日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2015-04-29 20:11:51(水)
「滅びることのない神の栄光」 2015年4月26日(日) 復活節第4主日礼拝説教
朗読聖書:詩編19編2~7節、ローマの信徒への手紙1章18~32節
「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」(ローマ書1章20節)。

 「人類の罪」の小見出しが掲げられています。人類と書いてありますが、基本的に旧約聖書の神の民イスラエル人でない人々、異邦人を指しています。異邦人の偶像崇拝の罪を告発していると読むことができます。(18節)「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」 イスラエルの民も偶像崇拝の罪を犯しました。先週の礼拝で読んだ出エジプト記32章がまさにイスラエルの民の露骨な偶像崇拝の罪を語っていました。モーセがシナイ山からなかなか下りて来ないことを理由に、モーセの兄アロンがイスラエルの民の要求に屈して、のみで型を作り、若い雄牛の金の鋳像を作ったのです。イスラエルの民は偶像を作り、それを礼拝し、性的にも堕落したのです」と書かれています。十戒の第一の戒めと第二の戒めを破ったのです。それに対して、神様の激しい怒りが示されました。

 異邦人も盛んに偶像崇拝の罪を犯して参りました。偽物の神を礼拝することが偶像崇拝です。それは真の神様への侮辱です。たとえば日本には馬頭観音という像があります。この近くの飯能にもあるようです。馬を拝むのです。きっと馬が生活を非常に助ける存在だったのでしょう。しかし馬は神様ではありません。インドでは牛を聖なる動物として拝むと聞きます。古代エジプトでは、犬が神として崇められたと聞きます。人間は目に見えるものを拝みたくなるようです。それを悪いとも思わないのです。私たちは聖書を読んで初めて、偶像崇拝の罪を知るのではないでしょうか。私はそうでした。

 「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」神様は燃える愛で真剣にイスラエルの民を愛され、私たちを愛しておられます。燃える愛で真剣に愛しておられるのです。ですから私たちが神様を裏切って、偶像を礼拝することは、神様にとって非常な悲しみです。真剣に愛しておられるので、罪に対して真剣に怒られます。神様の怒りは完全に正当な怒り、聖なる怒りです。私たち人間の怒りには罪・わがままが含まれていますから、完全に正しい怒りではありません。不純な部分があるのです。しかし神様の怒りは、完全に正しい怒り、正義の怒り、聖なる怒りです。詩編90編12節の御言葉を思い出します。「あなた(神様)を畏れ敬うにつれて/ あなたの憤りをも知ることでしょう。」私たちの罪に対する、神様の憤り・怒りです。

 (18~20節)「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼ら(異邦人)にも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼ら(異邦人)には弁解の余地がありません。」神様が天地創造をなさったときから、目に見えない神様の聖なるご性質は、被造物(神様に造られたもの)・自然界に現れている、そうパウロは書きます。神様がお造りになった自然界・宇宙のすばらしさを見れば、それによって神様の聖なるご性質と永遠の力を知ることができる、というのです。

 長崎で被爆されたクリスチャン医師に永井隆という方がおられました。私は最近、テーィンエージャー向けに書かれた永井先生を紹介する本を読みました。医師として尿石という腎臓や膀胱にできる石の研究のしている時の、弟子の学生と永井先生の会話が書かれています。尿石を顕微鏡で見ると、美しい結晶が観察されたのです。
弟子「尿石の第四十号のラウエ斑点はきれいですね、先生。」
永井先生「きれいだね。単結晶のかなり大きいのができているんだ。」
弟子「あんな美しい結晶配列を見ると、何か神秘的な感じに打たれます。尿石といったら、何の役にも立たない石です。その石の中にさえ、あんな整然とした結晶配列がある。実に宇宙というものは、隅から隅まで、こまやかな秩序がゆきわたっているものだなあ!」(片山はるひ『永井 隆 原爆の荒野から世界に「平和を」』日本キリスト教団出版局、2015年、52ページ)。

 永井先生は、「科学の道を究めれば究めるほど」、「この世界が偶然にできたものではないこと、このすばらしい秩序をつくった創造主である神がおられることへの確信を深めて」(同書、同ページ)ゆかれたのです。まさに、「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」です。「従って、彼ら(異邦人)には弁解の余地がありません。」 パウロは言うのです。「異邦人も、自分たちは真の神を知らないから偶像崇拝などの罪を犯しても自分たちの責任ではない、という弁解はできない。この自然界が、神様の聖なるご性質をはっきり示しているのだから」と。

 使徒言行録14章を見ると、パウロが真の神様を知らない小アジアのリストラという町の人々に、このように説教しています。「あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてそこにあるすべてのものを造られた方です。神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神はご自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」神様はこのような形で、異邦人にも、真の神様の存在を示して来られたのです。

 ローマの信徒への手紙に戻り、21節「なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえってむなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。」 神様を知りながら、当然神様に献げるべき礼拝と感謝を怠り、罪深い思いに沈み込んだ、という意味でしょう。(22~23節)「自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」「知恵があると吹聴しながら愚かになる。」原発もそうかもしれませんね。豊かな生活を産み出しましたが、その一方で発生する核廃棄物を処理する方法が、はっきり決まらないままに運転して来ました。人間の欲望を満たすことばかり続ければ、地球が破綻することが見えています。ここで本当に賢くなってエネルギー消費を減らし、謙虚な生き方に転換しなければなりません。聖書の御言葉(偶像ではない、真の神様の御言葉)に従い続けることで、私どもは、神様の御心に従う賢い生き方へと導かれます。本日の説教題を「滅びることのない神の栄光」と致しました。この神様のみを礼拝し、この神様に聴き従い続けたいのです。それ以外のものを拝むことは、偽物を拝むことです。偽物は、私たちを間違った方向に導き、滅びへと導きます。

 真の神様を礼拝し、その御言葉に聴き従い続ける生き方は、マタイによる福音書7章のイエス様の御言葉を借りれば、「狭い門から入る」生き方です。しかしイエス様は言われます。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命(永遠の命)に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」偽物の神々の方が一見魅力的かもしれないのです。しかしそれに惑わされないで、真の神様のみを礼拝し、その御言葉に聴き従い続けたいのです。本日のローマの信徒への手紙の前半でパウロは、異邦人の偶像崇拝の罪を、以上のように告発しています。

 (24~25節)「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られたものを拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です。アーメン。」 神様は、異邦人を不潔なことをするにまかせられた。これが最も厳しい裁きです。間違ったことをしても注意しないで、罪を犯すままに任せる。自由放任する。それは見放したことです。「注意されるうちが花」なのです。間違ったことをしても注意してもらえない、叱ってもらえない。これは見放されたことを意味し、最も厳しい裁きです。「自由にしなさい。好きにしなさい」と放り捨てられたことです。神様はイスラエルの民には、神様の聖なるご意志を示す十戒を与えられました。ですからイスラエルの民は幸せなのです。十戒を守らない場合には、裁かれました。イスラエルの民は、歴史の中で、十戒などの律法によって神様に鍛えられたのです。裁きをも含めて神様の愛だったとさえ言えます。異邦人に不幸な点があるとすれば、十戒を与えられなかったことではないでしょうか。神様の聖なるご意志を教えられていない。偶像崇拝が罪であることすら知らない。真理について無知である。これは不幸です。

