日本キリスト教団 東久留米教会

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2015-12-16 1:47:41(水)
「妻マリアを迎え入れなさい」 2015年12月13日(日) 待降節(アドヴェント)第3主日礼拝説教
朗読聖書:イザヤ書7章10~17節、マタイによる福音書1章1~25節。
「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」(マタイによる福音書1章20節)。

 1節から17節は、イエス・キリストの系図です。多くの日本人にとっては、馴染みにくいものです。これは旧約聖書の歴史を、系図の形で短くまとめたものと言えます。旧約聖書をよく読んでいると、この多くのカタカナの名前も、少しずつ身近になって来ます。旧約聖書にも系図がしばしば出てきますが、ある人によると、旧約聖書では重要な転換点に系図は出て来るということです。そうなのだと思います。であるならば、ここは旧約聖書から新約聖書に移るとても重要な転換点ですから、系図が登場するに実にふさわしいと言えます。

 (1節)「アブラハムの子(子孫)ダビデの子(子孫)、イエス・キリストの系図。」
このマタイによる福音書は、旧約聖書以来の神様の民イスラエル人・ユダヤ人を対象として意識して書かれたと言われます。旧約聖書において、メシア(救い主)はアブラハムの子孫、ダビデ王の子孫から生まれると予告されています。ですからこの新約聖書の冒頭に、イエス・キリストがアブラハムの子(子孫)、ダビデの子(子孫)と書かれていることで、イエス様こそが旧約聖書が予告するメシア(救い主)であることが、イスラエル人・ユダヤ人に説得力をもって示されます。私たちは2節から6節までには、少しは着いて行けるのではないでしょうか。創世記を読んでいれば、アブラハム、イサク、ヤコブは馴染みがあると思います。「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマル(女性)によってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。」 「もうける」という訳語は堀田雄康神父様が提案されたそうです(堀田雄康著『聖書 楽読楽語』による)。5節に、ボアズとルツの名前が出てきます。先月まで礼拝で月一回、4回にわたって旧約聖書のルツ記を読みましたが、ルツ記の大切な登場人物であるボアズとルツは、その礼拝に出て下さった方々には、馴染みある名前となったと思います。

 旧約聖書の系図を読んで気づくことは、ほとんど男性の名前しか出て来ないことです(一部例外はあります)。しかしこのイエス様の系図には、マリア以外で4人の女性が出ています。これは旧約聖書の系図と違う、新しさです。この系図に登場する人々の中で、ボアズとルツ(モアブ人)は立派な人々ですが、多くの人々はいろいろ罪を犯しています(ボアズとルツも、少しは罪を犯したでしょうが)。3節に、「ユダはタマルによってペレツとゼラを」もうけたとありますが、ユダにとってタマルは長男の妻です。長男は亡くなっていました。ユダは、娼婦に変装したタマルに気づかなかったとは言え、タマルと関係をもった結果生まれたのが、双子のペレツとゼラです。おどろくべきスキャンダルです。

 この系図は厳密には、イエス様の父となったヨセフまでの系図です。マリアは処女妊娠なので、ヨセフとイエス様は血がつながっていません。ですがこのユダとタマルがイエス様の父ヨセフの先祖なのです。この系図は救い主の系図ですが、きれいごとで固めた系図ではありません。私たちが赤面するほどの罪を犯した人をも、ごまかさずにあからさまに記している系図です。終わりの方の21節で、天使がヨセフに、「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と告げますが、救い主イエス様は、まさにこのような罪がはびこる現実の中に誕生して下さいました。このような罪を犯している人々を、悔い改めに導き、滅びないように救うために誕生して下さいました。そしてイエス様は、ヨセフと血がつながっていませんから、この系図の罪人たちとも血がつながっていません。この系図は、イエス様が全く罪のない方であることを示しているとも言えるのです。

 もう1つのスキャンダルは、有名です。6節の「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とあります。ダビデは忠実な部下ウリヤの妻バト・シェバと姦通の罪を犯し、バト・シェバは妊娠しました。慌てたダビデはウリヤを戦場から呼び戻し、一時家に帰らせようとしますが、ウリヤは家に帰りません。ダビデは策略を巡らし、ウリヤが戦場で死ぬように仕向けます。ウリヤは死に、ウリヤの喪が明けるとダビデはバト・シェバを妻にします。しかし神様は預言者ナタンを遣わし、ダビデを厳しく叱責されます。ダビデは罪を悔い改めて死の罰を免れましたが、ダビデとバト・シェバの間に生まれた男の赤ちゃんが、身代わりにように神様に打たれて死にました。その後に生まれたのがソロモンです。神様はソロモンを愛して下さったとサムエル記にあります。ですからソロモンの誕生には特に問題はないようですが、それでもダビデとバト・シェバは問題の夫婦です。この系図は、この夫婦をもあからさまに登場させています。

 ソロモンは神様に愛され、豊かな知恵を与えられ、エルサレムに神殿を築いた偉大な王ですが、大勢の妻を娶り、その中には外国人もいました。その外国人妻たちによって偶像崇拝の罪に落ち込まされ、堕落しました。この系図は、ダビデからイスラエルの王様の系図になって行きます。ダビデからエコンヤまでがそうです。中にはヨシヤ王のように立派な王もいますが、多くの王たちはいろいろ罪を犯しています。旧約聖書を読めば、よく分かります。その意味でこの系図は、罪人たちの系図です。イエス様の父ヨセフの先祖たちでさえ、こんなに多くの罪を犯して来たのだなと思わされます。罪は悪いことですから、否定されねばなりません。しかし神様はこのような罪のはびこる私たちの世の中をお見捨てにならなかったのです。この系図の中から、救い主イエス様を誕生させて下さいました。正確に言うと、この系図の中から、イエス様の父となるヨセフを誕生させて下さいました。イエス様は、このように罪に満ちた私たちを悔い改めさせ、滅びから救って永遠の命に入るように導いて下さいます。

 そしてイエス様の誕生の経緯が語られます。(18節)「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」婚約していたがまだ一緒に暮らしていなかった。そのマリアの妊娠が分かった。多くの人に分かったのではなく、ヨセフだけ(あるいはごく一部の人)に分かったのでしょう。マリアは、「私は聖霊によって身ごもった」と言ったことでしょう。ヨセフにも直ちには信じられません。マリアが自分を裏切って、ほかの男性と関係をもったのではないかと、当然考えました。そうであればマリアが姦通の罪を犯したことになります。当時のイスラエルで、婚約は法的には結婚と同じ意味をもったそうです。ですから婚約中のマリアが、ほかの男性と関係したのであれば、姦通の罪になります。旧約聖書の律法では、姦通の罪は石打ちの刑で死刑になることに決まっています。マリアが姦通したのであれば、マリアは石打ちの死刑になる状況です。

 (19節)「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」ヨセフはそれが神様に従うことだと考えたのです。「ヨセフは正しい人であった」とあります。ヨセフは神様の律法を守って正しく生きる男性でした。マリアが姦通の罪を犯したのであれば、罪を犯したマリアと結婚することはできないと考えました。「縁を切ろう。」申命記24章1節に、「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」と書いてありますので、自分たちのケースもほぼこれに当てはまると考えたのでしょう。しかし皆に知られれば、マリアは死刑になる恐れがあります。マリアが姦通の罪を犯したのであればそれもやむを得ないが、ヨセフにとっては情において忍びがたい。結婚はできないが何とか助けてあげたい。そこでぎりぎり考えついたのが、「ひそかに」「縁を切る」、人々に公にしないで縁を切る道です。ヨセフのマリアへの愛と思いやりが感じられます。しかしひそかに縁を切られたマリアが、一人どこかへ行って出産すれば、やはり姦通の罪を犯したのではないかと噂になるでしょう。そのマリアをどう支えるかまでは、ヨセフにも考えつきませんでした。

