日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2015-08-25 13:01:13(火)
「平和の鐘」 8月の聖書メッセージ 石田真一郎
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」
(イエス・キリストの言葉。新約聖書・マタイによる福音書5章44節) 

 「八月は 六日九日 十五日」と言います。六日は広島の原爆の日、九日は長崎の原爆の日、十五日は敗戦の日です。八月は平和への祈りを特に強める月です。私は、平和憲法は神様から日本へのプレゼントと信じています。この貴重なプレゼントを守る必要があります。私の両親は、子ども時代に戦争を経験しました。私はその話を聞いて育ちました。「なぜ戦争に反対しなかったのか」と質問しましたが、とても反対できる状況ではなかったのでしょう。しかし今は言論の自由があるので、市民も意志表示できます。「憲法九条にノーベル平和賞を」の動きがあります。実現を祈ります。

 私がお世話になった牧師は、次の体験をされました。敗戦の翌年、千葉の原っぱに無数の戦車が集められたそうです。それが農業トラクターに改造されたそうです。戦争の武器が平和の道具に変えられたのです。神学校(牧師を養成する学校)の先生が感嘆し、「聖書の言葉は本当でしたね」と言ったそうです(辻宣道牧師著『教会生活の四季』日本キリスト教団出版局、より)。「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(旧約聖書・イザヤ書2章4節)。ニューヨークの国連本部の前庭に、剣を鋤に打ち直すためにハンマーを振る男の像があり、この言葉の前半が刻まれているそうです。世界平和の目標を表します。

 戦争中の日本は逆を行いました。市民の持つ金属、寺や教会の鐘までも供出させ、「鋤を剣に、鎌を槍に」して戦争しました。日本キリスト教団福島教会の鐘も供出され、武器にされたかと思われましたが、不思議に溶かされず、戦利品としてアメリカに持ち去られました。ところがアメリカの教会の人が教会の鐘と気づき、「神様の教会の鐘を持って来てしまうとは、何ということをしたのでしょう。返しましょう」となり、返還されました。教会員も市民も喜んだそうです。新聞は書きました。「鳴る、鐘が鳴る、自由と平和のシンボル。」「奇跡の鐘」と呼ばれました。福島教会は東日本大震災で損壊しましたが、今年再建完成、あの鐘も鳴っているそうです。日本が武器輸出など決してせず、世の終わりまで戦争しない国として、歩み通すことができますように。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-08-10 19:44:14(月)
「霊と真理による礼拝」 2015年8月9日(日) 聖霊降臨節第12主日礼拝説教
朗読聖書:詩編51編19節、ヨハネ福音書4章1~42節。
「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ福音書4章24節)。

 有名な箇所です。(1~3節)「さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼(バプテスマ)を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、―洗礼(バプテスマ)を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである―ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。」イエス様の人気が高まっていたのです。それはユダヤの信仰の主流派ファリサイ派の人々のねたみを引き起こす可能性が高いのです。それでイエス様はファリサイ派の人々との衝突を避けるために、一旦ユダヤから退かれ、育たれたガラテヤに戻る決断をされました。(4節)「しかし、サマリアを通らねばならなかった。」ユダヤもサマリアも同じイスラエルの中にありますが、しかし両地の人々は、これまでの歴史の中での様々な行き掛かりのため、互いに反目し憎み合っていました。

 イエス様はユダヤ人ですが、イエス様はサマリア人を憎んでおられません。イエス様は「敵を愛しなさい」とおっしゃるお方です。イエス様はもちろんサマリア人をも愛しておられます。ですからイエス様がサマリアを通ることを嫌だとお考えだったのではありません。しかし相手のサマリア人はユダヤ人を憎んでいますから、サマリアを通ることがイエス様一行にとって危険だった可能性はあります。それで「サマリアを通らねばならなかった」と書かれているのではないかと思います。

 (5~6節)「それで、ヤコブ(旧約のイスラエル民族の偉大な先祖の一人)がその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。」4つの福音書の中で、「イエス様がお疲れになった」とはっきり記しているのは、ここだけです。イエス様は悪魔の誘惑に耐えて40日40夜の長きに渡って飲食を断つことがおできになる強い肉体をお持ちでした。しかし私たちと同じ肉体、働けば疲れる肉体をお持ちの方であることが分かるのです。ここに井戸が出て参ります。イスラエルとその周辺には乾燥した場所が多く、井戸は人が生きるためにどうしても必要な場です。ですから、旧約聖書でも井戸は重要な出会いの場となっています。ここでも井戸が非常に大事な出会いの場となります。井戸は水をくむ場所。この場面、水が重要な意味をもちます。

 (7~8節)「サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、『水を飲ませてください』と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。」この地方は暑いので、正午に水くみはしないのが常識だそうです。普通は涼しい時間帯に水くみをしたそうです。にもかかわらず、この女性が正午ごろに水をくみに来たことは、彼女が人目を避けて暮らしていたからだと言われます。彼女の後ろめたい事情は、あとでイエス様によって明らかにされます。イエス様はご自分からへりくだってこの女性に声をかけられます。「水を飲ませてください。」この女性が隠している事情を見抜き、この女性を罪の赦し、真の救い、永遠の命へ招くことを願われたからです。女性が驚いて言います。(9節)「『ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか。』ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。」イエス様がユダヤ人であることは、女性にはすぐ分かりました。ユダヤ人の男がなぜかサマリアに来ている。それだけでも意外で、まして声をかけられるはずなどない、と思ったはずです。それなのにイエス様が敵意も示さず、「水を飲ませてください」とへりくだって言われたので、女性は面くらいました。

