日本キリスト教団 東久留米教会

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2014-10-07 17:54:44(火)
「罪が皆無のイエス・キリスト」 2014年10月5日(日) 世界聖餐日・世界宣教の日礼拝説教
朗読聖書:イザヤ書53章1~12節、ルカ福音書23章1~25節。
「この男は死刑に当たるようなことは何もしていない」(ルカ福音書23章15節)。

 イエス様がユダヤの最高法院で裁判にかけられています。全く罪のないイエス様を、無理やり有罪に仕立てあげようとする不正な裁判です。今日の直前の箇所でイエス様は、「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言われました。イエス様は、「今から後、人の子(ご自分)は全能の神の右に座る」とおっしゃいました。「神の右」は神様に最も近い所ですから、「神の右に座る」とは、ご自分が神に等しい方、神の子、そしてメシア(救い主)であると宣言したことになります。これが神への著しい冒瀆と受け取られたのです。イエス様は本当に神の子であり、メシア(救い主)ですので、このご発言は少しも冒瀆ではないのです。しかし祭司長たちや律法学者たちは、これでイエス様を神冒瀆の現行犯で死刑にできる、思う壺だと考えたのです。イエス様に十字架刑を宣告する権限を持つ、ローマから派遣された総督ピラトのもとに、イエス様を連行するのです。それが今日の場面です。

 (1~2節)「そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。そして、イエスをこう訴え始めた。『この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。』」この訴えの前半は間違っています。イエス様はローマ皇帝に税を納めてはいけないとはおっしゃっていません。イエス様はある人々の、「わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法(神様の定め)に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」という問いに対して、こうお答えになりました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」「皇帝のものは皇帝に返しなさい」ということは、皇帝に税金を納めなさいという意味です。イエス様は皇帝に税を納めることを禁じておられないのです。ですから訴えの前半は嘘・偽り・でっち上げです。訴えの後半「自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」は、本当だと言えます。イエス様はこの直前に最高法院で、その意味のことをおっしゃったばかりです。

 ピラトは、ユダヤ人の信仰には深い関心をもっていないと思います。ピラトにとって重要なことは、ローマ帝国の植民地であるイスラエルを上手に治めることです。イスラエルの人々をローマ皇帝に従わせることが一番大事です。ローマ皇帝に忠誠を誓う限り、信仰には寛容であることがローマ人の支配の方法でした。イエス様が人々心の中の信仰についての教師である限り、ピラトはイエス様に関心を持たないのです。ですがイエス様がご自分を王だと言っていると聞くと、不安になって来ます。「ローマ帝国に対する政治的な反乱を起こす人物かもしれない、そうであればほおっておけない。」これがピラトの気持ちです。何しろイエス様は少し前まで大人気でした。今の場面は金曜日の朝ですが、そのわずか5日前の日曜日に、多くの人々がなつめやしの枝を持ち、エルサレムにお入りになるイエス様を「ホサナ、ホサナ(万歳、万歳)」と大歓迎したばかりです。

 そこでピラトはイエス様を尋問します。「お前がユダヤ人の王なのか。」イエス様は、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになります。ピラトにはこの答えが、イエス様がユダヤ人の政治的な王であると強く主張してはいないと聞こえたようです。ローマ帝国に反乱を起こすような政治的に危険な人物ではないと考えました。イエス様はピラトに対して、ヨハネによる福音書18章で、「わたしの国は、この世には属していない。もしわたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」と言われました。イエス様はこの宇宙の王です。ローマ皇帝によりも上に立つ王ですが、ユダヤ人を統率してローマに対して武力で反乱を起こす王ではないのです。ピラトは一応安心し、祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と述べました。今日の説教題を「罪が皆無のイエス・キリスト」と致しましたが、ローマ人であるピラトも、イエス様に何も罪がないことを認めたのです。

 しかし祭司長たちは引き下がりません。(5節)「しかし彼らは、『この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです』と言い張った。」「政治的に危険な人物ですよ」とピラトに訴えるのです。ピラトはこの言葉で初めてイエス様がガリラヤ育ちだと知ったようです。少し不安になったかもしれません。ガリラヤ人は熱血的・戦闘的で、ローマから独立したいという気持ちに燃えている人が多かったからです。ガラテヤの領主は、ヘロデ・アンティパスです。彼は洗礼者ヨハネを殺害させた男です。ピラトはイエス様をヘロデのもとに送って、ヘロデにも判断させてみようと考えました。ヘロデもこのとき、エルサレムに来ていたのです。ヘロデはイエス様を見ると、非常に喜びました。イエス様の噂を聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていましたし、イエス様が何かしるし(奇跡)を行うのを見たいと望んでいたからです。ヘロデは、イエス様に従う気持ちは少しももっておらず、ただ興味本位に奇跡を見たいと望んでいただけでした。イエス様はそのような人の前で奇跡を行っては下さいません。奇跡はあくまでも、本当に困り苦しんで真剣に救いを求めている人への愛として、イエス様が行われることだからです。

 ルカによる福音書13章を見ると、以前、ヘロデがイエス様を殺そうとしていると、何人かのファリサイ派の人々がイエス様に知らせたことがあったことが分かります。イエス様に好意的なファリサイ派の人々もいたのですね。イエス様はそのとき、こう言われました。「行って、あの狐(ヘロデ)に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。」ヘロデを「あの狐」と言われましたから、神様の使者・洗礼者ヨハネを殺害したヘロデを軽蔑しておられ、相手にしないと決めておられたのでしょう。ヘロデはイエス様に、いろいろ尋問されましたが、一切お答えになりません。イエス様がここで沈黙しておられることには意味があります。イエス様の十字架の死を予告するイザヤ書53章の御言葉どおりに行動しておられるのです。イザヤ書53章は、神様にひたすら従う「苦難の僕」の姿を描き出しています。その7節にこうあります。
「苦役を課せられて、かがみ込み /彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように /毛を切る者の前に物を言わない羊のように
 彼は口を開かなかった。」

