日本キリスト教団 東久留米教会

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2016-01-26 19:17:55(火)
「神は心によって見られる」ダビデ王① 2016年1月24日(日) 降誕節第5主日礼拝説教
朗読聖書:サムエル記・上16章1~23節、使徒言行録1章21~26節。
「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サムエル記・上16章7節)。
 
 時代は紀元前1000年頃です。イエス様より1000年前です。最初の小見出しは、「ダビデ、油を注がれる」です。イスラエルでは、神様の重要な務めに就く人は、聖なる油を注がれ、聖別されて任職されました。重要な務めの代表は、王・祭司・預言者です。聖別するとは、「聖なるもの」として分かつことです。信仰の世界で大切なことです。私たちは日曜日を聖別して、聖なる日・礼拝の日として守ります。聖なる油は、聖霊のシンボルです。出エジプト記30章に「聖別の油」の作り方が記されています。「上質の香料を取りなさい。すなわち、ミルラ(没薬)の樹脂500シェケル(5.7kg)、シナモンをその半量の250シェケル(2.85kg)、匂い菖蒲250シェケル(同)、桂皮を聖所のシェケルで500シェケル(5.7kg)、オリーブ油1ヒン(3.8ℓ)とである。あなたはこれらを材料にして聖なる聖別の油を作る。」

 それを臨在の幕屋(神様がおられる幕屋)、十戒を刻んだ2つの石を納める掟の箱、焼き尽くす献げ物を献げる祭壇、すべての祭具に注いで聖別し、神聖なものとするのです。そしてモーセの兄アロンとその子らにこの油を注いで、彼らを聖別し、祭司として神様に奉仕することができるように清めるのです。本日のサムエル記(上)16章で預言者サムエルが少年ダビデに油を注ぎますが、それもこのような聖別の油だったに違いありません。私たちはイエス・キリストを救い主と信じていますが、キリストとはギリシア語で「油を注がれた者」の意味です。キリストは、旧約聖書のヘブライ語ではメシアです。メシアも同じく「油を注がれた者」の意味です。旧約聖書では油を注がれて聖別される人は、基本的に王・祭司・預言者です。その意味で旧約聖書の王・祭司・預言者はミニメシアです。イエス様は、究極の王・究極の祭司・究極の預言者、神の子であり、究極のメシア、真のメシア(救い主)です。

 1節にサムエルという預言者が登場します。サムエルは、神様が彼の母ハンナの敬虔な祈りに応えて授けて下さった子で、神様に献げられ、少年の頃から祭司エリのもとで神様に仕える生活に入りました。そして「主よ、お話しください。僕は聞いております」という名言を語りました。サムエルという名は「その名は神」の意味で、サムエルは人々に非常に信頼される人に成長しました。(1節)「主はサムエルに言われた。『いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。』」 サウルはイスラエルの最初の王です。サウルは王となったとき、美しい若者で、彼の美しさに及ぶ者はイスラエルにはだれもいなかった、と書かれています。サウルは、民の誰よりも肩から上の分だけ背が高い男でした。

 しかし、神様はサウルを王の位から退けられます。それはサウルが神様の指示に忠実に聴き従わない時が(少なくとも)2回あったからです。一回目は、サウルとイスラエルの軍隊がペリシテ人との戦いの中で苦境に陥ったとき、サムエルがなかなか来なかったので、サムエルが献げるべき焼き尽くす献げ物を、サウルが献げたことです。(サムエルがなかなか来なかったからとは言え)それが、神様の戒めへの違反と見なされました。サウルが祭司でなかったからかもしれません。二回目は、神様が、神様に逆らったアマレクという民族と、その家畜を完全に滅ぼし尽くすようにサウルにお命じになったのに、サウルと兵士が家畜のうち上等のものを惜しんで滅ぼし尽くさなかったことです。これはサウルと兵士が、戦利品を得ようと欲を出して、神様の命令に忠実に従わなかった罪と見なされました。私の感覚では、「やや分かりにくいな」と感じてしまうのですが、この2つの罪により、神様はサウルを王の位から退けられ、サムエルは死ぬ日までサウルに会おうとせず、サウルのことを嘆いたのです。

 神様はサムエルに命じられます。「角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」 ベツレヘム! 私たちに実に馴染み深い地名です。約1000年後にこのベツレヘムに、エッサイの息子ダビデの子孫としてイエス・キリストがお生まれになることを、私たちは知っています。正確にはダビデの子孫ヨセフの妻マリアから、処女降誕によってイエス様が、このベツレヘムで誕生なさいます。ベツレヘムは、「パンの家」の意味です。サムエルはためらいます。(2節)「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」神様が退けたとおっしゃっても、現実にはまだサウルは王の位に就いています。

 しかし、神様は構わずおっしゃいます。(2節後半~3節)「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときにわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」そこでサムエルはためらいと恐れを振りきって、神様に従います。(4~5節)「サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。『おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。』『平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。』」

 サムエルはイスラエルの精神的な指導者でしたから、そのような高名な指導者が突然小さな町ベツレヘムにやって来たので、町の長老たちは驚き、一体どんな目的で来られたのか、不安を覚えました。サムエルは彼らを安心させるために、「平和のことのために来ました。主にいけにえをささげに来ました(礼拝のために来ました)」と告げます。エッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招きます。そして、神様がお選びになる者に聖別の油を注いで、王として任職するために、神様が誰をお選びになるか、目を凝らします。神様にいけにえを献げることは、礼拝行為です。エッサイと七人の息子たちは、身を清めて来ました。これは改まった礼拝の時です。祈りの中で、神に導かれて次の王が選ばれます。

