日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2020-10-01 0:22:51(木)
伝道メッセージ 8月 石田真一郎
「初めに神は、天地を創造された」(旧約聖書・創世記1章1節)

 東久留米市にも白洋舎というクリーニング店があります。創業者の五十嵐健治さんはクリスチャンです。1877年に生まれ、若い時に北海道に行き原生林開拓のタコ部屋に入れられて奴隷のように働かせられ、脱出して小樽に行きました。人生に絶望していると、中島佐一郎というクリスチャンに会い、神様の愛を知り希望を得ます。洗礼を受け、クリスチャンになります。聖書冒頭の「初めに神は、天地を創造された」という言葉を読み、「この世界と宇宙は、神様が愛を込めてお造りになったのか!」と深い感動で胸がいっぱいになります。私は朝焼けを見ると、美しさに心打たれ、アジサイの花やアゲハ蝶の羽の美しさにも見とれ、それらを造った神様こそ最高の芸術家と感じます。五十嵐さんは、朝起きるとまず神様に「今日一日を導いて下さい」と祈り、「このことをなすべきでしょうか、なさないべきでしょうか」と、神様に祈り相談するようになります。

 三越に入社しますが、日曜日に教会の礼拝に行けないので退社します。1906年に白洋舎を創設。当時、洗濯屋さんは他人の洗濯物を洗う仕事と軽蔑されていました。でもイエス様は、へり下って12人の弟子たちの汚れた足を洗われ、私たち皆の汚ない罪を全て身代わりに背負って、十字架で死に、三日目に復活されました。五十嵐さんは、他人の洗濯物をきれいに洗って返す洗濯業こそ、イエス様に従う自分に一番ふさわしいと信じました。

 1923年9月1日の関東大震災の時、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」という根拠のないデマが飛び、多くの朝鮮の方々が殺されました。あってはならないことです。白洋舎で朝鮮人の二人の少年が働いていました。自警団が血相を変えて「朝鮮人を出せ。殺す」と来ました。五十嵐さんが「あの若者たちはもういない。いても、何の罪もないのに渡すことはできない。
まず私を殺しなさい」と迫ると、引き揚げました。二人を守りました。

 従業員がライバル会社を造り、白洋舎の社員たちに白洋舎の信用を落とす行為をさせ経営が危機になった時、怒りでいっぱいになったが、礼拝で祈っている時にイエス様の十字架が思い浮かび、「あなた方を迫害する者のために祝福を祈りなさい。~悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(新約聖書・ローマの信徒への手紙12章14、21節)等の言葉を
思い出し、神様に助けられて乗り越えたそうです。アーメン(「真実に」)。

2020-10-01 0:20:59(木)
伝道メッセージ  7月分  石田真一郎
「人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法(神の戒め)によって違反者と断定されます」(新約聖書・ヤコブの手紙2章9節)

 今、アメリカで人種差別が、改めてクローズアップされています。白人警察官が黒人を死なせる事件が続き、抗議デモがアメリカで始まり、渋谷でもありました。人種差別はアメリカの根深い病気です。コロナでも黒人の死者が多い、貧困地区で生活し働いているからです。弱い部分にしわ寄せがいきます。アメリカは1776年の独立宣言で「全ての人間は平等に造られている」と理想をうたいますが、完全に実現できなかったのです。昔は罪深い奴隷制度がありましたが、南北戦争中の1862年にリンカーン大統領が奴隷解放を宣言します。神様が約100年後にマーティン・ルーサー・キング牧師を誕生させ、非暴力の黒人差別撤廃運動が盛り上がります。キング牧師は、まさに「敵を愛しなさい」と言われたイエス様に従った人です。

 彼のスピーチ「私には夢がある」(1963年)は、日本の中学の英語の教科書にのるほど有名です。「私はいつの日かジョージア州の赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫と奴隷主の子孫とが、兄弟愛のテーブルに一緒に座るようになる夢をもっている。私の四人の小さな子どもたちが、皮膚の色によってではなく、人格の深さによって評価される国に住むようになる夢をもっている。」この夢は、神様が与えるヴィジョンです。

 彼は白人優位主義者から脅迫を受け、黒人教会爆破事件もあり、勇気を失いかける時もありました。祈りの中で、イエス様の励ましを受けたと告白します。「マーティン・ルーサーよ、義のために立て、真理のために立て、私はあなたと共にいる、世の終わりまで共にいる、あなたを決して一人にしない。」彼は1968年に39才で暗殺されたが、十字架で死に三日目に復活したイエス様と共に生きた、尊敬すべき信仰の生涯です。

 2008年にアフリカ系のオバマさんが大統領になり、人種差別は減ったのかと思いましたが、まだまだあるようです。キング牧師の夢は少しずつ前進しているが十分には実現していないことを、最近の抗議デモで感じます。太平洋戦争中は日系人も収容所に入れられる差別を経験しました。でもアメリカには人種差別と、「それは悪だからなくそう」と強く主張する良心の両方があります。日本にも在日韓国・朝鮮の方々へのヘイトスピーチや、部落差別の罪が存在します。この罪を日本からなくすために努力することが、私たち大人の責任です。アーメン(「真実に」)。

2020-09-27 0:52:49()
「水をワインに変えるキリストの愛」   2020年9月27日(日)礼拝説教
礼拝順序: 招詞 マタイ22:37~39、頌栄85(2回)、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・482、聖書 ヨハネによる福音書2:1~12(新約165ページ)、祈祷、説教「水をワインに変えるキリストの愛」、祈祷、讃美歌21・493、献金、頌栄83(2節)、祝祷。 

(ヨハネによる福音書2:1~12) 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。

(説教) 本日は「はじめて聞く人にわかる聖書の話」礼拝においで下さり、心より感謝申し上げます。先ほど読みました新約聖書のヨハネによる福音書2章1節以下は、昔から教会で大変愛されてきた箇所です。「三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母(マリアさん)がそこにいた。イエスも弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った。イエスは母に言われた。『婦人よ、私とどんなかかわりがあるのです。私の時はまだ来ていません。』」

 2000年前のイスラエルの北の方のカナという村が舞台です。その頃、婚礼(結婚式)は最大の祝福の行事だったそうです。今のように多くの娯楽があるわけではありません。平日の6日間は労働、イスラエル人の安息日である土曜日は礼拝、ほとんどの人にとってはその繰り返しだけが人生だったと思うのです。ちなみにキリスト教会にとっては、イエス様が復活なさった日曜日が礼拝の日です。今の私たちよりきっと貧しく、安息日以外は労働の連続だった当時の庶民にとって、婚礼は少ない楽しみの1つ、最大の喜びだったそうです。イスラエルの婚礼は、時には一週間も続いたそうです。その最大の喜びの宴で、肝腎のぶどう酒が足りなくなってしまった。これでは白けてしまいますね。主催者は花婿と花嫁、その親だったかもしれませんが、彼らが知ったら真っ青になってしまうでしょう。でもその前に、裏方で働いている人々がいち早く知ったと思われます。イエス様の母マリアさん、きっとこの時45才くらいと思いますが、マリアさんも裏方で働いていたのでしょう。この困った出来事を知ったのです。「ああ、どうしましょう。」マリアさんも途方に暮れたと思うのです。マリアさんは、我が子であるイエス様のもとに行って訴えます。
「ぶどう酒がなくなりました。」

