
2014-05-27 22:29:30(火)
「祭司の王国、聖なる国民」 2014年5月25日(日) 復活節第6主日礼拝説教
朗読聖書:出エジプト記19章1~25節、ペトロの手紙(一)2章1~10節
「世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジプト記19章5~6節)
エジプトを脱出したイスラエルの民は、途中の大きな目的地にたどり着きます。シナイ山です。ホレブ山とも言います。以前モーセが神様に語りかけられ、エジプトからイスラエルの民を導き出すようにとの神様の命令を受けた所です。たどり着いたのは民がエジプトを脱出して三ヶ月目のことでした。民はシナイ山に向かって宿営します。神様の力強い御言葉が、3~6節に記されています。
「モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。
『ヤコブの家にこのように語り/ イスラエルの人々に告げなさい。
あなたたちは見た/ わたしがエジプト人にしたこと
また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/ わたしのもとに連れて来たことを。
今、もしわたしの声に聞き従い/ わたしの契約を守るならば
あなたたちはすべての民の間にあって/ わたしの宝となる。
世界はすべてわたしのものである。
あなたたちは、わたしにとって/ 祭司の王国、聖なる国民となる。』」
「あなたたちを鷲の翼に乗せて/ わたしのもとに連れて来た」という表現は、神様の力強い保護を語るものです。私たちも、同じ神様の保護のもとにあります。
「今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば
あなたたちはすべての民の間にあって/ わたしの宝となる」
と神様はおっしゃいます。「わたしの契約」とは次の20章で示される十戒です。イスラエルの民は、真の神様との愛の契約に入れられる民なのです。神様はこの民に、エジプトからの解放という偉大な恵みを与えて下さいました。この愛に応えるために民がなすべきことは、十戒を守って生きることです。十戒という契約を守るならば、イスラエルの民は世界のすべての民の中にあって、「神様の宝」となると神様が約束なさるのです。神様は、ご自分の民として巨大な帝国をお選びになりませんでした。神様はあえて、いと小さき民であるイスラエルを、ご自分の民として選ばれたのです。神様は、いと小さき者を用いて大きな業をなし、ご自分の栄光を現されるのです。
「神様の宝」ということで連想するのは、申命記7章6節以下の御言葉です。モーセがイスラエルの民に向かって語った言葉です。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」
そしてキリスト教会も、神様の宝の民です。もちろんだからと言って教会が思い上がったり悪いことを行ってはなりませんが、教会も神様の宝の民です。使徒言行録20章28節を見ると、使徒パウロが教会のことをこのように表現しています。「神が御子(イエス・キリスト)の血によって御自分のものとなさった神の教会」と。東久留米教会もどの教会もそうなのです。「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」なのです。イエス様が十字架で流された尊い血潮により罪の赦しを受けた「神の宝の民」が教会です。そのことは聖餐式によって明らかにされます。イエス様の御体であるパンと、イエス様の御血潮であるぶどう汁をいただくとき、私どもはイエス様の苦難のお陰で神の民に入れられていることを感謝をもって確認するのです。
出エジプト記19章5節の最後の行。「世界はすべてわたしのものである。」
この地球と宇宙は神様のもの、神様の所有なのです。日本もどの国も地域も、神様の所有です。私たちの命も神様の所有です。ですから神様に喜んでいただけるように、自分の命を用いる必要があります。神様が造られた自然界を、私たちの勝手な欲望によって破壊しないように生活したいものです。
(6節)「あなたたちは、わたしにとって/ 祭司の王国、聖なる国民となる。」
祭司は、聖なる神様と人間の間に立って仲介する人、執り成しをする人です。イスラエルが神様の民として選ばれた目的は、この民が真の神様に従って生きる姿を全世界の人々に見せ、世界の人々のために執り成しの祈りをし、世界の人々を真の神様に導くことです。祭司の王国であるイスラエルの責任は大きいのです。このことはキリスト教会にも当てはまります。教会もまた祭司の王国です。教会の使命も重要です。全世界の方々に、神様を礼拝する生き方を見ていただき、世界の人々のために執り成しの祈りを献げ、世界の人々を真の神様に導かせていただく、尊い使命が私どもキリスト教会に与えられています。日曜日に集まって礼拝を献げる姿を見ていただくだけでも、神様が確かに存在なさる事実を証しする伝道の意味をもちます。私どもキリスト教会も「聖なる国民」です。「いや、私は一人の罪人(つみびと)にすぎない」と言いたくなりますが、しかしイエス様を救い主と信じて聖霊を注がれた一人一人です。その意味で聖なる国民です。神様にさらに聖霊を注いでいただいて、さらに聖なる一人一人となることができるように祈ります。
本日の新約聖書は、ペトロの手紙(一)2章です。(9節)「しかし、あなたがた(キリスト者)は、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」とあります。王とはイエス・キリストです。イエス・キリストご自身が究極の大祭司です。イエス様は十字架にかかって私ども全ての人間の罪のために、父なる神様に執り成しをして下さいました。私たちはイエス様のお陰で罪を赦された者として、イエス様という王の系統を引く祭司です。私たちの使命は周りの方々に唯一の救い主イエス・キリストを伝えること、そして自分以外の方々のために執り成しの祈りを献げることです。もちろん自分自身のためにも祈りますが、ほかの方々のために執り成しの祈りを献げることも重要な使命です。
「あなた方を暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」 私たちも以前は、罪の赦しを知らず、永遠の命も持たず、暗闇の中にいる者でした。しかしイエス・キリストを信じた今は、罪の赦しと永遠の命の光に入れられています。このような恵みがあることを広く伝えることが私たちの使命です。
(10節)「あなたがたは、
『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、
憐れみを受けなかったが、/ 今は憐れみを受けている』のです。」
私たちは旧約聖書以来の神の民であるイスラエル人ではないので、その意味で神の民ではありませんでした。しかしイスラエル人と異邦人(外国人)のための十字架で死んで下さったイエス・キリストのお陰で、今は神の民とされている、神の宝の民とされているのです。
出エジプト記19章に戻ります。 イスラエルの民は、「あなたたちは、わたしにとって/ 祭司の王国、聖なる国民となる」との神様の言葉を、モーセから聴きます。8節で民は皆、一斉に答えて、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と宣言します。「神様との契約を守ります」と宣言したのです。これがイスラエルの民の初心です。ですが現実には、だんだん初心から離れてしまうのです。私たち日本人は、初心に立ち帰ることが大切であることをよく知る民です。洗礼を受けた時の初心にいつも立ち帰りたいのです。
(10~12節)「主はモーセに言われた。『民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、衣服を洗わせ、三日目のために準備させなさい。三日目に、民全員の見ている前で、主はシナイ山に降られるからである。民のために周囲に境を設けて、命じなさい。「山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ。山に触れる者は必ず死刑に処せられる。」』」
神様は、三日目にシナイ山に降ると宣言されたのです。神様は完全に清い方ですから、神様に出会うためには人もできるだけ自分を清めて準備する必要があります。「彼らを聖別し、衣服を洗わせなさい。」内面と外面を共に清めなさいということでしょう。内面を清めることは、自分の罪を悔い改めることによって可能になります。私たちも礼拝に悪い意味で慣れてしまうと、聖餐式にさえ何となく与ってしまう恐れがあります。以前ある本で読んだのですが、聖餐式の前の日にモーセの十戒を読んでおきなさいと書かれていました。十戒を読んで自分の生き方をチェックし、思い当たる罪を神様の前に悔い改めて、次の日の聖餐式に臨むのがよいというのです。確かにこれは聖餐式に臨む準備としてふさわしいことです。衣服を洗うことは、心を清めることのシンボル行為でしょう。
先日私は、クリスチャン作家・三浦綾子さんが書いた伝記小説『夕あり朝あり』を読みました。主人公は、白洋舎というクリーニング会社を創設なさった五十嵐健治氏というクリスチャンです。波乱に満ちた若い日を歩まれ、洗礼を受けてクリスチャンとなり、クリーニング業を行うようになり、日本で初めてドライクリーニングを開発なさったそうです。クリーニングはすばらしい仕事ですが、当時は残念ながら低く見られていたそうです。ですが五十嵐さんは、イエス様の奉仕の精神に生きるために、クリスチャンにふさわしい仕事だと思い定めたそうです。この『夕あり朝在り』の中で、三浦さんは五十嵐さんの台詞としてこう書いておられます。
「衣服の洗濯というのは、もともとは宗教的な発想なのだそうです。旧約聖書を開きますと、シナイ山で神の『十戒』が刻まれた石の板を持って、モーセが山から下りて来る。この時民衆は衣服を洗って待っているように命ぜられる場面があります。
〈主はモーセに言われた。あなたは民のところに行って、きょうとあす、~彼らにその衣服を洗わせ、三日目までに備えさせなさい…〉(出エジプト記第十九章十、十一節)
日本でも五十鈴(いすず)川を御裳濯(みもすそ)川と申しますわな。ま、そういうことで、私は信仰者として、この洗濯業に深い意味を感じ取ったのでした。」
(三浦綾子『夕あり朝あり』新潮社、1990年、283ページ)。
この五十鈴川(別名・御裳濯川)のことを調べてみると、この川は三重県の伊勢神宮の近くの川(清流)で、そこで倭姫命(やまとひめのみこと)という古代の皇女が御裳(みも・衣服)の汚れを濯(すす)いだという伝説があるそうです。今もその川のところに御手洗場があり、そこで心身を清めてから神宮に入ることが推奨されているそうです。これは日本の宗教のことですが、ともかく私は五十嵐さんがクリー二ング業と聖書に深い結びつきを見出しておられたことを三浦綾子さんの本で知ることができました。それが今日の出エジプト記19章10節なのです。
神様に近づくためには、本当は身も心も完全に清くある必要があります。私たちが、少しでも罪ある状態で聖なる神様を見るならば、聖なる神様にすぐに撃たれて死んでしまいます。ですから神様に近づける方は、全く罪のない神の子イエス様ただお一人です。私たちはイエス様を通して初めて、聖なる・父なる神様に近づくことができるのです。旧約の時代はまだイエス様が地上に誕生されておりませんから、神に近づくためには徹底的に自分を清める必要があります。本当はそれでも不十分です。私たちの罪は、全く罪なき神の子イエス様が十字架で死んで下さることによってしか赦されることはなかったのです。
神様は12節でモーセに言われました。「民のために周囲に境を設けて、命じなさい。『山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ。山に触れる者は必ず死刑に処せられる。』」 シナイ山も聖なる山なので、少しも触れてはならないというのです。神様がよしと認め、呼んで下さる人だけが境界を越えてシナイ山に入り、登ることが許可されるのです。他の人がシナイ山に触れると必ず死刑になるという厳しさです。
(14~15節)「モーセは山から民のところに下って行き、民を聖別し、衣服を洗わせ、民に命じて、『三日目のために準備をしなさい。女に近づいてはならない』と言った。」 とにかく神様に出会うために民は自分を清めることが必要なのです。 16~19節は、神様がシナイ山に降られる劇的な場面です。「三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。しかし、モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。」 民は皆震えました。あまりにも清い神様が近づいて来られる時、私たちは自分が清くないことに気づきます。聖なる神様に到底近づくことができない罪に満ちた自分であることに気づきます。ですから聖なる神様に出会うことは本来、気楽なことではなく、緊張感あふれることなのです。
神様は初めにモーセを呼ばれ、次にモーセとその兄アロンだけにシナイ山を登ることを許可されます。(24節)「主は彼(モーセ)に言われた。『さあ、下って行き、あなたはアロンと共に登って来なさい。ただし、祭司たちと民とは越境して主のもとに登って来てはならない。主が彼らを撃つことがないためである。』」 モーセとアロンは、自分をかなり聖別(聖なるものとして、俗なるものから自分を遠ざけること)していたでしょうが、モーセとアロンにも罪があります。そのため、この二人もこの40年後に約束の地に入ることができませんでした。繰り返しですが、罪が全くない方はイエス・キリストただお一人です。この方が究極の大祭司として、私たちを執り成すために十字架で死んで下さったお陰で、私たちの罪が赦されました。イエス様の十字架の死と復活なくして、私たちは父なる神様に近づくことはできず、天国に入ることもできないのです。逆に言うと、イエス様の十字架の死と復活のお陰で、私どもは恐れることなく、イエス様を通して安心して父なる神様に近づくことができるのです。
これまで火曜日の祈祷会で、レビ記や民数記を学んで参りました。そこで分かったことの1つは、出エジプトして十戒を授かった後、イスラエルの民が聖なる神様を礼拝し、聖なる神様にお仕えするに当たり、細心の注意を払う必要があったことです。民は荒れ野を旅するので、幕屋という移動式の聖なる礼拝所を建設することになります。アロンとその子たちは祭司となって、この聖なる礼拝所についての責任を負います。民数記18章7節にこうあります。「祭壇および垂れ幕の奥(至聖所=最も聖なる空間=ここにモーセの十戒を納めた聖なる掟の箱がある)にかかわる事柄についてはすべて、あなた(アロン)とあなたと共にいるあなたの子らが祭司の務めを果たし、作業をせねばならない。わたしは祭司職を賜物としてあなたたちに与える。一般の人が近づけば、死刑に処せられる。」 祭司以外の人が、直接礼拝所での神様への奉仕を行うことはできません。少しでもすれば、すぐに聖なる神様に撃たれて死んでしまいます。祭司たちを補佐する役を担うのはレビ人(びと)と呼ばれる人々です。レビ人は祭司ではないので、直接礼拝にかかわる奉仕をすることが許されません。それは祭司だけに許されています。レビ人がそれを行えば、聖なる神様に撃たれて死にます。
ではレビ人の任務は何かというと、①幕屋を移動する際に幕屋を畳み、民が宿営地に着いたときに幕屋を組み立てることです。祭司やレビ人以外の人が幕屋に近づくならば死刑に処せられると書かれています(民数記1章51節)。レビ人(その中のケハトの氏族)の任務はまた、②宿営の移動のときに、(祭司たちが聖所とそのすべての聖なる祭具をじゅごんという動物の皮などで覆うのですが)祭司たちが覆い終わった祭具等を受け取って、運搬することです。運搬前の覆う作業は祭司たちだけに許されており、レビ人が行って聖なる祭具に少しでも直接触れれば、聖なる神様に撃たれて死にます(同4章15節)。 レビ人のもう一つの任務は、③イスラエルの民が宿営するときに、幕屋の周囲に宿営して幕屋を警護することです(同1章53節)。一般のイスラエル人が幕屋に接触すれば、撃たれて死ぬでしょう。このように、私たち罪人が聖なる神様を直接見たり、聖なる祭具に直接触れることは、死を招くことなのです。荒れ野を旅したイスラエルの民の祭司たちやレビ人たちは、本当に細心の注意を払って、礼拝に関する務めを行ったことでしょう。
出エジプト記19章に戻ります。このとき共同体に既に祭司たちがいたようですが、神様からシナイ山に登るように招かれたのはモーセとアロンだけです。新約の時代を生きる私たちは、ただイエス・キリストを救い主と信じる信仰によってのみ、すべての罪を赦され、永遠の命に入れられています。そして神様は信じる者みなに、ご自分の清い霊・聖霊を注いで下さっています。ヘブライ人への手紙12章14節にこうあります。「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。」 私たちは残念ながらイエス様ほど清くなることはできないでしょうし、この地上で私たちの罪がゼロになることもないでしょう。けれどもだからと言って、罪を犯し続けて平気でよいはずがありません。日々、自分の罪を悔い改め、神様に聖霊を注いでいただくよう祈り求めて、少しでも清い生き方を目ざしてゆきたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。
「世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジプト記19章5~6節)
エジプトを脱出したイスラエルの民は、途中の大きな目的地にたどり着きます。シナイ山です。ホレブ山とも言います。以前モーセが神様に語りかけられ、エジプトからイスラエルの民を導き出すようにとの神様の命令を受けた所です。たどり着いたのは民がエジプトを脱出して三ヶ月目のことでした。民はシナイ山に向かって宿営します。神様の力強い御言葉が、3~6節に記されています。
「モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。
『ヤコブの家にこのように語り/ イスラエルの人々に告げなさい。
あなたたちは見た/ わたしがエジプト人にしたこと
また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/ わたしのもとに連れて来たことを。
今、もしわたしの声に聞き従い/ わたしの契約を守るならば
あなたたちはすべての民の間にあって/ わたしの宝となる。
世界はすべてわたしのものである。
あなたたちは、わたしにとって/ 祭司の王国、聖なる国民となる。』」
「あなたたちを鷲の翼に乗せて/ わたしのもとに連れて来た」という表現は、神様の力強い保護を語るものです。私たちも、同じ神様の保護のもとにあります。
「今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば
あなたたちはすべての民の間にあって/ わたしの宝となる」
と神様はおっしゃいます。「わたしの契約」とは次の20章で示される十戒です。イスラエルの民は、真の神様との愛の契約に入れられる民なのです。神様はこの民に、エジプトからの解放という偉大な恵みを与えて下さいました。この愛に応えるために民がなすべきことは、十戒を守って生きることです。十戒という契約を守るならば、イスラエルの民は世界のすべての民の中にあって、「神様の宝」となると神様が約束なさるのです。神様は、ご自分の民として巨大な帝国をお選びになりませんでした。神様はあえて、いと小さき民であるイスラエルを、ご自分の民として選ばれたのです。神様は、いと小さき者を用いて大きな業をなし、ご自分の栄光を現されるのです。
「神様の宝」ということで連想するのは、申命記7章6節以下の御言葉です。モーセがイスラエルの民に向かって語った言葉です。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」
そしてキリスト教会も、神様の宝の民です。もちろんだからと言って教会が思い上がったり悪いことを行ってはなりませんが、教会も神様の宝の民です。使徒言行録20章28節を見ると、使徒パウロが教会のことをこのように表現しています。「神が御子(イエス・キリスト)の血によって御自分のものとなさった神の教会」と。東久留米教会もどの教会もそうなのです。「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」なのです。イエス様が十字架で流された尊い血潮により罪の赦しを受けた「神の宝の民」が教会です。そのことは聖餐式によって明らかにされます。イエス様の御体であるパンと、イエス様の御血潮であるぶどう汁をいただくとき、私どもはイエス様の苦難のお陰で神の民に入れられていることを感謝をもって確認するのです。
