
2016-08-29 2:15:37(月)
「ダビデは力のかぎり踊った」 2016年8月21日(日) 聖霊降臨節第15主日礼拝説教
朗読聖書:サムエル記・下6章1~23節、マタイ福音書11章25~30節。
「主の御前でダビデは力のかぎり踊った」(サムエル記・下6章14節)。
7月の第三聖日の礼拝では、「敵を愛するダビデ」の題で、サムエル記・上24章から説教させていただきました。ダビデが愛した敵は、サウル王です。今回は思いきってだいぶ先に進みます。サムエル記・上31章でそのサウル王が、ペリシテ人との戦いで戦死します。その後、ダビデは30歳で、まずヘブロンの町でユダ地域の王となります。7年6ヶ月の間、ヘブロンでユダを治めました。そして次にエルサレムの町を支配下に置きます。その後エルサレムで、33年間に渡ってユダとイスラエル全体の王として統治します。こうして神様のご計画が実現したのです。ダビデは40年と6ヶ月間、王であったことになります。但し、イスラエルの宿敵・ペリシテ人との戦いは続きました。
もう一つ、なすべき大切なことがありました。神の契約の箱を首都エルサレムに運び上げることです。神の契約の箱の中には、モーセがシナイ山で神様から与えられた二枚の石の板、十戒が彫り刻まれた二枚の石の板が納められています。神の契約の箱は、そこに神様がおられる箱です。神の民イスラエルの命とも言えるのが神の契約の箱です。最高に聖なる箱ですので、その取り扱いには細心以上の注意が要求されます。それはバアレ・ユダという所にありました。ダビデは首都エルサレムに、この最も大切な神の契約の箱を運び上げたいと願ったのです。もっともな願いと言えます。(2節)「ダビデは彼に従うすべての兵士と共にバアレ・ユダから出発した。それは、ケルビムの上に座す万軍の主の御名によってその名を呼ばれる神の箱をそこから運び上げるためであった。」ケルビムとは、聖書巻末の解説によると、「人間の顔を持ち、翼を持った天的な動物と想像され」ると書かれています。神の箱の上には一対のケルビム像が置かれていました。それには神の契約の箱を守る意味があったのでしょう。ここから、神は「ケルビムの上に座する者」と呼ばれています。
神の箱をエルサレムに運び上げる計画が、実行に移されます。(3~4節)「彼らは神の箱を新しい車に載せ、丘の上のアビナダブの家から運び出した。アビナダブの子ウザとアフヨがその新しい車を御していた。彼らは丘の上のアビナダブの家から神の箱を載せた車を運び出し。アフヨは箱の前を進んだ。ダビデとイスラエルの家は皆、主の御前で糸杉の楽器、竪琴、琴、太鼓、鈴、シンバルを奏でた。ダビデは、サウルの脅威が取り除かれ、エルサレムをも手中に収め、神様がいつも共にいて勢力を増し、物事が順調に進むので謙虚さが薄れ、自分でも気づかないうちに油断し、増長しつつあったのではないでしょうか。人は逆境の時、謙虚で純粋ですが、順調になった時の方が思い上がって失敗しやすくなるのではないでしょうか。大きな事件が起こってしまうのです。(6~7節)「一行がナコンの麦打ち場にさしかかったとき、牛がよろめいたので、ウザは神の箱の方に手を伸ばし、箱を押さえた。ウザに対して主は怒りを発し、この過失のゆえに神はその場で彼を打たれた。ウザは神の箱の傍らで死んだ。」
私は、以前はなぜこのようなことになったのか、全く理解できませんでした。理解できない不可解な出来事に思えたのです。しかし旧約聖書を注意深く読んでみると、だんだん分かって来ます。神の契約の箱は、最も聖なる箱ですので、取り扱いには細心の上にも細心の注意が必要です。私たち罪人(つみびと)が気楽に考えて、聖なるものにうかつに近づいたり触れたりすることは、死を招くのです。私たち罪人(つみびと)が、聖なる神様を直接見ると死ぬのです。民数記4章を見ると、イスラエルの民がエジプトを脱出して荒れ野を旅していた時の、神の箱の正しい運び方が詳しく書かれています。まず運ぶのは聖別された祭司、もしくは祭司に準じる人々であるレビ族・レビ人(びと)でなければなりません。レビ族・レビ人(びと)は聖なる奉仕をするために、特に任命された人々なのです。
民数記4章に記された神の箱の運び方はこうです。「まずアロンとその子ら(祭司たち)は、宿営の移動に当たって、そこに来て、至聖所の垂れ幕をはずし、それで掟の箱(神の契約の箱)を覆い、その上にじゅごん(海に生息する体長3メートルほどの哺乳類)の皮の覆いを掛け、その上から青い一枚布を広げ、担ぎ棒を差し入れる。」最も聖なる箱ですから、至聖所の垂れ幕で覆い、じゅごんの皮で丁重に包んで、担ぎ棒を差し入れて担がなくてはなりません。担ぐのは自分を聖別した祭司かレビ人でなければなりません。他の人が触れたり担いだりすれば、聖なる神に撃たれて死ぬ恐れがあります。そして運ぶ方法も直接手を触れずに、棒で担がなくてなりません。直接手を触れれば、聖なる神に撃たれて死ぬ恐れがあります。
実際、荒れ野の旅を終えていよいよ約束の地に入る時、ヨルダン川を渡る時に、祭司たちが神の箱を担いで約束の地に入った場面が、ヨシュア記3章に記されています。「ヨルダン川を渡るため、民が天幕を後にしたとき、契約の箱を担いだ祭司たちは、民の先頭に立ち、ヨルダン川に達した。春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていたが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、川上から流れてくる水は、はるか遠くのツァレタンの隣町アダムで壁のように立った。そのため、アラバの海すなわち塩の海に流れ込む水は全く断たれ、民はエリコに向かって渡ることができた。主の契約の箱を担いだ祭司たちがヨルダン川の真ん中の干上がった川床に立ち止まっているうちに、全イスラエルは干上がった川床を渡り、民はすべてヨルダン川を渡り終わった。」このときは、ちゃんと祭司が棒で担いだので、全てが順調に進み、民も祭司たちも神の箱も、無事にヨルダン川を渡り、約束の地に入ることができました。
しかし、ダビデたちが神の箱をエルサレムに運び上げようとしたときは、ダビデも気が緩んだのか、神の聖なる箱を、聖なる箱として取り扱うことを怠りました。彼らは、神の箱を新しい車に載せて、丘の上のアビナダブの家から運び出したのです。まずこれが間違いで、祭司もしくはレビ人が、棒で担がなくてはならないのです。ダビデのこの失敗の同じ場面が、歴代誌・上13章にも出ています。失敗の後、ダビデは歴代誌・上15章2節で、こう述べています。「神の箱を担ぐのは、レビ人でなければならない。彼らこそ、主の箱を担ぎ、永遠に主に仕えるために主によって選ばれた者である。」ダビデはレビ族の家系の長たちを呼んで言いました。「レビ族の家系の長であるあなたたちは、兄弟たちと共に自らを聖別し、イスラエルの神、主の箱を、わたしが整えた場所に運び上げよ。最初のときにはあなたたちがいなかったので、わたしたちの神、主はわたしたちを打ち砕かれた。わたしたちが法に従って主を求めなかったからである。」
ダビデたちに欠けていたのは、聖なる神様への恐れの姿勢です。神様は愛の神であると同時に、聖なる神です。神様への恐れを抱くことは、神様に恐怖心を抱くというより、聖なる神様への畏怖の念を抱くことでしょう。旧約聖書の箴言1章7節に、大切な言葉がありますね。「主を畏れることは知恵の初め。」ダビデは王になって、物事が思い通りに順調に進んだために、気が緩み、大切な、聖なる神様への畏怖の念を忘れていたのだと思います。緊張感がなくなり過ぎていました。それで非常に痛い目に遭ったのです。神の箱を御していたウザとアフヨはおそらく祭司でもレビ人でもありません。ですからウザとアフヨが神の箱を運んではいけないのです。
それでも暫くは問題なく進むかに見えましたが、悲劇が起きました。「一行がナコンの麦打ち場にさしかかったとき、牛がよろめいたので、ウザは神の箱の方に手を伸ばし、箱を押さえた。ウザに対して主は怒りを発し、この過失のゆえに神はその場で彼を打たれた。ウザは神の箱の傍らで死んだ。」 (8~11節)「ダビデも怒った。主がウザを打ち砕かれたからである。その場所をペレツ・ウザ(ウザを砕く)と呼んで今日に至っている。その日、ダビデは主を恐れ、『どうして主の箱をわたしのもとに迎えることができようか』と言って、ダビデの町(エルサレム)、自分のもとに主の箱を移すことを望まなかった。ダビデは箱をガト人オベド・エドムの家に向かわせた。三か月の間、主の箱はガト人オベド・エドムの家にあった。主はオベド・エドムとその家の者一同を祝福された。」
ここに神の箱の2つのご性質、神様ご自身の2つのご性質が現れています。私たち人間に愛と祝福を注いで下さる慈愛のご性質と、私たち人間の罪をお嫌いになる峻厳なご性質です。ローマの信徒への手紙11章22節の御言葉を思い出します。「~神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たち(今の場合はウザ)に対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。」口語訳聖書では、「神の慈愛と峻厳とを見よ」となっていました。神様は確かに愛の神様ですが、同時に聖なる神様であられるので、私たちが神様を侮ったり、神様をなめてしまうと、痛い目に遭います。あくまでも神様が主であられ、私たちは造られた者として、神様に下にいます。ダビデが神様を自由にコントロールすることはできませんし、私たちが神様をコントロールするなど、全く不可能です。
さて、後半は喜ばしい場面になります。(12~13節)「神の箱のゆえに、オベド・エドムの一家とその財産のすべてを主は祝福しておられる、とダビデ王に告げる者があった。王は直ちに出かけ、喜び祝って神の箱をオベド・エドムの家からダビデの町に運び上げた。」ダビデは失敗から教訓を学び取ったはずです。今回はレビ人たちが神の箱を運んだに違いありません。13節に、「主の箱を担ぐ者が六歩進んだとき」とありますから、今回は新しい車に載せないで、神様の指示の通り、担いでいます。神の箱を担ぐ者が六歩進んでも何も悪いことが起こらなかったので、ダビデは今回こそ、神様が祝福しておられることを確信し、喜んで感謝のいけにえを献げました。ダビデはいけにえを献げることで、神様に奉仕する姿勢をはっきり示しています。
本日の説教題は、14節からとりました。「主の御前でダビデは力のかぎり踊った。」彼は麻のエフォドを着けていた。」エフォドは、祭儀(礼拝)の時に祭司たちが着る亜麻布の簡単な衣服のようです。ダビデは祭司でありませんが、この衣服を着ることで、祭司のように神様にお仕えする王であることを示したのでしょう。ダビデは、神の契約の箱をエルサレムに運び上げることを、神様がよしとして下さったことを知り、喜びのあまり神様の御前で、力のかぎり跳ね踊りました。そのためエフォドがずれ落ちたのでしょう。
ダビデの妻ミカルが、後でダビデに皮肉を言って非難しました。ミカルは先の王サウルの娘なのです。(20節)「今日のイスラエル王は御立派でした。家臣のはしためたちの前で裸になられたのですから。空っぽの男が恥ずかしげもなく裸になるように。」ダビデは悪びれずに答えます。「そうだ。お前の父やその家のだれでもなく、このわたしを選んで、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前で、その主の御前でわたしは踊ったのだ。わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。」ここでのダビデは実に謙虚です。ダビデは踊って神様を讃美したのです。それは洗練された踊りではなかったでしょう。ですがダビデの、不器用ではあるけれども精一杯の感謝と喜びの踊りを、神様は喜んで下さったのです。
本日の新約聖書は、マタイ福音書11章25節以下です。25節でイエス・キリストは、父なる神様を讃美して言われます。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」ダビデは、まさに良い意味で幼子のように、喜んで神様をほめたたえました。神の子イエス様もここで、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」とへり下って、喜んで神様をたたえています。このキリストの霊がダビデの内に住んでおられます。キリストの霊に導きかれて、ダビデは語ったのでしょう。「わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。」
アナトール・フランスというフランスの作家の『聖母と軽業師』という短編を思い出します(大井征訳、岩波文庫、1934年)。(カトリックの作家なので、イエス様の母マリアさんが強調されている点は、ご了解下さい。)
バルナベという軽業師がいました。軽業師は芸人で、あまり重んじられている職業ではなかったようです。そのバルナベが、修道院に入って修道士になりました。修道院の人々は皆、いろいろな才能の持っていて、それで神様に奉仕していました。修道院長は、神学の本を編纂していました。ある修道士は、その本を見事に筆記していました。別の修道士は、それに立派な絵を描きこんでいました。ある修道士は、讃美歌や詩を作って、神様にお仕えしていました。バルナベは、ほかの立派な修道士たちを見て、自分に同じことができないことを嘆き悲しんでいました。
しかしある時から、バルナベは元気になり、毎日ほかの人が行かない時に礼拝堂に行き、閉じこもって過ごすようになりました。一体何をしているのか。ある日、修道院長が二人の修道士を伴って、扉の隙間から様子を伺いました。何とバルナベは、聖母マリアの祭壇の前で、逆立ちをし、両足を空中に浮かばせ、6個の銅の珠と12本の小刀を使って、全力で軽業を演じていたのです。二人の修道士は、神への冒瀆だと腹を立てました。修道院長はバルナベが純粋な魂の持ち主であることを知っていましたが、マリア様の前で軽業をするとは、気が狂ったと思いました。
三人がバルナベを礼拝堂から引き出そうとした、その時です! 祭壇から聖母が降りて来られて、軽業師の額に流れる汗をぬぐって、ねぎらって下さったのでした。修道院長は、顔を伏せて聖書の御言葉を口にしました。「心の貧しい人々は、幸いである」(マタイ福音書5章3節)。「その人たちは神を見る」(同5章8節)。二人の修道士も、顔を伏せて「アーメン!」と答えました。ほとんど裸で跳ね踊って神様への感謝を表したダビデ。人々に軽んじられていた軽業を精一杯披露して、マリアさんに献げたバルナベ。人に馬鹿にされた二人の讃美の業が、人には意外にも、主に受け入れられたのです。
私どもも今、心を低くして、良い意味で幼子のように素直な心になって、ご一緒に神様をほめたたえて歌いたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。
「主の御前でダビデは力のかぎり踊った」(サムエル記・下6章14節)。
7月の第三聖日の礼拝では、「敵を愛するダビデ」の題で、サムエル記・上24章から説教させていただきました。ダビデが愛した敵は、サウル王です。今回は思いきってだいぶ先に進みます。サムエル記・上31章でそのサウル王が、ペリシテ人との戦いで戦死します。その後、ダビデは30歳で、まずヘブロンの町でユダ地域の王となります。7年6ヶ月の間、ヘブロンでユダを治めました。そして次にエルサレムの町を支配下に置きます。その後エルサレムで、33年間に渡ってユダとイスラエル全体の王として統治します。こうして神様のご計画が実現したのです。ダビデは40年と6ヶ月間、王であったことになります。但し、イスラエルの宿敵・ペリシテ人との戦いは続きました。
もう一つ、なすべき大切なことがありました。神の契約の箱を首都エルサレムに運び上げることです。神の契約の箱の中には、モーセがシナイ山で神様から与えられた二枚の石の板、十戒が彫り刻まれた二枚の石の板が納められています。神の契約の箱は、そこに神様がおられる箱です。神の民イスラエルの命とも言えるのが神の契約の箱です。最高に聖なる箱ですので、その取り扱いには細心以上の注意が要求されます。それはバアレ・ユダという所にありました。ダビデは首都エルサレムに、この最も大切な神の契約の箱を運び上げたいと願ったのです。もっともな願いと言えます。(2節)「ダビデは彼に従うすべての兵士と共にバアレ・ユダから出発した。それは、ケルビムの上に座す万軍の主の御名によってその名を呼ばれる神の箱をそこから運び上げるためであった。」ケルビムとは、聖書巻末の解説によると、「人間の顔を持ち、翼を持った天的な動物と想像され」ると書かれています。神の箱の上には一対のケルビム像が置かれていました。それには神の契約の箱を守る意味があったのでしょう。ここから、神は「ケルビムの上に座する者」と呼ばれています。
神の箱をエルサレムに運び上げる計画が、実行に移されます。(3~4節)「彼らは神の箱を新しい車に載せ、丘の上のアビナダブの家から運び出した。アビナダブの子ウザとアフヨがその新しい車を御していた。彼らは丘の上のアビナダブの家から神の箱を載せた車を運び出し。アフヨは箱の前を進んだ。ダビデとイスラエルの家は皆、主の御前で糸杉の楽器、竪琴、琴、太鼓、鈴、シンバルを奏でた。ダビデは、サウルの脅威が取り除かれ、エルサレムをも手中に収め、神様がいつも共にいて勢力を増し、物事が順調に進むので謙虚さが薄れ、自分でも気づかないうちに油断し、増長しつつあったのではないでしょうか。人は逆境の時、謙虚で純粋ですが、順調になった時の方が思い上がって失敗しやすくなるのではないでしょうか。大きな事件が起こってしまうのです。(6~7節)「一行がナコンの麦打ち場にさしかかったとき、牛がよろめいたので、ウザは神の箱の方に手を伸ばし、箱を押さえた。ウザに対して主は怒りを発し、この過失のゆえに神はその場で彼を打たれた。ウザは神の箱の傍らで死んだ。」