 イエス様はヘロデの問いに何もお答えにならないことによって、ご自分がイザヤ書53章の「苦難の僕」にほかならないことを示しておられます。9節にはこうあります。「彼は不法を働かず/ その口に偽りもなかった~。」 「苦難の僕」には罪がないことが強調されています。その通り、イエス様は、地上の約33年間の歩みの中で、どんな小さな罪をも、ただの一度も犯されなかったのです。ピラトも言った通りです。「わたしはこの男に何の罪も見いだせない。」結局ヘロデも、イエス様に罪を発見することができませんでした。ヘロデは自分の兵士たちと一緒にイエス様をあざけり、馬鹿にし侮辱した挙句、派手な衣を着せてピラトに送り返しました。

 ピラトが再び登場し、祭司長たちと最高法院の議員たちと民衆を呼び集めて、自分の考えを述べます。ピラトの提案です。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」 ピラトが強調していることは、「犯罪はこの男には何も見つからなかった。ヘロデもこの男の罪を発見することはできなかった。この男には死刑に当たる犯罪は何もない」ということです。イエス様が全く罪のない方、完全に清い方、無実潔白の方であることがはっきりしたのです。ピラトは、イエス様を釈放することを提案します。ただ釈放するだけでは祭司長たちが同意しないと考え、「鞭で懲らしめてから」と提案します。本当は鞭で懲らしめる必要も全然ないのです。祭司長たちをなだめるために「鞭で懲らしめてから」釈放しようと提案しました。しかし人々は全く耳を貸しません。

 (18~21節)「しかし、人々は一斉に、『その男を殺せ。バラバを釈放しろ』と叫んだ。このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。しかし人々は、『十字架につけろ、十字架につけろ』と叫び続けた。」群衆は殺気立ち、怒号が一帯を支配しており、もはや手がつけられません。まさに悪魔の支配です。バラバは人殺しであり、暴動で暴れた男です。誰が見ても有罪です。有罪のバラバを釈放して、無実のイエス様を十字架につけろというのですから、物事が完全にひっくり返っています。ここで叫んでいる人たちの中には、棕櫚の枝を手にして「ホサナ、ホサナ」とイエス様を大歓迎した人もいたはずです。群衆は善にも染まりやすく、悪にも染まりやすいのでしょうか。私たちもその場の空気や、世の中の空気に伝染・感染してしまう場合があるのです。悪魔から来る空気もあります。そのような空気に染まらないために、聖書を読み、祈って聖霊に導かれている必要があります。

 ピラトはこの悪の空気に抵抗しますが、負けてしまいます。(22節)「ピラトは三度目に言った。『いったい、どんな悪事を働いたというのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。』」 ところが人々は、イエス様を十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続け、その声はますます強くなります。人々は集団で暴走しており、暴動の一歩手前の状態です。ピラトは屈服します。人々の間違った要求を呑んでしまったのです。民主主義も時に危ういことを知らされます。多数決は一つ間違えると数の暴力になってしまいます。民主主義は少数意見を尊重すると小学校で学びました。神様の御心がどこあるか、聖書を読み、静かに祈って、御心を尋ね求めることが大切と知ります。その場の空気に押し流されないように気をつける必要があります。ピラトは神様に祈らず、神様の御心を尋ね求めることなく、間違った要求に屈服してしまったのです。

 (24~25節)「そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求通りに釈放し、イエス様の方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。」イエス様を十字架につけるよう大声で叫び続けた人々も悪いですし、彼らの間違った要求を拒むことができなかったピラトも無責任です。こうして、罪が全くないイエス様が十字架で殺されるという、世界史上最大というべき悪が行われてしまうのです。世界の真の王であるイエス様を抹殺する。それは人がひそかに、自分こそ自分の王でありたいと思っているからではないでしょうか。ユダヤの指導者たちも、自分たちがユダヤを自由に支配し、コントロールしたいと思っていて、イエス様が邪魔だったのではないでしょうか。

 私は先々週、練馬文化センターで行われた「おたあジュリア」という女性を主人公にした約2時間のミュージカルを観ました。この「おたあ」は、戦国時代から江戸時代にかけて生きた人です。ミュージカルですから、史実を土台としつつ創作も混ざっているのではないかと思います。ジュリアは洗礼名です。朝鮮半島から日本に連れて来られた女性であったことを最近知りました。豊臣秀吉が朝鮮出兵という侵略戦争を行いましたが、その時キリシタン大名の小西行長も朝鮮に行きました。そこで、(恐らく戦争で)孤児になった少女おたあを、熊本の宇土(自分の領地)に連れ帰ったようなのです。おたあは小西行長夫妻(キリシタン夫婦)の養女となり、熱心なキリシタン女性として宇土で成長します。行長が、貧しい人を無料で診療する施薬院という一種の病院をつくると、おたあは薬草について勉強し、施薬院で病気の人々のために懸命に働きます。しかし養父・小西行長は関ヶ原の戦いで負け、敗軍の将として京都で打ち首になってしまいます。その後、おたあは徳川家康の侍女になるという数奇な運命に生きることになります。そして今の静岡県の駿府に住んだ時期があるようです。ところが徳川家康はキリシタンを迫害するのです。おたあと仲間のキリシタンたちも迫害を受け、牢に入れられます。家康は言うのです。「わしがこの国の王になろうとしているときに、ほかの王(イエス・キリスト)を信じることは受け入れられない。」

 イエス様は確かに政治的な王ではありませんが、世界の真の王でいらっしゃいます。この地球の王・宇宙の王であり、この世のすべての王より上に立つ王なのです。家康はそれが気に入らないので、キリシタンを迫害するのです。似た出来事は既に新約聖書にも出ています。使徒言行録17章を見ると、イエス様の弟子・使徒パウロがギリシアのテサロニケでイエス・キリストを宣べ伝えたときに、反対するユダヤ人が騒動を起こしたと書かれています。反対する人々は、こう言ってパウロたち伝道者を告発しました。「世界中を騒がせて来た連中が、ここにも来ています。~彼らは皇帝(ローマ皇帝)勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています。」テサロニケの人々の一部が、世界の真の王イエス様を信じてクリスチャンになったのです。反対する人々は、「彼らは(ローマ)皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています」と述べ、クリスチャンを憎んだのです。人間の権力者のほかに、真の王がいては困るのです。家康も同じことを言うのです。「わしがこの国の王になろうとしているときに、ほかの王(イエス・キリスト)を信じることは受け入れられない。」 そして、おたあと仲間のキリシタンたちを迫害して牢に入れるのです。

