日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2020-06-10 15:38:50(水)
「有益な時とするために」 伝道メッセージ 牧師 石田真一郎
 「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」(新約聖書・ヨハネの手紙(一)3:18)。
 
 予想もしなかった新型コロナウィルスの感染拡大により、私たちは大きく揺さぶられました。人との接触をできるだけ減らす要請が功を奏したか、東京でも新規感染者が減り、落ち着いて来たように見えますが、ウイルスが秋には盛り返すという説もあり、油断できません。手洗い消毒、うがい、換気を継続し、コロナと共生する覚悟が必要と感じます。

 このウイルスは人類共通の敵ですから、世界中がこれまでの不和や対立をやめ、差別をやめて助け合い、連帯する必要があります。日本では一部で、朝鮮初中学校の幼稚部をマスク配布の対象外にしたが、再検討して配布の対象にしたと聞きます。これを機会に、このような差別をすべてなくす日本にしましょう。アメリカではコロナで、黒人の方が多く亡くなったと聞きます。環境の悪い所に住み、そこで働かざるを得ないのでしょう。差別、格差がまだあるのです。弱い部分にしわ寄せが行く現実を、日本でも世界でも改善するために働きましょう。

 日本よりずっとコロナ禍がひどかったイタリア・ミラノの高校のスキラーチェ校長先生が、生徒に宛てたメッセージが話題になりました(『「これから」の時代を生きる君たちへ』世界文化社)。ミラノでは17世紀にペストが大流行し、こんなことが起こったと。「外国人やよそ者を危険だと思いこむ、最初の感染者を突きとめようと躍起になる、噂話やデマ、生活必需品の奪い合い…。」スキラーチェ先生は、人間らしい思いやりを失わないために、「冷静さを保ち、必要な予防策をとって、休校中の時間を生かして、散歩をしたり、良書を読んでください」と呼びかけます。

 日本の生徒へのメッセージもあります。「最悪の経験からも、得られることはあるのです。この痛みはいつか、皆さんの財産になるでしょう。」「この動けない状態は(~)命や愛、友情と自然など、本当に大切なものは何か、理解する機会になるかもしれません。」「この危機を乗り越えたとき、皆さんはきっと変わっていることでしょう。よい方向に変わることができるかもしれません。(~)本を読み、考えることで、この孤独な長い日々を無駄な失われた時間にせず、有益で素晴らしい時間にしましょう。」聖書をじっくり読む(通読する)ことをも、ぜひお薦め致します。アーメン(「真実に」)。

2020-06-06 20:37:28(土)
「悔い改め、洗礼を受け、聖霊を受ける」 2020年6月7日(日)礼拝
礼拝順序: 招詞 ヨハネ福音書16:33、頌栄 85番(2回)、「主の祈り」、交読詩編 142、「信仰告白・使徒信条」、讃美歌21・352番、聖書 箴言110:1~7(旧約聖書952ページ)、使徒言行録2:25~42(新約聖書215ページ)、讃美歌21・347番、祈祷、説教「悔い改め、洗礼を受け、聖霊を受ける」、祈祷、讃美歌21・346番、献金、頌栄 92番、終祷。

(詩編110:1~7) わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」主はあなたの力ある杖をシオンから伸ばされる。敵のただ中で支配せよ。あなたの民は進んであなたを迎える/聖なる方の輝きを帯びてあなたの力が現れ/曙の胎から若さの露があなたに降るとき。主は誓い、思い返されることはない。「わたしの言葉に従って/あなたはとこしえの祭司/メルキゼデク(わたしの正しい王)。」主はあなたの右に立ち/怒りの日に諸王を撃たれる。主は諸国を裁き、頭となる者を撃ち/広大な地をしかばねで覆われる。彼はその道にあって、大河から水を飲み/頭を高く上げる。

(使徒言行録2:25~42) ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』

 兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、/『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』/と語りました。神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。

 それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。

(説教) 十字架の死から復活され、復活の体をもって40日間に渡って地上で使徒たちと共に歩まれ、復活の体をもって天に上げられたイエス・キリストは、天から聖霊(神様の清き霊)を、イエス様を愛する地上の人々に注いで下さいました。それはユダヤの五旬祭(ペンテコステ)と呼ばれる祝日のことです。祝いの時だったので、エルサレムはイスラエル国内のユダヤ人たちと外国から一時帰国したユダヤ人たちでごった返していたのです。そこでイエス様の一番弟子ペトロが、聖霊に満たされた人々に大胆に語っていました。ペトロは旧約聖書の詩編16編を語ります。詩編16編は、旧約時代のイスラエルの代表的な王ダビデが、聖霊に満たされて語った預言なのですね。しかも(ここを読んで分かることは)詩編16編はイエス様の体の復活を予告しているのです。

 ペトロは語ります。「ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたし(イエス様)は、いつも目の前に主(父なる神様)を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。だから、わたし(イエス様)の心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなた(父なる神様)は、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を、朽ち果てるままにしておかれない。あなたは命(永遠の命)に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』」「楽しみ、喜び、希望、生きる、命」という多くの良い言葉が出てきます。これらは皆、聖霊が与えて下さる恵みと思います。「楽しみ、喜び、希望、生きる、命。」「体も希望のうちに生きる。」これが体の復活を予告する言葉です。

 聖書の下段の32節。「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いで下さいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。」「約束された聖霊」とあります。聖霊を注ぐことはイエス様の約束でした。イエス様、そして父なる神様は必ず約束を果たされます。私たちは残念ながら罪人(つみびと)なので、約束を100%は守らないことがあります。あれこれ言い訳して約束を守らないことがあるのです。でもイエス様と父なる神様は違います。イエス様と父なる神様は、約束を100%守られます。真実な方だからです。真実な方であるとは、約束を100%守る方だということです。イエス様が聖霊を送ることを最初に約束されたのはヨハネによる福音書14章においてです。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者(聖霊)を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。(~)弁護者、すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」この使徒言行録1章でも約束されました。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼(バプテスマ)を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼(バプテスマ)を授けられるからである。」その約束を固く守り、復活のイエス様が天から聖霊を注いで下さったのです。

 ペトロの説教に戻ります。「イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いで下さいました。あなたがたは今、このことを見聞きしているのです。ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。」こう言ってペトロは、今日の旧約聖書である詩編110編を語るのです。「主(父なる神様)は、わたし(ダビデ)の主(イエス様)にお告げになった。『わたし(父なる神様)の右の座に着け。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで。』だからイスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

 ここに「神の右に上げられた」、「神の右の座に着け」とあります。このことを「キリストの高挙」と呼びます。天の中でも最も高い天に上げられ、父なる神様の右の座に着かれた、それはイエス様が父なる神様に等しい神であることです。ヨハネの黙示録の言葉を借りれば、「王の王、主の主」だということです。クリスマスによく歌われるヘンデル作曲メサイア(救世主)という曲がありますが、クライマックスの歌詞に「王の王、主の主、彼(イエス・キリスト)は永遠から永遠まで治め給う」とあります。「キングオヴキングズ、ロードオヴロードズ」、「王の王、主の主」と感動と喜びに満ちて歌います。「ハレルヤ(主をたたえよ)、ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ、ハレールーヤー」で閉じられます。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」、それは「イエス様が主の主となられた」ということです。あなた方は真の神の子・王の王、主の主である方、メシアを殺すという、恐るべき大きな罪を犯したと説教したのです。