 イエス様の答えは、一見驚くほど冷淡です。「婦人よ、私とどんなかかわりがあるのです。」「どんなかかわりがある」どころではありません、マリアさんがイエス様を産んだ実の母親です。「婦人よ」という呼びかけ方が、よそよそし過ぎる印象を受けます。教会が大切にするモーセの十戒の第五の戒めに「父母を敬え」とありますが、イエス様が母親を敬っていないとさえ感じる人もあると思います。

 でも実はそんなことはありません。イエス様は、父なる神様のご意志であるモーセの十戒を完全に尊重され、「父母を敬え」の戒めも十分に守ってこられました。でですがイエス様は、マリアさんの長男である(つまり肉体を持つ人間である)と同時に、父なる神様の子です。父なる神様の子との使命を最優先する必要があるのです。それは最終的には十字架にかかって私たち全ての人間の罪を身代わりに背負い、三日目に復活することです。それがイエス様の最大の使命です。でもまだその時はない。全てのことには時がある。その時は、もう暫く先です。それでイエス様は、「私の時はまだ来ていません」と言いました。でもこう言いながらも、イエス様は結果的にはマリアさんの願いを叶えて下さっています。ある人は想像します。「婦人よ、私とどんなかかわりがあるのです。私の時はまだ来ていません」と冷たく突き放すように見えつつも、きっとイエス様の声の調子は柔らかく、顔付きや目付きは厳しくこわばっていないで、ほほ笑みを含んでいたのではないか、と。イエス様の言葉が冷淡に聞えるけれども、このような言い方をしてもコミュニケーションが壊れないほど、イエス様とマリアさんの間には愛と信頼が確立していたのだと。

 ですからマリアさんは、その直後、召し使いたちに、「この人(イエス様)が何か言いつけたら、そのとおりにして下さい」と言えたのです。これはわが子イエス様を全面的に信頼していないと言えない言葉です。イエス様はマリアさんの願いをすぐ聞いて、神の子としての奇跡を起こす力を用いてぶどう酒を作って補充しては下さいませんでした。でもマリアさんのイエス様への信頼は、全く揺らがなかったのです。マリアさんは非常に信仰的な方向に進んだのです。マリアさんの言葉は、私たちの信仰にとっても大切なことです。「この人(イエス様)が何か言いつけたら、そのとおりにして下さい。」私たちがなすべきことは、イエス様の御言葉に従い、あとはイエス様が最善をなして下さると信頼して委ねる、信頼して委ねて待つことです。ここには召し使いたちが、イエス様に実に見事に従っている姿が書かれています。召し使いを元の言葉で見ると、「奉仕者」という言葉です。ここでの召し使いたちは、教会の奉仕者を暗示すると思われます。私たち教会の奉仕者に求められることは、イエス様に忠実にお仕えすることです。忠実であることが非常に大切です。

 6~7節「そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水かめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、『水がめに水をいっぱい入れなさい』と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。」聖書巻末を見ると、一メトレテスは、約39リットルです。約40リットルと考えれば、二~三メトレテスは、80~120リットルです。その水がめが6つ置いてあったので、全容量は約600リットルくらいでしょう。一人分のお風呂の容量が160~200リットルだそうですから、一人分のお風呂3~4個分の容量ということになります。それほどの分量でないとも言えますが、井戸まで水を汲みに行って何回も、もしかすると10回か20回往復すると考えると、きっとかなりの労働だったのではないでしょうか。分担すればそれほどでない可能性もありますが。井戸まで近ければよいですが、もし遠かったらなかなかの労働になります。まして暑い日だったらもっと大変だったでしょう。召し使いたちは6個の水がめ全部の縁まで水を満たしました。85%くらい水を満たしておけばよいだろうと勝手に考えて、手抜きすることはありませんでした。ここは立派で、私も見習いたいと思います。この無名の召し使いたちは、実に忠実でした。

 昨日ふと思い出したことは、ある方から聞いたのですが、東久留米教会の初代牧師の浅野悦昭先生の奥様・浅野眞壽美先生がおっしゃったそうなのですが、競技場の観客席でいつまでも眺めているだけでなく、競技場の中で競技する人になり、実際に走ってみなさい、と言われたそうです。いつまでもためらっていないで、思い切って洗礼を受けなさいという勧めです。洗礼は無理やり強制すべきものではないし、全然信じていないし納得できないのに無理やり受けるものでもありません。でも大きな恵みであることは事実ですから、教会に半年なり1年間くらい通って、聖書も少しずつ読み、イエス様が神の子だということは信頼してよさそうだとある程度見当がついたら、洗礼に進む方がよいという先輩クリスチャンからのアドヴァイスですね。観客・第三者として客観的に眺めているだけでなく、競技場の選手になって走ってみて初めて信仰も本当のことが分かるのです。もちろん全く何の情報もないままに飛び込む無謀を犯すべきではなく、信頼して間違いなさそうだと思えたら、多少思い切ってイエス様の招きに応えて信仰の「当事者になる」ことが大切だと、浅野眞壽美先生はお勧めになったのです。分かりやすく、「なるほど」と思わせられる信仰の知恵あるアドヴァイスです。信仰の先達から学ぶことは多くあります。

 召し使いたちは、イエス様の言葉を割り引かないで、非常に忠実に従いました。すると後は、神の子イエス様が働いて下さいます。9~10節「イエスは、『さあ、それを汲ん宴会の世話役のところへ持って行きなさい』と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水を汲んだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。『だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたはよいぶどう酒を今まで取っておかれました。』」世話役が唸るほどの最高のぶどう酒、極上のぶどう酒だったのです。このぶどう酒はイエス・キリストの愛のシンボル、父なる神様の愛のシンボル、天国のシンボル、聖霊(神の清き霊)のシンボルです。これがないと、私たちの心に本当の慰めと喜びが沸いてきません。この極上のワインはどこから来たか、水を運んだ召し使いたちだけが知っていました。それはイエス・キリストから来たのです。召し使いたちが6つのかめの縁までいっぱいに入れた水が、結婚式の場に運んでいる途中で、極上のワインに変わったのです。イエス・キリストの愛の力によって。イエス様はこうして、「私の時はまだ来ていません」と言いながらも、マリアさんの願いに応えて、ぶどう酒を作り出して下さったのです。

