日本キリスト教団 東久留米教会

キリスト教|東久留米教会|新約聖書|説教|礼拝

2017-12-07 15:09:42(木)
「少年よ、大志を抱け、とは?」 伝道メッセージ
「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」
(旧約聖書・伝道の書3章11節(口語訳))

 私は今年の5月初旬に、札幌に行く恵みを与えられました。冬は雪で大変でしょうが、5月の札幌は東京より肌寒いものの、空がどこまでも青く、美しい季節でした。人々の心も、東京よりオープンでした。

 有名な時計台の近くに、明治に建てられた北海道庁旧本庁舎があります。すてきな赤れんがの建物です。この辺りに明治時代に、札幌農学校がありました(今の北大)。ここでクラーク博士という教頭が8ヶ月間教え、第1期生たちをクリスチャンになるように導きました。内村鑑三は2期生で、札幌で直接クラーク博士の教えを受けることはできませんでした。クラーク博士が馬に乗って、惜しまれながら去る大きな絵が、赤れんが庁舎の2階にあります。東久留米市学園町に住まれた田中忠雄画伯の作品でしたので、特に親しみを覚えました。

 この時、クラーク博士が語った英語も記されています。「少年よ、大志を抱け」と訳されて有名になった「Boys, be ambitious(ボーイズ ビー アンビシャス)」と、続きです。立身出世の勧めと誤解した人もありますが、私が訳すとこうです。「少年たちよ、志をもて。お金のためでも、自己中心的な出世のためでもなく、束の間の名誉のためでもない。人として当然なすべき全てを果たすために、志をもて。」 私は、「世のため、人のために尽くしなさい」というメッセージだと受けとめます。

 神様が札幌にクラーク博士を送られたことは、まさに「時にかなって美しい」ことでした。同じ旧約聖書の「伝道の書」12章1節に、「あなたの若い日に、あなたの造り主(神)を覚えよ」という美しい言葉があります。クラーク博士は、日本の若者たちに造り主を知らせました。その神様を人格的に知るために、ぜひ教会においで下さい。聖書をお読み下さい。アーメン(「真実に」)。

2017-12-07 15:04:25(木)
「小さなことに、大きな愛をこめて」 伝道メッセージ
「(イエスは)たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手拭ぬぐいでふき始められた」(新約聖書・ヨハネによる福音書13章5節)。

 神の子イエス・キリストの誕生を祝う日がクリスマスです。イエス様が誕生されたのは、私たち全人類の全部の罪を、身代りに脊負って十字架で死に、三日目に復活なさるためでした。十字架に架かる前日の木曜日には、弟子たちの汚い足を、洗われました。罪とは、私たち皆がもつ自己中心の思い、「自分さえよければよい」という思い、エゴイズムです。「自分の仲間や家族さえよければよい」、「自分の国さえよければよい」という考えも罪です。イエス様は、私たちの心の中の汚い罪をも洗って下さる方です。

 渡辺和子さんというカトリック教会の修道女が、2017年末に89歳で天国に帰られました(1936年の「二・二六事件」で、お父様の命を奪われた経験をおもちです)。私はこの方は日本の宝と思うので、真に残念です。渡辺さんの読みやすいベストセラー『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬社、2012年、952円+税)は、東久留米の書店でも「お薦めの本」として、レジに置かれていました。心に残る言葉が記されています。「私たちには偉大なことはできません。しかし、小さなことに大きな愛をこめることはできるのです」(マザー・テレサの言葉)。「苦しいから、もうちょっと生きてみよう」という言葉も大切です。

 続編の『面倒だから、しよう』(幻冬社、2013年、952円+税)には、「神は決して、あなたの力に余る試練を与えない。試練には、それに耐える力と、逃れる道を備えてくださる」(新約聖書・コリントの信徒への手紙(一)10章13節)とあります。「この世に“雑用”という名の用はない。用を雑にした時に生まれる」という、ドキッとさせられる言葉もあります。「単調な仕事でも愛を込めて行うことが大切。でないと私たちはロボットになってしまう」という貴重な教えです。今、人口知能がもてはやされますが、人口知能に人格はありません。知性が最高でも、心がなければ無意味です。

 2冊を読み返し、渡辺さんの教えを少しでも実践する2017年を送りたいと、祈ります。皆様も、ぜひお読み下さい。アーメン(「真実に」)。

2017-12-07 14:57:54(木)
「神の愛」 伝道メッセージ
「信仰と、希望と、愛。この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」
(新約聖書・コリントの信徒への手紙(一)13章13節)

