました。「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草(花)でさえ、神はこのように装って下さる。まして、あなた方にはなおさらのことではないか。信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それは皆、異邦人(真の神を知らない人)が切に求めているものだ。あなた方の天の父は、これらのものがあなた方に必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

 イエス様の人生に何の試練もないのではありません。30数年後に十字架という試練が確実に来るのです。でもイエス様は将来のことをすべて父なる神様にゆだね切って、明日のことは思い煩わないで、平安に信頼しきって眠っておられる。ある人はこの赤ちゃんイエス様のお姿を「美しきキリスト」と言いました。私たちは赤ちゃんではないので、このようにはなれないという方もあるでしょう。しかし、「明日のことは父なる神様に信頼してすべて委ね、よく祈って今日一日の責任を一生懸命果たす。」ここに思い煩わない平安な生き方があるのではないでしょうか。「思い煩いは何もかもお任せしなさい。神が、あなた方のことを心にかけていて下さるからです」(ペトロの手紙(一)5章7節)という御言葉もあります。今、私たちはコロナ禍の中にあり、先がよく見えません。だからこそ、今日一日に集中して、今日一日の責任を全力で果たし、明日のことは思い煩わないで、神様の守りがあると信頼して、神様にお任せする。コロナ禍の中にあるからこそ、この生き方に徹して歩みたいのです。イエス様と共に。アーメン。

(祈り)聖名を讃美致します。東京と日本全体で新型コロナウイルスの感染者がまだ減りません。神様が私たちを憐れんで、ウイルスを無力化し感染拡大をストップさせて下さい。世界が助け合って、このピンチを乗り越えることができますように。有効なワクチン、治療薬を早く与えて下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。教会学校の子どもたちの信仰を、神様ぜひ守っていて下さい。新潟の大雪で苦しんでいる方々をお守り下さい。東久留米教会を出発して、日本やアメリカで主イエス・キリストを宣べ伝える方々とご家族に、神様の豊かな恵みがありますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2020-12-16 15:05:27(水)
「きよし この夜」の由来 12月の伝道メッセージ 石田真一郎
「今日ダビデの町(ベツレヘム)で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシア(キリスト)である」(新約聖書・ルカによる福音書2章11節)。

 イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスの讃美歌で有名なのは「きよしこの夜」です。次のようにできました(『クリスマスのうたものがたり』ドン・ボスコ社より)。今から200年ほど前のオーストリアの村の教会で、24才のヨゼフ・モール神父がオルガンを弾くと、子どもたちが集まります。ところがクリスマスイヴの朝にオルガンが故障します。「今夜のクリスマスイヴのミサ(礼拝)はどうしよう。」神父は頭を抱えます。その日、神父は赤ちゃんが生まれた村はずれの家を訪ねます。貧しいが嬉しそうな一家に、神父は祝福を祈ります。「イエス様が生まれた馬小屋のようだ。あの時は、粗末なわらの寝床しかなく、ごちそうもなかった。でも清い喜びがあった。」

 教会に戻ると詩を思いつき、書き留めます。「オルガンは壊れたが、ギターがある。そうだ、フランツ・グルーバー君に頼もう。」教会のオルガニストを訪ねます。「この詩にギターのきれいなメロディーをつけてほしい。」グルーバーさんが早速、曲をつけました。その晩のミサ(礼拝)で、オルガンは鳴りませんが、二人が作った新しい歌がギターで歌われ、寒い中集まった人々の心が暖められました。今も世界中で歌われています。
 
 ふつうの歌詞はこうです。「きよしこの夜、星は光り、救いの御子(みこ)は、馬漕(まぶね)の中に、眠りたもう、いとやすく。」ドイツ語の原詞は6節まであり3、5節はこうです(大塚野百合先生の著書より)。「静かな夜、聖い夜! 世界に救いをもたらした夜! 黄金に輝く天から、神は最高の恵みを見せられた。人の姿になられたイエスを!」、「静かな夜、聖い夜、神は長い間私たちを心にかけ、その怒りから私たちを解き放ち(…)、世界のすべての民を守ると約束された!」 当時オーストリアは、戦争で疲れ果てていました。「きよしこの夜」は、イエス様の平和(シャローム)を歌い、人々に慰めを届けました。私たちもコロナ禍にありますが、「きよしこの夜」を歌い、イエス様の平安を受けましょう。

 オルガンの故障から生まれた名曲。私たちもアクシデントにぶつかると困りますが、何とかしようと知恵を絞ります。新しい気づき・工夫が生まれ、思いがけない恵みに導かれます。コロナをきっかけに、もっと助け合う世界になることを、神はお望みと思います。アーメン(真実に)。

2020-12-13 0:45:02()
「神様を讃美するザカリア」  礼拝説教 2020年12月13日(日) 石田真一郎
礼拝順序: 招詞 ヨハネ福音書3:16、頌栄29、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・231、聖書 創世記12:7(旧約15ページ)、ルカ福音書1:57~80(新約101ページ)、祈祷、説教「神様を讃美するザカリア」、祈祷、讃美歌21・236、献金、頌栄28、祝祷。 

(創世記12:7) 主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。

(ルカ福音書1:57~80) さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。 聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。
 父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた。昔から聖なる預言者たちの口を通して/語られたとおりに。それは、我らの敵、/すべて我らを憎む者の手からの救い。主は我らの先祖を憐れみ、/その聖なる契約を覚えていてくださる。これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、敵の手から救われ、/恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く。」幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。

(説教) 父なる神様のご計画が進んでいます。天使ガブリエルが祭司ザカリアに出会って洗礼者ヨハネが誕生することを予告し、マリアに出会って神の子イエス様が誕生することを予告しました。洗礼者ヨハネの母エリサベトは50才くらいと思われますが身ごもり、マリアはまだ結婚前ですが神様の偉大な力によって身ごもります。まず洗礼者ヨハネが誕生します。イエス様の誕生の約6ヶ月前と思われます。

