日本キリスト教団 東久留米教会

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2014-09-22 21:36:33(月)
「盗んではならない 十戒⑧」 2014年9月21日(日) 聖霊降臨節第16主日礼拝説教 
朗読聖書:出エジプト記20章1~21節、エフェソ4章25~32節。
「盗んではならない」(出エジプト記20章15節)。
 
 「盗んではならない」。モーセの十戒の第八の戒めです。泥棒、万引き、詐欺(振り込め詐欺)、税金を正確に正直に納めないこと、ゆすり・たかりはもちろん盗みです。正しくお金を払わないで電車に乗るキセルももちろん盗みです。借りた物を忘れて返さないことも盗みではないでしょうか。経営者が労働者に正当な賃金を支払わないことも盗みですし、働く人が怠けて働かないことも盗み(時間を盗む盗み)でしょう。公のものを私用に使うことも盗みです。このようにいろいろな盗みがあるのです。私たちはよく注意して、盗まない生活をしたいのです。

 東久留米教会の近くにリサイクルショップがあり、店員さんがいないコーナーもあります。そこに張り紙がしてあって、「万引きしないで下さい。小さな店にとって死活問題です」と書かれてあるのを見たことがあります。ということは万引きがあるのだなと思わざるを得ませんでした。東久留米市内にはまだまだ畑があって、いろいろな所で野菜の無人販売が行われています。いつかそこに張り紙があり、「ちゃんとお金を入れましょう、泥棒さん!」と書かれていました。お金を払わないで野菜を持って行く人がいたのでしょう。「盗んではならない」はあまりにも当たり前で、私たちは「分かりきっている」と思うかもしれませんが、それでも改めて「自分は決して一生盗みをしないぞ」と決心することは大切だと思うのです。特にお金に関しては几帳面でなくてはなりません。ルーズにならないように常に注意する必要があります。

 先々週の礼拝で、イスカリオテのユダがイエス様を裏切った場面を読みました。ヨハネによる福音書12章は、ユダは盗人であって、イエス様一行の金入れを預かっていながらその中身をごまかしていた、と書いています。ユダはイエス様一行のお金を、人々に気づかれないように少しずつ盗み、横領して自分のものにしていたのです。ユダは比較的小さな盗みを続けていくうちに良心が麻痺してしまい、とうとう神の子イエス様を、銀貨30枚で売り渡す恐るべき罪を犯してしまったのです。小さな盗みを軽く考えてはいけないのです。拡大する恐れがあるのです。
 
 これまでも十戒の学びの中で、『ハイデルベルク信仰問答』を何回かとりあげました。問110が第八の戒め「盗んではならない」を取り上げています(吉田隆訳『ハイデルベルグ信仰問答』新教出版社、2002年、101~102ページ)。

問「第八戒めで、神は何を禁じておられますか」
答「神は権威者が罰するような
  盗みや略奪を禁じておられるのみならず、
  暴力によって、/ または不正な重り、物差し、升、商品、貨幣、
  利息のような合理的な見せかけによって、
  あるいは神に禁じられている何らかの手段によって、
  わたしたちが自分の隣人の財産を/ 自らのものにしようとする
  あらゆる邪悪な行為また企てをも、/ 盗みと呼ばれるのです。
  さらに、あらゆる貪欲や/ 神の賜物の不必要な浪費も禁じておられます。」

 「不正な重り」については申命記25章13節以下に、次のように書かれています。「あなたは袋に大小二つの重りを入れておいてはならない。あなたの家に大小二つの升を置いてはならない。あなたが全く正確な重りと全く正確な升を使うならば、あなたの神、主が与えられる土地で長く生きることができるが、このようなことをし、不正を行う者をすべて、あなたの神、主はいとわれる。」不正な商売によって利益を得るなということです。相手をごまかして、騙して不正な利益を得ることは盗みなのです。これと似ていることに、かさ上げがあります。見かけはたくさん入っているように見えて、買って帰って開けてみると、中身が少なかったという体験は、多くの方が持っていると思います。ごまかしたり騙したりして利益を得ることは盗みになります。

 日本で初めてキャラメル作りと販売を軌道に乗せた森永太一郎さんは、アメリカでキャラメル作りを学び、クリスチャンとなって帰国しました。日本で菓子を販売するに当たり、クリスチャンとしてかさ上げをしないことを決心し実行したそうです。同業者の反発にあっても実行したようです。クリスチャンとしての心意気が感じられます。 レビ記25章14節に分かりやすい言葉があります。「あなたたちが人と土地を売買するときは、互いに損害を与えてはならない。」土地を売り買いするときに限りません。あらゆる場面で、相手に決して損をさせまいと思って行動するならば、「盗み」をかなりしないで生きることができるのではないでしょうか。

 『ハイデルベルク信仰問答』には、「利息のような合理的な見せかけによって」わたしたちが自分の隣人の財産を自らのものにしようとすることも、盗みだと述べます。利息を取ることが全面的に悪とされているのではないかもしれません。しかしレビ記25章35節~では、貧しいイスラエル人から利子も利息も取ってはならないと書かれています。「もし同胞が貧しく、自分で生計を立てることができないときは、寄留者ないし滞在者を助けるようにその人を助け、共に生活できるようにしなさい。あなたはその人から利子も利息も取ってはならない。あなたの神を畏れ、同胞があなたと共に生きられるようにしなさい。その人に金や食糧を貸す場合、利子や利息を取ってはならない。わたしはあなたたちの神、主である。」貧しいイスラエル人から利子や利息を取って金を貸し、相手に重い負い担を与えてはならない。それも盗みになる。これは貧しい人々への神様の愛です。

 「盗んではならない」の戒めを学んでいていくつかの本に出て来ることは、「盗む」と訳されているヘブライ語は、もともと「人間を盗む」ことを意味するのではないかということです。ここまで私はこの説教で、普通の考えに従って、物やお金を盗むことが罪であるということを前提に語ってきました。ですが「盗んではならない」は、「人間を盗む」ことを禁止しているという説も、今はかなり受け入れられているそうなので、そこに進みます。この説が正しいとすると、「盗んではならない」は、誘拐や拉致を禁じる戒めであることになります。出エジプト記21章16節に、「人を誘拐する者は、彼を売った場合も、自分の手もとに置いていた場合も、必ず死刑に処せられる」と書かれています。誘拐や拉致は死刑に値する重罪なのです。

 イスラエルの民はエジプトで奴隷でした。それはエジプトの罪です。神様はイスラエルをエジプトでの奴隷生活から解放して下さいました。実に不思議なことですが、そのイスラエルにも奴隷がいました。旧約聖書の時代は、まだ神様のご計画が実現してゆく途上の時代ですから、神様は奴隷をなくすようにその後の時代を導いて来られて、今に至っていると私は思います。しかし今も世界には奴隷のようにされている人々がいます。劣悪な環境で労働させられている子どもたちがいるそうですし、数ヶ月前の新聞で、アフリカのキリスト教主義の高校から200名の女子生徒が誘拐されたと読みました。その後、解放されたと聞かないので、まだ誘拐されたままなのではないかと思います。少しでも早く解放されて、家に戻ることができるように祈ります。

 私たち日本人が深い関心を寄せていることに、北朝鮮による拉致問題があります。これは人間を盗んだ犯罪です。と同時に、日本の過去の罪も考えないわけにはいきません。19世紀から20世紀にかけての世界は、強い国が弱い国を植民地にした時代です。強い国が弱い国の土地・人・資源を盗んだ時代です。残念ながら日本も朝鮮半島や台湾を植民地にし、その土地などを奪い盗んでしまったのです。形の上で合法であったかもしれませんが、神様からご覧になれば「盗んではならない」のに違反する罪でしょう。神様は日本に植民地をすべて返還させ、平和国家として生きるように導いて下さいました。戦後の日本では、財閥解体、農地解放などが行われたそうです。それまでの地主・小作人という関係は解消されました。小作人は一種の奴隷だったかもしれませんが、神様は解放して下さいました。

 私は今年の8月15日に聖学院大学で、学長の姜尚中(カン・サンジュン)先生の講演を伺いましたが、このような意味のことをお話されました。「8月15日の敗戦の日は、国民をモノ・資源・奴隷として扱った国家から、国民が解放された出エジプトの日でもある」と。富国強兵のための「産めよ、増やせよ」の時代、召集令状一枚で男性を兵士として戦地に送り込んだ時代は、確かに国民が奴隷のように扱われた時代だったのかと思わされます。日本に強制連行された朝鮮や中国の方々が炭鉱などで労働し、亡くなった例もあります。日本人としては嬉しくない話ですが、これも外国から人々を盗んで来たことになるのではないでしょうか。約一週間前に早稲田教会で行われた会合、「関東大震災時・朝鮮人、中国人虐殺 追悼90年集会」の講師の話によると、関東大震災の時に「朝鮮人が井戸に毒を入れた」というデマが飛び、推定で朝鮮の方約6000人、中国の方約700人が殺されたのではないかとのことです。大震災の混乱の中とはいえ、「殺してはならない」の戒めも破られたのです。その償いがなされたのかどうか、私も調べ不足です。

 先ほどの『ハイデルベルク信仰問答』は、「あらゆる貪欲や、神の賜物の不必要な浪費」も盗みの罪だと言っていました。不必要な浪費! 私たちがお金や物を無駄遣いすることも盗みの罪だというのです。私も自分の住まいの冷蔵庫などを見て、せっかく買った食べ物をだめにしてしまうことがしばしばあります。そうしないで食べ切るように気をつけているつもりですが、食べ物を無駄にしている時があるのです(もちろん災害用の備蓄は別に行う必要があります)。私が金曜日に行っている保育園では、食べ物を無駄にしないことを徹底していて、大根の葉っぱなども必ず調理されて食卓に出てきます。どうしても人間が食べるに向かない野菜の葉っぱなどは、飼っているがアヒルやヤギのえさにするなどして、決して捨てないのです。園長先生の方針で食べ物を決して無駄にしないことが徹底しています。家庭でその保育園ほど徹底することは難しいですが、見習おうという気持ちにはさせられます。

