日本キリスト教団 東久留米教会

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2015-07-06 11:49:26(月)
「新たに生まれる」 2015年7月5日(日) 聖霊降臨節第7主日礼拝説教
朗読聖書:エゼキエル書18章25~32節、ヨハネ福音書3章1~15節。
  「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」
                         (ヨハネ福音書3章5節)

 多くのクリスチャンが、今日の場面を知っておられることでしょう。(第1節)「さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。」福音書ではしばしばファリサイ派の人々とイエス様が衝突しますが、ニコデモはファリサイ派に属しながらも、イエス様に好意的な人でした。ニコデモはユダヤ人たちの議員、つまり最高法院の議員でした。学問も社会的な名声も持っていたのです。(2節)「ある夜、イエスのもとに来て言った。『ラビ(先生)、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。』」「夜」に意味があると言われます。4節でニコデモは自分のことを「年をとった者」と言っていますから、50歳か60歳くらいだったのでしょう。当時としては長老の年齢だったでしょう。それに比べてイエス様は30歳くらいの青年です。長老が青年に教えを請いに来たのです。世間体が悪いし、恥かしい。それで人目を避けて夜、イエス様を訪問したのであろうとよく説明されます。それは当たっているのでしょう。「夜」はまた闇、無知を象徴するとも言われます。真理に対してまだ目が開かれていなかったニコデモの無知を、「夜」が表している可能性があります。しかしニコデモは、自分よりずっと年若いイエス様に教えを請う謙虚さを持っていました。これはニコデモのすばらしい点です。「夜」はまた、ニコデモの心が暗くなっていたことを示しているとも言えます。ニコデモは光を、希望を求めていました。光、希望を求めてイエス様のもとに来たのです。人生の後半を迎えて、自分が本当に神の国、永遠の命に入ることができるのか、改めて考えていたと思うのです。

 ニコデモはイエス様に、「ラビ(先生)、わたしどもはあなたが神のもとから来た教師であることを知っています。」「ラビ」は、ユダヤ人・イスラエル人の律法(十戒がその代表)の教師です。ニコデモはイエス様を立派な教師と認めました。しかし実はそれだけでは不十分です。イエス様こそ神の子であるという信仰に至ることが必要です。ニコデモは、「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできない」とも言います。ニコデモは、父なる神様がイエス様と共におられることをも認めました。神様の力が与えられているのでなければ、だれもイエス様がなさったようなしるし・奇跡を行うことができないからです。イエス様がこれまでに行われたしるしの代表は、ガリラヤのカナで水をぶどう酒に変えられたことです。ですがしるしを見たからイエス様に着いて行くというだけでは、不十分です。しるしを見たから信じる信仰は、しるしがなければ信じないことになりがちです。そしてイエス様が十字架で死なれれば、「こんなはずではなかった」とイエス様を見限る恐れもあります。必要なことは、イエス様が行われるしるしを見てイエス様を尊敬し、さらにイエス様が私たちの罪のために十字架にかかって下さる神の子であることを信じる信仰に至ることです。

 はっきり書かれていませんが、ニコデモは心の中に大きな問いを抱いていました。「どうすれば神の国に入ることができるか、どうすれば永遠の命を受けることができるか」という問いです。イエス様はそのことを見抜かれました。ニコデモが夜、わざわざイエス様を訪ねたのは、この問いへの答えを求めていたからです。ニコデモは人生のベテランで、最高法院の議員でしたから、イスラエルの民の中で指導的な立場にいました。それでもなお、この根本的な大問題で悩んでいたのです。多くの方は、人生のベテランになった改めてこの問題で悩んだりしないのではないでしょうか。しかしニコデモは違いました。自分の疑問をごまかさない人でした。「青臭い」と言われかねないこの人生問題の、本当の答えを得たいと切に願っていたのです。ある人が書いていましたが、今の日本でクリスチャンになる人が多くないのは、人が以前より悩まなくなったからではないか、というのです。もし違っているのであれば、申し訳ございません。

 「自分が何のために生まれてきたのか。どのように生きればよいのか。人生の目的は何か。」以前の日本人は、この問題で悩む人は少なくなかったように思います。そのような人が哲学書をひもといたり、聖書を読んだり、教会の門を叩いたのです。もしかすると今は、このことを真剣に悩む若者も大人も減った。インターネットなどで情報を得ることは上手になったが、この人生の根本問題に悩む人が減った。それで神様に真の救いを求め、聖書に真理を求める人も減った。私は、この意見はある程度当たっているように思います。しかしニコデモは違います。長年生きて来た知恵によっても、また律法主義によっても、人生の根本問題に答えが得られない。どうすれば神の国に入ることができるのか、どうすれば永遠の命に至ることができるのか。その答えを得たくて、自分よりずっと若いイエス様を訪ねたのです。

 イエス様は答えて下さいました。(3節)「『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』」 「はっきり言っておく」は、直訳では「アーメン、アーメン、わたしはあなたに言う」です。これはイエス様が非常に大切なことをおっしゃる時の前置きです。アーメンは「真実に」の意味です。「アーメン、アーメン、わたしはあなたに言う」、「真実に、真実にわたしはあなたに言う。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 新たに生まれる? 一体どのようなことでしょうか。ニコデモは理解できません。そこで地上の次元で答えます。(4節)「ニコデモは言った。『年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。』」 もちろんそんなことはできません。イエス様がおっしゃるのは、そのようなことではないのです。イエス様はさらに言われます。(5節)「はっきり言っておく(アーメン、アーメン、わたしはあなたに言う)。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」「水」は聖霊のシンボル、洗礼の水のシンボルとも言えます。「霊」は聖霊・神様の霊です。聖霊によって、神の愛の霊によって新たに生まれることが、どうしても必要です。

 それにはどうすればよいのでしょうか。自分の罪に気づいて悔い改め、イエス・キリストを救い主と信じることです。イエス様は6節で言われます。「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」肉とは、神様に従わない人間の罪です。残念ながら私たちは皆、罪人(つみびと)です。イエス様以外の人間は皆、罪人です。罪人が罪の赦しを受けないで天国に入ることはできません。水と霊とによって生まれなければ天国、神の国に入ることができないのです。

 本日の箇所は、洗礼と深く関わっています。私たち罪人は、洗礼を受けるときに「水と霊とによって生まれる」、「新たに生まれる」からです。この東久留米教会が属する日本基督教団の洗礼式の時の式文には、次のように書かれています。司式する牧師が、次のように申します。「わたしたち人間は、罪の中に生まれ、肉に属する者でありますから、そのままでは神のみこころにかなうことができません。思いや言葉や行いによって神に背いているものであります。そこで救主イエス・キリストは『だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国に入ることはできない』と言って、罪のゆるしと新しいいのちとをあたえるためにバプテスマ(洗礼)の聖礼典を制定されました。(~)わたしたちは今、この兄弟(姉妹)がみ言葉に従ってバプテスマを受け、キリストの聖なる教会に受けいれられ、そのみ体の生きたえだとなるように祈りましょう。」