 最初の57~59節「さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜びあった。八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名づけようとした。」ザカリアという名前は、「主は覚えておられる」という意味だそうです。ですからザカリアという名前は、意味深い名前です。神様は私たちのことを覚えていて下さるという名前です。ザカリアは祭司としてエルサレムで神様にお仕えする聖職者です。ですから日々、神様の恵みを意識し、心に留めて、感謝しながら生きていたでしょう。「覚える」という言葉は日本では、プロテスタントキリスト教会の独特の言葉です。「覚えてお祈り下さい」という言い方が、日本のプロテスタント教会ではしばしば使われます。「心に留める」の意味です。祈りの課題を1つ1つきちんと心に留めて、忘れないで意識して祈るということです。神様の恵み1つ1つを数えて心に留めて、忘れないで意識して感謝して祈る。これが「覚える」ということで、とても大切なことです。

 ここで今日の箇所の前提となるルカ福音書1章を振り返ると、ザカリアとエリサベトの夫婦は、「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」とルカ福音書1章にあります。ただ、子どもが生まれなかったので、「神様は私たちのことを、お忘れになったのではないか」と時々不安に思うこともあったかもしれません。しかし夫ザカリアに大きな恵みが与えられました。ザカリアは自分の組が当番で、聖なる神様の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、神様の聖所(神殿)に入って香をたく礼拝を献げることになったのです。当時祭司は1万人(2万人?)もいたと聞きます。その中から選ばれ、神殿の中心に入って香をたく礼拝を献げることは、一生に一度あるかどうかの大きな光栄だったそうです。妻エリサベトは入れないのですが、夫に与えられた神の恵みを感謝したでしょう。

 ところが神殿の中で、思いもかけないことが起こります。ザカリアが天使ガブリエルに出会ったのです。天使は神様ではないが、天の存在、聖なる存在ですから、ザカリアは緊張し畏怖を覚えました。ガブリエルは驚くべきメッセージを伝えます。父なる神様が、確かにザカリアとエリサベトの夫婦を心に留め、覚えておられることを証明する一世一代の喜びのメッセージです。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」

 ところがザカリアは、この天使のメッセージを信じることができなかったのです。不信仰の罪、神様の御言葉を疑う罪を犯してしまいます。「何によって、私はそれを知ることができるのでしょうか。私は老人ですし、妻も年をとっています。」ザカリアの年齢は分かりませんが、当時は人生50年くらいだったと思うので、50~55才くらいではないでしょうか。ザカリアは、この不信仰の罪のために神様の裁きを受けます。天使が言うのです。「私はガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現する私の言葉を信じなかったからである。」ザカリアは本当に口が利けなくなりました。神様に叱られたのです。きっと「しまった」と思い、自分の罪を悔い改めたでしょう。口は利けなくなったが、神様は約束を反故にはなさいませんでした。恵みを下さり、妻エリサベトは身ごもったのです。ザカリアは「主は、私たちを覚えていて下さった」と感謝したでしょう。ヨハネが生まれるまで、感謝と悔い改めの日々を送ったはずです。エリサベトも言いました。「主は今こそ、こうして、私に目を留め、人々の間から私の恥を取り去って下さいました。」旧約聖書の時代は、身ごもらないことは恥と考えられていましたが、もちろん新約聖書の時代である今は、そのようなことはありません。

 振り返りを終えて今日の箇所に戻ります。エリサベトに、男の赤ちゃんが生まれたのです。59節「八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。」それがこの地域の習慣だったのでしょう。割礼とは、神様の民イスラエルが、神様との契約の中にあることを示す証拠として、イスラエルの男の子が生まれて八日目に受けるしるし、ちょっとした手術のようです。これは神様との契約の民にとって極めて大切なことでした。新約聖書の時代に生きる私たちは、神様との契約に入るためには洗礼を受けます。旧約聖書の時代は割礼でした。これは男性しか受けることができません。でも洗礼は女性も男性も受けることができます。割礼については、神様が旧約聖書の創世記15章でイスラエルの先祖アブラハムに、こうおっしゃいます。「いつの時代でも、あなたたちの男子は全て直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、買い取った奴隷も、必ず割礼を受けなければならない。(~)それによって、私の契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。」ヨハネの半年後に生まれたイエス様も割礼を受けておられます。

 人々は赤ちゃんをザカリアと名付けようとしたが、母エリサベトが反対します。エリサベトは口が利けない夫ザカリアから、文字で書くことによってでしょうか、天使のメッセージ「ヨハネと名付けなさい」を知らされていたのでしょう。ヨハネという名前は、「主は恵み深い」の意味だそうです。神様が天使を通して示したご意志にエリサベトは喜んで従います。人々は困惑し、「あなたの親類には、そういう名の付いた人は誰もいない」と言い、ザカリアに「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。ザカリアの信仰が問われた一瞬です。前回、神様が天使を通して語ったメッセージを信じない不信仰の罪を犯して口が利けなくなったザカリアは、その罪を悔い改めており、ここでは全く従順に神様の意志に従います。ザカリアは文字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は驚きました。ザカリアの親類にはヨハネという名前の人がいないからでしょう。神様に従順に従った瞬間、ザカリアの口が開きました! 「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」とあります。神様が出エジプト記4章11節でモーセに言われた御言葉が思い出されます。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なる私ではないか。」また詩編102編19節の「主を賛美するために民は創造された」の御言葉も思い出されます。

