日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2014-11-04 1:05:54(火)
「天の故郷を熱望する」 2014年11月2日(日) 聖徒の日・教会創立53周年記念日礼拝説教
朗読聖書:申命記34章1~8節、ヘブライ人への手紙11章8~22節。
「ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです」
                      (ヘブライ人への手紙11章16節)。

 「聖徒の日」の起源からお話を致します。「聖徒の日」は、天国に行かれた方々を忍ぶ礼拝です。東久留米教会はプロテスタント教会ですが、「聖徒の日」の起源はカトリック教会で11月1日に行われる「諸聖人の日」(古くは「万聖節」)のようで、このプロテスタント版が「聖徒の日」だと思います。「諸聖人」もしくは「諸聖人の日」を古い英語で、All Hallows と言うそうです。Hallowは holy (聖なる)の古い形であるようです。イエス・キリストが教えて下さった「主の祈り」の最初の祈りは、「願わくは御名をあがめさせたまえ」です。英語では Hallowed be thy Name と祈ります。「あなた(神様)のお名前が聖なるものとして崇められますように」という意味です。ここに hallow という言葉が出ております。「諸聖人の日」の前の晩を Hallows Eve と呼んだそうですが、これが訛ってハロウィーンという言葉になったそうです。ですからハロウィーンは「諸聖人の日」の11月1日の前日の10月31日です。このようにハロウィーンはキリスト教にも少し(そしてヨーロッパのケルト人のお盆のような祭りに)起源を持つ祭りであるようです。

 最近は日本でもハロウィーンが広まっていますが、アメリカで盛んなハロウィーンはすっかり世俗化され、お菓子会社のお金儲けの祭りのようで、今やキリスト教とは全く関係なくなっていますから、東久留米教会でハロウィーンを行うことはありません。それなのになぜこのようなお話から入るかと申しますと、ハロウィーンの起源を訪ねればキリスト教の(カトリックの)「諸聖人の日」、(プロテスタントの)「聖徒の日」にルーツの一部があることをお話したかったからです。そして「ハロウ」という言葉が、「聖なる」の意味を持つことも覚えて下さって損はないと思います(かぼちゃ(パンプキン)で作る顔も仮装も聖なるものではありませんが)。

 プロテスタント教会ではカトリック教会と違い「聖人」という存在を認めないので、プロテスタントの「聖徒の日」は、聖人に思いを致す日ではなく、地上の人生を終えて天国に入れられたクリスチャン全員に思いを致す日です。キリスト教会では、亡くなった方々が地上の人々を訪ねて来るという信仰はないと言ってよいと思います(日本人には少々寂しいかもしれませんが)。イエス・キリストを救い主と信じて亡くなった方々は今、確実に天国におられて、真の神様を讃美・礼拝しておられます。「聖徒の日」は、天国と地上の教会が一つになる日とされています。もっとも、天国と地上の教会が一つになるのは「聖徒の日」に限ったことではなく、毎週の日曜礼拝に時、天国と地上の教会は1つになっているのです。天国でも地上の教会でも、同じ神様を讃美・礼拝しているからです。私は思うのですが、天国に行かれた方々は、天国でひたすら神様を礼拝しておられるのですから、私たちがその方々に近づくには、礼拝に出席することが一番の近道に違いないのです。本日は、礼拝後に召された方々のお写真を礼拝堂の正面に映させていただきます。直接存じ上げない方々もおられますが、私はお写真の方々と共に礼拝生活を送ることができたことを、心より感謝しております。

 先程朗読していただいた新約聖書のヘブライ人への手紙11章は、信仰に生きた人々の生き方をはっきりと示しています。今日は読みませんでしたが第1節は、「信仰とは何か」、信仰の定義を語っています。信仰の定義が明確に語られている箇所としては、聖書で唯一の箇所ではないかと思います。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」「望んでいる事柄を確信し」とは、私たちの勝手な願いが全部実現すると確信することではありません。私たちが神様を信頼して、神様に従って行くならば、必ず神の国、天国に入れていただけると確信することです。「見えない事実を確認する」とは、まだ実現していない神様の約束が、それが神様の約束であるがゆえに必ず実現することを確信し、確認することです。信仰とは、神様を信じ、神様に従うことであると申し上げます。

 (8節)「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」アブラハム(若い頃の名はアブラム)は、カルデア(今のイラク)のウルで生まれ育ちました。そこは月を神として礼拝する土地だったそうです。アブラムの父はテラという人で、テラは家族を連れてカルデアのウルを出発したのです。テラたち一行はハランという所に一旦落ち着き、テラはハランで生涯を終えました。神様がアブラムに呼びかけられました。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す土地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」

 神様はアブラハムに出発をお命じになりました。「私が示す土地に行きなさい。」月という神でないものを拝むことをやめて、真の神様を信じ、真の神様に従うように強く招かれたのです。アブラムはこの招きに応えました。真の神様を礼拝する生き方に進むことを決断し、ハランを出てカナンの地・今のイスラエルの地に入り、真の神様を礼拝する人生に入ったのです。信仰は、真の神様を信じて真の神様に従う決断です。思い切って洗礼を受ける決断をすることでもあります(日本には洗礼・聖餐を行わないキリスト教があります。私はその方々の伝統を尊重致しますが、私どもが属する日本キリスト教団には洗礼がありますので、私どもは洗礼を大切なことと考えています)。そして私たちの日々の生活の1つ1つの事柄において神様に従う決断をすることが大切と思います。日曜日であれば、体調が悪い・天候が荒れていて外出が危険・重要な責任や事情があるなど、特に理由がない限り、教会の礼拝に出席する決断を毎週することになります。アブラハムが神様に従う決断をしたように、私たちも日々の生活で、神様に従う小さな決断を行います。イエス・キリストを救い主と信じてクリスチャンとなられた方々は、(失敗もあったでしょうが)神様に従う決断をくり返しながら地上の人生を歩まれたのです。

