日本キリスト教団 東久留米教会

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2015-11-02 19:30:02(月)
「本当に生きるために」 10月の聖書メッセージ 石田真一郎
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(新約聖書・マタイによる福音書4章4節。)

 パン(食物)がないと生きられませんが、神の言葉(聖書の言葉=心のパン)で生き方を学ぶことが、さらに大切です。旧約聖書の箴言(しんげん)に「肥えた牛を食べて憎み合うよりは、青菜の食事で愛し合う方がよい」という、すばらしい言葉があります(15章17節)。家庭でも世界レベルでも実行したいですね。 神の子イエス・キリストは言われます。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」(マタイ福音書22章37~39節)。

 私は、黒澤明監督の映画『生きる』のDVDを見ました(白黒の名作。発売元:東宝株式会社)。往年の個性派名優・志村喬(たかし)が演じる、渡辺さんという市役所の市民課長が主人公です。彼は30年間無欠勤ですが、意欲を失っています。彼が、病気で命が限られていることを悟ります。それまで役所仕事に徹して、子どもたちの小さな公園を作ってほしいという主婦の人たちの陳情をも、「管轄外」とたらい回しにしました。しかし今、本当に「生きたい」という意欲が湧き上がります。でも何をすべきか、悩みます。「はっ」と気づきます。「遅くない。わずかでもやればできる。ただやる気になれば。」その瞬間、知らぬ女性の誕生会が行われていて、「ハッピーバースデイ」の大合唱が起こります。渡辺さんが本当の意味で生きる情熱を取り戻し、新しく生まれたことを示す名シーンです。

 彼は市役所に復帰し、パワーがないのに公園作りに邁進します。「市民課が主体になる。土木課も公園課も下水課も動いてもらわんと。これから現地調査に行く。」粘りに粘って不器用に進めます。できた公園で、雪の夜に一人ブランコを漕ぎ、楽しそうに小さく歌いながら亡くなります。公園を作ってもらった主婦の人たちがお通夜に来て、心からの涙を流します。昼間の公園で、何も知らない多くの子どもたちが、楽しそうに遊ぶ場面で終わります。本当に生きるとは人のために生きること、のメッセージが伝わります。イエス様の心と通じます。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-11-02 19:24:37(月)
「剣を取る者は皆、剣で滅びる」 9月の聖書メッセージ  石田真一郎
「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」
(イエス・キリストの言葉。新約聖書・マタイによる福音書26章52節) 

 私は、日本とアジアと世界の平和をこそ、求めたいのです。東久留米教会で、8月に93歳の婦人が天に召されました。広島県出身の方で、1945年8月6日に、原爆のきのこ雲を目撃された方です。私はその話を今後も語り伝えてゆきます。

 渡部良三さんという無教会主義のクリスチャンの『歌集 小さな抵抗― 殺戮を拒んだ日本兵』(岩波現代文庫、2012年)という本があります。ぜひお読み下さい。渡部さんは21、2才の頃、中国の河北省に駐屯する部隊に配属され、上官から同僚の兵と共に中国人捕虜を銃剣で刺殺することを命じられます。捕虜虐待で国際法違反です。渡部さんは動揺しましたが、聖書の十戒の「殺してはならない」(出エジプト記20章13節)という神の言葉に従う決心をし、刺殺命令を独り拒んだのです。そのため軍隊でひどいリンチを受け続けましたが、ひたすら耐えて、敗戦後に帰国できました。

 渡部さんは、ひそかに多くの歌を詠まれました。一首を、ご紹介します。
「殺すなかれ そのみおしえを しかと踏み 御旨に寄らむ 惑うことなく」(前掲書19ページ)。 「『殺してはならない』との神の教えを固く守り、迷うことなく神の意志に従って行こう」の意味です。渡部さんの純真な信仰に感銘を受けます。

 1945年に初年兵として中国の別の場所にいたTさんは、上官の命令を受け、心ならずも中国人捕虜を銃剣で突いたそうです。「善悪も何も、考える余裕がなくなる。体験者にしか分からないが、それが軍隊」と語られます(2014年8月の新聞から)。これが戦争の実態でしょうから、何としても平和を守る必要があります。

 神の子イエス様は、言われました。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(新約聖書・マタイによる福音書5章9節)、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(同5章44節)、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(同26章52節)。私は、今年8月15日(70回目の敗戦記念日)の朝、千鳥ヶ淵戦没者墓苑(千代田区)で行われた「キリスト者平和祈祷会」に参加し、約200名と共に平和を願う祈りを致しました。もちろん核兵器廃絶をも、祈り求めてゆきたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。   

2015-11-02 19:09:36(月)
「将来の希望」 2015年11月2日(日) 聖徒の日(召天者記念日)・東久留米教会創立54周年記念日礼拝説教
朗読聖書:エレミヤ書29章10~14節、ローマ書8章18~30節。
「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」(ローマ書8章18節)。

 私たちの地上の命はいつか終わります。しかし、神様は永遠に生きるお方です。この神様につながるならば、私たちにも死を超えた永遠の命の希望が与えられます。ローマの信徒への手紙を書いた人は、イエス・キリストの弟子の一人パウロです。パウロはイエス様の十二弟子の一人ではありませんが、イエス様の十字架の死と復活の後にイエス様に出会い、弟子となった人です。パウロは、この手紙によって、今も私たちを励ましてくれます。(最初の18節)「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」今ご自分が特に苦しみの中にはない方もあるでしょうが、何らかの苦しみを覚えている方もおられるでしょう。何の苦しみもない人生はありません。パウロは、確信をもって書きます。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない。」神様は、将来私たちに栄光(完全な救い)を与えると約束しておられます。イエス・キリストを救い主と信じる人は、今既に永遠の命を得ていますが、将来、神の国が来る時に、復活の体をも与えて下さるというのが、神様の約束です。復活の体は栄光の体、イエス・キリストの復活の体と同じ体です。今の苦しみが大きいとしても、将来、復活の体を受けるときの祝福は、今の苦しみを完全に忘れさせて下さるほどの、完全な祝福だと書いているのです。パウロは、救い主イエス・キリストをひたすら宣べ伝えたために、私たちであれば耐えられないほどの迫害と苦難を受けました。その中で、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」と、信仰と希望をもって断言するのです。

