
2017-02-23 19:22:36(木)
「顔で笑い、心で泣くダビデ」 2017年2月19日(日) 降誕節第9主日礼拝説教
朗読聖書:サムエル記・下18章6~18節、19章1~9節a、ローマの信徒への手紙9章1~3節。「わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった」(サムエル記・下19章1節)。
ダビデ王が、生涯最大の危機を迎えています。息子アブサロムによる反逆です。ダビデは一旦、首都エルサレムを開け渡し、アブサロムがエルサレムに入城します。ダビデがエルサレムを開け渡したのは、エルサレムで決戦してエルサレムの多くの住民を戦乱に巻き込まないためと思います。ダビデの民への思いやりでしょう。ダビデが受けたこの苦しみは、ダビデが部下ウリヤを戦死に追いやり、ウリヤの妻バト・シェバを奪った罪に対する、神様の審判です。預言者ナタンが、ダビデに告げました。「ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。主はこう言われる。『見よ、わたしはあなたの家の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。』」
このような背景があり、ある程度時間がたった時、アブサロムの反逆が起こりました。神様はダビデにこのような試練を与えられましたが、この試練によってダビデを打ち倒そうとはなさいませんでした。ダビデとアブサロムのうち、神様はなおダビデと共におられました。アブサロムが父に反逆することは、「父母を敬え」というモーセの十戒の第五の戒めに逆らう罪なのです。アブサロム軍とダビデ軍は、エフライムの森で戦闘を行います。結果、アブサロム軍は大敗北を喫し、二万人が戦死します。アブサロムはらばに乗っていましたが、らばが樫の大木のからまりあった枝の下を通ったので、頭がその木にひっかかり、天地の間に宙づりになってしまい、乗っていたらばは走り去ってしまいます。ダビデの部下で軍人のヨアブがアブサロムの心臓を突き刺し、ヨアブの武器を持つ従卒十人がとどめを刺し、アブサロムは戦死します。
ダビデの部下が喜び勇んで、ダビデに勝利の知らせをもたらします。ところがダビデは、アブサロムの死を察すると、激しく嘆き悲しんだのです。「ダビデは身を震わせ、城門の上の部屋に上って泣いた。彼は上りながらこう言った。『わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ、わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、わたしの息子よ、わたしの息子よ。』」これを見た兵士たちにとって、その日の勝利は喪に変わり、兵士たちは戦場を脱走したことを恥じる兵士が忍びこむようにして、こっそり町に入った、とあります。ヨアブがダビデを厳しく諭します。「王は今日、王のお命、王子、王女たちの命、王妃、側女たちの命を救ったあなたの家臣全員の顔を恥にさらされました。あなたを憎む者を愛し、あなたを愛する者を憎まれるのですか。~この日、アブサロムが生きていて、我々全員が死んでいたら、あなたの目に正しいと映ったのでしょう。とにかく立って外に出、家臣の心に語りかけてください。主に誓って言いますが、出て来られなければ、今夜あなたと共に過ごす者は一人もいないでしょう。それはあなたにとって、若いときから今に至るまでに受けたどのような災いにもまして、大きな災いとなるでしょう。」
ヨアブに叱られて、ダビデは家臣たちの前に出て、ねぎらいの言葉を述べたようです。ダビデは顔で勝利を喜び、心の中で息子の死を悲しんで泣いたのでしょう。このことから説教題を、「顔で笑い、心で泣くダビデ」と致しました。公の立場を持つ人は、このように心が引き裂かれることがあります。私人として悲しくとも、公人として喜ばなければならないこともあります。以前、NHKの大河ドラマで、西南戦争に勝利した大久保利通が次のように語る場面がありました。「幾多の兵士の労をねぎらい、功をたたえ、大久保その勝利を心より喜ぶ、と伝えてくれ。」顔は沈痛なのです。彼にとって故郷鹿児島を倒し、盟友・西郷隆盛を殺した戦争だったからです。しかし政府の首脳として、彼は勝利を喜び、兵士たちをねぎらわなければなりませんでした。ダビデもそのような辛さを味わいました。
ダビデは、「わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった」とも言いました。愚かな父の見苦しい姿でもありますが、ダビデの本心です。自分が息子の代わりに死ねばよかったというのです。私たちは他人のためになかなか死ねない者ですが、自分の子どものためならば死ぬことができるという人は、少なくないでしょう。「わたしが身代わりに死ねばよかった。」これは父なる神様の心に少し似ていると思うのです。ルカによる福音書15章の「放蕩息子の父」の心に似ています。放蕩息子の父親が、父なる神様を示すことは明らかです。あの父親は、息子のためなら死んでもよいと思っていたでしょう。アブサロムも放蕩息子、親不幸な息子です。ルカ福音書の放蕩息子は自分の罪を悔い改め、アブサロムは悔い改めなかったという大きな違いがありますが、放蕩息子の父親とダビデの心、「わが子のためであれば、死んでもよい」は似ている面があると思うのです。
本日の新約聖書は、ローマの信徒への手紙9章1~3節です。これを書いた使徒パウロは、罪を悔い改めない自分の仲間のイスラエル人たちのことで心を痛めています。パウロは悔い改めない彼らを、しかし深く愛していました。何とかして悔い改めて、救い主イエス・キリストを信じて、永遠の命に入ってほしいと切望していたのです。「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」これは、仲間の身代わりに死んでもよいという、パウロの深い愛だと思うのです。モーセも、仲間のイスラエルの民のために死んでもよいと言っています。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば…。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください」(出エジプト記32章31~32節)。
イエス・キリストは語るだけでなく、本当に私たちの身代わりに十字架で死んで下さり、私たちへの深い愛を示されました。そして三日目に復活されました。イエス様は十字架より前に、こう語られました。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ福音書10章11説)。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ福音書15章13節)。その通り、本当に私たちの全ての罪を背負って、私たちの身代わりに十字架で死んで下さいました。ダビデの、「わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった」の言葉には肉親エゴが感じられますが、しかし一面においては父親としての真実な愛でもあります。
私は先週、渋谷で『かけはし』という映画を見て参りました。2001年1月に、JR新大久保駅で、線路に転落した男性を助けようとして関根さんという男性と、李さんという韓国人の当時26歳の青年が、線路に降りたけれども、残念ながら3人とも亡くなった事故がありました。当時すぐに報道され、日本中に感動を与えました。私も感激しました。あの出来事のその後を追ったドキュメンタリーです。関根さんは、立派なカメラマンです。李さんは韓国と日本のかけはしになる夢を持っておられました。李さんのご両親は立派な方々です。日本中から多くの義援金が集まったそうです。そのお金を元に、基金が作られ、日本とアジアを結ぶ仕事をしたいと願う若者の奨学金にあてられているそうです。ある台湾の青年は、その奨学金で音楽の教師になり、東京の女子のミッションスクールで生徒たちが歌う讃美歌のピアノ伴奏をしている様子が映されました。奨学金の事務局の女性が、「李さんが生きていたら40代だけれども、生きていてもできないほどの大きな仕事をしている」と語られ、聖書の御言葉を引用されました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ福音書12章24節)。日本人のために、命を投げ出して下さった方です。あの出来事が、あのままで終わっていない。その後に、神様が実を結ばせて下さっていると感じます。
ダビデの「アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった」の言葉には、肉親エゴも含まれています。しかし真実な愛の部分もあると思うのです。その真実な愛の部分を、私たちも聖霊を注がれて少しずつでも実践したいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。
ダビデ王が、生涯最大の危機を迎えています。息子アブサロムによる反逆です。ダビデは一旦、首都エルサレムを開け渡し、アブサロムがエルサレムに入城します。ダビデがエルサレムを開け渡したのは、エルサレムで決戦してエルサレムの多くの住民を戦乱に巻き込まないためと思います。ダビデの民への思いやりでしょう。ダビデが受けたこの苦しみは、ダビデが部下ウリヤを戦死に追いやり、ウリヤの妻バト・シェバを奪った罪に対する、神様の審判です。預言者ナタンが、ダビデに告げました。「ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。主はこう言われる。『見よ、わたしはあなたの家の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。』」
このような背景があり、ある程度時間がたった時、アブサロムの反逆が起こりました。神様はダビデにこのような試練を与えられましたが、この試練によってダビデを打ち倒そうとはなさいませんでした。ダビデとアブサロムのうち、神様はなおダビデと共におられました。アブサロムが父に反逆することは、「父母を敬え」というモーセの十戒の第五の戒めに逆らう罪なのです。アブサロム軍とダビデ軍は、エフライムの森で戦闘を行います。結果、アブサロム軍は大敗北を喫し、二万人が戦死します。アブサロムはらばに乗っていましたが、らばが樫の大木のからまりあった枝の下を通ったので、頭がその木にひっかかり、天地の間に宙づりになってしまい、乗っていたらばは走り去ってしまいます。ダビデの部下で軍人のヨアブがアブサロムの心臓を突き刺し、ヨアブの武器を持つ従卒十人がとどめを刺し、アブサロムは戦死します。