 アブラムはハランを出発したとき、75歳でした。当時の寿命は長かったのですが、それでも75歳は遅い出発です。若いときに神様を信じることができればそれがよいのですが、それでも神様を信じるのに遅すぎることはありません。但し、どこかで真の神様を信じる決断をすることは必要です。ひとつの明確なけじめとして洗礼を受けることも大切です。アブラハムは「行き先も知らずに出発した」と書かれていますが、最後の行き先ははっきりしています。それは神の国、天国です。地球上のどこに住んだとしても、私たちの歩みは等しく、神の国・天国を目指す歩みです。お写真に映す方々もそのように歩まれて神の国に行かれたのですし、私たちもその跡に続いて進むのです。毎週神様を礼拝しながらです。
 
 (10節)「アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。」それは神の国です。もちろんこの地上の人生は大切です。私たちには様々な責任や義務があるのですから、毎日の責任をしっかり果たしながら、神様と隣人を愛して生きる毎日の生活は大切です。ですが私たちは、この地上に永久に生きることはできません。いつか地上の人生の終わりが来ます。それで全てが終わってしまうのであれば、やはりむなしさがあると思います。一体何のために苦労して生きて来たのか、何のためにこれからも苦労して生きていくのか、という疑問が湧いてきます。神様が死の先に、祝福の神の国・天国を用意して下さっていることを知れば、慰めを受け望みを持つことができます。地上で苦労しながら神様から与えられた責任を果たして来た人生、これからも苦労して神様と隣人への責任を果たして行く毎日、それが神の国で必ず報われると確信できるからです。ですから家族皆で、日本人皆で、世界の皆で、神の子イエス・キリストを信じ、真の神様を礼拝しながら、真の安息の地である神の国を目指して、仲良く進んで参りたいのです。神の国では、地上の全ての涙と苦労が、神様の愛によって報われるからです。新約聖書のヨハネの黙示録14章13節に、次のように記されています。「書き記せ。『今から後、主(イエス・キリスト)に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。霊(聖霊、神様の清き霊)も言う。『然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。』」

 もちろん、神様は地上でも私たちの祈りに応えて、恵みを与え、ある程度望みをかなえて下さいます。11節にアブラハムの妻サラのケースが書かれています。「信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。」神様が与えると約束されていた男の子をサラが産んだのは、何とサラが90歳のときでした。夫のアブラハムは100歳だったのです。常識ではあり得ないことです。しかし神様に出来ないことは何もない。このことの1つの証明として、神様は100歳のアブラハムと90歳のサラの夫婦に、約束通り男の子を誕生させて下さいました。明らかに奇跡です。この奇跡は、神様に不可能なことは何もないこと、神様はどんなことがあっても、多くの時間がかかったとしても、必ず100%約束を果たされる真実な方であることを証明するために、神様によってなされました。私たちは知ります。神様が100%約束を守られ、神様に従う者を必ず神の国・天国に入れて下さることを。この神様に信頼して決して間違いがないことを確信することができます。試練にも耐えることができます。

 神様は地上でも私たちに恵みを与えて下さいますが、私たちの最終的な希望は神の国・天国にあります。地上では死があるので、地上には最終的な希望がないのです。(13節)「この人たち(アブラハムやサラたち、旧約聖書の信仰者たち)は皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」 「約束されたものを手に入れませんでした」とは、信仰に生きた人々が地上では、すべての恵みを受けたのではないという現実を語っています。辛い試練もあったのです。しかし彼らは、必ず与えられる神の国という究極の希望を望み見て、喜びの声をあげ、地上の礼拝でも神様を讃美したのです。「自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表した」とは、信仰に生きる者が神様に従って愛と清さに生きようとするので、地上では煙たがられたり、憎まれたり、よそ者扱いされて孤独を味わうこともある、ということです。イエス・キリストご自身も、地上の力を持つ人々に憎まれ、十字架で殺されたのです。イエス様に本気で従う人々も、似た経験をすることがあるのです。

 (14節)「このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。」神様に従おうとする人々は、罪人(つみびと)の一人でありつつも、清く生きようと志すので、地上で必ずしも歓迎されず、地上に安住の場がないことがあります。イエス様も「人の子(ご自分)には枕する所もない」(ルカ9:58)とおっしゃいました。奴隷解放宣言を出したアメリカのリンカーン大統領は、聖書を一生懸命に読む人でしたが、ある人に憎まれて暗殺されました。黒人の差別をなくすために努力したマーティン・ルーサー・キング牧師も暗殺されました。この人たちの真の故郷はこの世にはなく、神の国・天国が真の安らぎの故郷なのです。私たちはリンカーン大統領やキング牧師ほど立派ではないかもしれませんが、やはり真の安らぎの故郷は神の国にあるのです。地上での責任を十分に果たした後で、神様が呼んで下さるときに、神の国に入れていただくのです。この信仰・礼拝の歩みに、さらにいろいろな方々が加わって下さることを、心から祈ります。

 (15、16節)「もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」アブラハムもサラも出て来た土地に未練をもたなかったのです。神でないものを礼拝する生き方から訣別したのです。神でないものを礼拝することを偶像崇拝といい、聖書でそれは明確な罪です。偶像崇拝以外にもいろいろな罪がありますから、私たちははっきりした罪から決別し、真の神様を礼拝する新しい生き方へと、アブラハムのように進みたいのです。「神は、彼らのために都を準備されていた」は、慰め深い御言葉です。神の国・天国は幻想ではありません。今は目に見えなくても、間違いなく存在するものです。昔から多くの信仰者が、苦難に遭いながらも、神の国への希望を抱いて、信仰の人生を生き切りました。私たちもその跡に雄々しく続きたいのです。天に行った方々は、天で神様を礼拝しておられます。ですから、私たちが地上で同じ神様を礼拝するときに、天に行った方々と最も身近にいることになります。
 