 先のことを日本語で「未来」あるいは「将来」と呼びます。キリスト教信仰の上では、未来よりも将来という言葉を用いる方がよいと聞いたことがあります。未来は、「未だ来らず」と書きます。やや消極的な言葉です。将来は、「まさに来るべし」と書きます。確信と希望を感じさせる言葉です。神様は必ず神の国を完成させて下さるのですから、その時を「未来」と呼ぶより、「将来」と呼ぶ方が、ずっとふさわしいのです。

 (19節)「被造物(神様がお造りになった自然界、この世界のすべてのもの、人も含まれる)は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」「神の子たち」とは、イエス・キリストを救い主と信じて永遠の命を与えられ、神の子となる光栄を与えられた者たちです。その神の子たちが復活の体を与えられるときが、「神の子たちの現れる」ときでしょう。(20節)「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。」「被造物は虚無に服している」とパウロは書きます。なぜ虚無に服しているのか。それは人間が神様に背いて罪を犯したからです。旧約聖書の創世記3章において、最初の人類(人間の原型)エバとアダムは、神様に「決して食べてはいけない」と命じられていた善悪の知識の木の実を、食べてしまいました。こうして神様に罪を犯した結果、エバとアダムは祝福に満ちたエデンの園から追放されてしまいました。虚無に落ち込んだのです。これが私たち人間の姿です。そして神様は、アダムに言われました。「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に。」アダムの罪のゆえに土は呪われるものとなった、と書いてあります。人の罪のために、人だけでなく自然界も虚無に落ち込んだのです。

 人の虚無とは何でしょうか。死があることだと思うのです。私たちは一度は考えたことがあるのではないでしょうか。「努力して成果を上げ続けたとしても、いずれ自分も死ぬ。ならば努力してもむなしい、意味がないではないか。」もちろん限られた人生を懸命に生きることには大きな意義があります。しかし、その先に死があることも事実です。死こそ最大の虚無です。自然界も虚無に服しているのではないでしょうか。神様がお造りになった最初の世界・エデンの園には完全は祝福と調和があり、動物、獣もいましたが、弱肉強食はなく、完全に平和に暮らしていました。しかし今の自然界はそうではありません。秋は、私たちが自然界の美しさを堪能する季節です。しかしよく見ると自然界は、残酷な世界でもあります。肉食動物が草食動物を襲って食べます。蜘蛛は巣を張って、ほかの虫を捕らえて食べます。食虫植物といって、虫を捕らえて栄養にする植物もあります。地震、津波、火山の噴火があり、人や動物が死にます。太陽にも寿命があるそうですから、地球にも寿命があります。これは虚無だと思うのです。
 
 神がおられなければ、私たちに真の希望はないのです。しかし幸いなことに神様がおられ、私たち被造物を虚無から救って下さるのです。「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。」服従させた方とは、神様です。「同時に希望もある」とは、どのような希望でしょうか。(21節)「つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」神様の愛の力で将来、被造物全体が栄光に輝く自由をいただく、完全に新しくされるという約束です。聖書の他の箇所の表現を借りれば、神様が新しい天と新しい地をもたらして下さるという約束です。このような希望があります。

 (22節)「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」パウロには、被造物が苦しんでうめいていることが、心の耳に聞こえたのです。被造物全体が、自然界全体が、生きとし生けるもの全体が、滅びへの恐れを感じて、苦しんでうめいているのが聞こえました。たとえば私たち人間が環境を破壊するとき、自然界が悲鳴を上げていることは、大いにあり得ることだと思います。(23節)「被造物だけでなく、『霊』(聖霊)の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」クリスチャンは、イエス・キリストを救い主と信じたときから、聖霊(神様の清き霊)をいただきました。ここでそれを「『霊』の初穂」と呼んでいます。私たちがいただいている聖霊は、私たちが将来、復活の体・完全は救いをいただくことの保証です。「神の子とされること、つまり体の贖われること」と、あります。クリスチャンは、今既に聖霊を受け、神の子とされていますが、完全に神の子とされるのは、イエス様が地上にもう一度おいでになる将来のことです。そのときに体も贖われます。それはイエス様と同じ復活の体をいただくことです。今は人生の様々な苦しみに耐えながら、心の中でうめきながら、それを待ち望んでいるのです。今は完全な救いを受ける途上にあります。

 (24節)「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。」私たちの救い・被造物の救いは、まだ完成していません。完成への途上にあります。しかし神の国を完成させ、イエス・キリストを信じる私たち一人一人に復活の体を与えて下さることは、神様の確かな約束です。神様の約束を与えられている私たちは、約束の実現を楽しみに待つ希望をもっています。現実はまだ苦しいかもしれない。しかし将来必ず復活の体をいただくことができる。神様による確かな希望があります。キリスト教は神様の約束の宗教であり、希望の宗教です。

 (24節後半~25節)「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」 私たちは、今はまだ復活の体をいただいていないので、約束の実現を見ていません。「見えるものに対する希望は希望ではありません。」見ているものは、既に得ているものであり、それを待ち望む必要はありません。私たちは、まだ得ていない(見ていない)復活の体を待ち望んでいるので、今の苦しみを忍耐しながら、希望の実現を待つ状態にあります。日曜日ごとに、希望の主である神様を礼拝しながら、待ち望み続けています。「忍耐して待ち望む」と書いてあります。忍耐は忍耐に終わりません。忍耐は待ち望むことにつながり、希望の実現に至ります。神様を信じる人の忍耐は、希望に向かう忍耐、必ず希望に至る忍耐です。ですから忍耐しがいがあります。希望は、逆境の時にこそ必要です。私たちは皆、虚無・死という逆境を体験しなければなりません。その私たちに、神様は永遠の命の希望を与えておられます。感謝です。

