日本キリスト教団 東久留米教会

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2015-03-18 12:59:41(水)
「真の王イエス・キリスト」 2015年3月15日(日) 受難節第4主日礼拝説教
朗読聖書:ダニエル書5章18~30節、ヨハネによる福音書19章1~16節
     「見よ、この男だ。」(ヨハネによる福音書19章5節)
 
 イエス様を憎んでいたエルサレムの指導者たちが、遂にイエス様を捕らえました。彼らはイエス様を殺したくて仕方がないのです。彼らはイエス様を、ローマから派遣されていた総督ピラトのもとに連れて行きました。しかしピラトはまずは冷静に判断し、今日の前の37節で「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」と語りました。ユダヤ人の重要な祭りである過越祭の前日です。ピラトはイエス様を釈放したくて、「過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放する慣例になっている。あのユダヤ人の王(イエス様)を釈放してほしいか」と問いかけました。するとユダヤ人の指導者たちは、「その男ではない。バラバを』と大声で言い返しました。バラバは強盗でした。使徒言行録3章は、バラバを「人殺しの男」と書いていますから、バラバは殺人の罪を犯していたのです。そこではペトロがエルサレムの民衆に、「あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです」と説教しています。

 そして今日の19章1節です。「そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。」この鞭打ちはかなりむごいもので、この鞭打ちによって死ぬ人もあったようです。但しピラトとしてはイエス様を鞭打ちで殺すつもりは全くなく、鞭打ちという一定の刑罰を与えることでユダヤ人たちのある程度の納得を得て、イエス様を釈放しようと考えたと思われます。しかしピラトはイエス様が全く無実だと信じていたのですから、この鞭打ちも本来は全く無用です。(2~3節)「兵士たち(エルサレムに駐屯しているローマ軍の兵士たち)は茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、『ユダヤ人の王、万歳』と言って、平手で打った。」イエス様についてエルサレムの指導者たちがピラトに訴えた罪状は、イエス様が「ユダヤ人の王」と名乗り、ローマ帝国に反乱を起こす恐れがある危険人物だということだったでしょう。兵士たちもそれを知っていたので悪ふざけをし、茨の痛い痛い冠を編んでイエス様の頭に載せました。紫は高貴な色です。王は立派な紫の服を着たのでしょう。イエス様に着せられた紫の服は、誰かの着古しだったかもしれません。兵士たちはイエス様を王様に仕立て上げ、拝むふりをしてもてあそんだのです。「ユダヤ人の王、万歳」と言って馬鹿にし、平手打ちにしました。イエス様は全くの無抵抗です。イエス様は非暴力の方で、暴力に対して暴力で対抗することをなさいません。イエス様が無抵抗なのをよいことに、兵士たちの暴力はエスカレートしたでしょう。弱い者いじめをする、私たち人間の思い上がった姿があらわになっています。

 イエス様はこの世の政治的な王ではありません。しかしイエス様は、この宇宙と世界の真の王、真理の王なのです。イエス様は政治的な権力をお持ちではありません。しかしイエス様は天地創造をなさり、私たち一人一人をお造りになった世界の主であり、宇宙の真の王としての権威をお持ちです。イエス様はこの福音書の18章36節で明言されました。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」と。イエス様は私たち一人一人をお造りになった方として、当然全人類から尊敬を受け、礼拝されるべき王なのです。子が親を敬うのに似て、すべての人によって礼拝されるのが当然の、真の王なのです。

 (4節)「ピラトはまた出て来て、言った。『見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。』」ピラトはイエス様が無実であることをよく知って強調しています。そして釈放に向けてユダヤ人たちを説得しようとしています。(5節)「イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、『見よ、この男だ』と言った。」ピラトの台詞「見よ、この男だ」が有名になりました。ラテン語では「エッケ ホモ」だそうです。「エッケ」が「見よ」、「ホモ」が「この人」でしょう。あとで歌う讃美歌280番「馬槽の中に」では「この人を見よ」という歌詞が5回繰り返されます。「この人を見よ」の歌詞は、もちろんこのピラトの言葉から取られています。圧巻は4節です。「この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛は、あらわれたる、この人を見よ、この人こそ、人となりたる 活ける神なれ。」この歌詞をお書きになったのが由木康牧師で、今は西東京教区に属する東中野教会の牧師を長年務められた方です。

 ピラトは「見よ、この男だ」とイエス様を示すことで、イエス様の無実を示そうとしたのでしょう。しかし人々がイエス様を見ると、イエス様への憎しみが沸騰します。まさに悪魔が人々の心を支配しています。人々は集団心理にも駆られているのです。周りの勢いに身を任せており、本当のこれでよいのかと自問自答する人がいないのです。(6節)「祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、『十字架につけろ。十字架につけろ』と叫んだ。ピラトは言った。『あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。』」ピラトはイエス様を十字架につけることを拒否しています。そしてイエス様に罪がないことを再度強調しています。ピラトはここでは一人抵抗していますが、しかし正しいことを行う信念と勇気がないので、「長い物には巻かれろ」式に、次第に人々の圧力に負けます。(7節)「ユダヤ人たちは答えた。『わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。』」律法は神様の聖なる戒めであり、良いものです。ですがこの場合、ユダヤ人たちは律法の用い方を間違えています。確かに神の子でない者が神の子を名乗ったのであれば、冒瀆の罪になるでしょう。しかしイエス様は本当に神の子なのですから、神の子と自称することは全く正しいことなのです。

 (8~9節)「ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、再び総督官邸の中に入って、『お前はどこから来たのか』とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。」ピラトは、「この男はもしかすると本当に神の子なのかもしれない」と思って、「そうだったらどうしよう」と恐れたのでしょう。「お前はどこから来たのか」という問いは、本質的な問いです。イエス様は人間としてはベツレヘムでお生まれになり、ガリラヤのナザレで育たれたのですが、それはここでの本質的な答えではありません。イエス様は天の神様のもとから来られたのです。イエス様はピラトのこの問いにお答えになりません。イエス様のこの沈黙は、イエス様の十字架を予告するイザヤ書53章7節の成就なのでしょう。
「苦役を課せられて、かがみ込み/ 彼は口を開かなかった。
 屠り場に引かれる小羊のように/ 毛を切る者の前に物を言わない羊のように
 彼は口を開かなかった。」
イエス様はなぜピラトのこの問いにお答えにならなかったのか。ピラトは恐れて動揺していますが、イエス様は落ち着いておられ平静です。ピラトを本気では相手にしておられないとも言えます。あるいは18章で、「わたしの国は、この世には属していない」とおっしゃった段階で、ご自分が神のもとから来たと事実上返答したと考えておられるからかもしれません。

 ピラトはさらに言います。(10節)「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」ピラトはローマ総督としての自分の力を誇示します。ピラトはローマの権威を笠に着て強がっていますが、内心は自信がなくびくびくしていたのかもしれません。裁かれているはずのイエス様の方が、何の罪も犯しておられないので心の中に静かな自信を持ち、平静でいらっしゃいます。そしてお答えになります。(11節)「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」

 「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。」使徒パウロは、ローマの信徒への手紙13章1節で、「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだ」と書いています。ですからピラトも、今の各国のリーダーも、東久留米市や周りの市の市長も、皆、神様によって立てられている権威であることになります。ですが、ピラトをはじめ、人の上に立てられている人々は、自分勝手な指示を出すために上に立てられているのではありません。そうではなく、神様のご意志に従って、責任をもって人々を治めるために上に立てられているのです。上に立てられている人こそ、進んで誰よりも神様のご意志に服従することが求められています。ピラトがローマからの総督としてエルサレムの人々の上に立つことを、神様はお許しになりました。ピラトに期待されていることは、聖書を学び、よく祈って、真の神様に従う決定を行うことです。

 ピラトはイエス様に、「お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」と語りました。ピラトにとって神様に従う道は、ユダヤ人が何と言おうとイエス様を釈放することです。ピラトに与えられている権限は、イエス様を釈放する権限です。ピラトは、自分にはイエス様を十字架につける権限があると豪語しましたが、それはピラトの間違い・勘違いです。ピラトにそのような権限は、神様から与えられていません。ピラトは結局ユダヤ人たちの圧力に負けて、イエス様を十字架につける決定を下しましたが、それは間違った決定であり、ピラトはその決定をすることによって、神様に逆らう大きな罪を犯したのです。その後のピラトは、失政のためローマから総督の職を罷免され、最期は不幸であったようです。エウセビオスという人は『教会史』という書物の中で、「神の罰が遅滞なく彼に臨んだ」(エウセビオス著・秦剛平訳『教会史 上』講談社、2010年、103ページ)と記しています

