日本キリスト教団 東久留米教会

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2016-09-21 19:43:10(水)
「神に似せて造られた私たち」 伝道メッセージ 石田真一郎
「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(旧約聖書・創世記1:27)。

 リオデジャネイロ・オリンピックとパラリンピックが終わりました。以前はオリンピック休戦やクリスマス休戦があったそうですが、今はないのでしょうか。オリンピック中も、空爆で負傷した子どもの映像が流れ、皆が心を痛めました。

 7月に相模原市の障がいを持つ方々の施設で、19名もの命が奪われる事件が起こりました。容疑者は、「障がい者は生きていても仕方がない」という危険な考えに染まっています。ナチス(ヒットラー)の考えそっくりです。ナチスはユダヤ人絶滅計画と障がい者安楽死計画を実行しました。命の造り主である神様への反逆です。神に反逆したのでナチスは滅びました。

 聖書に、神様が人間をお造りになる場面があります。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」。 「神様にかたどって(似せて)造られた」、それが人間の尊厳です。どの動植物の命も大切ですが、人間は特に大切です。神様に似ている点は姿ではなく(神様は目に見えません)、人格があること、(不完全でも)愛することができること、言葉を持つこと、責任感があること等です。障がいがある方は、神様に似せて造られた大切な一人です。その命を奪うことは、神への反逆です。神様の十戒の一つに「殺してはならない」と明記されています。昔、「どうして人を殺してはいけないのか」と質問した小学生がいました。聖書に明確な答えがあります。人が神に似せて造られたから、殺人が神への反逆だからです。

 ドイツに、ベーテル(「神の家」の意)という福祉の町があります。安楽死を説くナチスの医者に、責任者フリッツ・フォン・ボーデルシュヴィング牧師は反論します。「国家に有用かどうかで、人の存在価値を決めることはできません。安楽死は神の掟に反します。他の人々のためという大義名分で、障がいのある人々を犠牲にするのは大きな間違いです。」何人かは殺されましたが、べーテルは「ヒットラーから障がいある人々を守った町」として知られます。私たちも、この価値観で生きたいのです。アーメン(「真実に」)。

2016-09-21 19:38:15(水)
「沖縄に平和を」 伝道メッセージ 石田真一郎
「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」
(新約聖書・マタイによる福音書5:9)。

 6月に沖縄本島に行きました。暑かったですが、エメラルドグリーンの海の美しさは宝物です。美しい自然は、神様からのプレゼントです。6月19日(日)に、教会での礼拝後に、南端の糸満市の摩文仁にある「平和の礎(いしじ)」に行きました。太平洋戦争末期の1945年4~6月に、沖縄は地上戦の舞台となり、子どもを含む多くの住民が犠牲になりました。米軍は猛烈な艦砲射撃を行い、風景が一変しました。戦争は最大の自然破壊です。「平和の礎」は石碑群で、沖縄戦で亡くなった24万人以上のお名前が刻まれています(今も新たに確認された名が刻まれる)。ここは激戦地で、追い詰められた住民が米軍に投降したり、命を絶った海岸が間近です。

 21日(火)には、「ひめゆりの塔」と資料館に行きました。15~19歳の222名の女子学生が18名の教師に引率されて、陸軍病院で負傷兵の看護にあたりました。病院は横穴壕で、砲弾が飛び交う事実上の戦場でした。生徒123名が亡くなりました。「もう一度、弾の飛んで来ない空の下を、大手をふって歩きたいね」と言った生徒がいたそうです。戦争が地獄で、二度と行ってはならないことと痛感します。どちらにも修学旅行の中高生が多く来ていました。18才で選挙権を持つのですから、とてもよいことです。中国語が聞こえたので、台湾か中国からも来ていたようです。これもよいことです。沖縄戦が長引いて犠牲者が増えたのは、米軍の本土上陸を一日でも遅らせる盾としたからです。差別意識がありました。基地問題がある今も同じことがないか、深く反省させられます。