 「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言いました。」ペトロは聖霊に満たされて説教しているのですから、聖霊がエルサレムの人々にこう説教なさったに等しいのです。私は聖霊の働きには、私たちに様々な気づきを与えるということがあると感じています。聖書を読んだり祈っている時に気づきが与えられることもありますが、ほかの何気ない瞬間に気づきが来ることもあります。たとえばある人のことが思い出されて、「最近あの方のことをあまり気にかけていなかったが、はがきを送ってみようか、メールを送ってみようか」という促しを感じることがあります。もちろんそれが聖霊によるものかどうか、吟味することは必要です。このような小さな気づきが実は非常に大切で、忘れないようにメモすることもあります。昔はそのような小さな気づきがきても、気に留めないで忘れてしまうことがしばしばでしたが、ある時から、それは神様が(聖霊が)与えて下さった貴重な気づきかもしれないと思うようになり、大切に考えるようになりました。そして聖霊は、聖書の意味を分からせて下さる方です。ピンとこなかった聖書の言葉が、「ああそうか」とピンとくるようになる、それはまさしく聖霊のお働きです。聖霊は、私たちに自分の罪に気づかせて下さることもあります。聖霊が直接語られることもあるでしょうが、聖霊が人を通して語られることもあるので、私たちは注意深くある必要があります。エルサレムの人々は、聖霊によってペトロを通して自分たちの罪に気づかせられたと思うのです。聖霊がペトロを通して、罪を指摘したのです。そのメッセージが人々の心に刺さりました。「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った。」

 「私たちはどうしたらよいのですか。私たちはどのように生きればよいのですか。」これは全ての人が、本当は心の奥底で抱いている問いだと思うのです。自分の生き方はこれでよいのだろうか。するとペトロが方向を指し示します。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くいるすべての人にも(どの国の人にもです。日本人も韓国人ももちろん含まれます。日本人はペトロたちユダヤ人から見れば、実に時代も遠く、距離も遠い人間ですね)、つまり、わたしたちの神である主が招いて下さる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」

 エルサレムの人々はイエス様を殺す大きな罪を犯しましたが、私たちも残念ながら聖なる神様の前に少しずつ罪を犯しています。何が基本的な罪かはモーセの十戒を読むと分かります。その十戒の一つ一つを心の中で破っても罪になるので、私たちは残念ながら毎日神様の前に罪を犯しています。ですから毎日悔い改める必要があります。「主の祈り」で祈るように、「我らの罪をも赦したまえ」と祈る必要があります。ですから宗教改革者マルティン・ルターは、はっきり表明したのです。「イエス・キリストが『悔い改めよ』と言われた時、キリスト者の全生涯が悔い改めであることを求められたのである」と。悔い改めることは、へりくだって神様に立ち帰ることです。立ち帰ってイエス・キリストの名によって洗礼を受けなさいとペトロは勧めます。教会が執り行う洗礼式は、父・子(イエス・キリスト)・聖霊なる三位一体の神の名による洗礼です。

 イエス様が、あのゴルゴタの丘で私たち全員の全ての罪を背負いきって十字架で死なれました。洗礼を受けることは古い罪深い自分に死ぬこと、イエス様と共に死に、イエス様と共に新しい命に復活することです。罪を悔い改めて洗礼を受けるのですから、悔い改めた時に古い罪深い自分は死んだのです。悔い改めて洗礼を受ける時に、上から神様の愛の霊である聖霊が注がれます。ローマの信徒への手紙5:5「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」を思い出します。洗礼を受け、聖霊を受けると私たちは神の子になります。罪が残っていますが、神の子とされるのです。全く罪のない完全な神の子はイエス様お一人です。ですが私たちも洗礼を受け、聖霊を受けることで神の子になります。父なる神様が父、イエス様が長男、私たちはイエス様の弟・妹として神の家族の一員になります。父なる神様はイエス様に、「これは私の愛する子」と言われましたが、私たちもまた(罪を残しながらも)「あなたは私の愛する子、神の子だ」と言っていただけるのです。神の子とされることで私たちに平安が与えられ、最後には必ず天国に入れていただけるという確かな希望が与えられます。神様は世界の全ての国と地域の人々が、罪を悔い改め、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受け、聖霊を受けて神の子なることを望んでおられます。一人の罪人が悔い改めて洗礼を受けて神の子となると、大きな喜びが天にあるのです。

 ペトロは力強く証しします。「邪悪なこの時代から救われなさい。」神様から見れば、残念ながら今の時代も罪や悪がはびこる邪悪な時代なのでしょう。「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼(バプテスマ)を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」人々はこぞって罪を悔い改め、洗礼を受け、聖霊を注がれ、次々に神の子になったのです。天にどんなに大きな喜びがあったことでしょうか!

 さて、36節でペトロは、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と説教しました。ヘンデルという(ドイツ人で、イギリスで活動した)作曲家の『メサイア(救世主)』について、先ほど少し触れました。もちろんヘンデルはイエス様こそメシア、メサイア(救世主、救い主)という信仰に立って作曲したのです。彼は1685年に生まれ、1759年に天に召されています。ヘンデルは1741年、56才の8月22日から「メサイア」の作曲を始め、9月14日に完成しました。丸24日間で完成しました。この間、不眠不休で作曲に打ち込んだと伝説的に言われているそうです。ヘンデルの生涯には多くの試練があったそうです。彼が「メサイア」の作曲を行った頃もリウマチの激しい痛みに苦しむことが多かったそうです。そした彼自身の罪もありました。芸術家の宿命かもしれませんが、彼にもライバルがおり、互いに刺激を与え合って向上し合うというよりは、憎み合うライバルがいたようです。また経済的に行き詰まり、その日のパンに事欠くこともありました。

 私は「メサイア」の最後の方の有名な「ハレルヤコーラス」しか歌ったことはないのですが、「ハレルヤコーラス」に至るまで長い曲のようです。聖書の言葉が歌詞になっているのですが、イエス様の十字架の愛を予告したイザヤ書53章が多く歌詞になっています。「彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちはいやされた。」 「私たちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私たちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。」

 来栖ひろみ著『苦難の音楽家 ヘンデル』(教会新報社、1982年、161~164ページ)には、こう書かれています。「ヘンデルは試練の中にある今こそ、このキリストの救いを心から感謝できるのだった。キリストのほかに本当のなぐさめはない。ヘンデルはこれまでのすべての罪を悔い改めた。」「そうだ、今まで自分は音楽家の使命は、神をたたえること、そしてひとりでも多くの人にそのよろこびをわかつことだと考えていた。だが、もうひとつの使命が今やっと分かった。それは、音楽を聴く人が互に兄弟の愛をもって結ばれるようになるということなのだ。この和解の使命をなしとげるものこそ音楽なのだ。」「この世界には争いや分裂しかない。しかし、われわれの罪を負って十字架についてくださったイエス・キリストのもとにもう一度あつまろうではないか。そして、音楽をもってキリストの愛をたたえ、もう一度和解のために手をさしのべあおうではないか。」「世界中の人びとが、のぞみをうしなっている。もはや人間の世界はゆきづまり、救いようがない。救いは、ただ神からくるのみだ。」彼は眠らず、食事をとらず、「メサイア」の作曲に打ち込みました。食事をとらないとは断食になります。それだけ魂は純粋になり、祈りつつ聖霊の促しと導きを受けて作曲したのではないでしょうか。それで霊的に高く深い「メサイア」という名曲が生まれました。

 「メサイア」の歌詞をよく聴いて、私たちが悔い改めるなら、私たちの身の周りにも世界にも、和解と連帯が与えられるのではないでしょうか。悔い改めたエルサレムの人々は、洗礼を受け、使徒たちの教えを受け入れ、愛をもって互いに交わりをなし、パンを裂き(聖餐式の原型)、祈る(礼拝を献げる)ことに熱心でした。私たちの身の周りから始まって、遂には全世界がこのような共同体になることを、神様はお望みと信じます。そのために私どもも微力ながら、イエス様の十字架の愛に感謝し、神様と隣人を愛する歩みを、今改めてスタートしたいのです。