 本日の旧約聖書は、ダニエル書5章18~30節です。イスラエルの民がバビロン捕囚の苦難を味わっていた時期のことです。18節冒頭の「王様」は、イスラエルの民をバビロンに連行したネブカドネツァル王の息子ベルシャツァル王です。18節を見ると、神様がバビロンの王としてネブカドネツァル王をお立てになったことが分かります。「王様、いと高き神は、あなたの父ネブカドネツァル王に王国と権勢と威光をお与えになりました。」しかしネブカドネツァル王は、必ずしも神様のご意志に従う形で自分の力を行使しなかったのです。(19節)「父王様は思うままに殺し、思うままに生かし、思うままに栄誉を与え、思うままに没落させました。」自分が神であるかのようにふるまったのです。そこで神様の審判が下されました。(20節)「しかし、父王様は傲慢になり、頑に尊大にふるまったので、王位を追われ、栄光は奪われました。」ネブカドネツァル王は苦難を味わい、真理を悟ります。21節の後半「ついに悟ったのは、いと高き神こそが人間の王国を支配し、その御旨のままに王を立てられるのだということでした。」神様がある人を選んで王や総督に立てるのです。しかしその王や総督が神様に逆らえばその人を退けられます。神様は自由にどんな無名の人をも、次の王や総督にお立てになる力を持っておられます。ネブカドネツァル王はこの真理を神様に教えられました。

 しかしその息子ベルシャツァル王は、それを悟らなかったのです。そのために神様の裁きが下ったのです。預言者ダニエルは22~23節で語ります。「さて、ベルシャツァル王よ、あなたはその王子で、これらのことをよくご存じでありながら、なお、へりくだろうとはなさらなかった。天に主に逆らって、その神殿の祭具(エルサレム神殿から奪って来た、真の神に奉仕するための祭具)を持ち出させ、あなた御自身も、貴族も、後宮の女たちも皆、その祭具で(酒を)飲みながら、金や銀、青銅、鉄、木や石で造った神々、見ることも聞くこともできず、何も知らないその神々を、ほめたたえておられます。だが、あなたの命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない。」おそらくこの日のうちに、ベルシャツァル王は死んだのです。真の神様を畏れ敬わなかったからです。ネブカドネツァル王にしてもベルシャツァル王にしても、総督ピラトにしても、私たちの時代のリーダーたちにしても、皆、神様に従って愛と正義を行うために立てられているのです。自分のわがままを行うために立てられているのでないことはもちろんです。神様に逆らえば、神様によって退けられます。ピラトは、イエス様を釈放する権限も十字架につける権限も自分にあると豪語しましたが、ピラトがイエス様を十字架につける決定を下せば、神様に逆らうことになります。

 ヨハネによる福音書に戻り、もう一度11節。「イエスは答えられた。『神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。』」ピラトの罪も重いが、無実のイエス様を十字架につけることを要求して、ピラトに引き渡したエルサレムの指導者たちの罪も非常に重いのです。ピラトには気弱な面もあったようで、頭ではイエス様のおっしゃることを「もっともだ」と考えたのでしょう。イエス様を釈放しようと努力したのです。しかし最後までその努力を貫かなかったのです。中途半端な所で妥協し、ユダヤ人たちの悪の要求に屈服してしまいました。これでは悪に協力したことになります。イエス様を釈放する権限を持っていたピラトが、悪に屈服した罪は重いのです。ピラトの名前は、世の終わりまでイエス様を十字架につけた責任者として記憶さます。「主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり」と、世の終わりまで告白が続けられるのです。

 この後は、ピラトが保身のために悪に屈服してゆく情けない姿が示されてゆきます。(12節の途中から13節)「しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。『もしこの男を釈放するなら、あなたは皇帝(ローマ皇帝)の友ではない。王と自称する者(この場合はイエス様)は皆、皇帝に背いています。』ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち『敷石』という場所で、裁判の席に着かせた。」ユダヤ人たちはピラトを脅したのです。「王と自称する者は皆、ローマ皇帝への反逆者だ。その者を釈放すればあなたもローマ皇帝への反逆者になるぞ」と。 マタイによる福音書27章によると、この時ピラトの妻からピラトに伝言がありました。「あの正しい人(イエス様)に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」妻にはイエス様が罪のない正しい方であることがよく分かっていました。その正しい方を罰する間違った決定を下さないようにと、夫にメッセージを送ったのです。ピラトがこのメッセージにしっかり耳を傾けていれば、大きな過ちを犯さずに済んだのです。神様は、ピラトが神様に従う最後のチャンスをお与えになったのです。しかしピラトは妻のメッセージを無視し黙殺し、大きな罪へと転落するのです。

 ピラトがイエス様の裁判を開始したのは、過越祭の準備の日の正午ごろでした。(14節の途中から15節)「ピラトがユダヤ人たちに、『見よ、あなたたちの王だ』と言うと、彼らは叫んだ。『殺せ。殺せ。十字架につけろ。』ピラトが、『あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか』と言うと、祭司長たちは、『わたしたちには、皇帝のほかに王はありません』と答えた。」これにもピラトへの脅しの意味があるでしょう。「ピラトよ、あなたがこの男を釈放すれば、あなたはローマ皇帝への反逆者になるぞ。」遂にピラトはこの脅しに屈服し、全く罪がなく清い神の子イエス・キリストを、十字架につける決定を下し、イエス様をユダヤ人たちに引き渡すのです。ピラトは、父なる神様とイエス様に最悪の罪を犯したのです。

 このイエス様こそ、全世界の真の王であり、私ども一人一人を愛して下さる王でいらっしゃいます。私ども一人一人の心の王座にイエス様をお迎えし、一瞬一瞬をイエス様にお従いし、イエス様が喜んで下さる行いを今日も積み重ねて参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-03-11 15:31:57(水)
「初めに言があった」 2015年3月8日(日) 受難節第3主日礼拝説教 
朗読聖書:創世記1章1~9節、ヨハネによる福音書1章1~18節
     「初めに言葉があった。」(ヨハネによる福音書1章1節)

 第1節は、ずばり本質的なことを語ります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」「言」は、原語のギリシア語では「ロゴス」です。ロゴスは「言葉」と訳すのが一番無理がないと言えます。但し、このロゴスがただの言葉ではなく、イエス・キリストを指していることは間違いありません。新共同訳聖書の序文にも記されていますが、プロテスタントの初期の日本語訳聖書(ギュツラフという宣教師が訳したのでギュツラフ訳と呼ばれる)は、「初めに言があった」を、「ハジマリニ カシコイモノゴザル」と訳しています。ロゴス・言を「カシコイモノ」と訳したのですね。「ハジマリニ カシコイモノゴザル。」19世紀の日本語を一から勉強してこう翻訳したのですから、宣教師の苦労が偲ばれます。「カシコイモノ」はもちろんイエス・キリストです。

 言をイエス・キリストと言い換えて1節と読むと、こうなります。「初めにイエス・キリストがあった。イエス・キリストは神と共にあった。イエス・キリストは神であった。」 「初めに」という言葉で私たちが思い出すのは、創世記1章1節、聖書全体の冒頭の言葉です。「初めに、神は天地を創造された。」「初め」とはすべての初め、この世界の存在の初め、この世界の存在の前の段階のことです。神様は時間をもお造りになったので、時間が誕生する前、それが「初め」です。生きておられる神様だけがおられました。それ以外はまだ何もありませんでした。神様が全ての原点です。その神様が天地を創造されました。それで空間(宇宙と地球)と時間が誕生したのです。
 