 そして次のように祈ります。「天の父、み恵みによってこの兄弟(姉妹)を今まで守り導き、ここにあなたの子として生涯を送る志を起させて下さいましたことを感謝いたします。どうか、このバプテスマの式をきよめ、み霊によってこの兄弟(姉妹)を生れかわらせてください。み子イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。」そして聖書が読まれ、信仰告白が読まれ、誓約がなされ、父・子・聖霊なる三位一体の神様のお名前によって洗礼が授けられます。こうして神の子として新たに誕生するのです。水と霊とによって新たに生まれるのです。その後は、礼拝を中心とする信仰生活に入ります。その中で祈り、神様の御言葉に聴き従い続ける中で、聖霊によって次第に清められてゆきます。但し、この地上に生きている限りは、罪がゼロにはなりません。地上の人生を終えるときに、天国で新しく神の子として誕生します。その時には罪を完全に脱ぎ捨てて、完全に清くされて天国で新しく誕生します。私たちが受ける洗礼は、地上の人生を終えて天国に入れていただくときに、完成します。今は完成に向けてのプロセスの中にいます。

 イエス様は7,8節で言われます。「『「あなたがたは新たに生まれなければならない」とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。』」6節の「霊」という言葉は、原語のギリシア語で「プネウマ」です。8節の「風」の原語も同じ「プネウマ」です。プネウマは、霊、風、息と訳することができます。8節の最初の文を「霊は思いのままに吹く」と訳すことも可能です。「あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」「霊から生まれた者」とは「聖霊によって生まれた者、水と霊とによって新たに生まれた者」です。「その人は、神様と隣人を愛する真の自由に生きる。時には喜んで十字架に進む道に生きる。その生き方を、肉(自己中心)に生きる者は理解できない」ということと思います。

 少し飛んで13節「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。」人の子とはイエス様ご自身です。イエス様が「天から降って来た者、神の子」であることが分かります。14節「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(民数記21:4~9の「青銅の蛇」のエピソード参照)。イエス様は十字架に上げられます。青銅の蛇を仰いだ人は、地上の命を得ました。十字架のイエス様を仰ぐ者は、永遠の命を受けるのです。

 本日の説教題を「新たに生まれる」としています。新たに生まれるために必要なことは、私たちが自分の罪を悔い改めることです。本日の旧約聖書は、エゼキエル書18章25節以下です。神様は私たち罪人に、罪を犯して滅びるのではなく、「罪を悔い改めて生きよ」と呼びかけておられます。(30~32節)「『それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる。」 「立ち帰る」は原語のヘブライ語で「シューブ」という言葉と記憶しています。「シューブ」は方向転換ということです。イザヤ書53章6節に、「わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った」とありますが、そこから方向転換して真の神様のもとに立ち帰るのです。ルカによる福音書16章のあの放蕩息子が、自分勝手な方向に進んで痛い目に遭ってようやく回心し、父親のもとに立ち帰ったように、私たちも自分の犯した罪を悔い改めて、真の神様のもとに立ち帰ります。そして洗礼を受けるならば、それが最善です。水と霊によって新たに生まれるのです。

 新たに生まれると、霊の人、聖霊の人、愛の人として生き始めます。神様を愛し、隣人を愛する人として生き始めます。私は先週、仙台のエマオという日本キリスト教団東北教区の被災者支援センターに短期間行きました。そのご報告は週報に書いています。東日本大震災直後からのエマオの働きを記録した土井敏邦監督DVD『被災地に来た若者たち』を買って参りました。エマオでスタッフとして働いた青年たちのインタビューなどが内容です。そこにBさんというキリスト教主義大学の青年も登場します。クリスチャンかどうかは分かりません。私も簡単な会話程度はしたことのある人です。Bさんはこう語っていました。「ボランティアが楽しいんです。畑作業にしろ、家の中を掃除するにせよ、その先を考える。ここをきれいにして、家の人が野菜を植えて、その野菜を収穫して出荷して、それを食べる人がいるということを考えたりする。ここをきれいにして家の人が戻って来て、前と変わらない生活を送る姿を想像すると楽しくなって、自分ってこんなにも想像力が豊かだったのかと最近思うようになった。喜んでいる人がいることを想像して、喜んでいる顔を思い浮かべると、嬉しくなって来て、その嬉しさが募っていくと、もう何か楽しいんですよね。 ~ 当たり前だった生活が当たり前じゃなくなって、金銭的にも精神的にもしんどくなったときに、ボランティアして、その人たちの全てが分かるようになったわけではないのですが、一部の辛さや苦しみが分かった、人の痛みが分かるようになった、より分かるようになった。」 このBさんの様子を見て、大学の指導教授も、「B君は変わった」と言われます。新しくされていったのだろうなと思わされます。人に喜んでもらえることを喜ぶ、新しい人に変えられていったことが感じとれます。

 私たちの自我は固く、自己中心の思いもなかなか消えません。しかし愛の方イエス様を見つめて新しい人へ、神様と隣人を愛する新しい自分に、今改めて誕生させていただきたいと祈ります。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-07-04 22:47:00(土)
「神様の慈愛と寛容と忍耐」 2015年6月28日(日) 聖霊降臨節第6主日礼拝説教
朗読聖書:サムエル記(下)12章1~10節、ローマの信徒への手紙2章1~16節。
「その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか」(ローマ2章4節)。

 今年の1月より、礼拝でローマの信徒への手紙を学び始めました。本日で5回目です。この手紙を書いたのは、イエス様の死と復活の後に使徒・弟子となったパウロです。この前の小見出しは「人類の罪」でした。人類全体、特に旧約聖書以来の神様の民イスラエル人・ユダヤ人以外、つまり異邦人の罪が告発されていました。本日の2章では、ユダヤ人の罪が告発されています。

 (第1節)「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。」イエス様もマタイ福音書7章1節以下で、同じことを言われます。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」 

 パウロは書きます。「あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。」「裁く」は、原語のギリシア語で、「クリノー」という言葉です。「クリノー」は「分ける」という意味でもあります。裁くことは、分けることです。「正しいこと」と「正しくないこと」を分けることです。裁くことは、本来は神様がなさることです。神様であれば、全く偏見や過ちなく、完全に正しく裁くことができます。しかし人間が裁く場合は、なかなかそうはいきません。偏見や過ちがないとは言い切れないのです。ですから人を裁くに当たっては、慎重でなければなりません。そうでないと過ちを犯す恐れがあります。ギリシア語「クリノー」は、英語の「クリティサイズ」(批判する、批評する)や「クライシス」という言葉のもとになったそうです。