 キリスト教の結婚式でよく読まれる言葉です。この少し前には、こうあります。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。」 この愛は原語(ギリシア語)で「アガペー」です。与える愛、敵をも愛する愛、神の愛、神の子イエス・キリストの愛です。私たちは、なかなかこのような愛に生きることができません。でも、めざしましょう。

 神の愛を語る、こんなたとえ話があります(深井智朗著『伝道』日本キリスト教団出版局より)。
「ある所に、跳ね橋の管理をしている父親と独り息子がいました。毎日定刻に父親は橋を渡る人や車を止め、跳ね橋を吊り上げるスイッチを押します。橋が上がり、船が無事通過します。ある日の定刻、父親が見ると、何と息子が橋のタンクに転落しています。船が迫っており、息子を助けに行けば船が橋に激突して大惨事になります。かといってスイッチを押すと、息子がはさまれて死にます。父親は断腸の思いで決断し、スイッチを押しました。船は何事もなかったかのように通過し、船上から人々が父親に笑顔で手を振ります。」 息子が犠牲になりました。この父親が父なる神様、息子が神の子イエス様、船上の人々が私たちです。

 イエス様が十字架に架かられたのは、私たち全員の罪(過ち)の責任を身代わりに背負われたからです。(この場合の罪は、私たちのわがままな心と行い全部です。)最愛の独り子イエス様を、私たちの身代わりに十字架につける父なる神様の愛の決断のお陰で、私たちの罪がゆるされました。それがなければ、私たちの罪がゆるされることはありません。神の愛です。

 神の愛に感謝する日曜礼拝に、ぜひおいで下さい。アーメン(「真実に」)。

2017-12-07 2:51:23(木)
「真理を悟らせる聖霊」 待降節(アドヴェント)第1主日礼拝 説教要旨
聖書・詩編51編12~14節、ヨハネによる福音書16章1~15節 

 本日は、待降節(アドヴェント)第1主日礼拝です。教会の暦はこの日から始まります。アドヴェントというラテン語は、「来る」、「到来する」の意味です。今月の後半にクリスマスを迎えますが、クリスマスは神の子イエス・キリストの誕生を祝う日です。一度地上に来られたイエス様は、世の終わりに必ずもう一度、天から来られます。アドヴェントはこの信仰の新たにし、強める季節です。

 本日の場面は、イエス様の十字架のすぐ前です。イエス様は次の次の18章で捕らえられます。イエス様は、一旦去られることを弟子たちに告げたので、弟子たちの心に満たされました。しかし、イエス様は言われます。「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者はあなたがたのところに送る。」弁護者とは聖霊のこと、聖霊は「真理の霊」です。弁護者は、元の言葉であるギリシア語でパラクレートスです。これは「傍らに呼ばれた者」の意味と聞きました。それは裁判の時の弁護人のことを指すそうです。それで弁護者と訳されました。口語訳聖書では「助け主」と訳されています。聖霊が弁護者ですが、イエス様も弁護者です(ヨハネの手紙<一>2:1)。私たち皆が受ける「最後の審判」の裁き主はイエス様です。しかし弁護者もイエス様です。私たち皆の全ての罪を身代わりに背負って十字架で死なれたイエス様が弁護者です。そしてイエス様は、ご自分を救い主と信じる者に、無罪の宣告を与えて下さいます。

 弁護者、助け主は慰め主と呼ばれることもあります。聖霊は、慰め主であられます。コリントの信徒への手紙(二)1章3節以下には、父なる神様が与えて下さる慰めが記されています。聖霊は父なる神の霊ですから、聖霊が与えて下さる慰めも同じと思います。「慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。」

 イエス様は言われます。「その方(弁護者)が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」それが真理の霊である聖霊のお働きです。「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。」まず罪についてとは、まさにイスラエルの信仰の指導者たちがイエス様を救い主と信じないことが罪なのです。義についてとは、十字架で死んで復活され天の父のもとに行かれるイエス様こそ、父なる神様によって義と承認(肯定)された方だということです、裁きについてとは、イエス様を十字架に追いやって裁き殺す悪魔こそが裁かれるということです。

 イエス様は言われます。「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」ある方が語られましたが、その方が高校生になったとき、初めて大人の礼拝に出席したが、牧師の説教の内容が全く分からなかったそうです。ところが、しばらく出席しているうちに、ある時から急に分かるようになっていったというのです。これぞ聖霊のお働きです。聖書の御言葉(みことば)の意味を、分からせて下さるのです。