(祈り)聖なる御名を讃美致します。ペンテコステの今日、東久留米教会出身でカリフォルニアで日本人留学生伝道に励む牧野直宣教師ご一家の尊いお働きを豊かに祝福して下さい。世界中で新型コロナウイルスに苦しんでいます。世界中で助け合って乗り切ることができますように連帯を与えて下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与えて下さり、支えるご家族にも十二分な守りをお与え下さい。医療従事者をコロナから守り、ウイルスの猛威が止まらない世界の地域にあなたの力強い助けを与え、流行が収まるようにして下さい。日本でも第二波が来ないように、お守り下さい。主イエス・キリストの御名によって、お願い致します。アーメン。

2020-05-30 22:15:57(土)
「聖霊が降る―全ての地域に福音を」 2020年5月31日(日・ペンテコステ)
礼拝順序: 招詞 ヨハネ福音書16:33、頌栄 85番(2回)、「主の祈り」、交読詩編 141、「信仰告白・使徒信条」、讃美歌21・342番、聖書 箴言29:18(旧約聖書1029ページ)、使徒言行録2:1~24(新約聖書214ページ)、讃美歌21・404番、祈祷、説教「聖霊が降る―全ての地域に福音を」、祈祷、讃美歌21・343番、献金、頌栄 83番(2節)、終祷。

(箴言29:18) 「幻がなければ民は堕落する。教えを守る者は幸いである。」

(使徒言行録2:1~24) 「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

 イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。

(説教) 「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」五旬祭はもとの言葉のギリシア語で「ペンテーコステー」で、五十番目の意味です。だから五旬祭と訳したのですね。これは旧約聖書では、神様に「新穀の献げ物」を献げる日、新しい収穫物を神様に献げる日です。収穫感謝日、英語のサンクスギヴィングデイに似ている気もします。このように五旬祭(ペンテコステ)は本来、ユダヤ人の収穫感謝祭です。ユダヤ人の最も重要な祭りである過越祭の50日目に行われたようです。それは6月上旬頃で、旅行に快適な季節でした。今の時期です。それで多くのユダヤ人が外国からもエルサレムに戻って来ていました。今日の聖書でもそうなっていますね。そしてユダヤ人の五旬祭は、いつからそうなったのか分かりませんが、神様がモーセにシナイ山で十戒を与えて下さったことを記念する祭りにもなったそうです。とのかく五旬祭のエルサレムは、多くの人々でごった返していたようです。

 その中で、イエス様の弟子たちや母マリア、弟たちや婦人たち、イエス様を慕う120名ほどの人々が、彼らの集会場所の家に一つになって集まって、心を合わせて祈っていました。教会の礼拝、祈祷会のようです。イエス様は復活後40日間、11人の使徒たちに現れ、一緒に食事もし(このことから復活のイエス様が幽霊ではなく、復活の体を持っておられることが分かる)、天に昇られました。その10日後に天から聖霊を注いで下さったのです。それは激しい物理的現象を伴いました。「突然、激しい風(風というギリシア語は霊の意味もつ。この風は聖霊)が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊(聖霊)が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」 習ったこともない様々な外国語で語り出したことは驚くべき奇跡です。神様の福音、メッセージがイスラエルから始まって世界の全ての言葉の人々に伝えられていることを示します。

 炎と火が出て来ます。それは聖霊のシンボルとも言えるし、見えなくても神様がそこに生きて働いておられることを示すシンボルです。先ほど五旬祭は、神様が旧約聖書の中で、モーセにシナイ山で十戒を与えたことを記念する祭りともなったと申しました。出エジプト記20章のその場面でも、似た現象が起こっています。「シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉のように立ち上り、山全体が激しく震えた。角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。」聖霊が降った場面と似ていると思うのです。火や煙、とどろき響く音。これらは神がそこに生きて働いておられることを示すしるしです。

 「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。』」この1世紀前半の時代、イスラエル人(ユダヤ人)は地中海沿岸の各地にも散らばって住んでいました。エジプトにはもっと前からユダヤ人の大きなコミュニティーがありましたし、使徒パウロも地中海の北方のタルソス生まれです。外国生まれのユダヤ人は、当時の地中海沿岸の共通語ギリシア語を話し、生まれた場所の言葉を話し、ユダヤ人の言語ヘブライ語も学んだでしょう。エルサレムはそのようなユダヤ人たちが外国からも集まる国際都市でした。使徒たちはガリラヤ出身ですが、習ったことのない様々な外国の言葉で、神の偉大な業を語っていたのです。多言語奇跡と呼びます。

 使徒たちはガリラヤという地方の出身(ペトロは漁師)ですから、様々な外国語をぺらぺら話せるわけがありません。ユダヤ人はガリラヤを「異邦人のガリラヤ」(マタイ4:15)と呼んで軽蔑していたようです。そのガリラヤのナザレでイエス様は育たれましたが、ある人は「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ1:46)と言ってナザレを軽んじています。しかし神様は、この世で差別され低く見られ、いと小さくされている者を特に愛して心に留め、ご自分の計画のために用いて下さいます。イスラエルの民全体は、もともとそのような存在でした。神様は申命記7章6節以下でイスラエルにこう言われます。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれて、あなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られた故に、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」神様は学歴も社会的地位も全くない12名の使徒たちを、神の国の福音を宣べ伝えるために用いて下さいます。

 イエス様を愛する約120名は、聖霊により聖なる愛と喜びに満たされて、様々な言語で神の業を語っていました。それを見た人々は、驚いて言いました。「私たちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らが私たちの言葉で神の偉大な業語っているのを聞こうとは!」人々は皆、驚き、戸惑い、「一体これはどういうことなのか」と互いに言いました。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいたのです。使徒たちが聖なる喜びに満たされているのを、こう言って嘲ったのです。

 その場で神様の偉大な働きが起こっていても、「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」としか見ない人もいる。私たちも、注意深くよく見れば神様の働きが起こっているのに、それに気づかない、見逃す、ということがあり得るのです。たとえば礼拝や教会学校で、あるいは街角でどなたかがイエス様の話、聖書の話をしている。注意深く見れば、それは神の働きが行われているのです。しかし関心をもたないで通り過ぎてしまうとすれば、そこで行われている貴重な神様の働きをみすみす見逃したことになります。私たちは目立つこと、有名人が出て来る大きなイベントに注目しがちです。しかし地味に地道に神の業が行われていても、無関心に見逃してしまい易い。注意してよく見れば、東久留米には多くの教会があり、あちこちで神様の貴重な働きが行われている。しかし無関心を決め込んでしまえば、多くの宝の傍を気づかずに通り過ぎてしまう結果になります。そうならないように、神の小さな業にもよく気づいて、そこで実は神様が発信しておられるメッセージに、目を凝らして気づきたいものです。

 ペトロが仲間の11人の使徒たちと共に立って、説教します。酒に酔っているというのは誤解だ。そうではなく、これこそ旧約聖書の預言者ヨエルの預言の成就・実現だと。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊(聖霊)をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し(=神のメッセージを語る)、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕(奴隷)やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ(社会の中で残念ながら軽く見られている人がいても、その人々にも分け隔てなく聖霊を注ぐ)。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、下では地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙がそれだ。主の偉大な輝かしい日(神の国の完成の日)が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。」「太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる」は天変地異と言えます。太陽は暗くなりは、日食でしょうか。今年のイースターの数日前の満月の夜、私が見た月は赤みがかっていました。本当にそんな月の夜があるのですね。ストロベリームーンと言うそうです。「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」その通り、イエス・キリストを自分の救い主と信じ、罪を悔い改めて洗礼を受ける人は皆、神の清き霊である聖霊を注がれ、救われる(永遠の命を受ける)のです。イエス・キリストの十字架と復活によるこの福音は、エルサレムから始まって世界の全ての地域の人々に伝えられる必要があります。それが神様のご意志です。