 「初めに言があった。」天地創造の初めにイエス・キリストが生きておられたということです。ヨハネによる福音書がこの事実を明らかにしてくれました。イエス・キリストは天地創造の初めから存在しておられたのです。「言は神と共にあった。言は神であった。」「イエス・キリストは神であった(今も神である)」と宣言されているのです。神であるイエス・キリストが、人間マリアから生まれて人間となって下さいました。これがクリスマスの出来事です。私たちが信じ礼拝している聖書の神様は、「父・子・聖霊なる三位一体の神様」です。イエス・キリストは子なる神でいらっしゃいます。イエス様は真の神であり同時に真の人です。神のような方ではなく、人のような方ではなく、100%神であり同時に100%人である方、それがイエス・キリストです。イエス・キリストを真の神様と信じて下さらないのが、「エホバの証人」の方々です。私たちは市民同士としては、仏教の方々とも「エホバの証人」の方々とも、同じ日本で市民として協力して生活しますが、信仰の内容が異なっていることは知っておく必要があります。キリスト教の信仰と「エホバの証人」の方々の信仰は別です。

 2節の「この言は、初めに神と共にあった」は、1節の確認です。(3節)「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」この宇宙のすべてのものはイエス・キリストによって成った、イエス・キリストによって造られたのです。「初めに、神は天地を創造された。」イエス様は神御自身ですから、天地創造をなさったのです。

 このヨハネによる福音書1章1節と本質的に同じことが、コロサイの信徒への手紙1章15、16節に書かれています。「御子(イエス様)は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。」ここで言われていることは、御子が「造られたもの」ではない、ということです。私たちは神様によって、イエス・キリストによって「造られたもの」です。しかしイエス様は神様に「造られたもの」ではないのです。反対に全てを「お造りになった方」であり、神によって「造られたもの」ではなく、神から生まれた神なのです。

 このことを、私たちが毎週信仰告白する使徒信条では、あまり詳しく告白していませんが、もう1つ古代から大事にされている信仰告白に、ニケア信条があり、『讃美歌21』の147ページに記されています。本文の3行目以下に、イエス・キリストのことが次のように告白されています。
「またただひとりの主イエス・キリストを信じます。
 主は神のみ子、御ひとり子であって、
 世々に先立って父から生まれ、光からの光、
 まことの神からの真の神、/ 造られたのでなく生まれ、
 父と同質であって、/ すべてのものは主によって造られました。」
この告白は聖書全体と、ヨハネによる福音書1章と完全に一致しています。

 ヨハネによる福音書1章に戻り4節。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」イエス・キリストの内に命があるのです。それは永遠の命、愛の命です。神様と隣人をどこまでも愛する愛の命、御自分を十字架につける敵をさえ愛することのできる愛の命です。私が洗礼を受けた教会の青年会時代の3つ年上の方にAさんという男性がおられました。青年会同士で結婚して、与えられた三人の子どもさんたち皆に、ヨハネ福音書1章1~5節から命名なさいました。

 (5節)「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」口語訳聖書では、「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」と訳しています。どちらの訳も間違っていません。光であるイエス・キリストは、暗闇・闇・悪魔が支配する危険なこの世にわざわざ誕生して下さったのです。「やみはこれに勝たなかった。」悪魔はイエス様に打ち勝つことができない、悪魔はイエス様に敗北するのです。今、世界は平和ではありません。イスラム国の非道な行い・アフリカでの子どもの誘拐などがあります。日本でも十代が加害者・被害者と思われる殺人事件があり、暗いニュースが多いのです。このような暗い世界にイエス様は誕生して下さいました。光をもたらすためにです。罪や悪という暗闇が確かにあるのです。その暗闇の中で私たちがイエス様に従うならば、世の光として輝かせていただくことになります。1~5節は、歌うようなリズミカルな美しい詩の形と言えます。「ロゴス賛歌」と呼ばれます。「キリスト賛歌」と呼んでもよいのです。

 6~8節は、洗礼者ヨハネ・バプテスマのヨハネのことを語ります。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」洗礼者ヨハネは救い主でもなく、神の子でもありません。洗礼者ヨハネは、イエス・キリストこそ真の救い主であると証しする(証言する)ために来たのです。グリューネヴァルトという画家が描いたイエス様の十字架の死の絵があります。十字架の左下にはイエス様の弟子ヨハネと思われる悲しむ男性と、嘆き悲しむ二人の女性が描かれています。ヨハネと思われる男性に支えられている女性は、イエス様の母マリアではないかと思います。十字架の右下には、白い小羊が描かれています。洗礼者ヨハネは、ヨハネ福音書1章29節で、イエス様を見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言っていますから、それを踏まえて白い小羊が描かれているのでしょう。そして小羊の右には洗礼者ヨハネが描かれています。左手に旧約聖書かと思われる書物を持ち、右手の人指し指でイエス様を指し示しています。この絵は、十字架につけられたイエス様と、イエス様こそ真の救い主であることをはっきり指し示す洗礼者ヨハネを描いているのです。

 9~10節は、再びイエス・キリストを語ります。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。」イエス様は、私たちすべての人間に本当の救い(罪の赦しと永遠の命)与えることを望んで、罪と悪が支配するこの危険な世界に生まれて下さったのです。「その光は、まことの光」とはそのようなことです。世という言葉が出て参りますが、これは原語のギリシア語では「コスモス」という言葉です。「コスモス」は一般的には宇宙あるいは世界と訳されることが多いようです。ここでの世・コスモスは、私たちが住むこの世界であり、しばしば神様に逆らう世界を指します。

 「世は言を認めなかった。」この世界の人々は、イエス様を認めず、イエス様を拒否したのです。イエス様の誕生のときからそうでした。クリスマスの場面です。宿屋には身重のマリアとヨセフの泊まる場所がありませんでした。大人になったイエス様は、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子(ご自分)には枕する所もない」とおっしゃいました。そしてイエス様は、エルサレムの指導者たちの反感を受け、何の罪もないにもかかわらず十字架で殺され、この世から抹殺されたのです。イエス様をヨハネによる福音書は「言」と呼びます。それは神様の言葉です。神様の言葉は神様のご意志を示します。イエス様の存在と言葉と行いの全てが、神様のご意志を表します。父なる神様の言葉も、イエス様の言葉も、しばしば私たちの耳に痛いのです。そこで人はイエス様を拒否することがあります。それでイエス様は、十字架に追いやられたのです。イエス様の十字架を特に思うこの受難節に、私・私どもは神様の言葉をしばしば無視し、拒否してきた自分の罪を思い、深い悔い改めに導かれたいのです。

 神様の御言葉を拒否した人の姿を、印象的に示す場面がエレミヤ書36章にあります。ヨヤキムという王が南ユダ王国を治めていた紀元前6世紀のことです。神様がご自分の言葉を残らず書き記すように預言者エレミヤに命じられます。エレミヤは自分の書記を務めていたバルクという人を呼び、バルクはエレミヤの口述に従って、神様が語られた御言葉をすべて巻物に書き記したのです。エレミヤは神殿に入ることを禁じられていたので、バルクがエレミヤの指示によって神殿に行き、巻物に記された主の御言葉を多くの人々に読み聞かせたのです。イスラエルの人々は多くの悪を行っていました。神様はご自分の御言葉が神殿で朗読されることによって、イスラエルの人々が罪を悔い改め、悪を行うことをやめ、神様に立ち帰ることを期待なさったのです。人々が悔い改めて立ち帰れば、神様はイスラエルの人々に下そうとしていた裁きを撤回してもよいとお考えだったのです。

 役人たちは、神様の御言葉の朗読を聴くと、青くなり、恐れおののいて互いに顔を見合わせ、バルクに言いました。「この言葉はすべて王に伝えねばならない。」役人たちには良心があったのです。役人たちはバルクに言いました。「あなたとエレミヤは急いで身を隠しなさい。だれにも居どころを知られてはなりません。」人々の反感によってエレミヤとバルクの身に危険が及ぶことを心配してくれたのです。

 役人たちは、巻物に記された神様の御言葉の存在をヨヤキム王に伝えました。王の側近と思われるユディという人が巻物を取って来て、王とすべての役人が聞いているところで読み上げたのです。王の対応はひどいものでした。(22~26節)「王は宮殿の冬の家にいた。時は九月で暖炉の火は王の先で赤々と燃えていた。ユディが三、四欄読み終わるごとに、王は巻物をナイフで切り裂いて暖炉の火にくべ、ついに、巻物をすべて燃やしてしまった。このすべての言葉を聞きながら、王もその側近もだれひとり恐れを抱かず、衣服を裂(悔い改めのしるし)こうともしなかった。また、エルナタン、デラヤ、ゲマルヤの三人が巻物を燃やさないように懇願したが、王はこれに耳を貸さなかった。かえって、王は、王子エラフメエル、アズリエルの子セラヤ、アブデエルの子シェレムヤに命じて、書記バルクと預言者エレミヤを捕らえようとした。しかし主は二人を隠された。」 

