日本キリスト教団 東久留米教会

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2016-01-12 19:40:31(火)
「キリストこそ命のパン」 2016年1月10日(日) 降誕節第3主日礼拝説教
朗読聖書:出エジプト記16章13~22節、ヨハネ福音書6章22~59節。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネ福音書6章54節)。

 ヨハネによる福音書6章は、全体のテーマが「命のパン」です。イエス・キリストこそ命のパンであることを語っています。6章の最初でイエス様は、約5千人の男たちを、満腹させて下さいました。すると人々は、イエス様を自分たちの王にしようとしたのです。人々は「この方に王になっていただけば、私たちはもはや食いっぱぐれることがない」と考えたのです。確かにイエス様は、世界の真の王です。しかし彼らが願う地上の王になるご意志はなく、独りで山に退かれました。その後イエス様は、何とガリラヤ湖の上を歩いて、向こう岸のカファルナウム方面に向かわれ、弟子たちの漕ぎ悩む舟に乗り込んでカファルナウムに到着なさいました。マタイによる福音書によると、イエス様はカファルナウムに住んでおられたのです。

 そして本日の箇所です。群衆がイエス様を追いかけてカファルナウムに来ました。そしてイエス様を見つけると、「ラビ(先生)、いつ、ここにおいでになったのですか」と尋ねました。この群衆は、この福音書で「ユダヤ人たち」と呼ばれる人々のようです。この福音書で「ユダヤ人たち」は、イエス様に逆らう勢力のシンボルです。現実のユダヤ人が皆、イエス様に逆らう人々なのではありません。この福音書では、「ユダヤ人たち」は、イエス様に敵対する勢力のシンボルとして登場することを、心に留めておきたいと思います。彼らに、イエス様は少々厳しいことを言われました。(26節)「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」もちろんパンは大切です。パン(食べ物あるいはお金)がないと、私たちは生きることができません。パンを得るために、私たちは必死の努力をします。パンの問題を軽く考えることは、もちろんできません。その上でしかし、パンだけあれば十分とも言えません。パンはどうしても必要ですが、パンだけでよいなら動物と変わらないとも言えます。イエス様は非常に大切なことをおっしゃいます。27節です。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子(イエス様ご自身)があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」

 「朽ちる食べ物」とはパンやお金のことでしょう。「朽ちる食べ物」も非常に重要です。イエス様はそれをよくご存じです。食べ物がないことがどんなに辛いか、イエス様は40日40夜断食されたときに、いやというほど味わわれました。でもイエス様は、それを乗り越え、旧約聖書を引用して言われました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ福音書4章4節)。そしてこのヨハネ福音書でも、あえて言われます。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」これは、神学校の標語になりそうな御言葉です。「永遠の命に至る食べ物。」それは神様の言葉です。そして生きた神の言葉である救い主イエス・キリストです。イエス・キリストを宣べ伝えることです。非常に重要な御言葉だと、心を打たれます。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」

 旧約聖書のアモス書8章11~12節に、次の御言葉があります。
「見よ、その日が来ればと/ 主なる神は言われる。
 わたしは大地に飢えを送る。/ それはパンに飢えることでもなく
 水に渇くことでもなく/ 主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。
 人々は海から海へと巡り/ 北から東へとよろめき歩いて
 主の言葉を探し求めるが/ 見いだすことはできない。」

 罪を犯し続けるイスラエルの民への最も厳しい裁きは、「主の言葉」(神の言葉)が取り上げられることです。もし私たちから、神の言葉である聖書が取り上げられれば、私たちは命の糧を失い、説教も礼拝もできにくくなります。神様の御心に適う生き方も分からなくなります。「主の言葉」が失われることは、致命的なことです。神の言葉、聖書は私たちの最高の宝です。

 ヨハネ福音書に戻り、28、29節も重要です。「そこで彼らが、『神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか』と言うと、イエスは答えて言われた。『神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。』」 弟子たちは、「神様の業、神様の御心を行いたい」と願っていたので、こう尋ねたのでしょう。「神の業を行うためには、どんな善いことをすればよいでしょうか?」と。イエス様は「あのような善いこと、このような善いことを行いなさい」とはお答えになりませんでした。そうではなくて、「神がお遣わしになった者(イエス様ご自身)を信じること、それが神の業である」とお答えになりました。私たちが、いわゆる善いことを行うことは社会の中で必要です。しかしそれだけでなく、いえそれよりも重要なことは、私たちが救い主イエス様を信じること、それが「神の業」です。私たち皆がイエス・キリストを救い主と信じること、それが父なる神様の切なる願いです。

 なぜなら父なる神様は、私たちの罪を全てイエス様に背負わせて、イエス様を十字架におつけになりました。それは父なる神様にとっても、最大に辛いことであり、大きな犠牲を払うことです。それ以外に私たちの罪を赦す方法がなかったのです。そのために最愛の独り子イエス様を、十字架におつけになりました。父なる神がそこまでして下さったのに、もし私たちがイエス様を信じなかったら、父なる神が、大きな犠牲を払われた意味がなくなる恐れがあるのではないでしょうか。

 父なる神様は、私たちが罪の赦しを受け、永遠の命を受けることを、切に願っておられます。そのために、イエス・キリストを救い主と信じ、洗礼を受けてほしいと、切に願っておられます。正確に言えば、私たちがイエス様を信じる信仰も、神様が与えてくださるものです。しかし同時に私たちが信じる決断をする面も確かにあります。私たちは改めてイエス様を救い主と信じたいですし、ほかの方々も信じて下さるように、とりなしの祈りを怠ることはできません。このヨハネ福音書は、20章の終りに、この福音書が書かれた目的を、次のように記します。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命(永遠の命)を受けるためである。」