 本日の旧約聖書は申命記34章1節以下です。モーセはまさに信仰を抱いて死にました。モーセは、エジプトを脱出したイスラエルの民を40年に渡って苦労しながら神様の地上の約束の地の手前まで導いて来ました。神様はモーセを愛しておられ、モーセがピスガの山頂に登り、約束の地のすべてが見渡せるようにして下さいました。それは「あなたが率いて来た民はもうすぐこの良き土地に入るのだから、安心しなさい。あなたは立派に使命を果たした」という神様のねぎらいだと思います。ですが、モーセは自分が犯した一つの罪のために、地上の約束の地に入ることが許されませんでした。モーセは、「約束のものを手に入れませんでした(約束の地に入れなかった)が、はるかにそれ(天国)を見て喜びの声をあげた」と、私は思うのです。地上の使命を次の世代に託して天国に入ったと信じます。 

 私は先週、日本キリスト教団の総会に出席させていただきました。総会は2年に一回開催されます。2日目の朝、過去2年間に天に召された日本キリスト教団の牧師・伝道師、日本キリスト教団で働いて下さった外国人の宣教師の方々を偲ぶ礼拝を献げました。何人かのお世話になった方々のお名前を見て、感無量でした。

 私は9月24日(金)に西東京教区の婦人全体集会で遅れて伺い、かねて存じ上げていた婦人牧師T先生としばらくお話することができました。翌25日(土)には、お隣の西東京市の教会で行われたS先生の講演会でじっくりお話を伺いました。お二人とも東久留米教会の修養会で以前お呼びした先生方で、80代の半ばでいらっしゃいます。東久留米教会初代牧師の浅野悦昭先生も同世代でいらっしゃいます。この世代の牧師の方々は、敗戦によって価値観をひっくり返される体験をしておられます。「天皇陛下のために、お国のために」という生き方を否定され、聖書に出会い、聖書を通して真の神の子イエス・キリストに出会い、イエス・キリストのために生きる生き方へと進まれた方々が多いと思います。大先輩の牧師方のお話をしっかり伺って自分の中に蓄え、かなり力不足ですが、少しでも引き継がせていただきたいと願っています。

 先週の修養会では、講師の棚村重行先生(東京神学大学教授)より使徒信条を学びました。先生は使徒信条の最後の方の「聖徒の交わり」に関して、ご自分のアメリカの留学時代の経験をお話し下さいました(本日の礼拝は「聖徒の日」の礼拝です)。先生が親しくなられた教会の長老さんが、太平洋戦争のとき、棚村先生のお父様と、何と同じ島での戦いに参加していたことが分かったそうです。島で直接顔を合わせたのではないでしょうが、長老さんにとっては敵兵の息子と出会ったことになります。雰囲気が凍りついたそうですが、長老さんが言われたそうです。「良かった。あなたのお父さんは生きていたから、あなたが生まれたんだよねと。今は私たちは主にある兄弟姉妹だ。主にあって眠れる世々の聖徒たちと共に」(棚村重行先生作成の東久留米教会修養会の講演レジュメ『朝、使徒信条を走る』より引用)。イエス・キリストの十字架によって罪を赦された者同士としての和解が起こったのですね。私たちもキリストを信じて互いに和解し、天国におられる聖徒の方々と共に同じ神様を讃美・礼拝しています。私たちも今まさに「聖徒の交わり」の現実の中にあるのです。今日はまさに「聖徒の日」礼拝です。本当に感謝です。アーメン(「真実に、確かに」)。


2014-10-20 23:38:23(月)
「むさぼってはならない 十戒⑩」 2014年10月19日(日) 聖霊降臨節第20主日礼拝説教 
朗読聖書:出エジプト記20章1~21節、ローマの信徒への手紙7章7~25節。
「隣人の家を欲してはならない」(出エジプト記20章17節)。

 十戒の学びも最後の10回目になりました。第十の戒めは新共同訳聖書では、「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」(出エジプト記20章17節)で、2つの文からできています。「欲してはならない」という言葉が二度出ています。口語訳聖書では、次のように訳されています。「あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない。」文語訳聖書ではこうなっています。「汝、その隣人(となり)の家をむさぼるなかれ、また汝の隣人(となり)の妻、およびそのしもべ、しもめ、牛、驢馬、ならびにすべて汝の隣人の持物をむさぼるなかれ。」 第十の戒めが、むさぼりを戒める教えであることがよく分かります。むさぼりは言い換えると貪欲です。貪欲を戒める教えなのです。人間の欲望には限りがありません。それを戒める教えなのです。

 人間の歴史は最初からむさぼりの歴史だったとも言えます。最初の夫婦エバとアダムがむさぼりの罪を犯しました。神様はエデンの園にたくさんの木をお造りになりました。神様は気前の良い方で、こう言われました。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」しかし蛇(正体は悪魔)がエバを、神様から引き離そうと誘惑します。エバは誘惑に負けてしまいます。「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」二人はほかの木の実を食べるだけで十二分に幸せだったのです。神様が「決して食べるな」と明確に禁じられた善悪の知識の木の実を食べる必要は全くありませんでした。必要ないのに食べた。むさぼりの罪・貪欲の罪を犯したのです。この罪によってエバとアダムは神様に背き、エデンの園から追放されてしまったのです。人類が犯した最初の罪がむさぼりの罪だったのです。

 旧約聖書の民数記11章には、エジプトを脱出して荒れ野を旅するイスラエルの民が経験した次のエピソードが記されています。民が、「誰か肉を食べさせてくれないものか」と泣きごとを言ったときです。「主のもとから風が出て、海の方からうずらを吹き寄せ、宿営の近くに落とした。うずらは、宿営の周囲、縦横それぞれ一日の道のりの範囲にわたって、地上2アンマ(約90㎝)ほどの高さに積もった。民は出て行って、終日終夜、そして翌日も、うずらを集め、少ない者でも10ホメル(約2300ℓ)は集めた(かなりの量ですね)。そして宿営の周りに広げておいた。肉がまだ歯の間にあって、かみ切られないうちに、主は民に対して憤りを発し、激しい疫病で民を打たれた。そのためその場所は、キブロト・ハタアワ(貪欲の墓)と呼ばれている。貪欲な人々をそこに葬ったからである。」神様が貪欲な人々をお裁きになったのです。