 20年前にハワイの真珠湾に行きました。1941年に日本海軍が空爆したとは信じられない、平和な海に見えました。真珠湾攻撃せずに忍耐すれば、沖縄戦を防ぐことができたと思うのです。戦争は、神様が作られた美しい自然と命を破壊する最大の罪です。私は完全に戦後世代ですが、今の日本で戦争への嫌悪が薄れていないか、心配です。皆様と共に、平和を守る意志を強く持ち続け、平和を祈り続けたいのです。アーメン(「真実に」)。

2016-09-21 19:32:38(水)
「桜の滑走路」 伝道メッセージ 石田真一郎
「神のなされることは、皆そのときにかなって美しい。」
(旧約聖書・伝道の書3章11節<口語訳>)。

 5月半ばに、三鷹市の国際キリスト教大学に行きました。正門から礼拝堂まで、約600メートルの真っ直ぐな通りが伸びています。通称「滑走路」です。桜並木で、春は花見の名所です。この敷地は戦争中、「中島飛行機」という会社の研究所で、軍用機の開発の研究がなされていました。国のためとは言え、人殺しの飛行機を作る研究です。民間の軍事施設です(滑走路という通称はこの会社があった記憶から来ていますが、実際に滑走路だったわけではありません。)戦後、日米で募金が行われ、その場所がキリスト教主義の大学になりました。世界に開かれた「平和の国・日本」を造る一つの拠点にしたいとの祈りがありました。今は多くの留学生がおり、日曜日には礼拝堂で、色々な国の人たちが、大人も子どもも神様を礼拝して、共に讃美歌を歌っています。軍事施設が平和の祈りの場に変わったのです。

 私は、旧約聖書の言葉を思います。
「主(神様)は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
 彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。
 国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(イザヤ書2:4)。 

 神様が、剣や槍(戦争の道具)を、鋤や鎌(平和・農耕の道具)に作りかえ、平和をもたらして下さる、というメッセージです。このことが、
国際キリスト教大学の場所で本当に起こったのです。まさに、「神のなされることは、皆そのときにかなって美しい」です。桜のトンネルと呼ばれる、通称「滑走路」の美しい桜並木は、神様の美しい働きのシンボルです。

 4月に、90才の牧師のお話を伺いました。「私は70年前、兵隊に行った。父も牧師だったが、『お国のために戦って来い』と私を送り出した。思えば当時の日本の教会も、戦争の悲惨さ、罪深さを理解していなかった。」同じ過ちを繰り返さない「平和の国・日本」の建設のために、努力したいのです。アーメン(「真実に」)。

2016-09-14 20:16:16(水)
「国と力と栄えとは、神のもの」主の祈り⑧ 2016年9月11日(日) 聖霊降臨節第18主日礼拝説教
朗読聖書:歴代誌・上29章10~16節、コリント(一)15章23~28節。
「偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの」(歴代誌上29章11節)。

 私たちが礼拝で祈る「主の祈り」の原型は、マタイ福音書6章とルカ福音書11章に記されています。礼拝で祈る「主の祈り」においては、6つの祈りの次(一番最後)に「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」の言葉があります。
これは、マタイ福音書6章とルカ福音書11章の「主の祈り」の原型には、ありません。これは後に、教会が付け加えた言葉だと言われています。本日の旧約聖書である歴代誌・上29章、その11節から取ったのだろうと言われています。「偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。」これをまとめて、「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」としたのでしょう。聖書の神こそ、この宇宙のすべてのものの所有者・主権者であることを、力強く語る言葉です。

 「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」を頌栄と呼んでもよいでしょう。週報に記してある礼拝の順序を見ると、初めの方と終わりの方に一回ずつ頌栄があります。頌栄とは、「神への礼拝において、三位一体の神を讃美し、三位一体の神にすべての栄光を帰する言葉や歌」です。私たちは、礼拝の初めの方で三位一体の神を讃え、礼拝の締めくくり近くで、三位一体の神にすべての栄光を帰します。本日の礼拝の初めの方で歌った頌栄27番では、「父・子・聖霊のひとりの主よ、栄えと力はただ主にあれ、とこしえまで。アーメン」と讃美しました。本日の礼拝の終わりの方で歌う頌栄28番では、「み栄えあれや、父と子と聖霊に、はじめも今も、とわにかわらず、み神に アーメン、アーメン」と讃美して、神に栄光を帰します。