 「若者は幻を見、老人は夢を見る。」神が与える夢と幻です。日本語で幻というとはかなく消え去るものの意味ですが、この幻は神様が与えるヴィジョンです。明治時代に札幌で青年たちに伝道したクラーク博士は「青年よ、大志を抱け」と言いましたが立身出世を目指せと言ったのではなく、「キリストにあって大志を抱け」と言ったのです。「若者は幻を見る」をクラーク博士なりに言い換えたのが「青年よ、大志を抱け」だったと思うのです。本日の旧約聖書は、箴言29章18節です。「幻がなければ民は堕落する。教えを守る者は幸いである。」神が与える幻(ヴィジョン)がなければ民は堕落する。」ふつうに考えても、人間は何か規範や目標がないと漠然と時を過ごしてしまいやすいですね。よい目標、幻(ヴィジョン)を持つことが必要です。

 アルベルト・シュヴァイツァーという宣教師・医者がおられました。1875年に生まれ、1965年に90歳で天に召されています。以前はシュヴァイツァーに憧れたクリスチャンが多くおられたそうです。シュヴァイツァーは21才のペンテコステの日に、人生の方針を祈り決めたそうです(以下、大谷美和子著『アフリカの愛の医師 シュヴァイツァー』教会新報社、1982年、92~192ページより引用)。「アルベルトはその日ペンテコステの休暇で、ギュンスバッハの牧師館にかえっていた。(~)好きな学問と音楽に熱中し、すばらしい恩師、あたたかい家庭に守られてくらせる自分は、ほんとうに幸せ者だとしみじみ思った。(~)学問も身につけ、音楽も最高の先生から教えを受けている。しかしこうして身につけたものを、全部自分のためにだけ使っていいいのだろうか。そうだ、どうして気づかなかったのだろう。僕に与えられているものを、自分のためにだけ使うことはいけないのだ。(~)僕らはこの世で苦しんでいるすべての人と重荷をいっしょに担わなければならないのだ。(~)今、僕は21才だ。30才までは自分のために生きることをゆるされていると思う。それまでは学問と音楽に生きよう。そしてそのあとは、直接人に奉仕する仕事をしよう。」

 24才で牧師になり、30才の時に医学部に入ります。38才でアフリカ・ガボン共和国のランバレネで医療活動を開始します。赤道直下で暑さの激しい所です。ヨーロッパに戻った時期もありますが、90才で天に召されるまでアフリカでの奉仕を続けました。かつて白人は黒人を奴隷として売り買いしました。彼は白人の罪の償いのつもりで働きました。彼は「生命への畏敬」という言葉を思いつき、提唱しました。神様が造られた全ての命を愛し大切にすることです。彼は戦争に強く反対しました。広島と長崎への原爆投下に強く憤り、強い国々に核実験の停止と核兵器の放棄を強く求めました。21才のペンテコステに、人生の大きな方針を祈り考えたのです。そんな彼に神様が幻(ヴィジョン)を与えて下さったのです。「若者は幻を見、老人は夢を見る。」「幻がなければ民は堕落する。」ペンテコステの今日、私たち一人一人が小さくてもよいので、これからの幻(ヴィジョン)、夢、目標を与えて下さるように神様に祈り、考えることがよいと思うのです。もちろんその幻、夢、目標は自分勝手なものではなく、神様の御心に適うものであることが必要です。

 本日の使徒言行録は、イエス様の福音が多くの言語があり、多くの民族が生きる全世界へ宣べ伝えられる最初の一歩が記されています。今の世界を見ても、アジア、南北アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、オセアニアなど多くの地域があります。新型コロナウィルス問題の今、世界は助け合い、協力し合ってこの困難を乗り越える必要があります。大切なことは愛に尽きると分かっていても、中国とアメリカの対立があり、特に大国が愛よりも自分の利害に関心を抱いている現実が見えます。しかし神様は、全ての民がイエス様を頭に、互いに愛し合い助け合う世界を望んでおられると思うのです。

 私は何回か、池袋でホームレスの方々にお弁当と聖書メッセージをお渡しするクリスチャンのグループの活動に参加したことがあります。今はコロナのために少し縮小しているかもしれませんが、でも続いているようです。複数の教会の人々が協力して行っていました。東久留米教会の祈祷会に時々来て下さるDavidさんという若いアメリカ人の宣教師さんもその責任者の一人です。Davidさんは東久留米市にお住まいです。その池袋での働きには、いろいろな国のクリスチャンがかわるがわる参加していました。アメリカ人、シンガポール人、日本人、韓国人、アフリカ系アメリカ人、カナダ人、中国系のオーストラリア人などです。実にペンテコステ的なのです。日本人のホームレスの方々のために外国人クリスチャンが奉仕して下さる様子を見ると、日本人としては申し訳ない、日本人がもっとしっかり行わないといけないと感じます。キリストの愛を知る人たちは、大したものだと思うのです。私たちも自分の教会のことだけでなく、世界の教会の働きに関心を持ち、身近な問題のために祈ると共に、世界への愛を少しずつでも実践する必要があると思わせされます。ますます心を一つにして神様を礼拝し、身近なことと世界各地の悩みのために祈り奉仕する私たちでありたいと願います。

(祈り)聖なる御名を讃美致します。ペンテコステの今日、東久留米教会出身で、カリフォルニアで日本人留学生伝道に励む牧野直宣教師ご一家の尊いお働きを豊かに祝福して下さい。世界中で新型コロナウイルスに苦しむ日々です。世界中で助け合ってこの時を乗り切ることができますように連帯を与えて下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与えて下さり、支えるご家族にも十二分な守りをお与え下さい。医療従事者をコロナから守り、ウイルスの猛威が今も止まらない国々にあなたの力強い助けを与え、流行が収まるようにして下さい。日本でも第二波が来ないように、力を合わせて阻止する力を与えて下さい。主イエス・キリストの御名によって、お願い致します。アーメン。

2020-05-23 20:01:58(土)
「心を合わせて、熱心に祈る教会」  2020年5月24日(日)礼拝説教
礼拝順序: 招詞 ヨハネ福音書16:33、頌栄 29番、「主の祈り」、交読詩編 140、「信仰告白・使徒信条」、讃美歌21・464番、聖書 詩編69:22~30(旧約聖書903ページ)、使徒言行録1:12~26(新約聖書213ページ)、讃美歌21・495番、祈祷、説教「心を合わせて、熱心に祈る教会」、祈祷、讃美歌21・287番、献金、頌栄 83番(1節)、終祷。

(詩編69編22~30節) 人はわたしに苦いものを食べさせようとし/渇くわたしに酢を飲ませようとします。どうか、彼らの食卓が彼ら自身に罠となり/仲間には落とし穴となりますように。彼らの目を暗くして/見ることができないようにし/腰は絶えず震えるようにしてください。あなたの憤りを彼らに注ぎ/激しい怒りで圧倒してください。彼らの宿営は荒れ果て/天幕には住む者もなくなりますように。あなたに打たれた人を、彼らはなおも迫害し/あなたに刺し貫かれた人の痛みを話の種にします。彼らの悪には悪をもって報い/恵みの御業に/彼らを決してあずからせないでください。 命の書から彼らを抹殺してください。あなたに従う人々に並べて/そこに書き記さないでください。わたしは卑しめられ、苦痛の中にあります。神よ、わたしを高く上げ、救ってください。