 イエス様は、彼女が声かけに応えたのをきっかけに、神様の深い恵みを伝える対話へ彼女を導こうとされます。(10節)「イエスは答えて言われた。『もしあなたが、神の賜物を知っており、また、「水を飲ませてください」と言ったのがだれであるかを知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。』」 「神様が与えて下さる生きた水」、これがこの対話のテーマです。この女性には、この深い真理がなかなか飲み込めません。(11~12節)「女は言った。『主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父(先祖)ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から飲んだのです。』 「どこからあなたはその生きた水を手にお入れになるのですか。」それは地上の水・H2Oではないのです。天から来る、父なる神様から来る生きた水、神の聖なる愛の霊、聖霊のことです。彼女は先祖ヤコブに誇りを持っていました。ヤコブと一族がこの井戸から水を飲み、子孫の自分たちもこの井戸から水を飲めることを誇りと考えていました。彼女にとって先祖ヤコブこそ、偉大な人物です。しかし彼女はイエス様に威厳を感じたのでしょう、「あなたは、わたしたちの父(先祖)ヤコブよりも偉いのですか」と尋ねました。その通りです。ヤコブはイスラエル人とサマリア人の共通の先祖で、神様の恵みを受けましたが、欠点も多い人物でした。イエス様は違います。イエス様は欠点も罪も全くない清いメシア(救い主)、神の子であられます。

 イエス様が決定的なことを語られます。(13~14節)「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。』」 水がわき出る場所は湧水です。東久留米教会のわずか60メートル先に南沢湧水があります。あの水に入ると、夏は冷たくて気持ち良いですね。生き返る心地がします。しかしあの水もH2Oです。その時だけ私たちを潤してくれますが、永遠に潤す力はありません。イエス様が与えて下さる水、永遠の命に至る水、それは神様の聖なる愛の霊・聖霊です。日常生活で飲む水とは違います。サマリアの女は、「永遠の命に至る水」という魅力的な水のことを聞いて、それが欲しくなりました。しかし彼女はまだそれが聖霊だとは分かっていません。地上に一回飲むと渇かない便利な水があるらしいと思ったのです。それがあれば、この水くみのきつい労働から解放される。そう思ってこの話に飛びつきました。(15節)「女は言った。『主よ、渇くことがないように、また、ここに水をくみに来なくてもいいように、その水をください。』」

 しかし、永遠の命に至る水を受けるためには、まず彼女が自分の罪と向き合い、罪を悔い改める必要がありました。それでイエス様は、(愛をもって)彼女が隠している部分に踏み込まれます。(16~18節)「イエスが、『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい』と言われると、女は答えて、『わたしには夫はいません』と言った。イエスは言われた。『「夫はいません」とは、まさにそのとおりだ。あなたには、五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたはありのままを言ったわけだ。』」 私たちは、自分の心の最も深いところで、神様・イエス様と出会うのだと思います。それはしばしば人に言えないこと、隠しておきたいことをしまっておく部分です。人に見せられない秘密の部分、罪深い部分。そこでこそ神様に、イエス様に本当に出会います。イエス様は、私たちの心の中の最も罪深いところをご覧になって、「あなたのこの深い罪を背負って、わたしは十字架で死んだ。あなたの罪は赦された。安心してわたしを救い主と信じなさい」と言って下さいます。イエス様は、このサマリアの女の最も罪深い部分を指摘なさり、その深い罪が明らかにされたところで彼女と出会って下さり、その深い罪の闇・絶望から彼女を救って下さいます。この対話は女とイエス様の二人きりの対話です。ほかの誰も見ておらず、聞いていません。ここにイエス様の深い配慮があります。彼女が安心して自分の秘密を語ることができたのです。最も深いカウンセリングがなされています。

 理由は分かりませんが、彼女は五回結婚し、五回離婚したと思われます。そして今は正式の結婚をしないままに、六人目の男性と同棲生活をしているのです。男性たちの罪があり、彼女の罪もあったと考えるのが自然でしょう。彼女が隠そうとしていたこと・罪を、イエス様は見抜かれました。サマリアの人々はこのことを知っていたでしょう。彼女の評判はよくなかったのです。それで人目を避けて、昼間に水くみに井戸に来ていたのでしょう。涼しい時間帯に井戸に来れば、多くの人に出会って、冷たい視線を浴びなければなりません。

 女性は、自分が隠していたことを見抜くことができるのは、神様だけだと感じました。そこでイエス様を、神様から遣わされた人・預言者ではないかと考えたのです。(19~20節)「女は言った。『主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしども(サマリア人)の先祖はこの山(ゲリジム山)で礼拝しましたが、あなたがた(ユダヤ人)は、礼拝すべき場所はエルサレムにある(神殿のことでしょう)と言っています。』」イエス様は預言者ではなく、預言者以上の方、メシア(救い主)・神の子であられます。女性は自分がイエス様を預言者ではないかと考えたので、預言者なら神様を礼拝しなさいと言うに違いないと思って、礼拝の場所のことを話し出したのでしょう。「自分たちサマリア人の先祖はゲリジム山で礼拝して来た、ユダヤ人はエルサレムの神殿が礼拝の正しい場所だと主張している、私はどこで礼拝すればよいのだろうか。」彼女はこの疑問を抱いたのではないかと思います。