 王は気に入らない神様の御言葉をナイフで切り裂いて、火で燃やしてしまったのです。聖書を焼き捨てたと言ってもよいのです。神様の御言葉を抹殺しようとする真に罪深い行為です。しかし誰にも神様の御言葉を抹殺することはできないのです。この後、バルクは、ユダの王ヨヤキムが火に投じた巻物に記されていたすべての言葉を、エレミヤの口述に従って書き記したのです。ヨヤキムが王であったとき、バビロンの王ネブカドネツァルがエルサレムに攻めて来て、ヨヤキム王は青銅の足枷をはめられて、バビロンに連行されたのです。これは神様の御言葉を退けたヨヤキムの罪に対する報いです。イエス様の時代には、イスラエルの指導者たちが、神様の生きたロゴス・言であるイエス様を退け、十字架につける大きな罪を犯したのです。
 
 (13節。15節)イエス様は、ヨハネより優れた方。モーセより、ダビデ王より、エリヤより、エリシャより、ヨブより、イザヤより、エレミヤより、エゼキエルより、ダニエルより優れた方がイエス様。預言者が月・星ならイエス・キリストは太陽。イエス様は先におられた。天地創造より先におられた。18節「この方が神を示された。」 イエス様の存在と言葉と生き方、特にその十字架の死が、父なる神様のご意志をはっきりと現しているのです。ここでは、イエス様を「独り子である神」という言い方で、イエス様が神様ご自身であることが示されています。「わたしを見た者は、父を見たのだ。」イエス様を見て知ることで、父なる神様がどのような方であるかを悟ることができるのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-03-03 23:33:36(火)
「天に昇るキリストの祝福」 2015年3月1日(日) 受難節第2主日礼拝説教
朗読聖書:エゼキエル書34章11~19節、ルカ福音書24章36~53節
「イエスは、そこから彼らをベタニヤの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。」
                         (ルカ福音書24章50節)

 イエス様が十字架で死なれて三日目の日曜日の朝のことです。婦人たちがイエス様をもっと丁寧に葬ろうと、墓へ行きました。すると驚いたことにイエス様の遺体が見当たりませんでした。そして何と天使たちが現れ、イエス様は生きておられると告げたのです。このことを婦人たちに知らされた十一人の弟子たちは、たわ言と思って信じませんでした。同じ日、十一弟子以外の二人の弟子が、エルサレムから60スタディオン(約11キロ)離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この不可解な出来事について話し合っていました。すると途中から不思議な旅人が二人に合流しました。聖書に非常に詳しい旅人でした。夕方に二人がこの旅人と一緒に家に入ると、夕食のとき、旅人はパンを取って賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになったのです。この時、二人はこの旅人がイエス様であることを悟ったのです。するとイエス様の姿は見えなくなりました。私たちもイエス様のお姿を肉眼で見たことはありません。私たちは、聖書の御言葉を通してイエス様に出会います。そしてイエス様が聖霊として、今この礼拝の場におられることを信じるのです。二人はすぐに出発し、エルサレムに戻りました。明け方頃だったかもしれません。すると十一人の弟子たちと仲間たちが集まっていて、本当にイエス様が復活して、シモン・ペトロに現れたと語り合っていました。二人も興奮気味に、復活のイエス様と出会ったことを話したのです。

 するとそのイエス様ご自身が現れられたのです。(36節)「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」ヘブライ語のシャロームと述べられたのでしょう。「あなた方にシャロームがあるように。」シャロームとは、平和・平安であり、愛と正義と平和と喜びに満たされた完全な充足状態です。天国はシャロームそのものの場です。地上でもイエス様のおられる所にシャロームがあります。(37節)「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。」驚くのも無理はありません。十字架で確かに死んで埋葬までされた方が、復活なさったのですから。復活は、仮死状態からの蘇生とは違います。イエス様は本当に死なれ、陰府(死者の国)に降られました。金曜日の夕方から日曜日の早朝まで、陰府(死者の国)におられたのです。そして父なる神様の偉大な愛の力によって、日曜日の早朝に復活なさって、墓を破られたのです。イエス様は亡霊・幽霊ではありません。イエス様には体があるのです。復活の命は体を伴っているのです。但しそれは、今の私たちの体とは違う栄光の体です。その体にも肉と骨があるのです。

 (38~39節)「そこで、イエスは言われた。『なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。』」 「まさしくわたしだ」と力強くおっしゃいました。「わたしだ」はもとのギリシア語文で、「エゴー・エイミー」です。これを英語に直訳すると「アイ アム」になります。「エゴー」と言うと私たちはエゴイズムを思い出し、自分勝手という意味を連想するかもしれませんが、ギリシア語の「エゴー」は単に「私」の意味です。福音書の中でイエス様が「エゴー・エイミー」とおっしゃる場合、私たちが思い出すべきは出エジプト記3章14節の、神様の自己紹介の言葉です。この宇宙をお造りになった神様、出エジプト記でモーセに使命をお与えになった神様は、出エジプト記3章14節でモーセに、次のように自己紹介なさいました。「わたしはある。わたしはあるという者だ。」「わたしはある」を英語にすると「アイ アム」になります。「私は存在する。私は存在するという者だ」という意味です。神様は目に見えませんが、この宣言の通り間違いなく存在し、生きて働いておられるのです。そして「エゴー・エイミー」とおっしゃったイエス様は、まさにモーセに自己紹介なさった神様御自身です。イエス様は、マリアを母とする人間の子であると同時に、父なる神様の最愛の独り子、神の子でいらっしゃいます。そして私たちの信じる聖書の神様は、「父・子・聖霊なる三位一体の神様」ですから、子なる神イエス・キリストは、父なる神様に等しい方、つまり神様御自身です。神が人間となって下さった方がイエス・キリストであり、そのイエス様が十字架で死なれ、三日目に体をもって復活なさったのです。そして弟子たちの前に現れられました。

 (40節)「こう言って、イエスは手と足をお見せになった。」私たちはここを読むとヨハネによる福音書20章で、復活のイエス様が疑う弟子トマスの前に現れて下さった場面を思い起こすのではないでしょうか。トマスは仲間たちにはっきりと疑いの言葉を口にしたのです。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」イエス様はその八日後にトマスの前に現れ、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。するとトマスは感極まり、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰の告白を致しました。イエス様はそのトマスに、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」と言われたのです。

 私はトマスはこの時、実際にはイエス様の手やわき腹に触らなかったのだろうと感じています。但し、触ったのではないかと推測する人もいるようで、カラヴァッジオという画家の「トマスの不信」という絵を見ると、トマスが右手の人指し指をイエス様のわき腹の穴に入れて、トマスはイエス様のわき腹の傷を凝視しています。トマスの横で二人の男の弟子が同じようにイエス様のわき腹の傷をじっと見つめています。カラヴァッジオという画家は、このような場面があったと想像したのでしょうね。あるいはカラヴァッジオ自身が、トマスと同じように信じられない気持を持っていたのかもしれません。トマスが人差し指をイエス様のわき腹に入れて復活を信じる場面を描くことで、カラヴァッジオ自身が信じない気持を乗り越えたのかもしれません。

 ルカに戻って41~43節。「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、『ここに何か食べ物があるか』と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。」イエス様は、復活をまだ信じきれないでいる弟子たちのために、気を利かせて下さいました。焼き魚を口でお食べになったのです。復活の体は、食べ物を食べることもできる体なのですね。こうして御自分が体をもって復活されたことを証明して下さったのです。

 椎名麟三という作家のエピソードと記憶していますが、聖書を読んでいたけれどもイエス様の復活がなかなか信じられなかったそうです。ある時、復活のイエス様が焼き魚を食べる場面を読んだ。イエス様が焼き魚をむしゃむしゃ食べる様子を想像して笑ってしまったと書かれていた記憶があります。そのとき不思議にも何かが吹っ切れて、イエス様の復活を信じることができるようになったと書かれていた記憶があります。その時に聖霊が働かれたのでしょう。椎名麟三はロシアの文豪ドストエフスキーの作品に魅かれて聖書を読み、求道するようになったようです。しかしイエス様の復活はナンセンスと思い、いつも読み飛ばしていたそうです。遠藤周作との対談でこう語っているそうです(雑誌「三田文学」の1966年10月号に掲載されているそうです)。「(聖書を)読んで一年もかかっちゃった。復活のところで、ルカ伝の復活、バカン、バカンときたんだよ。自分の絶対と考えているものが全部ひっくり返っちゃった。キリストと出会うことができたことがうれしくてしょうがないからさ、その事柄を喜びとして(小説『邂逅』を)書いたわけだ。」