私は、以前はなぜこのようなことになったのか、全く理解できませんでした。理解できない不可解な出来事に思えたのです。しかし旧約聖書を注意深く読んでみると、だんだん分かって来ます。神の契約の箱は、最も聖なる箱ですので、取り扱いには細心の上にも細心の注意が必要です。私たち罪人(つみびと)が気楽に考えて、聖なるものにうかつに近づいたり触れたりすることは、死を招くのです。私たち罪人(つみびと)が、聖なる神様を直接見ると死ぬのです。民数記4章を見ると、イスラエルの民がエジプトを脱出して荒れ野を旅していた時の、神の箱の正しい運び方が詳しく書かれています。まず運ぶのは聖別された祭司、もしくは祭司に準じる人々であるレビ族・レビ人(びと)でなければなりません。レビ族・レビ人(びと)は聖なる奉仕をするために、特に任命された人々なのです。
民数記4章に記された神の箱の運び方はこうです。「まずアロンとその子ら(祭司たち)は、宿営の移動に当たって、そこに来て、至聖所の垂れ幕をはずし、それで掟の箱(神の契約の箱)を覆い、その上にじゅごん(海に生息する体長3メートルほどの哺乳類)の皮の覆いを掛け、その上から青い一枚布を広げ、担ぎ棒を差し入れる。」最も聖なる箱ですから、至聖所の垂れ幕で覆い、じゅごんの皮で丁重に包んで、担ぎ棒を差し入れて担がなくてはなりません。担ぐのは自分を聖別した祭司かレビ人でなければなりません。他の人が触れたり担いだりすれば、聖なる神に撃たれて死ぬ恐れがあります。そして運ぶ方法も直接手を触れずに、棒で担がなくてなりません。直接手を触れれば、聖なる神に撃たれて死ぬ恐れがあります。
実際、荒れ野の旅を終えていよいよ約束の地に入る時、ヨルダン川を渡る時に、祭司たちが神の箱を担いで約束の地に入った場面が、ヨシュア記3章に記されています。「ヨルダン川を渡るため、民が天幕を後にしたとき、契約の箱を担いだ祭司たちは、民の先頭に立ち、ヨルダン川に達した。春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていたが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、川上から流れてくる水は、はるか遠くのツァレタンの隣町アダムで壁のように立った。そのため、アラバの海すなわち塩の海に流れ込む水は全く断たれ、民はエリコに向かって渡ることができた。主の契約の箱を担いだ祭司たちがヨルダン川の真ん中の干上がった川床に立ち止まっているうちに、全イスラエルは干上がった川床を渡り、民はすべてヨルダン川を渡り終わった。」このときは、ちゃんと祭司が棒で担いだので、全てが順調に進み、民も祭司たちも神の箱も、無事にヨルダン川を渡り、約束の地に入ることができました。
しかし、ダビデたちが神の箱をエルサレムに運び上げようとしたときは、ダビデも気が緩んだのか、神の聖なる箱を、聖なる箱として取り扱うことを怠りました。彼らは、神の箱を新しい車に載せて、丘の上のアビナダブの家から運び出したのです。まずこれが間違いで、祭司もしくはレビ人が、棒で担がなくてはならないのです。ダビデのこの失敗の同じ場面が、歴代誌・上13章にも出ています。失敗の後、ダビデは歴代誌・上15章2節で、こう述べています。「神の箱を担ぐのは、レビ人でなければならない。彼らこそ、主の箱を担ぎ、永遠に主に仕えるために主によって選ばれた者である。」ダビデはレビ族の家系の長たちを呼んで言いました。「レビ族の家系の長であるあなたたちは、兄弟たちと共に自らを聖別し、イスラエルの神、主の箱を、わたしが整えた場所に運び上げよ。最初のときにはあなたたちがいなかったので、わたしたちの神、主はわたしたちを打ち砕かれた。わたしたちが法に従って主を求めなかったからである。」
ダビデたちに欠けていたのは、聖なる神様への恐れの姿勢です。神様は愛の神であると同時に、聖なる神です。神様への恐れを抱くことは、神様に恐怖心を抱くというより、聖なる神様への畏怖の念を抱くことでしょう。旧約聖書の箴言1章7節に、大切な言葉がありますね。「主を畏れることは知恵の初め。」ダビデは王になって、物事が思い通りに順調に進んだために、気が緩み、大切な、聖なる神様への畏怖の念を忘れていたのだと思います。緊張感がなくなり過ぎていました。それで非常に痛い目に遭ったのです。神の箱を御していたウザとアフヨはおそらく祭司でもレビ人でもありません。ですからウザとアフヨが神の箱を運んではいけないのです。
それでも暫くは問題なく進むかに見えましたが、悲劇が起きました。「一行がナコンの麦打ち場にさしかかったとき、牛がよろめいたので、ウザは神の箱の方に手を伸ばし、箱を押さえた。ウザに対して主は怒りを発し、この過失のゆえに神はその場で彼を打たれた。ウザは神の箱の傍らで死んだ。」 (8~11節)「ダビデも怒った。主がウザを打ち砕かれたからである。その場所をペレツ・ウザ(ウザを砕く)と呼んで今日に至っている。その日、ダビデは主を恐れ、『どうして主の箱をわたしのもとに迎えることができようか』と言って、ダビデの町(エルサレム)、自分のもとに主の箱を移すことを望まなかった。ダビデは箱をガト人オベド・エドムの家に向かわせた。三か月の間、主の箱はガト人オベド・エドムの家にあった。主はオベド・エドムとその家の者一同を祝福された。」
ここに神の箱の2つのご性質、神様ご自身の2つのご性質が現れています。私たち人間に愛と祝福を注いで下さる慈愛のご性質と、私たち人間の罪をお嫌いになる峻厳なご性質です。ローマの信徒への手紙11章22節の御言葉を思い出します。「~神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たち(今の場合はウザ)に対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。」口語訳聖書では、「神の慈愛と峻厳とを見よ」となっていました。神様は確かに愛の神様ですが、同時に聖なる神様であられるので、私たちが神様を侮ったり、神様をなめてしまうと、痛い目に遭います。あくまでも神様が主であられ、私たちは造られた者として、神様に下にいます。ダビデが神様を自由にコントロールすることはできませんし、私たちが神様をコントロールするなど、全く不可能です。
さて、後半は喜ばしい場面になります。(12~13節)「神の箱のゆえに、オベド・エドムの一家とその財産のすべてを主は祝福しておられる、とダビデ王に告げる者があった。王は直ちに出かけ、喜び祝って神の箱をオベド・エドムの家からダビデの町に運び上げた。」ダビデは失敗から教訓を学び取ったはずです。今回はレビ人たちが神の箱を運んだに違いありません。13節に、「主の箱を担ぐ者が六歩進んだとき」とありますから、今回は新しい車に載せないで、神様の指示の通り、担いでいます。神の箱を担ぐ者が六歩進んでも何も悪いことが起こらなかったので、ダビデは今回こそ、神様が祝福しておられることを確信し、喜んで感謝のいけにえを献げました。ダビデはいけにえを献げることで、神様に奉仕する姿勢をはっきり示しています。
本日の説教題は、14節からとりました。「主の御前でダビデは力のかぎり踊った。」彼は麻のエフォドを着けていた。」エフォドは、祭儀(礼拝)の時に祭司たちが着る亜麻布の簡単な衣服のようです。ダビデは祭司でありませんが、この衣服を着ることで、祭司のように神様にお仕えする王であることを示したのでしょう。ダビデは、神の契約の箱をエルサレムに運び上げることを、神様がよしとして下さったことを知り、喜びのあまり神様の御前で、力のかぎり跳ね踊りました。そのためエフォドがずれ落ちたのでしょう。
ダビデの妻ミカルが、後でダビデに皮肉を言って非難しました。ミカルは先の王サウルの娘なのです。(20節)「今日のイスラエル王は御立派でした。家臣のはしためたちの前で裸になられたのですから。空っぽの男が恥ずかしげもなく裸になるように。」ダビデは悪びれずに答えます。「そうだ。お前の父やその家のだれでもなく、このわたしを選んで、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前で、その主の御前でわたしは踊ったのだ。わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。」ここでのダビデは実に謙虚です。ダビデは踊って神様を讃美したのです。それは洗練された踊りではなかったでしょう。ですがダビデの、不器用ではあるけれども精一杯の感謝と喜びの踊りを、神様は喜んで下さったのです。
本日の新約聖書は、マタイ福音書11章25節以下です。25節でイエス・キリストは、父なる神様を讃美して言われます。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」ダビデは、まさに良い意味で幼子のように、喜んで神様をほめたたえました。神の子イエス様もここで、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」とへり下って、喜んで神様をたたえています。このキリストの霊がダビデの内に住んでおられます。キリストの霊に導きかれて、ダビデは語ったのでしょう。「わたしはもっと卑しめられ、自分の目にも低い者となろう。」
アナトール・フランスというフランスの作家の『聖母と軽業師』という短編を思い出します(大井征訳、岩波文庫、1934年)。(カトリックの作家なので、イエス様の母マリアさんが強調されている点は、ご了解下さい。)
バルナベという軽業師がいました。軽業師は芸人で、あまり重んじられている職業ではなかったようです。そのバルナベが、修道院に入って修道士になりました。修道院の人々は皆、いろいろな才能の持っていて、それで神様に奉仕していました。修道院長は、神学の本を編纂していました。ある修道士は、その本を見事に筆記していました。別の修道士は、それに立派な絵を描きこんでいました。ある修道士は、讃美歌や詩を作って、神様にお仕えしていました。バルナベは、ほかの立派な修道士たちを見て、自分に同じことができないことを嘆き悲しんでいました。
しかしある時から、バルナベは元気になり、毎日ほかの人が行かない時に礼拝堂に行き、閉じこもって過ごすようになりました。一体何をしているのか。ある日、修道院長が二人の修道士を伴って、扉の隙間から様子を伺いました。何とバルナベは、聖母マリアの祭壇の前で、逆立ちをし、両足を空中に浮かばせ、6個の銅の珠と12本の小刀を使って、全力で軽業を演じていたのです。二人の修道士は、神への冒瀆だと腹を立てました。修道院長はバルナベが純粋な魂の持ち主であることを知っていましたが、マリア様の前で軽業をするとは、気が狂ったと思いました。
三人がバルナベを礼拝堂から引き出そうとした、その時です! 祭壇から聖母が降りて来られて、軽業師の額に流れる汗をぬぐって、ねぎらって下さったのでした。修道院長は、顔を伏せて聖書の御言葉を口にしました。「心の貧しい人々は、幸いである」(マタイ福音書5章3節)。「その人たちは神を見る」(同5章8節)。二人の修道士も、顔を伏せて「アーメン!」と答えました。ほとんど裸で跳ね踊って神様への感謝を表したダビデ。人々に軽んじられていた軽業を精一杯披露して、マリアさんに献げたバルナベ。人に馬鹿にされた二人の讃美の業が、人には意外にも、主に受け入れられたのです。
私どもも今、心を低くして、良い意味で幼子のように素直な心になって、ご一緒に神様をほめたたえて歌いたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。
2016-08-18 2:41:19(木)
「こころみにあわせず、悪より救い出したまえ」 主の祈り⑦ 2016年8月14日(日) 聖霊降臨節第14主日礼拝説教
朗読聖書:申命記6章4~15節、マタイ福音書4章1~11節。
「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(マタイ福音書4章10節)。
私たちが礼拝で祈る「主の祈り」の原型は、マタイ福音書6章とルカ福音書11章に記されています。第6の祈りは、新共同訳の新約聖書のマタイ福音書6章では、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」です。ルカ福音書11章では、「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」です。礼拝で祈る「主の祈り」では、「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」です。「試み」を新共同訳の新約聖書では、マタイ福音書6章でもルカ福音書11章でも「誘惑」と訳しています。その元の言葉は、「試練」という意味と、「誘惑」という意味を持っています。2つの意味を持っていると言えます。「我らを試みに遭わせず」の「試み」は「試練」とも考えられますし、「誘惑」とも考えられます。「我らを試みに遭わせず」は、「我らを試練に遭わせないで下さい」という祈りとも言えますし、「我らを誘惑に遭わせないで下さい」という祈りとも言えます。
新約聖書のヤコブの手紙1章13~14節には、「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからで。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」と書かれています。ですから神様が人を誘惑なさることは決してありません。神様が私たちを誘惑なさることは決してありませんが、神様が私たちに試練を与えられることはあると思うのです。
「試み」には、「試練」の意味と「誘惑」との意味がある。「試み」をあえて英語にするならば、「テスト」という言葉がぴったり当てはまると思うのです。「私たちをテストに遭わせないで下さい。」神様から来る試み・テストを試練と呼び、悪魔から来る試み・テストを誘惑と呼ぶのだろうと思うのです。神様から来る試み・テストは、私たちの信仰を鍛え、私たちの信仰をさらに純粋にするためのものです。ですから、先ほどのヤコブの手紙は1章2節で、「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」と語り、さらに12節で「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」と述べます。そしてコリントの信徒への手紙(一)10章には、「神は真実なかたです。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」という有名な約束の言葉もあります。
しかし現実には、試練はつらいものです。私たちが試練に負けて神様への信頼を失い、信仰を失うことが絶対ないとは言い切れません。試練に意義があることは事実ですが、弱さをもつ私たちである以上、「私たちを試みに遭わせないで下さい」、「私たちを試練に遭わせないで下さい」と祈る祈りは、切実になると思うのです。私たちが、信仰の人生を何としても最後まで全うしたいと願っているのであれば、「弱い私たちを試練に遭わせないで下さい。私たちが試練の中で神様への信頼を失うことがないように、信仰を失うことがないように守って下さい、どんな迫害の時代になっても、迫害の負けずに信仰を全うできるように守って下さい」という祈りが、切実になると思うのです。「主の祈り」は一生懸命祈る祈り、真剣に祈る祈り、全力で祈る祈りであることに気づきたいのです。
次に、悪魔から来る試み・テストは誘惑です。この場合、「私たちを試みに遭わせず」は、「私たちを誘惑に遭わせないで下さい」という祈りであることになります。マタイ福音書6章の祈りで、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者(悪魔)から救ってください」となっていることと一致します。創世記3章によると、最初の人類エバとアダムは悪魔の唆し・誘惑の声に耳を貸してしまい、神様の戒めを破り、罪を犯してしまいました。「女が見ると、その木(善悪の知識の木)はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」神様の戒めを破ることは、神様から離れることです。命の与え主である神様から離れることは、死に至ること、不幸なことです。エバとアダムは、エデンの園という最高の祝福の場から追放されます。この時から人は死ぬようになりました。神様の戒めを破って罪を犯す結果が死です。「罪が支払う報酬は死です」(ローマの信徒への手紙8:23)とある通りです。クリスチャン作家の三浦綾子さんがこの御言葉について、「何と粛然とさせられる言葉であろう」と書いておられます(『光あるうちに』新潮文庫、1987年、197ページ)。まさにその通りです。
人はなぜ死ぬのか。死は単なる自然現象ではないのです。人が神様に罪を犯し、神様から離れたから死ぬのです。これが重要な点です。すべての人が神様の戒めを破って罪を犯しているので、死ぬのです。死の問題を解決するためには、罪の問題を解決するほか道がありません。多くの日本人がこの点をご存じないのです。極めて残念なことです。罪の問題を解決して下さった方が、イエス・キリストです。イエス・キリストは、私たち全ての人間の全ての罪の責任をとるために、私たちの身代わりに、十字架で父なる神様の裁きを受けて、死んで下さいました。そして三日目に死を打ち破って復活されました。このイエス様を救い主と信じ告白するならば、罪の赦しを受け、死を乗り越える永遠の命を受けます。私たちは、全ての日本人、世界の全ての人にイエス様を信じていただいて、死を乗り越える永遠の命を受けていただきたいのです。そのためにイエス様を宣べ伝えます。