 私たちは学びます。私たちに必要なことは、イエス様が「しなさい」とおっしゃることに忠実に従うことだということを学びます。あとはイエス様が責任をもって働いて下さいます。そんな事例がこのヨハネによる福音書には、よく出てきます。6章では、ガリラヤ湖の近くで非常に大勢の群衆がお腹をすかせていた時、アンデレという弟子が、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と言いました。そしてイエス様がパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられると、人々は皆満腹したのです。次は11章です。ラザロの復活と呼ばれる場面。イエス様の友ラザロという男性が死んで墓に葬られて四日たっていました。イエス様は墓の前で人々に、「その石を取りのけなさい」と言われます。死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ(イエス様)、四日もたっていますから、もうにおいます」と言いました。これは「石を取りのけるなど意味がないことだ」と暗に言ったのと同じです。ところがイエス様はおっしゃいます。「もし信じるなら、神の栄光が見られると言っておいたではないか。」人々はイエス様の言葉に従います、墓石を取りのけたのです。するとイエス様は天の父なる神様にお祈りされ、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれました。すると死んでいたラザロが墓から出てきたのです。人々がイエス様の御言葉(これは教会用語、お言葉と言っても同じ)に聞き従うと、あとはイエス様が、神の子としての偉大な愛の力を発揮して、神の栄光(神のすばらしさ)を明らかに示して下さいました。

 そして21章です。イエス様の十字架の死と復活の後のことです。イエス様の弟子たちがガリラヤ湖で漁をしました。これは教会の伝道を象徴していると思われます。しかしその夜は、全く何も獲れなかったのです。そこへイエス様の声が響きます。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」このイエス様の御言葉に従って実行したところ、魚があまり多くて、もはや網を引き揚げることもできないほどの漁獲がありました。イエス様の御言葉に忠実に従ったところ、後はイエス様が神の子としての愛の力を発揮して下さったのです。今日のカナの婚礼の場面も同じです。イエス様に言われた通り6つの水がめ全部を縁まで水で満たした、その中身を汲んで婚礼の世話役の所に持っていきました。すると神の子イエス様が愛の力を発揮され、水が何と極上のぶどう酒に変わっていたのです。大事なことは、私たちがイエス様の御心に懸命に従うこと、服従することだと思われます。後はイエス様ご自身が働いて下さることを信じて、祈って待つことが必要ではないでしょうか。イエス様、「もし信じなら、神の栄光(神のすばらしさ)を見ることができる」と約束しておられるのですから。

 今日の11節「イエスはこの最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」イエス様が行われる奇跡を、ヨハネ福音書は「しるし」と呼びます。これらの奇跡は、イエス様が神の子・真の救い主であることを示すしるしだということが非常に大切です。奇跡を見て「すごいな」と思うだけでなく、これをなさったイエス様が神の子・真の救い主であることを悟って信じることが、しるしの目的なのです。この福音書の20章の最後に、このヨハネによる福音書が書かれた目的が書いてあります。「これらのことが書かれたのは、あなた方が、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命(永遠の命)を受けるためである。」今日のイエス様の水をぶどう酒に変えて婚礼を祝福して下さったしるし(奇跡)も、その箇所から語るこの説教を聴いていただく目的も、聴いて下さった方が、「イエス・キリストこそ真の神の子、私の全ての罪を私の身代わりに背負って十字架で死なれ、三日目に復活された私の救い主」と信じて下さることです。

 今日の場面について改めて思いを致してみると、ぶどう酒がなくなったことは、結婚式が行き詰まったことを意味します。ぶどう酒を神の愛と祝福のシンボルと見れば、神様の愛と祝福なしには、神様なしでは人生は行き詰まることを表していると言えます。旧約聖書の箴言10章22節に、「人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない」という御言葉があります。「人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない。」神様を信じている人も、信じていない人も皆、イエス・キリストの父なる神様から命をいただき、この神様から家族や日々の食物をいただいて生かされているのです。ですから神様なしで生きている人は、実は一人もいません。しかし大事なことは、自分がこの神様から尊い命をいただいている(正確には預かっている)ことを、神様に自覚的に感謝して、神様に自覚的にお祈りして生きることでしょう。神様に特に感謝しないで生きて来たことから方向を転換して、この神様のもとに立ち帰り、神様と共に生きる決断をすることです。

 私たちは今、コロナという行き詰まりの中にいます。もちろんコロナがなくても、いろいろな行き詰まりは起こります。たとえ人生100年時代だとしても、最後には死という行き詰まりがあります。思うに行き詰まりは、神様に立ち帰るチャンスではないでしょうか。行き詰まりが全然なければ、私たちは神様に立ち帰らないのではないでしょうか。行き詰まりがあり、自分の行く手に限界があることを知り、私たちは自分の生き方がこれでよいかを考え直し、私たちの命を現に支えておられる神様の元に帰ろうと思うのではないでしょうか。神様が願う私たちの生き方は、神を愛し、隣人を愛する生き方です。誰かが言っていましたが、「コロナウイルスには国境がないので、このウイルスに対する抗体(対抗する力)は国境を超えた愛だ。」本当にそうだと思います。

 旧約聖書の出エジプト記を読むと、神の民イスラエルを虐待するエジプト国とファラオ(王)に、神様が様々な災いを下されます。その中に疫病の災いがあることに気づきました。だからと言って、今回のコロナが神からの裁きだと断定するつもりはありません。神様がエジプトに下された様々な災いは、エジプト人とそのファラオ(王)が、イスラエル人たちを虐待する罪を悔い改めて、真の神様に立ち帰ることを願って、神様が与えた災いでした。疫病の災いもそうです。ですがエジプト人たちとファラオは罪を悔い改めず、真の神様に立ち帰ることを拒みました。神様は忍耐強くエジプト人たちとファラオの悔い改めを待たれたのですが、遂に悔い改めなかったので、イスラエル人たちがエジプトを立ち去る時に、ファラオの軍隊は紅海という海で神によって打ち破られました。

 今回のコロナが早く収まることを祈りますし、危険を冒してコロナと闘っているドクター・看護師さん方の健康が守られるように切に祈ります。コロナももしかすると、私たちを含め、世界の全ての人が神様にいよいよ立ち帰って、自分の罪を悔い改め、自分たちの生き方を考え直し、神と隣人を愛する歩みに入るようにと神様が発生を許された行き詰まり、神様に立ち帰るきっかけ、貴重な機会、ある意味チャンスとして用意された大切なときではないのか、と思えます。自分の国さえよければよいというエゴ・罪を捨てて、世界が神様に喜ばれる力を合わせて助け合う世界になるならば、この行き詰まりが生かされたことになるのではないかと思います。9年前の大地震、津波、今回のコロナ、みな、私たちが自分勝手な方向に突き進むことをやめて、神様に立ち帰って神と隣人を愛し、互いに助け合う生き方に方向転換する貴重な機会なのではないでしょうか。そうなれば、それは神の栄光になります。それを全然しないで神に打ち破られたエジプトのファラオのようにならないために、私たちに旧約聖書の出エジプト記が与えられているという見方も可能だと思います。

