
2017-01-26 14:45:06(木)
「小さなことに、大きな愛をこめて」 伝道メッセージ 石田真一郎
「(イエスは)たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手拭ぬぐいでふき始められた」(新約聖書・ヨハネによる福音書13章5節)。
神の子イエス・キリストの誕生を祝う日がクリスマスです。イエス様が誕生されたのは、私たち全人類の全部の罪を、身代りに脊負って十字架で死に、三日目に復活なさるためでした。十字架に架かる前日の木曜日には、弟子たちの汚い足を、洗われました。罪とは、私たち皆がもつ自己中心の思い、「自分さえよければよい」という思い、エゴイズムです。「自分の仲間や家族さえよければよい」、「自分の国さえよければよい」という考えも罪です。イエス様は、私たちの心の中の汚い罪をも洗って下さる方です。
渡辺和子さんというカトリック教会の修道女が、昨年末に89歳で天国に帰られました(1936年の「二・二六事件」で、お父様の命を奪われた経験をおもちです)。私はこの方は日本の宝と思うので、真に残念です。渡辺さんの読みやすいベストセラー『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬社、2012年、952円+税)は、東久留米の書店でも「お薦めの本」として、レジに置かれていました。心に残る言葉が記されています。「私たちには偉大なことはできません。しかし、小さなことに大きな愛をこめることはできるのです」(マザー・テレサの言葉)。「苦しいから、もうちょっと生きてみよう」という言葉も大切です。
続編の『面倒だから、しよう』(幻冬社、2013年、952円+税)には、「神は決して、あなたの力に余る試練を与えない。試練には、それに耐える力と、逃れる道を備えてくださる」(新約聖書・コリントの信徒への手紙(一)10章13節)とあります。「この世に“雑用”という名の用はない。用を雑にした時に生まれる」という、ドキッとさせられる言葉もあります。「単調な仕事でも愛を込めて行うことが大切。でないと私たちはロボットになってしまう」という貴重な教えです。今、人口知能がもてはやされますが、人口知能に人格はありません。知性が最高でも、心がなければ無意味です。
2冊を読み返し、渡辺さんの教えを少しでも実践する2017年を送りたいと、祈ります。皆様も、ぜひお読み下さい。アーメン(「真実に」)。
神の子イエス・キリストの誕生を祝う日がクリスマスです。イエス様が誕生されたのは、私たち全人類の全部の罪を、身代りに脊負って十字架で死に、三日目に復活なさるためでした。十字架に架かる前日の木曜日には、弟子たちの汚い足を、洗われました。罪とは、私たち皆がもつ自己中心の思い、「自分さえよければよい」という思い、エゴイズムです。「自分の仲間や家族さえよければよい」、「自分の国さえよければよい」という考えも罪です。イエス様は、私たちの心の中の汚い罪をも洗って下さる方です。
渡辺和子さんというカトリック教会の修道女が、昨年末に89歳で天国に帰られました(1936年の「二・二六事件」で、お父様の命を奪われた経験をおもちです)。私はこの方は日本の宝と思うので、真に残念です。渡辺さんの読みやすいベストセラー『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬社、2012年、952円+税)は、東久留米の書店でも「お薦めの本」として、レジに置かれていました。心に残る言葉が記されています。「私たちには偉大なことはできません。しかし、小さなことに大きな愛をこめることはできるのです」(マザー・テレサの言葉)。「苦しいから、もうちょっと生きてみよう」という言葉も大切です。
続編の『面倒だから、しよう』(幻冬社、2013年、952円+税)には、「神は決して、あなたの力に余る試練を与えない。試練には、それに耐える力と、逃れる道を備えてくださる」(新約聖書・コリントの信徒への手紙(一)10章13節)とあります。「この世に“雑用”という名の用はない。用を雑にした時に生まれる」という、ドキッとさせられる言葉もあります。「単調な仕事でも愛を込めて行うことが大切。でないと私たちはロボットになってしまう」という貴重な教えです。今、人口知能がもてはやされますが、人口知能に人格はありません。知性が最高でも、心がなければ無意味です。
2冊を読み返し、渡辺さんの教えを少しでも実践する2017年を送りたいと、祈ります。皆様も、ぜひお読み下さい。アーメン(「真実に」)。
2017-01-26 14:41:24(木)
「受けるより与える方が幸い」 伝道メッセージ 石田真一郎
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシア(キリスト)である。」(新約聖書・ルカ福音書2章11節)
イギリスの作家オスカー・ワイルドの『幸福な王子』(新潮文庫、438円+税)は、クリスマスにふさわしい物語です。ある町に幸福な王子の像が立ち、両目は青いサファイアで、刀のつかには赤いルビーが輝き、全身が薄い純金の箔でした。ある冬前の夜、一羽のつばめが暖かいエジプトに行く途中、像の下にとまると大きな水のしずくが落ちて来ます。王子の目からの涙です。王子は生前、宮殿で幸福いっぱいの日々を送りました。しかし死んで像として高い所に置かれ、町の人のつらさが見えるようになります。
王子はつばめに頼みます。母親と病気の男の子が暮らす貧しい家に、ルビーを運ぶことを。つばめは一晩だけ王子の使いになることにし、実行すると心が暖かくなりました。王子も本当の幸福を味わったでしょう。翌日王子は、つばめにもう一晩共にいて、ひもじくて戯曲を書く力を失っている青年に、自分の片目のサファイアを運ぶように願います。つばめは泣きますが実行します。王子はつばめに頼みます。売り物のマッチをどぶへ落として、親に怒られると泣いている女の子に、もう一つの目のサファイアを運ぶことを。王子が失明するので、つばめはためらいますが実行します。
つばめはエジプト行きをやめて、王子のそばにいることにし、町の貧しい人々の話をします。王子は、体の金箔を一枚ずつ剥がして運ぶように言い、すっかり灰色の体になります。本当に寒くなり、つばめは王子の唇にキスして息絶えます。王子の鉛の心臓が真っ二つに割れます。町の人々は、美しくなくなった王子の像を引きおろし、鉛の心臓とつばめの死骸を投げ捨てます。神様が天使に、この町で一番尊いものを二つ持って来るように命じられます。それは何でしょうか…!