 口が利けるようになったザカリアは、まず神様を賛美し始めたのです。口から声が出る喜びを全身で感じながら、神様を賛美し続けたのです。新約聖書のヤコブの手紙3章8節以下にこ  うあります。「舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。私たちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、このようなことがあってはなりません。」私たちが不信仰な言葉や、罪深い言葉を一回発する度に、ザカリアのように神様によって口を利けなくされるならば、私たちは毎日口が利けなくなるのではないでしょうか。そうなっていないのは、神様が私たちの罪を日々忍耐して、裁きを控えて下さっているからだと思うのです。神様が私たちの罪を日々多く忍耐して下さっていると気づくのです。神様の忍耐が最大に示されたのは、イエス様の十字架においてです。父なる神様は、私たちの罪を裁く代わりに、最も愛する独り子イエス様を十字架につけられました。私たち罪人(つみびと)を裁くことを控えて忍耐され、その代わりに最愛の独り子イエス様を集中砲火的に裁くことをなさいました。

 さて、口が利けなかったザカリアが急に利けるようになったのを見て、近所の人々は神様(聖霊)が生きて働かれたことを感じ、恐れ(畏怖)を覚えました。このことがユダヤの山里中で話題になり、人々はこのことを心に留めて、「一体この子はどんな子になるのだろうか」言いました。当時としては高齢の両親に、驚くべき神の力が働いて生まれた特別な子、非常に信仰深いザカリアとエリサベトに与えられた聖なる子と感じられたからです。この子には聖なる神の特別な力が及んでいました。

 それまで当たり前にできていたことが、できなくなることはショックですが、同時に、それがそれまではできたことが、いかに大きな神様の恵みだったかと、初めて気づく時でもあります。そしてできなくなったことが、再びできるようになったならば、大きな感謝を神様に献げることになります。ある所で読みましたが、「人生は当たり前を感謝に変える旅」だというのです。なるほどと思いました。今、多くの教会で聖餐式を以前と同じ形では行うことができないでいます。ある牧師が書いていましたが、そこで色々な新しい工夫をすることも悪くはないけれども、焦るよりは、むしろ今を霊的な断食の時ととらえることもできるのではないかというのです。これが唯一の対処法ではないでしょうが、このようなとらえ方もできると思いました。今は忍耐して待つ。そしてザカリアの口が利けるようになったように、私たちも前と同じ聖餐式を再開する日が来たならば、たとえようもなく大きな喜びに満たされる。確かにそうです。その後は一回ごとの聖餐式への感謝が、前よりも深くなるに違いありません。

 私は4年前に一度、沖縄の教会で礼拝説教奉仕させていただきましたが、その教会の今の牧師がおっしゃいました。「1945年に沖縄では地上戦があった。教会の会堂も破壊され、礼拝もできなくなった。戦争が終わってある信徒さんが『早くもう一度、教会で神様を礼拝したい』と言われたそうです。ふつうは、まずご飯を食べたい、家を建て直したいと考える。それももちろん大切だが、その信徒さんは『早く教会でもう一度神様を礼拝したい』と言われた。この教会は、このような教会です」と言われました。私は、本当にすごい信徒さんだと思いました。できなくなったことが、忍耐して待った末にできるようになる。その時、私たちは喜び、神様に感謝します。以前それができていたことが、実はどんなに大きな恵みだったかに気づき、神様への感謝が深まります。ザカリアも、口が利けることにこれまで以上の深い喜びを感じて、感謝の預言を語ります。私たちの舌と口は神様を賛美するためにあり、私たちの命と心と体は、神様の栄光を現わすためにあります。信仰の歩みが進むほどこのことに気づき、自分に与えられた時間、少しばかりの才能、少しばかりのお金を、できるだけ神様に喜ばれるように用いていこうという思いに導かれます。そのように生きてこそ、「本当に生きた甲斐があった」と言える人生になると信じます。

 67節以下には「ザカリアの預言」の小見出しが付いています。ザカリアの賛美と言うこともできます。「父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。『ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角(力)を、僕ダビデの家から起こされた(イエス様のこと)。昔から聖なる預言者たちの口を通して語られた通りに。それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。』」預言とは、本当の神様の言葉を預かって忠実に語る言葉です。昔からイスラエルを苦しめた敵と言えば、大国エジプトやアッシリア、バビロンが挙げられます。神は確かにイスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から解放して下さり、バビロン捕囚からも帰還させて下さいました。私たちクリスチャンにとっては、真の敵は人間ではなく悪魔です。私たちを誘惑して、神様から離れさせようとする悪魔こそ、私たちの真の敵です。「主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていて下さる。」その通り、神様は私たちを決して忘れず、いつも覚えていて下さり、心に留めて下さる神です。特に小さき者を覚え、心に留め、愛して下さいます。

 72~73節「主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていて下さる。これは我らの父(先祖)アブラハムに立てられた誓い。」この「聖なる契約」が何を指すのか、1つの候補は本日の旧約聖書・創世記12章7節です。「主はアブハム(アブラハムの最初の名前)に現れて、言われた。『あなたの子孫にこの土地を与える。』」新約聖書のガラテヤの信徒への手紙3章16節によると、この子孫はイエス・キリストです。「あなた(アブラハム)の子孫(イエス様)に祝福(永遠の命、神の国)を与える」の意味だと、ガラテヤの信徒への手紙3章16節では言われているようです。ザカリアは聖霊に満たされて預言を続けます。自分の息子の使命を語り、救い主イエス様のことをも語ります。「幼子よ、お前はいと高き方(神様)の預言者と呼ばれる。主(イエス様)に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光(イエス・キリスト)が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」ザカリアはイエス様を「あけぼのの光」と呼び、イエス様が暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、私たちの歩みを平和への道に導くと預言します。私たちも今、コロナという暗闇と死の陰にうめいています。だからこそイエス・キリストの愛と光と助けを、特に待ち望むのです。主イエスよ、来て下さい、と。アーメン。