出エジプト記19章5節の最後の行。「世界はすべてわたしのものである。」
この地球と宇宙は神様のもの、神様の所有なのです。日本もどの国も地域も、神様の所有です。私たちの命も神様の所有です。ですから神様に喜んでいただけるように、自分の命を用いる必要があります。神様が造られた自然界を、私たちの勝手な欲望によって破壊しないように生活したいものです。
(6節)「あなたたちは、わたしにとって/ 祭司の王国、聖なる国民となる。」
祭司は、聖なる神様と人間の間に立って仲介する人、執り成しをする人です。イスラエルが神様の民として選ばれた目的は、この民が真の神様に従って生きる姿を全世界の人々に見せ、世界の人々のために執り成しの祈りをし、世界の人々を真の神様に導くことです。祭司の王国であるイスラエルの責任は大きいのです。このことはキリスト教会にも当てはまります。教会もまた祭司の王国です。教会の使命も重要です。全世界の方々に、神様を礼拝する生き方を見ていただき、世界の人々のために執り成しの祈りを献げ、世界の人々を真の神様に導かせていただく、尊い使命が私どもキリスト教会に与えられています。日曜日に集まって礼拝を献げる姿を見ていただくだけでも、神様が確かに存在なさる事実を証しする伝道の意味をもちます。私どもキリスト教会も「聖なる国民」です。「いや、私は一人の罪人(つみびと)にすぎない」と言いたくなりますが、しかしイエス様を救い主と信じて聖霊を注がれた一人一人です。その意味で聖なる国民です。神様にさらに聖霊を注いでいただいて、さらに聖なる一人一人となることができるように祈ります。
本日の新約聖書は、ペトロの手紙(一)2章です。(9節)「しかし、あなたがた(キリスト者)は、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」とあります。王とはイエス・キリストです。イエス・キリストご自身が究極の大祭司です。イエス様は十字架にかかって私ども全ての人間の罪のために、父なる神様に執り成しをして下さいました。私たちはイエス様のお陰で罪を赦された者として、イエス様という王の系統を引く祭司です。私たちの使命は周りの方々に唯一の救い主イエス・キリストを伝えること、そして自分以外の方々のために執り成しの祈りを献げることです。もちろん自分自身のためにも祈りますが、ほかの方々のために執り成しの祈りを献げることも重要な使命です。
「あなた方を暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」 私たちも以前は、罪の赦しを知らず、永遠の命も持たず、暗闇の中にいる者でした。しかしイエス・キリストを信じた今は、罪の赦しと永遠の命の光に入れられています。このような恵みがあることを広く伝えることが私たちの使命です。
(10節)「あなたがたは、
『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、
憐れみを受けなかったが、/ 今は憐れみを受けている』のです。」
私たちは旧約聖書以来の神の民であるイスラエル人ではないので、その意味で神の民ではありませんでした。しかしイスラエル人と異邦人(外国人)のための十字架で死んで下さったイエス・キリストのお陰で、今は神の民とされている、神の宝の民とされているのです。
出エジプト記19章に戻ります。 イスラエルの民は、「あなたたちは、わたしにとって/ 祭司の王国、聖なる国民となる」との神様の言葉を、モーセから聴きます。8節で民は皆、一斉に答えて、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と宣言します。「神様との契約を守ります」と宣言したのです。これがイスラエルの民の初心です。ですが現実には、だんだん初心から離れてしまうのです。私たち日本人は、初心に立ち帰ることが大切であることをよく知る民です。洗礼を受けた時の初心にいつも立ち帰りたいのです。
(10~12節)「主はモーセに言われた。『民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、衣服を洗わせ、三日目のために準備させなさい。三日目に、民全員の見ている前で、主はシナイ山に降られるからである。民のために周囲に境を設けて、命じなさい。「山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ。山に触れる者は必ず死刑に処せられる。」』」
神様は、三日目にシナイ山に降ると宣言されたのです。神様は完全に清い方ですから、神様に出会うためには人もできるだけ自分を清めて準備する必要があります。「彼らを聖別し、衣服を洗わせなさい。」内面と外面を共に清めなさいということでしょう。内面を清めることは、自分の罪を悔い改めることによって可能になります。私たちも礼拝に悪い意味で慣れてしまうと、聖餐式にさえ何となく与ってしまう恐れがあります。以前ある本で読んだのですが、聖餐式の前の日にモーセの十戒を読んでおきなさいと書かれていました。十戒を読んで自分の生き方をチェックし、思い当たる罪を神様の前に悔い改めて、次の日の聖餐式に臨むのがよいというのです。確かにこれは聖餐式に臨む準備としてふさわしいことです。衣服を洗うことは、心を清めることのシンボル行為でしょう。
先日私は、クリスチャン作家・三浦綾子さんが書いた伝記小説『夕あり朝あり』を読みました。主人公は、白洋舎というクリーニング会社を創設なさった五十嵐健治氏というクリスチャンです。波乱に満ちた若い日を歩まれ、洗礼を受けてクリスチャンとなり、クリーニング業を行うようになり、日本で初めてドライクリーニングを開発なさったそうです。クリーニングはすばらしい仕事ですが、当時は残念ながら低く見られていたそうです。ですが五十嵐さんは、イエス様の奉仕の精神に生きるために、クリスチャンにふさわしい仕事だと思い定めたそうです。この『夕あり朝在り』の中で、三浦さんは五十嵐さんの台詞としてこう書いておられます。
「衣服の洗濯というのは、もともとは宗教的な発想なのだそうです。旧約聖書を開きますと、シナイ山で神の『十戒』が刻まれた石の板を持って、モーセが山から下りて来る。この時民衆は衣服を洗って待っているように命ぜられる場面があります。
〈主はモーセに言われた。あなたは民のところに行って、きょうとあす、~彼らにその衣服を洗わせ、三日目までに備えさせなさい…〉(出エジプト記第十九章十、十一節)
日本でも五十鈴(いすず)川を御裳濯(みもすそ)川と申しますわな。ま、そういうことで、私は信仰者として、この洗濯業に深い意味を感じ取ったのでした。」
(三浦綾子『夕あり朝あり』新潮社、1990年、283ページ)。
この五十鈴川(別名・御裳濯川)のことを調べてみると、この川は三重県の伊勢神宮の近くの川(清流)で、そこで倭姫命(やまとひめのみこと)という古代の皇女が御裳(みも・衣服)の汚れを濯(すす)いだという伝説があるそうです。今もその川のところに御手洗場があり、そこで心身を清めてから神宮に入ることが推奨されているそうです。これは日本の宗教のことですが、ともかく私は五十嵐さんがクリー二ング業と聖書に深い結びつきを見出しておられたことを三浦綾子さんの本で知ることができました。それが今日の出エジプト記19章10節なのです。
神様に近づくためには、本当は身も心も完全に清くある必要があります。私たちが、少しでも罪ある状態で聖なる神様を見るならば、聖なる神様にすぐに撃たれて死んでしまいます。ですから神様に近づける方は、全く罪のない神の子イエス様ただお一人です。私たちはイエス様を通して初めて、聖なる・父なる神様に近づくことができるのです。旧約の時代はまだイエス様が地上に誕生されておりませんから、神に近づくためには徹底的に自分を清める必要があります。本当はそれでも不十分です。私たちの罪は、全く罪なき神の子イエス様が十字架で死んで下さることによってしか赦されることはなかったのです。
神様は12節でモーセに言われました。「民のために周囲に境を設けて、命じなさい。『山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ。山に触れる者は必ず死刑に処せられる。』」 シナイ山も聖なる山なので、少しも触れてはならないというのです。神様がよしと認め、呼んで下さる人だけが境界を越えてシナイ山に入り、登ることが許可されるのです。他の人がシナイ山に触れると必ず死刑になるという厳しさです。
(14~15節)「モーセは山から民のところに下って行き、民を聖別し、衣服を洗わせ、民に命じて、『三日目のために準備をしなさい。女に近づいてはならない』と言った。」 とにかく神様に出会うために民は自分を清めることが必要なのです。 16~19節は、神様がシナイ山に降られる劇的な場面です。「三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。しかし、モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。」 民は皆震えました。あまりにも清い神様が近づいて来られる時、私たちは自分が清くないことに気づきます。聖なる神様に到底近づくことができない罪に満ちた自分であることに気づきます。ですから聖なる神様に出会うことは本来、気楽なことではなく、緊張感あふれることなのです。
神様は初めにモーセを呼ばれ、次にモーセとその兄アロンだけにシナイ山を登ることを許可されます。(24節)「主は彼(モーセ)に言われた。『さあ、下って行き、あなたはアロンと共に登って来なさい。ただし、祭司たちと民とは越境して主のもとに登って来てはならない。主が彼らを撃つことがないためである。』」 モーセとアロンは、自分をかなり聖別(聖なるものとして、俗なるものから自分を遠ざけること)していたでしょうが、モーセとアロンにも罪があります。そのため、この二人もこの40年後に約束の地に入ることができませんでした。繰り返しですが、罪が全くない方はイエス・キリストただお一人です。この方が究極の大祭司として、私たちを執り成すために十字架で死んで下さったお陰で、私たちの罪が赦されました。イエス様の十字架の死と復活なくして、私たちは父なる神様に近づくことはできず、天国に入ることもできないのです。逆に言うと、イエス様の十字架の死と復活のお陰で、私どもは恐れることなく、イエス様を通して安心して父なる神様に近づくことができるのです。
これまで火曜日の祈祷会で、レビ記や民数記を学んで参りました。そこで分かったことの1つは、出エジプトして十戒を授かった後、イスラエルの民が聖なる神様を礼拝し、聖なる神様にお仕えするに当たり、細心の注意を払う必要があったことです。民は荒れ野を旅するので、幕屋という移動式の聖なる礼拝所を建設することになります。アロンとその子たちは祭司となって、この聖なる礼拝所についての責任を負います。民数記18章7節にこうあります。「祭壇および垂れ幕の奥(至聖所=最も聖なる空間=ここにモーセの十戒を納めた聖なる掟の箱がある)にかかわる事柄についてはすべて、あなた(アロン)とあなたと共にいるあなたの子らが祭司の務めを果たし、作業をせねばならない。わたしは祭司職を賜物としてあなたたちに与える。一般の人が近づけば、死刑に処せられる。」 祭司以外の人が、直接礼拝所での神様への奉仕を行うことはできません。少しでもすれば、すぐに聖なる神様に撃たれて死んでしまいます。祭司たちを補佐する役を担うのはレビ人(びと)と呼ばれる人々です。レビ人は祭司ではないので、直接礼拝にかかわる奉仕をすることが許されません。それは祭司だけに許されています。レビ人がそれを行えば、聖なる神様に撃たれて死にます。
ではレビ人の任務は何かというと、①幕屋を移動する際に幕屋を畳み、民が宿営地に着いたときに幕屋を組み立てることです。祭司やレビ人以外の人が幕屋に近づくならば死刑に処せられると書かれています(民数記1章51節)。レビ人(その中のケハトの氏族)の任務はまた、②宿営の移動のときに、(祭司たちが聖所とそのすべての聖なる祭具をじゅごんという動物の皮などで覆うのですが)祭司たちが覆い終わった祭具等を受け取って、運搬することです。運搬前の覆う作業は祭司たちだけに許されており、レビ人が行って聖なる祭具に少しでも直接触れれば、聖なる神様に撃たれて死にます(同4章15節)。 レビ人のもう一つの任務は、③イスラエルの民が宿営するときに、幕屋の周囲に宿営して幕屋を警護することです(同1章53節)。一般のイスラエル人が幕屋に接触すれば、撃たれて死ぬでしょう。このように、私たち罪人が聖なる神様を直接見たり、聖なる祭具に直接触れることは、死を招くことなのです。荒れ野を旅したイスラエルの民の祭司たちやレビ人たちは、本当に細心の注意を払って、礼拝に関する務めを行ったことでしょう。
出エジプト記19章に戻ります。このとき共同体に既に祭司たちがいたようですが、神様からシナイ山に登るように招かれたのはモーセとアロンだけです。新約の時代を生きる私たちは、ただイエス・キリストを救い主と信じる信仰によってのみ、すべての罪を赦され、永遠の命に入れられています。そして神様は信じる者みなに、ご自分の清い霊・聖霊を注いで下さっています。ヘブライ人への手紙12章14節にこうあります。「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。」 私たちは残念ながらイエス様ほど清くなることはできないでしょうし、この地上で私たちの罪がゼロになることもないでしょう。けれどもだからと言って、罪を犯し続けて平気でよいはずがありません。日々、自分の罪を悔い改め、神様に聖霊を注いでいただくよう祈り求めて、少しでも清い生き方を目ざしてゆきたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。
2014-05-19 22:55:36(月)
「不正な利得を憎む人を選びなさい」 2014年5月18日(日) 復活節第5主日礼拝説教
朗読聖書:出エジプト記18章1~27節、使徒言行録6章1~7節
「あなたは民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。」(出エジプト記18章1~27節)
イスラエルの民は、出エジプト記12章で遂にエジプトを脱出したのです。直後に大きな困難を体験しました。エジプト王ファラオが最強のエジプト軍を率いて追跡して来たのです。目の前は広大な葦の海です。イスラエルの民は袋のねずみになりました。進むも地獄、引くも地獄です。しかし神様の劇的な助けが与えられます。何と海が左右に割れて壁のようになったのです。民は乾いた海の中を進むことができました。民を追って海に入って来たエジプト軍の上に水が流れ返り、エジプト軍は滅びました。絶体絶命であったイスラエルの民を、神様は救って下さったのです。これはイスラエルの民の信仰の原点となった大きな救いの出来事です。
その後も困難は襲って来ました。荒れ野に入ると食べ物がありません。民は疑います。果たして神様は荒れ野で食べ物を与える力を持っておられるだろうか? 神様に対して非常に失礼な疑い、不信仰です。神様はマナという食物を日曜日から金曜日まで毎朝与えて下さいったのです。安息日である土曜日の朝にはマナは与えられませんが、前の日に二日分のマナを与えて下さいました。これが荒れ野を行進する40年間、ずっと続いたのです。困難はまだあります。荒れ野には水がないのです。民は苦しさのあまり指導者モーセに不平を述べ立てます。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」民はモーセを石で打ち殺さんばかりに殺気立ちます。神様が力を発揮して下さいます。神様の指示によってモーセが岩を杖で打つと、岩から水が出て民は飲むことができたのです。このようにイスラエルの民は、もう生きられないという試練・ぎりぎりの危機を何回も経験しました。そのたびに神様の助けによって生き延びることができたのです。幾多の困難を乗り越えることによって、神様への信頼・信仰を鍛えられていったのです。
モーセはかつて一度エジプトを出て、ミディアン地方でミディアン人の祭司の娘ツィポラと結婚していました。モーセには二人の息子がいたのです。ゲルショムとエリエゼルです。モーセがイスラエルの民と共にエジプトを脱出した後、モーセのしゅうとでミディアンの祭司であるエトロは、モーセたちが自分の住まいの比較的近くに来たからでしょう、モーセのもとにやって来ます。(1~4節)「モーセのしゅうとで、ミディアンの祭司であるエトロは、神がモーセとその民イスラエルのためになされたすべてのこと、すなわち、主がイスラエルをエジプトから導き出されたことを聞いた。モーセの舅エトロは、モーセが先に帰していた妻のツィポラと、二人の息子を連れて来た。一人はモーセが、『わたしは異国にいる寄留者だ』と言って、ゲルショムと名付け、もう一人は、『わたしの父の神はわたしの助け、ファラオの剣からわたしを救われた』と言って、エリエゼルと名付けた。」聖書では多くの場合、名前にいわれがあります。
7節には、久しぶりの喜びの再会の様子が記されています。「モーセは出て来てしゅうとを迎え、身をかがめて口づけした。彼らは互いに安否を尋ね合ってから、天幕の中に入った。」モーセは壮年男子だけでおよそ60万人を率いるリーダーでしたが非常に謙遜な人で、しゅうとの前でへりくだり身を低くして口づけし、尊敬と敬愛の念を示しました。レビ記19章32節に、「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい」という神様の御言葉が記されています。モーセは起立はしませんでしたが、身をかがめて口づけする形で、しゅうとへの深い尊敬と敬愛の心を表しました。
モーセはエトロに、これまでに与えられた神様の恵みを知らせます。モーセたちが途中であらゆる困難に遭遇したが、主が彼らを救い出されたことを語り聞かせたのです。私たちは困難や試練の少ない人生を願います。けれども神様のお考えは違うようです。むしろ「試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えて下さ」る、それが神様の導きと思えてなりません。宗教改革者として名前を残したマルティン・ルターにしても、ジャン・カルヴァンにしても、普通の人よりも困難や試練の多い人生を送ったように思われます。困難や試練によって神様に従う清い人となるように鍛錬されていったのです。ヘブライ人への手紙12章10~11節には、神様の鍛錬についてこう述べられています。「霊の父(神様)はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」モーセやイスラエルの民にも、神様の愛の鍛錬が与えられました。
モーセから神様の助けの話を聞いたエトロは、神様への讃美を歌います。エトロはミディアン人の祭司ですから、最初は真の神様を礼拝していなかったのですが、モーセのしゅうとになって何年もたった今、真の神様を礼拝する人に変わったのでしょう。(10~11節)
「主をたたえよ
主はあなたたちをエジプト人の手から/ ファラオの手から救い出された。
主はエジプト人のもとから民を救い出された。
今、わたしは知った
彼らがイスラエルに向かって/ 高慢にふるまったときにも
主はすべての神々にまさって偉大であったことを。」
「すべての神々」には、エトロがかつて拝んでいたミディアン人の神も含まれているでしょう。その神は本物でなかった。モーセが拝む神だけが真の神であることをエトロはここで告白しているのです。12~13節を読むと、エトロが焼き尽くす献げ物を献げて、真の神様を礼拝しています。エトロが真の神様を礼拝する人に変化したことがここからも分かります。民の長老たちもモーセのしゅうとが来たことを喜びました。彼らはエトロ、モーセと共に神様の御前で食事をします。それは和やかな祝福の一時でありました。
次の日、エトロは年長者・人生のべテランとして、イスラエルの巨大な共同体の問題点を発見します。そしてモーセに実に適切なアドヴァイス・助言をしてくれます。まさに年の功であり、エトロの年輪が光ります。「翌日になって、モーセは座に着いて民を裁いたが、民は朝から晩までモーセの裁きを待って並んでいた。モーセのしゅうとは、彼が民のために行っているすべてのことを見て、『あなたが民のためにしているこのやり方はどうしたことか。なぜ、あなた一人だけが座に着いて、民は朝から晩まであなたの裁きを待って並んでいるのか』と尋ねた。モーセはしゅうとに、『民は神に問うためにわたしのところに来るのです。彼らの間に何か事件が起こると、わたしのところに来ますので、わたしはそれぞれの間を裁き、また、神の掟と指示とを知らせるのです』と答えた。モーセのしゅうとは言った。『あなたのやり方はよくない。あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう。このやり方ではあなたの荷が重すぎて、一人では負いきれないからだ。わたしの言うことを聞きなさい。助言をしよう。神があなたと共におられるように。あなたが民に代わって神の前に立って事件について神に述べ、彼らに掟と指示を示して、彼らの歩むべき道となすべき事を教えなさい。』」モーセが民を代表して神様に事件について述べ、神様から指示を受けて民に知らせなさいと言っていますが、これは大きな事件の場合で、モーセは大きな事件だけを担当しなさいというのです。エトロは、組織化をしなさいとアドヴァイスしたのです。