 しかしイエス様は踏み込んで、場所は問題ではないと言い切られます。(21節)「イエスは言われた。『婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。』」私たちは現に日本の東久留米市で礼拝しています。聖書の言葉が正しく語られ、真実な祈りが献げられているならば、場所がどこであってもそれは礼拝です。(22節)「あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。」旧約聖書の歴史の中で、イスラエルは南のユダ王国と北の北イスラエル王国に分裂しました。北イスラエル王国は紀元前721年にアッシリア帝国によって滅ぼされました。アッシリアは狡猾な占領政策をとり、外国人を北イスラエルに移住させました。混血を発生させ、純粋な北イスラエル人を減らし、結束してアッシリアに反乱を起こさせにくくしたのです。その時、外国の神々(偶像)が持ちこまれ、神礼拝も純粋でなくなりました。イエス様がサマリアの女に、「あなたがたは知らないもの(偶像をも含む神々)を礼拝している」と言われたのは、それを指しているのでしょう。 「救いはユダヤ人から来るからだ。」確かに神様は、イスラエルの民・ユダヤ人をまずご自分の民として選ばれ、エジプトを脱出させ、十戒を与えて、世界のほかの民に先がけて、真の神様を礼拝して歩む民として導いて下さいました。「救いはユダヤ人から来る」とは、このことを指しています。

 しかし、救いは確かにユダヤ人から始まるが、ユダヤ人で終わるものではないのです。礼拝の純粋さを失ったサマリア人も、ヨーロッパ人も、アメリカ人も、アジア人(その中にもちろん日本人も含まれます)、アフリカ人も、真の神様を礼拝する礼拝へと、真の救いへと招かれています。ですからイエス様がサマリアの女に、最も重要な真理を告げられます。(23節)「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」ここに父なる神様の本心が示されています。父なる神様は、「霊と真理をもって礼拝する者を求めておられる!」 私たちの礼拝も、毎回、父なる神様が求めておられる「霊と真理をもってする礼拝」となるように私たちが、いつも祈ることが必要です。本日の説教題はここからとり、「霊と真理による礼拝」と致しました。24節も重要です。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」ゲリジム山、エルサレムといった場所が問題ではない。大事なのはその礼拝が、神様が喜んで下さる「霊と真理による礼拝」になっているかどうか、です。

 イエス様は、このサマリア人の女性にも、「霊と真理の礼拝」を献げてほしいと願っておられるのです。彼女がこれまでの異性関係の罪を悔い改めて、父なる神様に「霊と真理の礼拝」を献げる人になってほしい。そうなれば、彼女は確かに救われたことになります。「悔い改めの詩編」として知られる詩編51編の19節に、こう書かれています。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/ 神よ、あなたは侮られません。」 「打ち砕かれた心、打ち砕かれ、罪を悔いる心」による礼拝こそ、「霊と真理による礼拝」ではないかと思うのです。サマリアの女性が、これまでの男性関係の罪を心から悔い改めて礼拝を献げるならば、神様はその礼拝を「霊と真理による礼拝」と認めて下さり、深く喜んで下さるに違いありません。

 コリントの信徒への手紙(一)14章24~25節に、こう書かれています。「~皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう。」 これが真の礼拝です。そしてこれがサマリアの女性に起こったことです。彼女は、イエス様によって、心の内に隠していたことを明るみに出され、「わたしが行ったことをすべて言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」と人々に語りました。「この方こそ神様から遣わされた真のメシアです」という断定的な告白には至っていませんが、そこに向かうプロセスにあり、遂にはそこに至ったと思うのです。

 私たちの礼拝が毎回、「霊と真理をもってする礼拝」、まだ信者でない方や、教会に来て間もない方にも、「まことに神はあなたがたの内におられます」との告白に至っていただける礼拝になるように牧師が毎日祈り、そして皆様にも、日々祈っていただきたいと、心よりお願い致します。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-08-05 12:38:11(水)
「稲、小松菜、ミニトマトの復活」 7月の聖書メッセージ
「(イエスは)たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。」(新約聖書・ヨハネによる福音書13章5節)

 6月末に仙台市に行きました。被災された方々に奉仕する30才くらいの人たちが今もおられます。弟子たちの足を洗われたイエス様のように、奉仕しておられます。市内の七郷中央公園仮設住宅には以前60世帯が入居していましたが、6月末は14世帯で、8月末に4世帯ほどに減ります。復興住宅等への移転が進んでいます。しかし同じ県内の石巻市などでは、まだ多くの方々が仮設住宅におられるそうです。