 私たち人間は、束縛を嫌い、自由を好みます。しかし自由を正しく使うことは難しいのです。自由を与えられても罪を犯さず、自分から進んで神様の意志に従って正しく生きることが望ましいことです。しかし私たちは自由を与えられると、義務や責任を忘れ、身勝手になり、楽で安易な道を選び、罪に落ち込んでしまいやすいのです。自由を与えられても、義務や責任を果たし、自分の意志で神様の御心に進んで従う人になることが、成熟したクリスチャンへの道です。しかし異邦人は、聖なる十戒・律法を与えられていなかった自由の中で、勝手気ままに生きて、罪へと堕落したとパウロは告発します。その根源こそ、真の神様を礼拝しない偶像崇拝の罪であると言っているようです。「もし神がおられなければ、どんな悪いことをしてもOKだ」という意味の言葉を聞いたことがあります。しかし、現実には神様がおられるゆえに、罪は罪となります。私どもは、神様を畏れ敬う時に、初めて自由を正しく用い、罪に堕落しない生き方をすることができます。

 (26~27節)「それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました(放任された)。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。」ここで同性愛が問題にされています。最近は性的少数者を差別してはいけないという論が強いですね。同性婚を認めるアメリカの州もあります。日本では同性婚が法的に認められていませんが、同性のカップルを夫婦に準ずる扱いにする条例を定めた自治体はあります。確かに同性愛者だからと言って就職差別などがあってはいけないと思います。同性愛的な傾向に生まれついたこともその人の責任ではないと思います。ですが同性愛の行為を行うことはいかがなものでしょうか。実際に具体的なケースに接した場合は、よく祈って丁寧に話し合うことが必要でしょう。私がお世話になった牧師の一人は、「人間の問題で一番難しいのは性の問題だ」とおっしゃっていましたから、よく学び、丁寧に応対することが必要です。心の性と体の性が一致しない性同一性障害に苦しむ方もおられるようです。その苦しみから解放されるために医療を受けることもあってよいでしょう。昨日の新聞によると、日本のいわゆる性的少数者の割合は最近の調査で7.6%だということです。性をめぐる現代の状況は複雑ですから、丁寧に考える必要があります。

 同性愛は、パウロの時代のローマの社会では日常的に見られたそうです。旧約聖書レビ記18章22節には、男性に対して、「女と寝るように男と寝てはならない。それはいとうべきことである」と書かれています。使徒言行録を読むと、イスラエル以外の土地にあるユダヤ人の会堂に、「神をあがめる人々」も集っていたことが分かります。それは異邦人です。異邦人の中には、ローマ帝国の人々が性的に堕落していることに、うんざりしている人々がいました。彼らは、清い律法を持っているユダヤ人たちを尊敬したのです。ユダヤ人には、イエス様を拒否したという問題がありますが、十戒を持っていたことは強みでした。異邦人の中には、そのようなユダヤ人に憧れ、ユダヤ人の会堂で神様を礼拝する人々もいたのです。パウロはその人々にも、救い主イエス・キリストを宣べ伝えました。

 旧約聖書の創世記には、ソドムの町が罪深かったために神様に裁かれて滅びたことが書かれています。ソドムの町に、神様の御使い二人がたどり着き、ロトという人の家に泊まったとき、ソドムの男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、わめき立てました。「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」二人の御使いは戸を閉め、戸口の前にいる男たちに、老若を問わず、目つぶしを食わせ、戸口を分からなくしました。こうして男たちを撃退したのです。このように罪深かったソドムの町は、神様によって翌朝、滅ぼされました。

 ローマの信徒への手紙は、そのような男女の性的な罪も、根源をたどれば偶像崇拝に行き着くと述べているようです。(28節)「彼らは神を認めようとしなかった(偶像崇拝と言えます)ので、神は彼らを無価値な思い(罪深い思い)に渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。」偶像崇拝こそ、あらゆる罪の根源だということです。次の29~31節は、「悪徳表」と呼ばれます。私たち人間の罪のリストです。残念ながら私にも非常に身に覚えがあります。「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。」

 (32節)「彼ら(異邦人)は、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけでなく、他人の同じ行為をも是認しています。」真の神様を敬う異邦人も一部にいたにせよ、このような罪を犯し続けているのが、異邦人の現実でした。ここに異邦世界の罪深さがあますところなく明らかにされています。これらの多くの罪の根源は、真の神を認めず、畏れ敬わず崇めないこと、偶像崇拝の罪にあるとパウロは示します。偶像崇拝を捨て、真の神様に立ち帰ることが求められます。罪を悔い改めて立ち帰る私たちを、真の神様は、(ルカによる福音書15章の)あの放蕩息子を愛する父の愛で、大喜びで迎えて下さいます。

 使徒言行録17章を見ると、使徒パウロはギリシアのアテネに行ったとき、町の至るところに偶像があるのを見て憤慨しました。そしてアテネの人々に説教しました。「神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。さて、神はこのような無知な時代(真の神を知らない時代)を大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるように(偶像崇拝を捨てて、真の神様に立ち帰るように)と、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方(イエス・キリスト)によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」

 本日の旧約聖書は、詩編19編です。「天は神の栄光を物語り/ 大空は御手の業を示す。」宇宙・自然界は神様の作品だということです。「話すことも、語ることもなく/ 声は聞こえなくても/ その響きは全地に/ その言葉は世界の果てに向かう。」宇宙も自然界も無言です。しかし信仰の目で見れば、すばらしい自然界が、それを創造なさった神がもっとすばらしいことを世界中の人々に物語っています。無言の雄弁で語っているのです。パウロが、「神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」(ローマ1:20)と述べる通りです。力強い自然界のシンボルとして太陽が採りあげられ、太陽が軌道を力強く運行する様子が語られます。「太陽は、花婿が天蓋から出るように/ 勇士が喜び勇んで道を走るように/ 天の果てを出で立ち/ 天の果てを目指して行く。」昔の教会はこの御言葉から天動説を信じたかもしれませんが、もちろん今はどの教会も地動説を信じます。この御言葉は、太陽の力強い運行を語り、それを支える神様の力強さを語ります。 このすばらしい天地を創造なさった神様を讃美する、アッシジのフランチェスコ作詞の讃美歌21・223番をご一緒に讃美致しましょう。 アーメン(「真実に、確かに」)。 

2015-04-21 19:12:40(火)
「金の子牛の偶像」 2015年4月19日(日) 復活節第3主日礼拝説教
朗読聖書:出エジプト記32章1~29節、コリント(一)10章1~13節
「宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た」(出エジプト記32章19節)。

