日本キリスト教団 東久留米教会

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2020-11-21 22:44:36(土)
「人は神に似せて造られた」  2020年11月22日(日)礼拝説教
礼拝順序: 招詞 ローマ12:12、頌栄85(2回)、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・224、聖書 創世記1:24~2:4(旧約2ページ)、祈祷、説教「人は神に似せて造られた」、祈祷、讃美歌21・493、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(創世記1:24~2:4) 神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別れた。これが天地創造の由来である。

(説教) 「はじめて聞く人にわかる聖書の話」礼拝の第35回を、本日、神様にお献げできます恵みを、心より感謝致します。本日は聖書の創世記の中で、神様がこの世界を創造なさり(お造りになった)、そして人間をお造りになった場面を与えられています。今日は読みませんでしたが、創世記1章1~3節、つまり聖書全体の冒頭にはこう書かれています。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。」これが天地創造の第一です。第一日目は日曜日です。今日が日曜日ですから、今日こそ神様が「光あれ」と言われて光ができた日です。今日は「光の日」です。神様は二日目に大空を造られ、大空の上と下に水を分けられ、これを見て「良しとされ」ました。神様は第三日目に、大空の下を地と海に分けられ、地に草を芽生えさせ、種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせ、これを見て「良しとされました。」神様は第四日目に太陽と月を造られ、これを見て「良しとされ」ました。神様は第五日目に、水に群がる生き物(魚でしょう)や翼ある鳥をそれぞれにお造りになり、これを見て「良しとされ」、祝福して言われました。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」ここまで読むと、神様がこの地球、宇宙、植物や魚、鳥などの生き物を、順序をよく考えながら喜んでリズミカルに造ってゆかれるプロセスが描かれていると感じます。
 
 そして六日目です。神様はまず、それぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神様はこれらの動物を見て、良しとされました。そこまでを終えて、神様は満を持して、いよいよ一番大切な仕事に取りかかられます。「人間の創造」です。26節「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地を這うもの全てを支配させよう。』神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」「よーし、さあいよいよ人間を造るぞ」と神様が意気込んでおられます。人間の創造は、「創造の冠」、「創造の頂点」、「創造のクライマックス」です。    

 神様は「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と言われます。神様はお一人なのになぜ「我々」と複数形で書かれているのか、昔から不思議に思われてきました。私たち人間も、大事なことを決める時に「自分の中で、自分の心と相談する」ことがあると思います。これはきっと、神様がご自分の中で、ご自分の心と相談され、対話され、よく考えられたことを表すようです。神様がご自分の中でよくよく熟慮して、愛を込めて人間を造られたことを表すと思われます。そしてこのことは、神様が孤独な神ではなく、交わりを大事になさる神様であることを示すようです。旧約聖書でははっきり示されませんが、新約聖書になると私たちの神様(唯一の真の神様)は「父・子・聖霊なる三位一体の神様」であることが明らかになります。「父なる神様、子なる神キリスト、聖霊なる神」、この三つで一人の(キリスト教用語を用いて恐縮ですが)「三位一体の神様」です。このことは神様ご自身の内部で、深い密接な対話、交わり交流があることを意味します。神様内部で深いコミュ二ケーションがあるのです。神様は交わりとコミュニケーションの神様なのです。「我々」が「父なる神、子なる神キリスト、聖霊なる神」を指すと述べる人は、昔からおられるようですが、結果的にはその通りと言ってよいのではないかと思います。

 「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」私たち人間は、神様にかたどり、神様に似せて造られたのです。これを「神の似姿」と言います。そこが他の動物と決定的に違っています。もちろん他の動物の命もとても大切です。他の動物を簡単に殺してよいことは、もちろん全くありません。でも人間の命は、特に大切と言えます。それは神様に似せて造られたからです。そこに他の動物にはない深い尊厳があります。神様には最も高い尊厳があります。私たち人間の尊厳は、神様の尊厳には及びませんが、でも確かに全ての人一人一人に尊厳があります。心や体にいわゆる障がいがあっても、尊厳が減ることはありません。女性にも男性にも尊厳があります。赤ちゃんにも天に召される直前の人にも尊厳があります。黄色人種にも黒人種にも白人種にも尊厳があります。数年前に、神奈川県の津久井やまゆり園で多くの障碍ある方々が殺され、傷つけられました。そのようなことがあってはならないのは、全ての人に神様に似せて造られた尊厳があるからです。この人間の尊厳を「万物の霊長」という言葉で表現することもありますね。今の時代はセクハラやパワハラ、いじめを減らそう、なくそうとしている時代です。セクハラ、パワハラ、いじめが罪であるのは、これらが神様に似せて造られた人間の尊厳を踏みにじる行為だからです。関東大震災の朝鮮人虐殺は差別の罪。神様は私たち一人一人を尊厳ある者として造られ、私たち一人一人の存在を喜んでおられます。そう、喜んでおられます。

 尊厳は、私たちの名前に集中的に現れています。私たち一人一人の名前は人格そのもの、その人の尊厳そのものです。私は毎週一回金曜日に保育園の礼拝に伺っていますが、子どもたち一人一人の名前をできるだけ覚えようと心がけているつもりですが、なかなか完全に行きません。でも心がけは大切と思い、毎週努力します。1979年でしたか、国際児童年という年があってゴダイゴという歌のグループが「Every Child Has a Beautiful Name」(一人一人の子どもが美しい名前を持っている)という歌を作り、NHKでよく流していました。子どもも大人も、一人一人の名前に尊厳があります。

 では、神様と私たちは、どこが似ているのでしょうか。1つは、言葉を持っていることでしょう。神様は言葉を語られます。たとえば「光あれ」と言われました。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」との言葉も語られました。私たち人間も言葉でコミュニケーションをとります。言葉で色々な複雑なことを表現し、互いに意志を伝え合うのです。鳥や動物にも原始的な言葉はあるようです。鳥や動物は鳴いたり声を出すことで感情や意志を表現しているようです。しかし人間に比べると彼らの言葉は、極めて単純で、複雑なメッセージを伝えることはできないようです。言葉で多くの複雑なコミュニケーションを行う。これが人間が神様に似ている点の1つです。

 もう1つは、愛することを知っていることではないでしょうか。神様は、私たちを愛を込めて造って下さいました。私たち一人一人は、神様の貴重な作品です。私たち人間も、神様を愛し、家族や友人を愛することを知っています。残念ながら私たち人間は罪に落ち込んでいるので、私たちの愛にも自己中心の罪がつきまとっており、私たちの愛は不完全ですが、でも愛することをある程度は知っています。小さき者を慈しむ愛の心を持っています。愛することは、重要なコミュニケーションです。

 言葉といい、愛することといい、これらはコミュニケーションということと深く関わっています。神様と私たち人間が似ている中心は、コミュニケーションする存在、交わりを大切にする存在ということだと思うのです。先ほど申しましたように、神様ご自身の内部での深いコミュニケーションがあります。神様ご自身は完全な方でご自分で完全に充足しておられますから、淋しいということはありません。淋しいことはないのですが、あえて動物や人間、特に人間を造って愛する相手、コミュニケーションするパートナーをお造りになりました。動物や人間、特に人間を愛しておられるからです。

 私たち人間は、神様に造られ、神様に愛されている存在です。そして神様に名前を呼びかけられている一人一人です。聖書ではこの後、人間たちは神様の戒めに背き、罪を犯し、神様から離れます。神様はその私たち人間に、神様のもとに帰って来るように今日も呼びかけておられます。神様は私たち人間との交流、コミュニケーションを喜んで下さるのです。そうです。神様は私たち人間を、愛する相手、コミュニケーションするパートナーとして造って下さいました。互いに信頼し合うパートナーとして造って下さいました。残念ながら神様と私たち人間の間の信頼関係を壊す私たち人間の罪があるのですが、しかし神様はイエス・キリストを救い主としてこの世界に送り、私たち人間の全ての罪をイエス・キリストに背負わせ、私たちの罪が赦される道を開いて下さいました。神様と私たちの信頼関係、よきコミュニケーション、よき交流を回復するためです。私たちは神様とどのようにしてコミュニケーションするのでしょうか。それはお祈りによってです。私たちは祈ることによって、父なる神様とコミュニケーションすることができるのです。そして日曜日のこの礼拝こそが、神様と私たち人間の間の最大のよきコミュニケーション、よき交流の場です。ここで私たちは、神の言葉である聖書の朗読や説教、今は行えていませんが聖餐式のパンとぶどう液を食べ飲むことで、神様の愛のメッセージを受け取ります。そして感謝の祈りや献金によって、神様に感謝の応答を献げるのです。神様は私たちの応答を喜んで下さるのです。