 本日の旧約聖書は、エレミヤ書29章10節以下です。これは預言者(神様の言葉を預かって語る人)エレミヤが、バビロンに捕囚として連れ去られた仲間のイスラエルの人々に書いた手紙の一部です。イスラエル人は神様の民ですが、神様に罪を犯し続けたために、バビロンに捕囚として連れ去られてしまいました。バビロン捕囚は、何回にかに分けて起こった出来事です。エレミヤがこの手紙を書いたのは、紀元前594年頃と言われます。エレミヤは安易な救いは語りません。エレミヤは捕囚が70年間続くと述べます。70年間は長いですね。人の一生前後の長さです。太平洋戦争が終わって今年で丸70年です。しかし捕囚は、永久に続くのではありません。70年経てば終わるのです。70年経てば、必ず祖国イスラエルに帰還することができる、神様が帰還させて下さると、エレミヤは希望の言葉を語ります。偽預言者のハナンヤという人がいて、ハナンヤは、人々に耳触りのよいことを語りました。2年後に捕囚は終わると言ったのです。しかしそれは神様の意志に逆らう言葉でした。偽預言者ハナンヤは、死にました。神様に撃たれたようです。私たちなら、ハナンヤを偽預言者と見破ることができたでしょうか。

 真の預言者エレミヤは、安易なことは語りませんでした。捕囚は70年間続くから、覚悟せよと言ったのです。しかし永久ではなく、70年で終わるのです。10~11節は、慰めと希望の言葉です。「主はこう言われる。バビロンに70年の時が満ちたなら、わたし(神様)はあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」 神様は愛の方であると同時に、聖なる正しい方ですから、私たちを清めるために私たちを鍛錬なさり、安易な救いを与えて下さらないこともあります。神様は私たちの真の益を考えて、愛の鞭をふるって私たちを鍛錬なさることがあります。しかし神様は、私たちを最終的に平和に導く計画をもっておられます。バビロン捕囚は長いけれども、必ず終わるのです。エレミヤは70年間続くと言いましたが、結果的に56年ほどで終わったようです。この短縮は、神様の憐れみによると思います。

 エレミヤは12~13節で書きます。「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。」「そのとき」は、イスラエルの地に連れ帰られるときかもしれませんが、しかしいつでもとも言えます。私たちが、心を低くし、心を尽くして神様に祈り求めるならば、神様は御自分を現して下さいます。聖書によって、あるいは祈りに応えて下さることによって、あるいはほかの信仰者を通して、神様はご自分のことを教えて下さいます。解放の約束の言葉が続きます。「わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め。かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ帰る、と主は言われる。」試練を経て、必ず平和(シャローム)に至る計画、希望の計画です。

 ローマの信徒への手紙8章28節に、こう書かれています。「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」この「ご計画」も、「平和の計画」に違いありません。パウロの言葉とエレミヤの言葉が、響き合います。

 先月の礼拝の「招詞」にも、「希望」の言葉がありました。ペトロの手紙(一)3章15節です。「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」この希望は、イエス様の十字架の死と復活により、信じる者が全ての罪の赦しと永遠の命を受ける希望です。私たちの信仰の中心です。この希望について、クリスチャンでない方が「どのような希望か、説明してほしい」と質問されたら、いつでも答えることができるように、日頃から祈って準備しておきなさい、ということです。私たちは、いつでも答えられるように、怠りなく準備しておきましょう。

 本日は聖徒の日(召天者記念日)です。当教会にAさん(仮名)という方がおられました。「私が亡くなったら、悲しまないで、私が喜んで天に駆け上がって行ったと思ってほしい」と語っておられました。そうなるという希望の信仰を持っておられたのですね。そしてイザヤ書40章30~31節を読まれた記憶があります。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが/ 主に望みをおく人は新たな力を得/ 鷲のように翼を張って上る。/ 走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」 「主に望みをおく人は新たな力を得る。」希望の源である神様にしっかりつながり、復活の体をいただくときに向かって、使命を果たしつつ、共に歩みたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-10-26 18:00:25(月)
「責任を引き受けるボアズ ルツ記③」 2015年10月25日(日) 降誕前第9主日礼拝説教
朗読聖書:ルツ記3章1~18節、ガラテヤの信徒への手紙3章10~14節。
「しかし、それを好まないなら、主は生きておられる、わたしが責任を果たします」(ルツ記3章13節)。

 ルツ記を読む3回目です。ルツという名前の意味は「潤し」ではないかと言われます。姑のナオミの名は、「快い」という意味です(1章)。ルツはナオミの息子マフロンの妻です。ナオミと夫、二人の息子たちは、イスラエルを襲った飢饉を逃れて死海の東側にある外国モアブに移住しました。二人の息子たちはモアブの女性と結婚しました。マフロンはルツと結婚したのです。ルツはイスラエル人ではなく、モアブ人です。イスラエル人から見れば外国人です。この一家を悲劇が襲います。ナオミの夫エリメレクと、ナオミの息子でルツの夫のマフロン、ナオミのもう一人の息子キルヨン、この3人が亡くなったのです。十年の間にこのことが起こりました。ナオミは愛する家族3人を亡くしましたし、ルツは夫と義理の父親と義理の兄弟を失いました。そしてナオミの夫エリメレクの家が絶える危機を迎えたのです。昔の日本に似て、当時のイスラエルは男性中心の社会であり、家の名を残すことが最優先事でした。家の名を継ぐのは男性でなければなりませんでした。ナオミの家では男性3人が亡くなり、まさに家の名が絶える危機を迎えていました。イスラエルの各家には、神様から与えられて子孫に相続されてゆく土地がありました。「嗣業の土地」と言います。嗣業の土地を受け継ぐ男性がいないという事態になってしまったのです。ナオミの家は、滅びのピンチに立たされました。