 私たちがそのように自己中心でない愛に生きて、神の栄光を現させていただくために、私たちにはイエス様と、神の御言葉(聖書)と神の清き霊(聖霊)が必要です。今日のヨハネ福音書で言えば、イエス様が造って下さったぶどう酒です。ぶどう酒は、神の愛・祝福、聖霊(神の清き霊)のシンボルです。私たちに神の聖霊が豊かに注がれ、愛と力を合わせてコロナに負けない世界を築けるように、ご一緒にお祈り致しましょう。アーメン(真実に)。 

(祈り)聖名を讃美致します。東京と日本全体で新型コロナウイルスの感染者がまだ増え続けています。神様が私たちを憐れんで、ウイルスを無力化し感染拡大をストップさせて下さい。世界が助け合って、このピンチを乗り越えることができますように。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。東久留米教会を出発して日本とアメリカでイエス・キリストを宣べ伝える方々とご家族に、神様の豊かな愛を注いで下さい。教会学校の子どもたちの信仰を、神様がぜひ守っていて下さい。日本の新しい首相が、神様によく従って歩まれますように、導いて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2020-09-20 1:01:04()
「神に与えられた信仰の友」 2020年9月20日(日)礼拝説教
 礼拝順序: 招詞 マタイ22:37~39、頌栄29、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・17、聖書 箴言18:24(旧約1015ページ)、ローマの信徒への手紙16:1~16(新約297ページ)、祈祷、説教「神に与えられた信仰の友」、祈祷、讃美歌21・459、献金、頌栄83(1節)、祝祷。

(箴言18:24) 
友の振りをする友もあり/兄弟よりも愛し、親密になる人もある。

(ローマの信徒への手紙16:1~16) ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベを紹介します。どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です。
 キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。また、彼らの家に集まる教会の人々にもよろしく伝えてください。わたしの愛するエパイネトによろしく。彼はアジア州でキリストに献げられた初穂です。あなたがたのために非常に苦労したマリアによろしく。わたしの同胞で、一緒に捕らわれの身となったことのある、アンドロニコとユニアスによろしく。この二人は使徒たちの中で目立っており、わたしより前にキリストを信じる者になりました。主に結ばれている愛するアンプリアトによろしく。わたしたちの協力者としてキリストに仕えているウルバノ、および、わたしの愛するスタキスによろしく。真のキリスト信者アペレによろしく。アリストブロ家の人々によろしく。わたしの同胞ヘロディオンによろしく。ナルキソ家の中で主を信じている人々によろしく。主のために苦労して働いているトリファイナとトリフォサによろしく。主のために非常に苦労した愛するペルシスによろしく。主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。アシンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス、および彼らと一緒にいる兄弟たちによろしく。フィロロゴとユリアに、ネレウスとその姉妹、またオリンパ、そして彼らと一緒にいる聖なる者たち一同によろしく。あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストのすべての教会があなたがたによろしくと言っています。

(説教) 月1回を目標に、礼拝でローマの信徒への手紙を読み続けて参りました。今日を含め、あと2回で終了すると思います。16章の後半を見ると分かりますが、この手紙は口述筆記で書かれた手紙です。パウロが晩年にローマに初めて行く数年前、紀元57年前後に書かれたと推定できます。パウロはここまで情熱的にイエス・キリストの福音を語り、そしてイエス様の十字架の愛(福音)によって救われた私たちがどのように生きればよいかを、懸命に語って来ました。そして今日の箇所では、まだ見ぬローマのクリスチャンたちに平和と愛の挨拶・メッセージを、心を込めて語っています。ここには、明確に名前が出て来る人々だけで25名、それ以外に、「アリストブロ家の人々」、「その母」、「彼らと一緒にいる兄弟たち」という言い方で明確に名前が出て来ない人々もあります。ローマの教会は、立派な専用の建て物を持っていたわけではなく、「家の教会」だったのですが、大きな家だったのかもしれません。これだけ多くの人々が集まっていたのです。まだ見ぬ教会の人々をこんなに多く知っていたのかと、不思議にも思いますが、行く前からいろいろなクリスチャンを通して、ローマの教会の人々の名前や様子を知り祈っていたのでしょう。

 1節「ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、私たちの姉妹フェベを紹介します。どうか、聖なる者にふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなた方の助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげて下さい。彼女は多くの人々の援助者、特に私の援助者です。」ケンクレアイは、パウロが懸命に伝道を行ったギリシャの大都会コリントのすぐ近くの港町です。『聖書の世界』という写真の多い本に、ケンクレアイの教会の跡とされる石を土台とする建て物の遺跡の写真が出ていて、「フェベの教会跡」と呼ばれているそうです。

 このフェベという女性が、パウロが口述筆記で書いたこの手紙を持ってローマに行ったと考えられます。パウロが全面的に信頼しているクリスチャン女性です。2000年前のことですから、社会は非常に男性中心だったはずです。でもキリスト教会では既に女性が奉仕者として信頼されていたことが感じられます。フェベはケンクレアイの教会の役員のような存在だったでしょう。教会の奉仕者については、新約聖書のテモテへの手紙(一)3章にこうあります。これはパウロが弟子のテモテに宛てた手紙です。フェベも、このような人だったのでしょう。「奉仕者たちも品位のある人でなければなりません。二枚舌を使わず、大酒を飲まず、恥ずべき利益をむさぼらず、清い良心の中に信仰の秘められた真理をもっている人でなければなりません。(~)婦人の奉仕者たちも同じように品位のある人でなければなりません。中傷せず、節制し、あらゆる点で忠実な人でなければなりません。奉仕者は一人の妻の夫で、子供たちと自分の家庭をよく治める人でなければなりません。というのも、奉仕者の仕事を立派に果たした人々は、良い地位を得、キリスト・イエスへの信仰によって大きな確信を得るようになるからです。」フェベは、このような女性だったに違いありません。パウロはローマの教会の人々に、手紙を託したフェベを親切に迎え入れてくれるように頼んでいます。フェベは多くのクリスチャンたちを具体的に助けて来たのです。きっと迫害に苦しむクリスチャンを祈りと実際の必要を満たして支援したのでしょう。家に泊めてもてなしたと思うのです。パウロをはじめクリスチャンたちを助け、もてなしたフェベだから、ローマの教会のあなた方もフェベを愛をもって、もてなして下さい。そうパウロは心を込めて頼みます。

