日本キリスト教団 東久留米教会

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2015-10-26 18:00:25(月)
「責任を引き受けるボアズ ルツ記③」 2015年10月25日(日) 降誕前第9主日礼拝説教
朗読聖書:ルツ記3章1~18節、ガラテヤの信徒への手紙3章10~14節。
「しかし、それを好まないなら、主は生きておられる、わたしが責任を果たします」(ルツ記3章13節)。

 ルツ記を読む3回目です。ルツという名前の意味は「潤し」ではないかと言われます。姑のナオミの名は、「快い」という意味です(1章)。ルツはナオミの息子マフロンの妻です。ナオミと夫、二人の息子たちは、イスラエルを襲った飢饉を逃れて死海の東側にある外国モアブに移住しました。二人の息子たちはモアブの女性と結婚しました。マフロンはルツと結婚したのです。ルツはイスラエル人ではなく、モアブ人です。イスラエル人から見れば外国人です。この一家を悲劇が襲います。ナオミの夫エリメレクと、ナオミの息子でルツの夫のマフロン、ナオミのもう一人の息子キルヨン、この3人が亡くなったのです。十年の間にこのことが起こりました。ナオミは愛する家族3人を亡くしましたし、ルツは夫と義理の父親と義理の兄弟を失いました。そしてナオミの夫エリメレクの家が絶える危機を迎えたのです。昔の日本に似て、当時のイスラエルは男性中心の社会であり、家の名を残すことが最優先事でした。家の名を継ぐのは男性でなければなりませんでした。ナオミの家では男性3人が亡くなり、まさに家の名が絶える危機を迎えていました。イスラエルの各家には、神様から与えられて子孫に相続されてゆく土地がありました。「嗣業の土地」と言います。嗣業の土地を受け継ぐ男性がいないという事態になってしまったのです。ナオミの家は、滅びのピンチに立たされました。

 嗣業は、聖書の独特の言葉です。新共同訳聖書巻末の用語解説の29ページに、「嗣業」の説明があります。「本来は『賜物』を意味し、資産、相続財産、特に相続地を指す。神はカナンの地をアブラハムとその子孫に与えると約束し、それを果たしたので、土地は個人の所有物ではなく、神の所有地として家に属するものとなった。こうしてイスラエルでは、相続やその確保について詳しい規定が設けられた。嗣業の概念は更に発展して、イスラエルの民自身が『神の嗣業』として神のものとなり(申命記32:9)、一方、神御自身がその民の嗣業(ゆずり)となると考えられるようになった。新約では、地上の事物ではなく、『神の国そのものを受け継ぐ』ことが、神の最大の祝福と見なされている。」 旧約の時代は、神様からいただいた相続の地を、代々男性が受け継ぐことが極めて重要でした。ナオミの家は、それができない危機に瀕しました。

 しかし神様は、ナオミたちをお見捨てになりません。ルツ記には、神様が直接登場なさる場面はほぼなく、神様が直接発言なさる場面も一回もありません。しかし目に見えなくとも、神様はナオミたちと共におられます。神様がナオミたちを、少しずつ救いの方向に導いておられます。ナオミとルツは、モアブからイスラエルのベツレヘムに戻ります。二人には食べていく術がありません。そこで若いルツが落ち穂拾いに出かけます。ほとんど乞食に近い生活、落ち穂拾いができるお陰で、何とか餓死を免れる生活だったと思われます。落ち穂については、レビ記19章9節以下に次のように記されています。「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。」これは、神様が貧しい人や、生活に困っている外国人のために定めて下さった律法・掟です。私たちは律法と聞くと、堅苦しい決まりごとと受けとめるかもしれませんが、律法は、慈愛に満ちた神様の正義の掟でもあることが分かります。

 (1~2節)「しゅうとめのナオミが言った。『わたしの娘よ、わたしはあなたが幸せになる落ち着き先を探して来ました。あなたが一緒に働いてきた女たちの雇い主ボアズはわたしたちの親戚です。あの人は今晩、麦打ち場で大麦をふるい分けるそうです。』」ナオミは嫁ルツの幸せを願って動いており、ルツは姑と自分の生活のために働いています。お互いに心を配り合っている麗しい人間関係があります。ルツが落ち穂を拾いに行った畑の主人ボアズは、何とナオミの親戚でした。信仰がなければ偶然と思うかもしれませんが、ナオミも私たちもここに神様の愛の導きを見ます。ナオミは、自分に尽くしてくれるルツの幸せを願い、ボアズのもとに行くように勧めます。ナオミはボアズの今晩の行動予定を、誰かに聞いて確かめて来たと思われます。そしてルツにアドヴァイスします。(3~4節)「体を洗って香油を塗り、肩掛けを羽織って麦打ち場に下って行きなさい。ただあの人が食事を済ませ、飲み終わるまでは気づかれないようにしなさい。あの人が休むとき、その場所を見届けておいて、後でそばへ行き、あの人の衣の裾で身を覆って横になりなさい。その後すべきことは、あの人が教えてくれるでしょう。」相当大胆なアドヴァイスですね。ルツは素直に(と言うべきでしょう)、その通りに行動します。

 (7~9節)「ボアズは食事をし、飲み終わると心地よくなって、山と積まれた麦束の端に身を横たえた。ルツは忍び寄り、彼の衣の裾で身を覆って横になった。夜半になってボアズは寒気がし、手探りで覆いを捜した。見ると、一人の女が足もとに寝ていた。『お前は誰だ』とボアズが言うと、ルツは答えた。『わたしは、あなたのはしためのルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。』」これは個人的な恋愛ではなく、神の家族の一つであるナオミの家を絶やさないためのことです。

 ルツは、「あなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください」と大胆に言いました。裾というヘブライ語は、翼と訳すこともできるそうです。ボアズは2章12節でルツに、「イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように」との言葉をかけました。神様を鳥にたとえて、神様がその民を翼の陰で保護して下さるという表現は、詩編などにも見られますね。ルツはこのボアズの言葉を覚えていたのかもしれません。ボアズは神様ではありませんが、「あなたの衣の裾・翼を広げて、このはしためを覆ってください」と言ったのです。「家を絶やさぬ責任のある方」はヘブライ語で「ゴーエール」であり、直訳すると「贖い手」です(月本昭男・勝村弘也訳『旧約聖書ⅩⅢ ルツ記 雅歌 コーヘレト書 哀歌 エステル記』岩波書店、1998年、13ページ)。「贖い手」は、当時のユダヤは、父親中心・夫中心の社会です。父や夫がいないと、生活の糧を得ることが極めて難しかったようです。従って、男性の大黒柱を得ることが何としても必要なのが現実でした。

 「贖い」という聖書の重要な言葉が出て来ました。再び新共同訳聖書の巻末の用語解説を見ます。「贖い」について、「旧約では、1.人手に渡った近親者の財産や土地(嗣業の土地)を買い戻すこと」とあり、ルツ記のケースはほぼこれに当たります。(少し飛ばして)「旧約聖書の中で神が特に『贖う方』(イザヤ書41章14節)とあるのは、イスラエルの民を奴隷状態から解放する神の働きを述べたものである。新約では、キリストの死によって、人間の罪が赦され、神との正しい関係に入ることを指す」と書かれています。「神との正しい関係に入る」とは、「神との和解の関係に入る」ことです。

 「贖い」が旧約聖書でも新約聖書でも、非常に重要な意味をもつことが分かります。「贖い」とは「人手に渡った近親者の財産や土地(嗣業の土地)を買い戻すことだと書いてありましたが、レビ記25章23節以下に、次のように書かれています。「土地を売らねばならないときにも、土地を買い戻す権利を放棄してはならない。土地はわたし(神)のものであり、あなたたちはわたしの土地に寄留する者にすぎない。あなたたちの所有地においてはどこでも、土地を買い戻す権利を認めねばならない。もし同胞の一人が貧しくなったため、自分の所有地の一部を売ったならば、それを買い戻す義務を負う親戚が来て、売った土地を買い戻さねばならない。~(本人に)買い戻す力がないならば、それはヨベルの年(50年ごとの解放の年)まで、買った人の手にあるが、ヨベルの年には手放されるので、その人は自分の所有地の返却を受けることができる。」ルツ記4章4節を見ると、ナオミは亡夫エリメレクの所有する畑地を手放そうと(失おうと)していました。それを「贖う=買い戻す」責任をもつ親戚の一人が、ボアズだったのです。そのことをルツは語りました。「あなたは贖い手のお一人なのですから。」これは、「家を絶やさぬために私と結婚して下さい」という意味かもしれません。