ダビデの部下が喜び勇んで、ダビデに勝利の知らせをもたらします。ところがダビデは、アブサロムの死を察すると、激しく嘆き悲しんだのです。「ダビデは身を震わせ、城門の上の部屋に上って泣いた。彼は上りながらこう言った。『わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ、わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、わたしの息子よ、わたしの息子よ。』」これを見た兵士たちにとって、その日の勝利は喪に変わり、兵士たちは戦場を脱走したことを恥じる兵士が忍びこむようにして、こっそり町に入った、とあります。ヨアブがダビデを厳しく諭します。「王は今日、王のお命、王子、王女たちの命、王妃、側女たちの命を救ったあなたの家臣全員の顔を恥にさらされました。あなたを憎む者を愛し、あなたを愛する者を憎まれるのですか。~この日、アブサロムが生きていて、我々全員が死んでいたら、あなたの目に正しいと映ったのでしょう。とにかく立って外に出、家臣の心に語りかけてください。主に誓って言いますが、出て来られなければ、今夜あなたと共に過ごす者は一人もいないでしょう。それはあなたにとって、若いときから今に至るまでに受けたどのような災いにもまして、大きな災いとなるでしょう。」
ヨアブに叱られて、ダビデは家臣たちの前に出て、ねぎらいの言葉を述べたようです。ダビデは顔で勝利を喜び、心の中で息子の死を悲しんで泣いたのでしょう。このことから説教題を、「顔で笑い、心で泣くダビデ」と致しました。公の立場を持つ人は、このように心が引き裂かれることがあります。私人として悲しくとも、公人として喜ばなければならないこともあります。以前、NHKの大河ドラマで、西南戦争に勝利した大久保利通が次のように語る場面がありました。「幾多の兵士の労をねぎらい、功をたたえ、大久保その勝利を心より喜ぶ、と伝えてくれ。」顔は沈痛なのです。彼にとって故郷鹿児島を倒し、盟友・西郷隆盛を殺した戦争だったからです。しかし政府の首脳として、彼は勝利を喜び、兵士たちをねぎらわなければなりませんでした。ダビデもそのような辛さを味わいました。
ダビデは、「わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった」とも言いました。愚かな父の見苦しい姿でもありますが、ダビデの本心です。自分が息子の代わりに死ねばよかったというのです。私たちは他人のためになかなか死ねない者ですが、自分の子どものためならば死ぬことができるという人は、少なくないでしょう。「わたしが身代わりに死ねばよかった。」これは父なる神様の心に少し似ていると思うのです。ルカによる福音書15章の「放蕩息子の父」の心に似ています。放蕩息子の父親が、父なる神様を示すことは明らかです。あの父親は、息子のためなら死んでもよいと思っていたでしょう。アブサロムも放蕩息子、親不幸な息子です。ルカ福音書の放蕩息子は自分の罪を悔い改め、アブサロムは悔い改めなかったという大きな違いがありますが、放蕩息子の父親とダビデの心、「わが子のためであれば、死んでもよい」は似ている面があると思うのです。
本日の新約聖書は、ローマの信徒への手紙9章1~3節です。これを書いた使徒パウロは、罪を悔い改めない自分の仲間のイスラエル人たちのことで心を痛めています。パウロは悔い改めない彼らを、しかし深く愛していました。何とかして悔い改めて、救い主イエス・キリストを信じて、永遠の命に入ってほしいと切望していたのです。「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」これは、仲間の身代わりに死んでもよいという、パウロの深い愛だと思うのです。モーセも、仲間のイスラエルの民のために死んでもよいと言っています。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば…。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください」(出エジプト記32章31~32節)。
イエス・キリストは語るだけでなく、本当に私たちの身代わりに十字架で死んで下さり、私たちへの深い愛を示されました。そして三日目に復活されました。イエス様は十字架より前に、こう語られました。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ福音書10章11説)。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ福音書15章13節)。その通り、本当に私たちの全ての罪を背負って、私たちの身代わりに十字架で死んで下さいました。ダビデの、「わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった」の言葉には肉親エゴが感じられますが、しかし一面においては父親としての真実な愛でもあります。
私は先週、渋谷で『かけはし』という映画を見て参りました。2001年1月に、JR新大久保駅で、線路に転落した男性を助けようとして関根さんという男性と、李さんという韓国人の当時26歳の青年が、線路に降りたけれども、残念ながら3人とも亡くなった事故がありました。当時すぐに報道され、日本中に感動を与えました。私も感激しました。あの出来事のその後を追ったドキュメンタリーです。関根さんは、立派なカメラマンです。李さんは韓国と日本のかけはしになる夢を持っておられました。李さんのご両親は立派な方々です。日本中から多くの義援金が集まったそうです。そのお金を元に、基金が作られ、日本とアジアを結ぶ仕事をしたいと願う若者の奨学金にあてられているそうです。ある台湾の青年は、その奨学金で音楽の教師になり、東京の女子のミッションスクールで生徒たちが歌う讃美歌のピアノ伴奏をしている様子が映されました。奨学金の事務局の女性が、「李さんが生きていたら40代だけれども、生きていてもできないほどの大きな仕事をしている」と語られ、聖書の御言葉を引用されました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ福音書12章24節)。日本人のために、命を投げ出して下さった方です。あの出来事が、あのままで終わっていない。その後に、神様が実を結ばせて下さっていると感じます。
ダビデの「アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった」の言葉には、肉親エゴも含まれています。しかし真実な愛の部分もあると思うのです。その真実な愛の部分を、私たちも聖霊を注がれて少しずつでも実践したいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。
2017-02-16 16:38:12(木)
「愛の香り」 2017年2月12日(日) 降誕節第8主日礼拝説教
朗読聖書:イザヤ書61章1~4節、ヨハネによる福音書12章1~11節。「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。」(ヨハネ福音書11章3節)。
イエス様は、愛する友ラザロを復活させる偉大な奇跡を行われました。場所はベタニヤです。ベタニアは、「神により頼む貧しい人の家」の意味だそうです。ラザロは、「神は助ける」の意味だそうです。イエス様は、過越祭の6日前の土曜日に再びベタニアに行かれました。イエス様は、翌週の金曜日に十字架にお架かりになります。ベタニアはもちろんラザロとその二人の姉妹マルタとマリアがいます。(2節)イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。」
その時、マリアが非常に思い切った行動に出ます。「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ(326g)持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその(両)足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。」ナルドとは植物名で、和名は甘松(かんしょう)です。良い強い香りを放つのでしょう。雅歌1章12節に、こうあります。「王様を宴の座にいざなうほど、わたしのナルドは香りました。」『聖書の植物事典』(八坂書房、2014年、115~116ページ)に、次のようにあります。「インドでは、今でも髪の毛の香料として用いられ、あらゆる点から考えて、聖書の中でナルドと呼ばれている貴重な香油は、もともと、遠くはなれたインドからもたらされた、と信じるに足る十分な理由があります。~最上質のナルドの香油は、雪花石膏製の箱に入れて封印して輸入され、この状態のまま保存しておいて、ごく特別な場合以外には、封を切りませんでした。一家の主人が高名な客を迎える時は、客に花の冠をかぶせ、その上、雪花石膏の箱の封を切り、ナルドの香油を塗ったものでした。~ヘブライ人やローマ人は、この植物からとれる香油を、死者の埋葬に用いました。」
本日の場面によく似た出来事がマタイ福音書26章とマルコ福音書14章にありますが、そこではイエス様の頭に香油が注がれたと書いてあります。ヨハネ福音書12章ではマリアは、ナルドの香油をイエス様の両足に塗りました。家中に香油の良い香りが満ち、人々はうっとりした気持ちになったと思うのです。そして女性にとって最も大切な髪の毛で、イエス様の両足を拭いました。これは愛する兄弟ラザロを復活させて下さったイエス様に対する、マリアの精一杯・全身全霊の愛の表現です。マリアの感謝と献身の愛です。大変異例の思いきった行いでしたが、イエス様は喜んで受けて下さいました。6日後に十字架に架かる決心をしておられるイエス様の心を、マリアの愛が慰めたに違いないのです。