 仙台市若林区・荒浜地区は津波の大きな被害を受けた地区ですが、海岸から比較的近い場所に水田が再開され、稲が青々と育っているのを見て、驚くとともに感謝致しました。稲の栽培は再開後、3年目とのことです。2012年頃は、4キロほど内陸の所でも田に水がなく、枯れた状態でした。2013年頃にその辺りで稲が青く育つ水田を見たと思いますが、今回はさらに割に海岸に近い所でも稲が見事に生育しているのを見て、嬉しくなりました。神様の助け、農家の方々の努力、ボランティアの方たちの奉仕の賜物です。

 個々の農家で農業トラクター等を新たに購入することは困難なので、営農組合方式による農業が行われ始めていました。成功を心より祈ります。個人で道を切り開こうとする方もおられます。Kさんは、以前から有機農法に意欲的に取り組んでおられます。震災の年の秋には、もう小松菜の収穫をしておられました。私もごちそうになりました。今はビニールハウスでさらに、ミニトマト、レタス、モロヘイヤ、しそなどを栽培しておられます。稲作もなさっています。津波の大きな被害を受けた土地に農業が復活しつつある光景に、感無量になります。もちろんまだ困難もありますが、ここまでなさった農家の方々の尊いご努力に頭が下がります。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(イエス・キリスト)。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-08-05 12:02:12(水)
「キリストの栄光のために」 2015年8月2日(日) 聖霊降臨節第11主日(平和聖日)礼拝説教
朗読聖書:ホセア書2章4~12節、ヨハネ福音書3章22~36節。
「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ福音書3章30節)。

 最初の22~23節。「その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼(バプテスマ)を授けておられた。他方、ヨハネはサリムの近くのアイノンで洗礼(バプテスマ)を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼(バプテスマ)を受けていた。」 ヨハネとは、洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)です。ここにはイエス様が洗礼を授けていたと書かれていますが、実際には次の4章の2節に明記されているように、洗礼を授けていたのはイエス様御自身ではなく、イエス様の弟子たちでした。イエス様ご自身も最初はヨハネから洗礼をお受けになったのでした。ここにヨハネの共同体の洗礼と、イエス様の共同体の洗礼があったことが分かります。そしてイエス様の共同体の洗礼が次第に中心になってゆき、ヨハネの共同体の洗礼が廃れて行ったことが示されています。

 ヨハネは新約聖書の登場人物ですが、旧約聖書の時代の最後の預言者と言ってよい人物です。最後の預言者にして最大の預言者です。しかし神の子イエス様は、ヨハネと比較にならない優れた方です。イエス様を太陽にたとえるならば、ヨハネをはじめとする偉大な預言者たちは、月か星にたとえられます。従ってヨハネの共同体の洗礼は次第に廃れ、イエス様の共同体(つまり教会)の洗礼が、盛んになってゆくのです。(24節)「ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。」ヨハネが投獄されると、ヨハネの活動は終わります。イエス様は十字架で死なれますが、三日目に復活されます。イエス様の働きは滅びることなく、今も日本と世界で続けられており、世の終わりまで継続されてゆくのです。

 (25~26節)「ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。彼らはヨハネのもとに来て言った。『ラビ(先生)、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼(バプテスマ)を授けています。みんながあの人の方へ行っています。』多くの人々がヨハネの方ではなく、イエス様の方へ行ったのです。ヨハネは、「それでよい」と思い、ぜひそうなってほしいと願っていました。皆がイエス様の方に行ってくれるために自分は働いた。自分は忘れられてよい。ヨハネは真底、そう考えていたのです。(27~28節)「ヨハネは答えて言った。『天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、「自分はメシアではない」と言い、「自分はあの方の前に遣わされた者だ」と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。』」一人一人に与えられた神様の道があるのではないでしょうか。ヨハネにはヨハネに与えられた神様の道、神様からの使命、走るべき道のりがありました。ヨハネは神様に用いられ、多くの人々がヨハネから悔い改めの洗礼(バプテスマ)を受けたのです。ヨハネにとって大きな光栄でした。しかしヨハネは神の子ではなく、メシア(救い主)でもありません。ヨハネの使命は、神の子イエス・キリストを指し示すことです。ヨハネはそれで満足する必要があります。ヨハネは間もなく使命を終えます。そしてイエス様がさらに本格的に伝道活動を開始されるのです。

 ヨハネの洗礼とイエス様の洗礼(=イエス様の教会の洗礼)には、どのような違いがあるのでしょうか。ヨハネの洗礼をルカによる福音書などは、「悔い改めの洗礼(バプテスマ)」と呼んでいます。ヨハネの洗礼は、イエス様の洗礼(=イエス様の教会の洗礼)に至るまでの過渡的なものであったと考えてよいでしょう。今はもうヨハネの洗礼はありません。今あるのはイエス様の洗礼のみです。すべての人がこの洗礼へと招かれています。この洗礼がどのように大きな恵みであるか、私はよくローマの信徒への手紙5章16節を引用して語ります。「裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。」「恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても無罪の判決が下される!」 それはひとえにイエス様が、私たちすべての人間のすべての罪を背負って十字架で死なれ、三日目に復活なさった事実の故です! このすばらしいイエス様のお名前による洗礼へと、全ての方が招かれています。教会は、父・子・聖霊なる三位一体の神様のお名前によって洗礼をお授け致しますが、それはイエス様のお名前による洗礼と、本質的に同じです。