 ルツ記3章10節。「ボアズは言った。『わたしの娘よ。どうかあなたに主の祝福があるように。あなたは、若者なら、富のあるなしにかかわらず追いかけるというようなことをしなかった。今あなたが示した真心は、今までの真心よりまさっています。』」 この「真心」はヘブライ語で「ヘセド」という非常に重要な言葉です。ヘセドという言葉は旧約聖書に252回も登場するそうです。日本語では「慈しみ」、「愛」、「憐れみ」、「真実」、「誠実」、「敬虔」などと訳され、英語ではmercy と訳されることが多いようです。ヘセドは神様のご性質を表す重要な言葉ですが、ここで「真心」と訳されてルツについて用いられているように、人間に用いられることもあります。調べてみると、ヘセドは契約と深く関わる言葉だと分かりました。聖書では契約も非常に重要ですね。旧約聖書・新約聖書の約は契約のことです。ヘセドは、契約に従って誓約(誓い)を守る、約束を守る、義務と責任を果たす、忠誠を尽くす、という意味を持つそうです。ルツはボアズに言います。「今あなたが示した真心(ヘセド)は、今までの真心よりまさっています。」「今までの真心」は、ルツが自分の夫の死後、ナオミのもとを去って故郷のモアブで再婚してもよかったのに、その道を犠牲にして、老いてゆくナオミ見捨てず、ナオミを支えて生きる決心をしたことを指すようです。ルツはある意味で、進んで喜んで十字架を背負ったのです。「今示した真心」は、ナオミの夫の家の贖い手と再婚することを求めていること、ナオミの夫の家を絶やさぬためにボアズのもとに大胆に来ていること、を指すようです。ルツの年齢は分かりませんが、25~30歳くらいでしょうか。ボアズの年齢も分かりませんが若者ではなく、40~45歳くらいでしょうか。年齢差は小さくないと思われます。ルツがもっと若い男性との再婚を望んでも不思議ではないのに、ナオミの夫の家を絶やさぬためのボアズとの再婚に進もうとしています。

 ボアズは、ルツの真心(ヘセド)に心を打たれ、自分の贖い手としての責任を自覚します。単純な恋愛ではありませんが、ルツに心を魅かれたことも事実でしょう。ボアズは語ります。(11~13節)「わたしの娘よ、心配しなくていい。きっと、あなたが言うとおりにします(結婚を受け入れます、との意味でしょうか)。この町のおもだった人は皆、あなたが立派な婦人であることをよく知っている。確かにわたしも家を絶やさぬ責任のある人間ですが、実はわたし以上にその責任のある人がいる。今夜はここで過ごしなさい。明日の朝その人がその責任を果たすというのならそうさせよう。しかし、それを好まないなら、主は生きておられる。わたしが責任を果たします。さあ、朝まで休みなさい。」「主は生きておられる」は、誓いをするときの定まった言い方です。「神様に誓って言います」という意味でしょう。ボアズの「わたしが責任を果たします」の言葉から、本日の説教題を「責任を引き受けるボアズ」と致しました。

 「わたしが責任を果たします」を丁寧に訳すと、「このわたしがあなたを贖いましょう」(前掲書、14ページ)になるようです。「あなたを贖う」とは、あなたと結婚しましょう、ということでしょう。それで3章の小見出しが、「婚約」となっているのだと思います。ルツは大胆にも夜明けまでボアズの足元で休みます。そして暗いうちに起きて、ナオミのもとに帰ります。人に見られないうちに帰る方がよいとのボアズの判断によります。噂になり、スキャンダルになることは避けることが賢明です。ボアズは分別のある大人の男性、判断に間違いがなく、頼りがいのある成熟した男性です。ボアズはルツとナオミに思いやりを示します。ルツに大麦を六杯背負わせて帰すのです。(16~18節)「ルツがしゅうとめのところへ帰ると、ナオミは、『娘よ、どうでしたか』と尋ねた。ルツはボアズがしてくれたことをもれなく伝えてから、『この六杯の大麦は、あなたのしゅうとめのところへ手ぶら帰すわけにはいかないとおっしゃって、あの方がくださったのです』と言うと、ナオミは言った。『わたしの娘よ、成り行きがはっきりするまでじっとしていなさい。あの人は、今日中に決着がつかなければ、落ち着かないでしょう。』」 ナオミは1章21節で、「主はうつろにして帰らせた」と嘆きました。しかし今ボアズがルツに「あなたのしゅうとめのところへ手ぶらで帰すわけにはいかない」と言い、「うつろ」から「恵み」への逆転が起こっています。目に見えない神様の愛です。

 ナオミは、「神様、もし御心に適うのでしたら、このことが進みますように」と祈りながら、ルツの帰りを待っていたに違いありません。こうして3章でストーリーは、一気に展開します。決着は、4章を待たなければなりません。

 もう一度、「贖い」に注目しますと、出エジプト記6章6節を見ると、ファラオの下で奴隷としてこき使われていたイスラエルの民のために、神様がモーセにこう言われます。「わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。」ここでは、神様がエジプトから脱出させて下さる救いを、贖いと呼んでいます。この場合、神様を最も親しい親族のような存在ととらえていると言えます。

 真の「贖い主」を切実に求めた人がいます。ヨブです。ヨブは語りました。「わたしを贖う方は生きておられ/ ついには塵の上に立たれるであろう。」この言葉は、イエス・キリストの誕生、十字架と復活によって成就したのではないでしょうか。

 本日の新約聖書は、ガラテヤの信徒への手紙3章9節以下です。ここでは、イエス・キリストが十字架で死んで下さることで、私たち全人類の罪が解決されたことを「贖い」と呼んでいます。ボアズはナオミの家にとって一種の救い主でしたが、イエス・キリストは私たち皆の贖い手、贖い主、救い主です。(10~11節)「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』と(申命記27章26節)に書いてあるからです。律法によっては、だれも神の御前で義とされないことは、明らかです。」モーセの十戒に代表される律法を守ることで、神様の前に正しい者と認められるためには、律法を一生100%守りきる必要があります。99%でも不合格です。律法は、神様の聖なるご意志を示すよきものです。しかし私たちに律法を100%守る力がないために、結果的に律法は私たちにとって裁き・絶望・呪いとなってしまうのです。

 しかし13節が、「贖い」という言葉を用いて、私たちに救いを語ってくれます。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と(申命記21章23節に)書いてあるからです。」「木」とはこの場合、十字架です。イエス・キリストは、私たちの身代わりに十字架で死なれ、全ての呪いを一身に引き受けて下さいました。私たちが自分の罪のゆえに、神様から受けるべき裁き(呪い)を、イエス様が十字架で全部引き受けて下さったのです。このことを新約聖書は「贖い」と呼ぶのですね。最高の救いのことです。イエス様の十字架の死による贖いこそ、私たちの全ての罪を赦す究極の贖いです。

 ルツとボアズが結婚して、オベドという男の子が生まれます。オベドがダビデ王の祖父になります。ルツはダビデ王のひいおばあさん、ボアズはひいおじいさんです。ダビデの子孫からイエス様の父ヨセフが生れます。ヨセフの妻マリアが処女妊娠でイエス様を生みます。ある意味で、ルツがナオミと共に生きる愛(ヘセド)の決断をしたからこそ、救い主イエス様までの子孫がつながり、イエス様を救い主と信じて私たちが罪の赦しを受けたとも言えます。ボアズが責任を引き受ける決断をしたからこそ、イエス様までの子孫がつながり、イエス様を救い主と信じて私たちが永遠の命をいただいたとも言えます。もちろんルツやボアズが別の生き方をしてしまったならば、神様は別の仕方でイエス様を誕生させて下さったでしょう。しかしルツとボアズの愛と責任に満ちた決断は、神様が救い主を誕生させるご計画を前進させるプラスの結果を生みました。ナオミ・ルツ・ボアズと私たちは、実はつながっているのですね。ナオミ・ルツ・ボアズの、自分より他人を思いやるよき生き方があったから、私たちも救われた。ナオミもルツもボアズも、私たちの恩人の一人なのです。私たちも、神様に喜ばれるよき生き方を選び取ることで、周りの方々や子孫に祝福を残して行くことができます。周囲と後の世代に真の祝福(愛。お金ではないかもしれません)を残す生き方! すばらしいと思われませんか? ナオミ・ルツ・ボアズに倣って、そのように生きて参りましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-10-07 13:25:11(水)
「死から命へと移っている」 2015年10月4日(日) 世界聖餐日・世界宣教の日 礼拝説教 
朗読聖書:ダニエル書12章1~13節、ヨハネ福音書5章19~30節。
「わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(ヨハネ福音書5章24節)。

 本日のヨハネによる福音書には、「御子の権威」という小見出しが付けられています。神の子イエス・キリストにどのような権威が与えられているか、がテーマと言えます。もう少し踏み込んで申しますと、父なる神様と神の子イエス様の非常に親しい絆が書かれていると、思うのです。なぜここにこのことが書かれているかと言いますと、直前のイエス様のご発言と深くつながっています。イエス様は17節で、イエス様を憎むユダヤ人たちに言われました。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」イエス様はここで神様を「わたしの父」と呼ばれました。ということは、御自分が神の子であると宣言されたことになります。このことがユダヤ人たちの激しい怒りを買いました。18節にこうあります。「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。」

 確かに聖書において、一般的には神様と人間は明確に区別されます。神様は世界と人間をお造りになった方、人間は神様に造られた存在として明確に区別されます。
そこが日本の宗教と非常に違うと語られることも多いのです。日本では有名人が神様として崇められるケースがあります。日光東照宮は徳川家康を神として祭っていますし、乃木希典を神として祭る乃木神社、東郷平八郎を神として祭る東郷神社があります。太平洋戦争の頃は、天皇を神と教える教育が行われました。このように日本では人間を神にすることが比較的簡単に行われるが、聖書の世界では全くそうではありません。人間が神様になることはあり得ないのが、聖書の世界です。人間を神様扱いすれば、モーセの十戒の第一の戒めで禁じられている偶像崇拝の罪になってしまいます。

