日本キリスト教団 東久留米教会

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2020-09-12 22:33:08(土)
「イエス様に従う恵み」   2020年9月13日(日)礼拝説教
 礼拝順序: 招詞 マタイ22:37~39、頌栄28、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・120、聖書 詩編49:8~9(旧約882ページ)マタイ福音書16:21~28(新約32ページ)、祈祷、説教「イエス様に従う恵み」、祈祷、讃美歌21・510、献金、頌栄27、祝祷。

(詩編49:8~9) 神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く/とこしえに、払い終えることはない。

(マタイ福音書16:21~28) このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

(説教) 先週のマタイ福音書は、ペトロの信仰告白の場面でした。イエス様に向かって「あなたはメシア(救い主)、生ける神の子です」と告白したのです。イエス様はこの告白を喜ばれて、ペトロに言われました。「あなたはペトロ(岩)。私はこの岩の上に私の教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。私はあなたに天の国の鍵を授ける。」それで本日の箇所に入ります。
 
 「この時からイエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」それまで語って来なかった最も重要なことを、「実はこうなんだよ」と明らかにし始められたのです。ここではまだ「十字架にかかる」とは明確におっしゃっていませんが、明らかに十字架の予告を語り始められたのです。前にも申しましたが、この「必ず」という言葉は、新約聖書の元の言葉では「デイ」という言葉で、「必然、必ず起こること」しかも「神の必然」を表します。これが父なる神様のご計画だと、語り始められたのです。イエス様は「必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている。」受難の予告、十字架の予告です。しかし受難の予告だけでなく、「三日目に復活する」希望をも語っておられますね。イエス様が受難を通って真の希望に至る。それが父なる神様のご計画だと語り始められました。

 しかしペトロは「イエス様が多くの苦しみを受けて殺される」と聞いて、びっくりしました。ペトロはイエス様をわきへお連れして、いさめ始めます。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」ペトロは人間的な好意でイエス様にそう言ったのです。「イエス様、あなたはメシア。イスラエルの民を率いてローマ帝国の支配からイスラエルを解放して下さると皆が期待していますよ。」それがペトロやイスラエルの人々が期待していたメシア(救い主)の姿だったらしいのです。「そのあなたが苦しみを受けて殺されるなと、決してあってはならないことです。」そうペトロはおいさめしたのです。

 しかしこれは、ペトロの非常に僭越な、分を超えた行動、ペトロがイエス様を導こうとする思い上がった行動だったのです。人間的な好意によってイエス様を愛しておいさめしたのですが、それはイエス様が真の使命・十字架に向かうことを妨げる悪魔の誘惑となってしまったのです。イエス様は振り向いてペトロに言われます。「サタン(悪魔)、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」イエス様の使命は、十字架にかかることです。十字架にかかって、私たち全ての人間の全ての罪を身代わりに背負うことが、イエス様の使命です。イエス様は決然としてその道を進まれます。それを妨げるのは悪魔の誘惑そのものです。ペトロは親切のつもりで言ったのです。「先生、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」ペトロは確かに正しい信仰告白を行いました。「あなたはメシア、生ける神の子です。」でも、イエス様がどんなメシアかは、全く分かっていなかったのです。イスラエルの民を率いてローマ帝国の支配からイスラエルを解放してくれる力強い政治・軍事的リーダーを期待していたかもしれません。

 ところがイエス様が進む道は、私たち全ての罪人(つみびと)に奉仕して下さる道、人々に馬鹿にされながら十字架にかかる道だったのです。私たち全ての人間を最も根本的に救うためには、人間の罪(神様から離れて、自己中心的に生きていること)という最も根本的な問題を解決しなければなりません。なぜ罪が最も根本的な問題かと言えば、罪こそが死(人間の究極の敵)の直接の原因だからです。私たちの罪の問題を根本的に解決するために、全く罪のない方が身代わりに責任をとらないと、どの人間も罪赦されず、天国に入ることができません。それでイエス様は、どうしても十字架にかかる必要があったのです。それはただひとえに、私たち一人一人のためです。ペトロは、十字架に進むイエス様の邪魔をしてしまいました。ペトロはその瞬間、気づかずに悪魔に自分を乗っ取られていたのです。人間的な親切心で「イエス様、あなたが苦難を受けるなんて、そんなことがあってはなりません」と言いましたが、それは悪魔からイエス様への強烈な誘惑だったのです。イエス様が、「それもそうだな。十字架にかかるのはやめようか」と気を緩めて十字架にかかるのをやめれば、私たちの罪は、神様の前に赦されることなく、私たちは天国に入ることができなくなったのです。悪魔が大喜びする結果になります。しかしイエス様は、ペトロを使って攻撃して来た悪魔の誘惑をたちまち身破り、「サタン(悪魔)、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」とペトロを一喝し、十字架に進む決意が少しも緩むことがなかったのです。さすがイエス様で、楽チンな道に誘い出してイエス様に使命を失敗に終わらせようとした悪魔の計略を撃退されました。

 24節「それから、弟子たちに言われた。『私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを得る。』」自己中心的にばかり生き続けると、最悪の場合、天国に入り損ねるかもしれません。それでは意味のない人生になります。しかし反対にイエス様に従って、自己中心を抑え、神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛する生き方をするならば、それは天国につながる生き方です。イエス様に従い、自己中心をやめて生きるようにしなさい。そしてイエス様に続いて天国に入れていただきなさい。これが私たちを招く聖書の招きのメッセージです。 「自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエス様に従う。」十字架は、責任や使命、試練を指すこともあるでしょう。私たちは一人一人に与えられた責任や使命、試練を背負いながら、イエス様に従って歩んで参ります。それは天国に至る生き方です。

 十字架を背負うというと、「大変だ」と思いますが、私たちはここでマタイによる福音書11章28節以下のイエス様の慰め深い御言葉を思い出す必要があります。「疲れた者、重荷を負う者(十字架を負う者)は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなた方は安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」軛とは、二頭のろばなどを背中と背中で結び付ける木製の道具で、二頭で並んで畑を耕させるのに使います。イエス様がおっしゃることは、「重荷を負う・十字架を負う」者はイエス様のもとに来なさい。私が一緒に重荷・十字架を背負うよ、ということだと思います。私たちの十字架を、目に見えなくてもイエス様が共に背負っていて下さるのです。

 先々週もお話しましたが、京都市で難病の筋委縮性側索硬化症(ALS)の女性患者(当時51才)が医師2名に頼んで薬物の投与を受け、死を選んだ悲しい事件がありました。この事件について先週9/9(水)、朝日新聞朝刊の「声」の欄に3名の投書が出ていたのですが、そのお一人に難波幸矢さんという岡山県の75才の主婦の方の投書がありました。この方は、日本基督教団の教会員です。「今回の事件に心を痛めています」という書き出しから始まり、「私の夫は筋ジストロフィーを10年間患い、33年前に亡くなりました。死去の3日前まで、口の機能だけ残る状態で教員として高校で授業をしていました。移動や板書は生徒さんが協力してくれました。(~)今回の事件では、ケアチームは心を注いで介護なさっていたと知りました。(~)しかし、彼女は死を考えていたのです。チームの方々の落胆はどれほどだったかと思います。難病によって思いがけない苦悩が始まり、衝撃や怒りが一度に押し寄せる。でも、『そこからこそ人生』だと私は思います。『人生って何?』『命って何?』。その人が人生の根源に触れられるように、支える社会でありたいです。」 これは実に大変な発言と思います。「そこからこそ人生だと、私は思う。」見上げた発言と、尊敬致します。

 この方のご主人、難波紘一さんが書かれた『この生命燃えつきるまで』(キリスト新聞社、1985年)という本があります(ここでは『喜びのいのち』新教出版社、2000年、126~139ページの、「この生命燃えつきるまで  難波紘一」より引用)。「筋ジストロフィーをわずらってからの私の毎日毎日はとってもつらいもんです。(~)時々、人はなぜこんなにまで苦しまなければならないのかと考えこむことがあります。しかし、これに解答を与えてくれるのがキリスト教信仰であるということを、私は今日みなさんにお話したいのです。(~)学校では、二階、三階、四階にも教室があるものですから、車いすですとこれをかつぎあげるのに、四人の生徒の手がかかります。教室に着くと、椅子に座らせてもらうんです。座って授業をしています(世界史)。」「パウロは、聖書の中でいくつかの告白をしておりますが、今日読んでいただいた聖書の言葉ほど私を力づけてくれる大きな告白はありません。」

 そう言って難波紘一さんは、コリントの信徒への手紙(二)12章7節以下を、読まれます。「それで、そのために思い上がることのないようにと、私の身に1つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、私を痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせて下さるように、私は三度主に願いました。すると主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱いときにこそ強いからです。」

 難波さんは言われます。「私どもの神様は、私たちを訓練するために、時には苦しみをお与えになります。しかし、私たちのために、大切な独り子イエス様を地上におくり給うほど、私たちを愛して下さる神さまですから、私たちを苦しみの真っただ中につき放し、放っておかれる方ではないのです。私どもの弱いところ、足りないところを手厚く完全にカバーして下さるのです。そう言って新約聖書のヘブライ人への手紙12章5節以下を読まれます。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。あなた方は、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなた方を子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。」