 (29~30節)「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」花嫁は神の民を指します。イスラエルの民であり、教会です。花婿は神の子イエス・キリストです。花婿の介添え人がヨハネです。ヨハネは脇役の介添え人であることを喜ぶ、謙遜な人でした。「花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。」「大いに喜ぶ」を直訳すると「喜びに喜ぶ」です。「喜ぶ」という言葉が2つ並んでいます。さらに「わたしは喜びで満たされている」と続くので、「喜ぶ」、「喜び」の言葉が3回使われています。本当にヨハネは、花婿の介添え人としての役割に聖なる大きな喜びを感じており、大きな光栄と感謝していました。

 ヨハネは、イエス様を信じる者の模範というべき言葉を述べました。「あの方(イエス様)は栄え、わたしは衰えねばならない。」グリューネヴァルトという画家が描いたイエス・キリストの十字架の死の巨大な絵があります。イエス様の十字架の死をごまかしなくリアルに描いた、かなり強烈な絵です。私はもちろん本でしか見たことはありません。十字架につけられたイエス様の右に洗礼者ヨハネが描かれています。ヨハネは右手の人差し指でイエス様を指し示しています。ヨハネはらくだの毛衣らしきものを着ています。ヨハネの腕の上の辺りにラテン語の文字が書かれています。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」現実にはヨハネは、イエス様の十字架より前に、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの命令で殺害されています。ヨハネの人生の目的は、ひたすら皆にイエス様を指し示すことでした。彼はその役割を十二分に果たし、その意味では満足感を抱いて死んだのでしょう。

 ここで、イエス様が花婿であられることに、少し注目してみます。旧約聖書でも、神様が花婿・夫、神の民イスラエルが花嫁・妻にたとえられます。新約聖書では、イエス・キリストが花婿、教会が花嫁にたとえられます。花婿が花嫁を愛し、花嫁は花婿を愛します。イエス様は教会を愛され、教会はイエス様を愛し返します。ヨハネの黙示録は、世の終わりの神の国の完成を、花婿・キリストと花嫁・教会の祝福の結婚式にたとえています。ヨハネ黙示録19章7~8節。
「わたしたちは喜び、大いに喜び、/ 神の栄光をたたえよう。
 小羊の婚礼の日が来て、花嫁は準備を整えた。
 花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。
 この麻の衣とは、/ 聖なる者たちの正しい行いである。」

 本日の旧約聖書は、ホセア書2章4節以下です。旧約聖書において、神様は常にイスラエルの民のよき花婿・夫でしたが、民は必ずしもよい花嫁・妻ではありませんでした。真の神様を離れ、バアルという、カナンの地の他民族が拝んでいた偶像を愛したのです。偶像崇拝は、モーセの十戒の第一の戒めに反する罪です。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」バアルは農業の神、豊かな収穫を約束する神でした。もちろん偽物の神、その正体は悪魔です。人間は欲望に弱いのです。もちろん真の神様がだけが私たちに命を与え、食物などをも必ず与えて下さるのです。その証拠に、イスラエルの民は、エジプトを脱出してからカナンの地に入るまで40年間、真の神様が与えて下さるマナを食べて、生きて来たのです。それなのに民は、カナンの地に入ってマナがなくなり、農業を行う生活に入ると、真の神様を捨てて、バアルを愛し拝んだのです。もっと豊かな収穫と生活を望んだからではないかと思います。私たちは、自分はバアルなど拝むはずがないと考えます。しかしバアルの本質は、私たちを欲望充足を最優先する生き方へ堕落させる悪魔です。私たちも、悪の力のしつこい誘惑に悩まされています。私たちが、ひたすらイエス様と父なる神様を愛して、よき花嫁・妻になることができているかどうか、日々試されています。

 4節以下に、「イスラエルの背信」という小見出しがつけられています。4節の「淫行」、「姦淫」といった激しい言葉は、イスラエルの民がバアル(別の夫)のもとに走った偶像崇拝を、妻としての裏切りにたとえたために、使われています。
(4~7節前半)「告発せよ、お前たちの母を告発せよ。
 彼女はもはやわたしの妻ではなく/ わたしは彼女の夫ではない。
 彼女の顔から淫行を/ 乳房の間から姦淫を取り除かせよ。
 さもなければ、わたしが衣をはぎ取って裸にし
 生れた日の姿にして、さらしものにする。
 また、彼女を荒れ野のように/ 乾いた地のように干上がらせ
 彼女を渇きで死なせる。/ わたしはその子らを憐れまない。
 淫行による子らだから。/ その母は淫行にふけり
 彼らを身ごもった者は恥ずべきことを行った。」

 7節後半には、イスラエルの民の裏切りが記されています。
「彼女は言う。/ 『愛人たち(バアルなど偶像の神々)について行こう。
 パンと水、羊毛と麻/ オリーブ油と飲み物をくれるのは彼らだ。』」
8節は、深く傷ついてそれを止めようとする神様の行動を記します。
「それゆえ、わたしは彼女の行く道を茨でふさぎ
 石垣で遮り道を見いだせないようにする。」
9~10節は、切ないまでの神様の御言葉です。
「彼女は愛人の後を追っても追いつけず/ 尋ね求めても見いだせない。
 そのとき、彼女は言う。『初めの夫のもとに帰ろう
 あのときは、今よりも幸せだった』と。
 彼女は知らないのだ。/ 穀物、新しい酒、オリーブ油を与え
 バアル像を造った金銀を、豊かに得させたのは/ わたしだということを。」