クリスマスは、私たちの救い主イエス様の誕生を祝う日です。イエス様は十字架にかかって、私たちに命を与えて下さいました。「受けるよりは与える方が幸いである」と言われます。あの王子の心は、イエス様の心と一致します。「一生を終えて後に残るのは、私たちが集めたものではなく、与えたものである」という言葉もあります(シャンドリーという人の言葉とのこと)。少しでも実践できるとよいですね。アーメン(「真実に」)。
イギリスの作家オスカー・ワイルドの『幸福な王子』(新潮文庫、438円+税)は、クリスマスにふさわしい物語です。ある町に幸福な王子の像が立ち、両目は青いサファイアで、刀のつかには赤いルビーが輝き、全身が薄い純金の箔でした。ある冬前の夜、一羽のつばめが暖かいエジプトに行く途中、像の下にとまると大きな水のしずくが落ちて来ます。王子の目からの涙です。王子は生前、宮殿で幸福いっぱいの日々を送りました。しかし死んで像として高い所に置かれ、町の人のつらさが見えるようになります。
王子はつばめに頼みます。母親と病気の男の子が暮らす貧しい家に、ルビーを運ぶことを。つばめは一晩だけ王子の使いになることにし、実行すると心が暖かくなりました。王子も本当の幸福を味わったでしょう。翌日王子は、つばめにもう一晩共にいて、ひもじくて戯曲を書く力を失っている青年に、自分の片目のサファイアを運ぶように願います。つばめは泣きますが実行します。王子はつばめに頼みます。売り物のマッチをどぶへ落として、親に怒られると泣いている女の子に、もう一つの目のサファイアを運ぶことを。王子が失明するので、つばめはためらいますが実行します。
つばめはエジプト行きをやめて、王子のそばにいることにし、町の貧しい人々の話をします。王子は、体の金箔を一枚ずつ剥がして運ぶように言い、すっかり灰色の体になります。本当に寒くなり、つばめは王子の唇にキスして息絶えます。王子の鉛の心臓が真っ二つに割れます。町の人々は、美しくなくなった王子の像を引きおろし、鉛の心臓とつばめの死骸を投げ捨てます。神様が天使に、この町で一番尊いものを二つ持って来るように命じられます。それは何でしょうか…!