 クライシスは危機と訳されます。人を批判し、裁く者は自分が危機に陥ります。自分の裁く裁きで、自分が裁かれるからです。何年か前に、ある非常に優秀な検察官が書類を改ざんし、無実と思われる人を有罪にするという事件がありました。それまでその検察官は、裁判で被告を厳しく批判していたと思われます。しかし書類を改ざんし無実と思われる人を有罪にしてしまう冤罪を発生させた責任で、自分が有罪になったと記憶しています。その検察官だけではないのです。私は裁判に関係する人間ではありませんが、私も日常の中でほかの方を批判すれば、自分自身にその裁きははね返って来ます。自分の危機になります。暫く前に日本の国会の何かの委員会で、野党のある議員が、数分遅刻した与党の議員を非常に厳しく責め立てて、謝罪をさせたそうです。ところが暫くして今度は自分が同じ委員会に遅刻して、注意を受けたそうです。他人への裁きと批判は、ブーメランのように自分に返って来ます。もちろん人を諭し注意することは必要です。しかし一方的に裁くとき、私たちは自分を神にして、優越感に浸っているかもしれません。他人を全く諭さず注視しないことはできませんが、最終的には裁きは神がなさること、特に最後の審判は神様ご自身がなさる聖なる審判であることを、心に留めたいのです。私たちも、最後の審判を受けます。しかし、イエス・キリストを救い主と信じた人は、最後の審判を恐れる必要がありません。イエス様が全ての罪を背負って十字架で死んで下さり、復活なさったからです。イエス様がその人の弁護をして下さり、その人は無罪の宣告を受けます。

 (2~3節)「神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをする者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。」ユダヤ人には、自分は真の神を知っている、十戒に代表される神様の戒めを知っているという強い誇り・プライド・優越感があり、異邦人を精神的に見下していました。そのようなユダヤ人の代表が、イエス様と衝突したファリサイ派や律法学者と呼ばれる人々でした。パウロ自身も、復活のイエス様を受け入れるまでは、がちがちのファリサイ派だったのです。その人々は、自分たちは完全に正しい人間で、神様の前にも罪などないと思っていたかもしれません。しかしイエス様から見ればいろいろな罪のあったのだと思います。自分で気づかないだけでした。思い上がりの罪を犯していたと思います。自分で自分を正しいと決める自己義認の罪を犯していました。隣人への愛もありませんでした。自分の罪に気づいて、へりくだって悔い改める姿勢に欠けていました。私たちもそのようになることはあります。イエス様と衝突したファリサイ派・律法学者は、自分たちが神に裁かれると思わないほど、自信満々だったようです。

 (4節)「あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。」聖書の神様は確かに罪をお裁きになりますが、私たち人間の悔い改めを待って、なかなか人間の罪を裁かずに忍耐して下さる憐れみ深い神様です。しかし永久に裁かない神ではありません。神様が忍耐強をよいことにあぐらをかいて、永久に甘え続けることはできません。神様が忍耐して下さっているうちに、自分の罪を神様の前に悔い改めて、洗礼を受けることが、神様に喜んでいただける道と思います。神様の忍耐強さは私たちにとって大きな救いです。神様が忍耐強くなく、私たちの罪をすぐに裁かれるのであれば、私たちもこの世界もとうの昔に滅んでいたのです。父なる神様の慈愛と寛容と忍耐、そしてイエス様の十字架のとりなし、信仰者たちのとりなしの祈りのゆえに、この世界が滅びることなく今も維持されていると思うのです。

 (5節)「あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。」
神様の御言葉を素直に受け入れず、自分の罪を素直に認めて悔い改めないかたくなさ、強情さこそユダヤ人の罪、また私の罪です。私たちが神様の前に悔い改めないで生き続ける時、私たちは毎日少しずつ罪を積み重ね、自分に対する神の怒りを増やし続けているのです。「神の怒りの日」とは最後の審判の日です。その日、神様によってこの世の全ての罪と悪、そして悪魔が滅ぼされます。人の目に隠されている罪と悪も全て滅ぼされます。最後の敵・死も滅ぼされます。その日は、イエス様を救い主と信じる人々、神様に従おうとする人々にとっては救いの日、希望の日です。

 (6~8節)「神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。」
私たちは、自分の蒔いた種を刈り取ることになります。イエス様に従って神様を愛し、隣人を愛する生き方は永遠の命に至り、神様に逆らい悪魔に従って、神様も隣人をも愛さない生き方は、滅びに至ります。(9~11節)「すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神は人を分け隔てなさいません。」神様はユダヤ人をも異邦人をも公平に裁かれます。神様は人を偏り見ることなく、差別をなさいません。「ユダヤ人はもとより」と書かれています。「ユダヤ人はもちろん」ということです。

 神様は最初にユダヤ人・イスラエル人を神様の民としてお選びになりました。そして神の聖なるご意志を示す十戒を与えて下さいました。それだけユダヤ人には責任が与えられたのです。神様の民として最初に選ばれたことは真に光栄なことです。同時に光栄な責任も与えられました。神様が教えて下さった善悪の基準である十戒を守って生きる光栄ある責任です。ユダヤ人は十戒を教えられているので、神様の善悪の基準を知らなかったと言い訳ができない民です。知っているのに悪を行ったのであれば、言い訳の余地がなく、情状酌量の余地がありません。ですので「すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとより」「ユダヤ人にはもちろん」苦しみと悩み、神様の聖なる審判が下ります。しかしギリシア人に象徴される異邦人も、悪を行った責任は問われます。逆に善を行えば、十戒を知っているユダヤ人はもちろん、十戒を知らない異邦人にも、神様から栄光と誉れと平和という祝福が与えられます。神様は公平でフェアな方で、どの人をも分け隔てなさいません。

 (12~13節)「律法(代表が十戒)を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。」ここに厳しいことが書かれています。「律法を知らないで罪を犯した者」とは異邦人が律法に違反した場合のことを指すのでしょう。その者は律法と関係なく滅びる、と書かれています。「律法の下にあって罪を犯した者」とは、ユダヤ人が律法を知っているのに律法を破った場合のことです。ユダヤ人は律法を知っているのだから、律法によって裁かれると書かれています。律法を聞くだけでは足りない。律法を聞いて知って、実行する者だけが、神様の前に正しいと認められる。ユダヤ人も律法を知っているだけでは意味がないので、ユダヤ人であっても律法を破れば裁きを受けると書かれています。 ここでは律法を守らない者への神様の聖なる怒り、聖なる裁きが強調されています。このままではユダヤ人も異邦人も、誰も救われることができません。律法を守りきれない私たちを救うために来て下さったイエス・キリストのことは、3章22節から書かれています。暫くお待ち下さい。

 (14~15節)「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことをしています。」「律法の要求する事柄がその心に記されている。」それは良心のことと思われます。人間には良心があります。クリスチャンにもクリスチャンでない人にも、その人なりの良心があります。それは神様が与えて下さったものでしょう。しかし良心も罪に汚されています。善悪の基準が人によって違うのです。厳格な良心を持つ人もいれば、いい加減な良心を持つ人もいます。その意味で良心も罪に汚されており、私たちの良心は不完全・不十分な良心です。しかし全くないよりはよいです。たとえば、人を殺してはいけないという教えには、ほとんどの人が賛同するでしょう。それは教育の成果かもしれません。そうであっても、不完全ながら、人間の心に良心があることはよいことです。私たちが悪いことを行えば、良心が痛みます。異邦人は、神様の聖なるご意志である十戒を知らなかったのですが、神様が与えて下さった良心によって、不十分ながら神様のご意志を知っているのです。良心に従って生きれば、異邦人で十戒を知らなくても、ある程度、神様に従ったことになります。