 もう1つ、むさぼりのエピソードがヨシュア記7章に記されています。イスラエルの民が約束の地に入り、エリコの町を占領したときのことです。神様は、町とその中にあるものをことごとく滅ぼし尽くして神様に献げよとお命じになりました。滅ぼし尽くすと聞くと私たちは驚きますが、これは神様が聖なる方であり、罪と悪を非常に憎んでおられ、罪と悪を完全に滅ぼす方であることを示すでしょう。エリコの町を占領したイスラエルの民は、町とその中にあるものをことごとく滅ぼし尽くして神様に献げることを求められ、その中から一部でもかすめ取ってはならないと申し渡されたのです。ところがアカンという男性が、一部を黙って盗み取ったのです。事は発覚し、アカンは罪を告白します。「分捕り物の中に一枚の美しいシンアルの上着、銀200シェケル、重さ50シェケルの金の延べ板があるのを見て、欲しくなって取りました。」明らかにむさぼり・貪欲の罪を犯したのです。アカンはこの罪のために、石打ちによる死刑になったのです。

 新約聖書に進んで、イエス様がエルサレムで神殿を清めたことも思い出されます。マルコによる福音書は、それがイエス様が十字架にかかられるわずか4日前の月曜日のことだったと記しています。「それから一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。『こう書いてあるではないか。「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。」ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。』」 売り買い・商売が全て悪ではないでしょう。私たちは売り買いを全然しないで生きることはできません。しかし人間はどうしても、もっと欲しくなるのです。神殿にいる人々さえも欲望が強くなり、貪欲な心に生きていたのです。真の神様よりもお金を愛する気持ちが強くなっていたのです。私たちも一つ間違えればそうなる恐れはあります。

 聖なる場であるはずの神殿の中にさえ、聖なる礼拝の中にさえ、むさぼりの罪・貪欲の罪が入り込んでいたのです。礼拝さえもむさぼりの罪で汚されていたのです。もちろん礼拝とむさぼり・貪欲は全く両立しません。それは水と油のように完全に相反する事柄です。聖なる礼拝に、むさぼり・貪欲が侵入してはいけないのは当然です。ところがエルサレム神殿には、むさぼり・貪欲が侵入していたのです。イエス様の心は深い悲しみと聖なる憤りで満たされ、むさぼりと貪欲を全力で叩き出されました。ヨハネによる福音書は、イエス様が縄で鞭を作ったとさえ記しています。神殿が聖なる場になるように、礼拝が聖なる場になるように、全力で清めを行われたのです。これは他人ごとではないと思うのです。私たちもすぐむさぼり・貪欲の罪に汚染されるので、毎日イエス様に自分を清めていただく必要があります。

 「『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」「強盗の巣」とは強烈な言葉です。神殿が強盗の巣(強盗の巣窟)になっていると、イエス様より前に語ったのは預言者エレミヤです。イエス様の時代より約600年前のことです。エレミヤは、エレミヤ書7章でエルサレム神殿に来る人々にこう語りました。「盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアル(偶像)に香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、わたし(真の神様)の名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。」エレミヤの時代の人々は、偶像崇拝を行い、盗み、殺し、姦淫し、つまりは十戒を平気で破っていたようです。十戒をどんどん破りながら神殿に来て形ばかりお祈りし礼拝しても、真の神様がそのような祈りと礼拝を喜ばれるはずがありません。神様の目には神殿が、人々のむさぼり・貪欲の罪によって著しく汚染されていると見えたのです。

 本日の新約聖書は、ローマの信徒への手紙7章7節以下です。イエス様の弟子・使徒パウロが、私たちがどのようにして罪から救われるかを述べる箇所です。「内在する罪の問題」が小見出しです。私たちの心の中の罪という問題を取り上げているのです。それはパウロ自身の心の中にある罪の問題でもあります。(7節)「では、どういうことになるのか。律法(その代表が十戒)は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が『むさぼるな』(第十の戒め)と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。」 ここに律法(十戒)の大切な役割の1つが記されています。律法は神様の正しい意志、聖なる意志を示します。「隣人の家を欲してはならない」、「むさぼってはならない。」つまり、「むさぼりは罪だ」と教えてくれるのです。私たちは十戒を1つ1つ丁寧に学ぶことで、自分が十戒のどの1つをも完全に守ることができていないことを悟ります。自分が罪をもつ者、罪人(つみびと)であることを悟るのです。律法(十戒)は、神様の聖なる意志を教え、そして私たちが律法を守る力のない罪人(つみびと)であることを教えるのです。自分が罪人であることを知った私たちは、どうすれば自分は罪から救われるのかを追い求めます。その私たちに聖書は、救い主イエス・キリストを指し示すのです。ガラテヤの信徒への手紙3章24節に書かれているように、律法は私たちをキリストのもとへ導く養育係なのです。イエス・キリストが世界の全ての人の全ての罪を背負って十字架で死なれ、三日目に復活なさったので、このイエス様を救い主と信じ告白する人は、全ての罪を赦され、永遠の命をいただくのです。

 パウロが言いたいことはこうです。「律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかっただろう。しかし律法が『むさぼるな』と言ったために、かえって私の心の中にむさぼりの罪があることが非常にはっきりと浮かび上がって来た。』律法は聖なるもの、善いものであり、律法を丁寧に学ぶと、私たちの心の中に律法に反する思い(罪)が存在することが浮き彫りになるのです。パウロが自分の心の中の罪のことで悩む様子が、14節以下に記されています。「わたしたちは、律法が霊的なもの(聖なるもの)であると知っています。しかし、わたしは肉の人(罪ある人間)であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」パウロは、自分で自分を正しくコントロールすることができず、誘惑に負けて罪の行いをしてしまうと悩みを告白しているのです。