(使徒言行録1:12~26) 使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。詩編にはこう書いてあります。『その住まいは荒れ果てよ、/そこに住む者はいなくなれ。』/また、/『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。

(説教)
 来週は、聖霊が降ったことを記念するペンテコステ礼拝ですので、本日は聖書のその前の箇所を読みます。イエス様は十字架の死から復活され、イスカリオテのユダ以外の11名の弟子たちと共に40日間を過ごされたのです。一緒に食事もする。新約聖書でこの辺りから弟子たちが「使徒たち」と呼ばれています。イエス様の復活を経て、弟子たちは使徒と呼ばれるようになっています。復活されたイエス様と共に地上で生きた40日間というのは、実に不思議な40日間だったでしょう。イエス様は約束されます。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父(父なる神様)の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼(バプテスマ)を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼(バプテスマ)を授けられるからである。」聖霊を注ぐ約束です。

 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねます。イエス様の十字架の前の弟子たちは、イエス様が、ダビデ王時代のような地上の栄光のイスラエル王国を打ち立てて下さる(ローマ帝国からイスラエル王国を独立させて下さる)と期待しており、十字架と復活後は、イエス様がもたらす神の国は地上の政治的な国ではないと分かっていたはずですが、この質問を見るとまだ完全には分かっていない印象を受けます。イエス様は彼らを正しい考えに導こうとなさいます。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」神の国がいつ来るのかは、父なる神様だけがご存じです。神の子イエス様でさえご存じない。私たちもいつこの世界が終わって神の国が完成するのか、断言できる人は一人もいません。今回の新型コロナウィルス問題も、神の国に向かうプロセスの1つでしょうが、まだ世の終わりではなさそうです。しかし神の国はいつか必ず完成するのですから、私たちは自分の地上の人生が終わる時まで、気を緩めないでイエス様に従う信仰の歩みを続けます。

 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」聖霊は神様の単なる力ではありません。生きておられる父なる神様の霊、生きておられるイエス様の霊です。生ける神ご自身であり、人格を持っておられます。聖霊を受けることで使徒たちも私たちも、イエス・キリストの証人となります。「ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたし(イエス様)の証人となる。」日本は極東です。エルサレムから見ればまさに地の果てですね。私たちは地の果ての日本でイエス様の証人です。イエス様こそ、神の子であると証言する証人です。証人という言葉は、新約聖書のギリシア語で「マルトゥス」という言葉ですが、マルトゥスは後に「殉教者」の意味にもなりました。イエス様の証人として死に至るまでイエス様に忠実に生きた人たちが出て来たからです。

 「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」雲は神がそこにおられるしるしです。復活のイエス様は生きた状態で、父なる神様がおられる天に行かれたということです。宇宙に行かれたのではありません。宇宙もまだ神様がお作りになったもの、被造物です。イエス様は天に昇られました。天は、地球や宇宙とは全く次元の違う所、神の領域なのです。これが「イエス・キリストの昇天」です。クリスチャンが亡くなった時、「Aさんは召天された」と言うことがあり、それは漢字が「召天」です。イエス様は生きて天に昇ったので、漢字で「昇天」と書きます。「召天」とは異なります。

 マルコによる福音書はこの場面をこう記します。「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。」神の右の座とは、父なる神様に最も近いところの意味です。日本語でも「彼は社長の右腕だ」という言い方があります。イエス・キリストはいわば父なる神様の右腕、父なる神様と一体の方です。エフェソの信徒への手紙(4:10)は、復活のイエス様が「もろもろの天よりも更に高く昇られた」と書きます。昔の人々は天にも階層があると考えていたようです。エフェソの信徒への手紙が言いたいことは、復活のイエス様が天の中でも最も高い天に昇られた、最も高い存在である父なる神様がおられる最も高い所に昇られて、今もそこで生きておられるということです。

 イエス・キリストの昇天。毎年申し上げますが、イエス様の昇天が私たちに与える三つの恵みを確認しておきたいと思います。1つ目は、教会の一部が既に天国に入ったことです。聖書によれば、教会はキリストの体です。イエス様が頭(かしら)、私たちは体(たとえば右手、左足、おなか、肩など)です。頭であるイエス様が既に天国におられるのですから、体である私たちも確かに天国とつながっています。将来は体である私たちも頭によって引き上げられて、確実に天国に入れていただけます。二つ目の恵みは、イエス様が天で私たちのために執り成しをして下さることです。もちろんイエス様による最大の執り成しは十字架の死です。あの十字架において、私たちの全部の罪を身代わりに背負いきって下さいました。これが最大の執り成しです。私たちは自分の罪を悔い改めてイエス様を救い主と信じる信仰によって、父なる神様の前に義と認められる(神の子とされる)のですが、地上に生きている限り、その後も毎日少しずつでしょうが罪を犯します。イエス様は今、その罪のために天でとりなして下さっています。ローマの信徒への手紙8:34にこうあります。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」ヘブライ人への手紙7:25にもこうあります。「この方(イエス様)は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」私たちを完全に救うために、今も天で執り成して下さっています。

 3つ目の恵みは、天から聖霊を注いで下さることです。それが使徒言行録2章(来週の箇所)で実現しています。昇天による3つの恵みを確認致しました。イエス様の復活から40日後が昇天の日、その更に10日後に聖霊が注がれました。今年の教会のカレンダーではイースターは4月12日(日)、イエス様の昇天日は5月21日(木)、ペンテコステ(聖霊降臨日)は5月31日(日)です。

 使徒たちがイエス様の昇天を見送った場所はオリーブ畑(オリーブ山)でした。山は小高いので天に近いということが言えます。聖書では山はしばしば神に出会う場所です。使徒たちはエルサレムに戻り、泊まっていた家の上の部屋に上がります。上の部屋はやはり神に近い所です。『アッパールーム』(上の部屋)という名前の祈りの冊子がありますね。旧約聖書では預言者エリヤが、シドンのサレプタ(イスラエルの外)のやもめの息子が死んだ時、エリヤは彼女の息子を受け取り、階上の部屋に運び、神に祈りました。するとその子が生き返ったのです。預言者エリシャも、シュネムというイスラエルの中の土地の婦人の一人息子が死んだとき、息子は階上の部屋に横たえられていましたが、エリシャはそこで神に祈りました。子どもは7回くしゃみして目を開き、生き返ったのです。このように聖書では、上の部屋は神に近い場所、神に祈る場所、神が祈りに応えて下さる場所です。使徒たちも上の部屋に上がって行ったのです。

 11名の使徒たちは、婦人たちやイエス様の母マリア、イエス様の兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていました。婦人たちは恐らくルカ福音書8章に出て来るマグダラ出身のマリア(イエス様に7つの悪霊を追い出して救われた)、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの家令クザの妻ヨハナ、スサンナ(詳細不明)たち、イエス様の兄弟は(マタイ福音書13章によると)ヤコブ(初代教会の指導者の一人になった)、ヨセフ、シモン、ユダの4名です。彼女ら彼らは、心を合わせて熱心に祈っていました。ここに教会の原型がありますね。祈らない教会はもちろんあり得ません。120人ほどの人々が一つになっていました。しかし120人も集まらなくても大丈夫です。イエス様は、「二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:19~20)と約束しておられます。

