日本キリスト教団 東久留米教会

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2014-11-26 2:41:27(水)
「左の頬をも向けなさい」 2014年11月23日(日) 降誕前第5主日礼拝説教
朗読聖書:出エジプト記21章1~32節、マタイ福音書5章38~42節
「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」                        (マタイ福音書5章39節)

 神の民の基本的な生き方は十戒に記されていますが、それをより細かく具体的に記した律法・教えが出エジプト記20章22節から23章に書かれています。これらの律法を守ることで、イスラエル社会の正義と秩序が守られたのです。

 今日の最初の小見出しは、「奴隷について」です。古代社会には奴隷がおり、イスラエル社会にも奴隷がいました。イスラエルの民自身もエジプトで奴隷だったのです。私たちから見れば、奴隷制度そのものが100%悪ですので、イスラエル社会に奴隷制度があったこと自体に大きな抵抗を感じます。ですが現実にイスラエルに奴隷がいた以上、そこから話を始めざるを得ません。解説書によると、古代においてほかの国々の奴隷制度はもっと残酷であったそうです。イスラエルの奴隷は、それに比べれば思いやりをもって取り扱われるように律法が規定していたそうです。たとえばイスラエルの奴隷は安息日には働かなくてもよい決まりでした。十戒の安息日の規定に、「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も」と書かれている通りです。

 それでも奴隷がいたことにまだ抵抗を感じます。新約聖書の時代にも地中海沿岸地域に奴隷はいたようです。19世紀のアメリカには多くの黒人奴隷がいました。しかしリンカーン大統領が奴隷解放宣言を出しています。旧約聖書の時代はまだ完成への途上の時代です。神様はその後、長い時間をかけて世界から奴隷制度がなくなるように導いて来られました。私は、今は公に奴隷制度を維持している国はまずないと思っていましたが、最近イスラム国が奴隷制の復活を宣言したと聞きます。許されないことです。公の制度はなくても、奴隷のように酷使されたり人権を侵害されている人は世界に少なくないでしょう。そのような罪を減らしていくことが今の時代の課題です。今の日本にもブラック企業と言われて、若者を不当に酷使する企業があるようです。この改善も必要です。

 (21章1~2節)「以下は、あなたが彼らに示すべき法である。あなたがヘブライ人である奴隷を買うならば、彼らは六年間奴隷として働かねばならないが、七年目には無償で自由の身となることができる。」エジプトで奴隷の苦しみを長く味わったイスラエルの民は、奴隷の苦しみが十分分かっているのですから、仲間が貧しくなってやむを得ず自分の奴隷になった場合、決して苛酷に扱ってはならないのでした。そして七年目(安息年)には、無償で解放しなければならないのでした。六年間は長いですが、それでも一生奴隷でなく、七年目に解放されることがはっきりしていれば何とか希望をもつことができます。4節は厳しい規定です。「もし、主人が彼に妻を与えて、その妻が彼との間に息子あるいは娘を産んだ場合は、その妻と子供は主人に属し、彼は独身で去らねばならない。」 そして5~6節「もし、その奴隷が、『わたしは主人と妻子とを愛しており、自由の身になる意志はありません』と明言する場合は、主人は彼を神のもとに連れて行く。入り口もしくは入り口の柱のところに連れて行き、彼の耳を錐で刺し通すならば、彼を生涯、奴隷とすることができる。」今であればこれも人権侵害です。この規定にあえて意味を読み取るとすれば、「愛」がポイントでしょう。「わたしは主人と妻子とを愛しており、自由の身になる意志はありません。」愛は強制されてではなく、自由な意志によって相手に奉仕する生き方に至ります。この場合の奴隷は、自由に去ってよいのですが、主人と妻子を愛しているので、あえて主人の家にとどまって一生、喜んで主人に仕え、妻子のために働きたいと申し出るのです。

 これはイエス・キリストの生き方に通じるのではないでしょうか。フィリピの信徒への手紙は、イエス・キリストの生き方を次のように言い表します。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分の無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架に死に至るまで従順でした」(2:6~8)。「僕の身分になり」の「僕」は原文では「奴隷」という言葉です。イエス様は自ら進んで私たち罪人の奴隷になって、愛をこめて奉仕して下さったのです。それがご自分から進んで十字架につく生き方になりました。イエス様は12人の弟子たち(その中にはイエス様を売るユダも含まれています)の汚れた足を洗われましたが、人の足を洗うことは当時の奴隷の仕事でしたから、まさにイエス様は自ら進んで12人の弟子たち、そして私たちの奴隷として奉仕して下さったのです。そして、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ福音書15:13)とおっしゃり、私たちの罪をすべて背負って十字架で命をなげうって下さいました。

 イエス様は、「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」(ヨハネ福音書8:34)とおっしゃいました。私たちも罪と悪魔と死の奴隷であったのです。しかしイエス様が十字架の上で私たちのすべての罪を背負いきって下さったお陰で、私たちは罪と悪魔と死の奴隷状態から解放されたのです。解放された私たちは、今はイエス・キリストの奴隷なのです。イエス様が真心こめて私たちに仕えて下さったように、イエス様と隣人を、真心を込めて愛することが、キリストの奴隷である私たちの生き方です。そのように十分できていない自分を恥じるばかりですが、聖霊に助けられて少しでもそのように生きたいのです。イエス様は、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(原語・奴隷)になりなさい。人の子(イエス様ご自身)は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ福音書10:43~45)とおっしゃり、私たちにイエス様の弟子(あるいは奴隷)としての生き方を教えて下さいました。イエス様の弟子・使徒パウロも、「人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです」(エフェソの信徒への手紙6:6~7)と、私たちの生き方を教えてくれます。 

 出エジプト記21章に戻り、7~11節は女奴隷の扱い方を述べています。主人が女奴隷を身勝手に扱ってはいけないと教えているようです。これは古代としては比較的思いやりのある扱い方のようです。もちろん現代では奴隷制度そのものが許されないことは、言うまでもありません。

 12~17節は「死に値する罪」について教えています。故意の殺人は死刑になると定められています。故意ではなく偶発的な事故で人を死なせてしまった場合は区別され、死刑にはならないと書かれています。人を誘拐する者は必ず死刑に処せられると書かれています。モーセの十戒の第八の戒め「盗んではならない」を学んだとき第八の戒めが、金や物を盗むことだけでなく、人を盗むことを禁じているとする説があるとお話致しました。ですから「人を誘拐する者は必ず死刑」という規定は、第八の戒めと深く関わっているとも言えます。人を拉致することも、従軍慰安婦にするために連れて行くことも、死刑にあたる罪です。17節には、「自分の父あるいは母を呪う者は。必ず死刑に処せられる」とあります。十戒の第五の戒めは、「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」です。この戒めと一致します。

 18節以下には、「身体の傷害」という小見出しがついており、他人に怪我をさせてしまった場合の償いに関する規定が書かれています。現代によく通じる部分です。現代ではもっと細かく規定されているでしょう。(18~19節)「人々が争って、一人が他の一人を石、もしくはこぶしで打った場合は、彼が死なないで、床に伏しても、もし、回復して、杖を頼りに外を歩き回ることができるようになるならば、彼を打った者は罰を免れる。ただし、仕事を休んだ分を補償し、完全に治療させねばならない。」きちんと償いをしなければなりません。(22節)「人々がけんかをして、妊娠している女を打ち、流産させた場合は、もしその他の損傷がなくても、その女の主人が要求する賠償を支払わねばならない。仲裁者の裁定に従ってそれを支払わねばならない。」賠償金の定めです。

 23~24節には、有名な同害報復(同じ害を与える復讐・刑罰、ラテン語でタリオ)について書かれています。「もしその他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。」私はこの教えを最初に聞いたのは、高校の世界史の授業の時であったと記憶しています。それ以来「何と野蛮な古代の法律だろう」と思っていました。ですが旧約聖書でよく読んでみると、これは復讐・報復の掟というよりも償いの掟であることが分かります。もし私がどなかの命を奪ってしまうことがあれば(悪意のない事故の場合はやや別かもしれませんが)、自分の命を捨てることによって償いを果たし、責任をとらなければならないのです。これによって正義が行われるのです。もし私が、どなたかの目を失明させてしまうようなことがあれば、私が自分の目を失明させることで償いを果たし、責任をとらなければならないのです。歯でも手でも足でも同じことです。加害者が同じ害を受けることで正義が行われるのです。分かりやすく合理的でフェアな掟と思うのです。

 反対に、私の目がどなたかによって失明し私が被害者になった場合、私は加害者の目を失明させるように求める権利を持ちます。同時に、相手にそれ以上の損害を与えることを禁じられます。同害報復にはこの面もあることが大事です。つまり同じ害を与える以上の反撃・復讐・報復を禁じています。過度の復讐を抑える役割をも持っています。暫く前に『半沢直樹』というテレビドラマが流行りました。私の家にはとても小さなテレビしかないので私は見ませんでしたが、主人公の決めゼリフは「倍返しだ」だったそうです。このドラマを見て鬱憤を晴らす人が多かったから流行ったのかなと思い、複雑な気持ちになります。「倍返し」は旧約聖書の同害報復の掟に反しますし、イエス様の教えにはもっと反します。