 わたしの手元に、20年前に読んだ『天国への凱旋門 死刑囚からの手紙』という本があります(田島惠三著、教文館、1997年)。新保満さんという60数年前の青年の、小学校時代のSという同級生が殺人の罪を犯し、死刑判決を受けます。新保さんは、死刑を覆すことはできないが、Sに何とか救い主イエス・キリストを信じてもらって、神の前での罪の赦しと永遠の命の希望を受けてほしいと念じました。新保さんは、Sにイエス様を信じる信仰をもってもらおうと願い、毎日のようにはがきを書き送り、150通に達しました。しかしその時点までのSは、新保さんには手紙で表向きよい顔をし、金を無心しますが、信仰には全く関心を示しませんでした。しかしある時から新保さんのはがきを読むようになり、急速に熱心に聖書を読み始め、熱心に求道し罪を深く悔い改め、ついに洗礼を受けたのです。Sのこの急速な変わりようは、新保さんや仲間の方々の祈りによって、Sに聖霊が注がれた結果だと信じます。聖霊なる神様が、Sに真理を悟らせて下さったのです。Sは永遠の命の希望を抱いて死刑を受け、罪を償って天国に凱旋しました。

 新保さんとSの交流は1年4ヶ月で終わりましたが、やはり死刑囚のUさん(殺人の罪を深く悔い改めて、熱心なクリスチャンになっておられた)の仲間の死刑囚たちと新保さんと友人のクリスチャンたちとの交流は、その後5年間も続いたそうです。それは新保さんと友人のクリスチャンたちが、それぞれ出席している教会の日曜礼拝の牧師の説教を筆記して、福岡の拘置所のUさんに送る形で続きました。Uさんは、それをも用いて、仲間の死刑囚たちに永遠の命の希望を得てもらうために、熱心に伝道なさったそうです。死刑囚のクリスチャンたちの会は、カルバリ会と名付けられたそうです。カルバリとは、イエス様が十字架につけられたゴルゴタの丘のラテン語名です。カルバリもゴルゴタも「されこうべ」の意味です。カルバリ会と名付けた理由は、ただイエス様の十字架の贖いの恩寵にすがる会だからです。クリスチャン青年たちと、福岡の拘置所内の死刑囚クリスチャンたちとの、御言葉(みことば)と祈りと手紙を中心とする交流は、まさに使徒信条が告白する「聖徒の交わり」にほかならないと、著者の田島氏は考えておられます(171ページ)。新保さんと友人たち、そしてUさんの熱心な祈りによって、死刑囚の方たちに聖霊が豊かに注がれ、御言葉(みことば)の真理を悟らせて下さったに違いありません。

 私たちもよく祈って聖書を読み、その深い真理を聖霊の助けによって悟ることができますようにと、心よりお祈り致します。そしてますます熱くイエス・キリストを愛することができますように。アーメン(「真実に」)。

2017-12-01 19:54:46(金)
「失われた人を捜し求める神様」 2017年11月26日(日) 「はじめて聞く人にわかる聖書の話」礼拝(第8回) 説教要旨 
聖書:ルカによる福音書19章1~10節

 舞台はエリコという町です。エリコは非常に古い町で、今から7000年も前から人が住んでいたと読んだことがあります。エリコはオアシスとなつめやしの町でもあるそうです。(1~2節)「イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。」当時のイスラエルは、ローマ帝国の植民地だったそうです。ザアカイはイスラエル人でありながら、ローマ帝国の手先となって、仲間のイスラエル人から税金を取り立てる仕事をしており、しかもその頭(かしら)でした。さらに徴収した税金の一部をピンはねし、私腹を肥やしていたと言われます。そのような悪を行って金持ちになったのです。仲間のイスラエル人からは、民族を裏切った男、売国奴、ローマの犬と見られていたでしょう。

 (3~4節)「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。」イエス様は当時、非常に注目されており、エリコに来られるとの報が伝わると、多くの人々がイエス様を一目見たいと、出て来たのです。ザアカイもイエス様に非常に関心を持ったのです。ザアカイは、背が低かったとあります。このことで劣等感を抱いていたでしょう。それはともかく、ザアカイはイエス様を見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登りました。先手必勝、ザアカイは頭がくるくると回転し、機を見るに敏な、すばしこい人でした。このすばしこさでお金を儲けてきたに違いありません。そして今、自分はいちじく桑の木という安全圏に登り、上からイエス様を見ようとしたのです。ところがイエス様は、ザアカイに出会う前からザアカイを深く知り、彼こそ最も救いと愛を必要としている人であることを見抜いておられました。