 嗣業は、聖書の独特の言葉です。新共同訳聖書巻末の用語解説の29ページに、「嗣業」の説明があります。「本来は『賜物』を意味し、資産、相続財産、特に相続地を指す。神はカナンの地をアブラハムとその子孫に与えると約束し、それを果たしたので、土地は個人の所有物ではなく、神の所有地として家に属するものとなった。こうしてイスラエルでは、相続やその確保について詳しい規定が設けられた。嗣業の概念は更に発展して、イスラエルの民自身が『神の嗣業』として神のものとなり(申命記32:9)、一方、神御自身がその民の嗣業(ゆずり)となると考えられるようになった。新約では、地上の事物ではなく、『神の国そのものを受け継ぐ』ことが、神の最大の祝福と見なされている。」 旧約の時代は、神様からいただいた相続の地を、代々男性が受け継ぐことが極めて重要でした。ナオミの家は、それができない危機に瀕しました。

 しかし神様は、ナオミたちをお見捨てになりません。ルツ記には、神様が直接登場なさる場面はほぼなく、神様が直接発言なさる場面も一回もありません。しかし目に見えなくとも、神様はナオミたちと共におられます。神様がナオミたちを、少しずつ救いの方向に導いておられます。ナオミとルツは、モアブからイスラエルのベツレヘムに戻ります。二人には食べていく術がありません。そこで若いルツが落ち穂拾いに出かけます。ほとんど乞食に近い生活、落ち穂拾いができるお陰で、何とか餓死を免れる生活だったと思われます。落ち穂については、レビ記19章9節以下に次のように記されています。「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。」これは、神様が貧しい人や、生活に困っている外国人のために定めて下さった律法・掟です。私たちは律法と聞くと、堅苦しい決まりごとと受けとめるかもしれませんが、律法は、慈愛に満ちた神様の正義の掟でもあることが分かります。

 (1~2節)「しゅうとめのナオミが言った。『わたしの娘よ、わたしはあなたが幸せになる落ち着き先を探して来ました。あなたが一緒に働いてきた女たちの雇い主ボアズはわたしたちの親戚です。あの人は今晩、麦打ち場で大麦をふるい分けるそうです。』」ナオミは嫁ルツの幸せを願って動いており、ルツは姑と自分の生活のために働いています。お互いに心を配り合っている麗しい人間関係があります。ルツが落ち穂を拾いに行った畑の主人ボアズは、何とナオミの親戚でした。信仰がなければ偶然と思うかもしれませんが、ナオミも私たちもここに神様の愛の導きを見ます。ナオミは、自分に尽くしてくれるルツの幸せを願い、ボアズのもとに行くように勧めます。ナオミはボアズの今晩の行動予定を、誰かに聞いて確かめて来たと思われます。そしてルツにアドヴァイスします。(3~4節)「体を洗って香油を塗り、肩掛けを羽織って麦打ち場に下って行きなさい。ただあの人が食事を済ませ、飲み終わるまでは気づかれないようにしなさい。あの人が休むとき、その場所を見届けておいて、後でそばへ行き、あの人の衣の裾で身を覆って横になりなさい。その後すべきことは、あの人が教えてくれるでしょう。」相当大胆なアドヴァイスですね。ルツは素直に(と言うべきでしょう)、その通りに行動します。

 (7~9節)「ボアズは食事をし、飲み終わると心地よくなって、山と積まれた麦束の端に身を横たえた。ルツは忍び寄り、彼の衣の裾で身を覆って横になった。夜半になってボアズは寒気がし、手探りで覆いを捜した。見ると、一人の女が足もとに寝ていた。『お前は誰だ』とボアズが言うと、ルツは答えた。『わたしは、あなたのはしためのルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。』」これは個人的な恋愛ではなく、神の家族の一つであるナオミの家を絶やさないためのことです。

 ルツは、「あなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください」と大胆に言いました。裾というヘブライ語は、翼と訳すこともできるそうです。ボアズは2章12節でルツに、「イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように」との言葉をかけました。神様を鳥にたとえて、神様がその民を翼の陰で保護して下さるという表現は、詩編などにも見られますね。ルツはこのボアズの言葉を覚えていたのかもしれません。ボアズは神様ではありませんが、「あなたの衣の裾・翼を広げて、このはしためを覆ってください」と言ったのです。「家を絶やさぬ責任のある方」はヘブライ語で「ゴーエール」であり、直訳すると「贖い手」です(月本昭男・勝村弘也訳『旧約聖書ⅩⅢ ルツ記 雅歌 コーヘレト書 哀歌 エステル記』岩波書店、1998年、13ページ)。「贖い手」は、当時のユダヤは、父親中心・夫中心の社会です。父や夫がいないと、生活の糧を得ることが極めて難しかったようです。従って、男性の大黒柱を得ることが何としても必要なのが現実でした。

 「贖い」という聖書の重要な言葉が出て来ました。再び新共同訳聖書の巻末の用語解説を見ます。「贖い」について、「旧約では、1.人手に渡った近親者の財産や土地(嗣業の土地)を買い戻すこと」とあり、ルツ記のケースはほぼこれに当たります。(少し飛ばして)「旧約聖書の中で神が特に『贖う方』(イザヤ書41章14節)とあるのは、イスラエルの民を奴隷状態から解放する神の働きを述べたものである。新約では、キリストの死によって、人間の罪が赦され、神との正しい関係に入ることを指す」と書かれています。「神との正しい関係に入る」とは、「神との和解の関係に入る」ことです。