 眠りの中でも悩み考えていたヨセフに、神様の御手が差し伸べられます。主の天使が夢に現れたのです。(20~21節)「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子(子孫)ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』」イエスという名前は、当時はよくある平凡な名前だったそうです。それは「主は救い」の意味です。イエスはギリシア語読みで、この地域の人々が話していたヘブライ語・アラム語ではヨシュアであるそうです。天使が教えてくれたことは、マリアがヨセフを裏切ったのではない、姦通の罪を犯したのではないということです。マリアを信頼しなさい。マリアはあなたを裏切るような娘ではない。マリアの胎の子は、本当に聖霊(神の清き霊)によって宿ったのである。恐れず心配しないで、妻マリアを迎え入れなさい。この天使のメッセージによって、ヨセフはマリアへの疑惑を拭い去ることができたのです。

 (22~23節)「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』は、司式の方に朗読していただいた旧約聖書・イザヤ書7章14節の引用です。イエス様がこの世界に誕生なさったことは、神様が私たちといつも共に生きようと決意されたしるしです。イエス様は貧しい家庭に誕生され、貧しさの辛さを味わい、私たちが体験するあらゆる苦しみを体験され、遂には辛さの極みの十字架にかかって、私たちの全ての罪の責任を身代わりに背負いきって下さいました。神様は、イエス様によって、世の中の最底辺に生きる人々とも共に生きようと決意され、行動されています。それがインマヌエル、神は我々と共におられるということです。

 (24節)「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」ヨセフは、主の天使の言葉に信頼し、マリアを信頼する決断を下し、マリアを妻として正式に迎え入れました。男の子が生まれるまでマリアと関係することはありませんでした。ヨセフは意志の強い若者です。マリアを本当に心から愛しています。そして男の子に、天使に指示された通りの名前をつけました。ヨセフは、神様のどこまでも従順に従う人です。

 クリスチャン作家・三浦綾子さんのデビュー作・『氷点』(朝日新聞懸賞受賞小説)に、今日の聖書の場面が引用されています。(三浦綾子『氷点(下)』朝日文庫、2006年、7~10ページ。)辻口啓造という男性は、妻の背信に悩んでいました。「拾い読みをしているうちに、啓造の視線はマタイ伝1章に、熱心に注がれはじめた。一読して啓造は息をのんだ。再び啓造は読み返した。処女マリアが、妊娠をした物語であった。(マタイ1:18~24)。啓造にとって、これほど重大な言葉は、聖書のどこにもないように思われた。~夏枝の背信に悩んだ啓造にとって、読みすごすことのできない話であった。~結婚していない婚約者の妊娠が、人目につくほどになった。それを知った時のヨセフの懊悩が、啓造にはじゅうぶんに察することができた。~破約しようとまで考えていたヨセフが天使の命じた通りに、マリアを妻に迎えたという、その一事に啓造は、強く心打たれた。啓造は、深い吐息をついた。二千年来、世界に何十億のキリスト信者がいたであろうが、マリアの処女懐胎をヨセフほど信じがたい立場にあったものはいなかったと、啓造は思った。最も信じがたい立場にあって、天使の言葉に素直に従ったヨセフに、啓造は驚嘆した。ヨセフが神を信じ、マリアを信じたように啓造も、夏枝の人格を信じたかった。~ヨセフが、マリアの処女妊娠を信じたことで、マリアの日ごろの人となりが、啓造にもうかがうことができた。ありきたりの、清純、正直なぐらいの女性ではなかったのだ。崇高といえるものがあったのだ。そう啓造は思った。~啓造は、口語訳の聖書を一冊買って外へ出た。(ヨセフがマリアを信じたほどの、堅い信頼で結びつく人間関係というものがあるだろうか)」 (ちなみに、この啓造のいる書店の書棚には「クリスマス・プレゼントには聖書を」と書いた貼紙があったと書いてあります。きっとこの小説が書かれた1964年には実際に書店にそのような貼紙があることがあったのでしょう。残念ながら、私は今は見かけません。)

 それにしてもヨセフの立派さを思います。ヨセフは天使の言葉を信頼することを決断しました。マリアを信頼することを決断しました。そしてマリアと結婚することが神様の御心に従うことだと信じて、マリアを妻として迎え入れる決断をしました。「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」「はい、分かりました。そのように致します。」信仰とは、神様を信頼し、神様のご意志に従う決断をすることです。ヨセフはそのように致しました。その意味で、ヨセフは私たちの模範です。そして私たちも洗礼を受けた時、神様を信頼し、神様の世界に飛び込む決断をして、洗礼を受けました。そして神様に支えられて、現にここにおります。使徒パウロが言うように、「今あるは神の恵み」です。私たちはこれからも毎日、神様のご意志に従う決断を繰り返して、信仰の道を歩みます。そのような一日一日を過ごし、そのような生涯を生きることができるように、励まし合って、神様のご意志に従って参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-12-08 17:10:29(火)
「パン五つと魚二匹と少年」 2015年12月6日(日) 待降節(アドヴェント)第2主日礼拝説教
朗読聖書:民数記11章18~23節、ヨハネによる福音書6章1~21節。
「人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、『少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい』と言われた。」(ヨハネによる福音書6章12節)。

 教会では有名な場面です。(1~2節)「その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。」イエス様が、神の子の愛の力を発揮され、病人たちを癒やされたのでしょう。それを見て、多くの人々がイエス様の後を追って、ガリラヤ湖の向こう岸にまでやって来たのです。昔は、治せない病気がたくさんあったでしょう。今なら病院に行く人々が、大勢イエス様を頼って追いかけて来たのです。イエス様は一躍、ヒーロー扱いされていました。ヒーロー扱い、英雄扱いされることは、イエス様としては望まれないことだったと思います。ですがイエス様は、病気に苦しんでご自分を頼って来る人々を、心の底から憐れむ深い愛を抱いておられます。

 (3~4節)「イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。」過越祭は、3月か4月に行われます。この6章の出来事も3月か4月だったのでしょう。(5~6節)「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、『この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか』と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。」イエス様は、フィリポに信仰があるか試されたのです。

 (7節)「フィリポは、『めいめいが少しずつ食べるためにも、200デナリオン分のパンでは足りないでしょう』と答えた。」1デナリオンは、一日分の給料ですから、仮に5000円と考えると、200デナリオンは100万円です。100万円あればかなり多くのパンを買うことができますが、そこにいた人は男だけでおよそ5千人でした。女性や子どもを含めると1万5千人から2万人くらいいたでしょう。これほどの多くの人数では、100万円分のパンでも足りないかもしれませんね。理性で考えれば、このような結論になります。私たちも、この状況に置かれれば、「私がどのようにしてこれほど多くの人々を養えばよいのか」と困り果てるに違いありません。ですがフィリポの答えは、やはり信仰のない答えです。確かに現実は手強く、私たちは現実を無視することはできません。しかし神様に不可能がないことも確かなのです。

 ですが弟子たちは、現実にほとんど負けています。(8~9節)「弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。『ここに大麦のパン五つと魚二匹を持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。』」「大麦のパン五つと魚二匹と少年。」弟子たちは、「たったこれだけでは、全然足りなくて話にならない」と考えたでしょう。「パン五つと魚二匹と男の子一人では、何もできない、何もないのと同じだ」と考えたでしょう。私たちもそう考える可能性が高いですね。しかしイエス様は、「無いもの」に目を留めるのではなく、「ある少しのもの」を用いて、神様の偉大な業をなさいます。(10~11節)「イエスは、『人々を座らせなさい』と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ5千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。」驚くべき奇跡が起こったのです。

 そこにあるのは、少しのもの、小さなもの(こと)ばかりでした。五つだけのパン、二匹だけの魚、一人だけの子ども、そしてイエス様のお祈り。イエス様は、感謝の祈りを唱えてからパンと魚を分け与えられました。私たちは「お祈りしても、それほど意味はない。祈っても何も変わらない」と考えてしまうことがないでしょうか。しかしそうではないのです。私たちに与えられている少しのもの、少しの賜物、少しのお金、私たちの日々の祈り。それらが皆、大切です。神様がそれらを用いて、愛の業を行って下さいます。ですから私たちは喜んで、自分を神様にお献げし用いていただきましょう。「パン五つと魚二匹」は、この少年の持てる全てだったでしょう。少年はそれを全て、イエス様に献げたのです。ルカによる福音書21章に「やもめの献金」の出来事が書かれていますが、貧しいやめもがレプトン銅貨(最小の銅貨)二枚(彼女の全財産)を神様に献げて、イエス様に深い感動を与えましたが、少年がパン五つと魚二匹を献げてくれたことを、イエス様は深く喜んで下さったに違いないのです。