 そこで本日の新約聖書・マタイによる福音書5章38~42節に移ります。「復讐してはならない」が小見出しです。「(旧約聖書では認められている)同害報復を愛によって乗り越えなさい」、これがイエス様の新しい教えです。同害報復は正義の律法ですが、イエス様は正義よりもっと次元が高い愛(アガペー)に生きるように私たちを促されます。(38節)「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている」(これは旧約聖書の同害報復)。イエス様はここにとどまらないで、もっと高い次元に進みなさいと言われます。(39節)「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」説教題を、この教会の敷地以外では一箇所、Kさんというお宅のブロック塀に(お礼を差し上げて)貼らせていただいていますが、近くでパンを売っているほかの教会の男性がいつもじっくり見て下さいます。先週その方とブロック塀の前でお話しましたが、その方が今週の説教題を見て、「まずは敵を作るなということですね」と感想を言って下さいました。確かにその通りです。

 「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」実行が難しい教えです。ですがクリスチャンですから、何とか実行したい教えです。誰か(右利きの人)が右手で私たちの右の頬を打つ場合、相手は右手の甲で打つことになります。手の甲で打たれるので、右の頬を打たれることは左の頬を打たれるより大きな屈辱になると聞いたことがあります。そのように大きな屈辱を受けてなお、ただ忍耐するのでなく、もちろん反撃するのでもなく、「左頬をも打って下さい」と差し出す。これはなかなかできないことです。これはまさに敵を積極的に愛しなさいということであり、驚くべき教えです。イエス様はこれを実行されました。十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と敵を赦す、執り成しの祈りをなさいました。

 旧約聖書のレビ記19章18節には、有名な隣人愛の教えが書かれています。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」これはイスラエル人に同じイスラエル人を愛することを求める御言葉で、外国人は含まれていないようです。しかしイエス様は、敵をも外国人をも隣人として愛しなさいと教えられます。イエス様は旧約聖書を乗り越えるお方です。イエス様の愛の霊(聖霊)を豊かに注がれた使徒パウロは、ローマの信徒への手紙12章20節で、旧約聖書の箴言を引用してこう書いています。お聴き下さい。「『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。』悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」 「敵に親切にしなさい」という教えです。「そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」分かりにくい表現ですが、「そうすれば相手が良心に痛みを覚え、良心の呵責を感じ、恥じ入るようになる」ということです。攻撃した相手から反撃されず反対に親切にされれば、攻撃した人は「悪いことをしたな。恥ずかしいな」という反省の気持ちになる。そうなるように、敵に親切にしなさいというのです。暴力に対して暴力で対抗するな。悪に対して悪で対抗するな。善をもって悪に勝ちなさい、愛によって悪に勝ちなさい。これはイエス様のすばらしい教えです。私たちが、そして世界中の人々がこの教えを実行すれば、争いも戦争もたちどころになくなり、すばらしい世界になります。「敵を愛しなさい」、実行は難しいですが、イエス様の最高の教えです。

 私は半年ほど前に、中国の撫順戦犯管理所という所の存在を知りました。1950年にそこに969人の日本人戦犯(戦争犯罪人)が収監されたそうです。当時のソ連政府から中国政府に身柄が移された人々です。戦争中、中国人を殺したり苦しめたり様々な罪を犯した人々です。その中でも特に罪が重い70名を死刑にする案が出たことがあったそうです。ですが周恩来という総理が、「日本戦犯の処理については、一人の死刑もあってはならず、また一人の無期徒刑(無期懲役)者も出してはならない。有期徒刑(有期刑)もできるだけ少数にすべきである。起訴状は、基本罪状をはっきり書くべきで、罪行が確実でないと起訴できない。普通の罪の者は不起訴である。これは中央の決定である」と方針を指示したそうです(中国帰還者 連絡会訳編『覚醒 日本戦犯改造の記録 撫順戦犯管理所の六年』新風書房、1995年、21ページ)。次のような勧告もなされたそうです。「撫順戦犯管理所は、世界のいかなる国のそれとも異なったものでなければならない…たとえ戦犯といえども皆人間である。人間である以上人格を尊重しなければならないと」(同書、「『もうひとつの戦犯』は問いかける」、より)。この戦犯管理所で日本人戦犯の世話や教育に当たった中国人は、日本人によってひどい目に遭っていたので憎しみの心を持っていましたが、この方針を受け入れ、戦犯に非常に親切に尽くしたそうです。T氏というかなりの罪を犯した人が脳血栓で半身不随になると、専任の女性看護師がついて非常に親切な介護を4年間行ったそうです。T氏は1956年に仮釈放され、帰国できたそうです。

 ある日本人戦犯はこう書いているそうです。「我々は過去、殺人兵器を持って神聖な中国の領土に侵入し、公然と国際法と人道に違反し、勤勉で素朴な、平和を愛する中国人民を敵とし、逮捕・酷使・拷問・強姦し、殺しつくし、やきつくし、奪いつくす三光作戦を実施し、筆舌につくし難い罪行を犯した。~しかるに、中国人民が我々に与えてくれたものは何であったか? 毎年季節が変わるごとに真新しい服 を支給し、我々の口に合う日本食を与えてくれ、厳寒の冬には『むろ』に保管された新鮮なトマトや野菜、それにお菓子、果物、お茶、煙草に至るまで支給してくれた。~これほど厚い温情がどこにあろうか」(同書、185ページ)。多くの戦犯はこう言ったそうです。「政府の幹部が代用食のウオウオトウを食べ、我々戦犯には真っ白のパンを食べさせる―こんなことは未だかつてなかったことだし、いかなる国家もなしうることではない。これを思えば益々はっきりと、私は~自分の残酷な罪行を憎む。だが、中国政府が我々に対して与えてくれる人道主義の待遇と中国の工作員の我々に対する肉親のような心配りには、感動させられる」(同書、188ページ)。

 このような驚くべき親切を受けて、多くの戦犯は心から自分の罪を悔いるようになったそうです。「撫順の奇跡」と呼ばれる出来事だそうで、今はあまり知られていないと思うので、年若い世代に伝えるべきことだと感じます。日本と中国の平和のためにもです。特に罪が重い45名の戦犯については公開裁判が行われ、死刑の人はなく、8年から20年の判決が出たそうです。服役中に病死した一人を除き、ほかの44名全員が1964年3月までに満期もしくは減刑されて、帰国できた(同書、「編者のことば」より)というのですから、温情あふれる措置を受けたと言えるでしょう。それ以外の、罪が割合軽く、罪を悔いる気持ちがよく現れていた、おそらく千人近い戦犯は起訴を免除され、1956年頃に釈放され、帰国できたそうです。「目には目を」を乗り越えた出来事です。悪人に手向かうのでなく、むしろ愛によって悔い改めに導いた出来事です。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」を実行した出来事です。

 これより歌う讃美歌は471番「勝利を望み」です。これはアメリカの黒人差別に非暴力で抵抗したマーティン・ル―サー・キング牧師たちがよく歌った讃美歌だそうですね。黒人差別がなくなる日を神様が必ず与えて下さる日を信じ、希望をもって歩もうと励まし合って歌った讃美歌と聞きます。祈りと連帯の讃美歌ですね。今の日本でもヘイトスピーチがあるなど、差別がないとは言えない状況で苦しむ方もあり、この讃美歌を心から歌いたい方がおられると思います。もちろん人間の手で神の国を完成することはできません。イエス・キリストがもう一度おいでになる時に神の国が完成します。ですが、私たちはイエス様の十字架と復活の福音を宣べ伝えると共に、この地上も少しでも神様に喜んでいただける世界になるように、祈りながら、微力を尽くしたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-11-17 22:08:36(月)
「大小の生き物は数知れない」 2014年11月16日(日) 収穫感謝日・教会学校との合同礼拝(子ども祝福式)説教
朗読聖書:詩編104編19~30節
「海も大きく豊かで その中を動き回る大小の生き物は数知れない」(詩編104編25節)。

 立花隆氏(評論家)が書いた『宇宙からの帰還』(中公文庫、1985年)という本を読みました。立花隆さんはクリスチャンではないと思いますが、お母様が熱心なクリスチャンだったと読んだ記憶があります。アメリカがアポロ11号を月に送ったのは1969年です。私が3歳になる直前で、私はテレビで見た記憶はありません。宇宙に行った人々の多くは、人生観にいろいろな影響を受けたそうです。人類で初めて宇宙に行った旧ソ連のユーリ・ガガーリンという宇宙飛行士は、「地球は青かった」(同書、44ページ)という有名な言葉を語りました。今は私たちも地球が青いことを写真で見て知っています。ですが宇宙飛行士によると、写真ではその本当に美しさは分からないとも言います。写真で見ても地球はかなり美しいですから、宇宙から見ればもっと美しいのでしょう。ある宇宙飛行士は、「地球は宇宙のオアシスだ」(同書、44ページ)と言ったそうです。宇宙空間は人間が生きることができない死の空間です。どんな生き物も宇宙空間ではすぐに死ぬでしょう。宇宙空間にはどんな命もなく、地球だけに命はあるのです。ほかのどの天体でも命は見つかっていませんし、これからも見つからないと私は思います。地球だけに命があります。ジム・アーウィンという宇宙飛行士は「宇宙の暗黒の中の小さい青い宝石。それが地球だ。(宇宙にいると)神の恩寵なしには我々の存在そのものがありえないということが疑問の余地なくわかるのだ」と言っています(同書、134ページ)。地球の青さは、主に海があることによります。地球の表面の約70%が水(海)です。神様が愛を込めて、心を込めてお造りになった惑星が、私たちが住んでいる地球です。地球に代わりはありません。ですから私たちは地球の環境を壊さないように注意しながら生きなければなりません。