 (16節)「そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」最後の審判の日には、人間が隠していたすべての罪と悪が明らかになります。神様の目から何も隠すことはできないのです。コリントの信徒への手紙(一)3章13節以下に、
この日(「かの日」)のことが書かれています。「おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。」最後の審判の時は、神様が私たちの営みの全ての内実を、火によって吟味する一切のごまかしの効かない日です。イエス様を救い主と信じ、イエス様に従いつつある人は、「火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」と書かれています。厳しいですね。私たちは救われるのだけれども、神様によって清められて、「火の中をくぐり抜けて来た者のように」救われるというのです。

 もっと嬉しい書き方の箇所もあります。コリントの信徒への手紙(一)の4章5節です。「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。」イエス様を信じ、イエス様に従いつつある人は、最後の審判のときに、父なる神様から「よくやった」とおほめにあずかるのです。3章と4章をまとめてみると、「火の中をくぐり抜けて来た者のようにではあるが確実に救われて、『よくやった』と神様からおほめにあずかる」ということでしょう。日本基督教団信仰告白にはこうあります。「愛の業に励みつつ、主の再び来り給うを待ち望む。」私たちはイエス様を救い主と崇め、愛の業に励みつつ、イエス様が再び来られる日、最後の審判の日を待ち望みます。

 本日の旧約聖書は、サムエル記(下)12章1~10節です。ダビデ王が、神様から遣わされた預言者ナタンに厳しく叱責される有名な箇所です。ダビデは、忠実な部下ウリヤの妻を奪い、しかもウリヤを意図的に戦死させました。十戒で明確に禁じられている姦淫と殺人の罪を犯したのです。しかも自分の罪に気づいていませんでした。ナタンが来て、たとえ話を語ります。貧しい男が心から慈しんでいた一匹の雌の小羊を奪った豊かな男のたとえです。聞いたダビデは激怒しました。「そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の値を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」預言者ナタンが鋭く迫ります。(7~10節)「ナタンはダビデに向かって言った。『その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。「あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。」』

 ダビデが豊かな男を裁いた裁きの言葉は、まさしくブーメランのようにダビデに帰って来ました。ローマの信徒への手紙2章3節のとおりです。「このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。」そして9節に「すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り」とある通り、ダビデには苦しみが下ります。まずバト・シェバとの間に生まれた赤ん坊が、神様に打たれて死にます。そしてダビデはわが子アブサロムに反逆され、ダビデの軍とアブサロムの軍が戦い、アブサロムは殺されます。このような剣(戦い)の苦しみは、ダビデがウリヤを殺した罪への報いです。ダビデは罪の結果、このような苦しみを受けました。

 しかしダビデのよいところは、自分の罪を悔い改めたことです。ダビデは預言者ナタンに言います。「わたしは主に罪を犯した。」そして「悔い改めの詩編」として知られる詩編51編を作ったのです。
「あなた(神様)の言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。~
 ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/ わたしが清くなるようにい。
 わたしを洗ってください/ 雪よりも白くなるように。」

 パウロは書きます。「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。」ダビデの大きな罪を即座には裁かず、預言者ナタンを送って罪を指摘して下さったことに、神様の憐れみが現れています。悔い改めの猶予を与えて下さったのではないでしょうか。ダビデはナタンの叱責を受け入れ、へりくだって大きな罪を悔い改めました。この姿勢をこそ、ダビデから学びたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-06-23 1:01:52(火)
「神の光を放つ」 2015年6月21日(日) 聖霊降臨節第5主日礼拝説教
朗読聖書:出エジプト記34章1~9節と29~35節、コリント(一)4章1~6節。
 「なんと、彼の顔の肌は光を放っていた」(出エジプト記34章30節)。

 おさらいから入りますと、神様は、出エジプト記20章でイスラエルの民に聖なる十戒をお与えになったのです。しかしモーセがシナイ山に上って十戒を受け取っている間に、イスラエルの民は早速堕落してしまいました。金の子牛の偶像を作ってそれを拝み、性的にも乱れたのです。山から降りて来たモーセはそれを見て、激しく憤りました。モーセの怒りは聖なる怒りです。私たちは先週の礼拝で、イエス・キリストがエルサレムの神殿で、鞭を振るってまで神殿を清めた出来事を読みました。あのイエス様の怒りも聖なる怒りでした。モーセも民の堕落を見て、イエス様の怒りにも似た聖なる怒りに満たされたのです。そして神様から受け取ったばかりの、十戒が彫り刻まれた二枚の石の板を投げつけ、山のふもとで砕いたのです。その二枚の板には、表にも裏にも文字が書かれていました。その板は、神ご自身が作られ、筆跡も神ご自身の筆跡でした。モーセは、その二枚の板を砕いたのです。

 十戒の第一の戒めは、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」です。第二の戒めは、「あなたはいかなる像も造ってはならない」です。民は早速、この2つの大切な戒めを破ってしまいました。そこで神様ご自身の聖なる怒りも燃え上がりました。神様はイスラエルの民と私たちを深く愛しておられます。偶像崇拝はその神様を裏切る行為、神様の心を深く傷つける行為です。神様は強く憤られたのですが、その強い憤りは逆に、神様がイスラエルの民をいかに深く愛しておられるかを証明しています。神様が民を愛しておられず無関心ならば、憤られることもないのです。

 神様は、それでもイスラエルの民に、約束の地・カナンの地・乳と蜜の流れる土地に上りなさいと言われました。同時に「わたしはあなたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である」と言われました。しかし神様が共に上って下さらないのであれば、約束の地に行く意味がありません。そこでモーセが必死に執り成しました。神様はモーセの執り成しを聴いて下さり、「わたしが自ら同行する」とおっしゃって下さいました。

 そして本日の34章に入ります。神様は聖なる憤りを静めて下さり、もう一度十戒の石の板を与えるとおっしゃって下さいます。(1~3節)「主はモーセに言われた。『前と同じ石の板を二枚切りなさい。わたしは、あなたが砕いた、前の板に書かれていた言葉(十戒)を、その板に記そう。明日の朝までにそれを用意し、朝、シナイ山に登り、山の頂でわたしの前に立ちなさい。だれもあなたと一緒に登ってはならない。山のどこにも人の姿があってはならず、山のふもとで羊や牛の放牧もしてはならない。』」モーセは言われた通りに行動しました。即ち、前と同じ石の板を二枚切り、朝早く起きて、シナイ山に登ったのです。聖書の人々は、しばしば朝早く起きて、神様の意志に従いました。早朝・朝は神様の恵みが新しく与えられる時です。イエス様の復活も早朝だったのです。モーセはその後、神様と共に四十日四十夜シナイ山にとどまり、パンも食べず水も飲まず、十の戒めから成る契約の言葉を二枚の石の板に書き記したのです。