 洗礼者ヨハネの言葉に戻ります。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」
ヨハネの人生の唯一の目的は、イエス様の栄光を現すことだったのです。それは私たちクリスチャン一人一人にとっても同じです。それで本日の説教題を、「キリストの栄光のために」と致しました。

 宗教改革者ジャン・カルヴァンは、『ジュネーヴ教会信仰問答』に次のように書いています。
「問一 人生の主な目的は何ですか。
 答  神を知ることです。
 問三 では人間の最上の幸福は何ですか。
 答  それも同じであります。
 問六 では、神についての真の正しい知識は何ですか。
 答  神をあがめる目的で神を知るときであります。
 問七 神を正しくあがめる仕方は、どんなのですか。
 答  それは神に全信頼をおくこと、みこころに従いつつ神に仕えること、われわれのあらゆる窮乏の中から、救いとすべての善きものを神の中に探し求めつつ神に祈ること、そしてすべての幸福はただ神のみから来ることを、口で認めると同様に心で認めることであります。」(カルヴァン著・外山八郎訳『ジュネーヴ教会信仰問答』新教出版社、1997年、9~10ページ)。カルヴァンはまた、祈りために重要なことの一つは、全神経の集中であると述べているそうです。

 カルヴァンのモットーは、「すべて神の栄光のために」でした。神様の栄光のため、イエス・キリストの栄光のために、ひたすら祈り奉仕するのがカルヴァンの生き方でした。カルヴァンの墓がどこにあるか不明と聞いたことがあります。「自分は忘れられてよい、ただイエス・キリストの御名のみがあがめられるように!」 これがカルヴァンの祈りでした。カルヴァンの墓には「J.C.」とのみ刻まれていたと聞いたことがあります。それはジャン・カルヴァンの頭文字であると同時に、Jesus Christ の頭のアルファベットでもあります。これは不思議な一致です。神様がこの一致を与えて下さったとしか思えません。「J.C.」の文字はカルヴァンを記念すると同時に、いえそれ以上にイエス・キリストを指し示すのでしょう。「ただイエス・キリストの栄光のために!」 「あの方は栄え、わたし(カルヴァン)は衰えねばならない。」これがカルヴァンの究極の願いであり、喜びです。

 クリスチャン一人一人も同じ方向で生きます。使徒パウロも書きます。「~生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」(フィリピの信徒への手紙1章20節)。キリストのために生き、キリストのために死ぬ。それがパウロの願いでした。ヨハネとカルヴァンの願いも同じです。私たちの願いも同じです。

 私が東京神学大学(牧師を養成する学校)を卒業した1996年に、当時の松永希久夫学長は、卒業を控えた神学生たちに、心構えを説かれました。その一つが次の言葉です。「牧師交替によって解散する信徒の方々の群れを造るな。牧師が交替しても、キリストのみにしっかり結びついている信徒の方々がどれだけ残るかによって、牧師の真の力量が分かる。」 「人間中心の思いを捨て、イエス・キリストのみを中心とする群れにしないと教会ではない」、と戒められたのだと思います。「自分の栄光ではなく、ただキリストの栄光のために!」 私たちも日々、この信仰・心構えで生きて参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-07-29 0:30:58(水)
「神様は心を見られる」 2015年7月26日(日) 聖霊降臨節第10主日礼拝説教
朗読聖書:サムエル記・上16章5後半~13節、ローマ書2章17~29節。
「心に施された割礼こそ割礼なのです。」(ローマ書2章29節)。

 ローマの信徒への手紙1章の後半はユダヤ人以外の人々、つまり異邦人の罪を告発していました。2章の前半はイスラエル人・ユダヤ人の罪を告発していました。本日の2章の後半も同じです。(最初の17~18節)「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。」 ユダヤ人は神様の聖なるご意志を示す律法をよく知っている。律法の代表である十戒をもよく知っている。それはユダヤ人に与えられた恵みです。神様はユダヤ人に、地上の他の民族に先がけて、律法・十戒によって、神様の聖なるご意志を教えて下さったのです。

 (19~20節)「また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。」ユダヤ人は、自分たちは真の神様のことをよく知っているという誇りに満ちていたのです。そんなユダヤ人の代表とも言える律法学者たちやファリサイ派の人々について、イエス様はこう言われました。「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に乗せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」言うことと教えることは立派だが、自分では実行しない。偽善者だというのです。

 パウロも同じことを言います。(尤も、パウロはかつて、ファリサイ派の先頭を突っ走る人でした。)(21~22節)「それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。『盗むな』(十戒の第八の戒め)と説きながら、盗むのですか。『姦淫するな』(十戒の第七の戒め)と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら(偶像崇拝の禁止は、十戒の第一と第二の戒め)、神殿を荒らすのですか。」このようなユダヤ人たちがいたのでしょう。「盗むな」と説きながら盗み、「姦淫するな」と教えながら姦淫する人です。「偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らす」とはどのようなことか、分かりにくいのですが、エルサレムの神殿をないがしろにしたり、汚すような行いをしたのでしょうか。神殿で盛んに商売を行って神殿を騒がしいマーケットのようにして、イエス様の聖なる怒りを招いたことを指すのかとも考えます。