イエス様が地上に誕生される前、人は皆、悪魔の支配下にありました。人は皆、悪魔の誘惑に、ある人は少し、ある人は多く負け続けていました。その悪魔の支配を打ち破り、神様のよきご支配を取り戻すために、神の子イエス様が、人間となってこの世界に生まれて下さったのです。悪魔に勝利するためには、悪魔の虜にならないことが絶対必要です。悪魔の誘惑にただの一度も負けることなく、どんな小さな罪をも一生犯さないことが必要です。エバとアダムのように悪魔の誘惑に一度でも負ければ、その瞬間から悪魔の虜・悪魔の奴隷に転落します。神の子イエス様は、人間となりながらも、生涯でただの一度も悪魔の誘惑に負けないことで、悪魔の支配を滅ぼすことを目的に、この地上(ベツレヘムの馬小屋)に誕生されたのです。悪魔はそれを知っていますから、イエス様の誕生に強い危機感を抱きました。早速ヘロデ大王の手によってイエス様を殺そうとしましたが、父なる神様がイエス様一家を守って、エジプトに逃がしました。
そして約30歳になられ、いよいよ公の活動を開始なさろうとするイエス様に、悪魔が猛烈な攻撃を仕掛けて来ました。神の子を誘惑し、罪を犯させ、神から離れさせ、第二のエバとアダムにならせ、神の子の使命を失敗に導くためです。そうしないと悪魔がイエス様に敗れ、滅びてしまいます。ですから悪魔も必死です。マタイ福音書4章1節「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊(聖霊)に導かれて荒れ野に行かれた。」誘惑はもちろん悪魔が行うことですが、霊(神の霊)がイエス様をその場へ導いたと書いてあるが、不思議です。
決して父なる神様がイエス様を誘惑なさるのではないが、悪魔の誘惑という試練・テストを、イエス様が避けることはできません。聖霊なる神様がイエス様を鍛えるために、悪魔の誘惑という試練・テストの場である荒れ野に導かれたのです。イエス様はこの厳しいテストに合格することが義務づけられています。荒れ野はパンも水もない所、生存できない過酷な環境です。そこでぶつぶつ不平を言っては、たちまち神の子失格です。
(2~3節)「そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者(悪魔)が来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石にパンになるように命じたらどうだ。』」四十日間の断食! 死の瀬戸際です。私たちなら死ぬでしょう。イエス様は強い意志と忍耐力の持ち主です。神の子にとって最優先すべきことは、父なる神様に従いきることです。自分の楽しみは、一番最後でしょう。イエス様にとって、パンやお金は最低限でよいのです。洗礼者ヨハネも、いなごと野蜜という真に質素な食生活でした。神の子イエス様にとっても、最大の願いは、父なる神様のご意志に100%服従することです。悪魔には、一瞬も従ってはならないのです。それが神の子の道です。イエス様にとって肉体の維持のためのパンよりも、父なる神様の御言葉に従うことが最も大切です。ですからイエス様は、悪魔にこうお答えになりました。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある(旧約聖書の申命記8章3節に)。」
悪魔は次の誘惑に移ります。旧約聖書の詩編91編の神様の御言葉を持ち出して、誘惑に用いたのです。御言葉の悪用です。(5~6節)「次に、悪魔はイエスを聖なる都(エルサレム)に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。『神の子なら、飛び降りたらどうだ。「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちが手であなたを支える」と書いてある。』」 神様は、私たちを守っていて下さいます。神様を信頼することが信仰です。「神様は、本当に私たちを守っておられるのだろうか」と疑うことは、神様を信頼しない不信仰の罪です。神様が本当に私たちを守っておられるのかどうか、必要もないのに実験してみる、神様を試してみることは、神様に非常に失礼です。イエス様は、申命記6章16節を引用して、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」とおっしゃって、悪魔の誘いを退けられました。
ついに悪魔は、なりふり構わぬ露骨な誘いに出ます。イエス様にこの世の最大の権力を与えようと申し出るのです。男性は権力欲に弱いものです。(8~9節)「更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った。」悪魔に魂を売り渡せば、魅力的な権力をたっぷり与えるというのです。しかしイエス様には、権力欲はゼロです。どこまでも奉仕に生ききるご決意です。(10~11節)「すると、イエスは言われた。『退け、サタン。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。」イエス様は、本日の旧約聖書である申命記6章から、13節を引用して、どこまでも父なる神様に従い、悪魔を撃退されました。ちなみに、13節より前の4~5節は、昔から今に至るまで信仰深いユダヤ人が、非常に大切にしている御言葉、イエス様も最も重視された御言葉、私たちにとっても重要な御言葉です。「聞け、イスラエルよ、我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
イエス様は悪魔に勝利されました。イエス様は、十字架に架けられても、一切不平不満を言わず、生涯でただの一度も悪魔の誘惑に負けて罪を犯さず、悪魔に完全に勝利されました。悪魔の滅亡が決まったのです。悪魔はなお、世の終わりまで、神の許す限度内で働き、私たちを誘惑します。私たちは自力で悪魔に勝つことができませんが、イエス様・聖霊が私たちを助けて下さいます。イエス様と聖霊に助られて、私たちは悪魔に勝つことができます。「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。」真剣にこう祈って、悪魔の誘惑に負けない生き方をするのです。
イエス様の一番弟子ペトロは、悪魔に完全に敗北したことがあります。イエス様が捕えられると、イエス様を三度知らないと言ってしまったのです。ペトロの生涯最大の痛恨事です。イエス様はペトロの弱さをよく見抜いておられ、あらかじめペトロにこう言っておかれました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰はなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ福音書22章31~32節)。ペトロは、イエス様の祈りに支えられ、立ち直ることができました。私たちもイエス様の祈りに支えられて、信仰の道を歩みます。
そのペトロは、晩年に次のように書いて、後に続く信仰の仲間たちを激励しています。「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです」(ペトロの手紙(一)5章8~9節)。
「抵抗」という言葉が出ています。プロテスタント教会には「抵抗権」という考え方があります。主に宗教改革者カルヴァンの系統の教会(改革派の教会)が持つ考えと思います。上に立つ権威を、神によって立てられた権威(ローマの信徒への手紙13章1節)として尊重する基本に立ちつつ、しかし明らかに神の意志に反する命令・指示を受けた時には抵抗する権利がある、抵抗する責任・義務があるとする考えです。これで思い出すのは、『歌集 小さな抵抗 殺戮を拒んだ日本兵』(岩波文庫、2012年)です。著者の渡部良三は、無教会のクリスチャンです。学徒出陣で中国・河北省の部隊に配属され、中国人捕虜を銃剣で突き殺す訓練をする指示を受けましたが、聖書の教え「殺すなかれ」に従って一人で抵抗し、拒否なさいました。渡渡部さんが現地で詠んだ歌の数々が収められています。ぜひ多くの方に読んでいただきたい本です。
「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。」神様に祈って力を受け、悪魔に抵抗し、悪魔の誘惑に打ち勝って、イエス様に従う私たちです。アーメン(「真実に」)。
「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(マタイ福音書4章10節)。
私たちが礼拝で祈る「主の祈り」の原型は、マタイ福音書6章とルカ福音書11章に記されています。第6の祈りは、新共同訳の新約聖書のマタイ福音書6章では、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」です。ルカ福音書11章では、「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」です。礼拝で祈る「主の祈り」では、「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」です。「試み」を新共同訳の新約聖書では、マタイ福音書6章でもルカ福音書11章でも「誘惑」と訳しています。その元の言葉は、「試練」という意味と、「誘惑」という意味を持っています。2つの意味を持っていると言えます。「我らを試みに遭わせず」の「試み」は「試練」とも考えられますし、「誘惑」とも考えられます。「我らを試みに遭わせず」は、「我らを試練に遭わせないで下さい」という祈りとも言えますし、「我らを誘惑に遭わせないで下さい」という祈りとも言えます。
新約聖書のヤコブの手紙1章13~14節には、「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからで。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」と書かれています。ですから神様が人を誘惑なさることは決してありません。神様が私たちを誘惑なさることは決してありませんが、神様が私たちに試練を与えられることはあると思うのです。
「試み」には、「試練」の意味と「誘惑」との意味がある。「試み」をあえて英語にするならば、「テスト」という言葉がぴったり当てはまると思うのです。「私たちをテストに遭わせないで下さい。」神様から来る試み・テストを試練と呼び、悪魔から来る試み・テストを誘惑と呼ぶのだろうと思うのです。神様から来る試み・テストは、私たちの信仰を鍛え、私たちの信仰をさらに純粋にするためのものです。ですから、先ほどのヤコブの手紙は1章2節で、「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」と語り、さらに12節で「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」と述べます。そしてコリントの信徒への手紙(一)10章には、「神は真実なかたです。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」という有名な約束の言葉もあります。
しかし現実には、試練はつらいものです。私たちが試練に負けて神様への信頼を失い、信仰を失うことが絶対ないとは言い切れません。試練に意義があることは事実ですが、弱さをもつ私たちである以上、「私たちを試みに遭わせないで下さい」、「私たちを試練に遭わせないで下さい」と祈る祈りは、切実になると思うのです。私たちが、信仰の人生を何としても最後まで全うしたいと願っているのであれば、「弱い私たちを試練に遭わせないで下さい。私たちが試練の中で神様への信頼を失うことがないように、信仰を失うことがないように守って下さい、どんな迫害の時代になっても、迫害の負けずに信仰を全うできるように守って下さい」という祈りが、切実になると思うのです。「主の祈り」は一生懸命祈る祈り、真剣に祈る祈り、全力で祈る祈りであることに気づきたいのです。
次に、悪魔から来る試み・テストは誘惑です。この場合、「私たちを試みに遭わせず」は、「私たちを誘惑に遭わせないで下さい」という祈りであることになります。マタイ福音書6章の祈りで、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者(悪魔)から救ってください」となっていることと一致します。創世記3章によると、最初の人類エバとアダムは悪魔の唆し・誘惑の声に耳を貸してしまい、神様の戒めを破り、罪を犯してしまいました。「女が見ると、その木(善悪の知識の木)はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」神様の戒めを破ることは、神様から離れることです。命の与え主である神様から離れることは、死に至ること、不幸なことです。エバとアダムは、エデンの園という最高の祝福の場から追放されます。この時から人は死ぬようになりました。神様の戒めを破って罪を犯す結果が死です。「罪が支払う報酬は死です」(ローマの信徒への手紙8:23)とある通りです。クリスチャン作家の三浦綾子さんがこの御言葉について、「何と粛然とさせられる言葉であろう」と書いておられます(『光あるうちに』新潮文庫、1987年、197ページ)。まさにその通りです。
人はなぜ死ぬのか。死は単なる自然現象ではないのです。人が神様に罪を犯し、神様から離れたから死ぬのです。これが重要な点です。すべての人が神様の戒めを破って罪を犯しているので、死ぬのです。死の問題を解決するためには、罪の問題を解決するほか道がありません。多くの日本人がこの点をご存じないのです。極めて残念なことです。罪の問題を解決して下さった方が、イエス・キリストです。イエス・キリストは、私たち全ての人間の全ての罪の責任をとるために、私たちの身代わりに、十字架で父なる神様の裁きを受けて、死んで下さいました。そして三日目に死を打ち破って復活されました。このイエス様を救い主と信じ告白するならば、罪の赦しを受け、死を乗り越える永遠の命を受けます。私たちは、全ての日本人、世界の全ての人にイエス様を信じていただいて、死を乗り越える永遠の命を受けていただきたいのです。そのためにイエス様を宣べ伝えます。
イエス様が地上に誕生される前、人は皆、悪魔の支配下にありました。人は皆、悪魔の誘惑に、ある人は少し、ある人は多く負け続けていました。その悪魔の支配を打ち破り、神様のよきご支配を取り戻すために、神の子イエス様が、人間となってこの世界に生まれて下さったのです。悪魔に勝利するためには、悪魔の虜にならないことが絶対必要です。悪魔の誘惑にただの一度も負けることなく、どんな小さな罪をも一生犯さないことが必要です。エバとアダムのように悪魔の誘惑に一度でも負ければ、その瞬間から悪魔の虜・悪魔の奴隷に転落します。神の子イエス様は、人間となりながらも、生涯でただの一度も悪魔の誘惑に負けないことで、悪魔の支配を滅ぼすことを目的に、この地上(ベツレヘムの馬小屋)に誕生されたのです。悪魔はそれを知っていますから、イエス様の誕生に強い危機感を抱きました。早速ヘロデ大王の手によってイエス様を殺そうとしましたが、父なる神様がイエス様一家を守って、エジプトに逃がしました。
そして約30歳になられ、いよいよ公の活動を開始なさろうとするイエス様に、悪魔が猛烈な攻撃を仕掛けて来ました。神の子を誘惑し、罪を犯させ、神から離れさせ、第二のエバとアダムにならせ、神の子の使命を失敗に導くためです。そうしないと悪魔がイエス様に敗れ、滅びてしまいます。ですから悪魔も必死です。マタイ福音書4章1節「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊(聖霊)に導かれて荒れ野に行かれた。」誘惑はもちろん悪魔が行うことですが、霊(神の霊)がイエス様をその場へ導いたと書いてあるが、不思議です。
決して父なる神様がイエス様を誘惑なさるのではないが、悪魔の誘惑という試練・テストを、イエス様が避けることはできません。聖霊なる神様がイエス様を鍛えるために、悪魔の誘惑という試練・テストの場である荒れ野に導かれたのです。イエス様はこの厳しいテストに合格することが義務づけられています。荒れ野はパンも水もない所、生存できない過酷な環境です。そこでぶつぶつ不平を言っては、たちまち神の子失格です。
(2~3節)「そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者(悪魔)が来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石にパンになるように命じたらどうだ。』」四十日間の断食! 死の瀬戸際です。私たちなら死ぬでしょう。イエス様は強い意志と忍耐力の持ち主です。神の子にとって最優先すべきことは、父なる神様に従いきることです。自分の楽しみは、一番最後でしょう。イエス様にとって、パンやお金は最低限でよいのです。洗礼者ヨハネも、いなごと野蜜という真に質素な食生活でした。神の子イエス様にとっても、最大の願いは、父なる神様のご意志に100%服従することです。悪魔には、一瞬も従ってはならないのです。それが神の子の道です。イエス様にとって肉体の維持のためのパンよりも、父なる神様の御言葉に従うことが最も大切です。ですからイエス様は、悪魔にこうお答えになりました。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある(旧約聖書の申命記8章3節に)。」
悪魔は次の誘惑に移ります。旧約聖書の詩編91編の神様の御言葉を持ち出して、誘惑に用いたのです。御言葉の悪用です。(5~6節)「次に、悪魔はイエスを聖なる都(エルサレム)に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。『神の子なら、飛び降りたらどうだ。「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちが手であなたを支える」と書いてある。』」 神様は、私たちを守っていて下さいます。神様を信頼することが信仰です。「神様は、本当に私たちを守っておられるのだろうか」と疑うことは、神様を信頼しない不信仰の罪です。神様が本当に私たちを守っておられるのかどうか、必要もないのに実験してみる、神様を試してみることは、神様に非常に失礼です。イエス様は、申命記6章16節を引用して、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」とおっしゃって、悪魔の誘いを退けられました。