 (6~7節)「彼ら(エッサイの息子たち)がやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。しかし、主はサムエルに言われた。『容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。』」エリアブは容姿がよく、背が高くて立派に見えたのです。サムエルともあろう立派な預言者でさえも、つい容姿にばかり注目し、神様にたしなめられました。容姿がよく、背が高いことが悪いのではありません。12節によるとダビデも、血色が良く、目は美しく、姿が立派だったのです。紅顔の美少年だったのでしょう。しかしそれよりもっと重要なのは心だ、ということではないでしょうか。神様はダビデの心の中も、わたしたちの心の中も、全てご存じです。神様には何も隠すことができません。ダビデの心には、真の神様への純粋な信仰が満ちていました。でもダビデの心の中にも罪はあるのです。後年のダビデが犯した最大の罪は、他人の妻バト・シェバを奪ったことです。この罪にはどんな言い訳もできません。しかし同時にダビデには、罪と気づけばすぐに悔い改める純真さもありました。神様は、ダビデのそのような心を見て下さったのではないかと思います。

 エッサイの息子が七人、次々と登場します。(8~10節)「エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。『この者をも主はお選びにならない。』エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。『この者をも主はお選びにならない。』エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。『主はこれらの者をお選びにならない。』」 神様の選びは、サムエルの最初の思い、エッサイの考えを全く超えていました。(11節)「サムエルはエッサイに尋ねた。『あなたの息子はこれだけですか。』『末の子が残っていますが、今、羊の番をしています』とエッサイが答えると、サムエルは言った。『人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。』」ダビデはエッサイの8番目、末の息子、羊飼いの労働をしていました。8番目の末っ子ですから、軽く見られていたと思われます。神様がまさかこの子をお選びになるとは、エッサイは予想もできなかったでしょう。しかし神様は末っ子ダビデを、イスラエルの王としてお選びになったのです。ダビデという名前は「愛される者」の意味だそうです。私は始めて知りました。ダビデは神様に愛されていたのです。もちろん私たち一人一人も、神様に愛されています。神様に愛され、神様に招かれて、礼拝に来ています。

 (12~13節)「エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。『立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。』サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。」ダビデは血色良く、目が美しく、姿も立派でしたが、一番重要なのはダビデの純真な心、特に罪を悔い改める心であったと思うのです。サムエルはダビデに聖別の油を注ぎ、ダビデは聖別され、次の王として任職されました。その日以来、主の霊(聖霊)が激しくダビデに降るようになったのです。ダビデのペンテコステ(聖霊降臨)です。

 人々が身を清めて集まった礼拝・祈りの場で、ダビデが次の王として選び出されました。本日の新約聖書・使徒言行録1章21節以下も、神様の働き人が選び出される場面です。ユダが死んだことで一名の欠員が生じていたイエス様の十二弟子・十二使徒を補充する選びです。ダビデが選ばれた場面と違う点もありますが、本質的に似た場面と思います。人々が神様に祈ってくじを引くことで、一人の使徒が選ばれます。(23~26節)「そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフ(イエス様の父ヨセフとは別人)と、マティアの二人を立てて、次のように祈った。『すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちどちらをお選びになったかを、お示しください。ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。』二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。」神への祈り、礼拝の中でマティアが選ばれました。

 ダビデは8番息子、末の子でした。聖書の神様は、あえていと小さき者をお選びになる神様です。サウルも王として失敗したとは言え、一度は選ばれました。そのときサウルは言ったのです。「わたしはイスラエルで最も小さな部族ベニヤミンの者ですし、そのベニヤミンでも最小の一族の者です。」サウルよりさかのぼると、イスラエルを士師というリーダーが治めていた時代、神様はギデオンという若者に、イスラエルを圧迫していたミディアン人からイスラエルを救い出すように、と言われました。ギデオンはためらいます。「どうすればイスラエルを救うことができましょう。わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です。」しかし神様は、そのギデオンを選ばれたのです。

 ダビデの属するイスラエルの民自体が、いと小さき民です。神様は、申命記7章6節以下で、イスラエルの民に言われます。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」いと小さきイスラエルの民を愛する神様は、イスラエルの王として、エッサイの8番目の息子ダビデ(「愛される者」)を、罪を悔い改める心をもつダビデをお選びになりました。この神様が、私たちをも選んで、神様を愛する礼拝へ招いて下さっています。

 聖別の油を注がれたダビデに、主の霊(聖霊)が降りました。主の霊は、主イエス・キリストの霊でもあります。イエス様が地上にお生まれになるのはこの1000年後ですが、神の子キリスト・子なる神キリストは、父なる神様と一体の状態で、天におられたのです。ダビデに、キリストの霊が注がれました。ダビデの内に生けるキリストが住まわれたのです。そしてダビデを導きます。ダビデが罪を犯したときは、悔い改めに導くでしょう。キリストの霊は、愛と清さと平安の霊です。キリストが、ダビデと共におられます。キリストの霊に導かれて、ダビデは竪琴を演奏し、神から来る悪霊にさいなまれるサウルの心を慰めます。

 末っ子ダビデが王に選ばれたエピソードを読んで、私はルカによる福音書1章の、「マリアの讃歌」を思い起こします。イエス様を身ごもり、親類のエリサベトに会ったマリアは、聖霊を受けて、神様を賛美しました。
「わたしの魂は主をあがめ、/ わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
 身分の低い、この主のはしためにも/ 目を留めてくださったからです。
 今から後、いつの世の人も/ わたしを幸いな者と言うでしょう。
 力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。/ その御名は尊く、
 その憐れみは代々に限りなく、/ 主を畏れる者に及びます。
 主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、
 権力ある者をその座から引き降ろし、/ 身分の高い者を高く上げ、
 飢えた人を良い物で満たし、/ 富める者を空腹のまま追い返されます。」