本日の旧約聖書は、イザヤ書61章1節以下です。(1節)「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。」香油は聖霊のシンボルです。香油は聖なる喜びの油であり、聖霊は聖なる喜びの霊です。イエス様はメシアです。メシアはヘブライ語で「油を注がれた者」の意です。メシアのギリシア語がキリストで、同じく「油を注がれた者」の意です。マリアがイエス様の両足に香油を塗ったことで、マリアが気づかぬうちに神様に奉仕して、イエス様がメシアであることを証明する行為を行ったのです。旧約聖書の時代に、神様にお仕えする重要な職務は祭司・王・預言者で、彼らは聖なる油(聖霊のシンボル)を注がれて職務に就きました。たとえばダビデ王も油を注がれています。彼らは小メシアであったと言えます。しかし真のメシア・イエス様は、ひとりで祭司・王・預言者の全ての務めを完全に行われます。イエス様は十字架にかかって私たち罪人(つみびと)を父なる神様の前にとりなして下さった真の祭司であり、全世界の真の王であり、神様の御言葉を完全に語る真の預言者です。そして香油は、当時の人々によって埋葬に用いられたそうです。「彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ」(ヨハネ福音書19章40節)。イエス様もマリアについて言われます。「わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」香油は十字架の死を暗示したのです。メシア・イエス様は、わたしの罪を背負って十字架で死んで下さるメシアであることが暗示されたのです。
東久留米教会ではこの数年、クリスチャンの音楽家が結成している音楽伝道団体「ユーオーディアアンサンブル」の方々をお招きして、クリスマスコンサートを行っています。「ユーオーディア」は、ギリシア語で「良い香り」、「極上の香り」の意味と聞きます。本日のヨハネ福音書12章には出て来ませんが、エフェソの信徒への手紙5章2節に出て来ます。「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」「香りのよい」が「ユーオーディア」という言葉です。ユーオーディアアンサンブルの方々は、祈りをこめた演奏が神様への「香りの良い供え物」となることを祈って、演奏活動をなさっているに違いありません。日本のクリスチャンの家庭に女の子が生まれると、「かおり」さんと名付けることは、よくあると思います。私どもの教会員にも、このよきお名前の方がおられます。コリント人への第二の手紙(口語訳、2章15節)には、「キリストのかおり」という麗しい御言葉もあります。私どもも、自分の罪を悔い改め、神様に清めていただいて、少しでもキリストのかおりを放つ者とさせていただきたいものです。
そして、十字架に架かられたイエス様こそ、「最も香りのよい供え物」でいらっしゃいます。私たちは毎月、日本キリスト教団の信仰告白で次のように申します。「主は、わたしたち罪人(つみびと)のために人となり、十字架に架かり、ひとたび己を全き供え物として神に献げ、我らの贖いとなりたまえり。」十字架に架かられたイエス様こそ、父なる神様にとって「最も香りのよい供え物」です。
私たちの全ての罪を背負って十字架で死なれたイエス様の愛に感謝して、私どももイエス様に自分自身を献げます。マリアがその模範を行ってくれました。それはイエス様への無償の愛、見返りを全く求めない愛、献身の愛、献げ尽くす愛です。キリストの(精神的な)花嫁という印象です。マリアは、花嫁としての愛をイエス様に献げ尽くしています。聖書では、教会はキリストの花嫁にたとえられています。このマリアの生き方は、教会の模範です。
このマリアの無私の愛に、けちがつきました。イスカリオテのユダが言います。「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」ヨハネ福音書は、「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」と記しています。イエス様は、マリアを弁護して下さいました。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
1デナリオンは一日分の賃金ですから、300デナリオンは最大で300万円と思います。ユダはその後、イエス様を銀貨30枚で売ったのです。あえて言えば30万円かもしれません。マリアとユダは、完全に対照的です。マリアの愛は計算を度外視した無償の愛です。ユダは、全てに損得計算づくです。自分が少しでも損したくないのです。ずるをしたいのです。イエス様を愛していないので、結果として貧しい人をも愛していません。ユダにはマリアがまぶしいに違いありません。私たちの心にも、ユダの要素があります。それと戦う必要があります。
旧約聖書では、神様が夫、神の民イスラエルが妻です。新約聖書では、父なる神様・神の子イエス・キリストが花婿、教会が花嫁です。マリアこそキリストの花嫁である教会のシンボル存在です。カトリックのシスター(修道女)方は独身で、キリストと結婚している(精神的に)と聞いたことがあります。そしてキリストを愛し、祈りと人々への奉仕に励んでおられます。マザー・テレサは、毎朝のミサでキリストの体のパン(キリストの愛)を受けて、貧しい方々への奉仕に赴いたと聞きます。私たちもキリストの花嫁です(クリスチャンは、女性も男性も)。イエス様の十字架の愛に感謝してイエス様を一途に愛し、隣人を愛させていただきたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。
イエス様は、愛する友ラザロを復活させる偉大な奇跡を行われました。場所はベタニヤです。ベタニアは、「神により頼む貧しい人の家」の意味だそうです。ラザロは、「神は助ける」の意味だそうです。イエス様は、過越祭の6日前の土曜日に再びベタニアに行かれました。イエス様は、翌週の金曜日に十字架にお架かりになります。ベタニアはもちろんラザロとその二人の姉妹マルタとマリアがいます。(2節)イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。」
その時、マリアが非常に思い切った行動に出ます。「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ(326g)持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその(両)足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。」ナルドとは植物名で、和名は甘松(かんしょう)です。良い強い香りを放つのでしょう。雅歌1章12節に、こうあります。「王様を宴の座にいざなうほど、わたしのナルドは香りました。」『聖書の植物事典』(八坂書房、2014年、115~116ページ)に、次のようにあります。「インドでは、今でも髪の毛の香料として用いられ、あらゆる点から考えて、聖書の中でナルドと呼ばれている貴重な香油は、もともと、遠くはなれたインドからもたらされた、と信じるに足る十分な理由があります。~最上質のナルドの香油は、雪花石膏製の箱に入れて封印して輸入され、この状態のまま保存しておいて、ごく特別な場合以外には、封を切りませんでした。一家の主人が高名な客を迎える時は、客に花の冠をかぶせ、その上、雪花石膏の箱の封を切り、ナルドの香油を塗ったものでした。~ヘブライ人やローマ人は、この植物からとれる香油を、死者の埋葬に用いました。」
本日の場面によく似た出来事がマタイ福音書26章とマルコ福音書14章にありますが、そこではイエス様の頭に香油が注がれたと書いてあります。ヨハネ福音書12章ではマリアは、ナルドの香油をイエス様の両足に塗りました。家中に香油の良い香りが満ち、人々はうっとりした気持ちになったと思うのです。そして女性にとって最も大切な髪の毛で、イエス様の両足を拭いました。これは愛する兄弟ラザロを復活させて下さったイエス様に対する、マリアの精一杯・全身全霊の愛の表現です。マリアの感謝と献身の愛です。大変異例の思いきった行いでしたが、イエス様は喜んで受けて下さいました。6日後に十字架に架かる決心をしておられるイエス様の心を、マリアの愛が慰めたに違いないのです。
本日の旧約聖書は、イザヤ書61章1節以下です。(1節)「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。」香油は聖霊のシンボルです。香油は聖なる喜びの油であり、聖霊は聖なる喜びの霊です。イエス様はメシアです。メシアはヘブライ語で「油を注がれた者」の意です。メシアのギリシア語がキリストで、同じく「油を注がれた者」の意です。マリアがイエス様の両足に香油を塗ったことで、マリアが気づかぬうちに神様に奉仕して、イエス様がメシアであることを証明する行為を行ったのです。旧約聖書の時代に、神様にお仕えする重要な職務は祭司・王・預言者で、彼らは聖なる油(聖霊のシンボル)を注がれて職務に就きました。たとえばダビデ王も油を注がれています。彼らは小メシアであったと言えます。しかし真のメシア・イエス様は、ひとりで祭司・王・預言者の全ての務めを完全に行われます。イエス様は十字架にかかって私たち罪人(つみびと)を父なる神様の前にとりなして下さった真の祭司であり、全世界の真の王であり、神様の御言葉を完全に語る真の預言者です。そして香油は、当時の人々によって埋葬に用いられたそうです。「彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ」(ヨハネ福音書19章40節)。イエス様もマリアについて言われます。「わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」香油は十字架の死を暗示したのです。メシア・イエス様は、わたしの罪を背負って十字架で死んで下さるメシアであることが暗示されたのです。
東久留米教会ではこの数年、クリスチャンの音楽家が結成している音楽伝道団体「ユーオーディアアンサンブル」の方々をお招きして、クリスマスコンサートを行っています。「ユーオーディア」は、ギリシア語で「良い香り」、「極上の香り」の意味と聞きます。本日のヨハネ福音書12章には出て来ませんが、エフェソの信徒への手紙5章2節に出て来ます。「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」「香りのよい」が「ユーオーディア」という言葉です。ユーオーディアアンサンブルの方々は、祈りをこめた演奏が神様への「香りの良い供え物」となることを祈って、演奏活動をなさっているに違いありません。日本のクリスチャンの家庭に女の子が生まれると、「かおり」さんと名付けることは、よくあると思います。私どもの教会員にも、このよきお名前の方がおられます。コリント人への第二の手紙(口語訳、2章15節)には、「キリストのかおり」という麗しい御言葉もあります。私どもも、自分の罪を悔い改め、神様に清めていただいて、少しでもキリストのかおりを放つ者とさせていただきたいものです。