クリスマスは、私たちの救い主イエス様の誕生を祝う日です。イエス様は十字架にかかって、私たちに命を与えて下さいました。「受けるよりは与える方が幸いである」と言われます。あの王子の心は、イエス様の心と一致します。「一生を終えて後に残るのは、私たちが集めたものではなく、与えたものである」という言葉もあります(シャンドリーという人の言葉とのこと)。少しでも実践できるとよいですね。アーメン(「真実に」)。
2017-01-26 14:37:18(木)
「広島で」 伝道メッセージ 石田真一郎
「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(イエス・キリスト。新約聖書・マタイ福音書5章9節)。
昨年8月23日(火)に、32年ぶりに広島市の平和記念資料館(原爆資料館)と原爆ドームを見学しました。とても暑い真夏の日でした。
私の祖父の兄が1945年8月6日に広島で被爆し、亡くなっています。被爆直後は、熱くて苦しんでいる周りの人々を川に運ぶなど、多少救助活動を行い、数日後に亡くなったそうです。私の高校時代の友人のお爺様も被曝され、しばらく後に「桃が食べたい」と語りつつ、亡くなったと聞きます。資料館から川を渡った所にある原爆ドームをじっくり見ました。囲みで保護されていて中には入れませんが、ドームの内外に瓦礫がありました。被爆後の状態をできるだけ残そうとしているのでしょう。このドームの上空で原爆は炸裂したそうです。
平和記念公園の原爆死没者慰霊碑には、「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」と刻まれています。日本が二度と戦争という過ちを引き起こさないことを誓い、どの国も核兵器使用という大きな過ちを絶対に犯さないように日本として誓い、訴えていくという意味と思います。核兵器を憎む気持ちは、日本人が永久に持つ必要があります。私はだいぶ以前にアメリカに行きましたが、アメリカ人の多くは核兵器の恐ろしさをよく分かっていないと、強く感じました。国として被爆体験がないからです。
でも平和記念資料館では、アメリカ人らしき家族も熱心に見学していました。イスラム教徒らしき方々もおられ、韓国の高校生がグループで来ていました(修学旅行?)。とてもよいことだと感謝しました。5月にアメリカの現職大統領として初めて広島を訪れたオバマ氏が折った折り鶴と平和メッセージ(「核兵器なき世界を追求する勇気を持とう」との趣旨)も展示されていました。平和を愛したローマ法王ヨハネ・パウロ2世も1981年に広島と長崎を訪問して、核兵器廃絶を訴えました。核兵器廃絶の思いを忘れかけている自分に気づき、その理想を取り戻さねば、と思いました。アーメン(「真実に」)。
昨年8月23日(火)に、32年ぶりに広島市の平和記念資料館(原爆資料館)と原爆ドームを見学しました。とても暑い真夏の日でした。
私の祖父の兄が1945年8月6日に広島で被爆し、亡くなっています。被爆直後は、熱くて苦しんでいる周りの人々を川に運ぶなど、多少救助活動を行い、数日後に亡くなったそうです。私の高校時代の友人のお爺様も被曝され、しばらく後に「桃が食べたい」と語りつつ、亡くなったと聞きます。資料館から川を渡った所にある原爆ドームをじっくり見ました。囲みで保護されていて中には入れませんが、ドームの内外に瓦礫がありました。被爆後の状態をできるだけ残そうとしているのでしょう。このドームの上空で原爆は炸裂したそうです。
平和記念公園の原爆死没者慰霊碑には、「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」と刻まれています。日本が二度と戦争という過ちを引き起こさないことを誓い、どの国も核兵器使用という大きな過ちを絶対に犯さないように日本として誓い、訴えていくという意味と思います。核兵器を憎む気持ちは、日本人が永久に持つ必要があります。私はだいぶ以前にアメリカに行きましたが、アメリカ人の多くは核兵器の恐ろしさをよく分かっていないと、強く感じました。国として被爆体験がないからです。
でも平和記念資料館では、アメリカ人らしき家族も熱心に見学していました。イスラム教徒らしき方々もおられ、韓国の高校生がグループで来ていました(修学旅行?)。とてもよいことだと感謝しました。5月にアメリカの現職大統領として初めて広島を訪れたオバマ氏が折った折り鶴と平和メッセージ(「核兵器なき世界を追求する勇気を持とう」との趣旨)も展示されていました。平和を愛したローマ法王ヨハネ・パウロ2世も1981年に広島と長崎を訪問して、核兵器廃絶を訴えました。核兵器廃絶の思いを忘れかけている自分に気づき、その理想を取り戻さねば、と思いました。アーメン(「真実に」)。
2017-01-12 1:33:18(木)
「キリストは復活であり、命」 2017年1月8日(日) 降誕節第3主日礼拝説教
朗読聖書:ダニエル書12章1~3節、ヨハネによる福音書11章1~27節。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ福音書11章25節)。
(第1節)「ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタ村ベタニヤの出身で、ラザロと言った。」ベタニヤという地名は、「神により頼む貧しい人の家」という意味だそうです。ラザロという名前はエリエゼル、あるいはエルアザルの短縮形で、「神は助ける」という意味だそうです。このヨハネ福音書11章で、まさに神様の偉大な助けがラザロに与えられます。「ある病人がいた」とありますが、私たちも何か小さくても病気を持っていると思います。あるいは罪・自己中心という病気を持っています。私たちに罪があるから、私たちは死ななければなりません。これが聖書の教える真理です。いずれにしても、私たちは体の病気を持ち、罪という魂・霊の病気を持っています。ラザロと同じです。ラザロに神様の大いなる助けが必要であるのと同じで、私たちにも神様の大いなる助けが必要です。私たちが現に今ここで生きているのは、神様が支えて下さっているからです。神様の支えなしに、私たちは1秒も生きることができません。私たちの心臓は、私たちの努力で動いているのではありません。私たちの心臓は、神様の愛の力によって動いています。
