
2017-09-27 19:54:10(水)
「永遠の命を与える神の愛」 2017年9月24日(日) 「はじめて聞く人にもわかる聖書の話」礼拝(第6回) 説教要旨
聖書:ヨハネ福音書3章1~17節
これは、教会では有名な箇所です。16節が最も有名です。「神は、その独り子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」この御言葉は、「聖書の中の聖書」、「小聖書」などと呼ばれます。この御言葉に至るプロセスを見ましょう。
イエス様とニコデモという男性の対話が行われます。(1節)「さて、ファリサイ派に属するニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。」彼は最高法院の議員でした。当時のイスラエル(ユダヤ)では、宗教と政治は一体でした。最高法院は、今の日本に当てはめると国会議員と最高裁判所の裁判官を兼ねたような存在でしょうか。ニコデモは4節で自分を「年をとった者」と言っていますから、50代くらいでしょうか。当時としては年をとっており、高い社会的地位をもっていました。
しかしニコデモには、疑問があったようです。「神の国(天国)に入るには、どうすればよいか」という疑問です。ニコデモは、イスラエルで最も信仰熱心なフファリサイ派の一員でした。「このようなことを、今さら聞くことはできない」という気持ちがあったのではないでしょうか。多くの人は、知っている風を装うか、それ以上探求しようとしないのではないかと思います。ニコデモは謙遜かつ立派なことに、この質問への真の答えを受けるために、自分の息子のよう年齢のイエス様に教えを乞いに出かけたのです。それは夜のことでした。人に見られると恥かしいので、夜行きました。あるいは夜なら、人々から解放されるイエス様と、じっくり話し合うことができると考えて、夜行ったのかもしれません。
ニコデモは切り出します。「ラビ(先生)、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたがなさるようなしるしを、だれも行うことができないからです。」イエス様は、ニコデモの疑問を聴く前に察し、単刀直入に、答えとなる真理を語られます。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモには、すぐには理解できません。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」ニコデモは、いわば肉の次元でしか考えることができないでいます。
イエス様がさらに真理を語られます。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」肉とは、私たち罪をもつ人間です。霊とはその反対で、罪がないことを指します。肉と霊は正反対のことです。私たち罪ある人間の、どんな善い努力にも罪が含まれているので、自力で努力しても清く新しく生まれ変わることができないのです。神様の愛の力だけが、私たちを新しく生まれさせて下さるのです。
「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」霊は、神の清き霊である聖霊です。日本キリスト教団の礼拝式文では、洗礼式の時にこの御言葉を朗読することになっています。洗礼は水を用います。水は聖霊のシンボルです。
私どもの教会では、頭に水を垂らす方法で洗礼式を行います。教会によっては、礼拝堂に洗礼槽という水槽を設置しておられて、本当に水につかり、そこから出る形をとります。洗礼において重要なのは、洗礼を受ける人が自分の罪を悔い改めることです。罪を真実に悔い改めていれば、どちらの洗礼の方式も有効です。但し、後者の方法には、洗礼の意味を実感しやすい利点があるように思います。洗礼を受けることは、古い(罪ある)自分がイエス様と共に死に、イエス様と共に新しい命に甦ることです。古い(罪ある)自分がイエス様と共に十字架で死に、イエス様と共に新しい命に甦ることです。新しい命は、イエス様のように父なる神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を(敵をさえ)愛する命です。
現実には、天国に行くまでは罪が残っているので、地上に生きる限り、祈って聖霊を受けて罪を殺す心がけが必要です。しかし、罪を悔い改めて洗礼を受ければ、神の子とされます(イエス様は罪が全くない完全な神の子ですが、私たちはまだ罪が残っている不完全な神の子)。
イエス様が、私たちの全部の罪を背負って十字架で死んで下さり、三日目に復活されました。ですから、私たちが自分の罪を悔い改め、イエス様を救い主と信じ告白して洗礼を受けるなら、私たちは新たに生まれて、神の国に入る者とされます。
全国家庭文書伝道協会が発行しておられる伝道トラクト(パンフレット)『たった一度の人生だから』に、日野原重明さんと星野富弘さんのよき証しが記されています。ぜひお読み下さい。今年の日本にとって非常に残念だったことは、日野原重明さんが天に召されたことです。日野原さんは59才だった1970年に「よど号ハイジャック事件」で人質の一人にされました。生きた心地がしない恐ろしい体験だったと思います。幸い、解放されました。それまでは有名な医者になることなどが目標だったそうです。少し野心もおありだったのかもしれません。しかし助かったので、「これからは自分中心でない、もっと外に向いた、人のためになる生き方をしたいと強く思うようになりました」と書かれています。生き方の大きな転換点になったのですね。牧師の子息として育たれ、ずっと前に洗礼を受けておられたでしょうが、この事件で生き方をさらに新しくされたのでしょう。
星野富弘さんは、同じ伝道トラクト(パンフレット)で次のように語られます。「いちばん喜びを感じるのは、人のために何かできた時や、自分のやっていることがほかの人に喜んでいただけた時です。~いのちというのは、自分だけのものじゃなくて、だれかのために使えてこそ、本当のいのちではないかと思いました。」すばらしい言葉です。
生きるとは愛することなのですね。父なる神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を(敵をさえ)愛することですね。罪ある私たちをそのように造りかえて下さる方が、イエス・キリストであり、聖霊なる神様です。わずかずつでも、そのように新しく造りかえられつつ、歩みたいのです。アーメン(「真実に」)。
これは、教会では有名な箇所です。16節が最も有名です。「神は、その独り子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」この御言葉は、「聖書の中の聖書」、「小聖書」などと呼ばれます。この御言葉に至るプロセスを見ましょう。
イエス様とニコデモという男性の対話が行われます。(1節)「さて、ファリサイ派に属するニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。」彼は最高法院の議員でした。当時のイスラエル(ユダヤ)では、宗教と政治は一体でした。最高法院は、今の日本に当てはめると国会議員と最高裁判所の裁判官を兼ねたような存在でしょうか。ニコデモは4節で自分を「年をとった者」と言っていますから、50代くらいでしょうか。当時としては年をとっており、高い社会的地位をもっていました。
しかしニコデモには、疑問があったようです。「神の国(天国)に入るには、どうすればよいか」という疑問です。ニコデモは、イスラエルで最も信仰熱心なフファリサイ派の一員でした。「このようなことを、今さら聞くことはできない」という気持ちがあったのではないでしょうか。多くの人は、知っている風を装うか、それ以上探求しようとしないのではないかと思います。ニコデモは謙遜かつ立派なことに、この質問への真の答えを受けるために、自分の息子のよう年齢のイエス様に教えを乞いに出かけたのです。それは夜のことでした。人に見られると恥かしいので、夜行きました。あるいは夜なら、人々から解放されるイエス様と、じっくり話し合うことができると考えて、夜行ったのかもしれません。