 3節「キリスト・イエスに結ばれて私の協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。命がけで私の命を守ってくれたこの人たちに、私だけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。また、彼らの家に集まる教会の人々にもよろしく伝えて下さい。」このクリスチャン夫婦は、新約聖書の中で割に有名ですね。プリスカは妻で、妻の名前が夫より先に書いてあります。夫婦とも熱心なクリスチャンですが、妻の方がよりイエス様への愛に一生懸命だったでしょう。だから名前が先に出ています。この夫婦のことは使徒言行録18章、パウロのコリント伝道の記録に書かれています。「ここ(コリント)で(ローマ帝国の)ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。」

 1年半を共に大都会コリントで過ごし、パウロは次の伝道の地、やはり大都会であるエフェソに行きますが、プリスカとアキラも同行します。パウロはエフェソで精力的にイエス・キリストを宣べ伝え、プリスカとアキラはエフェソでもパウロを大いに助けたと思われます。パウロがエフェソで書いたコリントの信徒への手紙(一)の最後の方に、「アキラとプリスカが、その家に集まる教会の人々と共に、主においてあなた方(コリント教会の人々)にくれぐれもよろしくと言っています」とありますから、プリスカとアキラの家が、エフェソで教会(家の教会)になっていたのです。エフェソで熱心にイエス・キリストに奉仕し、その後ローマに帰ったと思われます。ですからパウロが今日のローマの信徒への手紙16章で、「私の協力者となっている、プリスカとアキラによろしく」と書いているのです。「協力者」は直訳では同労者です。同は同じという文字、労は労働の労。共に働く者の意味で、上下はないということです。同労者は、ややキリスト教会独特の用語ですね。

 「命がけで私の命を守ってくれたこの人たちに、私だけでなく、異邦人の全ての教会が感謝しています。」口語訳聖書はここを、「彼らは、私の命を救うために、自分の首をさえ差し出したのである」と訳しています。これがほぼ直訳です。実にストレートな言い方です。プリスカとアキラがパウロを守るために、命の危険を冒したのでしょう。しかし幸いそれで死ぬことはなかったので、夫婦はローマ教会にいるのです。それが具体的にどのような出来事だったのかは分かりません。使徒言行録19章に、パウロがエフェソで大騒動に巻き込まれる場面がありますが、その時の可能性もあるかもしれません。但しその場面にプリスカとアキラのことは全く書かれていないので、違う可能性もあります。いずれにしても、パウロの命を守るために夫婦で命を懸けてくれたプリスカとアキラにパウロは最高に感謝していたでしょうし、その二人に「よろしく」と伝えるパウロの言葉には、万感がこもっています。パウロはローマに行って、プリスカとアキラと再会することを深く待ち望んでいたに違いありません。本日の説教題を、「神が与えて下さった信仰の友」としましたが、パウロにとってプリスカとアキラは、神様が与えて下さった最高の信仰の友、同労者だったのです。私たちにも、教会で信仰の友が与えられていることを、心より感謝したいと思います。パウロは書きます。「また、彼らの家に集まる教会の人々にもよろしく伝えて下さい。」プリスカとアキラの家が、ローマの教会だったのかも知れません。そこにパウロが既に会ったクリスチャンも、まだ見ぬクリスチャンもいたでしょう。その信仰の仲間、共に向けてパウロは、イエス様の祝福と平和を祈っています。「ローマ教会の皆さんによろしく」ではなく、できるだけ多くの名前を一つ一つ書いていることが大切と思います。パウロは熱心な伝道者であると同時に、一人一人の信仰、一人一人の魂に配慮する牧師、魂の意者でもあるのです。全員まとめてではなく、できるだけ一人一人の名前を書いているのです。名前が人格を表す大切なものだからです。

 少し飛んで10節を見ましょう。「真のキリスト信者アペレによろしく。」直訳すると「キリストにあって本物の、あるいは練達のアペレによろしく」となります。口語訳では「キリストにあって練達のアペレに、よろしく」となっています。アペレという人がどんな働きをした人かは、全く分かりません。練達とは、信仰が練り清められた人ということでしょう。神様によってよく鍛錬された深い祈りの人を連想します。練達という言葉は、このローマの信徒への手紙5章4節に出てきます。少し前から読むと、「私たちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望は私たちを欺くことがありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。」新改訳という聖書の翻訳では、練達を「練られた品性」と訳しています。アペレ練達の人、練られた品性の人だった。きっと言われなき迫害か、何らかの苦難を経験したのではないでしょうか。苦難を忍耐し、忍耐を積み重ねた結果、練達(練られた品性)の人になり、真の希望の道に進む人になったのではないかと想像致します。最高に練達した方はイエス様です。パウロも非常に練達した人です。パウロ自身、「苦難から忍耐へ、忍耐から練達へ、練達から希望へ」と進んだ人です。私たちも練達のクリスチャンになりたいと願います。本年度の標語聖句を実践してゆけば、少しずつ練達の人にならせていただけるのではないでしょうか。「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」練達の人アペレも「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈る」人だったに違いありません。ある人は、「練達は、逆境においてこそ形成される」と言っています。私たちは今、コロナという苦難、逆境にあります。この苦難、逆境で忍耐していますが、このコロナという逆境、もしかすると神が与えた試練の中で忍耐し、ますます神に立ち帰って練達の人になり、その先に神の国という真の希望を見る私どもでありたいと切に願います。練達の人になりたい。そうではないでしょうか。そうだと信じます。

 この16章に多くの名前が出ていますが、1つ大いに特徴的なことは8節から14節の名前の多くが奴隷、もしくは解放された奴隷らしいということです。名前の特徴からそう考えられるそうです。私にははっきりとは分からないのですが、複数の本にそのように書いてあるので、そうなのだろうと思います。ある説教者は、次の9つの名前が奴隷、あるいは解放された奴隷だろうと言っています。アンプリアト、ウルバノ、スタキス、ペルシス、アシンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス。これが本当の奴隷の名前だとすると、多くの奴隷がいたという当時のローマ社会の実態まで見えることになります。でも彼ら・彼女たちが教会のメンバーとして登録されていた。教会は奴隷と奴隷でない人が神の前に平等であることを知り、差別せずに兄弟姉妹として、共に礼拝していたと思われます。これはすばらしいことです。この頃は、イエス様がもうすぐ来ると思われていたので、社会から奴隷制度をなくそうという運動を、教会が始めることはありませんでした。しかしイエス様がもう一度来られて神の国は来るのがだいぶ先となると、奴隷制度をなくして社会を改善することも必要になります。それにはだいぶ時間がかかり、アメリカでは漸く19世紀に奴隷解放が行われました。パウロの時代から1900年以上かかったので、時間がかかりすぎました。しかも人種差別は、まだ完全になくなっていません。私たち人間の罪深さを思わざるを得ません。10~11節でパウロは、「アリストブロ家の人々によろしく」、「ナルキソ家の中で主を信じている人々によろしく」と言います。この2つの家の人々がクリスチャンになっていたのですが、その家の人々という場合、その家で働く使用人や奴隷も含まれると見るのが自然とのことです。この2つの家の奴隷にもクリスチャンがおり、主人一家と奴隷がイエス様によって愛し合いながら、共に真の神様を礼拝する生活をしていたと思われます。