 (5節)「主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。」「名は体(たい)を表す」と言います。「名は本質を表す」ということです。「主の御名を宣言された」ことは、主なる神の体(たい)・本質を宣言されたことです。(6~7節)「主は彼の前を通り過ぎて宣言された。『主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべきものを罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。』」 神様はイスラエルの偶像崇拝を激しく憤られましたが、基本的には「憐れみ深く恵みに富む方、忍耐強く、慈しみとまことに満ちた方」です。旧約聖書の中で、神様が人の罪に対して怒られることがしばしばあるので、「怒りの神」、「裁く神」という印象を持つ方もおられます。しかしよく読んでみると、神様はモーセたちの執り成しによって裁きをおやめになったり、民による罪の悔い改めを待って、なかなか裁かれないことも少なくありません。そこである方は、「怒りの神」、「裁きの神」よりもむしろ「忍耐の神」ではないかと書いておられます。その通りだと思います。神様は、「憐れみ深く恵みに富み、忍耐強い神」なのです。この憐れみ深く恵みに富み、すぐに裁かない忍耐強い神の姿は、ルカによる福音書の「放蕩息子のたとえ」に明瞭に示されています。旧約聖書の神と新約聖書の神は、もちろん同じ神様です。
 
 (7節)「幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」神様のこの本質は、既に十戒の第二の戒めに記されています。実は第二の戒め全体は、長いのです。「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」私は「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」と書いてあることに、恐れを覚えます。この言い方には、神様の厳しさが現れています。ですが強調点は後半にあると言えます。「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」「幾千代」ですから、ここに神様の大きな愛が示されています。宗教改革者ジャン・カルヴァンが書いたジュネーブ教会信仰問答の、問158とその答に次のように書かれています。

問「何ゆえここでは、千代といい、威嚇(厳しさ=石田註)の場合には、ただ三四代としか言われないのですか。」

答「神の本性が峻厳よりむしろ、慈愛をもって柔和に振舞われることを表すためであって、これは神が善をほどこすに速かで、怒るのに緩やかであると証ししておられる通りであります」(外山八郎訳『ジュネーブ教会信仰問答』新教出版社、1997年、62ページ)。
 
 神様が私たちの罪を全て裁かれるのであれば、私たちはとうの昔に滅びていたはずです。神様は確かに罪を裁くことがありますが、しかし神様は非常に忍耐強い方で、私たちの罪への裁きを留保し、何度も何度も赦して来られたのです。私たちがそれに気づいていないということが、大いにあり得るのですね。「罪と背きと過ちを赦す」神様です。マタイ福音書18章でペトロがイエス様に、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と質問したとき、イエス様は「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」とお答えになりました。その前提は、ペトロも私たちも、神様に多くの罪を赦していただいて生きているのが現実だということでしょう。

 そしてイエス様はペトロに、「仲間を赦さない家来のたとえ」の話をなさったのですね。主君に1万タラントン借金していた家来がいたのですが、主君は彼を憐れに思って彼を赦し、借金を帳消しにして下さいました。1タラントンは6000日分の賃金ですから、1万タラントンは6000万日分の賃金です。一日の賃金を5千円として計算すると、1万タラントンは3000億円になります。私たちがこの家来だと考えるなら、私たちは神様に3000億円の借金を帳消しにしていただいた、無限大の罪を帳消しに赦していただいて生きていることになります。

 イエス様の十字架は、私たちの全ての罪を背負う十字架です。あのイエス様の十字架の死のお陰で私たちの無限大の罪は帳消しに赦されて、私たちが今生きることを許されています。それなのに私たちはそれを当たり前に思い、十分に感謝していないかもしれません。1万タラントンの借金を帳消しにしていただいた家来は、自分に100デナリオン借金している仲間を赦そうとしませんでした。100デナリオンは100日分の賃金ですから、先ほどと同じ計算をすると50万円です。自分は3000億円の借金を主君に帳消しにしていただいた家来が、自分に50万円(60万分の1の金額)借金している仲間を赦さなかった。滑稽であり、大きな矛盾ですが、神様からご覧になれば私も似たことをしながら生きて来たと思うのです。

 イエス様は、弟子のヤコブとヨハネの兄弟に「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と問われました。「飲もうとしている杯」とはもちろん十字架のことです。イエス様は最後の一滴までこの苦難の杯を飲み干されました。十字架の苦しみを極限まで味わい尽くし、私たちのどんな小さな罪までも一つ残らず背負って下さったのです。中世のアンセルムスというクリスチャン(神学者)は、「あなたは、罪がどんなに重いかを考えたことがないのだ」と言ったそうです(清瀬みぎわ教会ホームページ・和田道雄牧師のメッセージより引用)。私たちは、神様から見た私たちの罪がどんなに重いか十分に考えていない、イエス様の十字架がどれほど大切か、まだまだ考え足りないかもしれないのです。私たちの罪がただイエス様の十字架のお陰で帳消しにされたことのありがたみを、感じることが少ないかもしれません(私だけかもしれませんが)。「罪と背きと過ちを赦す神。」私たちの罪を赦すことは、神様にとっても決して楽なことではないと思うのです。楽どころか、最も愛する独り子イエス様を、あまり感謝しない私の身代わりとして、十字架で苦しめて死に至らせる。その神様の覚悟と犠牲の痛みなしに、私たちの罪が赦されることはありませんでした。

 さて、出エジプト記34章の終りの方、「モーセの顔の光」の小見出しの所に進みます。(29~30節)「モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。」神様がモーセと顔と顔とを合わせて語られました。本来、私たち罪人(つみびと)は聖なる神様にうかつに近づくことができない、神を見ると死ぬのが旧約聖書の世界です。しかしモーセは罪人であったけれども例外だったようです。神様は、人がその友と語るように、顔と顔とを合わせて親しくモーセに語られました。神様はまばゆい光の放っておられるでしょう。その聖なる光の一部がモーセの顔にとどまったのです。神様のもとから宿営に帰ると、暫くの後、モーセの顔の光は消えました。モーセは、光が消える様子をイスラエルの人々に見られることを好みませんでした。それで彼は神様のもとから退出すると、顔に覆いをかけました。しかし神様のもとに行って語るときは、覆いを外して、栄光に輝く聖なる神様の御顔に直面しました。すると、また神様の御顔の光が一部、モーセの顔にとどまったようです。(34~35節)「モーセは、主の御前に行って主と語るときはいつでも、出て来るまで覆いをはずしていた。彼は出て来ると、命じられたことをイスラエルの人々に語った。イスラエルの人々がモーセの顔を見ると、モーセの顔の肌は光を放っていた。モーセは、再び御前に行って主と語るまで顔に覆いをかけた。」