ついに悪魔は、なりふり構わぬ露骨な誘いに出ます。イエス様にこの世の最大の権力を与えようと申し出るのです。男性は権力欲に弱いものです。(8~9節)「更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った。」悪魔に魂を売り渡せば、魅力的な権力をたっぷり与えるというのです。しかしイエス様には、権力欲はゼロです。どこまでも奉仕に生ききるご決意です。(10~11節)「すると、イエスは言われた。『退け、サタン。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。」イエス様は、本日の旧約聖書である申命記6章から、13節を引用して、どこまでも父なる神様に従い、悪魔を撃退されました。ちなみに、13節より前の4~5節は、昔から今に至るまで信仰深いユダヤ人が、非常に大切にしている御言葉、イエス様も最も重視された御言葉、私たちにとっても重要な御言葉です。「聞け、イスラエルよ、我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
イエス様は悪魔に勝利されました。イエス様は、十字架に架けられても、一切不平不満を言わず、生涯でただの一度も悪魔の誘惑に負けて罪を犯さず、悪魔に完全に勝利されました。悪魔の滅亡が決まったのです。悪魔はなお、世の終わりまで、神の許す限度内で働き、私たちを誘惑します。私たちは自力で悪魔に勝つことができませんが、イエス様・聖霊が私たちを助けて下さいます。イエス様と聖霊に助られて、私たちは悪魔に勝つことができます。「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。」真剣にこう祈って、悪魔の誘惑に負けない生き方をするのです。
イエス様の一番弟子ペトロは、悪魔に完全に敗北したことがあります。イエス様が捕えられると、イエス様を三度知らないと言ってしまったのです。ペトロの生涯最大の痛恨事です。イエス様はペトロの弱さをよく見抜いておられ、あらかじめペトロにこう言っておかれました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰はなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ福音書22章31~32節)。ペトロは、イエス様の祈りに支えられ、立ち直ることができました。私たちもイエス様の祈りに支えられて、信仰の道を歩みます。
そのペトロは、晩年に次のように書いて、後に続く信仰の仲間たちを激励しています。「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです」(ペトロの手紙(一)5章8~9節)。
「抵抗」という言葉が出ています。プロテスタント教会には「抵抗権」という考え方があります。主に宗教改革者カルヴァンの系統の教会(改革派の教会)が持つ考えと思います。上に立つ権威を、神によって立てられた権威(ローマの信徒への手紙13章1節)として尊重する基本に立ちつつ、しかし明らかに神の意志に反する命令・指示を受けた時には抵抗する権利がある、抵抗する責任・義務があるとする考えです。これで思い出すのは、『歌集 小さな抵抗 殺戮を拒んだ日本兵』(岩波文庫、2012年)です。著者の渡部良三は、無教会のクリスチャンです。学徒出陣で中国・河北省の部隊に配属され、中国人捕虜を銃剣で突き殺す訓練をする指示を受けましたが、聖書の教え「殺すなかれ」に従って一人で抵抗し、拒否なさいました。渡渡部さんが現地で詠んだ歌の数々が収められています。ぜひ多くの方に読んでいただきたい本です。
「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。」神様に祈って力を受け、悪魔に抵抗し、悪魔の誘惑に打ち勝って、イエス様に従う私たちです。アーメン(「真実に」)。
2016-08-13 13:22:50(土)
「真理はあなたたちを自由にする」 2016年8月7日(日) 平和聖日礼拝説教
朗読聖書:創世記39章1~15節、ヨハネ福音書8章31~47節。
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ福音書8章32節)。
イエス・キリストは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われました。(31~32節)「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」真理というと抽象的な印象を受けますが、イエス様は14章6節で言われます。「わたしは道であり、真理であり、命である。」イエス・キリストご自身が生きた真理なのです。生きておられるイエス様ご自身が生きた真理、血の通った真理です。
国立国会図書館の入り口辺りに、ラテン語で「真理はわたしたちを自由にする」と書かれているはずです。私も一度か二度、見た覚えがあります。今日のイエス様の言葉を元にして、少し変えています。イエス様は「真理はあなたたちを自由にする」と言われましたが、国会図書館の入り口辺りの言葉は、「真理はわたしたちを自由にする」です。「国会図書館の様々な本によって、真理を学びましょう」というメッセージなのでしょう。東久留米市内に自由学園という学校があります。自由学園の自由は、この御言葉から取っていると聞きます。「真理はあなたたちを自由にする。」自由学園を卒業なさったM宣教師が以前、東久留米教会の礼拝で、次のお話なさいました。在学中に次の言葉を聞かれたそうです。「靴を脱いだ時、揃える自由と揃えない自由があるかもしれないが、揃えることが本当の自由だ。」自由学園の自由とは、そのような自由だというメッセージです。
信仰に生きることは、真の意味で自由になることです。この社会を支配している価値観から解放されることだからです。今の日本の価値観は何でしょうか。もしかするとお金持ちになる、出世する、願望を実現する、いつまでも若々しく元気いっぱいである、いわゆる上昇志向をよしとすることが、私たちの本音の価値観になっていないかと恐れます。現実にはそのように行かないことも多いので、必ず失望があるのですが、それでも少しすると気を取り直して、また世間の幸せ競争に参加したくなってしまうのが、私たちかもしれないのです。それは世間が幸せとする価値観に支配された、不自由な生き方かもしれないのです。聖書の御言葉に従い、イエス様に従う生き方は、私たちをそこから解放してくれるのではないでしょうか。日曜日にレジャーに出かけなくても、教会の礼拝に出席して、共に讃美歌を歌い、祈る、静かな喜びを味わう自由があります。お金持ちにならなくても、共に分け合って暮らす喜びを味わうことも、真の自由ではないでしょうか。私たちが東日本大震災を経験したとき、この価値観に立ち帰ったように思います。5年5ヶ月たったからといって、元の木阿弥に戻らないように気をつけたいのです。
(33~34節)「すると、彼らは言った。『わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。「あなたたちは自由になる」とどうして言われるのですか。』イエスはお答えになった。『はっきり言っておく(直訳「アーメン(真実に)、アーメン、わたしはあなたがたに言う」)。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。』」私たちを罪を犯すように誘惑するのは、悪魔です。私たちはイエス様がなさったように、「退け、サタン」と一喝して、悪魔の誘惑を退ければよいのです。それがおできになるイエス様こそ、最高に自由な方です。しかし私たちは、日々、少しずつ悪魔の誘惑に負けて、少しずつ罪を犯し、悪魔の奴隷、罪の奴隷に陥ることがあります。全く罪を悔い改めず、罪を犯し続けるならば、(罪を犯すことは神様から離れることですから)永遠の死と滅びに向かいます。そうならないよう、いつもイエス様に従う道に立ち帰りたいのです。
新約聖書で悔い改めと訳される言葉は、元の言葉でメタノイアだそうです。メタノイアは、方向転換の意味だそうです。罪に向かって進んでいたその方向を転換して、神様の方に進むことです。ルカ福音書15章の「放蕩息子のたとえ」を読むと具体的に分かります。下の息子は、自分の欲望に従って罪の方向にどんどん進みました。しかし行き詰まり、父親の元に帰る決心をします。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」 しかし父親は、彼をあくまで息子として迎え、雇い人にはしませんでした。息子は、よき方向転換をしたのです。聖書で言う罪の根本は、「的外れ」だとよく説明されます。的外れ。私たちという矢が、神様に向かってまっすぐ飛んで行けばよいのに、別の方向に飛んで行ってしまう的外れ、それが罪の根本です。そこから方向転換して、神様の元に戻ることが悔い改めです。悔い改めを回心と呼ぶこともあります。「改心」ではなく「回心」と書きます。心を回して(方向転換して)神様に心を向けることです。「パウロの回心」などと言う時に使います。
「真理は、あなたたちを自由にする。」私たちは、よく自由とは「勝手気ままにすること」と勘違いしています。「勝手気まま」を「放縦」と言います。ほしいままに生きることです。自由と放縦は違います。正反対です。本当の自由とは、悪魔の誘惑・罪の誘惑に打ち勝つこと、自己中心の罪に打ち勝つことです。悪魔の誘惑・罪の誘惑・自己中心の罪に負けて勝手に生きること自由でなく、放縦です。以前読んだエピソードですが、ある牧師がタクシーに乗って、運転手さんに信仰の話をしたところ、運転手さんが「信仰は、弱い人に必要なものでしょう。私は弱い人間ではないので、信仰は必要ありません」と言われました。ところが運転手さんがたばこを吸っているのを見て、「たばこをやめたらいかがですか」と言うと、運転手さんが頭をかきかき、「なかなかやめられないんです」と答えました。するとその牧師は、「あなたは何と弱い人間ですか。たばこもやめられないとは、意志が弱いですね」と言ったそうです。運転手さんは、「一本取られた」と思ったことでしょう。運転手さんは、極端に言うと「たばこの奴隷」だったのですね。強い人間ではない自分に気づいたことでしょう(その後クリスチャンになったかどうかは分かりませんが)。ただ、こういう伝道は相手をやりこめる面がありますから、ベストではないでしょう。私が言おうとしたことは、運転手さんは、「自分は何の奴隷でもない自由な強い人間で、信仰を必要としない」と思っていたが、実際は、たばこの奴隷となっている不自由な人だった、ということです。他人ごとではなく、私たちも、テレビの奴隷、酒の奴隷などに陥る恐れはあるのです。
(35~36節)「奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」イエス様が、私たちのために十字架で死んで復活され、私たちを罪と死の支配から解放して下さいました。死への恐れからも解放して下さったのです。イエス様は「死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放」されたと、ヘブライ人への手紙2章15節にあります。そしてイエス様を救い主と信じる者を、神の子たちとして下さいました。
(37節)「あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。」神の尊い独り子イエス様を殺すことは、最大の罪です。今イエス様の目の前にいる人々は、イエス様に殺意を抱いています。これは彼らが罪の奴隷、悪魔の奴隷になっていて、全く自由でなくないことを意味します。イエス様は、ヨハネ福音書8章44節で、思い切ったことをズバリ言われました。「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。」イエス様と論争している人々の父は悪魔だと、言われます。彼らが悪魔の子たちだということです。現実にそうだったのでしょう。
本日の旧約聖書は、創世記39章です。ここに、悪魔の誘惑に負けなかった真に自由な人が登場します。イスラエルの民の先祖の一人ヨセフです(イエス様の父ヨセフとは別人)。ヨセフは、兄たちの悪意によって穴に投げ込まれ、ミディアン人の商人たちによって引き上げられ、銀貨20枚でイシュマエル人に売られ、エジプトに連れて来られました。そしてエジプト王ファラオの宮廷の役人・侍従長のポティファルという人に買われたのです。ですが神様がヨセフと共におられました。ヨセフは主人ポティファルのためによく働いたので、ポティファルはヨセフをすっかり信頼しました。ヨセフはまだ独身です。「顔も美しく体つきも優れていた」、と6節に書いてあります。
このヨセフに目を付けたのが、ポティファルの妻でした。彼女はヨセフに「わたしの床に入りなさい」と、露骨に誘惑します。しかしヨセフは誘惑に負けない強い意志の持ち主、誘惑に打ち勝つ自由な人です。ヨセフは言います。(8~9節)「ご存じのように、御主人はわたしを側に置き、家の中のことは一切気をお遣いになりません。財産もすべてわたしの手にゆだねてくださいました。この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしはどうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。」
ポティファル夫人は、しつこく誘惑します。(10節)「彼女は毎日ヨセフに言い寄ったが、ヨセフは耳を貸さず、彼女の傍らに寝ることも、共にいることもしなかった。」ヨセフは、度重なるポティファル夫人の誘惑、悪魔の誘惑に耳を貸さず、誘惑に打ち勝つ自由を持ち続けました。ヨセフこそ、真に自由な人です。ポティファル夫人は悪質な女性で、無実のヨセフに濡れ衣を着せて恥じないのです。(11~15節)「こうして、ある日、ヨセフが仕事をしようと家に入ると、家の者が一人も家の中にいなかったので、彼女はヨセフの着物をつかんで言った。『わたしの床に入りなさい。』ヨセフは着物を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。着物を彼女の手に残したまま、ヨセフが外へ逃げたのを見ると、彼女は家の者たちを呼び寄せて言った。『見てごらん。ヘブライ人などをわたしたちの所に連れて来たから、わたしたちはいたずらをされる。彼がわたしの所に来て、わたしと寝ようとしたから、大声で叫びました。わたしが大声をあげて叫んだのを聞いて、わたしの傍らに着物を残したまま外へ逃げて行きました。』」
帰宅したポティファルは、妻の言葉を信じて怒り、ヨセフを捕らえて監獄に入れたのです。ヨセフが無実を訴えた形跡はありません。彼は自分で復讐せず(できなかったでしょうが)、一切を神様に委ねます。神様はヨセフに長い試練を与えられ、ヨセフはおそらく17~18年間近く、無実なのに監獄で過ごします。しかし神様はヨセフと共におられ、時が満ちてヨセフはエジプトの総理大臣になります。ヨセフは誘惑に負けない自由な人であり、実に忍耐強い人でもありました。
クリスチャン作家の三浦綾子さんが「自由の意義」という文章の中で、次のように書いておられます。「わたしたちは、自分の金を自分のために使う自由もあるが、人のために使う自由もある。人が困っているのを、見て見ないふりをする自由もあるが、積極的に助ける自由もある。人の過失をゆるさない自由もあるが、ゆるすという自由もある。一日を怠惰に過ごす自由もあるが、勤勉に過ごす自由もある。~『人生とは選択である』という言葉がある。~人間の持つべき自由とは、そのいずれを正しく選ぶかというところにあるのだろう」(『光あるうちに』新潮文庫、1987年、71ページ)。
自由を制御できる人は、成熟した人です。成熟していない人に自由を与えると濫用し、無駄遣いし、浪費してしまいます。学生の「夏休み」はすてきな自由な時間です。しかしその貴重な時間を濫用し、無駄遣いし、浪費する恐れもあります。最も自由な方は、イエス・キリストです。栄光の天におられたのに、私たちが罪の奴隷となって滅びるのを見過ごすことができず、私たちへの愛のゆえに進んでこの危険な地上に、無防備な赤ちゃんとして誕生され、世界の真の王であるのに、弟子たちの汚れた足を洗われ、私たちの汚ない罪を全部背負うために、進んで十字架に架かって死んで下さいました。イエス様は、ヨハネ福音書10章18節で言われます。「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。」そしてヨハネ福音書19章17節は、「イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる『されこうべの場所』、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた」と記し、イエス様が自由意志によって進んで十字架を担われたと強調しています。
ガラテヤの信徒への手紙5章13、14節で、イエス様の弟子・使徒パウロは、このように勧めます。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。」イエス様は、私たちに自由をもたらして下さいました。それは自分勝手に生きる自由ではありません。喜んで神様と隣人を愛し、奉仕する自由です。「真理はあなたたちを自由にする」の自由は、そのような自由です。自分のわがままな心に打ち勝って、今週も喜んで神様と隣人にお仕えしたいのです。アーメン(「真実に」)。
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ福音書8章32節)。