 この「ルカ伝の復活、バカン、バカンときた」というのが、イエス様が焼き魚をお食べになった場面を読んだときのことではないかと私は推測します。イエス様が焼き魚を食べる場面がなぜかリアルに感じられて、復活を信じることができるようになったらしいのです。この方にとってこの場面が、これほど決定的な意味を持ったのです。それまでは死が絶対だと思い、人生に希望はないと思い込んでいたのです。ところがイエス様の復活を信じることができて、死が絶対ではないことが分かった。そのことを「キリストと出会うことができたことがうれしくてしょうがないからさ、その事柄を喜びとして(小説『邂逅』を)書いたわけだ」と語っておられるのでしょう。イエス様の復活を信じることができることは、幸せなことです。死が絶対ではなく、イエス様の愛こそ絶対だという希望が与えられるからです。焼き魚を食べる生活のにおいがぷんぷんするこの場面が、私たちに大きな希望を与える大切な場面なのですね。

 (44節)「イエスは言われた。『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。』」 「必ず」は、「デイ」というギリシア語です。「必然、神様の必然」を意味します。神様のご計画です。「モーセの律法・預言者・詩編」という言い方で旧約聖書全体を指すと言えます。旧約聖書にイエス様のことが様々な形で暗示されています。それを悟りなさいというのです。(45~47節)「そしてイエスは、聖書(旧約聖書)を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。』」

 イエス様はきっと本日の旧約聖書エゼキエル書34章11節以下をも、イエス様を暗示する御言葉と考えておられたでしょう。ここで、神様ご自身がイスラエルの民の「よき羊飼い」になると語られています。バビロン捕囚という神様の裁きを受けたイスラエルの民に、神様が再び憐れみを与えて下さることが語られています。紀元前6世紀のことです。イエス様はヨハネによる福音書10章で、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とおっしゃっていますから、エゼキエル書34章に記された良き羊飼いである神様のお姿は、将来のイエス様を示していると読んでよいのです。私たちこそ羊であると考えて読む時、この御言葉は実にありがたく聞こえます。(11~13節)「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日(神様の裁きの日)に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。」

 14~16節にも「良い羊飼い」である神様の、深い思いやりが現れています。「わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。」「良い羊飼い」である父なる神様のお姿は、「良い羊飼い」イエス様のお姿と重なります。

 詩編第2編もイエス様を予告する詩編です。「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち/ 人々はむなしく声をあげるのか。/ なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して/ 主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか。」 「主の油注がれた方」はメシア・救い主です。使徒言行録4章24節以下で、エルサレムで迫害を受けている初代クリスチャンたちが神様に向かって声を上げています。「主よ、あなたは天と地と海と、そしてそこにあるすべてのものを造られた方です。あなたの僕であり、また、わたしたちの父(先祖)であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。『なぜ異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシア(油を注がれた方)に逆らう。』事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。」

 詩編69編もイエス様を予告する重要な詩編です。特に10節です。「あなた(神様)の神殿に対する熱情が/ わたしを食い尽くしているので」です。この御言葉は、ヨハネ福音書2章の、イエス様が神殿から商人を追い出して神殿を清めた場面に引用されていますね。昨年、婦人会で学びました。聖なる祈りの場であるはずの神殿が、貪欲な商人たちのお金もうけ第一の場に堕落していました。「貪欲は偶像礼拝にほかならない」という御言葉も新約聖書にあります。イエス様は、父なる神様の家である神殿を熱情的に愛しておられましたから、その堕落ぶりに我慢ができず、熱情的な怒りをこめて神殿から貪欲の罪を叩き出されたのです。「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このようなものはここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』弟子たちは、『あなた(神様)の家を思う熱意がわたしを食い尽くす』と書いてあるのを思い出した」とヨハネによる福音書2章に書かれています。

 父なる神様の神殿を純粋に愛するイエス様の熱情・熱い思いから出る神殿を清める行動が、反感を買い、イエス様を受難に追いやるという意味かと思われます。だとすれば、詩編69編10節「あなた(神様)の神殿に対する熱情が/ わたしを食い尽くしている」は、イエス様の受難・十字架を予告しています。イエス様の熱情が受難を呼ぶのです。英語で情熱・熱情をパッションと言いますが、パッションには受難という意味もあります。熱情が受難を呼ぶ、パッションがパッションを産むのですね。

 詩編69編22節もまさしくイエス様の十字架を予告しています。「人はわたしに苦いものを食べさせようとし/ 渇くわたしに酢を飲ませようとします。」マタイ福音書27章の十字架の場面を見ると、33~34節に「そして、ゴルゴタという所、すなわち『されこうべの場所』に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった」とあります。そして48節には、「そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした」とあります。まさに詩編69編22節「人はわたしに苦いものを食べさせようとし/ 渇くわたしに酢を飲ませようとします」が、十字架の場面で実現しているのです。イエス様が、ルカによる福音書24章44節で、「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」と言われたとき、詩編2編と69編をも指しておられたと思うのです。

 ベタニアはエルサレムの南東15スタディオン(約2.8キロ)の近い所。イエス様と親しいマルタとマリアの姉妹の家があり、彼女たちの兄弟ラザロをイエス様が復活させた所です。ベタニアという地名の意味は、「(神により頼む)貧しい者の家」だそうです。オリーブ山の南東の麓だそうです。手は複数形なので、イエス様は両手を上げて弟子たちを祝福されました。「神をほめたたえていた。」神様を賛美する場面が多いのはルカによる福音書の特徴です。イエス様が天に昇られた状態の今は、教会がイエス・キリストを宣べ伝える時です。イエス様が地上にもう一度おいでになる再臨の時まで、私どもはイエス・キリストを宣べ伝える使命を果たしてゆくのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-02-24 21:58:04(火)
「わたしは福音を恥としない」 2015年2月22日(日) 受難節第1主日礼拝説教
朗読聖書:ハバクク書2章1~4節、ローマの信徒への手紙1章16~17節
「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(ローマ書1章16節)
 
 イエス様の弟子・使徒パウロは、ローマにいるクリスチャンたちにこのローマの信徒への手紙を書いています。この手紙はイエス・キリストの福音の真髄を語っています。ですからキリスト教会2000年の歴史の中で、絶えず読み直されて参りました。中でも、本日の1章16~17節は、福音の本質を語る極めて重要な箇所として知られています。

 (16節)「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」パウロは「わたしは福音を恥としない」とわざわざ強調しています。福音とは、イエス様の十字架と復活による罪の赦しと永遠の命です。パウロは、「わたしは十字架につけられたイエス様を恥としない」と言っているのです。これはある意味で常識に反しています。十字架の死は非常に惨めな死です。畳の上で死ぬよりも、ずっと惨めな死に方ではないでしょうか。パウロはイスラエル人(ユダヤ人)です。イスラエル人は栄光に満ちた強いメシア・救い主を待ち望んでいたのです。ところがイエス様は十字架に架けられて非常に惨めな死・呪われた死を遂げられたのです。パウロはイエス様を、「十字架につけられて汚らわしい死を遂げた無意味な男」と馬鹿にしていたのではないでしょうか。「あのような男と関わりをもつことは自分の恥」と考えていたのではないでしょうか。そのパウロの考え方が180度ひっくり返っているのです。「わたしは福音を恥としない。わたしは、十字架で呪われた死を遂げたイエス様を恥としない」と宣言しているのです。

 イエス様の十字架の死は、本当に惨めな死でした。イエス様は鞭打たれ、茨の冠をかぶせられ、唾を吐きかけられ、十字架の下で多くの人に嘲られ、侮辱され、馬鹿にされ罵られたのです。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」一緒に十字架につけられた強盗たちにまで、ののしられました。しかしイエス様は一言も反論せず、じっと忍耐し続けられたのです。私たちであったら、悔しさのあまり言い返してしまうのではないでしょうか。イザヤ書53章2~3節にも、そのイエス様の姿が描かれています。
「見るべき面影はなく/ 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/ 多くの痛みを負い、病を知っている。
 彼はわたしたちに顔を隠し/ わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」