 (23節)「あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。」聖なる律法を持っていると自慢しながら、その律法を自ら破っている。それは神様を侮り、神様を馬鹿にする大きな罪だというのです。ダビデ王が、忠実な部下ウリヤの妻バト・シェバと姦淫を行い、ウリヤを意図的に戦死させた後、神様は預言者ナタンを送ってダビデを厳しく叱責されました。「なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家を去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。」ダビデは十戒を破り、姦淫と殺人の罪を犯して、神様を侮りました。ほかのユダヤ人も、律法を誇りとしながら律法を破って、神を侮っていると、パウロは告発します。

 私はどうだろうかと考えます。私も少しずつ律法・十戒を破って、神様の侮り、神様を馬鹿にする罪を犯しているのではないかと、悔い改めざるを得ないのです。(24節)「『あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている』と書いてあるとおりです。」ユダヤ人が、神様を信じる者にふさわしく正しく生きていないので、異邦人が「あの神様は大したことない」などと言って、神様の不名誉となっている、ということと思います。このように言われると、私たちもぎくっとするのではないでしょうか。「クリスチャンのせいで、牧師のせいで、神の名は世間で汚されている」ということになるかもしれないからです。神を信じると公言する私たちの責任を感じます。

 (25節)「あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。」 割礼とは、男性の包皮の部分を切り取ることで、割礼はユダヤ人の大きな誇りだったようです。旧約聖書では、割礼は神の民のしるしとして極めて重要だったことは事実です。神様ご自身が創世記17章でイスラエルの先祖アブラハムにこう言われました。「あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生れてから八日目に割礼を受けなければならない。~それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。包皮の部分を切り取らない無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる。わたしの契約を破ったからである。」イエス様もパウロもユダヤ人ですから、生れて八日目に割礼を受けたのです。

 しかし割礼を受けていても、神様の聖なる律法を行わない・律法を破るのでは、もちろん神様に喜ばれません。旧約の時代の人々の望ましい姿は、割礼を受けており律法も実行することです。割礼を受けていても律法を実行しないのであれば、割礼という形式は無意味になるとパウロは言います。それはその通りです。クリスチャンになったパウロにとってより重要なのは、割礼という形式よりも、神様の清き律法を行うことになりました。「律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。」(26節)「だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。」たとえば割礼を受けていない日本人や中国人が神様の律法を実行すれば、割礼を受けているに等しい、神様はその日本人や中国人を喜ばれる、ということでしょう。

 (27節の前半)「そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。」律法を行う日本人・外国人が、割礼を受けていて律法を破るユダヤ人にまさっている、最後の審判のときも彼らの方が上になる、ということと思います。(27節の後半)「あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、割礼を破っているのですから。」パウロの、ユダヤ人に対する告発のダメ押しの部分です。ユダヤ人の罪は、律法を知っており、神の民の証拠である割礼を受けているにも関わらず、律法を破っていることだ、それがユダヤ人の偽善だと言っているのでしょう。これはユダヤ人だけの罪ではなく、私の罪でもあります。律法を知っていながら、律法を完全には行っていない。今後の人生で、どれだけもっと神様の御心を行う人になれるか、それが大切です。

 イエス様は、ルカによる福音書11章で、パウロと同じことを、旧約聖書の実例を引用して述べておられます。「南の国の女王は、裁き(最後の審判)の時、今の時代の者たち(イエス様の時代のユダヤ人たち)と一緒に立ち上がり、彼ら(同)を罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。~また、二ネべの人々は裁きの時、今の時代の者たち(同)と一緒に立ち上がり、彼ら(同)を罪に定めるであろう。二ネべの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。」

 最初のエピソードは、ソロモン王の時代の出来事です。南の国の女王とは、アラビアのシェバ(今のイエメン付近ではないか言われます)の女王(異邦人)がわざわざエルサレムまで来て、神様がソロモンに与えた知恵を聞いたのです。女王はソロモンに様々な質問・難問を浴びせましたが、ソロモンはそのすべてに回答を与えたのです。女王は、神様がソロモンにお与えになった知恵のすばらしさに感嘆して言いました。「お知恵と富はうわさに聞いていたことをはるかに超えています。あなたの臣民はなんと幸せなことでしょう。いつもあなたの前に立ってあなたのお知恵に接している家臣たちはなんと幸せなことでしょう。あなたをイスラエルの王位につけることをお望みになったあなたの神、主はたたえられますように。主はとこしえにイスラエルを愛し、あなたを王とし、公正と正義を行わせられるからです。」イエス様は、わざわざ遠い外国からソロモンの知恵を聞くためにやって来た、この異邦人の女王の、真理に対する真摯で謙遜な姿勢を称賛されたのです。ユダヤ人よりも優っている、とほめられたのです。イエス様は異邦人だからと言って人を偏り見ず、分け隔てなさらないのです。クリスチャンであることはすばらしいことですし、全ての方にクリスチャンになっていただきたいと祈りますが、クリスチャンでない方の謙遜な生き方が、イエス様に喜ばれることもあるのではないでしょうか。