 若干脇道に逸れるかもしれませんが、ローマ・サンピエトロ・イン・ヴィンリコ聖堂の入り口にミケランジェロ作のモーセ像があるそうです。このモーセ像には頭に二本の角が生えているそうです。確かに写真で見ると二本の角が見えます。ほかにもそのようなモーセの絵があるようです。一般的にはこれは誤解に基づいてこのような彫像や絵が作られたのだと言われます。29節、30節、35節にモーセの顔が「光を放って」と書かれています。この「光を放つ」は原語のヘブライ語で「カーラン」という言葉だそうです。「カーラン」に2つの意味があり、1つ目の意味が「光線、一点から出る線、放つ、放射」です。2つ目の意味が「角(つの)、かど」です。モーセの顔については1つ目の意味に訳すのが正しいと思われますが、昔カトリック教会が用いていたラテン語訳聖書(ウルガタと呼ぶ)が、恐らく誤って「角」と訳したそうです。ミケランジェロが用いていた聖書がそのラテン語訳、もしくはその影響を受けた翻訳だったようで、それでミケランジェロがモーセ像を彫ったときに、頭に二本の角をつけたと言われています。ミケランジェロは1475年に生まれ、1564に天に召されたイタリア人芸術家です。ほかにもドレという人の銅版画(モーセが十戒の板を持っている姿を描く)では、モーセの頭から二列の光が天に向かって放射されています。光ですが直線状で、角のようにも見えなくもありません。もしかするとドレは、「カーラン」の2つの意味「光線」と「角」の両方に当てはまるように意識してこの銅版画を作ったのではないかと、私は想像致します。しかし「角」とする解釈ではなく、やはり「光、光線」の意味を採用する翻訳が正しいのでしょう。「モーセの顔の肌は光を放っていた。」この御言葉を巡って、以上のエピソードがあることをお話した次第です。

 本日の新約聖書は、コリントの信徒への手紙(二)4章1~6節です。4節にこうあります。「この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。」「神の似姿であるキリストの栄光!」 イエス・キリストは三位一体の神ご自身ですから、天で栄光に輝いておられました。その方があえてベツレヘムの汚い馬小屋で生まれて下さったのです。そして十字架の死に至るまで、父なる神様のご意志に忠実に従われました。そのキリストが、栄光の姿を一瞬、垣間見せて下さった時があります。イエス様がペトロとヨハネとヤコブだけを連れて山に登られたときです。その山で祈っておられるうちに、イエス様の顔の様子が変わり、服が真っ白に輝きました。イエス様は神の子、そして神としての栄光に輝く本来のお姿を3名の弟子たちに、一瞬垣間見せて下さったのです。そしてコリント(二)4章6節にはこうあります。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光!」 イエス・キリストは神の子であり、三位一体の神ご自身ですから、モーセと顔と顔とを合わせて語られた神様は、キリストご自身です。

 初代教会の最初の殉教者にステファノがいます。ステファノはいつも神様に祈っていたのでしょう。使徒言行録はステファノを「信仰と聖霊に満ちている人」と紹介しています。ステファノを憎む者たちが、人々を扇動してステファノを捕らえ、ステファノは最高法院に引いて行かれます。偽証人が登場してステファノを訴えます。まるでイエス様の裁判の再現です。その時、ステファノの顔は天使のように見えました。きっと非常に輝いていたのです。いつも神様に祈り、神様と親しく交流していて聖なる喜びに満たされていたからでしょう。祈り続けることによって、人は次第にこのようになるのです。

 遠藤周作氏が天に召されたときのことを、ご夫人が書いておられた文章を思い出しました。天に召されるとき、周作氏のお顔が歓喜の表情になられたそうです。ご夫人は握った手を通して、周作氏の無言のメッセージ(ご自分が光の中に入り、母上らに会われたという内容)を感じ取られたと、書いておられました。周作氏は天国に入りつついらしたときに、神様からの愛と光で表情が輝いたのだと思います。

 私たちが自分で光を放つことは難しいでしょう。神様と神の子イエス・キリストを太陽にたとえるならば、クリスチャンを月にたとえることができるのではないでしょうか。月の輝きは、太陽の光を受けて反射する輝きです。モーセの顔が放った光も、神様の栄光を反射した光です。神様に祈り続け、神様と交流し続けることで、私たちもほんの少しは光を放つようにされるのではないでしょうか。神様が私たちにも光を与えて下さるように、祈って参りましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。 

2015-06-16 14:48:22(火)
「商売の家でなく祈りの家」 2015年6月14日(日) 聖霊降臨節第4主日礼拝説教
朗読聖書:詩編69編8~22節、ヨハネ福音書2章13~25節
「わたしの父の家を商売の家としてはならない」(ヨハネ福音書2章16節)。

 この直前の箇所で、イエス様は、ガリラヤのカナで行われたある人の結婚式において水をぶどう酒に変えて下さり、豊かな愛と祝福を与えて下さったのです。その後、イエス様は同じガリラヤのカファルナウムに行かれました。そこにはイエス様の家があったと伝えられます。そこで母マリア、兄弟、弟子たちと幾日か滞在されました。この時までに少なくとも5人がイエス様の弟子になっていました。イエス様はカファルナウムで、ほっとする一時を過ごされたでしょう。そしてイエス様は、神様にお仕えする次の行動に移ってゆかれるのです。この場面は「宮清め」と呼ばれます。

 (13節)「ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。」イエス様にとってガリラヤはどちらかというとよい場所であり、エルサレムはどちらかというと対決の場所です。イエス様は驚くほど激しい行動に出られます。(14節)「そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。」その場所は神殿の中心ではなく、「異邦人の庭」と呼ばれる場所でした。そこで牛や羊や鳩が売られ、両替をしている商人たちがいたのです。牛や羊や鳩は、遠くから神殿の礼拝に来る人々が、神様に献げるための犠牲の動物でした。ですから神殿の異邦人の庭で、最低限の売り買いは許されていたと思われます。しかしここで牛や羊や鳩を売る人々はかなり高く売って、暴利をむさぼっていたと言われます。生活のための収入を得てよしとするのではなく、必要以上にお金を得ていたのです。心をこめて神様を礼拝するよりも、お金儲けにのみ関心を持っていたのです。イエス様には、聖なる祈りの場である神殿が汚されていると見えました。イエス様は聖なる怒りを発揮されるのです。

 この時、ユダヤ人の非常に大切な祭りである過越祭が近づいていました。過越祭には、ユダヤ人だけでなく、世界各地から異邦人(外国人)が神殿での礼拝のために集まって来たそうです。異邦人が持っているお金は外国のお金です。しかし神殿で犠牲の動物を買うために使うお金は、イスラエルのお金だけです。そこで両替人が神殿に常駐していたのでしょう。ただ両替するだけでなく、多くの手数料を取っていたと思われます。彼らも最低限の商売をしていたのではなく、不当な利益を上げていたと思われます。イエス様の目には、彼らの欲張りな心と行為が、聖なる神殿を汚していることが明らかでした。イエス様は聖なる怒りを発揮され、神殿を清める行為、神殿を聖別する(聖なる場として分かつ)行為を実行なさるのです。

 昨年の8月の日曜日の午後に、この会堂の2階で映画『マリア』を10名くらいで見ましたが、イエス様の父となるヨセフが、身ごもっているマリアをろばに乗せて、ガリラヤのナザレからエルサレムを通ってベツレヘムに向かう場面がありました。「宮清め」より約30年前の場面です。エルサレムでは、様々な人々がいろいろな物を売り買いしており、ヨセフも何かを売りつけられそうになりました。そのエルサレムの様子は、聖なる信仰の町というよりは、喧騒にあふれた騒がしいビジネスの町という様子でした。ヨセフは、マリアを乗せたろばを引きながら嫌悪の表情を浮かべ、「これが聖なる都なのか?」という疑問を口にしていました。