 難波さんはさらに語られます。「私たちはこの訓練を通し、これを耐え忍ぶことによって、今まで得たこともない大きな心の平安の頂へと導かれていくわけです。(~)この時、苦しみは大きな恵みへと変わります。私たちの人生のどんなひどい苦しみの中にあっても、『よし、この恵みの中で積極的に生きていこう』と、希望へと導かれていくわけです。このようにキリスト教信仰とは、どんな絶望的状態に陥っても、なおも希望を持って、生きていく力を促される信仰であると思います。」

 「今、この時間にこうやって両手を動かしながらしゃべっているこの状態が、私にとってベストの状態なんです。これ以上のことは望めないと思って、私はこの一瞬一瞬を力の限り、生命の限り生きていく以外に、私の生き方はないわけです。私は大げさに言えば、今日この日を最後の日として生きていく、そういう決意を毎日しております。今日を、最後の日として生きる。しかし、これは考え方によっては、本当にありがたいことだと思っております。」「今日、初めておいでになった方、初めてキリスト教に接する方、そういう方がおられるかもしれません。もし重荷を負って苦労しておられる方がいらっしゃれば、どうか、イエス様のもとにその重荷をおろして、預けて下さい。そうすれば、私どものように、こんなひどい苦しみに遭ってもそれを苦しみとは思わず、これを恵みとして受けとめ、毎日毎日喜びの中で、楽しみながら生きていくことができます。ぜひ、そうなさることを、お勧めしたいと思います。」

 非常に迫力ある信仰の証しです。ヘブライ人への手紙11章4節を思い出します。「アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」難波さんの、目の前の一日を文字通り全力で真剣に生きる迫力に圧倒されます。東久留米教会の初代牧師の浅野悦昭先生(今は天国)の言葉を思い出しました(説教集?)。「今日の礼拝を、自分の地上の最後の礼拝と思って献げる。」それだけ、二度と来ないこの一回の礼拝を全力で真剣に献げるということです。このような信仰の先達の方々の、懸命な信仰の姿勢に、私どもも感化されたいものです。この難波紘一さんのご夫人が、先週の投書で、「難病によって思いがけない苦悩が始まり、衝撃や否定や怒りが一度に押し寄せる。でも、『そこからこそ人生』だと私は思います。『人生って何?』『命って何?』その人が人生の根源に触れられるように、支える社会でありたいです。」このご夫人の信仰もすごいと私は思います。ご主人の熱烈な信仰の生き方を10年間支えきったから、言える信仰の言葉だと感じます。幸い、今は難波紘一さんの頃よりも医学が進みましたから、私たちはイエス様に支えられ、病気についてはお医者様は看護師さん方にも助けていただいて、生きることを許されている時代であることを感謝したいと思います。難波紘一さんも、「自分を捨て、自分の十字架を背負って」イエス様に従い通した、見事な信仰者でいらっしゃいます。今は天国で、神様のもとにおられ、完全な平安の中で、天国の礼拝で、神様を讃美しておられます。

 マタイ福音書16章のイエス様の言葉に戻ります。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」 これと深く関連する御言葉が、今日の旧約聖書詩編49編8~9節です。「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。」贖うは難しい言葉ですが、償うと似ています。「私たちは、自分の兄弟(家族)の罪さえ、神様の前で完全に償うことはできない」という意味でしょう。「魂を贖う値は高く、とこしえに払い終えることはない。」一人の人(魂、命)の全ての罪を完全に償うことは、お金にたとえれば何億年返済し続けても足りないほど大変なことだ、ということです。でもたった一つ、私たち人間の罪が完全に赦される道があったのです。それは、最も清らかで罪が全くない尊い神の子イエス・キリストが、犠牲になって十字架で死なれることです。神の子イエス様の命ほど尊いものはありません。その最も尊い方がご自分の命を身代わりに差し出すことで初めて、私たち罪人(つみびと)の罪が完全に赦されるのです。イエス様を救い主と信じて自分の罪を悔い改める人は、全ての罪の赦しと永遠の命を受けます。この十字架の贖いを、イエス様の使徒パウロは、コリントの信徒への手紙(一)6章19~20節でこう書きました。「あなた方はもはや自分のものではないのです(神のものになった)。あなた方は代価を払って買い取られたのです。」最も尊い神の子イエス様の命という代価によって、あなた方は神のもの、神の子どもたちとされたのだと。

 最近私は、ある先輩牧師の説教を聴きました。こう祈りましょうと。「今のコロナという十字架の中にあっても、神様あなたが私たちを通して働いて下さい。コロナの十字架の中にあっても、あなたが私たちを用いて下さい。」こう祈りつつ、ご一緒に信仰生活を歩みたいのです。アーメン(真実に)。
 
(祈り)聖名を讃美致します。東京と日本全体で新型コロナウイルスの感染者がまだ増え続けています。神様が私たちを憐れんで、ウイルスを無力化し感染拡大をストップさせて下さい。世界が助け合って、このピンチを乗り越えることができますように。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。東久留米教会を出発して日本とアメリカでイエス・キリストを宣べ伝える方々とご家族に、神様の豊かな愛を注いで下さい。神様によく従う方が、日本の次期首相に選ばれますように、切にお願い致します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2020-09-06 0:51:06()
「死に勝つ教会」   2020年9月6日(日)礼拝説教 
礼拝順序: 招詞 マタイ22:37~39、頌栄24、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・155、聖書 ダニエル書2:44~45(旧約1383ページ)マタイ福音書16:13~20(新約31ページ)、祈祷、説教「死に勝つ教会」、祈祷、讃美歌21・390、献金、頌栄83(1節)、祝祷。

(ダニエル書2:44~45) この王たちの時代に、天の神は一つの国を興されます。この国は永遠に滅びることなく、その主権は他の民の手に渡ることなく、すべての国を打ち滅ぼし、永遠に続きます。山から人手によらず切り出された石が、鉄、青銅、陶土、銀、金を打つのを御覧になりましたが、それによって、偉大な神は引き続き起こることを王様にお知らせになったのです。この夢は確かであり、解釈もまちがいございません。」

(マタイ福音書16:13~20) イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

(説教) 本日のマタイによる福音書16章13節以下は、「ペトロの信仰告白」の場面と言われ、マタイによる福音書の中盤のクライマックスと言えます。イエス様は12名の弟子たちを連れて、フィリポ・カイサリア地方に行かれました。聖書巻末の地図6を見ると、フィリポ・カイサリアはガリラヤ湖の北約40キロの所にあります。フィリポ・カイサリアは、ギリシア風の名前です。カイサリアはカエサル、つまりローマ皇帝を指します。紀元前20年(イエス様の誕生の10年以上前)にローマ皇帝アウグストゥスは、この地をユダヤのヘロデ大王に与えました。ヘロデ大王の息子の一人ヘロデ・フィリポが町を広げ、ローマ皇帝に敬意を表してこの町にフィリポ・カイサリアという名前をつけました。この町には皇帝を神として礼拝する神殿や、ギリシアの神々の神殿があったそうです。偶像礼拝が盛んに行われる土地だったのです。モーセの十戒の第一の戒めに「あなたには私をおいて、ほかに神があってはならない」とある通り、聖書では偶像崇拝は、偽物の神(正体は悪魔)を礼拝する大きな罪です。イエス様はあえて、弟子たちをそのような場所に連れて行かれた。その中でペトロが信仰告白を行ったことが重要と思います。

 私たちも日本という、様々な宗教が存在する風土に置かれ、その中で聖書の神様だけが真の神様、イエス様だけが真の神の子と告白するのです。オウム真理教の事件以来、日本では宗教に対する警戒感が広まりました。多くの人がはっきりした信仰には入らないものの、心の飢え渇きはあるのでスピリチュアルと呼ばれるものがはやっています。心に癒やしを与えるとされるスピリチュアルなことの指導者の本が売れたり、神社やお寺をパワースポットと呼んでマスコミも宣伝します。そこに何のパワーがあるのか誰も知らないのですが。はっきりした宗教は敬遠されるが、曖昧なパワースポットに行くことには抵抗感が薄らぐらしいのです。これは曖昧な宗教ですから、昔から日本にあるアニミズム(全てのものに神が宿るという考え)そのもの、アニミズムへの逆戻りではないかと感じます。このような曖昧な宗教心が多い日本にあって、私どもは「イエス・キリストこそ真の神の子、真の救い主」と告白致します。

 イエス様は弟子たちを、外国の神々を拝む偶像崇拝が多く行われているフィリポ・カイサリア地方にあえて連れて行かれ、そこで弟子たちに重要な質問をなさるのです。「人々は人の子(イエス様)のことを何者だと言っているか。」弟子たちは答えます。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イスラエルの人々は、イエス様のことをそのように噂している。洗礼者ヨハネもエリヤもエレミヤも皆、偉大な預言者たち、神のために働いた立派な人々です。しかし偉大ではあるが、人間であり、少しは罪もあったでしょうから罪人(つみびと)の一人です。