 私たち人間も、ほかの人に呼びかけて応答がなければ、がっかりします。呼びかけと応答が両方あって、初めてコミュニケーションはちゃんと成立します。神様からの呼びかけ、ラブコールは、私たち人間が応答しないと空振りになり、神様の片思いに終わってしまいます。そうならないために、私たち人間が、神様の一生懸命の呼びかけに気づいて、これを無視しないで応答することが、とても大切です。毎日応答して神様にお祈りして神様とコミュニケーションを持ち、日曜日は教会の礼拝に出席する(インターネットのライブ配信を通してでもOK)ことで、神様の呼びかけに応答して神様とコミュニケーションし、神様の愛の聖霊で心を満たされることが必要です。神様にお祈りし、神様を礼拝することで、私たちは孤独になることなく、神様との交わりの中で平安な心をいただきます。神様にお祈りすることが大事です。神様が私たちの祈りを待っていて下さいます。神様は私たちが神様に祈ることを喜んで下さいます。昔の有名なクリスチャンが、こう言いました。「真の神様は、私たち人間を神様に向けてお造りになったので、私たちは真の神様のもとに帰るまでは、真の平安を得ることができない。」そう言った彼自身も、人生の前半は真の神様から離れ、別の宗教にはまっていて、母親を非常に嘆かせていました。しかし遠回りの末、真に神様に立ち帰り、母親もほっとして喜んだのでした。神様から離れる放蕩息子をようやくやめて真に神様に立ち帰った彼の本音が、先ほどの言葉です。「真の神様は、私たち人間を神様に向けてお造りになったので、私たちは真の神様のもとに帰るまでは、真の平安を得ることができない。」逆に言うと、この真の神様のもとに立ち帰るならば、真の平安を受けることができるということです。

 そしてもう1つ、人間が神様に似ていることは、責任ということを知っているということだと思うのです。神様は全宇宙と地球を作り、動植物を作り、人間を造られましたが、造りっぱなしであとはほおっておかれているのではなく、今も宇宙と地球を支え、動植物に必要な食べ物や栄養を与えて動植物の命を支えておられます。そして私たち一人一人にも食べ物や必要なものを与えて、責任をもって支えていて下さいます。私たち人間もまた、自分に委ねられた責任を果たして生きることが大切であることを知っています。時々無責任の罪を犯すこともありますが、その罪を悔い改めて、責任を果たしていく気持ちを持っています。

 27節「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」ここに「創造された」と3回も繰り返されています。新約聖書は神様を「父なる神様」と呼びますから、神様はやはり男性のイメージなのだと思います。でも神様は男性と女性を創造されました。両者とも神様に似せて創造されたのです。女性と男性が協力し合って、この世界で生きていくためです。結婚はまさに女性と男性が協力する生活ですが、結婚しない場合でも、やはり男性と女性が協力して働いて、社会を形作ってゆきます。家庭でも地域でも、職場でも教会でもそれは同じと思います。

 ただ事柄がそう簡単でないのは、たとえば性同一性障がいということなどが存在することです。現代ではLGBTということもよく新聞等に出てきます。性同一性障がいとは、体の性と心の性が一致しないことと受け止めています。そのように生まれたことは、本人の責任ではないでしょう。誰でもそう生まれる可能性はあったと思われます。自分がそう生まれる可能性もあった。神様が人間をお造りになった一番最初は、そのような悩みもなかった、エデンの園の理想状態の時は、そのような悩みもなかった。全ては最初の人間が神様の御言葉に背き、神様に背いて罪を犯して、人類全体が病むようになった結果、このような悩みや問題が生じたのだと思います。性の問題は、人間の最も根源の問題で、おそらく人ぞれぞれ悩みがあると思われ、一刀両断に解決できないことがあると思います。そのように色々な悩みをもつ私たち一人一人を、救い主イエス・キリストが下から支えていて下さると、私は信じます。

 28節「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせ』
よ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」この御言葉を自分勝手に解釈すると、人間は勝手気ままに動物を支配してよいことになります。この御言葉は勝手気ままに支配せよということではなく、人間の欲望のために乱獲するのではなく、動植物を地球で共に生きる仲間(被造物)として守れ、ということでしょう(尤も、クマなどが町に出て来た場合は、射殺せざるを得ない現実もありますが)。人間はたとえば象牙を手に入れて高く売るために、像をたくさん殺してきました。これは自分勝手な振る舞いで神様の御心に背くことです。今はワシントン条約によって、絶滅の恐れのある動植物3万種の国際的な取引を制限することでこれらの動植物の保護を図ることが行われています。これは神様の御心に適う、人間の責任ある行動と思います。戦争をやめ、核兵器を廃絶する運動も、神様が愛情を込めて造られた地球環境を守るための、大切な働きと思っています。神様から私たち人間に託された責任は多いのです。このような責任を果たそうとする時、神様がそれこそ責任をもって応戦して下さると信じます。

 29節で、神様は動物と人間に食べ物を用意して下さいます。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」青草と木の実が食べ物です。ここでは肉食はありません。この後、人間が神に背くと世界にも狂いが生じ、それまではなかった弱肉強食の世界が来ます。それで肉食動物が草食動物を食べる悲惨な現実になったようです。ノアの洪水の後、神様は人間に肉食を許可されました。創世記9章3~4節で、神様がこう言われます。「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。私はこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。」

 今日の箇所に戻り31節。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」これまでも神様は、ご自分の創造の業が前進するたびにそれを見て「良し」として来られました。しかし第六の日に、神様に似せて人間をお造りになった後に「極めて良い」と感じられたのです。「極めて良い。」神様は深い満足と喜びを覚えられました。私たち一人一人の存在を神様は「極めて良い」と肯定しておられます。もちろん私たちは罪を犯せば悔い改めなければなりませんが、でも神様は私たち一人一人の存在を肯定し、喜んで下さっています。だからこそ、私たちを罪と死から救うために、神の独り子イエス・キリストを地上に送って下さいました。クリスマスの出来事です。 神様が私たちに命を造って下さった愛に深く感謝し、同じく神様に愛されて造られた私たちの身の周りの方々を愛して、今週一週間を歩みたいものです。アーメン。

(祈り)聖名を讃美致します。東京と日本全体で新型コロナウイルスの感染者がまだ減りません。神様が私たちを憐れんで、ウイルスを無力化し感染拡大をストップさせて下さい。世界が助け合って、このピンチを乗り越えることができますように。有効なワクチン、治療薬を早く与えて下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。教会学校の子どもたちの信仰を、神様ぜひ守っていて下さい。東久留米教会がこれからも主イエス・キリストを宣べ伝え、神様を礼拝し、イエス様に従う歩みを世の終わりまで継続させて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2020-11-14 22:14:30(土)
「からし種一粒ほどの信仰があれば」 2020年11月15日(日) 礼拝説教 
礼拝順序: 招詞 ローマ12:12、頌栄29、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・386、聖書 出エジプト記17:8~13(旧約122ページ)、マタイ福音書17:14~20(新約33ページ)、祈祷、説教「からし種一粒ほどの信仰があれば」、祈祷、讃美歌21・495、献金、頌栄27、祝祷。 

(出エジプト記17:8~13) アマレクがレフィディムに来てイスラエルと戦ったとき、モーセはヨシュアに言った。「男子を選び出し、アマレクとの戦いに出陣させるがよい。明日、わたしは神の杖を手に持って、丘の頂に立つ。」ヨシュアは、モーセの命じたとおりに実行し、アマレクと戦った。モーセとアロン、そしてフルは丘の頂に登った。モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。モーセの手が重くなったので、アロンとフルは石を持って来てモーセの下に置いた。モーセはその上に座り、アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。その手は、日の沈むまで、しっかりと上げられていた。ヨシュアは、アマレクとその民を剣にかけて打ち破った。

(マタイ福音書17:14~20) 一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、言った。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」 (†底本に節が欠落 異本訳)しかし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行かない。

(説教) 今日の直前の場面でイエス・キリストは、三人の弟子たちを連れて高い山の上に登られたのです。そこでイエス様の顔は太陽のように輝き、服は光のように純白に輝いたのです。これは天でのイエス様の神の子としての本来のお姿でした。そこで父なる神様の厳かなお声も響きました。「これ(イエス様)は私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け」と。高い山は天に近い、天国に近いと言えます。ですから一緒に登った三人の弟子たちは、恍惚とした聖なる喜びを味わったはずです。いつまでもここにいたいと思ったでしょう。でもまだその時ではありません。彼らが登ったのは夜だったかもしれませんが、一晩このような恍惚とした体験をして、朝には下界に戻らなければなりません。そこにあるのはまさに現実です。喜びもあるけれども、色々な苦労、苦難、トラブル、悲しみもある現実の世界です。

 14節「一同が群衆の所へ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、言った。『主よ、息子を憐れんで下さい。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れて行きましたが、治すことができませんでした。』」この人(父親でしょう)は、正確な語順では「主よ、憐れんで下さい、私の息子を」です。「主よ、憐れんで下さい」は、恐縮ですが聖書の元の言葉であるギリシア語では「キュリエ(主よ)、エレイソン(憐れんで下さい)」です。たぶん、グレゴリオ聖歌という古い讃美歌だと思うのですが「キリエ、エレイソン」という知る人と知る昔から有名な聖歌があります。東久留米教会の初代牧師の奥様・浅野眞壽美先生の愛相讃美歌だったと聞いたことがあります。今用いている『讃美歌21』ではない前の讃美歌の第二編に入っています。「キリエ、エレイソン」とまず3回、日本語版では「主よ、憐れみたまえ」とまず3回、続けて歌っていく聖歌・讃美歌です。私たち人間は罪人(つみびと)ですから、神様の憐れみがないと生きて行くことができません。神様の憐れみがあって初めて、生きることが許されます。