ニコデモは切り出します。「ラビ(先生)、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたがなさるようなしるしを、だれも行うことができないからです。」イエス様は、ニコデモの疑問を聴く前に察し、単刀直入に、答えとなる真理を語られます。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモには、すぐには理解できません。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」ニコデモは、いわば肉の次元でしか考えることができないでいます。
イエス様がさらに真理を語られます。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」肉とは、私たち罪をもつ人間です。霊とはその反対で、罪がないことを指します。肉と霊は正反対のことです。私たち罪ある人間の、どんな善い努力にも罪が含まれているので、自力で努力しても清く新しく生まれ変わることができないのです。神様の愛の力だけが、私たちを新しく生まれさせて下さるのです。
「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」霊は、神の清き霊である聖霊です。日本キリスト教団の礼拝式文では、洗礼式の時にこの御言葉を朗読することになっています。洗礼は水を用います。水は聖霊のシンボルです。
私どもの教会では、頭に水を垂らす方法で洗礼式を行います。教会によっては、礼拝堂に洗礼槽という水槽を設置しておられて、本当に水につかり、そこから出る形をとります。洗礼において重要なのは、洗礼を受ける人が自分の罪を悔い改めることです。罪を真実に悔い改めていれば、どちらの洗礼の方式も有効です。但し、後者の方法には、洗礼の意味を実感しやすい利点があるように思います。洗礼を受けることは、古い(罪ある)自分がイエス様と共に死に、イエス様と共に新しい命に甦ることです。古い(罪ある)自分がイエス様と共に十字架で死に、イエス様と共に新しい命に甦ることです。新しい命は、イエス様のように父なる神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を(敵をさえ)愛する命です。
現実には、天国に行くまでは罪が残っているので、地上に生きる限り、祈って聖霊を受けて罪を殺す心がけが必要です。しかし、罪を悔い改めて洗礼を受ければ、神の子とされます(イエス様は罪が全くない完全な神の子ですが、私たちはまだ罪が残っている不完全な神の子)。
イエス様が、私たちの全部の罪を背負って十字架で死んで下さり、三日目に復活されました。ですから、私たちが自分の罪を悔い改め、イエス様を救い主と信じ告白して洗礼を受けるなら、私たちは新たに生まれて、神の国に入る者とされます。
全国家庭文書伝道協会が発行しておられる伝道トラクト(パンフレット)『たった一度の人生だから』に、日野原重明さんと星野富弘さんのよき証しが記されています。ぜひお読み下さい。今年の日本にとって非常に残念だったことは、日野原重明さんが天に召されたことです。日野原さんは59才だった1970年に「よど号ハイジャック事件」で人質の一人にされました。生きた心地がしない恐ろしい体験だったと思います。幸い、解放されました。それまでは有名な医者になることなどが目標だったそうです。少し野心もおありだったのかもしれません。しかし助かったので、「これからは自分中心でない、もっと外に向いた、人のためになる生き方をしたいと強く思うようになりました」と書かれています。生き方の大きな転換点になったのですね。牧師の子息として育たれ、ずっと前に洗礼を受けておられたでしょうが、この事件で生き方をさらに新しくされたのでしょう。
星野富弘さんは、同じ伝道トラクト(パンフレット)で次のように語られます。「いちばん喜びを感じるのは、人のために何かできた時や、自分のやっていることがほかの人に喜んでいただけた時です。~いのちというのは、自分だけのものじゃなくて、だれかのために使えてこそ、本当のいのちではないかと思いました。」すばらしい言葉です。
生きるとは愛することなのですね。父なる神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を(敵をさえ)愛することですね。罪ある私たちをそのように造りかえて下さる方が、イエス・キリストであり、聖霊なる神様です。わずかずつでも、そのように新しく造りかえられつつ、歩みたいのです。アーメン(「真実に」)。
2017-09-21 18:58:37(木)
「キリストは律法の目標」 2017年9月17日(日) 聖霊降臨節第16主日礼拝説教要旨
聖書:イザヤ書28章14~18節、ローマの信徒への手紙9章30節~10章4節
パウロは、自分の愛する同胞イスラエル人(ユダヤ人)と、異邦人に全力で救い主イエス・キリストを宣べ伝えました。パウロにとって悲しいことに、同胞のイスラエル人の多くがなかなかイエス様を救い主として受け入れなかったのです。むしろ異邦人からイエス様を救い主と信じる人々が現れました(異邦人でも信じない人々もいましたが)。
そこでパウロは、書きます。(30~31節)「では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。」義とは、「神の義」であり、神が与えて下さる救いのことです。「神の義」こそローマの信徒への手紙の主題とも言えます。(32~33節)「なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。」確かにイスラエルは、旧約聖書以来の神の民です。イスラエルには、神の聖なる意志を示す尊い十戒をはじめとする律法が与えられていました。それは大きな恵みです。しかしイエス様とパウロの時代のイスラエル人の多くは、十戒をはじめとする律法を自分の力・努力で100%守ることができると思ってしまいました。自信過剰になったのです。確かに十戒をはじめとする律法を、形の上でほぼ完璧に守ることはできるかもしれません。しかし、心の中から完全に行わないと、本当に行ったことになりません。少しでも十戒・律法に反する心の思いがあれば、完璧に行ったことにならないのです。
十戒・律法を完全に実行した方は、イエス・キリストお一人です。ほかのイスラエル人(特にファリサイ派と呼ばれる人々。パウロも以前は最も熱心なファリサイ派でした)は、十戒・律法を完全に行っていないのに、完全に行っていると思っていました。自分に罪はない(もしくはほとんどない)との誤った自己理解をしていたように思われます。このように自分で自分を正しいと決めることを自己義認と言います。自己義認は罪なのです。私たちは皆、十戒・律法を完全に行うことができないでいます。ですから私たちは皆、罪人(つみびと)なのです。この事実を受け入れることが、クリスチャンになる第一歩と言えます。
イエス・キリストが、私たち全ての人間の全ての罪を、身代わりに背負って十字架で死なれ、三日目に復活されました。自分の罪を認め、自分の罪を悔い改めてイエス様を救い主と信じる人には、全ての罪の赦しと永遠の命が必ず与えられます。イエス様の十字架が決定的に重要です。十字架で死なれたイエス様だけが、世界の全員の救い主です。しかしイスラエル人の多くにとって、これを受け入れることは非常に抵抗のあることでした。「彼らはつまずきの石につまづいた」とはこの意味です。十字架の死は惨めです。イスラエル人は、ダビデのような強い王こそ救い主と考えていました。イスラエル人は誇り高かった、プライドが高かったのです。その誇り・プライドが、十字架のイエス様を救い主と信じることを妨げました。誇り・プライドは自己義認です。この誇り・プライドを捨てて自分が罪人(つみびと)であることを認め、イエス様の前にへりくだることこそ、救われるために必要です。しかし残念なことに、イスラエル人の多くがそれをしなかったのです。