 あまり強調すると辛くなりますが、イエス様はほとんど裸にされて大勢の前で苦しめられたのですから、非常な恥と屈辱に長時間耐えたのです。そして「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と叫ばれ、再び大声で叫んで息を引き取られたのです。これほど恥に満ちた死はなかったとさえ言えるのです。栄光の天におられた神の子が、人間の赤ちゃんとして汚ない馬小屋でお生まれになり、十字架で恥に満ちた死を遂げて下さいました。イスラエルの指導者はイエス様を蔑みましたし、きっとパウロもそうだったのです。

 イエス様を恥そのものと考えていたパウロが、復活のイエス様との出会いによって考えを180度ひっくり返されて、「わたしは福音を恥としない。わたしは十字架で死なれたイエス様を恥としない」と宣言しているのですから、大きなことです。恥としないどころか、パウロは「十字架につけられたイエス様こそ自分と世界の救い主」と信じ、十字架で惨めな死を死なれたイエス様だけが自分の誇りだと宣言するに至ったのです。

 復活のイエス様に出会う前のパウロが何を誇りとしていたかと言うと、自分を誇りにしていたのです。パウロ(以前はサウロ)は、自分ほど立派な人間はいないと信じていました。十戒をすべて守り、細かい律法(神様の掟)も全部守っていると確信していました。神様の前に自分ほど正しい人間はいないと確信していたはずです。福音書には律法学者(律法主義者)が出て来てイエス様を批判します。福音書にはパウロは登場しませんが、パウロもあの律法学者たちと同じ考えの人間だったはずです。自分は神様の律法を100%守っていると、自分の力に過大な自信を抱いていました。自分には罪などないと確信していたと思います。ですがイエス様から御覧になると、神様を本当には愛しておらず、隣人をも愛していなかったのです。 パウロは、神様をも隣人をも本当には愛していなかった自分の深い罪に気づいたはずです。そして自分の罪こそ最大の恥だと気づいたと思うのです。このように恥ずかしい罪人(つみびと)を赦すために、イエス様は十字架で死んで下さった。十字架にこそ、イエス様と父なる神様の深い愛が示されていることに気づいたのです。

 「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」福音こそ、神の力だ。イエス様の十字架の無力な死こそ、神の救いの力だ。あの十字架にこそ、神様の絶大な愛が現されている! 私は、パウロが書いたコリントの信徒への手紙(一)1章を、よくクリスマスの前後に引用致しますが、そこにもイエス様の十字架の意義が強く語られています。(18節)「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」 そして21節の途中から。「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるし(力ある奇跡)を求め、ギリシア人(異邦人の代表)は知恵を探しますが、わたしたちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの(恥)、異邦人には愚かなもの(恥)ですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」

 ローマの信徒への手紙に戻り1章17節。「福音には神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」 「神の義」という重要な言葉が出て参ります。この手紙へのテーマは「神の義」だということもできます。「義」とは何でしょうか。新共同訳聖書の巻末の24ページにこの解説がございます。「新約聖書では、神が人間にお求めになるふさわしい生き方、神の裁きの基準を意味することが多い。特にパウロ書簡では、『人間を救う神の働き』、その結果である『神と人間との正しい関係』を意味するが、キリストによる贖いと必然的に関連し、人間が義とされるとは、神の前で正しい者とされることであり、『救われる』とほとんど同義である」と書かれています。

 宗教改革者マルティン・ルターは最初、この「神の義」という言葉を恐れたのです。ルターは非常に真面目な人で、修道院に入って清い生活をする努力をしました。ところがどんなに努力しても、自分の罪をゼロにすることができません。これでは「神の義」によって自分は裁かれ、滅びるほかないと絶望的な気持ちになったのです。しかし聖書を一生懸命学び続ける中で、「神の義」は「罪人(つみびと)をただ裁く義」ではなく、「イエス様の十字架によって罪人(つみびと)を赦して救う義」だと目を開かせられたのです。ルターは最初、「神の義」という言葉を憎みましたが、目が開かせられたからは、「神の義」はルターが愛する言葉、ルターにとって慕わしくてたまらない言葉に変わりました。父なる神様は罪を憎む方ですから、人間の罪をそのまま放置することはおできになりません。ですが人間を裁けば、人間は皆滅びてしまいます。そこで父なる神様は、最愛の独り子イエス様を十字架につけて、私たちの代わりに徹底的に裁くことで、ご自分の正しさを貫かれたのです。

 「福音には神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」口語訳聖書は、次のように訳しています。「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである。」 「信仰に始まり信仰に至らせる。」原文のギリシア語文にも「信仰」という言葉が二回出ています。「信仰」はギリシア語で「ピスティス」です。「神の義は、その福音の中に啓示され、ピスティスに始まりピスティスに至らせる。」 ピスティスを、ふつうは信仰と訳すのですが、17節のピスティスをどのような意味と受け留めるか、どのように訳すかという大切な問題があります。

 第一次世界大戦が終わった1918年(今から97年前)に、スイスのカール・バルトという牧師(神学者)が、一つ目のピスティスを、「信実」と訳しました。一つ目のピスティスを、「人間の信仰」ではなく「神の信実」と解釈したのです。「神の信実」は、何としても人間を罪と死から救うという神様の強い決意、不変の決意です。決して約束を破ることのない神様の人間を救う不変の決意、それがピスティス、「神の信実」だとバルトは考えたのです。そのバルトも、二つ目のピスティスは「信仰」と訳しているようです。「人間の側の信仰」ですね。「神の義は、その福音の中に啓示され、ピスティスからピスティスに至らせる。」これは『ピスティスによる義人は生きる』と書いてあるとおりである。」人間を救う神様の決意の結果、神様はイエス様を十字架におつけになり、人間の罪を全て背負わせなさった。これが「神様の信実」。それに対応して私たち人間がこの「神様の信実」を素直に受け入れることが大切です。これが二つ目のピスティス、「人間の側の信仰」です。ピスティスという言葉に、この両方が含まれていると考えられます。さらに言えば、「人間の側の信仰」さえも、神様が造り出して与えて下さるのです。ですから私たちが伝道するときに、神様が働いて下さらなければ人がクリスチャンになるという出来事は起こりません。伝道のためには、どうしても祈りが大切です。そして神様の聖霊に働いていただく必要があります。礼拝のため、伝道のため、求道者・受洗者が与えられるように、私たちがさらに祈ることが必要です。ぜひ礼拝のため、伝道のため、祈って下さるように改めてお願い致します。
  
 マルティン・ルターは、ローマの信徒への手紙を愛し、「聖パウロのローマ人にあたえた手紙への序言」という文章を書いています(マルティン・ルター著・石原謙訳『キリスト者の自由・聖書への序言』岩波文庫、1993年、69ページ以下)。まずルターはこう書きます。「聖パウロのローマ人にあたえたこの手紙は新約聖書のうちでもまことの主要部をなし、最も純粋な福音であって、キリスト者がこれを一言一句暗記するどころでなく、たましいの日毎の糧として日常これに親しむに足りるだけの品位と価値とをそなえている。だからこれをあまりに多くあまりによく読み過ぎるとかいうことはほとんどありえない。これに親しめば親しむほど、ますます貴く、よりよく味われるような書物である」と。この序言の中でルターは、信仰についてこう述べます。「信仰はわれわれのうちに働きたもう神の御業」であると。「信仰はわれわれのうちに働きたもう神の御業~。」 聖霊が私たちに働いて信仰を与えて下さるのです。そうでなければ誰もイエス様を救い主と告白することができないのです。パウロがコリントの信徒への手紙(一)12章3節で、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」と書いている通りです。

 ルターのこの「聖パウロのローマ人にあたえた手紙への序言」は、19世紀のイギリスの伝道者ジョン・ウェスレーに感化を与えました。既に伝道者になっていた30代半ばのウェスレーでしたが、アメリカ伝道で挫折してイギリスに戻っていました。1738年5月、ペンテコステ礼拝の3日後の水曜日、ウェスレーは回心を経験します。場所はロンドンのアルダースゲート街です。「アルダースゲートの回心」と呼ばれる有名な出来事です。小さな集会でルターの「序言」を聴いているときでした。ウェスレー自身が書いています。「8時45分、キリストへの信仰を通して神が心に及ぼして下さる変化についてのべられている間、心が不思議に熱くなるのを感じた。キリストを心から信じていることを覚えたのである―キリストにのみ救いがあった。キリストは私の罪を、私のような者の罪さえ取り去られ、罪と死の法則から私をお救いになられた」(ジョン・テルフォード著・深町正信訳『ジョン・ウェスレーの生涯』ヨルダン社、1991年、60ページ)。信仰の確信が与えられたのです。