 イスラエルの民はエジプトを脱出し、神様から十戒を授けられました。その十戒に基づいて出エジプト記24章で、神様と契約を締結したのです。そしてモーセは、従者ヨシュアと共にシナイ山に登ります。神様が、十戒を記した石の板を授けると言われたからです。モーセが山に登ると、雲が山を覆いました。雲は六日間、山を覆いました。神様は、七日目に雲の中からモーセに呼びかけられました。雲は、山の下からは燃える火のように見えました。モーセはシナイ山に登り、雲の中にいました。モーセは四十日四十夜、山にいたのです。神様はモーセに、イスラエルの民が荒れ野の旅において神様を礼拝する、聖なる幕屋を建設する指示を出されました。主としてそれらに関する、神様の詳しい指示が出エジプト記25章から31節に記されています。31章の最後に、「主はシナイ山でモーセと語り終えられたとき、二枚の掟の板、すなわち、神の指で記された石の板をモーセにお授けになった」と書かれています。神様がモーセに、十戒が記された二枚の板を渡されたのです。

 そして32章に入ります。モーセが四十日四十夜山から下りて来ないので、山の麓にいるイスラエルの民の信仰の心は、早くも揺らぎます。忍耐力が足りないのです。民はモーセの兄アロンに、目に見える神を造ってほしいと要求します。(1~4節)「モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、『さあ、我々に先立って進み神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです』と言うと、アロンは彼らに言った。『あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。』民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄の鋳像を造った。すると彼らは、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ』と言った。」

 十戒の第一の戒めと第二の戒めを、早速、露骨に破る行動に出るのです。第一の戒めは、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」です。偶像崇拝の禁止です。第二の戒めには、「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である」と書かれています。この二つの戒めを、早速破り始めるのです。モーセの兄アロンは、「そのような大きな罪を犯すのはやめなさい」と人々にストップをかけるべきなのに、神様に逆らう行動に、能動的に参加するのです。アロンは自ら若い雄牛の鋳像(偶像)を造り、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言しました。若い雄牛は、古代の中近東で神として礼拝されていました。若い雄牛は繁殖力と繁栄のシンボルです。欲望のシンボルです。イスラエルの民も、悪魔の誘惑に負け、エジプトでの奴隷状態から救い出して下さった真の神様を礼拝し、十戒を守るよりも、自分のたちの欲望を叶えてくれる偽りの神・偽物の神・偶像を拝む罪に、あっと言う間に転落したのです。偶像の正体は悪霊・悪魔です。彼らは悪魔に魂を売り渡したのです。(6節)「彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。」 モーセが不在の約四十日間に、規律が乱れてしまりのない集団になり、偶像崇拝の罪を犯し、性道徳も乱れたのです。

 (7~8節)「主はモーセに仰せになった。『直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ」と叫んでいる。』」 十戒に書いてあったように、神様は熱情の神様です。イスラエルの民と私たちを熱情的に愛しておられるのです。神様とイスラエルの民の間柄は、夫と妻の間柄にたとえられます。神様と教会の間柄も、夫と妻の間柄にたとえられます。偶像崇拝の罪は、夫に愛されている妻イスラエルが、ほかの男性とつながる姦淫にたとえられます。偶像崇拝は、真の神様を裏切る行為であり、真の神様を深く傷つける行為です。民に裏切られた神様は深い悲しみを覚えられ、熱情が燃え上がったのです。(9~10節)「わたしはこの民を見て来たが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」
 
 モーセが必死に執り成します。(11~12節)「モーセは主なる神をなだめて言った。『主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。どうしてエジプト人に、「あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した」と言わせてよいでしょうか。どうか燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。』」モーセは、イスラエルの民のために必死・決死のとりなしをしたのです。神様の燃える怒りの前に立ちはだかる、命懸けの行動です。モーセが神様に焼き尽くされる恐れもあるのです。詩編106編23節にこうあります。「主は彼らを滅ぼすと言われたが/ 主に選ばれた人モーセは/ 破れを担って御前に立ち/ 彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた。」 エゼキエル書22章30節に、「石垣の破れ口に立つ者」という言葉があります。古代の中近東の町は城壁で囲まれ、守られていました。戦争で敵が攻撃して来るときは、城壁に穴を開けようとします。穴が開き城壁の一角が破られると、そこから敵兵が突入して来ます。それを防ぐため、どこかに穴が開けられそうになると、守る側は内側から必死に補強し、穴を開けられまいとします。開けられた場合は、そこに立ちはだかって敵を防いで戦います。これが破れ口に立つことで、敵と直面する非常に危険な行動です。当然死を覚悟することになります。モーセがイスラエルの民のためにとりなしをしたことは、これとよく似ています。「主に選ばれた人モーセは/ 破れを担って(神様の)御前に立ち/ 彼ら(イスラエルの民)を滅ぼそうとする主の怒りをなだめた。」モーセは下手をすると自分が神様に撃たれる危険を犯して、愛するイスラエルの民のために決死でとりなしをしたのです。幸い、神様はモーセを信頼しておられましたから、モーセのとりなしを聞き入れて、民に災いを下すことを思い直して下さいました。

 モーセ以上に決死の愛をもって、私たちの罪をとりなして下さった方は、主イエス・キリストです。ここでモーセは死なずに済みましたが、イエス様は私たちの罪に対する父なる神様の聖なる怒りを、全部引き受けて下さいました。私たちの罪に対する父なる神様の燃える正しい怒りを、全部まともに受けて、死んで下さったのです。そのあまりの辛さに、神の子イエス様でさえ、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と叫ばざるを得ないほどでした。私たちキリスト者も、ほかの方々のためにとりなしの祈りを献げます。P.T.フォーサイスというイギリスの牧師が書いた『祈りの精神』という本には、「とりなしの祈りの効果は絶大である」と書かれています。私たちも改めて、とりなしの祈りに励みたいのです。

 15~16節には、十戒が記された二枚の石の板のことが書かれています。「モーセが身を翻して山を下るとき、二枚の掟の板が彼の手にあり、板には文字が書かれていた。その両面に、表にも裏にも文字が書かれていた。その板は神御自身が作られ、筆跡も神御自身のものであり、板に彫り刻まれていた。」神様御自身の指で、十戒の文字が刻まれていたのです。しかし、結果的にこの二枚の板は、すぐに砕かれてしまいます。モーセが民の偶像崇拝への堕落を見て、激しく憤ったからです。(17~20節)「ヨシュアが民のどよめく声を聞いて、モーセに、『宿営で戦いの声がします』と言うと、モーセは言った。『これは勝利の叫び声でも/ 敗戦の叫び声でもない。/ わたしが聞くのは歌を歌う声だ。』宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。官能的な踊りだったのでしょう。モーセは激しく怒って(義憤です)、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。」モーセは、激しい憤りのあまり、金の子牛を粉々に砕きました。偶像崇拝に対する神様の憤りの強さを代弁する行動に出たのです。モーセは、怒り心頭に発しました。怒髪天を衝くという表現がぴったり来ます。

 モーセがアロンに厳しく言います。「この民があなたに一体何をしたというので、あなたはこの民にこんな大きな罪を犯させたのか。」「こんな大きな罪」という言葉から、偶像崇拝がすべての罪の根源とも言うべき深刻な罪であることが分かります。
コロサイの信徒への手紙3章5節には、「貪欲は偶像礼拝にほかならない」と書いてあります。私たちのエゴ、欲望を満たすことを第一とする生き方、自分の利益を第一として隣人を顧みない貪欲・強欲な生き方、それが偶像崇拝であると、悔い改めさせられます。