パウロは、コリントの信徒への手紙(一)1章でこう書きます。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」イエス様の十字架こそ、私たちの救いのための神の偉大な力なのです! 「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」私たち日本人にとっても、十字架で死なれ、復活されたイエス様だけが救い主です。
紀元200年代はじめのローマの遺跡に、こんな落書きがあるそうです。『キリスト教の歴史』という本(BL出版、46ページ)に写真があります。頭がろばの男が十字架につけられていて、別の男がその男を礼拝している落書きです。「神を拝むアレクサメノス」という添え書きがあるそうです。当時のクリスチャンを揶揄する(はっきり言えば嘲る、馬鹿にする)落書きです。日本の北陸地方でかつて歌われたこんな歌があったそうです。「ヤソ(イエス様のこと)の弱虫は、はりつけ拝んで涙を流す。」これも同じく、クリスチャンを揶揄する(嘲る、馬鹿にする)歌です。ローマでも日本でも、クリスチャンはこのように揶揄され、迫害されたのです。十字架につけられたイエス・キリストを救い主と崇めるからです。「ヤソ教徒の弱虫は、はりつけ拝んで涙を流す。」弱虫は違いますが、「はりつけ拝んで涙を流す」はよく当たっています。まさにクリスチャンはそうです。私(私たち)の罪のために身代わりに十字架で死んで下さったイエス様に、もっともっと感謝して涙を流したいのです。「その通りです。あなたもせひ、そうなって下さい」と言って伝道したいのです。
イスラエル人の罪を、パウロは10章4節でこう書きます。「(彼らは)神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかった~。」神の義とは、父なる神様が最愛の独り子イエス様を十字架につけて犠牲にして下さり、私たちの全ての罪を解決して下さった最も尊い救いのことです。へりくだってこの神の義をお受けすることが、最も大切です。「神の義」こそ、ローマの信徒への手紙の主題と言えます。1章16、17節はルターの宗教改革においても、重要な意味をもった聖句です。「わたしは福音(十字架と言ってもよいのではないでしょうか)を恥としない。」本来恥である十字架を、あえて恥でないというのです。「福音(十字架)は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音(十字架)には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」イスラエル人が求めた「自分の義」によってではなく、イエス様の十字架と復活による「神の義」のみのお陰で、私たちは救われます。
「キリストは律法の目標であります。信じる者すべてに義(神の義)をもたらすために。」口語訳聖書は「目標」を「終わり」と訳しています。「完成」の意味もあるようです。イエス・キリストが律法を完成されました。律法は、神への愛と隣人への愛を要求します。イエス様は100%そう生きられました。その極致が十字架の死です。父なる神様を愛して父なる神様に100%従われ、隣人を(敵をも)100%愛されたのが十字架です。このイエス様を信じることで、私たちの罪が赦され、永遠の命をいただきました。イエス様にひたすら感謝を献げるほかないのです。アーメン(「真実に」)。
パウロは、自分の愛する同胞イスラエル人(ユダヤ人)と、異邦人に全力で救い主イエス・キリストを宣べ伝えました。パウロにとって悲しいことに、同胞のイスラエル人の多くがなかなかイエス様を救い主として受け入れなかったのです。むしろ異邦人からイエス様を救い主と信じる人々が現れました(異邦人でも信じない人々もいましたが)。
そこでパウロは、書きます。(30~31節)「では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。」義とは、「神の義」であり、神が与えて下さる救いのことです。「神の義」こそローマの信徒への手紙の主題とも言えます。(32~33節)「なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。」確かにイスラエルは、旧約聖書以来の神の民です。イスラエルには、神の聖なる意志を示す尊い十戒をはじめとする律法が与えられていました。それは大きな恵みです。しかしイエス様とパウロの時代のイスラエル人の多くは、十戒をはじめとする律法を自分の力・努力で100%守ることができると思ってしまいました。自信過剰になったのです。確かに十戒をはじめとする律法を、形の上でほぼ完璧に守ることはできるかもしれません。しかし、心の中から完全に行わないと、本当に行ったことになりません。少しでも十戒・律法に反する心の思いがあれば、完璧に行ったことにならないのです。
十戒・律法を完全に実行した方は、イエス・キリストお一人です。ほかのイスラエル人(特にファリサイ派と呼ばれる人々。パウロも以前は最も熱心なファリサイ派でした)は、十戒・律法を完全に行っていないのに、完全に行っていると思っていました。自分に罪はない(もしくはほとんどない)との誤った自己理解をしていたように思われます。このように自分で自分を正しいと決めることを自己義認と言います。自己義認は罪なのです。私たちは皆、十戒・律法を完全に行うことができないでいます。ですから私たちは皆、罪人(つみびと)なのです。この事実を受け入れることが、クリスチャンになる第一歩と言えます。
イエス・キリストが、私たち全ての人間の全ての罪を、身代わりに背負って十字架で死なれ、三日目に復活されました。自分の罪を認め、自分の罪を悔い改めてイエス様を救い主と信じる人には、全ての罪の赦しと永遠の命が必ず与えられます。イエス様の十字架が決定的に重要です。十字架で死なれたイエス様だけが、世界の全員の救い主です。しかしイスラエル人の多くにとって、これを受け入れることは非常に抵抗のあることでした。「彼らはつまずきの石につまづいた」とはこの意味です。十字架の死は惨めです。イスラエル人は、ダビデのような強い王こそ救い主と考えていました。イスラエル人は誇り高かった、プライドが高かったのです。その誇り・プライドが、十字架のイエス様を救い主と信じることを妨げました。誇り・プライドは自己義認です。この誇り・プライドを捨てて自分が罪人(つみびと)であることを認め、イエス様の前にへりくだることこそ、救われるために必要です。しかし残念なことに、イスラエル人の多くがそれをしなかったのです。
パウロは、コリントの信徒への手紙(一)1章でこう書きます。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」イエス様の十字架こそ、私たちの救いのための神の偉大な力なのです! 「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」私たち日本人にとっても、十字架で死なれ、復活されたイエス様だけが救い主です。
紀元200年代はじめのローマの遺跡に、こんな落書きがあるそうです。『キリスト教の歴史』という本(BL出版、46ページ)に写真があります。頭がろばの男が十字架につけられていて、別の男がその男を礼拝している落書きです。「神を拝むアレクサメノス」という添え書きがあるそうです。当時のクリスチャンを揶揄する(はっきり言えば嘲る、馬鹿にする)落書きです。日本の北陸地方でかつて歌われたこんな歌があったそうです。「ヤソ(イエス様のこと)の弱虫は、はりつけ拝んで涙を流す。」これも同じく、クリスチャンを揶揄する(嘲る、馬鹿にする)歌です。ローマでも日本でも、クリスチャンはこのように揶揄され、迫害されたのです。十字架につけられたイエス・キリストを救い主と崇めるからです。「ヤソ教徒の弱虫は、はりつけ拝んで涙を流す。」弱虫は違いますが、「はりつけ拝んで涙を流す」はよく当たっています。まさにクリスチャンはそうです。私(私たち)の罪のために身代わりに十字架で死んで下さったイエス様に、もっともっと感謝して涙を流したいのです。「その通りです。あなたもせひ、そうなって下さい」と言って伝道したいのです。