 コンビニ、スーパー、レストランでは売れ残りの食べ物を沢山捨てているそうです。神様が与えて下さる恵みの食べ物を無駄にしている現状を、何とか改善できないものかと思います。その一方で、世界では食べ物がない地域があり、飢えている人もいるという矛盾・アンバランス。豊かな国と貧しい国があるということ。豊かな国が地球の限られた資源を多く取り、地球の真の所有者である神様から盗み取っているのではないでしょうか。お金を出して買っていても、欲望に任せて余るほど買い占めて無駄遣いしているならば、神様からご覧になれば盗みの罪になります。皆様は既に慎ましく暮らしておられると思いますが、日本人全体でさらに慎ましく暮らすように心がけたいのです。

 「もったいない」という日本語をすばらしいと言って下さったアフリカの女性がおられましたね。ワンガリ・マータイさんというケニアの女性です。残念ながら2011年に亡くなりました。この方は祖国の貧困と環境破壊に心を痛め、貧しい女性たちと「グリーンベルト運動」という植林運動を始め、約10万人が参加し、約5100万本の苗木を植えたそうです。マータイさんは2004年に環境分野で初めてノーベル平和賞を受け、2005年に日本に来られたとき「もったいない」という日本語に感銘を受けて下さり、「MOTTAINAI」キャンペーンを始められたそうです。それは地球に負担をかけず、限られた資源を大切にし、リサイクルを行う社会を作る活動となっているそうです。浪費しない社会ですね。
 
 『ハイデルベルク信仰問答』には、「盗んではならない」について次の問答もあります。問111と答えです(前掲書、102ページ)。
問「それでは、この戒めで、神は何を命じておられるのですか。」
答「わたしが、自分にでき、またはしてもよい範囲内で、わたしの隣人の利益を促進し、わたしが人にしてもらいたいと思うことを、その人に対しても行い、わたしが誠実に働いて、困窮の中にいる貧しい人々を助けることです。」

 盗まなければ十分というわけでないのです。喜んで人に与える愛に生きるときに、「盗んではならない」の戒めを守ることになると知るのです。黄金律・ゴールデンルールと呼ばれるイエス様の御言葉を思い出します。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者(旧約聖書全体)である」(マタイによる福音書7章12節)。 

 「わたしが誠実に働いて、困窮の中にいる貧しい人々を助けることです」は、本日の新約聖書・エフェソの信徒への手紙4章の28節に書かれていることと同じです。「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。」これがイエス様の十字架の死と復活により、罪を赦していただいた人の、新しい生き方です。それまで盗みを働いていた者も、イエス様を救い主と信じて洗礼を受け、聖霊を注がれることで生き方が変わり、イエス様に生き方が似てきます。そして自分で労働して正当な収入を得て、それを自分と家族の必要のために使うだけでなく、困難の中にある人々をヘルプするために喜んで使うようになるのです。

 ルカによる福音書19章に、徴税人の頭ザアカイの話があります。ザアカイは徴税人の頭の地位を悪用して、人々から必要以上にお金を取り立て、自分の懐に入れていました。盗みを働いていたのです。彼はまさに放蕩息子でした。そんな彼を町の人々は嫌っていました。彼自身も心の中で自分の罪を自覚していたはずです。そんな罪深いザアカイの所に、何とイエス様が泊まりに来て下さいました。ザアカイは感激し、罪を悔い改め、立ち上がってイエス様に言います。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」ザアカイは盗む人でしたが、悔い改めて罪を償う人になり、立ち直ったのです。イエス様はこの立ち直りをとても喜んで下さいました。

 私は先週、久しぶりにJR山手線の新大久保駅に行きました。キリスト教婦人矯風会の会館に初めて行き、ある講演会に出席したのです。講演会はともかく、新大久保駅は今から13年前の2001年に、ホームから落ちた男性を助けようとして、李さんという韓国人の青年と関根さんという日本人(二人とも男性)が線路に降りたけれども、残念ながら三人とも亡くなる悲劇があった所です。二人の勇気をたたえる日本語文と韓国語文のプレートが、改札口から進んだ突き当たりの正面の壁に設置されているのは前にも見ました。今回の発見は、ホームと電車の間に柵が設けられていたことです。何年か時間がかかったけれども柵が作られたことは、前に新聞で読んだことがありました。李さんのご両親が韓国から来られて、それを御覧になったということも読んだと思います。

 その柵を初めて見たのです。このような柵は、次第にあちこちの駅で設置されています。おそらくあの出来事もきっかけの一つになって、柵がいろいろな駅に、新大久保の駅にも設置されるようになったと感じます。線路に飛び降りて命を散らしたお二人の愛と勇気ある行動が、報われている、生かされていると感じたのです。柵があるので、今後は新大久保駅で誤って転落することはまずないのではないかと思います。韓国人の李青年が日本人のために命をかけた愛に生きて下さったその新大久保駅で、この数年、韓国人へのヘイトスピーチが行われているのですから、大きな罪、甚だしく恩知らずな行動です。私が行った日は行われていませんでした。もう二度と行わないでほしいと祈ります。

 「盗んではならない」とは、「喜んで与えなさい」ということだと、神様に教えていただきました。感謝です。少しでもそのように生き参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-09-16 0:31:55(火)
「イエス・キリストの裁判」 2014年9月14日(日) 聖霊降臨節第15主日礼拝説教
朗読聖書:詩編51編3~14節、ルカ福音書22章54~71節。
「しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る」(ルカ福音書22章69節)。

 説教題は、「イエス・キリストの裁判」です。裁判は何が真実かを問い、明らかにする場です。イエス様の裁判の焦点は、イエス様がメシア(救い主)、神の子なのか、どうなのか。イエスかノーか。これがイエス様の裁判の中心です。

 イスカリオテのユダが接吻でイエス様を裏切り、イエス様は捕らえられました。イエス様は無抵抗で連れて行かれます。悪魔の力が状況を支配しています。神様はあえてこの状況の発生を許可なさっています。ですが悪魔が最後に勝つことはありません。最後の最後の最後には、必ず神様の愛と正義が勝利します。(54節)「人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。」ペトロは恐ろしかったので、イエス様のすぐ近くで着いて行くことができませんでした。しかし勇気を奮って、人々に気づかれないよう遠く離れて従いました。数時間前に、「主よ、御一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」とイエス様に言ったばかりです。(55節)「人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。」ペトロは成り行きを見届けようとしています。そこへ悪魔の攻撃の手が伸びます。(56節)「するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、『この人も一緒にいました』と言った。」

 ペトロは慌てて混乱状態になります。「その通り、私はイエス様の弟子です」とはっきり言えばよいのですが、わが身かわいさが先立ってそれができません。(57節)「しかし、ペトロはそれを打ち消して、『わたしはあの人を知らない』と言った。」ユダは非常に積極的にイエス様を裏切りましたが、ペトロは意志の弱さから、消極的にイエス様を裏切りました。それでも裏切りであることは事実です。「私はイエス様の弟子です」と公表する勇気がなかったのです。ペトロがほっとする間もなく、第二の矢が飛んで来ます。「少したってから、ほかの人がペトロを見て、『お前もあの連中の仲間だ』と言うと、ペトロは、『いや、そうではない』と言った。」二回目の裏切りです。ペトロの心臓は早鐘を打つようにどきんどきんと鼓動していたに違いありません。パニックになり、顔にも体にも脂汗が流れていたでしょう。その後しばらくは誰も何も言って来なかったので、ペトロの緊張は次第に解けていったでしょう。

 しかし容赦なく第三の矢が飛んで来ます。(59節)「一時間ほどたつと、また別の人が、『確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから』と言い張った。」ペトロの言葉にガリラヤの特徴があったのです。悪魔からの執拗な攻撃です。ペトロは今、その信仰が本物かどうか問われ、試されています。しかしペトロは手もなく敗れてしまいました。ペトロの信仰はまだ十分に鍛えられていなかったのです。ですが、このような敗北と挫折を乗り越えて、信仰も本物になっていくと思うのです。(60節)「だが、ペトロは、『あなたの言うことは分からない』と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。」 イエス様は数時間前にペトロに言われたのです。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」まさに悪魔は、ペトロたちの信仰が本物かどうか、激しくふるいにかけました。ペトロの信仰はまだまだ甘かったのです。しかしイエス様がそれを承知でペトロを選び、前々からペトロのために祈って支えて来られたのです。ペトロがイエス様を3回裏切り続けているこの時も、イエス様はペトロの裏切りを察知してペトロのために祈っておられたと思うのです。イエス様は今は天におられ、天で私たちの信仰がなくならないように祈っていて下さいます。

 ペトロが三回目の裏切りの言葉を口にしている最中に突如、鶏が鳴きました。神様が介入されたのです。神様がペトロに注意・警告を発して下さいました。「あなたはそれでよいのか」という警告です。ペトロははっと我に返り、自分が過ちを犯していることに気づきます。(61~62節)「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」イエス様に見つめられて、ペトロはたまらない気持になりました。イエス様はペトロを見つめながら、ペトロが立ち直るために心の中で祈っておられたと思うのです。イエス様が「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とおっしゃったとき、ペトロは軽く聞き流したかもしれません。あの言葉が重大な意味を持っていたことに今初めて気づいたのです。ペトロは、自分が愛するイエス様を裏切る大きな過ちを犯したことをはっきり悟り、心の中が情けなさと悔しさと痛みでいっぱいになりました。「何たることを言ってしまったのか」という気持ちで打ちのめされたのです。

 しかし過ちをはっきり自覚することは、次のステップでの立ち直りにつながります。ペトロは男泣きに激しく泣きましたが、この涙は、偽りのない真の悔い改めの涙です。先週も引用したコリントの信徒への手紙(二)7章10節に、「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ」ると書かれていますが、ペトロの涙・悲しみこそ、神の御心に適った悲しみであり、取り消されることのない救いに通じる悔い改めの涙です。私たちもこのように自分の罪を悔い改めることができれば、すばらしいことです。

 本日の旧約聖書は、「悔い改めの詩編」として有名な詩編51編です。ダビデ王が部下の妻バト・シェバと姦淫の罪を犯して、神様から送られた使者・預言者ナタンに厳しく叱責された時に作った悔い改めの詩編です。ペトロの真実の悔い改めの心と通じます。(3~4節)。
「神よ、わたしを憐れんでください。/ 御慈しみをもって。
 深い御憐れみをもって/ 背きの罪をぬぐってください。
 わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。」 続いて12~14節。
「神よ、わたしの内に清い心を創造し/ 新しく確かな霊を授けてください。
 御前からわたしを退けず/ あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
 御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/ 自由の霊によって支えてください。」