 アロンが苦しい言い訳・弁解をします。(22~24節)「わたしの主よ、どうか怒らないでください。この民が悪いことはあなたもご存じです。彼らはわたしに、『我々に先立って進む神々を造ってください。我々をエジプトの国から導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです』と言いましたので、わたしが彼らに、『だれでも金を持っている者は、それをはずしなさい』と言うと、彼らはわたしに差し出しました。わたしがそれを火に投げ入れると、この若い雄牛ができたのです。」 まるで自然にできたかのように言っていますが、事実は違います。アロンがのみで型を作って、若い雄牛の鋳像を造ったのです。

 あるベテランの牧師が、今日の場面のことを「厳粛な場面」とおっしゃいました。25~29節がまさに非常に厳粛な場面です。「モーセはこの民が勝手なふるまいをしたこと、アロンが彼らに勝手なふるまいをさせて、敵対する者の嘲りの種となったことを見ると、宿営の入り口に立ち、『だれでも主につく者は、わたしのもとに集まれ』と言った。レビの子ら(神様に奉仕する人々)が全員彼のもとに集まると、彼らに、『イスラエルの神、主がこう言われる。「おのおの、剣を帯び、宿営を入り口から入り口まで行き巡って、おのおの自分の兄弟、友、隣人を殺せ」』と命じた。その日、民のうちで倒れた者はおよそ三千人であった。モーセは言った。『おのおの自分の子や兄弟に逆らったから、今日、あなたたちは主の祭司職に任命された。あなたたちは今日、祝福を受ける。』」
 
 かなり衝撃的な場面です。偶像崇拝と乱痴気騒ぎをしている人々を、たとえそれが兄弟・友・子・隣人であっても殺せという神様の意志が示されているからです。ここではそれが神様に喜ばれること、神様に祝福されることなのです。モーセの十戒の第六の戒めに「殺してはならない」と書かれています。ですから通常は殺人は罪です。しかしここでは、民の偶像崇拝と性的な堕落の罪が甚しかったために、神様は彼らを厳しく裁くことを求められたのです。この民は壮年男子だけで60万人いました。女性・子どもを含めると240万人くらいいたのではないでしょうか。そのうち約3000人が裁かれて死にました。約800人に一人が死んだのです。死んだのはきっと罪が特に重い人たちだったのではないでしょうか。800人に一人は、比率的には少ないと感じます。800人中799人は裁かれて死ななかったのであれば、この出来事は、神様の厳しさだけでなく憐れみ深さをも示しているのではないでしょうか。しかし堕落の罪が特に甚しかった3000人は確かに死にました。神様はこうして、イスラエルの民から悪を取り除き、神の民である彼らを清められたのです。

 神様が悪を激しく清められることがあるのです。思い出すべきは、イエス様が神殿の激しく清められた場面です(ヨハネ福音書2章)。宮清めと呼ばれます。イエス様は、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちをご覧になりました。人々が神様よりもお金を愛している様子をご覧になり、怒り心頭に発し、縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』」イエス様は、多くの貪欲の罪が入り込んでいた神殿から罪を取り除き、神殿を清められました。同じように、神様はイスラエルの民から偶像崇拝の罪と性の乱れの罪を取り除いて、民を清められたのです。

 私はまた、マタイによる福音書10章のイエス様の御言葉を思い出します。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく剣をもたらすために来たのである。~こうして自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしより息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」びっくりさせられる言葉です。イエス様は「平和を実現する人々は、幸いである」とおっしゃったではないか。十戒には「父母を敬え」と書いてあるではないか。私たちはそう言いたくなります。

 もちろん基本的にイエス様は平和の主ですし、「父母を敬う」ことが神様に喜ばれることです。と同時に、はっきりした罪は放置せず、思いきって取り除かなくてはなりません。その姿勢をイエス様は、「平和ではなく剣をもたらすために来た」とおっしゃり、モーセは罪を犯した人々を剣で殺せ、と命じました。モーセは、それが兄弟(肉親)・友・隣人であっても殺して、イスラエルから偶像崇拝と性的堕落の罪を取り除くように命じたのです。神様はもちろん私たちに、「父母を敬う」ことを求められます。但し、真の神様を信じる信仰に入る決断は、しっかりと行う必要があります。父母を最大限敬いつつも、もし「イエス様を信じることはやめなさい」と言われれば、そこは妥協できない部分です。肉親の情よりも、真理を優先しなければならないことがあります。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない」とはそのようなことです。

 ニューヨークのウォール街に、「チャージング・ブル」という雄牛の銅像があるそうです。株価の上昇をさせる願望がこの雄牛の銅像に込められているそうです。製作者は、1987年の株式大暴落の日「ブラックマンデー」を受けてこれを造り、
1989年12月15日に、何とニューヨークの人々へのクリスマスプレゼントとして設置されたそうです。ニューヨークの観光スポットとして、毎日数千人が訪れるそうです。私は驚きのあまり、開いた口がふさがりません。これは出エジプト記32章の「金の子牛事件」の再現であり、クリスマスプレゼントどころか、イエス様と父なる神様への冒瀆としか思えません。「ウォール街の強欲資本主義」という言葉を聞いたこともあります。このような醜悪な銅像が早く撤去されるよう祈ります。

 さて、本日の新約聖書は、コリントの信徒への手紙(一)10章1節以下です。小見出しは「偶像への礼拝に対する警告」です。使徒パウロは、エジプトを脱出したイスラエルの民の失敗を繰り返してはならないと、私たちに語ります。パウロは、5~7節でこう述べます。「しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。『民は座って飲み食いし、立って踊り狂った』と書いてあります。」 「偶像を礼拝してはいけない」と強調しています。真の神様以外のものを拝んではいけない。自分の欲望やお金を神として拝んではいけないのです。偶像礼拝をして性的に堕落した人々は、裁かれて死んだのです。この厳粛な事実を、まともに受け取ることが必要です。

 (11節)「これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。」私たちは「時の終わり」に直面しているのです。イエス様がもう一度来られるときに、この世界の歴史は終わります。それは何百年か先のことかもしれませんが、今日かもしれないのです。(12節)「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」自分は信仰によって立っているから大丈夫だと思っている人も油断しないで、自分の信仰をチェックしてみなさいということです。そして14節でだめ押しのように、「わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい」と述べられます。偶像礼拝は、神様への裏切り・神様を深く傷つける行為であり、それを続けるならば私たちが堕落し、神様の裁きを受けることもある重い罪です。偶像の正体は悪魔です。偶像礼拝は悪魔礼拝です。偶像崇拝を避け、ご一緒に真の神様のみを礼拝し続ける歩みを、生きる限り、続けましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。 

2015-04-15 23:58:28(水)
「湖畔のキリスト」 2015年4月12日(日) 復活節第2主日公同礼拝説教
朗読聖書:エゼキエル書47章1~12節、ヨハネによる福音書21章1~14節
「イエスは言われた。『舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。』」
                    (ヨハネによる福音書21章6節)