イスラエル人の罪を、パウロは10章4節でこう書きます。「(彼らは)神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかった~。」神の義とは、父なる神様が最愛の独り子イエス様を十字架につけて犠牲にして下さり、私たちの全ての罪を解決して下さった最も尊い救いのことです。へりくだってこの神の義をお受けすることが、最も大切です。「神の義」こそ、ローマの信徒への手紙の主題と言えます。1章16、17節はルターの宗教改革においても、重要な意味をもった聖句です。「わたしは福音(十字架と言ってもよいのではないでしょうか)を恥としない。」本来恥である十字架を、あえて恥でないというのです。「福音(十字架)は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音(十字架)には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」イスラエル人が求めた「自分の義」によってではなく、イエス様の十字架と復活による「神の義」のみのお陰で、私たちは救われます。
「キリストは律法の目標であります。信じる者すべてに義(神の義)をもたらすために。」口語訳聖書は「目標」を「終わり」と訳しています。「完成」の意味もあるようです。イエス・キリストが律法を完成されました。律法は、神への愛と隣人への愛を要求します。イエス様は100%そう生きられました。その極致が十字架の死です。父なる神様を愛して父なる神様に100%従われ、隣人を(敵をも)100%愛されたのが十字架です。このイエス様を信じることで、私たちの罪が赦され、永遠の命をいただきました。イエス様にひたすら感謝を献げるほかないのです。アーメン(「真実に」)。
2017-09-12 15:28:20(火)
「善悪を判断する心をください ソロモン王の祈り」 2017年9月10日(日) 聖霊降臨節第15主日説教要旨
聖書:列王記・上3章1~15節、マタイ福音書6章25~34節
ソロモンの父ダビデは、人生を終える前に、イスラエルの次の王となる息子ソロモンを戒めました。「あなたの神、主の務めを守ってその道を歩み、モーセの律法に記されているとおり、主の掟と戒めと法と定めを守れ。そうすれば、あなたは何を行っても、どこに向かっても、良い成果を上げることができる。」モーセの十戒を守って歩みなさい、ということとも言えます。そうすれば大きな過ちを犯すことから守られるでしょう。そしてソロモンは、「主を愛し、父ダビデの授けた掟に従って歩んだ」とあります。
申命記6章4節に、大切な御言葉があります。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」ソロモンはそのように生きました。私たちは、もう1つ大切な御言葉があることを知っています。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19章18節)。イエス様は、この2つこそ最も大事だと言われます。そしてソロモンは、主に一千頭の焼き尽くす献げ物をささげました。これはソロモンが、全身全霊で主に仕えようとする現れと思います。
その夜、神様がギデオンという地で、ソロモンの夢枕に立たれ言われます。「何事でも願うがよい。あなたに与えよう。」若くて純真なソロモンは、こう祈ります。「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕(しもべ)をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」
神様は、ソロモンのこの祈りを喜ばれました。この祈りは神様に御心にかなったのです。ヨハネの手紙(一)5章14節に、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です」とあります。ソロモンのこの祈りは、御心にかなったのです。神は言われます。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう。」ソロモンのこの祈りは、まさに私たちの祈りの模範です。
本日の新約聖書・マタイ福音書6章32~33節に、こうあります。「あなたがたの天の父は、これらのもの(食べ物、飲み物、着る物、つまり生活に必要なもの)がみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」だから思い悩むな、とイエス様は言われます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」ソロモンはそうしたのです。「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。」神はこの祈りに応えてソロモンに、訴えを正しく聞き分ける知恵を与えてくださり、加えて富と栄光をも与えて下さったのです。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」とは、私たちにとっては何よりも礼拝を第一として、一週間を始めることと信じます。
本日の新約聖書の箇所には、「思い悩むな」という小見出しが掲げられています。私たちの心は、すぐに思い悩み、思い煩いに負けそうになります。思い煩いに負けないために必要なものは、生きておられる神様への信頼です。神への祈りです。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」これはイエス様の、私たちへの励ましです。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は野に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。」最後の御言葉が、とてもよいですね。「まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。」鳥よりも花よりも価値あるのが私たち人間一人一人です。私たち一人一人を、神様が心にかけていて下さいます。その神様に信頼して、祈るのです。
先週、群馬県みどり市の星野富弘美術館に行きました。星野さんの比較的最近の作品も展示されていました。星野さんの著書の一つに『種蒔きもせず』があります。それによると、星野さんの大好きな聖句が「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養っていてくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」と、以後の聖句だそうです。星野富弘さんほど、「野の花がどのように育つのか、注意して見」た人は、ほとんどいないと思います。神様がどの草花も実に美しく造っておられる創造のすばらしさに比べれば、ご自分はそれをほんのわずかしか絵で再現でいないという意味のことを、どこかに書いておられました。自由が利かないお体で、しかし神の栄光を現す人生を歩んでおられます。実に不思議な、神のみわざです。
ソロモンも、すばらしい祈りをし、神の栄光を現す若き日を送りました。残念なことにその後のソロモンは、多くの外国の女性を愛し、七百人の王妃と三百人の側室をもちます。彼女たちが偶像の神を持ちこみ、偶像崇拝の罪に陥ります。ソロモンは迷いに陥り、神様の言うことをきかない晩年を生き、晩節を汚しました。実に残念なことです。ソロモンの罪のため、彼の息子の代にイスラエルの国は、南北に分裂します。神の栄光を汚す晩年になってしまいました。私どもは、ソロモンの晩年に倣うことなく、ソロモンが王になったばかりの時の、純真な信仰に倣って、生きて参りたいのです。アーメン(「真実に」)。