 (5~6節)「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。」英語にアンダースタンドという言葉があります。「理解する」という意味です。アンダーは「の下」、スタンドは「立つ」の意味です。理解することは、相手に下に立つことによって可能になる、ということだと、ある牧師の説教で聞きました。イエス様は、ザアカイの下に立っておられて、ザアカイの心を完全に理解しておられるのです。ザアカイは、愛情に飢えていたに違いありません。イエス様はザアカイの心が淋しく、愛を求めていることを分かっておられました。ザアカイの心に愛と喜びを与えようと決心されたのです。そこでザアカイに呼びかけました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエス様を迎えました。ザアカイは、やはり愛情に飢えていたのです。

 (7節)「これを見た人たちは皆つぶやいた。『あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。』」私たちもこの人々と同じように、ぶつぶつ言うのではないでしょうか。「何も、あんなに罪深い男の家に泊まらなくてもよいのに」と。ザアカイはほとんど犯罪人と見られていたのでしょう。私たちも刑務所にいる人々に、冷たい気持ちを抱いているのではないでしょうか。「自業自得だ」と。しかしイエス様は、こう言われます。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ福音書5:31~32)。エゼキエル書18章31~32節にも、神様の次の御言葉があります。「『イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる。」

 人々は冷たい目を向けましたが、ザアカイの心は喜びに満たされました。(8節)「~ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。』」ザアカイは、徹底的な悔い改めをしたのです。「立ち上がった」とは、彼がこれまでの欲張りで自己中心的な生き方を決然と捨てて、神様と隣人を愛する生き方へ180度の方向転換を行ったことを意味します。実に鮮やかな方向転換です。悔い改めとは、生き方の方向転換です。「北風と太陽」というお話がありますね。ある男のコートを脱がせようとして北風はビュービュー吹きつけて脱がせようとしたが、男はコートを吹き飛ばされまいとますます強くコートを握りしめた。太陽はポカポカと照って気温を上げたところ、男は暑くなって自分からコートを脱いだという、あの話です。太陽のポカポカは暖かい愛と言えます。人々が「悔い改めなさい」とザアカイに何回も言ってきたかもしれませんが、人々の批判はザアカイを悔い改めに導くことができませんでした。しかしイエス様の暖かい愛がザアカイの心を溶かし、彼は自分から進んで悔い改めたのです。

 それは驚くべき、本気の悔い改めでした。「財産の半分を貧しい人々に施します。だれかから何かだまし取っていたら(実際にだまし取っていたのだと思います)、それを四倍にして返します。」私たちにこんなことができるでしょうか。ザアカイの喜びが、どんなに深いかが分かります。ザアカイはそれまで、死と滅びへの道を突き進んでいましたが、ここで命に道に転換し、まさに救われました。天に大きな喜びがあったに違いありません。ザアカイのこの180度の方向転換は、ディケンズ作『クリスマス・キャロル』の欲深かった主人公スクルージの、鮮やかな方向転換を思わせます。

 イエス様も深く喜ばれました。(9節)「イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子(神の民イスラエル人)なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。』」最後の文は、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招いて悔い改めさせるためである」と同じ意味です。

 このようにザアカイは、死と滅びの道から救われ、愛と命の道に進み、今は天国という天の故郷にいるに違いありません。先日、日本人が好きな「故郷(ふるさと)」という歌について学びました。
1節は、「うさぎ追ひし彼(か)の山/ 小鮒(こぶな)釣りし彼の川/ 夢は今も巡りて/ 忘れ難き故郷(ふるさと)」です。
3節は、「志を果たして/ いつの日にか帰らん/ 山は青き故郷/ 水は清き故郷」です。
熊田和子文・伊東泰生写真『日本キリスト教史の夜明け 写真で訪ねる信仰遺産』(いのちのことば社、2017年、14~19ページ)によると、作曲者の岡野貞一氏(1878年~1941年)は、14歳の時にアメリカ人宣教師から洗礼を受けたクリスチャンとのことです。作詞者は高野辰之氏という方です。岡野氏は、東京音楽学校(今の東京藝術大学)で学び、そこで長く教師を務めたそうです。東京の本郷中央教会の礼拝奏楽者、聖歌隊指揮者として42年間ご奉仕なさったそうです。岡野氏は「故郷(ふるさと)」の作曲者であって作詞者ではありませんが、「故郷(ふるさと)」を、ご自分の故郷を思い出しながら作曲なさったでしょう。後年ご自分で口ずさまれることもあったと想像しますが、クリスチャンですから、「天の故郷」を思いつつ口ずさまれたこともあったのではないかと推測致します。皆様が「故郷(ふるさと)」を歌われる時、このことをも思い出していただけますと、ありがたく思います。

 ザアカイがいる天の故郷をめざして、私たちも自分の罪を悔い改めながら、神様を愛し、自分を正しく愛し、隣人を愛する道を進ませていただきましょう。アーメン(「真実に」)。