 もう一度ローマの信徒への手紙1章17節。「神の義は、その福音の中に啓示され、ピスティスからピスティスに至らせる。」これは『ピスティスによる義人は生きる』と書いてあるとおりである。」1つ目のピスティスは、私たちの罪を赦すためにイエス様を十字架におつけになった「神の信実」、2つ目のピスティスは、それを受け入れる人間の信仰だと申しました。そしてピスティス(信仰)という言葉にこの両方が含まれていると申しました。

 人間を救う神様の決意の結果、神様はイエス様を十字架におつけになり、人間の罪を全て背負わせなさった。これが「神様の信実」。それに対応して私たち人間がこの「神様の信実」を素直に受け入れることが大切です。これが二つ目のピスティス、「人間の側の信仰」です。ピスティスという言葉に、この二つが(両方が)含まれていると考えられます。そして17節の最後に「信仰による義人は生きる」(口語訳)、「正しい者は信仰によって生きる」とあります。この3つ目の「信仰・ピスティス」は、まさに「両方の意味」を含んでいると言えます。「信仰による義人は生きる。」「正しい者は信仰によって生きる。」この場合の信仰・ピスティスとは、罪人を救う決心をしておられる神様の不動の信実であり、それを素直に受け入れる罪人の信仰です。この信仰によって私たちは生きる、今既に永遠の命に生かされているのです。義人、正しい人と書いてありますが、私たちはキリストを信じた今でも罪人です。ですがキリストの十字架によって全ての罪を赦された罪人(つみびと)です。罪人(つみびと)であるが、イエス・キリストという衣を来ているので、父なる神様から義人・正しい人と見なしていただいている罪人(つみびと)、救われた罪人(つみびと)です。ですからキリストを信じて亡くなった方々は皆、天国に行かれたのですし、私たちも天国に入れていただくのです。その確かな希望があります。

 「正しい者は信仰によって生きる」は、本日の旧約聖書ハバクク書2章4節の引用です。「しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」 この「信仰」にも両方の意味が込められているのではないでしょうか。この「信仰」はヘブライ語で「エムーナー(信実)」だそうです。ヘブライ語では母音よりも子音が大切です。エムーナーはアーメンと子音が同じです。非常に近い言葉だということです。アーメンは「真実に、確かに」の意味です。エムーナーは「信実」と訳すことができます。ピスティスと同じですね。「神に従う人は信仰(エムーナー)によって生きる。」 この場合の信仰も、「罪人を支える神の変わらぬ信実と、それを受け入れる人間の信仰」の意味だと思われます。パウロがそう信じていたからこそ、ローマの信徒への手紙でこのハバクク書2章4節を引用したのでしょう。

 信仰のタイプに2つあると聞いたことがあります。ネコ型の信仰とサル型の信仰です。正確に言うと、「ネコの子型の信仰」と「サルの子型の信仰」でしょう。「ネコの子型の信仰」とは、ネコの子どもが母ネコに首をくわえてもらって、母ネコに全面的に支えられているように、神様にすべてをゆだねきって信頼しきって平安そのものに過ごす信仰です。「サルの子型の信仰」とは、サルの子どもが母ザルの胸に必死にしがみついて落ちないように頑張るように、神様から離れないように自分が頑張る信仰です。これは完全に分けられるものではなく、私たちの信仰生活には両面があります。あえて言えば、1つ目のピスティスは、「ネコの子型の信仰」と言えますし、2つめのピスティスは、「サルの子型の信仰」と言えます。

 私たちは、イエス様を十字架におつけになった神様の信実・愛に100%支えられています。その意味で「ネコの子」に似ています。その神様の信実・愛を受け入れる私たちの応答の信仰が必要です。これは「親にしがみつくサルの子」に似ています。そして応答する信仰も、実は神様が与えて下さるのです。サルの子が親にしがみつくように私たちが神様にしがみつくその力も、神様が与えておられるのです。その意味では、私たちの信仰はやはり神様に全面的に支えられています。神様に支えられて、生涯この信仰の道に生き、祈り続けキリストを伝え続けて参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-02-18 18:18:14(水)
「はるかに優れた栄光」 2015年2月15日(日) 降誕節第8主日礼拝説教
朗読聖書:出エジプト記24章1~11節、コリント(二)6章6~18節
    「永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです」
              (コリントの信徒への手紙(二)3章11節)。

 本日の出エジプト記24章は、神様とイスラエルの民との間で契約が締結される重要な箇所です。旧約聖書の旧約は「古い契約」の意味ですが、その「古い契約」が今日の箇所で締結されるのです。私たちはイエス・キリストの十字架の死と復活による「新しい契約」に生かされているのですが、それでも「古い契約」のことを知っておくことは大切です。「古い契約」の中心はもちろん十戒です。神様は、イスラエルの民をエジプトでの苦難の奴隷生活から助け出して下さいました。神様の偉大な愛を示して下さったのです。この神様の愛に感謝するイスラエルの民は、応答として十戒を守って生きることで、神様への愛を示すことが、神様から求められたのです。十戒は出エジプト記では20章に記されています。その後、20章22節から23章19節までの長い部分に、「契約の書」という小見出しが記されています。そこにはイスラエルの民が神様の民として、神様に従って生きる生き方が詳しく教えられています。そして23章20節以下には、特に偶像崇拝をしてはならないことが強調されています。イスラエルの民が約束の地に入る時、そこでは現地の神々が礼拝されているのです。それは偽の神、はっきり言えば悪魔です。約束の地に入った時に、そこの神々を礼拝してはいけない。真の神様だけを純粋に礼拝するように。そう神様が念を押しておられます。

 その上で24章に入るのです。(1節)「主はモーセに言われた。『あなたは、アロン、ナダブ、アビフ、およびイスラエルの七十人の長老と一緒に主のもとに登りなさい。あなたたちは遠く離れて、ひれ伏さねばならない。』」アロンはモーセの兄で祭司です。ナボフとアビフはアロンの息子たちで、二人とも祭司になったようです。神様はモーセとアロンと二人の息子と七十人の長老を、シナイ山にお呼びになりました。但し、頂上に招かれたのはモーセ一人で、ほかの人々は中腹辺りまで登ることが許されたのではないかと思います。「あなたたちは遠く離れてひれ伏さねばならない」と書かれています。(2節)「しかし、モーセだけは主に近づくことができる。その他の者は近づいてはならない。民は彼と共に登ることはできない」と書いてあります。父なる神様に最も近づくことができる方はイエス様です。本来、罪ある者は、聖なる神様に近づくことができません。本来、罪人(つみびと)である私たちが、聖なる神様を直接見ることはできません。神様を見ると死ぬのが聖書の世界です。にもかかわらず、罪人である私たちが、聖なる神様に近づいて礼拝することができるのは、ひとえにイエス様が十字架にかかって、私たちの全ての罪を償って下さったお陰です。

 (3節)「モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かると、民は皆、声を一つにして答え、『わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います』と言った。」これは民の誓約・約束と言えます。「十戒をすべて行います。十戒の次に記されている「契約の書」の言葉もすべて行います」と神様に約束したことになります。この時は本気だったでしょう。しかし残念ながら、イスラエルの民はモーセが四十日四十夜シナイ山に登っていた間に、早くも金の子牛を造り、偶像崇拝の罪に落ち込んでしまうのです。神様との約束を忘れやすいことは、私たちの罪でもあるかもしれません。民はここでは、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」とはっきり声に出して約束したのです。この神様と契約を結ぶことにはっきり同意したのです。

 (4節)「モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。」ユダヤ人は、モーセ五書と呼ばれる創世記・出エジプト記・レビ記・申命記を全部モーセが書いたと信じたと聞きます。それでモーセ五書と呼ばれるのでしょう。私にはモーセがモーセ五書を全部書いたかどうかは分かりませんが、少なくともモーセが神様の言葉を一生懸命書き記していたことは、4節の「モーセは主の言葉をすべて書き記し」の言葉から分かります。そしてモーセはシナイ山のふもとに祭壇を築きました。祭壇は、聖なる神様を礼拝する場です。この祭壇が、神様とイスラエルの民が契約を締結する場となります。(5節)「彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。」献げ物をすることは礼拝行為です。