 「家族がいるから、いつまでも牢にいることはできない」などの理由で、信仰を捨てる人々が出て来ます。役人がおたあの幼馴染の捨吉という若者(彼も朝鮮半島から日本に来ました)を拷問にかけ、おたあが信仰を捨てなければ、捨吉を殺すと脅します。さすがのおたあも、捨吉を犠牲にはできないという気持ちになります。その時、捨吉が次の意味のことを言うのです。「おたあ、信仰を捨てるな。お前が信仰を捨てれば、お前がお前でなくなってしまう。だから信仰を捨てるな。」そう言っておたあを励まします。私にとってこれがこのミュージカルの最高の台詞でした。捨吉は辛い拷問で命を落とします。しかしおたあは信仰を貫くのです。そして家康によって伊豆大島に流されます。その後さらに神津島に流されたようです。おたあに関するの本で、島流しになるおたあが本州の港に向かう時、馬か籠に乗せられていたが、イエス様がはだしでゴルゴタの丘に向かったことを思い、自分も歩くと申し出たと読みました。そして島で病人の世話などをしながら生きたと、以前聞いた記憶があります。家康の側室になることを求められたが、それを拒否して島流しになったと聞いたこともあります。朝鮮半島から連れて来られて、キリスト教迫害の日本で島流しになっても信仰を貫いたこの女性。権力者・徳川家康をも恐れずにイエス・キリストを真の王と告白し、イエス様と貧しい病人に奉仕する人生を送ったこのおたあに、私たちも大いに学ぶところがありそうです。

 おたあも、イエス様と同じで何も悪いことをしていないのに、苦難を受けました。おたあをはじめ、信仰のゆえに不当に迫害された人々は、実はイエス様の御足の跡を踏んでいたのですね。ペトロの手紙(一)2章19節以下に次のように記されています。「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった(先程のイザヤ書53章9節です)。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。」イエス様は、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言って息を引き取られたのです。そのイエス様に対して、父なる神様は三日目の復活の勝利によって報いて下さいました。神様の愛と正義が、最後の最後には必ず悪に勝利することをはっきり示して下さったのです。
 
 ペトロの手紙(一)4章12~14節も読んでみましょう。「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練(迫害でしょう)を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろキリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも(キリストがもう一度おいでになるときにも)、喜びに満ちあふれるためです。あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊(聖霊)が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」

 キリストを信じるために迫害されるなら、それはむしろ光栄なことなのです。イエス様の御足の跡を踏み、イエス様に従う道を歩んでいるからです。おたあもイエス・キリストに従い通したのです。あっぱれな信仰の生涯です。それは苦難を通って復活の勝利に至る道なのです。

 ヨハネによる福音書19章では、ピラトがユダヤ人たちにこう言います。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」イエス様が茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られると、ピラトは、「見よ、この男だ」という有名な言葉を語りました。ただ今より『讃美歌21』の280番を讃美致します。「この人を見よ」という歌詞が繰り返される讃美歌です。「この人を見よ」と讃美しつつ、十字架と復活のイエス・キリストをしっかりと見上げ、このイエス様にどこまでも従って参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。
 
2014-10-01 15:11:22(水)
「実を結んだ愛」 10月の聖書メッセージ  牧師・石田真一郎
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書15章13節)。

 2001年1月26日の夜7時14分ころ、JR新大久保駅で、線路に転落した男性を助けようと、関根史郎さん(カメラマン、当時47才)と李秀賢さん(イ・スヒョンさん。韓国人留学生、当時26才)が飛び込みましたが、残念なことに3人とも亡くなる事故がありました。駅の階段下の壁に、お二人の勇気ある行動をたたえる文章が刻まれた板が取りつけられているのを、以前に見ました。

 先月、久しぶりに新大久保駅で降りました。するとホームと電車の間に長い柵(壁)が設置されているのを見ました。そう言えば新聞で読んだことがありました。李さんのご両親も柵をご覧になったと読んだ記憶があります。自分の目で見たのは初めてです。本当によかったなと思います。今、柵が設置された駅が増えつつありますが、新大久保駅については、きっとあの出来事も柵を設置するきっかけになったに違いありません。関根さんと李さんの愛の行動が、実を結んでいると感じたのです。お二人のお陰で、新大久保駅が安全になりました。感謝です。

 その新大久保駅の周辺(事故現場のすぐ近く)で、2012年秋から、在日韓国・朝鮮人の方々、韓国の方々へのヘイトスピーチが行われていると聞きます。日本人のために命を投げうって下さった李さんに、非常に申し訳ないことです。すぐにやめてほしいものです。神様も悲しんで、心を痛めておられるに違いありません。周辺はコリアタウンです。しかしヘイトスピーチのために、店を閉めたり韓国に帰る人が少なくないそうです。日本と韓国の友好のためにとても残念なことです。李さんとご両親を悲しませてはいけないと思います。ヘイトスピーチをすぐ止めて、周りの国々との友好を、ずっとめざしましょう。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-10-01 14:12:38(水)
「剣を取る者は皆、剣で滅びる」 9月の聖書メッセージ
「イエスは言われた。『剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。』」
(新約聖書・マタイによる福音書26章52節)

 私は8月に、渡辺信夫先生(今年92才の大ベテラン牧師)の平和を願う講演を伺いました。渡辺先生は学徒出陣され、1945年1月に海防艦という船に乗って鹿児島から沖縄に出航され、アメリカ軍の攻撃を受け撃沈されかけたものの、幸い船が沈まずに助かった経験を語られました。「戦争を経験しないことが大きな祝福です。私たちは、神様から生きる命をいただいています。いただいている命をいかに深め、用いることができるかを考えてください」という意味のことを語られました。「戦争をしたらそれができなくなる。戦争は非常に愚かな行為であり、決してしてはならない」と強調されたのだと私は受けとめました。渡辺先生は、台湾の元従軍慰安婦の方々の裁判を支援する働きをされています。日本が再び戦争に向かいつつあるのではないかと、非常に心配しておられます。 