(19節)「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
      打ち砕かれ、悔いる心を/ 神よ、あなたは侮られません。」
ペトロは大きな過ちを犯しましたが、ペトロの「打ち砕かれ、悔いる心」を、父なる神様もイエス様もよしとして受け入れて下さったに違いないのです。

 クリスチャン作家・三浦綾子さんの文章を思い出しました。
「小学校の時、この世で一番むずかしい言葉は、『はい』と『いいえ』であると習った。その意味の深さ重さが、年を経るに従って身に沁みて来た。人間、決して『否』と言ってはならぬ時がある。また、決して『然り』と言ってはならぬ時がある」(三浦綾子『イエス・キリストの生涯』講談社、1987年、98ページ)。 イエス様もマタイによる福音書5章37節で、「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい」と言われます。これは「正しいことには『はい』と言い、間違ったことには『いいえ』と言いなさい」の意味と思います。ペトロは「お前もあの連中の仲間だ」と言われた時、「はい、その通りです」と答えるのが本当でした。しかし嘘をついて逃げてしまったのです。私たちも同じようなことをしていないか、気をつけたいのです。

 私たちは、毎週の礼拝で信仰告白として使徒信条を唱えます。今年の修養会で使徒信条を学ぶことができることは非常に感謝です。聖餐式のある礼拝では、使徒信条を含む日本キリスト教団信仰告白を唱えます。今の時代は信仰告白を自由に唱えることができるので、ありがたいことです。しかし太平洋戦争中は信仰告白に生きる自由が制限されていました。「我らの主イエス・キリストを信ず。」しかし当時は天皇が現人神(あらひとがみ)、主(しゅ)とされる時代でした。その中で、天皇ではなくイエス・キリストが主だと告白することは、時に非国民扱いされることを覚悟しなければならないことだったと思うのです。信仰告白の一言一言は、実は命がけで告白する言葉であることが分かります。ペトロは、「自分はイエス様の弟子です」と告白することができませんでした。私たちは心して生涯、「私はイエス・キリストの弟子です」と公に告白し続ける者でありたいのです。

 今は東北の教会に転出なさった以前の教会員Aさんが、東久留米教会でなさった証しを思い出します。Aさんのお父様は牧師で、戦争の頃も教会で奉仕しておられたようです。Aさんは、学校で先生が子どもたちに「教会の日曜学校に行ってはいけない」と言われたと、語られたと思います。そして教会に石が投げられたとも語られました。まさに迫害がある中で信仰告白を唱える厳しい時代だったのだと感じました。

 三浦綾子さんがお書きになった伝記小説『ちいろば先生物語』によると、明治10年頃、今の愛媛県今治では、教会の会員への不売不買同盟があり、千名の群衆が新会堂を取り囲んで石を投げ、教会員に暴行を加えたとのことです。そのような状況だったため、洗礼を希望する人には厳格な試験が行われたそうです。今治教会の初代牧師・横井牧師は21歳でしたが、洗礼を志願する人に次のような厳しい問いを発したそうです(私は、洗礼を受けて約5ヶ月後の1989年3月に、その今治教会の礼拝に出席したことがあります)。「日曜日に稼業を休んで礼拝に出ることができるか」、「洗礼を受けたために生活に困ってもよいか」、「妻の来手がなくてもよいか」、「村八分にされても耐えられるか」、「万一、信者が死刑にされる世になっても、信仰を保つことができるか。」答えに詰まる人には洗礼を受けることを許可しなかったそうです(以上、三浦綾子『ちいろば先生物語』(文庫版)朝日新聞社、1990年、593ページより)。大変な厳しさです。今の日本はそのような恐るべき状況にないことを感謝しますが、かえって信仰の緊張感を失いやすい時代とも言えます。そのような時代には外からの迫害はあまりなくても、心の中で信仰がだらける危険があります。この危険と戦うことが必要です。この時代の中で、「わたしはイエス様の弟子です」という信仰告白を貫いてゆきたいのです。

 進みます。イエス様は肉体と心に辛い苦難をお受けになります。(63~64節)「さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。そして目隠しをして、『お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ』と尋ねた。」 「メシア(救い主)ならだれが殴ったか分かるだろう」と言っているのです。それ以外にもさまざまなことを言ってイエス様の罵り、罵倒したのです。イエス様はそれに耐えておられます。

 イエス様はユダヤの最高法院で裁判をお受けになります。最高法院は、今の日本の国会と最高裁判所を合わせたような存在と思います。ここでの裁判は宗教裁判です。後のヨーロッパでの異端審問に似ている気がします。イエス様はもちろん真のメシア、神の子ですが、ユダヤの指導者たちの目は非常に曇っていました。彼らにはイエス様が異端者、非国民に見えたのです。(66節と67節の前半)「夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して、『お前がメシア(救い主)なら、そうだと言うがよい』と言った。」この裁判の最大の争点は、「イエス様はどなたであるか」ということです。「イエス様はメシア(救い主)、神の子か。イエスかノーか。」イエス様がお答えになります。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう。しかし、今から後、人の子(イエス様ご自身)は全能の神の右に座る。」 最後の言葉が人々を激しく刺激しました。「神の右」は、神様に最も近い場所です。「神の右に座る」とは、ご自分が神に等しい者であるとの宣言です。人々は騒然となります。(70節)「そこで皆の者が、『では、お前は神の子か』と言うと、イエスは言われた。『わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。』」
 
 イエス様のお答えははっきりしないようにも聞こえますが、これは「わたしはそうである」との肯定の宣言だと考えます。なぜかと言うと、これを聞いた人々が次の71節で、イエス様の有罪の証拠をつかんだという意味のことを言っているからです。「人々は、『これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ』と言った。」このイエスという男がメシア・神の子を名乗ったという他人の証言が必要ない。本人が認めたのだから。祭司長たちと律法学者たちは、「これは神への冒瀆だ」と信じ、激しい怒りに満たされたのです。確かに真のメシアでなく、神の子でない者が、自分はそうだと言ったのであれば、神への冒瀆です。しかしイエス様は、本当にメシアであり神の子なので、冒瀆ではないのです。

 それにしても、神の子と名乗ることがこれほど激しい反感を引き起こすことは、今の日本人には分かりにくいと思うのです。戦前・戦争中の日本を思えば理解できる気がします。天皇が現人神とされた頃のことです。その時代に一般の国民が、「私は天皇の子だ」と言えば冒瀆・不敬とされ、大変な怒りを受けたに違いありません。体罰を受けたかもしれません。ユダヤ社会も似ていたのではないかと思うのです。イエス様は神を冒瀆する大罪を犯した者として死刑に値すると、結論づけられたのです。最高法院は、たとえば姦淫の罪を犯した人を石打ちの死刑にする権限を持っていたようです。最高法院はイエス様を十字架による死刑にしたいと考えていました。十字架刑は政治犯に適用される刑罰で、それを行う権限は最高法院にはなく、ユダヤを支配していたローマの総督がその権限を持っていました。そこで人々は、イエス様を総督ピラトのもとに連行します。それは次の23章ですので、今日はそこに入りません。

 本日の場面で、ペトロとイエス様の言葉を比較してみます。ペトロは「知らない」と嘘をつき、イエス様は「わたしは神の子だ」という意味のことを言われたのです。三浦綾子さんが、「小学校で、この世で一番難しい言葉は、『はい』と『いいえ』であると習った」と書いておられると申しました。真実に従って発言することが大切だということです。ペトロは真実に従って「はい、わたしはイエス様の弟子です」と言うべきときに「いいえ」と嘘をつき、イエス様は真実に従って「はい、わたしは神の子です」とおっしゃいました。言うべきときにちゃんと、「はい、わたしは神の子です」と発言されたのです。ペトロは真実を曲げ、イエス様は真実を貫かれたのです。

 このことに関連して、テモテへの手紙(二)2章11節以下をご覧下さい。イエス様の弟子・使徒パウロが書きました。
「次の言葉は真実です。『わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
 キリストと共に生きるようになる。
 キリストを否むなら、/ キリストもわたしたちを否まれる。』」
イエス様が、イエス様を否む人を常に否まれるのであれば、ペトロも見捨てられるはずです。しかしイエス様はペトロを赦し、立ち直るチャンスを与えて下さいました。ペトロは約30年後にローマで殉教したと言われます。使徒言行録を読むと分かるように、立ち直った後のペトロはイエス様の使徒として伝道のために働き、最後はしっかりイエス様に従って殉教したのです。続いて13節。

「わたしたちが誠実でなくても、/ キリストは常に真実であられる。
 キリストは御自身を/ 否むことができないからである。」
ペトロは、恐怖のあまりイエス様を否定したので、誠実でありませんでしたが、イエス・キリストは真実な方・嘘を言うことができない方なので、ご自分が神の子であると本当のことを正直に告白されたのです。ご自分の身に危険が及ぶことが分かっていてもイエス様は、御自分は神の子でないなどと嘘を言って逃げることはなさいません。イエス様は御自分を否むことができないのです。私たちはペトロに似ていて、わが身かわいさのあまり「はい」と言うべきときに不誠実に「いいえ」と言ってしまったこともあるかもしれません。ですがイエス様は「はい」と言うべきときに常に「はい」とおっしゃり、「いいえ」と言うべきときに常に「いいえ」とおっしゃいます。そのイエス様はペトロの不誠の罪のためにも、私たちの不誠実の罪のためにも十字架に架かって下さいました。ペトロが罪を悔い改めて立ち直ったように、私どもも日々自分の罪を悔い改めて立ち直らせていただき、聖霊に助けていただいてイエス様に従って参りたいのです。

 私は昨日、早稲田教会で行われた、「関東大震災時・朝鮮人、中国人虐殺追悼90周年記念集会」に出席致しました。「東京で起きた朝鮮人虐殺事件―目撃証言を中心に―」との題の講演を伺いました。今、このような出来事も次第に忘れられているように感じます。それではいけません。この出来事を掘り起こして記録する貴重な働きをなさっている方々がおられます。埋もれさせてしまってはいけない出来事です。講演なさった方によると、推定で朝鮮人約6000人、中国人700人が殺されたのではないかということです。意外に多くの著名人が虐殺を見聞きした証言を残していることを知りました。