 使徒言行録は、祈る教会の姿を記しています。たとえば12章を見ると、11使徒の一人ヤコブが迫害され殺される事件があり、その後ペトロも捕らえられ、そのまま行けば次の日には殺されそうでした。この大ピンチにイエス様を信じる人々は教会に集まって、ペトロが助かるように熱心に祈っていました。神様が祈りに応えて下さり、神の全能の力が働いて、ペトロが奇跡的に解放されたのです。今のような教会専用の建物はなく、ヨハネ(マルコ、恐らくマルコによる福音書の著者)の母マリアの家が集会所・祈りの場所でした。それが今日の箇所で120人ほどの人々が熱心に祈っていた家と同じである可能性は高いと思います。120人はどのように祈ったのでしょうか。約束の聖霊が早く豊かに注がれるように祈ったでしょう。そして本来12名の使徒からユダが欠けて11名になったのですから、12人目を与えて下さいと熱心に祈ったのではないでしょうか。そして11名の使徒たちは(その中のヨハネ以外は)イエス様の十字架の時、イエス様を見捨てて逃げたのですから、その罪を悔い改める祈りをしたのではないでしょうか。イエス様の4人の弟たちは、十字架の前のイエス様の神の子としての働きを理解せず、気が変になっていると考えて取り押さえに来たりしたようです。その無理解を悔い改める祈りをしたのではないでしょうか。どちらにしても、教会が共に祈ることの大切さを思います。
 
 東久留米教会でも行かれた方がおられますが、ドイツの南方のオーバーアマガウという村で10年ごとに大がかりなキリスト受難劇が演じられているそうです。これは1633年にヨーロッパ全土で感染症のペスト(黒死病)が大流行し、大勢の人が死にました。オーバーアマガウでもそうでした、今のような薬がない時代です。村人たちは必死で心を一つにして神様に祈りました。「神様がどうかペストを終息させて下さい。もし聞いて下されば、この村は感謝のしるしとして十年ごとに全身全霊でイエス様の受難劇を演じることを誓います。」心を一つにした必死の祈りが聞き届けられ、この村からはぺストの死者が出なくなったそうです。神様の愛の力は偉大です。信仰深い村人たちは誓いを守り、翌年1634年に第一回目の上演を行いました。俳優もおらず、大道具も全く専門家の力なしに素人の村人たちが、神様へのひたすらな感謝の祈りの気持ちで全身全霊で上演し、見る者は涙したと伝えられます。感銘を受けるのはそれが伝統となり、今でも続いていることです。村人総出で2000人以上が出演して野外劇場で、5月から9月にかけて100回以上上演されるそうです。世界中から見に来るそうです。人間の行うことなので時々問題もあり、内容に反ユダヤ主義的な内容があるとして近年一部修正したと聞きます。今年2020年が10年に一度の上演の年ですが、新型コロナウイルスで2年後に延期になったそうです。この上演のきっかけとなったペスト大流行と似たことが今起こっている。オーバーアマガウの人々もちろんこの終息を神様に熱心に祈っているでしょう。私たちもコロナの終息を心を一つにして祈り、イエス様にますます従って生きる決心を新たにしたいのです。

 ペトロが立って説教します。彼はまずユダのことを語ります。「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり『血の土地』と呼ばれるようになりました。詩編にはこう書いてあります。『その住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれ』(今日の詩編69編26節)、『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい』(詩編109編8節)。」ユダがイエス様を銀貨30枚で売る重大な裏切りの罪を犯した結果、悲惨な最期を遂げたことが記されています。

 でもペトロも、イエス様の十字架の時、立派に生きたわけではありません。ペトロはイエス様を三度も「知らない」と言ってしまいました。ユダは積極的に裏切ったが、ペトロは消極的に裏切った。確かにその違いはあります。そしてユダは父なる神様にひれ伏して赦しを請い悔い改めることをしなかったが、ペトロは心からの涙を流して悔い改めることをした。その違いがユダがその後、神様に用いられることがなく、ペトロは大いに用いられた結果になったと言わざるを得ません。使徒言行録9章でようやくイエス様を信じる者になったパウロが、コリントの信徒への手紙(二)7:10で書いた御言葉を連想致します。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」ペトロが泣いて悔い改めたことは神様の御心に適い、ペトロの罪は赦されて、使徒として大いに神に用いられた。しかしユダは激しく後悔したけれども、罪を悔い改めなかった。後悔と悔い改めは似ているようで、非常に違います。後悔は「しまった、しまった」と認めますが神様に謝らない、神様に立ち帰らないので神の御心に適う悲しみにならない。自分の中だけで完結してしまいます。ユダが神様に悔い改める、イエス様に対して悔い改めれば、ユダの罪は赦されたのではないかと思うのです。しかし父なる神様、神の子イエス様に対して悔い改めなかった。でもペトロは、イエス様を三度否定する大きな罪を犯したが、心の底から悔い改めた。私たちが過ちを犯した時に素直に悔い改めることが、どんなに大事かを知らされます。

 使徒が12名になるように補充する必要があります。彼らは条件に合う二名を候補として立て、祈ります。教会の役員選挙を連想します。役員選挙も祈りの中で行うことが大切ですね。彼らはよく祈ってくじを引きます。ただくじを引いたのではなく、よく祈ってくじを引いたことが大事です。箴言16章33節に「くじは膝の上に投げるが、ふさわしい定めはすべて主から与えられる」との御言葉があります。聖書では時々、くじによって物事の方向を決めることがあります。くじを引くにせよ、投票の選挙で行うにせよ、神の仕事を託す人を選ぶときは、心を一つにして祈って行うことが大切と知らされます。初代教会に倣い、これからも聖書と祈りを大切に歩む東久留米教会であり続けましょう。

(祈り) 父なる神様、聖なる御名を讃美致します。世界中で新型コロナウイルスに苦しむ日々ですが、世界中で助け合い、支え合ってこの時を乗り切ることができますように、世界を連帯へと導いて下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与えて下さり、支えるご家族にも十二分な守りをお与え下さい。医療従事者をコロナウイルスから守って下さい。ワクチンと治療薬が早く開発され、世界全体で互いに愛し合って乗り越えるように助けて下さい。主イエス・キリストの御名によって、お願い致します。アーメン。

2020-05-16 15:50:30(土)
「天の国を発見する喜び」 東久留米教会礼拝説教 2020年5月17日(日)
礼拝順序: 招詞 ヨハネ福音書16:33、頌栄 28番、「主の祈り」、交読詩編 139、「信仰告白・使徒信条」、讃美歌21・98番、聖書 詩編49:8~9、16(旧約聖書882ページ)、マタイ福音書13:44~58(新約聖書26ページ)、讃美歌21・575番、祈祷、説教「天の国を発見する喜び」、祈祷、讃美歌21・522番、献金、頌栄 27番、終祷。

(詩編49編8~9、16節)  神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。 魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない。」 「しかし、神はわたしの魂を贖い、陰府の手から取り上げてくださる。」

(マタイ福音書13:44~58) 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。

 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

 イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。

(説教)
 本日もイエス様のたとえ話が続きます。たとえは、よく聴いてよく祈って考えないと、その大切な真理のメッセージをつかみ損ねる結果になります。「天の国(天国、神の国、永遠の命)は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」

 畑はありふれた日常生活と言えます。当たり前になってしまい、私たちがもしかすると飽きてしまい退屈して、感動や新鮮さを感じなくなっている日常です。でも9年前の東日本大震災のあと、日本にすむ私たちはありふれた日常が大きな恵みだったことに気づきました。今回の新型コロナウィルス問題による試練の今はどうでしょうか。その前は当たり前のように電車に乗り、学校や職場やスーパーや飲食店に行き、礼拝堂に集まることも簡単だった。それが大きく制限されている今、それらが何と大きな神様の恵みだったかと痛感していると思うのです。大きな恵みをいただいていたのに、あまり感謝していなかった。これからは1つ1つのことにもっともっと感謝して生きていこう。そのように思う人々は多いと思うし、私はぜひそうありたいと願っています。