ダビデもきっと、「身分の低い、この主の僕にも、目を留めてくださったからです」と賛美する気持ちになったと思うのです。

 ダビデは8番目の末っ子、マリアもいと小さき女性、そしてイエス様も、ベツレヘムの貧しい馬小屋でお生まれになりました。ダビデとイエス様には共通点があります。ダビデは羊飼いとして労働していました。イエス様は、「わたしは良い羊飼いである」とおっしゃいました。ダビデは羊のために働く羊飼いであり、イエス様は人間に仕えて十字架にかかって下さる、良き羊飼いです。ダビデは軽く見られていましたし、イエス様もガリラヤのカファルナウムの人々に、「これはヨセフの息子のイエスではないか。大工ヨセフの倅のイエスではないか」と、低く見られており、最後に十字架の低きにまで降られました(三日目によみがえられました)。ダビデの名は、「愛される者」であり、イエス様も洗礼を受けられた時、父なる神様が「これはわたしの愛する子」と声に出して言われました。ダビデは真の聖別の油・神の霊を注がれました。その意味でダビデも小さなメシア(油を注がれた者)です。ダビデは、将来誕生する真のメシア・イエス様を指し示す存在です。

 私たちも、いと小さき者です。ずっといと小さき者であり続けたいのです。わたしたちは、いと小さき者ですが、イエス様を救い主と信じて、聖霊を受けました。その意味で私たちもミニメシアです。今週もいつも祈りながら、身の周りで、イエス様が喜んで下さる小さな愛の業を、喜んで行いたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2016-01-19 20:07:32(火)
「天におられるわたしたちの父よ」主の祈り① 2016年1月17日(日) 降誕節第4主日礼拝説教
朗読聖書:列王記・上18章25~29節、マタイ福音書6章5~15節。
「天におられるわたしたちの父よ、」(マタイ福音書6章54節)。
 
 「主の祈り」(の原型)は、マタイによる福音書6章とルカによる福音書11章に記されています。よく見ると、2つの福音書の「主の祈り」には違いがありますし、2つの福音書の「主の祈り」と、私たちが実際に祈っている「主の祈り」も少し違います。その違いについても、折々に触れる予定です。2世紀から3世紀に生きたテルトゥリアヌスという聖職者は、「主の祈り」は「福音全体の要約」だと述べたそうです。福音全体が凝縮されているのが「主の祈り」です。

 本日のマタイによる福音書6章5節以下は、「山上の説教」(5~7章)の中に含まれています。イエス様は今日の箇所で、弟子たちに「祈り」を教えておられます。(5節)「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。」「偽善者」は、もとのギリシア語で「俳優」という意味の言葉です。俳優は立派な仕事ですが、俳優は演じるのですね。私たちも演じてしまうことがあります。心の中では悪いことを考えているのに、人前で立派な善い人であるように見せかけます。人前で自分が立派な善い人であるとアピールしたいのです。そうでないと社会生活が成り立たないので、やむを得ない部分もありますが、しかし私たちは自分の悪い本心を隠して、立派なことを言ったり行ったりして、善い人を演じてしまうことがあるのではないでしょうか。私も、「本当に自分は偽善者だ」とうなだれるしかありません。偽善の罪を全く犯したことのない人は、イエス様以外ではおられないのではないかと思うのです。私が人前でする祈りも、偽善になっていないか、常に自分の心をチェックすることが欠かせません。

 「はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。」「はっきり言っておく」は原文で、「アーメン、私はあなたたちに言う」です。アーメンは「真実に」の意味ですね。「真実に、私はあなたたちに言う」と言われたのです。「彼らは既に報いを受けている。」彼らは人前で、本心からでない形ばかり立派な祈りをして自己満足し、人々にもほめそやされた。だから神様からのご褒美はもう受けられない、ということです。ではどう祈ればよいか。(6節)「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」私たちは人前、公の場で祈ることもあるのですが、その前に、人の見ていないところで神様と一対一で祈りに集中すること非常に大切だと、イエス様は教えて下さいました。以前は「密室の祈り」という言葉をよく聞いたものです。「密室の祈り」は、自分の部屋に入って戸を閉め、そこで神様に親しく祈ることです。必ずしも部屋の中でなくても、電車の中で心の中で祈ることもできます。「密室の祈り」、個人での祈りを積み重ねていないと、公の場での祈りも真実味のない祈りになってしまう恐れがあります。私たちは個人で祈っているときも、雑念に悩まされます。祈りは雑念との戦いでもあります。何とか雑念に負けないで、雑念に打ち勝って、個人の「密室の祈り」を確立したいものです。「そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」神様は、私たちは人知れずすることや、人知れず祈る祈りを、すべて見ておられます。人に自己アピールするためではなく、ただ神様に献げる純粋な思いで、祈ってゆきたいものです。神様の前に、陰日向のない人になりたいものです。