 東久留米教会に、戦後シベリア抑留から帰国されたKさん、Nさんいう男性がおられました(お二人とも、今は天国におられます)。Kさんは、シベリアの短い夏の短い昼に、植物の芽をじっと(30分間くらい?)観察しておられると、ほんのわずかずつ伸びるのが分かったと言われました。芽は、太陽の光が注がれる短い時間に、精一杯成長しようとするのでしょうね。Nさんは、日本に戻ることができたとき、神様が「あなたにはまだ使命がある」とお考えなのだろうと思ったと語られました。お二人ともシベリアでの日々はとてもおつらかったと思います。

 戦争でつらい思いをする人が(日本人でも外国の方でも)一人も出ないようにするには、戦争をしないことが一番です。イエス様は、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」と明言されたのです。日本が今度二度と剣を取りませんように! アーメン(「真実に、確かに」)。
2014-09-30 0:56:00(火)
「偽証してはならない 十戒⑨」 2014年9月28日(日) 聖霊降臨節第17主日礼拝説教
朗読聖書:出エジプト記20章1~21節、マタイ福音書26章57~68節。
「隣人に関して偽証してはならない」(出エジプト記20章16節)。


 本日は第九の戒めを学びます。「隣人に関して偽証してはならない」です。文語訳聖書では「汝、その隣人に対して偽りの証を立つるなかれ」です。偽証とは「偽りの証」、「嘘の証言」です。証言は基本的に裁判で行うことです。証言ではもちろん嘘を言ってはならず、本当のことのみ、真実のみを語ることが必要です。「隣人に関して偽証してはならない」の第一の意味は、「裁判で隣人に関して嘘の証言をしてはならない」、「愛するべき隣人について、嘘の証言をして隣人を陥れることがあってはならない」ということです。東京地方裁判所、東京高等裁判所で証言する人は、「良心に従って、真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います」と誓約する決まりだそうです。裁判で最も重要なのは、何が真実かを調べることです。嘘や偽りをすべて取り除かないと正しい裁判を行うことができません。アメリカは偽証に特に厳しい国だそうです。偽証は重大な犯罪です。日本では偽証という言葉そのものがあまり聞かれません。それだけ偽証に甘く、真実を追い求める気持ちが弱いのではないでしょうか。「嘘も方便」というよくない言葉もあります。アメリカの裁判で証言する人は、「私は真実を語り、すべての真実を語り、真実以外は語らない」と誓うそうです。そう誓った上で嘘を語れば偽証罪に問われます。

 裁判は、何が真実かを一生懸命に調べる場です。裁判の命は公正さです。何としても防ぐ必要があるのは冤罪です。イスラエルでも、裁判を公正に行うために大きな努力が払われました。申命記19章15節以下からそれが分かります。小見出しは「裁判の証人」です。「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人の証言によって立証されることはない。二人ないし 三人の証言によって、その事は立証されねばならない。不法な証人が立って、相手の不正を証言するときは、係争中の両者は主の前に出、そのとき任に就いている祭司と裁判人の前に出ねばならない。裁判人は詳しく調査し、もしその証人が偽証人であり、同胞に対して偽証したということになれば、彼が同胞に対してたくらんだ事を彼自身に報い、あなたの中から悪を取り除かねばならない。ほかの者たちは聞いて恐れを抱き、このような悪事をあなたの中で二度と繰り返すことはないであろう。あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。」 裁判での偽証が重大な罪であることが分かります。偽証の罪を犯した人には罰が待っています。「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない」と書かれています。いわゆる「目には目、歯には歯」です。これは自分が相手に与えた損害と同じ損害を受けて、償いをしなければいけないという規定です。このようにモーセの十戒をはじめとする神様の尊い教えは、偽証を明らかな罪として、これを避けるように求めていることが分かります。
 
 ところが、神様がこのようにはっきりおっしゃっているにもかかわらず、イスラエルの中にこの戒めを破る人がいたのです。恐るべき事件が列王記上21章に記されています。紀元前9世紀のことです。当時イスラエルは南のユダ王国と北のイスラエル王国に分裂していました。事件は北イスラエル王国で起こります。当時の王はアハブ王です(在位・紀元前869~850年)。アハブの妻はイゼベルという聖書を代表する悪女です。イゼベルは、イスラエルの外のシドン出身で外国の神々・偽物の神々・偶像をイスラエルに持ち込みました。夫アハブもイゼベルに唆されて偶像を拝むようになったのです。アハブはナボトという男の所有するぶどう畑が欲しくなりました。この貪欲な心がアハブに大きな罪を犯させるのです。私たちも自分の心に潜むかもしれない貪欲には大いに警戒するべきです。アハブはナボトに話を持ちかけ、「お前のぶどう畑を譲ってほしい。それ相応のお礼はするから」という意味のことを述べます。しかしナボトはきっぱりと断ります。「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません。」
 
 嗣業は、聖書独特の言葉です。神様はアブラハムの子孫にカナンの土地を与えると約束され、その約束を果たされました。モーセに率いられたイスラエルの民はエジプトを脱出し、40年間の荒れ野での日々を経て、モーセの後継者ヨシュアに率いられてカナンの土地に入りました。そこで部族ごとに土地を分け与えられたのです。それは神様から与えられた非常に重要な土地です。ですからこの神様を真剣に愛している人であれば、他人に譲ることなど考えられない土地です。それを譲ってほしいというアハブ王の要請がそもそも間違っているのです。ナボトは神様の忠実な僕でしたので、アハブ王の要請をきっぱりと断りました。アハブ王は意外に気の弱い人で、ナボトに断わられると機嫌を損ね、落ち込んで宮殿に帰って行きました。

 宮殿で妻のイゼベルが事情を知ります。イゼベルは偶像崇拝をする人で、真の神を畏れず、罪を罪とも思わないとんでもない人でした。イゼベルは平気で、ナボトを無実の罪で陥れる計画を実行します。(8~11節)「イゼベルはアハブの名で手紙を書き、アハブの印を押して封をし、その手紙をナボトのいる町の長老と貴族に送った。その手紙にはこう書かれていた。『断食を布告し、ナボトを民に最前列に座らせよ。ならず者を二人彼に向って座らせ、ナボトが神と王とを呪った、と証言させよ。こうしてナボトを引き出し、石で打ち殺せ。』その町の人々、その町に住む長老と貴族たちはイゼベルが命じたとおり、すなわち彼女が手紙で彼らに書き送ったとおりに行った。」 ナボトは二人のならず者の偽証によって、真に気の毒にも有罪を宣告され、石打ちにより死刑にされてしまったのです。イゼベルは神様の戒めに、犯罪は二人ないし三人の証人の証言によって立証されねばならないと定められていることをよく知っていて、二人に偽証させたのですから悪質です。イゼベルとその指示に従った人々は、十戒の2つの戒めを破ったのです。「隣人に関して偽証してはならない」と「殺してはならない」の戒めを破ったのです。