 18~23節も、パウロの悩みの告白です。「わたしは、自分のうちには、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。」 パウロが、自分が神様の律法よりを行うよりは、むしろ誘惑に負けて罪を犯してしまう、罪の奴隷だったと告白しているのです。罪の奴隷であったということは、神様の支配下ではなく罪の支配下にあったということです。神様から離れてしまっていたことになります。命を与えて下さる神様から離れることは死を意味します。人が死ぬのは、自分の罪に対する報いとして死ぬのです。人の死は、わたしたちが罪を犯して神様から離れてしまった結果起こるのです。単なる自然の現象ではないのです。私たちが罪を悔い改めて、イエス・キリストを救い主と信じ告白すれば、私たちはすべての罪の赦しを受け、死を超える永遠の命を受けます。

 24節は、パウロの魂の叫びです。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」直後の25節で、十字架にかかって私たち全ての人間の全ての罪を背負って下さった救い主イエス・キリストを知った喜びを歌います。「私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝致します。」 形の上では十戒を守る生活をしていたが、心の中のむさぼりの罪をなくすことができなかったパウロも、主イエス様を救い主と信じたことで、全ての罪の赦しを受けたのです。これは私たちも同じです。イエス様は十字架にかかることでご自分の命を差し出された方です。むさぼり・貪欲の罪を犯されたことは一度もなく、その正反対の生き方、与える生き方に徹せられたのです。

 そのイエス様が貪欲を戒められた場面が、ルカによる福音書12章13節以下にあります。ある人がイエス様に、「先生、わたしにも遺産を分けてくれるうに兄弟に言ってください」と頼みましたが、イエス様は「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」と言ってお断りになります。そして人々に言われます。これは私たちにとっても大いに教えられる御言葉です。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」 その後に話されたたとえ話がとても印象的です。時々このたとえ話を読み直すと、自分の日々の生き方が、少しはイエス様に喜ばれる生き方に変えられるのではないかと感じます。 「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。」 イエス様は結論としておっしゃいます。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」 神の前で豊かになりなさいということです。自分にできる範囲で、困っている方々に必要なものを差し上げなさいということです。

 イエス様は地上で、少しもむさぼらない生き方をなさいました。ひたすら愛を与える生き方をなさいました。使徒パウロも、イエス様に倣う自分の生き方を次のように述べています。使徒言行録20章33節以下です。「わたしは人の金銀や財産をむさぼったことはありません。ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」

 今年の3月に私も参加した、日本キリスト教団の東日本大震災国際会議が出した宣言文は、今から約3年7ヶ月前のあの福島の原発事故は、私たちの7つの罪の結果であったと告白しています。「傲慢、貪欲、偶像崇拝、隠ぺい、怠惰、無責任、責任転嫁」の7つの罪です。貪欲はむさぼりのことです。 この中の第二の罪「貪欲」と第三の罪「偶像崇拝」の部分を続けて読みます。「第二の罪は、原子力を用いることによる繁栄、豊かさへの欲望と、より大きな力への渇望を制御できなかった貪欲です。この貪欲は、原子力発電を今なお維持しようとする力として存在しています。」「貪欲に陥ったわたしたちは、生ける真の神に依り頼むのではなく、経済的利益や富を至上の価値としてあがめ、それに仕える偶像崇拝の罪に陥りました。『貪欲は偶像礼拝にほかならない』(コロサイの信徒への手紙3章5節)。原子力発電所や核燃料サイクル基地は、まさにこの偶像崇拝の神殿というべきものであり、これらの施設は科学技術への、根拠のない安易な信頼という非科学的思考に基づく『安全神話』によって維持されてきました。」 「貪欲は偶像礼拝にほかならない」(!)。十戒の第十の戒め「むさぼってはならない」と、偶像礼拝を禁じる第一の戒め「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」は一つのことだと知るのです。

 貪欲になり、自分のためだけにため込むようになると、私たちは隣人を見失い孤独になります。貪欲は自分を不幸にするのではないでしょうか。私たちは「足るを知る」という言葉を知っています。ある教会員の方は、高齢のため残念ながら歩くことがおできになりませんが、目が割によく、「新聞を毎日読むことができることを感謝しています」と語られました。感謝という言葉は、誰が語ってもすばらしい言葉です。神様は、私たちが神様に依り頼み、持てるものを互いに分け合い、与え合って、隣人を発見し隣人を増やして生きることをお望みだと思います。貪欲を捨てる勇気を持ち、「神の前に豊かになる」生き方を目ざしたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-10-07 17:54:44(火)
「罪が皆無のイエス・キリスト」 2014年10月5日(日) 世界聖餐日・世界宣教の日礼拝説教
朗読聖書:イザヤ書53章1~12節、ルカ福音書23章1~25節。
「この男は死刑に当たるようなことは何もしていない」(ルカ福音書23章15節)。

 イエス様がユダヤの最高法院で裁判にかけられています。全く罪のないイエス様を、無理やり有罪に仕立てあげようとする不正な裁判です。今日の直前の箇所でイエス様は、「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言われました。イエス様は、「今から後、人の子(ご自分)は全能の神の右に座る」とおっしゃいました。「神の右」は神様に最も近い所ですから、「神の右に座る」とは、ご自分が神に等しい方、神の子、そしてメシア(救い主)であると宣言したことになります。これが神への著しい冒瀆と受け取られたのです。イエス様は本当に神の子であり、メシア(救い主)ですので、このご発言は少しも冒瀆ではないのです。しかし祭司長たちや律法学者たちは、これでイエス様を神冒瀆の現行犯で死刑にできる、思う壺だと考えたのです。イエス様に十字架刑を宣告する権限を持つ、ローマから派遣された総督ピラトのもとに、イエス様を連行するのです。それが今日の場面です。