 (第1節)「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。」ティベリアス湖はガリラヤ湖の別名です。ガリラヤ湖の西岸にティベリアスという町があったそうです。その町の名に因んで、ガリラヤ湖をティベリアス湖と呼ぶことがあったそうです。この町を建設したのは、洗礼者ヨハネを殺害したヘロデ・アンティパスです。ローマ皇帝ティベリウスの名からティベリアスという町の名をつけられ、この町がガリラヤの首都となったそうです。ローマ皇帝の名から町の名がティベリアスと名付けられたので、ユダヤ人はこの名を嫌ったそうです。しかしヨハネによる福音書では、なぜかガリラヤ湖と書かず、ティベリアス湖と書いています。今はこの点には深入りしません。復活されたイエス様が、そのティベリアス湖・ガリラヤ湖でご自分を弟子たちに現されたのです。
 
 その時、七人の弟子たちが一緒にいました。(2節)「シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち(ヤコブとヨハネ)、それにほかの二人の弟子が一緒にいた。」「ほかの二人の弟子」の名前は分かりません。熱血型のペトロがリーダーシップを取ります。(3節)「シモン・ペトロが、『わたしは漁に行く』と言うと、彼らは、『わたしたちも一緒に行こう』と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。」イエス様はペトロに、ルカによる福音書5章で、「あなたは人間をとる漁師になる」と言われました。そしてペトロとヤコブとヨハネが、魚をとる漁師をやめて、イエス様に従って行ったのです。それはイエス様が宣教活動を開始された、イエス様が30歳くらいのときのことです。本日の出来事は、イエス様が十字架で死なれて復活された後のことですから、イエス様がペトロに「あなたは人間をとる漁師になる」と言われた約3年後のことと推定できます。

 本日の3節でペトロが「わたしは漁に行く」と言ったのは、魚をとる漁のことですが、それはペトロに代表される教会の伝道活動、人々にイエス・キリストを宣べ伝える活動の象徴であると考えることができます。ペトロをはじめとする7人の弟子たちは、舟に乗り込みました。ご存じの通り、聖書では舟はしばしば神の民のシンボル、教会のシンボルです。ペトロにリードされ、六人の弟子たちも着いてゆき、七人で伝道に精一杯働いたことを意味します。「しかし、その夜は何もとれなかった。」 夜は漁に適した時間帯だと言います。日本の漁師も早朝に海に出るでしょう。しかもペトロとヤコブとヨハネは、3年前までこの湖で毎日のように漁をしていたのですから、経験豊富な漁師でした。しかし、その夜は一匹の魚もとれなかったのです。こうなると夜は、試練の時の象徴としての夜となります。

 人生の中に、そのような時はあるものでしょう。イエス様も、十字架の試練を体験しておられます。十字架に架けられ、暗闇の中で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と大声で叫ぶ、非常に辛い経験をされたのです。聖書のほかの人々も、夜のような試練を体験しています。ルツ記を読むと、ナオミという婦人が登場致します。ナオミという名前は「快い」という意味です。その時代に、イスラエルを飢饉が襲ったので、ナオミと夫エリメレクは、二人の息子マフロン・キルヨンと共に、ユダヤのベツレヘムから、外国のモアブの野に移り住んだのです。ナオミがモアブで10年ほど暮らすうちに、夫エリメレクが死に、二人の息子たちはモアブの女性と結婚しましたが、二人の息子たちも死んだのです。ナオミは、神様がユダヤの地に食べ物をお与えになったと聞き、ユダヤに帰ることにします。二人の息子の妻のうちルツだけはどうしてもナオミと共に行くと言いましたので、ナオミはルツと共にベツレヘムに帰ったのです。すると町中の人々が二人のことでどよめき、女たちが「ナオミさんではありませんか」と懐かしがって声をかけました。

 するとナオミは答えたのです。「どうかナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。
出て行くときは、満たされていたわたしを/ 主はうつろにして帰らせたのです。
なぜ快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。/ 主がわたしを悩ませ
全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」
ルツが一緒だったことが、神様の恵みであったと思いますが、その時のナオミはまだそのことに気づかなかったかもしれません。帰って来た場所はベツレヘムで、将来イエス様が誕生する地です。そしてルツはダビデ王の曾祖母となります。ダビデ王はナオミの血を引いていませんが、ナオミの最良の嫁ルツがダビデ王の曾祖母となる恵みをナオミは受けました。ですからナオミから神様の恵みが完全に失われたのではないのですが、しかしベツレヘムに帰ったときのナオミは、辛い辛い試練の中にいました。夜のような体験をしていたのです。イエス様の弟子たちも、精一杯努力したけれども、何の成果も上がらない、信仰の夜、伝道の夜を経験したのです。私たちも似たことを経験するのです。

 それを打開して下さるのは、復活のイエス・キリストです。(4節)「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。」夜明け、早朝、朝は、神様の創造の力が新しく与えられる時です。イエス様が復活されたのも夜明け、早朝です。詩編46編6節の御言葉が思い出されます。「夜明けとともに、神は助けをお与えになる。」「夜明けとともに、神は助けをお与えになる。」そして先週の礼拝で読んだ哀歌3章22~23節も、私たちを勇気づける、朝にふさわしい御言葉です。
「主の慈しみは決して絶えない。/ 主の憐れみは決して尽きない。
 それは朝ごとに新たになる。/ あなた(神様)の真実はそれほど深い。」 
旧約聖書のイスラエルの民が、ファラオの軍隊によって葦の海の前に追い詰められたとき、主はよもすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水が分かれる奇跡が起こりました。「朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍をかき乱された」と書かれています。まさに夜明け、早朝は、神様の助けが与えられるときなのです。

 「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。」「立つ」姿は復活を象徴しています。イエス様が墓から立ち上がられたことが、復活であるからです。「だが、弟子たちには、それがイエスだとは分からなかった。」やや距離があったからかもしれません。舟の弟子たちと、岸のイエス様の間の距離は200ペキス(約90メートル)でした。朝もやがかかっていたかもしれません。

 (5節)「イエスが、『子たちよ、何か食べる物があるか』と言われると、彼らは、『ありません』と答えた。」弟子たちの答えは正直です。「ありません。」私たち人間は、神様の助けなしには一秒も生きられない存在です。自力で生きていると思っていても、「自力」と思っているその力も、神様に与えられている力です。私たち人間は神様に100%依存して生きており、神様の助けがなくなれば困り果て、完全に行き詰まる者です。困り切った弟子たちの耳に、イエス様の権威ある御言葉が響き渡ります。(6節)「イエスは言われた。『舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。』そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。」それまでも舟の右側に網を打ったことでしょう。でも何もとれなかったのです。しかし同じ舟の右側に網を打つにしても、今回はイエス様の愛の助けがあるのです。復活のイエス様の祝福、神の祝福が注がれ、驚くほど多くの魚(153匹もの大きな魚)が一度に網にかかり、網を引き上げることができないほどの豊漁となったのです。驚くべきことです。