 「贖い」が旧約聖書でも新約聖書でも、非常に重要な意味をもつことが分かります。「贖い」とは「人手に渡った近親者の財産や土地(嗣業の土地)を買い戻すことだと書いてありましたが、レビ記25章23節以下に、次のように書かれています。「土地を売らねばならないときにも、土地を買い戻す権利を放棄してはならない。土地はわたし(神)のものであり、あなたたちはわたしの土地に寄留する者にすぎない。あなたたちの所有地においてはどこでも、土地を買い戻す権利を認めねばならない。もし同胞の一人が貧しくなったため、自分の所有地の一部を売ったならば、それを買い戻す義務を負う親戚が来て、売った土地を買い戻さねばならない。~(本人に)買い戻す力がないならば、それはヨベルの年(50年ごとの解放の年)まで、買った人の手にあるが、ヨベルの年には手放されるので、その人は自分の所有地の返却を受けることができる。」ルツ記4章4節を見ると、ナオミは亡夫エリメレクの所有する畑地を手放そうと(失おうと)していました。それを「贖う=買い戻す」責任をもつ親戚の一人が、ボアズだったのです。そのことをルツは語りました。「あなたは贖い手のお一人なのですから。」これは、「家を絶やさぬために私と結婚して下さい」という意味かもしれません。

 ルツ記3章10節。「ボアズは言った。『わたしの娘よ。どうかあなたに主の祝福があるように。あなたは、若者なら、富のあるなしにかかわらず追いかけるというようなことをしなかった。今あなたが示した真心は、今までの真心よりまさっています。』」 この「真心」はヘブライ語で「ヘセド」という非常に重要な言葉です。ヘセドという言葉は旧約聖書に252回も登場するそうです。日本語では「慈しみ」、「愛」、「憐れみ」、「真実」、「誠実」、「敬虔」などと訳され、英語ではmercy と訳されることが多いようです。ヘセドは神様のご性質を表す重要な言葉ですが、ここで「真心」と訳されてルツについて用いられているように、人間に用いられることもあります。調べてみると、ヘセドは契約と深く関わる言葉だと分かりました。聖書では契約も非常に重要ですね。旧約聖書・新約聖書の約は契約のことです。ヘセドは、契約に従って誓約(誓い)を守る、約束を守る、義務と責任を果たす、忠誠を尽くす、という意味を持つそうです。ルツはボアズに言います。「今あなたが示した真心(ヘセド)は、今までの真心よりまさっています。」「今までの真心」は、ルツが自分の夫の死後、ナオミのもとを去って故郷のモアブで再婚してもよかったのに、その道を犠牲にして、老いてゆくナオミ見捨てず、ナオミを支えて生きる決心をしたことを指すようです。ルツはある意味で、進んで喜んで十字架を背負ったのです。「今示した真心」は、ナオミの夫の家の贖い手と再婚することを求めていること、ナオミの夫の家を絶やさぬためにボアズのもとに大胆に来ていること、を指すようです。ルツの年齢は分かりませんが、25~30歳くらいでしょうか。ボアズの年齢も分かりませんが若者ではなく、40~45歳くらいでしょうか。年齢差は小さくないと思われます。ルツがもっと若い男性との再婚を望んでも不思議ではないのに、ナオミの夫の家を絶やさぬためのボアズとの再婚に進もうとしています。

 ボアズは、ルツの真心(ヘセド)に心を打たれ、自分の贖い手としての責任を自覚します。単純な恋愛ではありませんが、ルツに心を魅かれたことも事実でしょう。ボアズは語ります。(11~13節)「わたしの娘よ、心配しなくていい。きっと、あなたが言うとおりにします(結婚を受け入れます、との意味でしょうか)。この町のおもだった人は皆、あなたが立派な婦人であることをよく知っている。確かにわたしも家を絶やさぬ責任のある人間ですが、実はわたし以上にその責任のある人がいる。今夜はここで過ごしなさい。明日の朝その人がその責任を果たすというのならそうさせよう。しかし、それを好まないなら、主は生きておられる。わたしが責任を果たします。さあ、朝まで休みなさい。」「主は生きておられる」は、誓いをするときの定まった言い方です。「神様に誓って言います」という意味でしょう。ボアズの「わたしが責任を果たします」の言葉から、本日の説教題を「責任を引き受けるボアズ」と致しました。

 「わたしが責任を果たします」を丁寧に訳すと、「このわたしがあなたを贖いましょう」(前掲書、14ページ)になるようです。「あなたを贖う」とは、あなたと結婚しましょう、ということでしょう。それで3章の小見出しが、「婚約」となっているのだと思います。ルツは大胆にも夜明けまでボアズの足元で休みます。そして暗いうちに起きて、ナオミのもとに帰ります。人に見られないうちに帰る方がよいとのボアズの判断によります。噂になり、スキャンダルになることは避けることが賢明です。ボアズは分別のある大人の男性、判断に間違いがなく、頼りがいのある成熟した男性です。ボアズはルツとナオミに思いやりを示します。ルツに大麦を六杯背負わせて帰すのです。(16~18節)「ルツがしゅうとめのところへ帰ると、ナオミは、『娘よ、どうでしたか』と尋ねた。ルツはボアズがしてくれたことをもれなく伝えてから、『この六杯の大麦は、あなたのしゅうとめのところへ手ぶら帰すわけにはいかないとおっしゃって、あの方がくださったのです』と言うと、ナオミは言った。『わたしの娘よ、成り行きがはっきりするまでじっとしていなさい。あの人は、今日中に決着がつかなければ、落ち着かないでしょう。』」 ナオミは1章21節で、「主はうつろにして帰らせた」と嘆きました。しかし今ボアズがルツに「あなたのしゅうとめのところへ手ぶらで帰すわけにはいかない」と言い、「うつろ」から「恵み」への逆転が起こっています。目に見えない神様の愛です。

 ナオミは、「神様、もし御心に適うのでしたら、このことが進みますように」と祈りながら、ルツの帰りを待っていたに違いありません。こうして3章でストーリーは、一気に展開します。決着は、4章を待たなければなりません。