 (1~2節)「そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。そして、イエスをこう訴え始めた。『この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。』」この訴えの前半は間違っています。イエス様はローマ皇帝に税を納めてはいけないとはおっしゃっていません。イエス様はある人々の、「わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法(神様の定め)に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」という問いに対して、こうお答えになりました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」「皇帝のものは皇帝に返しなさい」ということは、皇帝に税金を納めなさいという意味です。イエス様は皇帝に税を納めることを禁じておられないのです。ですから訴えの前半は嘘・偽り・でっち上げです。訴えの後半「自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」は、本当だと言えます。イエス様はこの直前に最高法院で、その意味のことをおっしゃったばかりです。

 ピラトは、ユダヤ人の信仰には深い関心をもっていないと思います。ピラトにとって重要なことは、ローマ帝国の植民地であるイスラエルを上手に治めることです。イスラエルの人々をローマ皇帝に従わせることが一番大事です。ローマ皇帝に忠誠を誓う限り、信仰には寛容であることがローマ人の支配の方法でした。イエス様が人々心の中の信仰についての教師である限り、ピラトはイエス様に関心を持たないのです。ですがイエス様がご自分を王だと言っていると聞くと、不安になって来ます。「ローマ帝国に対する政治的な反乱を起こす人物かもしれない、そうであればほおっておけない。」これがピラトの気持ちです。何しろイエス様は少し前まで大人気でした。今の場面は金曜日の朝ですが、そのわずか5日前の日曜日に、多くの人々がなつめやしの枝を持ち、エルサレムにお入りになるイエス様を「ホサナ、ホサナ(万歳、万歳)」と大歓迎したばかりです。

 そこでピラトはイエス様を尋問します。「お前がユダヤ人の王なのか。」イエス様は、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになります。ピラトにはこの答えが、イエス様がユダヤ人の政治的な王であると強く主張してはいないと聞こえたようです。ローマ帝国に反乱を起こすような政治的に危険な人物ではないと考えました。イエス様はピラトに対して、ヨハネによる福音書18章で、「わたしの国は、この世には属していない。もしわたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」と言われました。イエス様はこの宇宙の王です。ローマ皇帝によりも上に立つ王ですが、ユダヤ人を統率してローマに対して武力で反乱を起こす王ではないのです。ピラトは一応安心し、祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と述べました。今日の説教題を「罪が皆無のイエス・キリスト」と致しましたが、ローマ人であるピラトも、イエス様に何も罪がないことを認めたのです。

 しかし祭司長たちは引き下がりません。(5節)「しかし彼らは、『この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです』と言い張った。」「政治的に危険な人物ですよ」とピラトに訴えるのです。ピラトはこの言葉で初めてイエス様がガリラヤ育ちだと知ったようです。少し不安になったかもしれません。ガリラヤ人は熱血的・戦闘的で、ローマから独立したいという気持ちに燃えている人が多かったからです。ガラテヤの領主は、ヘロデ・アンティパスです。彼は洗礼者ヨハネを殺害させた男です。ピラトはイエス様をヘロデのもとに送って、ヘロデにも判断させてみようと考えました。ヘロデもこのとき、エルサレムに来ていたのです。ヘロデはイエス様を見ると、非常に喜びました。イエス様の噂を聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていましたし、イエス様が何かしるし(奇跡)を行うのを見たいと望んでいたからです。ヘロデは、イエス様に従う気持ちは少しももっておらず、ただ興味本位に奇跡を見たいと望んでいただけでした。イエス様はそのような人の前で奇跡を行っては下さいません。奇跡はあくまでも、本当に困り苦しんで真剣に救いを求めている人への愛として、イエス様が行われることだからです。

 ルカによる福音書13章を見ると、以前、ヘロデがイエス様を殺そうとしていると、何人かのファリサイ派の人々がイエス様に知らせたことがあったことが分かります。イエス様に好意的なファリサイ派の人々もいたのですね。イエス様はそのとき、こう言われました。「行って、あの狐(ヘロデ)に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。」ヘロデを「あの狐」と言われましたから、神様の使者・洗礼者ヨハネを殺害したヘロデを軽蔑しておられ、相手にしないと決めておられたのでしょう。ヘロデはイエス様に、いろいろ尋問されましたが、一切お答えになりません。イエス様がここで沈黙しておられることには意味があります。イエス様の十字架の死を予告するイザヤ書53章の御言葉どおりに行動しておられるのです。イザヤ書53章は、神様にひたすら従う「苦難の僕」の姿を描き出しています。その7節にこうあります。
「苦役を課せられて、かがみ込み /彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように /毛を切る者の前に物を言わない羊のように
 彼は口を開かなかった。」

 イエス様はヘロデの問いに何もお答えにならないことによって、ご自分がイザヤ書53章の「苦難の僕」にほかならないことを示しておられます。9節にはこうあります。「彼は不法を働かず/ その口に偽りもなかった~。」 「苦難の僕」には罪がないことが強調されています。その通り、イエス様は、地上の約33年間の歩みの中で、どんな小さな罪をも、ただの一度も犯されなかったのです。ピラトも言った通りです。「わたしはこの男に何の罪も見いだせない。」結局ヘロデも、イエス様に罪を発見することができませんでした。ヘロデは自分の兵士たちと一緒にイエス様をあざけり、馬鹿にし侮辱した挙句、派手な衣を着せてピラトに送り返しました。

 ピラトが再び登場し、祭司長たちと最高法院の議員たちと民衆を呼び集めて、自分の考えを述べます。ピラトの提案です。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」 ピラトが強調していることは、「犯罪はこの男には何も見つからなかった。ヘロデもこの男の罪を発見することはできなかった。この男には死刑に当たる犯罪は何もない」ということです。イエス様が全く罪のない方、完全に清い方、無実潔白の方であることがはっきりしたのです。ピラトは、イエス様を釈放することを提案します。ただ釈放するだけでは祭司長たちが同意しないと考え、「鞭で懲らしめてから」と提案します。本当は鞭で懲らしめる必要も全然ないのです。祭司長たちをなだめるために「鞭で懲らしめてから」釈放しようと提案しました。しかし人々は全く耳を貸しません。