ソロモンの父ダビデは、人生を終える前に、イスラエルの次の王となる息子ソロモンを戒めました。「あなたの神、主の務めを守ってその道を歩み、モーセの律法に記されているとおり、主の掟と戒めと法と定めを守れ。そうすれば、あなたは何を行っても、どこに向かっても、良い成果を上げることができる。」モーセの十戒を守って歩みなさい、ということとも言えます。そうすれば大きな過ちを犯すことから守られるでしょう。そしてソロモンは、「主を愛し、父ダビデの授けた掟に従って歩んだ」とあります。
申命記6章4節に、大切な御言葉があります。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」ソロモンはそのように生きました。私たちは、もう1つ大切な御言葉があることを知っています。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19章18節)。イエス様は、この2つこそ最も大事だと言われます。そしてソロモンは、主に一千頭の焼き尽くす献げ物をささげました。これはソロモンが、全身全霊で主に仕えようとする現れと思います。
その夜、神様がギデオンという地で、ソロモンの夢枕に立たれ言われます。「何事でも願うがよい。あなたに与えよう。」若くて純真なソロモンは、こう祈ります。「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕(しもべ)をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」
神様は、ソロモンのこの祈りを喜ばれました。この祈りは神様に御心にかなったのです。ヨハネの手紙(一)5章14節に、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です」とあります。ソロモンのこの祈りは、御心にかなったのです。神は言われます。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう。」ソロモンのこの祈りは、まさに私たちの祈りの模範です。
本日の新約聖書・マタイ福音書6章32~33節に、こうあります。「あなたがたの天の父は、これらのもの(食べ物、飲み物、着る物、つまり生活に必要なもの)がみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」だから思い悩むな、とイエス様は言われます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」ソロモンはそうしたのです。「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。」神はこの祈りに応えてソロモンに、訴えを正しく聞き分ける知恵を与えてくださり、加えて富と栄光をも与えて下さったのです。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」とは、私たちにとっては何よりも礼拝を第一として、一週間を始めることと信じます。
本日の新約聖書の箇所には、「思い悩むな」という小見出しが掲げられています。私たちの心は、すぐに思い悩み、思い煩いに負けそうになります。思い煩いに負けないために必要なものは、生きておられる神様への信頼です。神への祈りです。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」これはイエス様の、私たちへの励ましです。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は野に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。」最後の御言葉が、とてもよいですね。「まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。」鳥よりも花よりも価値あるのが私たち人間一人一人です。私たち一人一人を、神様が心にかけていて下さいます。その神様に信頼して、祈るのです。
先週、群馬県みどり市の星野富弘美術館に行きました。星野さんの比較的最近の作品も展示されていました。星野さんの著書の一つに『種蒔きもせず』があります。それによると、星野さんの大好きな聖句が「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養っていてくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」と、以後の聖句だそうです。星野富弘さんほど、「野の花がどのように育つのか、注意して見」た人は、ほとんどいないと思います。神様がどの草花も実に美しく造っておられる創造のすばらしさに比べれば、ご自分はそれをほんのわずかしか絵で再現でいないという意味のことを、どこかに書いておられました。自由が利かないお体で、しかし神の栄光を現す人生を歩んでおられます。実に不思議な、神のみわざです。
ソロモンも、すばらしい祈りをし、神の栄光を現す若き日を送りました。残念なことにその後のソロモンは、多くの外国の女性を愛し、七百人の王妃と三百人の側室をもちます。彼女たちが偶像の神を持ちこみ、偶像崇拝の罪に陥ります。ソロモンは迷いに陥り、神様の言うことをきかない晩年を生き、晩節を汚しました。実に残念なことです。ソロモンの罪のため、彼の息子の代にイスラエルの国は、南北に分裂します。神の栄光を汚す晩年になってしまいました。私どもは、ソロモンの晩年に倣うことなく、ソロモンが王になったばかりの時の、純真な信仰に倣って、生きて参りたいのです。アーメン(「真実に」)。
2017-08-30 18:56:12(水)
「愛こそ最高の道」 2017年8月27日(日) 「はじめて聞く人にわかる聖書の話」礼拝(第5回)
聖書:コリントの信徒への手紙(一)12章31節後半~13章13節
小見出しもテーマも「愛」です。聖書で最も有名な箇所の1つです。キリスト教式で結婚式を行うと、多くの場合、この箇所が読まれます(読まれないときもあるでしょうが)。「愛の賛歌」と呼ばれています。「愛」は原語のギリシア語で、アガペーです。本当の愛、真の愛、無償の愛、神の愛、神の子イエス・キリストの愛、敵をも愛する愛、喜んで与える愛です。私たちは残念ながら罪ある者で、ひたすら自分がかわいく、自己中心です。なかなかこのような愛に生きることができません。しかし、目標ではあります。
神様の愛は、まず神様が人間を創造なさった場面に、よく現れています。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」神様はご自分にかたどって、ご自分に似せて私たち人間を創造なさいました。ここに神様の並々ならぬ愛が示されています。
このコリントの信徒への手紙(一)の著者は、イエス・キリストの弟子・使徒パウロです。コリントはギリシアの都市で、この手紙はパウロがコリントでイエス・キリストの恵みを宣べ伝えてできた教会の人々に宛てた手紙です。教会と言っても、今のように専用の建物があったのではなく、大きめの家を持つ人の家で礼拝をしていたのでしょう。コリントのクリスチャンの多くは未熟で、内部で争ったりしていました。パウロは心を痛め、「それではいけない。イエス様が私たちを愛して下さるように、互いに愛し合う愛が必要」であることを示すためにこの手紙を書きました。