 「こんなに大勢の人では、全員にパンを与えることは不可能だ。」弟子たちはそう思いました。似た状況は、既に出エジプト記16章にありました。イスラエルの民がエジプトを脱出して、荒れ野に入ったときのことです。そこには食べ物がなかったので、民は指導者モーセとアロンに、不平を述べ立てました。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」すると神様はモーセに言われたのです。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からのパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す。ただし、六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、毎日集める分の二倍になっている。」

 神様は、この約束を実行して下さいました。「夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発するとき、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。イスラエルの人々はそれを見て、『これはいったい何だろう』と口々に言った。」これが、神様が与えて下さったマナという食べ物(パン)だったのです。それは日曜日から金曜日まで毎朝、必要な分だけ与えられました。神様は、毎日必要なものを必ず与えて下さるので、イスラエルの民は明日の分のマナまでためこむことを禁じられました。明日の分までためることは、神様が明日も必要なマナを与えて下さることを信じない不信仰の罪になります。

 モーセは彼らに、「だれもそれを、翌朝まで残しておいてはならない」と言ったのですが、彼らは聞き従わず、何人かはその一部を翌朝まで残しておきました。神様の指示に反することです。翌朝まで残しておいたマナには、虫がついて臭くなり、彼らが指示に従わなかったことが発覚し、モーセは彼らに向かって怒りました。そこで彼らは悔い改めたのでしょう。その後は、朝ごとに必要な分だけ集めました。六日目の金曜日には、神様は2倍の量を与えて下さいました。次の日・土曜日が安息日、礼拝の日だからです。安息日には仕事をすることが許されないので、マナを集めることも許されないはずです。そこで神様は前の日・金曜日に二日分のマナを与えて下さったのです。土曜日に安心して礼拝できるために、神様が配慮して下さるのです。神様はマナを、民が約束の地・カナンの地に着くまで40年間も忠実に与え続けて下さいました。イスラエルの民の人数は、壮年男子だけで60万人です。女性・子どもを加えれば180万~240万人でしょう。イエス様の前にいた人々は、男だけで5千人です。エジプトを脱出した民は120倍です。120倍の民を40年間マナで養われた神様に、イエス様の前にいる男だけで5千人の民を養えないはずはありません。

 イスラエルの民の不平は、マナが与えられても、やみませんでした。彼らは民数記11章4~6節でこう言います。「誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで何もない。」毎日マナだけで、すっかり飽きたと文句を言ったのです。私たちはこの民に同情して、「なるほど、マナばかりでは嫌になるのも当たり前だ」と言うのでしょうか、それとも「呆れた人々だ」と言うでしょうか。人間の欲望には限りがありません。マナに飽きる。神様の恵みに飽きる。無感動になり、感謝しなくなる。飽きることは罪ではないでしょうか。神様は憤って言われました。本日の民数記11章18節以下です。「民に告げなさい。明日のために自分自身を聖別しなさい。あなたたちは肉を食べることができる。主の耳に達するほど、泣き言を言い、誰か肉を食べさせてくれないものか、エジプトでは幸せだったと訴えたから、主はあなたたちに肉をお与えになり、あなたたちは食べることができる。あなたたちがそれを食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日ではない。一か月に及び、ついにはあなたたちの鼻から出るようになり、吐き気を催すほどになる。あなたたちは、あなたたちのうちにいます主を拒み、主の面前で、どうして我々はエジプトを出て来てしまったの
か、と泣き言を言ったからだ。」

 モーセが困って神様に訴えます。(21~22節)「わたしの率いる民は男だけで60万人います。それなのに、あなたは、『肉を彼らに与え、一か月の間食べさせよう』と言われます。しかし、彼らのために羊や牛の群れを屠れば、足りるのでしょうか。海の魚を全部集めれば、足りるのでしょうか。」モーセのこの言葉は、フィリポの言葉「めいめいが少しずつ食べるためにも、200デナリオン分のパンでは足りないでしょう」、アンデレの言葉「こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」とよく似ています。神様はモーセを叱って言われます。「主の手が短いというのか。わたしの言葉どおりになるかならないか、今、あなたに見せよう。」神様は風を起こして、大量のうずらを民のもとに送られたのです。神様の手が短くて奇跡を起こせないことはありません。神様の御手は力強く、不可能なことがないのです。

 「足りないでしょう。」「何の役にも立たないでしょう。」この弟子たちの諦めの声に対抗するかのように、イエス様はパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられました。魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられました。全員が満腹したのです。驚くべき奇跡です。イエス様の愛の奇跡ですから、人々はお腹がいっぱいになっただけでなく、心もイエス様の愛で満たされたのです。一緒にいただく食事はおいしいものです。遠足で、外でお弁当を食べたときを思い出して下さい。多くの仲間と共に食べたことで、喜びが大きかったことも確かです。

 人々は十分食べましたが、パンと魚だけですから、質素な食事です。人々は誰も「パンと魚だけか」と文句を言わなかったでしょう。感謝して食べました。全員に十分行き渡ったのは間違いなく奇跡です。しかしイエス様が「分け」与えられた点にも注目すべきです。誰もひとり占めせず、分け合ったのですね。クリスチャンではないようですが、相田みつをさんという方の、次の言葉を、私はよく思い出します。「奪い合えば足らぬ。分け合えば余る。」その通りです。「奪い合えば足らぬ。分け合えば余る。」だから余った一面も、確かにあります。

 マザー・テレサが若い頃、インドのスラムでこんな経験をしたそうです。ある女の子を見ると、その子の手は皮膚病でただれていました。マザー・テレサが薬を塗ってあげようとすると、女の子は「いらない」と言いました。「弟はもっとひどいの。弟にお薬をつけて。」若いマザー・テレサは、胸を衝かれたそうです。「こんなに小さいのに、先に弟のことを考えるなんて。」その子の家は、前の日から何も食べていませんでした。貧しいからです。マザー・テレサは、少しばかりのお米を持っていたので、その子の母親に渡しました。「子どもたちに食べさせてあげて下さい。みんなには足りないでしょうが、何もないよりましでしょう。」するとその母親は、そのお米を半分に分けて、家を出て行きました。暫くして晴々とした顔で戻って来て、「隣りのイスラム教徒の家族に半分あげて来ました。あの人たちも昨日から何も食べていないのです。」マザー・テレサは大きな感動に打たれたと言います。「自分たちもたまらないほどおなかがすいているのほかの人のことを思いやる。貧しい人々は、何と美しい心を持っているのだろう」(やなぎや・けいこ『マザー・テレサ』ポプラ社、2009年、40~46ページより)。

 分け合う心は、すばらしいですね。私たちも、心の中に巣食っている貪欲の罪と、戦う必要があります。旧約聖書の箴言15章17節には、次の御言葉があります。私が最近、すばらしいなと感じている御言葉です。「肥えた牛を食べて憎み合うよりは/ 青菜の食事で愛し合う方がよい。」つまり、「ごちそうを食べて憎み合っているよりも、質素な食事で仲良くしている方が幸せだ」ということです。

 イエス様は、弟子たちに言われます。(12節)「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい。」(13節)「集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。」私は、『パン屑を集める心』という題の説教集を見たことがあります。きっと著者は、「パン屑を集める心」が大事なのだとおっしゃりたいのです。パン屑一つ一つが、神様の尊い恵みです。神様の恵みを何一つ無駄にしてはならないのです。私は、神様の恵み一つ一つに感謝せず、無駄に捨てる罪を多く犯して来たかもしれないと反省させられます。「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」(詩編103:2)。ボンへッファーというドイツの牧師が次のように書いています。「小さなことに感謝する者だけが、大きなものをも受けるのである。~われわれは、大きなものが与えられるようにと祈りながら、日ごとの、小さな(それは本当は決して小さくはない!)賜物に感謝することを忘れている。しかし、小さなものをも感謝して神のみ手から受けようとしない者に、神はどうして大きなものを委託することができるだろうか」(ボンへッファー著・森野善右衛門訳『共に生きる生活』新教出版社、1991年、17~18ページ)。