そして、十字架に架かられたイエス様こそ、「最も香りのよい供え物」でいらっしゃいます。私たちは毎月、日本キリスト教団の信仰告白で次のように申します。「主は、わたしたち罪人(つみびと)のために人となり、十字架に架かり、ひとたび己を全き供え物として神に献げ、我らの贖いとなりたまえり。」十字架に架かられたイエス様こそ、父なる神様にとって「最も香りのよい供え物」です。
私たちの全ての罪を背負って十字架で死なれたイエス様の愛に感謝して、私どももイエス様に自分自身を献げます。マリアがその模範を行ってくれました。それはイエス様への無償の愛、見返りを全く求めない愛、献身の愛、献げ尽くす愛です。キリストの(精神的な)花嫁という印象です。マリアは、花嫁としての愛をイエス様に献げ尽くしています。聖書では、教会はキリストの花嫁にたとえられています。このマリアの生き方は、教会の模範です。
このマリアの無私の愛に、けちがつきました。イスカリオテのユダが言います。「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」ヨハネ福音書は、「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」と記しています。イエス様は、マリアを弁護して下さいました。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
1デナリオンは一日分の賃金ですから、300デナリオンは最大で300万円と思います。ユダはその後、イエス様を銀貨30枚で売ったのです。あえて言えば30万円かもしれません。マリアとユダは、完全に対照的です。マリアの愛は計算を度外視した無償の愛です。ユダは、全てに損得計算づくです。自分が少しでも損したくないのです。ずるをしたいのです。イエス様を愛していないので、結果として貧しい人をも愛していません。ユダにはマリアがまぶしいに違いありません。私たちの心にも、ユダの要素があります。それと戦う必要があります。
旧約聖書では、神様が夫、神の民イスラエルが妻です。新約聖書では、父なる神様・神の子イエス・キリストが花婿、教会が花嫁です。マリアこそキリストの花嫁である教会のシンボル存在です。カトリックのシスター(修道女)方は独身で、キリストと結婚している(精神的に)と聞いたことがあります。そしてキリストを愛し、祈りと人々への奉仕に励んでおられます。マザー・テレサは、毎朝のミサでキリストの体のパン(キリストの愛)を受けて、貧しい方々への奉仕に赴いたと聞きます。私たちもキリストの花嫁です(クリスチャンは、女性も男性も)。イエス様の十字架の愛に感謝してイエス様を一途に愛し、隣人を愛させていただきたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。
2017-02-08 20:00:07(水)
「神の子たちを集めるために」 2017年2月5日(日) 降誕節第7主日礼拝説教
朗読聖書:イザヤ書53章1~12節、ヨハネによる福音書11章45~57節。「国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つの集めるためにも死ぬ、と言ったのである」(ヨハネ福音書11章52節)。
イエス様は、偉大な愛の業をなさいました。愛する友ラザロを復活させなさった(生き返らせなさった)のです。それを目撃した多くのユダヤ人は、イエス様を神の子と信じました。しかし中には、イエス様に好意的でないユダヤ人もいて、ファリサイ派の人々のもとに行ってイエス様のなさったことを告げました。自分たちの仲間ラザロが生き返ったのですから、素直に喜べばよいのに、告げ口したのです。スパイがいたのです。
(47~48節)「そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。『この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そしてローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。』」この時代のイスラエルの人々は、メシア(救い主)を待ち望んでいました。それは政治的・軍事的メシアで、ローマ帝国と戦ってイスラエルの独立を勝ち取るメシアでした。イエス様が、しるし(奇跡)を行われたので、イエス様の人気はいやが上にも高まりました。人々が熱狂し、イエス様を祭り上げてローマ帝国との戦いを始める恐れがあると、最高法院の人々は恐れたのです。そうなればローマ軍に勝つ確率は低いでしょう。逆にローマ軍に攻め込まれて、首都エルサレムの神殿も国民も滅ぼされてしまう。これが彼らの危惧でした。
(49~50節)「彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。『あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。』」大祭司は信仰の責任者ですが、悪い意味での政治家です。カイアファは、イエス様を殺すほうが得策だと言ったのです。イエス様に犠牲になってもらって、国の安泰を計ろうというのです。本当は、国民のことを考えてはいません。自分たちの支配体制を守りたいのです。保身だけが狙いです。そのためにイエス様を殺すことに、少しも後ろめたさを感じていない身勝手な人です。
ある人は、未熟な人と成熟した人につき、次のように言います。未熟な人は、他人の苦しみ(犠牲)の上に自分の幸せを築く。成熟した人は、他人の苦しみを進んで担う。カイアファは、真に未熟な人です。最も成熟した方はイエス・キリストです。イエス様は進んで、私たちのすべての罪の責任を身代わりに背負って、十字架で死んで下さいました。イエス様に従う者キリスト教会も、私たちクリスチャン個人も、他者の苦難を進んで担う者であり続けたいのです。カイアファは自己中心的な人、罪深い者、未熟な人です。私たちはそのようになりたくありません。
(51~52節)「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、『イエスが国民のために死ぬ』と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。」イエス様を信じる人は皆、神の子です。神の子たちは世界中に散らばっています。イスラエルにもおり、アフリカにもおり、北朝鮮にも、韓国にも、日本にもおります。クリスチャンは神の国の民ですから、政治的な国境・人種・性別による差別を超えて存在します。神の子たちは、世界の全教会におります。プロテスタント諸教会(ルター派、改革派、メソジスト、救世軍その他)にもカトリック教会にも、ギリシア正教会にも、無教会派にもおります。教会には「見える教会」と「見えない教会(霊的な教会)」があると言われます。どちらも大事です。「見える教会」は、具体的に存在する各教会です。「見えない教会(霊的な教会)」は、地上の教派を超えて、神様の目に見えている教会と言えるでしょう。それは国境を超え、時間を超えた(過去・現在・将来にまたがる)教会と言えます。
「(イエス様は)散らされている神の子たちを一つの集めるためにも死ぬ」、これがイエス様の十字架の死の意義の一つなのです。「イエス様が、私の罪をすべて背負って十字架で死んで下さった」と信じる人々が、世界中から現れるのです。その神の子たちが、今この礼拝堂にも集められています。すべての教会の礼拝の場に集められています。私たち、最初から知り合いでなかった者たちが、イエス様の父なる神様を礼拝するために、この場に集められています。これこそ主の御業、奇跡でなくて何でしょう。
「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司だったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。」カイアファは自分のたちの利益だけ考えて発言したのです。ところが実は神様がカイアファをコントロール下に置いておられ、カイアファが気づかないままで最も深い真理を語らせなさったのです。イエス様がユダヤ人たちの罪を背負って十字架で死ぬ、全世界の人たちの罪を背負って十字架で死ぬ、という最も深い真理をです。だからと言って私たちは、「私たちが悪を語ったり行ったりしても、神様が善に変えて下さるから、どんどん悪を語り、行おう」と考えてはなりません。神様に逆らって悪を行えば、相応の報いを受けます。カイアファは自分たちと国を守るためにイエス様を殺す決心をしました。しかし神の子イエス様を殺すという重大な罪を犯したために、イスラエルはこの約40年後に、ローマ軍によって滅ぼされました。自分たちと国を守るためにイエス様を殺したことは大きな罪で、逆にイスラエルの国の滅亡を招いたのです。
カイアファは預言した、と書かれています。新約聖書のペトロの手紙(二)1章20~21節にこうあります。「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」私は『クォ・ヴァディス』という映画のDVDを見たことがあります。ペトロが登場します。ペトロはイエス様が十字架につかれる前に、三度イエス様を否定しました。その罪を泣いて悔い改め、イエス様に赦され、使徒として再出発しました。しかしこの映画では約30年後、クリスチャンへの迫害が吹き荒れるローマの都から、一人の少年を連れて脱出しようとします。ペトロが「このような時こそ、主(イエス様)の導きがほしいのだが」と言うと、少年の様子が変わります。そしてその時だけ、イエス様の言葉を語るのです。「私はもう一度十字架にかかるために、ローマに行く。」ペトロは気づきます。自分がまたもイエス様を裏切ろうとしていることに。ペトロは悔い改め、ローマに引き返し、仲間のクリスチャンたちを励まし、遂に逆さ十字架について殉教します。こうしてイエス様に従う生涯を全うし、神様の栄光を現したのです。このことは聖書には書かれていませんが、伝説に基づいて小説が書かれ、映画化されたようです。少年が語った言葉こそ、まさに預言だったと思うのです。