 何も悪いことをしていないのに、不当に殺された多くの朝鮮人・中国人の叫びは、神様の両耳に届いています。イエス様はその方々の味方です。神様はこの大きな罪についても、最後の審判のときにきっちり決着をつけられると思うのです。私たちが直接手を下したのではありませんが、日本人の罪を、私たち同じ日本人が神様と親族の方々に心から謝り、悔い改め、二度と繰り返さない決心をすることが必要と思うのです。そのような貴重な学びをすることができました。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-09-09 15:45:55(火)
「ユダの裏切り」 2014年9月7日(日) 聖霊降臨節第14主日礼拝説教 
朗読聖書:ゼカリヤ書11章4~17節、ルカ福音書22章47~53節。
「イエスは、『ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか』と言われた」(ルカ福音書22章48節)。
 
 イスカリオテのユダが、なぜイエス・キリストを裏切ったのかは謎です。イスカリオテは地名だそうです。イエス様はオリーブ山での血の汗を流すような激しい祈りを祈り終え、十字架に向かう決意をさらにはっきりさせ、弟子たちに語りかけておられました。(47~48節)「イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。イエスは、『ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか』と言われた。」 マタイによる福音書では、ユダは「先生、こんばんは」と言ってイエス様に接吻し、イエス様が、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われたと書かれています。「友よ」と呼んでおられることに、イエス様のユダへの愛を感じます。しかしユダはイエス様に「友よ」と呼びかけられても、裏切りの意志を変えませんでした。ルカによる福音書22章3節には、「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」と書かれています。私は思います、ユダはサタン(悪魔)が自分の中に入ることを拒むこともできたはずだと。しかしユダは、サタンの誘惑を退けず、それを受け入れてしまったのです。

 接吻はもちろん愛情の表現です。非常に親しく、信頼し合っていることのしるしです。ユダは、こともあろうにその接吻を合図にイエス様を、イエス様を憎む人々に引き渡すのです。悪い意味であまりにも大胆で、恐るべき行為です。接吻で裏切ることに多くの人はためらいを覚えるのではないでしょうか。自分をすっかり信じている人を裏切ることだからです。この時、ユダの心は悪魔に支配されていました。ユダはイエス様を接吻で裏切ることによって、、悪魔に自分の魂を売り渡したのです。自分が愛して従ってきた先生イエス様を進んで売り渡す。これはユダ自身を否定する行為です。自分が愛し従ってきた先生を売り渡すという最大の矛盾を行うならば、ユダの心・良心は完全に壊れてしまい、もはや生きようにも生きられなくなるのではないでしょうか。接吻によってイエス様を売り渡した行為は、ユダがこれまでの自分を自分で否定したことであり、自分を壊すことです。ユダはこのとき事実上死んだと言えるのです。ユダはイエス様への愛憎を覚えていたのかもしれません。

 ユダがイエス様を裏切るしばらく前にあったことを、ふりかえってみます。ユダの人となりを少しでも知るためです。ヨハネによる福音書12章1節以下をご覧下さい。イエス様は、親しい姉妹であるマルタとマリアの兄弟であるラザロを死から生き返らせなさいました。その後、イエス様は、ベタニアにある彼らの家を訪問されました。そこに生き返ったラザロがおり、イエス様のために夕食が用意され、マルタが給仕していました。そこにマルタの姉妹マリアが、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ(約326g)持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐいました。ナルドは植物の名です。ヘブライ語で「ネールド」、ギリシア語で「ナルドス」だそうです。原産地はインド北部あるいはヒマラヤとのことです。ナルドには和名もあり、「甘松」だそうです。家は香油の香りでいっぱいになりました。皆がよい香りで、うっとりした気分になったことでしょう。マリアは非常に高価な、とっておきの宝と言うべき香油の持てる全部を、イエス様の足に惜しげもなく注ぎました。これはマリアのイエス様への精一杯の感謝と愛のしるしです。愛する兄弟ラザロを生き返らせてくださったイエス様への純粋な感謝と愛を、マリアはこのようにして表したのです。香油のかおりはマリアの純粋な感謝と愛のしるしです。マリアの愛は、六日後に十字架におつきになるイエス様の心を深く慰めました。

 そのときユダが口をはさみます。(4~5節)「弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。『なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。』」1デナリオンは一日分の賃金ですから、仮に5000円とすると150万円です。確かに大金です。マリアは150万円分の純粋なナルドの香油をイエス様の足に惜しげもなく、ほぼいっぺんに注いだのです。ユダはマリアが無駄遣いをしたと責めるのです。「なんともったいないことをするのか。なぜこの香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と。私たちも同じように思うかもしれませんね。「150万円もする香油を、いくらイエス様とは言え、足に全部いっぺんに注いでしまうなんて、なんともったいないことをするのか。もっと有効な生かし方があるではないか。150万円もあれば、多くの貧しい人々を助けることができるではないか。」もしかすると私たちも、「それもそうだ」と思うかもしれないのです。

 ですがユダに同調するわけにはいきませんから、ユダの考え方の何がよくないのか、考えてみる必要があります。ユダは計算する人、理的に考える人です。計算が必要な時もあります。ですが愛は、計算ではないのではないでしょうか。計算は損得を意識することに通じます。私たちはつい頭の中で計算して、自分にとっての損得を考えてしまうのではないでしょうか。ユダは計算が得意な男だったのではないかと思うのです。自分の損になることは避け、得になることを好む男だったのではないかと思うのです。マリアが150万円のナルドの香油をイエス様の足に注いだ行為は、あえて言葉にするなら「無償の愛」の行為です。利害損得を無視した「無償の愛」です。親が、病気の子どもを前にして「自分が代わりたい」と思う心は無償の愛で、損得計算はありません。ユダにはマリアの「無償の愛」が理解できませんでしたし、マリアの「無償の愛」を憎んでさえいたのではないでしょうか。それでマリアを責めたのです。

 ヨハネによる福音書は次の6節で、ユダがマリアを責めた理由を明かしています。「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」ユダはイエス様一行の財布を預かっていました。ユダはお金が好きだったかもしれません。しかし、マタイによる福音書6章24節でイエス様がおっしゃるように、私たちが「神と富とに仕えることはできない」のです。ユダは金入れの「中身をごまかしていた」とありますから、そっと横領していた、目立たないように盗んでいた、使い込んでいたのです。悪魔の誘惑に負け続けていたのです。イエス様だけがそれに気づいておられたことでしょう。少しずつ盗み続けることで良心が麻痺し、ついにはイエス様をお金で売り渡す最大の罪を犯してしまったのです。私どもも教会の諸会計の管理には細心の注意を払います。教会のお金は神様のお金ですから、聖なるお金として正確に厳密に、1円も間違えないように管理する必要があります。このようにして悪魔が教会に侵入することを防ぐ必要があります。

 イエス様は、マリアの「無償の愛」を喜んで受け入れて下さいました。イエス様は、貧しい人々をヘルプすることをいけないと言われるのではありません。ふだんはそれは大切なことです。ですが今は特別な時です。イエス様の十字架が六日後に迫っています。そのイエス様に対して、マリアは神様に導かれて、純粋な愛を注いだのです。それはそのときにぴったりの行いでした。そのタイミングにぴったりの行動があるものです。マリアはそれを行ったのです。イエス様がユダをたしなめられました。「この人のするままにさせておきなさい。」イエス様にたしなめられたことで、ユダはイエス様への怒りを抱いたのではないでしょうか。ユダは「無償の愛」の行ったマリアを憎みました。マリアとイエス様の間には通じるものがあります。イエス様も六日後に私たちのために十字架におかかりになるからです。イエス様の十字架の死こそ、最も純粋な「無償の愛」です。ユダはイエス様が「無償の愛」に生き方であることをはっきり悟りました。それでユダはイエス様を憎んだのではないでしょうか。

 イエス様は「受けるよりも与える方が幸いである」とおっしゃったと使徒言行録に書かれています。ユダの生き方は反対だったのではないでしょうか。ユダは金入れから盗んでいたことから分かるように、「与えるよりも得する方が幸いである、利益をあげる方が幸いである」という人でした。イエス様よりも銀貨30枚の方が大事だと思う人だったのです。後で後悔したので、それがユダの全てではなかったかもしれませんが、しかユダにこのような考えがあったことは確かです。ユダは自分をイエス様に献げていなかったのです。銀貨30枚は(出エジプト記21章32節によると)、イスラエルの誰かが所有する牛が他人の奴隷を突いて殺した場合に、奴隷の主人に支払う償い金の額です。神の子イエス様の値段は、銀貨30枚で十分だと取引されたのです。お金・経済が人の命より大切。このような考えは、今の日本にもあるかもしれないので、日本人として悔い改めたいと思います。

 本日の旧約聖書はゼカリヤ書11章4節以下です。分かりにくい箇所です。ゼカリヤという預言者がおり、ゼカリヤが羊の商人たちのために働いたようです。ゼカリヤは、羊の商人たちに対して不信感を抱いているようです。ゼカリヤは12節で、羊の商人たちに言います。「もし、お前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を支払え。そうでなければ、支払わなくてもよい。」すると彼らは「銀30シェケルを量り、わたしに賃金としてくれた。」これはゼカリヤの働きに対しては安すぎる報酬です。ゼカリヤは安くいいように使われたのです。ここでゼカリヤは、ヤハウェ(イスラエルの神、世界の神)の代理人のような存在です。この出来事は、イスラエルの民が、彼らをエジプトから脱出させて多くの恵みを与えて来られた神様を非常に軽く扱ったことを象徴する出来事です。「神様への感謝は銀30シェケル、これくらいでいいや、これくらいで十分だ」と神様を軽く扱った、全く失礼無礼な態度です。

 それに対する神様の応答が13節に記されています。「それを鋳物師に投げ与えよ。わたしが彼らによって値をつけられた見事な金額を。」皮肉な言い方です。神様の悲しみが現れているようにも思えます。人々は事実上、神様の値段・価値を銀30シェケルとしたのです。これまでの神様の忠実な愛と支えの値段を銀30シェケルと見積もったのです。これは神様への侮辱です。この人々の罪は、神様に感謝していないことです。大事なことは、私たちが父なる神様と、私たちのために十字架で死んで下さったイエス・キリストに、精一杯感謝し、父なる神様とイエス様に自分を献げることが大事ではないでしょうか。マリアはイエス様に精一杯の感謝を献げました。ユダはイエス様に自分を献げず、反対にイエス様をお金で売ってしまったのです。