 マザー・テレサは飛行機に乗ったとき、機内食を残す人が多いことに気づきました。残ったものを捨てられてしまいます。マザー・テレサがいつも合っているスラムの貧しい人々から見れば、大変なごちそうです。マザー・テレサは航空会社に交渉しました。「その日のうちに食べるのなら」という条件で、マザー・テレサの修道会に、余った食事をいただけることになったそうです(やなぎや・けいこ『マザー・テレサ』ポプラ社、2009年、88~90ページより)。神様の恵みである食べ物を、いわゆる先進国は大量に無駄にしているのですね。私たちの家の中もよく調べれば、多くの食べ物は見つかるかもしれません。集めれば、今日は買い物に行かなくても済むかもしれません。神の恵みを無駄にしないように、気をつけたいものです。

 11節に「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて~」とあります。「感謝の祈りを唱えた」は原語のギリシア語で「エウカリステオー」という動詞です。「感謝する」の意味です。聖餐式を英語で「ユーカリスト」と呼ぶことがあります。「エウカリステオー」は「ユーカリスト」の語源です。この場面は聖餐式と関係が深いということです。聖餐式と全く同じではありませんが、共通することは両方とも「イエス様によるもてなし」であることです。ただ今より聖餐式を行い、私どもはイエス様による愛のもてなしを受けます。ただただ感謝です。「エウカリステオー」の中の「カリス」は「恵み」の意味です。聖餐式は、神様の恵み、私たちにとって深く感謝すべき神の御業です。イエス様の尊いもてなしを受け、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」とのイエス様のご指示を、心して守りつつ生きて参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。


2015-12-04 1:16:43(金)
「アブラハムは神を信じた」 2015年11月29日(日) 待降節(アドヴェント)第1主日礼拝説教
朗読聖書:創世記15章1~6節、ローマの信徒への手紙4章1~12節。
「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」(ローマの信徒への手紙4章5節)。

 この手紙を書いているのは、イエス様の十字架の死と復活の後にイエス様に出会い、使徒となったパウロです。パウロは3章28節で述べます。「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」神様によって人が義と認められる(正しいと認められる)ことは、人が律法(その代表が十戒)を100%守ることによってではなく、信仰によって起こることだと言ったのです。
 
 本日の4章でパウロは、ユダヤ人が尊敬する先祖アブラハムを出します。「ユダヤ人の偉大な先祖アブラハムも信仰によって義とされたのであった、信仰によって神様の前で正しい者と認められたのであった」、と言っています。その通りです。(1~2節)「では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。」創世記を読むと、アブラハムは立派な面も多いですが、しばしば醜い姿をも見せています。100%清らかという人ではありません。神様の前に行いによって正しい人と認められることはできないのです。アブラハムにも罪がありました。私たちと同じです。

 (3節)「聖書(旧約聖書)には何と書いてありますか。『アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた』とあります。」アブラハムは神様の約束を信じた、約束を語られる神様を信頼した、それが神様によってアブラハムの義と認められた、のです。それは本日の旧約聖書・創世記15章の出来事です。神様はこれより前の12章で、アブラハムに約束をなさいました。彼のそのときの名前は、アブラムです。「あなたの子孫にこの土地(カナンの地、イスラエルの地)を与える。」このときアブラムは、75才です。ところがアブラムには、まだ子どもがいませんし、創世記15章に至っても、子どもがいないのです。アブラムは諦めかけていたようです。(1~3節)「これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。『恐れるな、アブラムよ。/ わたしはあなたの盾である。/ あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。』アブラムは尋ねた。『わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。』アブラムは言葉を継いだ。『御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。』」

 しかし神様が改めて力強く約束の言葉を与えて下さるのです。(5節)「見よ、主の言葉があった。『その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。』主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。』そして言われた。『あなたの子孫はこのようになる。』」
無数の星を見せながらの約束ですから、リアリティーが強く感じられたことでしょう。本当だと強く思うことができたでしょう。(6節)「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」神様は真実な方です。真実な方であるとは、約束を100%必ず実行して下さるということです。私たちは罪深く、時に約束を忘れたり、約束を守らなかったりします。しかし神様は違います。神様は、ご自分がなさった約束をお忘れになることはなく、約束を100%実行なさいます。「アブラムは主を信じた」とは、アブラムが神様の約束を信じた、約束を100%守られる神様にどこまでも信頼した、ということです。神様は、それをアブラムの義と認め、喜んで受け入れて下さいました。パウロはこのエピソードを非常に大切に受けとめ、ローマの信徒への手紙4章で引用しているのです。

 創世記17章によると、アブラムが99才のときに神が現れ、「あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである」と言われます。彼の名はアブラハムになります。アブラハムとは、「多くの国民の父」の意味です。アブが父です。イエス様が「アバ、父よ」とお祈りなさったことを思い出します。アブラハムは99才のとき、割礼を受けます。割礼は、神様の民イスラエルに属することを示す、旧約聖書ではきわめて重要な、男性の体につけられるしるしです。そして翌年、アブラハムが100才の時に、アブラハムと妻サラの間に、神様の約束の子イサクが誕生したのです。神様は、約束を25年後に果たして下さったのです。確かに時間がかかりましたが、神様が約束を100%守られる方、私たちが信頼して絶対に間違いない方であることが、証明されたのです。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」パウロは、このアブラハムを見なさい、と言うのです。アブラハムは神様の約束、神様の言葉を信じた。それによって神様の前に正しい者と認められた。私たちも同じだ、とパウロは言います。ユダヤ人も外国人も(私たち東久留米教会に集っている者たちも)、神様の約束・神様の言葉を信じることで、義と認められるのだ、とパウロは言います。その通りなのです。イエス・キリストを救い主と信じる人に、すべての罪のゆるしと永遠の命という最大の恵みが与えられるのです。

 ローマの信徒への手紙に戻り、4節。「ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。」ユダヤ人は、いつの間にか勘違いしていたのです。働く者・労働する者が給料という報酬を受け取るように、神様の律法(十戒)を自分の力で頑張って実行することで、神様の前に正しい者と認められ、天国に自力で入ることができるのだと。そうではありません。私たちに律法(十戒)を完璧に守る力があればその方法で天国に入ることができますが、現実には私たちには罪があり、律法を100%完璧に実行することができません。ですから、私たちがこの方法で天国に入ることはできません。できないのに、できるとユダヤ人は勘違いしたのです。イエス様に出会う前のパウロも、その勘違いの中にいたのです。「働く者に対する報酬」とありますが、パウロは働く者が当然の権利として報酬の給料を受け取るのと同じように、律法を努力で実行しようと頑張る人が、当然のご褒美として天国行きを勝ち取るのだと確信していました。しかし今は自分の罪深さに気づき、律法を行う力がないことを悟りました。自力で天国行きを勝ち取ることはできない。イエス様以外の人間は皆、どこまでも罪人であって、天国に行く資格を持たない。ただ神様の憐れみによってしか、天国への道は開かれない。人間にできることは、ただ自分の罪と至らなさを神様の前に悔い改め、へり下ることだけである。神様の憐れみと恵みによってのみ、天国への道が開かれる。パウロはこのことを悟ったのです。神様の恵みが全てであることに、気づかされたのです。4節の「恵み」は、もとの言葉のギリシア語で、「カリス」という言葉です。「カリス」は重要な言葉です。東久留米教会の初代牧師、浅野先生と奥様は、カリスという名前の猫を飼っておられたそうですね。恵みという名前の猫です。非常に信仰的な名前をつけられたのですね。猫のカリスに会うたびに、神様の救いの恵みを思い起こすことができたでしょう。

 (5節)「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」 私たちの信仰は不完全です。完全な信仰に生きておられるのはイエス様だけでしょう。マルコによる福音書9章に、「汚れた霊に取りつかれた子をいやす」という小見出しのエピソードがあります。ある父親の息子が、ひどい病気でした。引きつけを起こし、口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまうのでした。父親はイエス様に訴えました。「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」イエス様は言われます。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」すると父親は叫びます。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」イエス様はこの父親をよしとされたのだと思います。汚れた霊を追い出して、息子をいやして下さいました。私たちに信仰はありますが、イエス様ほど完全な信仰ではありません。あえて言えば、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」という信仰ではないでしょうか。それでもイエス様と父なる神様はよしとして下さいます。「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」とは、このようなことだと思うのです。人間の働きがあるから、よい行いがあるから、義と認められるのではないのです。イエス様以外のどの人の働き、よい行いも罪を含んでいて完全に清らかではありません。ですからよい行いをどんなに積み重ねても、神様が求める合格点に達しません。私たちが自分の罪・過ち・至らなさを認め、悔い改めてへり下る。そんな私たちを神様が憐れみによって、義と認めて下さるのです。