 イゼベルは平然として夫アハブに告げます。(15節)「ナボトが銀と引き換えにあなたに譲るのを拒んだあのぶどう畑を、直ちに自分のものにしてください。ナボトはもう生きていません。死んだのです。」アハブは喜んで、いそいそとナボトのぶどう畑を自分のものにしようと出かけて行きました。王にとって最も大切なことは神様に従うことです。その王が自ら悪を行ってよいはずがありません。神様が直ちに介入され、預言者エリヤを派遣してアハブを厳しく叱責し、アハブとイゼベルへの正義の裁きを告げられます。(18~19節)「直ちに下って行き、サマリアに住むイスラエルの王アハブに会え。彼はナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下って来て、そこにいる。彼に告げよ。『主はこう言われる。あなたは人を殺した上に、その人の所有物を自分のものにしようとするのか。』また彼に告げよ。『主はこう言われる。犬の群れがナボトの血をなめたその場所で、あなたの血を犬の群れがなめることになる。』」

 (23節)「主はイゼベルにもこう告げられる。『イゼベルはイズレエルの累壁の中で犬の群れの餌食になる。アハブに属する者は、町で死ねば犬に食われ、野で死ねば空の鳥の餌食になる。』」 アハブは割に気の弱い人で、預言者エリヤを通して神様に厳しく叱責されると、へりくだりました。それを見て神様は少しだけ裁きを和らげられましたが、それでもエリヤが予告した通り、アハブが死ぬと犬の群れがアハブの血をなめ、イゼベルも悲業の死を遂げるのです。神様は偽証によってナボトに濡れ衣を着せ、死に追いやったイゼベルと、それを容認したアハブの責任を厳しく問われ、二人は神様の裁きを受けたのです。私たちもこの事実をよく心に留めて偽証という恐ろしい罪を犯さないように注意したいのです。

 旧約聖書の中で偽証のために非常にひどい目に遭った人に、エジプトに売られたヨセフがいます。ヨセフはファラオの宮廷の侍従長・ポティファルの家の執事として働いていましたが、主人の妻にしつこく言い寄られ続けたので、逃げます。すると主人の妻は、家の者たちを呼び寄せて言います。「ヘブライ人などをわたしたちの所に連れて来たから、わたしたちはいたずらをされる。彼がわたしの所に来て、わたしと寝ようとしたから、大声で叫びました。わたしが大声をあげて叫んだのを聞いて、わたしの傍らに着物を残したまま外へ逃げて行きました。」これは嘘であり、偽証です。彼女は自分の夫にも同じことを言ったので、夫は怒り、ヨセフは偽証の犠牲となり、無実の罪で監獄に入れられてしまうのです。偽証は犠牲者を生みます。

 何としたことか、イエス・キリストの裁判のときにも偽証が行われたのです。イスラエルの最高指導者たちが最高法院で行った裁判で偽証が堂々と行われたということは信じられないことです。モーセの十戒を皆よく知っていたはずなのにどうしてこのようなことが行われたのか、実に不思議です。本日の新約聖書・マタイによる福音書26章59節を見ます。イエス様が大祭司カイアファの屋敷に連行された場面です。「さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。」 最高法院の人々は最初からイエス様を死刑にしたいのが本音だったのです。「死刑先にありき」でした。ところがイエス様は全く罪がない方なので、当然ながら罪を犯した証拠は何もありません。そのため無理をしても証拠を作らなければならなくなり、人々はイエス様にとって不利な偽証をする人を募りました。「隣人に関して偽証してはならない」の戒めに正面から違反するのです。恥も外聞もない有様です。

 さらに驚くべきは60節です。「偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。」偽証人が何人も現れたのです。「隣人に関して偽証してはならない」の戒めをたくさんの人々が破ったのです。不正不当の極みの裁判です。しかし証拠は得られませんでした。マルコによる福音書には「その証言は互いに食い違っていたからである」と書かれています。ここで先程の申命記19:15が力を発揮しています。「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」偽証人が何人も現れましたが、二人ないし三人の証言が一致せず食い違ったので、イエス様を有罪と立証することができませんでした。

 ですが最後に二人の者が来て、同じことを証言します。(61節)「『この男は、「神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる」と言いました』と告げた。」イエス様は確かにヨハネによる福音書2章このように言われました。こうして二人の証言が一致しました。しかしこうおっしゃったというだけでは、死刑にするほどの理由にはならないのでしょう。複数の偽証の一致によってイエス様を死刑にする目論見ははずれたのです。

 そこで困った大祭司は立ち上がり、自分で直接イエス様を尋問します。ここまで大祭司の屋敷の中でイエス様は沈黙を貫いて来られました。大祭司の最初の質問にもお答えにならないので、大祭司がさらに踏み込んで尋ねます。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」イエス様は口を開き答えられます。「それはあなたが言ったことです。」これは分かりにくいお言葉ですが、次の言葉が決定的な意味をもちました。「しかしわたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子(イエス様ご自身)が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」「全能の神の右に座る」とは、神様の一番近くに座ること、ご自分を神に等しい者と宣言したことです。もちろんイエス様は本当に神の子ですから、この宣言は全く正しいのです。しかしこれが神への冒瀆だと、大祭司と周囲の人々に聞えました。

 大祭司はこれでイエス様を神冒瀆の現行犯で有罪にできる、もはや証人は必要ないと考え、周囲の人々も「死刑にすべきだ」と同調します。そしてイエス様を十字架刑にする権限を持つローマ総督ピラトのもとに連れてゆく展開になります。今日はそこには陶み込みません。今、私たちが確認したいことは、十戒に「隣人に関して偽証してはならない」と定められているにもかかわらず、イスラエルの指導者たちがそれを破る全く不正不当な裁判で、イエス様を強引に死刑にしようとした事実です。出エジプト記23章1節には、「あなたは根拠のないうわさを流してはならない。悪人に加担して、不法を引き起こす証人となってはならない」と書かれています。イエス様の裁判で偽証した人々は、「不法を引き起こす証人」となってしまったのです。