 このアーウィンさんは月に行って、神様の存在をとても身近に感じたと言っています。宇宙飛行士が皆そう感じたのではないようですが、アーウィンさんは月に行って、神様がすぐ近くにおられると実感したそうです。「神の姿を見たわけではない。神の声を聞いたわけではない。しかし、私のそばに生きた神がいるのが分かる」経験をしたそうです(同書、135ページ)。月でいろいろなトラブルがあったそうです。地球の基地に問い合わせていたのでは間に合わない。自分でとっさに決めなければならない。「どうすればいいのですかと神に問う。するとすぐに答えが返ってくる。誰か人間にたずねて答えてもらうのとはプロセスがちがう。全プロセスが一瞬なのだ。~直接的に神が導くのだ」(同書、136~137ページ)という体験をなさったそうです。そして地球に帰ると伝道者になったそうです。
 
 神様が宇宙を造り、地球を造られました。図鑑などによると、宇宙ができたのは今から約137億年前だそうです。地球ができたのは約46億年前だそうです。本当に何年前かは、神様に直接聞いてみないと分かりませんが、図鑑などにはそう書いてあります。神様は時間をもお造りになりました。ですから神様にとっては137億年も1秒も同じです。地球と宇宙がいつできたとしても、大切なことは神様がこれらをお造りになったということです。今日の礼拝の招きの言葉は、旧約聖書のヨブ記38章からとりました。7節と8節は、神様がこの世界をお造りになったときの様子を描く言葉です。「そのとき、夜明けの星(複数)はこぞって喜び祝い 神の子らは皆、喜びの声をあげた。」「神の子ら」は天使たちであるようです。「海は二つの扉を押し開いてほとばしり 母の胎から溢れ出た。」神様が海をお造りになって、その水がほとばしり出る様子が力強いですね。そして神様は31節と32節で、ヨブという人に(また私たちに)次のようにおっしゃって、ご自分の力の偉大さを教えて下さいます。「すばるの鎖を引き締め、オリオンの綱を緩めることがお前にできるか。時がくれば銀河を動かし、大熊と子熊を共に導き出すことができるか。」今、夜空を見上げるとオリオン座を見ることができます。神様は星・天体を、星座を動かし、コントロールしておられるのです。私たちにはそれはできません。神様は空の星を自由自在に操っておられます。もちろん普段は星は、神様の命令に従って法則に従って動きます。ですが神様は、法則と違う動き方をするよう星たちに命じることもできます。イエス様がお生まれになったとき、星が占星術の学者たちを導きましたが、あの星も父なる神様の命令によって特別な動き方をしたと思うのです。

 今日の中心の聖書は、詩編104編19節以下です。19節にこうあります。
「主は月を造って季節を定められた。太陽は沈む時を知っている。」神様は太陽と月を造り、私たちに昼と夜を与え、春夏秋冬の4つの季節を与えて下さいました。私たち日本人は自然の恵みを感謝することをよく知っていますが、その自然を造ったのは神様であり、自然の恵みは実は神様の恵みです。皆様が持って来て下さってここの並べられている果物なども、皆、神様から御手によるプレゼントです。21節に「若獅子は餌食(えさ)を求めてほえ、神に食べ物を求める。」ライオンやほかの動物がえさを求めて吠えるとき、それは神様に向かって吠えているのです。神様が動物にえさを用意し、私たち人間にも食べ物を備えていて下さいます。

 (24~25節)「地は、お造りになったものに満ちている。同じように、海も大きく豊かで その中を動き回る大小の生き物は数知れない。」 ある資料によると、地球上の動物は100万種類いるそうです。その中身は、鳥類が9000種類、魚類が2万3000種類、哺乳類が5000種類、両生類が2000種類、爬虫類が5000種類、以上はすべて脊椎動物で計4万4000種類です。このほかにも(マイナー動物というといけないかもしれませんが)節足動物80万種類、軟体動物11万種類、原生動物3万種類、腔腸動物1万種類で、合わせて約100万種類です。 植物は30万種類あるそうです。動物と植物で合わせて130万種類ですが、ウイルス、細菌、菌類まで含めると地球上の生物は計500万種類以上になるそうです。まさに「大小の生き物は数知れない」のです。すぐそこの落合川にも多くの魚や鳥がいます。川の横の看板によると、魚はアブラハヤ、ギンブナ、オイカワ、シマドジョウ、ジュズカケハゼ、タカハヤ、ドジョウ、スミウキゴリ(ハゼの一種)、ホトケドジョウ(絶滅が危惧されているとのことです)、メダカ、ミツゴ、ヨシノボリ、アメリカザリガニがいるそうです。こんなに多くの種類がいるのかと思います。鳥は、アオサギ、オオヨシキリ、オナガカモ、カワセミ、カルガモ、カイツブリ、キセキレイ、コガモ、コイサギ、タシギ、ダイサギ、ハクセキレイ、ヒドリガモ、マガモがいるそうです。多くて覚えきれません。神様は全部覚えておられます。南沢湧水には夏はカブトムシ、クワガタムシ、スズメバチもいます。

 昔イスラエルにソロモンという王がおり、神様はソロモンに非常に豊かな知恵をお与えになりました。ソロモンが樹木について語れば、レバノン杉から石垣に生えるヒソプにまで及びました。ソロモンはまた、獣類、鳥類、爬虫類、魚類についても語りました。それほど多くの知恵を与えられていましたが、神様の知恵には遠く及ばなかったはずです。神様は大小数知れない生き物をお造りになり、そのすべてを完全に知っておられます。人間は宇宙のことについて熱心に調べていますが、まだまだ分からないことだらけです。神様は宇宙のすべてのことを完全に知っておられます。人の知恵は、神様の完璧な知恵のほんの一部です。ですから火山の噴火や地震の発生を完全に予知することもできません。

 (27節)「彼ら(生き物)はすべて、あなた(神様)に望みをおき、ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。」 生き物は皆、神様に依存して生きています。生き物は私たちと違って、くよくよ思い悩んだりしません。神様が食べ物を下さることに信頼しきって生きています。私たち人間の場合は、自分がなすべきことをなす努力は必要ですが、食べ物や必要なものは皆、神様の御手から来ることを信じます。(28節)「あなたがお与えになるものを彼らは集め 御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。」 この後で歌う「讃美歌21」の386番は収穫感謝日の讃美歌です。「くりかえし」の歌詞がとてもよいと思うのです。「良い物みな、神から来る。その深い愛をほめたたえよう。」神様の御手からのみ、すべての良い物が来るのです。

 ある人(キェルケゴール)の祈りに次のような祈りがあるそうです。
「天にいます父よ、わたしどもは、あなたの御手からすべてのものを受けるのです。~あなたはあわれみ深い御手を開きたもうて、生きとし生けるものを豊かな恵みで満たしたまいます。時として、あなたの御手が見えず、恵みが隠されたときは、わたしどもをさらに豊かな恵みをもって満たすために、あなたは御手を閉じたもうたのだと信じます」(大村勇説教集『輝く明けの明星』日本基督教団阿佐ヶ谷教会、1991年、29ページ)。 深い信仰の祈りだと感じます。すべての恵みはただ神様の御手からのみ来る。でも神様の愛が感じられない時があります。「それは神様が何らかの深いお考えによって、しばらく御手を閉じられたのである。それはさらに豊かな恵みによって、あるいは本当の意味での深い恵みによって私たちを満たすためだと信じます」、という祈りです。このように祈れないこともありますが、神様の支えの御手がいつもあることを信頼する祈りです。この神様の御手によって大小数知れない生き物が、今生かされていますし、私たち一人一人も生かされています。宇宙のオアシスである青い美しい地球も、神様の御手によって支えられています。アーウィン宇宙飛行士は言います。「この地球にだけ神の手が働き、我々が創造されて生きているのだということには、疑問の余地がない。~これほど見事な、美しい、完璧なものを神以外に作ることはできない。~科学は神の手がいかに働いているかを、少しずつ見つけ出していく過程なのだ」(同書、147ページ)。