 (18~21節)「しかし、人々は一斉に、『その男を殺せ。バラバを釈放しろ』と叫んだ。このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。しかし人々は、『十字架につけろ、十字架につけろ』と叫び続けた。」群衆は殺気立ち、怒号が一帯を支配しており、もはや手がつけられません。まさに悪魔の支配です。バラバは人殺しであり、暴動で暴れた男です。誰が見ても有罪です。有罪のバラバを釈放して、無実のイエス様を十字架につけろというのですから、物事が完全にひっくり返っています。ここで叫んでいる人たちの中には、棕櫚の枝を手にして「ホサナ、ホサナ」とイエス様を大歓迎した人もいたはずです。群衆は善にも染まりやすく、悪にも染まりやすいのでしょうか。私たちもその場の空気や、世の中の空気に伝染・感染してしまう場合があるのです。悪魔から来る空気もあります。そのような空気に染まらないために、聖書を読み、祈って聖霊に導かれている必要があります。

 ピラトはこの悪の空気に抵抗しますが、負けてしまいます。(22節)「ピラトは三度目に言った。『いったい、どんな悪事を働いたというのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。』」 ところが人々は、イエス様を十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続け、その声はますます強くなります。人々は集団で暴走しており、暴動の一歩手前の状態です。ピラトは屈服します。人々の間違った要求を呑んでしまったのです。民主主義も時に危ういことを知らされます。多数決は一つ間違えると数の暴力になってしまいます。民主主義は少数意見を尊重すると小学校で学びました。神様の御心がどこあるか、聖書を読み、静かに祈って、御心を尋ね求めることが大切と知ります。その場の空気に押し流されないように気をつける必要があります。ピラトは神様に祈らず、神様の御心を尋ね求めることなく、間違った要求に屈服してしまったのです。

 (24~25節)「そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求通りに釈放し、イエス様の方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。」イエス様を十字架につけるよう大声で叫び続けた人々も悪いですし、彼らの間違った要求を拒むことができなかったピラトも無責任です。こうして、罪が全くないイエス様が十字架で殺されるという、世界史上最大というべき悪が行われてしまうのです。世界の真の王であるイエス様を抹殺する。それは人がひそかに、自分こそ自分の王でありたいと思っているからではないでしょうか。ユダヤの指導者たちも、自分たちがユダヤを自由に支配し、コントロールしたいと思っていて、イエス様が邪魔だったのではないでしょうか。

 私は先々週、練馬文化センターで行われた「おたあジュリア」という女性を主人公にした約2時間のミュージカルを観ました。この「おたあ」は、戦国時代から江戸時代にかけて生きた人です。ミュージカルですから、史実を土台としつつ創作も混ざっているのではないかと思います。ジュリアは洗礼名です。朝鮮半島から日本に連れて来られた女性であったことを最近知りました。豊臣秀吉が朝鮮出兵という侵略戦争を行いましたが、その時キリシタン大名の小西行長も朝鮮に行きました。そこで、(恐らく戦争で)孤児になった少女おたあを、熊本の宇土(自分の領地)に連れ帰ったようなのです。おたあは小西行長夫妻(キリシタン夫婦)の養女となり、熱心なキリシタン女性として宇土で成長します。行長が、貧しい人を無料で診療する施薬院という一種の病院をつくると、おたあは薬草について勉強し、施薬院で病気の人々のために懸命に働きます。しかし養父・小西行長は関ヶ原の戦いで負け、敗軍の将として京都で打ち首になってしまいます。その後、おたあは徳川家康の侍女になるという数奇な運命に生きることになります。そして今の静岡県の駿府に住んだ時期があるようです。ところが徳川家康はキリシタンを迫害するのです。おたあと仲間のキリシタンたちも迫害を受け、牢に入れられます。家康は言うのです。「わしがこの国の王になろうとしているときに、ほかの王(イエス・キリスト)を信じることは受け入れられない。」

 イエス様は確かに政治的な王ではありませんが、世界の真の王でいらっしゃいます。この地球の王・宇宙の王であり、この世のすべての王より上に立つ王なのです。家康はそれが気に入らないので、キリシタンを迫害するのです。似た出来事は既に新約聖書にも出ています。使徒言行録17章を見ると、イエス様の弟子・使徒パウロがギリシアのテサロニケでイエス・キリストを宣べ伝えたときに、反対するユダヤ人が騒動を起こしたと書かれています。反対する人々は、こう言ってパウロたち伝道者を告発しました。「世界中を騒がせて来た連中が、ここにも来ています。~彼らは皇帝(ローマ皇帝)勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています。」テサロニケの人々の一部が、世界の真の王イエス様を信じてクリスチャンになったのです。反対する人々は、「彼らは(ローマ)皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています」と述べ、クリスチャンを憎んだのです。人間の権力者のほかに、真の王がいては困るのです。家康も同じことを言うのです。「わしがこの国の王になろうとしているときに、ほかの王(イエス・キリスト)を信じることは受け入れられない。」 そして、おたあと仲間のキリシタンたちを迫害して牢に入れるのです。

 「家族がいるから、いつまでも牢にいることはできない」などの理由で、信仰を捨てる人々が出て来ます。役人がおたあの幼馴染の捨吉という若者(彼も朝鮮半島から日本に来ました)を拷問にかけ、おたあが信仰を捨てなければ、捨吉を殺すと脅します。さすがのおたあも、捨吉を犠牲にはできないという気持ちになります。その時、捨吉が次の意味のことを言うのです。「おたあ、信仰を捨てるな。お前が信仰を捨てれば、お前がお前でなくなってしまう。だから信仰を捨てるな。」そう言っておたあを励まします。私にとってこれがこのミュージカルの最高の台詞でした。捨吉は辛い拷問で命を落とします。しかしおたあは信仰を貫くのです。そして家康によって伊豆大島に流されます。その後さらに神津島に流されたようです。おたあに関するの本で、島流しになるおたあが本州の港に向かう時、馬か籠に乗せられていたが、イエス様がはだしでゴルゴタの丘に向かったことを思い、自分も歩くと申し出たと読みました。そして島で病人の世話などをしながら生きたと、以前聞いた記憶があります。家康の側室になることを求められたが、それを拒否して島流しになったと聞いたこともあります。朝鮮半島から連れて来られて、キリスト教迫害の日本で島流しになっても信仰を貫いたこの女性。権力者・徳川家康をも恐れずにイエス・キリストを真の王と告白し、イエス様と貧しい病人に奉仕する人生を送ったこのおたあに、私たちも大いに学ぶところがありそうです。