 ルカによる福音書に戻ります。ユダの裏切りは決行されました。雰囲気は一気に騒然となります。(49~50節)「イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、『主よ、剣で切りつけましょうか』と言った。そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。」ヨハネによる福音書では、切りかかったのはペトロだと書かれています。熱血漢のペトロらしい行動です。イエス様が止められます。(51節)「そこでイエスは、『やめなさい。もうそれでよい』と言い、その耳に触れていやされた。」イエス様は、このように身に大きな危険がふりかかっているときにも、愛を実行されます。ご自分を捕らえに来た一人である大祭司の手下の耳を癒されたのです。「敵を愛しなさい」と言われたイエス様は、その通りに行動されます。マタイによる福音書ではイエス様はこのとき、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」という有名な御言葉を語られました。イエス様は武力で戦うことをなさいません。イエス様の武器は聖書の御言葉と祈りです。マザー・テレサが、かつて戦乱の地パレスチナのガザ地区に行ったとき、マザーの身を心配した誰かに、「武器は持っていますか」と問われて、「私の武器は祈りです」と答えたという話があります。マザー・テレサはもちろん武器を持たなかったでしょう。

 武器を持たないイエス様に対して、捕らえに来た人々は多くの武器を持っていました。(52~53節)「それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。『まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。』」イエス様は丸腰です。イエス様はこれから悪と戦われます。イエス様の戦いは暴力を用いない戦い、愛による戦いです。イエス様はほとんど無抵抗で十字架につけられます。全く罪のないイエス様を十字架で殺すことによって、イスラエルの民の罪、そして全世界の罪は頂点に達します。全く罪がない神の子を殺すことは、世界最大の罪、最大の悪です。イエス様はその最大の罪と悪を十字架で一身に背負うことで、この世界を救われるのです。イエス様は十字架で祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」この赦しの祈りと愛によって、イエス様は罪と悪に打ち勝つのです。イエス様の戦いは武器による戦いではなく、祈りと愛による戦いです。ユダに復讐することもなく、ユダを恨むこともないのです。

 イエス様は十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれ、もう一度大声で叫ばれて息を引き取られたのです。一見敗北にしか見えません。イエス様は罪と悪に敗北なさったかに見えます。しかし三日目に逆転が起こります。父なる神様に従い通されたイエス様は、三日目に復活の勝利を与えられたのです。ひたすら父なる神様に従い通されたイエス様の忍耐はついに報われたのです。イエス様はユダの裏切りの悪をも、忍耐によって乗り越えられたのです。私たちが神様に従い、イエス様に従う道は、最後の最後に最後には必ず報われる道です。

 ユダは、イエス様に有罪の判決が下ったことを知って後悔し、自分の罪の証拠である銀貨30枚を、祭司長たちや長老たちに返そうとします。「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました。」しかし祭司長たちや長老たちは銀貨30枚を受け取らず、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」とユダを突き放します。ユダは銀貨30枚の処置に困り、それらを神殿に投げ込んで立ち去り自害しました。ユダは、自分の罪を神様の前に悔い改めたのではありませんでした。後悔はしましたが、神様の前に悔い改めたのではないのです。後悔と悔い改めは違うのですね。後悔は、ただ「しまった」と思うだけで、神様とのつながりがありません。悔い改めは、神様に自分の罪を謝ることです。ユダが神様の前にぬかずいて自分の罪を真剣に悔い改めていれば、神様から罪の赦しを受ける可能性があったのではないでしょうか。

 コリントの信徒への手紙(二)7章10節の御言葉を思い出します。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」 ペトロは、イエス様を三度否定した罪を深く悔い改めて涙を流しました。ペトロの悔い改めの涙は、神様の御心に適うものであり、ペトロの罪は赦されたのです。しかしユダの悲しみは「世の悲しみ」でした。それは悔い改めでないので、神様から赦しをいただくことにつながりません。神様の赦しをいただくことができれば、先の展望が開かれ希望が生まれますが、悔い改めでない「世の悲しみ」・後悔は、神様からの赦しにつながらないので、将来への希望につながりません。ユダは神様に立ち帰らなかったのです。

 ユダはイエス様を裏切り、神様から離れてしまい、希望を失って命を絶ちました。ユダが最終的に天国に行く可能性はあるのでしょうか。それは聖書にはっきり書かれていないので、分かりません。神様が最終的にお決めになることです。ユダよりももっと呪われた死を死なれた方がおられます。イエス様です。イエス様は十字架の上で、父なる神様から完全に棄てられました。「エリ、エリ、レバ、サバクタニ。」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれるほどに父なる神様から完全に棄てられ、だれよりも呪われた死を死なれたのです。ユダの死よりももっと呪われた死を死なれたのです。ユダよりももっと底辺に降られた方がイエス様です。イエス様はだれよりも低い底辺・最底辺に降られた救い主です。万万一、ユダに希望があるとすればこの点でしょう。だからと言ってユダが最終的に天国に入れていただけると、私が説教することはできません。それは父なる神様がお決め下さることです。

 このあと聖餐式にあずかります。私たちは、ユダほど決定的にイエス様を裏切ったことはないでしょう。ですが比較的小さな形でイエス様を裏切ったことはあるかもしれません。助けを必要とする人の横を通り過ぎることなどによってイエス様を見捨てたこともあるかもしれません。その人の中にイエス様が住んでおられたかもしれないのです。そのような私たちのすべての罪を背負い、十字架で苦しんで下さったイエス様の愛に感謝して、心してパンとぶどう汁をいただきたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。
2014-09-02 1:57:54(火)
「姦淫してはならない 十戒⑦」 2014年8月31日(日) 聖霊降臨節第13主日礼拝説教
朗読聖書:出エジプト記20章1~21節、マタイ福音書5章27~30節。
「姦淫してはならない」(出エジプト記20章13節)

 私たちは十戒というと、厳しい戒めというイメージを持つのではないかと思います。十戒の一つ一つの戒めを読んでみると、「~ならない」という言い方が多いからです。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」「あなたはいかなる像も造ってはならない。」「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」「殺してはならない。」「姦淫してはならない。」「盗んではならない。」「隣人に関して偽証してはならない。」「隣人の家を欲してはならない。」このように「ならない」という言葉が8つの戒めに使われています。これについて、別の訳し方もあることをお伝えしておきます。その場合、十戒の前文「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」を「神様の愛のメッセージ」としてとても重視します。この前文を平たく言えば、「わたしはあなたたちをこれほど愛した。あなたたちが葦の海の手前でエジプト軍に追い詰められていたところを奇跡の力で助けるほどにあなたたちを愛した」というメッセージになります。この前提に立って、第一の戒めを、「これほどわたしに愛されたことを知っているあなたたちが、わたしをおいてほかに神をもつなどということをするはずがない」という意味だと受けとめるのです。この意見にも確かに根拠があると思われます。

 その場合、十戒は、厳しい禁止命令というだけなく、神様からイスラエルの民に送られた愛と信頼の呼びかけであることになります。「こんなにわたしに愛されたあなたたちが、わたしをおいてほかに神を持つはずがない。こんなにわたしに愛されたあなたたちが偶像を造るはずがない。こんなにわたしに愛されたあなたたちが、人を殺すはずがない。姦淫するはずがない。盗むはずがない。偽証するはずがない。隣人の家を欲するはずがない。」魅力的な考えです。確かにこの考えには十分根拠が あると思います。それでは新共同訳の「~ならない」という訳が間違いかというとそうではないと思います。どちらも間違いではなく愛と信頼、そして厳しさの両方のニュアンスがあると思うのです。ある英語の訳(新欽定訳)では ”You shall not~” と訳しています。”You shall not~” には、「あなたはしてはならない」という禁止の意味と、「あなたはしないはずだ、するはずがない」という信頼の意味の両方があると思います。 このことも頭に入れて、さらに十戒を学んで参りましょう。

 本日は第七の戒め「姦淫してはならない」です。姦淫は姦通とも言います。姦淫を狭く定義すると「結婚している夫・妻と、その夫婦以外の異性との性関係」になるでしょう。姦淫を広く定義すると「結婚している夫婦同士以外のすべての性関係」になると思います。今の日本では姦淫も姦通も死語になっている印象を受けます。それは姦淫・姦通が罪だという正しい認識が消えつつある危険な状況だと思うのです。今、姦淫・姦通に一番近い言葉は不倫でしょう。前の憲法のときは日本にも姦通罪があったそうです。「姦淫してはならない」の戒めは、「殺してはならない」の次に置かれています。それほど重要な戒めだということです。「姦淫してはならない。」それは結婚関係が非常に重要であり、神聖だということです。姦淫はその結婚を破壊する罪です。ヘブライ人への手紙12章4節に、「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです」と明記されていることを、心に刻みたいのです。

 創世記2章に最初の人アダムとエバが夫婦となる場面があります。神様がおっしゃいます。「人が独りいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」アダムは既に造られていたので、神様はアダムを深い眠りに落とされ、アダムのあばら骨の一部を抜き取り、そのあばら骨で女を造り上げられました。神様が彼女をアダムのところに連れて来られると、アダムは言いました。
「『ついに、これこそ/ わたしの骨の骨/ わたしの肉の肉 
 これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう。
 まさに、男(イシュ)から執られたものだから。』」 
「こういうわけで、男は父母と離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二
人とも裸であったが、恥かしがりはしなかった」と書かれています。「二人は一体と
なる。」一夫一婦制こそが神様のご意志であることが示されています。

 日本キリスト教団の結婚式の式文では、結婚する二人は次の誓約をすることになっています。司式者が二人にそれぞれこう問います。
「OOさん、あなたはこの兄弟(姉妹)と結婚し、神の定めに従って夫婦となろうとしています。あなたはその健やかな時も、病む時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命のかぎり、堅く節操を守ることを約束しますか。」
二人はそれぞれに「約束します」と答えます。つまり、「姦淫をしません、不倫をしません」と神様と会衆の前で約束するのです。この約束はもちろん重要です。