 人によっては、「神様に憐れんでいただくのは、抵抗がある」という方がおられると思います。クリスチャンでない方はそう思いやすいかもしれません。「憐れまれるなどは、いやだ。」しかし、ここは私たち人間が謙虚になる必要があります。まず第一に、私たちは神様によって造られた存在です。神様はお造りになった方です。まずここに根本的な大きな違いがあります。神様が造った方ですから、明らかに上です。私たちは神様に造られたものですから、明らかに下です。それなのに神様は私たち人間を愛して下さる。この神様の前にへりくだり、「神様、私たちを憐れんで下さい」と祈ることは、造られた私たちにふさわしいことです。さらに私たち人間は、神様に背いて罪を犯した一人一人だというのが聖書の教えです。私たち罪人(つみびと)は、罪のゆえに滅びても仕方がない存在です。しかし神様は救い主イエス・キリストをこの世界に送って下さりベツレヘムで人間の赤ちゃんとして誕生させ(クリスマスの出来事)、私たちを罪と滅びから救おうとして全力で働いておられます。この神様に向かって私たちが、「神様、主よ、私たちを憐れんで下さい」と申し上げることは、ますますふさわしいことです。「キリエ・エレイソン」「主よ、憐れんで下さい」と祈り歌うことは、真にふさわしいことです。神様の愛を助けなくしては、私たちは一秒も生きることができないのですから。

 今日の場面に戻ります。「息子を憐れんで下さい。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。」度々てんかんの発作が起きるのですね。てんかんと少し違うのかもしれませんが、私は息子が保育園の頃だったか、ベッドで突然ひきつけ(熱性けいれん)を起こして驚いたことがあります。舌を噛み切らないようにハンカチか何かを口に入れ、触ると熱が高かったので、すぐに自転車で石橋クリニックに運んだことがありました。その1回きりで収まったのですが、突然目をむいて激しくひきつけるとびっくりして、生きた心地がしません。あんなことが度々起こったら、親が非常に心配するのは当たり前と感じます。度々火の中や水の中に倒れるのであれば、いつも死と隣り合わせに生きていることになります。子どもの苦しむ姿を見て、父親が心を痛めないはずがありません。何とか治してほしいと思って、イエス様の弟子たちに助けを求めたのです。「お弟子たちの所に連れて来ましたが、治すことができませんでした。」

 イエス様はお答えになります。「何と信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまで私はあなた方と共にいられようか。いつまで、あなた方に我慢しなければならないのか。その子をここに、私の所に連れて来なさい。」ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちはイエス様と共に高い山に登っていましたから、残りの9人が、この父親の息子の癒やしのために祈ったに違いありません。しかし癒やすことができませんでした。「イエスがお叱りになると悪霊は出て行き、その時子どもは癒やされた。」ということは悪霊(悪魔、サタン)がこの子どもを支配していたということです。イエス様は男の子を悪霊の支配から解き放って下さいました。その結果、病も癒やされたのです。

 ここで1つ気づかされることはイエス様が「何と信仰のない、よこしまな時代なのか」と嘆いておられることです。以前用いていた口語訳聖書では、「ああ、何という不信仰な、曲った時代であろう」と訳されていました。「よこしまな時代、曲った時代。」これは今もそうではないでしょうか。いろいろなひどい犯罪が日本でも世界でも消えません。このような言い方は、既に旧約聖書の申命記32章5節にあります。その前の4節から読みます。「真実の神で偽りなく正しくてまっすぐな方。不正を好む曲がった世代はしかし、神を離れ、その傷ゆえに、もはや神の子らではない。」新約聖書の使徒言行録2章を見ると、ペンテコステ(聖霊降臨日)の朝にイエス様の一番弟子ペトロが、エルサレムの人々に力強く勧めています。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。~邪悪なこの時代から救われなさい。」ペトロも邪悪な時代だと言っています。罪を悔い改め、洗礼を受けてクリスチャンとなる方々が起こされることによって、邪悪な曲がった世が、一歩ずつ清められていくのではないかと思うのです。

 19節「弟子たちはひそかにイエスのところに来て、『なぜ、私たちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか』と言った。イエスは言われた。『信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって「ここから、あそこへ移れ」と命じても、その通りになる。あなた方にできないことは何もない。』」その後に十字架のようなマークがありますが、これはマタイによる福音書のある写本にはここに御言葉があることを指します。その御言葉はこの新共同訳聖書のマタイによる福音書の最後のページ(60ページの下段)にあります。「しかし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行かない。」イエス様は40日40夜断食して祈られました。使徒言行録にも断食して祈る人々の姿があります。それは真剣に祈りに集中することです。皆さんの中には断食して祈った方もあると思います。私は断食するとお腹が減ってしまって集中力がなくなるので、長時間断食して祈ることはできにくいほうです。でも祈りに真剣に集中することは大切です。

 「からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこへ移れ』と命じても、その通りになる。」私はイスラエル産のからし種を見たことがあります。ご覧になった方々がおられると思います。本当に砂粒のような小ささです。ちょっと油断するとなくしてしまいそうに極めて小さい種です。私たちの祈りに力があるのではないと思います。そうではなく、私たちの祈りを聴いて下さる神様の力が無限大であることが大事だと思うのです。私たちの神様はこの全宇宙をお造りになった方ですから、山を移すことも何でもおできになります。不可能はないのです。からし種一粒ほどの信仰、いえもっと小さな信仰で祈っても、神様が無限大の力をお持ちなので、私たちは(小さな子どもでも)安心して祈ることができるのです。マルティン・ルターの言葉と記憶していますが、私たちがイエス様のお名前によって地上で小さな声で祈っても、天国ではその祈りは「雷の音のよう大音響で響き渡っている」と聞いたことがあります。励まされる言葉です。

 「この種のもの(悪魔)は、祈りの断食によらなければ出て行かない。」今日の旧約聖書・出エジプト記17章8節以下は、祈りの大切さを示す箇所です。イスラエルがアマレクという民族と戦った時のことです。アマレクは悪魔のシンボルと思います。信仰生活は、ある面では悪魔との戦いです。モーセが後に後継者になる若いヨシュアに言います。「明日、私は神の杖を手に持って、丘の頂に立つ。」モーセが手を上げている間(祈っている間)、イスラエルは優勢になり、手を下すとアマレクが優勢になった。モーセの手が重くなったので、アロンとフルは石を持ってモーセの下に置いた。モーセはその上に座り、アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。その手は、日の沈むまで、しっかりと上げられていた。ヨシュアは、アマレクとその民を剣にかけて打ち破った。」これはモーセの祈りによって、そしてモーセを支えたアロンとフル(彼らもモーセを支えて祈ったと思う)によって、神の民は悪魔に打ち勝ったということです。今週から祈祷会が再開されますから、私たちも倦まずたゆまず祈って参りましょう。

 イエス様は今日のマタイ福音書で、男の子のてんかんの病を癒して下さいました。イエス様は福音書の中で色々な人々の病を癒しておられます。ここで、そもそもどうして人間に病があるのだろうと考えてみたいのです。世界中の人間の中には、今病気を治そうと治療励んでいる方々もおられ、今は特に病気はない方々もおられます。人間全体を見ると、病気というものが存在します。つまり人類が全体として病んでいるのです。全体として病気というものは、死の前段階と言えます。なぜ人間に死があるかというと、それは人間が悪魔の誘惑に負けて、神様に背く罪を犯したからというのが聖書の答えです。人間が罪を犯した結果、死ぬものとなった。だから死の前の段階としての病気も存在するようになったと言えます。これは例えば、「Aさんはこういう罪を犯したから、こういう病気になった」という単純な因果応報ではありません。そうではなく、人類全体が罪に落ち込んでおり、その結果人類全体に死が及んでいるので、人類全体に死の前の段階としての病気もあるということです。人類全体が病んでいるのです。

 イエス様は、私たち罪人(つみびと)の罪を赦すために、私たちの身代わりに十字架で死んで下さいました。イエス様の十字架の死のお陰で、私たちの罪は父なる神様の前に赦されました。イエス様は三日目に復活され、死を乗り越えた永遠の命を実現して下さいました。罪と死は乗り越えらえられたのです。ということはイエス様は、死の前の段階にある病気をも乗り越えて下さった、病気をも私たちのために担って下さったのです。イエス様の十字架を予告する旧約聖書の有名な箇所、イザヤ書53章の3~4節にこうあります。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。~彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであった。」口語訳聖書ではこうです。「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。~まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみを担った。」イエス様は十字架で、私たちの全ての罪を背負い、私たちの全ての病を背負い、私たちの罪の結果の死を背負いきって下さったのです。

 「傷ついた癒し人(びと)」という言葉があります。英語では wounded healerです。あるクリスチャンがこの題の本を書いています。『傷ついた癒し人。』その代表はもちろんイエス様です。ご自分が十字架の上で深く傷つくことによって、私たちの罪と死と病気を担い、私たちの癒し主・救い主となって下さいました。自分が傷ついた経験がないと、病気や傷ついた人の気持ちが分からず、本当の癒し手になることができません。人間のお医者さんの場合も同じでしょう。数年前に天に召されたクリスチャンドクター日野原重明先生は、医学生に「死なない程度の病気をしなさい」と言っておられたそうですね。病気を全くしたことがないでは、医者として患者さんの気持ちが分からない。それでは困るということでしょう。「傷ついた癒し人」、イエス様はまさにそのような方です。今日の場面は、イエス様の十字架より前です。ですがやはりイエス様はこの男の子を癒すに当たり、ご自分が十字架にかかって深く傷つくことを思いつつ、癒されたのではないかと思うのです。イエス様は確かに、私たち一人一人の病をも、私たちの下に立って背負っていて下さいます。私が神学校で授業を受けた熊澤義宣牧師という方は、だいぶ前に天に召されておられますが、いろいろな病を経験した方でした。それだけに体の病、心の病の方々にイエス様の福音を届けることに熱心に取り組まれました。最後の頃は寝たきりになられたようですが、熊澤先生のこんな証しを読んだことがあります。病院の中をストレッチャー(移動式ベッド?)に乗せられて移動している時に、十字架のイエス様がご自分を下から支えておられると実感した、と。十字架と復活のイエス様が、目には見えなくても私たちを今日も、これからもずっと、天国に着くまで、私たちを下から背負っていて下さいます。