イエス・キリストは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われました。(31~32節)「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」真理というと抽象的な印象を受けますが、イエス様は14章6節で言われます。「わたしは道であり、真理であり、命である。」イエス・キリストご自身が生きた真理なのです。生きておられるイエス様ご自身が生きた真理、血の通った真理です。
国立国会図書館の入り口辺りに、ラテン語で「真理はわたしたちを自由にする」と書かれているはずです。私も一度か二度、見た覚えがあります。今日のイエス様の言葉を元にして、少し変えています。イエス様は「真理はあなたたちを自由にする」と言われましたが、国会図書館の入り口辺りの言葉は、「真理はわたしたちを自由にする」です。「国会図書館の様々な本によって、真理を学びましょう」というメッセージなのでしょう。東久留米市内に自由学園という学校があります。自由学園の自由は、この御言葉から取っていると聞きます。「真理はあなたたちを自由にする。」自由学園を卒業なさったM宣教師が以前、東久留米教会の礼拝で、次のお話なさいました。在学中に次の言葉を聞かれたそうです。「靴を脱いだ時、揃える自由と揃えない自由があるかもしれないが、揃えることが本当の自由だ。」自由学園の自由とは、そのような自由だというメッセージです。
信仰に生きることは、真の意味で自由になることです。この社会を支配している価値観から解放されることだからです。今の日本の価値観は何でしょうか。もしかするとお金持ちになる、出世する、願望を実現する、いつまでも若々しく元気いっぱいである、いわゆる上昇志向をよしとすることが、私たちの本音の価値観になっていないかと恐れます。現実にはそのように行かないことも多いので、必ず失望があるのですが、それでも少しすると気を取り直して、また世間の幸せ競争に参加したくなってしまうのが、私たちかもしれないのです。それは世間が幸せとする価値観に支配された、不自由な生き方かもしれないのです。聖書の御言葉に従い、イエス様に従う生き方は、私たちをそこから解放してくれるのではないでしょうか。日曜日にレジャーに出かけなくても、教会の礼拝に出席して、共に讃美歌を歌い、祈る、静かな喜びを味わう自由があります。お金持ちにならなくても、共に分け合って暮らす喜びを味わうことも、真の自由ではないでしょうか。私たちが東日本大震災を経験したとき、この価値観に立ち帰ったように思います。5年5ヶ月たったからといって、元の木阿弥に戻らないように気をつけたいのです。
(33~34節)「すると、彼らは言った。『わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。「あなたたちは自由になる」とどうして言われるのですか。』イエスはお答えになった。『はっきり言っておく(直訳「アーメン(真実に)、アーメン、わたしはあなたがたに言う」)。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。』」私たちを罪を犯すように誘惑するのは、悪魔です。私たちはイエス様がなさったように、「退け、サタン」と一喝して、悪魔の誘惑を退ければよいのです。それがおできになるイエス様こそ、最高に自由な方です。しかし私たちは、日々、少しずつ悪魔の誘惑に負けて、少しずつ罪を犯し、悪魔の奴隷、罪の奴隷に陥ることがあります。全く罪を悔い改めず、罪を犯し続けるならば、(罪を犯すことは神様から離れることですから)永遠の死と滅びに向かいます。そうならないよう、いつもイエス様に従う道に立ち帰りたいのです。
新約聖書で悔い改めと訳される言葉は、元の言葉でメタノイアだそうです。メタノイアは、方向転換の意味だそうです。罪に向かって進んでいたその方向を転換して、神様の方に進むことです。ルカ福音書15章の「放蕩息子のたとえ」を読むと具体的に分かります。下の息子は、自分の欲望に従って罪の方向にどんどん進みました。しかし行き詰まり、父親の元に帰る決心をします。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」 しかし父親は、彼をあくまで息子として迎え、雇い人にはしませんでした。息子は、よき方向転換をしたのです。聖書で言う罪の根本は、「的外れ」だとよく説明されます。的外れ。私たちという矢が、神様に向かってまっすぐ飛んで行けばよいのに、別の方向に飛んで行ってしまう的外れ、それが罪の根本です。そこから方向転換して、神様の元に戻ることが悔い改めです。悔い改めを回心と呼ぶこともあります。「改心」ではなく「回心」と書きます。心を回して(方向転換して)神様に心を向けることです。「パウロの回心」などと言う時に使います。
「真理は、あなたたちを自由にする。」私たちは、よく自由とは「勝手気ままにすること」と勘違いしています。「勝手気まま」を「放縦」と言います。ほしいままに生きることです。自由と放縦は違います。正反対です。本当の自由とは、悪魔の誘惑・罪の誘惑に打ち勝つこと、自己中心の罪に打ち勝つことです。悪魔の誘惑・罪の誘惑・自己中心の罪に負けて勝手に生きること自由でなく、放縦です。以前読んだエピソードですが、ある牧師がタクシーに乗って、運転手さんに信仰の話をしたところ、運転手さんが「信仰は、弱い人に必要なものでしょう。私は弱い人間ではないので、信仰は必要ありません」と言われました。ところが運転手さんがたばこを吸っているのを見て、「たばこをやめたらいかがですか」と言うと、運転手さんが頭をかきかき、「なかなかやめられないんです」と答えました。するとその牧師は、「あなたは何と弱い人間ですか。たばこもやめられないとは、意志が弱いですね」と言ったそうです。運転手さんは、「一本取られた」と思ったことでしょう。運転手さんは、極端に言うと「たばこの奴隷」だったのですね。強い人間ではない自分に気づいたことでしょう(その後クリスチャンになったかどうかは分かりませんが)。ただ、こういう伝道は相手をやりこめる面がありますから、ベストではないでしょう。私が言おうとしたことは、運転手さんは、「自分は何の奴隷でもない自由な強い人間で、信仰を必要としない」と思っていたが、実際は、たばこの奴隷となっている不自由な人だった、ということです。他人ごとではなく、私たちも、テレビの奴隷、酒の奴隷などに陥る恐れはあるのです。
(35~36節)「奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」イエス様が、私たちのために十字架で死んで復活され、私たちを罪と死の支配から解放して下さいました。死への恐れからも解放して下さったのです。イエス様は「死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放」されたと、ヘブライ人への手紙2章15節にあります。そしてイエス様を救い主と信じる者を、神の子たちとして下さいました。
(37節)「あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。」神の尊い独り子イエス様を殺すことは、最大の罪です。今イエス様の目の前にいる人々は、イエス様に殺意を抱いています。これは彼らが罪の奴隷、悪魔の奴隷になっていて、全く自由でなくないことを意味します。イエス様は、ヨハネ福音書8章44節で、思い切ったことをズバリ言われました。「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。」イエス様と論争している人々の父は悪魔だと、言われます。彼らが悪魔の子たちだということです。現実にそうだったのでしょう。
本日の旧約聖書は、創世記39章です。ここに、悪魔の誘惑に負けなかった真に自由な人が登場します。イスラエルの民の先祖の一人ヨセフです(イエス様の父ヨセフとは別人)。ヨセフは、兄たちの悪意によって穴に投げ込まれ、ミディアン人の商人たちによって引き上げられ、銀貨20枚でイシュマエル人に売られ、エジプトに連れて来られました。そしてエジプト王ファラオの宮廷の役人・侍従長のポティファルという人に買われたのです。ですが神様がヨセフと共におられました。ヨセフは主人ポティファルのためによく働いたので、ポティファルはヨセフをすっかり信頼しました。ヨセフはまだ独身です。「顔も美しく体つきも優れていた」、と6節に書いてあります。
このヨセフに目を付けたのが、ポティファルの妻でした。彼女はヨセフに「わたしの床に入りなさい」と、露骨に誘惑します。しかしヨセフは誘惑に負けない強い意志の持ち主、誘惑に打ち勝つ自由な人です。ヨセフは言います。(8~9節)「ご存じのように、御主人はわたしを側に置き、家の中のことは一切気をお遣いになりません。財産もすべてわたしの手にゆだねてくださいました。この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしはどうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。」
ポティファル夫人は、しつこく誘惑します。(10節)「彼女は毎日ヨセフに言い寄ったが、ヨセフは耳を貸さず、彼女の傍らに寝ることも、共にいることもしなかった。」ヨセフは、度重なるポティファル夫人の誘惑、悪魔の誘惑に耳を貸さず、誘惑に打ち勝つ自由を持ち続けました。ヨセフこそ、真に自由な人です。ポティファル夫人は悪質な女性で、無実のヨセフに濡れ衣を着せて恥じないのです。(11~15節)「こうして、ある日、ヨセフが仕事をしようと家に入ると、家の者が一人も家の中にいなかったので、彼女はヨセフの着物をつかんで言った。『わたしの床に入りなさい。』ヨセフは着物を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。着物を彼女の手に残したまま、ヨセフが外へ逃げたのを見ると、彼女は家の者たちを呼び寄せて言った。『見てごらん。ヘブライ人などをわたしたちの所に連れて来たから、わたしたちはいたずらをされる。彼がわたしの所に来て、わたしと寝ようとしたから、大声で叫びました。わたしが大声をあげて叫んだのを聞いて、わたしの傍らに着物を残したまま外へ逃げて行きました。』」
帰宅したポティファルは、妻の言葉を信じて怒り、ヨセフを捕らえて監獄に入れたのです。ヨセフが無実を訴えた形跡はありません。彼は自分で復讐せず(できなかったでしょうが)、一切を神様に委ねます。神様はヨセフに長い試練を与えられ、ヨセフはおそらく17~18年間近く、無実なのに監獄で過ごします。しかし神様はヨセフと共におられ、時が満ちてヨセフはエジプトの総理大臣になります。ヨセフは誘惑に負けない自由な人であり、実に忍耐強い人でもありました。
クリスチャン作家の三浦綾子さんが「自由の意義」という文章の中で、次のように書いておられます。「わたしたちは、自分の金を自分のために使う自由もあるが、人のために使う自由もある。人が困っているのを、見て見ないふりをする自由もあるが、積極的に助ける自由もある。人の過失をゆるさない自由もあるが、ゆるすという自由もある。一日を怠惰に過ごす自由もあるが、勤勉に過ごす自由もある。~『人生とは選択である』という言葉がある。~人間の持つべき自由とは、そのいずれを正しく選ぶかというところにあるのだろう」(『光あるうちに』新潮文庫、1987年、71ページ)。
自由を制御できる人は、成熟した人です。成熟していない人に自由を与えると濫用し、無駄遣いし、浪費してしまいます。学生の「夏休み」はすてきな自由な時間です。しかしその貴重な時間を濫用し、無駄遣いし、浪費する恐れもあります。最も自由な方は、イエス・キリストです。栄光の天におられたのに、私たちが罪の奴隷となって滅びるのを見過ごすことができず、私たちへの愛のゆえに進んでこの危険な地上に、無防備な赤ちゃんとして誕生され、世界の真の王であるのに、弟子たちの汚れた足を洗われ、私たちの汚ない罪を全部背負うために、進んで十字架に架かって死んで下さいました。イエス様は、ヨハネ福音書10章18節で言われます。「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。」そしてヨハネ福音書19章17節は、「イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる『されこうべの場所』、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた」と記し、イエス様が自由意志によって進んで十字架を担われたと強調しています。
ガラテヤの信徒への手紙5章13、14節で、イエス様の弟子・使徒パウロは、このように勧めます。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。」イエス様は、私たちに自由をもたらして下さいました。それは自分勝手に生きる自由ではありません。喜んで神様と隣人を愛し、奉仕する自由です。「真理はあなたたちを自由にする」の自由は、そのような自由です。自分のわがままな心に打ち勝って、今週も喜んで神様と隣人にお仕えしたいのです。アーメン(「真実に」)。
2016-08-03 2:25:12(水)
「キリストに従う新しい生き方」 2016年7月31日(日) 聖霊降臨節第12主日礼拝説教
朗読聖書:詩編1編1~6節、ローマの信徒への手紙7章1~6節。
「その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです」(ローマ7章6節)。
第1節を読みます。「それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。」ここで、手紙の著者パウロが言いたいことは、イエス・キリストを信じる人は、既に律法から解放されており、律法の支配の下にはないということです。イエス・キリストが地上に誕生して下さり、私たちの罪を背負って十字架で死なれ、復活なさるまで、私たちは皆、律法の支配下にいました。律法の代表はモーセの十戒です。十戒は、何が正しいことかを示す神様の基準です。その十戒を一つ一つよく学べば、私たちは自分が十戒のどの一つの戒めをさえ、完全には守ることができていないことを痛感します。律法を守ることができていない自分が、神様から見れば罪人(つみびと)であることを悟ります。その意味で律法は重荷です。律法は、私たちに自分が罪人(つみびと)であることを教えます。救い主イエス・キリストが来て、私たちのために十字架で死んで下さらなければ、私たちは律法の支配下にあって、自分の罪のゆえに救いの希望のない人生を送るしかなかったのです。
しかしイエス様がこの地上に誕生され、私たちの身代わりに十字架にかかって死んで下さいました。ここいる私たち一人一人を含む地球上の全人類の、全部の罪を背負いきってくださったのです。とてつもなく大量の罪です。律法は神様の正義の基準であり、律法違反の罪が全て裁かれることを求めます。イエス・キリストが、全人類の律法違反の罪の責任を、すべて背負い切って裁かれて下さいました。それで律法が要求する正義の裁きが、全て成し遂げられたのです。律法が要求する正義が100%満たされました。イエス様のお陰で、私たちは律法の支配下から解放されました。私たちが、律法からの解放を自分のものにするためには、イエス様を救い主と信じ告白することが必要です。イエス様を救い主と信じ告白する人は、既に律法の支配から解放され、すべての罪を赦され、永遠の命をいただき、神の子とされています。
パウロは本日の7章1~4節で、このことを「結婚の比喩」を用いて語っています。この比喩は、私たちにはあまり分かりやすくないと感じます。ここで前提となっているのは、聖書の結婚についての考えです。(2節)「結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。」パウロがここで言いたいのは、「私たちが既に律法の縛りから解放されている」ということです。(3節)「従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。」ここでパウロが言いたいことも、「私たちが律法の縛りから解放されている、自由にされている」ということです。
(4節前半)「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。」パウロはここで、キリストを新しい夫、律法を以前の死別した夫にたとえています。パウロが言おうとすることは、「今私たちは、洗礼によって新しい夫キリストと一つになっており、律法という死別した夫の縛りから解放され自由にされている」ということです。言い換えると、「律法の支配から解放されて、キリストの愛の支配下に移されている」ということです。「キリストの愛の支配下に移されている!」 今既に、です。 (4節後半)「それは、あなたがたが、他の方(律法以外の他の方)、つまり、死者の中から復活させられた方(イエス様)のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。」 「神に対して実を結ぶ生き方をすることが大切だ」、というのです。それは「神様を愛し、隣人を愛する」生き方に違いありません。
本日の旧約聖書は、詩編1編です。そこには、どのような人が「実を結ぶ人」か、描かれています。
「いかに幸いなことか/ 神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず/ 傲慢な者と共に座らず
主の教えを愛し/ その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び/ 葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」