 もう一度、「贖い」に注目しますと、出エジプト記6章6節を見ると、ファラオの下で奴隷としてこき使われていたイスラエルの民のために、神様がモーセにこう言われます。「わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。」ここでは、神様がエジプトから脱出させて下さる救いを、贖いと呼んでいます。この場合、神様を最も親しい親族のような存在ととらえていると言えます。

 真の「贖い主」を切実に求めた人がいます。ヨブです。ヨブは語りました。「わたしを贖う方は生きておられ/ ついには塵の上に立たれるであろう。」この言葉は、イエス・キリストの誕生、十字架と復活によって成就したのではないでしょうか。

 本日の新約聖書は、ガラテヤの信徒への手紙3章9節以下です。ここでは、イエス・キリストが十字架で死んで下さることで、私たち全人類の罪が解決されたことを「贖い」と呼んでいます。ボアズはナオミの家にとって一種の救い主でしたが、イエス・キリストは私たち皆の贖い手、贖い主、救い主です。(10~11節)「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』と(申命記27章26節)に書いてあるからです。律法によっては、だれも神の御前で義とされないことは、明らかです。」モーセの十戒に代表される律法を守ることで、神様の前に正しい者と認められるためには、律法を一生100%守りきる必要があります。99%でも不合格です。律法は、神様の聖なるご意志を示すよきものです。しかし私たちに律法を100%守る力がないために、結果的に律法は私たちにとって裁き・絶望・呪いとなってしまうのです。

 しかし13節が、「贖い」という言葉を用いて、私たちに救いを語ってくれます。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と(申命記21章23節に)書いてあるからです。」「木」とはこの場合、十字架です。イエス・キリストは、私たちの身代わりに十字架で死なれ、全ての呪いを一身に引き受けて下さいました。私たちが自分の罪のゆえに、神様から受けるべき裁き(呪い)を、イエス様が十字架で全部引き受けて下さったのです。このことを新約聖書は「贖い」と呼ぶのですね。最高の救いのことです。イエス様の十字架の死による贖いこそ、私たちの全ての罪を赦す究極の贖いです。

 ルツとボアズが結婚して、オベドという男の子が生まれます。オベドがダビデ王の祖父になります。ルツはダビデ王のひいおばあさん、ボアズはひいおじいさんです。ダビデの子孫からイエス様の父ヨセフが生れます。ヨセフの妻マリアが処女妊娠でイエス様を生みます。ある意味で、ルツがナオミと共に生きる愛(ヘセド)の決断をしたからこそ、救い主イエス様までの子孫がつながり、イエス様を救い主と信じて私たちが罪の赦しを受けたとも言えます。ボアズが責任を引き受ける決断をしたからこそ、イエス様までの子孫がつながり、イエス様を救い主と信じて私たちが永遠の命をいただいたとも言えます。もちろんルツやボアズが別の生き方をしてしまったならば、神様は別の仕方でイエス様を誕生させて下さったでしょう。しかしルツとボアズの愛と責任に満ちた決断は、神様が救い主を誕生させるご計画を前進させるプラスの結果を生みました。ナオミ・ルツ・ボアズと私たちは、実はつながっているのですね。ナオミ・ルツ・ボアズの、自分より他人を思いやるよき生き方があったから、私たちも救われた。ナオミもルツもボアズも、私たちの恩人の一人なのです。私たちも、神様に喜ばれるよき生き方を選び取ることで、周りの方々や子孫に祝福を残して行くことができます。周囲と後の世代に真の祝福(愛。お金ではないかもしれません)を残す生き方! すばらしいと思われませんか? ナオミ・ルツ・ボアズに倣って、そのように生きて参りましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-10-07 13:25:11(水)
「死から命へと移っている」 2015年10月4日(日) 世界聖餐日・世界宣教の日 礼拝説教 
朗読聖書:ダニエル書12章1~13節、ヨハネ福音書5章19~30節。
「わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(ヨハネ福音書5章24節)。

 本日のヨハネによる福音書には、「御子の権威」という小見出しが付けられています。神の子イエス・キリストにどのような権威が与えられているか、がテーマと言えます。もう少し踏み込んで申しますと、父なる神様と神の子イエス様の非常に親しい絆が書かれていると、思うのです。なぜここにこのことが書かれているかと言いますと、直前のイエス様のご発言と深くつながっています。イエス様は17節で、イエス様を憎むユダヤ人たちに言われました。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」イエス様はここで神様を「わたしの父」と呼ばれました。ということは、御自分が神の子であると宣言されたことになります。このことがユダヤ人たちの激しい怒りを買いました。18節にこうあります。「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。」

 確かに聖書において、一般的には神様と人間は明確に区別されます。神様は世界と人間をお造りになった方、人間は神様に造られた存在として明確に区別されます。
そこが日本の宗教と非常に違うと語られることも多いのです。日本では有名人が神様として崇められるケースがあります。日光東照宮は徳川家康を神として祭っていますし、乃木希典を神として祭る乃木神社、東郷平八郎を神として祭る東郷神社があります。太平洋戦争の頃は、天皇を神と教える教育が行われました。このように日本では人間を神にすることが比較的簡単に行われるが、聖書の世界では全くそうではありません。人間が神様になることはあり得ないのが、聖書の世界です。人間を神様扱いすれば、モーセの十戒の第一の戒めで禁じられている偶像崇拝の罪になってしまいます。

 ですから、イエス様が神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされた発言を聞いてユダヤ人たちが激しく怒ったのは、理解できないことではないのです。彼らはイエス様が神様をひどく冒瀆したと考えたのです。しかしイエス様は例外です。イエス様は本当に神の子、神に等しい方、三位一体の神御自身ですから、イエス様が神様を父と呼ばれたことは、完全に正しいこと、真実であり、何の問題もないことです。冒瀆ではありません。イエス様は、御自分が神の子であることが本当であること、御自分が神の子であるとはどのようなことかを、彼らに語っておられるようです。