(21~23節)「あなたは、民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。平素は彼らに民を裁かせ、大きな事件があったときだけ、あなたのもとに持って来させる。小さな事件は彼ら自身で裁かせ、あなたの負担を軽くし、あなたと共に彼らに分担させなさい。もし、あなたがこのやり方を実行し、神があなたに命令を与えてくださるならば、あなたは任に堪えることができ、この民も皆、安心して自分の所へ帰ることができよう。」モーセはこの提案を感謝して受け入れ、実行したのです。選ばれる人は、「神を畏れる有能な人、不正な利得を憎み、信頼に値する人物」です。比較的小さな事件やトラブルを正しく解決することが彼らの任務です。正しく公平な判断・ジャッジが必要です。彼らは裁判に関与するとも言えるのです。
旧約聖書の歴代誌・下19章を読むと、南ユダ王国のヨシャファトという王が、町々に裁判官を立てたと書かれています。ヨシャファト王は、裁判官たちに忠告して言います。「人のためではなく、主のために裁くのだから、自分が何をすべきか、よく考えなさい。裁きを下すとき、主があなたたちと共にいてくださるように。今、主への恐れがあなたたちにあるように。注意深く裁きなさい。わたしたちの神、主のもとには不正も偏見も収賄もない。」
今年3月ことですが、死刑囚であった袴田巌さん(78歳)という元プロボクサーの再審開始を、静岡地裁が決定したということです。この一家四人殺人事件は1966年6月30日に起きており、私が生まれるほぼ一ヶ月前です。私はもちろん真相を知るわけではありませんが、報道を見る限りでは「どうやら冤罪らしい」という 印象を持ちます。ほとんど拷問というべき取り調べで無理やり自白させられたらしいです。否認し続けたが、ついに自白し、しかし裁判でまた否認に転じ獄中から無実を訴え続けてきたそうです。冤罪だとすれば、日本の司法の世界にも不正義・深い闇があるのだなと思わざるを得ません。
第一審で死刑判決を書かされた熊本典道さんという76歳の元裁判官の方は、「この程度の証拠で死刑判決を下すのは無理」と訴えたけれども、先輩裁判官二人との多数決で負け、心ならずも死刑判決文を書いたそうです。このことをずっと悔やんできたそうです。第一審の死刑判決は1968年に出たそうで、それから46年間ずっと悔やみ続けてきたそうです。自分の良心に反した判決文を書いてしまったので、「袴田さんに謝りたい」という気持ち、不正に加担してしまったという気持ちで、ずっと苦しんで来られたとのことです。判決の翌年に裁判官を辞め、弁護士になったが酒浸りの生活になり、弁護士も辞めたそうです。この方が深く悔やむ思いで、涙を流す映像を見ました。この方にとっても非常に辛い46年間だったのです。この熊本さんは今年2月22日、洗礼を受けたそうです。脳梗塞で不自由があるため、福岡市の自宅に神父様に来ていただいて洗礼を受けられたそうです。この方の深い悔い改めを、神様は受け入れておられるに違いありません。
袴田さんは獄中から無実を訴え続けましたが、1980年に死刑が確定してしまいます。1984年にカトリックの洗礼を受けられたそうです。私はこの事件について完全に無知だったことを申し訳なく感じています。カトリック教会はだいぶ前から署名など支援活動をして来たようです。今回の再審開始決定に当たり、静岡地裁の裁判長が、「(袴田さんの)拘置をこれ以上継続することは、耐え難いほど正義に反する状況にあると言わざるを得ない」と述べたそうです。日本の裁判が、先ほどのヨシャファトの言葉に則して行われることが必要です。「人のためではなく、主のために裁くのだから、自分が何をすべきか、よく考えなさい。今、主への恐れがあなたたちにあるように。注意深く裁きなさい。わたしたちの神、主のもとには不正も偏見も収賄もない。」
「神を畏れる人、不正な利得を憎む人、信頼に値する人」を選びなさいとエトロは言いました。クリスチャンな皆このようでありたいものですし、特に役員や牧師はそうありたいものです。「不正な利得を憎む人」は、お金の面で潔白でクリーンな人です。特に教会では献金を取り扱いますから、私ども教会に属する者は、献金の取り扱いについて常に潔白でクリーンでなければなりません。これは当たり前です。不正な利得を憎むということは、全ての不正を憎むことです。罪と悪を憎むことです。ローマの信徒への手紙12章9節の御言葉を思い出します。「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」「悪を憎み」なさいと書かれています。「こどもさんんびか」にもこうあります。「悪いことは小さくても お嫌いなさる神様。」 神様は私ども罪人(つみびと)を愛して下さいますが、罪そのものを憎む方です。神様は罪そのものを憎まれますが、悔い改める罪人を赦して下さる方なのです。クリスチャンは不正な利得を憎み、不正を憎む人です。
本日の新約聖書は、使徒言行録6章です。これは一番最初の教会の役員選出の場面と言えます。誕生したばかりの教会の人々は、「皆一つになって、すべてのものを共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合っ」ていました。「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美して」いました。しかしトラブルも起こったことを使徒言行録6章が正直に記しています。(1節)「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。」ユダヤ人クリスチャンにも、ヘブライ語を話す人と、外国生まれでギリシア語を話す人がいたのです。外国生まれのユダヤ人クリスチャンたちの中の寡婦たちが、日々の食物の分配で、不公平に扱われていたのです。
このような問題を調整し平和に解決するなどのために、七人を選ぶことになりました。そこで十二人の使徒たちが弟子たち(クリスチャンたち)全員を呼び集めて言いました。(2~4節)「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、『霊(聖霊)』と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らのその仕事を任せよう。わたしたちは祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」 使徒たちは祈りとイエス・キリストを宣べ伝えることに専念し、「霊と知恵に満ちた評判の良い人」七人に、教会内の実際的な世話を任せることになりました。こうして、(キリスト教会最初の殉教者となる)ステファノを初め、七人が選ばれたのです。
彼らはキリスト教会最初の役員と言えます。テモテへの手紙(一)3章8~9節は、教会の奉仕者(役員のことと言えます)の資格をこう述べます。
「奉仕者たちも品位のある人でなければなりません。二枚舌を使わず、大酒を飲まず、恥ずべき利益をむさぼらず、清い良心の中に信仰の秘められた真理を持っている人でなければなりません。」 この御言葉は、毎年役員任職式のたびに朗読しています。「恥ずべき利益をむさぼらず」とあるのは、出エジプト記18章21節に「不正な利得を憎」む人と書かれていることと一致します。「恥ずべき利益をむさぼらず」、「不正な利得を憎む」清い人であることが、役員・牧師にとって非常に重要な資格であることが分かります。
楠本史郎先生というベテランの牧師がお書きになった『教会役員ハンドブック』(日本キリスト教団出版局、2010年)という本には、教会の現住陪餐会員とは、「教会という神輿を、肩を擦りへらしながらでも担いでいこうとするキリスト者のこと」(22ページ)という言葉が紹介されています。役員や牧師はさらにそうでしょう。今年2月に、私は楠本先生が講師をなさった(西東京教区の)教会役員研修会に出席して参りました。楠本先生が牧師として奉仕しておられる教会で、洗礼を希望する方を役員会にお招きして話し合っているときに、ある役員の方が、洗礼を希望している方の気持ちを確認するために、「あなたは一生教会に通い続ける決意がありますか」とお問いになったそうです。楠本先生にとっても印象に残る場面だったのでしょう。問われた方は少しびくっとなさったかもしれませんが、「はい」と答えられたそうです。牧師も役員も、このくらいの問いを発することができほるほど教会を愛し、礼拝を愛してゆきたいものです。
私たちは神様に愛され、キリストの体である教会の一員とされた光栄を、心より感謝しております。「不正な利得を憎む者」、「恥ずべき利益をむさぼらない者」として、聖霊に導かれて信仰の道を歩み続けたいものです。アーメン(「真実に、確かに」)。
「あなたは民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。」(出エジプト記18章1~27節)
イスラエルの民は、出エジプト記12章で遂にエジプトを脱出したのです。直後に大きな困難を体験しました。エジプト王ファラオが最強のエジプト軍を率いて追跡して来たのです。目の前は広大な葦の海です。イスラエルの民は袋のねずみになりました。進むも地獄、引くも地獄です。しかし神様の劇的な助けが与えられます。何と海が左右に割れて壁のようになったのです。民は乾いた海の中を進むことができました。民を追って海に入って来たエジプト軍の上に水が流れ返り、エジプト軍は滅びました。絶体絶命であったイスラエルの民を、神様は救って下さったのです。これはイスラエルの民の信仰の原点となった大きな救いの出来事です。
その後も困難は襲って来ました。荒れ野に入ると食べ物がありません。民は疑います。果たして神様は荒れ野で食べ物を与える力を持っておられるだろうか? 神様に対して非常に失礼な疑い、不信仰です。神様はマナという食物を日曜日から金曜日まで毎朝与えて下さいったのです。安息日である土曜日の朝にはマナは与えられませんが、前の日に二日分のマナを与えて下さいました。これが荒れ野を行進する40年間、ずっと続いたのです。困難はまだあります。荒れ野には水がないのです。民は苦しさのあまり指導者モーセに不平を述べ立てます。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」民はモーセを石で打ち殺さんばかりに殺気立ちます。神様が力を発揮して下さいます。神様の指示によってモーセが岩を杖で打つと、岩から水が出て民は飲むことができたのです。このようにイスラエルの民は、もう生きられないという試練・ぎりぎりの危機を何回も経験しました。そのたびに神様の助けによって生き延びることができたのです。幾多の困難を乗り越えることによって、神様への信頼・信仰を鍛えられていったのです。
モーセはかつて一度エジプトを出て、ミディアン地方でミディアン人の祭司の娘ツィポラと結婚していました。モーセには二人の息子がいたのです。ゲルショムとエリエゼルです。モーセがイスラエルの民と共にエジプトを脱出した後、モーセのしゅうとでミディアンの祭司であるエトロは、モーセたちが自分の住まいの比較的近くに来たからでしょう、モーセのもとにやって来ます。(1~4節)「モーセのしゅうとで、ミディアンの祭司であるエトロは、神がモーセとその民イスラエルのためになされたすべてのこと、すなわち、主がイスラエルをエジプトから導き出されたことを聞いた。モーセの舅エトロは、モーセが先に帰していた妻のツィポラと、二人の息子を連れて来た。一人はモーセが、『わたしは異国にいる寄留者だ』と言って、ゲルショムと名付け、もう一人は、『わたしの父の神はわたしの助け、ファラオの剣からわたしを救われた』と言って、エリエゼルと名付けた。」聖書では多くの場合、名前にいわれがあります。
7節には、久しぶりの喜びの再会の様子が記されています。「モーセは出て来てしゅうとを迎え、身をかがめて口づけした。彼らは互いに安否を尋ね合ってから、天幕の中に入った。」モーセは壮年男子だけでおよそ60万人を率いるリーダーでしたが非常に謙遜な人で、しゅうとの前でへりくだり身を低くして口づけし、尊敬と敬愛の念を示しました。レビ記19章32節に、「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい」という神様の御言葉が記されています。モーセは起立はしませんでしたが、身をかがめて口づけする形で、しゅうとへの深い尊敬と敬愛の心を表しました。
モーセはエトロに、これまでに与えられた神様の恵みを知らせます。モーセたちが途中であらゆる困難に遭遇したが、主が彼らを救い出されたことを語り聞かせたのです。私たちは困難や試練の少ない人生を願います。けれども神様のお考えは違うようです。むしろ「試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えて下さ」る、それが神様の導きと思えてなりません。宗教改革者として名前を残したマルティン・ルターにしても、ジャン・カルヴァンにしても、普通の人よりも困難や試練の多い人生を送ったように思われます。困難や試練によって神様に従う清い人となるように鍛錬されていったのです。ヘブライ人への手紙12章10~11節には、神様の鍛錬についてこう述べられています。「霊の父(神様)はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」モーセやイスラエルの民にも、神様の愛の鍛錬が与えられました。
モーセから神様の助けの話を聞いたエトロは、神様への讃美を歌います。エトロはミディアン人の祭司ですから、最初は真の神様を礼拝していなかったのですが、モーセのしゅうとになって何年もたった今、真の神様を礼拝する人に変わったのでしょう。(10~11節)
「主をたたえよ
主はあなたたちをエジプト人の手から/ ファラオの手から救い出された。
主はエジプト人のもとから民を救い出された。
今、わたしは知った
彼らがイスラエルに向かって/ 高慢にふるまったときにも
主はすべての神々にまさって偉大であったことを。」
「すべての神々」には、エトロがかつて拝んでいたミディアン人の神も含まれているでしょう。その神は本物でなかった。モーセが拝む神だけが真の神であることをエトロはここで告白しているのです。12~13節を読むと、エトロが焼き尽くす献げ物を献げて、真の神様を礼拝しています。エトロが真の神様を礼拝する人に変化したことがここからも分かります。民の長老たちもモーセのしゅうとが来たことを喜びました。彼らはエトロ、モーセと共に神様の御前で食事をします。それは和やかな祝福の一時でありました。
次の日、エトロは年長者・人生のべテランとして、イスラエルの巨大な共同体の問題点を発見します。そしてモーセに実に適切なアドヴァイス・助言をしてくれます。まさに年の功であり、エトロの年輪が光ります。「翌日になって、モーセは座に着いて民を裁いたが、民は朝から晩までモーセの裁きを待って並んでいた。モーセのしゅうとは、彼が民のために行っているすべてのことを見て、『あなたが民のためにしているこのやり方はどうしたことか。なぜ、あなた一人だけが座に着いて、民は朝から晩まであなたの裁きを待って並んでいるのか』と尋ねた。モーセはしゅうとに、『民は神に問うためにわたしのところに来るのです。彼らの間に何か事件が起こると、わたしのところに来ますので、わたしはそれぞれの間を裁き、また、神の掟と指示とを知らせるのです』と答えた。モーセのしゅうとは言った。『あなたのやり方はよくない。あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう。このやり方ではあなたの荷が重すぎて、一人では負いきれないからだ。わたしの言うことを聞きなさい。助言をしよう。神があなたと共におられるように。あなたが民に代わって神の前に立って事件について神に述べ、彼らに掟と指示を示して、彼らの歩むべき道となすべき事を教えなさい。』」モーセが民を代表して神様に事件について述べ、神様から指示を受けて民に知らせなさいと言っていますが、これは大きな事件の場合で、モーセは大きな事件だけを担当しなさいというのです。エトロは、組織化をしなさいとアドヴァイスしたのです。
(21~23節)「あなたは、民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。平素は彼らに民を裁かせ、大きな事件があったときだけ、あなたのもとに持って来させる。小さな事件は彼ら自身で裁かせ、あなたの負担を軽くし、あなたと共に彼らに分担させなさい。もし、あなたがこのやり方を実行し、神があなたに命令を与えてくださるならば、あなたは任に堪えることができ、この民も皆、安心して自分の所へ帰ることができよう。」モーセはこの提案を感謝して受け入れ、実行したのです。選ばれる人は、「神を畏れる有能な人、不正な利得を憎み、信頼に値する人物」です。比較的小さな事件やトラブルを正しく解決することが彼らの任務です。正しく公平な判断・ジャッジが必要です。彼らは裁判に関与するとも言えるのです。
旧約聖書の歴代誌・下19章を読むと、南ユダ王国のヨシャファトという王が、町々に裁判官を立てたと書かれています。ヨシャファト王は、裁判官たちに忠告して言います。「人のためではなく、主のために裁くのだから、自分が何をすべきか、よく考えなさい。裁きを下すとき、主があなたたちと共にいてくださるように。今、主への恐れがあなたたちにあるように。注意深く裁きなさい。わたしたちの神、主のもとには不正も偏見も収賄もない。」
今年3月ことですが、死刑囚であった袴田巌さん(78歳)という元プロボクサーの再審開始を、静岡地裁が決定したということです。この一家四人殺人事件は1966年6月30日に起きており、私が生まれるほぼ一ヶ月前です。私はもちろん真相を知るわけではありませんが、報道を見る限りでは「どうやら冤罪らしい」という 印象を持ちます。ほとんど拷問というべき取り調べで無理やり自白させられたらしいです。否認し続けたが、ついに自白し、しかし裁判でまた否認に転じ獄中から無実を訴え続けてきたそうです。冤罪だとすれば、日本の司法の世界にも不正義・深い闇があるのだなと思わざるを得ません。
第一審で死刑判決を書かされた熊本典道さんという76歳の元裁判官の方は、「この程度の証拠で死刑判決を下すのは無理」と訴えたけれども、先輩裁判官二人との多数決で負け、心ならずも死刑判決文を書いたそうです。このことをずっと悔やんできたそうです。第一審の死刑判決は1968年に出たそうで、それから46年間ずっと悔やみ続けてきたそうです。自分の良心に反した判決文を書いてしまったので、「袴田さんに謝りたい」という気持ち、不正に加担してしまったという気持ちで、ずっと苦しんで来られたとのことです。判決の翌年に裁判官を辞め、弁護士になったが酒浸りの生活になり、弁護士も辞めたそうです。この方が深く悔やむ思いで、涙を流す映像を見ました。この方にとっても非常に辛い46年間だったのです。この熊本さんは今年2月22日、洗礼を受けたそうです。脳梗塞で不自由があるため、福岡市の自宅に神父様に来ていただいて洗礼を受けられたそうです。この方の深い悔い改めを、神様は受け入れておられるに違いありません。
袴田さんは獄中から無実を訴え続けましたが、1980年に死刑が確定してしまいます。1984年にカトリックの洗礼を受けられたそうです。私はこの事件について完全に無知だったことを申し訳なく感じています。カトリック教会はだいぶ前から署名など支援活動をして来たようです。今回の再審開始決定に当たり、静岡地裁の裁判長が、「(袴田さんの)拘置をこれ以上継続することは、耐え難いほど正義に反する状況にあると言わざるを得ない」と述べたそうです。日本の裁判が、先ほどのヨシャファトの言葉に則して行われることが必要です。「人のためではなく、主のために裁くのだから、自分が何をすべきか、よく考えなさい。今、主への恐れがあなたたちにあるように。注意深く裁きなさい。わたしたちの神、主のもとには不正も偏見も収賄もない。」