 イエス様の言葉を聞いた人々は、なかなか信じないで、次のように言います。(30~31節)「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナ(マナ)を食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と(出エジプト記16章4、15節に)書いてあるとおりです。」 彼らの要求は「あなたを救い主と信じても大丈夫であることを証明するしるし(奇跡)を見せてほしい」ということです。私は、約5千人の男たちを満腹させたことで、十分なしるしになっていると思いますが、別のしるしを要求したようです。しかし見て信じるなら、簡単なことです。私たちは、イエス様のしるしをこの目で見なくても、聖書に書いてあるので信じる、「見ないで信じる」のが真の信仰です。

 彼らが、マナのことを持ちだしたので、ここからテーマが「命のパン」に移ってゆきます。マナは旧約聖書で、神様がエジプトを脱出したイスラエルの民に40年間にわたって与え続けて下さった食べ物です。(出エジプト記16章13~16節)
「夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったのである。モーセは彼らに言った。『これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。主が命じられたことは次のことである。「あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメル(約2.3ℓ)を集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。」』」

 人々は、「これは一体何だろう」と言い合いました。原文のヘブライ語では、「マーン フー」です。「マーン」は「何」、「フー」は「これ」です。「マーン フー」を直訳すると「何、これ」です。ここからマナという名が付いたのですから、面白いですね。「マーン」を私たちはマナと呼んでいます。神様がイスラエルの民が約束の地に入るまで40年間マナを与え続けて、飢えさせることなく養った下さったことにより、私たちはこの神様が胃を満たすパンをも与えて下さること、この神様に信頼して間違いがないことを深く悟ります。

 ヨハネ福音書に戻ります。ここに登場するユダヤ人たちは、モーセがイスラエルの民にマナを与えたと、誤解していたようです。イエス様はそれを訂正されます。(32~33節)「はっきり言っておく(原文『アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う』)。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父(神)が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」 この「命」は、私たちの生まれつきの命・生物学的な生命ではなく、永遠の命です。私たちの生まれつきの命には、罪・エゴがこびりついています。神様に素直に従わない命です。罪ある命なので、死があります。罪の結果が死だからです。永遠の命は、全く新しい命です。全く罪のない命、エゴのない命、神様と隣人への愛にあふれた命、イエス様の命と同じ命です。この命には罪が全くないので、この命には死がありません。私たちが永遠の命をいただけば、私たちが死んだ後も、その永遠の命によって生きています。イエス様だけが、永遠の命を与えて下さる方です。

 この福音書においてイエス様は、出会った人々を、問答を通して真理に導こうとなさいます。ここでもそうです。(34~35節)「そこで、彼らが、『主よ、そのパンをいつもわたしたちにください』と言うと、イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。』」イエス様ご自身が「命のパン」、「永遠の命のパン」だと宣言なさったのです。イエス様は、この福音書で、「わたしは○○である」という言い方を多くなさいます。「わたしは世の光である。」「わたしは良い羊飼いである。」「わたしは復活であり、命である。」「わたしは道であり、真理であり、命である。」6章では「わたしは命のパンである」と宣言なさいます。「わたしは○○である」は、ギリシア語原文で「エゴー・エイミー」という重要な言葉です。英語にすると「アイ アム」(わたしは○○だ)です。しかも「アイ」が強調されていると言えるので、「わたしこそ○○だ」と訳すことができます。そこで本日の説教題を「キリストこそ命のパン」と強調した言葉に致しました。

 「エゴー・エイミー」は、出エジプト記3章14節の、神様の自己紹介の言葉と同じ意味です。「わたしはある。わたしはあるという者だ」(原文ヘブライ語)。「エゴー・エイミー」と宣言なさったイエス様は、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と宣言しておられるのです。イエス様は、旧約聖書でモーセに現れた神に等しい方です。イエス様はマリアから生まれた人間の子であると同時に、イスラエルの民をエジプトから脱出させた神様の独り子であり、神様ご自身です。

 (38節)「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方(父なる神)の御心を行うためである。」その最大の御心は、イエス様が私たち皆の全部の罪を背負って、十字架にかかられることです。イエス様が様々な愛の奇跡を行うことも御心でしたが、父なる神様の最大の御心は、イエス様が十字架で死なれることです。(39~40節)「わたしをお遣わしになった方(父なる神)の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子(イエス様)を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」 「御心」の語が繰り返されます。父なる神の御心・願いは、私たちが皆、イエス様を(聖書を通して)見て信じ、永遠の命を受けること、終わりの日(神の国が完成する日)に復活の体を受けることです。

 ユダヤ人たちには、イエス様のおっしゃる真理を理解できません。イエス様は深い真理を話しておられるので、私たちも心を深めて聴き入る必要があります。(41~42節)「ユダヤ人たちは、イエスが『わたしは天から降って来たパンである』と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。『これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、「わたしは天から降って来た」などと言うのか。』」 彼らはイエス様を赤ん坊のときから知っているのですね。それが突然、「わたしが命のパンである」と言い始めたので、気が狂ったのではないかと思ったのでしょう。「わたしが命のパンである」とは、確かに非常に大胆な宣言です。イエス様のほかに、こんなことを言う方はおりません。イエス様はマリアの子であると同時に、それ以上に父なる神様の独り子です。