 (19節)「そこで、イエスは彼らに言われた。『はっきり言っておく。』」 「はっきり言っておく」は直訳では、「アーメン、アーメン、私はあなたたちに言う」です。アーメンは「真実に」の意味であることを、私たちはよく知っています。これはイエス様が、特に大切なことをおっしゃる時の前置きです。「アーメン、アーメン、私はあなたたちに言う。子は父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。」ここには、父なる神様と神の子イエス様の無限の親しさが示されています。両者は、愛によってしっかりと結び付いておられるのです。「子(イエス様)は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。」イエス様は父なる神様を愛しておられるので、自分勝手な行動はなさいません。あくまでも父なる神様に示されたことだけを行われます。喜んで父なる神様に従われます。「父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。」イエス様は父を愛しておられるので、喜んで服従なさるのです。

 私たちが信じている神様は、父・子・聖霊なる三位一体の神様です。イエス・キリストは神の子であり、(父なる神様に対して)子なる神であられます。聖霊も神であられます。本日の箇所は、三位一体のことを学ぶために、重要な箇所です。但し本日の箇所には聖霊のことを触れていないので、三位一体のすべてをここで学ぶことができるわけではありません。父なる神様と子なる神イエス・キリストの関係だけを学ぶことができる箇所です。エホバの証人とおっしゃる熱心な方々がおられます。もちろん市民としては共に歩むことが大切です。エホバの証人の方々と私たちの信仰の違いは、エホバの証人の方々は、神様を三位一体の神と信じておられないことです。イエス・キリストを神と信じておられません。エホバの証人の方々と話し合ったことが何回かありませんが、イエス様を父なる神様より低い方と主張され、神より下の方だと主張されたと記憶しています。しかしこの主張は間違いです。イエス様は子なる神ですが、父なる神を愛しておられるので、喜んで服従なさるのです。服従なさるから父なる神より下で、神でないということではありません。

 ヨハネ福音書に戻り、20節。「父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。」父なる神は、神の子・子なる神イエス・キリストを愛しておられます。両者は愛によって一体です。ここには書いてありませんが、聖霊なる神様も愛によって一体です。三位一体とは、愛によって一体ということです。イエス様は、この福音書の10章で、「わたしと父とは一つである」とおっしゃっています。「父は子を愛して」の愛はアガペーという言葉かなと思って調べると、別の言葉でした。しかし言葉が違っても、アガペーの愛と同じ意味で使われていると、私は考えます。父なる神は、イエス様を深く愛しておられます。イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになったとき、天から父なる神の声が聞こえたのです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」またイエス様が三人の弟子たちと一緒に高い山に登られたときも、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神様の声が聞こえたのです。

 (20節後半と21節)「また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。」厳密に言うと、生き返りと復活は違うことです。生き返りは、この地上の命に生き返ることですが、その後もう一度死にます。復活は、もはや死なない永遠の命に復活することです。しかしここでは厳密に区別されていないようです。父なる神様が死者を生き返らせる例は、旧約聖書にあります。列王記上17章を見ると、預言者エリヤが、シドンのサレプタという所に住むやもめの、死んだ息子のために祈り、神様がその息子を生き返らせておられます。列王記下4章では、預言者エリシャが、世話になった婦人の死んだ息子のために祈り、やはり神様が生き返らせておられます。それと同じように、イエス様はヨハネによる福音書11章で、死んだラザロのために祈り、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれました。すると死んでいたラザロが、手と足を布で巻かれたまま出て来ました。顔は覆いで包まれていました。こうしてラザロが生き返ったのです。イエス様が、「子も与えたいと思う者に命を与える」とおっしゃった通りです。本日の小見出しが、「御子の権威」ですが、イエス様には、死者に命を与える権威、死に打ち勝つ力が父なる神様から与えられているのです。

 (22節)「また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。」これにより、私たちが必ず受ける「最後の審判」の時の審判者がイエス・キリストであることが分かります。このことは使徒言行録10章42節にからもはっきり分かります。イエス様の一番弟子ペトロが申します。「イエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。」そしてテモテへの手紙(二)4章1~2節には、次のように書かれています。「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折りがよくても悪くても励みなさい。」

 (23節)「すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。」父なる神様を敬い礼拝するように、神の子イエス・キリストも礼拝の対象だということです。(24節)「はっきり言っておく。」これも「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う」です。「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」永遠の命とは、千年も万年も地上で生き続けることではありません。永遠の命とは、私たちが生まれつき持っている罪ある命、エゴイズムの多い命ではありません。それとは質の異なる全く新しい命です。イエス様の命と同じ命です。父なる神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛する命です。敵を愛する命です。聖書をケセン語(岩手県気仙地方の言葉)に訳された山浦玄嗣ドクターが、「永遠の命」を次のように訳されたことは暫く前の礼拝で申した通りです。「いつでも、活き活きと明るく力強く喜びに溢れてぴちぴちと生きること。」山浦さんがお書きになった『イエスの言葉 ケセン語訳』という本(文春新書、2011年、195ページ)には、「永遠の命」とは、「『神さまを本当に力頼りにしている人は、いつでも明るく元気に活き活きと暮すことができる』ということだと思います」と書いてあります。山浦さんは、さらにこのようにも書いておられます。「人生には災害も苦労もつきものですが、どんなに苦しい時でも、『だいじょうぶ、自分には神さまがついておられる。神さまはこのわたしを何かの役に立てるためにここにこうして生かしておいでだ。たとえそれが何なのかは今ははっきりわからなくても、だいじょうぶ、わたしはきっと神さまのお役に立っているはずだ!』と思えば、明るい力がわいてくるというものです」(195ページ)。東日本大震災と大津波を経験された上で、こう書いておられるので、とても感銘を受けます。「われわれの魂までは流されません。日本中のふるさとの仲間にイエスのことばをつたえようという望みはひとときも消えることはありません」(4ページ)との言葉に、勇気を与えられます。