 このような人の幸いを、パウロは詩編32編(ダビデ王作)を引用してさらに語ります。(6節)「同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。『不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである。』」神様によって罪を赦された人は幸せだと言っています。新約聖書は、主イエス・キリストが、私たちの全ての罪を背負って十字架で死なれ、三日目に復活なさり、今も天で生きておられると断言します。私たちに必要なことは、自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストを自分の救い主と信じ告白することです。そしてできるだけ洗礼を受けることが大切です。その時、私たちはイエス・キリストという衣を着ることになると、新約聖書のガラテヤの信徒への手紙が告げます。私たちは罪人であり続けるけれども、イエス様という衣を着る。父なる神様は、イエス様という衣を着た私たちを見て下さる。従って、罪なき者と見なして下さいます。これが私たちの幸せです。私たちは罪人ですが、神様は私たちを義人(正しい人)と見なして下さいます。私たちは罪人であり、同時に義人です。これが福音・よき知らせです。

 パウロは、続く9~10節で、話の向きを変えます。「では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。『アブラハムの信仰が義と認められた』のです。どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。」 

 「割礼を受けた者」はユダヤ人・イスラエル人です。「割礼のない者」とはユダヤ人以外の人・異邦人・外国人です。私たち日本人ももちろん「割礼のない者」です。旧約聖書に「無割礼の者」という言い方が出て来ますが、これは割礼を受けていない外国人を、「真の神様を知らない者、神様に選ばれていない者」として、低く見る言い方です。サムエル記(上)17章に、少年ダビデがイスラエルの敵のペリシテ人の巨人ゴリアテを石投げ紐と石一つで倒す話がありますが、ダビデはゴリアテのことを、「あの無割礼のペリシテ人」と呼んでいます。私たちも、旧約の時代であれば「無割礼の者」として、低く見られる者なのです。確かに割礼は、イスラエル人にとって、神様との契約の民として男性の体に刻まされた最も重要なしるしでした。しかし割礼を受けていない者は、絶対に神様に義と認めていただけないのかと言うと、そうではないことをパウロは発見したのです。アブラハムが信仰によって義と認められたのは、割礼を受ける前のことであった事実に気づいたのです!

 (11節)「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼のしるしを受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。」 アブラハムが信仰によって義とされた事実が先にあり、アブラハムが割礼を受けたのはそれより後のことだった! 信仰の方が割礼より大切だという発見です。割礼がない者でも、信仰によって義と認められ、救われることができるのです。私たち無割礼の日本人も、信仰によって義と認められることができる。ユダヤ人のためにも外国人のためにも、全ての人の全ての罪を背負って十字架で死んで下さったイエス様を救い主と信じるならば、天国に入れていただくことができる。これはユダヤ人にはいまいましいことかもしれませんが、私たち「無割礼の外国人」にとっては、大きな喜びです。割礼を受ける前に、信仰によって義とされたアブラハムは、私たち「無割礼の外国人」にとって「信仰の父」です。

 (12節)「更にまた、彼(アブラハム)は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。」アブラハムは、割礼を受けた者(ユダヤ人)で信仰に生きる人々の「信仰の父」ともなりました。まさにアブラハムは創世記で神様がおっしゃった通り、「多くの国民の父」です。ユダヤ人の信仰の父であり、外国人の信仰の父です。
 
 もう一度5節に戻ります。「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」この御言葉によって私は先ほど、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と叫んだ父親のことをお話したのです。そして私は、ルカによる福音書18章の、「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」をも連想するのです。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。『二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず。胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。』」 この徴税人のような人こそ、パウロが言う「不信心な者」だと思うのです。神様は、このような意味での「不信心な者」のへり下りを喜んで下さり、義と認めて下さいます。

 キリスト教の言葉で、「自己義認」という言葉があります。自分で自分を義(正しい)と認めることです。自分で自分を義(正しい)と認めることができる人は、罪が全くない人でなければなりません。自己義認は罪です。私たちも自己義認の罪に陥ることがあります。私たちが誇り高くなり過ぎると、自己義認の罪に陥ります。ユダヤ人は自己義認の罪に陥っていました。パウロが先頭に立って自己義認の罪に生きており、それに気づいていませんでした。割礼が、神に選ばれた民としてのユダヤ人の誇りのシンボルになってしまっていました。割礼は本来よきものなのでしょうが、ユダヤ人のプライドのシンボルになってしまっていました。プライドの塊だったパウロですが、復活されたイエス様に出会い、自分の自己義認の罪に気づき、罪を悔い改め、へり下って洗礼を受け、全て罪の赦しと永遠の命を受けました。

 パウロが7~8節で引用している詩編32編にも、もう一度触れます。詩編32編は、「悔い改めの詩編」の1つです。詩編のうち7つが「悔い改めの詩編」と呼ばれています。それは詩編6編、32編、38編、51編(最も有名)、102編、130編、143編の7つです。パウロは詩編32編の1~2節を引用しました。パウロは引用していませんが、5節に次のように書かれています。「わたしは罪をあなた(神様)に示し/ 咎を隠しませんでした。/ わたしは言いました。/ 『主にわたしの背きを告白しよう』と。/ そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを/ 赦してくださいました。」この詩編の作者ダビデは、自分の罪と過ちを神様に告白し、悔い改め、神様の赦しをいただいたのです。「不信心な者が義とされた」一例です。
「不信心な者」とは、自分の罪を悔い改めてへりくだる人です。割礼を受けていても受けていなくても、罪を悔い改めてへりくだる人が義とされ、死を超えた永遠の命をいただくのです。悔い改めて、できるだけ洗礼を受ける方がよいのです。

 私は、2002年に洗礼を受けて下さったAさんを思い出します。ある教会員の方がご入院しておられた病院に、Aさんも入院しておられました。教会員の方が毎朝、讃美歌を歌って祈っておられるのを見て、関心をもたれました。そしてその教会員の方が語られたイエス様の十字架の死と復活による罪の赦しと永遠の命の福音を、信じられたのです。洗礼を受けたいという希望が、私に伝えられました。お見舞いに伺い、意志を確かめたところ、本当に希望しておられました。もうだいぶ弱っておられました。私はキリスト教の最も中心的なことをお話しました。「イエス様があなた様の罪を背負って十字架で死んで、復活されたことを信じて下さいますか」とお尋ねすると、うなずいて下さいました。私は役員の方々に電話し、翌日だったかと思いますが、数名の役員の方々に病室に来ていただきました。そして洗礼式を執り行いました。ご自分のこれまでの罪を悔い改めて、洗礼を受けて下さいました。ご家族とあまりうまくいっておられなかったようです。それにはご本人の責任もあったのかもしれません。私が翌日お見舞いに伺いますと、おられませんでした。看護師さんに尋ねますと、約半日前に亡くなったことが分かりました。

 最後の最後に、悔い改めて、ご自分の全てをイエス様に委ねて洗礼を受けられ、天国に入られました。正しい行いを積み重ねたことによってではありません。神様の前に立派な働きがあったからでもありません。ただ神様の一方的な憐れみによって、イエス様の十字架による罪の赦しを受けられて、天国に入られました。どんな人生を送られた方かも分かりません。全く不思議な出会いでありました。私どもも(もし洗礼がまだであれば)感謝してへりくだって洗礼を受け、感謝してへりくだって聖餐をいただき、己れを低くして神様を賛美しながら、イエス様に従って参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-11-25 13:57:46(水)
「恵みの回復 ルツ記④」 2015年11月22日(日) 降誕前第5主日礼拝説教
朗読聖書:ルツ記4章1~22節、ルカによる福音書1章46~50節。
「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。」(ルツ記4章14節)。