 (43~45節)「イエスは答えて言われた。『つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、「彼らは皆、神によって教えられる」と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。』」私たちもぜひ、今イエス様のもとに行きましょう。 (46節)「『父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。』」それはイエス様です。イエス様だけが、天で父なる神様を見ておられました。

 (47~50節)「『はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。』」イエス様は、旧約のマナをはるかにしのぐ命のパンだと宣言しておられます。マナはこの世の生命維持のためのパン、それも大事です。イエス様は「永遠の命のパン」です。イエス様というパンを食べる人は死なない。地上で死ぬけれども、イエス様が与えて下さる新しい命に生き続ける。神を愛し、隣人を愛し、敵をさえ愛する新しい不滅の命に生き続ける。驚くべき恵みです。 

 (51節)「『わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。』」イエス様は、聖餐という言葉を出してはおられません。ですがここを読めば、本日も間もなく行う聖餐と、深く深くかかわっていることを確信せずにおられません。

 イエス様は、53~56節でも驚くほど大胆なことを語られます。これは真理です。「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」 聖餐のパンは永遠の命の食べ物、ぶどう汁は永遠の命の飲み物なのです。小さなパン、わずかなぶどう汁ですが、そこにイエス様の復活の命が満ちています。 

 57~58節もすばらしい御言葉です。「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」 「わたしを食べる者もわたしによって生きる。」キリスト者は、イエス様によって全面的に支えられ担われて生かされており、これからもイエス様に背負われて生かされます。感謝です。アーメン(「真実に、確かに」)。

2016-01-12 19:33:23(火)
「クリスマス休戦」 12月の聖書メッセージ 牧師・石田真一郎
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシア(キリスト)である」(新約聖書・ルカ福音書2章11節)。

クリスマスは英語で Christmas、Christはキリスト、massはミサ(礼拝)です。X’masという省略形がありますが、Xはギリシア語のクリストス(キリスト)の頭文字なので、誤りではないようです。教会では1月6日の公現日(博士たちがイエス様を礼拝した日)までクリスマスを祝います。

 日本にキリスト教が伝わったのは戦国時代の1549年です。ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが、1567年(永禄10年)に堺(現・大阪府堺市)で行われた、貴重なクリスマスを記録しています。松永久秀と三好三人衆の軍勢が敵対していました。双方にキリシタン(クリスチャン)の武士がおり、一時休戦して共にキリストの降誕を祝って礼拝したのです。
 
 「部屋は、降誕祭にふさわしく飾られ、聖夜には一同がそこに参集した。ここで彼らは(罪を)告白し、ミサに与かり、説教を聞き、準備ができていた人々は聖体(キリストの体のしるしのパン)を拝領し~た。その中には七十名の武士がおり、互いに敵対する軍勢から来ていたにもかかわらず、あたかも同一の国主の家臣であるかのように互いに大いなる愛情と礼節をもって応接した。彼らは~種々の料理を持参させて互いに招き合ったが、すべては整然としており、清潔であって、驚嘆に価した。~給仕したのは~武士の息子たちで、デウス(神様)のことについて良き会話を交えたり、歌(讃美歌?)を歌ってその日の午後を通じて過した」(『完訳 フロイス日本史2 信長とフロイス』中公文庫、55ページ)。私は堺市に行った時、これほど意義深いクリスマスが行われたことに感動して歩きました。

 イエス・キリストは言われました。「平和を実現する人々は、幸いである」(マタイ福音書5章9節)、「敵を愛し(なさい)」(5章44節)。クリスマスは、互いに自分の罪と過ちを心から謝り合い、ゆるし合う時です。馬小屋で生まれたイエス様が、私たち皆の全ての罪を背負って十字架で死なれ、私たちの罪をゆるして下さったからです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2016-01-05 16:44:28(火)
「神の子とされたわたしたち」 2016年1月3日(日) 降誕節第2主日礼拝説教 
朗読聖書:出エジプト記20章1~17節、ガラテヤの信徒への手紙3章26節~4章1~7節。
「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」(ガラテヤの信徒への手紙4章4節)。

 この手紙を書いたのは、イエス・キリストの十字架の死と復活の後に弟子・使徒となったパウロです。26節は、大きな恵みの言葉です。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」プロテスタント教会は信仰義認を強調します。それは私たち罪人が、モーセの十戒に代表される律法を完璧に行うことによって父なる神様の前に正しい者と認められることは不可能だが、ただイエス・キリストを自分の救い主と受け入れ・信じる信仰によってのみ、父なる神様の前に正しい者と認められる、ということです。これが大きな恵みの信仰義認です。日本キリスト教団信仰告白でも、「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義とし給う」と告白している通りです。私はこの「信ずる」の中に、自分の罪を悔い改めることが含まれていると考えています。信じたけれども罪を悔い改めないのでは、信じたことになりません。キリストを救い主と信じる心には、当然自分の罪を悔い改める心が含まれていなければ、信じる心とは言えません。罪を悔い改める心を含む信仰によってのみ、私たちは父なる神様の前に正しい者と認められ、神の子とされます。