 別のウォーリー・シラーという宇宙飛行士は、地球環境が悪化していることが宇宙から見えたと言っています。「宇宙から見る地球はほんとに美しい。~しかし同時に、それが汚されつつあるというのもほんとなのだ。~人間の肉眼でそれが分かるのだ。~特に私の場合は、(19)62年、65年、68年と、6年間に3回宇宙から地球の姿を見てきた。だから、その変化が分かる。特に大気汚染、水汚染の状況が分かる。ロスアンゼルスのスモッグ、デンバーのスモッグ、東京のスモッグなど、世界的に有名な大気汚染は肉眼で観察できた。それは実に悲しい眺めだ。地球全体が美しすぎるほど美しいだけに、そういうシミのような部分の存在を目にすると、ほんとに悲しくなる。~宇宙を飛ぶ前は、環境問題などにはまるきり関心がなかったが、地球に戻ってからは、NASAを引退したら環境問題に取り組もうと決心していた」(同書、253~254ページ)。

 このシラーさんは、宇宙から万里の長城が見えた、ベトナム上空では、戦場で射ち合っている戦火が見えたと言っています(同書、255ページ)。ベトナム戦争の頃のことです。「ベトナム上空でバチバチ光るものを見たとき、はじめは稲妻かと思った。~しかし稲妻の場合は、必ず雲の中で光る。ところがベトナム上空は快晴だったのだ。それで戦火だとわかった」(同書、255ページ)。「宇宙から見ると国境なんてどこにもない。国境なんてものは、人間が政治的理由だけで勝手に作り出しただけの、もともとは存在しないものなのだ」(同書、256ページ。もっとも、聖書には「(神は)彼ら(民族)の居住地の境界をお決めにな」った(使徒言行録17:26) という記述がありますが、シラーさんがおっしゃりたいことは分かります)。

 「宇宙からこの美しい地球を眺めていると、そこで地球人同士が相争い、相戦い合っているということが、なんとも悲しいことに思えてくるのだ。どんなに戦っても、お互い誰もこの地球の外に出ていくことはできない」(同書、256ページ)。 神様が毎日下さる食べ物などの恵みを感謝し、水の惑星である美しい地球を造って下さったことを感謝し、日本とアジアと世界が平和であるように祈ります。平和でないと、命が奪われたり、食べ物が行き渡らない世界、神様の御心を妨げる世界になってしまうのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-11-12 3:11:36(水)
「わたしと一緒に楽園にいる」 2014年11月9日(日) 降誕前第7主日礼拝説教
朗読聖書:詩編22編2~32節、ルカによる福音書23章26~43節
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」
                 (ルカによる福音書23章34節)。

 先ほど歌った「讃美歌21」の112番は、タイトルに「葬儀」とありますが、これはもちろん一応の分類であり、葬儀の時の讃美歌と決まっているわけではありません。「イエスよ みくににおいでになるときに、イエスよ わたしを思い出してください。」もちろん今日のルカによる福音書23章42節の、名も知られない犯罪人の言葉です。犯罪人ですから、かなり悪いことをしたのです。人を殺した可能性もあります。ですがこの人は人生の最後の最後で、自分の罪を悔い改めたのです。そして、自分の隣りで十字架につけられているイエス様が完全に無実であることを直感しました。そして、実にささやかな願いを口にしました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」「私を天国に入れて下さい」とは言わないのです。とても自分には天国に入る資格などないと感じていたのです。しかしイエス様は、この犯罪人が自分の罪を悔いていることを認めて下さいました。そして慰めに満ちた約束を語られました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」

 「はっきり言っておく」は、元の言葉で「アーメン、わたしはあなたに言う」です。ご存じの通り、「アーメン」は「真実に、確かに」の意味です。「アーメン、わたしはあなたに言う」とは、「真実で確かなことをあなたに言う」ということです。イエス様はしばしばこの言い方をなさいますが、非常に重要なことをおっしゃる時の前置きです。イエス様は非常に大切な救いの言葉を犯罪人に語られたのです。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」 楽園はもちろん天国です。犯罪人はまさに人生の土壇場で自分の罪を悔い改め、イエス様に救いを約束され、十字架上で息絶えると同時に、天国に入れられたのです。

 (26節)「人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。」キレネとはアフリカの今のリビアです。エジプトの西側で地中海に面しています。シモンは名前からユダヤ人だと思われます。ユダヤ人はイエス様の時代のかなり前から、イスラエルだけでなく地中海沿岸各地に離散して広がって住んでいました。イエス様が十字架につけられたのは、ユダヤ人の非常に重要な祭り・過越祭の時でしたから、シモンも過越祭を祝うために遠くキレネからやって来ていたのでしょう。シモンは黒人だったのではないかという説もあります。イエス様が鞭打ちを受けてだいぶ弱っておられたので、シモンが代わりに十字架を背負わされたのです。

 (27節)「民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。」民衆はどのような気持ちでついて行ったのか、よく分かりません。イエス様に同情しているのか、イエス様を嘲っているのかよく分かりません。「嘆き悲しむ婦人たち」については、イエス様が28節で「エルサレムの娘たち」と呼びかけておられますから、ガリラヤからついて来た婦人たちではなく、エルサレムに住んでいる婦人たちでしょう。この婦人たちはイエス様のために嘆き悲しんでいましたが、心の底から嘆き悲しんでいたのか、よく分かりません。当時はいわゆる泣き女がいたそうで、この婦人たちもそれかもしれないという人もいます。(28~29節)「イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。『エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。人々が、「子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ」と言う日が来る。』」

 イエス様の目には、約40年後の紀元70年のローマ軍によるエルサレム破壊の悲劇が、見えていました。イスラエルの民は、神様の聖なる国民です。しかしその神様の民が、実際には神様のご意志に従わない民になってしまいました。たとえば聖なる神殿は、祈りと礼拝よりも、人々が商売を行い利益をむさぼる騒々しいマーケットのように堕落していました。神の子イエス様が登場され、貧しい人を助け、病気の人を癒やす神の愛を実行していたのに、今、罪が全くない聖なる神の子を十字架につけて殺そうとしています。全く罪のない神の子と殺すことは、真に恐ろしい罪です。そのような罪を犯して、ただで済むはずがないのです。イスラエルの民・エルサレムの都は、神様の審判を受けざるを得ません。ローマ軍によってエルサレムは破壊され、神殿は焼かれ、多くの人々が殺されるのです。「今から十字架に架けられる私のことよりも、エルサレムの運命に思いを致して、悲しみなさい」と、イエス様は言われたのです。イエス様は十字架を目の前にしても、ご自分のことで頭がいっぱいだったのではなく、愛するイスラエルの民の運命をこそ、憂いて悲しんでおられたのです。

 (30~31節)「そのとき、人々は山に向かっては、『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、丘に向かっては、『我々を覆ってくれ』と言い始める。『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」ローマ軍の攻撃に遭う人々は、何とかしてそれから逃れようと、山に向かっては「我々の上に崩れ落ちて我々を隠してくれ」、丘に向かっても「我々の上に崩れて、我々を覆い隠してくれ」と叫ぶということではないかと思います。「生の木」は罪なき者(ここではイエス様)、「枯れた木」は罪多き者(ここではエルサレム)を指します。「罪なきイエス様が十字架につけられるとすれば、罪多きエルサレムには一体どのような苛酷な運命が毎受けているだろうか」と、イエス様は様々な罪を犯しながらも悔い改めないエルサレムの人々の行く末を思って、涙されたのです。

 これは私たちにとっても人ごとではないのです。新約聖書のペトロの手紙(一)4章17~18節には次のように書かれています。「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。『正しい人がやっと救われるのなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのか』と言われているとおりです。」 神様を信じて従わない人々の行く末も確かに心配です。しかし裁きはまず「神の家から」、今ならばまず教会から始まるのです。神様は教会を清めようとなさいます。教会が神様から懲らしめられることがあるとすれば、それは神様が教会を愛して、教会から罪を取り除こうとなさるからです。ご自分の教会に対する神様の期待は大きいと思います。神様は教会を愛されるからこそ、まず教会を裁いて清め給います。

 ルカによる福音書に戻ります。(32~33節)「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。」「されこうべ」はヘブライ語(とアラム語)では「ゴルゴタ」です。ラテン語では「カルヴァリー」です。讃美歌の歌詞にありますね、「カルヴァリ山の十字架につき、イエス様は尊き血潮を流し。」「カルヴァリーチャペル」という名前の教会もあります。「犯罪人も、一人は右に一人は左に十字架につけた」という御言葉は、イエス様の十字架の死を予告するイザヤ書53章の実現と言えます。12節にこう預言されています。「彼が自らをなげうち、死んで、罪人(つみびと)のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。」

 (34節)「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。」このイエス様の有名な祈り「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」がかっこの中に入っているのが気になります。新共同訳聖書の凡例を見ると、このかっこの意味がこう説明されています。「新約聖書においては、後代の加筆と見られているが年代的に古く重要である個所を示す。」解説書によると、この祈りは新約聖書の多くの重要写本にないそうです。しかしこの祈りが書かれている写本もあるから、かっこつきながらもイエス様の御言葉として書かれているのでしょう。ですからもちろん私は、イエス様が十字架の上でこの祈りを祈られたと信じて疑いません。これは敵を赦し、敵のために父なる神様に執り成しをする祈り、敵を愛する祈りです。真に感動的な祈りです。イエス様は、「敵を愛しなさい」と言われますがそのお言葉の通り、ご自分を殺す人々を赦し愛する祈りをなさったのです。果たして自分にこの祈りができるだろうかと考え込んでしまいます。