 イエス・キリスト御自身が、「永遠の命」そのものです。入間メモリアルパークにある東久留米教会のお墓には、正面に「永遠の命」の文字が刻まれています。先週の日曜日、小平霊園で行われた日本キリスト教団の東京教区・西東京教区合同の墓前礼拝に参列致しました。お説教なさった牧師が、次のように語られました。「イエス・キリスト知るとき、私たちは永遠の命の中にある。」「私たち(キリストを信じる者)は、永遠の命の中で死を迎える。」「永遠の命は、死を限定づける。」「復活は、死を限定づける。」「死が永遠ではない。」「永遠の命の中に、私たちの死が納まっている(永遠の命が、死の力より強い)。」「聖書は、死の問題にはっきりと答えを与えている。イエス・キリストが答えである。」イエス・キリストこそ、死に打ち勝つ方である、という意味でしょう。

 去る9月26日(土)に、私の父方の義理の叔父が亡くなりました。私にとっては、従姉のお父様です。先週、カトリック吉祥寺教会で葬儀ミサが行われ、私も参列致しました。88歳でした。20才前の頃にカトリック教会で洗礼を受けたようです。その後、約70年間、神様を信じて生きたのですね。召される前日に、神父様に来ていただき、最後の聖体拝領(私たちの聖餐)を受け、信仰をもって召されました。信仰を抱いて、地上の生涯を全うしたことを知りました。イエス・キリストを信じた約70年前に既に永遠の命を受け、地上の死を迎えたけれども、今も永遠の命に生きており、天国に場所を移しました。

 「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」説教題「死から命へと移っている」をここからとりました。この死は、私たちの地上の死と考えることもできますが、私たちが罪を犯し続けて滅びに向かっていた状態(霊的に死んでいた状態)のことと考えることもできます。ルカによる福音書15章の「放蕩息子」を考えると分かりやすいです。弟息子が家を出て、放蕩三昧の生活を続けて痛い目に遭い、罪を悔い改めてぼろぼろになって家に帰って来た時、父親(神様)は彼の帰宅を喜び、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と言っています。「この息子は、死んでいたのに生き返った!」、まさに「死から命へと移った」のです。私たちは、罪を悔い改めることで、「死から命へと移る」のです。

 エフェソの信徒への手紙2章1節以下に、「死から命へ」という小見出しが掲げられていますので、見ましょう。1節に「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」とあります。まさに私たちもあの放蕩息子と同じで、イエス様を信じる前は「自分の過ちと罪のために死んで」いました。生きているけれども、罪を犯し続けて神様から離れた状態、死んだ状態にありました。死んだ状態とは、神様をも隣人をも愛していない状態です。2~3節は、死んだ状態のことを詳しく書いています。「この世を支配する者(悪魔)、かの空中に勢力を持つ者(悪魔)、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」

 しかし父なる神様が、イエス様の十字架の死と復活によって、私たち罪人を「死から命へ」移し、救って下さったのです。(4~6節)「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、―あなたがたの救われたのは恵みによるのです―キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」私たちは「死から命へ」移されたのです。私たちはまだ「天の王座」に着いていませんが、天国に入れていただいた時に、「天の王座」に着かせていただけるという約束が、ここに書かれているのだと思います。

 そして、ヨハネの手紙(一)3章14節を見ると、まさに「死から命へと移った」という言葉があります。(14~15節)「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟(教会の兄弟、周りの人々、全ての人を指すのではないでしょうか)を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。」兄弟(同上)を愛しているならば、それが私たちが永遠の命を得ている証拠だというのです。私たちは、聖霊の力によって隣人を愛し始めます。少しずつでも隣人を愛しているなら、私たちが永遠の命を受けている証拠になります。反対に、全然隣人を愛していないのであれば、反省する方がよいでしょう。(16~18節)「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て、同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」ここに、「死から命へと移された者」の生き方が示されています。

 ヨハネ福音書5章に戻り、25~26節。「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。」この御言葉は、この福音書の11章で実現します。ラザロの復活です。イエス様が墓の前で、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれると、死んでいたラザロが生きて出て来たのです。 (28~29節)「驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子(イエス様)の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」 神の国が来て、今の歴史が終わる時に、このことが起こります。ラザロの復活は、その先駆け・保証として起こったのだと思います。

 本日の旧約聖書は、ダニエル書12章1節以下です。この12章は、イエス様の誕生より170年ほど前に書かれたのではないかと思われます。1~3節に、明らかに復活の信仰が示されています。これは迫害の時代に、神に従って正しく生きる人々を励ます言葉です。迫害の中で殺されたとしても、神に従って正しく生きる人々には、復活の希望があるとの励ましです。「その時、大天使長ミカエルが立つ。/ 彼はお前の民の子らを守護する。/ その時まで、苦難が続く。/国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。/ しかし、その時には救われるであろう/ お前の民、あの書(命の書)に記された人々は。/ 多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める(復活する)。/ ある者は永遠の生命に入り/ ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。/ 目覚めた人々は大空の光のように輝き/ 多くの者の救いとなった人々は/ とこしえに星と輝く。」

 「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。/ ある者は永遠の生命に入り/ ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」は、イエス様の御言葉と、かなり一致すると思うのです。「時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」ダニエル書12章の最後で、天使と思われる者がダニエルに告げます。「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。」これは、ダニエルが復活して、神の前に立つということではないかと思います。

 このダニエル書12章に書かれていることは、「世の終わりの時の復活」です。ヨハネによる福音書11章でイエス様は、死んだラザロの姉妹マルタに、「あなたの兄弟は復活する」と言われました。マルタはダニエル書12章を踏まえてでしょう、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えました。するとイエス様は踏み込んで言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」イエス様こそ、復活の命そのものです。イエス様は、既に世に来られ、今は聖霊としてこの礼拝堂におられます。このイエス・キリストを救い主と素直に信じて、私たちも今皆で、「死んでも生きる命」、「復活の命」をいただきましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。