 昔の中近東の人は、家の大切な財産を土に埋めて保管することがあったそうです。戦争などがあると家を捨てて逃げる必要があります。その時、財産を隠す一番安全な方法は土に穴を掘って埋めておくことだったそうです。もちろん自分は正確な場所を覚えておかなければなりませんが、これが財産を他人に奪われない一番よい方法だったそうです。江戸時代の江戸でも同じでした。江戸は火事が多かったのです。そこで人々は大切な財産を地下に埋めたそうです。火事から守るためです。今年の2月頃だったか、私は東久留米市のスポーツセンター近くで遺跡の発掘の説明会があると知り、見学に行きました。東京都の埋蔵文化センターだったかと思いますが、縄文時代の竪穴式住居の跡などを発掘していました。江戸時代の鷹匠の小野家の屋敷跡らしき建物跡も発掘されていて、地下倉庫の跡のらしきものが見つかったと言っていました。江戸の中心地域と同じで、やはり大事なものを保管するために地下に部屋を堀ったらしいとの説明でした。イエス様の時代のイスラエルでも、ありふれた畑に、実は高価なものが隠されていることが実際にあったようです。それがこのたとえの背景になっているのでしょう。

 人はふつう、ありふれた畑の土の下にすばらしい宝が隠されているとは考えずに、見逃しています。今日のマタイ福音書の終わりの方では、イエス様が育たれたナザレの村の大人たちがイエス様の語られることや行われることに驚いて言っています。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。」このように人々はイエスにつまずいた、とあります。人々にとってイエス様は、赤ちゃんのときから知っている青年に過ぎませんでした。イエス様には特別高い学歴も、社会的な地位や肩書もありません。大工のヨセフの倅(せがれ)の大工でしかありません。腕はよかったでしょうが、平凡でありふれた、どこにでもいる大工の青年でしかありませんでした。でもそのイエス様が最も尊い神の子、世界の救い主キリストなのです。世界の宝のお方なのです。ナザレの大人たちにとって、それを受け入れることは困難でした。それでイエス様は嘆きを込めてでしょう、こう言わざるを得ませんでした。「預言者(イエス様は、預言者以上の方ですが)が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである。」

 これと似ているのではないでしょうか。ありふれた畑・日常を見ても、人は何とも思わず、そこにすばらしい宝が隠されていることに気づかない。やはり気づかない鈍さに問題があるのだと思います。日常は実は大きな恵みなのですが、日常に埋没し過ぎると、そこにある大きな恵みに気付かない無感動に落ちてしまうので、そうならないようによく気をつけたいものです。畑に隠された宝、それはイエス・キリストだと言えます。私たちを愛し、私たちの罪を全て背負って十字架で死んで下さったイエス・キリスト! 私たちはよくクリスマスに言いますね。父なる神様から私たちへの最大のプレゼントはイエス様ですと。その通りです。

 「見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」これはたとえですから、このような言い方になります。誰かにその宝を取られたくないので、「しーっ」と隠しておき、畑の持ち主にも宝の存在を知らせないで、持ち物をすっかり売り払ってその畑を買う。それほどすばらしい価値がある宝だと言いたいのです。本当は、お金で買えないほど価値が高いのです。実際にはイエス・キリストをお金で買うことなどできるはずがありません。そんなことは考えるだけでイエス様への冒涜です。しかしこれはたとえなので、この宝がほかの何にも比べられないすばらしい以上の価値を持つことを表現しているのですね。

 イエス様はまた言われます。「天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」畑の宝は、探していたのではなく、たまたま見つけたのですが、良い真珠の場合は商人が一生懸命探していたのですね。探し物が見つかった時の喜びは大きいのです。私は暫く前に、自分のノートを失くしたのです。私にとっては非常に大切なノートで、私がこれまでに書いた様々な文章を貼り付けてあるノートなのです。一生懸命探すのですが、なかなか出てきません。ある所に電話して、そこに置き忘れていないか訊ねてみたところ、そこで発見されたのです! 非常に嬉しくてほっとして、やや大げさに言うと死から甦ったような気持ちになりました。

 このたとえの真珠は、商人が持ち物をすっかり売り払って買い取るほどの価値がある真珠でした。この真珠もイエス・キリストだと言えるし、神の清き霊である聖霊とも言えます。あるいは聖書だと言うこともできます。京都のクリスチャンスクールである同志社を創立した新島襄という牧師がいました。彼は江戸時代の末期に、函館から密航してアメリカに渡り、クリスチャンになり、牧師になって帰国します。江戸時代、外国に密航することは見つかれば死罪でした。彼は密航の船の中でイエス・キリストの話を聞いたようです。どうしても聖書というものを読みたくなった。まだ日本語の聖書は全然出回っていません。彼は漢訳聖書を購入します。中国語の聖書ですね。漢文で書かれている。彼は武士なので漢文が読める。買って一生懸命読む。新島襄はその時、自分の刀を売ってお金を作り、漢訳聖書を買ったそうです。刀は武士の魂です。武士にとって命と同じくらい大切なものです。その武士の魂を売ってまで、聖書を買いたかったのです。聖書を無限の価値をもつ宝と信じたからです。

 私に洗礼を授けて下さった若月健悟牧師は、同志社を卒業しておられますが、だからでもないでしょうが、「聖書は自分で買うものだ」とおっしゃったことがあります。どんなに苦労してもどうしても買いたいもの、聖書とはそのようなものだというのです。もちろん教会から聖書をプレゼントされてよいのです。私も洗礼を受けた時、結婚した時、教会から聖書をプレゼントしていただきました。プレゼントされることも大きな恵みですが、人間には罪があるので、ただで貰ったものをあまり大切にしない傾向があります。それはいけないことです。自分の懐を痛めて買ったものは、大切にします。若月先生が言わんとされたことは、聖書は自分の懐をどんなに痛めても構わないから、どうしても手に入れたいもの。それほど大切で価値があるものだ、ということです。そのために何ヶ月労働してもよいから、どうしても買いたい本、それが聖書だということです。3日ほど前に、私のある友人が、「自分は今、聖書を通読の2回目を始めた。パウロの手紙の内容はすばらしいですね」と語ってくれました。本当に感動してそう語っている彼を見て、「良いことを言ってくれたなあ」と感謝しました。新型コロナウィルス問題で外出の自粛が始まった頃、朝日新聞の天声人語にこんなことが書いてありました。「時間ができたのだから、これまでできなかった大著に取り組むのもよい。たとえば聖書の通読」と書いてあり、聖書通読のチャンスにして下さる方が多く出るとよい、「私が意を得たり」と膝を叩く思いでした。

 こんな話もあります。昔あるクリスチャンの青年が、内村鑑三の信仰に非常に引きつけられていた。それである古本屋で内村鑑三全集が売りに出ているのを見つけて、多くもない持ち物を売り払って内村鑑三全集を買ったという話です。そこには内村鑑三による聖書メッセージがたくさん書かれているはずです。その青年にとって、この世のどんな魅力的な物よりも内村鑑三の深い信仰に存分に触れることのできる全集が宝だったのです。