 礼拝は、神への讃美に始まり、神への讃美に終わるのですね。「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」も、確かに、神様に栄光を帰する頌栄です。思えば、「主の祈り」は、「天にまします我らの父よ、願はくは、御名をあがめさせたまえ」という神の御名をあがめる讃美の祈りから始まりました。そして締めくくりが、「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」です。讃美に始まり讃美に終わっている、頌栄に始まり頌栄に終わっているのです。

 本日の歴代誌・上29章11節以下は、ダビデが聖なる神殿の建築のために、人々と共に金銀、宝石などを神様に献げたときの祈りです。ダビデは、自分が神殿を建築するのでないことを知っていました。それはダビデの子ソロモンの時代に成し遂げられるのです。ダビデはソロモンのために、多くの準備をしました。ダビデのこの祈りは、すばらしいものです。まずダビデは、主なる神様をたたえます。(10~13節)「ダビデは全会衆の前で主をたたえて言った。『わたしたちの父祖イスラエルの神、主よ、あなたは世々とこしえにほめたたえられますように。偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。富と栄光は御前にあり、あなたは万物を支配しておられる。勢いと力は御手の中にあり、またその御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる。わたしたちの神よ、今こそわたしたちはあなたに感謝し、輝かしい御名を賛美します。』」

 神をあがめた後、ダビデは自分の小ささを語ります。これはダビデ王の本心です。私たちもダビデと共に、このように告白したいのです。(14~16節)「このような寄進ができるとしても、わたしなど果たして何者でしょう。すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。わたしたちは、わたしたちの先祖が皆そうであったように、あなたの御前では寄留民にすぎず、移住者にすぎません。この地上におけるわたしたちの人生は影のようなもので、希望はありません。わたしたちの神、主よ、わたしたちがあなたの聖なる御名のために神殿を築こうと準備したこの大量のものは、すべて御手によるもの、すべてはあなたのものです。」私たちの「献金の祈り」のよき模範になりますね。 「この地上におけるわたしたちの人生は影のようなもので、希望はありません」とは、暗すぎるようですが、永遠の希望がこの地上にはなく、天国にのみあることは事実です。使徒パウロが書いたフィリピの信徒への手紙3章20節の言葉を借りるなら、「わたしたちの本国は天にあ」る、「わたしたちの国籍は天にあ」ります。

 ダビデは告白しました。「まことに天と地にあるすべてのものは、あなたのもの」と。世界のすべてのものは、神のもの。これはクリスチャン以外の人にとっては、衝撃ではないかと思うのです。この世界のご主人が本当におられる。私たちは、自分の人生の主人は自分のように思っているかもしれませんが、自分の主人は自分ではなく、私たちの命をお造りになった神様です。神様は、出エジプト記19章5節で、厳かに宣言されます。「世界はすべてわたしのものである。」私たちはこの方の前にひれ伏し、「まことに国と栄えと力とは、限りなくあなたのものです」と告白し、讃美するほかありません。そして詩編24編1節では、作者のダビデがこのように告白しています。「地とそこに満ちるもの/ 世界とそこに住むものは、主のもの。」私たちは、「アーメン!」と賛同の言葉を、感謝をもって述べます。

 白洋舎というクリーニング店を創立なさった五十嵐健治さんというクリスチャンは、19歳のときに創世記1章1節の、「初めに神は天地を創造された」を読んで、「ああ、この天地をつくられたのが神であったのか。この自分もまた神につくられたのであったのか」と感動し、涙にむせばれたと読んだことがあります(三浦綾子著『光あるうちに』新潮文庫、1987年、117ページ)。神様がこの世界の主であることを、私たちが忘れがちかもしれないのです。神様がこの自然界の主であることが分かれば、自然環境を破壊することが、神様への罪であることも分かります。