 私たちの体は、神様が造って下さった大切な体ですから、私たちが健康維持に心がけることは大切です。私たちの地上での病は、神様に癒しを願って祈り、医者の治療を受けることで、よくなることも多いと思います。しかし残念ながら完全に治らない場合もあるでしょう。いずれの場合でも私たちは、死んだ後に、復活のイエス様と同じ復活の体を受けると新約聖書に書いてあります。その体は今の体と違いますが、でも体であることは確かです。決して天国で霊魂だけで生きるのではないのです。神様が新しい復活の体を与えて下さる。それによって私たちの救いが完成するのです。これが究極の癒しです。その体はもはや病気にならず、死ぬこともない体です。このような希望が約束されていることを感謝したいものです。

 イエス様は「からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、その通りになる」と言われました。これは信仰と祈りの大切さを述べた言葉でしょうが、新約聖書のコリントの信徒への手紙(一)13章には「山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ無に等しい」との御言葉があり、「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」ともあります。信仰は大事だけれども、イエス様が男の子を癒したのは愛の業と思います。信仰、祈りを大切にしつつ、最も大いなるものである愛であることを、よく心に留めて生きる。そのような今週一週間を生きたいと願います。アーメン(真実に)。

(祈り)聖名を讃美致します。東京と日本全体で新型コロナウイルスの感染者が増えています。神様が私たちをますます憐れんで、ウイルスを感染拡大をストップさせて下さい。世界が助け合って、このピンチを乗り越えることができますように。有効なワクチン、治療薬を早く与えて下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。エーゲ海周辺で大地震がありました。苦難の中にある方々に、神様の愛の助けをお与え下さい。教会学校の子どもたちの信仰を、神様ぜひ守っていて下さい。東久留米教会がこれからも主イエス・キリストを宣べ伝え、神様を礼拝し、イエス様に従う歩みを世の終わりまで継続するように助けて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2020-11-07 22:04:23(土)
「信仰の完成者イエスを見つめながら」 2020年11月8日(日) 礼拝説教
礼拝順序: 招詞 ローマ12:12、頌栄24、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・325、聖書 箴言3:11~12(旧約993ページ)、ヘブライ人への手紙12:1~13(新約416ページ)、祈祷、説教「信仰の完成者イエスを見つめながら」、祈祷、讃美歌21・465、献金、頌栄27、祝祷。 

(箴言3:11~12) わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。かわいい息子を懲らしめる父のように/主は愛する者を懲らしめられる。

(ヘブライ人への手紙12:1~13) こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。

(説教) 聖徒の日(召天者記念日)礼拝を、敬愛する皆様とご一緒に献げることを許され、心より感謝致します。例年は、礼拝後に、これまでに東久留米教会の会員として、あるいは関係者で天に召された方々のお写真を正面の白壁に映写しますが今年は行わず、天に召された方々の名簿を配布し、召された方々を偲ぶことに、役員会で決めましたので、そのように致します。本日の新約聖書であるヘブライ人への手紙12章1~2節を見ます。「こういうわけで、私たちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」ここは、以前用いていた口語訳聖書では、「こういうわけで、私たちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、私たちの参加すべき競争を、耐え忍んで走り抜こうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」「多くの証人に雲のように囲まれている」という表現が印象的だったと思います。

 この「雲」を新共同訳は「群れ」と訳しています。どちらに訳すこともできるのです。この「おびただしい証人の群れに囲まれている」「多くの証人に雲のように囲まれている」の証人は、この前の12章に挙げられている旧約聖書の時代の多くの信仰者たちです。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ラハブ、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、そして預言者たち(エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤ)と言えます。雲のようにおびただしい証人の群れです。そして私たちの手元の名簿も、イエス・キリストの多くの証人の群れです。事情により洗礼を受けていない方々も含まれていますが、この中の多くの方々が、イエス様を救い主と信じてクリスチャンとして生きた方々です。このように信仰に生きた人々の生き方に励まされて、私たちも「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」この手紙の著者は、信仰の迫害を受けている人々を励ますためにこの手紙を書いています。迫害に負けないで、信仰の道を捨てないで全うするように、激励しています。

 1節に「証人」という言葉が出て来ますが、クリスチャンは皆、イエス様が真の神の子、真の救い主であることの証人です。証人の証という漢字は、「正しく言う」と書きます。「正しく言う。」イエス様が真の神の子、真の救い主であると「正しく言う」人が証人、イエス・キリストの証人です。イエス様の証人であることは、命がけの時代もあります。昔だけでなく、今でも中国などでは家の教会が迫害されています。「証人」は原語のギリシア語で「マルトゥス」という言葉ですが、この「マルトゥス」は証人という意味と共に「殉教者」の意味ももつようになりました。イエス様の証人であることは、殉教者になることを意味する時代があったからです。

 1節には「重荷」という言葉も出て来ます。「重荷」が具体的に何を指すのかよく分かりませんが、信仰に生きることを妨げることを指すと思われます。私たちは自分に与えられている務めや責任を簡単に捨てることはできませんが、あまり重要でない付き合い等は、信仰のためには捨てることも必要です。イエス様に従うことが一番重要であり、永遠の命に入ることが一番重要ですから、それ以外のあまり重要でないことは捨てることも必要です。そのようにして真の意味で自由に生きることができます。「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」罪をかなぐり捨てることは、ぜひ必要です。確かに罪は、しつこく絡みついてきます。でもそれを思いきって「えいや」とかなぐり捨てることは必要です。罪をかなぐり捨てて、自分に定められている信仰の競争を忍耐強く走り抜く。この走りは、マラソンのように長い走りになることが多いです。完走することが必要です。途中でやめないことが大切です。忍耐強く走り抜く。このヘブライ人への手紙を誰が書いたのか、どこにも記されていないので分かりません。イエス様の使徒パウロが書いたとの説もあり、アポロという人ではないかという説もあり、決め手がありません。

 もしパウロであれば、パウロは聖書の他の箇所で似たことを言っています。使徒言行録20章22節では、エフェソの教会の長老たちに別れを告げて、こう言いました。「私は霊(聖霊)に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とが私を待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げて下さっています。しかし、自分の決められた道を走り通し、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」そしていよいよ地上の人生の終わりが近いときに、こう書きました。
「私自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。私は戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走り通し、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれを私に授けて下さるのです。しかし、私だけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、誰にでも授けて下さいます。」信仰の道を走り終える直前のパウロの気持ちが出ています。パウロはローマで殉教しましたが、もうすぐイエス様から「よくやった」とおほめの言葉を頂き、マラソンの優勝者が受けるような義の栄冠(マラソンの場合よりもっと素晴らしい義の栄冠)を受けるのだと希望にあふれていました。

 パウロは、最後まで信仰の道を走り抜きました。ヘブライ人への手紙の著者も、私たちに同じことを求めます。「走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」雲のような証人の群れに囲まれている私たちえですが、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ダビデといった旧約聖書の有名な信仰者たちがいるが、信仰の創始者にして完成者である最も偉大な信仰者はイエス様であるというのです。このイエス様をひたすら仰ぎ、見つめて信仰の道を進もうと私たちを励まします。このイエス様は、どんな道を歩まれたか。2節の途中から「このイエスは、ご自身の前にある喜びを捨て(天国にいる喜びを敢えて捨てて)、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」人の前で十字架に架けられるのは大きな恥辱です。肉体の痛みはもちろん、罪が全然ないのに、罪人(つみびと)として十字架につけられ、人々に馬鹿にされ、嘲られ、笑われる屈辱に耐えて下さった。私たちの罪を背負うためでした。そして三日目に復活され、弟子たちと共に地上で40日間過ごされた後、天に昇られ、父なる神様の玉座の右にお座りになったのです。その天の場所はエフェソの信徒への手紙4章10節の表現を借りれば、「もろもろの天よりも更に高」い場所なのです。復活されたイエス様は今もそこにおられ、そこから聖霊を注いで下さいます。そこで王の王、主の主として父なる神様の右の座におられます。3節「あなた方が、気力を失い疲れ果ててしまわないように、ご自分に対する罪人(つみびと)たちのこのような反抗を忍耐された方のことをよく考えなさい。」イエス様は十字架で、罪人(つみびと)たちの反抗をひたすら忍耐されたのです。だからあなた方も、迫害に負けて気力を失い疲れ果てて、信仰を捨てることのないように、忍耐し励まし合って進もうというのです。

 4節「あなた方はまだ罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。」この場合の罪も迫害を指すのではないかと思うのです。迫害に負けないようにと激励します。5節「また、子どもたちに対するようにあなた方に話されている次の勧告を忘れています。(と言って、本日の旧約聖書であり箴言3編を引用します。)『わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。』」確かにイエス様は、ヨハネの黙示録3章でも、「私は愛する者を皆、叱ったり鍛えたりする」と言っておられます。