「神を畏れる人、不正な利得を憎む人、信頼に値する人」を選びなさいとエトロは言いました。クリスチャンな皆このようでありたいものですし、特に役員や牧師はそうありたいものです。「不正な利得を憎む人」は、お金の面で潔白でクリーンな人です。特に教会では献金を取り扱いますから、私ども教会に属する者は、献金の取り扱いについて常に潔白でクリーンでなければなりません。これは当たり前です。不正な利得を憎むということは、全ての不正を憎むことです。罪と悪を憎むことです。ローマの信徒への手紙12章9節の御言葉を思い出します。「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」「悪を憎み」なさいと書かれています。「こどもさんんびか」にもこうあります。「悪いことは小さくても お嫌いなさる神様。」 神様は私ども罪人(つみびと)を愛して下さいますが、罪そのものを憎む方です。神様は罪そのものを憎まれますが、悔い改める罪人を赦して下さる方なのです。クリスチャンは不正な利得を憎み、不正を憎む人です。
本日の新約聖書は、使徒言行録6章です。これは一番最初の教会の役員選出の場面と言えます。誕生したばかりの教会の人々は、「皆一つになって、すべてのものを共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合っ」ていました。「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美して」いました。しかしトラブルも起こったことを使徒言行録6章が正直に記しています。(1節)「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。」ユダヤ人クリスチャンにも、ヘブライ語を話す人と、外国生まれでギリシア語を話す人がいたのです。外国生まれのユダヤ人クリスチャンたちの中の寡婦たちが、日々の食物の分配で、不公平に扱われていたのです。
このような問題を調整し平和に解決するなどのために、七人を選ぶことになりました。そこで十二人の使徒たちが弟子たち(クリスチャンたち)全員を呼び集めて言いました。(2~4節)「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、『霊(聖霊)』と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らのその仕事を任せよう。わたしたちは祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」 使徒たちは祈りとイエス・キリストを宣べ伝えることに専念し、「霊と知恵に満ちた評判の良い人」七人に、教会内の実際的な世話を任せることになりました。こうして、(キリスト教会最初の殉教者となる)ステファノを初め、七人が選ばれたのです。
彼らはキリスト教会最初の役員と言えます。テモテへの手紙(一)3章8~9節は、教会の奉仕者(役員のことと言えます)の資格をこう述べます。
「奉仕者たちも品位のある人でなければなりません。二枚舌を使わず、大酒を飲まず、恥ずべき利益をむさぼらず、清い良心の中に信仰の秘められた真理を持っている人でなければなりません。」 この御言葉は、毎年役員任職式のたびに朗読しています。「恥ずべき利益をむさぼらず」とあるのは、出エジプト記18章21節に「不正な利得を憎」む人と書かれていることと一致します。「恥ずべき利益をむさぼらず」、「不正な利得を憎む」清い人であることが、役員・牧師にとって非常に重要な資格であることが分かります。
楠本史郎先生というベテランの牧師がお書きになった『教会役員ハンドブック』(日本キリスト教団出版局、2010年)という本には、教会の現住陪餐会員とは、「教会という神輿を、肩を擦りへらしながらでも担いでいこうとするキリスト者のこと」(22ページ)という言葉が紹介されています。役員や牧師はさらにそうでしょう。今年2月に、私は楠本先生が講師をなさった(西東京教区の)教会役員研修会に出席して参りました。楠本先生が牧師として奉仕しておられる教会で、洗礼を希望する方を役員会にお招きして話し合っているときに、ある役員の方が、洗礼を希望している方の気持ちを確認するために、「あなたは一生教会に通い続ける決意がありますか」とお問いになったそうです。楠本先生にとっても印象に残る場面だったのでしょう。問われた方は少しびくっとなさったかもしれませんが、「はい」と答えられたそうです。牧師も役員も、このくらいの問いを発することができほるほど教会を愛し、礼拝を愛してゆきたいものです。
私たちは神様に愛され、キリストの体である教会の一員とされた光栄を、心より感謝しております。「不正な利得を憎む者」、「恥ずべき利益をむさぼらない者」として、聖霊に導かれて信仰の道を歩み続けたいものです。アーメン(「真実に、確かに」)。
2014-05-13 1:14:39(火)
「命をかち取りなさい」 2014年5月11日(日) 復活節第4主日礼拝説教
朗読聖書:エレミヤ書1章1~13節、ルカによる福音書21章7~19節
「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(ルカによる福音書21章19節)
すぐ前の5~6節から読みます。「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。『あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。』」エルサレムの壮麗な神殿が崩壊する時が来ると予告なさったのです。この世の形あるものは、どんなに大きく壮麗であっても次第に劣化し、いつかは壊れます。2012年2月に東京スカイツリーが完成しました。高さ634mで、塔としては世界一高いとギネスブックに認定されたそうです。人口建造物としては世界一の建物がほかにあるそうです。スカイツリーの完成は日本人にとって嬉しいことですが、その地域で育った王貞治さんが人々をスカイツリーに案内したときに、「この辺りは東京大空襲のときに焼け野原になった所です」とおっしゃったと聞きます。慢心してはいけないと戒めて下さったのです。人間が造ったものは永遠ではないのです。原子力発電所が壊れて非常に困っていることを私たちは知っています。私たち人間の文明は有限であることをわきまえる必要があります。イエス様が話しておられるこの場面は、紀元30年頃です。この後、紀元66年にユダヤ人たちは、ローマ帝国に対して武力で立ち上がり、戦争を始めます。しかし次第に追い詰められたユダヤ人はエルサレムに立て籠って頑強に抵抗しましたが、紀元70年にエルサレムは破壊され、神殿も炎上してしまいました。イエス様はこのことを預言されました。
この壮大な神殿が壊れる! このことを聞いて弟子たちは怖くなります。(7節)「そこで、彼らはイエスに尋ねた。『先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。』」この神殿が崩壊するのであれば、それは世の終わりに違いないと弟子たちは思ったのです。しかしイエス様は、エルサレム神殿の崩壊が直ちに世の終わりではないと注意を促されます。(8節)「イエスは言われた。『惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「わたしがそれだ」とか、「時が近づいた」とか言うが、ついて行ってはならない。』」 神殿は確かに崩壊するが、それが世の終わりではない。混乱して世の終わりのような雰囲気に飲まれそうになるだろうが、そこでこそしっかりと目を覚ましていなさい。様々な偽のリーダーが現れ、「わたしが救い主だ」と言い、「わたしに着いて来なさい」と言うだろう。しかしあなた方は、偽のリーダーが偽であることをしっかり見抜いて、着いていかないように気をつけなさい。私たちは自分の頭でしっかりと考えて、偽物に騙されないように注意する必要があります。
エルサレムがローマ軍に包囲されたとき、ユダヤ人クリスチャンたちは、エルサレムや神殿と共に滅びる道を選ばず、エルサレムを脱出して生き延びたそうです。今日より先の21節で、イエス様がこうおっしゃった言葉を思い出して従ったのです。「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都(エルサレム)の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。」イエス様をメシアと信じたユダヤ人クリスチャンたちは、賢明にもイエス様の御言葉に従ったのです。
ユダヤ人は紀元132年にもローマ帝国に対して反乱を起こします。そのときのリーダーはバル・コクバという人です。バル・コクバとは「星々の子」の意味です。星はメシア(救い主)のシンボルで、彼は自分こそメシアであると信じたのでしょう。多くの人々がそれに惑わされ、ローマと戦って死んでゆきました。彼は偽メシアだったのです。ほかにもヒットラーは一種の偽メシアだったでしょうし、日本ではオウム真理教の教祖を多くの当時の若者(私と同世代の人々)が信奉して、人の命を奪い、自分たちも破滅の道に進んでしまいました。間違った指導者に従ってしまうと、恐るべき結果になってしまいます。私たちも慌てふためかず惑わされないで、目を覚ましてよく祈り、神様の御心に適う善い生き方に進みたいのです。
(9節)「戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」「決まっている」は、もとの言葉・ギリシア語で「デイ」という小さい言葉(けれども重要な言葉)です。「デイ」は、必然、神様の必然を表す言葉です。戦争も暴動も必然的に起こる。それらは世の終わりの前徴ではあるのでしょうが、前徴が起こったからと言ってすぐに世の終わりが来るのではない。だからしっかりと目を覚まして落ち着いて、神に従う道に踏みとどまるように、とイエス様はおっしゃいます。(10~11節)「そして更に言われた。『民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。』」最近約20数年の間に湾岸戦争、イラク戦争があり、関西・新潟・東日本で地震がありました。鳥インフルエンザは一種の疫病でしょうか。戦争は何としても避けるべきですが、自然災害は残念ながらこれからも起こるでしょう。そして父なる神様がお定めになった時にイエス・キリストがもう一度おいでになり、この世が終わり神の国が完成されます。
しかしその前に迫害の時代もあるとイエス様はおっしゃいます。(12節)「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。」まずイエス様ご自身が迫害をお受けになったのです。イエス様はローマから派遣された総督ピラトにこう尋問されました。「お前がユダヤ人の王なのか。」イエス様はお答えになります。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」イエス様は、この世の政治的な王ではなく、神の国の王、すべての人の下に降って奉仕して下さる王であるとおっしゃったのです。さらにイエス様はピラトに言われます。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」こうしてイエス様は、この世の権力者ピラトの前で、恐れることなくご自分がどのような方であるかを証しなさいました。
そのイエス様が弟子たちに予めおっしゃいます。(13~15節)「それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。」権力者の前に出されることは恐ろしいことです。ですがイエス様がそのとき、語るべき言葉と知恵を与えて下さる。「だから心配するな」と、イエス様がおっしゃいます。「証し」という言葉が出ていますが、証しをする人を証人と呼びます。証人は新約聖書の言語であるギリシア語で「マルトュス」という言葉です。「マルトュス」は後に殉教者という意味にもなりました。イエス・キリストを指し示す証人が殉教者になることがしばしば起こったからです。
ここで思い出すのはステファノという人です。ステファノはキリスト教会最初の殉教者です。使徒言行録6章に、ステファノは「信仰と聖霊に満ちている人」と書かれています。ある人たちが立ち上がってステファノと議論したけれども、「ステファノが知恵と霊(聖霊)とによって語るので、歯が立たなかった」と書かれています。イエス様がステファノに天より聖霊を注いで、どんな反対者も対抗も反論もできない言葉と知恵を授けて下さったのです。ステファノは聖霊に満たされて説教をしたのですが、それがイエス様を憎む人々の怒りを買い、ステファノは一斉に石を投げつけられて殉教の死を遂げます。人々が石を投げつけている間、ステファノは「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言い、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と叫びました。ステファノはイエス様と同じ心、敵を愛する心になっていたのです。殉教の死を遂げ、直ちに天国に入ったのです。
約30年後、使徒パウロもユダヤ王アグリッパの前で、復活したイエス・キリストに出会った体験を証ししました。使徒言行録26章です。それまでパウロ(復活のイエス様に出会った頃はサウロまたはサウルと呼ばれていた)は、クリスチャンたちを全力で迫害していたのです。パウロはアグリッパ王にこう語ります。「こうして、私は祭司長たちから権限を委任されて、ダマスコへと向かったのですが、その途中、真昼のことです。王よ、私は天からの光を見たのです。それは太陽より明るく輝いて、私とまた同行していた者との周りを照らしました。私たちが皆地に倒れたとき、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげのついた棒をけると、ひどい目に遭う』と私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。私が、『主よ、あなたはどなたですか』と申しますと、主は言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。』」そしてパウロはさらにアグリッパ王にイエス・キリストの復活をまっすぐに語り伝えます。「『アグリッパ王よ、こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました。そのためにユダヤ人たちは、神殿の境内にいた私を捕らえて殺そうとしたのです。ところで、私は神からの助けを今日までいただいて、固く立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきましたが、預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。』」パウロもこうして王の前で立派に証し、信仰の表明をしたのです。パウロも最後はローマで殉教しました。
ルカによる福音書21章に戻り、16節以下。イエス様の言葉。「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」 「髪の毛一本も決してなくならない」とは、神様の許しがなければ一本もなくなることはないということのようです。「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」という御言葉は、ヨハネの黙示録2章10節で、イエス様がスミルナという土地の教会に向かって語られた御言葉とよく似ています。「あなたは、受けようとしいている苦難を決して恐れてはならない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」「十日の間」ということは、苦しみの日々には限りがあるということです。苦しみは永久ではないのです。
日本にキリスト教が伝わったのは戦国時代の1549年です。豊臣秀吉は1587年にバテレン追放令を出し、キリスト教迫害が始まりました。バテレンとは神父です。1597年に長崎の西坂の丘という所で、秀吉の命令によって26人のクリスチャンが十字架に縛りつけられ、槍で刺されて殉教しました。「26聖人の殉教」と呼ばれる出来事です。その場所と推定される所に記念碑が建てられています。私も1983年の秋に高校の修学旅行で行きました。まず1596年暮れに、京都や大阪の信者24名が捕らえられました。年齢は12才から70才近くまでと様々でした。日本人だけでなく、中国人、スペイン人、ポルトガル人、メキシコ人がおり、6名の宣教師がいました。翌1597年1月10日より、24人は大阪から長崎まで900キロを寒い中、歩かされました。残酷なことです。24人を世話するために京都から着いて来た青年2人が自ら加わり、一行は26人になりました。26人の中に12才の朗らかな少年がいて、死刑を行う責任者の寺沢半三郎という人が、この少年に「キリシタンの教えを捨てるならば、助けてもよい」という意味のことを言いました。すると少年は、「そのような条件であるならば、生命を望みません。つかの間の生命と永遠の生命を交換するのは意味のないことです」と答えました(ルイス・フロイス著・結城了悟訳『日本二十六聖人殉教記』、聖母の騎士社、2009年、181ページ)。そして十字架に縛りつけられたとき、「意外な喜びを見せ、『パライソ(天国)、パライソ、イエズス、マリア』と言いながら信者未信者を問わず人々を驚かせた。そのことで彼の心には聖霊の恵みが宿っていることがよく表れていた」(同書、233ページ)とルイス・フロイス神父が記録しています。
三木パウロという33才の日本人修道士は、牢獄でも道中でも人々に説教したそうですが、十字架の上からも説教しました。「ここにおいでになるすべての人々よ、私の言うことをお聴き下さい。~私は何の罪も犯さなかったが、ただ我が主イエス・キリストの教えを説いたから死ぬのである。私はこの理由で死ぬことを喜び、これは神が私に授け給うた大いなる御恵みだと思う。今、この時を前にして貴方方を欺こうとは思わないので、人間の救いのためにキリシタンの道以外に他はないと断言し、説明する」(同書、209ページ)。「キリシタンの教えが敵及び自分に害を加えた人々を許すように教えている故、私は国王とこの私の死刑に関わったすべての人々を許す。王に対して憎しみはなく、むしろ彼とすべての日本人がキリスト信者になることを切望する」(同書、209~210ページ)。まさにこの26人は「忍耐によって命をかち取」った人々です。26名は、神様に愛され、神様に特に選ばれ、苦難に耐える特別な力を与えられた人々だったと思うのです。
本日の旧約聖書は、エレミヤ書1章1節以下です。神様はエレミヤに言われます。5節「わたしはあなたを母の胎内に造る前から/ あなたを知っていた。
母の胎から生まれる前に/ わたしはあなたを聖別し
諸国民の預言者として立てた。」
エレミヤは尻込みします。
6節「ああ、わが主なる神よ わたしは語る言葉を知りません。
わたしは若者にすぎませんから。」
7節「主はわたしに言われた。
『見よ、わたしはあなたの口に/ わたしの言葉を授ける。』」
神様がエレミヤに語る言葉を授けて下さいます。神様は12才の少年にも驚くほど深い信仰の言葉を授けて下さいました。「つかの間の生命と永遠の生命を交換するのは意味のないことです。」「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」とおっしゃったイエス様が、この少年を強めて下さったとしか思えません。私たちがピンチのとき、必ずイエス様が共にいて支えて下さいます。
イエス様は今日のルカによる福音書21章14節では、「前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい」と言われますが、これは迫害の時のことです。比較的平穏な日々の心構えについて聖書は次のように述べます。「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」(ペトロの手紙(一)3章15節)。私たちは平時に聖書の御言葉を蓄え、キリスト者に与えられている全ての罪の赦しと永遠の命の希望について、尋ねて来る人にいつでも伝えることができるように準備万端でありたいものです。厳しい局面ではイエス様が必ず助けて下さることを信じ、平時にあっても聖書を読んで祈り、イエス様に従う生き方を怠らない者でありたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。
「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(ルカによる福音書21章19節)