 (27節)「洗礼(バプテスマ)を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」ここに洗礼が出て来るので、洗礼が大切であることが分かります。洗礼を受けることはイエス・キリストという衣を着ることです。自分の罪を悔い改める心をもって洗礼を受ける。それは神様の御心に適うことです。洗礼を受けた私たちは皆、キリストという衣を着ているのです。私たちは生まれながらに罪人(つみびと)ですし、悔い改めて洗礼を受けた後も、地上に生きる限り自分の罪をゼロにすることができない者です。しかし父なる神様は、キリストを着た状態の私たちを見て下さいます。イエス・キリストは神の子ですから、私たちもイエス様のお陰で、神の子として見ていただけます。イエス様の弟・妹として見ていただけます。そして「最後の審判」の時に無罪の宣告を受け、天国にまで入れていただけるのです。これがイエス様による救いです。すばらしい恵みです。ぜひ全ての方にこの恵みに入っていただきたいのです。

 (28節)「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」一昨年の修養会で講師のA先生がなさったお話を思い出しました。先生がアメリカに留学されていたときのこと、アメリカの教会の長老の方と会ってお話しておられました。その長老はかつて太平洋戦争の時、アメリカ兵として太平洋の島で日本軍と対峙した経験をお持ちでした。その同じ島にA先生のお父様が日本兵としておられたそうです。それが会話の中で分かって(戦場で直接撃ち合ったのではありませんが)、一瞬座が凍りついたそうです。しかしその長老は、「よかった。あなたのお父さんは無事帰国したので、あなたが生まれたのだね。私たちは、今はキリストにあって兄弟だ」という意味のことをおっしゃったそうです。もはや日本人もアメリカ人もない。敵味方もない。私たちは皆、イエス・キリストにおいて一つです。 (29節)「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」神様は旧約聖書・創世記12章で、アブラハムの子孫に祝福を約束されました。イエス様こそアブラハムの真の子孫です。そして私たちはイエス様の弟・妹、つまりイエス様の兄弟です。相続人であるとは、天国を相続する者、神の国と相続する者ということです。

 (4章1~2節)「つまりこういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕(原文「奴隷」)と何ら変わることなく、父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。」イエス・キリストを救い主と信じて全ての罪の赦しを受けるまで、私たちは信仰的に未成年者であったということです。(3節)「同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。」「世を支配する諸霊」とは悪霊・悪魔です。私たちは生まれながらに罪を持ち、そして悪魔の誘惑に負けて、悪魔の奴隷となって、罪を犯しながら生きていました。しかしイエス様を信じた今は、イエス様から聖霊(神様の清き霊)を注がれ、聖霊と聖書の御言葉によって清められ、少しずつ神様に従って生きるように変えられて来ました。今や悪魔の支配下から、神様の喜ばしい支配下に移されています。大きな感謝です。

 (4節)「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。」これはパウロが記したクリスマスの出来事です。「時が満ちて」御子イエス・キリストは生まれた。女性マリアから生まれたのですから、人間です。同時に神であられます。「しかも律法の下に生まれた者」となられた。イエス様は旧約聖書の律法・掟に支配されたユダヤ人として誕生されました。イエス様が律法の下にお生まれになったことは、イエス様の誕生後、マリアとヨセフが律法の掟に非常に忠実に従っていることから、よく分かります。イエス様は旧約聖書のレビ記12章3節に決められている通り、生まれてから8日目に割礼を受けました。そしてマリアはレビ記の掟通り、出血の汚れ(もちろん現在では汚れではありません)が清まるのに必要とされた33日間、どこかの家にとどまられたはずです。そしてマリアとヨセフは、出エジプト記13章2節の神様のご命令、「すべての初子を聖別してわたしにささげよ」に従って、長男イエス様を神様に献げるために、エルサレム神殿に行きました。そしてレビ記12章8節に、「産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、一羽を焼き尽くす献げ物とし、もう一羽を贖罪の献げ物とする」と書かれている通りに実行しました。イエス様を献げる代わりに二羽の山鳩あるいは二羽の家鳩を、父なる神様に献げたのです。このようにイスラエルの国の赤ちゃんとおしてお生まれになったイエス様は、まさに律法の下に生まれられたのです。ヨセフとマリアは、旧約聖書の律法1つ1つを忠実に実行しているのです。

 (5節)「それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」律法の代表はモーセの十戒です。本日は久しぶりに、司式の方に、出エジプト記20章に記された十戒を全て朗読していただきました。イエス様はこの十戒を地上の全生涯を通して、常に100%守られたのです。それもただ表面的に、形だけ守られたのではなく、心の底から純粋な気持ちで、本当に一点の曇りもない清らかさで守られました。その生き方は父なる神様を100%愛し、ご自分を正しく愛され、隣人を100%愛される生き方でした。ご自分を憎む敵をさえ100%愛される生き方でした。その生き方の極みが十字架の死です。父なる神様のご意志に100%従われ、私たち罪人(つみびと)を愛して、私たち罪人のすべての罪を背負いきって十字架に上げられ、十字架で死なれました。そして三日目に復活されました。完全な愛に生きられたイエス様は、十戒の要求、律法の要求を100%満たして下さいました。

 もう一度5節。「それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」私たちは律法(その代表がモーセの十戒)を知り、しかし律法の要求を満たす生き方をすることができずに、喘いでいました。それが「律法の支配下にある(あった)」ということです。律法を100%守らないと神の国に入ることができないのに、律法を100%守る力がないことを悟り、苦しんでいました。そして「誰か私たちを救って下さる方はおられないのか」と探し求めていました。新約聖書は、その救い主が本当におられるという喜ばしいニュース・福音を私たちに知らせてくれます。「あなたのために十字架で死んだイエス様がその方にほかならない」、と。イエス様が律法を100%守って生きて下さったお陰で、イエス様が律法に違反する私たちの罪をすべて背負いきって下さったお陰で、私たちは律法の支配下から贖い出され、解放されたのです。これが聖書の説く救いです。この救いこそ、私たち罪人が、本当に必要としている救いです。