 「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。」これは、父なる神様を賛美する言葉です。神の子イエス様は、地上でこの言葉どおりに生きられました。私たち人間は、自分の栄光を求めやすい者です。神の御名よりも、自分の名が高められることを願ってしまうのです。これが私たちの罪、特に男性の陥り易い罪です。「神にのみ栄光あれ」という言葉があります。「主の祈り」の最後で、私たちは「神にのみ栄光あれ」と願っているのだと思います。「主の祈り」の最初の祈りは、「御名をあがめさせたまえ」です。これと、「国と力と栄えとは、限りなく、汝のものなればなり」は、ほとんど同じとも言えます。「主の祈り」は、神の栄光をたたえるこの2つの祈りと告白にサンドイッチにされています。

 そしてイエス様は、自分の栄光を一切求めず、徹頭徹尾、父なる神様のご栄光のみを求められました。悪魔は、イエス様を激しく誘惑したのです。「父なる神様にただお仕えするだけなんて、つまらないよ。あなたは神の子ではないか。権力をあげるから受け取りなさい。そうすれば楽しい人生を送ることができるよ。世界の国々の一切の権力をあなたにあげるよ。それは私に任されていて、これと思う人に与えることができるのだよ。ただ私を拝みさえすればよいのだ。簡単なことだろう? そうすればあなたは栄光と権力を手にして、権力を思いのままに振るって、楽しい人生を生きることができるよ。」しかしイエス様は、常に「父なる神様にのみ栄光あれ」と願っている方ですから、悪魔の誘惑を完璧に退けられます。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と(旧約聖書に)書いてある」とおっしゃり、「父なる神様にのみ栄光あれ」の生き方を、一瞬もおやめにならないのです。 

 イエス様は、十字架にお架かりになる前日の夕方に、弟子たちの足を洗われました。こうして神の栄光を現わされたのです。そしてイエス様は、十字架に架かられました。父なる神様を愛して、父なる神様に従い切り、私たち罪人を愛して、私たちの全ての罪を身代わりに背負って下さいました。十字架に架かる奉仕の生き方で、父なる神様の栄光を現わされたのです。十字架こそ、イエス様の栄光の王座です。1997年に亡くなったマザー・テレサが今年9月4日に、カトリック教会の聖人に認定されたそうです。私たちプロテスタント教会では、特に立派な信仰者であっても、その人を聖人に認定することは致しません。ですがマザー・テレサが、多くの貧しい方々のために奉仕なさることで、神の栄光を現わす生き方をなさったことは、誰しも認めるところです。私どもも、イエス様の弟子となり、神様と隣人にお仕えする生き方をすることで、神様の栄光(神様の素晴らしさ)を現わさせていただきます。イエス様は、「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」(ヨハネ福音書15:8)と言われました。

 本日の新約聖書は、コリントの信徒への手紙(一)15章23節以下です。世の終わりに神の国が完成される時のことが記されています。まず死者の復活が起こると言っています。23節の途中から24節。「最初にキリスト(この復活は既に起こりました)、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち(が復活する)、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。」再び来られるキリストが、悪魔的な全ての力を滅ぼし、父である神がこの世界の王となられる。神はもちろん今既にこの世界の王なのですが、その支配ははっきり目に見えません。今は、信仰ある人々だけが、神の栄光を賛美して礼拝しています。でも神の国が来るときには、神が本当にこの世界の王であることが、誰の目にも明らかになります。

 (26~27節)「最後の敵として、死が滅ぼされます。『神は、すべてをその足の下に服従させた』(詩編8:7)からです。」このとき、人類最大の敵・死が滅ぼされます。人類の悲願が成就するのです。最高にすばらしいことです。(28節)「すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。」これが神の国の完成です。「国と力と栄えとが、限りなく神のもの」であることが、誰の目に明らかに示される日です。その時が早く来るようにと願って、私たちは「御国を来らせたまえ」と祈り続けています。