すぐ前の5~6節から読みます。「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。『あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。』」エルサレムの壮麗な神殿が崩壊する時が来ると予告なさったのです。この世の形あるものは、どんなに大きく壮麗であっても次第に劣化し、いつかは壊れます。2012年2月に東京スカイツリーが完成しました。高さ634mで、塔としては世界一高いとギネスブックに認定されたそうです。人口建造物としては世界一の建物がほかにあるそうです。スカイツリーの完成は日本人にとって嬉しいことですが、その地域で育った王貞治さんが人々をスカイツリーに案内したときに、「この辺りは東京大空襲のときに焼け野原になった所です」とおっしゃったと聞きます。慢心してはいけないと戒めて下さったのです。人間が造ったものは永遠ではないのです。原子力発電所が壊れて非常に困っていることを私たちは知っています。私たち人間の文明は有限であることをわきまえる必要があります。イエス様が話しておられるこの場面は、紀元30年頃です。この後、紀元66年にユダヤ人たちは、ローマ帝国に対して武力で立ち上がり、戦争を始めます。しかし次第に追い詰められたユダヤ人はエルサレムに立て籠って頑強に抵抗しましたが、紀元70年にエルサレムは破壊され、神殿も炎上してしまいました。イエス様はこのことを預言されました。
この壮大な神殿が壊れる! このことを聞いて弟子たちは怖くなります。(7節)「そこで、彼らはイエスに尋ねた。『先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。』」この神殿が崩壊するのであれば、それは世の終わりに違いないと弟子たちは思ったのです。しかしイエス様は、エルサレム神殿の崩壊が直ちに世の終わりではないと注意を促されます。(8節)「イエスは言われた。『惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「わたしがそれだ」とか、「時が近づいた」とか言うが、ついて行ってはならない。』」 神殿は確かに崩壊するが、それが世の終わりではない。混乱して世の終わりのような雰囲気に飲まれそうになるだろうが、そこでこそしっかりと目を覚ましていなさい。様々な偽のリーダーが現れ、「わたしが救い主だ」と言い、「わたしに着いて来なさい」と言うだろう。しかしあなた方は、偽のリーダーが偽であることをしっかり見抜いて、着いていかないように気をつけなさい。私たちは自分の頭でしっかりと考えて、偽物に騙されないように注意する必要があります。
エルサレムがローマ軍に包囲されたとき、ユダヤ人クリスチャンたちは、エルサレムや神殿と共に滅びる道を選ばず、エルサレムを脱出して生き延びたそうです。今日より先の21節で、イエス様がこうおっしゃった言葉を思い出して従ったのです。「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都(エルサレム)の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。」イエス様をメシアと信じたユダヤ人クリスチャンたちは、賢明にもイエス様の御言葉に従ったのです。
ユダヤ人は紀元132年にもローマ帝国に対して反乱を起こします。そのときのリーダーはバル・コクバという人です。バル・コクバとは「星々の子」の意味です。星はメシア(救い主)のシンボルで、彼は自分こそメシアであると信じたのでしょう。多くの人々がそれに惑わされ、ローマと戦って死んでゆきました。彼は偽メシアだったのです。ほかにもヒットラーは一種の偽メシアだったでしょうし、日本ではオウム真理教の教祖を多くの当時の若者(私と同世代の人々)が信奉して、人の命を奪い、自分たちも破滅の道に進んでしまいました。間違った指導者に従ってしまうと、恐るべき結果になってしまいます。私たちも慌てふためかず惑わされないで、目を覚ましてよく祈り、神様の御心に適う善い生き方に進みたいのです。
(9節)「戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」「決まっている」は、もとの言葉・ギリシア語で「デイ」という小さい言葉(けれども重要な言葉)です。「デイ」は、必然、神様の必然を表す言葉です。戦争も暴動も必然的に起こる。それらは世の終わりの前徴ではあるのでしょうが、前徴が起こったからと言ってすぐに世の終わりが来るのではない。だからしっかりと目を覚まして落ち着いて、神に従う道に踏みとどまるように、とイエス様はおっしゃいます。(10~11節)「そして更に言われた。『民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。』」最近約20数年の間に湾岸戦争、イラク戦争があり、関西・新潟・東日本で地震がありました。鳥インフルエンザは一種の疫病でしょうか。戦争は何としても避けるべきですが、自然災害は残念ながらこれからも起こるでしょう。そして父なる神様がお定めになった時にイエス・キリストがもう一度おいでになり、この世が終わり神の国が完成されます。
しかしその前に迫害の時代もあるとイエス様はおっしゃいます。(12節)「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。」まずイエス様ご自身が迫害をお受けになったのです。イエス様はローマから派遣された総督ピラトにこう尋問されました。「お前がユダヤ人の王なのか。」イエス様はお答えになります。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」イエス様は、この世の政治的な王ではなく、神の国の王、すべての人の下に降って奉仕して下さる王であるとおっしゃったのです。さらにイエス様はピラトに言われます。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」こうしてイエス様は、この世の権力者ピラトの前で、恐れることなくご自分がどのような方であるかを証しなさいました。
そのイエス様が弟子たちに予めおっしゃいます。(13~15節)「それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。」権力者の前に出されることは恐ろしいことです。ですがイエス様がそのとき、語るべき言葉と知恵を与えて下さる。「だから心配するな」と、イエス様がおっしゃいます。「証し」という言葉が出ていますが、証しをする人を証人と呼びます。証人は新約聖書の言語であるギリシア語で「マルトュス」という言葉です。「マルトュス」は後に殉教者という意味にもなりました。イエス・キリストを指し示す証人が殉教者になることがしばしば起こったからです。
ここで思い出すのはステファノという人です。ステファノはキリスト教会最初の殉教者です。使徒言行録6章に、ステファノは「信仰と聖霊に満ちている人」と書かれています。ある人たちが立ち上がってステファノと議論したけれども、「ステファノが知恵と霊(聖霊)とによって語るので、歯が立たなかった」と書かれています。イエス様がステファノに天より聖霊を注いで、どんな反対者も対抗も反論もできない言葉と知恵を授けて下さったのです。ステファノは聖霊に満たされて説教をしたのですが、それがイエス様を憎む人々の怒りを買い、ステファノは一斉に石を投げつけられて殉教の死を遂げます。人々が石を投げつけている間、ステファノは「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言い、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と叫びました。ステファノはイエス様と同じ心、敵を愛する心になっていたのです。殉教の死を遂げ、直ちに天国に入ったのです。
約30年後、使徒パウロもユダヤ王アグリッパの前で、復活したイエス・キリストに出会った体験を証ししました。使徒言行録26章です。それまでパウロ(復活のイエス様に出会った頃はサウロまたはサウルと呼ばれていた)は、クリスチャンたちを全力で迫害していたのです。パウロはアグリッパ王にこう語ります。「こうして、私は祭司長たちから権限を委任されて、ダマスコへと向かったのですが、その途中、真昼のことです。王よ、私は天からの光を見たのです。それは太陽より明るく輝いて、私とまた同行していた者との周りを照らしました。私たちが皆地に倒れたとき、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげのついた棒をけると、ひどい目に遭う』と私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。私が、『主よ、あなたはどなたですか』と申しますと、主は言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。』」そしてパウロはさらにアグリッパ王にイエス・キリストの復活をまっすぐに語り伝えます。「『アグリッパ王よ、こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました。そのためにユダヤ人たちは、神殿の境内にいた私を捕らえて殺そうとしたのです。ところで、私は神からの助けを今日までいただいて、固く立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきましたが、預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。』」パウロもこうして王の前で立派に証し、信仰の表明をしたのです。パウロも最後はローマで殉教しました。
ルカによる福音書21章に戻り、16節以下。イエス様の言葉。「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」 「髪の毛一本も決してなくならない」とは、神様の許しがなければ一本もなくなることはないということのようです。「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」という御言葉は、ヨハネの黙示録2章10節で、イエス様がスミルナという土地の教会に向かって語られた御言葉とよく似ています。「あなたは、受けようとしいている苦難を決して恐れてはならない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」「十日の間」ということは、苦しみの日々には限りがあるということです。苦しみは永久ではないのです。
日本にキリスト教が伝わったのは戦国時代の1549年です。豊臣秀吉は1587年にバテレン追放令を出し、キリスト教迫害が始まりました。バテレンとは神父です。1597年に長崎の西坂の丘という所で、秀吉の命令によって26人のクリスチャンが十字架に縛りつけられ、槍で刺されて殉教しました。「26聖人の殉教」と呼ばれる出来事です。その場所と推定される所に記念碑が建てられています。私も1983年の秋に高校の修学旅行で行きました。まず1596年暮れに、京都や大阪の信者24名が捕らえられました。年齢は12才から70才近くまでと様々でした。日本人だけでなく、中国人、スペイン人、ポルトガル人、メキシコ人がおり、6名の宣教師がいました。翌1597年1月10日より、24人は大阪から長崎まで900キロを寒い中、歩かされました。残酷なことです。24人を世話するために京都から着いて来た青年2人が自ら加わり、一行は26人になりました。26人の中に12才の朗らかな少年がいて、死刑を行う責任者の寺沢半三郎という人が、この少年に「キリシタンの教えを捨てるならば、助けてもよい」という意味のことを言いました。すると少年は、「そのような条件であるならば、生命を望みません。つかの間の生命と永遠の生命を交換するのは意味のないことです」と答えました(ルイス・フロイス著・結城了悟訳『日本二十六聖人殉教記』、聖母の騎士社、2009年、181ページ)。そして十字架に縛りつけられたとき、「意外な喜びを見せ、『パライソ(天国)、パライソ、イエズス、マリア』と言いながら信者未信者を問わず人々を驚かせた。そのことで彼の心には聖霊の恵みが宿っていることがよく表れていた」(同書、233ページ)とルイス・フロイス神父が記録しています。
三木パウロという33才の日本人修道士は、牢獄でも道中でも人々に説教したそうですが、十字架の上からも説教しました。「ここにおいでになるすべての人々よ、私の言うことをお聴き下さい。~私は何の罪も犯さなかったが、ただ我が主イエス・キリストの教えを説いたから死ぬのである。私はこの理由で死ぬことを喜び、これは神が私に授け給うた大いなる御恵みだと思う。今、この時を前にして貴方方を欺こうとは思わないので、人間の救いのためにキリシタンの道以外に他はないと断言し、説明する」(同書、209ページ)。「キリシタンの教えが敵及び自分に害を加えた人々を許すように教えている故、私は国王とこの私の死刑に関わったすべての人々を許す。王に対して憎しみはなく、むしろ彼とすべての日本人がキリスト信者になることを切望する」(同書、209~210ページ)。まさにこの26人は「忍耐によって命をかち取」った人々です。26名は、神様に愛され、神様に特に選ばれ、苦難に耐える特別な力を与えられた人々だったと思うのです。
本日の旧約聖書は、エレミヤ書1章1節以下です。神様はエレミヤに言われます。5節「わたしはあなたを母の胎内に造る前から/ あなたを知っていた。
母の胎から生まれる前に/ わたしはあなたを聖別し
諸国民の預言者として立てた。」
エレミヤは尻込みします。
6節「ああ、わが主なる神よ わたしは語る言葉を知りません。
わたしは若者にすぎませんから。」
7節「主はわたしに言われた。
『見よ、わたしはあなたの口に/ わたしの言葉を授ける。』」
神様がエレミヤに語る言葉を授けて下さいます。神様は12才の少年にも驚くほど深い信仰の言葉を授けて下さいました。「つかの間の生命と永遠の生命を交換するのは意味のないことです。」「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」とおっしゃったイエス様が、この少年を強めて下さったとしか思えません。私たちがピンチのとき、必ずイエス様が共にいて支えて下さいます。
イエス様は今日のルカによる福音書21章14節では、「前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい」と言われますが、これは迫害の時のことです。比較的平穏な日々の心構えについて聖書は次のように述べます。「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」(ペトロの手紙(一)3章15節)。私たちは平時に聖書の御言葉を蓄え、キリスト者に与えられている全ての罪の赦しと永遠の命の希望について、尋ねて来る人にいつでも伝えることができるように準備万端でありたいものです。厳しい局面ではイエス様が必ず助けて下さることを信じ、平時にあっても聖書を読んで祈り、イエス様に従う生き方を怠らない者でありたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。
2014-05-07 0:34:30(水)
「イエス様の感激」 2014年5月4日(日) 復活節第3主日礼拝説教
朗読聖書:創世記4章1~16節、ルカによる福音書21章1~6節
「この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」
(ルカによる福音書21章4節)
ルカによる福音書は、貧しい人に優しく、お金持ちに厳しい福音書です。今日の場所はエルサレム神殿です。この神殿はヘロデ大王によって紀元前20年頃に拡張工事が開始され、イエス様の時代には「周囲に回廊を巡らした広い境内と、白い大理石の美しい本殿を持つ、立派な建造物」(新共同訳聖書巻末の解説による)でした。142.5m×120mの面積の非常に壮麗な建造物で、外国にまで評判を呼んでいたそうです。5節に、「見事な石と奉納物で飾られていた」と書かれています。今日の主人公は、イエス様を除けば一人の貧しいやもめです。壮麗な神殿と貧しいやもめは明確なコントラストをなしています。
(1節)「イエスは目を上げて、金持ちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。」イエス様はじっと注意深く見つめておられたのです。賽銭箱が置かれていたのは、神殿の「婦人の庭」と呼ばれるスペースで、このスペースは神殿全体の3分の1を占め、多くの人々が出入りしたそうです。金持ちたちが有り余る中から多くの献金をしていました。そこにある名もなき貧しいやもめが、神様に献金をするためにやって来ました。旧約聖書以来、神様はみなし子、やもめ、寄留の外国人といった弱い立場にある人々の味方です。申命記10章17節に次のように書かれています。「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。」
2節に「そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て…」とあります。レプトンは「最小の銅貨で、1デナリオンの128分の1」(聖書巻末の資料による)です。1デナリオンは一日分の賃金ですから仮に5000円とすると、1レプトンは約39円です。分かりやすくするために50円と考えましょう。レプトン銅貨2枚は約100円になります。この100円がこのやもめの全財産だったのです。本当に非常に貧しかったのです。(3~4節)「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」このやもめは本当に見上げた人です。なかなかこの真似はできません。イエス様も非常に感激され、最大級の賛辞を送っておられます。「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。」父なる神様も、このやもめの献金を非常に喜ばれたに違いありません。やもめは文字通り精一杯の献げ物をして、神様の愛したのです。申命記6章4節に、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」とありますが、このやもめはこの御言葉の通りに、自分の全てを神様に献げて、神様を愛したのです。自分の命を献げたとも言えます。このやもめは私・私どもの信仰上の先生です。
イエス様には、やもめがレプトン銅貨二枚を献金するのが見えました。ほかの人にも見える状況だったのかは分かりません。ですがやもめは恥じることなく堂々と献げたと思います。献金は神様お一人に見ていただけばよいものだからです。周りの金持ちたちに比べて自分は少ないということは全く考えず、神様のへの精一杯の感謝を、迷わないでまっすぐに献げました。私たちは思います。「このやもめは全財産を献げて、明日の生活をどうしようと心配しなかったのだろうか。」神様がおられなければ、これはただの無謀です。ですがやもめは、生ける真の神様を信じていました。昔、出エジプトして食べ物のない荒れ野を放浪した自分たちの先祖に、日々マナを与えて養って下さった神様がおられる。私に必要なものを与えて下さると信頼していたのです。イエス様はマタイによる福音書6章でこうおっしゃいました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」やもめは、まさにこの信仰に生きていたと思うのです。明日のことはすべて神様にゆだねて、今日なすべきことをしたのです。神様への信頼がなければできないことです。
聖書ではしばしば、神様に真に忠実なやもめのことが好意的に描かれています。ルカによる福音書の2章では、赤ちゃんイエス様が神殿に献げられる場面に、アンナという女預言者が登場致します。「非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから7年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、84歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた。」 テモテへの手紙(二)5章5節には、こうあります。「身寄りがなく独り暮らしのやもめは、神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続けます」と。本日登場するやもめもこのような人だったと思うのです。ほかに頼るものがなく、ひたすら「神様、神様」とすがっており、助けられる経験を重ねていたのでしょう。そこで恐れることなく持てる全てを献げたのです。