 旧約聖書・箴言10章22節を思い出します。「人間を豊かにするのは主の祝福である。/ 人間が苦労しても何も加えることはできない。」その通りです。ですが、こう言われると人間が努力することは無用なのかとの疑問が湧くでしょう。私たち人間の努力には罪・エゴも含まれていますから、私たちの努力がいつも神様が喜んで下さる方向に向かっているとは限らないでしょう。神様が喜んで下さる方向に向かって初めて、人間の努力も神様の祝福を受け、実を結ぶのだと思います。最も大切なものは、神様の祝福です。いえ、神様ご自身です。ジョン・ウェスレーというイギリスの伝道者は臨終のときに言ったそうですね。「最もよいことは、神様が私たちと共におられるということだ」と。弟子たちにとっても、私たちにとっても最高の恵みは、イエス・キリストが共にいて下さることです。弟子たちはそれを経験しました。その結果として、153匹もの大きな魚が一度に網にかかる祝福をいただいたのです。イエス様ご自身が働いて下さったこの奇跡によって、神の子イエス・キリストの栄光が現されました。

 (7節)「イエスの愛しておられたあの弟子(ヨハネと言われます)がペトロに、『主だ』と言った。シモン・ペトロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。」ペトロは行動が先走る方です。後で「しまった」と思うこともありますが、ここでの行動は正解です。裸同然では、さすがにイエス様に失礼で畏れ多いと思い、上着をまとってすぐに湖に飛び込んで、泳いで岸に向かいます。敬愛するイエス様に一刻も早くお会いしたいからです。(8節)「ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から200ペキスばかりしか離れていなかったのである。」6人の弟子たちは舟で岸に戻りました。

 この奇跡は、神の子イエス様の力、神様の偉大な力を示す出来事、私たちを励ます出来事です。神様は死者に命を与えることがおできになり、存在していないものを呼び出して存在させる力をお持ちです。民数記を見ると、エジプトを脱出したイスラエルの民が、荒れ野の厳しい旅の中で不満を言う場面がしばしば出ています。イスラエルの民も、民に加わっていた雑多な他国人も言いました。「誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない」(民数記11:4~6)。神様は、憤りつつも、「あなたたちは肉を食べることができる」と指導者モーセにおっしゃいます。モーセは言います。「わたしの率いる民は男だけで六十万人います。それなのに、あなたは、『肉を彼らに与え、一か月の間食べさせよう』と言われます。しかし、彼らのために羊や牛の群れを屠れば、足りるのでしょうか。海の魚を全部集めれば、足りるのでしょうか。」モーセは「とても足りない」と言いたげです。神様はモーセに言われます。「主の手が短いというのか。わたしの言葉どおりになるかならないか、今、あなたに見せよう。」 神様は風を起こされ、風は非常に多くのうずらを吹き寄せました。イスラエルの民は大喜びでそれを食べましたが、その貪欲さに神様は憤りを発せられ、激しい疫病で民を打たれたのです。それはともかく、この民数記のエピソードは、主の手が短くて私たちを救えないことはない、神様に不可能はないことを教えています。

 私たちがなすべきことは、イエス様のお言葉、イエス様のご意志に従うことです。今日の場面でイエス様は弟子たちに言われました。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」すると多くの魚がとれたのです。似た場面はこの福音書にいくつかあります。2章を見ると、ガリラヤのカナという所で婚礼があったとき、イエス様はその家の召し使いたちに、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と指示されました。水がめは石でできており大きく、6つありました。召し使いたとはぶつぶつ言わず、かめの縁まで水を満たしました。するとイエス様はその水を、何とぶどう酒に変えて、婚礼に喜びをもたらして下さったのです。

 11章を見ると、イエス様は死んで四日もたったラザロの洞穴の墓に行かれ、墓をふさいでいる石を見て言われました。「その石をとりのけなさい。」人々はその御言葉に従い、石をとりのけました。イエス様は天を仰いで祈られます。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。」そして「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれます。すると死んでいたラザロが、手と足を布で巻かれたまま出て来たのです。ラザロが生き返ったのです。驚くべきことですが、神様には死者に命を与える力がおありなのです。イエス様が、父なる神様が働いて力を発揮して下さいました。人々がしたことは、イエス様の御言葉に従って、石をとりのけることでした。 新約聖書のテモテへの手紙(二)4章2節は私たちに、「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい」と求めています。この求めに従って、折りが良くても悪くても、聖書の言葉を宣べ伝え、唯一の救い主イエス・キリストを宣べ伝えたいのです。

 本日の旧約聖書はエゼキエル書47章1節以下です。「命の水」の小見出しがついています。神の国のヴィジョンが記されています。神殿の敷居の下から清い水が湧き上がって、東の方に流れて次第に大きな川になってゆくのです。東久留米教会も南沢湧水と落合川という清流に挟まれています。(8~10節)「彼(天使でしょう)はわたしに言った。『これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいなるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。漁師たちは岸辺に立ち、エン・ゲディからエン・エグライムに至るまで、網を広げて干す所とする。そこの魚は、いろいろな種類に増え、大海(地中海)の魚のように非常に多くなる。』」まさに命を与える神の清い水です。神様の祝福の水です。洗礼の水を思い浮かべてもよいでしょう。

 ペトロたち7人の弟子たちの網は、「153匹もの大きな魚でいっぱいであった」と書かれています。エゼキエル書47章のヴィジョンがここで実現していると言ってもよいでしょう。「153匹」に何か意味があるのか、よくは分かりません。イエス様の時代に、地中海に棲息する魚が153種類だと考えられていたという説があります。そうだとすれば、すべての種類の魚が網に入ったとも言えます。伝道者が「魚をとる漁師」であることを考えれば、世界中の多くの人々がイエス・キリストの救いの網に入れられることを示すのでしょう。つまり弟子たちが世界伝道に踏み出してゆくとき、復活のイエス様が助けて下さり、試練の夜もあるけれども、伝道の実りが与えられることを示します。私たちも試練の夜を経験しますが、「船の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」とのイエス様の御言葉に励まされ、もう一度立ち上がります。何度でも、です。時が良くても悪くても、私たちの言葉と行いによって、十字架と復活の真の救い主イエス・キリストを宣べ伝えましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-04-08 0:31:58(水)
「マグダラのマリアへの現れ」 2015年4月5日(日) イースター礼拝説教
朗読聖書:哀歌3章19~23節、ヨハネによる福音書20章11~18節
「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で『ラボニ』と言った。『先生』という意味である」(ヨハネによる福音書20章16節)。

 イエス様は、金曜日に十字架につけられ死なれました。イエス様は仮死状態だったのではありません。確かに死なれたのです。次の土曜日は安息日であり、人々の行動が非常に制限されていたので、誰もイエス様の墓に行きませんでした。どの福音書を見ても、イエス様の墓に真っ先に駆けつけたのは婦人です。ですから女性がまず、イエス様の復活を知らされることになりました。当時、女性や子供は一人前の人間扱いを受けず、軽んじられていました。しかし神様は違います。神様はあえて女性たちを選んで、イエス様の復活を証言する証人としてお立てになったのです。