 ここに、私たちが「律法の支配下から解放された」と書かれています。イエス様の十字架の死のお陰で、私たちが何から解放され・救われたのかをまとめると、次の通りです。即ち、私たちは「律法、罪、死、悪魔、神様の聖なる怒り」から解放され、救われたのです。「律法、罪、死、悪魔、神様の聖なる怒り」から解放され、救われました。そして何と、神の子とされたのです。初めから神の子である方はイエス様だけです。私たちは、イエス様の十字架の死と復活のお陰で、罪人(つみびと)でありながらも神の子とされる恵みをいただきました。これ以上の恵みはありません。

 (6節)「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」 イエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受けると、聖霊を受けます。アッバとは、イエス様が話しておられたアラム語(ヘブライ語の兄弟言語)で「お父さん、パパ」の意味です。イエス様は十字架におかかりになる前にゲツセマネという所で、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られました。「アッバ」は「父」というより「パパ」に近いようですから、神の子イエス様が、父なる神様と真に親しい関係にあられることが、よく分かります。親しいというより、両者は一体です。

 私たちもイエス様の霊である聖霊をいただいて、「アッバ、父よ」と祈ります。「主の祈り」で最初に「天にまします、我らの父よ」と、親しく呼びかけます。あの時まさに聖霊によって、「父よ」と呼びかけています。「アッバ」あるいは「父よ」と、心の底から呼びかけていることが、私たちが今既に神の子とされていることを証明しています。私たちが救われているかどうかは、私たちが聖霊をいただいているかどうかによって分かります。私たちがイエス様を信じているなら、聖霊を受けており、神の子とされ、天国に入る約束の中にいます。

 (7節)「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。」私たちはもはや、律法の奴隷、罪の奴隷、死の奴隷、悪魔の奴隷、神の聖なる怒りの下にある奴隷ではありません。そうではなく光栄ある神の子です。イエス様に似た一人一人です。ますます祈って聖霊を注がれ、もっとイエス様に似た一人一人になりたいのです。「子(神の子)であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。」天国の相続人、神の国の相続人です。地上の人生でいろいろな苦難や悲しみがありますが、神の子とされている私どもには、天国を相続するという最大の慰めと祝福が約束されています。これからも忍耐強く祈り、救い主イエス様を宣べ伝え、イエス様に従いたいのです。

 私たちが神の子であることについて、新約聖書のヨハネの手紙(一)3章1節以下に、次のように記されています。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実またそのとおりです。(~)愛する者たち、わたしたちは今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。」

 私たちが神の子とせられたのは、ただイエス様の十字架のお陰です。無教会の指導者・内村鑑三は、聖書の信仰を「キリスト教」というより「十字架教」と呼びたいと考えたそうです(富岡幸一郎『内村鑑三』五月書房、2001年、160ページ)。それほどイエス様の十字架は、私たちの救いのための決定的な力です。十字架にかかって下さったイエス様を仰ぎ、イエス様に感謝して歩みたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2016-01-05 15:06:50(火)
「世界とその万物とを造られた神」 2016年1月1日(金) 元旦礼拝説教 
朗読聖書:使徒言行録17章16~34節。
「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。」(使徒言行録17章30節)。

 時は紀元50年ごろです。イエス・キリストの十字架の死と復活から、20年ほどたっていました。イエス様の十字架と復活の後、復活されたイエス様に出会って弟子・使徒となったパウロの伝道旅行の中で、パウロはギリシアの首都アテネにたどり着きました。ギリシアは紀元前5世紀に、地中海の覇者として栄えました。その政治・文化の中心がアテネでした。しかしイエス様の時代には、地中海の支配権はローマに移っていました。ギリシアと言えば、私たちはギリシア神話を思い起こすのではないでしょうか。ギリシア神話の神々はゼウス、ポセイドン、アポロン、アルテミスなどです。その神々の土地がアテネです。アテネは哲学の都でもありました。アテネで活躍した偉大な哲学者はプラトン、ソクラテスたちです。アテネの人々は、真の神様でない人間的な神々(偶像)を信じており、同時に哲学が好きでした。そこにイエス・キリストの伝道者パウロがやって来たのです。

 (最初の16節)「パウロはアテネで二人(仲間のシラスとテモテ)を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。」ユダヤ人パウロの面目躍如です。パウロはモーセの十戒を守る人です。当然その中の第一の戒めと第二の戒めを、全力で守る人です。「あなたにはわたしをおいて、ほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。」第一の戒めは文語訳が、非常によいと思います。「汝、わが顔の前にわれのほか何者をも神とすべからず。」原文にある「顔」という言葉がちゃんと訳出されています。「汝、わが顔の前にわれのほか何者をも神とすべからず。」アテネには三千もの神殿や神々の像があったと言います(ミルトス編『聖書の世界 使徒行伝編』、1998年、98ページ)。パウロは義憤に燃えたのです。