 この祈りに感激して、あるいはこの祈りに衝撃を受けてクリスチャンになった方が日本に多いと聞いたことがあります。私が洗礼を受けた茨城県の教会の信徒で今は天国におられるHさんという男性も、そのお一人でした。ある日曜日の礼拝後に、私に語って下さいました。「私はイエス・キリストのこの祈りに感動してクリスチャンになった」と。確かにこの祈りにはそれだけの力があります。イエス様が十字架上でおっしゃった7つの言葉というのがあります。その3つまでがルカによる福音書に記されています。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」の祈りは、十字架上の7つの言葉の一番最初かもしれません。ちなみに43節の「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」も十字架上の7つの言葉の1つです。今日の後ですが、46節の「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」も、7つの言葉の1つです。

 私は最近、『死線を越えて 賀川豊彦物語』というDVDを見ました。1988年、賀川豊彦牧師生誕100周年記念映画です。「日本のガンジー」と呼ばれ、以前は有名であった賀川豊彦牧師のことを私はそれほどよく知りません。この映画があることは前から知っていました。私が茨城県の教会でお世話になったバートンルイス宣教師という方が、賀川豊彦に洗礼を授けたマヤス宣教師役で出演したからです。その時は映画館に見に行きませんでした。そのバートンルイス宣教師のお子さんたちは、東久留米にあるクリスチャンアカデミーを卒業しておられます。バートンルイス宣教師は日本での伝道の頑張りすぎで50才くらいのときに倒れ、アメリカに帰られ、残念ながら健康を十分回復されることなく昨年70才で天に召されました。そのバートンルイス宣教師がお元気だった時のお姿を見たいという気持ちもあり、もちろん賀川牧師のことを学びたい気持ちもあり、DVDを見たのです。

 じっくり見て感じたことは、映画のテーマの1つが反戦であることです。後半に、賀川豊彦牧師が逮捕される場面があります。太平洋戦争中の、おそらく東京の松沢教会の日曜礼拝で説教中に刑事が踏み込んで来て逮捕される場面があります。実際の逮捕は礼拝説教中ではなかったと聞きます。映画では国広富之さんという俳優が演じる賀川牧師が、イエス様の今日の祈りを引用して、次のように説教しています。「イエスは十字架の苦しみの極みにあって、『主よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか分からないのです』と、お祈りになりました。これを思ったら、私たちはどんな辱めでも受けられるのではありませんか。非国民、国賊とののしられ、暴力を受けるようなことがあっても、断じてこの軍国主義の行き方に妥協してはなりません。敵をも十字架の愛のもとにおいて赦し、徹底して無抵抗主義を貫き通す。これが贖罪愛の実践であり、キリスト者の道なんです。」こう説教したところで刑事に連行されます。今では考えられないことですが、当時は戦争に反対することは国策に反対することで、許されないことだったのですね。

 「自分が何をしているのか知らないのです。」神様の願いは、私たちが神様を愛し、隣人を愛することですが、それを知らないと自分勝手なことを行い、「自分が何をしているか知らない」ままに罪の行動に出て、少しも恥じない結果になる恐れがあります。イエス様の弟子・使徒パウロは自分の罪を次のように告白しました。ローマの信徒への手紙7章です。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。~わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」 善を行う力が自分にはない。望まない 悪を行ってしまう。このように自分の罪を告白しています。このパウロの罪、そして私たちの罪を背負って、イエス様は十字架に架かって下さいました。ご自分を十字架につける人々の罪をも背負って、十字架で死んで下さったのです。

 「人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。」ほかの3つの福音書では、くじを引いたのはローマ兵だったと記しています。これは今日の旧約聖書・詩編22編の実現です。私はいつも詩編22編を読むとき驚きを覚えます。あまりにも正確にイエス様の十字架の場面を預言していることに驚きを覚えるのです。9節の、ののしりの言葉も、十字架上のイエス様をののしる人々の言葉そっくりです。(19節)「わたしの着物を分け 衣を取ろうとしてくじを引く。」これがまさにイエス様の十字架のときに現実となりました。イエス様が私たち皆の罪を背負って十字架で死なれることは、はるか昔からの神様のご計画だったのです。 

 さて、あの犯罪人は人生の最後の最後で罪を深く悔い改めました。そのことがイエス様の心を深く打ったのです。イエス様はこの人の悔い改めを喜んで下さいました。「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(ルカによる福音書15:7)の御言葉が思い出されます。そしてこの犯罪人によい点があるとすれば、「自分には天国に入れていただく資格が全くない」と深く自覚していることです。「自分には天国に入れていただく資格が全くない」という自分の罪の自覚こそ、あえて言えば天国に入れていただく資格です。

 ドストエフスキーというロシアの文豪に『罪と罰』という大長編があります。そこに病気の継母らのために自分を売ったソーニャという優しい娘が登場し、彼女の父親(酒飲みのどうしようもない父親)も登場します。この父親が居酒屋で「最後の審判」について次のような意味のことを語る場面があります。いろいろな人の審判が済んで、自分の番が来る。裁き主(イエス・キリスト)はおっしゃるだろう。「飲んだくれも、恥じ知らずも出て来なさい。」するとほかの人々が、「主よ、なぜこんな連中を救いに迎えるのですか」と問う。そこで裁き主が、「それはこれらの者が誰一人、自分にその資格があると考えていないからだ」と答える。ここにドストエフスキーの信仰が現れているのでしょう。自分の罪深さをよく知っていて、自分の罪に嫌気がさしているような人が、天国に一番近いのではないでしょうか。あの犯罪人はそのような心境になっていたのです。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」というイエス様の山上の説教の言葉が思い出されます。

 その犯罪人にイエス様は、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」との最高の約束を下さったのです。楽園という言葉で思い出すのは、1597年に豊臣秀吉の迫害によって長崎の西坂で殉教した26人の中で最年少の12才だったルドビコ茨木という少年です。彼は、「信仰を捨てれば命を助ける」と語る役人の言葉を、きっぱりと断って言いました。「そのような条件であるならば、生命を望みません。つかの間の命と永遠の命を交換するのは意味のないことです」(ルイス・フロイス著・結城了悟訳『日本二十六聖人殉教記』聖母の騎士社、2009年、181ページ)。 この少年は刑が行われる前に十字架の上で、「非常に喜び、一人の信者が彼に、『間もなくパライソ(天国)に行くでしょう』と激励したので、勇躍するかのように十字架に縛られている体を上方に動かすが、手を縛られていたのでせめても指先を動かしていた」(同書、208~209ページ)。この少年も、息絶えると同時に天国(楽園)に入れられたのです。

 この26人の中にパウロ三木という日本人修道士がおり、十字架の上でも説教していました。「私は~ただ我らが主イエス・キリストの教えを説いたから死ぬのである。私はこの理由でぬことを喜び、これは神が私に授け給うた大いなる御恵みだと思う。今、この時を前にして貴方達を欺こうとは思わないので、人間の救いのためにキリシタンの道以外に他はないと断言し、説明する。~キリシタンの教えが敵及び自分に害を加えた人々を許すように教えている故、私は国王とこの私の死刑に関わったすべての人々を許す。王に対して憎しみはなく、むしろ彼とすべての日本人がキリスト信者になることを切望する」(同書、209~210ページ)。「父よ、彼らをお赦しください」と十字架上で祈られたイエス様に似た心境に達していたと思うのです。

 私たちはこのルドビコ茨木少年やパウロ三木ほど立派ではないかもしれません。私たち一人一人は天国に入れていただく資格を持たない罪人です。ですがただイエス様の十字架の犠牲の死のお陰で天国に入れていただけます。このイエス様の十字架の愛に改めて感謝し、このイエス様にお従いする道を、ご一緒に進んで参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-11-04 1:05:54(火)
「天の故郷を熱望する」 2014年11月2日(日) 聖徒の日・教会創立53周年記念日礼拝説教
朗読聖書:申命記34章1~8節、ヘブライ人への手紙11章8~22節。
「ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです」
                      (ヘブライ人への手紙11章16節)。

 「聖徒の日」の起源からお話を致します。「聖徒の日」は、天国に行かれた方々を忍ぶ礼拝です。東久留米教会はプロテスタント教会ですが、「聖徒の日」の起源はカトリック教会で11月1日に行われる「諸聖人の日」(古くは「万聖節」)のようで、このプロテスタント版が「聖徒の日」だと思います。「諸聖人」もしくは「諸聖人の日」を古い英語で、All Hallows と言うそうです。Hallowは holy (聖なる)の古い形であるようです。イエス・キリストが教えて下さった「主の祈り」の最初の祈りは、「願わくは御名をあがめさせたまえ」です。英語では Hallowed be thy Name と祈ります。「あなた(神様)のお名前が聖なるものとして崇められますように」という意味です。ここに hallow という言葉が出ております。「諸聖人の日」の前の晩を Hallows Eve と呼んだそうですが、これが訛ってハロウィーンという言葉になったそうです。ですからハロウィーンは「諸聖人の日」の11月1日の前日の10月31日です。このようにハロウィーンはキリスト教にも少し(そしてヨーロッパのケルト人のお盆のような祭りに)起源を持つ祭りであるようです。