 7節「あなた方は、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなた方を子として取り扱っておられます。いったい父から鍛えられない子があるでしょうか。もしs誰もが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなた方は庶子であって、実の子ではありません。」庶子という言葉は、実の子でないという意味でしょうが、現在では差別言葉になると思います。しかしここで著者が言いたいことは、神様が私たちを愛する実の子として取り扱っておられるということです。だから私たちを鍛えられるのだと。9節「更にまた、私たちには、鍛えてくれる肉の父(肉親の父)があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父(父なる神様)に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。」肉親の父親を尊敬するのなら、霊の父・神様を尊敬し、神様に従い、服従して生きるのが、人間の本来の生き方ではないかと私たちを諭します。

 10節「肉の父はしばらくの間、自分に思うままに鍛えてくれましたが、霊の父(神様)は私たちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的で私たちを鍛えられるのです。」私たちにとって真の意味でプラスになるために、私たちを清めて、イエス様に似た者とするために私たちを鍛錬して下さるというのです。11節「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」試練は、もちろんその時は嬉しくも喜ばしくもない、悲しく辛いものと思われる。しかし時間がたち、悲しかった心が次第に癒されてくると、じわじわと心の中に義と平和と慰めが広がり、人格が清められてイエス様に似た者とされてくるのだ、というのです。

 鍛錬は、試練と言い換えることもできます。新約聖書のコリントの信徒への手紙(一)10章13節には、次の御言葉がありますね。多くの人々が愛している御言葉です。「あなた方を襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなた方を耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます。」水泳の池江璃花子さんという若い選手が、「神様は耐えられない試練を与えない」と言ったと報道されていました。池江さんがクリスチャンかどうかは分かりません、違うように思いますが、ご自分でどこかで読んだか周りのどなたかが伝ええて下さったのか、この聖書の言葉を語っていました。非常に優秀な選手ですが、白血病という厳しい病となり、厳しい入院生活を送ったようですが、幸い回復に向かっているようで、水泳競技にも徐々に復帰しているようで、ほっとします。試練を通って、さらに人格も練り清められて復帰することを祈ります。「試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます。」もちろん神様が、です。今のコロナの中にあって、「試練と共に逃れる道」を、神様が用意して下さっているかなと思い巡らしてみると、確かにそのような面はあると感じます。礼拝も、それまではこの教会で用いていなかったインターネットによるライブ配信を行うようになりました。礼拝堂に来ることができない場合も、この手段で礼拝に参加できるようになったことは、神様が与えて下さった逃れる道の1つと思います。但し、パソコンやインターネットの環境を整えている方でないと、これを利用できない問題点はあります。

 日本のクリスチャンの歴史を見ると、江戸時代に入る前後、明治維新後、太平戦争中が迫害の厳しい時代でした。江戸時代はすっとキリスト教は禁止されていましたが明治維新の3年前に長崎市の大浦天主堂に、隠れていたキリシタンが姿を現しました。私は一昨年、高校の修学旅行以来35年ぶりに大浦天主堂を見学しましたが、そこが隠れていたキリシタンがフランス人の神父に名乗り出た場所、信徒発見の場所でした。この喜びの次に来たのは苦難でした。明治政府が江戸幕府と同じキリスト教禁止政策をとったからです。3394名のキリシタン(クリスチャン)が長崎の浦上で捕らえられ、全国22ヶ所に流罪になりました。彼らはこの流罪を「旅」と呼んで浦上を後にしたのですが、覚悟を決めた信者さんたちの表情は明るく、見送る人々を驚かせたと言います。今の島根県の津和野には153名が送られました。

 厳しい拷問で、心ならずも教えを捨てると言う人も出てしまいました。私はこの津和野に1989年3月に行きました。洗礼を受けた5ヶ月後です。広島の親戚の家を拠点に行きました。津和野は山あい風光明媚な所、古き良き日本という感じです。でもここでクリスチャンたちが信仰を捨てるよう説得され、非常に厳しい取り扱いを受けました。粗末な食事しか与えられない、三尺牢という非常に狭くて身動きできない牢に閉じ込められる、雪のひどい日に氷の張った池に投げ込まれる等です。私も津和野の資料館で、その牢を見たような記憶があります。多くの人が負ける中、高木仙右衛門という農民だけが4年間信仰を守り通しました。『浦上切支丹史』という本にこう記録されているそうです。「仙右衛門は無知蒙昧な野人で、見た所は如何にも臆病らしく、役人の前に出て答弁などできそうな男ではなかった。然るに今や天主(神様)の恩寵によって全然一変し、言語と云い、目つきと云い、超自然的何物かを帯びておる。」私の印象では聖霊に満たされていたのではないかと感じます。

 「彼は牢内にあって熱心に祈り、毎日身も心も天主(神様)に献げ、毎金曜日断食を行い、以て拷問に堪え得る力を(授かるように)懇願したものである。他の信徒はことごとく倒れ終っても、彼のみは大山の突立った如く、巍然として動かなかったのも怪しむに足りない。」ひたすら祈り続けていたのです。祈りが彼に堪える力を与えました。津和野の乙女峠という所に小さめの聖堂があったと記憶しています。野外に、イエス様の十字架の道行きのコースがあります。これはエルサレムにもあるそうですね。イエス様の十字架の道行きを追体験できる徒歩コースです。要所要所に説明の板があって、ここで十字架を担いだ、ここで倒れた、ここでキレネ人シモンが代わりに十字架を担いだ、ここがゴルゴタの丘でここで十字架につけられた」と書かれてあり、各々場所でイエス様の十字架への歩みを黙想しつつ歩き、信仰を深めるコースです。清瀬の複十字病院前の聖公会の清瀬聖母教会では礼拝堂の中にイエス様の十字架の道行きの絵画が要所要所にあって、同じことができると記憶しています。私も31年前に津和野でそのコースを歩き、イエス様の十字架を想い、この地で大きな試練を耐えた高木仙右衛門をはじめとするクリスチャンたちのことを想った次第です。仙右衛門さんは祈りによって神様から助けを受け、耐えました。
尊敬します。
 
 ヘブライ人への手紙、今日の最後の13節。「だから、萎えた手と弱くなった膝をまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。」様々な誘惑や困難はあるが、「信仰の創始者・完成者であるイエス様を見つめながら」、途中で信仰を捨てることなく、天国に入れていただく日まで、イエス様に従う道を歩み通すようにと、私たちを励ましているのです。アーメン(真実に)。

(祈り)聖名を讃美致します。東京と日本全体で新型コロナウイルスの感染者がまだ減りません。神様が私たちを憐れんで、ウイルスを無力化し感染拡大をストップさせて下さい。世界が助け合って、このピンチを乗り越えることができますように。 有効なワクチン、治療薬を早く与えて下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。エーゲ海周辺で大地震がありました。苦難の中にある方々に、神様の愛の助けをお与え下さい。教会学校の子どもたちの信仰を、神様ぜひ守っていて下さい。東久留米教会がこれからも主イエス・キリストを宣べ伝え、神様を礼拝し、イエス様に従う歩みを世の終わりまで継続させて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2020-10-31 22:37:37(土)
「永遠に変わらないキリスト」 2020年11月1日(日)礼拝説教
礼拝順序: 招詞 ローマ12:12、頌栄85(2回)、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・208、聖書 詩編118:5~9(旧約957ページ)、ヘブライ人への手紙13:1~16(新約418ページ)、祈祷、説教「永遠に変わらないキリスト」、祈祷、讃美歌21・451、献金、頌栄92、祝祷。 

(詩編118:5~9) 苦難のはざまから主を呼び求めると/主は答えてわたしを解き放たれた。主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう。主はわたしの味方、助けとなって/わたしを憎む者らを支配させてくださる。人間に頼らず、主を避けどころとしよう。君侯に頼らず、主を避けどころとしよう。

(ヘブライ人への手紙13:1~16)兄弟としていつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」

 あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした。わたしたちには一つの祭壇があります。幕屋に仕えている人たちは、それから食べ物を取って食べる権利がありません。なぜなら、罪を贖うための動物の血は、大祭司によって聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外で焼かれるからです。 それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです。だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。

(説教) 東久留米教会創立59周年記念礼拝を皆様と共に献げることを許され、心より感謝致します。初代牧師の浅野悦昭先生と奥様の浅野眞壽美先生がこの地で礼拝を開始されたのが1960年と聞いています。翌年の1961年11月4日に、池袋西教会を母教会として「日本基督教団東久留米伝道所」が設立され、その11月4日を教会創立記念日としました。会員4名と記録されています。

 本日の聖書のヘブライ人への手紙13章は、イエス・キリストの十字架の愛に応答するキリスト者の生き方を記しています。東久留米教会の方々も、教会創立以来、ここに書かれていることをも思いながら、礼拝と信仰の歩みをして来られたに、違いありません。1節「兄弟としていつも愛し合いなさい。」キリスト者は皆、信仰の家族、信仰の兄弟姉妹です。父なる神様が父、イエス様が長男、私たちはイエス様の妹や弟たちです。