それにしても見上げた信仰です。わたしたちはなかなかここまで徹底できません。わたしは、神様の命令で愛する独り子イサクを献げようとしたアブラハムの信仰を思い出します。創世記22章の有名な場面です。神様はアブラハムに命じられました。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」アブラハムがどのような気持ちだったか、一言も書かれていないので分かりません。アブラハムは、無茶とも思える神様の命令に黙々と、従順に従うのです。「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の上に載せた。そしてアブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。」ここでアブラハムは事実上イサクを神様に献げたのです。「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」神様を愛したのです。やもめが2枚のレプトン銅貨を自分の手に握りしめようとしなかったのと同じく、アブラハムも独り子イサクを自分の手の中に握りしめようとせずに、神様に全幅の信頼を込めて委ねました。神様が御心を成して下さる。神様が最善を成して下さる。そう信頼しきってイサクと自分を神様に委ねたのです。
神様はアブラハムの信頼に応えて下さいました。神様はアブラハムの従順な信仰を喜ばれ、すんでのところで天使を送って、「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ」と言わせて下さいました。アブラハムはその直後、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられているのを見つけ、行ってその雄羊を捕まえ、イサクの代わりに焼き尽くす献げ物として献げました。そしてアブラハムはその場所を「ヤーウェ・イルエ」(主は備えてくださる)と名付けました。「そこで、人々は今日でも『主の山に備えあり』(イエラエ)と言っている」と書かれています。多くの信仰者を励まして来た「主の山に備えあり」という御言葉がここに登場致します。「主の山に備えあり」、これは「神様を信頼して決して間違いはない」というすばらしい御言葉です。あのやもめも「主の山に備えあり」の信頼を持って、全財産であるレプトン銅貨二枚を献金したと思うのです。
私が神学生であった1993年に、夏の伝道実習で静岡草深教会という教会に37日間ほど帯在致しました。主任牧師は、今は天におられる辻宣道先生でしたが、その年の11月に辻先生が朝日新聞の「声」の欄に投書なさいました。ちょうど企業から政治家への献金が問題になっていた時期です。題は「本当の献金は見返りない金。」「献金という言葉を見ると、うんざりする。『献金』がかわいそうだ。献金とは、そもそも浄財であるべきなのに、近ごろの献金は、暗いシミのついたゼネコンの魔手が地に堕ちて汚されている。私たちの団体は献金によって運営される。それは、見返りのまったくない純粋の『献げもの』である。持てるものはそれなりに、持てないものもそれなりに、精一杯献げて、世のため人のためになれかしと念じて出す。それから見ると、この頃の献金はおかしい。だれのためにささげるのだ。自分のためではないか。これは献金ではない。『換金』である。つまりその金は必ず見返りとなって、自分のふところを肥やすのだ。汚い金を献金、献金、というからややこしくなる。きれいな金までうすよごれて見える。清く正しい献金を堂々と闊歩せしめよ。貧者の一灯が持ち寄られ、それを政治改革の力にしなければ嘘だ。その精神がわが国にはない」(『牧師・辻宣道』静岡草深教会、1995年、127~128ページ)。ストレートなメッセージです。「(献金は)見返りのない純粋の『献げ物』。」あのやもめも神様への純粋な感謝から、何の見返りも求めないで持てるすべて、レプトン銅貨二枚を献げたのです。
やもめのこの生き方は、イエス様の生き方に深く通じます。私たちは2週間前にイースター礼拝を献げたばかりですが、本日の場面はイエス様の十字架の三日前の火曜日です。イエス様の使命は、父なる神様の御心に100%服従して十字架にかかることです。私たち一人一人を愛して、私たちの身代わりに十字架におかかりになったのです。イエス様は、父なる神様を愛し、隣人を愛することが大切だと教えて下さいました。その生き方を自ら実践なさった結果が十字架の犠牲の死です。父なる神様への愛と、私たち一人一人への愛を貫くイエス様の生き方は、必然的に十字架の犠牲の死に至るのです。イエス様自身がこの三日後にご自分のすべてを父なる神様に献げなさいます。ご自身が献げ物となって下さったのです。その覚悟をしておられるイエス様の目に、やもめは同じ志に生きる友に見えたのではないでしょうか。イザヤ書41章8節で、神様はアブラハムのことを「わたしの愛する友」と呼んでおられます。神様はこのやもめのことも「わたしの愛する友」とお呼びになりたいお気持ちだったでしょう。それほど彼女の献金に感激されたと思うのです。
神様に喜ばれる献げ物。それは神様への真の愛から出た献げ物です。本日の旧約聖書は創世記4章。エバとアダムの息子たち、人類最初の兄弟カインとアベルが登場する場面です。解釈の難しい箇所ですが、1節より5節まで読みます。「さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、『わたしは主によって男子を得た』と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。」
ふつうここを読むと、「なぜ?」と思います。「神様は不公平ではないか? カインが気の毒だ」とさえ思うのではないでしょうか。ですがカインがアベルを殺害したことからも、カインはかなり問題のある人だったことが察せられます。形の上ではカインもアベルも神様に献げ物をしたのです。ですがカインの生きる姿勢と献げ物に対する姿勢(礼拝に対する姿勢)、そしてアベルの生きる姿勢と献げ物に対する姿勢(礼拝に対する姿勢)には、かなりの差があったのではないでしょうか。3節に「カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た」と書かれています。もしかすると神様をあまり愛さず、神様にあまり感謝しておらず、仕方なく義務を果たした、ということかもしれません。4節に「アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た」とあります。アベルが多くの羊の中から良いものを選んでいることは確かです。神様への愛と感謝をこめて選んだのです。肥えた羊を選び、初子(初物)を選びました。多くの羊の中から、最も良いものを選んで神様に献げました。アベルの生きる姿勢、献げ物に対する姿勢、神様を礼拝する姿勢を、神様は喜んで下さいました。私たちもアベルから大いに学ぶことができます。気の毒にもアベルは、神様に忠実に従ったのに、カインに不当に殺されてしまいました。イエス様に似ています。アベルを人類最初の殉教者と呼ぶ人もいるそうです。アベルは「肥えた初子」を献げ、やもめはレプトン銅貨二枚を献げました。献げたものは違いますが、二人とも神様に全身全霊と愛を込めて献げており、神様を愛して献げる姿勢が神様に喜ばれたのでしょう。
旧約聖書の最後の書マラキ書を読むと、イスラエルの祭司たちの献げ物に対する不誠実な姿勢について、神様が叱る言葉が書かれています。
「あなたたちが目のつぶれた動物を
いけにえとしてささげても、悪ではないのか。
足が傷ついたり、病気である動物をささげても
悪ではないのか」(1章8節)。
「あなたたちが盗んできた動物、足の傷ついた動物、病気の動物などを献げ物として携えてきているのに、わたしはあなたたちの手からそれを快く受け入れうるだろうか、と主は言われる。群れの中に傷のない雄の動物を持っており、それをささげると誓いながら、傷のあるものを主にささげる偽り者は呪われよ。わたしは大いなる主で、わたしの名は諸国の間で畏れられている、と万軍の主は言われる」(1章13~14節)
最後に、コリントの信徒への手紙(二)を読みます。8章1節以下です。これはイエス様の弟子・使徒パウロが、ギリシアの大都市コリントの教会のクリスチャンたちに献金を呼び掛ける言葉です。その献金の目的は、当時貧しかったエルサレムの教会を助けることです。パウロはまず、ほかの教会がエルサレム教会への愛の献金に立ち上がった実例を引いて、コリント教会の人々の愛に訴えます。「兄弟たち、マケドニア州の諸教会(フィリピの教会などか?)に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。」マケドニア州の諸教会は裕福ではなく、極度に貧しかった。あのやもめと似ています。極度に貧しかったのに、キリストの十字架の愛に触発され、聖霊の愛に満たされ、驚くべきことに、困っている人々に惜しまず施す者となったのです。「わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たち(貧しいエルサレム教会の人々)を助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。」
そして10節の途中から。「あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました。だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。」 「進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。」励まされる言葉です。9章7節も励まされる言葉です。「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛して下さるからです。」すばらしい御言葉です。「喜んで与える人を神は愛して下さる。」私は反省させられます。あの奉仕、この奉仕を喜んでしていたかどうかを。あのやもめは喜んでレプトン銅貨2枚を献げたと思います。アベルも喜んで献げたと思います。私たちも、この自分自身を、神様と隣人に喜んで献げて参りましょう。
「この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」
(ルカによる福音書21章4節)
ルカによる福音書は、貧しい人に優しく、お金持ちに厳しい福音書です。今日の場所はエルサレム神殿です。この神殿はヘロデ大王によって紀元前20年頃に拡張工事が開始され、イエス様の時代には「周囲に回廊を巡らした広い境内と、白い大理石の美しい本殿を持つ、立派な建造物」(新共同訳聖書巻末の解説による)でした。142.5m×120mの面積の非常に壮麗な建造物で、外国にまで評判を呼んでいたそうです。5節に、「見事な石と奉納物で飾られていた」と書かれています。今日の主人公は、イエス様を除けば一人の貧しいやもめです。壮麗な神殿と貧しいやもめは明確なコントラストをなしています。
(1節)「イエスは目を上げて、金持ちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。」イエス様はじっと注意深く見つめておられたのです。賽銭箱が置かれていたのは、神殿の「婦人の庭」と呼ばれるスペースで、このスペースは神殿全体の3分の1を占め、多くの人々が出入りしたそうです。金持ちたちが有り余る中から多くの献金をしていました。そこにある名もなき貧しいやもめが、神様に献金をするためにやって来ました。旧約聖書以来、神様はみなし子、やもめ、寄留の外国人といった弱い立場にある人々の味方です。申命記10章17節に次のように書かれています。「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。」
2節に「そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て…」とあります。レプトンは「最小の銅貨で、1デナリオンの128分の1」(聖書巻末の資料による)です。1デナリオンは一日分の賃金ですから仮に5000円とすると、1レプトンは約39円です。分かりやすくするために50円と考えましょう。レプトン銅貨2枚は約100円になります。この100円がこのやもめの全財産だったのです。本当に非常に貧しかったのです。(3~4節)「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」このやもめは本当に見上げた人です。なかなかこの真似はできません。イエス様も非常に感激され、最大級の賛辞を送っておられます。「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。」父なる神様も、このやもめの献金を非常に喜ばれたに違いありません。やもめは文字通り精一杯の献げ物をして、神様の愛したのです。申命記6章4節に、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」とありますが、このやもめはこの御言葉の通りに、自分の全てを神様に献げて、神様を愛したのです。自分の命を献げたとも言えます。このやもめは私・私どもの信仰上の先生です。
イエス様には、やもめがレプトン銅貨二枚を献金するのが見えました。ほかの人にも見える状況だったのかは分かりません。ですがやもめは恥じることなく堂々と献げたと思います。献金は神様お一人に見ていただけばよいものだからです。周りの金持ちたちに比べて自分は少ないということは全く考えず、神様のへの精一杯の感謝を、迷わないでまっすぐに献げました。私たちは思います。「このやもめは全財産を献げて、明日の生活をどうしようと心配しなかったのだろうか。」神様がおられなければ、これはただの無謀です。ですがやもめは、生ける真の神様を信じていました。昔、出エジプトして食べ物のない荒れ野を放浪した自分たちの先祖に、日々マナを与えて養って下さった神様がおられる。私に必要なものを与えて下さると信頼していたのです。イエス様はマタイによる福音書6章でこうおっしゃいました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」やもめは、まさにこの信仰に生きていたと思うのです。明日のことはすべて神様にゆだねて、今日なすべきことをしたのです。神様への信頼がなければできないことです。
聖書ではしばしば、神様に真に忠実なやもめのことが好意的に描かれています。ルカによる福音書の2章では、赤ちゃんイエス様が神殿に献げられる場面に、アンナという女預言者が登場致します。「非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから7年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、84歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた。」 テモテへの手紙(二)5章5節には、こうあります。「身寄りがなく独り暮らしのやもめは、神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続けます」と。本日登場するやもめもこのような人だったと思うのです。ほかに頼るものがなく、ひたすら「神様、神様」とすがっており、助けられる経験を重ねていたのでしょう。そこで恐れることなく持てる全てを献げたのです。
それにしても見上げた信仰です。わたしたちはなかなかここまで徹底できません。わたしは、神様の命令で愛する独り子イサクを献げようとしたアブラハムの信仰を思い出します。創世記22章の有名な場面です。神様はアブラハムに命じられました。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」アブラハムがどのような気持ちだったか、一言も書かれていないので分かりません。アブラハムは、無茶とも思える神様の命令に黙々と、従順に従うのです。「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の上に載せた。そしてアブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。」ここでアブラハムは事実上イサクを神様に献げたのです。「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」神様を愛したのです。やもめが2枚のレプトン銅貨を自分の手に握りしめようとしなかったのと同じく、アブラハムも独り子イサクを自分の手の中に握りしめようとせずに、神様に全幅の信頼を込めて委ねました。神様が御心を成して下さる。神様が最善を成して下さる。そう信頼しきってイサクと自分を神様に委ねたのです。
神様はアブラハムの信頼に応えて下さいました。神様はアブラハムの従順な信仰を喜ばれ、すんでのところで天使を送って、「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ」と言わせて下さいました。アブラハムはその直後、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられているのを見つけ、行ってその雄羊を捕まえ、イサクの代わりに焼き尽くす献げ物として献げました。そしてアブラハムはその場所を「ヤーウェ・イルエ」(主は備えてくださる)と名付けました。「そこで、人々は今日でも『主の山に備えあり』(イエラエ)と言っている」と書かれています。多くの信仰者を励まして来た「主の山に備えあり」という御言葉がここに登場致します。「主の山に備えあり」、これは「神様を信頼して決して間違いはない」というすばらしい御言葉です。あのやもめも「主の山に備えあり」の信頼を持って、全財産であるレプトン銅貨二枚を献金したと思うのです。
私が神学生であった1993年に、夏の伝道実習で静岡草深教会という教会に37日間ほど帯在致しました。主任牧師は、今は天におられる辻宣道先生でしたが、その年の11月に辻先生が朝日新聞の「声」の欄に投書なさいました。ちょうど企業から政治家への献金が問題になっていた時期です。題は「本当の献金は見返りない金。」「献金という言葉を見ると、うんざりする。『献金』がかわいそうだ。献金とは、そもそも浄財であるべきなのに、近ごろの献金は、暗いシミのついたゼネコンの魔手が地に堕ちて汚されている。私たちの団体は献金によって運営される。それは、見返りのまったくない純粋の『献げもの』である。持てるものはそれなりに、持てないものもそれなりに、精一杯献げて、世のため人のためになれかしと念じて出す。それから見ると、この頃の献金はおかしい。だれのためにささげるのだ。自分のためではないか。これは献金ではない。『換金』である。つまりその金は必ず見返りとなって、自分のふところを肥やすのだ。汚い金を献金、献金、というからややこしくなる。きれいな金までうすよごれて見える。清く正しい献金を堂々と闊歩せしめよ。貧者の一灯が持ち寄られ、それを政治改革の力にしなければ嘘だ。その精神がわが国にはない」(『牧師・辻宣道』静岡草深教会、1995年、127~128ページ)。ストレートなメッセージです。「(献金は)見返りのない純粋の『献げ物』。」あのやもめも神様への純粋な感謝から、何の見返りも求めないで持てるすべて、レプトン銅貨二枚を献げたのです。
やもめのこの生き方は、イエス様の生き方に深く通じます。私たちは2週間前にイースター礼拝を献げたばかりですが、本日の場面はイエス様の十字架の三日前の火曜日です。イエス様の使命は、父なる神様の御心に100%服従して十字架にかかることです。私たち一人一人を愛して、私たちの身代わりに十字架におかかりになったのです。イエス様は、父なる神様を愛し、隣人を愛することが大切だと教えて下さいました。その生き方を自ら実践なさった結果が十字架の犠牲の死です。父なる神様への愛と、私たち一人一人への愛を貫くイエス様の生き方は、必然的に十字架の犠牲の死に至るのです。イエス様自身がこの三日後にご自分のすべてを父なる神様に献げなさいます。ご自身が献げ物となって下さったのです。その覚悟をしておられるイエス様の目に、やもめは同じ志に生きる友に見えたのではないでしょうか。イザヤ書41章8節で、神様はアブラハムのことを「わたしの愛する友」と呼んでおられます。神様はこのやもめのことも「わたしの愛する友」とお呼びになりたいお気持ちだったでしょう。それほど彼女の献金に感激されたと思うのです。
神様に喜ばれる献げ物。それは神様への真の愛から出た献げ物です。本日の旧約聖書は創世記4章。エバとアダムの息子たち、人類最初の兄弟カインとアベルが登場する場面です。解釈の難しい箇所ですが、1節より5節まで読みます。「さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、『わたしは主によって男子を得た』と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。」