 イエス様は弟子たちを見つめて、「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。」これは私たちに対する問いでもあります。世間の人々がどう噂しているかは分かった。世間の人々ではなく、「あなたは私を何者だと言うのですか。」この問いに対しては、私たち一人一人がイエス様に直にお答えする必要があります。一番弟子シモン・ペトロがすかさず答えます。「あなたはメシア(救い主)、生ける神の子です。」これは全く正しい答えです。イエス様もこの答えを喜んで下さり、「シモン・バルヨナ」とペトロに呼びかけます。これは「ヨナの子シモン」ということですが、シモンの父親はヨハネという名前だったようです。ヨハネによる福音書1章42節でイエス様がペトロに「ヨハネの子シモン」と呼びかけておられるので、分かります。ここのヨナはヨハネが縮まったものでしょう。

 「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、私の天の父なのだ。」イエス様がメシア(救い主)、生ける神の子であると教えて下さったのは人間ではない。人間ではなく、イエス様の天の父なる神様が教えて下さったのだ。私たちが先ほどの「主の祈り」で「天にまします我らの父よ」と祈った、その父なる神様が教えて下さったのです。それを教えられたシモンは幸せです。信仰は、神様が私たちに与えて下さるものです。一人の人がイエス様を救い主と信じるようになることは、明らかに奇跡です。ですから伝道にはどうしても祈りが必要です。伝道はただの説得ではありません。神の生きた清き霊である聖霊に働いていただいて、相手の方に、イエス様が神の子であることを悟る悟りを与えていただくことが必要です。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」と新約聖書のコリントの信徒への手紙(一)12章3節に記されている通りです。

 イエス様はさらに言われます。「私も言っておく。あなたはペトロ(岩の意味。彼の本名がシモンで、イエス様が与えたいわばあだ名がペトロ)。私はこの岩の上に私の教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。私はあなたに天の国の鍵を授ける。」イエス様がここでシモンにペトロといういわばニックネームをつけて下さいました。「あなたはペトロ、岩」だと。「私はこの岩の上に、私の教会を建てる。」カトリック教会は、イエス様がペトロを教会の最高責任者として任命したと解釈するようで、ペトロを初代のローマ教皇と考えているようです。ローマにペトロの墓があるそうで、その上に聖ピエトロ(ペトロ)大聖堂が建っているそうです。ローマ教皇は「天国の鍵」のシンボルのようなものを持っていると聞いたこともあります。

 やや大げさな感じがします。「私はこの岩(ペトロ)の上に私の教会を建てる。」プロテスタント教会はしばしば、「この岩」を「ペトロの信仰告白だ」と考えてきました。「あなたはメシア、生ける神の子です」というペトロの信仰告白。この正しい信仰告白の上にイエス様の教会が建てられると。それも十分にあり得ることと思います。しかしペトロという人は、しばしば失敗もする人です。現にこんなにイエス様に喜ばれた直後、今日の続き(来週の箇所)でイエス様が初めて、ご自分が受難・苦しみに向かうことを打ち明けられると、イエス様に「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」とおいさめします。するとイエス様に厳しく叱られてしまいます。「サタン(悪魔)、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 このようにペトロは、岩のように不動の力強い信仰者でない時もある人です。イエス様が十字架にかかる前も、イエス様を三度否定してしまい、イエス様を裏切る罪を犯してしまいました。でもその時、涙を流してその罪を悔い改めたのです。激しく泣いて、悔い改めたのです。約30年後にペトロはローマでもう一度、同じ失敗を繰り返しそうになります。(これは聖書にない話、伝説ですが)迫害されている仲間のクリスチャンたちを置いて、ローマから逃げようとしますが、復活のイエス様に出会って悔い改め、ローマに戻って仲間のクリスチャンたちを励まし、逆さ十字架で殉教の死を遂げたと言われます。ローマに戻ったということは、逃げ出した罪を悔い改めたということです。自分の罪に気付いた時に、素直に悔い改める。これはペトロの美徳です。素直に悔い改めるからペトロは教会の土台の岩。そのように言うこともできると思うのです。

 と同時に、ペトロが岩のように力強く伝道説教を行う時もあるのです。ペンテコステ、聖霊が降った朝、ペトロは聖霊に満たされて、力強く説教します。「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いて下さい。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。~このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じの上で、あなた方に引き渡されたのですが、あなた方は律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」「イスラエルの全家ははっきり知らなくてはなりません。あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」全くその通り、見事な信仰告白です。これを聴いて心を打たれた人々は、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいのですか」と尋ねます。ペトロが岩のように力強く宣べ伝えます。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。~邪悪なこの時代から救われなさい。」聖霊に満たされたペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼(バプテスマ)を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。これが最初の教会ですが、まさにペトロは教会の土台岩の力強い働きを行っています。

 マタイ福音書に戻りましょう。イエス様のメッセージ「私はこの岩の上に私の教会を建てる。陰府(死)の力もこれに対抗できない。私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」イエス・キリストの教会は、神様の愛の力によって人間の究極の敵である死に打ち勝たせていただいている存在です。「陰府(死)の力もこれに対抗できない。」死の力も、死を司る悪魔もキリスト教会に対抗できません。それは私たちの力によってではなく、キリストの力・神の力によってです。キリストの十字架の死と復活によってです。私たち人間がなぜ死ぬのか? それは私たち人間が神様に背き、罪を犯した結果だと、聖書が教えてくれます。これが死の本質です。神の言葉である聖書だけが、この本当のことを教えてくれます。死を解決するには、死だけを見ても解決できない。死の原因である私たち人間の罪を解決することで、初めて死の解決の道が開かれます。私は先週最近出た本、カトリック信者の曽野綾子さんと石原慎太郎さん(作家、元都知事)、88才、89才くらいのお二人が対談している、死をテーマにした本を読みました。クリスチャンでない石原慎太郎さんは、法華経を信頼していると語っておられます。偉そうなことを言って恐縮ですが、石原さんの死生観では、「人は死ねば意識が完全に消滅する」つまり死ねば、全ては終わりというお考えのようで、そう繰り返し語られます。同じ考えの方は一定の割合でおられるでしょう。
 
 でも、たった一つ死に勝たせていただく道がある。それはイエス・キリストを救い主と信じることです。イエス様が十字架にかかったのは、私たち人類の全ての罪の責任を背負いきるためです。イエス様は、世界の最初の人間から始まって、世の終わりまでに生まれる一人残らず全ての人間が、生涯で犯す全ての罪の責任を身代わりに背負って、十字架で死なれました。これによってイエス様は悪魔に勝利したのです。悪魔は人間を誘惑して、罪を犯させ、神様から引き離し、死なせるために暗躍しています。私たちはイエス様を信じる前は、知らず知らずのうちに悪魔の奴隷になっているのです。生まれた時からです。少しずつでも罪を犯し、命を与えて下さった神様から離れ、滅びに至る道を歩んでいました。しかしクリスチャンからイエス様のことを聞いた、あるいは聖書などを読んでイエス様のことを聞きました。それは神様の働きかけです。それで今ここにいるのです。イエス様は生まれた瞬間から、十字架の死に至るまで、悪魔のしつこい誘惑を全てはねのけて、ただの一度も罪を犯しませんでした。これによって悪魔はイエス様に完全に敗北しました。そして十字架で本当に死なれたイエス様は、驚くべきことに三日目に本当に復活され、その後天に昇られ、そこで今も、そして永遠に生きておられ、天から聖霊を注いで下さいます。イエス様を自分の救い主と信じて、自分の罪を悔い改める人は、生涯で犯してしまう全部の罪を赦されて、死を超えたイエス様と同じ永遠の命、復活の命を父なる神様から受けます。信じて、できれば洗礼を受けることがベストです。

 イエス様の十字架の身代わりの死と復活だけが、死を根本的に解決する力です。最近は、人口知能AIが、非常な発達を見せています。AIの発達によって将棋や囲碁は確実に進歩しました。では知能がどんどん発達すれば、世界のあらゆる問題が解決できるのか、人の死も解決できるのかというと、もちろん解決できません。知性が格段に進歩しても、人の罪の問題は解決できません。罪の悔い改めは必要であり続けますし、イエス様の十字架と復活だけが罪と死を根本的に解決する唯一の力であることも変わりません。

 「私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」あなたとはペトロですが、同時にペトロに代表される教会を指します。つまり私たちです。教会には、恐れ多いことに天国の鍵が委ねられている。教会は、地上でイエス・キリストを代理させていただきます。解説書によると「つなぐ」とは、「あることが禁じられていることを宣言すること」です。「解く」とは、「あることが許されている(よしとされている)ことを宣言すること」です。宣言するということは権威を行使すること、一種の力を行使することです。行使する必要がある場合はよく祈って、イエス様の御心に従って、行使させていただく必要があります。もちろん決して、自分勝手に行使してはいけません。