(祈り)聖名を讃美致します。東京と日本全体で新型コロナウイルスの感染者がまだ減りません。神様が私たちを憐れんで、ウイルスを無力化し感染拡大をストップさせて下さい。世界が助け合って、このピンチを乗り越えることができますように。有効なワクチン、治療薬を早く与えて下さい。お金持ちの国優先ではなく、まず弱いところにワクチンや治療薬が早く行き渡りますように、私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。教会学校の子どもたちの信仰を、神様ぜひ守っていて下さい。東久留米教会から出発して日本とアメリカで主イエス・キリストを宣べ伝える方々とご家族に、神様の豊かな恵みが注がれますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2020-12-05 22:52:15(土)
「その子をイエスと名づけなさい」 礼拝説教 2020年12月6日(日)
礼拝順序: 招詞 ヨハネ福音書3:16、頌栄85(2回)、「主の祈り」、日本キリスト教団信仰告白、讃美歌21・230、聖書 サムエル記(下)7:12~17(旧約490ページ)、ルカ福音書1:26~45(新約100ページ)、祈祷、説教「その子をイエスと名づけなさい」、祈祷、讃美歌21・175、聖餐式(式文のみ、パンとぶどう液なし)献金、頌栄28、祝祷。 

(サムエル記・下7:12~17) あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。 わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。あなたの前から退けたサウルから慈しみを取り去ったが、そのようなことはしない。あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」ナタンはこれらの言葉をすべてそのまま、この幻のとおりにダビデに告げた。

(ルカ福音書1:26~45) 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
 
 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

(説教) クリスマスに備えるアドヴェント(待降節)第2主日の礼拝を献げています。アドヴェントとは、「来る」「到来する」の意味です。神の子イエス・キリストがこの地上に来られる、到来される、誕生されることを意味します。そして私たちの全ての罪を背負って十字架で死なれ、三日目に復活され、天に昇られたイエス様が、世の終わりにもう一度この地上に到来され、神の国を完成なさることをも指しています。教会暦(教会のカレンダー)では、アドヴェント第1主日から、教会の新しい一年が始まります。ですから先週日曜日11/29(日)がいわば教会の正月だったのです。本日は教会の新しい年の2回目の日曜日です。

 本日の新約聖書は、ルカによる福音書1章26節以下、小見出しは「イエスの誕生が予告される」です。この直前の箇所は、洗礼者ヨハネの誕生が予告される場面です。洗礼者ヨハネは、イエス様より半年ほど前に生まれて、神の子イエス様の活動の前備えの働きをする使命を受けていました。ヨハネの誕生をヨハネの父ザカリアに予告した天使ガブリエルが、今度はイエス様の母となるマリアのもとに遣わされたのです。ヨハネが生まれ、次にイエス様がお生まれになる。父なる神様が御計画を着々と進められます。

 本日の最初の26~27節「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアと言った。」マリアとは「苦い没薬」の意味だそうです。マリアはこの時、14才か15才くらいと思われます。ガブリエルとは「神の人」の意味だそうです。天使ガブリエルは、実は旧約聖書のダニエル書8章と9章に既に登場していて、神の預言者(神様の御言葉を預かって忠実に語る人)ダニエルに語りかけています。ダニエルが生きた時代は、紀元前500年代のようですから、天使ガブリエルは少なくとも500年は生きていることになります。天使は死なない存在なのかもしれません。新約聖書のヘブライ人への手紙1章14節には、「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされた」と書かれています。旧約聖書にも天使は重要な場面で登場します。ですから天使はおとぎ話の存在ではなく、本当に存在します。洗礼者ヨハネの誕生の予告においても、イエス様の誕生の予告においても、天使ガブリエルが、父なる神様からの重要なメッセンジャーとして用いられています。天使は、イエス様が復活されて空になった墓にも現れて、婦人たちにイエス様の復活の事実を伝えます。天使は重要な働きをしています。

 28節「天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」「おめでとう」は、直訳では「喜べ」「喜びなさい」です。「喜びなさい、恵まれた方。主があなたと共におられる。」「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」戸惑ったということは、天使の思いがけないメッセージに驚いたことです。有名な画家が描いたこの場面の絵では、マリアが左手の平を開いています。この動作によってマリアの驚きの反応が表現されています。そしてマリアは考え込みました。考え込むところに、マリアの思慮深さ、考え深さ、賢明さが現れています。私たちにとっても日々、聖書の言葉を読み、祈り、黙想することは信仰の養いのために大切です。

 天使ガブリエルが語りかけます。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」この子の名をイエスとすることが、神様の御心だったのです。聖書では名前が重要な意味を持っています。イエスという名は、「主は救い」の意味と聞きます。救い主にぴったりの名前です。但し、イエスという名は当時珍しい名ではなく、よくあった名前だそうです。「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父(先祖)ダビデの王座を下さる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」ダビデ王の子孫からイスラエルの真の救い主を送ることが、神様の約束でした。今日の旧約聖書・サムエル記・下7章に、それが記されています。ダビデ王に預言者ナタンが語った神様のメッセージです。12節から読みます。「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名(神の名)のために家を建て、私は彼の王国の王座をとこしえに難く据える。」ここで言う子孫とは、直接にはダビデの息子ソロモンと、その子孫から出る政治的な王たちです。しかしナタンは、この預言がもっと深い意味を持っていることを知っていたのではないでしょうか。つまりダビデの子孫から、政治的な王ではなく、イスラエルと世界を愛と正義で支配する真の王、永遠の王が出る。ナタンは聖霊に満たされて、このような最も深い預言を語りました。この約束の預言から約1000年たち、約束通りダビデの子孫ヨセフのいいなずけ(妻)の子として、救い主・神の子イエス様が誕生なさったのです。神様は、1000年たっても、決して約束をお忘れになることは、決してないのです。1000年は私たち人間にとって長すぎる感じもありますが、(聖書の言葉でないが)「千里の道も一歩から」という言葉もありますから、私たちは今日一日の信仰を精一杯生きることを大切にし、同時に神様の百年単位、千年単位のご計画をも心に留めて、信仰の道を進みましょう。