 ですから、イエス様が神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされた発言を聞いてユダヤ人たちが激しく怒ったのは、理解できないことではないのです。彼らはイエス様が神様をひどく冒瀆したと考えたのです。しかしイエス様は例外です。イエス様は本当に神の子、神に等しい方、三位一体の神御自身ですから、イエス様が神様を父と呼ばれたことは、完全に正しいこと、真実であり、何の問題もないことです。冒瀆ではありません。イエス様は、御自分が神の子であることが本当であること、御自分が神の子であるとはどのようなことかを、彼らに語っておられるようです。

 (19節)「そこで、イエスは彼らに言われた。『はっきり言っておく。』」 「はっきり言っておく」は直訳では、「アーメン、アーメン、私はあなたたちに言う」です。アーメンは「真実に」の意味であることを、私たちはよく知っています。これはイエス様が、特に大切なことをおっしゃる時の前置きです。「アーメン、アーメン、私はあなたたちに言う。子は父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。」ここには、父なる神様と神の子イエス様の無限の親しさが示されています。両者は、愛によってしっかりと結び付いておられるのです。「子(イエス様)は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。」イエス様は父なる神様を愛しておられるので、自分勝手な行動はなさいません。あくまでも父なる神様に示されたことだけを行われます。喜んで父なる神様に従われます。「父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。」イエス様は父を愛しておられるので、喜んで服従なさるのです。

 私たちが信じている神様は、父・子・聖霊なる三位一体の神様です。イエス・キリストは神の子であり、(父なる神様に対して)子なる神であられます。聖霊も神であられます。本日の箇所は、三位一体のことを学ぶために、重要な箇所です。但し本日の箇所には聖霊のことを触れていないので、三位一体のすべてをここで学ぶことができるわけではありません。父なる神様と子なる神イエス・キリストの関係だけを学ぶことができる箇所です。エホバの証人とおっしゃる熱心な方々がおられます。もちろん市民としては共に歩むことが大切です。エホバの証人の方々と私たちの信仰の違いは、エホバの証人の方々は、神様を三位一体の神と信じておられないことです。イエス・キリストを神と信じておられません。エホバの証人の方々と話し合ったことが何回かありませんが、イエス様を父なる神様より低い方と主張され、神より下の方だと主張されたと記憶しています。しかしこの主張は間違いです。イエス様は子なる神ですが、父なる神を愛しておられるので、喜んで服従なさるのです。服従なさるから父なる神より下で、神でないということではありません。

 ヨハネ福音書に戻り、20節。「父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。」父なる神は、神の子・子なる神イエス・キリストを愛しておられます。両者は愛によって一体です。ここには書いてありませんが、聖霊なる神様も愛によって一体です。三位一体とは、愛によって一体ということです。イエス様は、この福音書の10章で、「わたしと父とは一つである」とおっしゃっています。「父は子を愛して」の愛はアガペーという言葉かなと思って調べると、別の言葉でした。しかし言葉が違っても、アガペーの愛と同じ意味で使われていると、私は考えます。父なる神は、イエス様を深く愛しておられます。イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになったとき、天から父なる神の声が聞こえたのです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」またイエス様が三人の弟子たちと一緒に高い山に登られたときも、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神様の声が聞こえたのです。

 (20節後半と21節)「また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。」厳密に言うと、生き返りと復活は違うことです。生き返りは、この地上の命に生き返ることですが、その後もう一度死にます。復活は、もはや死なない永遠の命に復活することです。しかしここでは厳密に区別されていないようです。父なる神様が死者を生き返らせる例は、旧約聖書にあります。列王記上17章を見ると、預言者エリヤが、シドンのサレプタという所に住むやもめの、死んだ息子のために祈り、神様がその息子を生き返らせておられます。列王記下4章では、預言者エリシャが、世話になった婦人の死んだ息子のために祈り、やはり神様が生き返らせておられます。それと同じように、イエス様はヨハネによる福音書11章で、死んだラザロのために祈り、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれました。すると死んでいたラザロが、手と足を布で巻かれたまま出て来ました。顔は覆いで包まれていました。こうしてラザロが生き返ったのです。イエス様が、「子も与えたいと思う者に命を与える」とおっしゃった通りです。本日の小見出しが、「御子の権威」ですが、イエス様には、死者に命を与える権威、死に打ち勝つ力が父なる神様から与えられているのです。

 (22節)「また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。」これにより、私たちが必ず受ける「最後の審判」の時の審判者がイエス・キリストであることが分かります。このことは使徒言行録10章42節にからもはっきり分かります。イエス様の一番弟子ペトロが申します。「イエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。」そしてテモテへの手紙(二)4章1~2節には、次のように書かれています。「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折りがよくても悪くても励みなさい。」

 (23節)「すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。」父なる神様を敬い礼拝するように、神の子イエス・キリストも礼拝の対象だということです。(24節)「はっきり言っておく。」これも「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う」です。「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」永遠の命とは、千年も万年も地上で生き続けることではありません。永遠の命とは、私たちが生まれつき持っている罪ある命、エゴイズムの多い命ではありません。それとは質の異なる全く新しい命です。イエス様の命と同じ命です。父なる神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛する命です。敵を愛する命です。聖書をケセン語(岩手県気仙地方の言葉)に訳された山浦玄嗣ドクターが、「永遠の命」を次のように訳されたことは暫く前の礼拝で申した通りです。「いつでも、活き活きと明るく力強く喜びに溢れてぴちぴちと生きること。」山浦さんがお書きになった『イエスの言葉 ケセン語訳』という本(文春新書、2011年、195ページ)には、「永遠の命」とは、「『神さまを本当に力頼りにしている人は、いつでも明るく元気に活き活きと暮すことができる』ということだと思います」と書いてあります。山浦さんは、さらにこのようにも書いておられます。「人生には災害も苦労もつきものですが、どんなに苦しい時でも、『だいじょうぶ、自分には神さまがついておられる。神さまはこのわたしを何かの役に立てるためにここにこうして生かしておいでだ。たとえそれが何なのかは今ははっきりわからなくても、だいじょうぶ、わたしはきっと神さまのお役に立っているはずだ!』と思えば、明るい力がわいてくるというものです」(195ページ)。東日本大震災と大津波を経験された上で、こう書いておられるので、とても感銘を受けます。「われわれの魂までは流されません。日本中のふるさとの仲間にイエスのことばをつたえようという望みはひとときも消えることはありません」(4ページ)との言葉に、勇気を与えられます。

 イエス・キリスト御自身が、「永遠の命」そのものです。入間メモリアルパークにある東久留米教会のお墓には、正面に「永遠の命」の文字が刻まれています。先週の日曜日、小平霊園で行われた日本キリスト教団の東京教区・西東京教区合同の墓前礼拝に参列致しました。お説教なさった牧師が、次のように語られました。「イエス・キリスト知るとき、私たちは永遠の命の中にある。」「私たち(キリストを信じる者)は、永遠の命の中で死を迎える。」「永遠の命は、死を限定づける。」「復活は、死を限定づける。」「死が永遠ではない。」「永遠の命の中に、私たちの死が納まっている(永遠の命が、死の力より強い)。」「聖書は、死の問題にはっきりと答えを与えている。イエス・キリストが答えである。」イエス・キリストこそ、死に打ち勝つ方である、という意味でしょう。

 去る9月26日(土)に、私の父方の義理の叔父が亡くなりました。私にとっては、従姉のお父様です。先週、カトリック吉祥寺教会で葬儀ミサが行われ、私も参列致しました。88歳でした。20才前の頃にカトリック教会で洗礼を受けたようです。その後、約70年間、神様を信じて生きたのですね。召される前日に、神父様に来ていただき、最後の聖体拝領(私たちの聖餐)を受け、信仰をもって召されました。信仰を抱いて、地上の生涯を全うしたことを知りました。イエス・キリストを信じた約70年前に既に永遠の命を受け、地上の死を迎えたけれども、今も永遠の命に生きており、天国に場所を移しました。

 「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」説教題「死から命へと移っている」をここからとりました。この死は、私たちの地上の死と考えることもできますが、私たちが罪を犯し続けて滅びに向かっていた状態(霊的に死んでいた状態)のことと考えることもできます。ルカによる福音書15章の「放蕩息子」を考えると分かりやすいです。弟息子が家を出て、放蕩三昧の生活を続けて痛い目に遭い、罪を悔い改めてぼろぼろになって家に帰って来た時、父親(神様)は彼の帰宅を喜び、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と言っています。「この息子は、死んでいたのに生き返った!」、まさに「死から命へと移った」のです。私たちは、罪を悔い改めることで、「死から命へと移る」のです。