 「つなぐ」とは、あることに「ノー」を言うことです。教会は、罪そのものに対しては常に「ノー」を言う必要があります。罪は神様に背くことですから、罪そのものに対しては常に「ノー」を言う必要があります。しかし罪を悔い改める罪人(つみびと)については、教会は「イエス」と言ってその方を喜んで受け入れます。ルカによる福音書15章の、悔い改めて家に帰ってきた放蕩息子を父親(神様)が喜んで愛して受け入れたように、罪を悔いる罪人(つみびと)を私どもは、喜んで受け入れます。私たち自身も罪人(つみびと)であり、同じように父なる神様に愛され、受け入れていただいたのですから、同じに致します。成熟した教会とは、この「ノー」と「イエス」をイエス様の御心に従って的確に言うことができる教会でしょう。「ノー」と言うべき時には「ノー」と言う必要があり、「イエス」と言ってはいけないのですね。「イエス」と言うべき時には「イエス」と言う必要があり、その時に「ノー」と言ってはいけません。プロテスタント教会は、万人祭司を主張しますから、牧師や役員だけでなく、クリスチャン一人一人がこの権威(天国の鍵の権威)を正しく行使できるように、「ノー」と「イエス」を的確に言う成熟したクリスチャンになっていくことが必要です。ペトロだけでなく、クリスチャン一人一人が、教会の岩です。もちろん教会の最大の土台岩は、イエス・キリストご自身です。

 本日の旧約聖書は、ダニエル書2章44~45節です。ここに「石」という言葉が出てきます。石と岩は似たものです。ここの石は神の国、イエス様がもたらす神の国を予告しています。「この王たちの時代に、天の神は一つの国を興されます。この国は永遠に滅びることなく、その主権は他の民の手に渡ることなく、すべての国を打ち滅ぼし、永遠に続きます。山から人手によらず切り出された石が、鉄、青銅、陶土、銀、金を打つのを御覧になりました」とあります。人が造ったのではなく、神がお建てになる国、神の国。人間の大帝国は皆滅びました。バビロン帝国も、ローマ帝国も、モンゴル帝国もヒトラーの帝国もソ連もなくなりました。教会は神の国のひな形です。人間の権力者は何回も教会を滅ぼそうとしましたが、教会は生き残りました。そして必ず神の国が来ます。教会には色々欠点もありますが、でも神の国のひな形です。その意味で、教会には神の国につながる希望があります。そのことに感謝し、今週もイエス様と共に歩む私どもです。アーメン(真実に)。
 
(祈り)聖名を讃美致します。東京と日本全体で新型コロナウイルスの感染者は増え続けています。神様が私たちを憐れんで、ウイルスを無力化し感染拡大をストップさせて下さい。猛暑が早く終わり、熱中症で命を落とす方が、今後一人も出ないようにして下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。東久留米教会を出発して日本とアメリカでイエス・キリストを宣べ伝える方々とご家族に、神様の豊かな愛を注いで下さい。神様によく従う方が、日本の次期首相に選ばれますように、切にお願い致します。主イエス・キリストの御名によって、お願い致します。アーメン。

2020-08-30 1:14:08()
「時代のしるしを見分ける」 2020年8月30日(日)礼拝説教
 礼拝順序: 招詞 マタイ5:9、頌栄28、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・352、聖書 ヨナ書2:1~11(旧約1446ページ)マタイ福音書16:1~12(新約31ページ)、祈祷、説教「時代のしるしを見分ける」、祈祷、讃美歌21・515、献金、頌栄92、祝祷。

(ヨナ書2:1~11) さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて、言った。苦難の中で、わたしが叫ぶと/主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると/わたしの声を聞いてくださった。あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた。潮の流れがわたしを巻き込み/波また波がわたしの上を越えて行く。わたしは思った/あなたの御前から追放されたのだと。生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと。大水がわたしを襲って喉に達する。深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく。わたしは山々の基まで、地の底まで沈み/地はわたしの上に永久に扉を閉ざす。しかし、わが神、主よ/あなたは命を/滅びの穴から引き上げてくださった。息絶えようとするとき/わたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き/聖なる神殿に達した。偽りの神々に従う者たちが/忠節を捨て去ろうともわたしは感謝の声をあげ/いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。救いは、主にこそある。主が命じられると、魚はヨナを陸地に吐き出した。

(マタイ福音書16:1~12) ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。
 弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。 弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた。イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。

(説教) 「ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。」「あなたが救い主だという証拠を見せてほしい。あなたが救い主であることを証明する奇跡を見せてほしい」と要求したのです。イエス様は、彼らが要求する奇跡を見せては下さいません。イエス様は、本当に病気に苦しむ人を癒す愛の奇跡を行って下さいましたし、お腹が減って弱った人々を愛の奇跡によって満腹にして下さいました。でも奇跡は見世物ではありません。イエス様は、興味本位の人々に奇跡を見せて下さいません。奇跡を売り物にする宗教は、偽物です。オウム真理教は、教祖が空中に浮かぶ(もちろん嘘)超能力を売り物にしました。超能力に魅せられてオウム真理教に入ってしまい、人生を狂わせた方々がおられるのは悲しむべきことです。よく考えれば、ちょっと空中に浮かんだところで、人助けになるわけでもなく、それほど意味があるとは思えません。
超能力に魅せられるのではなく、真の神様に祈りながら、地道に生きることこそ大切と思わされます。

 イエス様はおっしゃいます。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。」空模様を見て天気を当てることは、農夫のように自然を相手に生活している人なら、生活の知恵として、かなりできるでしょう。日本の農村の人々もずっとそうだったと思います。イエス様は、「あなた方が空模様を見分けることができても、時代のしるしを見分けることができないのか。」 狂いのない目で真実を見分けることが大切と思います。上手に盛り上げるにヒトラーの演説にあおり立てられてヒトラーについて行ってしまったドイツ。そのヒトラーのドイツと同盟を結んだことは日本の不幸を招く間違った選択でした。私は狂いのない目をもって冷静に真実を見分ける必要があります。

 「時代のしるしを見分ける」ことは、簡単ではないですと思います。私たちの目は、つい自分の欲望などによって狂い、正しい判断ができなくなるからです。私たちは地球温暖化とコロナの苦しみの中にあり、日本社会と教会は少子高齢化、日本は周りの中国、韓国、北朝鮮と必ずしも関係がよくない状況です。しかも総理大臣は辞任を表明し、神様に従うよい首相が選ばれるよう、祈らなければならない状況にあります。この現実の中、私たちがクリスチャンとしてどのように生きることがよいのか。神様は私たちに何を望んでおられるのか、私たち一人一人がよく祈って考える必要があります。一番基本的には、私たちは神様を礼拝し、周りの人々を愛し、そして真の救い主イエス・キリストを言葉と行いによって指し示す生き方をすることが大切と信じます。

 4節でイエス様は、厳しいことをおっしゃいます。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そうおっしゃって、イエス様は彼らを後に残して立ち去られた。イエス様は、イエス様の時代を「よこしまで神に背いた時代」と言われます。「神に背いた」の原語を直訳すると「姦淫・姦通」です。「姦淫・姦通・不倫がはびこる時代」の意味です。手厳しい言葉です。どの時代もそうかもしれません。「姦淫・姦通・不倫」がはびこった。「堕落の時代」とも言えます。旧約聖書の創世記で神様に滅ぼされたソドムとゴモラもそうだったのでしょう。今の時代も同じかもしれません。「よこしまで神に背いた時代。」そのような時代にあって、しかし私たちは神様に喜ばれるように生きようと志しています。

 戻りますが、4節の「時代のしるし」ですが、「時代」という言葉は、元の言葉で「カイロス」です。時の意味です。「カイロス」については、よくこう説明されます。「何となく過ぎて行く時と違って、重要な時、大切な機会・チャンスであるような時」を指すと。「時は金なり、タイム・イズ・マニー」というほど、時は大切です。時は、神様からのプレゼントです。この時を、私たちは大切に用いる必要があります。今日の一日も、非常に貴重な時です。浪費できません。与えられている今日という貴重な時・カイロスを、私たちは賢く用いる必要があります。神様に喜ばれるように精一杯、有意義に用いる必要があります。確かに「邪悪な時代」という面があるでしょう。でも私たちは、「邪悪な時代」の中にいても、神様がプレゼントして下さった今日という、二度と来ない一日を、貴重なカイロスを神様に喜ばれるように生きることで、有意義な時として活用したいのです。この礼拝の1時間という短い時間も、私たちが神の言葉に全身を満たされ、全身を聖霊で満たされイエス・キリストに似た私たちに作り変えられる、貴重ですばらしいカイロスとしたいのです。

 「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしをほしがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」「ヨナのしるし」とは、何でしょう。それを知るために、本日の旧約聖書はヨナ書2章全体を選びました。神様がヨナに使命を与えられます。それは悪の都として名高いアッシリアの首都二ネべに行って、人々に多くの罪を悔い改めるよう警告のメッセージを語れ、という使命です。ところがヨナはこれをいやがり、神様が行けという方角と別の方角に向かって逃げ始めます。しかし神様の御手から逃れることはできず、ヨナは海の中に放り込まれる結果になります。神様に背いたからです。ヨナが海に放り込まれたのは神様の裁きと言えますが、神様は同時にヨナを保護なさいます。2章1節「さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを飲み込ませられました。ヨナは三日三晩、魚の中にいた。」

 この「三日三晩、魚の中にいた」が、イエス・キリストの十字架の死と復活を暗に予告する、指し示していると言えます。イエス様ご自身が、この福音書12章39節以下で、おっしゃっています。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」ヨナの三日三晩の大魚の腹の中の暗い所にいた体験が、イエス・キリストの十字架と復活を暗示するしるしだと、自らおっしゃいます。