 私たちは、自分が裁判で証言するということはほとんどないのが実情でしょう。ですから「偽証してはならない」という戒めは自分にあまり関係ないと思うのではないでしょうか。ですが今の出エジプト記23章1節には、「あなたは根拠のないうわさを流してはならない」と書かれています。人がもし日常生活の中で、根拠のないうわさ話を流したり、あることないこと人のうわさをすれば、偽証と同じなるのではないでしょうか。そうして人の名誉を傷つけてしまいます。偽証は、隣人の名誉を不当に傷つける罪です。隣人を呪う罪です。

『ハイデルベルグ信仰問答』(吉田隆訳、新教出版社、2002年)では、問・答112でこの戒めをとりあげています。
問「第九戒では、何が求められていますか。」
答「わたしが誰に対しても偽りの証言をせず、
   誰の言葉をも曲げず、蔭口や中傷をする者にならず、   
   誰かを調べもせずに軽率に断罪するようなことに手を貸さないこと。
  かえって、あらゆる嘘やごまかしを、
   悪魔の業そのものとして 神の激しい怒りのゆえに遠ざけ
   裁判やその他のあらゆる取引においては真理を愛し、
   正直に語りまた告白すること。
  さらにまた、わたしの隣人の栄誉と威信とを
   わたしの力の限り守り促進する、ということです。」

 私は週刊誌をほとんど読みませんが、新聞に見出しが出ていて、有名人の本当かどうか分からないうわさ話が多く記事になっているようです。あの中にも偽証があるのではないかと思わされます。それが多く売れるのは、私たち日本人がうわさを好むからでしょうか。外国でも同じかもしれません。私を含めて人の心の中には罪があって、他の人を悪く言うことを好む気持ちがあるのです。悪口・陰口には当たっている部分もあるでしょうが、当たっていない部分もあるのではないでしょうか。少なくとも「当たっていない部分」は偽証です。『ハイデルベルグ信仰問答』は、「隣人に関して偽証してはならない」の戒めが私たちに「蔭口や中傷する者になら」ないことを求め、さらに私たちが「隣人の栄誉と威信とを、わたしの力の限り守り促進する」ことを求めていると教えます。明らかに悪いことをほめる必要はありませんが、隣人のよいところをほめるのです。フィリピの信徒への手紙4章8節を思い出します。「兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。」

 イエス様は、偽証という悪が堂々と行われる不正な裁判にかけられ、十字架に追いやられます。偽証は、人をおとしめる悪、相手を呪う罪です。イエス様はもちろん偽証などなさいません。かえってイエス様は、ご自分を十字架につける隣人たちのために執り成しの祈りをなさいます。「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」イエス様は彼らを呪わず、彼らのために弁護の祈りをなさったのです。これがイエス様の隣人に対する姿勢です。救い主は弁護者です。であるならば、私どもも隣人について偽証したり、事実と異なる悪口を言って隣人を呪うのではなく、むしろ隣人を思って執り成しの祈りを献げる。隣人に神様の愛と慰めが注がれることを祈る。これこそイエス様が私どもに求めておられることであるはずです。これからもずっと、隣人を思って執り成しの祈りを祈り続ける、東久留米教会でありたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。

2014-09-22 21:36:33(月)
「盗んではならない 十戒⑧」 2014年9月21日(日) 聖霊降臨節第16主日礼拝説教 
朗読聖書:出エジプト記20章1~21節、エフェソ4章25~32節。
「盗んではならない」(出エジプト記20章15節)。
 
 「盗んではならない」。モーセの十戒の第八の戒めです。泥棒、万引き、詐欺(振り込め詐欺)、税金を正確に正直に納めないこと、ゆすり・たかりはもちろん盗みです。正しくお金を払わないで電車に乗るキセルももちろん盗みです。借りた物を忘れて返さないことも盗みではないでしょうか。経営者が労働者に正当な賃金を支払わないことも盗みですし、働く人が怠けて働かないことも盗み(時間を盗む盗み)でしょう。公のものを私用に使うことも盗みです。このようにいろいろな盗みがあるのです。私たちはよく注意して、盗まない生活をしたいのです。

 東久留米教会の近くにリサイクルショップがあり、店員さんがいないコーナーもあります。そこに張り紙がしてあって、「万引きしないで下さい。小さな店にとって死活問題です」と書かれてあるのを見たことがあります。ということは万引きがあるのだなと思わざるを得ませんでした。東久留米市内にはまだまだ畑があって、いろいろな所で野菜の無人販売が行われています。いつかそこに張り紙があり、「ちゃんとお金を入れましょう、泥棒さん!」と書かれていました。お金を払わないで野菜を持って行く人がいたのでしょう。「盗んではならない」はあまりにも当たり前で、私たちは「分かりきっている」と思うかもしれませんが、それでも改めて「自分は決して一生盗みをしないぞ」と決心することは大切だと思うのです。特にお金に関しては几帳面でなくてはなりません。ルーズにならないように常に注意する必要があります。

 先々週の礼拝で、イスカリオテのユダがイエス様を裏切った場面を読みました。ヨハネによる福音書12章は、ユダは盗人であって、イエス様一行の金入れを預かっていながらその中身をごまかしていた、と書いています。ユダはイエス様一行のお金を、人々に気づかれないように少しずつ盗み、横領して自分のものにしていたのです。ユダは比較的小さな盗みを続けていくうちに良心が麻痺してしまい、とうとう神の子イエス様を、銀貨30枚で売り渡す恐るべき罪を犯してしまったのです。小さな盗みを軽く考えてはいけないのです。拡大する恐れがあるのです。
 
 これまでも十戒の学びの中で、『ハイデルベルク信仰問答』を何回かとりあげました。問110が第八の戒め「盗んではならない」を取り上げています(吉田隆訳『ハイデルベルグ信仰問答』新教出版社、2002年、101~102ページ)。