 (17~19節)「それで、会堂(ユダヤ人の礼拝所)ではユダヤ人や神をあがめる人々(異邦人でユダヤ人と共に真の神を礼拝する人々)と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた。また。エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したが、その中には、『このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか』と言う者もいれば、『彼は外国の神々の宣伝をする者らしい』と言う者もいた。パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせていたからである。」会堂とありますが、アテネの当時のアゴラと呼ばれる広場から、ユダヤ教の会堂跡が発掘されており、存在が確認されています。当時のアテネ人は、仕事や家事を奴隷に行わせ、自分たちは広場で政治や哲学について話し合う、暇な生活を送っていたそうです。パウロはその人たちに救い主イエス・キリストを宣べ伝えたのです。聞いた人々は、特に「死者の復活」に違和感を抱いたようです。

 (19~21節)「そこで、彼らはパウロをアレオパゴス(「軍神アーレスの丘」)に連れて行き、こう言った。『あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ。』すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである。」アテネ人は好奇心旺盛でした。新しい知識を仕入れることが大好きなのです。確かに新しいものは刺激的で、私たちを一時的に興奮させてくれます。しかし私たちは新しいものに慣れるとすぐに飽きてしまい、また次の新しいものを探したくなるのです。アテネ人は、本当の充実、変わらず価値あるものを持っていなかったのです。新しいことを話したり聞いたりするだけの毎日は、むなしい毎日です。私たち21世紀の日本人も、実はアテネ人と同じと思えます。一番大切でないことについて毎日話し合い、貴重な時間を無駄にしている面があると思います。一番大切なことは、真の神様を知ること、自分が神様の前に罪人(つみびと)であることを知ること、その自分がどうすれば救われるかを知ることではないでしょうか。私たちは皆、死なねばならない人間です。その私たちがどうすれば死を超える永遠の命をいただくことができるか。これこそ私たち皆にとって、最も重要な事柄であるはずです。それなのに私たちは、それ以外のことにばかり関心を向けていないでしょうか。私も反省させられます。

 パウロは、最も大切なことを宣べ伝えます。それもアテネの人々を愛して、アテネの人々に合わせて、語り始めます。(22~23節)「パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。『アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、「知られざる神に」と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。』」アテネの人々は、宗教心に富んでいたのですね。しかし真の神を知りませんでした。小アジア(今のトルコ)の西にペルガモという都市がありました。エフェソの北です。そこから実際に「知られざる神」に献げた祭壇が発掘されています。アテネにも同じような祭壇があったのでしょう。

 日本人の中には「自分は無宗教」と考えている人も少なくありませんが、宗教心に富む人々も意外に多いのではないでしょうか。(ほかの宗教をあれこれ言うことはよくないかもしれませんが)お正月には多くの方が初詣に出かけます。東久留米教会のすぐ近くの神社もお正月は大賑わいです。私が育った家では、初詣に行く習慣がありませんでした。ほかの家もそうだと思っていたのです。中学2年の時に、学校で先生が、「初詣に行った人は手を挙げて下さい」とおっしゃいました。私は手を挙げる人は少ないだろうと思ったのですが、多くのクラスメートが手を挙げたので、驚きました。うちの方が珍しいのだと分かりました。私がふだん、近くの神社の前を通りますと、社殿に向かって深くお辞儀なさる方々がおられます。この教会堂の前を通る時に、深くお辞儀して下さる方々もおられます。クリスチャンかどうかは分かりません。「聖なるもの」を拝むお気持ちなのだろうと思い、私は感謝しています。私たちはまず、自分が真の神様を礼拝する姿勢を点検したいと思います。そして真の神様を礼拝する生き方を、深めたいと願います。その上で、真の神様を御存じでない方々に、真の神様をお知らせ申し上げる年にしたいのです。

 パウロはここで、旧約聖書を全く知らないギリシア人に伝道しています。そこで救い主イエス・キリストを語る前に、まずこの宇宙・世界を創造なった神様のことから、説き始めています。24~27節は、私たちも心して読みたい御言葉です。「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません(アテネには、いろいろな神殿があった)。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。皆さんのうちのある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。」 ある詩人とは、紀元前270年頃のギリシア詩人・アラトスという人です。アラトスの詩・ゼウス賛歌「フェノメナ」第5行に、「我らもその子孫である」と書かれているそうです。パウロは真に大胆にも、ゼウスに献げた詩の一部を引用して、しかしゼウスではない、真の神様へとアテネの人々を導こうとしています。

 29~31節こそ、パウロが訴えたい中心です。「わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。」偶像だらけのアテネに住む人々に、人の手で造った像は真の神ではないことを強調します。人の手が造った像を神と見なすことを、パウロは30節で「無知」と指摘します。(30節)「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。」アテネ人も日本人も、世界のどこの人も皆、悔い改めて偶像を離れ、真の神様に立ち帰る時が来たと説教するのです。今や、世界の全ての人が、世界の造り主である聖書の神様に立ち帰ることが必要です。もちろん日本人全員もです。31節もパウロが力を込める言葉です。「それは、先にお選びになった一人の方(イエス・キリスト)によって、この世を正しく裁く日(最後の審判の日)をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」パウロは、イエス様の復活を宣べ伝えたのです。

 (32~34節)「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞くことにしよう』と言った。それで、パウロはその場を立ち去った。しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。」イエス・キリストが死んで復活したことを説くと、アテネの人々の反応は急に冷えました。ある者はあざ笑い、ある者は「それについては、いずれまた聞くことにしよう」と婉曲に拒否して、去って行ったのです。多くの日本人にとっても、イエス様の復活を信じることは簡単でないかもしれません。しかしイエス様の復活は、聖書が告げる真実ですから、思い切って信じていただきたいのです。