 マリアさんは自分の小さい身に、あまりにも壮大なことを言われたので、驚いて言います。「どうして、そのようなことがあり得ましょうか。私は男の人を知りませんのに。」私はヨセフと婚約しているが、まだ結婚して共に暮らしていない。妊娠するはずがない。ガブリエルが答えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方(神)の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」神の清き霊であり、神ご自身である聖霊が働かれる時、天地(宇宙と地球)は創造され、旧約聖書のエゼキエル書37章の壮大な「枯れた骨の復活」の場面にあるように死者の復活が起こり、人間の自然の常識では不可能なマリアの妊娠も起こるのです。ですから天使は言います。「あなたの親類のエリザベト(洗礼者ヨハネの母)も、年をとっているが、男の子を身ごもっている(人間の常識ではふつうはない50才くらいでの高齢妊娠)。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」「だから、まだ結婚していないあなたの妊娠も起こる。」

 そう言われて、マリアは暫く祈り、考え込んだと思います。そして意を決して言いました。「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」マリアは、天使のメッセージ、父なる神様のご意志を受け入れることを承諾したのです。ここにあるのは、父なる神様とマリアの間にある信頼関係です。見事な信頼関係です。神様が私に悪いことをなさるはずがない。神様が私を裏切るはずがない。神様が必ず責任をとって下さる。神様を信頼して、私の人生を委ねよう。「神様、私はあなたに信頼します。私の人生をあなたに託します。」これがマリアの信仰の決断です。私たちが洗礼を受ける時、私たちも似た決断をしたと思うのです。洗礼を受ける。この神様に自分の人生を委ねる。神様を信頼して飛び込む。人によっては、「清水の舞台から飛び降りる」決心で洗礼を受けます。神様を信頼する決断をして洗礼を受けるのです。それも「私は主のはしため(私は主のしもべ)です。お言葉どおり、この身に成りますように」ということだと思うのです。父なる神様は、無名の少女マリアを信頼して、マリアの信仰を見込んで、マリアにイエス・キリストの母となる重要な務めをお与えになったのですね。旧約聖書の歴代誌下16章9節に、「主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる」とありますが、神様はまさにマリアに「御自分と心を一つにする女性」をお見つけになったのではないでしょうか。

 神様が、いと小さき無名の少女マリアを、イエス様の母としてお選びになったことは、やはり驚きです。神様の前には有名も無名もない。本当にその人が、神様と人の前に誠実に、責任感を持って生きる人かどうかが大切なのだと思います。新約聖書のヤコブの手紙2章5節に、「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、ご自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。」「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、ご自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。」まさにマリアに当てはまる御言葉と思います。そもそもマリアもイエス様も属している旧約聖書以来の神様の民イスラエル自身が、非常に小さく貧しい民であり、そうだったからこそ神様に愛され、神の民として選ばれたのでした。旧約聖書の申命記7章6節以下で、モーセという指導者がイスラエルの民にこう言っています。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」神の民イスラエルは、周りをエジプトやバビロンという超大国に囲まれ、いつ滅びてもおかしくない弱小民族だった。だからこそ神様に愛され、神の民として選ばれ、栄誉を与えられた。その民の無名の少女マリアも同じです。神の子イエス・キリストも、あえて貧しいマリアとヨセフの夫婦の子どもとして誕生された。私たちも同じかもしれません。小さく無名な一人一人であることが大切です。そんな者にこそ、神様の慈しみの目が注がれるのです。マリアもそうでした。

 神様はマリアを、一人の人格として扱っておられます。ですから天使ガブリエルをマリアへの正式なメッセンジャーとして派遣します。彼はマリアに言います。「あなたは神から恵みをいただいた。」「恵み」は大切な言葉ですね。新約聖書の原語のギリシア語では「カリス」という言葉です。東久留米教会初代牧師の浅野先生と奥様の眞壽美先生が「カリス」という名の猫を飼われていたと聞きます。カトリックではミサ(礼拝)の聖餐式のぶどう酒を入れる杯を「カリス」(恵み)と呼びます。キリストの尊い血潮(キリストの体であるパンも)を飲むことは大きな恵みだからでしょう。私どもは本日、コロナ禍のため残念ながらパンとぶどう液なしのやむを得ない形での聖餐を行います。聖餐でパンとぶどう液を食べて飲むことは大きなカリス、恵みなのです。神様は少女マリアに、救い主イエス様の母となる大きな恵みを与えられました。それを恵みとして受け取ることを承諾してほしいとマリアに申し出られました。マリアの思い・意向を無視なさらず、一方的に事を進めず、マリアの返答を待ってから、神様はマリアを妊娠に導かれました。信仰深いマリアが断ることはないでしょうが、神様はマリアの考えと意向を尊重され、マリアの明確な承諾の言葉を待ってから、マリアを処女妊娠へと導かれました。神様とマリアの間には人格的な美しい信頼関係があることが分かります。

 「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」とのマリアの言葉を読むと、私は旧約聖書サムエル記上に出て来る少年サムエルの神様への祈りを思い出します。「どうぞお話し下さい。僕(しもべ)は聞いております。」神様に聞き従おうとする共通の謙遜な信仰を感じ取ります。

 その後の39節には、「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した」とあります。それはエイン・カレムという町ではないかと言われます。「マリアは出かけて」とありますが、「出かけた」は元の言葉で「立ち上がった」の意味です。マリアが神様の申し出を受け入れ、承諾し、意を決して立ち上がって、自分より先に身ごもった親類のエリサベトに会いに向かう行動を起こしたのです。神様から与えられた道を進んでゆく決心ができたからです。洗礼者ヨハネの母として神様に選ばれたエリサベト(50才くらい)と、救い主イエス様の母として神様に選ばれたマリア(14~15才くらい)の祝された出会いが起こります。「マリアの挨拶を聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。『あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。私の主のお母様が私のところに来て下さるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声を私が耳にした時、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう。』」その後の「マリアの賛歌」はこの語の讃美歌で歌います。