 ヨハネによる福音書によると日曜日の朝早く、まだ暗いうちに真っ先に駆けつけのがマグダラのマリアと呼ばれる女性です。それだけイエス様を深く愛していたのです。マグダラは地名です。この女性についてはルカによる福音書8章に、イエス様に「七つの悪霊を追い出していただいた」女性と紹介されています。「七つの悪霊」とは「多くの悪霊」ということでしょう。マグダラのマリアは多くの悪霊に苦しめられ、精神の深い病に陥った状態で苦しめられていたに違いありません。それをイエス様が、「七つの悪霊」を追い出して、救って下さったのです。それ以来、マリアはイエス様に感謝し、イエス様を尊敬し、イエス様を愛して、従って来ました。ほかの人々と共に、イエス様の伝道活動を支える奉仕に生き甲斐を見出し、働いて来たのです。そのイエス様が十字架で殺されてしまいました。イエス様に奉仕するというマリアの人生の中心、人生の目標が失われてしまったのです。マリアは完全に希望を失ってしまいました。

 今となっては、マリアにできることは1つだと思われました。イエス様の遺体のそばに行くことです。そして日本風に言うと、イエス様の菩提を弔いながら残された人生を過ごすことです。彼女にはそれしか考えつきませんでした。そこで誰よりも先にイエス様の墓に駆けつけたのです。すると驚いたことに、墓をふさいだ大きな石が取りのけられていました。神様の力によって取りのけられたのです。マリアは困惑して、シモン・ペトロのところへ、そしてイエス様が愛しておられたもう一人の弟子(ヨハネと言われます)のところへ走って行き、二人にこのことを告げました。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちは分かりません。」すると二人は走って墓に行きました。聞かされた通りイエス様の遺体がありませんでした。イエス様の遺体を包んでいた亜麻布が置いてあり、イエス様の頭を包んでいた覆いは、離れたところに丸めてありました。

 イエス様が復活された決定的な場面を、聖書は描写していません。私は、創世記2章のエバが造られた場面を連想します。そこを読むと、神様がアダムを深い眠りに落とされ、アダムが眠り込むとあばら骨の一部を抜き取って、あばら骨でエバを造り上げられました。アダムはエバが造り上げられる決定的な場面を見ることが許されませんでした。人間が見ることを許されない、神様が働かれる重要な場面があるのですね。神秘とも言うべき場面があるのです。但し、私は7節を読んで想像はします。「イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。」きっとイエス様が立ち上がって少し歩かれて、頭の覆いを手で外し、丸めて置いて墓から出て行かれたのだろうな、と。父なる神様がなさった、イエス様の復活という神秘の業の後に残された、亜麻布と覆いをペトロとヨハネは発見したのです。ヨハネは見て、信じたと書いてあります。イエス様が神の子であること、イエス様が復活なさったことを信じたのでしょう。ペトロがそのときにすぐ信じたかどうかは、はっきり書かれていません。その後、ペトロとヨハネは家に帰りました。

 しかし帰らなかったのがマグダラのマリアです。墓から離れ難かったのです。そこに、何とまばゆく輝く天使たちが現れたのです。天使は、重要な場面に登場して神様のご意志を告げたり、神様のご意志を実行する者です。(11~12節)「マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。」マリアが、二人を天使と認識したかどうかは分かりません。天使とマリアの間で会話が交わされます。(13節)「天使たちが、『婦人よ、なぜ泣いているのか』と言うと、マリアは言った。『わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。』」天使たちが言わんとしたことは、「イエス様は復活された。もう泣く必要はない」ということだったのでしょう。「あなたが泣いていることは、見当違いのことだよ」と言いたかったと思うのです。

 マリアはもちろんすぐには理解できませんから、遺体にこだわります。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
マリアはイエス様を見失い、生きがいと希望を見失い、絶望の底にいました。十字架の死の現実の前に、生ける神様の力を信じる気持ちも失っていました。私たちも人間にすぎませんから、マリアの気持ちは分かります。人は死の力の前には負けるほかありません。しかしイエス様が、ラザロが死んだ時に、ラザロの姉妹マルタにおっしゃった言葉を思い出すことが許されている幸いを感謝致します。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」イエス様は「わたしは復活である」と明言されました。イエス様の御言葉は、死の力より強いのです。
 
 本日の旧約聖書・哀歌3章19節以下はすばらしい御言葉です。(19~21節)
「苦汁と欠乏の中で/ 貧しくさすらったときのことを/ 
 決して忘れず、覚えているからこそ
 わたしの魂は沈み込んでいても/ 再び心を励まし、なお待ち望む。」
マリアは、「苦汁と欠乏の中で貧しくさすらって」おり、「魂が沈み込んで」いましたが、「心を励まし、なお待ち望む」ことはできていませんでした。しかし思いがけず、上からの慰めと助けが与えられたのです。22~23節は、本当にすばらしい信仰の言葉です。
「主の慈しみは決して絶えない。/ 主の憐れみは決して尽きない。
 それは朝ごとに新たになる。/ あなたの真実はそれほど深い。」 
その通り、朝ごとに新たな慈しみと憐れみを与えて下さる神様が、イエス様の復活という驚くべき恵みを与えて下さったのです。

 ですがマリアは、すぐにはイエス様の復活を信じることができません。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」「わたしの」主という言い方に、マリアの執着が出ているように思います。「イエス様はわたしの主です。わたしがイエス様の遺体を守ってゆきます」という気持ちです。しかしイエス様は、マリアの管理の下に置かれる方ではありません。イエス様は復活され墓を出て、働かれるのです。マリアが必死に覗き込んでいた墓の中に、イエス様はおられませんでした。マリアはふと気配を感じたのでしょう、後ろを振り向きます。するとイエス様が立っておられるのが見えたのです。立っているというお姿が、復活を表していると感じます。しかしそれがイエス様だとは分かりませんでした。目が涙にぬれていたからかもしれません。

 イエス様は、「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と問いかけられます。前半は「もう泣く必要はないよ」ということです。後半の「だれを捜しているのか」は、「あなたは私イエスがだれなのか、まだ分かっていないね。私イエスは神の子であり、十字架の死の後、必ず復活する者なのだよ」という意味なのだと思います。「だれを捜しているのか。」「だれ」の言葉は深い意味を持ちます。マリアは、イエス様の遺体を見失って捜しているのですが、本当は「イエス様とは誰なのか」その本質を見失って、その本質を捜し求めているのです。「イエス様の本質は誰なのか。」イエス様の本質は、神の子であり、十字架で私たちのすべての罪を背負って死に、復活なさる方であることです。この本質を捜し当てることがマリアにとって一番大切なことであり、私たちもイエス様の本質を知って、心から受け入れる。それがイエス様の願っておられることです。

 マリアは、イエス様の本質をまだおぼろげにしか分かっていないのでしょう。見当違いの反応を見せます。イエス様を園丁と勘違いし、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と言います。「どこに」の言葉も重要です。「イエス様はどこにおられるのか。」イエス様は墓にはおられません。墓を破って復活されたからです。マリアは「わたしがあの方を引き取ります」と言いますが、イエス様はマリアに引き取られる方でもありません。イエス様は復活後40日間は、いろいろな人に現れてご自分の復活をお示しになり、その後は天の父なる神様のもとに上られるのです。