 最近は日本でもハロウィーンが広まっていますが、アメリカで盛んなハロウィーンはすっかり世俗化され、お菓子会社のお金儲けの祭りのようで、今やキリスト教とは全く関係なくなっていますから、東久留米教会でハロウィーンを行うことはありません。それなのになぜこのようなお話から入るかと申しますと、ハロウィーンの起源を訪ねればキリスト教の(カトリックの)「諸聖人の日」、(プロテスタントの)「聖徒の日」にルーツの一部があることをお話したかったからです。そして「ハロウ」という言葉が、「聖なる」の意味を持つことも覚えて下さって損はないと思います(かぼちゃ(パンプキン)で作る顔も仮装も聖なるものではありませんが)。

 プロテスタント教会ではカトリック教会と違い「聖人」という存在を認めないので、プロテスタントの「聖徒の日」は、聖人に思いを致す日ではなく、地上の人生を終えて天国に入れられたクリスチャン全員に思いを致す日です。キリスト教会では、亡くなった方々が地上の人々を訪ねて来るという信仰はないと言ってよいと思います(日本人には少々寂しいかもしれませんが)。イエス・キリストを救い主と信じて亡くなった方々は今、確実に天国におられて、真の神様を讃美・礼拝しておられます。「聖徒の日」は、天国と地上の教会が一つになる日とされています。もっとも、天国と地上の教会が一つになるのは「聖徒の日」に限ったことではなく、毎週の日曜礼拝に時、天国と地上の教会は1つになっているのです。天国でも地上の教会でも、同じ神様を讃美・礼拝しているからです。私は思うのですが、天国に行かれた方々は、天国でひたすら神様を礼拝しておられるのですから、私たちがその方々に近づくには、礼拝に出席することが一番の近道に違いないのです。本日は、礼拝後に召された方々のお写真を礼拝堂の正面に映させていただきます。直接存じ上げない方々もおられますが、私はお写真の方々と共に礼拝生活を送ることができたことを、心より感謝しております。

 先程朗読していただいた新約聖書のヘブライ人への手紙11章は、信仰に生きた人々の生き方をはっきりと示しています。今日は読みませんでしたが第1節は、「信仰とは何か」、信仰の定義を語っています。信仰の定義が明確に語られている箇所としては、聖書で唯一の箇所ではないかと思います。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」「望んでいる事柄を確信し」とは、私たちの勝手な願いが全部実現すると確信することではありません。私たちが神様を信頼して、神様に従って行くならば、必ず神の国、天国に入れていただけると確信することです。「見えない事実を確認する」とは、まだ実現していない神様の約束が、それが神様の約束であるがゆえに必ず実現することを確信し、確認することです。信仰とは、神様を信じ、神様に従うことであると申し上げます。

 (8節)「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」アブラハム(若い頃の名はアブラム)は、カルデア(今のイラク)のウルで生まれ育ちました。そこは月を神として礼拝する土地だったそうです。アブラムの父はテラという人で、テラは家族を連れてカルデアのウルを出発したのです。テラたち一行はハランという所に一旦落ち着き、テラはハランで生涯を終えました。神様がアブラムに呼びかけられました。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す土地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」

 神様はアブラハムに出発をお命じになりました。「私が示す土地に行きなさい。」月という神でないものを拝むことをやめて、真の神様を信じ、真の神様に従うように強く招かれたのです。アブラムはこの招きに応えました。真の神様を礼拝する生き方に進むことを決断し、ハランを出てカナンの地・今のイスラエルの地に入り、真の神様を礼拝する人生に入ったのです。信仰は、真の神様を信じて真の神様に従う決断です。思い切って洗礼を受ける決断をすることでもあります(日本には洗礼・聖餐を行わないキリスト教があります。私はその方々の伝統を尊重致しますが、私どもが属する日本キリスト教団には洗礼がありますので、私どもは洗礼を大切なことと考えています)。そして私たちの日々の生活の1つ1つの事柄において神様に従う決断をすることが大切と思います。日曜日であれば、体調が悪い・天候が荒れていて外出が危険・重要な責任や事情があるなど、特に理由がない限り、教会の礼拝に出席する決断を毎週することになります。アブラハムが神様に従う決断をしたように、私たちも日々の生活で、神様に従う小さな決断を行います。イエス・キリストを救い主と信じてクリスチャンとなられた方々は、(失敗もあったでしょうが)神様に従う決断をくり返しながら地上の人生を歩まれたのです。

 アブラムはハランを出発したとき、75歳でした。当時の寿命は長かったのですが、それでも75歳は遅い出発です。若いときに神様を信じることができればそれがよいのですが、それでも神様を信じるのに遅すぎることはありません。但し、どこかで真の神様を信じる決断をすることは必要です。ひとつの明確なけじめとして洗礼を受けることも大切です。アブラハムは「行き先も知らずに出発した」と書かれていますが、最後の行き先ははっきりしています。それは神の国、天国です。地球上のどこに住んだとしても、私たちの歩みは等しく、神の国・天国を目指す歩みです。お写真に映す方々もそのように歩まれて神の国に行かれたのですし、私たちもその跡に続いて進むのです。毎週神様を礼拝しながらです。
 
 (10節)「アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。」それは神の国です。もちろんこの地上の人生は大切です。私たちには様々な責任や義務があるのですから、毎日の責任をしっかり果たしながら、神様と隣人を愛して生きる毎日の生活は大切です。ですが私たちは、この地上に永久に生きることはできません。いつか地上の人生の終わりが来ます。それで全てが終わってしまうのであれば、やはりむなしさがあると思います。一体何のために苦労して生きて来たのか、何のためにこれからも苦労して生きていくのか、という疑問が湧いてきます。神様が死の先に、祝福の神の国・天国を用意して下さっていることを知れば、慰めを受け望みを持つことができます。地上で苦労しながら神様から与えられた責任を果たして来た人生、これからも苦労して神様と隣人への責任を果たして行く毎日、それが神の国で必ず報われると確信できるからです。ですから家族皆で、日本人皆で、世界の皆で、神の子イエス・キリストを信じ、真の神様を礼拝しながら、真の安息の地である神の国を目指して、仲良く進んで参りたいのです。神の国では、地上の全ての涙と苦労が、神様の愛によって報われるからです。新約聖書のヨハネの黙示録14章13節に、次のように記されています。「書き記せ。『今から後、主(イエス・キリスト)に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。霊(聖霊、神様の清き霊)も言う。『然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。』」

 もちろん、神様は地上でも私たちの祈りに応えて、恵みを与え、ある程度望みをかなえて下さいます。11節にアブラハムの妻サラのケースが書かれています。「信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。」神様が与えると約束されていた男の子をサラが産んだのは、何とサラが90歳のときでした。夫のアブラハムは100歳だったのです。常識ではあり得ないことです。しかし神様に出来ないことは何もない。このことの1つの証明として、神様は100歳のアブラハムと90歳のサラの夫婦に、約束通り男の子を誕生させて下さいました。明らかに奇跡です。この奇跡は、神様に不可能なことは何もないこと、神様はどんなことがあっても、多くの時間がかかったとしても、必ず100%約束を果たされる真実な方であることを証明するために、神様によってなされました。私たちは知ります。神様が100%約束を守られ、神様に従う者を必ず神の国・天国に入れて下さることを。この神様に信頼して決して間違いがないことを確信することができます。試練にも耐えることができます。

 神様は地上でも私たちに恵みを与えて下さいますが、私たちの最終的な希望は神の国・天国にあります。地上では死があるので、地上には最終的な希望がないのです。(13節)「この人たち(アブラハムやサラたち、旧約聖書の信仰者たち)は皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」 「約束されたものを手に入れませんでした」とは、信仰に生きた人々が地上では、すべての恵みを受けたのではないという現実を語っています。辛い試練もあったのです。しかし彼らは、必ず与えられる神の国という究極の希望を望み見て、喜びの声をあげ、地上の礼拝でも神様を讃美したのです。「自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表した」とは、信仰に生きる者が神様に従って愛と清さに生きようとするので、地上では煙たがられたり、憎まれたり、よそ者扱いされて孤独を味わうこともある、ということです。イエス・キリストご自身も、地上の力を持つ人々に憎まれ、十字架で殺されたのです。イエス様に本気で従う人々も、似た経験をすることがあるのです。