ふつうここを読むと、「なぜ?」と思います。「神様は不公平ではないか? カインが気の毒だ」とさえ思うのではないでしょうか。ですがカインがアベルを殺害したことからも、カインはかなり問題のある人だったことが察せられます。形の上ではカインもアベルも神様に献げ物をしたのです。ですがカインの生きる姿勢と献げ物に対する姿勢(礼拝に対する姿勢)、そしてアベルの生きる姿勢と献げ物に対する姿勢(礼拝に対する姿勢)には、かなりの差があったのではないでしょうか。3節に「カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た」と書かれています。もしかすると神様をあまり愛さず、神様にあまり感謝しておらず、仕方なく義務を果たした、ということかもしれません。4節に「アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た」とあります。アベルが多くの羊の中から良いものを選んでいることは確かです。神様への愛と感謝をこめて選んだのです。肥えた羊を選び、初子(初物)を選びました。多くの羊の中から、最も良いものを選んで神様に献げました。アベルの生きる姿勢、献げ物に対する姿勢、神様を礼拝する姿勢を、神様は喜んで下さいました。私たちもアベルから大いに学ぶことができます。気の毒にもアベルは、神様に忠実に従ったのに、カインに不当に殺されてしまいました。イエス様に似ています。アベルを人類最初の殉教者と呼ぶ人もいるそうです。アベルは「肥えた初子」を献げ、やもめはレプトン銅貨二枚を献げました。献げたものは違いますが、二人とも神様に全身全霊と愛を込めて献げており、神様を愛して献げる姿勢が神様に喜ばれたのでしょう。
旧約聖書の最後の書マラキ書を読むと、イスラエルの祭司たちの献げ物に対する不誠実な姿勢について、神様が叱る言葉が書かれています。
「あなたたちが目のつぶれた動物を
いけにえとしてささげても、悪ではないのか。
足が傷ついたり、病気である動物をささげても
悪ではないのか」(1章8節)。
「あなたたちが盗んできた動物、足の傷ついた動物、病気の動物などを献げ物として携えてきているのに、わたしはあなたたちの手からそれを快く受け入れうるだろうか、と主は言われる。群れの中に傷のない雄の動物を持っており、それをささげると誓いながら、傷のあるものを主にささげる偽り者は呪われよ。わたしは大いなる主で、わたしの名は諸国の間で畏れられている、と万軍の主は言われる」(1章13~14節)
最後に、コリントの信徒への手紙(二)を読みます。8章1節以下です。これはイエス様の弟子・使徒パウロが、ギリシアの大都市コリントの教会のクリスチャンたちに献金を呼び掛ける言葉です。その献金の目的は、当時貧しかったエルサレムの教会を助けることです。パウロはまず、ほかの教会がエルサレム教会への愛の献金に立ち上がった実例を引いて、コリント教会の人々の愛に訴えます。「兄弟たち、マケドニア州の諸教会(フィリピの教会などか?)に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。」マケドニア州の諸教会は裕福ではなく、極度に貧しかった。あのやもめと似ています。極度に貧しかったのに、キリストの十字架の愛に触発され、聖霊の愛に満たされ、驚くべきことに、困っている人々に惜しまず施す者となったのです。「わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たち(貧しいエルサレム教会の人々)を助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。」
そして10節の途中から。「あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました。だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。」 「進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。」励まされる言葉です。9章7節も励まされる言葉です。「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛して下さるからです。」すばらしい御言葉です。「喜んで与える人を神は愛して下さる。」私は反省させられます。あの奉仕、この奉仕を喜んでしていたかどうかを。あのやもめは喜んでレプトン銅貨2枚を献げたと思います。アベルも喜んで献げたと思います。私たちも、この自分自身を、神様と隣人に喜んで献げて参りましょう。
2014-04-28 22:48:52(月)
「すべての造られたものに福音を」2014年4月27日(日)復活節第2主日礼拝説教
朗読聖書:イザヤ書11章1~10節、マルコによる福音書16章14節~結び二
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」
(マルコによる福音書16章15節)
マルコによる福音書は、イエス様の空の墓を見て、天使からイエス様の復活を知らされた婦人たちの反応を非常に正直に伝えています。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」 婦人たちは、イエス様が甦ったとは少しも予想しないで墓に行きました。天使が告げたことは、婦人たちにとってあまりに衝撃的だったのです。同じ朝、イエス様はマグダラのマリアにご自身の姿を現されました。マグダラのマリアは、以前イエス様に7つの悪霊を追い出していただいた女性です。マリアは、以前イエス様と一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、甦りのイエス様に会ったことを伝えました。しかしこの人々は、イエス様が生きておられること、マリアがそのイエス様に会ったことを聞いても、信じませんでした。その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエス様が別の姿で御自分を現されたと書かれています。別の姿とはどんな姿なのか分かりませんが、別の姿であってもイエス様であることははっきり分かる姿だったようです。この二人も行って残りの人たちに知らせましたが、彼らは二人の言うことも信じませんでした。復活は、人間の理性を超えた奇跡です。理性では理解できません。神様の聖霊を注いでいただいて初めて私たちの目が開かれて、信じることができるようになります。
今日のマルコによる福音書が、イエス様が直接登場して下さいます。(14節)「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。」復活されたイエス様を自分の目で見た弟子たちは驚き、そして喜んだでしょう。ヨハネによる福音書は、イエス様の復活をなかなか信じなかったトマスという弟子を紹介しています。トマスは自分の目で直接見て、自分の手で直接触ってみなければ信じない、という人でした。トマスのこの不信仰はよいことではありませんが、イエス様はトマスの前に現れて、トマスが信じることができるようにして下さいました。イエス様はトマスに、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスはそこまで言って下さるイエス様の愛に感激し、イエス様に向かって「わたしの主、わたしの神よ」と告白しました。完全に疑っていたトマスでさえもイエス様の復活を信じることができたのだから、「私も信じよう」と決断することができた人は多いのではないかと思うのです。今日のマルコによる福音書では、イスカリオテのユダを除く11人の弟子たちは、復活のイエス様に出会い、イエス様の復活を信じたのです。
イエス様は弟子たちに任務をお与えになります。(15節)「全世界に行って、すての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」 今から5年前の2009年に「プロテスタント日本伝道150周年」の記念集会が行われましたが、その時の主題聖句がこの御言葉だったと聞きました。「すべての造られたもの」を狭く受け取れば「世界のすべての人」になりますし、広く受け取れば「神様がお造りになった世界のすべての生き物と自然界」になります。ここでは狭い受け取り方の方がよいかと思いますが、私たちが忘れるべきでないことは、イエス・キリストの十字架は人間のためだけに起こったことではないということです。それは世界の全ての生き物・自然界のためにも起こったのです。
新約聖書のコロサイの信徒への手紙1章19~20節に次のように書かれています。「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」「地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物を」ですから、この宇宙全体です。この自然界全体・宇宙全体が神様から離れていた。それがイエス様の十字架の死によって父なる神様との和解に至ったというのです。創世記3章のエバとアダムが神様に背いた場面を読むと、神様がアダムにこうおっしゃっています。「お前(アダム)のゆえに、土は呪われるものとなった。」アダムの罪のゆえに土は呪われるものとなったのです。この土は自然界全体を指すと思います。創世記5章を読むとノアの父レメクという人が、ノアが生まれたとき、「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるだろう」と言って、「その子をノア(慰め)と名付けた」と書かれています。そして新約聖書のローマの信徒への手紙8章には、「被造物(神様に造られたもの)は虚無に服している」、「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」とあります。神様に造られたこの世界全体が、人間の罪のために神様から離れ、共にうめき苦しんでいるというのです。この造られた世界全体が神様と和解し、神様のもとに帰るためにもイエス様は十字架にかかられたのです。
私たちは知っています。自然界は非常に美しいですが、地震・台風・津波などの災害を起こすことをです。生き物の世界の現実も食うか食われるか、生存競争、弱肉強食です。少し前に映像で見たのですが、ヘビとワニが激烈な戦いを繰り広げ、最後は何とヘビがワニを飲み込んでしまったのです。ワニがヘビをではなく、ヘビがワニを飲み込んだのです。実に恐るべきことが自然界にはあるのです。このような宇宙全体が、父なる神様と和解するためにも、イエス様は十字架にかかって下さったのです。イエス様の十字架の死によって、自然界と父なる神様の和解は実現したのですが、救いの完成は神の国の完成のときに起こります。聖書は、神様が新しい天と新しい地をもたらして下さると告げています。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」すべての人にイエス様の十字架の愛を宣べ伝え、自然界全体にもイエス様の愛をもって接するということでしょう。環境破壊をしないように注意するということでしょう。自然界に向かって説教することはできないと私は思いかけましたが、自然を愛したアッシジのフランチェスコというクリスチャンは、鳥に向かって説教したと伝えられます。これは伝説かもしれませんが、神様が造られたすべてのものを愛したのです。フランチェスコは次のような讃美の歌を歌ったそうです。「太陽は兄弟、月と星は姉妹、みんななかまです」(戸田三千雄『神さまだいすき』女子パウロ会、1999年、31ページ)。フランチェスコを主人公にした映画に『ブラザーサン・シスタームーン』がありますが、「わたしの兄弟である太陽、姉妹である月」の意味ですね。「すべての造られたものに福音を宣べ伝える」気持ちで、鳥に向かって説教したのではないでしょうか。
(16節)「信じて洗礼(バプテスマ)を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」前半は大きな恵みの言葉、後半は厳しい裁きの言葉です。強調点は前半にあります。イエス様を救い主として信じ告白し、恵みの洗礼を受けるように全ての人を招く御言葉です。神様はすべての人がイエス・キリスト救い主と信じ告白して洗礼を受けることを望んでおられます。テモテへの手紙(一)2章4節に、「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」と書かれています。神様はすべての人をイエス・キリストを信じる信仰へと今も招いておられます。イエス様を信じる人は、永遠の命をいただきます。
(17節)「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。」確かに、イエス様の弟子たちの活動を記した使徒言行録には、この実例が見られます。使徒言行録19章に、パウロについてこう書かれています。「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。」 神様はパウロの手を通して悪霊を追い出されたのです。私たちも熱心に祈り、イエス様に従うならば、ある程度私たちの身の周りから悪霊を追い払うことができると思うのです。但し、悪霊は一旦追い払っても、またしつこく誘惑を仕掛けて来ますから、誘惑に負けないように心がけ続けたいのです。もしも誘惑に負けた時には、すぐに悔い改めたいのです。
「新しい言葉と語る」ことについては、使徒言行録2章の聖霊が降る場面(ペンテコステの場面)に、「一同は聖霊に満たされ、霊(聖霊)が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」という奇跡が書かれています。私たちがイエス様を信じて洗礼を受けると、聖霊(神様の清い霊)を与えられることは事実です。聖霊を受けていることが永遠の命を受ける保証になります。聖霊を受けた人が皆、「ほかの国々の言葉で話す」わけではありません。このような奇跡体験する人もいますが、そうでない人も多いのです。私にはこのような奇跡的な体験はありません。ですが私たちが聖書を読んで、祈りをこめて聖書の話をする時、それは「新しい言葉」を語っていると思うのです。それは「神の言葉」になるからです。私たちも「新しい言葉」、「神の言葉」を語らせていただくことができるのです。
(18節)「手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」神様は何でもできる方ですから、神様が偉大な力で助けて下されば、このことが私たちに起こることは可能です。ですが、わざと手で蛇をつかんだり、毒を飲んでみるべきではありません。通常は大変な病気になり、死に至ります。わざと試してみるべきではありません。但し、使徒言行録を読むと、使徒パウロはこのようなことを体験しています。パウロが囚人としてローマに向かう途中で船が難破し、パウロや同行のルカたちはやっとの思いでマルタという島に漂着します。雨が降り寒かったので、島の住民がたき火をたいて、パウロ・ルカたち一同をもてなしてくれます。パウロが一束の枯れ枝を集めて火にくべると、一匹の蝮が熱気のために出て来て、その手に絡みつきました。そして噛んだに違いありません。島の住民たちは、パウロの体がはれ上がるか、急に倒れて死ぬだろうと思って様子をうかがっていましたが、パウロは蝮を火の中に振り落とし何の害も受けなかったのです。島の長官プブリウスがパウロたちを歓迎して手厚くもてなしてくれたのですが、プブリウスの父親が熱病と下痢で床についていたので、パウロはその家に行って祈り、手を置いていやしたのです。島のほかの病人たちもやって来て、いやしてもらいました。まさに「手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」、ほとんどこの通りのことがパウロの身に実現しています。神様がパウロに特別な聖霊の力を与えられたのです。私たち一人一人にも、神様が賜物(能力)を与えておられます。それは奇跡的な賜物ではないかもしれません。料理の能力であったり、祈る賜物であったり様々ですが、神様からの立派な賜物です。
(19~20節)「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」 弟子たちがイスラエルから始めて地中海沿岸世界などに出て行ってイエス・キリストを宣べ伝えると、神様の力が働いて様々なしるしが起こりました。しるしは奇跡です。私は4月18日(金・受苦日=十字架の日)に保育園の礼拝でイエス様の十字架の話をしたのですが、その後、園の庭で子どもたちと遊びながら、ある5才くらいの女の子に「今日の礼拝でどんなお話を聞いた?」と尋ねてみました。普段あまり尋ねないのですが、その日は尋ねてみました。まだ保育園児ですから完璧には答えられないのですが、「イエス様が何も悪いことをしていないのに十字架にかかったこと」と答えて、さりげなくこう付け足しました。「私、イエス様を愛しているの。」その子はそれほど強い気持ちで言ったのではないかもしれないのですが、こちらが驚きました。イエス様を見たこともないのに、なぜこんなことを言うことができたのか、「神様が言わせて下さったのだな」と思うほかありません。「教会に通っているの?」と尋ねましたら、「行っていない」と答えます。園にいる間は月曜日から金曜日まで礼拝があるので、弱くてもこのような信仰を持ち続けることができるのかと思いますが、残念ながら卒園するとほとんどの子の生活から礼拝がなくなり、祈りもなくなり、せっかくの信仰が弱くなり消えかかるのかなと思います。しかし一人一人の人生のどこかで神様が再び礼拝や聖書と出会わせて下さることを信じたいものです。
今日の旧約聖書は、イザヤ書11章1節以下です。小見出しは「平和の王」です。メシア・救い主のおいでを予告する御言葉です。救い主はもちろんイエス様です。1節にエッサイという名前がありますが、ダビデ王の父親です。エッサイの子孫、つまりダビデ王の子孫からメシア・救い主・平和の王が生まれると言っています。
「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで
その根からひとつの若枝(イエス・キリスト)が育ち
その上に主の霊がとどまる。
知恵と識別の霊/ 思慮と勇気の霊
主を知り、畏れ敬う霊。」
4節にあるように、この方は
「弱い人のために正当な裁きを行い
この地の貧しい人を公平に弁護する」方です。
6節以下に、神の国が完成し、新しい天と新しい地がもたらされる時の様子が描かれます。まさに最初のエデンの園、完全な祝福の回復です。ここにはもはや「食うか食われるか」の恐ろしい生存競争の世界は消え去っています。
「狼は小羊と共に宿り/ 豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち/ 小さい子供がそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみ/ その子らは共に伏し
獅子(肉食動物が草を食べる!)も牛もひとしく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
幼子は蝮の巣に手を入れる(そして害を受けない!)。
わたし(神様)の聖なる山においては
何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
水が海を覆っているように
大地は主を知る知識で満たされる。
その日が来れば/ エッサイの根(イエス・キリスト)は
すべての民の旗印として立てられ
国々はそれを求めて集う。
そのとどまるところは栄光に輝く。」
神の国の完成の時には、イエス・キリストが全ての民の救い主として立てられ、あがめられ、礼拝されるのです。
先ほど、イエス様の十字架の死は、父なる神様と自然界との和解のためでもあったと申しました。イエス様の犠牲の死によって父なる神様との和解に導かれた自然界を、私たちは破壊しないようにする責任があります。しかし私たちは、二酸化炭素を多く発生させるライフスタイルによって地球温暖化をもたらし、放射能によって地球を汚染してしまいました。3月に日本キリスト教団主催の東日本大震災国際会議が仙台で開催され、私も出席させていただきました。その会議宣言文がようやく完成し、送られて来ました(『教団新報』2014年4月26日号、10ページ)。原発についてはクリスチャンの間でも様々な意見があると思いますが、この宣言文に少し触れます。
原発事故は7つの具体的な罪の結果であると告白しています。第一は傲慢の罪。「人類が自然界の安定した原子を破壊することによって恐るべきエネルギーに変え、自らの知恵と技術によって安全に管理、制御することができるという自己過信に陥ったことです。ここに傲慢の罪があります。原子力エネルギーは今日の人間にとってまさに「禁断の木の実」でした。」