 マリアに与えられた恵みと祝福、その中身は楽しいことばかりではありません。新約聖書のフィリピの信徒への手紙1章29節の御言葉を思い出します。「あなた方には、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」「あなた方には、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」マリアは、わが子イエス様が十字架に架かる時を耐え忍ぶことになります。「ピエタ(悲しみ)」という彫刻があり、それは十字架から降ろされたイエス様を、マリアが膝の上に抱きとめている彫刻です。そのような悲しみをマリアは忍耐することになります。それも含めての「恵み」ということになります。もちろん十字架の三日目にイエス様の復活によって喜びが与えられますが、イエス様の十字架の試練をも含んで、神様からマリアへの「恵み」です。何と過酷な恵みとも思いますが、イエス様が十字架に架けられた時、マリアだけが悲しみに耐えたのではなく、父なる神様も共に悲しみに耐えられました。私どもの信仰の歩みも、試練をも含む歩みです。私たちが苦しむ時、イエス・キリストも父なる神様も、共に苦しんで下さる。その意味でいつもイエス様と共に、父なる神様と共に歩む歩みになります。目に見えなくてもイエス様と父なる神様が、嬉しい時も苦しい時も共にいて下さる。マリアさんも大きな試練をも経験して信仰の歩みを全うし、天国に行った。私たちも地上の使命を果たしながら、一人の信仰者マリアの後にも続いて、信仰の歩みを最後まで続けたいのです。アーメン(真実に)。

(祈り)聖名を讃美致します。東京と日本全体で新型コロナウイルスの感染者がまだ減りません。神様が私たちを憐れんで、ウイルスを無力化し感染拡大をストップさせて下さい。世界が助け合って、このピンチを乗り越えることができますように。有効なワクチン、治療薬を早く与えて下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。教会学校の子どもたちの信仰を、神様ぜひ守っていて下さい。東久留米教会がこれからも主イエス・キリストを宣べ伝え、神様を礼拝し、イエス様に従う歩みを世の終わりまで継続させて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2020-11-28 17:56:09(土)
「隣人に深く心を配るキリスト」 礼拝説教 2020年11月29日(日)
礼拝順序: 招詞 ローマ12:12、頌栄85(2回)、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・573、聖書 出エジプト記30:11~16(旧約144ページ)、マタイ福音書17:22~27(新約34ページ)、祈祷、説教「隣人に深く心を配るキリスト」、祈祷、讃美歌21・241、献金、頌栄92、祝祷。 

(出エジプト記30:11~16) 主はモーセに仰せになった。あなたがイスラエルの人々の人口を調査して、彼らを登録させるとき、登録に際して、各自は命の代償を主に支払わねばならない。登録することによって彼らに災いがふりかからぬためである。登録が済んだ者はすべて、聖所のシェケルで銀半シェケルを主への献納物として支払う。一シェケルは二十ゲラに当たる。登録を済ませた二十歳以上の男子は、主への献納物としてこれを支払う。あなたたちの命を贖うために主への献納物として支払う銀は半シェケルである。豊かな者がそれ以上支払うことも、貧しい者がそれ以下支払うことも禁じる。あなたがイスラエルの人々から集めた命の代償金は臨在の幕屋のために用いる。それは、イスラエルの人々が主の御前で覚えられるために、あなたたちの命を贖うためである。

(マタイ福音書17:22~27) 一行がガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。」弟子たちは非常に悲しんだ。一行がカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言った。ペトロは、「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスの方から言いだされた。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエスは言われた。「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」

(説教) マタイ福音書の前回の箇所で、イエス様はてんかんの男の子を癒やして下さいました。そして今日の箇所では、弟子たちに、ご自分の死と復活を予告されました。二度目です。「一行がガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。『人の子は人々の手に渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。』弟子たちは、非常に悲しんだ。」イエス様がはっきり「殺される」とおっしゃったので、弟子たちは悲しみに襲われました。「三日目に復活する」ともおっしゃっているのに、イエス様が「殺される」と言われたことが心に大きく残り、悲しみに圧倒されました。確かにイエス様が十字架で殺されることは大きな悲しみです。ですがその後も復活の希望もイエス様はちゃんと語っておられます。ですが悲しみが大きくて、復活のことはあまり弟子たちの心に残らなかったのでしょう。「引き渡され」とあります。これは案外重要な言葉です。「引き渡され」は受け身の形です。引き渡す方は、実は父なる神様ご自身です。形だけみると悪魔がイエス様を十字架へと引き渡すように見えますが、もっと深い所では父なる神様が、イエス様を十字架へと引き渡されます。イエス様に、私たち全員の罪を十字架の上で背負わせ、イエス様を信じる者に、一切の罪の赦しと永遠の命を与えるためです。

 そして場面が進みます。これはマタイ福音書だけに記されている出来事です。「一行がカファルナウムに来た時、神殿税を集める者たちがペトロの所に来て、『あなたたちの先生(イエス様)は神殿税を納めないのか』と言った。」イエス様の時代のイスラエルには、首都エルサレムに壮麗な神殿がありました。そこに神殿税を納める義務がありました。20才以上のイスラエルの男性(外国にいるユダヤ人も含めて)が一律に半シェケル納めなければなりませんでした。半シェケルと2デナリオンに当たり、1デナリオンが一日分の賃金ですから、半シェケルは1~2万円でしょうか。これを納めることで、罪の償いがなされると考えられていました。毎年アダルの月(2~3月)に神殿税を納めることになっていました。
 