 (14節)「このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。」神様に従おうとする人々は、罪人(つみびと)の一人でありつつも、清く生きようと志すので、地上で必ずしも歓迎されず、地上に安住の場がないことがあります。イエス様も「人の子(ご自分)には枕する所もない」(ルカ9:58)とおっしゃいました。奴隷解放宣言を出したアメリカのリンカーン大統領は、聖書を一生懸命に読む人でしたが、ある人に憎まれて暗殺されました。黒人の差別をなくすために努力したマーティン・ルーサー・キング牧師も暗殺されました。この人たちの真の故郷はこの世にはなく、神の国・天国が真の安らぎの故郷なのです。私たちはリンカーン大統領やキング牧師ほど立派ではないかもしれませんが、やはり真の安らぎの故郷は神の国にあるのです。地上での責任を十分に果たした後で、神様が呼んで下さるときに、神の国に入れていただくのです。この信仰・礼拝の歩みに、さらにいろいろな方々が加わって下さることを、心から祈ります。

 (15、16節)「もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」アブラハムもサラも出て来た土地に未練をもたなかったのです。神でないものを礼拝する生き方から訣別したのです。神でないものを礼拝することを偶像崇拝といい、聖書でそれは明確な罪です。偶像崇拝以外にもいろいろな罪がありますから、私たちははっきりした罪から決別し、真の神様を礼拝する新しい生き方へと、アブラハムのように進みたいのです。「神は、彼らのために都を準備されていた」は、慰め深い御言葉です。神の国・天国は幻想ではありません。今は目に見えなくても、間違いなく存在するものです。昔から多くの信仰者が、苦難に遭いながらも、神の国への希望を抱いて、信仰の人生を生き切りました。私たちもその跡に雄々しく続きたいのです。天に行った方々は、天で神様を礼拝しておられます。ですから、私たちが地上で同じ神様を礼拝するときに、天に行った方々と最も身近にいることになります。
 
 本日の旧約聖書は申命記34章1節以下です。モーセはまさに信仰を抱いて死にました。モーセは、エジプトを脱出したイスラエルの民を40年に渡って苦労しながら神様の地上の約束の地の手前まで導いて来ました。神様はモーセを愛しておられ、モーセがピスガの山頂に登り、約束の地のすべてが見渡せるようにして下さいました。それは「あなたが率いて来た民はもうすぐこの良き土地に入るのだから、安心しなさい。あなたは立派に使命を果たした」という神様のねぎらいだと思います。ですが、モーセは自分が犯した一つの罪のために、地上の約束の地に入ることが許されませんでした。モーセは、「約束のものを手に入れませんでした(約束の地に入れなかった)が、はるかにそれ(天国)を見て喜びの声をあげた」と、私は思うのです。地上の使命を次の世代に託して天国に入ったと信じます。 

 私は先週、日本キリスト教団の総会に出席させていただきました。総会は2年に一回開催されます。2日目の朝、過去2年間に天に召された日本キリスト教団の牧師・伝道師、日本キリスト教団で働いて下さった外国人の宣教師の方々を偲ぶ礼拝を献げました。何人かのお世話になった方々のお名前を見て、感無量でした。

 私は9月24日(金)に西東京教区の婦人全体集会で遅れて伺い、かねて存じ上げていた婦人牧師T先生としばらくお話することができました。翌25日(土)には、お隣の西東京市の教会で行われたS先生の講演会でじっくりお話を伺いました。お二人とも東久留米教会の修養会で以前お呼びした先生方で、80代の半ばでいらっしゃいます。東久留米教会初代牧師の浅野悦昭先生も同世代でいらっしゃいます。この世代の牧師の方々は、敗戦によって価値観をひっくり返される体験をしておられます。「天皇陛下のために、お国のために」という生き方を否定され、聖書に出会い、聖書を通して真の神の子イエス・キリストに出会い、イエス・キリストのために生きる生き方へと進まれた方々が多いと思います。大先輩の牧師方のお話をしっかり伺って自分の中に蓄え、かなり力不足ですが、少しでも引き継がせていただきたいと願っています。

 先週の修養会では、講師の棚村重行先生(東京神学大学教授)より使徒信条を学びました。先生は使徒信条の最後の方の「聖徒の交わり」に関して、ご自分のアメリカの留学時代の経験をお話し下さいました(本日の礼拝は「聖徒の日」の礼拝です)。先生が親しくなられた教会の長老さんが、太平洋戦争のとき、棚村先生のお父様と、何と同じ島での戦いに参加していたことが分かったそうです。島で直接顔を合わせたのではないでしょうが、長老さんにとっては敵兵の息子と出会ったことになります。雰囲気が凍りついたそうですが、長老さんが言われたそうです。「良かった。あなたのお父さんは生きていたから、あなたが生まれたんだよねと。今は私たちは主にある兄弟姉妹だ。主にあって眠れる世々の聖徒たちと共に」(棚村重行先生作成の東久留米教会修養会の講演レジュメ『朝、使徒信条を走る』より引用)。イエス・キリストの十字架によって罪を赦された者同士としての和解が起こったのですね。私たちもキリストを信じて互いに和解し、天国におられる聖徒の方々と共に同じ神様を讃美・礼拝しています。私たちも今まさに「聖徒の交わり」の現実の中にあるのです。今日はまさに「聖徒の日」礼拝です。本当に感謝です。アーメン(「真実に、確かに」)。


2014-10-20 23:38:23(月)
「むさぼってはならない 十戒⑩」 2014年10月19日(日) 聖霊降臨節第20主日礼拝説教 
朗読聖書:出エジプト記20章1~21節、ローマの信徒への手紙7章7~25節。
「隣人の家を欲してはならない」(出エジプト記20章17節)。

 十戒の学びも最後の10回目になりました。第十の戒めは新共同訳聖書では、「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」(出エジプト記20章17節)で、2つの文からできています。「欲してはならない」という言葉が二度出ています。口語訳聖書では、次のように訳されています。「あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない。」文語訳聖書ではこうなっています。「汝、その隣人(となり)の家をむさぼるなかれ、また汝の隣人(となり)の妻、およびそのしもべ、しもめ、牛、驢馬、ならびにすべて汝の隣人の持物をむさぼるなかれ。」 第十の戒めが、むさぼりを戒める教えであることがよく分かります。むさぼりは言い換えると貪欲です。貪欲を戒める教えなのです。人間の欲望には限りがありません。それを戒める教えなのです。

 人間の歴史は最初からむさぼりの歴史だったとも言えます。最初の夫婦エバとアダムがむさぼりの罪を犯しました。神様はエデンの園にたくさんの木をお造りになりました。神様は気前の良い方で、こう言われました。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」しかし蛇(正体は悪魔)がエバを、神様から引き離そうと誘惑します。エバは誘惑に負けてしまいます。「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」二人はほかの木の実を食べるだけで十二分に幸せだったのです。神様が「決して食べるな」と明確に禁じられた善悪の知識の木の実を食べる必要は全くありませんでした。必要ないのに食べた。むさぼりの罪・貪欲の罪を犯したのです。この罪によってエバとアダムは神様に背き、エデンの園から追放されてしまったのです。人類が犯した最初の罪がむさぼりの罪だったのです。

 旧約聖書の民数記11章には、エジプトを脱出して荒れ野を旅するイスラエルの民が経験した次のエピソードが記されています。民が、「誰か肉を食べさせてくれないものか」と泣きごとを言ったときです。「主のもとから風が出て、海の方からうずらを吹き寄せ、宿営の近くに落とした。うずらは、宿営の周囲、縦横それぞれ一日の道のりの範囲にわたって、地上2アンマ(約90㎝)ほどの高さに積もった。民は出て行って、終日終夜、そして翌日も、うずらを集め、少ない者でも10ホメル(約2300ℓ)は集めた(かなりの量ですね)。そして宿営の周りに広げておいた。肉がまだ歯の間にあって、かみ切られないうちに、主は民に対して憤りを発し、激しい疫病で民を打たれた。そのためその場所は、キブロト・ハタアワ(貪欲の墓)と呼ばれている。貪欲な人々をそこに葬ったからである。」神様が貪欲な人々をお裁きになったのです。

 もう1つ、むさぼりのエピソードがヨシュア記7章に記されています。イスラエルの民が約束の地に入り、エリコの町を占領したときのことです。神様は、町とその中にあるものをことごとく滅ぼし尽くして神様に献げよとお命じになりました。滅ぼし尽くすと聞くと私たちは驚きますが、これは神様が聖なる方であり、罪と悪を非常に憎んでおられ、罪と悪を完全に滅ぼす方であることを示すでしょう。エリコの町を占領したイスラエルの民は、町とその中にあるものをことごとく滅ぼし尽くして神様に献げることを求められ、その中から一部でもかすめ取ってはならないと申し渡されたのです。ところがアカンという男性が、一部を黙って盗み取ったのです。事は発覚し、アカンは罪を告白します。「分捕り物の中に一枚の美しいシンアルの上着、銀200シェケル、重さ50シェケルの金の延べ板があるのを見て、欲しくなって取りました。」明らかにむさぼり・貪欲の罪を犯したのです。アカンはこの罪のために、石打ちによる死刑になったのです。