 (7節~8節前半)「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。」イエス様の時代にこのような異邦人がいたのでしょうね。心をこめるよりも、機械的に言葉数を多くすれば、彼らの神(偶像)が聞き届けてくれると考えて祈ったのです。このような祈りの例としては、本日の旧約聖書・列王記上18章の、バアル(偶像)の預言者たちの祈りを挙げることができます(旧約564ページ)。預言者エリヤの時代のイスラエルの北方の山・カルメル山が舞台です。紀元前9世紀です。真の神の預言者エリヤと、偽物の神(偶像、正体は悪魔)バアルの預言者450人が対決する、有名な場面です。バアルの預言者たちはバアルに祈り、エリヤは真の神様に祈り、どちらが真の神なのか、はっきりさせようという対決です。

 バアルの預言者たちは、数えきれないほど何回もバアルに呼びかけます。(26節)「彼らは与えられた雄牛を取って準備し、朝から昼までバアルの名を呼び、『バアルよ、我々に答えてください』と祈った。しかし、声もなく答える者もなかった。彼らは築いた祭壇の周りを跳び回った。」しかしバアルは神でないので、答えが全くないのです。(28~29節)「彼らは大声を張り上げ、彼らのならわしに従って剣や槍で体を傷つけ、血を流すまでに至った。真昼を過ぎても、彼らは狂ったように叫び続け、献げ物をささげる時刻になった。しかし、声もなく答える者もなく、何の兆候もなかった。」くどくどと、言葉数を限りなく多くして祈りましたが、何の反応もなかったのです。これに対して、預言者エリヤは真の神様に、信頼をこめて短く祈ります。(36~37節)「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように。わたしに答えてください。主よ、わたしに答えてください。そうすればこの民(イスラエルの民)は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう。」すると、たちどころに主の火が降って、焼き尽くす献げ物と薪、石、塵を焼き、溝にあった水をもなめ尽くしたのです。エリヤを愛しておられる真の神様が、打てば響くように、エリヤの祈りに答えられました。

 マタイに戻り、8節より。イエス様は、「彼ら(異邦人)のまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だからこう祈りなさい」とおっしゃって、「主の祈り」の元になる祈りを教えて下さったのです。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」この御言葉は、私たちを明日への思い煩いから解放します。私は、ペトロの手紙(一)4章7節を思い出します。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」「お任せしなさい」は、ほかの訳では「委ねなさい」になっています。元の言葉は「投げる」の意味です。思い煩いを、神様に向かって投げつけてよいという意味だと、読んだことがあります。自分にできることを行い、あとは神様にお任せする、思い煩いを(少々大胆ですが)神様に投げつけてしまう。「神が、あなたがたのことを心にかけていて下さるからです。」神様は、私たちに無関心な方ではないのです。私たちのことを心にかけていて下さる。大切に思っていて下さる。そこを疑わないで安心して、信頼してこう祈りなさい。そう教えて下さったのです。

 「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」創世記24章に、アブラハムの僕が、アブラハムの息子イサクの妻となる女性を探し求めて、アブラハムの故郷に行く場面があります。僕は女たちが水くみに来る夕方に井戸に行き、こう祈ります。「この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、その一人に、『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。『どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。」彼が祈り終わらないうちに、リべカという娘が水がめを肩に載せてやって来ました。彼が「水がめの水を少し飲ませてください」と頼むと、娘は「どうぞ、お飲みください。~らくだにも水をくんで来て、たっぷり飲ませてあげましょう」と答え、しかも彼女がアブラハムの一族の娘であることが分かったのです。彼はひざまずいて主を伏し拝み、『主人アブラハムの神、主はたたえられますように。主の慈しみとまことはわたしの主人を離れず、主はわたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどりつかせてくださいました』」と祈ったのです。まさに神様は、この僕が願う前から、彼の願い求めていることをよくご存じで、リべカに出会わせて下さいました。同じ神様が、私たち一人一人をも、心にかけていて下さいます。ですから、思い煩わないで安心して、信頼してこう祈りなさい。イエス様はそうおっしゃって、「主の祈り」(の原型)を教えて下さったのです。

 マタイに戻り9節。「だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/ 御名が崇められますように。』」神様を(比喩的に)「父」と呼ぶケースは、旧約聖書には少ないのですが、少しあります。モーセの次の言葉が申命記1章31節にあります。「また荒れ野でも、あなたたち(イスラエルの民)がこの所に来るまでたどった旅の間中も、あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださったのを見た。」

 エレミヤ書3章19節には、神様の独白が記されています。「わたしは思っていた。『子らの中でも、お前(イスラエルの民)には何をしようか。 /お前に望ましい土地 /あらゆる国の中で/ 最も麗しい地を継がせよう』と。/ そして、思った。『わが父と、お前はわたしを呼んでいる。/ わたしから離れることはあるまい』と。」

 マラキ書1章6節では、神様がイスラエルの祭司たちに、次のような苦言を呈しておられます。「子は父を、僕は主人を敬うものだ。/ しかし、わたしが父であるなら/ わたしに対する尊敬はどこにあるのか。」 このように、旧約聖書にも少しは、神様を父と見なす御言葉があります。

 しかし何と言っても新約聖書の時代に入って、イエス様が登場なさった時から、神様はイエス様の父なる神様であられることが、明確に示されるようになります。神様がイエス様の父であられることは、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになったときに、はっきり示されます。イエス様が洗礼をお受けになったとき、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神様の声が聞こえました。この声により、イエス様が神の子であり、神様がイエス様の父であられることが、明らかにされました。

 ヨハネによる福音書17章などをよく読むと、イエス様が神様に「父よ」と呼びかけておられることが多いことに、改めて気づきます。「父よ、時が来ました。」「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。」「聖なる父よ~。」「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。」「正しい父よ~。」 イエス様は、本当に神様を父として慕いぬいておられるのだな、と感じます。そしてマルコによる福音書を見ると、十字架の前夜にこう祈られます。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯(十字架)をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