「実を結ぶ人」の代表は、イエス・キリストです。イエス様は、ヨハネ福音書15章でおっしゃいます。「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」ちょうど20年前、1996年の東久留米教会の標語聖句です。「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」私たちは自分が一番大切で自己中心ですから、神様を愛し、隣人を愛することが十分にはできません。自分が損しない道ばかり選びたくなります。自力では、神の前に実を結ぶ生き方が、なかなかできません。しかしイエス様が言って下さいます。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」
私たちはイエス・キリストというぶどうの木に、しっかりとつながっていればよいのですね。イエス様というぶどうの木から、愛という栄養分が流れ出て来て、ぶどうの枝である私たち一人一人に与えられます。その愛は、愛の霊である聖霊とも言えます。それによって実を結ぶことができるのです。自力ではなく、イエス様の愛をいただいて、聖霊をいただいて実を結ぶことができます。これぞ福音・グッドニュースです。イエス様の愛を受けるために大切なのは、祈りだと思います。私たちは、祈りにおいて神様と交わります。そのとき神様から、そして神の子イエス・キリストから愛の霊である聖霊を受けます。それによって私たちは慰められ、励まされます。祈りこそ、私たちが信仰と愛に生きる源です。苦しい時に、イエス・キリストのお名前によって祈ることができることは、非常にありがたいことです。
私たちが結ばせていただく実は、どのような実なのか。それはガラテヤの信徒への手紙5章22、23節に書かれています。この御言葉を暗唱しておられる方もおられると思います。
「霊(聖霊)の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」この9つの実を結ばせていただけます。ますます祈って、イエス様から聖霊を愛をいただき、実を結ばせていただきたいと、心より祈ります。
ローマの信徒への手紙に戻り5節。「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。」イエス様によって救われる以前は、そうだったのです。神様の聖なる律法(戒め)を読むと、却って、それに逆らいたい欲情が湧き上がり、律法に逆らって罪を犯し、罪の奴隷となり、死と滅びに至る生き方をし、死に至る実を結んでいた。以前はそうでしたが、イエス様の十字架で罪赦された今は違います。(6節)「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」 霊は聖霊・イエス様の霊ですから、「霊に従う新しい生き方」とは、「イエス様に従う新しい生き方」です。それはイエス様と同じように、父なる神様と隣人を進んで喜んで愛する、新しい生き方です。イエス様と全く同じには、なかなかなれませんが、それでもイエス様を見上げて、喜んで従って行こうと志すのです。
先週の7月26日(火)の午前2時過ぎに、神奈川県の相模原市で、障がいを持つ方々の施設が襲撃され、19名もの方々が刃物で殺害され、26名が怪我を負う恐るべき事件が起こりました。完全に悪魔の働きです。5節に「死に至る実を結んでいました」と書かれていますが、あの容疑者が犯人とすれば、彼が完全に悪魔の奴隷、悪魔の僕(しもべ)となって行動してしまったのです。報道によると容疑者は、「障がい者は生きていても仕方がない。生きている価値がない」という考え方に支配されているようです。まさしくナチス・ドイツ、ヒトラーの考え方そっくりです。ヒトラーはアーリア民族(ドイツ人)が一番優秀だと考えており、優秀な遺伝子だけを残すことが人類のためになるという、真に身勝手な考えを抱いていました。愛国心が極端に進むと、こうなってしまうのですね。自分の国と民族が一番大事だという考えは、ほかの人・国・民族を排除する動きなり、今の世界で復活しつつあるようですから、注意が必要と思います。ナチス、ヒトラーはこのような考えでユダヤ人の絶滅計画を推し進め、ドイツ国内の障碍者を無用な存在と考え、安楽死させる計画を秘密のうちに推進しました。まさに悪魔の計画の推進です。
皆様よくご存じの通り、創世記1章には、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」と書かれています。動物の命も大切ですが、人の命はもっともっと大切です。神様にかたどって、神様に似せて造られているので、人の命には特別な尊厳があります。障がいのあるなしにかかわらず、どの人の命にも神様に似せて造られた尊厳があります。重度の障がいがあるからその命に価値がないとか少ないという考えは、命を造られた神様に反逆する考え、悪魔の考えです。完全に間違った考えとして、否定されることが必要です。ナチスの考えは、優生思想と呼ばれます。優れた命と劣った命があり、優れた命だけが生き残る価値があるという考え方です。神様に反する悪魔の考え方です。ですからナチスとヒトラーは滅んだのです。神が滅ぼしたのです。モーセの十戒の第六の戒めにも、「殺してはならない」とあります。人を殺すことは、神様に逆らう罪です。
ドイツに福祉の町として知られるベーテルという町があるそうです。ベーテルの名前は、旧約聖書のベテルという地名からとられており、「神の家」の意味です。創設メンバーの一人がフリートリッヒ・フォン・ボーデルシュヴィング牧師だということです。最初はてんかんの患者さんの小さな施設から出発したようです。1872年(明治5年)のことです。その後、彼が召天すると、末の息子のフリッツ・フォン・ボーデルシュヴィング牧師がベーテルの責任者として、あとを継ぎ、障がいのある人とない人が共に暮らす村として、成長していったようです。ナチスの時代になり、大きな試練の時が来ました。1939年にニュールンベルグ法という法律ができました。その法律には、「不治の病をもてる者は、安楽死が与えられる」という条項があったそうです。それを実施する通達が、公式に1941年に出されたそうです。それを「T4作戦」と呼ぶそうです。しかしある本によると、その通達の前に既に7万人の障がい者が秘密のうちに殺されていたと言います(橋本孝『福祉の町ベーテル』五月書房、2006年、146ページ)。ベーテルにも「T4作戦」による申告書が届きました。そこにはベーテルに住んでいる人々の健康の診断の結果と労働能力を書き込むことになっていました。書き込まれた用紙をナチスの担当者が見て、赤でプラスのしるしをつけると死を意味し、青でマイナスのしるしをつけると生き残ることができることを意味したそうです。フリッツ・フォン・ボーデルシュヴィング牧師は迷わず、その申告書に何も書き込まないように皆に指示したそうです。彼はナチスに手紙を送り、担当者と話をして、「患者を殺害することは許されないし、障がいある人たちに生きる価値がある」と訴えました。すると仲間のブラウネ牧師が逮捕されました。フリッツ牧師は、様々な事情が作用して逮捕されませんでした。
1941年2月、ベルリンから医師視察団がベーテルにやって来ました。一行は建物に押し入り、患者の書類を奪い、死に値すると判断した患者を記録したそうです。フリッツ牧師は青ざめ、震えました。ナチスの医者は、安楽死の必要を説きました。「不治の病をもったまま生きることは本人たちにも不幸せなのです。安楽死によって、彼らは幸せになるのです。」フリッツ牧師は、静かに言葉で戦いました。「この世の中には、生きるに値しない人とか、社会に不適応な人はおりません。神は決してそのような人間をお創りにはなりませんでした。国家にとって有用か、国家の目的に合うかの問題は人間個性の尺度にはそぐわないのです。人間というものは生存目的に適うようにだけ生きているわけでもありません。安楽死は神の掟に反します。それにキリスト教徒にとってこのような安楽死は非難されるべきです。なぜなら、イエス・キリストは一番惨めな人のために十字架にかかり、復活なさいました。国民を助けるために、何千という人々を犠牲にしてはなりません。それは大きな間違いです。他の健常な人たちを助けるという大義名分で、非人道的なことをすることは何人にも許されません」(前掲書、153~154ページ)。
その後、ベーテルも連合軍の空襲を受けました。そして、他の牧師や神父なども反対の声を上げるようになり、1941年の暮れには安楽死の執行は取りやめになっていったそうです。1941年12月は日本が真珠湾攻撃を行った時ですが、ドイツ軍も次第に快進撃できなくなり、敗北に転じて行ったことで、障がい者の安楽死も実行できなくなっていったのでしょうか。しかしベーテルの障がい者の全員が守られたのではなく、残念ながら何人かは殺されたようです。それでもその後、ベーテルは「ヒトラーから障がい者を守った村」として知られるようになりました。まさにフリッツ・フォン・ボーデルシュヴィング牧師とその仲間の人々は、神様の僕、イエス・キリストの真の弟子です。ローマの信徒への手紙7章の御言葉を借りるならば、「神に対して実を結ぶ」人、「霊(聖霊)(イエス・キリスト)に従う新しい生き方で(神様に)仕える人」です。
「障がいがある人は生きる価値がない」という間違った考え方は、人種差別や外国人差別にもつながる罪深くて危険な考えと思います。このような悪魔の考え方が日本と世界に蔓延しないように、切に祈ります。
三浦綾子さんの『光あるうちに』(新潮文庫、2013年)に大切な言葉があります。「物品は廃物となっても、人間は決して廃品とはならないのだ」(20ページ)。「神は人間を廃品とはし給わない。『人間は生きている限り、いかなる人間であっても使命が与えられている』という誰かの言葉がある。~口がきけなくとも、目が見えなくても、~重症身体障がい者でも、神にとって、廃物的存在の人間は一人もいないのだ。みんな何らかの尊い使命を与えられているのだ」(22~23ページ)。 私たちがイエス様の心に近づいて、イエス様に従って行くことができるように、お祈りして参りましょう。アーメン(「真実に」)。
「その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです」(ローマ7章6節)。
第1節を読みます。「それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。」ここで、手紙の著者パウロが言いたいことは、イエス・キリストを信じる人は、既に律法から解放されており、律法の支配の下にはないということです。イエス・キリストが地上に誕生して下さり、私たちの罪を背負って十字架で死なれ、復活なさるまで、私たちは皆、律法の支配下にいました。律法の代表はモーセの十戒です。十戒は、何が正しいことかを示す神様の基準です。その十戒を一つ一つよく学べば、私たちは自分が十戒のどの一つの戒めをさえ、完全には守ることができていないことを痛感します。律法を守ることができていない自分が、神様から見れば罪人(つみびと)であることを悟ります。その意味で律法は重荷です。律法は、私たちに自分が罪人(つみびと)であることを教えます。救い主イエス・キリストが来て、私たちのために十字架で死んで下さらなければ、私たちは律法の支配下にあって、自分の罪のゆえに救いの希望のない人生を送るしかなかったのです。
しかしイエス様がこの地上に誕生され、私たちの身代わりに十字架にかかって死んで下さいました。ここいる私たち一人一人を含む地球上の全人類の、全部の罪を背負いきってくださったのです。とてつもなく大量の罪です。律法は神様の正義の基準であり、律法違反の罪が全て裁かれることを求めます。イエス・キリストが、全人類の律法違反の罪の責任を、すべて背負い切って裁かれて下さいました。それで律法が要求する正義の裁きが、全て成し遂げられたのです。律法が要求する正義が100%満たされました。イエス様のお陰で、私たちは律法の支配下から解放されました。私たちが、律法からの解放を自分のものにするためには、イエス様を救い主と信じ告白することが必要です。イエス様を救い主と信じ告白する人は、既に律法の支配から解放され、すべての罪を赦され、永遠の命をいただき、神の子とされています。
パウロは本日の7章1~4節で、このことを「結婚の比喩」を用いて語っています。この比喩は、私たちにはあまり分かりやすくないと感じます。ここで前提となっているのは、聖書の結婚についての考えです。(2節)「結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。」パウロがここで言いたいのは、「私たちが既に律法の縛りから解放されている」ということです。(3節)「従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。」ここでパウロが言いたいことも、「私たちが律法の縛りから解放されている、自由にされている」ということです。
(4節前半)「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。」パウロはここで、キリストを新しい夫、律法を以前の死別した夫にたとえています。パウロが言おうとすることは、「今私たちは、洗礼によって新しい夫キリストと一つになっており、律法という死別した夫の縛りから解放され自由にされている」ということです。言い換えると、「律法の支配から解放されて、キリストの愛の支配下に移されている」ということです。「キリストの愛の支配下に移されている!」 今既に、です。 (4節後半)「それは、あなたがたが、他の方(律法以外の他の方)、つまり、死者の中から復活させられた方(イエス様)のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。」 「神に対して実を結ぶ生き方をすることが大切だ」、というのです。それは「神様を愛し、隣人を愛する」生き方に違いありません。
本日の旧約聖書は、詩編1編です。そこには、どのような人が「実を結ぶ人」か、描かれています。
「いかに幸いなことか/ 神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず/ 傲慢な者と共に座らず
主の教えを愛し/ その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び/ 葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」
「実を結ぶ人」の代表は、イエス・キリストです。イエス様は、ヨハネ福音書15章でおっしゃいます。「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」ちょうど20年前、1996年の東久留米教会の標語聖句です。「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」私たちは自分が一番大切で自己中心ですから、神様を愛し、隣人を愛することが十分にはできません。自分が損しない道ばかり選びたくなります。自力では、神の前に実を結ぶ生き方が、なかなかできません。しかしイエス様が言って下さいます。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」
私たちはイエス・キリストというぶどうの木に、しっかりとつながっていればよいのですね。イエス様というぶどうの木から、愛という栄養分が流れ出て来て、ぶどうの枝である私たち一人一人に与えられます。その愛は、愛の霊である聖霊とも言えます。それによって実を結ぶことができるのです。自力ではなく、イエス様の愛をいただいて、聖霊をいただいて実を結ぶことができます。これぞ福音・グッドニュースです。イエス様の愛を受けるために大切なのは、祈りだと思います。私たちは、祈りにおいて神様と交わります。そのとき神様から、そして神の子イエス・キリストから愛の霊である聖霊を受けます。それによって私たちは慰められ、励まされます。祈りこそ、私たちが信仰と愛に生きる源です。苦しい時に、イエス・キリストのお名前によって祈ることができることは、非常にありがたいことです。
私たちが結ばせていただく実は、どのような実なのか。それはガラテヤの信徒への手紙5章22、23節に書かれています。この御言葉を暗唱しておられる方もおられると思います。
「霊(聖霊)の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」この9つの実を結ばせていただけます。ますます祈って、イエス様から聖霊を愛をいただき、実を結ばせていただきたいと、心より祈ります。
ローマの信徒への手紙に戻り5節。「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。」イエス様によって救われる以前は、そうだったのです。神様の聖なる律法(戒め)を読むと、却って、それに逆らいたい欲情が湧き上がり、律法に逆らって罪を犯し、罪の奴隷となり、死と滅びに至る生き方をし、死に至る実を結んでいた。以前はそうでしたが、イエス様の十字架で罪赦された今は違います。(6節)「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」 霊は聖霊・イエス様の霊ですから、「霊に従う新しい生き方」とは、「イエス様に従う新しい生き方」です。それはイエス様と同じように、父なる神様と隣人を進んで喜んで愛する、新しい生き方です。イエス様と全く同じには、なかなかなれませんが、それでもイエス様を見上げて、喜んで従って行こうと志すのです。