 おたあも、イエス様と同じで何も悪いことをしていないのに、苦難を受けました。おたあをはじめ、信仰のゆえに不当に迫害された人々は、実はイエス様の御足の跡を踏んでいたのですね。ペトロの手紙(一)2章19節以下に次のように記されています。「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった(先程のイザヤ書53章9節です)。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。」イエス様は、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言って息を引き取られたのです。そのイエス様に対して、父なる神様は三日目の復活の勝利によって報いて下さいました。神様の愛と正義が、最後の最後には必ず悪に勝利することをはっきり示して下さったのです。
 
 ペトロの手紙(一)4章12~14節も読んでみましょう。「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練(迫害でしょう)を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろキリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも(キリストがもう一度おいでになるときにも)、喜びに満ちあふれるためです。あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊(聖霊)が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」

 キリストを信じるために迫害されるなら、それはむしろ光栄なことなのです。イエス様の御足の跡を踏み、イエス様に従う道を歩んでいるからです。おたあもイエス・キリストに従い通したのです。あっぱれな信仰の生涯です。それは苦難を通って復活の勝利に至る道なのです。

 ヨハネによる福音書19章では、ピラトがユダヤ人たちにこう言います。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」イエス様が茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られると、ピラトは、「見よ、この男だ」という有名な言葉を語りました。ただ今より『讃美歌21』の280番を讃美致します。「この人を見よ」という歌詞が繰り返される讃美歌です。「この人を見よ」と讃美しつつ、十字架と復活のイエス・キリストをしっかりと見上げ、このイエス様にどこまでも従って参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。
 
2014-10-01 15:11:22(水)
「実を結んだ愛」 10月の聖書メッセージ  牧師・石田真一郎
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書15章13節)。

 2001年1月26日の夜7時14分ころ、JR新大久保駅で、線路に転落した男性を助けようと、関根史郎さん(カメラマン、当時47才)と李秀賢さん(イ・スヒョンさん。韓国人留学生、当時26才)が飛び込みましたが、残念なことに3人とも亡くなる事故がありました。駅の階段下の壁に、お二人の勇気ある行動をたたえる文章が刻まれた板が取りつけられているのを、以前に見ました。

 先月、久しぶりに新大久保駅で降りました。するとホームと電車の間に長い柵(壁)が設置されているのを見ました。そう言えば新聞で読んだことがありました。李さんのご両親も柵をご覧になったと読んだ記憶があります。自分の目で見たのは初めてです。本当によかったなと思います。今、柵が設置された駅が増えつつありますが、新大久保駅については、きっとあの出来事も柵を設置するきっかけになったに違いありません。関根さんと李さんの愛の行動が、実を結んでいると感じたのです。お二人のお陰で、新大久保駅が安全になりました。感謝です。

 その新大久保駅の周辺(事故現場のすぐ近く)で、2012年秋から、在日韓国・朝鮮人の方々、韓国の方々へのヘイトスピーチが行われていると聞きます。日本人のために命を投げうって下さった李さんに、非常に申し訳ないことです。すぐにやめてほしいものです。神様も悲しんで、心を痛めておられるに違いありません。周辺はコリアタウンです。しかしヘイトスピーチのために、店を閉めたり韓国に帰る人が少なくないそうです。日本と韓国の友好のためにとても残念なことです。李さんとご両親を悲しませてはいけないと思います。ヘイトスピーチをすぐ止めて、周りの国々との友好を、ずっとめざしましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-10-01 14:12:38(水)
「剣を取る者は皆、剣で滅びる」 9月の聖書メッセージ
「イエスは言われた。『剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。』」
(新約聖書・マタイによる福音書26章52節)

 私は8月に、渡辺信夫先生(今年92才の大ベテラン牧師)の平和を願う講演を伺いました。渡辺先生は学徒出陣され、1945年1月に海防艦という船に乗って鹿児島から沖縄に出航され、アメリカ軍の攻撃を受け撃沈されかけたものの、幸い船が沈まずに助かった経験を語られました。「戦争を経験しないことが大きな祝福です。私たちは、神様から生きる命をいただいています。いただいている命をいかに深め、用いることができるかを考えてください」という意味のことを語られました。「戦争をしたらそれができなくなる。戦争は非常に愚かな行為であり、決してしてはならない」と強調されたのだと私は受けとめました。渡辺先生は、台湾の元従軍慰安婦の方々の裁判を支援する働きをされています。日本が再び戦争に向かいつつあるのではないかと、非常に心配しておられます。 

 東久留米教会に、戦後シベリア抑留から帰国されたKさん、Nさんいう男性がおられました(お二人とも、今は天国におられます)。Kさんは、シベリアの短い夏の短い昼に、植物の芽をじっと(30分間くらい?)観察しておられると、ほんのわずかずつ伸びるのが分かったと言われました。芽は、太陽の光が注がれる短い時間に、精一杯成長しようとするのでしょうね。Nさんは、日本に戻ることができたとき、神様が「あなたにはまだ使命がある」とお考えなのだろうと思ったと語られました。お二人ともシベリアでの日々はとてもおつらかったと思います。

 戦争でつらい思いをする人が(日本人でも外国の方でも)一人も出ないようにするには、戦争をしないことが一番です。イエス様は、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」と明言されたのです。日本が今度二度と剣を取りませんように! アーメン(「真実に、確かに」)。