パウロは、「最高の道」は愛だと説きます。この愛を、戦国時代に日本に来たカトリック教会の宣教師は「お大切」と訳したと聞きます。愛がどんなに大切か、パウロは説きます。「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ無に等しい。」すばらしい科学的知識を持つ人々が、核兵器を作ったのが現実です。愛がなければ最高の科学的知識も無意味、いえ有害にさえなります。ノーベルという人はダイナマイトを造りました。それで土木工事が順調に進むようになり、よかったと思ったのは束の間、ダイナマイトは戦争に使われるようになりました。ノーベルは深く悲しみました。そしてダイナマイトを作ったことで得た多くのお金を、人類に貢献した人に贈呈してほしいと考え、ノーベル賞ができたそうです。
「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」パウロの言葉は厳しいですね。「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも~愛がなければ、わたしに何の益もない。」私たちの愛は多くの場合、完全に純粋ではないのでしょう。自分を誇りたい思いが、どこかにあるのです。ですからイエス様は、次のように言われました。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。~施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである」(マタイ福音書6:1~4)。
「わが身を死に引き渡す。」決して誇ろうとしてでなく、人を助けて(助けようとして)命を失う方々が、時々おられます。先日も、海の監視員の女性が、人を助けて命を失ったことが新聞に出ていました。東日本大震災の時、まず中国人の女性研修生の方たちを高台に誘導し、その後、他の人(家族?)の様子を身に行った男性が津波で亡くなったと報道されました。この方々に、深い尊敬の念を覚えます。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。」私はクリスチャンで、「愛こそ最も大切」という教えを受け入れて来たつもりですが、仏教では「愛」という言葉を、あまりよい意味と見ていないと聞きました。「愛着(執着、しがみつくこと)」、「愛欲」などの言葉があります。確かにこの場合の愛はどろどろしていて、よいものではありません。しかし聖書が説く愛は、このようにどろどろしてはいません。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。」この愛のところに、自分の名前を入れて読んでみるとよいと言います。「○○(自分の名前)は忍耐強い。○○は情け深い。○○はねたまない」、だんだん恥かしくなります。できていないのですから。○○に神様、イエス・キリストを入れると、問題なく読めます。「神様(イエス・キリスト)は忍耐強い。神様(イエス・キリスト)は情け深い。」でも、聖霊が注がれる時、私たちも清められ、少しずつイエス様に似た一人一人とされます。聖霊に助けられて、私たちもこのような愛に生きる者に変えられたいのです。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
2001年1月に、JR新大久保駅で、線路に転落した男性を助けようと、日本人男性・関根さんと韓国人の青年・李さんが飛びおりましたが、3人とも亡くなる痛ましい事故がありました。2名の勇敢な行いに、日本の多くの人が感激しました。今も新大久保駅の改札から入ったつきあたりの壁に、2名の勇気をたたえる記念プレートがあります。李さん、当時26才だったそうです。李さんがクリスチャンかどうかは分かりません。私は今年、この出来事のその後をたどったドキュメンタリー映画を見ました。タイトルは「かけはし」です。事故後、李さんのお父様に日本中から多くの義援金が届いたそうです。お父様は、「息子の夢は韓日のかけはしになることだった」と言われます。そのお金を、日本とアジアを結ぶ仕事をすることを願う若者の奨学金の基金となさいました。その奨学金が勉強して、社会に巣立つ人々が出ているのです。その事務局の女性が言われました。「李さんは、生きていれば40歳と少し。生きていてもできない大きな仕事をしておられます。」そしてイエス様の御言葉を引用されました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ福音書12:24)。関根さんと李さんの行動は、自分を誇ろうとしてでなく、人を助けようとした愛だと感じ、私は深く尊敬致します。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。」私どもは自己中心的な者ですが、自分の罪を悔い改め、聖霊に満たされて、このように生きることを目指して、一歩一歩ご一緒に進みたいのです。アーメン(「真実に」)。
小見出しもテーマも「愛」です。聖書で最も有名な箇所の1つです。キリスト教式で結婚式を行うと、多くの場合、この箇所が読まれます(読まれないときもあるでしょうが)。「愛の賛歌」と呼ばれています。「愛」は原語のギリシア語で、アガペーです。本当の愛、真の愛、無償の愛、神の愛、神の子イエス・キリストの愛、敵をも愛する愛、喜んで与える愛です。私たちは残念ながら罪ある者で、ひたすら自分がかわいく、自己中心です。なかなかこのような愛に生きることができません。しかし、目標ではあります。
神様の愛は、まず神様が人間を創造なさった場面に、よく現れています。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」神様はご自分にかたどって、ご自分に似せて私たち人間を創造なさいました。ここに神様の並々ならぬ愛が示されています。
このコリントの信徒への手紙(一)の著者は、イエス・キリストの弟子・使徒パウロです。コリントはギリシアの都市で、この手紙はパウロがコリントでイエス・キリストの恵みを宣べ伝えてできた教会の人々に宛てた手紙です。教会と言っても、今のように専用の建物があったのではなく、大きめの家を持つ人の家で礼拝をしていたのでしょう。コリントのクリスチャンの多くは未熟で、内部で争ったりしていました。パウロは心を痛め、「それではいけない。イエス様が私たちを愛して下さるように、互いに愛し合う愛が必要」であることを示すためにこの手紙を書きました。
パウロは、「最高の道」は愛だと説きます。この愛を、戦国時代に日本に来たカトリック教会の宣教師は「お大切」と訳したと聞きます。愛がどんなに大切か、パウロは説きます。「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ無に等しい。」すばらしい科学的知識を持つ人々が、核兵器を作ったのが現実です。愛がなければ最高の科学的知識も無意味、いえ有害にさえなります。ノーベルという人はダイナマイトを造りました。それで土木工事が順調に進むようになり、よかったと思ったのは束の間、ダイナマイトは戦争に使われるようになりました。ノーベルは深く悲しみました。そしてダイナマイトを作ったことで得た多くのお金を、人類に貢献した人に贈呈してほしいと考え、ノーベル賞ができたそうです。
「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」パウロの言葉は厳しいですね。「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも~愛がなければ、わたしに何の益もない。」私たちの愛は多くの場合、完全に純粋ではないのでしょう。自分を誇りたい思いが、どこかにあるのです。ですからイエス様は、次のように言われました。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。~施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである」(マタイ福音書6:1~4)。