 ギリシア人の宗教や哲学には「死者の復活」という考えはないようです。ギリシア人が信じていたのは、「霊魂の不滅」だと聞いています。日本人も「霊魂の不滅」は比較的受け入れやすいのではないかと思います。体は死んでも魂は永遠に生きているという考えです。ですが聖書が説くことは「霊魂の不滅」ではなく、「死者の復活」です。私たち人間は皆、聖なる神様からご覧になれば罪人(つみびと)です。体にも心にも魂にも罪があります。ですから体も心も魂も不滅ではありません。聖書が説く「死者の復活」は、体も心も魂も復活するのです。体も復活するのです。体も復活する点が、「霊魂の不滅」説と非常に違います。事実、イエス・キリストは体をもって復活されました。その体は以前の体と違う栄光の体、もはや朽ちることのない新しい体です。イエス様は死者の先頭を切って復活されました。後に続く私たちも復活するのです。イエス様はヨハネによる福音書5章で、「時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子(イエス様)の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ」と言われました。人は皆、一度は復活して最後の審判を受けます。そしてイエス様によって罪赦されている人々は、神の国に入り、究極の幸福に入ります。それはいつも神様と共にいる幸福です。死と天国については、私たちによく分からないこともあります。ですが、イエス・キリストにつながっている人が天国に入ることは確実で、この点は疑う余地がありません。

 ギリシア人と違い、ユダヤ人には復活の信仰がありました。旧約聖書のダニエル書12章2節に、「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める」とあります。死者の復活を語る御言葉です。ただしユダヤ人の全員が復活の信仰を抱いていたのではなく、ユダヤ人のファリサイ派の人々が復活の信仰をもっていました(パウロはクリスチャンになる前、ファリサイ派でした)が、サドカイ派は復活があることを否定していました。その原因は、サドカイ派は旧約聖書の最初の五つの書(モーセ五書。創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)だけを聖書と認めていたからです。そこにはダニエル書などは含まれていません。それでサドカイ派は、復活を信じることを拒否していました。しかしパウロはファリサイ派だったので死者の復活を信じており、復活されたイエス様に出会ったため、イエス様こそ死者の中から最初に復活した方であることを確信し、アテネの人々にも宣べ伝えたのです。しかしアテネの多くの人々は、冷たく反応しました。

 しかしパウロのアテネ伝道は、失敗だったとは言い切れません。少なくとも4人は信じたのです。イエス様は、私たちの全ての罪を背負って十字架で死んで下さいました。そして三日目に確かに復活されました。このことを信じる人には、全ての罪の赦しと、地上の死で終わらない永遠の命が与えられます。これが聖書の告げる真の希望です。死は人間最大の苦難ですが、キリストだけが死を乗り越える希望を与えて下さいます。ぜひ私たちの知る全員、日本人と世界の全員にこの希望に入っていただきたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。


2015-12-31 19:05:25(木)
「いと高きところに栄光、地に平和」 2015年12月24日(木) クリスマスイヴ礼拝説教 
朗読聖書:イザヤ書9章1~6節、ルカによる福音書2章1~21節
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」
(ルカによる福音書2章14節)。  

 クリスマスおめでとうございます。今夜は、皆様とご一緒にクリスマスイヴ礼拝を、神様にお献げできます幸いを、心より感謝致します。

 本日の新約聖書は、神の子イエス・キリストの誕生の前後の場面です。アウグストゥスがローマ皇帝であった時代です。場所は小さな国イスラエルです。紀元前5年か6年頃と思われます。大工のヨセフといいなずけの妻マリアは、アウグストゥスの命令によって、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムという小さな町へ、住民登録のために出かけて行きました。マリアのお腹には赤ちゃんがいました。そのような状態での旅は、苛酷です。地図でざっと測ると、ナザレとベツレヘムの距離は115キロほどです。東京駅から直線距離で100キロ少々の所が静岡県富士市です。2日か3日かかる距離と思います。マリアはろばに乗ったと考えるのが自然ですが、聖書にはろばに乗ったとも何とも書いてありません。そこである人は歩いた可能性もあると書いていますが、ろばに乗ったと考えるのがやはり自然でしょう。ベツレヘムに着いて、登録は済ませたのかと思います。しかしマリアが産気づきます。宿屋には彼らが泊まる場所がなかったと書いてあります。人々の愛が冷めていました。私たちの家にマリアとヨセフが来たら、泊めてあげただろうかと考えます。拒んだ宿屋の人たちと同じように、自分も冷たい心の持ち主ではないかと反省させられます。

 (8~13節)「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。』」私は天使を見たことはありません。しかし天使は神様によって創造され、確かに存在し、聖書の中で重要な場面に登場して、人々に神様の意志を伝える役割を果たしています。新約聖書のヘブライ人への手紙1章によると、「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされた」者たちだと、書かれています。ルカによる福音書2章では、天使は救いを受け継ぐことになっている羊飼いたちに奉仕するために、神様によって派遣されました。天使たちは、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美しました。羊飼いたちは、御心に適う人たちであったのです。もちろんヨセフとマリア、そして生まれたばかりのイエス様も、神様の御心に適う人々でした。