本日の旧約聖書は、イエス様の十字架を預言したイザヤ書53章です。ここを普通に読んでも、何が書かれているのか分かりません。自分勝手に解釈しても、分からないでしょう。これはまさに「人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったもの」です。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」まさにこれは、イエス様の十字架の死の預言です。あるクリスチャンが教会に通い始めた頃、教会のベテランの信徒の方にこのイザヤ書53章について、「ここはとっても大切なところなのよ」と、噛んで含めるように教えられたと、書いておられました。
カイアファは、「一人の人間が民の代わりに死に」と述べました。イエス様は、私たちの全ての罪を背負って、私たちの身代わりに十字架にかかって下さった方です。ある先生のお説教で、チャンピオンという言葉の定義を教えられました。私はそれまでチャンピオンは「勝利者、優勝者」と思っていました。その意味もあるが、それは第一の意味ではないというのです。第一の意味は、「(誰かの)代わりに戦う人」だというのです。であれば、イエス様こそ私たちのチャンピオン、真のチャンピオンです。イエス様は、私たちに代わって悪魔と戦い、すべての誘惑に打ち勝ち、勝利なさった方だからです。十字架という最大の苦難の中でも、決して悪魔の誘惑に負けて、父なる神様に罪を犯しませんでした。父なる神様に、一言も不平を言いませんでした。そして十字架の死の三日目に、墓を破って復活されました。このイエス様こそ、私たちの真のチャンピオンです。この方が、世の終わりまで私たちと共にいて下さいます。イエス様に励まされ、未熟な人ではなくできるだけ成熟した人として、イエス様に従って参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。
イエス様は、偉大な愛の業をなさいました。愛する友ラザロを復活させなさった(生き返らせなさった)のです。それを目撃した多くのユダヤ人は、イエス様を神の子と信じました。しかし中には、イエス様に好意的でないユダヤ人もいて、ファリサイ派の人々のもとに行ってイエス様のなさったことを告げました。自分たちの仲間ラザロが生き返ったのですから、素直に喜べばよいのに、告げ口したのです。スパイがいたのです。
(47~48節)「そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。『この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そしてローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。』」この時代のイスラエルの人々は、メシア(救い主)を待ち望んでいました。それは政治的・軍事的メシアで、ローマ帝国と戦ってイスラエルの独立を勝ち取るメシアでした。イエス様が、しるし(奇跡)を行われたので、イエス様の人気はいやが上にも高まりました。人々が熱狂し、イエス様を祭り上げてローマ帝国との戦いを始める恐れがあると、最高法院の人々は恐れたのです。そうなればローマ軍に勝つ確率は低いでしょう。逆にローマ軍に攻め込まれて、首都エルサレムの神殿も国民も滅ぼされてしまう。これが彼らの危惧でした。
(49~50節)「彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。『あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。』」大祭司は信仰の責任者ですが、悪い意味での政治家です。カイアファは、イエス様を殺すほうが得策だと言ったのです。イエス様に犠牲になってもらって、国の安泰を計ろうというのです。本当は、国民のことを考えてはいません。自分たちの支配体制を守りたいのです。保身だけが狙いです。そのためにイエス様を殺すことに、少しも後ろめたさを感じていない身勝手な人です。
ある人は、未熟な人と成熟した人につき、次のように言います。未熟な人は、他人の苦しみ(犠牲)の上に自分の幸せを築く。成熟した人は、他人の苦しみを進んで担う。カイアファは、真に未熟な人です。最も成熟した方はイエス・キリストです。イエス様は進んで、私たちのすべての罪の責任を身代わりに背負って、十字架で死んで下さいました。イエス様に従う者キリスト教会も、私たちクリスチャン個人も、他者の苦難を進んで担う者であり続けたいのです。カイアファは自己中心的な人、罪深い者、未熟な人です。私たちはそのようになりたくありません。
(51~52節)「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、『イエスが国民のために死ぬ』と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。」イエス様を信じる人は皆、神の子です。神の子たちは世界中に散らばっています。イスラエルにもおり、アフリカにもおり、北朝鮮にも、韓国にも、日本にもおります。クリスチャンは神の国の民ですから、政治的な国境・人種・性別による差別を超えて存在します。神の子たちは、世界の全教会におります。プロテスタント諸教会(ルター派、改革派、メソジスト、救世軍その他)にもカトリック教会にも、ギリシア正教会にも、無教会派にもおります。教会には「見える教会」と「見えない教会(霊的な教会)」があると言われます。どちらも大事です。「見える教会」は、具体的に存在する各教会です。「見えない教会(霊的な教会)」は、地上の教派を超えて、神様の目に見えている教会と言えるでしょう。それは国境を超え、時間を超えた(過去・現在・将来にまたがる)教会と言えます。
「(イエス様は)散らされている神の子たちを一つの集めるためにも死ぬ」、これがイエス様の十字架の死の意義の一つなのです。「イエス様が、私の罪をすべて背負って十字架で死んで下さった」と信じる人々が、世界中から現れるのです。その神の子たちが、今この礼拝堂にも集められています。すべての教会の礼拝の場に集められています。私たち、最初から知り合いでなかった者たちが、イエス様の父なる神様を礼拝するために、この場に集められています。これこそ主の御業、奇跡でなくて何でしょう。
「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司だったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。」カイアファは自分のたちの利益だけ考えて発言したのです。ところが実は神様がカイアファをコントロール下に置いておられ、カイアファが気づかないままで最も深い真理を語らせなさったのです。イエス様がユダヤ人たちの罪を背負って十字架で死ぬ、全世界の人たちの罪を背負って十字架で死ぬ、という最も深い真理をです。だからと言って私たちは、「私たちが悪を語ったり行ったりしても、神様が善に変えて下さるから、どんどん悪を語り、行おう」と考えてはなりません。神様に逆らって悪を行えば、相応の報いを受けます。カイアファは自分たちと国を守るためにイエス様を殺す決心をしました。しかし神の子イエス様を殺すという重大な罪を犯したために、イスラエルはこの約40年後に、ローマ軍によって滅ぼされました。自分たちと国を守るためにイエス様を殺したことは大きな罪で、逆にイスラエルの国の滅亡を招いたのです。
カイアファは預言した、と書かれています。新約聖書のペトロの手紙(二)1章20~21節にこうあります。「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」私は『クォ・ヴァディス』という映画のDVDを見たことがあります。ペトロが登場します。ペトロはイエス様が十字架につかれる前に、三度イエス様を否定しました。その罪を泣いて悔い改め、イエス様に赦され、使徒として再出発しました。しかしこの映画では約30年後、クリスチャンへの迫害が吹き荒れるローマの都から、一人の少年を連れて脱出しようとします。ペトロが「このような時こそ、主(イエス様)の導きがほしいのだが」と言うと、少年の様子が変わります。そしてその時だけ、イエス様の言葉を語るのです。「私はもう一度十字架にかかるために、ローマに行く。」ペトロは気づきます。自分がまたもイエス様を裏切ろうとしていることに。ペトロは悔い改め、ローマに引き返し、仲間のクリスチャンたちを励まし、遂に逆さ十字架について殉教します。こうしてイエス様に従う生涯を全うし、神様の栄光を現したのです。このことは聖書には書かれていませんが、伝説に基づいて小説が書かれ、映画化されたようです。少年が語った言葉こそ、まさに預言だったと思うのです。
本日の旧約聖書は、イエス様の十字架を預言したイザヤ書53章です。ここを普通に読んでも、何が書かれているのか分かりません。自分勝手に解釈しても、分からないでしょう。これはまさに「人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったもの」です。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」まさにこれは、イエス様の十字架の死の預言です。あるクリスチャンが教会に通い始めた頃、教会のベテランの信徒の方にこのイザヤ書53章について、「ここはとっても大切なところなのよ」と、噛んで含めるように教えられたと、書いておられました。
カイアファは、「一人の人間が民の代わりに死に」と述べました。イエス様は、私たちの全ての罪を背負って、私たちの身代わりに十字架にかかって下さった方です。ある先生のお説教で、チャンピオンという言葉の定義を教えられました。私はそれまでチャンピオンは「勝利者、優勝者」と思っていました。その意味もあるが、それは第一の意味ではないというのです。第一の意味は、「(誰かの)代わりに戦う人」だというのです。であれば、イエス様こそ私たちのチャンピオン、真のチャンピオンです。イエス様は、私たちに代わって悪魔と戦い、すべての誘惑に打ち勝ち、勝利なさった方だからです。十字架という最大の苦難の中でも、決して悪魔の誘惑に負けて、父なる神様に罪を犯しませんでした。父なる神様に、一言も不平を言いませんでした。そして十字架の死の三日目に、墓を破って復活されました。このイエス様こそ、私たちの真のチャンピオンです。この方が、世の終わりまで私たちと共にいて下さいます。イエス様に励まされ、未熟な人ではなくできるだけ成熟した人として、イエス様に従って参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。