 前にもお話しましたが、私もお世話になったある神学校の先生(牧師)が17、8年ほど前に、天に召されました。私は葬儀に出席できませんでしたが、葬儀でヨブ記1章21節が読まれたと聞きました。
「わたしは裸で母の胎を出た。/ 裸でそこに帰ろう。
 主は与え、主は奪う。/ 主の御名はほめたたえられよ。」
その先生は、神様に多くご奉仕され、キリスト教の世界で実績を残されたと言えます。それだけに、葬儀で自分の名がたたえられてしまうのではないかと、心配されたのではないかと、私は想像します。それでこの聖句を、ご自分で選ばれたのではないかと、私は感じたのです。葬儀は礼拝ですから、「私をたたえず、神様だけをたたえなさい」と、その先生が願われたと思うのです。「神にのみ、栄光あれ」です。

 ルカ福音書1章の「マリアの賛歌」も、「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」と一致します。マリアが、「わたしの魂は主をあがめ」と言っているからです。「あがめる」は「大きくする」の意味と聞きます。「マリアの賛歌」はラテン語で「マグ二フィカート」です。英語の「マグ二ファイ」に通じるでしょう。それは「大きくする、拡大する」ということです。

 使徒パウロは、こう書いています。「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。」「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。」イエス・キリストは「王の王、主の主」(ヨハネの黙示録19:16)です。三位一体の神です。キリストがあがめられるようにと願うことと、「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」と祈ることは、同じです。私たちの願いもパウロと同じです。私たちの生き方と死に方によって、ただキリストが公然とあがめられ、神の栄光が現されることです。このように生き、死ぬことができるように、神様が私どもをそのように導いて下さるように、祈りましょう。アーメン(「真実に」)。

2016-09-08 2:28:28(木)
「救い主に出会う喜び」 2016年9月4日(日) 聖霊降臨節第17主日礼拝説教
朗読聖書:創世記21章1~8節、ヨハネ福音書8章48~59節。
「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである」(ヨハネ福音書8章56節)。
 
 イエス様が、ユダヤ人たちと論争しておられます。ヨハネ福音書は、ユダヤ人と呼ばれる人々を、イエス様に敵対する悪のシンボルとして描いています。現実のユダヤ人が皆、悪人でないことは、もちろんです。ユダヤ人だからと言って、その人を差別したり、迫害してはいけないのも、当然です。ヨハネ福音書のユダヤ人たちは、イエス様に敵対する悪の勢力のシンボルです。本日の少し前の44節で、イエス様はそのユダヤ人たちに、真に厳しいことをおっしゃいました。「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。」彼らユダヤ人たちの父は悪魔だと言われました。ユダヤ人たちに、「あなたたちは悪魔の子だ」とおっしゃったのと同じです。

 ユダヤ人たちは、イエス様に反発して言い返します。(最初の48節)「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と。この福音書の4章によると、当時ユダヤの人々は、同じカナンの地にあるサマリアの人々と交際しませんでした。サマリア人は、純粋なイスラエル民族でないと見られていましたし、信仰上も、純粋ではないと見られていました。蔑まれ、差別される存在でした。人々はイエス様に言ったのです。「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれている。」サマリア人に真に失礼な言い方です。この言い方で、イエス様を深く落としめ、非難したのです。

 (49節)「イエスはお答えになった。『わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。』」最後の部分を口語訳聖書は、「軽んじる」、新改訳聖書は「卑しめる」と訳しています。神の子に対して、「あなたは悪霊に取りつかれている」とは、完全な偏見です。物事を見る目が、完全に歪んでいます。でも、私たちの物の見方も歪んでいるかもしれません。物事の見方が全然歪んでいないのは、イエス様のみです。私たちも、イエス・キリストに助けていただいて、いつも物事を正しく見て、正しく判断し行動できるように、祈っていたいのです。


 私の聖書の空色のカバーは、7年ほど前に、東久留米教会の(当時は)すぐ近くにあったキリスト教書店で買ったものです。先日よくよく見たところ、カバーに茶色の円があって、そこにはイエス・キリストを意味する「魚」のシンボルマークがあり、その周りに英語で「イエス様ならどうするか」と書いてあることに、初めて気づきました。人に、「このマークは何」と聞かれて初めてそのマークに気づいたのです(ちょっと見にくいのです)。そこに「イエス様ならどうするか」という最も大切なメッセージが書いてあることに、一週間前まで気づかなかったのです。お粗末様です。「イエス様ならどうするか。」私たちが何らかの判断をしたり行動をするときに、祈りつつ自分にこう問いかけることは、最も大切なことでしょう。特に、判断に迷ったり、重要な決断をするときに、「イエス様ならどうするか」と自分に問いかけてみることは、最高に大切と思います。そう自分に問いかけて、「イエス様ならこうなさる」と分かっても、自分は同じに行動できない場合もあるでしょう。しかしいつも祈りつつ自分にそう問いかけていれば、次第にイエス様に似た者に変えられていくと思うのです。「こんなとき、イエス様ならどうするか。」こう自分に問いかけて行くことは、確かにイエス様を重んじることです。