先週の7月26日(火)の午前2時過ぎに、神奈川県の相模原市で、障がいを持つ方々の施設が襲撃され、19名もの方々が刃物で殺害され、26名が怪我を負う恐るべき事件が起こりました。完全に悪魔の働きです。5節に「死に至る実を結んでいました」と書かれていますが、あの容疑者が犯人とすれば、彼が完全に悪魔の奴隷、悪魔の僕(しもべ)となって行動してしまったのです。報道によると容疑者は、「障がい者は生きていても仕方がない。生きている価値がない」という考え方に支配されているようです。まさしくナチス・ドイツ、ヒトラーの考え方そっくりです。ヒトラーはアーリア民族(ドイツ人)が一番優秀だと考えており、優秀な遺伝子だけを残すことが人類のためになるという、真に身勝手な考えを抱いていました。愛国心が極端に進むと、こうなってしまうのですね。自分の国と民族が一番大事だという考えは、ほかの人・国・民族を排除する動きなり、今の世界で復活しつつあるようですから、注意が必要と思います。ナチス、ヒトラーはこのような考えでユダヤ人の絶滅計画を推し進め、ドイツ国内の障碍者を無用な存在と考え、安楽死させる計画を秘密のうちに推進しました。まさに悪魔の計画の推進です。
皆様よくご存じの通り、創世記1章には、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」と書かれています。動物の命も大切ですが、人の命はもっともっと大切です。神様にかたどって、神様に似せて造られているので、人の命には特別な尊厳があります。障がいのあるなしにかかわらず、どの人の命にも神様に似せて造られた尊厳があります。重度の障がいがあるからその命に価値がないとか少ないという考えは、命を造られた神様に反逆する考え、悪魔の考えです。完全に間違った考えとして、否定されることが必要です。ナチスの考えは、優生思想と呼ばれます。優れた命と劣った命があり、優れた命だけが生き残る価値があるという考え方です。神様に反する悪魔の考え方です。ですからナチスとヒトラーは滅んだのです。神が滅ぼしたのです。モーセの十戒の第六の戒めにも、「殺してはならない」とあります。人を殺すことは、神様に逆らう罪です。
ドイツに福祉の町として知られるベーテルという町があるそうです。ベーテルの名前は、旧約聖書のベテルという地名からとられており、「神の家」の意味です。創設メンバーの一人がフリートリッヒ・フォン・ボーデルシュヴィング牧師だということです。最初はてんかんの患者さんの小さな施設から出発したようです。1872年(明治5年)のことです。その後、彼が召天すると、末の息子のフリッツ・フォン・ボーデルシュヴィング牧師がベーテルの責任者として、あとを継ぎ、障がいのある人とない人が共に暮らす村として、成長していったようです。ナチスの時代になり、大きな試練の時が来ました。1939年にニュールンベルグ法という法律ができました。その法律には、「不治の病をもてる者は、安楽死が与えられる」という条項があったそうです。それを実施する通達が、公式に1941年に出されたそうです。それを「T4作戦」と呼ぶそうです。しかしある本によると、その通達の前に既に7万人の障がい者が秘密のうちに殺されていたと言います(橋本孝『福祉の町ベーテル』五月書房、2006年、146ページ)。ベーテルにも「T4作戦」による申告書が届きました。そこにはベーテルに住んでいる人々の健康の診断の結果と労働能力を書き込むことになっていました。書き込まれた用紙をナチスの担当者が見て、赤でプラスのしるしをつけると死を意味し、青でマイナスのしるしをつけると生き残ることができることを意味したそうです。フリッツ・フォン・ボーデルシュヴィング牧師は迷わず、その申告書に何も書き込まないように皆に指示したそうです。彼はナチスに手紙を送り、担当者と話をして、「患者を殺害することは許されないし、障がいある人たちに生きる価値がある」と訴えました。すると仲間のブラウネ牧師が逮捕されました。フリッツ牧師は、様々な事情が作用して逮捕されませんでした。
1941年2月、ベルリンから医師視察団がベーテルにやって来ました。一行は建物に押し入り、患者の書類を奪い、死に値すると判断した患者を記録したそうです。フリッツ牧師は青ざめ、震えました。ナチスの医者は、安楽死の必要を説きました。「不治の病をもったまま生きることは本人たちにも不幸せなのです。安楽死によって、彼らは幸せになるのです。」フリッツ牧師は、静かに言葉で戦いました。「この世の中には、生きるに値しない人とか、社会に不適応な人はおりません。神は決してそのような人間をお創りにはなりませんでした。国家にとって有用か、国家の目的に合うかの問題は人間個性の尺度にはそぐわないのです。人間というものは生存目的に適うようにだけ生きているわけでもありません。安楽死は神の掟に反します。それにキリスト教徒にとってこのような安楽死は非難されるべきです。なぜなら、イエス・キリストは一番惨めな人のために十字架にかかり、復活なさいました。国民を助けるために、何千という人々を犠牲にしてはなりません。それは大きな間違いです。他の健常な人たちを助けるという大義名分で、非人道的なことをすることは何人にも許されません」(前掲書、153~154ページ)。
その後、ベーテルも連合軍の空襲を受けました。そして、他の牧師や神父なども反対の声を上げるようになり、1941年の暮れには安楽死の執行は取りやめになっていったそうです。1941年12月は日本が真珠湾攻撃を行った時ですが、ドイツ軍も次第に快進撃できなくなり、敗北に転じて行ったことで、障がい者の安楽死も実行できなくなっていったのでしょうか。しかしベーテルの障がい者の全員が守られたのではなく、残念ながら何人かは殺されたようです。それでもその後、ベーテルは「ヒトラーから障がい者を守った村」として知られるようになりました。まさにフリッツ・フォン・ボーデルシュヴィング牧師とその仲間の人々は、神様の僕、イエス・キリストの真の弟子です。ローマの信徒への手紙7章の御言葉を借りるならば、「神に対して実を結ぶ」人、「霊(聖霊)(イエス・キリスト)に従う新しい生き方で(神様に)仕える人」です。
「障がいがある人は生きる価値がない」という間違った考え方は、人種差別や外国人差別にもつながる罪深くて危険な考えと思います。このような悪魔の考え方が日本と世界に蔓延しないように、切に祈ります。
三浦綾子さんの『光あるうちに』(新潮文庫、2013年)に大切な言葉があります。「物品は廃物となっても、人間は決して廃品とはならないのだ」(20ページ)。「神は人間を廃品とはし給わない。『人間は生きている限り、いかなる人間であっても使命が与えられている』という誰かの言葉がある。~口がきけなくとも、目が見えなくても、~重症身体障がい者でも、神にとって、廃物的存在の人間は一人もいないのだ。みんな何らかの尊い使命を与えられているのだ」(22~23ページ)。 私たちがイエス様の心に近づいて、イエス様に従って行くことができるように、お祈りして参りましょう。アーメン(「真実に」)。
2016-07-27 16:52:49(水)
「聖なる生活の実を結ぶ」 2016年7月24日(日) 聖霊降臨節第11主日礼拝説教
朗読聖書:レビ記19章1~18節、ローマの信徒への手紙6章15~23。
「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます」(ローマ書6章22節)。
最初の15節「では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではありません。」パウロは、断言します。「わたしたちは、もはや律法の下にはいない。恵みの下にいるのだ」と。恵みとは、イエス・キリストが私たち全人類の全ての罪を、本当に背負って、十字架で死んで下さった恵みです。そしてイエス・キリストは三日目に復活されて、人類最大の敵・死に打ち勝つ永遠の命への道を、切り開いて下さいました。自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストを自分の救い主と信じ、告白する人は、必ず全ての罪の赦しと、永遠の命をいただくのです。これが恵みです。これがどんなに大きな恵みであるか、この手紙の5章16節が力強く語っています。「恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。」これは究極の恵みの御言葉と思います。イエス様の十字架によって赦されない罪はないと言えるのではないでしょうか。
イエス・キリストを救い主と信じたならば、洗礼を受ける方がよいのです。この手紙の6章前半に書いてある通り、洗礼を受けることは、「イエス・キリストと共に十字架につけられて死に、イエス・キリストと共に新しい命に甦ること」です。イエス様と一体となることです。罪多い古い自分がイエス様と一緒に十字架につけられて死んだのですから、その後は、前のように罪を犯し続けて平気、というわけにはゆきません。イエス様は全く罪を犯されません。そのイエス様と一体となったのですから、私たちもどんどん罪を犯し続けるというわけにはゆきません。生き方が少しずつ変わるはずです。祈って聖霊を受けるのですから、罪を嫌い、罪を憎む生き方に変えられてゆくはずです。ですからパウロは、本日のすぐ前の13節でこう述べます。「あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。」それは、聖霊に助けられて、少しずつ聖なる生き方を目指す歩みになります。聖なる生き方は自力ではできないので、祈って聖霊に助けていただいて、そのように生き始めます。
そして本日の15節です。「では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。」私たちはイエス様のお陰で、全ての罪を赦していただきました。そして神の子とされました。それが「恵みの下にいる」ということ、罪の支配から救われたということです。では、だからと言って今後も、以前と同じように罪を犯し続けてよいかというと、「決してそうではない」とパウロは強く否定します。口語訳聖書では「断じてそうではない」という決然とした言葉です。そしてパウロは、私たちを懇々と諭します。(16節)「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」ここに奴隷という言葉が出て来ました。パウロの時代は、奴隷がいました。もちろん現代では奴隷の存在は全く認められません。奴隷は、自由を持たない人です。私たちは社会的な意味で奴隷ではありません。しかし私たちも、自分の欲望の奴隷になることは、あり得ることです。
小学校5年生の時に、国語の教科書に、「テレビの奴隷になるな」という意味のことが書いてありました。小学校5年生の私には、その意味が分かりませんでした。その後、だいぶたってから分かるようになりましたが、もちろんテレビばかり見過ぎて時間を無駄に過ごすな、テレビに支配されるな、ということです。イエス様は、ヨハネによる福音書8章34節で、「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」と喝破されました。本当のことをおっしゃいました。私たちは生まれつきの状態ではわがままで、自分の欲望通りに生きようとするかもしれません。しかしそれでは、欲望の奴隷です。しかしそれに気づかないことがあります。欲望のままに、勝手気ままに生きることを自由と思い込んでしまうのです。本当は反対で、自分の欲望とわがままな心に負けずに打ち勝つことが本当の自由です。欲望とわがままな心を、罪と言い換えることができます。自分の罪に負けないで、罪に打ち勝つことが、本当の自由です。
「あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」罪に支配され、罪の指示に従い、罪を犯し続ける生き方は、死と滅びに至ってしまいます。私たちイエス様に救われた者は、その生き方から立ち直らせていただき、罪に従う古い生き方と決別し、神様の清き霊である聖霊に助けていただいて、新しい生き方に踏み出します。それが「神に従順に仕える奴隷となって義に至る」生き方です。奴隷という言葉は、聖書ではしばしば僕(しもべ)と訳されます。「神に従順に仕える奴隷」という言い方には少々抵抗があるかもしれません。それは「神に従順に仕える僕(しもべ)」ということです。私たちは、「神に従順に仕える僕(しもべ)」として生きてゆきます。何にも仕えない生き方はないのですね。罪(と罪の誘惑をもたらす悪魔)に仕えるか、真の神様に仕えるか、2つに1つしかないのです。どちらにも仕えないことが自由のように錯覚しやすいのですが、真の神様に仕える生き方にのみ、本当の自由があります。神に仕えないで生きることは、自由のようで、実は罪と悪魔に仕えている恐れがあります。
(17~18節)「しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。」「かつての生き方は悪かったが、今の生き方はよくなった」と、「キリストを信じる前のかつて」と「キリストを信じた後の今」が、はっきりとコントラストにされ、対比されています。「かつては罪の奴隷だったが、今は義に仕える者・神の奴隷(僕)に変わった」と。この手紙は、パウロがローマのクリスチャンたちに書き送った手紙ですから、パウロはローマのクリスチャンたちが、罪に従う古い生き方から、神様に従う新しい生き方に転じたことを喜んでいるのですね。パウロは、「全ての時代の全てのクリスチャンがこのようになるのですよ」と、私たちにもメッセージを送っているのですね。
19節も、基本的に同じことを述べています。「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法(罪)の奴隷として、不法(罪)の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。」ここでも、「かつて」と「今」を明確に対比して、分かりやすく述べようとしています。祈って聖霊に助けていただいて、自分の心と体の全体を義の奴隷として神様に献げ、聖なる生活を送るようにと、勧めています。私たちは洗礼を受けた後も、自分の罪をゼロにすることはできないので罪人(つみびと)であり続けます。しかし清い方向を目指して生きるように心がけるのです。
本日の旧約聖書は、レビ記19章1節以下です。2節にこのように書かれています。神様が指導者モーセにおっしゃった言葉です。「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。」そして、具体的な聖なる生き方が書かれていくのです。このレビ記全体のメッセージをまとめると、今の2節に集約されると思うのです。「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。」私たちは天国に入れていただく時に、自分の罪に完全に死に、罪を全て脱ぎ捨てるので、その時に完全に聖なる者となります。それまでは完全に聖なる者になれないのですが、それでも日々、自分のわがままや罪を殺す心がけは必要です。聖なる生き方は、自己中心を捨て、神様と隣人を愛する生き方だと気づきます。モーセの十戒を守る生き方とも言えます。たとえば3、4節には、このように書かれています。「父と母とを敬いなさい。わたしの安息日を守りなさい。わたしはあなたたちの神、主である。偶像を仰いではならない。神々の偶像を鋳造してはならない。わたしはあなたたちの神、主である。」
9~11節は隣人愛の実行を求める御言葉です。「穀物を収穫するときは、畑を隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後も落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは盗んではならない。うそをついてはならない。互いに欺いてはならない。~わたしは主である。」 13~14節も、隣人愛の実行を求める御言葉ですね。「あなたは隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。耳の聞こえない者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。」そして18節は、イエス様も引用なさる有名で大事な御言葉です。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」 イエス様が、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい」と言われたときに引用なさったのが、この18節ですね。
ローマの信徒への手紙に戻り、20節。「あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。」その時は、義の奴隷でなく、神の僕でなく、神様から離れて勝手気ままに、罪を罪とも思わず、罪を犯しながら生きていた、ということです。(21節)「では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが、今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。」
その頃は、罪深い実を結んでいました。以前はそれを誇りにさえしていたかもしれませんが、今ではそれを非常に恥ずかしいと感じています。以前のまま罪を犯し続けて恥じない生き方を続けていれば、死と滅びに行き着いたに違いありません。
(22節)「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」今は、イエス様の十字架のお陰で罪を赦され、罪の必然的な結果である死から解放され、神の僕になり、聖霊に助けられて、罪を避けて神様と隣人を愛する生き方に、徐々に歩み始めた。この生き方の行き着く先は永遠の命であり、天国である。そうパウロが断言します。イエス様は、同じことを別の表現で言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(マタイ福音書16章24~25節)。罪を犯し続ける生き方は滅びに至るが、イエス様に従い、神の僕として自分の罪を悔い改めながら生きる人は、永遠の命と天国に至る、ということです。