 そしてイエス様は、イエス様の父がわたしたちの父でもあられることを、「あなたのがたの父」、「あなたの父」という言い方によって、教えて下さいます。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者になりなさい。」「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」 私たちは、イエス様の父を「わたしたちの父」、「わたしの父」と呼ぶことを許されています。正確に言うと、私たちは聖霊(神の清き霊、イエス様の霊)によって、「父よ」と呼びかけるのです。イエス様の弟子・使徒パウロも(ローマの信徒への手紙8章で)書いていますね。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と叫ぶのです。」「アッバ」は、イエス様が話されたアラム語(ヘブライ語の兄弟語)で、「お父さん」、いえ「パパ」の意味だそうです。「アッバ、父よ」と祈られたイエス様が、父なる神様といかに親しいかが分かります。私たちも「アッバ、父よ」、「天におられるわたしたちのアッバ」と、親しく呼びかけることが許されています。父なる神様は聖なる方であり、罪を憎む方ですから、私たちが罪を犯し続けて神様を侮ることがあってはなりません。しかし神様は同時に愛の方であり、私たちが「父よ」と呼びかけて、神様に祈ることを、喜んで下さいます。

 『ハイデルベルク信仰問答』には、「主の祈り」の冒頭の呼びかけについて、問いと答えの形で、次のように教えています。
問120 なぜキリストはわたしたちに、神に対して「われらの父よ」と呼びかけるようにお命じになったのですか。
答    この方は、わたしたちの祈りのまさに冒頭において、わたしたちの祈りの土台となるべき、神に対する子どものような畏れと信頼とを、わたしたちに思い起こさせようとなさったのです(吉田隆訳『ハイデルベルク信仰問答』新教出版社、2002年、109ページ)。

私たちが神様を父と呼ぶとき、畏怖の念と信頼の心の両方をもつことが大切、ということと思います。

 この父は、慈しみに満ちた父です。この父は、種を蒔かず、刈り入れもしない空の鳥を養って下さいます。働きもせず、紡ぎもしない野の花をも美しく装って下さいます。もちろん、私たちが全然働かず怠けてよいという意味ではなく、思い煩わないでこの父の愛に信頼して祈りなさいということでしょう。女子パウロ会という修道会が作っておられる絵葉書がありますが、花の絵が描いてあって、「こんな小さな花にさえ 心をかける父がいる」と書いてありました。いと小さき野の花でさえ、愛して下さる父です。「まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」(マタイ福音書7:30)と、イエス様は言って下さいます。この父は、罪を心から悔い改めて帰って来た放蕩息子を憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻して下さる父です。

 そしてイエス様は、マタイによる福音書7章11節で、「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」と、言って下さいます。ルカによる福音書には、「良い物」は聖霊だと書かれています。父が与えて下さる最も良い物は聖霊なのです。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」最も必要なものは聖霊、罪を悔い改める心、神の国、もちろん地上のパン、罪の赦し、永遠の命です。

 わたしたちが「父よ」と呼ぶことができるということは、私たちが神の子とされているということです。私たちは罪人であり、生まれながらの神の子ではありません。ですが、真の神の子イエス様の十字架の死のお陰で、すべての罪の赦しを与えられ、イエス様を救い主と信じて、神の子とされました。「父よ」と呼ぶことが許されていること自体が奇跡、深い恵み、福音です。

 東京のある教会を創設なさった牧師のエピソードと聞いていますが、実の父親が早く亡くなったのです。実の父親は、明治時代の政治家でした。暗殺されたのです。実の父親が早く亡くなったので寂しさを覚えておられたのですが、「天に神様という本当の父がおられるよ」と教えられ、深い喜びを覚えられたようです。とても立派な牧師になられました。「天の父がおられる」ということだけで、大きな福音なのですね。お祈りを始めるとき私はよく、「天におられる主イエス・キリストの父なる神様」と呼びかけますが、「父よ」でもよいし、「天のお父様」でも、全く構わないのです。ルカによる福音書11章の「主の祈り」(の原型)では、呼びかけは「父よ、」です。

 アメリカのある牧師たちは、「キリスト者とは、主の祈りを祈ることを身に着けた人びとです」、「この祈りを自分の第二の本性になるまで刻みつける」ことが必要だと言っています(W.H.ウィリモン、S.ハワーワス著・平野克己訳『主の祈り 今を生きるあなたに』日本キリスト教団出版局、2003年、29ページ)。「天にまします我らの父よ」、「我らの」ですから、(一人で祈ることもよいですが)兄弟姉妹と(気の合う人とも、気の合わない人とも)心を一つにして祈る、和解の祈りが「主の祈り」だと分かります。宗教改革者マルティン・ルターは、「主の祈りは、教会史上最大の殉教者だ」と言ったそうです。ルターの時代に多くの人が「主の祈り」を心をこめず、その意味を深く考えず、おざなりに祈っていたので、ルターは嘆いてそう言ったのでしょう。私たちはそうならず、「主の祈り」を魂を込めて、本当に祈る者になりたいと祈ります。古代の聖職者テルトゥリアヌスは、「主の祈りは、福音全体の要約である」と言いました。私たちの魂にとって、最も益になる祈りが、主の祈りに違いありません。この祈りを、本当に身に着けて参りたいと祈ります。アーメン(「真実に、確かに」)。


2016-01-12 19:52:34(火)
「杉原千畝(ちうね)さんの奉仕」 1月の聖書メッセージ 牧師・石田真一郎
「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい。」
(イエス・キリストの言葉。新約聖書・マルコ福音書10章43~44節)