 この「宮清め」は、4つの福音書すべてに描かれています。それだけ重要な出来事です。この場面はこのヨハネによる福音書では、イエス様の伝道の初期の出来事として描かれています。しかしほかの3つの福音書では、イエス様の十字架の死の少し前の出来事として描かれています。そこで、この出来事は2回起こったと考える人もいます。そうかもしれません。ただ、私はヨハネによる福音書の特徴として、出来事が起こった順序に従ってイエス様の生涯を描くことをそれほど重視していないように思います。ヨハネによる福音書は、イエス様が神の子であるというメッセージを語ることを主眼に置いており、実際の順序に従ってイエス様の生涯を記述することに、それほど重きを置いていないと感じます。従って、必ずしも「宮清め」がイエス様の伝道の初期に起こったと考えなくてもよいのではないかと思います。この「宮清め」の出来事も、イエス様が神の子であることを示す重要な意味を持つからこそ、あえて福音書の最初の方で記述されていると考えてよいのではないかと思うのです。

 (15節)「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物は、ここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』」実に激しい行動です。イエス様は父なる神様と、神様を礼拝する祈りの家である神殿を愛しておられました。神殿は聖霊が満ちておられる場です。聖なる神様がそこにおられる場です。聖なる場であり、人間の金銭欲によって汚されてはならない場です。神殿もこの教会堂も、市場・マーケットではないのです。しかしそこではジャラジャラとお金が盛んに音を立てていたのかもしれません。イエス様はすべての商売を否定なさったのではないと思います。すべての経済活動を否定されれば、私たちは生きることができません。生活の糧を得るためのつつましい商売を、イエス様が否定なさるとは思えません。しかし貪欲となり、聖なる神様を礼拝するよりも、お金を一番大事にすることを、イエス様はお認めになりません。お金は神様ではないからです。神様は旧約聖書において、お金が全く役に立たない荒れ野を40年間旅したイスラエルの民に、ずっとマナという食物を与え続けて下さいました。私たちはイエス様がマタイによる福音書6章でおっしゃった、やや厳しい御言葉を思い起こします。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方の親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは神と富とに仕えることはできない。」イエス様はやはり、「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」が真理だと私たちに、教えられるのです。イエス様は、父なる神様が人々を通して与えて下さる質素な食事で生活しておられたでしょうし、何のビジネスもなさらなかったに違いありません。神殿税は納められたようですが、それは神様がそのために奇跡的に与えて下さったお金によって納められました。

 ヨハネによる福音書で、イエス様が宮清めをなさったのは何曜日か、書いてありませんので分かりません(マルコによる福音書では月曜日)。安息日ではなかったでしょう。旧約の時代、安息日は労働せずに礼拝に徹する日であり、当然、安息日に商売をすることは許されませんでした。旧約聖書のネヘミヤ記を読むと、イスラエルの民がバビロン捕囚から祖国に帰還した後のエルサレムで、必ずしも安息日が守られていなかった様子が書かれています。リーダー・ネヘミヤの次の言葉が記されています。「そのころ、ユダで、人々が安息日に酒ぶねでぶどうを踏み、穀物の束をろばに負わせて運んでいるのを、わたしは見た。また、ぶどう酒、ぶどうの実、いちじく、その他あらゆる種類の荷物も同じようにして、安息日にエルサレムに運び入れていた。そこで、彼らが食品を売っているその日に、わたしは彼らを戒めた。ティルス人もそこに住み着き、魚をはじめあらゆる種類の商品を持ち込み、安息日に、しかもエルサレムで、ユダの人々に売っていた。わたしはユダの貴族を責め、こう言った。『なんという悪事を働いているのか。安息日を汚しているではないか。~』そこで、安息日の始まる前に、エルサレムの城門の辺りが暗くなってくると、わたしはその扉を閉じるように命じ、安息日が過ぎるまでそれを開けないように言いつけた。そしてわたしの部下をその門の前に立たせ、安息日には荷物が決して運び込まれないようにした。」

 イエス様の「宮清め」は安息日の出来事ではなかったと思われるので、このネヘミヤ記が直接関係するのではないと思います。しかし安息日は神様を礼拝する聖なる日、神殿は神様を礼拝する聖なる場所。ここに共通点があります。ネヘミヤが安息日を聖なる日として守るために売り買いをさせないようにしたのと同じように、イエス様は神殿を聖なる場所として守るために、商人たちを追い出された。そこには聖なる日と場所を守るという同じ目的があったのではないでしょうか。イザヤ書58章にも、ネヘミヤ記と似たことが記されています。
「安息日に歩き回ることをやめ/ わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ
 安息日を喜びの日と呼び/ 主の聖日を尊ぶべき日と呼び
 これを尊び、旅をするのをやめ
 したいことをし続けず、取り引き(商売)を慎むなら
 そのとき、あなたは主を喜びとする。」

 旧約時代の安息日は土曜日ですが、キリスト教会の礼拝の日は日曜日です。ヨーロッパのキリスト教の長い伝統がある土地では、最近でも日曜日には店が開かない所があった(ある)と聞きます。比較的最近になって、日曜日の午後だけは店が開くようになった地域もあると聞きます(午前は閉まっているのでしょう)。日曜日を礼拝の日として守り、基本的に売り買いはしないという精神が、今も生きている土地はあるのだと思います。日曜日がかき入れ時で、デパートもスーパーも当然のように開いている日本と大違いです。やはり聖書の本来の精神は、「礼拝優先、商売は後」なのだと思います。そしてゼカリヤ書の最後には、次の御言葉があります。終わりの日、神の国が完成するときのことと思います。「その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる。」イエス様はこの御言葉を実現なさったのかとも思うのです。

 旧約聖書の最後の書、マラキ書3章1節以下が、イエス様の「宮清め」を予告していると信じる人もいます。
「見よ、わたしは使者を送る。/ 彼はわが前に道を備える。
 あなたたちが待望している主は/ 突如、その聖所に来られる。
 あなたたちが喜びとしている契約の使者
 見よ、彼(彼はメシアを指すと言う人がいます)が来る、と万軍の主は言われる。
 だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。
 彼の現れるとき、誰が耐えうるか。
 彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。
 彼は精錬する者、銀を清める者として座し
 レビの子らを清め/ 金や銀のように彼らの汚れを除く。
 彼らが主の献げ物を/ 正しく献げる者となるためである。」
こうして真の礼拝が回復されるというのです。イエス様はまさに、突如、聖所(神殿)に来られて、神殿を清められました。マラキ3章1節以下の御言葉を実現なさったと言えるのです。

 ヨハネによる福音書2章に戻り、17節「弟子たちは、『あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす』と書いてあるのを思い出した。」これは本日の旧約聖書である詩編69編10節の引用です。そこには「あなたの神殿に対する熱情が/ わたしを食い尽くしているので」と書かれています。 イエス様が父なる神の神殿を愛する熱情のために、イエス様が食い尽くされる、苦難に追いやられる、十字架に追いやられることを意味します。詩編69編は、イエス様の受難・十字架の死を予告する重要な詩編ですね。22節前半に「人はわたしに苦いものを食べさせようと」とありますが、これはマタイによる福音書27章33~34節で実現しています。「(兵士たちは)ゴルゴタという所、すなわち『されこうべの場所』に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。」 22節後半の「渇くわたしに酢を飲ませようとします」は、マタイによる福音書27章48節のイエス様の十字架の死の直前の場面で実現しています。「そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。」このように詩編69編は、イエス様の十字架の死を預言する重要な詩編です。