 2節「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。」これは旧約聖書・創世記18章の出来事ですね。神の民イスラエルの先祖アブラハムが、暑い真昼に天幕の入口に座っていて目を上げると、三人の人がアブラハムに向かって立っていました。アブラハムは走り出て迎え、地にひれ伏して言いました。「お客様、よろしければ、どうか僕(アブラハム)のもとを通り過ぎないで下さい。水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさって下さい。何か召しあがりものを調えますので、疲れを癒してから、お出かけ下さい。」そう言って召し使いに、最高においしい子牛の料理などを急いで作らせ、三人の前に並べ給仕します。三人のうち二人は天使、もう一人は何と神様ご自身だったのです。アブラハムがこれほど丁重に三人をもてなしているところを見ると、アブラハムはピンと来て半ば気づいていたのではないかと感じます。「この三人の旅人はただ者ではない。天から来られた方々ではないか」と感づいたのではないかと思います。

 もてなしの精神を英語でホスピタリティーと言いますが、これは昔から教会が大切にして来た言葉です。ホスピタリティーという言葉からホテル、ユースホステルといった人をもてなす施設の名称が生まれたようです。新約聖書の「よいサマリア人のたとえ」でも旅人が追いはぎに襲われて瀕死の傷を負いますが、昔の旅はこのように危険が多かったと聞きます。修道院は、旅人を泊めてもてなし場でもあったそうです。私たちが日々出会う色々な方々、その中にはイエス・キリストが住んでおられることもあるのですね。特にクリスチャンの中にはイエス・キリストが、聖霊として生きて住んでおられます。マタイによる福音書25章40節と45節は、次のように言われました。「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。」「この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである。」貧しい方、病気の方、いわゆる障碍をもつ方、イエス様がそんな方の姿で私たちに出会って下さることは、多くあると思います。それに気づかないで、目の前の方を軽く扱ったり、冷たくあしらうことを私たちは何回もして来たかもしれないのです。しかし目の前の方が、実はイエス様かもしれないし、天使かもしれない。その気持ちをもって、この世的な力や美しさに欠けると考えて軽くあしらう罪を犯すことのないように、注意したいと思います。「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは気づかずに天使たちをもてなしました。」私たちも、このような経験ができるとよいですね。

 3節「自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。」これは、牢に入れられるような悪いことをしていないのに、無実の罪で牢に入れられている人、あるいはイエス・キリストを信じている信仰のために迫害され、牢に入れられている人を思いやりなさい、と言っているのかもしれません。と同時に、悪いことをして牢に入れられている人も、神様から見れば、何とかして罪を悔い改めて救われてほしい人々だとも思うのです。刑務所伝道を行っている牧師や神父がおられます。この教会が属する日本キリスト教団西東京教区の企画で、東久留米教会の数名の方々と私が府中刑務所を見学したことがあります。今の日本の刑務所は、人権に非常に配慮していますから食事は悪くないし、虐待ということもまずないようです。しかし独房には冷暖房がなかったです(北海道などは分かりません)。作業室にはあったような気もしますが。そして「悲しい」と思ったのは、独房の内部のドアにはノブがないことです。外からしか開けられない、中からは開けられないドア。ここに入れられることは悲しいですね。犯罪を犯した結果です。やはり刑務所に入るような悪いことはしない方がよいに決まっています(無実の場合は別)。

 日本キリスト教団にも刑務所伝道を行う牧師方(教誨師)がおられます。そのお一人・岸本光子牧師という方の証しを最近読みました(日本基督教団教誨師会発行『ひとやの友』第46号より)。大阪医療刑務所で奉仕されています。「神様がどのようにAさんと出会い、導き、天国に招いて下さったか証しをさせていただきたいと思います。Aさんは40歳代、末期がんのために医療刑務所に来られた方でした。Aさんは少年時代からお母さんと折り合いが悪く、家庭に居場所がなかったこともあって、暴力団に出入りし可愛がられるようになりました。私がAさんと出会った頃、ご自分の命の期限が近づいてきていることを感じ、お母さんに出紙を出されましたが、『そちらに行くお金がない』と面会を拒まれておりました。

 治療により回復し、罪を償って再び社会へという希望がなくなったAさんには、刑務所で過ごす時間は死を待つ時間でした。そんなAさんにとって教誨は大変貴重な時間でした。死んで終わりにならない『いのち』があると、聖書はAさんに迫ります。特に十字架の救いについては、満期に至らず償いの途中で命を終えるしかないAさんにとって、何としても知りたい、驚くべき恵み(アメイジング・グレイス、説教後に歌います)でした。刑期半ばで、罪を償い切る前に罪人として死んでいかざるを得ないことは、Aさんにとって大きな恐れであり、魂の痛みであったのです。

 強い組に属し、上の人間から目をかけられていたAさんは、今まで誰も何も恐れることはありませんでした。しかし、もはや自分のために一肌脱いでくれる人間はおらず、詫びを入れてくれる人間もいない。Aさんは、病が自分を悔い滅ぼしつつあるのを自覚しつつ、一人でそれに耐えていました。けれども聖書を読むうちに、親からも組からも見棄てられたように感じていた自分を、救う力のある方が『生きて働いておられる』ということを知るようになります。さらに、この自分の救いのために、主イエスが詫びを入れて身代わりとなり、十字架で死んでくださったことをAさんは知ります。~神の愛に触れて、Aさんは涙を流されました。やくざは普段、人に弱みを見せません。痛みに耐えるのが美学であるかのように振る舞う方が多い中、Aさんは見栄や虚勢を張ることを止め、神の愛に心を揺さぶられ、深く探られて、遂に神様に全面降伏したのです。Aさんは安心してクリスマスに受洗することを決められました。(受洗後)2月の面会日には、病状は重く会話もできないほどになっておられました。Aさんの手を握りながら「Aさん、何も怖いことはありません。天国の門で『お前は誰だ』と聞かれたら、『イエスの名によって洗礼を受けた者だ』と答えて下さい。必ず天の門は開きます』と言いました。翌日Aさんは天に召されました。管区や教派を超えて神様は大胆に働いて下さり、求めても得ることができなかった愛を溢れんばかりにAさんに与えて下さいました。刑務所には、『あなたを捨てて孤児とはしない』と言われる神様が生きて働いておられます。心から感謝致します。」まさに「きのうも今日も、また永遠に変わることのないイエス・キリスト」が目に見えなくても聖霊(清き霊)として働いておられるのですね。

 4節「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。」これは信仰の基本・モーセの十戒で、神様が既に明確に言われています。「姦淫してはならない。」姦淫は、配偶者以外の人と性関係をもつことです。相手の人も(未婚であっても)姦淫の罪を犯すことになります。日本では姦淫という言葉は死語になりつつあるのではないでしょうか。今、姦淫に一番近い日本語は不倫でしょう。神様とその聖書は姦淫・不倫をはっきり罪としています。姦淫・不倫を行ってはならないのです。万一行った場合は関係者に真心から謝罪し、神様の前に非常に深く悔い改める必要があります。

 5、6節「金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、『私は決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにしない』と言われました。だから、私たちは、はばからずに次のように言うことができます。『主は私の助け手、私は恐れない。人は私に何ができるだろう。』」「金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。」今非常に生活に困っている場合は、今の日本では住所がはっきりしていれば生活保護を申請できます。コロナで収入が非常に減って困っている方々もおられますから、コロナが何とか早く下火になるようにお祈り致します。まずまず必要が満たされているなら感謝し、質素に暮らすことを心がけたいと願います。神様の言葉「私は決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにしない」は、本日の旧約聖書である詩編118編6節の引用です。「主は私の味方、私は誰を恐れよう。人間が私に何をなし得よう。」どんな人間、権力者も私たちの地上の命を奪うことはできますが、イエス・キリストが私たちに与えて下さる永遠の命を奪うことは、どの人間にも悪魔にもできないのです。

 7~8節「あなた方に神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」私たちに神の言葉を語って下さった牧師の方々の生涯の終わりをしっかり見て、その信仰に見倣って、私どもも信仰の道を最後まで進む必要がございます。まずは東久留米教会初代牧師・浅野悦昭先生と眞壽美夫人でしょう。1996年に隠退され、静岡県伊東市に転居され、伊東教会の礼拝に出席されました。その後、浅野先生は西東京教区の成瀬が丘教会の要請を受けて毎月2回礼拝説教される時期が続きました。眞壽美先生は2008年に、浅野悦昭先生は2016年に天に召されました。ほとんどこの東久留米教会を建て上げるために献げた生涯だったと思うのです。

 神学校で浅野先生の同級生で、私がその学校に在学中に学長であった松永希久夫先生が私が東久留米教会に赴任させていただくに当たって仲介して下さったのですが、東久留米教会の修養会に計3回お招きしたと思います。その松永先生は2005年に天に召されました。そのご葬儀で伺った話だったように思いますが、入院して闘病しておられた時に、その病院で見知らぬ男性が亡くなって、その娘さんが非常に嘆き悲しんでおられるのが聞こえて松永先生は、その娘さんのためにベッドの上でお祈りなさったということです。祈られた方は、ご自分のために神様に祈ってくれる人がいることに気づいていないでしょうが、松永先生も人生の終わりの段階になっても(牧師ですから当然とも言えますが)見知らぬ方のためにも病床で祈っておられたことを知り、印象に残りました。皆様の中にも松永先生が修養会で語られたことを今も大切に覚えておられる方々がおられることを聞いております。