 第二次世界大戦中のヨーロッパで、約6000人のユダヤ人の命を救った杉原千畝(ちうね)さんという外交官(1900~1986年)がおられましたね。今、『杉原千畝』という映画で上映中です(いつまでかは不明)。私は映画を見ていませんが、約13年前、存命だったご夫人の講演を西東京市で聴きました。夫妻はロシア正教の洗礼を受けたクリスチャンです。杉原氏がバルト三国の一つ・リトアニアに駐在する日本領事代理だった1940年7月18日朝、小さな日本領事館の周りは、大勢のユダヤ人に埋め尽くされたそうです。ポーランドからナチスの魔手を逃れて、苦難の移動をして来たユダヤ人でした。ソ連、日本を経由してアメリカなどに移住する、日本通過ビザ(査証)を求めていました。手を差し伸べる大使館はほとんどなかったそうです。

 リトア二アは8月3日にソ連に併合され、領事館にも退去命令が出ました。日本の外務省からはビザの発行をノーとする返答が来ました。杉原氏は苦悩の末、「私を頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」(杉原幸子『六千人の命のビザ』大正出版、200ページ)と、発行を決断します。夫人は「子供たちも私も最悪の場合は命の保証はない」(33ページ)と覚悟します。杉原氏は1ヶ月間、朝から夜まで休みなくビザを書き続けます。

 一家は1947年に帰国され、職を失い苦労されました。1968年に初めて、助けた一人と再会します。1985年にイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人」賞を受け、世に知られます。夫人は1989年にアメリカのボストンで、小さな男の子を前に、「ご主人のビザがなかったら、こんな天使のような子の生命は神から授けられなかったのですよ」(201~202ページ)と告げられました。命の危険を冒して、目の前の隣人に奉仕された杉原氏を、少しでも見倣いたいと願います。アーメン(「真実に、確かに」)。

2016-01-12 19:40:31(火)
「キリストこそ命のパン」 2016年1月10日(日) 降誕節第3主日礼拝説教
朗読聖書:出エジプト記16章13~22節、ヨハネ福音書6章22~59節。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネ福音書6章54節)。

 ヨハネによる福音書6章は、全体のテーマが「命のパン」です。イエス・キリストこそ命のパンであることを語っています。6章の最初でイエス様は、約5千人の男たちを、満腹させて下さいました。すると人々は、イエス様を自分たちの王にしようとしたのです。人々は「この方に王になっていただけば、私たちはもはや食いっぱぐれることがない」と考えたのです。確かにイエス様は、世界の真の王です。しかし彼らが願う地上の王になるご意志はなく、独りで山に退かれました。その後イエス様は、何とガリラヤ湖の上を歩いて、向こう岸のカファルナウム方面に向かわれ、弟子たちの漕ぎ悩む舟に乗り込んでカファルナウムに到着なさいました。マタイによる福音書によると、イエス様はカファルナウムに住んでおられたのです。

 そして本日の箇所です。群衆がイエス様を追いかけてカファルナウムに来ました。そしてイエス様を見つけると、「ラビ(先生)、いつ、ここにおいでになったのですか」と尋ねました。この群衆は、この福音書で「ユダヤ人たち」と呼ばれる人々のようです。この福音書で「ユダヤ人たち」は、イエス様に逆らう勢力のシンボルです。現実のユダヤ人が皆、イエス様に逆らう人々なのではありません。この福音書では、「ユダヤ人たち」は、イエス様に敵対する勢力のシンボルとして登場することを、心に留めておきたいと思います。彼らに、イエス様は少々厳しいことを言われました。(26節)「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」もちろんパンは大切です。パン(食べ物あるいはお金)がないと、私たちは生きることができません。パンを得るために、私たちは必死の努力をします。パンの問題を軽く考えることは、もちろんできません。その上でしかし、パンだけあれば十分とも言えません。パンはどうしても必要ですが、パンだけでよいなら動物と変わらないとも言えます。イエス様は非常に大切なことをおっしゃいます。27節です。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子(イエス様ご自身)があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」

 「朽ちる食べ物」とはパンやお金のことでしょう。「朽ちる食べ物」も非常に重要です。イエス様はそれをよくご存じです。食べ物がないことがどんなに辛いか、イエス様は40日40夜断食されたときに、いやというほど味わわれました。でもイエス様は、それを乗り越え、旧約聖書を引用して言われました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ福音書4章4節)。そしてこのヨハネ福音書でも、あえて言われます。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」これは、神学校の標語になりそうな御言葉です。「永遠の命に至る食べ物。」それは神様の言葉です。そして生きた神の言葉である救い主イエス・キリストです。イエス・キリストを宣べ伝えることです。非常に重要な御言葉だと、心を打たれます。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」

 旧約聖書のアモス書8章11~12節に、次の御言葉があります。
「見よ、その日が来ればと/ 主なる神は言われる。
 わたしは大地に飢えを送る。/ それはパンに飢えることでもなく
 水に渇くことでもなく/ 主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。
 人々は海から海へと巡り/ 北から東へとよろめき歩いて
 主の言葉を探し求めるが/ 見いだすことはできない。」

 罪を犯し続けるイスラエルの民への最も厳しい裁きは、「主の言葉」(神の言葉)が取り上げられることです。もし私たちから、神の言葉である聖書が取り上げられれば、私たちは命の糧を失い、説教も礼拝もできにくくなります。神様の御心に適う生き方も分からなくなります。「主の言葉」が失われることは、致命的なことです。神の言葉、聖書は私たちの最高の宝です。