 エフェソの信徒への手紙2章1節以下に、「死から命へ」という小見出しが掲げられていますので、見ましょう。1節に「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」とあります。まさに私たちもあの放蕩息子と同じで、イエス様を信じる前は「自分の過ちと罪のために死んで」いました。生きているけれども、罪を犯し続けて神様から離れた状態、死んだ状態にありました。死んだ状態とは、神様をも隣人をも愛していない状態です。2~3節は、死んだ状態のことを詳しく書いています。「この世を支配する者(悪魔)、かの空中に勢力を持つ者(悪魔)、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」

 しかし父なる神様が、イエス様の十字架の死と復活によって、私たち罪人を「死から命へ」移し、救って下さったのです。(4~6節)「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、―あなたがたの救われたのは恵みによるのです―キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」私たちは「死から命へ」移されたのです。私たちはまだ「天の王座」に着いていませんが、天国に入れていただいた時に、「天の王座」に着かせていただけるという約束が、ここに書かれているのだと思います。

 そして、ヨハネの手紙(一)3章14節を見ると、まさに「死から命へと移った」という言葉があります。(14~15節)「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟(教会の兄弟、周りの人々、全ての人を指すのではないでしょうか)を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。」兄弟(同上)を愛しているならば、それが私たちが永遠の命を得ている証拠だというのです。私たちは、聖霊の力によって隣人を愛し始めます。少しずつでも隣人を愛しているなら、私たちが永遠の命を受けている証拠になります。反対に、全然隣人を愛していないのであれば、反省する方がよいでしょう。(16~18節)「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て、同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」ここに、「死から命へと移された者」の生き方が示されています。

 ヨハネ福音書5章に戻り、25~26節。「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。」この御言葉は、この福音書の11章で実現します。ラザロの復活です。イエス様が墓の前で、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれると、死んでいたラザロが生きて出て来たのです。 (28~29節)「驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子(イエス様)の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」 神の国が来て、今の歴史が終わる時に、このことが起こります。ラザロの復活は、その先駆け・保証として起こったのだと思います。

 本日の旧約聖書は、ダニエル書12章1節以下です。この12章は、イエス様の誕生より170年ほど前に書かれたのではないかと思われます。1~3節に、明らかに復活の信仰が示されています。これは迫害の時代に、神に従って正しく生きる人々を励ます言葉です。迫害の中で殺されたとしても、神に従って正しく生きる人々には、復活の希望があるとの励ましです。「その時、大天使長ミカエルが立つ。/ 彼はお前の民の子らを守護する。/ その時まで、苦難が続く。/国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。/ しかし、その時には救われるであろう/ お前の民、あの書(命の書)に記された人々は。/ 多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める(復活する)。/ ある者は永遠の生命に入り/ ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。/ 目覚めた人々は大空の光のように輝き/ 多くの者の救いとなった人々は/ とこしえに星と輝く。」

 「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。/ ある者は永遠の生命に入り/ ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」は、イエス様の御言葉と、かなり一致すると思うのです。「時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」ダニエル書12章の最後で、天使と思われる者がダニエルに告げます。「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。」これは、ダニエルが復活して、神の前に立つということではないかと思います。

 このダニエル書12章に書かれていることは、「世の終わりの時の復活」です。ヨハネによる福音書11章でイエス様は、死んだラザロの姉妹マルタに、「あなたの兄弟は復活する」と言われました。マルタはダニエル書12章を踏まえてでしょう、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えました。するとイエス様は踏み込んで言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」イエス様こそ、復活の命そのものです。イエス様は、既に世に来られ、今は聖霊としてこの礼拝堂におられます。このイエス・キリストを救い主と素直に信じて、私たちも今皆で、「死んでも生きる命」、「復活の命」をいただきましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-09-29 1:42:46(火)
「信仰によって義とされる」 2015年9月27日(日) 聖霊降臨節第19主日礼拝説教
朗読聖書:創世記3章1~10節、ローマの信徒への手紙3章21~31節。
「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマの信徒への手紙3章24節)。

 本日の箇所は、ローマの信徒への手紙の中心の一つです。イエス・キリストによる福音が、非常に明瞭に語られているからです。「イエス・キリストを信じる信仰によってのみ義とされる信仰義認」を強調する、私たちプロテスタント教会にとって特に重要な御言葉です。この手紙を書いた使徒パウロは、本日の直前の20節で、「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」と述べています。これはパウロにとっては、一大発見です。律法とは、十戒に代表される神様の戒めです。復活されたイエス様に出会う前のパウロは、自分が神様の律法を完璧に守っていると、自信をもっていました。律法を完全に守って、完全に正しい者として神の前に立つことができると自信を持ち、疑いもしなかったでしょう。それがひっくり返されたのです。「律法によっては、罪の自覚しか生じない。」律法は聖なるもの、よいものです。しかし、十戒の一つ一つの戒めを深く学べば学ぶほど、私たちはその一つをさえ、完全に守ることができないことを知る結果になります。では、人はどのようにして救われることができるのでしょうか。その答えが、本日の箇所にあります。

 (21節)「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。」パウロもほかの多くのユダヤ人たちも、律法を実行することによって神の前に義と認められようと努力して来ました。しかし、神様が、私たちが救われるために別の道を用意して下さったのです。それは(22節)「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」 「神の義」というローマの信徒への手紙で最も重要な言葉が、久しぶりに出て来ました。「神の義」が最初に出て来たのは、この手紙の1章17節においてです。(1章16~17節)「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」

 「神の義」の「義」とは何でしょうか。新共同訳聖書の巻末の24ページの解説をお開き下さい。「神の属性(性格)、また人間に対するかかわりの特徴を表す概念。『神が義である』とは、神がその聖である本性や自分の立てた約束に誠実であり、誤謬を犯したり、法を破ったりすることはありえないという意味。」 そして「神の義」については、こう書かれています。「新約聖書では、神が人間にお求めになるふさわしい生き方、神の裁きの基準を意味することが多い。特にパウロ書簡では、『人間を救う神の働き』、その結果である『神と人間との正しい関係』を意味するが、キリストによる贖いと必然的に関連し、人間が義とされるとは、神の前で正しい者とされることであり、『救われる』とほとんど同義である。」 「神の義」は、イエス・キリストの十字架の死と復活による罪の赦しと救いを指します。神様は、律法の実行によらない、このような全く別の救いの道を備えて下さいました。それは22節にあるように、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」であり、「そこには何の差別も」ないのです。ユダヤ人も異邦人も、女も男も、子どもも大人も、この「神の義」によって差別なく救われる道が開かれたのです。

 そもそもなぜ人が救われる必要があるのでしょうか。それは私たちが皆、神様の前に罪人であり、罪のために神様と私たちの間が断絶しているからです。命の源である神様との間が断絶しているために、私たち人間に死があるのです。罪が死の原因です。(23節)「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」とあります。このことをもっと具体的に語るのが、本日の旧約聖書・創世記3章1節以下です。人類の始祖、最初の夫婦エバとアダムの堕落を語る有名な箇所です。人間が罪に落ちた様子を語る重要場面です。エバは、蛇に象徴される悪魔の誘惑に負けて、神様のたった1つの戒めを破ってしまったのです。

 3章1節から。「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。』女は蛇に答えた。『私たちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。』」エバ(ここではまだ「女」と書かれており、エバという名が付くのは20節においてです)は神様の言葉を不正確に語っています。神様は、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木(園の中央には、命の木と善悪の知識の木の2本の木があった)からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と言われたのです。この言葉を直接聞いたのはアダムです。アダムがいい加減に聞き、エバに不正確に伝えたのかもしれません。アダムは正確に伝えたがエバがいい加減に聞き、不正確に記憶したのかもしれません。いずれにしても人間の甘さがあります。そこを悪魔につけ込まれたと言えます。エバは悪魔の甘い誘惑に耳を傾けてしまいます。イエス様が悪魔に、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と言われたように、エバも悪魔を退ければよかったのですが、しませんでした。

 悪魔を退けないエバの曖昧な態度を見て、悪魔が攻勢に出ます。(4~5節)「蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。』」(6節)「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」神様の戒めを破った瞬間、二人は神様から与えられていた輝きを失い、神の栄光を受けられなくなってしまいました。人間は、神に似せて作られました。それを神の似姿と言います。しかしその神の似姿がかなり損なわれてしまったのです。二人は神様が怖くなりました。神様が園の中を歩く音が聞こえてきました。するとアダムとエバは、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れるようになってしまいました。主なる神様がアダムを呼ばれました。「どこにいるのか。」アダムは答えます。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」神は言われます。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」そう言われて、アダムもエバも言い訳と責任転嫁をする人になってしまいました。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」「蛇がだましたので、食べてしまいました。」

 神様は19節でアダムに言われます。「お前は顔に汗を流してパンを得る/ 土に返るときまで。/ お前がそこから取られた土に。/ 塵にすぎないお前は塵に返る。」ここで、人類に死が入り込んだのではないでしょうか。神様はアダムをエデンの園から追い出されます。当然エバも一緒に追い出されたのでしょう。楽園追放、失楽園です。人間が神様の戒めを破る罪を犯したために、楽園を追放され、それまで死がなかったのに、死ぬようになりました。人間は失われた者、死なねばならない者となったのです。この時以来、イエス様以外の全ての人間は、罪を持つ者として生まれて来るようになりました。