 イエス様の十字架の死と復活の後にイエス様に従う者となったパウロも、フィリピの信徒への手紙3章5節以下でこう書いています。彼はまず、自分が信仰の民イスラエル人として生まれ育ち、信仰の道でどれほど徹底的に精進して来たかを述べます。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し。ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」こう述べるほどイエス様に出会う前の自分は自信満々だった。しかしパウロの罪のためにも十字架に架かった謙遜なイエス様に出会って初めて悟ったことは、自分が高慢の罪を多く犯していることだったと思います。そして自分の道徳的完全主義の努力によって、神に本当に喜ばれる愛の人になることはできず、天国に入ることもできない。ただイエス様の十字架にすがるしか天国に入る道がないことに気づいたのです。イエス様の十字架の愛だけが、自分に与えられた真の宝であることに気づいたのです。

 ですから続けてこう書きます。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのこと(律法=十戒をはじめとする神様の掟=を誰よりも熱心に守って来たこと)を、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、わたしはすべて(イスラエルでの社会的地位など)を失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」「イエス様の十字架だけが、私の救いだ。イエス様の十字架だけが、私を天国に入れて下さる力だ。」パウロはこの最も大切なことを悟ったのです。

 本日の旧約聖書は詩編49編8節以下です。8~9節にこうあります。「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値を高く、とこしえに、払い終えることはない。」9節は、宗教改革者マルティン・ルターが愛した聖句だそうです。聖なる神様から見れば、パウロも私たちも皆罪人(つみびと)です。私たちが人生で犯す全ての罪を、神様にどうすれば贖う(償う)ことができるのか? お金で贖う・償うことはできないのですが、あえてお金を持ちだすならば、何千億円、何百兆円積んでも全く足りないのです。「魂を贖う値は高く、とこしえに払い終えることはない。」最も尊い神の子イエス・キリストが、私たちの身代わりに十字架で死んで下さる最も尊い犠牲だけが、私たちの全ての罪の贖い・償いになります。ですから十字架に架かって下さったイエス様が、私たちにとって最大最高の感謝を献げる宝であられます。ですから、東久留米教会もどの教会も、神の真の救いの力である十字架を高く掲げています。十字架に架かって最高のへりくだりをなさったイエス様の愛に、深く深く感謝するためです。詩編49:16にこうあります。「しかし、神はわたしの魂を贖い、陰府(よみ=死者の国)の手から取り上げてくださる。」その通り、父なる神様は最愛の独り子イエス様を十字架に架け、私たちの全ての罪をイエス様に背負わせなさったのです。ただただ、感謝です。

 イエス様を救い主と信じた人は、イエス様の十字架と復活のお陰で天国というプレゼントをいただいています。言い換えれば永遠の命という希望をいただいています。豊臣秀吉の迫害で1597年2月に長崎の西坂の丘で殉教した26聖人の一人のルドビゴ茨木という12才の少年を思い出します。さすがに子どもを死刑にすることにためらいを覚えた役人がこう言ったそうですね。「信仰を捨てなさい。捨てれば命を助ける。」少年は答えます。「信仰を捨てません。この世の束の間の命と、天国での永遠の命を取り替えるのは愚かなことです。」そう言って、自分が上る十字架を抱きしめたそうです。そして十字架に上げられ、「パライソ、パライソ(天国、天国)」と言いながら殺され、天国に旅立ったそうです。新約聖書のヘブライ人への手紙11:26を思い出します。「(信仰者たちは)キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝(この世の財宝)よりまさる富と考えました。与えられる報い(天国)に目を向けていたからです。」そしてこの後歌う讃美歌21の522番をも思います。「キリストにはかえられません。世の宝もまた富も、このお方がわたしに代わって死んだゆえです。世の楽しみよ、去れ、世のほまれよ、行け。キリストにはかえられません、世のなにものも。」

 マタイに戻ります。51~52節。イエス様が、「あなたがたは、これらのことがみな分かったか」と問います。弟子たちは「分かりました」と答えます。イエス様が言われます。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」新しいものを新約聖書、古いものを旧約聖書と見ることもできるのではないでしょうか。天の国のことを学んだ学者(人)は、新約聖書も旧約聖書もよく学んだ人と言えるかもしれません。両方とも神の言葉ですから。あるいは人間の歴史はすべて神様が導いてきた歴史ですから、古いことからも新しいことからもよく学んで、これからの信仰の生き方に生かすことができる人とも言えます。

 私は数日前にあるクリスチャンの文章を読みましたが、今回の新型コロナウィルス問題は全く新しいことのように思えるかもしれないが、17世紀のヨーロッパはペストに非常に苦しんだし、今から100年前もスペイン風邪の大流行があったと書いていました。今から30年ほど前にエイズ(HIV,後天性免疫不全症候群)が出て来た時、私は非常に恐怖を感じました。でも次第に薬が進歩し、病の進み方をだいぶ抑えることができるようになっているようです。新型コロナウィルスも、完全に消滅はしなくても、致命的にならないで済む薬が次第に開発されてくると思います。 

 イタリア・ミラノの高校の校長先生が、学校が一時閉鎖になった生徒あてに書いたメッセージ(イタリアは日本よりずっとひどい状況です)が日本でも話題になりました。出版されたので買いました(『「これから」の時代を生きる君たちへ』、世界文化社)。スキラーチェというこの校長先生がクリスチャンかどうか分かりませんが、彼はまず似たことが17世紀にペストが大流行したときにもあったと述べます。その時こうなったと。「外国人やよそ者を危険だと思い込む、役所同士が激しく対立する、最初の感染者(~)を突きとめようと躍起になる、専門家たちの意見を軽視する(これは今回には当てはまらない)、さらにウイルスを広めた人たちの追跡、(~)生活必需品の奪い合い~。」こうならないように気をつけようと、呼びかけます。「必要な予防策をとって」、「休校中の時間を生かして、散歩をしたり、良書を読んでください。」 出版社の依頼によってスキラーチェ先生が書いた日本の生徒のためのメッセージも掲載されています。「人間らしい思いやりを忘れないように」してほしい。「家の中に閉じこもり、孤立するのは、誰にとっても困難な体験です。若者には、なおさら辛く感じられることでしょう。」「しかし、最悪の経験からも、得られることはあるのです。~この痛みはいつか、皆さんの財産になるでしょう。」「この動けない状態は、私たちのライフスタイルを考え直すよい機会になるかもしれません。

 「命や愛、友情や自然など、本当に大切なものは何か、理解する機会になるかもしれません。」「この危機を乗り越えたとき、皆さんはきっと変わっていることでしょう。よい方向に変わることができるかもしれません。~本を読み、考えることで、この孤独な長い日々を無駄に失われた時間にせず、有益で素晴らしい時間にしましょう。イタリアの生徒たちにとっても、日本の生徒たちにとっても、そうあってほしいと思います。」聖書の言葉ではありませんが、「古きをたずねて新しきを知る」という言葉もあります。この校長先生は、「天の国のことを学んだ学者」、「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人」に似ているのではないか。昔のペスト大流行のことから初めて、今の若者に非常に大切で心のこもったメッセージを送っている。私たちも、このような大人でありたいと、思わされるのです。

(祈り) 父なる神様、聖なる御名を讃美致します。世界中で新型コロナウイルスに苦しむ日々ですが、世界中で助け合い、支え合ってこの時を乗り切ることができますように、世界を連帯へと導いて下さい。私たちの教会に、別の病と闘う方々がおられます。神様の完全な愛の癒しを速やかに与えて下さり、支えるご家族にも十二分な守りをお与え下さい。医療従事者をコロナウイルスから守って下さい。ワクチンと治療薬が早く開発され、世界全体で互いに愛し合って乗り越えるように助けて下さい。主イエス・キリストの御名によって、お願い致します。アーメン。