第二の罪は貪欲の罪。「原子力を用いることによる繁栄、豊かさへの欲望と、より大きな力への渇望を制御できなかった『貪欲』です。」
第三の罪は偶像崇拝。「貪欲に陥ったわたしたちは、生ける真の神に依り頼むのでなく、経済的利益や富を至上の価値としてあがめ、それに仕える『偶像崇拝』の罪に陥りました。」
第四の罪は隠ぺいの罪。「これまで原子力発電の危険性は極力隠され、事故やトラブルの情報も隠されてきました。また、平和利用の名のもとに核そのものの危険性、また核兵器との繋がりも隠ぺいされ、安全性やメリットのみが喧伝されてきました。このたびの事故についての情報も隠され、地域住民はもとより、国民全体が不安や疑心暗鬼の中に置かれています。」
第五の罪は怠惰の罪。「そこには同時に、『不都合な事実』を知ろうとしなかったわたしたち自身の罪があります。~過疎の地域の人々や、繁栄や権力から遠い人々の痛みと犠牲のシステムの上に成り立つものであることを見抜くことなく、それを認め受け入れ、無関心になり、過去の歴史に学ぶこともしなかったことは『怠惰』の罪の故です。」
第六の罪は無責任の罪。「原子力発電は、放射性廃棄物の処分方法を確立できないままに進められてきました。~事故は未だ終息していないのに、日本国政府は原発を再稼働し、さらに外国に輸出しようとしています。~あまりにも無責任であると言わざるを得ません。」
第七の罪は責任転嫁の罪。「~これほどの被害にもかかわらず、国も電力会社も地方自治体も、そして、わたしたちも、自らの責任を認めようとせず、他者に責任を転嫁しています。」
そして「わたしたちは、聖霊の導きのもとに以下のことに努めます」と8つの決意を列挙します。そのうちの4つ目には、「神に造られたすべての被造物に対して責任ある管理に努め、将来の世代の人々への責任を果たします」とあります。聖書は「隣人を自分のように愛しなさい」と語りますが、ここには将来の世代への愛も含まれるはずです。原発のことだけでなく、私たちは二酸化炭素の排出による温暖化、様々な公害によって神様が造られた地球を汚す罪を犯して参りました。この罪を悔い改め、神様が造られた地球環境を破壊しない生き方に転換したいものです。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」人々にイエス・キリストの十字架と復活の福音を宣べ伝え、自然界をも大切にする生き方をしてゆきたいのです。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」
(マルコによる福音書16章15節)
マルコによる福音書は、イエス様の空の墓を見て、天使からイエス様の復活を知らされた婦人たちの反応を非常に正直に伝えています。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」 婦人たちは、イエス様が甦ったとは少しも予想しないで墓に行きました。天使が告げたことは、婦人たちにとってあまりに衝撃的だったのです。同じ朝、イエス様はマグダラのマリアにご自身の姿を現されました。マグダラのマリアは、以前イエス様に7つの悪霊を追い出していただいた女性です。マリアは、以前イエス様と一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、甦りのイエス様に会ったことを伝えました。しかしこの人々は、イエス様が生きておられること、マリアがそのイエス様に会ったことを聞いても、信じませんでした。その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエス様が別の姿で御自分を現されたと書かれています。別の姿とはどんな姿なのか分かりませんが、別の姿であってもイエス様であることははっきり分かる姿だったようです。この二人も行って残りの人たちに知らせましたが、彼らは二人の言うことも信じませんでした。復活は、人間の理性を超えた奇跡です。理性では理解できません。神様の聖霊を注いでいただいて初めて私たちの目が開かれて、信じることができるようになります。
今日のマルコによる福音書が、イエス様が直接登場して下さいます。(14節)「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。」復活されたイエス様を自分の目で見た弟子たちは驚き、そして喜んだでしょう。ヨハネによる福音書は、イエス様の復活をなかなか信じなかったトマスという弟子を紹介しています。トマスは自分の目で直接見て、自分の手で直接触ってみなければ信じない、という人でした。トマスのこの不信仰はよいことではありませんが、イエス様はトマスの前に現れて、トマスが信じることができるようにして下さいました。イエス様はトマスに、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスはそこまで言って下さるイエス様の愛に感激し、イエス様に向かって「わたしの主、わたしの神よ」と告白しました。完全に疑っていたトマスでさえもイエス様の復活を信じることができたのだから、「私も信じよう」と決断することができた人は多いのではないかと思うのです。今日のマルコによる福音書では、イスカリオテのユダを除く11人の弟子たちは、復活のイエス様に出会い、イエス様の復活を信じたのです。
イエス様は弟子たちに任務をお与えになります。(15節)「全世界に行って、すての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」 今から5年前の2009年に「プロテスタント日本伝道150周年」の記念集会が行われましたが、その時の主題聖句がこの御言葉だったと聞きました。「すべての造られたもの」を狭く受け取れば「世界のすべての人」になりますし、広く受け取れば「神様がお造りになった世界のすべての生き物と自然界」になります。ここでは狭い受け取り方の方がよいかと思いますが、私たちが忘れるべきでないことは、イエス・キリストの十字架は人間のためだけに起こったことではないということです。それは世界の全ての生き物・自然界のためにも起こったのです。
新約聖書のコロサイの信徒への手紙1章19~20節に次のように書かれています。「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」「地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物を」ですから、この宇宙全体です。この自然界全体・宇宙全体が神様から離れていた。それがイエス様の十字架の死によって父なる神様との和解に至ったというのです。創世記3章のエバとアダムが神様に背いた場面を読むと、神様がアダムにこうおっしゃっています。「お前(アダム)のゆえに、土は呪われるものとなった。」アダムの罪のゆえに土は呪われるものとなったのです。この土は自然界全体を指すと思います。創世記5章を読むとノアの父レメクという人が、ノアが生まれたとき、「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるだろう」と言って、「その子をノア(慰め)と名付けた」と書かれています。そして新約聖書のローマの信徒への手紙8章には、「被造物(神様に造られたもの)は虚無に服している」、「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」とあります。神様に造られたこの世界全体が、人間の罪のために神様から離れ、共にうめき苦しんでいるというのです。この造られた世界全体が神様と和解し、神様のもとに帰るためにもイエス様は十字架にかかられたのです。
私たちは知っています。自然界は非常に美しいですが、地震・台風・津波などの災害を起こすことをです。生き物の世界の現実も食うか食われるか、生存競争、弱肉強食です。少し前に映像で見たのですが、ヘビとワニが激烈な戦いを繰り広げ、最後は何とヘビがワニを飲み込んでしまったのです。ワニがヘビをではなく、ヘビがワニを飲み込んだのです。実に恐るべきことが自然界にはあるのです。このような宇宙全体が、父なる神様と和解するためにも、イエス様は十字架にかかって下さったのです。イエス様の十字架の死によって、自然界と父なる神様の和解は実現したのですが、救いの完成は神の国の完成のときに起こります。聖書は、神様が新しい天と新しい地をもたらして下さると告げています。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」すべての人にイエス様の十字架の愛を宣べ伝え、自然界全体にもイエス様の愛をもって接するということでしょう。環境破壊をしないように注意するということでしょう。自然界に向かって説教することはできないと私は思いかけましたが、自然を愛したアッシジのフランチェスコというクリスチャンは、鳥に向かって説教したと伝えられます。これは伝説かもしれませんが、神様が造られたすべてのものを愛したのです。フランチェスコは次のような讃美の歌を歌ったそうです。「太陽は兄弟、月と星は姉妹、みんななかまです」(戸田三千雄『神さまだいすき』女子パウロ会、1999年、31ページ)。フランチェスコを主人公にした映画に『ブラザーサン・シスタームーン』がありますが、「わたしの兄弟である太陽、姉妹である月」の意味ですね。「すべての造られたものに福音を宣べ伝える」気持ちで、鳥に向かって説教したのではないでしょうか。
(16節)「信じて洗礼(バプテスマ)を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」前半は大きな恵みの言葉、後半は厳しい裁きの言葉です。強調点は前半にあります。イエス様を救い主として信じ告白し、恵みの洗礼を受けるように全ての人を招く御言葉です。神様はすべての人がイエス・キリスト救い主と信じ告白して洗礼を受けることを望んでおられます。テモテへの手紙(一)2章4節に、「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」と書かれています。神様はすべての人をイエス・キリストを信じる信仰へと今も招いておられます。イエス様を信じる人は、永遠の命をいただきます。
(17節)「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。」確かに、イエス様の弟子たちの活動を記した使徒言行録には、この実例が見られます。使徒言行録19章に、パウロについてこう書かれています。「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。」 神様はパウロの手を通して悪霊を追い出されたのです。私たちも熱心に祈り、イエス様に従うならば、ある程度私たちの身の周りから悪霊を追い払うことができると思うのです。但し、悪霊は一旦追い払っても、またしつこく誘惑を仕掛けて来ますから、誘惑に負けないように心がけ続けたいのです。もしも誘惑に負けた時には、すぐに悔い改めたいのです。
「新しい言葉と語る」ことについては、使徒言行録2章の聖霊が降る場面(ペンテコステの場面)に、「一同は聖霊に満たされ、霊(聖霊)が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」という奇跡が書かれています。私たちがイエス様を信じて洗礼を受けると、聖霊(神様の清い霊)を与えられることは事実です。聖霊を受けていることが永遠の命を受ける保証になります。聖霊を受けた人が皆、「ほかの国々の言葉で話す」わけではありません。このような奇跡体験する人もいますが、そうでない人も多いのです。私にはこのような奇跡的な体験はありません。ですが私たちが聖書を読んで、祈りをこめて聖書の話をする時、それは「新しい言葉」を語っていると思うのです。それは「神の言葉」になるからです。私たちも「新しい言葉」、「神の言葉」を語らせていただくことができるのです。
(18節)「手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」神様は何でもできる方ですから、神様が偉大な力で助けて下されば、このことが私たちに起こることは可能です。ですが、わざと手で蛇をつかんだり、毒を飲んでみるべきではありません。通常は大変な病気になり、死に至ります。わざと試してみるべきではありません。但し、使徒言行録を読むと、使徒パウロはこのようなことを体験しています。パウロが囚人としてローマに向かう途中で船が難破し、パウロや同行のルカたちはやっとの思いでマルタという島に漂着します。雨が降り寒かったので、島の住民がたき火をたいて、パウロ・ルカたち一同をもてなしてくれます。パウロが一束の枯れ枝を集めて火にくべると、一匹の蝮が熱気のために出て来て、その手に絡みつきました。そして噛んだに違いありません。島の住民たちは、パウロの体がはれ上がるか、急に倒れて死ぬだろうと思って様子をうかがっていましたが、パウロは蝮を火の中に振り落とし何の害も受けなかったのです。島の長官プブリウスがパウロたちを歓迎して手厚くもてなしてくれたのですが、プブリウスの父親が熱病と下痢で床についていたので、パウロはその家に行って祈り、手を置いていやしたのです。島のほかの病人たちもやって来て、いやしてもらいました。まさに「手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」、ほとんどこの通りのことがパウロの身に実現しています。神様がパウロに特別な聖霊の力を与えられたのです。私たち一人一人にも、神様が賜物(能力)を与えておられます。それは奇跡的な賜物ではないかもしれません。料理の能力であったり、祈る賜物であったり様々ですが、神様からの立派な賜物です。
(19~20節)「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」 弟子たちがイスラエルから始めて地中海沿岸世界などに出て行ってイエス・キリストを宣べ伝えると、神様の力が働いて様々なしるしが起こりました。しるしは奇跡です。私は4月18日(金・受苦日=十字架の日)に保育園の礼拝でイエス様の十字架の話をしたのですが、その後、園の庭で子どもたちと遊びながら、ある5才くらいの女の子に「今日の礼拝でどんなお話を聞いた?」と尋ねてみました。普段あまり尋ねないのですが、その日は尋ねてみました。まだ保育園児ですから完璧には答えられないのですが、「イエス様が何も悪いことをしていないのに十字架にかかったこと」と答えて、さりげなくこう付け足しました。「私、イエス様を愛しているの。」その子はそれほど強い気持ちで言ったのではないかもしれないのですが、こちらが驚きました。イエス様を見たこともないのに、なぜこんなことを言うことができたのか、「神様が言わせて下さったのだな」と思うほかありません。「教会に通っているの?」と尋ねましたら、「行っていない」と答えます。園にいる間は月曜日から金曜日まで礼拝があるので、弱くてもこのような信仰を持ち続けることができるのかと思いますが、残念ながら卒園するとほとんどの子の生活から礼拝がなくなり、祈りもなくなり、せっかくの信仰が弱くなり消えかかるのかなと思います。しかし一人一人の人生のどこかで神様が再び礼拝や聖書と出会わせて下さることを信じたいものです。
今日の旧約聖書は、イザヤ書11章1節以下です。小見出しは「平和の王」です。メシア・救い主のおいでを予告する御言葉です。救い主はもちろんイエス様です。1節にエッサイという名前がありますが、ダビデ王の父親です。エッサイの子孫、つまりダビデ王の子孫からメシア・救い主・平和の王が生まれると言っています。
「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで
その根からひとつの若枝(イエス・キリスト)が育ち
その上に主の霊がとどまる。
知恵と識別の霊/ 思慮と勇気の霊
主を知り、畏れ敬う霊。」
4節にあるように、この方は
「弱い人のために正当な裁きを行い
この地の貧しい人を公平に弁護する」方です。
6節以下に、神の国が完成し、新しい天と新しい地がもたらされる時の様子が描かれます。まさに最初のエデンの園、完全な祝福の回復です。ここにはもはや「食うか食われるか」の恐ろしい生存競争の世界は消え去っています。
「狼は小羊と共に宿り/ 豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち/ 小さい子供がそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみ/ その子らは共に伏し
獅子(肉食動物が草を食べる!)も牛もひとしく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
幼子は蝮の巣に手を入れる(そして害を受けない!)。
わたし(神様)の聖なる山においては
何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
水が海を覆っているように
大地は主を知る知識で満たされる。
その日が来れば/ エッサイの根(イエス・キリスト)は
すべての民の旗印として立てられ
国々はそれを求めて集う。
そのとどまるところは栄光に輝く。」
神の国の完成の時には、イエス・キリストが全ての民の救い主として立てられ、あがめられ、礼拝されるのです。
先ほど、イエス様の十字架の死は、父なる神様と自然界との和解のためでもあったと申しました。イエス様の犠牲の死によって父なる神様との和解に導かれた自然界を、私たちは破壊しないようにする責任があります。しかし私たちは、二酸化炭素を多く発生させるライフスタイルによって地球温暖化をもたらし、放射能によって地球を汚染してしまいました。3月に日本キリスト教団主催の東日本大震災国際会議が仙台で開催され、私も出席させていただきました。その会議宣言文がようやく完成し、送られて来ました(『教団新報』2014年4月26日号、10ページ)。原発についてはクリスチャンの間でも様々な意見があると思いますが、この宣言文に少し触れます。
原発事故は7つの具体的な罪の結果であると告白しています。第一は傲慢の罪。「人類が自然界の安定した原子を破壊することによって恐るべきエネルギーに変え、自らの知恵と技術によって安全に管理、制御することができるという自己過信に陥ったことです。ここに傲慢の罪があります。原子力エネルギーは今日の人間にとってまさに「禁断の木の実」でした。」
第二の罪は貪欲の罪。「原子力を用いることによる繁栄、豊かさへの欲望と、より大きな力への渇望を制御できなかった『貪欲』です。」
第三の罪は偶像崇拝。「貪欲に陥ったわたしたちは、生ける真の神に依り頼むのでなく、経済的利益や富を至上の価値としてあがめ、それに仕える『偶像崇拝』の罪に陥りました。」
第四の罪は隠ぺいの罪。「これまで原子力発電の危険性は極力隠され、事故やトラブルの情報も隠されてきました。また、平和利用の名のもとに核そのものの危険性、また核兵器との繋がりも隠ぺいされ、安全性やメリットのみが喧伝されてきました。このたびの事故についての情報も隠され、地域住民はもとより、国民全体が不安や疑心暗鬼の中に置かれています。」
第五の罪は怠惰の罪。「そこには同時に、『不都合な事実』を知ろうとしなかったわたしたち自身の罪があります。~過疎の地域の人々や、繁栄や権力から遠い人々の痛みと犠牲のシステムの上に成り立つものであることを見抜くことなく、それを認め受け入れ、無関心になり、過去の歴史に学ぶこともしなかったことは『怠惰』の罪の故です。」
第六の罪は無責任の罪。「原子力発電は、放射性廃棄物の処分方法を確立できないままに進められてきました。~事故は未だ終息していないのに、日本国政府は原発を再稼働し、さらに外国に輸出しようとしています。~あまりにも無責任であると言わざるを得ません。」
第七の罪は責任転嫁の罪。「~これほどの被害にもかかわらず、国も電力会社も地方自治体も、そして、わたしたちも、自らの責任を認めようとせず、他者に責任を転嫁しています。」
そして「わたしたちは、聖霊の導きのもとに以下のことに努めます」と8つの決意を列挙します。そのうちの4つ目には、「神に造られたすべての被造物に対して責任ある管理に努め、将来の世代の人々への責任を果たします」とあります。聖書は「隣人を自分のように愛しなさい」と語りますが、ここには将来の世代への愛も含まれるはずです。原発のことだけでなく、私たちは二酸化炭素の排出による温暖化、様々な公害によって神様が造られた地球を汚す罪を犯して参りました。この罪を悔い改め、神様が造られた地球環境を破壊しない生き方に転換したいものです。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」人々にイエス・キリストの十字架と復活の福音を宣べ伝え、自然界をも大切にする生き方をしてゆきたいのです。