 そしてイエス・キリストの十字架と復活こそ、聖書の救いのメッセージの中心・核心部分です。どんな奇跡よりも、イエス様が私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって下さった、それが、神様が私たちに与えて下さる最大の「しるし」です。ですからいつの時代でもどこに国でも、キリスト教会のシンボル・しるしは十字架にほかなりません。どうしても新約聖書のコリントの信徒への手紙(一)1章18節以下を連想します。新約300ページ上段。イエス様の使徒(弟子)パウロが聖霊に満たされて書きました。ここには、賢いと思っている人間たちは、本当の賢さを分かっていない、人の目には愚かな生き方に見えるイエス・キリストの十字架こそ、神の偉大な救いの力であり、真の賢さだということが、書かれています。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。『私は知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。』

 知恵のある人はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め(まさにユダヤ人のファリサイ派とサドカイ派の人がイエス様にしるし=力を求めたのです)、ギリシア人は知恵を探します(ギリシア人は哲学が好き)が、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人(代表がギリシア人)には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリスト(それも十字架につけられたキリスト!)を宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」

 ユダヤ人はしるし(奇跡、力)を愛し、ギリシア人は知恵(頭のよさ)を愛する。しかし、神様が最も大事だとおっしゃることは十字架につけられたイエス・キリスト。この奉仕と愛の生き方が一番大事ということでしょう。では日本人は何を愛するのでしょうか。科学の力か、もしかすると経済・お金でしょうか。お金は必要ですが、神様・イエス様よりもお金を愛してはいけません。1980年代ころ、日本人はエコノミックアニマルというありがたくないあだ名を外国から頂戴してしまいました。1980年代後半、バブル経済が爛熟しました。日本企業は外国の資産を買いあさったそうです。実に恥ずかしい時代、バブル経済の時代でした。もちろんそれは終わりました。「時代のしるしを見分ける」なさいとイエス様はおっしゃいます。「時代のしるし」を見極めることができるクリスチャンが当時いたのであれば、「これは神様よりもお金を愛している罪深い時代だ。長続きするはずがない。悔い改めが必要だ」と見抜いたはずです。見抜いた人が何人いたか分かりません。私たちは、いつの時代でも、ムードに踊らされず、聖書を読んで地道に真実を見抜いて、足が地に着いた生き方をする者でありたいと切に願います。

 パウロはさらに書きます。「兄弟たち、あなた方が召されたとき(神様に呼ばれてクリスチャンになった時)のことを思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や身下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなた方はキリスト・イエスに結ばれ、このキリスト(十字架につけられたキリスト)は、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」

 「誇る者は主を誇れ」とは「十字架につけられた主イエス・キリストを誇れ」ということと確信します。人間の誇り・プライドは空しい。それらを素直に捨てて、ただ十字架につけられたイエス様だけが自分の救い・誇りだと本心から告白するのがクリスチャンです。ファリサイ派はプライドが高く、サドカイ派はこの世の知恵をたくさん持っていたために、「十字架につけられたイエス様こそ私の救い」と告白できなかったのです。彼らのプライドと知恵が邪魔になりました。私たちはそうならないように気をつけます。

 自分の罪を認める謙虚な姿勢を、神様は喜んで下さる。ファリサイ派にはそれがありませんでした。神様の御言葉を聞いて素直に受け入れ、へりくだり、自分の罪を悔い改めることこそ、最も知恵ある道、天国の祝福に至る道なのです。二ネべの人々は、初めは非常に悪い人々でしたが、ヨナの説教を聞いて真剣に悔い改めた。びっくりするほど素直に悔い改めました。あまりにも素直に、見事なまでに徹底的にへりくだったので、神様は二ネべの都を滅ぼすおつもりだったのですが、裁きを完全に撤回なさいました。この悔い改めこそ、私たちにとってしるし、私たちが真似すべきしるしです。

 イエス様は、弟子たちに注意を促されます。「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい。」ファリサイ派とサドカイ派の教えに注意して、それを受け入れないようにとのメッセージです。ファリサイ派とサドカイ派は、実はかなり性格が違うグループです。サドカイ派は祭司のグループのようですが、イスラエルの中で、お金持ちで世渡り上手な集団でした。当時のイスラエルを支配していたローマ帝国の人々のご機嫌を上手にとって、自分たちの特権を守ることに主に関心をもっていました。非常に「この世的」だったと言えます。ファリサイ派は、もっと信仰熱心なグループですが、イエス様から見ればファリサイ派にも大いに問題がありました。マタイ福音書23章1節以下で、イエス様がファリサイ派の問題点を詳しく語っておられます(45ページ上段から)。

 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。」ファリサイ派の全員がこうだったかどうか分かりませんが、この通りだとすると確かに罪深いです。私たちはこうならないように、正義、慈悲、誠実を大事にして生きてゆきたいのです。私たちは、イエス様の十字架の愛こそ、私たちの罪を赦す最大の恵みだと知っています。この恵みに感謝し、自分にできる範囲で愛、正義、慈悲、誠実実行したいものです。

 最後に「時代のしるしを見分ける」ことをもう一度考えるなら、今の新型コロナウイルス問題は、人間が自分だけが地球の主人公だと考え、欲望に任せて活動範囲を広げすぎたことに対する警告とも言えます。野生動物は色々なウイルスを宿しているそうです。人間が野生動物の領域にまで開発範囲を広げすぎ、野生動物に接触しなければ、ウイルスは人間に感染して悪さをしないのに、開発しすぎて野生動物の領域に入り込み過ぎたために、未知のウイルスと接触して感染し、感染が拡大する結果を招いているそうです。やはり私たち人間が思い上がらず、欲望を抑え、資源の乱開発をやめ、エネルギー消費を減らし、世界中で助け合って慎ましく生きることが必要と、気づくことが大切ではないでしょうか。神様が造られたこのすばらしい地球を大切にすることも人類の使命です。やはり皆で神様への感謝を持ち、自己中心の罪を悔い改めながら、歩むことが大切と、改めて思います。アーメン(真実に)。
 
(祈り)聖名を讃美致します。東京と日本全体で新型コロナウイルスの感染者は増え続けています。神様が私たちを憐れんで、ウイルスを無力化し感染拡大をストップさせて下さい。猛暑が早く終わり、熱中症で命を落とす方が、今後一人も出ないようにして下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。東久留米教会を出発して日本とアメリカでイエス・キリストを宣べ伝える方々とご家族に、神様の豊かな愛を注いで下さい。神様によく従う方が、日本の次期首相に選ばれますように、切にお願い致します。主イエス・キリストの御名によって、お願い致します。アーメン。

2020-08-23 1:48:03()
「愛が冷えないように―コロナの中で」 2020年8月23日(日)礼拝説教
 礼拝順序: 招詞 マタイ5:9、頌栄85、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・351、聖書 イザヤ書42:1~3(旧約1128ページ)マタイ福音書24:3~14(新約47ページ)、祈祷、説教「愛が冷えないように―コロナの中で」、祈祷、讃美歌21・457、献金、頌栄83(2節)、祝祷。

(イザヤ書42:1~3) 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。

(マタイ福音書24:3~14) イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」

(説教) 本日の新約聖書は、マタイ福音書24章3節以下を選ばせていただきました。直前の1~3節を見ると、弟子たちがエルサレムの壮大な神殿を見て、そのすばらしさをたたえたようです。それに対してイエス様が、弟子たちが予想しなかった厳しいことを言われました。「はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」壮大な神殿も壊れて、崩れ去る時が来るというのです。実際、その通りになりました。この約40年後に、ローマ軍が攻めて来て、ユダヤ人の誇りだったエルサレムの神殿を焼き討ちし、破壊してしまうのです。人間が造った物は、残念ながら永遠ではありません。いつか滅びるのです。東京の高速道路などは1964年の東京オリンピックの頃に建設したそうです。もちろん補修しているでしょうが、劣化して危険が生じてくると心配しています。東京スカイツリーは高さが634mあって世界一高い塔と聞いていますが、あの辺りに育った野球の王貞治さんは、ご自分が人々をスカイツリーに案内したときに、「この辺りは空襲で焼け野原になった所です」と言われたそうです。王さんはクリスチャンではないでしょうが、スカイツリーを世界一高いと誇りに思っている人々に、「思いあがってはいけないのです」とおっしゃりたかったのだろうと、私は思います。

 イエス様の厳しい言葉に弟子たちが驚いて、「おっしゃって下さい。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな微(しるし)があるのですか。」神殿の崩壊が約40年後に起こることをイエス様は知っておられたでしょうが、約40年後とは教えて下さいませんでした。神殿が破壊され、イスラエルの国も一旦滅びるのですが、それは世の終わりそのものではなく、世の終わりに至るプロセスの1つです。弟子たちは「あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」と言っていますから、イエス様が一度去って、天からもう一度来られるときにこの世界が終わり、神の国が完成すると知っていたようです。(ですがイエス様が十字架にかかって復活することは、聞いてはいたけれどもよくは分かっていなかったでしょう。)その時がいつなのか、父なる神様だけが知っておられます。イエス様はマルコ福音書13章で言われます。「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子(イエス様)も知らない。父だけがご存じである。」いつその時が来てもよいように、気をつけて目を覚ましていなさい、と言われます。