 このような会話の後、イエス様が声をおかけになります。「マリア。」名前を呼ぶことは、もちろん人格的な交流を意味します。これまでのよそよそしい会話が終わり、人格的な交流に進んだのです。名前を呼ばれて、マリアは即座にイエス様であることに気づきます。マリアの顔がぱっと輝いたに違いありません。マリアは振り向きざまにヘブライ語で「ラボニ」と答えました。「先生という意味である」とありますが、「ラビ」が先生ですから、「ラボニ」は「わたしの先生」だと思います。こうしてイエス様とマリアの間に美しい師弟愛が復活したのです。イエス様が復活なさったことは、イエス様と私たちの間に人格的な交流が復活したことを意味します。客観的に、復活されただけであれば、私たちにとってあまり意味がありません。

 しかし私たちは復活されたイエス様に祈ることができます。私たちが自分の生活を注意深く見ていれば、イエス様が(あるいは父なる神様が)祈りに答えて助けて下さったことが多くあることに気づきます。小さな恵みを多く受けていることに気づきます。私たちが日常で経験する「ちょっとした良いこと」の1つ1つが偶然のことではなく、イエス様が(父なる神様)が与えて下さった恵みである気づくことが大切ではないでしょうか。それらの「小さな恵み」は、実は「大きな恵み」であるかもしれないのです。その1つ1つにイエス様の愛を感じて、感謝することが大切なのでしょう。ボンへッファーという牧師は、「小さなことに感謝する者だけが、大きなものをも受けるのである」(ボンヘッファー著・森野善右衛門訳『共に生きる生活』新教出版社、1991年、17ページ)と書いています。「マリア」、「ラボニ。」イエス様とマリアの心の交流が復活した美しい瞬間です。この場面のクライマックスです。

 (17節)「イエスは言われた。『わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。』」イエス様のこの言葉は分かりにくい、難解です。マリアは当然、喜びのあまりイエス様にすがりつこうとしたのです。プロテスタントによる初期の日本語訳、1837年に刊行されたギュツラフ宣教師の訳では、「ワレヲヲサエルナ」と訳しているそうです。マリアは、「わたしがあの方を引き取ります」と言っていましたから、今もイエス様との再会の喜びを独占しようとしたと言えるかもしれません。しかしイエス様はマリアの管理の下にも、誰の管理の下にも置かれる方ではありません。復活の後、父なる神様に上られることも決まっていますし、その後もイエス様は、神の国のために自由に働かれる方なのです。マリアがイエス様を独占することはできません。

 マリアには使命が与えられます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」イエス様が復活されたことを、弟子たちに伝えなさいという使命です。マリアも私たちも、イエス様が本当に復活されたことを人々に語る使命に生かされるのです。(18節)「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた。」「主を見ました」とは、「生きているイエス様にお目にかかった」ということです。

 私たちも復活されて生きているイエス様に出会うことができます。聖書、特に新約聖書の福音書を読むことでイエス様に出会います。祈りによってイエス様の心と触れ合うことでイエス様に出会います。礼拝で聖書の朗読を聴き、説教によってイエス様に出会います。洗礼を受けるとき、人間の牧師が水を垂らすとしても、本当に水を垂らして下さるのはイエス様です。聖餐式のパンとぶどう汁をいただくとき、イエス様の体と血潮をいただくのです。クリスチャンと接するとき、クリスチャンの中には復活されたイエス様の清い霊・聖霊が生きておられますから、クリスチャンに接するときにイエス様に出会います。但しクリスチャンにもまだ罪がありますから、そのクリスチャンの罪に接してしまうこともありますが、でもそのクリスチャンの中には復活されたイエス様の霊である聖霊が生きておられますから、やはりクリスチャンに接するときに、イエス様に出会います。それは、マリアが復活のイエス様に出会ったほどの強烈な体験ではないでしょう。しかし先ほど申した形での復活のイエス様と出会う小さな体験1つ1つを積み重ねて記憶し続けてゆくならば、私たちは確かに復活のイエス様に出会ってきた現実に気づくはずなのです。そして私たちが死んで天国に行くとき、本当に目の前でイエス様に出会い、父なる神様ご自身に出会うのです。

 イエス様の弟子・使徒パウロは、コリントの信徒への手紙(一)13章12節で、「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる」と語ります。新約聖書が書かれたのは、今から約2000年前ですから、その時代の鏡は今の鏡ほどクリヤーには映らず、おぼろに映ったのです。今の私たちは、イエス様をも父なる神様をも天国をも、おぼろに見ているのです。聖書を通し、祈りを遠し、礼拝を通してです。ですがイエス様を救い主と信じ告白して死んで、天国に入れていただくときには、イエス様とじかに出会い、父なる神様ともじかに出会うのです。復活されたイエス・キリストは、今目に見えなくても、聖霊としてこの礼拝の場に臨んでいて下さいます。マリアが出会った同じイエス・キリストに、私たちもややおぼろげかもしれませんが、今出会っているのです。

 ヨハネによる福音書の少し先を見ると、イエス様の復活を疑っていた弟子トマスに、イエス様がおっしゃっています。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。~わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」私たちの信仰は、根拠のないことをやみくもに信じるものではなく、聖書という確かな根拠に支えられた信仰です。聖書はイエス様の復活は事実だと告げています。このイエス様が救い主であることを改めて信じ、まだ信じておられない方々が信じて下さるように祈って、イエス様の弟子として奉仕に生きて参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-03-31 17:26:31(火)
「アリの街のマリア」 3月の聖書メッセージ 牧師・石田真一郎
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
(イエス・キリストの言葉。新約聖書・ヨハネによる福音書10章11節)

 私が牧師になったのは1998年です。一緒に牧師になった友人のお母様が、上の言葉を記した色紙をプレゼントして下さいました。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」

 戦後の荒廃した東京の下町で、貧しい子どもたちに尽くした北原怜子(さとこ)さんという若い女性がいます。忘れられつつあるので、私もこの方の生き方を学びたいのです。(以下は、酒井友身著『アリの街のマリア―北原怜子の生涯』女子パウロ会、1999年によります。)

 墨田川のほとりに貧しい廃品回収業者の街、「アリ(蟻)の街」がありました。この名には「とても貧しくても、アリのように仲良く助け合えば、自立できる」という理念が込められていたそうです。20才でカトリックの洗礼を受けた北原さんは求道心に燃え、良家のお嬢さんでしたがこの街に飛び込み、ゼノ修道士と活動します。子どもたちのクリスマス会を行い、勉強を教えました。彼女が愛した聖書の言葉は、イエス様の母マリアの言葉「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(ルカによる福音書1章38節)です。

 しかしある時、人を助けることは傲慢だと指摘されます。「なぜ一緒に苦労を分かち合おうとしないのか」と。その後、街の人々と共にリヤカーを引いて廃品回収を始め、汗とほこりにまみれ、小さい子を風呂に入れます。本当に街の一員になりました。なお残る名誉欲に悩み、ゼノ修道士のアドヴァイスを受けます。「イエス様は『わたしは道である』と言われた。人は目的地に着くと道を忘れる。それでよい。自分の使命を果たしたら、もうそれにこだわってはいけない。」北原さんは「道になろう」と決心します。「アリの街」の人々を愛して生き、丈夫でなかったため、28才で天国に行かれました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15章13節)というイエス様の言葉をも愛しました。子どもたちの良き羊飼いだったのです。アーメン(「真実に、確かに」)。