 ルツ記を4回連続で読む最終回です。おさらいから入ります。故郷イスラエルの飢饉を逃れて、外国モアブに行ったナオミという婦人は、悲劇を経験しました。夫エリメレクと二人の息子マフロンとキルヨンが亡くなったのです。ナオミはマフロンの妻であった若いルツに付き添われて、イスラエルのベツレヘムに帰ります。オミはきっと50歳くらい、ルツは20代の後半くらいではなかったかと想像致します。二人は貧しく、食べ物を得る方法は、ルツが他人の畑に行って落ち穂拾いをするほかありませんでした。落ち穂拾いというとロマンチックにも聞こえますが、乞食に近い状態だったのではないかと思われます。当時のイスラエルは、太平洋戦争が終わるまでの日本に似て男性中心の社会でした。家を継ぐのは原則として男性でした。ナオミは夫エリメレクの家に入った立場でしょうが、夫も二人の息子も亡くなり、まさに家が絶えようとしていました。

 ナオミはどん底に落ちたと言えますが、神様はナオミをお見捨てになったのではありませんでした。ルツが落ち穂拾いに行った畑の持ち主はボアズという男性で、ナオミたちの家の親戚であり、ナオミたちの家を絶やさないようにする責任のある人の一人だったのです。信仰がなければ幸運な偶然と考えるでしょうが、間違いなく神様の導きです。神様は目に見えませんが、確かに生きておられ、私たちに日々小さな幸せを与えて下さっています。その1つ1つに気づくことが信仰とも言えます。しかしナオミは、自分たちの家が存続することだけを考えているのではありません。ナオミは、亡くなった息子の妻ルツ(あえて言えば嫁)が幸せになることを、心から願っていました。ルツがボアズと再婚するとルツが幸せになると考えました。そこでナオミは3章で、ルツにボアズのもとに行くようにかなり大胆なアドヴァイスをしました。もちろんルツとボアズが結婚することで、結果的にナオミの夫エリメレクの家が存続することを期待したでしょうが、自分の願いのためにルツを犠牲にしてもよいとは決して考えていなかったはずです。ルツを不幸にしてはならず、ルツに幸せになってもらうことがとても大切だと考えていたと思います。ルツは、故郷モアブにとどまってもよかったのに、ナオミを見捨てないで、外国イスラエルのベツレヘムに着いて来て、ナオミと一緒に苦労しながら生きる道を選んでいました。互いに相手の幸せのために行動し合っている、麗しい愛の関係があります。

 そしてルツは、姑ナオミの願い・何とか家を絶やしたくないという願いを実現したいとも考えました。そこでボアズのもとに行き、事実上プロポーズをしたのです。ルツは3章9節でボアズに、「どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です」と言いましたが、これは事実上のプロポーズの言葉です。ボアズは、姑ナオミの希望の実現を願うルツの真心に感動を覚え、プロポーズを受け入れる方向に気持ちが進みます。もちろんボアズは独身です。ボアズは分別のある大人の男性でしたので、ただ感情に任せて動くのではなく、自分の立場を考えます。自分は確かにナオミの家の親戚で、家を絶やさぬ責任のある一人だが、自分以上にその責任のある人がいる。まずその人の意志を確かめることが先だ。そう判断し、肩掛け六杯分の大麦をナオミへのお土産としてルツに背負わせ、ルツを帰らせます。一つ一つ手順を追って物事が進められていくことで、一つの祝福にたどり着くことが、このルツ記によって示されているのではないでしょうか。

 そして本日の4章です。(1節)「ボアズが町の門のところへ上って行って座ると、折よく、ボアズが話していた当の親戚の人が通り過ぎようとした。『引き返してここにお座りください』と言うと、その人は引き返して座った。」 「町の門」は、裁判や交渉ごとが行われる町の公のスペースです。「折よく」とありますが、ここにも神様のお計らいを見ることができます。(2節)「ボアズは町の長老のうちから十人を選び、ここに座ってくださいと頼んだので、彼らも座った。」長老たちは、町で尊敬と信頼を集めている人たちです。ボアズはその中から特に信頼できる十人を選び、これからボアズと親戚の人が話し合って(交渉して)決めることの証人になってもらうようにしたのです。このように用意周到にしておけば、後から「こうではなかったはずだ」などという認識の違いから来るトラブルの発生を避けられます。

 (3節~4節の途中)「ボアズはその親戚の人に言った。『モアブの野から帰って来たナオミが、わたしたちの一族エリメレクの所有する畑地を手放そうとしています。それでわたしの考えをお耳に入れたいと思ったのです。もしあなたに責任を果たすおつもりがあるのでしたら、この裁きの座にいる人々と民の長老たちの前で買い取ってください。もし責任が果たせないのでしたら、わたしにそう言ってください。それならわたしが考えます。責任を負っている人はあなたのほかになく、わたしはその次の者ですから。』」 ここで「責任を果たす」と訳されている言葉は、原語のヘブライ語で「贖う」です。1節にあった「親戚の人」も直訳では「贖い手」です。4章の1節から8節に、「贖い、贖う、贖い手」の言葉が10回以上も出て来ます。4章前半のキーワードは「贖い」だと言ってもよいのです。

 「贖い」は、聖書独特の言葉と言えます。聖書では非常に重要な言葉です。この新共同訳聖書の巻末の用語解説では、「贖い」の意味を次のように教えてくれます。「旧約では、人手に渡った近親者の財産や土地を買い戻すこと。」イスラエルでは、各家の所有する土地は、「嗣業の土地」と呼ばれます。神様から各家に分け与えられた土地ですから、非常に重要なのですね。レビ記25章23節以下に、「贖い」と「嗣業の土地」について、次のように書かれています。「土地を売らねばならないときにも、土地を買い戻す権利を放棄してはならない。土地はわたし(神様)のものであり、あなたたちはわたしの土地に寄留し、滞在する者にすぎない。あなたたちの所有地においてはどこでも、土地を買い戻す権利を認めねばならない。もし同胞の一人が貧しくなったため、自分の所有地の一部を売ったならば、それを買い戻す義務を負う親戚が来て、売った土地を買い戻さねばならない。」

 ボアズは親戚の人に、「あなたがナオミの亡くなった夫エリメレクの土地を贖う(買い戻す)意志がありますか、どうですか」と尋ねています。(4節の終わりの方と5節)「『それではわたしがその責任を果たしましょう』と彼が言うと、ボアズは続けた。『あなたがナオミの手から畑地を買い取るときには、亡くなった息子の妻であるモアブの婦人ルツも引き取らねばなりません。故人の名をその嗣業の土地に再興するためです。』」モアブの婦人ルツと結婚して、ナオミの義理の息子なって家を継ぐことも求められている、と言ったのですね。確かに簡単にできる決断ではありません。以前の日本の「婿養子に入る」と、ほぼ同じでしょう。

 (6節)「すると親戚の人(贖い手)は言った。『そこまで責任を負う(贖う)ことは、わたしにはできかねます。それではわたしの嗣業を損なうことになります。親族としてわたしが果たすべき責任(贖い)をあなたが果たしてくださいませんか。そこまで責任を負う(贖う)ことは、わたしにはできかねます。』」 「わたしの嗣業を損なう」が具体的に何を意味するのか分かりませんが、彼にとって何らかのマイナス、面倒を背負い込むことになるからお断りする、ということです。ルツがモアブ人・外国人であることを嫌ったのではないか、と言う人もいます。この親戚が断わったので、ボアズが贖いをすることに、何の障害もなくなりました。このことを証明する手続きが、町の長老たち十人を証人として行われます。(7~8節)「かつてイスラエルでは、親族としての責任(贖い)の履行や譲渡にあたって、一切の手続きを認証するために、当事者が自分の履物を脱いで相手に渡すことになっていた。これが、イスラエルにおける認証の手続きであった。その親戚の人(贖い手)は、『どうぞあなたがその人をお引き取りください』とボアズに言って、履物を脱いだ。」これで手続き完了です。

 ボアズは晴れて宣言します。(9~10節)「あなたがたは、今日、わたしがエリメレクとキルヨンとマフロンの遺産をことごとくナオミの手から買い取ったことの証人になったのです。また、わたしはマフロンの妻であったモアブの婦人ルツも引き取って妻とします。故人の名が一族や郷里の門から絶えてしまわないためです。あなたがたは、今日、このことの証人になったのです。」ボアズは親族として、土地を買い戻す(贖う)責任を果たすことを受け入れたのです。ここでルツとの結婚が決まりました。