 さて、ユダヤ人たちはイエス様の激しい行動に怒って、イエス様に詰め寄ります。(18節)「あなたはこんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか。」 「こんなことをするからには、あなたはよほどの権限を持つ特別な者なのか。それならそのしるし・証拠を見せよ」という意味でしょうか。イエス様はお答えになります。(19節)「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」「これが私がこのことをなす資格を持つしるし・証拠だ」というのです。実はこのお答えには深い意味があります。「この神殿」は、21節にある通り、イエス様の肉体です。神殿には神様の清い霊・聖霊が住んでおられます。神の子イエス様には聖霊が満ち満ちて宿っておられます。ですからイエス・キリストこそ、真の生ける神殿です。地上の建物の神殿はいつか崩壊するのです。イエス・キリストこそ、真の神殿です。真の生ける神殿であるイエス・キリストが、地上の神殿を清められたのです。そして今や、私たちキリストを信じる者も、聖なる神殿です。キリストを信じる者にも聖霊が住んでいて下さるからです。私たちの心も体も、今や自分のものではなく、神様のものです。神様のものですから、それにふさわしく罪を避け、(できるだけ)清く保つことが必要です。

 「この神殿(イエス様の肉体)を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」これはもちろんイエス様の十字架の死と、三日目の復活を意味します。しかしユダヤ人たちにはその意味が全く分かりませんでした。イエス様の弟子たちにもこの時は分からなかったのですから、やむを得ないとも言えます。ユダヤ人たちは、こう答えます。(20節)「この神殿は建てるのに46年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか。」エルサレムの神殿は、ヘロデ大王によって大規模に拡張されました。それで建てるのに46年もかかったのでしょう。「それを三日で建て直すなど不可能だ。イエスという男は生意気で許せない」とユダヤ人たちは憎しみを募らせたことでしょう。イエス様は復活なさったとき、弟子たちはイエス様が、「三日で建て直してみせる」と言われた御言葉を思い出しました。そして「聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」と書いてあります。ここでは神の言葉・聖書(旧約聖書)とイエス様の言葉が同列に置かれています。イエス様の言葉を神の言葉と信じたということでしょうし、イエス様を神の子と信じたということではないかと、思うのです。

 23~25節をも見ます。「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」神殿を清めるしるしのほかにも、イエス様はエルサレムでしるし(奇跡)を行われたのかもしれません。それを見て、多くの人がイエス様を神の子と信じたようです。しかしイエス様は彼らを信用されませんでした。奇跡を見て信じる信仰は、奇跡を見なければ信じなくなる、はかない信仰です。人間の心には罪深いところ、いい加減なところがあります。自分の欲望を満たして、自分に都合のよく有利に生きようとしたり、保身に走ったりします。どんな時でもイエス様を神の子と信じ、イエス様に従うとは限らないのです。イエス様はこのように、人間の心が自己中心であることを見抜いておられました。私たちは、イエス様に信用していただける弟子になりたいのです。

 イエス様の弟子・使徒パウロも、神の宮を清める熱い思いを抱いていました。パウロはギリシアのコリントでも主イエス・キリストを宣べ伝え、コリントにも教会ができました。専用の教会堂があったのではないでしょうが、イエス様を救い主と信じる群れができました。しかしコリントの教会は模範的な教会ではなく、様々な罪とトラブルを抱えていました。たとえばクリスチャンたちが一致せず、仲間割れを起こしていました。また性的に乱れた人がおり、ある人が父親の妻(自分の義理の母親でしょう)と同棲生活を送っていました。パウロはコリント教会を深く愛していたがゆえに、彼らの罪を深く悲しみ、その罪を見逃すことはできないと考えました。そこでコリントの信徒への手紙(一)4章21節でこう書いて、コリント教会の人々に悔い改めを求めています。「あなたがたが望むのはどちらですか。わたしがあなたがたのところへ鞭を持って行くことですか、それとも、愛と柔和な心で行くことですか。」パウロは、コリント教会が悔い改めない場合には、鞭(文字通りの鞭ではなく、厳しい言葉)を持って行き、教会を正すつもりであったのです。辛いけれどもあえて愛の鞭を振るう覚悟をしていました。結果的には、コリント教会は悔い改めた模様です。

 イエス様は鞭を振るって神殿を清められました。しかしイエス様は、十字架にかかられる前に、ご自分が非常に厳しい鞭打ちを受けられました。その鞭も、私たちから神様から受けるべき鞭だったかもしれないのです。その非常に辛い鞭をイエス様が肉体に受けて下さいました。そして私たちの全ての罪を背負って身代わりに十字架におつきになりました。イエス様は鞭を振るわれましたが、ご自分がもっと多くの鞭を受けて下さったのだと思います。イエス様の愛に根ざした叱りの鞭によって私たちも清めていただき、イエス様の弟子として歩ませていただきたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2015-06-15 16:23:19(月)
「渡辺和子シスターのメッセージ」 6月の聖書メッセージ(2) 牧師・石田真一郎
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」
(イエス・キリストの言葉。新約聖書・マタイによる福音書7章12節)

 渡辺和子さんという88才のカトリック教会の修道女(シスター)がおられます。岡山のノートルダム清心女子大学の学長を務められました。この方は日本の宝です。

 3年前に渡辺さんの『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎、2012年)という比較的小さな本がベストセラーになりました。東久留米の書店でも「お薦め本」の第一位でした。深い知恵に満ちた一冊です。渡辺さんのお父様は政府の要職にあり、「2.26事件」で理不尽に殺されました。だからというわけではないのでしょうが、渡辺さんは修道女になり、30代半ばで慣れない地の大学の学長に任命され、強い風当たりを受け四苦八苦されたそうです。逃げ出したい気持ちのとき、ある宣教師が英語の詩を渡してくれ、その冒頭の言葉が、「置かれた場所で咲きなさい」だったそうです。咲けない時は無理に咲かないで、「根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために」(13ページ)、「与えられる物事の一つひとつを、ありがたく両手でいただき、自分にしか作れない花束にして、笑顔で、神に捧げたい」(14ページ)と書いておられます。

 続編の『面到だから、しよう』(幻冬舎、2013年)も、分かりやすく深みのある一冊です。私は次の言葉に教えられました。一つめはマザー・テレサの言葉です。「私には偉大なことはできません。私にできることは、小さなことに、大きな愛をこめることなのです」(38ページ)。もう一つは渡辺さんがアメリカの修練院で修行中に学ばれたことです。「時間の使い方は、いのちの使い方。この世に゛雑用゛という用はない。用を雑にした時に、雑用が生まれる~」(53ページ)。

 一つ一つに心を込めて生きる。雑に生きない。スピード優先になりやすい今の世にあって、大切ことを教えていただける二冊です。アーメン(「真実に、確かに」)。