 6~8節は、契約締結を語る中心部分です。「モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書(「契約の書」との小見出しが付けられている出エジプト記20章22節~23章19節(ないし33節)を指すと伝統的に受けとめられています)を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、『わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります』と言うと(民は改めて約束したのですね)、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。『見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれる契約の血である。』」

 いけにえの動物の血が出て参ります。モーセは血を祭壇と民に振りかけ、血によって祭壇と民を清めたのです。血は命です。殺した動物の血によって祭壇と人を清めるのが旧約聖書の世界です。これが日本人には分かりにくいのです。日本人は「気持悪い」と感じるでしょう。これは日本人がクリスチャンになるために、よく聖書を学んで乗り越える必要がある点です。本当は神様の前に罪を犯した私たち(十戒を破る罪を犯した私たち)が裁かれる必要があるのですが、身代わりに動物に裁きを受けてもらって、血を流して死んでもらうのです。この場面のことが新約聖書のヘブライ人への手紙9章18節に、次のように書かれています。強調点は、罪の償いのためには血が流されることが必要だ、という点です。「だから、最初の契約もまた、血が流されずに成立したのではありません。モーセが律法に従ってすべての掟を民全体に告げたとき、水や緋色の羊毛やヒソプと共に若い雄牛と雄山羊の血を取って、契約の書自体と民全体とに振りかけ、『これは、神があなたがたに対して定められた契約の血である』と言ったからです。また彼は、幕屋と礼拝のために用いるあらゆる器具にも同様に血を振りかけました。こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。」「血を流すことなしに罪の赦しはありえない。」何と厳粛な言葉でしょう。これが真理なのです。

 旧約の時代は、神殿で毎日いけにえの動物が屠られ(殺され)、イスラエルの人々の罪の贖い(償い)のために献げられていたと聞きます。血なまぐさい話ですが、それだけ罪の赦しを受けることに真剣だったのです。しかし本当は動物の血では、全く不十分なのです。全人類の罪が赦されるためには、全く罪がない神の子イエス・キリストが十字架にかかって尊い血潮を流すしか、道がないのです。それでイエス様が十字架に架けられて死んで下さいました。「血を流すことなしには罪の赦しはありえない。」さらに言えば、神の子が十字架で血を流すことなりには罪の赦しはありえないのです。はっきり言えば、イエス・キリストを救い主と信じ告白する以外には、天国に確実に入れていただく道がないのです。こう申しますと、ほかの宗教の方々に嫌がられるでしょうが、しかし確かにそうなのです。

 出エジプト記24章8節のモーセの言葉。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれる契約の血である。」この「結ぶ」という言葉は、ヘブライ語を直訳すると「切る」です。日本語では「契約を結ぶ」と言いますが、ヘブライ語では「契約を切る」と言うそうです。聖書の世界では契約を結ぶことは命がけのことです。創世記15章に、神様とアブラム(後のアブラハム)が契約を結ぶ場面がありますね。アブラハムは神様の指示に従って、三歳の雌牛と三歳の雌山羊と三歳の雄羊と山鳩と鳩の雛を持って来て、鳥以外を真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせに置きました。日が沈んだ後で、煙を吐く炉と燃える松明(実は神様)が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎました。これによって神様とアブラムの間の契約が成立したのです。

 なぜ「契約を切る」という言い方をするか。もし契約を破ったら、破った側がこの動物のように切り裂かれても構わないと互いに了解し合って約束を交わしたのだそうです。この神様とアブラムの契約の場合は、本来なら神様とアブラムの両者が裂かれた動物の間を共に通るはずですが、神様だけが通られました。この場合については、神様がお一人で全責任を負う覚悟を示されたものと理解されます。「契約を切る」という言い方は、イスラエルの民が契約を結ぶことを命がけの真剣なことを考えていたことを明らかにします。ですから8節も直訳すると、「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと切られる契約の血である」となります。契約を結ぶ、契約を切ることは、まさに血を流す覚悟の上に行われることです。

 (9~11節)「モーセはアロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの七十人の長老と一緒に登って行った。彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のようなものがあり、それはまさに大空のように澄んでいた。神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。」 サファイアは美しい紺色です。聖なる神を見ると死ぬのが本来です。神様を見て飲食する場面は、旧約聖書でこの一箇所だけだそうです。契約を結んだ後に双方が食事をする習慣がありました。ここでは神様とイスラエルの民の代表者との間で会食が行われています。祝福の場面なので、神様の特別の計らいで、代表者たちは神様に撃たれずに済んだのでしょう。こうして神様とイスラエルの民との契約は無事締結されたのです。

 この契約は、神様がイスラエルの民をエジプトから解放して下さった愛と、荒れ野での生活を支えて下さる愛に感謝して、民が十戒を守るという契約です。しかし神様は約束を100%実行されますが、民は契約を破るのです。出エジプト記32章で民は「金の子牛」を造り、偶像崇拝の罪に陥ります。民の歴史は神様を裏切る歴史になり、神様が何人も預言者を送って、民に立ち帰り・悔い改めを求めたにもかかわらず、民が応じなかったために、とうとうバビロン捕囚という審判を下されてしまいます。そして神様は、十戒を中心とする契約に代わる新しい契約を用意して下さるのです。それがイエス・キリストの十字架の死と復活による新しい契約ですが、それがエレミヤ書31章31節以下で予告されます。これは旧約の中の新約とも呼ばれる大切な箇所です。

 「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」

 こうして予告された新しい契約は、イエス様が十字架で尊い血潮を流して死なれ、復活されることで実現したのです。イエス様は最後の晩餐のときに弟子たちに、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」とおっしゃいました。この契約は、何と神様の側が全責任を負って下さる契約です。私たちが契約を破る罪を犯せば、私たちが体を裂かれ、血を流して死ぬのが本当です。それなのに私たちが負うべき責任を神様の側が、神様の最愛の独り子イエス様が全面的に負って十字架で肉体を裂いて死んで下さったのです。私たち罪人(つみびと)にとって、どんなに涙を流して感謝しても感謝しても足りないありがたい契約です。

 本日の新約聖書・コリントの信徒への手紙(二)3章6節以下も、この「新しい契約」を語ります。(6節)「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えて下さいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」文字とは二枚の石の板に刻まれた十戒の文字であり、古い契約のことです。「文字は殺す」とは、十戒は違反する人に裁きを宣告するということです。十戒は善いもので、そこに神様の聖なる意志が示されています。しかし私たち罪人(つみびと)が全力投球で努力しても、残念ながら十戒を万全に行うことができません。古い契約だけですと、私たちはしょっちゅう違反してしまうので、絶望するしかありません。しかし「霊は生か」すのです。この場合の「霊」は、新しい契約、イエス様の十字架と復活による福音を指します。イエス様の福音には私たち罪人(つみびと)を生かす愛の力があります。イエス様が私たちの全部の罪を背負って下さったので、自分の罪を悔い改めてイエス様を救い主と信じ告白する人は、すべての罪を赦されて、喜んで愛に生きるよう励まされるのです。十戒を中心とする「古い契約」にも意義と栄光があるけれども、「新しい契約」ははるかに優れた栄光に輝いているとパウロが、感激をこめて語ります。

 (7~8節)「ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える(十戒だけだと私たちは裁きを受けるほかないので、この言い方になる)務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。」モーセが神様と語り合った後、神様の栄光を受けてモーセの顔が一時的に輝いていたと出エジプト記34章にありますね。しかしそれは「つかのまの栄光」です。霊、つまりキリストの福音という新しい契約に仕える務めは、さらに大きな栄光に満ちているとパウロは、感激して語ります。パウロはこの光栄な務めのために働いており、私たちクリスチャンも同じです。

 (10節)「そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。」「古い契約」にも栄光があるが、「新しい契約」は「はるかに優れた栄光」に輝いている。(11節)「なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。」「新しい契約」は決して古くならない「永続するもの」なのです。イエス様の十字架の死と復活による福音は、全世界の一人一人を救うための、神様の「最後の切り札」だからです。私たちはこの福音を今改めて心から信じ、この福音を周りの方々にもお勧めする光栄ある務めに励んで参りましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。