 ボアズはルツを愛するようになっていたでしょうから、土地を買い戻すことが苦でなかったでしょうが、責任を果たすことは楽なことばかりではないはずです。何しろ、自分のお金を出して、親族の土地を買うのです。私たちなら喜んでするでしょうか。「迷惑をかけないでくれ」と言って、逃げるかもしれませんね。結婚してルツを扶養することはもちろん、ナオミの扶養も引き受けるのです。「故人の名をその嗣業の土地に再興する」と言っていますから、ボアズの名が嗣業の土地に残るのではなさそうです。楽しいことよりも、面倒なことの方が多い可能性があります。ほかの男性であれば、ルツが外国人であることを嫌うかもしれません(但し、ルツは1章でナオミに、「あなたの神はわたしの神」と言っていますから、偶像崇拝をしない女性であることは間違いありません。その点は安心です)。面倒とも言えることがあるが、それでも親族として土地を買い戻す(贖う)責任を引き受ける。自分の利益よりも責任を優先する。ボアズは見上げた人ですね。若い妻マリアと幼いイエス様を支えた大工ヨセフの姿と通じるものがあるのではないでしょうか。

 後半の小見出し「人々の祝福と神の祝福」に進みます。証人となった人々がこぞって祝福します。(11~12節)「門のところにいたすべての民と長老たちは言った。『そうです、わたしたちは証人です。あなたが家に迎え入れる婦人を、どうか、主がイスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにしてくださるように。また、あなたがエフラタで富を増し、ベツレヘムで名をあげられるように。どうか、主がこの若い婦人によってあなたに子宝をお与えになり、タマルがユダのために産んだペレツの家のように、御家庭が恵まれるように。』」晴れてボアズはルツと結婚します。(13節)「ボアズはこうしてルツをめとったので、ボアズは彼女のところに入った。主が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ。」こうしてナオミと亡夫エリメレクの家が救われたのです。

 贖いは、希望の源なのです。旧約のほかの箇所でもそうです。エレミヤ書32章に、預言者エレミヤが、郷里アナトトの親族の土地を買い取る(贖う)場面があります。ルツ記よりずっと後の時代(おそらく紀元前587年)のことです。エルサレムがバビロン軍の攻撃を受けて陥落する直前のことです。土地を買い取っても(贖っても)国が滅びれば、意味はありません。ところが神様は、国が滅亡する直前のタイミングで、あえてエレミヤに親族の土地を買い取る(贖う)ことを命じられたのです。この命令には、神様のメッセージが込められていました。「この国で家、畑、ぶどう園を再び買い取る時が来る」(エレミヤ書32章15節)です。贖いは、希望と救いを意味する出来事なのです。

 ナオミが味わってきた深くて大きな悲しみを知っている女性たちが、わがことのように喜んで、ナオミに言いました。隣人たちが、このように祝福を語る様子は、心を打ちますね。(14~15節)「女たちはナオミに言った。『主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人(贖い手)を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁がその子を産んだのですから。』」 (16節)「ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てた。」 「抱き上げ」はただ愛情を表現した言葉ではなく、養子にしたという意味だと、解説書に書かれていました(月本昭男・勝村弘也訳『旧約聖書ⅩⅢ ルツ記 雅歌 コーヘレト書 哀歌 エステル記』岩波書店、19ページ)。(17節)「近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子に名前を付け、その子をオベドと名付けた。オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父である。」ナオミとルツが互いを思いやり合い、ボアズが(厄介かもしれない)責任を、文句を言わずに引き受けたお陰でオベドが生まれ、そしてオベドの孫としてイスラエルの最も重要な王・ダビデ王が誕生することになります。そしてダビデ王の子孫としてヨセフが生まれ、ヨセフがイエス様の父となってゆく。それが神様のご計画であることを、私たちは知っています。私たちが各々に託された小さな責任を忠実に果たしていくときに、神様が私たちを希望へと、一歩一歩導いて下さるに違いありません。

 ベツレヘムの女たちは、ナオミに言いました。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。」私はこれを読んで、「マリアの賛歌」に似ていると思ったのです。そこを本日の新約聖書に選びました。ルカによる福音書1章47節以下です。イエス様をみごもったマリアが、神様をたたえる歌です。
「わたしの魂は主をあがめ、/ わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
 身分の低い、この主のはしためにも/ 目を留めてくださったからです。
 今から後、いつの世の人も/ わたしを幸いな者と言うでしょう。
 力ある方が、/ わたしに偉大なことをなさいましたから。
 その御名は尊く、/ その憐れみは代々に限りなく、/ 主を畏れる者に及びます。」
これはマリアの歌ですが、ナオミとルツも同じ気持ちで、同じ神様を賛美したのではないかと思うのです。

 ルツ記全体を読んで、私はローマの信徒への手紙5章3~4節を連想致します。「苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。」「練達」を新改訳聖書は「練られた品性」と訳しています。ナオミも真に厳しい苦難を忍耐しました。その中でナオミは、練達の人・練られた品性の人になりました。ルツの幸せを願う人でした。そして神様が遂に希望を与えて下さいました。ルツも立派ですね。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく(~)内面がユダヤ人である者こそユダヤ人(~)なのです」(ローマの信徒への手紙2章28~29節)の御言葉が、ルツに当てはまります。

 私はルツ記全体を読んで、エレミヤ書29章11節をも思い出します。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」途中には災いに見えることも起こるでしょう。しかし神様の計画は、最終的に平和(シャローム)の計画であって、将来を希望を与える計画です。ナオミとルツとボアズにも希望が与えられました。もちろんナオミは、神様に祈り続けていたでしょう。イスラエルの飢饉を逃れてモアブに移住したときから数えても、少なくとも10年間祈り続けてきたのです。神様に助けを求めて。時間がかかりましたが、神様は希望を与えて助けて下さいました。神様に祈ることこそ、慰めと希望の源です。私たちも、ナオミと同じように、祈り続ける者でありたいと願います。

 私たちは希望の主イエス・キリストと共に歩んでいます。そのイエス様の励ましの言葉によって、この説教を締めくくります。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネによる福音書16章33節)。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-11-17 16:14:03(火)
「天地創造の喜び」 2015年11月15日(日) 収穫感謝日・子どもと大人の合同礼拝説教
朗読聖書:ヨブ記38章4~14節、詩編104編19~29節。
「そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い/ 神の子らは皆、喜びの声をあげた」(ヨブ記38章4~14節)。

 神様がこの世界をお造りになったことを語る聖書で一番有名なのは、もちろん創世記1章です。しかし天地創造を語る聖書の御言葉は、創世記1章だけではありまヨブ記も、神様の創造の御業を語ります。実は私にとっては、ヨブ記の方が心に迫る、ピンと来るのです。

 神様が力強くヨブにおっしゃいます。「わたしが大地を据えたとき/ お前はどこにいたのか。」「わたしが大地を据えた」と言いきっておられます。「宇宙と地球を造ったのはこの私だ」と、はっきり宣言しておられるのです。「知っていたというなら/ 理解していることを言ってみよ。」世界中の科学者が、この宇宙と地球について、一生懸命調べています。日本も探査機を宇宙に飛ばして、いろいろなデータを集めています。宇宙のことも宇宙のことも、調べ尽くせていないことはたくさんあります。人類はこれからも、全力で知識を蓄えていくでしょうが、それでも神様の偉大な知識と知恵の足元にも及ぶはずがありません。

「誰がその広がりを定めたかを知っているのか。
 誰がその上に測り縄を張ったのか。
 基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。」