 (51節)「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」 驚くべき言葉です。神の子にしか言えない言葉です。私たち普通の人には言えません。イエス様がこうおっしゃることができるのは、イエス様が永遠の命を持っておられるからです。ユダヤ人たちは、イエス様につまずいて、こう言います。(52節)「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。わたしたちの父(先祖)アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」確かにアブラハムは、神の民イスラエルの偉大な先祖、旧約聖書に登場する預言者たちも偉大な信仰者たちです。ユダヤ人たちは、アブラハムと預言者たちを、非常に尊敬していたのです。しかしイエス・キリストは神の子であり、「父・子・聖霊なる三位一体」の神ご自身です。アブラハム以上の方、預言者たち以上の方です。
 
 (54~55節)「イエスはお答えになった。『わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、「我々の神だ」と言っている。あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。』」 「わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父だ」とイエス様は言われます。ご自分には天に父がおられる。ご自分はその父の息子だ、神の子だと言っておられます。イエス様は、父なる神様をよくよく知っておられます。父なる神様と一体だからです。ここのユダヤ人たちは、「神を知っている」と自信を持っていますが、本当には分かっていないのです。神様がどんな方か、知ったつもりになっているだけで、本当は分かっていません。私たちもそうなってしまうことはあり得るので、注意したいと思います。父なる神様を、最も深く分かっておられる方は、イエス様です。

 イエス様は、56節で実に大胆なことを言われます。「あなたたちの父(尊敬する先祖)アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て喜んだのである。」アブラハムは、イエス様の時代よりおそらく約2000年も前の人です。「アブラハムが、イエス様の日を見た」ということは、アブラハムがイエス様を見たとも受け取ることができ、アブラハムの時代にイエス様が生きておられたという意味にもなります。ユダヤ人たちは、びっくりしてイエス様に尋ねます。(57節)「あなたは、まだ50歳にもならないのに、アブラハムを見たのか。」イエス様は30~33歳だったでしょう。するとイエス様は、ずばり言われます。(58節)「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」

 アブラハムが生まれる前から、イエス・キリストは生きておられた! 驚くべきことですが、事実です。ヨハネ福音書は、冒頭からそれを宣言しています。イエス・キリストの驚くべき真理が、ここに開き示されたのです。1章1節。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」「言」が、イエス・キリストを指していることは明らかです。「初め(天地創造の時、いえ、天地創造の前)にイエス・キリストが生きておられた。イエス・キリストは神と共におられた。イエス・キリストは神であった。」 聖書全体の冒頭の言葉は、「初めに、神は天地を創造された」です。その時から、その前からキリストは生きておられたのです。「その前から」と私が言う根拠は、ヨハネ福音書17章5節のイエス様の祈りの言葉です。「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」 そして、イエス・キリストは神である。これがヨハネ福音書のメッセージです。10月30日(日)に予定している東久留米教会の修養会のテーマは、「三位一体の神様」です。聖書の神、この宇宙と私たちをお造りになった神は、「父・子・聖霊なる三位一体の神」です。イエス・キリストは「子なる神」です。そしてイエス様は、神の子であり、神が人となった方です。