 12節にあるペルシスは、「ペルシャの女」の意味だそうです、ペルシャからローマに連れて来られた女奴隷と思われるそうです。ペルシャは今のイランですから、随分遠くに連れて来られて、心細く悲しかったでしょう。しかしイエス様を知って、イエス様を頼りにするようになり、心の支えを得たのではないでしょうか。「主のために非常に苦労したペルシス」とあります。迫害を受けたのでしょうか。それでも信仰を守って、ローマのプリスカとアキラの家の教会につながっていたのです。パウロは彼女のことを心にかけ、「ペルシスによろしく」と配慮を込めて書いています。

 少し戻って7節には「私の同胞(つまりユダヤ人)で、一緒に捕らわれの身となったことのあるアンドロニコとユニアスによろしく」とあり、11節には「私の同胞(ユダヤ人)へロディオンによろしく」とあります。プリスカとアキラもユダヤ人ですから、ローマの教会は異邦人(ユダヤ人以外)クリスチャンが多いけれどもユダヤ人クリスチャンも共に礼拝する教会だったと分かります。国際的です。ローマ自体が国際的な都市だったでしょうから当然とも言えますが。へロディオンは、イエス様が生まれた時イエス様を殺そうとした悪名高きへロデ大王の血筋の人でしょう。へロデは悪人と言わざるを得ませんが、その血筋皆が悪い人ではないのですね。へロデの血筋からクリスチャンになった人がローマの教会にいたのです。パウロは彼のことも偏見なく、イエス様の愛で愛しています。

 パウロは13節で、「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女は私にとっても母なのです。」このルフォスは、マルコ福音書15章のイエス様の十字架の場面に出てくるルフォスという名前の人(十字架の時その場にいたのではないが)その人ではないかと、言われています。絶対そうとは言い切れませんが、その可能性はありますね。マルコ福音書15章21節から読みます(新約95ページ下段)。「そこへ、アレクサンドロとルフォスの父でシモンというキレネ人(アフリカのリビア辺りに生まれたユダヤ人)が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。」シモンという人は、外国生まれのユダヤ人で、エルサレムで行われるユダヤ人の大切な祭り・過越祭に参加したくて、遠路アフリカからエルサレムに来ていました。その時、全く想定外の出来事に巻き込まれました。イエス様が十字架につけられる道に遭遇し、疲労困憊のイエス様に代わって十字架を無理やり担がせられたのです。全くいやな仕事を押し付けられたのです。ところがこれがシモンの、イエス様との出会いになったのです。シモンはそれまでイエス様を知らなかった。でもゴルゴタの丘まで十字架を担いで、イエス様の祈りを聴いたのではないでしょうか。「父よ、彼らをお赦し下さい。自分は何をしているか、知らないのです。」この祈りに感銘を受けたかもしれません。シモンはクリスチャンになったと思われます。いやな十字架を担がされたことがイエス様との出会いになり、彼がイエス様を救い主と信じて永遠の命を受け、その家族(妻、息子のルフォスら)もイエス様を救い主と信じるようになった可能性があります。そうなら正に神のドラマです。

 パウロの言葉に戻ると、「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女は私にとっても母なのです。」十字架と復活から25年ほどたっているのでシモンは天に召されていたかもしれません。でもその妻と息子ルフォスはクリスチャンになり、ローマの教会で礼拝していた。そうではないかと考えられています。「彼女は私にとっても母なのです。」聖書のどこにも書いてありませんが、パウロはきっと以前にエルサレムかどこかでシモンの妻・ルフォスの母にお世話になったのでしょう。そのことを感謝して、「彼女は私にとっても母なのです」と書きました。迫害などの苦難の中で支え合い、助け合って来た初代教会のクリスチャンたちの、イエス様を中心とする麗しい交流が、今日の箇所から読み取れるのです。

 今日の旧約聖書は箴言18:24です。「友の振りをする友もあり/兄弟よりも愛し、親密になる人もある。」パウロとここに書かれた人々の関係も、「兄弟より愛し、親密になる人もある」と言える信仰の兄弟姉妹の交わりです。現実には私どもにはまだ罪がありますから、100%親密とはいかない現実がありますが、互いを「神に与えられた信仰の友」としてイエス様を真ん中に愛し合い、信仰共同体としての東久留米教会を、父なる神様へのよき献げ物としてお献げしたいのです。アーメン(真実に)。 

(祈り)聖名を讃美致します。東京と日本全体で新型コロナウイルスの感染者がまだ増え続けています。神様が私たちを憐れんで、ウイルスを無力化し感染拡大をストップさせて下さい。世界が助け合って、このピンチを乗り越えることができますように。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。東久留米教会を出発して日本とアメリカでイエス・キリストを宣べ伝える方々とご家族に、神様の豊かな愛を注いで下さい。日本の新しい首相が、神様によく従って歩まれますように、力強く導いて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2020-09-12 22:33:08(土)
「イエス様に従う恵み」   2020年9月13日(日)礼拝説教
 礼拝順序: 招詞 マタイ22:37~39、頌栄28、「主の祈り」、使徒信条、讃美歌21・120、聖書 詩編49:8~9(旧約882ページ)マタイ福音書16:21~28(新約32ページ)、祈祷、説教「イエス様に従う恵み」、祈祷、讃美歌21・510、献金、頌栄27、祝祷。

(詩編49:8~9) 神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く/とこしえに、払い終えることはない。

(マタイ福音書16:21~28) このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

(説教) 先週のマタイ福音書は、ペトロの信仰告白の場面でした。イエス様に向かって「あなたはメシア(救い主)、生ける神の子です」と告白したのです。イエス様はこの告白を喜ばれて、ペトロに言われました。「あなたはペトロ(岩)。私はこの岩の上に私の教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。私はあなたに天の国の鍵を授ける。」それで本日の箇所に入ります。
 