 ヨハネ福音書に戻り、28、29節も重要です。「そこで彼らが、『神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか』と言うと、イエスは答えて言われた。『神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。』」 弟子たちは、「神様の業、神様の御心を行いたい」と願っていたので、こう尋ねたのでしょう。「神の業を行うためには、どんな善いことをすればよいでしょうか?」と。イエス様は「あのような善いこと、このような善いことを行いなさい」とはお答えになりませんでした。そうではなくて、「神がお遣わしになった者(イエス様ご自身)を信じること、それが神の業である」とお答えになりました。私たちが、いわゆる善いことを行うことは社会の中で必要です。しかしそれだけでなく、いえそれよりも重要なことは、私たちが救い主イエス様を信じること、それが「神の業」です。私たち皆がイエス・キリストを救い主と信じること、それが父なる神様の切なる願いです。

 なぜなら父なる神様は、私たちの罪を全てイエス様に背負わせて、イエス様を十字架におつけになりました。それは父なる神様にとっても、最大に辛いことであり、大きな犠牲を払うことです。それ以外に私たちの罪を赦す方法がなかったのです。そのために最愛の独り子イエス様を、十字架におつけになりました。父なる神がそこまでして下さったのに、もし私たちがイエス様を信じなかったら、父なる神が、大きな犠牲を払われた意味がなくなる恐れがあるのではないでしょうか。

 父なる神様は、私たちが罪の赦しを受け、永遠の命を受けることを、切に願っておられます。そのために、イエス・キリストを救い主と信じ、洗礼を受けてほしいと、切に願っておられます。正確に言えば、私たちがイエス様を信じる信仰も、神様が与えてくださるものです。しかし同時に私たちが信じる決断をする面も確かにあります。私たちは改めてイエス様を救い主と信じたいですし、ほかの方々も信じて下さるように、とりなしの祈りを怠ることはできません。このヨハネ福音書は、20章の終りに、この福音書が書かれた目的を、次のように記します。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命(永遠の命)を受けるためである。」

 イエス様の言葉を聞いた人々は、なかなか信じないで、次のように言います。(30~31節)「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナ(マナ)を食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と(出エジプト記16章4、15節に)書いてあるとおりです。」 彼らの要求は「あなたを救い主と信じても大丈夫であることを証明するしるし(奇跡)を見せてほしい」ということです。私は、約5千人の男たちを満腹させたことで、十分なしるしになっていると思いますが、別のしるしを要求したようです。しかし見て信じるなら、簡単なことです。私たちは、イエス様のしるしをこの目で見なくても、聖書に書いてあるので信じる、「見ないで信じる」のが真の信仰です。

 彼らが、マナのことを持ちだしたので、ここからテーマが「命のパン」に移ってゆきます。マナは旧約聖書で、神様がエジプトを脱出したイスラエルの民に40年間にわたって与え続けて下さった食べ物です。(出エジプト記16章13~16節)
「夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったのである。モーセは彼らに言った。『これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。主が命じられたことは次のことである。「あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメル(約2.3ℓ)を集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。」』」

 人々は、「これは一体何だろう」と言い合いました。原文のヘブライ語では、「マーン フー」です。「マーン」は「何」、「フー」は「これ」です。「マーン フー」を直訳すると「何、これ」です。ここからマナという名が付いたのですから、面白いですね。「マーン」を私たちはマナと呼んでいます。神様がイスラエルの民が約束の地に入るまで40年間マナを与え続けて、飢えさせることなく養った下さったことにより、私たちはこの神様が胃を満たすパンをも与えて下さること、この神様に信頼して間違いがないことを深く悟ります。

 ヨハネ福音書に戻ります。ここに登場するユダヤ人たちは、モーセがイスラエルの民にマナを与えたと、誤解していたようです。イエス様はそれを訂正されます。(32~33節)「はっきり言っておく(原文『アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに言う』)。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父(神)が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」 この「命」は、私たちの生まれつきの命・生物学的な生命ではなく、永遠の命です。私たちの生まれつきの命には、罪・エゴがこびりついています。神様に素直に従わない命です。罪ある命なので、死があります。罪の結果が死だからです。永遠の命は、全く新しい命です。全く罪のない命、エゴのない命、神様と隣人への愛にあふれた命、イエス様の命と同じ命です。この命には罪が全くないので、この命には死がありません。私たちが永遠の命をいただけば、私たちが死んだ後も、その永遠の命によって生きています。イエス様だけが、永遠の命を与えて下さる方です。

 この福音書においてイエス様は、出会った人々を、問答を通して真理に導こうとなさいます。ここでもそうです。(34~35節)「そこで、彼らが、『主よ、そのパンをいつもわたしたちにください』と言うと、イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。』」イエス様ご自身が「命のパン」、「永遠の命のパン」だと宣言なさったのです。イエス様は、この福音書で、「わたしは○○である」という言い方を多くなさいます。「わたしは世の光である。」「わたしは良い羊飼いである。」「わたしは復活であり、命である。」「わたしは道であり、真理であり、命である。」6章では「わたしは命のパンである」と宣言なさいます。「わたしは○○である」は、ギリシア語原文で「エゴー・エイミー」という重要な言葉です。英語にすると「アイ アム」(わたしは○○だ)です。しかも「アイ」が強調されていると言えるので、「わたしこそ○○だ」と訳すことができます。そこで本日の説教題を「キリストこそ命のパン」と強調した言葉に致しました。