 この新共同訳聖書は、8章の58節のイエス様の御言葉「わたしはある」を、わざわざ二重鍵カッコに入れて、私たちに注意を促してくれています。これは(これまでもしばしば申しましたように)元の言葉で「エゴー・エイミー」という言葉です。英語にすると「アイ アム」で、「私はある、私は存在する」ということです。これは旧約聖書の出エジプト記3章14節にある神様の自己紹介の言葉と同じと言えます。そこで神様はイスラエルのリーダー・モーセに、こう言っておられます。「わたしはある。わたしはあるという者だ。~イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」イエス様は、「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」とはっきりおっしゃいました。「アブラハムが生まれる前から私は生きているし、私はモーセに現れたあの神だ」と宣言なさったのと同じです。ユダヤ人たちは驚き、神への冒瀆だと感じて、石を投げつけようとしたのです。しかしイエス様は身を翻して、神殿の境内から出て行かれたのです。

 少し戻って、56節に注目します。「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」 「わたしの日」とは「イエス様の日」、救い主イエス様の誕生の日であり、イエス様が救い主として活動なさる日でしょう。アブラハムはイエス様より2000年近く前に死んでいるので、もちろんイエス様を地上で直接見てはいません。本日の旧約聖書は、創世記21章で、アブラハムに待望の息子イサクが生まれた場面です。神様の約束によって、イサクは生まれました。しかもアブラハム100才、妻サラ90才の時に生まれました。常識では考えられないことです。しかし、神様の約束は、どんな不可能な状況をも乗り越えて必ず果されることを証明したのが、イサクの誕生です。イサクの誕生は、神様の約束によってアブラハムの時代よりずっと先に実現する救い主イエス・キリストの誕生を、指し示す出来事です。

 アブラハムとサラの夫婦は、神様の約束が与えられてから25年間待ったのです。夫婦は遂に約束の実現の日を迎えて、深い喜びに満たされました。サラは感激して言いました。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク。『彼は笑う』の意)を共にしてくれるでしょう」と言いました。 「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」約束の子イサクの誕生を見たことで、神様が将来、約束の救い主をも必ず誕生させて下さることを深く確信したということです。「救い主に出会う喜び」の前味を味わったのです。そして私たちの幸せは、アブラハムが待ち望んだ救い主の誕生を、既に知っていることです。救い主はイエス・キリストです。アブラハムから見れば、私たちはうらやましい者に違いありません。アブラハムが直接見ることのできなかった救い主イエス様を、知っているからです。「救い主に出会う喜び」を知っているからです。そのイエス様が、必ずもう一度この地上においでになり、神の国が完成する。その時にこそ、私たちの喜びも、完成に至ります。私たちは、神様のその約束の中に生かされています。

 さて、もう一度58節です。「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」 キリストは、天地創造の前から生きておられる神、天地創造をなさった神です。そして、イエス様の弟子・使徒パウロが教えてくれる驚くべきことは、私たちも天地創造の前から、神様に愛されているという事実です。新約聖書のエフェソの信徒への手紙1章4、5節を見ます。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」 「天地創造の前に、神はわたしを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」この礼拝堂にいる私たちは皆、20世紀(あるいは21世紀)の日本(あるいは別の場所)で生まれたのですが、天地創造の前から神様に愛されていた、聖なる者・汚れのない神の子にしようと、神様に選ばれていた、のです。この宇宙が創造される前から、私たち一人一人は神様に愛されていて、この地上への誕生を決定されていた、ということです。こどもさんびかの歌詞の通りなのです。「生まれる前から神様に、守られて来た友達の、誕生日です、おめでとう。」

 キリストは天地創造の前から生きておられる神であり、私たちは天地創造の前から、神様に知られ、神様に愛されていました。今も愛されています。そしてキリストを信じて、天国を約束されています。私たちが天地創造の前に神様に愛されており、その後に私たちが生まれ生きる舞台として天地は創造された。これが本当の順序なのです。まだ洗礼を受けておられない方々も、天地創造の前から神様に愛されておられて、今ここにおられます。この事実を受け入れて、洗礼を受け入れて下されば、神様が深く喜んで下さると信じます。

 (7節)「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」イエス様が十字架で流して下さった清い血潮だけが、私たちの罪を清める力を持ちます。ただ今より聖餐を受けます。感謝と畏れの念をもって、イエス様の清き御体を示すパンと、清き血潮を示すぶどう汁をいただきたいのです。アーメン(「真実に」)。