2017-02-01 22:05:45(水)
「将来の栄光の希望」 2017年1月29日(日) 降誕節第6主日礼拝説教
朗読聖書:エレミヤ書29章4~14節、ローマの信徒への手紙8章18~25節。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」(ローマの信徒への手紙8章18節)。
この手紙の著者パウロは、多くの迫害の苦難を受けました。私たちはパウロほど信仰のために迫害を受けていないと思いますが、それでも18節に励まされます。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない。」イエス様を信じ、イエス様に従おうとする人が将来入れていただく神の国は、それほどすばらしい所なのです。 19~20節「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。」被造物(神様が造られた宇宙とそこに存在する全て)は虚無に服している、とパウロは書きます。被造物も人間と同様(人間も被造物ですが)、神の前に失われたものとなっている、被造物も救いを求めているのです。
創世記3章で、エバとアダムが神様のただ一つだった戒めに背いて罪に転落したとき、被造物も虚無に転落しました。神はアダムに言われました。「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる。」自然界は人間にとって恵みであると同時に、人間を苦しめることもある存在となりました。地震、津波などもそうだと思います。そして自然界も、神の国の完成のときには救われるとパウロは書きます。それは、神様が義の宿る新しい天と新しい地を造って下さることで実現します。それは真に栄光に輝くときです。
22節「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。」被造物は虚無の中で苦しみ、うめいているとパウロは書きます。自然界は美しいですが、弱肉強食、食うか食われるかの厳しくて恐ろしい生存競争の場であることも確かです。肉食動物に食われる草食動物の苦しみと、うめきがあるはずです。カマキリの雄は雌に食べられるそうですね。ここにもうめきがあるに違いありません。自然界も救いを求めています。コロサイの信徒への手紙1章19~20節にこうあります。「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子(イエス・キリスト)の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」イエス様の十字架の死は、父なる神様と被造物全体(宇宙・自然界全体)との和解の出来事でもあったのです。自然界全体の救いのためにも、イエス様は十字架で死なれたのです。
23節「被造物だけでなく、“霊”(聖霊)の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」イエス様を信じる人には、聖霊が与えられています。聖霊を受けていることこそが、私たちが将来、完全に救われることの保証です。聖霊を目で見ることはできませんが、イエス・キリストを救い主と信じる人は、基本的に聖霊をお受けしています。非常に光栄なことです。聖霊を受けている私たちであっても、人生の様々なうめきの中で生きております。口に出すことはあまりなくても、どなたもそうだろうと思います。そして体の贖われること、つまり、神様の約束によって復活の体が与えられる日を、ひたすら待ち望んでいます。
24節「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。」神の国が完成するときに、必ず復活の体をいただくことができるという希望です。 そしてパウロはやや結論的に書きます。「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」私たちは忍耐しつつ祈ります。この忍耐は、ただ我慢して終わりというものではありません。必ず神の国の栄光につながる忍耐、希望のある忍耐です。
今の世界は、戦争やテロでもうめいています。私が洗礼を受けた教会で3才ほど年上だったAさん(男性)が、今、バングラデシュのダッカに赴任しておられます。昨年7月にテロ事件があったダッカです。今回のクリスマス前にAさんからいただいたクリスマスレターにこのように書かれていました。「(ダッカのテロ事件が)世界中に衝撃的に報道され、実行犯に対する憎悪と関与の疑われるテロ組織の撲滅を叫ぶ記事であふれました。もしこれが、憎悪復讐の言葉ではなく、自然災害のときのように、実行犯を含む犠牲者への哀悼、遺族への激励と連帯の言葉だけで埋め尽くされていたら、テロはやがて無くなると思うのは夢想に過ぎないでしょうか。」「実行犯を含む犠牲者への哀悼」の言葉に、胸を打たれます。報復ではテロはなくせないと考えておられるのです。報復ではなく、愛によってテロを克服できないか、というクリスチャンとしての信仰を感じます。神様が平和の国、神の国を一日もはやくもたらして下さるように、祈るばかりです。
本日の旧約聖書は、エレミヤ書29章4節以下です。イエス・キリストの誕生より600年近くの言葉です。イスラエルの民は長年、神様に罪を犯し続けていたために、イスラエルの民はバビロンに捕囚として連れ去られました。捕囚は70年続いて終わるとエレミヤは、イスラエルの民への手紙に書きました。ある人はこれが気に入りませんでした。「エレミヤは、捕囚は長引くなどと告げる非国民だ」と考えたようです。ところがエレミヤの言葉は真実です。エレミヤは偽りの希望、安易な希望を語らず、真の希望を語ります。偽りの希望を語る偽預言者の方が、人気を得ることもあるのです。エレミヤは、人を恐れず、神様の真のメッセージを語ります。70年の時が満ちると、バビロン捕囚が終わるという真の希望のメッセージです。しかもバビロン捕囚は、結果的には約50年で終わったのです。神様の憐れみです。神様が短縮して下さったと思うのです。
11節は、しばしば暗唱聖句に選ばれる御言葉です。「わたし(神様)は、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。~わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。」イスラエルの民は、多くの罪の結果、バビロン捕囚という形の神様の審判を、きちんと受ける必要があります。しかしその先に、希望があるのです。祖国イスラエルに帰還することができる希望です。
私たち、キリストを信じる者たちにも、確かな希望があります。イエス様の復活の体と同じ復活の体を受け、神の国に入れていただいて、神様を永遠に讃美する者とされるという確かな希望です。今は多くのうめきの中にあります。しかしパウロは保証します。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光の比べると、取るに足りないとわたしは思います」と。
これより歌う讃美歌は、『讃美歌21』の471番「勝利をのぞみ」です。これはキング牧師と仲間の方々が、黒人差別に非暴力で抵抗する運動の中で、しばしば歌った讃美歌と聞きます。「勝利をのぞみ」と言うと、敵を倒して勝利するという感じを受けますが、英語の題は「ウィー シャル オーバーカム」です。「私たちは乗り超える」ということです。人間の敵をやっつけるのではなく、差別と悪を乗り越えるということです。2節に、「恐れを捨てて、勇んで進もう、闇に満ちた今日も」とあります。闇の中、希望が見えない中で、この歌を共に歌って励まし合ったのです。このような讃美と涙の祈りが積み重ねられて、2009年のオバマ大統領の誕生に至ったと思うのです。
私たちも、各々のうめきの中にあると思います。しかし、今日の聖書の希望の御言葉に励まされ、イエス・キリストを宣べ伝え、神の国を目指して共に前進致しましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。
この手紙の著者パウロは、多くの迫害の苦難を受けました。私たちはパウロほど信仰のために迫害を受けていないと思いますが、それでも18節に励まされます。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない。」イエス様を信じ、イエス様に従おうとする人が将来入れていただく神の国は、それほどすばらしい所なのです。 19~20節「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。」被造物(神様が造られた宇宙とそこに存在する全て)は虚無に服している、とパウロは書きます。被造物も人間と同様(人間も被造物ですが)、神の前に失われたものとなっている、被造物も救いを求めているのです。
創世記3章で、エバとアダムが神様のただ一つだった戒めに背いて罪に転落したとき、被造物も虚無に転落しました。神はアダムに言われました。「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる。」自然界は人間にとって恵みであると同時に、人間を苦しめることもある存在となりました。地震、津波などもそうだと思います。そして自然界も、神の国の完成のときには救われるとパウロは書きます。それは、神様が義の宿る新しい天と新しい地を造って下さることで実現します。それは真に栄光に輝くときです。