 弟子たちが質問した段階では、まだ世の終わりではありません。イエス様は答えられます。「人に惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がメシア(救い主)だ』と言って、多くの人を惑わすだろう。」比較的最近もこのような偽メシアは出ました。韓国の統一協会(キリスト教でない偽宗教)の教祖、オウム真理教の教祖がすぐに思い浮かびます。彼らに惑わされて人生の狂わせた人々が多くいます。そのため今の日本では宗教全体が警戒されています。偽物がはびこるときは、正しい宗教がしっかり伝道する責任があります。私は大学時代のサークル活動の後輩のM君という男性が、やや宗教的な雰囲気を持っていることを感じていながら、キリスト教会に誘わないでいました。気づいた時には彼は統一協会に誘われて共同生活をするまでに深入りしていたのです。私は「しまった」と反省しました。キリスト教会に誘っていれば来た可能性がある人でした。私が誘わないでいるうちに悪魔に先手を打たれ、彼は統一教会の信者になってしまったのです。今どこでどうしているか分かりません。統一協会を抜けてくれていることを祈るばかりです。

 「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる(ルカ福音書では「疫病」も加わり、「世の終わりはすぐには来ない」となっています)。」日本は75年前に戦争で負けて以来、幸い直接戦争を行っていません。今の日本ではあまり飢饉という言葉を聞きませんが、でも日本の食糧自給率が37%であることを考えると、輸入が止まれば即、飢饉状態になるものと恐れを覚えます。地震は阪神淡路大震災、東日本大震災が発生し、多くの方が亡くなり、被害を受けました。これらは皆、私たち人間の生存を脅かします。イエス様は、「しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである」と言われます。喜ばしい神の国が完成するための産みの苦しみだと言うのです。であれば無意味な苦しみではなく、神の国が完成するために必要な苦しみということになります。そう聞くと、少し耐えやすくなります。私は子どもの頃、「世の終わりがある」と聞いて、とても怖く感じました。でも「世の終わり」の「終わり」という言葉は、元の言葉では「目標」「完成」をも意味します。ですからただ終わって滅びておしまいではなく、神の国という究極の目標、神の愛と正義と平和の国が完成する。「世の終わり」は完成の希望に結びついていることが分かります。

 その産みの苦しみの中で、受難がある。「その時、私の名のために、あなた方はあらゆる民に憎まれる。その時、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。」神に逆らう悪魔が暴れるというのです。「多くの人がつまずく。」つまずくは、元の言葉は「スカンダリゾー」という動詞です。これはスキャンダルという言葉の語源です。スキャンダルは、不祥事、罪深いことを指します。多くの人がつまずくとは、多くの人が悪魔の誘惑に負けて罪を犯すことを意味するようです。

 「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」不法とは、神様の律法(その代表はモーセの十戒)を守らないことです。人々が、神様の聖なる意志・愛の意志を示す十戒を守らなくなる。①「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。」②「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。」③「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」④「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」⑤「あなたの父母を敬え。」⑥「殺してはならない。」⑦「姦淫してはならない。」⑧「盗んではならない。」⑨「隣人に関して偽証してはならない。」⑩「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない(貪欲の禁止)。」人々がこの十戒を守らない不法がはびこり、愛が冷える。

 私たちが今直面している新型コロナウィルス感染症の問題。恐らくこれが直ちに世の終わりではなく、世の終わり・神の国の完成に向かうプロセスの1つと思います。しかしなぜこんなことが起きたのか。世界がグローバル化したことの結果の面があります。世界中を飛行機が飛ぶようになり、道路や鉄道が伸びて、人・物・情報が短時間で世界各地に届くようになり便利になりました。でもウイルスも同じスピードで世界中に運ばれるようになり、中国で始まったこの感染症はあっという間に世界中に拡散しました。私たちが便利さ・快適さを求めて来た1つの結果、マイナスの結果と言うほかありません。

 それに近年のこの災害級の夏の暑さは、異常です。地球温暖化は現実だと思わないわけにいきません。私たちが二酸化炭素を多く出す生活をしている結果、地球温暖化が起こっていると言われます。便利と快適を求めた結果、温暖化による猛暑を招いている。私たちの自己中心の生き方、エゴイズム、私たちの罪が招いた結果と言わざるを得ません。

 私たちは新型コロナウィルスに苦しんでいます。この問題が収まるために、努力する必要があります。そのことを十二分に認めつつ、同時にある人は、もっと悪質なウイルスがあると指摘してくれます。それは困っている人々を忘れる無関心、そして自分さえよければよいというエゴイズム。私たちの自己中心の罪です。これがもっと悪質なウイルスだと。私たちは新型コロナウィルス問題の解決に一生懸命取り組むと共に、私(私たち)の自己中心・エゴイズムというウイルスとも闘う必要があります。私たちが自分のエゴイズムというウイルスと闘うことを、神様は喜んで下さると信じます。

 今は人間の命よりも効率、特に経済効率、利益追求を第一にする社会になっていないでしょうか。資本主義は弱肉強食、強い者が勝つ、強欲な仕組みではないでしょうか。資本主義万能の世の中にすると、弱い者は追い出される社会になってしまいます。それではいけませんね。弱い立場の人が大事にされる世の中を造る必要があります。私の少年時代は「学歴で人の価値を図ることは間違っている」とよく言われていましたが、今は聞きません。人の価値を生産性や有用性・有能性で決めることも間違っていて、全ての人は「神様に似せて造られた尊厳を持っている」と聖書は教えます。でも現実には、人の価値を生産性や有能性・有能性で決めているのは今の世の中。でもそれではいけません。人の価値を生産性や有能性・有用性で決めるのであれば、非常な高齢者や障がいを持つ人は生きる意味がないことになります。もちろんイエス・キリストはそのようにお考えではありません。イエス様は、障がいを持つ人や病気の人に、特に愛をもって接して下さいました。

 本日の旧約聖書は、イザヤ書42章1~3節です。これは、イエス・キリストはどんな方かを予告した言葉です。「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく」と、あります。イエス様は大声を上げてご自分を宣伝することはない。イエス様は「傷ついた葦を折らない」、つまり「傷ついた人を優しくいたわる」、「暗くなってゆく灯心を消すことなく」、つまり弱ってゆく人に暴力を加えることはなく、むしろ支えて下さる」、救い主イエス・キリストはそのような方だと、予告している、とてもよい言葉です。クリスチャンも同じで、特に弱い命を守り支える生き方をして、イエス様にお仕えしたいと願っているのです。

 最近の真に悲しい事件に、難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)の女性患者(当時51才)の依頼により、医師2名が薬物を投与して殺害したとされる事件がありました。医師2名は嘱託殺人罪で起訴されています。私はその病気になっていないので、その女性の苦しみを同じように味わっていません。それでも最後まで生きる道を選んでいただきたかったと思います。同じ病気で25年間生きて来られた佐々木さんという73才の男性のインタヴューがある新聞(赤旗 日曜版 2020年8月23日号)に出ていました(クリスチャンではなさそうです)。人口呼吸器をつけ、手足は動かず声も出ない。でも透明の文字盤に視線を送ることで介護者に言葉を伝えることができます。介護は24時間体制、ヘルパーや看護師など一日に10人は自宅を出入りします。佐々木さんも「動かなくなる体に恐怖し、眠れない夜が続きました。しかし患者仲間との出会いに励まされました。人工呼吸器をつけて10年以上元気に暮らす患者仲間です。」「生きられる。生きろ」と激励された気がしたそうです。佐々木さんは介護事業を立ち上げたり、難病患者のケア環境を改善しようと看護学校で講演したり多忙な日々を送っているそうです。もちろん多くの人の協力があってのことです。「医療・看護・介護体制の確立」があれば「ALSだって何でもできる」が持論です。前向きさに驚かされます。「ALS人生、結構楽しい、忙しい。」ご夫人は、夫の病気の25年間で「人生が豊かになった」と語られます。患者仲間や介護・看護・医療に携わる人々との出会いは「病気がなかったら知らなかった世界。」佐々木さんの言葉「全ての命は存在することに価値があります。私たち(ALSの患者さん)が軽視されるとしたら、それは命が軽視されること。ただベッドに横たわるだけの体であっても母であり、父であり、妻であり、夫であり、わが子なのです。欠かすことのできない社会的存在なのです。私は全ての患者に、だから生きられるだけ生きてほしい、と心から願います。」ALS当時者の言葉なので、貴重で説得力を感じます。私たちは、やはり命を愛し守る方向に進む必要があります。

 世の終わりに向かう時、「多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。~不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。」これでは悪魔が喜ぶだけです。これに全力で抵抗する必要があります。「多くの人の愛が冷える。」この言葉に私たちは、心を痛めますね。「愛が冷えてはいけない。」その思いを込めて、今日の説教題を「愛が冷えないように―コロナの中で」と致しました。マルティン・ルターは「明日世界が滅びるとしても、私は今日リンゴの木を植える」と言ったと伝えられます。本当にルターがこう言ったかどうか分かりませんが、誰が言ったとしても、とてもよい言葉だと思います。世界の終わりが近いのなら(私は今がそうだと言っているのではありません)、無気力にほおっておこう、ではなく「人々の愛が冷えている」と感じたら「これではいけない」と悪魔に抵抗し、「思いやりと愛を復活させる」積極的な方向に向かって立ち上がることが、神様に喜ばれる生き方と信じます。