 「エゴー・エイミー」は、出エジプト記3章14節の、神様の自己紹介の言葉と同じ意味です。「わたしはある。わたしはあるという者だ」(原文ヘブライ語)。「エゴー・エイミー」と宣言なさったイエス様は、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と宣言しておられるのです。イエス様は、旧約聖書でモーセに現れた神に等しい方です。イエス様はマリアから生まれた人間の子であると同時に、イスラエルの民をエジプトから脱出させた神様の独り子であり、神様ご自身です。

 (38節)「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方(父なる神)の御心を行うためである。」その最大の御心は、イエス様が私たち皆の全部の罪を背負って、十字架にかかられることです。イエス様が様々な愛の奇跡を行うことも御心でしたが、父なる神様の最大の御心は、イエス様が十字架で死なれることです。(39~40節)「わたしをお遣わしになった方(父なる神)の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子(イエス様)を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」 「御心」の語が繰り返されます。父なる神の御心・願いは、私たちが皆、イエス様を(聖書を通して)見て信じ、永遠の命を受けること、終わりの日(神の国が完成する日)に復活の体を受けることです。

 ユダヤ人たちには、イエス様のおっしゃる真理を理解できません。イエス様は深い真理を話しておられるので、私たちも心を深めて聴き入る必要があります。(41~42節)「ユダヤ人たちは、イエスが『わたしは天から降って来たパンである』と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。『これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、「わたしは天から降って来た」などと言うのか。』」 彼らはイエス様を赤ん坊のときから知っているのですね。それが突然、「わたしが命のパンである」と言い始めたので、気が狂ったのではないかと思ったのでしょう。「わたしが命のパンである」とは、確かに非常に大胆な宣言です。イエス様のほかに、こんなことを言う方はおりません。イエス様はマリアの子であると同時に、それ以上に父なる神様の独り子です。

 (43~45節)「イエスは答えて言われた。『つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、「彼らは皆、神によって教えられる」と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。』」私たちもぜひ、今イエス様のもとに行きましょう。 (46節)「『父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。』」それはイエス様です。イエス様だけが、天で父なる神様を見ておられました。

 (47~50節)「『はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。』」イエス様は、旧約のマナをはるかにしのぐ命のパンだと宣言しておられます。マナはこの世の生命維持のためのパン、それも大事です。イエス様は「永遠の命のパン」です。イエス様というパンを食べる人は死なない。地上で死ぬけれども、イエス様が与えて下さる新しい命に生き続ける。神を愛し、隣人を愛し、敵をさえ愛する新しい不滅の命に生き続ける。驚くべき恵みです。 

 (51節)「『わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。』」イエス様は、聖餐という言葉を出してはおられません。ですがここを読めば、本日も間もなく行う聖餐と、深く深くかかわっていることを確信せずにおられません。

 イエス様は、53~56節でも驚くほど大胆なことを語られます。これは真理です。「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」 聖餐のパンは永遠の命の食べ物、ぶどう汁は永遠の命の飲み物なのです。小さなパン、わずかなぶどう汁ですが、そこにイエス様の復活の命が満ちています。 

 57~58節もすばらしい御言葉です。「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」 「わたしを食べる者もわたしによって生きる。」キリスト者は、イエス様によって全面的に支えられ担われて生かされており、これからもイエス様に背負われて生かされます。感謝です。アーメン(「真実に、確かに」)。

2016-01-12 19:33:23(火)
「クリスマス休戦」 12月の聖書メッセージ 牧師・石田真一郎
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシア(キリスト)である」(新約聖書・ルカ福音書2章11節)。

クリスマスは英語で Christmas、Christはキリスト、massはミサ(礼拝)です。X’masという省略形がありますが、Xはギリシア語のクリストス(キリスト)の頭文字なので、誤りではないようです。教会では1月6日の公現日(博士たちがイエス様を礼拝した日)までクリスマスを祝います。

 日本にキリスト教が伝わったのは戦国時代の1549年です。ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが、1567年(永禄10年)に堺(現・大阪府堺市)で行われた、貴重なクリスマスを記録しています。松永久秀と三好三人衆の軍勢が敵対していました。双方にキリシタン(クリスチャン)の武士がおり、一時休戦して共にキリストの降誕を祝って礼拝したのです。
 
 「部屋は、降誕祭にふさわしく飾られ、聖夜には一同がそこに参集した。ここで彼らは(罪を)告白し、ミサに与かり、説教を聞き、準備ができていた人々は聖体(キリストの体のしるしのパン)を拝領し~た。その中には七十名の武士がおり、互いに敵対する軍勢から来ていたにもかかわらず、あたかも同一の国主の家臣であるかのように互いに大いなる愛情と礼節をもって応接した。彼らは~種々の料理を持参させて互いに招き合ったが、すべては整然としており、清潔であって、驚嘆に価した。~給仕したのは~武士の息子たちで、デウス(神様)のことについて良き会話を交えたり、歌(讃美歌?)を歌ってその日の午後を通じて過した」(『完訳 フロイス日本史2 信長とフロイス』中公文庫、55ページ)。私は堺市に行った時、これほど意義深いクリスマスが行われたことに感動して歩きました。

 イエス・キリストは言われました。「平和を実現する人々は、幸いである」(マタイ福音書5章9節)、「敵を愛し(なさい)」(5章44節)。クリスマスは、互いに自分の罪と過ちを心から謝り合い、ゆるし合う時です。馬小屋で生まれたイエス様が、私たち皆の全ての罪を背負って十字架で死なれ、私たちの罪をゆるして下さったからです。アーメン(「真実に、確かに」)。