 神様のご意志は一夫一婦だと申しましたが、旧約聖書では必ずしも現実がそうなっていません。アブラム(アブラハム)は、神様の約束があるのになかなか子どもが生まれないため、妻サライ(サラ)の求めにより、サライのエジプト人の女奴隷ハガルによってイシュマエルという男の子をもうけます。その後、アブラハムとサラの間に約束の子イサクが誕生します。するとイシュマエルがイサクをからかったので、サラがアブラハムに「あの女とあの子を追い出してください」と訴えたため、アブラハムは非常に苦しみます。アブラハムがハガルによって子どもをもうけたことが家族関係を複雑にし、このような苦しみを招いたとも言えます。複雑になると悩みが増えます。

 ダビデ王は姦淫の罪を犯しています。ダビデ王の人生最大の汚点です。サムエル記(下)11章を見ます。(1~5節)「年が改まり、王たちが出陣する時期になった。ダビデは、ヨアブとその指揮下においた自分の家臣、そしてイスラエルの全軍を送り出した。彼らはアンモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデ自身はエルサレムにとどまっていた。 ある日の夕暮れに、ダビデは午睡から起きて、王宮の屋上を散歩していた。彼は屋上から、一人の女が水を浴びているのを目に留めた。女は大層美しかった。ダビデは人をやって女のことを尋ねさせた。それはエリアムの娘バト・シェバで、ヘト人ウリヤの妻だということであった。ダビデは使いの者をやって彼女を召し入れ、彼女が彼のもとに来ると、床を共にした。彼女は汚れから身を清めたところであった。女は家に帰ったが、子を宿したので、ダビデに使いを送り、『子を宿しました』と知らせた。」

 慌てたダビデは、隠ぺい工作に走ります。バト・シェバの夫・ヘト人ウリヤを戦場から呼び戻し、戦況等を尋ねます。それは名目で、ダビデの本当の狙いはウリヤに家庭でしばしの時を過ごさせることでした。ところがウリヤは実に立派な部下で、王宮で主君の家臣と共に眠り、家に帰らないのです。それを知ったダビデは焦る心を隠してウリヤに尋ねます。「遠征から帰って来たのではないか。なぜ家に帰らないのか。」ウリヤはダビデとバト・シェバの姦淫を知らず、妻を完全に信頼しつつ、次のように答えます。「神の箱(十戒の二枚の板が納められている)も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか。あなたは確かに生きておられます。わたしには、そのようなことはできません。」次にダビデは、ウリヤに酒をふるまったようです。酔わせてウリヤの決心を鈍らせようとしましたが、ウリヤは酔ってもなお、主君の家臣たちと共に眠り、家に帰りませんでした。ウリヤは本当に見上げた部下です。

 ダビデはウリヤを家に帰すことが不可能だと知ると、恐ろしい行動に出ます。ダビデは王という権力者になって、全てが自分の思い通りにゆく日々を過ごし、傲慢になっています。善悪の区別が分からなくなり、自分を見失い理性を失い、心を悪魔にコントロールされています。自分が何をしているのか分からなくなっています。私たちも知らず知らずのうちに自分を見失う時があるのではないでしょうか。自分が正しいことを行っているのかどうか、時々客観的にチェックすることが必要です。ダビデは指揮官ヨマブに宛てて、悪に満ちた命令を書状にしたため、ウリヤに託します。書状には、「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ」と書かれていました。ヨアブがダビデを諌めて、「このような命令はお受けできません。ウリヤを失えば大変な損失になりますよ」と言えばよかったのですが、ヨアブはイエスマンなのか、ダビデの指示に従ってしまったのです。ウリヤは真にに気の毒にも、戦死してしまったのです。ダビデの指示によって殺されたのです。ダビデは「姦淫してはならない」と「殺してはならない」の2つの戒めを破ったのです。ウリヤの妻は夫ウリヤが死んだと聞くと、夫のために嘆きました。喪が明けると、ダビデは人をやって彼女を王宮に引き取り、妻にしました。何番目かの妻なのです。彼女は男の子を産みました。ダビデの計画はすべてうまくいったように見えます。しかしここで、それまで沈黙しておられた神様が介入なさるのです。

 神様が預言者ナタンを派遣され、ダビデを叱責されます。神様はダビデの殺人と姦淫の罪を見逃されませんでした。「なぜ主の言葉(十戒の言葉でしょうか)を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。~見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。」ここまで言われてダビデは、ようやく自分の罪に気づき、告白します。「わたしは主に罪を犯した。」預言者ナタンが告げます。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」ダビデとバト・シェバの間に生まれた男の子が、ダビデの身代わりのように神様に打たれて死ぬのです。神様はこのようにして、殺人と姦淫の罪を犯したダビデを裁かれました。その後、ダビデとバト・シェバの間に二人目の男の子が生まれます。ソロモンと名付けられます。神様はその子を愛して下さいました。この一連の出来事に、神様の峻厳な厳しさと、神様の憐れみを見ます。

 しかしダビデはさらに罪の報いを受けなければなりませんでした。神様は、「見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう」とおっしゃいました。このことは、ダビデの三男アブサロムによるダビデへの反乱という形で現実になります。ダビデたちは首都エルサレムから逃げ出すことになります。そしてダビデの軍とアブサロムの軍が戦います。ダビデ軍が勝ち、アブサロムは戦死します。ダビデは三男を失って非常に悲しみます。この悲劇も元を正せば、ダビデがバト・シェバと姦淫をし、ウリヤを計画的に殺害した罪に対する神様の裁きなのです。姦淫と殺人の罪の報いは、やはりダビデの上に厳しくのしかかったのです。姦淫は結婚相手を裏切る罪、正しい結婚を破壊する罪です。神様は正しい結婚を祝福し喜んで下さいます。

 旧約聖書には一夫一婦制が実行されていない場面がしばしばあります。しかし、神様はダビデの姦淫の罪を裁くことで、創世記2章にある通り一夫一婦制こそが神様のご意志であることを暗示しておられるのではないでしょうか。時代が進んで新約聖書の時代、イエス・キリストの時代に向かうにつれて、一夫一婦制こそが神様のご意志であることがより明確になってゆきます。
 
 旧約聖書最後の書であるマラキ書の2章に、結婚と姦淫に関する御言葉があります。13節を読みます。
「同様に、あなたたちはこんなことをしている。
 泣きながら、叫びながら/ 涙をもって主の祭壇を覆っている。
 もはや、献げ物が見向きもされず
 あなたたちの手から受け入れられないからだ。」 
イスラエルの人々が嘆いています。神様が献げ物を拒否なさっているからです。その原因はイスラエルの人々の罪だったのです。どんな罪が原因だったのか、14~15節に出ています。

「あなたたちはなぜかと問うている。それは、主があなたとあなたの若いときの妻との証人となられたのに、あなたが妻を裏切ったからだ。彼女こそ、あなたの伴侶、あなたと契約をした妻である。~あなたたちは自分の霊に気をつけるがよい。あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。」

 これは神様が男性に向けて語られた言葉ですね。次の16節で神様は「わたしは離婚を憎む」と言っておられますが、これは男性が自分勝手な理由をつけて妻を離縁し、ほかの人を妻にすることが多く行われていたからではないかと思います。当時は男性中心社会であり、女性の地位が非常に低く、女性が男性の持ち物のように扱われていたのでしょう(イエス様の時代になっても、そのような現実はありました)。神様は、男性によるこのように身勝手で一方的な離縁をお認めになりません。結婚は、聖なる契約です。「この人を一生愛し、ほかの異性と関係をもたない」と神様の前で約束する聖なる契約です。ところが男性が身勝手な理由をつけて妻を離縁し、結婚の契約を破り、ほかの女性を妻にしてしまう身勝手が多く行われていたのでしょう。この罪に対して神様が憤られ、スラエルの民の献げ物を拒否なさったのです。それは、神様がイスラエルの民の礼拝を拒否されたということです。

 神様の真の御心は、男女が対等の立場で結婚という契約に入ることです。神の民イスラエルにおいてさえ、それはなかなか実現されませんでしたが、旧約の時代からイエス様の時代に進む中で、神様の真の御心が明確になってゆきます。離婚はもちろんできる限り避けるべきですが、残念ながら中にはやむを得ないケースもあると思います。家庭内暴力から逃れる必要がある場合などはやむを得ないと考えます。私が神学生だったとき、あるベテランの牧師が私に言われました。「人間の一番難しい問題は、性の問題だ」と。牧師としての長い生活の中で、離婚などの相談を受けることもあり、共に悩んで共に祈り、答えておられたのでしょう。

 本日の新約聖書は、マタイによる福音書5章27節以下です。ここでイエス様が、「姦淫してはならない」の深い意味を教えて下さいます。(27節)「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。」このようにイエス様はまず、十戒の「姦淫してはならない」をそのまま出されます。しかし姦淫の行為さえ実行しさえなければこの戒めを守ったことになるのではないとおっしゃいます。(28節)「しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」男性が女性(異性)を見て、心の中でみだらな思いを抱いたならば、「姦淫してはならない」の戒めを破る罪を犯したことになるのです。新共同訳聖書では、「みだらな思いで他人の妻を見る者」と訳されていますが、口語訳聖書では、「淫らな思いで女を見るもの」となっています。「他人の妻」ではなく「女性全体」と対象が広く訳されています。どちらが間違っているわけではなく、どちらに訳すことも可能なのでしょう。私は「女」と訳する方が、純潔を求めるメッセージが強くなってよいと思います。

 文語訳聖書では、「すべて色情を懐きて女を見るものは、すでに心のうちに姦淫したるなり」と訳されています。文語訳が一番ストレートで分かりやすく、私たち、特に男性に襟を正させる力をもっています。「すべて色情を懐きて女を見るものは、すでに心のうちに姦淫したるなり。」性欲そのものが罪ではないでしょう。正式に結婚した夫婦の間でのみ、性関係は許され祝福されます。それ以外の性的関係はすべて姦淫の罪だと言ってよいのです。純潔の意識が大切です。結婚式が終わるまで性的関係をもつことはできません。恋人であってもできません。これは今の日本で改めて声を大にして言う必要があることです。大人にはもちろん、青少年少女にも、「姦淫してはならない」、「不倫してはならない」、「姦淫は罪である」のメッセージを伝えたいのです。今年のNHK大河ドラマの主人公・黒田官兵衛はキリシタン(クリスチャン)で、生涯側室を持たなかったそうですね。当たり前のことですが、戦国時代の大名では珍しかったようです。黒田官兵衛は生涯一人の妻を愛したので、姦淫の罪を犯さなかったのではないかと思います。