(2節)「このマリアは主(イエス様)に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、『主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです』と言わせた。」病状は深刻だったに違いありません。姉妹たちは、「イエス様、一刻も早く来て下さい。そして私たちの愛する兄弟ラザロの病気を癒やして下さい」と叫びたい気持ちだったと思うのです。私たちも、神様に必死に祈って訴えたいときはあります。私たちが、小さな声で弱く祈ることもあります。そのような祈りでも、聖霊の執り成しによって、父なる神様の耳と心に届きます。宗教改革者マルティン・ルターは、「私たちが人知れず、片言で『天にいます我らの父よ』と、貧しい祈りをささげるときに、それは聖霊によって、雲をつんざき、天をつんざき、神の御座にとどろき渡る」と言っているそうです(『大村勇説教集 輝く明けの明星』日本基督教団阿佐ヶ谷教会、1991年、260ページ)。ですから私たちは、祈りの手応えを感じないと感じるときも、神様が必ず耳を傾けていて下さると信頼して、いつも神様に祈ってゆきたいのです。
ここではしかしイエス様は、すぐには動いておられません。(4節)「イエスは、それを聞いて言われた。『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。』」今から25年くらい前でしょうか、山川千秋さんという男性テレビアナウンサーがおられました。50代くらいで亡くなったのですが、イエス・キリストを救い主と信じ、クリスチャンとなって亡くなりました。その後、山川さんの証しの書と呼ぶべき『死は終わりではない』という本が出版されました。ご家族と関係者が出版されたのかと思います。私も当時、それを読みました。山川さんは、山川さんに伝道なさったドイツ人の宣教師さんから、「死は終わりではない。むしろイエス様と共にいることのできる、恵みの時の始まりです」と教えられ、それを信じて天に召されましたようです。『死は終わりではない』という題が、イエス様の「この病気は死で終わるものではない」からとられているのかどうかは分かりません。しかし似ているので、私は思い出しました。
イエス様は二日間滞在された上で、言われます。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」イエス様はラザロを友と呼んで下さいました。私たちをも、友と呼んで下さいます。「友のために自分の命を捨てること。これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしは、安息日あなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」(ヨハネ福音書15章13~17節)。イエス様に友と呼んでいただけること以上の光栄はありません。
イエス様はこの後、ラザロを復活させられます。そのことがユダヤの指導者たちの殺意を招きます。そしてイエス様は十字架に架けられます。イエス様はそうなることを見通しておられたはずです。それでもラザロを復活させなさいます。ご自分がこのために十字架で殺されることを承知の上で、イエス様はラザロを復活させられます。ラザロという友を愛して、ラザロのためにご自分の命を捨てて下さったのです。
イエス様がベタニアに行ってご覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていました。これはラザロが仮死状態ではなく完全に死んだこと、蘇生の可能性がゼロであることを示します。イエス様はラザロの姉妹マルタに宣言されます。「あなたの兄弟は復活する。」イエス様の真実がこもった、力強い言葉です。イエス様以外の誰にも言うことができない言葉です。マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えます。当時のユダヤ人の多くは、死者の復活があると信じていたようです。使徒言行録23章8節に、「(ユダヤ教)のサドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めている」とあります。サドカイ派は死者の復活というものはないと主張していましたが、ファリサイ派は死者の復活ということがあると主張していました。
ファリサイ派がそう信じた根拠の1つは、本日の旧約聖書・ダニエル書12章の2節と思います。「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。目覚めた人々は大空のように輝き、多くの者の救いとなった人々は、とこしえに星と輝く。」マルタは、特にファリサイ派ではなかったかもしれませんが、「(ラザロ)が終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言いましたから、死者の復活ということはあると信じていたことが分かります。但しそれは、遠い将来のことで、それでは今の私にほとんど慰めにならないと言っているように聞こえます。
それに対してイエス様は、「わたしは(わたしこそ)復活であり、命である。わたしを(神の子と)信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」とマルタに問われます。今も生きておられるイエス様こそ復活であり、命(永遠の命)です。これは大きな慰めであり、希望です。そのイエス様が、今も聖霊として私たちと共にいて下さるのですから、本当に感謝です。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ人への手紙13章8節)。
イエス様はラザロを復活させられます。しかしラザロはその後、もう一度死んだはずです。ラザロの復活は、完全な復活ではありません。イエス様の復活こそ、完全な復活です。もはや二度と死なれないからです。ラザロの復活は不完全な復活で、イエス様の完全な復活の前触れです。イエス様は、イエス様を救い主と信じるわたしたちにも永遠の命と、復活の体を授けて下さいます。それは栄光の体です。
死者の復活ということがあること、イエス様が最初に死者の中から復活されたことを、使徒パウロがコリントの信徒への手紙(一)15章で、力を尽くして説いています。コリントの人々は、ギリシア人です。ギリシア人は霊魂不滅を信じていたようですが、旧約聖書が説くような復活の信仰がなかったようです。日本人もよく似ています。聖書の教えは、霊魂の不滅ではありません。人間の体も心も霊も魂も罪に汚染されているので、死ぬのです。死者の復活が聖書の教えです。復活の後に、最後の審判があるようです。パウロはコリントのクリスチャンたちに、死者の復活があること、イエス様が確かに死者の中から復活された事実を、懸命に説きます。
「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」
イエス様は、確かに死者の中から復活され、天に昇られ、天におられます。そしていずれ必ず再びこの地上に来られます。このイエス様を救い主、神の子と信じて歩みましょう。イエス様を信じる人生にこそ、すべての罪の赦し、永遠の命と復活の体という真の希望があるのですから(「真実に)。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ福音書11章25節)。