 聖書学者でいらっしゃる大貫隆先生が、創世記3章と深く関連する、真に印象的な体験を書いておられます(大貫隆著『聖書の読み方』岩波新書、2010年、14~16ページ)。小学校低学年時代の大貫先生は、チャンバラごっこのために一本の刀を作られました。それで仲間の前で、隣家のおじさんが大事に育てていたダリヤの花を切ってしまわれたのです。事の大きさに気づき、家に走って帰り、布団の詰まった押し入れの奥に隠れました。やがて買い物から帰って事情を聞かれたであろうお母様が、「タカシ、タカシ、お前はどこにいるの」と探す声が聞こえてきたそうです。ある大学で聖書の入門の講義をしておられるときに、突然、この時の記憶が甦ったと書いておられます。私は、まさに聖霊のお働きと感じます。大貫先生は「アダムとは、あの時押し入れの奥の暗がりに隠れていた自分のことではないのか」、「その時、はじめて創世記三章が私にとって単なる神話ではなくなった」と書いておられます。聖書が本当に分かるということは、このようなことだと思います。私たち一人一人にも、形は違えど、大貫先生と似た体験があるのではないでしょうか。アダムとエバは、人間の原型であり、私たち一人一人だと思うのです。

 ローマの信徒への手紙に戻り、23節。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが~。」この罪を「原罪」と呼びます。原罪という言葉そのものは聖書にありません。人間が生まれつきもっている罪のことです。ダビデ王の悔い改めの詩編として有名な詩編51編7節に、「わたしは咎のうちに産み落とされ/ 母がわたしを身ごもったときも/ わたしは罪のうちにあったのです」とあります。この咎・罪は原罪を指すと言えます。残念ながら私たちには、この原罪がつきまとっています。箴言20章9節に、「わたしの心を潔白にしたと、誰が言えようか。/ 罪から清めた、と誰が言えようか」とあります。その通りです。私たちの心の中を厳しくチェックすれば、清くない思いがいろいろあります。そうでない方はイエス様だけです。残念ながらこの地上では、私たちの心の中の罪がゼロになることはありません。

 しかし24節に大きな転換があり、大いなる救いがもたらされます。「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」「キリスト・イエスによる贖いの業。」もちろんイエス様の十字架の犠牲の死です。イエス様が、「この私」の罪を全て背負って十字架で死んで下さった、そして三日目に復活された。このことを信じる人には、全ての罪の赦しが与えられ、永遠の命が与えられ、神の子の身分が与えられます。これ以上の恵みはないのです。

 (25節)「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」 血は命そのものです。神の子イエス様が十字架で血潮を流すことなしに、私たち人間の罪が赦されることはありませんでした。これは確かに強烈なことです。日本人の普通の発想にはないことでしょう。神の子が十字架で血を流すことは、どうしても必要なことでした。イエス様は、私たちの罪を償うための供え物、いけにえとなって下さいました。旧約の時代には、イスラエルの民の罪を神様に赦していただくために、祭司が毎日いけにえの動物を屠って献げていたようです。屠れば当然、血が流れます。血は命です。動物に代わりに死んでもらうことで、イスラエルの民の罪を赦していただいたのでしょう。特に年に一度、贖罪日という日がありました。その日は大祭司が、神殿の最も聖なる空間・至聖所に入ったそうです。自分自身と民の罪のための、いけにえの血を携えてです。レビ記16章11節以下に詳しく書かれています。かなり凄まじい様子です。「アロン(初代の大祭司)は自分の贖罪の献げ物のための雄牛を引いて来て、自分と一族のために贖いの儀式を行うため、自分の贖罪の献げ物を屠る。~次いで、雄牛の血を取って、指で贖いの座の東の面に振りまき、更に血の一部を指で、贖いの座の前方に七度振りまく。次に、民の贖罪の献げ物のための雄山羊を屠り、その血を垂れ幕の奥(至聖所)に携え、さきの雄牛の血の場合と同じように、贖いの座の上と前方に振りまく。」

 動物を献げることは、新約聖書の時代の今は廃止されています。それは、既に最後決定的な献げ物が献げられたからです。尊い神の子イエス・キリストが、いけにえとなって十字架にかかって下さったからです。「それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」イエス様の十字架の時まで、父なる神様は、人間たちの罪を決定的に裁くことを、お控えになられました。神様はひたすら忍耐して来られたのです。しかし今、ほかの人間たちの代わりに、イエス様を十字架でお裁きになることで、神様は御自分の義(正義)を世界に明らかに示されたのです。(26節)「このように神は忍耐して来られたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」

 クリスチャン作家の三浦綾子さんが、こんな意味のことを書いておられました。「旧約聖書を読んで、神を裁きの神だと言う人がいるが、私はむしろ忍耐の神だと感じる。」まさにその通りです。確かに旧約聖書では神様がイスラエルの民の罪を裁く場面があります。しかし神様はそれでも裁きを控えめになさっていると思います。神様がイスラエルの民と世界の全ての人々の罪を、全部裁かれたのであれば、イエス様の時代になる前に、この世界は滅びていたでしょう。そうならずに済んだのは、神様が裁きを控えて、忍耐して来られたからです。「イエスを信じる者を義となさるためです」とあります。今こそ、世界の全ての一人一人が、イエス様を救い主と信じて、永遠の命を受けるように招かれている時です。ぜひこの招きにお応えしたいのです。使徒言行録17章30節に、パウロの似た発言が記されています。「さて、神はこのような無知な時代(真の神を知らない時代)を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。」イエス様の十字架と復活までは、神は人間の罪を決定的には裁かず忍耐し、大目に見て来られた。「神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」

 「時」という言葉は、原語のギリシア語でカイロスです。時には2種類あるのではないでしょうか。1つ目は日常的に流れて行く時です。もう1つは、「特に意味の深い時」です。たとえば人が生れる時、入学の時、卒業の時、就職の時、結婚の時。洗礼を受ける時、選挙の時、交渉の時、などの特に重要な時です。カイロスはそのような「特に意味の深い時」です。「今この時(カイロス)に義を示された」とあります。イエス様の十字架と復活の時。それは決定的に重要な時です。宇宙の歴史で、最も重要な時です。あの時以来、私たちは皆、イスラエル人も日本人も中国人も韓国人も、すべての人が招かれています。イエス・キリストを救い主と信じ、自分の罪を悔い改めて永遠の命を受けるようにと、招かれています。神様によってです。私たちは、この招きを素直に受け入れたいのです。
 
 (27節の前半)「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。」以前のパウロは、自分は律法を100%守っている正しい人間だと、大いに自信をもっていました。パウロはユダヤ人のファリサイ派に属していました。パウロ以外のファリサイ派の人々も、同じように自信を持っていました。しかしそのような自信は、取り除かれたのです。イエス様以外のどの人間にも罪があることが、示されました。 (27節後半~28節)「どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」ここには、信仰義認の真理、イエス様を救い主と信じる信仰によってのみ神の前に正しい者と認められることが示されています。(29~30節)「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者(ユダヤ人)を信仰のゆえに義とし、割礼のない者(異邦人、日本人を含む)をも信仰によって義としてくださるのです。」そこには何の差別もないのです。すばらしい恵みです。

 最後の31節は、さらに先のことを語ります。「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」 「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」のであれば、律法はもはや消え去ると考える人も出そうです。しかしパウロは、信仰は決して、律法を無にするものではないと主張します。「信仰によって律法を無にするのではなく、確立するのだ」と。ユダヤ人の律法主義は間違いですが、その対極ある間違い、無律法主義という間違いもあるのです。このことは、イエス様がマタイによる福音書5章17節でおっしゃったことと一致します。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」律法を確立する、完成するとは、神様を愛し、隣人を愛して生きるということです。ローマの信徒への手紙13章8節以下にこうあります。「人を愛する人は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」 イエス様もマタイ22章36節以下で言われます。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者(つまり旧約聖書)は、この二つの掟に基づいている。」信仰に始まり、愛に至るのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-09-23 2:06:48(水)
「ルツの落ち穂拾い ルツ記②」 2015年9月20日(日) 聖霊降臨節第18主日礼拝説教
朗読聖書:ルツ記2章1~23節、コリントの信徒への手紙(二)1章3~7節。
「心に触れる言葉をかけていただいて本当に慰められました」(ルツ記2章13節)。
 
 1章で、イスラエル人であるナオミという女性が、飢饉で夫と二人の息子と隣りのモアブの国に移住しましたが、約10年暮らすうちに夫と二人の息子に先立たれる苦難を経験し、飢饉が終わったイスラエルのベツレヘムに帰ったのです。二人の息子の妻たちはナオミを非常に慕っていたので、ナオミと一緒に行くと言いました。一人はナオミに諭されてモアブに残りましたが、もう一人のルツはナオミを決して見捨てない、ナオミと人生を共にすると決意していたので、ナオミと共にベツレヘムに来たのです。ルツにとってイスラエルは外国です。但し、ヘブライ語を話すことはできたのでしょう。ナオミは夫と二人の息子を失いました。このままでは乞食に身を落とすかもしれません。しかし、若いルツが一緒にいます。このルツこそ、神様からナオミへの大きな恵みです。ナオミは決して、神様から見捨てられていないのです。