23節の前半。「罪が支払う報酬は死です。」罪という主人が与えてくれる報酬は死と滅びでしかありません。そのような主人に従ってはなりません。人を罪へ誘惑するのは悪魔です。悪魔という主人が与えてくれる報酬も死と滅びです。罪と悪魔という主人に従い、その奴隷となってはならないのです。23節の後半。「しかし、神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです。」イエス様に従い、父なる神様に従順に従う奴隷・僕になるならば、父なる神様は私たちに永遠の命という最高の賜物を与えて下さいます。私たちは神の奴隷・僕として最後まで生きてゆきたいのです。
今日の個所には、奴隷という言葉が多く出ています。奴隷の反対は自由です。「本当の自由とは何か」がテーマとも言えます。私たちはここで、宗教改革者マルティン・ルターが書いた短い本『キリスト者の自由』を思い出すことがふさわしいでしょう。ルターは、キリスト者(クリスチャン)とは、次のような人だと教えてくれます。
「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。
キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する」
(ルター著・石原謙訳『新訳 キリスト者の自由 聖書への序言』岩波文庫、1993年、13ページ)。まずイエス様が、このような方です。「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主だ」とは、「キリスト者が罪にも負けず、悪魔の誘惑にも負けない自由な君主だ」ということです。自力ではこうなれないので、イエス様と聖霊に助けられてこうなります。「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕だ」とは、キリスト者は、イエス様と同じように、喜んですべての人の下に降りて奉仕する者だ」ということです。イエス様と聖霊に助けられて敵をさえ愛する。それが真の自由です。気の合わない人にも、気の合う人にも、全ての人に喜んで奉仕することこそ愛であり、真の自由です。
確かにイエス様は、奴隷・僕の姿勢をとって、弟子たちの足を喜んで洗う愛を行われました。イエス様は、マルコ福音書10章で言われました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(奴隷)になりなさい。人の子(ご自身)は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」パウロは、このイエス様の生き方をフィリピの信徒への手紙2章6節以下で、次のように称えました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(奴隷)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」
私たちのために、進んで十字架にかかって下さったイエス様の愛の生き方こそ、真に自由な生き方です。この真の自由に生きて、永遠の命に至るように、私たちも神様から招かれています。自分の罪を悔い改めて、ご一緒にイエス様を見上げてこの招きに従って参りましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。
「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます」(ローマ書6章22節)。
最初の15節「では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではありません。」パウロは、断言します。「わたしたちは、もはや律法の下にはいない。恵みの下にいるのだ」と。恵みとは、イエス・キリストが私たち全人類の全ての罪を、本当に背負って、十字架で死んで下さった恵みです。そしてイエス・キリストは三日目に復活されて、人類最大の敵・死に打ち勝つ永遠の命への道を、切り開いて下さいました。自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストを自分の救い主と信じ、告白する人は、必ず全ての罪の赦しと、永遠の命をいただくのです。これが恵みです。これがどんなに大きな恵みであるか、この手紙の5章16節が力強く語っています。「恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。」これは究極の恵みの御言葉と思います。イエス様の十字架によって赦されない罪はないと言えるのではないでしょうか。
イエス・キリストを救い主と信じたならば、洗礼を受ける方がよいのです。この手紙の6章前半に書いてある通り、洗礼を受けることは、「イエス・キリストと共に十字架につけられて死に、イエス・キリストと共に新しい命に甦ること」です。イエス様と一体となることです。罪多い古い自分がイエス様と一緒に十字架につけられて死んだのですから、その後は、前のように罪を犯し続けて平気、というわけにはゆきません。イエス様は全く罪を犯されません。そのイエス様と一体となったのですから、私たちもどんどん罪を犯し続けるというわけにはゆきません。生き方が少しずつ変わるはずです。祈って聖霊を受けるのですから、罪を嫌い、罪を憎む生き方に変えられてゆくはずです。ですからパウロは、本日のすぐ前の13節でこう述べます。「あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。」それは、聖霊に助けられて、少しずつ聖なる生き方を目指す歩みになります。聖なる生き方は自力ではできないので、祈って聖霊に助けていただいて、そのように生き始めます。
そして本日の15節です。「では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。」私たちはイエス様のお陰で、全ての罪を赦していただきました。そして神の子とされました。それが「恵みの下にいる」ということ、罪の支配から救われたということです。では、だからと言って今後も、以前と同じように罪を犯し続けてよいかというと、「決してそうではない」とパウロは強く否定します。口語訳聖書では「断じてそうではない」という決然とした言葉です。そしてパウロは、私たちを懇々と諭します。(16節)「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」ここに奴隷という言葉が出て来ました。パウロの時代は、奴隷がいました。もちろん現代では奴隷の存在は全く認められません。奴隷は、自由を持たない人です。私たちは社会的な意味で奴隷ではありません。しかし私たちも、自分の欲望の奴隷になることは、あり得ることです。
小学校5年生の時に、国語の教科書に、「テレビの奴隷になるな」という意味のことが書いてありました。小学校5年生の私には、その意味が分かりませんでした。その後、だいぶたってから分かるようになりましたが、もちろんテレビばかり見過ぎて時間を無駄に過ごすな、テレビに支配されるな、ということです。イエス様は、ヨハネによる福音書8章34節で、「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」と喝破されました。本当のことをおっしゃいました。私たちは生まれつきの状態ではわがままで、自分の欲望通りに生きようとするかもしれません。しかしそれでは、欲望の奴隷です。しかしそれに気づかないことがあります。欲望のままに、勝手気ままに生きることを自由と思い込んでしまうのです。本当は反対で、自分の欲望とわがままな心に負けずに打ち勝つことが本当の自由です。欲望とわがままな心を、罪と言い換えることができます。自分の罪に負けないで、罪に打ち勝つことが、本当の自由です。
「あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」罪に支配され、罪の指示に従い、罪を犯し続ける生き方は、死と滅びに至ってしまいます。私たちイエス様に救われた者は、その生き方から立ち直らせていただき、罪に従う古い生き方と決別し、神様の清き霊である聖霊に助けていただいて、新しい生き方に踏み出します。それが「神に従順に仕える奴隷となって義に至る」生き方です。奴隷という言葉は、聖書ではしばしば僕(しもべ)と訳されます。「神に従順に仕える奴隷」という言い方には少々抵抗があるかもしれません。それは「神に従順に仕える僕(しもべ)」ということです。私たちは、「神に従順に仕える僕(しもべ)」として生きてゆきます。何にも仕えない生き方はないのですね。罪(と罪の誘惑をもたらす悪魔)に仕えるか、真の神様に仕えるか、2つに1つしかないのです。どちらにも仕えないことが自由のように錯覚しやすいのですが、真の神様に仕える生き方にのみ、本当の自由があります。神に仕えないで生きることは、自由のようで、実は罪と悪魔に仕えている恐れがあります。
(17~18節)「しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。」「かつての生き方は悪かったが、今の生き方はよくなった」と、「キリストを信じる前のかつて」と「キリストを信じた後の今」が、はっきりとコントラストにされ、対比されています。「かつては罪の奴隷だったが、今は義に仕える者・神の奴隷(僕)に変わった」と。この手紙は、パウロがローマのクリスチャンたちに書き送った手紙ですから、パウロはローマのクリスチャンたちが、罪に従う古い生き方から、神様に従う新しい生き方に転じたことを喜んでいるのですね。パウロは、「全ての時代の全てのクリスチャンがこのようになるのですよ」と、私たちにもメッセージを送っているのですね。
19節も、基本的に同じことを述べています。「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法(罪)の奴隷として、不法(罪)の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。」ここでも、「かつて」と「今」を明確に対比して、分かりやすく述べようとしています。祈って聖霊に助けていただいて、自分の心と体の全体を義の奴隷として神様に献げ、聖なる生活を送るようにと、勧めています。私たちは洗礼を受けた後も、自分の罪をゼロにすることはできないので罪人(つみびと)であり続けます。しかし清い方向を目指して生きるように心がけるのです。
本日の旧約聖書は、レビ記19章1節以下です。2節にこのように書かれています。神様が指導者モーセにおっしゃった言葉です。「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。」そして、具体的な聖なる生き方が書かれていくのです。このレビ記全体のメッセージをまとめると、今の2節に集約されると思うのです。「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。」私たちは天国に入れていただく時に、自分の罪に完全に死に、罪を全て脱ぎ捨てるので、その時に完全に聖なる者となります。それまでは完全に聖なる者になれないのですが、それでも日々、自分のわがままや罪を殺す心がけは必要です。聖なる生き方は、自己中心を捨て、神様と隣人を愛する生き方だと気づきます。モーセの十戒を守る生き方とも言えます。たとえば3、4節には、このように書かれています。「父と母とを敬いなさい。わたしの安息日を守りなさい。わたしはあなたたちの神、主である。偶像を仰いではならない。神々の偶像を鋳造してはならない。わたしはあなたたちの神、主である。」
9~11節は隣人愛の実行を求める御言葉です。「穀物を収穫するときは、畑を隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後も落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは盗んではならない。うそをついてはならない。互いに欺いてはならない。~わたしは主である。」 13~14節も、隣人愛の実行を求める御言葉ですね。「あなたは隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。耳の聞こえない者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。」そして18節は、イエス様も引用なさる有名で大事な御言葉です。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」 イエス様が、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい」と言われたときに引用なさったのが、この18節ですね。
ローマの信徒への手紙に戻り、20節。「あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。」その時は、義の奴隷でなく、神の僕でなく、神様から離れて勝手気ままに、罪を罪とも思わず、罪を犯しながら生きていた、ということです。(21節)「では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが、今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。」
その頃は、罪深い実を結んでいました。以前はそれを誇りにさえしていたかもしれませんが、今ではそれを非常に恥ずかしいと感じています。以前のまま罪を犯し続けて恥じない生き方を続けていれば、死と滅びに行き着いたに違いありません。
(22節)「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」今は、イエス様の十字架のお陰で罪を赦され、罪の必然的な結果である死から解放され、神の僕になり、聖霊に助けられて、罪を避けて神様と隣人を愛する生き方に、徐々に歩み始めた。この生き方の行き着く先は永遠の命であり、天国である。そうパウロが断言します。イエス様は、同じことを別の表現で言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(マタイ福音書16章24~25節)。罪を犯し続ける生き方は滅びに至るが、イエス様に従い、神の僕として自分の罪を悔い改めながら生きる人は、永遠の命と天国に至る、ということです。
23節の前半。「罪が支払う報酬は死です。」罪という主人が与えてくれる報酬は死と滅びでしかありません。そのような主人に従ってはなりません。人を罪へ誘惑するのは悪魔です。悪魔という主人が与えてくれる報酬も死と滅びです。罪と悪魔という主人に従い、その奴隷となってはならないのです。23節の後半。「しかし、神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです。」イエス様に従い、父なる神様に従順に従う奴隷・僕になるならば、父なる神様は私たちに永遠の命という最高の賜物を与えて下さいます。私たちは神の奴隷・僕として最後まで生きてゆきたいのです。
今日の個所には、奴隷という言葉が多く出ています。奴隷の反対は自由です。「本当の自由とは何か」がテーマとも言えます。私たちはここで、宗教改革者マルティン・ルターが書いた短い本『キリスト者の自由』を思い出すことがふさわしいでしょう。ルターは、キリスト者(クリスチャン)とは、次のような人だと教えてくれます。
「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。
キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する」
(ルター著・石原謙訳『新訳 キリスト者の自由 聖書への序言』岩波文庫、1993年、13ページ)。まずイエス様が、このような方です。「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主だ」とは、「キリスト者が罪にも負けず、悪魔の誘惑にも負けない自由な君主だ」ということです。自力ではこうなれないので、イエス様と聖霊に助けられてこうなります。「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕だ」とは、キリスト者は、イエス様と同じように、喜んですべての人の下に降りて奉仕する者だ」ということです。イエス様と聖霊に助けられて敵をさえ愛する。それが真の自由です。気の合わない人にも、気の合う人にも、全ての人に喜んで奉仕することこそ愛であり、真の自由です。
確かにイエス様は、奴隷・僕の姿勢をとって、弟子たちの足を喜んで洗う愛を行われました。イエス様は、マルコ福音書10章で言われました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(奴隷)になりなさい。人の子(ご自身)は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」パウロは、このイエス様の生き方をフィリピの信徒への手紙2章6節以下で、次のように称えました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(奴隷)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」
私たちのために、進んで十字架にかかって下さったイエス様の愛の生き方こそ、真に自由な生き方です。この真の自由に生きて、永遠の命に至るように、私たちも神様から招かれています。自分の罪を悔い改めて、ご一緒にイエス様を見上げてこの招きに従って参りましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。