(第1節)「ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタ村ベタニヤの出身で、ラザロと言った。」ベタニヤという地名は、「神により頼む貧しい人の家」という意味だそうです。ラザロという名前はエリエゼル、あるいはエルアザルの短縮形で、「神は助ける」という意味だそうです。このヨハネ福音書11章で、まさに神様の偉大な助けがラザロに与えられます。「ある病人がいた」とありますが、私たちも何か小さくても病気を持っていると思います。あるいは罪・自己中心という病気を持っています。私たちに罪があるから、私たちは死ななければなりません。これが聖書の教える真理です。いずれにしても、私たちは体の病気を持ち、罪という魂・霊の病気を持っています。ラザロと同じです。ラザロに神様の大いなる助けが必要であるのと同じで、私たちにも神様の大いなる助けが必要です。私たちが現に今ここで生きているのは、神様が支えて下さっているからです。神様の支えなしに、私たちは1秒も生きることができません。私たちの心臓は、私たちの努力で動いているのではありません。私たちの心臓は、神様の愛の力によって動いています。
(2節)「このマリアは主(イエス様)に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、『主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです』と言わせた。」病状は深刻だったに違いありません。姉妹たちは、「イエス様、一刻も早く来て下さい。そして私たちの愛する兄弟ラザロの病気を癒やして下さい」と叫びたい気持ちだったと思うのです。私たちも、神様に必死に祈って訴えたいときはあります。私たちが、小さな声で弱く祈ることもあります。そのような祈りでも、聖霊の執り成しによって、父なる神様の耳と心に届きます。宗教改革者マルティン・ルターは、「私たちが人知れず、片言で『天にいます我らの父よ』と、貧しい祈りをささげるときに、それは聖霊によって、雲をつんざき、天をつんざき、神の御座にとどろき渡る」と言っているそうです(『大村勇説教集 輝く明けの明星』日本基督教団阿佐ヶ谷教会、1991年、260ページ)。ですから私たちは、祈りの手応えを感じないと感じるときも、神様が必ず耳を傾けていて下さると信頼して、いつも神様に祈ってゆきたいのです。
ここではしかしイエス様は、すぐには動いておられません。(4節)「イエスは、それを聞いて言われた。『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。』」今から25年くらい前でしょうか、山川千秋さんという男性テレビアナウンサーがおられました。50代くらいで亡くなったのですが、イエス・キリストを救い主と信じ、クリスチャンとなって亡くなりました。その後、山川さんの証しの書と呼ぶべき『死は終わりではない』という本が出版されました。ご家族と関係者が出版されたのかと思います。私も当時、それを読みました。山川さんは、山川さんに伝道なさったドイツ人の宣教師さんから、「死は終わりではない。むしろイエス様と共にいることのできる、恵みの時の始まりです」と教えられ、それを信じて天に召されましたようです。『死は終わりではない』という題が、イエス様の「この病気は死で終わるものではない」からとられているのかどうかは分かりません。しかし似ているので、私は思い出しました。
イエス様は二日間滞在された上で、言われます。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」イエス様はラザロを友と呼んで下さいました。私たちをも、友と呼んで下さいます。「友のために自分の命を捨てること。これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしは、安息日あなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」(ヨハネ福音書15章13~17節)。イエス様に友と呼んでいただけること以上の光栄はありません。
イエス様はこの後、ラザロを復活させられます。そのことがユダヤの指導者たちの殺意を招きます。そしてイエス様は十字架に架けられます。イエス様はそうなることを見通しておられたはずです。それでもラザロを復活させなさいます。ご自分がこのために十字架で殺されることを承知の上で、イエス様はラザロを復活させられます。ラザロという友を愛して、ラザロのためにご自分の命を捨てて下さったのです。
イエス様がベタニアに行ってご覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていました。これはラザロが仮死状態ではなく完全に死んだこと、蘇生の可能性がゼロであることを示します。イエス様はラザロの姉妹マルタに宣言されます。「あなたの兄弟は復活する。」イエス様の真実がこもった、力強い言葉です。イエス様以外の誰にも言うことができない言葉です。マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えます。当時のユダヤ人の多くは、死者の復活があると信じていたようです。使徒言行録23章8節に、「(ユダヤ教)のサドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めている」とあります。サドカイ派は死者の復活というものはないと主張していましたが、ファリサイ派は死者の復活ということがあると主張していました。
ファリサイ派がそう信じた根拠の1つは、本日の旧約聖書・ダニエル書12章の2節と思います。「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。目覚めた人々は大空のように輝き、多くの者の救いとなった人々は、とこしえに星と輝く。」マルタは、特にファリサイ派ではなかったかもしれませんが、「(ラザロ)が終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言いましたから、死者の復活ということはあると信じていたことが分かります。但しそれは、遠い将来のことで、それでは今の私にほとんど慰めにならないと言っているように聞こえます。