問「第八戒めで、神は何を禁じておられますか」
答「神は権威者が罰するような
  盗みや略奪を禁じておられるのみならず、
  暴力によって、/ または不正な重り、物差し、升、商品、貨幣、
  利息のような合理的な見せかけによって、
  あるいは神に禁じられている何らかの手段によって、
  わたしたちが自分の隣人の財産を/ 自らのものにしようとする
  あらゆる邪悪な行為また企てをも、/ 盗みと呼ばれるのです。
  さらに、あらゆる貪欲や/ 神の賜物の不必要な浪費も禁じておられます。」

 「不正な重り」については申命記25章13節以下に、次のように書かれています。「あなたは袋に大小二つの重りを入れておいてはならない。あなたの家に大小二つの升を置いてはならない。あなたが全く正確な重りと全く正確な升を使うならば、あなたの神、主が与えられる土地で長く生きることができるが、このようなことをし、不正を行う者をすべて、あなたの神、主はいとわれる。」不正な商売によって利益を得るなということです。相手をごまかして、騙して不正な利益を得ることは盗みなのです。これと似ていることに、かさ上げがあります。見かけはたくさん入っているように見えて、買って帰って開けてみると、中身が少なかったという体験は、多くの方が持っていると思います。ごまかしたり騙したりして利益を得ることは盗みになります。

 日本で初めてキャラメル作りと販売を軌道に乗せた森永太一郎さんは、アメリカでキャラメル作りを学び、クリスチャンとなって帰国しました。日本で菓子を販売するに当たり、クリスチャンとしてかさ上げをしないことを決心し実行したそうです。同業者の反発にあっても実行したようです。クリスチャンとしての心意気が感じられます。 レビ記25章14節に分かりやすい言葉があります。「あなたたちが人と土地を売買するときは、互いに損害を与えてはならない。」土地を売り買いするときに限りません。あらゆる場面で、相手に決して損をさせまいと思って行動するならば、「盗み」をかなりしないで生きることができるのではないでしょうか。

 『ハイデルベルク信仰問答』には、「利息のような合理的な見せかけによって」わたしたちが自分の隣人の財産を自らのものにしようとすることも、盗みだと述べます。利息を取ることが全面的に悪とされているのではないかもしれません。しかしレビ記25章35節~では、貧しいイスラエル人から利子も利息も取ってはならないと書かれています。「もし同胞が貧しく、自分で生計を立てることができないときは、寄留者ないし滞在者を助けるようにその人を助け、共に生活できるようにしなさい。あなたはその人から利子も利息も取ってはならない。あなたの神を畏れ、同胞があなたと共に生きられるようにしなさい。その人に金や食糧を貸す場合、利子や利息を取ってはならない。わたしはあなたたちの神、主である。」貧しいイスラエル人から利子や利息を取って金を貸し、相手に重い負い担を与えてはならない。それも盗みになる。これは貧しい人々への神様の愛です。

 「盗んではならない」の戒めを学んでいていくつかの本に出て来ることは、「盗む」と訳されているヘブライ語は、もともと「人間を盗む」ことを意味するのではないかということです。ここまで私はこの説教で、普通の考えに従って、物やお金を盗むことが罪であるということを前提に語ってきました。ですが「盗んではならない」は、「人間を盗む」ことを禁止しているという説も、今はかなり受け入れられているそうなので、そこに進みます。この説が正しいとすると、「盗んではならない」は、誘拐や拉致を禁じる戒めであることになります。出エジプト記21章16節に、「人を誘拐する者は、彼を売った場合も、自分の手もとに置いていた場合も、必ず死刑に処せられる」と書かれています。誘拐や拉致は死刑に値する重罪なのです。

 イスラエルの民はエジプトで奴隷でした。それはエジプトの罪です。神様はイスラエルをエジプトでの奴隷生活から解放して下さいました。実に不思議なことですが、そのイスラエルにも奴隷がいました。旧約聖書の時代は、まだ神様のご計画が実現してゆく途上の時代ですから、神様は奴隷をなくすようにその後の時代を導いて来られて、今に至っていると私は思います。しかし今も世界には奴隷のようにされている人々がいます。劣悪な環境で労働させられている子どもたちがいるそうですし、数ヶ月前の新聞で、アフリカのキリスト教主義の高校から200名の女子生徒が誘拐されたと読みました。その後、解放されたと聞かないので、まだ誘拐されたままなのではないかと思います。少しでも早く解放されて、家に戻ることができるように祈ります。

 私たち日本人が深い関心を寄せていることに、北朝鮮による拉致問題があります。これは人間を盗んだ犯罪です。と同時に、日本の過去の罪も考えないわけにはいきません。19世紀から20世紀にかけての世界は、強い国が弱い国を植民地にした時代です。強い国が弱い国の土地・人・資源を盗んだ時代です。残念ながら日本も朝鮮半島や台湾を植民地にし、その土地などを奪い盗んでしまったのです。形の上で合法であったかもしれませんが、神様からご覧になれば「盗んではならない」のに違反する罪でしょう。神様は日本に植民地をすべて返還させ、平和国家として生きるように導いて下さいました。戦後の日本では、財閥解体、農地解放などが行われたそうです。それまでの地主・小作人という関係は解消されました。小作人は一種の奴隷だったかもしれませんが、神様は解放して下さいました。

 私は今年の8月15日に聖学院大学で、学長の姜尚中(カン・サンジュン)先生の講演を伺いましたが、このような意味のことをお話されました。「8月15日の敗戦の日は、国民をモノ・資源・奴隷として扱った国家から、国民が解放された出エジプトの日でもある」と。富国強兵のための「産めよ、増やせよ」の時代、召集令状一枚で男性を兵士として戦地に送り込んだ時代は、確かに国民が奴隷のように扱われた時代だったのかと思わされます。日本に強制連行された朝鮮や中国の方々が炭鉱などで労働し、亡くなった例もあります。日本人としては嬉しくない話ですが、これも外国から人々を盗んで来たことになるのではないでしょうか。約一週間前に早稲田教会で行われた会合、「関東大震災時・朝鮮人、中国人虐殺 追悼90年集会」の講師の話によると、関東大震災の時に「朝鮮人が井戸に毒を入れた」というデマが飛び、推定で朝鮮の方約6000人、中国の方約700人が殺されたのではないかとのことです。大震災の混乱の中とはいえ、「殺してはならない」の戒めも破られたのです。その償いがなされたのかどうか、私も調べ不足です。