 2つ目のエピソードは、ヨナ書に出ている出来事です。預言者ヨナは、神様にアシリア帝国の首都ニネベに行って、神様のメッセージを語るよう命じられます。アッシリアは非常に戦争好きで残酷な帝国で、多くの悪を行っていたのです。ヨナは最初拒否しますが、悔い改めてニネベに行きます。そして「あと四十日すれば、二ネべの都は滅びる」と語って歩きました。すると大変驚いたことに、戦争好きで残酷をもって鳴る二ネべの人々が、真の神様を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとったのです。断食も粗布も罪を悔い改めるしるしです。驚くべきことに、彼らは心からへりくだって悔い改めたのです。まさに奇跡です。

 まず王が王の衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し(これも悔い改めのしるし)、二ネべの人々に断食を命じました。「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁じる。人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。」神様はニネベが悔い改めなければ滅ぼすおつもりだったのでしょうが、二ネべが徹底的に悔い改めたので、裁きを取りやめられたのです。「二ネべの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。二ネべの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。」 神様が一番お喜びになることは、ユダヤ人であっても異邦人であっても、私たちが自分の罪を心から素直に悔い改めることです。

 ローマの信徒への手紙に戻ります。パウロは書きます。(26~27節)「だから、割礼を受けていない者(たとえばシェバの女王や二ネべの人々)が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなた(ユダヤ人)を裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。」(28節)「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。」真の割礼があるというのです。真の割礼とは何でしょうか? (29節)「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊(聖霊)”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」

 神様を愛して、神様に喜んで従う心を持つ人。それが真の割礼を受けた人であり、真のユダヤ人、真の信仰者です。その人の心には聖霊なる神様が住んでおられるに違いありません。その人は、神様に愛され、神様に喜ばれている人です。たとえばルカによる福音書7章に、ローマ人の百人隊長が登場致します。彼はユダヤを占領していたローマ軍の一員でしょうが、ユダヤ人を愛して、おそらく自分でお金を出して会堂(礼拝堂)まで建てたのです。彼は部下が病気で死にかけていたとき、友人に、イエス様への使いに行ってもらい、イエス様に告げました。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」イエス様が癒やしの一言を与えて下されば、自分の部下は癒やされると、イエス様を信頼しきっていたのです。イエス様は彼の言葉を聞いて感心され、従っていた群衆に、「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言われ、百人隊長の部下を癒やして下さいました。彼のような人こそ、内面がユダヤ人である人、心に真の割礼を受けた人、真のユダヤ人、真の信仰者ではないかと思うのです。 

 そして使徒言行録10章を見ると、イスラエルの地中海沿岸のカイサリアという町に、コルネリウスというやはりローマ人と思われる百人隊長が登場致します。このコルネリウスについては「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民(イスラエルの民でしょう)に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」と書かれています。そして天使が現れ、「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた」と語ります。コルネリウスの生き方を、神様が喜んで下さっていたのです。この後コルネリウスは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰と洗礼へと導かれて行くのです。

 パウロは書きました。「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊(聖霊)”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。」そのような人はユダヤ人にもおりました。その一人がダビデです。本日の旧約聖書であるサムエル記上16章をご覧下さい。イスラエルの信仰の指導者であったサムエルが、サウル王に代わるイスラエルの王を探していたときの出来事です。サムエルはエッサイという男の息子たちから王となるべき者を探します。(5節後半と6節)「サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に招いた。彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。」 イスラエルの王は、聖なる油を注がれて聖別されて、王として任職されました。7節が大事な御言葉であることは明らかです。「しかし、主はサムエルに言われた。『容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。』」本日の説教題「神様は心を見られる」はこの「主は心によって見る」からとりました。

 ダビデには七人の兄がいましたが、神様は兄たちを誰をも、王としてお選びになりませんでした。末っ子で羊の番をしていたダビデが、選ばれたのです。(12節)「エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色がよく、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。『立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。』」神様は、ダビデが血色がよく、目は美しく、姿も立派であったからダビデを選ばれたのではなく、あくまでダビデの心を見て、ダビデを選ばれたのだと思います。ダビデは神様を愛し、与えられた羊飼いとしての責任を忠実に果たす少年でした。ダビデは王になってからヘト人ウリヤの妻バト・シェバと姦淫する大きな罪を犯しますが、己の大きな過ちに気付くと、すぐに悔い改めたのでした。神様はダビデがそのような心の持ち主であることを、ダビデが少年の時点でよく知っていらしたに違いありません。

 パウロは、心に施された割礼こそ、真の割礼だと書きました。実は旧約聖書で預言者エレミヤが既に同じことを言っています。
「ユダの人、エルサレムに住む人々よ/ 割礼を受けて主のものとなり
 あなたたちの心の包皮を取り去れ」(エレミヤ書4;4)。
さらにエレミヤより前に、既にモーセが申命記10章で同じことを述べています。
「主はあなた(イスラエルの民)の先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった。心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない。あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。」

 私たちにとっても、最も大事なことは、かたくなな心を捨てて、神様と隣人を愛し、神様のご意志に聴き従うことです。日々、神様に聴き従い、生涯、神様に聴き従う、喜ばしい人生を歩みたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。