 新約聖書に進んで、イエス様がエルサレムで神殿を清めたことも思い出されます。マルコによる福音書は、それがイエス様が十字架にかかられるわずか4日前の月曜日のことだったと記しています。「それから一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。『こう書いてあるではないか。「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。」ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。』」 売り買い・商売が全て悪ではないでしょう。私たちは売り買いを全然しないで生きることはできません。しかし人間はどうしても、もっと欲しくなるのです。神殿にいる人々さえも欲望が強くなり、貪欲な心に生きていたのです。真の神様よりもお金を愛する気持ちが強くなっていたのです。私たちも一つ間違えればそうなる恐れはあります。

 聖なる場であるはずの神殿の中にさえ、聖なる礼拝の中にさえ、むさぼりの罪・貪欲の罪が入り込んでいたのです。礼拝さえもむさぼりの罪で汚されていたのです。もちろん礼拝とむさぼり・貪欲は全く両立しません。それは水と油のように完全に相反する事柄です。聖なる礼拝に、むさぼり・貪欲が侵入してはいけないのは当然です。ところがエルサレム神殿には、むさぼり・貪欲が侵入していたのです。イエス様の心は深い悲しみと聖なる憤りで満たされ、むさぼりと貪欲を全力で叩き出されました。ヨハネによる福音書は、イエス様が縄で鞭を作ったとさえ記しています。神殿が聖なる場になるように、礼拝が聖なる場になるように、全力で清めを行われたのです。これは他人ごとではないと思うのです。私たちもすぐむさぼり・貪欲の罪に汚染されるので、毎日イエス様に自分を清めていただく必要があります。

 「『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」「強盗の巣」とは強烈な言葉です。神殿が強盗の巣(強盗の巣窟)になっていると、イエス様より前に語ったのは預言者エレミヤです。イエス様の時代より約600年前のことです。エレミヤは、エレミヤ書7章でエルサレム神殿に来る人々にこう語りました。「盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアル(偶像)に香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、わたし(真の神様)の名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。」エレミヤの時代の人々は、偶像崇拝を行い、盗み、殺し、姦淫し、つまりは十戒を平気で破っていたようです。十戒をどんどん破りながら神殿に来て形ばかりお祈りし礼拝しても、真の神様がそのような祈りと礼拝を喜ばれるはずがありません。神様の目には神殿が、人々のむさぼり・貪欲の罪によって著しく汚染されていると見えたのです。

 本日の新約聖書は、ローマの信徒への手紙7章7節以下です。イエス様の弟子・使徒パウロが、私たちがどのようにして罪から救われるかを述べる箇所です。「内在する罪の問題」が小見出しです。私たちの心の中の罪という問題を取り上げているのです。それはパウロ自身の心の中にある罪の問題でもあります。(7節)「では、どういうことになるのか。律法(その代表が十戒)は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が『むさぼるな』(第十の戒め)と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。」 ここに律法(十戒)の大切な役割の1つが記されています。律法は神様の正しい意志、聖なる意志を示します。「隣人の家を欲してはならない」、「むさぼってはならない。」つまり、「むさぼりは罪だ」と教えてくれるのです。私たちは十戒を1つ1つ丁寧に学ぶことで、自分が十戒のどの1つをも完全に守ることができていないことを悟ります。自分が罪をもつ者、罪人(つみびと)であることを悟るのです。律法(十戒)は、神様の聖なる意志を教え、そして私たちが律法を守る力のない罪人(つみびと)であることを教えるのです。自分が罪人であることを知った私たちは、どうすれば自分は罪から救われるのかを追い求めます。その私たちに聖書は、救い主イエス・キリストを指し示すのです。ガラテヤの信徒への手紙3章24節に書かれているように、律法は私たちをキリストのもとへ導く養育係なのです。イエス・キリストが世界の全ての人の全ての罪を背負って十字架で死なれ、三日目に復活なさったので、このイエス様を救い主と信じ告白する人は、全ての罪を赦され、永遠の命をいただくのです。

 パウロが言いたいことはこうです。「律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかっただろう。しかし律法が『むさぼるな』と言ったために、かえって私の心の中にむさぼりの罪があることが非常にはっきりと浮かび上がって来た。』律法は聖なるもの、善いものであり、律法を丁寧に学ぶと、私たちの心の中に律法に反する思い(罪)が存在することが浮き彫りになるのです。パウロが自分の心の中の罪のことで悩む様子が、14節以下に記されています。「わたしたちは、律法が霊的なもの(聖なるもの)であると知っています。しかし、わたしは肉の人(罪ある人間)であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」パウロは、自分で自分を正しくコントロールすることができず、誘惑に負けて罪の行いをしてしまうと悩みを告白しているのです。

 18~23節も、パウロの悩みの告白です。「わたしは、自分のうちには、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。」 パウロが、自分が神様の律法よりを行うよりは、むしろ誘惑に負けて罪を犯してしまう、罪の奴隷だったと告白しているのです。罪の奴隷であったということは、神様の支配下ではなく罪の支配下にあったということです。神様から離れてしまっていたことになります。命を与えて下さる神様から離れることは死を意味します。人が死ぬのは、自分の罪に対する報いとして死ぬのです。人の死は、わたしたちが罪を犯して神様から離れてしまった結果起こるのです。単なる自然の現象ではないのです。私たちが罪を悔い改めて、イエス・キリストを救い主と信じ告白すれば、私たちはすべての罪の赦しを受け、死を超える永遠の命を受けます。

 24節は、パウロの魂の叫びです。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」直後の25節で、十字架にかかって私たち全ての人間の全ての罪を背負って下さった救い主イエス・キリストを知った喜びを歌います。「私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝致します。」 形の上では十戒を守る生活をしていたが、心の中のむさぼりの罪をなくすことができなかったパウロも、主イエス様を救い主と信じたことで、全ての罪の赦しを受けたのです。これは私たちも同じです。イエス様は十字架にかかることでご自分の命を差し出された方です。むさぼり・貪欲の罪を犯されたことは一度もなく、その正反対の生き方、与える生き方に徹せられたのです。

 そのイエス様が貪欲を戒められた場面が、ルカによる福音書12章13節以下にあります。ある人がイエス様に、「先生、わたしにも遺産を分けてくれるうに兄弟に言ってください」と頼みましたが、イエス様は「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」と言ってお断りになります。そして人々に言われます。これは私たちにとっても大いに教えられる御言葉です。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」 その後に話されたたとえ話がとても印象的です。時々このたとえ話を読み直すと、自分の日々の生き方が、少しはイエス様に喜ばれる生き方に変えられるのではないかと感じます。 「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。」 イエス様は結論としておっしゃいます。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」 神の前で豊かになりなさいということです。自分にできる範囲で、困っている方々に必要なものを差し上げなさいということです。

 イエス様は地上で、少しもむさぼらない生き方をなさいました。ひたすら愛を与える生き方をなさいました。使徒パウロも、イエス様に倣う自分の生き方を次のように述べています。使徒言行録20章33節以下です。「わたしは人の金銀や財産をむさぼったことはありません。ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」

 今年の3月に私も参加した、日本キリスト教団の東日本大震災国際会議が出した宣言文は、今から約3年7ヶ月前のあの福島の原発事故は、私たちの7つの罪の結果であったと告白しています。「傲慢、貪欲、偶像崇拝、隠ぺい、怠惰、無責任、責任転嫁」の7つの罪です。貪欲はむさぼりのことです。 この中の第二の罪「貪欲」と第三の罪「偶像崇拝」の部分を続けて読みます。「第二の罪は、原子力を用いることによる繁栄、豊かさへの欲望と、より大きな力への渇望を制御できなかった貪欲です。この貪欲は、原子力発電を今なお維持しようとする力として存在しています。」「貪欲に陥ったわたしたちは、生ける真の神に依り頼むのではなく、経済的利益や富を至上の価値としてあがめ、それに仕える偶像崇拝の罪に陥りました。『貪欲は偶像礼拝にほかならない』(コロサイの信徒への手紙3章5節)。原子力発電所や核燃料サイクル基地は、まさにこの偶像崇拝の神殿というべきものであり、これらの施設は科学技術への、根拠のない安易な信頼という非科学的思考に基づく『安全神話』によって維持されてきました。」 「貪欲は偶像礼拝にほかならない」(!)。十戒の第十の戒め「むさぼってはならない」と、偶像礼拝を禁じる第一の戒め「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」は一つのことだと知るのです。

 貪欲になり、自分のためだけにため込むようになると、私たちは隣人を見失い孤独になります。貪欲は自分を不幸にするのではないでしょうか。私たちは「足るを知る」という言葉を知っています。ある教会員の方は、高齢のため残念ながら歩くことがおできになりませんが、目が割によく、「新聞を毎日読むことができることを感謝しています」と語られました。感謝という言葉は、誰が語ってもすばらしい言葉です。神様は、私たちが神様に依り頼み、持てるものを互いに分け合い、与え合って、隣人を発見し隣人を増やして生きることをお望みだと思います。貪欲を捨てる勇気を持ち、「神の前に豊かになる」生き方を目ざしたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。