 「この時からイエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」それまで語って来なかった最も重要なことを、「実はこうなんだよ」と明らかにし始められたのです。ここではまだ「十字架にかかる」とは明確におっしゃっていませんが、明らかに十字架の予告を語り始められたのです。前にも申しましたが、この「必ず」という言葉は、新約聖書の元の言葉では「デイ」という言葉で、「必然、必ず起こること」しかも「神の必然」を表します。これが父なる神様のご計画だと、語り始められたのです。イエス様は「必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている。」受難の予告、十字架の予告です。しかし受難の予告だけでなく、「三日目に復活する」希望をも語っておられますね。イエス様が受難を通って真の希望に至る。それが父なる神様のご計画だと語り始められました。

 しかしペトロは「イエス様が多くの苦しみを受けて殺される」と聞いて、びっくりしました。ペトロはイエス様をわきへお連れして、いさめ始めます。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」ペトロは人間的な好意でイエス様にそう言ったのです。「イエス様、あなたはメシア。イスラエルの民を率いてローマ帝国の支配からイスラエルを解放して下さると皆が期待していますよ。」それがペトロやイスラエルの人々が期待していたメシア(救い主)の姿だったらしいのです。「そのあなたが苦しみを受けて殺されるなと、決してあってはならないことです。」そうペトロはおいさめしたのです。

 しかしこれは、ペトロの非常に僭越な、分を超えた行動、ペトロがイエス様を導こうとする思い上がった行動だったのです。人間的な好意によってイエス様を愛しておいさめしたのですが、それはイエス様が真の使命・十字架に向かうことを妨げる悪魔の誘惑となってしまったのです。イエス様は振り向いてペトロに言われます。「サタン(悪魔)、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」イエス様の使命は、十字架にかかることです。十字架にかかって、私たち全ての人間の全ての罪を身代わりに背負うことが、イエス様の使命です。イエス様は決然としてその道を進まれます。それを妨げるのは悪魔の誘惑そのものです。ペトロは親切のつもりで言ったのです。「先生、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」ペトロは確かに正しい信仰告白を行いました。「あなたはメシア、生ける神の子です。」でも、イエス様がどんなメシアかは、全く分かっていなかったのです。イスラエルの民を率いてローマ帝国の支配からイスラエルを解放してくれる力強い政治・軍事的リーダーを期待していたかもしれません。

 ところがイエス様が進む道は、私たち全ての罪人(つみびと)に奉仕して下さる道、人々に馬鹿にされながら十字架にかかる道だったのです。私たち全ての人間を最も根本的に救うためには、人間の罪(神様から離れて、自己中心的に生きていること)という最も根本的な問題を解決しなければなりません。なぜ罪が最も根本的な問題かと言えば、罪こそが死(人間の究極の敵)の直接の原因だからです。私たちの罪の問題を根本的に解決するために、全く罪のない方が身代わりに責任をとらないと、どの人間も罪赦されず、天国に入ることができません。それでイエス様は、どうしても十字架にかかる必要があったのです。それはただひとえに、私たち一人一人のためです。ペトロは、十字架に進むイエス様の邪魔をしてしまいました。ペトロはその瞬間、気づかずに悪魔に自分を乗っ取られていたのです。人間的な親切心で「イエス様、あなたが苦難を受けるなんて、そんなことがあってはなりません」と言いましたが、それは悪魔からイエス様への強烈な誘惑だったのです。イエス様が、「それもそうだな。十字架にかかるのはやめようか」と気を緩めて十字架にかかるのをやめれば、私たちの罪は、神様の前に赦されることなく、私たちは天国に入ることができなくなったのです。悪魔が大喜びする結果になります。しかしイエス様は、ペトロを使って攻撃して来た悪魔の誘惑をたちまち身破り、「サタン(悪魔)、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」とペトロを一喝し、十字架に進む決意が少しも緩むことがなかったのです。さすがイエス様で、楽チンな道に誘い出してイエス様に使命を失敗に終わらせようとした悪魔の計略を撃退されました。

 24節「それから、弟子たちに言われた。『私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを得る。』」自己中心的にばかり生き続けると、最悪の場合、天国に入り損ねるかもしれません。それでは意味のない人生になります。しかし反対にイエス様に従って、自己中心を抑え、神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛する生き方をするならば、それは天国につながる生き方です。イエス様に従い、自己中心をやめて生きるようにしなさい。そしてイエス様に続いて天国に入れていただきなさい。これが私たちを招く聖書の招きのメッセージです。 「自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエス様に従う。」十字架は、責任や使命、試練を指すこともあるでしょう。私たちは一人一人に与えられた責任や使命、試練を背負いながら、イエス様に従って歩んで参ります。それは天国に至る生き方です。

 十字架を背負うというと、「大変だ」と思いますが、私たちはここでマタイによる福音書11章28節以下のイエス様の慰め深い御言葉を思い出す必要があります。「疲れた者、重荷を負う者(十字架を負う者)は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛(くびき)を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなた方は安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」軛とは、二頭のろばなどを背中と背中で結び付ける木製の道具で、二頭で並んで畑を耕させるのに使います。イエス様がおっしゃることは、「重荷を負う・十字架を負う」者はイエス様のもとに来なさい。私が一緒に重荷・十字架を背負うよ、ということだと思います。私たちの十字架を、目に見えなくてもイエス様が共に背負っていて下さるのです。

 先々週もお話しましたが、京都市で難病の筋委縮性側索硬化症(ALS)の女性患者(当時51才)が医師2名に頼んで薬物の投与を受け、死を選んだ悲しい事件がありました。この事件について先週9/9(水)、朝日新聞朝刊の「声」の欄に3名の投書が出ていたのですが、そのお一人に難波幸矢さんという岡山県の75才の主婦の方の投書がありました。この方は、日本基督教団の教会員です。「今回の事件に心を痛めています」という書き出しから始まり、「私の夫は筋ジストロフィーを10年間患い、33年前に亡くなりました。死去の3日前まで、口の機能だけ残る状態で教員として高校で授業をしていました。移動や板書は生徒さんが協力してくれました。(~)今回の事件では、ケアチームは心を注いで介護なさっていたと知りました。(~)しかし、彼女は死を考えていたのです。チームの方々の落胆はどれほどだったかと思います。難病によって思いがけない苦悩が始まり、衝撃や怒りが一度に押し寄せる。でも、『そこからこそ人生』だと私は思います。『人生って何?』『命って何?』。その人が人生の根源に触れられるように、支える社会でありたいです。」 これは実に大変な発言と思います。「そこからこそ人生だと、私は思う。」見上げた発言と、尊敬致します。