 一時「何々ファースト」という言い方がはやりました。政治家が言い出した言葉です。「自分の国ファースト」、「都民ファースト」。自分と自分の周りを一番優先するということですが、これは単なるエゴイズムです。エゴイズムファーストにすれば、自己中心に生きる罪を肯定することになり、神様に逆らう生き方になることは明らかです。「自分ファースト」ばかりの罪に陥らないように注意したいのです。「自分ファースト」は「自己実現」と同じとも言えます。「自己実現」ばかり目指すのであれば、やはりエゴイズムです。

 社会はいつでも「不法がはびこり、多くの人の愛が冷える」ようになる可能性があります。それに抵抗することが、私たちの務めです。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」罪と悪の力が勝ちそうになる時も、最後までそれに抵抗し、愛に生きることがクリスチャンの務めです。そのような人が存在していることが、世界の真の希望です。その意味で真の愛の方イエス・キリストこそ、世の光であり、世界の真の希望です。イエス様に従おうとするクリスチャン一人一人の存在も、世界の希望です。 

 「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」これは東久留米教会の今年度の標語聖句とも響き合います。「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」必ず神の国が来る希望をもって喜び、現実の苦難を耐え忍んで少しでも愛に生きようと志し、たゆまず祈る。」まさにこれがクリスチャンの生き方だと確信させられます。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」ヨハネの黙示録には、「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう」とあります。私どもも、死に至るまで忠実にイエス様に従って、苦難を通って天国に入れていただいた時に、命の冠をいただき「忠実な良いしもべだ、よくやった」とイエス様に言っていただくことを最大の目標に、イエス様にお従いしたいのです。アーメン(真実に)。
 
(祈り)聖名を讃美致します。東京と日本全体で新型コロナウイルスの感染者は増え続けています。神様が私たちを憐れんで、ウイルスを無力化し感染拡大をストップさせて下さい。猛暑を早く終わり、熱中症で命を落とす方が、今後一人も出ないようにして下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。東久留米教会を出発して日本とアメリカでイエス・キリストを宣べ伝える方々とご家族に、神様の豊かな愛を注いで下さい。中国(特に香港)で信教の自由と民主主義が守られますように。核兵器が廃絶され、世界から戦争がなくなりますように。アメリカ西部の多くの山火事が早く鎮火しますように。主イエス・キリストの御名によって、お願い致します。アーメン。

2020-08-16 0:40:20()
「皆さん、元気を出して下さい」 2020年8月16日(日)礼拝説教
礼拝順序: 招詞 マタイ5:9、頌栄29、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・494、聖書 使徒言行録27:13~44(新約268ページ)、祈祷、説教「皆さん、元気を出して下さい」、祈祷、讃美歌21・456、献金、頌栄83(1節)、祝祷。

(使徒言行録27:13~44) ときに、南風が静かに吹いて来たので、人々は望みどおりに事が運ぶと考えて錨を上げ、クレタ島の岸に沿って進んだ。しかし、間もなく「エウラキロン」と呼ばれる暴風が、島の方から吹き降ろして来た。船はそれに巻き込まれ、風に逆らって進むことができなかったので、わたしたちは流されるにまかせた。やがて、カウダという小島の陰に来たので、やっとのことで小舟をしっかりと引き寄せることができた。小舟を船に引き上げてから、船体には綱を巻きつけ、シルティスの浅瀬に乗り上げるのを恐れて海錨を降ろし、流されるにまかせた。しかし、ひどい暴風に悩まされたので、翌日には人々は積み荷を海に捨て始め、三日目には自分たちの手で船具を投げ捨ててしまった。幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた。人々は長い間、食事をとっていなかった。そのとき、パウロは彼らの中に立って言った。「皆さん、わたしの言ったとおりに、クレタ島から船出していなければ、こんな危険や損失を避けられたにちがいありません。しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」
 
 十四日目の夜になったとき、わたしたちはアドリア海を漂流していた。真夜中ごろ船員たちは、どこかの陸地に近づいているように感じた。そこで、水の深さを測ってみると、二十オルギィアあることが分かった。もう少し進んでまた測ってみると、十五オルギィアであった。船が暗礁に乗り上げることを恐れて、船員たちは船尾から錨を四つ投げ込み、夜の明けるのを待ちわびた。ところが、船員たちは船から逃げ出そうとし、船首から錨を降ろす振りをして小舟を海に降ろしたので、 パウロは百人隊長と兵士たちに、「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない」と言った。そこで、兵士たちは綱を断ち切って、小舟を流れるにまかせた。

 夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めた。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。そこで、一同も元気づいて食事をした。船にいたわたしたちは、全部で二百七十六人であった。十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。

 朝になって、どこの陸地であるか分からなかったが、砂浜のある入り江を見つけたので、できることなら、そこへ船を乗り入れようということになった。そこで、錨を切り離して海に捨て、同時に舵の綱を解き、風に船首の帆を上げて、砂浜に向かって進んだ。ところが、深みに挟まれた浅瀬にぶつかって船を乗り上げてしまい、船首がめり込んで動かなくなり、船尾は激しい波で壊れだした。兵士たちは、囚人たちが泳いで逃げないように、殺そうと計ったが、百人隊長はパウロを助けたいと思ったので、この計画を思いとどまらせた。そして、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、残りの者は板切れや船の乗組員につかまって泳いで行くように命令した。このようにして、全員が無事に上陸した。

(説教) 本日は、連続的に読んでいるマタイ福音書等ではなく、あえて使徒言行録27章を選びました。これはイエス・キリストの使徒・伝道者パウロが囚人という思いがけない形で念願のローマに向かう場面です。パウロの伝道の人生は、本当にイエス・キリストと共に歩む人生となりました。イエス様と共に十字架(苦難)を背負い、同時にイエス様の復活の恵みをもいただく人生。試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道も備えられた人生でした。「既に断食日も過ぎていたので、航海はもう危険であった。」理性的に考えて、航海が危険な季節に入っていた。パウロは航海が危険になることを、見通していました。「皆さん、私の見るところでは、この航海は積み荷や船体ばかりでなく、私たち自身にも危険と多大の損失をもたらすことになります。」しかしパウロの意見は採用されず、船は乗り出してしまいました。しかも最初は順調にゆきそうに見えたのです。船はまさに運命共同体です。

 13~15節「ときに、南風が静かに吹いて来たので、人々は望みどおりに事が運ぶと考えて錨を上げ、クレタ島の岸に沿って進んだ。しかし、間もなく『エウラキロン』と呼ばれる暴風が、島の方から吹き降ろして来た。船はそれに巻き込まれ、風に逆らって進むことができなかったので、私たちは流されるに任せた。」 海と水は「命の源」のイメージもありますが、聖書では海と大水は、「混沌」のシンボル、「混乱」のシンボル、はっきり言えば死の恐るべき力のシンボルでもあります。9年前の東日本大震災の大津波を思えば、大水が巨大な破壊の力、恐るべき力を持っていることは私たちによく分かります。そして船は、聖書ではしばしば教会のシンボルです。ノアの箱舟も教会のシンボルと言えます。しかし今日の場面では、エウラキロンの巨大な力に翻弄される船は、人類社会全体のシンボルとも言えます。エウラキロンも巨大な死の力のシンボル、今の私たちにとっては新型コロナウイルスそのものに見えます。276人が乗っているのですから、小さな船ではありません。中型船あるいは大型船でしょう。しかし猛烈にふきすさぶエウラキロンの前に、木の葉のような頼りなさです。

 20節「幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消え失せようとしていた。」太陽も星も見えなくては、どこを漂流しているのかすら、全く分かりません。船の中には絶望感が漂っていたに違いありません。パウロ以外は皆、生きた心地がしなくなっている。もはや万策尽きた。ところが囚人の老いたパウロが人々の精神的な柱になるのです。「人々は長い間、食事をとっていなかった。そのとき、パウロが彼らの中に立って言った。『皆さん、私の言ったとおりに、クレタ島から船出していなければ、こんな危険や損失を避けられたに違いありません。しかし今、あなた方に勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。』」船は失う。でも皆さんのうちだれ一人として命を失う者はない。そう断言します。

 大きな病気等を乗り越えた方が時々言われます。「生きてるだけで丸もうけ」だと。私たちはもしかすると欲が深くて、生きているだけでは足りなくて、あれもこれも加えないといけない、と思っているのです。しかし当たり前のことですが、新約聖書のテモテへの手紙(一)6章には、「私たちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる者と着る物があれば、私たちはそれで満足すべきです」と書かれています。船は失っても、命さえ助かれば十分です。

 パウロは確信をもって語ります。「私が仕え、礼拝している神からの天使が昨夜私のそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せて下さったのだ。』ですから、皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に告げられたことは、その通りになります。私たちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」 パウロはいつも祈り、神様と共に歩んでいます。天使がパウロにはっきり語ったのです。「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝(ローマ皇帝)の前に出頭することに定められている。」それまでは死ぬことがない。パウロが助かるのなら、ほかの人も皆助かるはずです。「だから皆さん、安心して下さい。元気を出して下さい」とパウロは、確信を込めて人々を励まします。困難な中にあって、確かな根拠に基づいて人々を励ます、人々に希望を与える。これこそ神の人の尊い使命です。