 旧約聖書と新約聖書の中間の時代に書かれた旧約聖書外典と呼ばれる書物群があります。外典は聖書ではありませんが、信仰の養いの書として大切にされて参りました。その中にトビト記という書があります。トビト記に、トビアという男性とサラという女性が結婚する場面があります。トビアがこう祈ります。「あなた(神様)はアダムを造り、また、彼の助け手、支え手として妻エバをお造りになりました。そしてその二人から、人類が生まれて来たのです。~今わたしは、このひとを情欲にかられてではなく、御旨に従ってめとります。どうか、わたしとこのひとを憐れみ、わたしたちが共に年老いていくことができるようにしてください。」二人は「アーメン、アーメン」と言った。私ども夫婦が18年前に結婚したときに、当時属していた教会の女性が、この言葉をカードに書いて渡して下さった思い出があります。

 「姦淫してはならない」がテーマである以上、ヨハネによる福音書8章の「姦淫の女」の場面に触れないわけにはゆきません。イエス様が朝早く、エルサレムの神殿の境内で教え始められると、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通(姦淫)の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエス様に言いました。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」 確かにレビ記20章10節に、「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる」と書いてあります。この御言葉に従えば、この女性は死刑になります。姦通した男も死刑になるはずですが、律法学者・ファリサイ派の人々は男性に甘かったのか、姦淫した男性は見逃したようです。イエス様はかがみ込み、指で地面に何か書き始められます。女性を見ません。それは思いやりかもしれません。何を書いておられたのか、分かりません。しかしこのかがみ込む姿勢に、へりくだって奉仕に生きるイエス様の生き方が示されているとも思えます。十字架につながる姿勢です。追い詰められている人を居丈高に裁かれません。イエス様のお答えは完全に私たちの意表を突くお答えです。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」イエス様は、地面にこの御言葉を書いておられたのかもしれない、と私は思いました。

 律法学者・ファリサイ派の人々には確かに問題がありますが、十戒をはじめ旧約聖書の言葉をよく知っており、自分たちも実は律法を守り切れていないことを、うすうす感じていたはずです。イエス様にその痛い点をはっきり突かれて、悔しさを覚えつつも敗北を認めて引き下がったのです。年長者から始まって、一人また一人と立ち去ったのです。イエス様と女性が残りました。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」「主よ、だれも。」するとイエス様は言われます。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

 この女性は、十戒に照らせば明らかに有罪です。イエス様は罪を全く犯さない方ですから、イエス様だけはこの女性に石を投げつけて死刑にする権利を持っておられます。しかしイエス様はあえてその権利を行使なさいません。ここを読むと、イエス様は本当に救い主だな、と感じます。イエス様はこの女性の姦淫の罪を、見て見ぬ振りをしたのでないのです。イエス様は、この女性の姦淫という大きな罪をも身代わりに背負って、十字架で死ぬ覚悟を決めておられます。イエス様の十字架の死がなければ、この女性の姦淫の罪も本当には赦されません。イエス様が十字架で身代わりに死んで下さるので、この女性の姦淫の罪も赦されるのです。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」姦淫の罪を犯したことを、神様の前にはっきり悔い改めなさい。そして二度と姦淫の罪を犯してはならない、と言われたのです。もちろんほかの罪も犯さないように気をつけることが必要です。

 これは、この女性が事実上の洗礼を受けた場面とも言えます。私たちも洗礼を受けたときに、自分の罪を悔い改めて洗礼を受けたのです。そして清き聖霊を注がれました。これからは聖霊に助けられて、できるだけ罪を避ける生活を始める。何回も失敗するだろうけれども、それでも少しでも清い生き方をするように祈りつつ心がける。その新しい出発が洗礼式でした。イエス様は、私ども一人一人のために十字架で死んで下さいました。その十字架の愛に改めて感謝し、「姦淫してはならない」の戒めをも守り、共にイエス様に従って参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-08-25 17:12:32(月)
「殺してはならない 十戒⑥」 2014年8月24日(日) 聖霊降臨節第12主日礼拝説教 
朗読聖書:出エジプト記20章1~21節、マタイ福音書5章21~26節。
「殺してはならない」(出エジプト記20章13節)

 「殺してはならない。」人を殺すことが神様に逆らう罪であることを教える御言葉です。私は、平和への祈りを特に強くする8月の礼拝で、「殺してはならない」の戒めを学ぶことができることを感謝しています。動物を殺して食べることが禁じられているわけではありません。人間を殺すことが禁じられています。もちろんだからと言って、必要もないのに動物を殺してよいわけではありません。動物を殺すことも必要最小限にとどめるべきです。

 なぜ人を殺してはいけないか。それは人間が皆、神様に似せて造られた存在だからです。創世記1章26~27節に次のように書いてあります。
「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、
 家畜、地の獣、地に這うものすべてを支配させよう。』
 神は御自分にかたどって人を創造された。
 神にかたどって創造された。/ 男と女に創造された。」

 人間が一人一人皆、神様にかたどって造られていることを、「神の似姿に造られている」と言っています。これは人間に尊厳があることを示しています。神様はほかに多くの生き物を造られましたが、それらについて「神にかたどって創造された」とは書かれていません。ほかの生き物の命にも尊厳はあるでしょうが、人間だけが神様に似せて造られたので、人間には特別の尊厳があります。最高の尊厳をお持ちの方は真の神様お一人です。その神様に似せて造られたことは、私たち人間の最高の栄誉です。神様に似せて造られた一人一人なので、人間の命は地球より重いのです。

 だいぶ前に、日本の小学生か中学生が「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問をしたことが話題になったことがあります。この問いに対しては、聖書を根拠に明確に答えることができます。「人は皆、神様に似せて造られた尊い一人一人だから、決して殺してはいけない。聖書のモーセの十戒に、神様のご意志として『殺してはならない』とはっきり書かれているから、殺してはならない。」私たちはこのように答えることができます。

 人間のどこが神様に似ているのでしょうか。姿形ではありません(父なる神様に姿形はありませんから)。人間は(不十分ながら)愛することを知っていること、神様ほどではないが知性を持っていること、意志を持っていること、言葉を持っていることなどが似ています。神様は、この人間に自然界全体を支配する責任と使命を与えられました。この場合の支配とは、勝手に押さえつけることではなく、神様の御心に則して正しく管理するということです。神様は、ご自分がお造りになった自然界・地球を適切に管理する光栄な責任を、私たち人間に与えられたのです。

 詩編8編は、私が好きな詩編の1つです。そこでは作者が、偉大な神様が人間に与えられた栄誉の大きさに驚きながら、次のように歌います。
「月も、星も、あなた(神様)が配置なさったもの。
 そのあなたが御心に留めてくださるとは/ 人間は何ものなのでしょう。
 人の子は何ものなのでしょう。/ あなたが顧みてくださるとは。
 神に僅かに劣るもの(!)として人を造り、
 なお、栄光と威光を冠としていただかせ
 御手によって造られたものすべてを治めるように/ その足元に置かれました。
 羊も牛も、野の獣も/ 空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。」

 何と人間は、「神に僅かに劣るもの」として造られ、神様がお造りになった羊や牛、野の獣、空の鳥、海の魚、海路を渡るもの(鳥たち?)よりも上に置かれたのです。どの一人の方も(女性も男性も、赤ちゃんも大人も、いわゆる障碍があってもなくても)この尊厳を神様から与えられているので、その人間を殺すことがあってはならないのです。にもかかわらず、残念ながら殺人が起こっているのが、この世界の現実です。新聞を開けば、今の日本でも世界でも殺人事件や戦争の記事が多いのです。今こそ「殺してはならない」という神様の御言葉に私たち自身も改めてしっかりと耳を傾け、周りの方々にもお知らせしたいものです。

 創世記は1章で、神様が御自分にかたどって人間を創造されたことを語りました。神様は人間を創造なさったことを深く喜ばれたのです。ですが最初の夫婦アダムとエバは早速3章で神様の戒めに背き、罪を犯します。そのアダムとエバに二人の息子が誕生します。カインとアベルです。二人とも神様に献げ物をしましたが、神様は弟アベルとその献げ物に目を留められましたが、兄カインとその献げ物には目を留められませんでした。カインは激しく怒って顔を伏せ、弟アベルに声をかけ、野原で弟アベルを襲って殺したのです。人類最初の殺人です。最初の兄弟が、兄は殺人の加害者、弟は殺人の被害者になってしまったのです。原因は嫉妬です。カインは嫉妬心から弟アベルを殺害してしまったのです。二代目の人類が、早速「殺してはならない」の戒めを破ったのです。このときはまだ人類に十戒が与得られていませんでしたが、それでもカインが命を愛する神様の御心に背いて、大きな罪を犯したことは間違いありません。

 私たちが旧約聖書を読んで大きな疑問を覚えることの1つは、イスラエルの民が外国人と戦争することではないでしょうか。イスラエルの民は出エジプトし、40年後にカナンの地(イスラエルの地)に入ります。そこで先住民と戦い、相手を殺すのです。十戒に「殺してはならない」と明記されているのに、なぜこのような戦争が行われるのでしょうか。私は大いに疑問に思っていました。イスラエルの民によるカナン征服の戦いは、神の正義の戦いであり、世界史上ただ一度だけの聖戦ではないかと思います。カナンの地に住んでいた先住民は、偶像崇拝をはじめ様々な罪を犯していました。そこで神様が彼らを裁かれたのです。それは神様の正義の戦いでした。イスラエルの民は貧弱な武器しか持っていなかったはずです。それに対して先住民は武力に優っていたはずです。それにもかかわらずイスラエルの民が勝ったのは、神様が戦われたからです。

 ヨシュア記6章に、イスラエルの民がエリコの町を占領した記事が出ています。神様がイスラエルの指導者ヨシュア(モーセの後継者)にこう言われます。「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。七日目には、町を七週し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい。彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、鬨の声をあげなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民は、それぞれ、その場所から突入しなさい。」 民が神様に言われた通りに行動すると、鬨の声と共にエリコの城壁が崩れ落ちたのです。民は武力によって勝ったのではなく、ただ神様の御力によって勝ったのです。祈りによって勝ったとも言えます。イスラエルの民が神様に従い、先住民が偶像崇拝などの多くの罪を犯して神様に逆らっていたので、神様はイスラエルに味方されました。