 この方のご主人、難波紘一さんが書かれた『この生命燃えつきるまで』(キリスト新聞社、1985年)という本があります(ここでは『喜びのいのち』新教出版社、2000年、126~139ページの、「この生命燃えつきるまで  難波紘一」より引用)。「筋ジストロフィーをわずらってからの私の毎日毎日はとってもつらいもんです。(~)時々、人はなぜこんなにまで苦しまなければならないのかと考えこむことがあります。しかし、これに解答を与えてくれるのがキリスト教信仰であるということを、私は今日みなさんにお話したいのです。(~)学校では、二階、三階、四階にも教室があるものですから、車いすですとこれをかつぎあげるのに、四人の生徒の手がかかります。教室に着くと、椅子に座らせてもらうんです。座って授業をしています(世界史)。」「パウロは、聖書の中でいくつかの告白をしておりますが、今日読んでいただいた聖書の言葉ほど私を力づけてくれる大きな告白はありません。」

 そう言って難波紘一さんは、コリントの信徒への手紙(二)12章7節以下を、読まれます。「それで、そのために思い上がることのないようにと、私の身に1つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、私を痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせて下さるように、私は三度主に願いました。すると主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱いときにこそ強いからです。」

 難波さんは言われます。「私どもの神様は、私たちを訓練するために、時には苦しみをお与えになります。しかし、私たちのために、大切な独り子イエス様を地上におくり給うほど、私たちを愛して下さる神さまですから、私たちを苦しみの真っただ中につき放し、放っておかれる方ではないのです。私どもの弱いところ、足りないところを手厚く完全にカバーして下さるのです。そう言って新約聖書のヘブライ人への手紙12章5節以下を読まれます。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。あなた方は、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなた方を子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。」

 難波さんはさらに語られます。「私たちはこの訓練を通し、これを耐え忍ぶことによって、今まで得たこともない大きな心の平安の頂へと導かれていくわけです。(~)この時、苦しみは大きな恵みへと変わります。私たちの人生のどんなひどい苦しみの中にあっても、『よし、この恵みの中で積極的に生きていこう』と、希望へと導かれていくわけです。このようにキリスト教信仰とは、どんな絶望的状態に陥っても、なおも希望を持って、生きていく力を促される信仰であると思います。」

 「今、この時間にこうやって両手を動かしながらしゃべっているこの状態が、私にとってベストの状態なんです。これ以上のことは望めないと思って、私はこの一瞬一瞬を力の限り、生命の限り生きていく以外に、私の生き方はないわけです。私は大げさに言えば、今日この日を最後の日として生きていく、そういう決意を毎日しております。今日を、最後の日として生きる。しかし、これは考え方によっては、本当にありがたいことだと思っております。」「今日、初めておいでになった方、初めてキリスト教に接する方、そういう方がおられるかもしれません。もし重荷を負って苦労しておられる方がいらっしゃれば、どうか、イエス様のもとにその重荷をおろして、預けて下さい。そうすれば、私どものように、こんなひどい苦しみに遭ってもそれを苦しみとは思わず、これを恵みとして受けとめ、毎日毎日喜びの中で、楽しみながら生きていくことができます。ぜひ、そうなさることを、お勧めしたいと思います。」

 非常に迫力ある信仰の証しです。ヘブライ人への手紙11章4節を思い出します。「アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」難波さんの、目の前の一日を文字通り全力で真剣に生きる迫力に圧倒されます。東久留米教会の初代牧師の浅野悦昭先生(今は天国)の言葉を思い出しました(説教集?)。「今日の礼拝を、自分の地上の最後の礼拝と思って献げる。」それだけ、二度と来ないこの一回の礼拝を全力で真剣に献げるということです。このような信仰の先達の方々の、懸命な信仰の姿勢に、私どもも感化されたいものです。この難波紘一さんのご夫人が、先週の投書で、「難病によって思いがけない苦悩が始まり、衝撃や否定や怒りが一度に押し寄せる。でも、『そこからこそ人生』だと私は思います。『人生って何?』『命って何?』その人が人生の根源に触れられるように、支える社会でありたいです。」このご夫人の信仰もすごいと私は思います。ご主人の熱烈な信仰の生き方を10年間支えきったから、言える信仰の言葉だと感じます。幸い、今は難波紘一さんの頃よりも医学が進みましたから、私たちはイエス様に支えられ、病気についてはお医者様は看護師さん方にも助けていただいて、生きることを許されている時代であることを感謝したいと思います。難波紘一さんも、「自分を捨て、自分の十字架を背負って」イエス様に従い通した、見事な信仰者でいらっしゃいます。今は天国で、神様のもとにおられ、完全な平安の中で、天国の礼拝で、神様を讃美しておられます。

 マタイ福音書16章のイエス様の言葉に戻ります。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」 これと深く関連する御言葉が、今日の旧約聖書詩編49編8~9節です。「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。」贖うは難しい言葉ですが、償うと似ています。「私たちは、自分の兄弟(家族)の罪さえ、神様の前で完全に償うことはできない」という意味でしょう。「魂を贖う値は高く、とこしえに払い終えることはない。」一人の人(魂、命)の全ての罪を完全に償うことは、お金にたとえれば何億年返済し続けても足りないほど大変なことだ、ということです。でもたった一つ、私たち人間の罪が完全に赦される道があったのです。それは、最も清らかで罪が全くない尊い神の子イエス・キリストが、犠牲になって十字架で死なれることです。神の子イエス様の命ほど尊いものはありません。その最も尊い方がご自分の命を身代わりに差し出すことで初めて、私たち罪人(つみびと)の罪が完全に赦されるのです。イエス様を救い主と信じて自分の罪を悔い改める人は、全ての罪の赦しと永遠の命を受けます。この十字架の贖いを、イエス様の使徒パウロは、コリントの信徒への手紙(一)6章19~20節でこう書きました。「あなた方はもはや自分のものではないのです(神のものになった)。あなた方は代価を払って買い取られたのです。」最も尊い神の子イエス様の命という代価によって、あなた方は神のもの、神の子どもたちとされたのだと。

 最近私は、ある先輩牧師の説教を聴きました。こう祈りましょうと。「今のコロナという十字架の中にあっても、神様あなたが私たちを通して働いて下さい。コロナの十字架の中にあっても、あなたが私たちを用いて下さい。」こう祈りつつ、ご一緒に信仰生活を歩みたいのです。アーメン(真実に)。
 
(祈り)聖名を讃美致します。東京と日本全体で新型コロナウイルスの感染者がまだ増え続けています。神様が私たちを憐れんで、ウイルスを無力化し感染拡大をストップさせて下さい。世界が助け合って、このピンチを乗り越えることができますように。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与え、支えるご家族にも愛の守りをお願い致します。東久留米教会を出発して日本とアメリカでイエス・キリストを宣べ伝える方々とご家族に、神様の豊かな愛を注いで下さい。神様によく従う方が、日本の次期首相に選ばれますように、切にお願い致します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。