それに対してイエス様は、「わたしは(わたしこそ)復活であり、命である。わたしを(神の子と)信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」とマルタに問われます。今も生きておられるイエス様こそ復活であり、命(永遠の命)です。これは大きな慰めであり、希望です。そのイエス様が、今も聖霊として私たちと共にいて下さるのですから、本当に感謝です。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ人への手紙13章8節)。
イエス様はラザロを復活させられます。しかしラザロはその後、もう一度死んだはずです。ラザロの復活は、完全な復活ではありません。イエス様の復活こそ、完全な復活です。もはや二度と死なれないからです。ラザロの復活は不完全な復活で、イエス様の完全な復活の前触れです。イエス様は、イエス様を救い主と信じるわたしたちにも永遠の命と、復活の体を授けて下さいます。それは栄光の体です。
死者の復活ということがあること、イエス様が最初に死者の中から復活されたことを、使徒パウロがコリントの信徒への手紙(一)15章で、力を尽くして説いています。コリントの人々は、ギリシア人です。ギリシア人は霊魂不滅を信じていたようですが、旧約聖書が説くような復活の信仰がなかったようです。日本人もよく似ています。聖書の教えは、霊魂の不滅ではありません。人間の体も心も霊も魂も罪に汚染されているので、死ぬのです。死者の復活が聖書の教えです。復活の後に、最後の審判があるようです。パウロはコリントのクリスチャンたちに、死者の復活があること、イエス様が確かに死者の中から復活された事実を、懸命に説きます。
「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」
イエス様は、確かに死者の中から復活され、天に昇られ、天におられます。そしていずれ必ず再びこの地上に来られます。このイエス様を救い主、神の子と信じて歩みましょう。イエス様を信じる人生にこそ、すべての罪の赦し、永遠の命と復活の体という真の希望があるのですから(「真実に)。
2017-01-05 14:43:57(木)
「幼子はイエスと名付けられた」 2017年1月1日(日) 降誕節第2主日礼拝
朗読聖書:ヨブ記19章25~26節、ルカによる福音書2章21~40節。
「わたしはこの目であなたの救いを見たからです」(ルカ福音書2章30節)。
先週のクリスマス礼拝では、イエス様が赤ちゃんとして誕生なさり、羊飼いたちいがイエス様と母マリア、イエス様の父となるヨセフを訪ねた有名な場面を読みました。今日はその後の場面です。「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。」ユダヤ人の男の子にとって、生まれてから8日目に割礼を受けることは、極めて重要なことでした。割礼は神と間の契約のしるしだからです。そして赤ん坊に割礼を施す日が、名前をつける日でもあったようです。イエス様の誕生が先週12月25日(日)としますと、本日が8日目です。本日がイエス様の割礼と名付けの日と言えます。イエスという名は、「主は救い」の意味です。10ヶ月か1年前に、天使ガブリエルがマリアに告げたのです。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」マリアとヨセフは、この指示に従って、男の子をイエスと名付けたのです。天使の指示を無視したりしませんでした。神様に忠実に従うマリアとヨセフです。
そしてマリアとヨセフは、旧約聖書の指示に忠実に従います。(22~23節)「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、『初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される』と書いてあるからである。」「清めの期間」については、旧約聖書のレビ記12章2~4節に、次のように書かれています。「妊娠して男子を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている。八日目にはその子の包皮に割礼を施す。産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない。」月経や出産による汚れがあるなどと言えば、今の時代は、差別になります。新約聖書の時代である今は、月経も出産も、全く汚れではありません。しかし旧約聖書の時代は、汚れだったのです。マリアとヨセフは、マリアの出産後33日間はベツレヘムにとどまり、その後、エルサレムの神殿に向かったのだと思います。
(24節)「また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。」このことから、ヨセフとマリアの夫婦が貧しかったことが分かります。レビ記12章8節に、「なお産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、一羽を焼き尽くす献げ物とし、もう一羽を贖罪の献げ物とする」と書いてあるからです。
ここにシメオンという男性が登場します。年齢は書いてありませんが、おそらく老人です。旧約聖書の時代を象徴する人物です。真の救い主を待ち望んで祈り深く生きて来た信仰の人です。本日の旧約聖書はヨブ記19章25~26節ですが、ヨブは大きな苦難の中で、救い主にお目にかかることをひたすら待望した人です。
「わたしは知っている/ わたしを贖う方は生きておられ
ついには塵の上に立たれるであろう。
この皮膚が損なわれようとも
この身をもって/ わたしは神を仰ぎ見るであろう。」
救い主にお目にかかることを生涯待ち望んで来たシメオンは、神殿の境内で赤ん坊イエス様を見て、この子こそ真の救い主だと直感しました。そして幼子を腕に抱き、神をたたえて言いました。彼の目には涙が光っていたのではないでしょうか。(29~30節)「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」シメオンは、「神様の約束の成就、真の救い主をこの目で見て、この腕で抱く光栄を受けた。私の人生は完結した。もう思い残すことはない」という気持ちだったに違いありません。
シメオンの言葉と、ヨハネの黙示録14章13節が、よく響き合います。「~わたしは天からこう告げる声を聞いた。『書き記せ。「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」と。』“霊”も言う、然り、彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」東久留米教会は少し前に、お一方のご婦人を天国にお送り致しました。そのご婦人は、聖日(日曜日)の午前3時頃に、お眠りになった状態で天国に行かれました。(もちろん、とても悲しい出来事ですが)神様の御守りの中で、天に移されなさったと思えてなりません。