 天使は言いました。「神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せて下さったのだ。」神様は囚人パウロを、276名全員を支えるリーダーとしてお立てになったということです。宗教改革者マルティン・ルターの言葉だったように覚えていますが、「世界を支えているのはクリスチャンの祈りだ」という言葉を聞いたことがあります。クリスチャンの祈りがこの世界を滅びから救っていると。クリスチャンの祈りが世界の滅亡を食い止めていると。私たちはそれを聞いて、自分一人の祈りにはそれほど力がないと感じるかもしれません。でも仮に、世界中のクリスチャンが全員祈りをやめたら、どうなるでしょうか。この世界はもっとひどい悲惨な状態になるのではないでしょうか。確かに今の世界にはコロナの苦しみもありますし、愛と正義と平和が十分には行われていない嘆かわしいこと罪深いことも多くあります。でも愛と正義と平和が行われるようにクリスチャンが世界中で祈っているから、まだこれくらいの悲惨で済んでいると言っては、問題でしょうか。世界中のクリスチャンが祈ることを一斉にやめたら、世界はもっともっと悲惨になると思うのです。ですから私たちは、自分一人祈ったところで何も変わらない、世界に何の影響もないと思うべきではありません。あなた一人の祈りは大きな力であり、あなたが祈れば色々なところによい効果が現れるのです。あなた一人が祈りをやめれば、いろいろなところにマイナスの結果が現れるのです。一人の祈りの責任は大きいのです。

 一人が祈るか祈らないかは、結果に大きな違いを生みます。一人が誰かのために祈れば、必ずどこかで一人の笑顔が生まれるはずです。まして世界中のクリスチャンが一斉に祈りをやめれば、世界は本当に滅びるのではないでしょうか。クリスチャンの祈りが世界を破滅から救っているのは事実です。もちろん最終的に世界を救うのは神様です。でもその中で、一人の人の祈りであっても、大きな役割を果たしている。確かにクリスチャンの祈りが、世界の滅びを食い止めているのです。天使は言いました。「神は、一緒に航海しているすべての者を、あなた(パウロ)に任せて下さったのだ。」私たちにも、世界のために祈る責任が委ねられています。

 パウロの精神的リーダーとしての姿勢は力強いですね。どこかの陸地に近づいていると感じられた時に、船員たちが船から逃げ出そうとし、船首から錨を降ろす振りをして小舟を降ろしました。責任を放棄して逃げ出そうとしたのです。パウロがそれを見つけ、「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなた方は助からない」と言います。現実的に船員の力がないと船をコントロールできません。パウロは船員たちの身勝手な行動を阻止します。そこで、兵士たちが綱を断ち切って小舟を流れるに任せ、船員たちは逃げ出せなくなりました。船には、船長と船員たち、ローマの百人隊長と兵士たち、囚人パウロと他の囚人たち、いろいろな立場の人々が乗っていました。ルカによる福音書を書いたルカも乗っていました。社会の縮図です。この命の危機を乗り切るためには、皆の協力が必要です。パウロ一人で全体を助けることはできません。私たちがコロナの禍を乗り越えていくためにも、市民全員の協力を必要としています。

 しかしその中でパウロは、確かに神に助けられて、囚人なのに精神的リーダーになっているのです。パウロは一同に勧めます。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごして来ました。だから、どうぞ何か食べて下さい。生き延びるために必要だからです。あなた方の頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。そこで一同も元気づいて食事をした。

 「さあ、パンを食べて元気を出しましょう。神が共にいて助けて下さいます。皆さんは必ず助かります。でも食べておかないと助かる命も助かりませんよ。」パウロは人々を落胆させる言葉は語らず、肯定する言葉、プラスに励ます言葉を語り、祖先して神様に感謝の祈りを献げて、行動をもって船の全員、運命共同体の全員を引っ張ります。パンを食べる。それは神様の恵みを十分に受けることです。その前に「感謝!」の祈りを献げることが既に、プラスの行動です。パウロの行動によって人々は希望の光を感じ、彼を真似する行動をとり始めました。276名全員が十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。穀物を捨てるとは大胆に見えますが、船が陸地にたどり着くためには、適切な行動なのでしょう。身軽になって陸地に早く確実にたどり着けるようにする。この先も神様が助けて下さると信頼して、今は進まなければなりません。「錨を切り離して海に捨て、舵の綱を解き、風に船首の帆を上げて、砂浜に向かって進む。」これは船のプロである船員たちの仕事です。船員が逃げていたら、これができませんでしたね。その後、船が座礁し壊れ始める。兵士たちが囚人たちの逃亡を防ごうと囚人たちを殺そうと計ったが、百人隊長はパウロを助けたいと思ったので、命令してやめさせた。百人隊長ユリウスにしてみれば、パウロをローマ皇帝の前に立たせるためにローマに確実に護送する責任があり、これまで全員がパウロに心を支えてもらった恩義もある。このままではパウロも殺されるので、パウロを含め囚人全員を殺させない命令を下しました。パウロがいたお陰で囚人全員の命が助かりました。これも神様の愛のお働きです。こうして神の恵みにより276名全員がマルタ島に上陸して助かった。皆の協力があり、そしてパウロの信仰に支えられて、皆が約2週間に及ぶ死の大きな危機を乗り切りました。

 祈りのリーダーの存在が大切であることを感じます。左近豊(とむ)著『信仰生活の手引き 祈り』(日本キリスト教団出版局、2016年)の94~95ページに次のように書かれています。「2010年に起こったチリのコピアポ鉱山落盤事故で、地下深く700メートルに閉じ込められた33人が約70日後に救出されたことを思い起こされる方もおられるかもしれません。~あの劣悪な環境と、いつ助けが来るかわからない絶望とわずかな食糧と暗闇の中で、最初の18日間は地上との音信もなく、その後も困難を極める救出活動の中で、毎日12時と午後6時に集まって祈り、秩序と希望を保ち続けたと言われています。この人たちが救出された時に着用していたTシャツには詩編95編4節の言葉『深い地の底も御手の内にあり、山々の頂も主のもの』がプリントされていたと言います。~そして救出された一人が言った言葉が報じられていました。『地下にいたのは33人ではなく、34人だった。神が我々と共にいたからだ』と。」チリでは80%がカトリック、15%がプロテスタントだとある資料にありました。

 別の本『チリ33人 生存と救出、知られざる記録』(共同通信社、2011年、168ページ)にはこう書かれています。「昼食の配送は正午に始まり、食事が全部到着するまでにたっぷり1時間半かかった。『昼食が済むと、彼らは全員でミーティングを行い、そこで祈りを始める。』」「通常、ホセ・エンリケス(牧師)が日々の祈りを主宰した。『ドン・ホセ』はイエスと日々の説教のために生きていた。当初、ささやかな祈りのグループとして始まったが、そのうち本格的な福音派の集会へと転じていった。いつも20人が彼のミサに出席した。時にはそれ以上が集まった。」エンリケスという人がリードして祈りの集会が行われていたのですね。地上でも、家族が祈りの祭壇を築いて33人の救出を祈っていたそうです。もちろんどのようにドリルで通路を開いて救出するか、多くの技術者が協力していました。そしてとうとう全員の救出が実現したのです。私も東久留米で彼らの救出を祈っていましたし、皆さんもそうでしょう。世界中で祈っていたはずです。救出が報道された日、私も晴れ晴れとした気持ちになって、教会のお隣の阿部さんの奥さんと、「よかったですね」と喜び合いました。

 クリスチャンは祈ることを知っているのですから、皆が祈りのリーダーです。神様に支えられたパウロの信仰と祈りが他の275名に希望を与えました。真の神様に支えられた祈りだけが真の希望をもたらすと感じます。私も日々祈っているつもりですが、9年前の東日本大震災の原子力発電所事故の時は、生きた心地がしない中で必死に祈りました。原子力発電所が致命的な大爆発を起こさないように必死に祈りました。大爆発すれば東日本は壊滅するとの説もありました。多くの人の祈りがあったと思います。原発は爆発しましたが、致命的な大爆発は免れたようで、東日本全体の壊滅には至りませんでした。神の憐れみと思います。コロナで傷ついている今の日本と世界にあって神様の助けを求めて祈り続けましょう。この町の方々、日本と世界が希望を回復することができるよう、コロナの鎮静化を祈り続けたいのです。アーメン(真実に)。

(祈り)聖名を讃美致します。東京と日本全体で新型コロナウイルスの感染者は増え続けています。神様が私たちを憐れんで、ウイルスを無力化し感染拡大をストップさせて下さるように切にお願い致します。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。東久留米教会を出発して日本とアメリカでイエス・キリストを宣べ伝える方々とご家族に、神様の豊かな愛を注いで下さい。中国(特に香港)で信教の自由と民主主義が守られますように。核兵器が廃絶され、世界から戦争がなくなりますように主イエス・キリストの御名によって、お願い致します。アーメン。