 「本日の旧約聖書である出エジプト記30章に、この神殿税のことが記されていました。「あなたたちの命を贖うために主への献納物として支払う銀は半シェケルである。豊かな者がそれ以上支払うことも、貧しい人がそれ以下支払うことも禁じる。あなたがイスラエルの人々から集めた命の代償金は臨在の幕屋(後には神殿)のために用いる。それは、イスラエルの人々が主の御前で覚えられるために、あなたたちの命を贖うためである。」イエス様の十字架の死と復活から約40年後の紀元70年に、エルサレムの神殿はローマ軍により破壊されます。神殿税はその時まで続きました。その後は神殿がなくなったので、神殿税という形はなくなりました。主に旧約聖書の時代のユダヤ人たちは、動物のいけにえを献げることで、神様から罪の赦しをいただくと信じていましたが、一人半シェケルの神殿税を納めることによっても、命の贖い(罪の赦し)を受けることができると考えていたことが分ります。その時代はそうだったのでしょう。しかし、私たちの全ての罪が赦されるために、本当の決定的ないけにえとなり十字架に架かって下さった方は、イエス・キリストです。私たちは、この決定的な救い主イエス・キリストを自分の救い主と信じる信仰によって、父なる神様の前に自分の全ての罪の赦しを受け、永遠の命を受けます。

 「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と問われて、イエス様の一番弟子ペトロが答えます。ペトロは「納めます」と答えました。ペトロが家(ペトロの家か、イエス様の家かはっきりしませんが)に入ると、イエス様の方から言いだされます。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物を誰から取り立てるのか。自分の子どもたちからか、それともほかの人々からか。」ペトロが当時の習慣に基づいて、「ほかの人々からです」と答えるとイエス様は、「では、子どもたちは納めなくてよいわけだ。」当時の王様や皇帝は、税金や貢ぎ物を、自分の子どもたちからは取り立てず、それ以外の国民から取り立てたのでしょう。王や皇帝の子どもたちは特権階級として税金や貢ぎ物を納める義務を免除されていたのでしょう。これは庶民から見ると不公平な気がしますが、しかし現実にそうでありました。イエス様は、この原則がある意味で神の国でも当てはまるとおっしゃいます。神殿税は、神様に納める税金です。そしてイエス様は神の子であられます。神の子であるイエス様は、敢えて言えば神殿税を受ける側であって、神殿税を納める側ではないと考えられます。

 その意味で、「イエス様は神殿税を納める義務のない方」です。「子どもたちは納めなくてよいわけだ」を直訳すると、「子どもたちには納める義務がない」、「子どもたちは自由だ」となります。ペトロもイエス様の弟子であり、神の家族ですから、神殿税を納める義務がない者です。でもイエス様は「納める義務がないから私(私たち)は納めない」とはおっしゃらないのです。イエス様は、「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう」とおっしゃいます。人々への愛の配慮です。そしてご自分もペトロも、神殿税を納めるのです。漁師だったペトロに言われます。「湖(ガリラヤ湖)に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って、口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、私とあなた方の分として納めなさい。」周囲の人々と同じ立場に立って、共に歩むために、イエス様は神の子としてのご自分の特権をあえて行使せず、本来ご自分が治める義務がない神殿税をあえて納めるとおっしゃるのです。

 イエス様は「子どもたちには納める義務がない」、「子どもたちは自由だ」と言われました。そこでテーマは「自由」だと分かります。「本当の自由とは何か」、がテーマです。この東久留米市には、ご存じの通り、「自由学園」という学校があり、東久留米教会にも関係者が何名もおられます。自由学園の自由は、ヨハネによる福音書8章32節のイエス様の御言葉「真理はあなたたちを自由にする」からとられていると聞きます。真理はイエス・キリストのこととも言えますので、「真理はあなたたちを自由にする」を言い換えて、「イエス・キリストはあなたたちを自由にする」と言うことができます。自由の反対は、奴隷であるということです。私たちはイエス様を知る前は、奴隷でした。特に罪の奴隷です。悪魔の誘惑に負けて罪を犯す日々を送っていました。私たちは罪の奴隷、律法の奴隷、悪魔の奴隷、死の奴隷だったのです。イエス様は十字架で私たち皆の罪を全て背負い、三日目に復活なさることで、私たちを罪の奴隷、悪魔の奴隷、死の奴隷である状態から解放し自由にし、救って下さいました。私たちはイエス様によって罪に勝利し、悪魔に勝利し、死に勝利したのです。

 イエス・キリストこそ、完全に自由な方です。完全に自由な方であるとは、完全な愛の方だということです。イエス様は、最高の祝福に満ちた天国で、神の子の栄光を一身に受けておられました。その天国の最高の喜びを進んで捨てて、悪魔と罪と死の支配するこの非常に危険な地上に、最も無防備な赤ちゃんとして生まれて下さいました。非常に貧しいヨセフとマリアの夫婦の子どもとなって下さいました。クリスマスの出来事です。父なる神様のご意志に、ご自分の全く自由な意志によって完全に従い、大工ヨセフと妻マリアの子どもになられました。これがイエス様の自由であり愛です。神の子ですから天国の栄光の場におられてよいのに、それを敢えて捨てて、大工の息子として肉体労働も行いながら、欠点もある人間ヨセフの言いつけに「はい」と従いながら、真に謙遜に育たれました。

 そしてイエス様は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられました。洗礼は、私たち罪ある者が、神様に罪を赦していただくために受けるものです。イエス様は神の子で、罪が全然ない方なので、洗礼を受ける必要がないのです。ところがそのイエス様が、進んで洗礼者ヨハネ(立派な人だが、イエス様と比べれば明らかに罪ある者)から洗礼を受けられました。受ける義務がない方が、全く自由な意志で、ヨハネの前に謙遜にへりくだって洗礼を受けたのです。ヨハネがびっくりして言いました。「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、私の所へ来られたのですか。」イエス様が答えられます。「今は、止めないでほしい。正しいことを全て行うのは、我々にふさわしいことです。」罪が全然ないイエス様が洗礼を受けられたのですから、まして罪ある私たちは、拒否しないでへりくだって洗礼受けることが必要です。