 ここには、家を建てるときの言葉が出ています。この世界(地球と宇宙)を家にたとえて、神様がこの世界という家をお建てになったことが強調されています。

 「そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い/ 神の子らは皆、喜びの声をあげた。」 世界の夜明けです。神様に造られた星々がこぞって光輝き、神様を賛美したということでしょう。天地創造の喜びが感じられます。「神の子ら」も星々を指すようです。「海は二つの扉を押し開いてほとばしり/ 母の胎から溢れ出た。」海が造られた様子が、「ほとばしる」という言葉で生き生きと力強く表現されていて、すばらしいと感じます。「二つの扉」とは、ノアの洪水の場面にある「深淵の源」と「天の窓」ではないかと思います。「わたしは密雲をその着物とし、濃霧をその産着としてまとわせた。」 神様が雲と霧をお造りになったことを、文学的に語っています。

 「しかし、わたしはそれ(海)に限界を定め/ 二つの扉にかんぬきを付け/ 『ここまでは来てもよいが越えてはならない。/ 高ぶる波をここでとどめよ』と命じた。」 神様が、荒ぶる波に限界を定めておられることが分かります。神様は、荒ぶる波を抑える力をもっとおられるのです。私たちは4年半前に東北を襲った津波をテレビなどで見ました。津波のエネルギーは、大きなエネルギーです。人の力で止めることができません。それを見せつけられました。ですが神様の力は、もちろん津波をも抑えることができる偉大な力です。

 (14節)「大地は粘土に型を押していくように姿を変え」とあります。これが何を言っているのか、よく分かりませんが、私は(想像が過ぎるかもしれませんが)大陸移動説などを思い出しました。地震によって地形が変わったり、海底火山の噴火によって島ができたりすることは、昔のイスラエルの人も知っていたでしょう。大地は変動しています。地殻の下にあるプレートという部分が動くことによって、地球表面が隆起したり沈んだりするようです。このプレートテクトニクス学説は、1960年代に広く認められるようになったそうで、もちろん今も調査・研究が進められています。「大地は粘土に型を押していくように姿を変え」という御言葉を読んで、私は今のようなことを連想します。
 
 詩編104編をも見ましょう。(24節)「主よ、御業はいかにおびただしいことか。/ あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。/ 地はお造りになったものに満ちている。」 私は先日、西武池袋線・大泉学園駅南口から近い、牧野(富太郎博士)記念庭園に行って来ました。それほど巨大な所ではありません。近いので一度見ておこうと思ったのです。牧野富太郎博士は、1862年に高知県佐川村に誕生され、1957年に亡くなった有名な植物学者です。最後の30年間を大泉で過ごされたそうです(展示を拝見する限りでは、クリスチャンではないように感じました)。94年間の一生を植物の研究に献げ、日本や台湾、朝鮮半島の植物を調べられたそうです。それまで知られていなかった植物を発見し、学名を与えて発表したそうです。その数1500種類以上だそうです。それまで知られていなかったと言っても、神様はそれらの植物をもお造りになって生かして来られたのですから、人間がその存在をほかの種類と見分けて認識していなかっただけです。それでも1500以上ものいわゆる新種を見出したことは、徹底的な調査と観察の賜物です。植物学の偉大な学者です。しかし地球上の植物は30万種類あるそうです。神様の創造の業の偉大さと細かさは、驚嘆すべきものです。「地はお造りになったものに満ちている。」30万種類に比べれば1500種類は、200分の1です。200分の1を発見した牧野博士も本当によくなさいましたが、神様がはるかに偉大であることは明らかです。

 旧約聖書の列王記上5章13節には、ソロモン王の知恵について、「彼が樹木について論じれば、レバノン杉から石垣に生えるヒソプにまで及んだ。彼はまた、獣類、鳥類、爬虫類、魚類についても論じた」と書かれています。その意味で、ソロモン王は科学者でもありました。聖書が自然界について書いていることと、科学の素直な研究結果は、最終的に一致するはずと思います。科学者が自然界を謙虚に調べれば調べるほど、神様の創造の偉大な業を明らかにすることになり、神様の栄光になるのだと思います。

 ヨブ記38章にも海が出て来ましたが、詩編104編25節にも海のことが出ています。 「海の大きく豊かで/ その中を動きまわる大小の生き物は数知れない。」地球の表面の70%が青々とした海です。宇宙の誕生がいつなのか、図鑑には100億年前、137億年前、170~150億年前という3つの考えが出ていました。科学者の考えでは、太陽系の誕生が約46億年前で、地球の誕生は約46億年ないし45億年前であるそうです。海の誕生は約40億年前と推定されています。最初の生命は海で誕生したと考えられています。もちろん神様が生命をお造りになったのですが、その最初の場は海であったようです。地球の歴史においてカンブリア紀という時期があったそうです。この時期に三葉虫をはじめ多くの無脊椎動物が爆発的に増えたそうです。これを「カンブリア爆発」と呼ぶそうです。中国の雲南省やカナダのロッキー山脈からこの時期の化石が多く発見され、その頃、海の生き物が大繁栄していたことが分かるそうです。この夏、上野の国立科学博物館で「生命大躍進」という特別展が行われていたので、私も行って見て来ました。海の生き物の化石がいくつも展示されていました。今も海には多くの生き物が住んでいますね。25節に、「海も大きく豊かで/ その中を動き回る大小の生き物は数知れない」とある通りです。

 16世紀から17世紀にかけて生きたドイツの天文学者にケプラーという人がいます。そして17世紀から18世紀に生きたイギリスの科学者に、あの万有引力を発見したニュートンがいます。ケプラーやニュートンは、自然界を「第二の聖書」のように考えて、研究に励んだようです(渡辺正雄『科学者とキリスト教 ガリレイから現代まで』講談社、1987年による)。もちろん神様を本当に深く知るためには、聖書を読み祈ることが大切です。彼らがなぜ自然界を「第二の聖書」と考えたかと言うと、宇宙などの自然界を研究すればするほど、神様の天地創造の御業のすばらしさを解明することになると考えたからです。もちろん自然界を深く研究しても、イエス様の十字架の死が私たちの罪を身代わりに背負うための死であったことを、知ることはできません。ですから、自然界が完全な聖書なのではありません。しかし神様の創造の御業のすばらしさを示している点では、確かに自然界は「第二の聖書」と呼び得る一面をもっていると思うのです。

 詩編19編2節に、次のように書かれています。「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。」ここの天と大空は宇宙と自然界を指すと言えます。「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。」宇宙と自然界は、神様の創造の御業のすばらしさを示しているということです。ケプラーやニュートンは、神の栄光のために、神に栄光を帰するために、自然界の研究に励んだのです。ただニュートンについての一つの問題は、彼は熱心に聖書を研究していたけれども、神様が三位一体の神様であることを信じていなかったそうです。その意味でニュートンは、正統的なキリスト信仰の人ではありませんでした。この問題がありますが、ニュートンが一生懸命聖書を研究したことは確かで、自然界を研究することで、神様の創造の御業のすばらしさを解明することができると考えた点は、間違っていないと思うのです。

 長崎で原爆の被害を受けられた永井隆博士というドクターは、被爆なさる前に、腎臓や膀胱にできる尿石の研究をなさったそうです。弟子たちと次のような会話をなさったそうです。
弟子「尿石の第四十号のラウエ斑点はきれいですね、先生。」
永井博士「きれいだね。単結晶のかなり大きいのができているんだ。」
弟子「あんな美しい結晶配列を見ると、何か神秘的な感じに打たれます。尿石といったら、何の役にも立たない石です。その石の中にさえ、あんな整然とした結晶配列がある。実に宇宙というものは、隅から隅まで、こまやかな秩序がゆきわたっているものだなあ!」(片山はるひ『永井 隆 原爆の荒野から世界に「平和を」』日本キリスト教団出版局、2015年、52ページ)。

 そしてこう語られたそうです。「科学は真理に恋することさ! それで科学の道を選んだんだ。でも、進めば進むほど、科学では真理に近づくことはできても、真理そのものをつかまえることはできないことを知ったよ。~神は真理だよ。科学の力では、真理をつかまえることはできない。でも、神のみ業を見ることはできるよ。全知全能の神がこの宇宙を司っている。その美しい秩序、正しい法則、そんなものを見せてもらうことができるんだ。それだけでも、たいへんな幸福じゃないか」(同書、53~54ページ)。 

 この宇宙と地球を造られ、私たち一人一人の命を造って下さった神様の愛から出た創造の御業を感謝し、ご一緒に神様のご栄光を賛美しつつ、今週も神様と隣人にお仕えして参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。