 東久留米教会ではおそらく30年ほど前に、静岡草深教会の辻宣道牧師を修養会に招かれたと聞いていますが、私は神学生だった1993年の夏に、その教会に夏期伝道実習で派遣されました。それは辻先生に癌が発見され、闘病に入られた時でした。私はその一夏、癌と闘う牧師の姿を見せていただきました。そして昨年天に召された尾崎風伍牧師をも思います。私は神学生時代の4年間、尾崎風伍牧師と奥様の尾崎マリ子牧師が奉仕しておられた久我山教会で毎週の祈祷会を守らせていただきました。その尾崎風伍牧師は昨年秋に天に召され、渋谷の教会でご葬儀が行われました。私は3年ほど前に妻と、神奈川県海老名市のホームにおられた尾崎風伍牧師を訪問し、だいぶご不自由になったお体で、しかし笑顔で迎えて下さいました。同じ日に同じ海老名市の別のホームにおられた奥様の尾崎マリ子牧師をも訪問致しました。マリ子先生はご健在です。そして2年ほど前には、知り合いの牧師の方に誘われて熱海市の病院に入院しておられた尾崎風伍牧師をお見舞い致しました。50歳を過ぎて牧師になられ、久我山教会の設立と成長のためにマリ子先生と共に祈り、尽くされ、イエス・キリストにご奉仕されました。「あなた方に神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの信仰の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。」私も、先輩の牧師の方々、先輩の信徒の方々の信仰の生き方、その後姿を拝見しつつ、その信仰に見倣って、地上の人生の最後まで信仰の歩みを貫かせていただきたいと願っています。「きのうも、今日も、また永遠に変わることのないイエス・キリスト」が、今日もこれからもずっと私たちと共におられて、私たちを支え守り、天国に至るまで私たちを助け導いて下さると確信するものです。

 12節の途中から。「イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外(エルサレムの外)で苦難(十字架)に遭われたのです。だから、私たちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て(ユダヤ人の信仰=ユダヤ教の外に出て)、そのみもと(イエス様のみもと)に赴こうではありませんか。私たちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都(天国)を探し求めているのです。」この地上の人生を責任を持って精一杯生きることは、もちろん重要です。その先に神様が永遠の命、天国を用意しておられます。そこに入るためには、自分の罪を悔い改めてイエス・キリストを救い主と信じることが必要です。「イエス・キリストはきのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」福音書に出てくるイエス様の清さと愛に満ちた心は、今も全く同じです。15節「だから、イエスを通して讃美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。」「イエスを通して」が大事です。このイエス・キリストのもとに来るように、そして永遠の命を受けなさい。これがきのうも今日も、将来も変わらぬイエス様の招きの言葉なのです。この招きに喜んでお応えして参りましょう。

(祈り)聖名を讃美致します。東京と日本全体で新型コロナウイルスの感染者がまだ減りません。神様が私たちを憐れんで、ウイルスを無力化し感染拡大をストップさせて下さい。世界が助け合って、このピンチを乗り越えることができますように。有効なワクチン、治療薬を早く与えて下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。エーゲ海周辺で大地震がありました。苦難の中にある方々に、神様の愛の助けをお与え下さい。教会学校の子どもたちの信仰を、神様ぜひ守っていて下さい。東久留米教会がこれからも主イエス・キリストを宣べ伝え、神様を礼拝し、イエス様に従う歩みを世の終わりまで継続できますように、聖霊を注いでお助け下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2020-10-25 1:45:47()
「神の愛の切り札キリスト」 2020年10月25日(日)礼拝説教 
礼拝順序: 招詞 ペトロの手紙(二)3:9、頌栄29、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・16、聖書 ルカ福音書20:9~19(新約149ページ)、祈祷、説教「神の愛の切り札キリスト」、祈祷、讃美歌21・377、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(ルカ福音書20:9~19) イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。

(説教) 「初めて聞く人にわかる聖書の話」礼拝(第34回)においで下さり、感謝申し上げます。神様から本日与えられている聖書は、ルカ福音書20章9節以下、小見出し「ぶどう園と農夫のたとえ」の箇所です。これはイエス・キリストが、あるメッセージを込めて語ったたとえ話です。9節「イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。『ある人(父なる神様)がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して、長い旅に出た。』」ぶどう園は地球、この世界のシンボルと言えます。神様は緑豊か、多くの動植物が暮らすこの地球、世界を作って下さいました。この美しい地球を私たち人間は、戦争などによって破壊しています。このような罪をやめる必要があります。主人である神様は、今は私たち人間にこの世界を管理する全ての責任を任せて、長い旅に出たように見えますが、必ず帰って来られます。そして私たちが神様から委ねられた責任をきちんと果たしたかどうか、確認なさる時が必ず来ます。脅すつもりは全くないのですが、

 私たち一人一人の人生にも総決算の日が来ますし、この世界が終わって神の国が完成する日(人間全員の総決算の日)も来ます。それを知り、それを前提として備えて生きることこそ、賢い生き方だと思うのです。ぶどう園の主人は、ぶどう園を農夫たちに「貸して」旅に出たとあります。私たちの命も健康も、少しの財産や持ち物も、実は自分の所有ではなく、神様にお借りしているものです。主人は私たちではなく、神様です。いずれ命も含めてすべてお返しします。「神様からお預かりした命や才能を、神様に喜んでいただけるように、このように用いました」とよい報告ができるように、日々の生き方を選び取ってゆきたいものです。先週、前の天皇夫人・美智子さんの最近の様子についての報道を読みました。高齢化に伴いお体の不調のところもあり、得意のピアノが弾きにくくなったとありました。それをご本人が「できなくなったことはお返ししていること」と言われたそうで、ある人がそれを「素敵な年の取り方だ」と述べていました。「できなくなったことは、お返ししていること。」どなたにお返ししているかは明瞭に言われなかったようですが、美智子さんは内心ではカトリックの信仰がある方でしょうから、「神様にお返ししている」のが本音だろうと、私は感じました。

 10節「収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。」実にひどい話です。僕たちとは神様の僕たち、預言者たち(神様のメッセージを忠実に語る人たち)でしょう。聖書では、まずイスラエルの民が神の民として選ばれ、そこから全世界に神様の救いが広がります。神様に愛され、神様に感謝し喜んで従うことが期待されたイスラエルの民が、しかし神様の意志に従わないという罪深いことが起こりました。神様の預言者エリヤは、権力を持つ王の妻イゼベルに迫害され、命をつけ狙われました。幸い殺されませんでした。預言者イザヤは殉教の死を遂げたという伝説があります。最後の預言者と言える洗礼者ヨハネは、ガリラヤの領主へロデ・アンティパスによって命を奪われました。罪を告発する神の言葉を嫌った人々が、預言者たちを殺そうとしたり、殺したのです。
11節「そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。」袋だたきにした上に、侮辱したのですから、一回目よりエスカレートしています。「さらに三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。」今度ははっきり傷を負わせたのです。

 しかしぶどう園の主人(神様)は、まだ怒りません。実に忍耐強いのです。ほかの主人なら一人目の僕が袋だたきにされて追い返された時点で、復讐していた可能性があります。しかし主人は、三人の大切な僕がほとんど虐待されて追い返されたのに、まだ農夫たちへの信頼を捨てないのです。神様は、こんなにも忍耐強く、かなり手ひどく裏切られても、なお農夫たちを信頼しようとなさるのです。神様は、罪をもつ私たちがなかなか神様のご意志に従わなくても、なおできる限り信頼しようと、実に忍耐強く心がけて下さるのです。実にありがたいことです。私たちは、神様の信頼と期待に、精一杯応答して参りたいのです。

 13節「そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。私の愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』」これは普通は避けることです。これまでの3回の僕派遣で、農夫たちが邪悪なことははっきりしています。あんな邪悪な農夫たちの所へ、最愛の息子を送ることは危険きわまりないことです。袋だたきにされ、暴力を振るわれる可能性が高い。殺される恐れもある。誰でもそう思います。にもかかわらず、ぶどう園の主人は最愛の一人息子を、最も危険な農夫たちの元に送るのです。これが父なる神様が、私たちのために行って下さったことですね。最も愛する独り子イエス・キリストを、悪魔が働くこの世界、私たち罪人(つみびと)が住むこの世界に送って下さった、しかも無防備な赤ちゃんとして送って下さった。最悪の危険を冒してです。三人の僕を送ったが、三人ともひどい目に遭わされて帰された。主人(神様)は最後の切り札として最愛の一人息子を送るのです。

 2002年~2003年に中東でイラク戦争があり、その後のイラクは武装勢力が支配してテロの連続でした。そこに日本人の3人の青年たちが行って、人質にされ幸い解放されました。私は今それを責めるつもりはありませんが、あの時、「何であんなに危険と分かっているイラクに行ったのか。安易すぎる」という激しいバッシングが巻き起こりましたね。あんな最悪の危険地帯になぜ行くのか。でも父なる神様も同じことをして下さったと思うのです。「私の愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。」私たちは言いたくなります。「神様、それは絶対にやめて下さい。危険すぎます。行けば必ず殺されます。あの農夫たちは、あなたの愛する息子だからと言って尊重することなど一切しない者たち、人を人とも思わない連中です。絶対に行かせないで下さい。」神様にそれが分からないとも思えない。ところが神様は、目の中に入れても痛くない、愛する独り子イエス様を、極めて危険なこの世界に敢えて送って下さった。大きな危険を承知で送って下さった。その神様に私たちは、「あなたは息子さんを送りこむ世界がどんなに危険か分からなかったのですか。あなたは愚かだ」と言うことはしません。わが子を死なせる大きな犠牲と苦痛を耐える覚悟で、イエス様を送って下さった神様の激しい愛に、ただ感謝することしかできません。