 先ほどの『ハイデルベルク信仰問答』は、「あらゆる貪欲や、神の賜物の不必要な浪費」も盗みの罪だと言っていました。不必要な浪費! 私たちがお金や物を無駄遣いすることも盗みの罪だというのです。私も自分の住まいの冷蔵庫などを見て、せっかく買った食べ物をだめにしてしまうことがしばしばあります。そうしないで食べ切るように気をつけているつもりですが、食べ物を無駄にしている時があるのです(もちろん災害用の備蓄は別に行う必要があります)。私が金曜日に行っている保育園では、食べ物を無駄にしないことを徹底していて、大根の葉っぱなども必ず調理されて食卓に出てきます。どうしても人間が食べるに向かない野菜の葉っぱなどは、飼っているがアヒルやヤギのえさにするなどして、決して捨てないのです。園長先生の方針で食べ物を決して無駄にしないことが徹底しています。家庭でその保育園ほど徹底することは難しいですが、見習おうという気持ちにはさせられます。

 コンビニ、スーパー、レストランでは売れ残りの食べ物を沢山捨てているそうです。神様が与えて下さる恵みの食べ物を無駄にしている現状を、何とか改善できないものかと思います。その一方で、世界では食べ物がない地域があり、飢えている人もいるという矛盾・アンバランス。豊かな国と貧しい国があるということ。豊かな国が地球の限られた資源を多く取り、地球の真の所有者である神様から盗み取っているのではないでしょうか。お金を出して買っていても、欲望に任せて余るほど買い占めて無駄遣いしているならば、神様からご覧になれば盗みの罪になります。皆様は既に慎ましく暮らしておられると思いますが、日本人全体でさらに慎ましく暮らすように心がけたいのです。

 「もったいない」という日本語をすばらしいと言って下さったアフリカの女性がおられましたね。ワンガリ・マータイさんというケニアの女性です。残念ながら2011年に亡くなりました。この方は祖国の貧困と環境破壊に心を痛め、貧しい女性たちと「グリーンベルト運動」という植林運動を始め、約10万人が参加し、約5100万本の苗木を植えたそうです。マータイさんは2004年に環境分野で初めてノーベル平和賞を受け、2005年に日本に来られたとき「もったいない」という日本語に感銘を受けて下さり、「MOTTAINAI」キャンペーンを始められたそうです。それは地球に負担をかけず、限られた資源を大切にし、リサイクルを行う社会を作る活動となっているそうです。浪費しない社会ですね。
 
 『ハイデルベルク信仰問答』には、「盗んではならない」について次の問答もあります。問111と答えです(前掲書、102ページ)。
問「それでは、この戒めで、神は何を命じておられるのですか。」
答「わたしが、自分にでき、またはしてもよい範囲内で、わたしの隣人の利益を促進し、わたしが人にしてもらいたいと思うことを、その人に対しても行い、わたしが誠実に働いて、困窮の中にいる貧しい人々を助けることです。」

 盗まなければ十分というわけでないのです。喜んで人に与える愛に生きるときに、「盗んではならない」の戒めを守ることになると知るのです。黄金律・ゴールデンルールと呼ばれるイエス様の御言葉を思い出します。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者(旧約聖書全体)である」(マタイによる福音書7章12節)。 

 「わたしが誠実に働いて、困窮の中にいる貧しい人々を助けることです」は、本日の新約聖書・エフェソの信徒への手紙4章の28節に書かれていることと同じです。「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。」これがイエス様の十字架の死と復活により、罪を赦していただいた人の、新しい生き方です。それまで盗みを働いていた者も、イエス様を救い主と信じて洗礼を受け、聖霊を注がれることで生き方が変わり、イエス様に生き方が似てきます。そして自分で労働して正当な収入を得て、それを自分と家族の必要のために使うだけでなく、困難の中にある人々をヘルプするために喜んで使うようになるのです。

 ルカによる福音書19章に、徴税人の頭ザアカイの話があります。ザアカイは徴税人の頭の地位を悪用して、人々から必要以上にお金を取り立て、自分の懐に入れていました。盗みを働いていたのです。彼はまさに放蕩息子でした。そんな彼を町の人々は嫌っていました。彼自身も心の中で自分の罪を自覚していたはずです。そんな罪深いザアカイの所に、何とイエス様が泊まりに来て下さいました。ザアカイは感激し、罪を悔い改め、立ち上がってイエス様に言います。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」ザアカイは盗む人でしたが、悔い改めて罪を償う人になり、立ち直ったのです。イエス様はこの立ち直りをとても喜んで下さいました。

 私は先週、久しぶりにJR山手線の新大久保駅に行きました。キリスト教婦人矯風会の会館に初めて行き、ある講演会に出席したのです。講演会はともかく、新大久保駅は今から13年前の2001年に、ホームから落ちた男性を助けようとして、李さんという韓国人の青年と関根さんという日本人(二人とも男性)が線路に降りたけれども、残念ながら三人とも亡くなる悲劇があった所です。二人の勇気をたたえる日本語文と韓国語文のプレートが、改札口から進んだ突き当たりの正面の壁に設置されているのは前にも見ました。今回の発見は、ホームと電車の間に柵が設けられていたことです。何年か時間がかかったけれども柵が作られたことは、前に新聞で読んだことがありました。李さんのご両親が韓国から来られて、それを御覧になったということも読んだと思います。

 その柵を初めて見たのです。このような柵は、次第にあちこちの駅で設置されています。おそらくあの出来事もきっかけの一つになって、柵がいろいろな駅に、新大久保の駅にも設置されるようになったと感じます。線路に飛び降りて命を散らしたお二人の愛と勇気ある行動が、報われている、生かされていると感じたのです。柵があるので、今後は新大久保駅で誤って転落することはまずないのではないかと思います。韓国人の李青年が日本人のために命をかけた愛に生きて下さったその新大久保駅で、この数年、韓国人へのヘイトスピーチが行われているのですから、大きな罪、甚だしく恩知らずな行動です。私が行った日は行われていませんでした。もう二度と行わないでほしいと祈ります。

 「盗んではならない」とは、「喜んで与えなさい」ということだと、神様に教えていただきました。感謝です。少しでもそのように生き参りたいのです。アーメン(「真実に、確かに」)。