 (1節)「ナオミの夫エリメレクの一族には一人の有力な親戚がいて、その名をボアズと言った。」この話の重要人物ボアズが初めて登場します。ある解説書によると、ボアズという名は、「彼には力が」という意味と理解できるが、原意は不明とあり、左近淑先生はボアズという名は、「力持ち」という意味と書いておられます。頼りになる成熟した大人の男性という印象です。因みに、ナオミは「快い、愉しみ」の意味、ルツは「潤し」の意味だということです。ベツレヘムという地名は、「パンの家」の意味です。今日の2章を読むと、確かに大麦と小麦の畑があったことが分かります。ナオミとルツはこのベツレヘム(もしくはその近く)で暮らし、ルツの曾孫ダビデ王は、このベツレヘム出身になります。ルツの時から千年以上後に、真の救い主イエス様がこのベツレヘムで、ダビデ王の子孫としてお生まれになります。ルツもイエス様の先祖になります(厳密にはイエス様の父ヨセフの先祖)。ルツもナオミもボアズも、神様の全世界を救おうとなさる大きなご計画の中で、役割を持っているのです。私たち一人一人にも、神様の大きなご計画の中で、担うべき役割と責任を与えられているのですから感謝です。

 (2節)「モアブの女ルツがナオミに、『畑に行ってみます。だれか厚意を示してくださる方の後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます』と言うと、ナオミは、『わたしの娘よ、行っておいで』と言った。」「モアブの女ルツ」とあり、ルツがモアブ人・異邦人であることがやや強調されています。ナオミは50才くらいでしょう。この時代では早老後だったと思われます。労働することは体にきつかったでしょう。もしルツがいなければ、故郷ベツレヘムに帰ったとしても現実には乞食に近い生活になり、長生きできないでしょう。「落ち穂拾い」というと、私たちはミレーという画家の有名な絵を思い出します。女性3人が、刈り入れが終わった麦畑で、身をかがめて地面に僅かに残った穂を拾っている絵です。そこには貧しい暮らしがあります。

 落ち穂については、旧約聖書レビ記19章9~10節に、次のように記されています。「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑に落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。」これは神様の愛と憐れみによる律法です。落ち穂は、神様の愛と憐れみのシンボルです。畑に落ち穂が残されているお陰で、貧し人・寄留の外国人・寡婦が食べ物を得て生きることができるのですね。ナオミは寡婦、ルツは寄留者です。

 そして申命記24章19節以下には、落ち穂のことではありませんが、このように記されています。「畑で穀物を刈りいれるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。オリーブの実を打ち落とすときは、後で枝をくまなく捜してはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。ぶどうの取り入れをするときは、後で摘み尽くしてはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。あなたは、エジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。」畑の持ち主は、収穫物を摘み尽くし、刈り尽くしてはならない。貧しい人々のために、残しておかなければならないのです。神様の愛による規定です。現代の言葉で言えば、ささやかなセーフィーネットです。畑の持ち主といえども、作物を独占してはならないのです。貧しい人のことを、いつも配慮するように、神様が命じておられるのです。ルツとナオミも、この神様の恩恵を受けます。

 ルツ記に戻り3節。「ルツは出かけて行き、刈り入れをする農夫たちの後について畑で落ち穂を拾ったが、そこはたまたまエリメレクの一族のボアズが所有する畑地であった。」エリメレクはナオミの夫で、ルツの舅です。そこは親戚筋の人の畑だったのです。「たまたま」とありますが、神様の導きの手が働いていることは明らかです。「たまたま、偶然」と思ってしまうことの中に、神様の御手の働きを発見することが信仰と思うのです。 (4節)「ボアズがベツレヘムからやって来て、農夫たちに、『主があなたたちと共におられますように』と言うと、彼らも、『主があなたを祝福してくださいますように』と言った。」畑はベツレヘムから少し離れた近隣にあったのかもしれません。ルツ記では人と人との会話が重要で、会話によってストーリーが展開します。ルツ記では、主な登場人物が相手を深く思いやる言葉を語ることが多いのです。私たちも真似するとよいですね。ボアズと農夫たちの会話を読むと、両者がよい関係にあることが感じられます。ボアズが農夫たちに祝福の挨拶をしています。「主があなたたちと共におられますように。」農夫たちもボアズに、「主があなたを祝福してくださいますように」と、心のこもった挨拶を返しています。ボアズは農夫思いの、思いやりのあるよい主人・経営者だったに違いありません。ブラック企業の経営者とは正反対です。

 ボアズは監督をしていた召し使いの一人から、畑にいる若い女性が、ナオミと一緒にモアブからやって来た娘であることを知ります。ルツのことはベツレヘムの人々の間で評判になっていたようで、ボアズも聞いて好感を抱いていたのです。11節で、ボアズがこう言っていることから分かります。「主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。」この感心な娘が、自分の畑で落ち穂を拾っている。ボアズは思いやりの心から、こう言います。(8節)「わたしの娘よ、よく聞きなさい。よその畑に落ち穂を拾いに行くことはない。ここから離れることなく、わたしのところの女たちと一緒にここにいなさい。刈り入れをする畑を確かめておいて、女たちについて行きなさい。若い者には邪魔をしないように命じておこう。喉が渇いたら、水がめの所へ行って、若い者がくんでおいた水を飲みなさい。」

 ナオミと自分のために一生懸命落ち穂を拾って一息入れていたルツは、ボアズの親切な言葉に、驚いて感激します。ルツは異邦人で、肩身の狭い思いを抱いていたからです。ルツもナオミもはっきり言えば落ちぶれており、身なりもかなりみすぼらしかったのではないかと思います。人によっては「あっちへ行け」というかもしれません。そんなルツに親切にするボアズの思いやりの深さは、本物です。(10節)「ルツは、顔を地につけ、ひれ伏して言った。『よそ者のわたしにこれほど目をかけてくださるとは。ご厚意を示してくださるのは、なぜですか。』」 (11~12節)「ボアズは答えた。『主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生れ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。』」

 ボアズはルツに、神様の祝福を祈っています。ボアズはイスラエルの神を鳥(めんどり?)にたとえています。鳥が雛を羽の下にかばうように、神様が困難の中にある人をご自分の陰に隠して保護して下さるという言い方は、詩編によく出てきます。詩編91編4節には、「神は羽をもってあなたを覆い、翼の下にかばってくださる」という、恵み深い御言葉があります。旧約聖書は、しばしば異邦人を偶像崇拝者として警戒しますが、それが旧約聖書の全てではありません。むしろ旧約聖書の中で神様は、イスラエルに寄留している異邦人に親切にするようにと語られます。外国で少数者として暮らすことは心細いことです。神様はここで異邦人ルツへの配慮を、ボアズを通して示されます。

 ルツは、感謝を込めて言いました。(13節)「わたしの主よ。どうぞこれからも厚意を示してくださいますように。あなたのはしための一人にも及ばぬこのわたしですのに、心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。」 「心に触れる言葉」は、「心に沁み入るように語る言葉」ということと、読んだことがあります。「あなたのはしための一人にも及ばぬこのわたし」というルツの言葉は、謙虚です。イエス様の母マリアが神を讃えた「マリアの賛歌」を思い出させます。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。」ガリラヤの無名と言ってよ少女マリアに目を留めて下さる神様は、イスラエルに来たばかりのよそ者とも言うべきルツにも目を留めて下さいました。もちろんナオミにも目を留めていて下さいます。いと小さき者に目を留めて下さる神様が、私たち一人一人にも目を留めていて下さいますから、感謝です。

 ルツは、「本当に慰められました」とも言います。そこで本日の新約聖書・コリントの信徒への手紙(二)1章3節以下を見ます。ここには「慰め」という言葉が9回も出て来ます。イエス・キリストを一生懸命宣べ伝えた使徒パウロは、多くの迫害の苦難を受けました。その分、神様から多くの慰めをも受けたのです。東久留米教会初代牧師の浅野悦昭先生の説教集を拝見しましたら、この個所について、「何とすばらしい言葉かと思いました」という意味のことをおっしゃっていました。確かに、心打たれる文章、それこそ慰めを受ける文章です。

 「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。」 私たちの歩みは、時としてイエス・キリストと共に十字架を背負う歩みです。しかしその分、祈りの中でイエス様と身近になり親しくなる歩みで、イエス様・父なる神様から愛と慰めを受ける歩みです。
 
 イエス様は、ヨハネによる福音書14章で不安の中にある弟子たちに、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」と言われました。弁護者、真理の霊は、聖霊なる神様です。弁護者は原語のギリシア語でパラクレートスです。パラクレートスとは、「傍らにいる者」の意味です。さらに言うと、「傍らにいて弁護してくれる者」の意味でもあるようです。そこで弁護者と訳されています。別の翻訳ではパラクレートスを「慰め主」と訳しています。傍らで弁護してくれる者は、確かに真の慰めを与えてくれる存在ですから、聖霊なる神は確かに、弁護者・慰め主です。もちろんイエス様も慰め主です。イエス・キリスト、聖霊と祈りの中で交わることで、私たちは苦難の中にも慰めを与えられます。ルツには、ボアズを通して神の慰めが与えられました。私たちも聖霊に満たされて、イエス・キリストに似た慰め深い者になることができれば、幸いです。