「わが身を死に引き渡す。」決して誇ろうとしてでなく、人を助けて(助けようとして)命を失う方々が、時々おられます。先日も、海の監視員の女性が、人を助けて命を失ったことが新聞に出ていました。東日本大震災の時、まず中国人の女性研修生の方たちを高台に誘導し、その後、他の人(家族?)の様子を身に行った男性が津波で亡くなったと報道されました。この方々に、深い尊敬の念を覚えます。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。」私はクリスチャンで、「愛こそ最も大切」という教えを受け入れて来たつもりですが、仏教では「愛」という言葉を、あまりよい意味と見ていないと聞きました。「愛着(執着、しがみつくこと)」、「愛欲」などの言葉があります。確かにこの場合の愛はどろどろしていて、よいものではありません。しかし聖書が説く愛は、このようにどろどろしてはいません。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。」この愛のところに、自分の名前を入れて読んでみるとよいと言います。「○○(自分の名前)は忍耐強い。○○は情け深い。○○はねたまない」、だんだん恥かしくなります。できていないのですから。○○に神様、イエス・キリストを入れると、問題なく読めます。「神様(イエス・キリスト)は忍耐強い。神様(イエス・キリスト)は情け深い。」でも、聖霊が注がれる時、私たちも清められ、少しずつイエス様に似た一人一人とされます。聖霊に助けられて、私たちもこのような愛に生きる者に変えられたいのです。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
2001年1月に、JR新大久保駅で、線路に転落した男性を助けようと、日本人男性・関根さんと韓国人の青年・李さんが飛びおりましたが、3人とも亡くなる痛ましい事故がありました。2名の勇敢な行いに、日本の多くの人が感激しました。今も新大久保駅の改札から入ったつきあたりの壁に、2名の勇気をたたえる記念プレートがあります。李さん、当時26才だったそうです。李さんがクリスチャンかどうかは分かりません。私は今年、この出来事のその後をたどったドキュメンタリー映画を見ました。タイトルは「かけはし」です。事故後、李さんのお父様に日本中から多くの義援金が届いたそうです。お父様は、「息子の夢は韓日のかけはしになることだった」と言われます。そのお金を、日本とアジアを結ぶ仕事をすることを願う若者の奨学金の基金となさいました。その奨学金が勉強して、社会に巣立つ人々が出ているのです。その事務局の女性が言われました。「李さんは、生きていれば40歳と少し。生きていてもできない大きな仕事をしておられます。」そしてイエス様の御言葉を引用されました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ福音書12:24)。関根さんと李さんの行動は、自分を誇ろうとしてでなく、人を助けようとした愛だと感じ、私は深く尊敬致します。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。」私どもは自己中心的な者ですが、自分の罪を悔い改め、聖霊に満たされて、このように生きることを目指して、一歩一歩ご一緒に進みたいのです。アーメン(「真実に」)。
2017-08-24 18:05:56(木)
「神の子と呼ばれる私たち」 2017年8月20日(日) 聖霊降臨節第12主日礼拝説教
聖書:ホセア書2章23~25節、ローマの信徒への手紙9章19~29節
私たち人間は皆、神様の前に罪人(つみびと)です。罪人(つみびと)の罪が赦されて天国に入れていただくためには、救い主イエス・キリストを信じることが必要です。イエス・キリストが、私たち全員の罪をすべて背負って、十字架で死んで下さったからです。このローマの信徒への手紙を書いたのは、イエス様の弟子・使徒パウロです。パウロには深い悲しみがありました。旧約聖書以来の神の民イスラエル人(ユダヤ人。パウロの同胞)の一部しか、イエス様を信じないという悲しみです。パウロの仲間のイスラエル人の救いを、心から願っていました。ところがイスラエル人の多くが、なかなかイエス様を救い主と信じないのです。
なぜイエス様を信じる人と、信じない人がいるのか。パウロには、差し当たりの結論がありました。「神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなになさる」(9章18節)ということです。こう言われると、私たち人間は反論したくなります。「神様が信じる人と信じない人を決めておられるのなら、人間にはどうしようもないではないか。」パウロはこのような反論が出ることを予想して、言います。「ところで、あなたは言うでしょう。『ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか』と。」しかしパウロは決然として、このような反論をすることは許されないと、断言します。神は決定権を持っておられるのです。神はこの世界の主だからです。パウロは言います。「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。」その通りです。神には権限がおありです。
でも、ここで終わると、人間にとって救いがありません。22節は分かりにくいですが、重要な御言葉と思います。「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。」怒りの器とは、神の聖なる怒りを受けて滅びる者たちで、基本的にはイスラエル人でない人(異邦人)を指すようです。神は、「寛大な心で耐え忍ばれた」とあります。神は聖なる怒りを鎮め、忍耐して下さっています。昔から、旧約聖書の神を「裁きの神」、新約聖書の神を「愛の神」と区別する人がいましたが、それは間違いです。旧約聖書の神と新約聖書の神は、全く同じ神です。旧約聖書の神を「裁きの神」とする考えに対して、クリスチャン作家の三浦綾子さんが、むしろ忍耐の神ではないか、と書いておられました。確かに旧約でも、神様が忍耐して裁かれないケースがあります。神様の忍耐によって、もしかすると怒りの器が憐れみの器とされてゆくこともあるのではないでしょうか。愛は、現実には忍耐とも言えます。
パウロは、旧約聖書のホセア書を引用して述べます。「わたし(神)は、自分の民でない者(いわば怒りの器)をわたしの民(いわば憐れみの器)と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」パウロが建てた教会には、異邦人クリスチャンたちもいました(パウロは、同胞のイスラエル人でクリスチャンになる人が少ないことを悲しんでいますが、中にはクリスチャンになるイスラエル人もいました)。異邦人クリスチャンの存在に、パウロは神の憐れみを見出します。怒りの器が憐れみの器とされたのです。私たち日本人クリスチャンも、怒りの器が憐れみの器とされた実例だと思うのです。私たちは、神の子らと呼ばれる大きな恵みをいただいています。そこで本日の説教題を、「神の子と呼ばれる私たち」としました。その私たちの使命は伝道であり、平和を実現することではないでしょうか。イエス様は、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ福音書5章9節)と語られます。
それにしても、ホセア書は強烈な書です。神様は預言者ホセアに、不貞を働いた妻を赦し、受け入れて愛するように求めます。預言者は時に、非常につらい務めです。ホセアのこの行動は、神様の現実を指し示す行動です。旧約聖書では神様は夫、神の民イスラエルは妻です。この妻が真の神を裏切り、ほかの神々(もちろん本当は神ではない)に走り、姦淫・不倫を行います。神は時にそのイスラエルに、忍耐に末、裁きをなさいますが、また赦し、受け入れ愛します。考えてみると、赦すということは大変なことです。自分を裏切り、傷つける者を赦すのですから、つらい痛みを伴います。赦しとは、赦しがたき者を赦すのですから、実につらく痛いことです。ホセアはその痛みに耐えました。神様も痛みに耐えて、赦されるのです。