 そしてイエス様は、自由意志によって進んで十字架にかかって下さいます。罪を犯した人が、罰として架けられるのが十字架です。ところが、罪が全然ないイエス様が、敢えて進んで十字架に架かって下さいました。私たち世界中の・全ての時代の人間たち(罪人(つみびと))の全部の罪の責任を身代わりに背負うためです。私たち罪人(つみびと)への愛のために、天国からあえて下って来られた神の子が、さらにどん底のどん底まで下って、十字架に架けられて下さいました。自由意志によってです。新約聖書のフィリピの信徒への手紙2章6節以下の御言葉が思い出されます。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」

 ここに至って私たちは、自由とは勝手気ままということではなく、その正反対で、自由とはまさに他者への愛のことだと悟るのです。敢えて言えば、自由(勝手気まま)を喜んで捨てるところに、真の自由があるのです。イエス様こそ完全に自由な方であり、完全な愛の方です。このイエス様を見上げて、イエス様に従って生き始める時、私たちも真の意味で自由な者にされます。自分にこだわることをやめて、神様と隣人に自由にお仕えするようになるのです。喜んで全ての人の僕(しもべ)になり、喜んで自分の責任を果たすようになるのです。イエス様は、このように完全に自由な方だからこそ、神殿税を納める義務がなかったのに、進んで神殿税を納められました。ペトロをも、「同じ生き方をしなさい」と招かれたのです。

 救い主イエス様を宣べ伝えた最大の伝道者と言えるパウロも、伝道に当たって同じ姿勢を貫きました。パウロはそれをコリントの信徒への手紙(一)8章で書いています。新約310ページの下段の14節。「~主(イエス様)は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。」これは今で言えば、牧師が教会から謝儀をいただいていることを指します。でもパウロは言うのです。「しかし、私はこの権利を何一つ利用したことはありません。」18節「では、私の報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝える私が当然持っている権利を用いないということです。」彼は自発的な意思で、教会からの謝儀を受ける当然の権利を放棄すると言っています。自分で稼いで伝道するのです。これがパウロの心意気です。見上げた信仰です。これがパウロの自由です。

 パウロはさらに人々に伝道する時の自分の方針を宣べます。19節以下「私は、誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷(僕・しもべ)になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、私自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、私は神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法(=愛)に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対して、すべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、私はどんなことでもします。それは、私が福音に共にあずかる者となるためです。」

 パウロは、イエス・キリストを宣べ伝える時、上から目線で伝えることを避けました。そうではなく、許される限り相手の立場に合わせようとしたのです。但し、罪を犯すことは常に拒否しました。できるだけ相手の文化に合わせ、相手がイエス様を受け入れやすくなるように最大限努力しました。相手に奉仕する姿勢に徹した。そして何とかして自分と民族や考えや性格の違う一人一人に、イエス様を救い主と信じて、永遠の命を受けてほしかったのです。イエス様が、私たち罪人(つみびと)のために進んで十字架に架かり、私たちに仕えて下さったのと同じように、パウロは自由な意志、自発的な意志で相手に仕え、相手をイエス様と同じ愛で愛しながら、イエス様を宣べ伝えました。何とかして一人でも多くの人にイエス様を信じて、永遠の命に入ってほしかったからです。私たちもパウロと同じ姿勢で伝道するように、イエス様は願っておられるでしょう。イエス様は最も自由な愛の方、パウロも自由な愛の人なのです。クリスチャン一人一人も、イエス様の十字架によって罪を赦された者、神の子とされ聖霊を受けた者として、真の自由に生きる存在です。

 どうしても思い出すのは、宗教改革者マルティン・ルターが書いた『キリスト者の自由』という小さめの本です。ここまで述べて来たことをルターは、2つの文で見事に言い切りました。「キリスト者は、すべての者の上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。キリスト者は、すべての者に奉仕する僕(奴隷)であって、何人にも従属する。」イエス様ご自身が、このような方です。そのイエス様に従うキリスト者(クリスチャン)一人一人も、このように自発的な愛に生きる者です。「キリスト者、すべての者の上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。」「キリスト者は、すべてのものに奉仕する僕(奴隷)であって、何人にも従属する。」この2つの矛盾することが、その人の中で同時に実現しているのがキリスト者(クリスチャン)なのです。

 本日の説教題を「隣人に深く心を配るキリスト」と致しました。イエス様はそれを自発的な愛をもってなさいます。隣人の真の益になるように、いつも配慮しておられます。隣人がつまずかないように。言い換えると、隣人が神様に従う道からそれないようにするために、ご自分は当然の権利をも自発的に捨てて、喜んで忍耐する、隣人を愛するからです。最後に共に天国で喜びたいからです。このような生き方は、自己中心的な私たちには簡単ではないかもしれません。しかし神様の清き聖霊に満たされる時に、一歩ずつ可能になります。成熟したキリスト者は、このような生き方を目指します。私たちも、強制されてではなく、喜んで神様を愛し、自分を正しく愛し、喜んで隣人を愛するこのように自由(自発的)な、イエス様に従う道を、共に喜んで進んで参りたいのです。アーメン。

(祈り)聖名を讃美致します。東京と日本全体でコロナ感染者が増えています。神様が私たちを憐れんで、ウイルスを無力化し感染拡大をストップさせて下さい。世界が助け合って、このピンチを乗り越えることができますように。有効なワクチン、治療薬を早く与えて下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。教会学校の子どもたちの信仰を、神様ぜひ守っていて下さい。東久留米教会がこれからも主イエス・キリストを宣べ伝え、神様を礼拝し、イエス様に従う歩みを世の終わりまで続けることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。