 ルツ記に戻ります。ボアズは、ルツが老いつつあるナオミの見捨てない真実に感動し、ルツに深く心を配り並々ならぬ親切を行います。(14~17節)「食事のとき、ボアズはルツに声をかけた。『こちらに来て、パンを少し食べなさい。一切れずつ酢に浸して。』ルツが刈り入れをする農夫たちのそばに腰を下ろすと、ボアズは炒り麦をつかんで与えた。ルツは食べ、飽き足りて残すほどであった。ルツが腰を上げ、再び落ち穂を拾い始めようとすると、ボアズは若者に命じた。『麦束の間でもあの娘には拾わせるがよい。止めてはならぬ。それだけでなく、刈り取った束から穂を抜いて落としておくのだ。あの娘がそれを拾うのをとがめてはならぬ。』ルツはこうして日が暮れるまで畑で落ち穂を拾い集めた。集めた穂を打って取れた大麦は一エファほどにもなった。」1エファは約23リットルです。

 その量に驚いたのはナオミです。(18~19節)「それを背負って町に帰ると、しゅうとめは嫁が拾い集めてきたものに目をみはった。ルツは飽き足りて残した食べ物も差し出した。しゅうとめがルツに、『今日は一体どこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いてきたのですか。あなたに目をかけてくださった方に祝福がありますように』と言うと、ルツは、誰のところで働いたかをしゅうとめに報告した。『今日働かせてくださった方は名をボアズと言っておられました。』」 ナオミはボアズへの祝福を語ります。(20節)「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように。」このナオミの言葉は慰めに満ちています。ナオミは夫と二人の息子に先立たれているのですから、夫と息子たちを「生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主」なる神様に、委ねていたのでしょう。

 「慈しみ」はヘブライ語でヘセドという重要語です。ヘセドは旧約に252回も登場するそうです。ヘセドは、神様のご性質を表す重要語です。ヘセドは日本語では「慈しみ」、「憐れみ」、「真実」、「誠実」、「敬虔」などと訳されます。ホセア書では「愛」と訳されています。英語ではしばしば mercy と訳されるようです。ヘセドは人間に用いられることもあります。ヘセドはルツ記の重要語でもあります。3章10節でボアズがルツに、「今あなたが示した真心は、今までの真心よりまさっています」と語りますが、この真心がヘセドです。真心と訳してもよいのです。ヘセドは神様の真心、愛です。ギリシア語のアガペー(愛)に近いかもしれません。

 ナオミはさらに重要なことを言います。「その人はわたしたちと縁続きの人です。わたしたちの家を絶やさないようにする責任のある人の一人です。」「責任のある人」はヘブライ語で「ゴーエール」で、直訳すると「贖い手」です。ここに「贖う」という聖書の重要語が出て来るのです。贖うとは買い戻すという意味です。レビ記25章23~25節に、土地についてのイスラエルの慣習が記されています。土地は神様のものであるということが大前提です。「土地を売らねばならないときにも、土地を買い戻す権利を放棄してはならない。土地はわたし(神)のものである。あなたたちはわたしの土地に寄留し、滞在する者にすぎない。あなたたちの所有地においてはどこでも、土地を買い戻す権利を認めねばならない。もし同胞の一人が貧しくなったため、自分の所有地の一部を売ったならば、それを買い戻す義務を負う親戚が来て、売った土地を買い戻さねばならない。」ボアズが買い戻す義務を負う親戚の一人だったのですね。

 レビ記とルツ記から分かるように、旧約聖書では「贖い」は土地を買い戻すという実に具体的なことです。親戚が土地を代わりに買い戻すことで、貧しい人の家が絶えないようにする社会のシステムです、さらに50年毎来るヨベルの年には、先祖伝来の土地が無条件で返還されるとレビ記25章にあります。神様の命令によるセーフティーネットです。これがないと、貧富の格差が大きくなるばかりです(このネットが常に完全に機能していたかどうかは、よく分からないようです。ルツ記を読む限りでは、ある程度は機能していたようです)。ボアズがナオミとルツの、一種の救い主になります。

 新約聖書では、イエス・キリストが私たちの身代わりに十字架にかかって、私たちのすべての罪に対する父なる神様の裁きを引き受けて下さり、私たちを救って下さったことを、「贖い」と呼びます。「贖い」は、最終的には「救い」とほとんど同じです。コリントの信徒への手紙(一)6章19~20節にこうあります。「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」イエス様の命という最も高価な代価によって買い取られ、贖われ、罪赦されて救われた。イエス様こそ、もちろんボアズをはるかに超える真の救い主です。

 ルツ記2章の最後。「ルツはこうして、大麦と小麦の刈り入れが終わる(6月前後)まで、ボアズのところで働く女たちから離れることなく、落ち穂を拾った。」ルツがボアズの畑に、気づかずに行ったことに、神様の隠れた導きがありました。神様ご自身がこのルツ記に直接登場する場面はありませんし、神様の直接のご発言も全くないのです。しかし目に見えない神様が、落ちぶれたナオミとルツ(異邦人!)を見捨てることなく、確かに守っておられることが分かります。深い慰めです。この神様が、私たちをもその御翼の陰に入れて、守っていて下さるのです。私たちもイエス様と宣べ伝えつつ、生活に困っている方や、寄留の外国人に親切にすることが、神様に喜んでいただける道だと思うのです。アーメン(「真実に、確かに」)。


2015-09-16 12:22:07(水)
「床を担いで歩きなさい」 2015年9月13日(日) 聖霊降臨節第17主日礼拝説教
朗読聖書:申命記5章1~22節、ヨハネ福音書5章1~18節。
「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(ヨハネ福音書5章8節)。
 
 (1~2節)「その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには、羊の門の傍らに、ヘブライ語で『べトザタ』と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。」「羊の門」は、ここから神殿で献げる羊などのいけにえの動物を運び込んだので、「羊の門」という名前がついたようです。その傍らに「べトザタ」と呼ばれる池がありました。べトザタは、「憐れみの家」という意味です。口語訳聖書では、「ベテスダ」と書かれていました。東久留米の近くの大泉に、「ベテスダ奉仕女母の家」があるそうですね。この池は実際に発掘され、その存在が確認されています。池は2つあったそうです。その2つの池を囲んだ柱廊があり、それは長さ100メートル、幅70メートルの大きな建物だったそうです。

 (3節)「この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。」すぐ近くの神殿は、非常に立派な建物でしたが、そのすぐ近くにあるべトザタの池には、神殿の偉い人、一般の人から見捨てられた人が大勢横たわっていたのです。ひどいことですが、このようなことは、どの国にもあるのかもしれません。日本にもあると思います。東京にもホームレスの人々は少なくないのですね。このような現実を、私たちも見て見ぬ振りをしていると言われれば、反論は難しいところです。

 次に十字架のようなしるしがありますが、新約聖書のある写本にはここに文があることを示します。次の文です。「彼らは水が動くのを待っていた。それは主の使い(天使)がときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」池の傍の回廊に横たわっていた人々は、天使が来るのを今か今かと待ち構えていたと思われます。「真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされた。」競争です。早い者勝ちです。比較的若く、体力があって、素早く動くことができる者が癒やされていったに違いありません。しかしそれ以外は皆、「また今回も人に先を越された」と肩を落とすしかなかったのでしょう。癒やされて喜ぶ人と、癒やされないでがっかりする人の明暗が分かれる、その意味で残酷な場になっていたのです。弱肉強食、世の現実の縮図が、ここにありました。

 (5節)「さて、そこに38年も病気で苦しんでいる人がいた。」38年は長いです。今から38年前は1977年です。私は11才。それから今2015年まで病気で苦しみ、あまり動けなかったことになります。主の天使が下って来ても、いつも他人に先を越されていたのです。(申命記2章14節に、出エジプトしたイスラエルの民が、「カデシュ・バルネアを出発してからゼレド川を渡るまで、38年かかった」と書いてあることから、38年病気だった男性をイスラエルの民の象徴ではないかとする解釈もあります。今回はこの解釈には踏み込みません。)(6節)「イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた。」病気の人に「良くなりたいか」は冷たい問いとも言えます。良くなりたいのは当然です。しかし38年間も病気が治らないでいると、老化現象もあったでしょうし、「今さら治るはずがない」と気力を失い、諦めきっていたのではないでしょうか。「もうどうでもよい」という捨て鉢な気持ちになっていた可能性もあります。果たして病人はこう答えます。(7節)「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」病気で無理もないのかもしれませんが、「わたしを池の中に入れてくれる人がいない」と、人のせいにしています。主体性、独立心が感じられず、生きる意欲を失っています。

 イエス様はそんな彼を励まし、発破をかけて下さいます。(8節)「イエスは言われた。『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。』」イエス様は言葉で励まされただけではなく、愛の力、神の力が彼に与えられたのです。(9節)「すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。」驚くべき奇跡が起こったのです。べトザタは現実には、「憐れみの家」よりも、希望を失った人々の苦悩の場となっていました。ところが希望の主であるイエス・キリストは、「憐れみの家」の名にふさわしい憐れみの業を行って下さったのです。