シメオンは、聖家族(イエス様一家)を祝福し、母親のマリアに言いました。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」クリスチャン作家・三浦綾子さんがこの祝福について、「何と重い祝福か」と書いておられます。単純な祝福ではありません。皆が喜んでイエス様を受け入れるのではないのです。イエス様は全く罪のない愛の方なのに、イエス様とそのメッセージを素直に聞かず、イエス様を憎み、十字架につける人々が現れます。この祝福は「十字架を通って、復活に至る」祝福だと思うのです。イエス様は私たちに、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」と言われます。マリアさんも、マリアさんの十字架を背負ったと言えます。「十字架を背負いなさい」と言われると、私たちはたじろぎます。しかし、トマス・ア・ケンピスという人が有名な著書『キリストにならいて』で次のように書いています。「もしあなたが喜んで、十字架を負うならば、十字架はあなたを負い、望みの目的地にあなたを導くであろう」(新教出版社、1989年、95ページ)。
次にアンナという女預言者が登場します。「非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、84歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた~。」厳しい人生行路をたどった人のようです。84歳の時の状況は、ほとんど乞食だったのではないか、という人もいます。テモテへの手紙(一)5章5節に、「身寄りがなく独り暮らしのやもめは、神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続けます」とありますが、アンナこそこのようなやもめです。神にのみ希望を置いて祈り続けていました。誰にとっても、真の希望は生きておられる神様お一人にあります。年齢を加えるほど、この事実がはっきりして来ると思うのです。若い時も、真の希望は神様だけにあるのですが、体力があるとそれに気づきにくいのです。年齢を加えるに従って、「大事なことは多くはない、いや、一つだけである」というイエス様の御言葉が身にしみて分かって来るのではないでしょうか。
アンナは、「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」のです。人生の大ベテランの方々の使命は、後に続く人々に、真に大切なことを指し示すことではないかと拝察致します。アンナは真の救い主イエス様のことを人々に話しました。私は今50歳ですが、私たちも真の救い主イエス様を、自分より若い世代にお伝えする使命を与えられています。アンナはエルサレムの人々のために、神様の恵みを祈っていたでしょう。人生の大ベテランの方々も、若い五家族のために祈っておられるに違いありません。
私はシメオンとアンナの姿を読み、ホイヴェルス神父様が紹介なさった「最上のわざ」という有名な祈りを思います(ヘルマン・ホイヴェルス『人生の秋に』春秋社、1969年)。
「この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう―。
若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、
弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること―。
老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことにふるさとに行くために―。
おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事―。
こうして何もできなくなれば、それを謙遜に承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ―。
手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人の上に、神の恵みを求めるために―。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声を聴くだろう。
『来よ、わが友よ、われ汝を見捨てじ』と―。」
この2017年も、共に祈りながら、イエス様と共に歩みたいのです。アーメン(「真実に」)。
「わたしはこの目であなたの救いを見たからです」(ルカ福音書2章30節)。
先週のクリスマス礼拝では、イエス様が赤ちゃんとして誕生なさり、羊飼いたちいがイエス様と母マリア、イエス様の父となるヨセフを訪ねた有名な場面を読みました。今日はその後の場面です。「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。」ユダヤ人の男の子にとって、生まれてから8日目に割礼を受けることは、極めて重要なことでした。割礼は神と間の契約のしるしだからです。そして赤ん坊に割礼を施す日が、名前をつける日でもあったようです。イエス様の誕生が先週12月25日(日)としますと、本日が8日目です。本日がイエス様の割礼と名付けの日と言えます。イエスという名は、「主は救い」の意味です。10ヶ月か1年前に、天使ガブリエルがマリアに告げたのです。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」マリアとヨセフは、この指示に従って、男の子をイエスと名付けたのです。天使の指示を無視したりしませんでした。神様に忠実に従うマリアとヨセフです。
そしてマリアとヨセフは、旧約聖書の指示に忠実に従います。(22~23節)「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、『初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される』と書いてあるからである。」「清めの期間」については、旧約聖書のレビ記12章2~4節に、次のように書かれています。「妊娠して男子を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている。八日目にはその子の包皮に割礼を施す。産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない。」月経や出産による汚れがあるなどと言えば、今の時代は、差別になります。新約聖書の時代である今は、月経も出産も、全く汚れではありません。しかし旧約聖書の時代は、汚れだったのです。マリアとヨセフは、マリアの出産後33日間はベツレヘムにとどまり、その後、エルサレムの神殿に向かったのだと思います。