22節「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。」被造物は虚無の中で苦しみ、うめいているとパウロは書きます。自然界は美しいですが、弱肉強食、食うか食われるかの厳しくて恐ろしい生存競争の場であることも確かです。肉食動物に食われる草食動物の苦しみと、うめきがあるはずです。カマキリの雄は雌に食べられるそうですね。ここにもうめきがあるに違いありません。自然界も救いを求めています。コロサイの信徒への手紙1章19~20節にこうあります。「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子(イエス・キリスト)の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」イエス様の十字架の死は、父なる神様と被造物全体(宇宙・自然界全体)との和解の出来事でもあったのです。自然界全体の救いのためにも、イエス様は十字架で死なれたのです。
23節「被造物だけでなく、“霊”(聖霊)の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」イエス様を信じる人には、聖霊が与えられています。聖霊を受けていることこそが、私たちが将来、完全に救われることの保証です。聖霊を目で見ることはできませんが、イエス・キリストを救い主と信じる人は、基本的に聖霊をお受けしています。非常に光栄なことです。聖霊を受けている私たちであっても、人生の様々なうめきの中で生きております。口に出すことはあまりなくても、どなたもそうだろうと思います。そして体の贖われること、つまり、神様の約束によって復活の体が与えられる日を、ひたすら待ち望んでいます。
24節「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。」神の国が完成するときに、必ず復活の体をいただくことができるという希望です。 そしてパウロはやや結論的に書きます。「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」私たちは忍耐しつつ祈ります。この忍耐は、ただ我慢して終わりというものではありません。必ず神の国の栄光につながる忍耐、希望のある忍耐です。
今の世界は、戦争やテロでもうめいています。私が洗礼を受けた教会で3才ほど年上だったAさん(男性)が、今、バングラデシュのダッカに赴任しておられます。昨年7月にテロ事件があったダッカです。今回のクリスマス前にAさんからいただいたクリスマスレターにこのように書かれていました。「(ダッカのテロ事件が)世界中に衝撃的に報道され、実行犯に対する憎悪と関与の疑われるテロ組織の撲滅を叫ぶ記事であふれました。もしこれが、憎悪復讐の言葉ではなく、自然災害のときのように、実行犯を含む犠牲者への哀悼、遺族への激励と連帯の言葉だけで埋め尽くされていたら、テロはやがて無くなると思うのは夢想に過ぎないでしょうか。」「実行犯を含む犠牲者への哀悼」の言葉に、胸を打たれます。報復ではテロはなくせないと考えておられるのです。報復ではなく、愛によってテロを克服できないか、というクリスチャンとしての信仰を感じます。神様が平和の国、神の国を一日もはやくもたらして下さるように、祈るばかりです。
本日の旧約聖書は、エレミヤ書29章4節以下です。イエス・キリストの誕生より600年近くの言葉です。イスラエルの民は長年、神様に罪を犯し続けていたために、イスラエルの民はバビロンに捕囚として連れ去られました。捕囚は70年続いて終わるとエレミヤは、イスラエルの民への手紙に書きました。ある人はこれが気に入りませんでした。「エレミヤは、捕囚は長引くなどと告げる非国民だ」と考えたようです。ところがエレミヤの言葉は真実です。エレミヤは偽りの希望、安易な希望を語らず、真の希望を語ります。偽りの希望を語る偽預言者の方が、人気を得ることもあるのです。エレミヤは、人を恐れず、神様の真のメッセージを語ります。70年の時が満ちると、バビロン捕囚が終わるという真の希望のメッセージです。しかもバビロン捕囚は、結果的には約50年で終わったのです。神様の憐れみです。神様が短縮して下さったと思うのです。
11節は、しばしば暗唱聖句に選ばれる御言葉です。「わたし(神様)は、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。~わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。」イスラエルの民は、多くの罪の結果、バビロン捕囚という形の神様の審判を、きちんと受ける必要があります。しかしその先に、希望があるのです。祖国イスラエルに帰還することができる希望です。
私たち、キリストを信じる者たちにも、確かな希望があります。イエス様の復活の体と同じ復活の体を受け、神の国に入れていただいて、神様を永遠に讃美する者とされるという確かな希望です。今は多くのうめきの中にあります。しかしパウロは保証します。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光の比べると、取るに足りないとわたしは思います」と。
これより歌う讃美歌は、『讃美歌21』の471番「勝利をのぞみ」です。これはキング牧師と仲間の方々が、黒人差別に非暴力で抵抗する運動の中で、しばしば歌った讃美歌と聞きます。「勝利をのぞみ」と言うと、敵を倒して勝利するという感じを受けますが、英語の題は「ウィー シャル オーバーカム」です。「私たちは乗り超える」ということです。人間の敵をやっつけるのではなく、差別と悪を乗り越えるということです。2節に、「恐れを捨てて、勇んで進もう、闇に満ちた今日も」とあります。闇の中、希望が見えない中で、この歌を共に歌って励まし合ったのです。このような讃美と涙の祈りが積み重ねられて、2009年のオバマ大統領の誕生に至ったと思うのです。
私たちも、各々のうめきの中にあると思います。しかし、今日の聖書の希望の御言葉に励まされ、イエス・キリストを宣べ伝え、神の国を目指して共に前進致しましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。
2017-01-26 19:02:25(木)
「神の御心であれば」 2017年1月22日(日) 降誕節第5主日礼拝説教
朗読聖書:サムエル記・下15章1~16節、及び24~32節、ルカによる福音書22章39~46節。「わたしが主の御心に適うのであれば、主はわたしを連れ戻し、神の箱とその住む所を見せてくださるだろう」(サムエル記・下15章25節)。
ダビデ王が、人生最大の危機を迎えます。息子アブサロムによる反逆です。これは偶然の出来事はありません。ダビデが、忠実な部下ウリヤの妻バト・シェバと姦淫を行い、ウリヤを計画的に戦場で戦死させた後、神様が預言者ナタンをダビデに差し向けられ、ナタンはダビデに厳しく申し渡しました。「『ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』主はこう言われる。『見よ、わたしはあなたの家の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。あなたの目の前で妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える。彼はこの太陽の下であなたの妻たちと床を共にするであろう。あなたは隠れて行ったが、わたしはこれを全イスラエルの前で、太陽の下で行う。』」アブサロムの謀反は、ダビデの罪に対する報い、裁きなのです。
因みに、ダビデには多くの妻がいました。私のカウントに間違いがなけれが8人です。旧約聖書は、創世記2章24節で、結婚は一夫一婦が正しいことを宣言しています。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」しかしこのことは、旧約聖書ではまだ完全に実施されていません。新約聖書の時代になって、次第に実施されるようになったようです。
ダビデの息子アブサロムは、ヘブロンで陰謀を固め、一大勢力を築きます。アブサロムは美男子でした。魅力と人気があったのでしょう。ダビデは美男子で、王となる政治力と魅力を持っていたようです。アブサロムも同じ素質を受け継いでいたのでしょう。息子の反逆は、最も痛い出来事です。ダビデは、首都エルサレムで家臣全員に言います。「直ちに逃れよう。~我々が急がなければ、アブサロムがすぐに我々に追いつき、危害を与え、この都を剣にかけるだろう。」エルサレムでアブサロムの軍勢を迎え撃つ道もあるのです。しかしそうすると、エルサレムの多くの人々を犠牲にする恐れがあります。ダビデは民を守ろうと考えたのでしょう。自分が都落ちする道を選びました。
人が落ち目になると、人々が離れて行くことが多いのではないでしょうか。「まさかの時の友こそ真の友」と言います。ガト人イタイは、真の友の一人でした。ダビデは彼に思いやりある言葉をかけます。「なぜあなたまでもが、我々と行動を共にするのか。戻ってあの王のもとにとどまりなさい。あなたは外国人だ。しかもこの国では亡命者の身分だ。昨日来たばかりのあなたを、今日我々と共に放浪者にすることはできない。~兄弟たちと共に戻りなさい。主があなたに慈しみとまことを示されるように。」イタイは答えます。「生きるも死ぬも、主君、王のおいでになるところが、僕のいるべきところです。」泣かせる台詞です。本心です。ダビデと生死を共にする覚悟だというのです。真実で胸を打つ言葉です。両者の心が通い合っている会話です。ダビデは言います。「よろしい、通って行きなさい。」
23節に「その地全体が大声をあげて泣く中を、兵士全員が通って行った。王はキドロンの谷を渡り、兵士も全員荒れ野に向かう道を進んだ」とあります。30節に「ダビデは頭を覆い、はだしでオリーブ山の坂道を泣きながら上って行った。同行した兵士たちも皆、それぞれ頭を覆い、泣きながら上って行った。」ダビデは、ただ辛く悲しくて泣いているのではないと言われます。「頭を覆い、はだしで泣きながら」は、ダビデの悔い改めの姿と思われます。ダビデは、このような厳しい状況に追い込まれた原因は、自分の罪であると痛切に自覚しています。身から出たさびなのです。それで心から泣いて罪を悔い改めているのです。イエス様を三度否定して、イエス様に見つめられて泣いたペトロの涙に、よく似ています。ダビデの悔い改めは偽りではなく、本気です。神様もダビデの真実の悔い改めに、お心を動かされたのではないでしょうか。それもあってダビデの祈りは聞かれ、エルサレムに王として復帰できたのではないかと感じます。