 14節「そして、息子をぶどう園の外に放り出して、殺してしまった。」これはもちろん神の子イエス様が、エルサレム郊外のゴルゴタの丘で十字架に架けられて殺されたことを指します。もちろん三日目に復活されて希望の光が与えられるのですが、それはまだ明瞭には語られません。「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるに違いない。」イエス様が十字架に架けられて殺された約40年後に、エルサレムの都はローマ軍に攻撃され、一旦滅びます。これは神の子イエス様を殺す大きな罪を犯したことに対する、父なる神様の審判だったのです。
 
 さて、イエス様のこのたとえ話を聴いた民衆は、話の内容に心を痛め、「そんなことがあってはなりません」と言いました。でもこのことは実際に起こってしまうのです。17節「イエスは彼らを見つめて言われた。『それでは、こう書いてあるのは、何の意味か(旧約聖書・詩編118:22)。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」この石は、イエス・キリストを指していますね。人々が「こんな石は要らない」と言って捨てた石、それがイエス様。「このような神の子は、私たちに必要ない」と言って、人々はイエス様を十字架につけて殺した。人間は、何と罪深く悪い者なのかと思わざるを得ません。しかし父なる神様によってその石が「隅の親石となっ」て生かされた。つまり死んだイエス様は三日目に復活され、今も天で生きておられ、神様の教会の隅の親石、最も重要な原点となる土台の石となられた。私は昔、ある先生の説教で、「人間が、こんなもの要らないと言って投げ捨てたイエス様を、父なる神様は復活させ、教会の土台として生かされたことを知って、私たちは恐れなければならない」と伺って、本当にその通りだと思い、今も印象に残っていた時折思い出します。今もこの時も思い出しているのです。

 18節「その石の上に落ちる者は誰でも打ち砕かれ、その石が誰かの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」この石、つまりイエス・キリストに出会うことは非常に嬉しいことですが、同時にイエス様に出会うと私たちは、自分が罪人(つみびと)であることに気づきます。それまで自分はかなり正しい人間だと思っていたとしても、それがうぬぼれに過ぎなかったことを思い知らされます。愛と清さに満ち溢れるイエス様と比べて「私は愛も清さも足りない罪人(つみびと)であることを認めます。イエス様に降参します。参りました」と告白することになります。「その石の上に落ちる者は誰でも打ち砕かれ、その石が誰かの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」とは、そのようなことと思います。

 19節「その時、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。」
彼らがそんな悪いことをしようとしたのであれば、彼らは神様に奉仕する務めにありながら実は本心から神様にお仕えしておらず、私利私欲を追いかけていた、羊の皮をかぶった狼だったということかもしれません。彼らはイエス様を憎んだのです。
真の神の子イエス様は、この語間もなくゴルゴタの丘で十字架に架けられます。それはこの時代の宗教指導者たちに憎まれてのことです。しかし父なる神様には、もっと高い目的がありました。イエス様は、世界のすべての時代のすべての人間の大小の、文字通り全部の罪の責任を身代わりに背負って十字架に死んで下さったのです。これが父なる神様が、わが子を殺す巨大な犠牲を払って実行して下さったことです。これは父なる神様が、私たち人間の罪を赦すために送られた最後の切り札です。私たちすべての人間の真の救い主は、イエス・キリストをおいてほかに一人もいないのです。父なる神様は、最後の切り札を使われました。神様はその意味で、手元に次の一手を隠し持っておられません。神様は私たちに手の内をすべて明らかに公開しておられるのです。「私は、一人息子を犠牲に差し出して十字架にかけて死なせた。そうしてまであなた方人間一人一人全員を、極みまで愛し抜いた。あなた方にはぜひ、私の愛に応えて、イエス・キリストを救い主と信じ、救い主と告白してほしい。そして私(神)のプレゼントである永遠の命を受けてほしい。」これが神様の願いです。神様から私たち一人一人皆への招きの言葉です。神様のこの招きに、ぜひ応えていただきたいのです。そうすれば、天で神様が最大限喜んで下さいます。

 この話の初めに戻ってみます。「ある人がぶどう園を造り、これを農夫たちに貸して旅に出た。」この方がぶどう園の主人、そしてこの地球と宇宙の主人は聖書の神様ということです。それは聖書のあちらこちらに書かれています。たとえば出エジプト記19章5~6節「世界はすべて私のものである。あなたたちは、私にとって祭司の王国、聖なる国民となる。」ヨブ記41章3節で、神様はこうおっしゃいます。「天の下にあるすべてのものは私のものだ。」詩編50編10~12節「森の生き物は、すべて私のもの。山々に群がる獣も、私のもの。山々の鳥を私はすべて知っている。~世界とそこに満ちているものは、すべて私のものだ。」私たちはそのことを信じて、先ほども「主の祈り」の最後にこう祈りました。「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。」この部分は、旧約聖書の歴代誌・上29章10節以下のダビデ王の祈りからとられたと言われます。「偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。」神様はコロナウイルスよりも上におられるので、神様がコロナを無力化して下さるよう祈ります。

 ところが私たちは、「自分の主人は自分」、「地球の主人は人間」と信じているのではないでしょうか。でも自分の主人は実は自分ではなく、私たちの命を造って下さった神様です。神様が私たち皆の主人、私たちの命も自分で自由勝手に扱ってよいものではなく、神様の所有です。その事実に改めて気づくことが必要と思います。今日のルカによる福音書の次の小見出しの箇所を読むと、「神のものは神に返しなさい」というイエス様の御言葉が書かれています。自分の主人が神様であることを無視して、自分の主人は自分と信じ込むところに、私たちの自己中心の罪があります。このぶどう園の僕たちは、主人の畑を貸してもらっているだけなのに、主人が長旅に出かけてなかなか帰って来ないのをいいことに、ぶどう園を自分の所有物のように扱うようになりました。私物化の罪です。ある人が書いていましたが、人生を私物化することが罪だと。聖書の言う罪の本質は、「人生の私物化」だと。そう言われると、私たちはびっくりするかもしれません。自分の人生は自分のもの、それが当たり前ではないかと。でもそうではありません。私たちの命も人生も、実は神様のものなのです。この原点に立ち帰って生き方を祈り考え、決めてゆく必要があります。私たちに神様から預けられている、あるいは神様が貸して下さっている命、ある程度の健康、時間、ある程度の才能・能力、少しばかりの財産、それらは神様のため、人様のために用いるために預けられ、貸していただいていると考えるのが、信仰に生きる私どもの考え方です。もちろん自分と家族のためにも用います。でもそれだけでなく、神様の栄光のため、人様の幸せのために喜んで差し出します。新約聖書のコリントの信徒への手紙(二)9章の御言葉「喜んで与える人を神は愛して下さる」と思い起こします。

 神様の所有である地球をも、私たち人間のエゴイズムによって大分、汚しています。最悪なのは戦争で、戦争は最大の環境破壊です。原子爆弾や枯葉剤等の兵器は多くの人の命を奪い、自然界を破壊し、奇形児誕生のもとになっています。人間の罪です。二酸化炭素を多く排出する生活スタイル、私たちの快適ばかり求める生活スタイルによって、地球温暖化が進んでいることは、もはや疑い得ないと感じます。それによって夏がますます暑くなり、集中豪雨や台風の凶暴化が起こって、私たち人間がしっぺ返しを受けていると実感します。二酸化炭素を多く出す生活を改めようとスウェーデンのグレタさんという少女がアピールしていますが、その声に真剣に耳を傾ける必要がありますね。神様が彼女にその思いを与えて、立ち上がらせたのではないかと、私は見ています。

 また私たちは、地球に生きる主人公は人間だと思い込んでいるかもしれませんが、神様は多くの動物、植物、生物を地球で共に生きる仲間として生かしておられることも意識する必要があります。人間が野生動物たちの領域に進出し過ぎて、彼らの生きる場を奪っているとも言われます。野生動物の中で生きていた時は特に悪さをしなかったウイルスが、人間が進出し過ぎて野生動物に接触した結果ウイルスをもらってしまい、人間には有害でどんどん感染して広がり、今回の事態になっていると警告する人もいます。当たっているかもしれません。東日本大震災の時の原発事故の汚染水を、処理はするにしても海に放出する計画が公表されましたが、本当はしてはいけないことと思います。私たち人間が、地球の資源は全部自分のために利用してよいと考えるエゴイズムに陥り、資源を乱獲し、神様の所有権を侵害する罪を犯し、結果として自分の滅亡を招こうとしている面は多々あります。持続可能な社会にするために努力・工夫し、私たち人間のエゴイズム=罪を減らさないと、人類滅亡を招きます。地球は神のものです。「ある人(神様)がぶどう園(地球とも言える)を作り、これを農夫たち(私たち人間)に貸して長い旅に出た。」いつか必ず神様が帰って来られる。その時まで地球環境を守る責任が私ども人間にあります。それを怠ってきた罪を悔い改める。それが必要であることをも、本日のルカによる福音書20章から示されると思うのです。

(祈り)聖名を讃美致します。神様が私たちを憐れんで、ウイルスを無力化し感染拡大をストップさせて下さい。世界が助け合って、このピンチを乗り越えることができますように。有効なワクチン、治療薬を早く与えて下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。東久留米教会を出発して日本とアメリカでイエス・キリストを宣べ伝える方々とご家族に、神様の豊かな愛を注いで下さい。教会学校の子どもたちの信仰を、神様守っていて下さい。私どもが神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛してこの一週間、また全人生を歩むことができますように、助けて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。