(24節)「また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。」このことから、ヨセフとマリアの夫婦が貧しかったことが分かります。レビ記12章8節に、「なお産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩を携えて行き、一羽を焼き尽くす献げ物とし、もう一羽を贖罪の献げ物とする」と書いてあるからです。
ここにシメオンという男性が登場します。年齢は書いてありませんが、おそらく老人です。旧約聖書の時代を象徴する人物です。真の救い主を待ち望んで祈り深く生きて来た信仰の人です。本日の旧約聖書はヨブ記19章25~26節ですが、ヨブは大きな苦難の中で、救い主にお目にかかることをひたすら待望した人です。
「わたしは知っている/ わたしを贖う方は生きておられ
ついには塵の上に立たれるであろう。
この皮膚が損なわれようとも
この身をもって/ わたしは神を仰ぎ見るであろう。」
救い主にお目にかかることを生涯待ち望んで来たシメオンは、神殿の境内で赤ん坊イエス様を見て、この子こそ真の救い主だと直感しました。そして幼子を腕に抱き、神をたたえて言いました。彼の目には涙が光っていたのではないでしょうか。(29~30節)「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」シメオンは、「神様の約束の成就、真の救い主をこの目で見て、この腕で抱く光栄を受けた。私の人生は完結した。もう思い残すことはない」という気持ちだったに違いありません。
シメオンの言葉と、ヨハネの黙示録14章13節が、よく響き合います。「~わたしは天からこう告げる声を聞いた。『書き記せ。「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」と。』“霊”も言う、然り、彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」東久留米教会は少し前に、お一方のご婦人を天国にお送り致しました。そのご婦人は、聖日(日曜日)の午前3時頃に、お眠りになった状態で天国に行かれました。(もちろん、とても悲しい出来事ですが)神様の御守りの中で、天に移されなさったと思えてなりません。
シメオンは、聖家族(イエス様一家)を祝福し、母親のマリアに言いました。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」クリスチャン作家・三浦綾子さんがこの祝福について、「何と重い祝福か」と書いておられます。単純な祝福ではありません。皆が喜んでイエス様を受け入れるのではないのです。イエス様は全く罪のない愛の方なのに、イエス様とそのメッセージを素直に聞かず、イエス様を憎み、十字架につける人々が現れます。この祝福は「十字架を通って、復活に至る」祝福だと思うのです。イエス様は私たちに、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」と言われます。マリアさんも、マリアさんの十字架を背負ったと言えます。「十字架を背負いなさい」と言われると、私たちはたじろぎます。しかし、トマス・ア・ケンピスという人が有名な著書『キリストにならいて』で次のように書いています。「もしあなたが喜んで、十字架を負うならば、十字架はあなたを負い、望みの目的地にあなたを導くであろう」(新教出版社、1989年、95ページ)。
次にアンナという女預言者が登場します。「非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、84歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた~。」厳しい人生行路をたどった人のようです。84歳の時の状況は、ほとんど乞食だったのではないか、という人もいます。テモテへの手紙(一)5章5節に、「身寄りがなく独り暮らしのやもめは、神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続けます」とありますが、アンナこそこのようなやもめです。神にのみ希望を置いて祈り続けていました。誰にとっても、真の希望は生きておられる神様お一人にあります。年齢を加えるほど、この事実がはっきりして来ると思うのです。若い時も、真の希望は神様だけにあるのですが、体力があるとそれに気づきにくいのです。年齢を加えるに従って、「大事なことは多くはない、いや、一つだけである」というイエス様の御言葉が身にしみて分かって来るのではないでしょうか。
アンナは、「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」のです。人生の大ベテランの方々の使命は、後に続く人々に、真に大切なことを指し示すことではないかと拝察致します。アンナは真の救い主イエス様のことを人々に話しました。私は今50歳ですが、私たちも真の救い主イエス様を、自分より若い世代にお伝えする使命を与えられています。アンナはエルサレムの人々のために、神様の恵みを祈っていたでしょう。人生の大ベテランの方々も、若い五家族のために祈っておられるに違いありません。
私はシメオンとアンナの姿を読み、ホイヴェルス神父様が紹介なさった「最上のわざ」という有名な祈りを思います(ヘルマン・ホイヴェルス『人生の秋に』春秋社、1969年)。
「この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう―。
若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、
弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること―。
老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことにふるさとに行くために―。
おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事―。
こうして何もできなくなれば、それを謙遜に承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ―。
手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人の上に、神の恵みを求めるために―。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声を聴くだろう。
『来よ、わが友よ、われ汝を見捨てじ』と―。」
この2017年も、共に祈りながら、イエス様と共に歩みたいのです。アーメン(「真実に」)。