 イエス様の場合は、天地創造をなさった神である方が、人間の赤ちゃんになられたのです。天におられる神が、私たちと同じ肉体を持つ人間になられた。それも最も弱い赤ん坊になられた。しかも私たちの全ての罪を背負って下さるために、人間になられた。この神のへりくだりこそが、クリスマスの驚くべき奇跡です。マリアの処女降誕も確かに奇跡ですが、天地創造をなさった神様が、私たちと同じ人間の赤ん坊として生まれて下さったことが、クリスマスの最大の奇跡です。私たちは、新約聖書のフィリピの信徒への手紙2章を思い出さざるを得ません。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分の無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました(これがクリスマスの出来事ですね)。人間と同じ姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」最後の部分はイエス・キリストの復活のことを語っています。
 
 それにしても、毎年クリスマスになると、改めてヨセフ、マリア、赤ちゃんイエス様、羊飼いたちのことを思います。この人々は、地上で何の力もない人々です。羊飼いたちに至っては、一人の名前さえ明らかではありません。本当に無名の人々です。神様はいと小さき無名の人々を愛して下さるのです。宗教改革者マルティン・ルターは、「天使たちは羊かいに『大きな喜び』のおとずれを告げ知らせました。(~)世が軽蔑したものは天使たちにたたえられました。(~)神はわたしたちにこの御子を通じて、世の栄華をかろんずべきことを教えておいでになるのです」と述べています(マルティン・ルター著、R.ベイントン編、中村妙子訳『クリスマス・ブック』新教出版社、2000年、53ページ)。地上の栄華を軽んじることが信仰の道なのです。それによって私たちが、イエス様に似て、ますます謙遜のされてゆくのです。これは私たちにとって(特に男性にとって)、なかなか難しいことですね。けれども、それが信仰の道です。イエス様が十字架を背負われたように、私たちも自分の十字架を背負ってイエス様に従うことこそが信仰の道です。

 神様は、救い主イエス様を無力な赤ん坊として、この地上に誕生させて下さいました。「この無力な赤ん坊が、全世界の救い主? まさかそんなことがあるはずがない。」それが常識です。しかもこの赤ん坊は、約30年後に十字架に架けられて死ぬのです。十字架で惨めな死を遂げる方が全世界の救い主? ますますそんなことがあるはずがありません。それが常識です。しかしこの小さな赤ん坊、十字架で死ぬ方が、全世界の救い主なのです。ここに神様の深い知恵があります。この神様の知恵、神様の心を知るために、詩編147編がヒントになります。
「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく/ 人の足の速さを望まれるのでもない。
 主が望まれるのは主を畏れる人/ 主の慈しみを待ち望む人。」
そうです。神様は力の強さよりもむしろ、神様を畏れ敬う人を喜ばれるのです。ヨセフもマリアもイエス様も、羊飼いたちもそのような人々であったに違いありません。

 神様のこの心を、非常によく伝えるのは、新約聖書のコリントの信徒への手紙(一)1章18節以下です。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、(旧約聖書に)こう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。』知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるし(奇跡)を求め、ギリシア人は知恵(賢さ)を求めますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

 兄弟たち、あなた方が召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄の良い者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」 ヤコブの手紙2章5節にも、次のように書かれています。「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。」

 ここで、私のクリスマスの思い出を少し語らせて下さい。洗礼を受けた頃、私は上手でもないのに聖歌隊に入れていただいていました。あるクリスマスイヴの礼拝で、温かい礼拝堂で聖歌隊員として賛美し、感謝の時を過ごしました。礼拝が終わってから、駐車場係の方々が教会に戻って来られました。寒い外でずっと駐車場係をなさっており、会堂内での礼拝には参加できなかったようでした。その方々のご奉仕を、神様は深く喜んで下さったに違いありません。

 その教会の近くにはディスコがありました。経営者が日本キリスト教団の教会の関係者だったようです。イヴ礼拝後に、牧師と聖歌隊に来て欲しいとの要請を受け、私たちは出かけました。今から27年ほど前だったと記憶しています。その年は、雑誌などで「クリスマスには教会に行くのがおしゃれだ」というような特集がなされていたようです。ちょっとしたキリスト教ブームでした。ディスコでひととき音楽が止まり、教会の牧師のメッセージと聖歌隊の讃美があることが告げられると、多くの人々が集まって来ました。びっくりしたような顔をして、興味津々に聞き入って下さいます。牧師先生(もちろん私ではありません)がヨセフとマリアの若い夫婦の話、イエス様を話をなさいました。熱心に聴いて下さったので、私たちもとても嬉しく思いました。

 2~3年後に再び、同じ要請がありました。私は前回と同じように人々が聴いて下さると思っていました。ところがその時は、非常に反応が悪かったように私には見えました。牧師のメッセージと聖歌隊の讃美があるとのアナウンスがあっても、ほとんど集まる人がいません。離れた席で嘲るような顔で見ている外国の方もおられました。私は前回との落差にとまどいました。もちろん前回と別のお客さんが来ておられたはずです。ですが私は、人の心はこんなに変わってしまうのだと、しみじみと感じました。小ブームとそうでないとき。人々の態度は非常に違ってしまう。

 しかしテモテへの手紙(二)4章2節を思い出します。「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」そして自分に言い聞かせます。「イエス様は、この私のために十字架にかかるためにクリスマスに生まれて下さった。ほかの方々のためでもあるけれども、この私のために十字架で死ぬために生まれて下さった。」このイエス様をもっと愛し、イエス様に従い、イエス様を伝えて参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。