私たちは本来、神の怒りを受けるべき怒りの器でした。私たちの罪が赦されるためには、父なる神様の最愛の独り子イエス様が、十字架で身代りに死ぬほかありませんでした。父なる神様は、独り子イエス・キリストを十字架で死なせる非常な痛みとつらさを忍耐して下さいました。愛は忍耐と言えます。神の尊い忍耐によって、私どもは怒りの器から憐れみの器とされました。この神の深い愛に感謝して、私どもは自分の罪を悔い改める必要があります。
最後にもう1つ。21節に、神の権限が書かれていました。それは、「憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされる」権限です。罪人(つみびと)を裁くことができる権限とも言えます。マタイ福音書20章に「ぶどう園の労働者のたとえ」があります。主人(神を表す)が言います。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか(これは神の権限を意味します)。それとも、わたしの気前の良さをねたむのか。」ここでは、神の権限が、裁きの権限から赦しの権限へ移行しているように思えます。聖書から神の聖なる裁きの要素が消えることはないでしょう。しかしご自分が独り子を十字架につけるつらさを忍耐してでも、何とかして全員を救いたい。これが神様の切なる願いではないでしょうか。裁きの要素が完全に消えることはないでしょうが、憐れみが裁きを上回ってゆく、そのような神様の心の内を感じることができるのではないでしょうか。この神様の憐れみに対して、感謝と悔い改めによって応答したいのです。アーメン(「真実に」)。
私たち人間は皆、神様の前に罪人(つみびと)です。罪人(つみびと)の罪が赦されて天国に入れていただくためには、救い主イエス・キリストを信じることが必要です。イエス・キリストが、私たち全員の罪をすべて背負って、十字架で死んで下さったからです。このローマの信徒への手紙を書いたのは、イエス様の弟子・使徒パウロです。パウロには深い悲しみがありました。旧約聖書以来の神の民イスラエル人(ユダヤ人。パウロの同胞)の一部しか、イエス様を信じないという悲しみです。パウロの仲間のイスラエル人の救いを、心から願っていました。ところがイスラエル人の多くが、なかなかイエス様を救い主と信じないのです。
なぜイエス様を信じる人と、信じない人がいるのか。パウロには、差し当たりの結論がありました。「神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなになさる」(9章18節)ということです。こう言われると、私たち人間は反論したくなります。「神様が信じる人と信じない人を決めておられるのなら、人間にはどうしようもないではないか。」パウロはこのような反論が出ることを予想して、言います。「ところで、あなたは言うでしょう。『ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか』と。」しかしパウロは決然として、このような反論をすることは許されないと、断言します。神は決定権を持っておられるのです。神はこの世界の主だからです。パウロは言います。「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。」その通りです。神には権限がおありです。
でも、ここで終わると、人間にとって救いがありません。22節は分かりにくいですが、重要な御言葉と思います。「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。」怒りの器とは、神の聖なる怒りを受けて滅びる者たちで、基本的にはイスラエル人でない人(異邦人)を指すようです。神は、「寛大な心で耐え忍ばれた」とあります。神は聖なる怒りを鎮め、忍耐して下さっています。昔から、旧約聖書の神を「裁きの神」、新約聖書の神を「愛の神」と区別する人がいましたが、それは間違いです。旧約聖書の神と新約聖書の神は、全く同じ神です。旧約聖書の神を「裁きの神」とする考えに対して、クリスチャン作家の三浦綾子さんが、むしろ忍耐の神ではないか、と書いておられました。確かに旧約でも、神様が忍耐して裁かれないケースがあります。神様の忍耐によって、もしかすると怒りの器が憐れみの器とされてゆくこともあるのではないでしょうか。愛は、現実には忍耐とも言えます。
パウロは、旧約聖書のホセア書を引用して述べます。「わたし(神)は、自分の民でない者(いわば怒りの器)をわたしの民(いわば憐れみの器)と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」パウロが建てた教会には、異邦人クリスチャンたちもいました(パウロは、同胞のイスラエル人でクリスチャンになる人が少ないことを悲しんでいますが、中にはクリスチャンになるイスラエル人もいました)。異邦人クリスチャンの存在に、パウロは神の憐れみを見出します。怒りの器が憐れみの器とされたのです。私たち日本人クリスチャンも、怒りの器が憐れみの器とされた実例だと思うのです。私たちは、神の子らと呼ばれる大きな恵みをいただいています。そこで本日の説教題を、「神の子と呼ばれる私たち」としました。その私たちの使命は伝道であり、平和を実現することではないでしょうか。イエス様は、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ福音書5章9節)と語られます。
それにしても、ホセア書は強烈な書です。神様は預言者ホセアに、不貞を働いた妻を赦し、受け入れて愛するように求めます。預言者は時に、非常につらい務めです。ホセアのこの行動は、神様の現実を指し示す行動です。旧約聖書では神様は夫、神の民イスラエルは妻です。この妻が真の神を裏切り、ほかの神々(もちろん本当は神ではない)に走り、姦淫・不倫を行います。神は時にそのイスラエルに、忍耐に末、裁きをなさいますが、また赦し、受け入れ愛します。考えてみると、赦すということは大変なことです。自分を裏切り、傷つける者を赦すのですから、つらい痛みを伴います。赦しとは、赦しがたき者を赦すのですから、実につらく痛いことです。ホセアはその痛みに耐えました。神様も痛みに耐えて、赦されるのです。
私たちは本来、神の怒りを受けるべき怒りの器でした。私たちの罪が赦されるためには、父なる神様の最愛の独り子イエス様が、十字架で身代りに死ぬほかありませんでした。父なる神様は、独り子イエス・キリストを十字架で死なせる非常な痛みとつらさを忍耐して下さいました。愛は忍耐と言えます。神の尊い忍耐によって、私どもは怒りの器から憐れみの器とされました。この神の深い愛に感謝して、私どもは自分の罪を悔い改める必要があります。
最後にもう1つ。21節に、神の権限が書かれていました。それは、「憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされる」権限です。罪人(つみびと)を裁くことができる権限とも言えます。マタイ福音書20章に「ぶどう園の労働者のたとえ」があります。主人(神を表す)が言います。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか(これは神の権限を意味します)。それとも、わたしの気前の良さをねたむのか。」ここでは、神の権限が、裁きの権限から赦しの権限へ移行しているように思えます。聖書から神の聖なる裁きの要素が消えることはないでしょう。しかしご自分が独り子を十字架につけるつらさを忍耐してでも、何とかして全員を救いたい。これが神様の切なる願いではないでしょうか。裁きの要素が完全に消えることはないでしょうが、憐れみが裁きを上回ってゆく、そのような神様の心の内を感じることができるのではないでしょうか。この神様の憐れみに対して、感謝と悔い改めによって応答したいのです。アーメン(「真実に」)。