約千年後、ダビデの子孫ヨセフの子として育たれたイエス様が、捕らえられる直前にほぼ同じ場所を通られます。「イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた」(ヨハネ福音書18:1)。イエス様は十字架の直前の必死の祈りを、オリーブ山でなさったと、ルカ福音書は書きます。マタイ福音書・マルコ福音書が、イエス様がゲツセマネという所で祈ったと記す祈りを、ルカ福音書はイエス様がオリーブ山でなさったと書きます。写真で見ると、オリーブ山の麓にゲツセマネがあるように見えます。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
ダビデも似た祈りを献げます。「王は(祭司)ツァドクに行った。『神の箱は都に戻しなさい。』」神の箱は、十戒の二枚の板が納められているイスラエル人全員の宝です。ダビデは神の箱を私物化してはならないと考えたのでしょう。「わたしが主の御心に適うのであれば、主はわたしを連れ戻し、神の箱とその住む所とを見せてくださるだろう。主がわたしを愛さないと言われるときは、どうかその良いと思われることをわたしに対してなさるように。」ダビデはエルサレムで王位に復帰できるように、可能な手を打つのです。しかし最後に全てをお決めになるのは神様。神様のご意志に従います。これがダビデの信仰です。日本風に言うと、「人事を尽くして、天命を待つ」に近い心境です。より正確には、「神様に祈りながら最善を尽くし、最後の決定を神様にお任せする」、これがダビデの信仰です。
イエス様もオリーブ山で祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」イエス様は、もとより十字架に架かる覚悟はずっと前からできておられましたが、本当に今なのか、まだ先ではないのか、確かめる思いで必死に祈られたのでしょう。その祈りも御心を優先する言葉で閉じられています。私たちも、先ほど「主の祈り」で祈りました。「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。」神様の御心が、この地で行われますようにと祈ったのです。私たちは自分の願いを素直に祈り求めることが許されています(よほど自分勝手な願いは別ですが)。神様がその祈りを聞き届けて下さることもあります。しかし、最後は「神様の御心が成るように」と私たちは祈ります。「神様の御心が成る」ことが最善だからです。それがダビデの信仰、イエス様の信仰、私たちの信仰です。ダビデのエルサレム復帰の願いは、結果的に聞き届けられました。イエス様の「杯(十字架)を取りのけてください」の祈りは聞かれず、イエス様は御心に従って十字架へ決然と進まれました。このようにダビデの祈りの結果とイエス様の祈りの結果は違ったのですが、「御心に従う」信仰は同一です。そしてイエス様は、ダビデのバト・シェバとの姦淫の罪、ダビデがウリヤを戦場で死に追いやった罪をも背負って、十字架に架かって下さったのです。
私たちも、日々祈りながら、伝道の務め、日々の様々な責任を果たしましょう。そしていつも最後は、「御心が成りますように」と信頼をもって、祈りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。
ダビデ王が、人生最大の危機を迎えます。息子アブサロムによる反逆です。これは偶然の出来事はありません。ダビデが、忠実な部下ウリヤの妻バト・シェバと姦淫を行い、ウリヤを計画的に戦場で戦死させた後、神様が預言者ナタンをダビデに差し向けられ、ナタンはダビデに厳しく申し渡しました。「『ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』主はこう言われる。『見よ、わたしはあなたの家の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。あなたの目の前で妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える。彼はこの太陽の下であなたの妻たちと床を共にするであろう。あなたは隠れて行ったが、わたしはこれを全イスラエルの前で、太陽の下で行う。』」アブサロムの謀反は、ダビデの罪に対する報い、裁きなのです。
因みに、ダビデには多くの妻がいました。私のカウントに間違いがなけれが8人です。旧約聖書は、創世記2章24節で、結婚は一夫一婦が正しいことを宣言しています。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」しかしこのことは、旧約聖書ではまだ完全に実施されていません。新約聖書の時代になって、次第に実施されるようになったようです。
ダビデの息子アブサロムは、ヘブロンで陰謀を固め、一大勢力を築きます。アブサロムは美男子でした。魅力と人気があったのでしょう。ダビデは美男子で、王となる政治力と魅力を持っていたようです。アブサロムも同じ素質を受け継いでいたのでしょう。息子の反逆は、最も痛い出来事です。ダビデは、首都エルサレムで家臣全員に言います。「直ちに逃れよう。~我々が急がなければ、アブサロムがすぐに我々に追いつき、危害を与え、この都を剣にかけるだろう。」エルサレムでアブサロムの軍勢を迎え撃つ道もあるのです。しかしそうすると、エルサレムの多くの人々を犠牲にする恐れがあります。ダビデは民を守ろうと考えたのでしょう。自分が都落ちする道を選びました。
人が落ち目になると、人々が離れて行くことが多いのではないでしょうか。「まさかの時の友こそ真の友」と言います。ガト人イタイは、真の友の一人でした。ダビデは彼に思いやりある言葉をかけます。「なぜあなたまでもが、我々と行動を共にするのか。戻ってあの王のもとにとどまりなさい。あなたは外国人だ。しかもこの国では亡命者の身分だ。昨日来たばかりのあなたを、今日我々と共に放浪者にすることはできない。~兄弟たちと共に戻りなさい。主があなたに慈しみとまことを示されるように。」イタイは答えます。「生きるも死ぬも、主君、王のおいでになるところが、僕のいるべきところです。」泣かせる台詞です。本心です。ダビデと生死を共にする覚悟だというのです。真実で胸を打つ言葉です。両者の心が通い合っている会話です。ダビデは言います。「よろしい、通って行きなさい。」
23節に「その地全体が大声をあげて泣く中を、兵士全員が通って行った。王はキドロンの谷を渡り、兵士も全員荒れ野に向かう道を進んだ」とあります。30節に「ダビデは頭を覆い、はだしでオリーブ山の坂道を泣きながら上って行った。同行した兵士たちも皆、それぞれ頭を覆い、泣きながら上って行った。」ダビデは、ただ辛く悲しくて泣いているのではないと言われます。「頭を覆い、はだしで泣きながら」は、ダビデの悔い改めの姿と思われます。ダビデは、このような厳しい状況に追い込まれた原因は、自分の罪であると痛切に自覚しています。身から出たさびなのです。それで心から泣いて罪を悔い改めているのです。イエス様を三度否定して、イエス様に見つめられて泣いたペトロの涙に、よく似ています。ダビデの悔い改めは偽りではなく、本気です。神様もダビデの真実の悔い改めに、お心を動かされたのではないでしょうか。それもあってダビデの祈りは聞かれ、エルサレムに王として復帰できたのではないかと感じます。
約千年後、ダビデの子孫ヨセフの子として育たれたイエス様が、捕らえられる直前にほぼ同じ場所を通られます。「イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた」(ヨハネ福音書18:1)。イエス様は十字架の直前の必死の祈りを、オリーブ山でなさったと、ルカ福音書は書きます。マタイ福音書・マルコ福音書が、イエス様がゲツセマネという所で祈ったと記す祈りを、ルカ福音書はイエス様がオリーブ山でなさったと書きます。写真で見ると、オリーブ山の麓にゲツセマネがあるように見えます。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
ダビデも似た祈りを献げます。「王は(祭司)ツァドクに行った。『神の箱は都に戻しなさい。』」神の箱は、十戒の二枚の板が納められているイスラエル人全員の宝です。ダビデは神の箱を私物化してはならないと考えたのでしょう。「わたしが主の御心に適うのであれば、主はわたしを連れ戻し、神の箱とその住む所とを見せてくださるだろう。主がわたしを愛さないと言われるときは、どうかその良いと思われることをわたしに対してなさるように。」ダビデはエルサレムで王位に復帰できるように、可能な手を打つのです。しかし最後に全てをお決めになるのは神様。神様のご意志に従います。これがダビデの信仰です。日本風に言うと、「人事を尽くして、天命を待つ」に近い心境です。より正確には、「神様に祈りながら最善を尽くし、最後の決定を神様にお任せする」、これがダビデの信仰です。
イエス様もオリーブ山で祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」イエス様は、もとより十字架に架かる覚悟はずっと前からできておられましたが、本当に今なのか、まだ先ではないのか、確かめる思いで必死に祈られたのでしょう。その祈りも御心を優先する言葉で閉じられています。私たちも、先ほど「主の祈り」で祈りました。「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。」神様の御心が、この地で行われますようにと祈ったのです。私たちは自分の願いを素直に祈り求めることが許されています(よほど自分勝手な願いは別ですが)。神様がその祈りを聞き届けて下さることもあります。しかし、最後は「神様の御心が成るように」と私たちは祈ります。「神様の御心が成る」ことが最善だからです。それがダビデの信仰、イエス様の信仰、私たちの信仰です。ダビデのエルサレム復帰の願いは、結果的に聞き届けられました。イエス様の「杯(十字架)を取りのけてください」の祈りは聞かれず、イエス様は御心に従って十字架へ決然と進まれました。このようにダビデの祈りの結果とイエス様の祈りの結果は違ったのですが、「御心に従う」信仰は同一です。そしてイエス様は、ダビデのバト・シェバとの姦淫の罪、ダビデがウリヤを戦場で死に追いやった罪をも背負って、十字架に架かって下さったのです。
私たちも、日々祈りながら、伝道の務め、日々の様々な責任を果たしましょう。そしていつも最後は、「御心が成りますように」と信頼をもって、祈りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。