 この後イスラエルの民はエリコの町に突入し、神様の命令に従って中の人々を皆殺しにするのです。このことも、「殺してはならない」の御言葉と大いに矛盾するように見えるので驚きますが、これは非常に罪深い民を、神様が裁かれたということでしょう。この時のみ許された特例であって、決してその後の時代の人々が同じことをしてよいわけではありあません。旧約聖書を完成なさる方は、イエス・キリストです。イエス・キリストは、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」、「敵を愛しなさい」とおっしゃり、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」とおっしゃり、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」と、敵を赦す祈りをなさる平和の主です。私たちはこのイエス様に従います。

 ヨシュア記ではイスラエルの民が先住民を滅ぼしますが、イスラエルの民も偶像崇拝などの罪を犯し続けるならば、カナンの地から追放されるのです。その意味で神様は公平です。実際イスラエルの民は、偶像崇拝の罪などを犯し続け、神様が預言者を遣わして悔い改めを求めても応じなかったために、紀元前6世紀にバビロン捕囚の苦難を経験するのです。首都エルサレムはバビロン軍によって踏みにじられ、人々は遠くバビロンへと連行されます。国は一旦滅びるのです。約半世紀後にイスラエルの民は帰還し、国を再建するのです。ヨシュア記では確かにイスラエルの民が先住民を滅ぼすのですが、それは悪を滅ぼしたということなのだと思います。イスラエルの民にとっても私たちにとっても、真の敵は人間ではなく悪魔なのです。人間を殺すことは罪です。私たちは、私たちを罪へと誘惑する悪魔と、祈りと聖書の言葉によって戦うのです。

 私は渡部良三著『歌集 小さな抵抗 殺戮を拒んだ日本兵』(岩波書店、2012年)という小さな本を持っています。著者の渡部さんは、無教会派のクリスチャンです。無教会を始めた方は内村鑑三ですが、内村鑑三は日露戦争の時に非戦論を唱えたことで有名です。無教会にはこの精神が息づいているのでしょう。1944年春、新兵であった22才の渡部さんが属する部隊が中国の河北省に駐屯しました。戦闘の度胸をつけさせるためという理由で、新兵48名に、5名の中国人捕虜を銃剣で突き殺すことが命令されたそうです。どう考えても国際法違反です。渡部さんのお父様も無教会のクリスチャンで、息子である渡部さんを戦地に送り出さざるを得なくなったとき、次のように言われたそうです。「最近内村鑑三先生の聖書の研究を読んでいたら、こう言うことが書かれていました。『事に当り自分が判断に苦しむ事になったなら、自分の心を粉飾するな、一切の虚飾を排して唯只管(ひたすら)に祈れ。神は必ず天からみ声を聞かせてくれる』と。だから心を粉飾することなく祈りに依って神様の御声を聞くべく努めなさい。お前の言葉でよいのだ。」(同書、228ページ)。

 捕虜を突けという無茶な命令を受けた日、渡部さんは必死に祈られたそうです。「神様、道をお示し下さい。力をお与え下さい」(同書、241ページ)。すると神のみ声を聞いたそうです。「汝、キリストを着よ。すべてキリストに依らざるは罪なり。虐殺を拒め、生命を賭けよ!」(同書、241ページ)。教官に、信仰のゆえに殺すことはできないと申し出たそうです。その後、多くのリンチを受けられましたが、聖書の御言葉を心の中で繰り返すことで耐えたそうです。ローマの信徒への手紙5章3~4節です。「苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐を練達を、練達は希望を生むということを。」そして幸い、生きて日本に帰ることができました。渡部さんが中国でひそかに作っていた短歌は多いのですが、そのうち2首をご紹介致します。
「祈れども 踏むべき道は唯ひとつ 殺さぬことと心決めたり」(同書、17ページ)。
「殺す勿れ そのみおしえをしかと踏み 御旨に寄らむ惑うことなく」(19ページ)。 
渡部さんは、「殺してはならない」を自分は何とか実行したが、上官や同僚の兵士には「殺してはならない」と説かなかったことを、深い罪と自覚しておられます。

 本日の新約聖書は、マタイによる福音書5章21節~です。小見出しは「腹を立ててはならない」ですから、腹を立てることが殺人の第一歩だというメッセージが込められています。(21節)「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺したものは裁きを受ける』と命じられている。」この「殺すな」は明らかに十戒の「殺してはならない」のことです。イエス様はこの戒めの深い精神を教えて下さいます。ただ殺人をしなければよいのではないのです。(22節)「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」兄弟とは信仰の兄弟のこととも言えますが、人類は皆兄弟姉妹とも言えるので、すべての人を指すと私は考えます。兄弟に腹を立て、「ばか」、「愚か者」と罵ることは殺人と同罪で、そのように一回でも人を罵れば「殺してはならない」に違反したことになり、神様の裁きを受ける罪だというのです。

 そして神様に礼拝を献げるに先立って、仲のよくない人と仲直り・和解しておかなければ、礼拝と言っても偽善であり礼拝にならないと、イエス様は教えて下さいます。(23~24節)「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」人を赦さない心のまま、人と和解しない心のまま、人を憎む心を抱きながら、神様を礼拝することはできないのです。私たちの人を赦さない心、人と和解しない心、人を憎む心こそ殺人の根、殺人の第一歩です。さらにイエス様はマタイによる福音書5章44節で、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という有名な御言葉を語られました。この御言葉を受けとめるなら、戦場で敵を殺すこともできませんし、自分の身近な人を赦さないなどあり得ないことになります。

 16世紀に今のドイツで作られた『ハイデルベルク信仰問答』では、「殺してはならない」について次のような問答が展開されています。
「問106:この戒めは、殺すことについてだけ、語っているのではありませんか。
 答:神が殺人の禁止を通して、わたしたちに教えようとしておられるのは、御自身が、
ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心のような殺人の根を憎んでおられること。またすべてそのようなことは、この方の前では一種の隠れた殺人である、ということです。」
「問107:しかし、わたしたちが自分の隣人をそのようにして殺さなければ、それで十分なのですか。
 答:いいえ。神はそこにおいて、ねたみ、憎しみ、怒りを断罪しておられるのですから、この方がわたしたちに求めておられるのは、わたしたちが自分の隣人を自分自身のように愛し、忍耐、平和、寛容、慈愛、親切を示し、その人への危害をできうる限り防ぎ、わたしたちの敵に対してさえ善を行う、ということなのです。」
  (吉田隆訳『ハイデルベルク信仰問答』新教出版社、2002年、98~99ページ)

 ねたみの心、人を憎む心、怒り、復讐心は殺人の根っこであり、これらの思いを心に抱くことが「隠れた殺人」であり罪だというのです。「あの人がいなければいい」などと私たちが万一思えば、それが「隠れた殺人」になり、「殺してはならない」に違反する罪を犯したことになります。そして憎みさえしなければ「殺してはならない」を十分実行したことになるのかと言えばそうではなく、すべての人を自分のように愛して忍耐、平和、寛容、慈愛、親切を行い、敵に対しても善を行う、愛を行う。こうして初めて「殺してはならない」の戒めを実行したことになります。「殺してはならない」とは、「愛しなさい」ということだと分かるのです。イエス様はマタイによる福音書7章で、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」とおっしゃいました。黄金律・ゴールデンルールと呼ばれます。このようにして初めて、「殺してはならない」を実行することになるというのです。単に殺人を実行しないだけでは全然足りないのです。旧約聖書にはそこまで書かれていませんが、イエス様が「殺してはならない」の本当の意味はこうなのだと教えて下さったのです。こうなると私たちは、「殺してはならない」の戒めさえ、本当には守ることができていない罪人(つみびと)であることを悟るのです。

 ヨハネの手紙(一)3章15節にこう書かれています。「兄弟を憎む者は皆、人殺しです。」16節にはこうあります。「イエスは、わたしたちのために命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」 4章20~21節にはこう書かれています。「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。」 この中には私たちにとって耳に痛い御言葉もあったかもしれません。耳に痛くても、心に刻みたい御言葉です。

 「殺してはならない」の戒めを考えると、いろいろなことを考えなくてはならなくなります。戦争、死刑制度、中絶などです。このすべてについて今日語ることはできません。日本人の多くは戦争を憎んでいると思います。これからも世の終わりまでずっとそうでありたいのです。昨年わたしは原爆の絵が展示されている埼玉県東松山市の丸木美術館に行きましたが、そこで買った本に、それらの絵を描いた画家の丸木位里さんの言葉が書かれていました。「私の若い頃には戦争というのがそれほど悪いことと思わない空気があった。~いかなることがあっても、戦争はいけないということだ」(『丸木位里のことば』財団法人原爆の図丸木美術館編、2001年、104ページ)。そのような空気が再び日本に漂わないことを祈ります。日本人は空気に弱いと言います。そこに流れている空気・雰囲気に何となく染まってしまうのです。「何となく」が曲者です。十分気をつけたいと思います。

 私は先々週の8月15日(金)に、埼玉県上尾市にある聖学院大学(初めて行きました)で行われた「平和の祈り8.15」という礼拝形式の集いに出席して参りました。今年から学長になられた姜尚中(カン・サンジュン)先生のお話を伺いました。1950年熊本市生まれの在日韓国人二世のクリスチャンで、政治学者の方です。「8月15日(敗戦の日)は、国民を資源・モノとして扱った国家から国民が解放された日、出エジプト記の日といえるのではないか。しかし東日本大震災後の国の対応を見れば、国民を資源・モノとして扱う現実はまだあるのではないか。今、東アジアでは新たな戦前の空気を感じる(ので十二分に気をつけなければならない)。東京裁判史観を自虐史観と見なす風潮、歴史の隠蔽に危惧を覚える(東京裁判に一部問題があることを認めつつも)」いう意味のお話を、平和への願いを込めてなさいました。戦争中の日本が、国民を資源・モノとして扱っていたのはその通りではないかと感じます。召集令状一枚で男性を戦地に送るというのはその現れです。「殺してはならない」の戒めを無視する国だったと言われても仕方がなかったでしょう。

 自分の国の人を殺してはならないし、他の国の人を殺してもならない。「殺さないで愛する」。今後さらにそのような日本となり、イエス様がもう一度おいでになる世の終わりまで、平和を愛する私どもであり続けたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。