 その日は、安息日でした。旧約聖書の民イスラエル人にとって、神様を礼拝する土曜日が安息日です。安息日は礼拝に専念する日、いかなる仕事もしてはいいけない日でした。しかし安息日は、神様から安息と憐れみをいただく日ですから、安息日にべトザタで病を癒やすことは、最もふさわしい業であったのです。教会こそべトザタ、「憐れみの家」でありたいものです。

 しかしユダヤ人たちは、あくまでも安息日はいかなる仕事もしてはいけない日と、固く信じていました。そこで癒やされた男を批判します。(10節)「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」ユダヤ人たちがそのように主張する根拠はもちろんモーセの十戒です。十戒は、出エジプト記20章と申命記5章に記されています。本日は申命記5章の十戒を朗読していただきました。第四の戒めが安息日の戒めです。(12~15節)「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るように命じられたのである。」

 安息日を礼拝の日として聖別しなさい(聖なる日としてほかの日から分かちなさい)と書かれています。いかなる仕事もしてはならない、と明記されています。この決まりに基づいてでしょうが、エレミヤ書17章21~22節に次のように書かれています。「主はこう言われる。あなたたちは、慎んで、安息日に荷を運ばないようにしなさい。エルサレムのどの門からも持ち込んではならない。また、安息日に、荷をあなたたちの家から持ち出してはならない。」「荷を運ばないように」と書いてあるのです。ネヘミヤ記13章にも似たことが書いてあります。ユダヤ人はこのような御言葉に基づいて、「今日は安息日だ。だから床の担ぐことは、律法で許されていない」と主張したのでしょう。ですが、エレミヤ書17章の、「安息日に荷を運ばないようにしなさい」は、「荷物を運び込んだり、運び出したりして、商売をしてはならない」という意味なのではないかと思います。ネヘミヤ記13章も、そのような意味と受け取れます。ですから、この男性が床を担いで歩いたことは(商売をするのではないので)、安息日の決まりに違反していないと解釈できると私は考えるのですが、いかがでしょうか。

 確かに十戒には、安息日に「いかなる仕事もしてはならない」と明記されています。しかし申命記5章の安息日の規定には、民が安息日に仕事をしないことによって、「あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」と書かれています。家の主人が仕事を休むことによって、使用人も労働から解放されて休むことができる。安息日は礼拝の日であると共に、普段働いている人が労働から解放される日でもあるのです。「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。」安息日は、エジプトから解放されて安息を与えられたことを思い出して、感謝する日でもあるのです。そう考えるとイエス様が、38年間病気に束縛されて苦しんでいた男性を、病気から解放することは、安息日に全くふさわしいことです。もちろんイエス様は、この安息日もエルサレムの会堂か神殿で、礼拝をなさったことと思います。その前か後に男性を癒やされたのでしょう。

 安息日をヘブライ語でシャーバートと言いますが、これは「安息」や「中断」を意味する言葉だそうです。人間の業、特に罪を中断する日。そして神様を礼拝し、神様の御心である愛と正義を行う日。それが安息日です。イスラエルの民の安息日は土曜日ですが、私たちキリスト教会の礼拝の日は、イエス様が復活なさった祝福の日である日曜日です。昔のキリスト教会では、礼拝を行った後に、貧しい人々に奉仕するために出かけたと聞きます。神様を愛し、隣人を愛する日が日曜なのですね。もちろん聖なる日でもあります。キリスト教会の一つである救世軍では、日曜礼拝を聖別会と呼んでいるようです。聖別という言葉が生きているのですね。日曜日は聖別された礼拝の日。そして神様を愛し、隣人を愛する日です。この生き方を日曜日に初めて毎日行えると、もっとよいのです。平日は長い礼拝はできなくても、短くとも聖書を読み、祈りつつ奉仕的に生きることができれば、すばらしいですね。ある修道院のモットーは、「祈り、働け」だと聞きました。言い換えると、「神を礼拝し、人に奉仕せよ」ということではないでしょうか。イエス様がまさにそのように生きられました。安息日に礼拝をし、男性を苦しみから解放されたのです。

 しかしそのイエス様を、ユダヤ人たちは十戒・律法を破る者と見なして、憎みました。12節で彼らは癒やされた男性に尋ねます。「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と。しかし男性は、それがだれであるか知りませんでした。イエスというお名前を知りませんでしたし、その方が尊い神の子だということも知りませんでした。イエス様は既に立ち去っておられたからです。イエス様は、群衆にヒーローとして祭り上げられることを嫌って、立ち去られました。イエス様が男性を癒やされたのは、男性への深い憐れみと愛のゆえであって、御自分が拍手喝さいを受けるためではありません。

 (14節)「その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。『あなたは良くなったのだ。もう罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。』」 「あなたは良くなったのだ」とは、病気が癒やされたことと共に、(はっきり書かれていませんが)神様の前にこの人の罪が赦されたということと思います。この人の病気が彼の何かの罪への罰だったというのではありません。しかし全ての人は、聖なる神様の前では罪人ですから、この男性にも罪があります。イエス様がこの男性の罪を赦して下さった、その結果、神様の祝福と愛が彼に流れ込み、病気も癒やされたのだと考えます。ほかの3つの福音書にそのような例があります。これほど大きな恵みを受けた彼は、それまでの自分の罪を悔い改めて、神様の愛に感謝する方向に転換して、神様に助けられて新しく生き始める必要があります。罪をゼロにすることはできませんが、それでもこれまでの罪からできるだけ縁を切って、清い生き方を目指すことが必要です。罪に浸った生活を続けて、恵みの神を侮るようではいけません。ですからイエス様は彼に、「もう罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」と愛の警告をなさったのです。

 (15~17節)「この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスはお答えになった。『わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。』」 男性は余計なことをしました。自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせたのです。告げ口をする結果になりました。それでユダヤ人たちがイエス様を迫害するようになりました。イエス様は言われました。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」 父なる神様は天地創造をなさった後に休まれましたが、ずっと休み続けておられるのではありません。父なる神様は地球、太陽、地球、月、星などの天体を、法則に従って動かしておられます。毎日愛を込めて新しい命を産み出しておられます。ですからイエス様も、愛をもって毎日働かれます。安息日には礼拝をなさり、病人をいやす愛の働きを喜んでなさいます。ある修道院のモットーは「祈り、働け」だと申しました。私たちも礼拝し、少しでも隣人愛の働きができるならば幸いです。

 (18節)「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自分を神と等しい者とされたからである。」 「わたしの父」と呼んだことは、イエス様が「神の子である」と宣言したことと同じです。ユダヤ人たちはそれを、神への大きな冒瀆だと感じたのです。彼らはイエス様を強く憎むようになりました。しかしイエス様は本当に「神の子」ですので、全く冒瀆ではないのです。

 イエス様の励ましの言葉に戻ります。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」先月天に召されたBさんの、「東久留米教会50周年記念誌」の文章を思い出しました。2006年に心臓の不調で病院に運ばれて、2ヶ月ほど入院されたときのことです。「その内心臓は落ち着きましたので、リハビリが始まりました。『三歩歩けた』と喜び、『明日は五歩歩けるようにしよう』と自分にむちを打ちながら、自分で治そうと努力しないとなかなか歩けるようになりません。」

 東久留米教会初代牧師で今、ホームに入居しておられるC先生のことも思います。先生は2009年秋にご不調を覚えられ、ご自分で救急車を呼んで入院されました。私も病院に行きましたが、最初はかなりお具合がよろしくなかったように思います。しかしだんだん持ち直されたのです。近くの牧師ご夫妻も、先生に一生懸命に尽くして下さり、本当に感謝でした。東久留米教会の方々もお見舞いされ、2つの教会(そして多くの知人の方々)が先生のご回復を祈り続けました。そして次第に回復してゆかれたのです。先生の生まれつきのお丈夫さもあったと思います。しかし色々な方のお祈りと協力によって、神様の癒しの愛の力が注がれ、回復してゆかれたと、今改めて感謝の思いに満たされます。新約聖書のヤコブの手紙5章14~16節に次のように書かれています。「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。」

 先生は、2010年1月下旬に退院され、リハビリテーション病院に移られました。そこでリハビリをなさいました。4月下旬に退院され、ご自宅に戻られ、一人暮らしを再開されたのです。次第に足腰も強くなり、生活がまずまず軌道に乗られたようです。5ヶ月を経てご自宅に戻られたことは、やはり神様が「起きて、床を担いで歩く力」を与えて下さったからだと信じるものです。そして一昨年の8月まで一人暮らしをなさり、いろいろな方のご親切があり、今はホームで比較的お元気にお暮らしでいらっしゃることを、感謝致します。

 イエス様は十字架にかかって、私たち全員の罪をすべて背負いきって下さいました。自分の罪のために真の希望を持たずにいた私たちに、永遠の命の希望を与えて下さったのです。そして私たちにも声をかけて下さいます。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」罪の赦しを感謝し、永遠の命の希望を抱いて起き上がり、神と人を愛して歩きなさい、ということです。イエス様に励まされ、ご一緒に真の希望を抱いて、前進したいものです。アーメン(「真実に、確かに」)。